[1]次に無量義経を引きて証と為るは、文に云はく、「我れ仏眼を以て一切法を観ずるに、宣説す可からず。所以は何ん、諸の衆生の性欲同じからざればなり。性欲同じからざれば、種種に法を説くに文辞は是れ一なれども、而も義は別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道も亦た異なり。初に四諦を説くは、声聞を求むる人の為にす、而も八億の諸天来下して法を聴きて菩提心を発す。中に処処に於て甚深の十二因縁を説くは、支仏を求むる人の為にす。次に方等十二部経を説く。摩訶般若・華厳海空は菩薩の歴劫修行を宣説す、而も百千の比丘、無量の衆生、菩提心を発す。或は声聞に住す。万億の人天は須陀洹を得て阿羅漢に至り、辟支仏に住す」と。仏眼をもつて一切法を観ずるに、即ち是れ頓法前に在り。四諦十二縁は即ち是れ次漸なり。若し此の文に依らば、三蔵を説き竟つて、次に方等十二部経を説く。小に次で大を説く所以は、仏本と大を授けんとするに、衆生堪へず。大を抽きて小を出し、結を断じて聖と成さしむ。此の益ありと雖も、仏の本懷に非ず。次に方等・維摩・思益・殃掘摩羅を説きて、小乗保果の僻を弾訶し、三蔵断滅の非を譏刺す。故に身子・善吉は教を斉つて小を専らにす。初に曾て大乗の威徳を聞かざれば、或は茫然として鉢を棄て、或は怖畏して華を却く。是れ何の言なるを知らず、何を以て答ふることを知らず。然るに方等の弾斥は、教は三蔵の後に在れども、訶を被る時は応に十二年の前に在るべし。何を以てか知ることを得るや。皆な追つて昔の訶を述ぶれば、是れ前事なることか験らむ。何となれば、前に已に教を稟けて道を得、無学を証す。仏の恩の深きを荷ひて心相ひ体信して復た恚怒せず。昔より今に至るまで、殃掘の譏を恣にし浄名の折に任すは、恥小慕大の益と為ることを得。喩へば酪を烹て生蘇と作すが如し、即ち此の義なり。無量義を按ずるに、方等は是れ三蔵の後にして、第三時の教と為ることを知ることを得るなり。無量義経を按ずるに云はく、「次に摩訶般若・華厳海空・歴劫修行を説く」とは、此は是れ方等の後に、而も大品を明すなり。大品に或は無常無我を説き、或は空を説き、或は不生不滅を説きて皆な色心に歴て一切種智に至る。句句迴転して修行の法を明す、即ち是れ歴劫修行の意なり。又た云はく、「百千の比丘、万億の人天は須陀洹及び阿羅漢を得、辟支仏に住す」と。験らむ、是れ共般若なることを。而して華厳海空と言ふは、若し寂滅道場の華巌なりと作さば此れ次第に非ず。今、法性論に依るに云はく、鈍根の菩薩は三処に法界に入る。初は則ち般若、次は則ち法華、後は則ち涅槃なり」と。般若に因りて法界に入るは、即ち是れ華厳海空なり。又た華厳の時節長し。昔し小機は未だ入らず、聾の如く瘂の如し。今、般若を聞きて即ち能く入ることを得、即ち其の義なり焉。大品は三乗の人に通ずれば、四果あることを得べし。華厳は小を隔つ、故に此の義無し。故に方等の後に次に般若を説くを、第四時教と為すなり。復た熟蘇味と言ふは、命じて転教せしめて衆物を領知し、心漸く通泰す。自ら蛍火の日光に及ばざることを知れば、敬伏の情倍更に転た熟すること、生蘇より転じて熟蘇と為るが如し。又た解すらく、般若の後に華厳海空を明すは、即ち是れ円頓法華の教なり。何となれば、初め成道の時は純ら円頓を説く。解せざる者の大機未だ濃ならざる為に、三蔵、方等、般若を以て洮汰し淳熟す。根利にして障除こり、円頓を聞くに堪ゆれば即ち法華を説きて、仏の知見を開き法界に入ること華厳と斉し。法性論の中入の者是れなり。故に下の文に云はく、「始め我が身を見て如来の慧に入る。今、是の経を聞きて仏慧に入る」と。初後の仏慧、円頓の義斉し。故に般若の後に次で華厳海空を説くは、法華と斉し。亦た第五時教なり。復た醍醐と言ふは、是れ衆味の後なり。涅槃には称して醍醐と為し、此の経には大王膳と名く。故に知んぬ、二経は倶に是れ醋醐なることを。又た灯明仏は法華経を説き竟りて、即ち中夜に於て入涅槃を唱ふ。彼の仏の一化は初に華厳を説き後に法華を説く。迦葉仏の時も亦復た是の如し。悉く涅槃を明さず、皆な法華を以て後教後味と為す。今仏の前番の人を熟するは法華を以て醍醐と為し、更に後段の人を熟するは重ねて般若を将つて洮汰して方に涅槃に入る。復た涅槃を以て、後教後味と為すなり。譬へぱ、田家の先に種ゆるは、先に熟し、先に収む。晩に種ゆるは、後に熟し、後に収むるが如し。法華の八千の声聞、無量の損生の菩薩は、即ち是れ前の果実を熟し、法華に於て収めて更に所作無し。若し五千の自ら起ち、人天の移されたるは、皆な是れ後に熟して涅槃の中に収む。此の義の為の故に、故に摩訶般若より大涅槃を出すと云ふ。即ち後番の次第なり。無量義を按ずるに云はく、「摩訶般若、次に華厳海空」と。即ち前番法華の中の次第なり。問ふ、何の意ぞ、鈍者は法華に於て入らず、更に般若を用ひて洮汰すと知るや。答ふ、釈論に云はく、「須菩提、何が故ぞ更に菩薩の畢定不畢定を問ふや、答へて云はく、須菩提は法華の中に於て諸の菩薩の受記作仏するを聞けば、今、般若の中に於て更に畢定不畢定を問ふなり」と。当に知るべし、法華の後に更に般若を明すことを。

 [2]三に信解品の四大声聞の教を領するを引きて次第を証すとは、文に云はく、「其の父、先より来りて子を求むるに得ず、中ごろに一城に止る。其の家大いに富みて多くの僮僕・臣佐・吏民ありて亦た甚だ衆多なり。時に貪窮の子、遭父の舎に到るに疾走して去る。即ち傍人を遣はして急に追ふて将いて還らしむ、窮子驚愕して怨なりと称して大いに喚ぶ。罪無くして囚執はる、此れ必定して死せんと。父、使に語りて言はく、此の人を須ひじ、強て将いて来ること勿れと。此は何の義をか領せる。初成の仏寂滅道場にして、法身の大士・四十一地の眷属囲繞して円頓の教門を説く。時に於て大を以て子に擬するに、機生くして悶絶することを領す。当に知るべし、仏日初めて出でて頓教先に開することを。譬へば、牛より必ず先に乳を出すが如し。「爾の時に長者、将に其の子を誘引せんと欲して而も方便を以て、密かに二人の形色憔悴して威徳無き者を遣はす。汝、彼に詣りて徐く窮子に語る可し、汝を雇ふて糞を除はしめんと。即ち纓珞を脱して垢膩の衣を著す。方便を以ての故に其の子に近づくことを得」と。此は何の義をか領せる。此は頓の後に次で舎那の威徳の相好を隠して、老比丘の像と作りて三蔵教を説く。二十年の中常に糞を除はしめ一日の価を得ることを領す。即ち是れ十二部より後、修多羅を出すなり。時に於て見思已に断じ、無漏の心浄し。譬へば、乳より酪を出すが如し。又た経に、「是を過ぎて已後、心相ひ体信して出入に難かり無し。然れども其の所止は、故ほ本処に在り」と。此は何の義をか領せる。三蔵の後に、次に方等を説くことを明す。已に道果を得て心相ひ体信す。大を聞くを入と名け、小に住するを出と名く。若し弾訶するを無難と名くと言はば、又た宅内に進むを入と名け、入りて群臣豪族の大功徳力を見、宝炬陀羅尼を聞き、不思議解脱の神変を見る故に入と名くるなり。出とは、草庵に止宿するなり。二乗の境界を出と名くるなり。心相体信とは、羅漢を得已つて罵を聞けども瞋らず、内心慚愧して敢て声聞・支仏の法を以て人を化せず。心漸く淳熟すること、酪より生蘇を出すが如し。是を修多羅より方等経を出すと名く。即ち第三時教なり。「是の時に長者、疾ありて自ら将に死せんこと久しからずと知りて、窮子に語りて言はく、我れ今多く金銀珍宝ありて倉庫に盈溢す。其の中の多少、所応に取与せよと。窮子勅を受けて衆物を領知すれども、而も一餐を悕取するの意無し。然れども其の所止は故ほ本処に在り」と。此は何の義をか領せる。方等より後に次に般若を説くなり。般若の観慧は即ち是れ家業なり。名色乃至種智に歴るは、即ち是れ衆物なり。善吉等の転教するは、即ち是れ領知なり。但だ菩薩の為に説きて自ら行証せず、故に悕取無し。即ち是れ方等経より摩訶般若を出すなり。是に因りて、大士の法門の無知を滅破することを識ることを得。生蘇より熟蘇を出すに譬ふ、是を第四時教と為すなり。「復た少時を経て、父、子の意漸く已に通泰することを知り、終らんと欲するの時に臨みて、而も其の子に命じ、并に親族を会して即ち自ら宣言すらく、此れ実に我が子なり、我は実に其の父なり。今吾が所有は皆是れ子の有なり、付するに家業を以てす。窮子歓喜して未曾有なることを得たり」と。此は何の義をか領せる。即ち是れ般若の後に次に法華を説くなり。先に庫蔵の諸物を領知するを以て、後に説くことを須ひず、但だ業を付する而已。前に転教して皆な法門を知れば、重ねて観法を演ぶることを須ひざるを譬ふ。直ちに草庵を破し、一大車を賜ひ作仏の記を授く。豈に明かに仏性を見て大涅槃に住するに非ずや。故に摩訶般若より大涅槃を出すと言ふ。是の時、無明破して中道の理顕はる。其の心皎潔にして清き醒醐の如し。即ち是れ熟蘇より転じて醍醐を出すを、第五時教と為すなり。

 [3]此の五昧の教は、一段漸機の衆生を調熟す。身子等の大徳の声聞の如き、法華の中に於て記別を受くることを得。如来の性を見、大果実を成ずること、秋収冬蔵して更に所作無きが如し。不生不生を大涅槃と名く、即ち是れ前番に摩訶般若より妙法華を出すなり。未熟の者の為に、更に般若より涅槃に入りて而も仏性を見ることを論ず。即ち是れ後番に又た般若より大涅槃を出すなり。然るに二経の教意、起尽是れ同じ法華の三周に法を説くが如き、声聞を断奠して咸く一実に帰し、後に開近顕遠して菩薩の事を明す。涅槃も亦た爾り。先に勝の三修をもつて声聞を断奠して秘密蔵に入らしめ、後に三十六問をもつて菩薩の事を明すなり。又た涅槃は滅に臨みて、更に三蔵を扶けて将来を誡約し、末代の鈍根をして仏法に於て断滅の見を起さざらしむ。広く常宗を開して此の顛倒を破し、仏法をして久住せしむ。此の如き等の事は、其の意則ち別なれども、第五の醍醐にして仏性の味は同じきなり。

 [4]三に五味半満相成に約せば、若し直ちに五味を論ぜば猶ほ南師の但だ方便を得るに同じ。若し直ちに半満ならば、猶ほ北師の但だ其の実を得るに同じ。今明さく、五味は半満を離れず、半満は五味を離れず。五味に半満あるときは、則ち慧あるの方便の解なり。半満に五味あるときは、方便あるの慧の解なり。権実倶に遊ぶこと、鳥の二翼の如し。復た倶に遊ぶと雖も、行蔵は所を得。若し華厳は頓満大乗の家業にして、但だ一実を明して方便を須ひず。唯だ満にして半ならず。漸に於ては乳を成ず。三蔵の客作は但だ是れ方便唯だ半にして満ならず。漸に於ては酪を成ず。若し方等の弾訶は則ち半満相対して満を以て半を斥ふ。漸に於ては生蘇を成ず。若し大品の領教は、半を帯して満を論ず。半は則ち通じて三乗の為にし、満は則ち独り菩薩の為にす。漸に於ては熟蘇を成ず。若し法華の付財は、半を廃して満を明す。若し半字の方便の鈍根を調熟する無くんば、則ち亦た満字の仏知見を開する無し。漸に於ては醍醐を成ず。如来、殷勤に方便を称歎したまふは、半に満を成ずるの功あり、意此に在るなり。四大声聞の領解、無上の宝聚求めずして自ら得て実智の中に安住するは、皆な半満相ひ成ずるに由る、意此に在るなり。

 [5]四に合不合を明さば半満五味は既に通じて諸経に約す。諸経同じからざれば、今当に其の開合を辨ずべし。華厳の若きは、正しく小を隔てて大を明す。彼の初分に於ては永く声聞無けれども、後分には則ちあり。復た坐に在りと雖も、聾の如く瘂の如し、其の境界に非ず。爾の時尚ほ未だ半あらず、何の合を論ずる所あらん。次に三乗を開して小機を引接し、見思を断ぜしむ。則ち小を以て大を隔つ、既に満を論ぜざれば、何の合す可き所かあらん。故に無量義に云はく、「三法・四果・二道、一ならず」と、不一は即ち不合なり。若し方等教は或は半満双べ明し、或は半満相ひ対し、或は満を以て半を弾じ、半を稟け満を聞く。小を恥づることを知ると雖も、猶未だ大に入らず。故に止宿草庵と言ふ。下劣の心猶未だ改むること能はざれば、則ち半満合せざるなり。般若は満を以て半を洮練して命じて、家業を領せしむ。半の方便は通じて無生に入ることを明せば、半字の法門は皆是れ摩訶衍にして、是れ其の法を合するなり。而も一餐の物を悕取せざれば、即ち是れ未だ其の人を合せず。是の故に半満合せざるなり。若し法華に至れば、化城を覚悟して真実に非ずと云ふ。「汝等が所行は是れ菩薩道なり」と、即ち是れ法を合するなり。「汝は実に我が子なり」と、即ち是れ人を合す。人法倶に合するなり。鹿苑に権を開ずるより諸の経教を歴て法華に来至して、始めて実に合することを得。故に無量義に云はく、四十余年、未だ真実を顕はさず」と、若し法華に於て未だ合せざれば、涅槃に於て合することを得。法性論に中下の二根の法界に入ることを明すは、即ち是れ菩薩を合することを得るなり。若し声聞を論ぜば、一には秘密の合、二には顕露の合なり。秘密合とは、初め提謂の為に五戒の法を説くに已に密かに無生忍を悟る者あり。況んや修多羅・方等・般若に、豈に密悟無からんや。此れ則ち論ぜず。若し顕露に就かば、未入位の声聞は亦た処に随つて合することを得。例せば般若に三百の比丘の記を得る者の如き是れなり。若し住果の声聞は、決して法華に至つて敦く信じて合せしむ。若し住果の合せざるは、是れ増上慢なり。未入位の五千は、衆を簡んで起ちて去る。涅槃の中に到りて、方に復た合することを得。総じて諸教に就て通じて四句を作さば、華厳と三蔵は合に非ず不合に非ず。方等と般若は、一向に合せず。法華は一向に合す。涅槃は亦合亦不合なり。何となれば、涅槃は末代の為に更に諸の権を開して後代の鈍根を引く、故に亦不合と言ふなり。問ふ、菩薩の法華に因りて法界に入るは華厳と合す、華厳に因りて一乗に入りて法華と合するを見ざるや。答ふ、華厳に法界に入るは即ち是れ一乗に入るなり云云。

 [6]五に料簡とは、三意と為す。一には通別に約し、二には益不益、三には諸教に約す。通別とは、夫れ五味半満は別を論ずれば別して斉限あり、通を論ずれば初後に通ず。若し華厳頓乳は、別しては但だ初に在れども、通じては則ち後に至る。故に無量義に云はく、「次に般若の歴劫修行、華厳海空を説く」と。法華に仏慧に会入す。即ち是れ通じて二経に至るなり。又た像法決疑経に云はく、「今日坐中の無央数の衆は、各見ること同じからず。或は如来の涅槃に入るを見、或は如来の世に住すること、一劫、若は減一劫、若は無量劫なりと見る。或は如来の丈六の身を見、或は小身を見、或は大身を見る。或は報身の蓮華蔵世界海にして千百億の釈迦牟尼仏の為に心地の法門を説くを見る。或は法身の虚空に同じて分別あること無く、無相無礙にして法界に遍同するを見る。或は此の処山林地土沙あるを見、或は七宝と見、或は此の処は乃ち是れ三世の諸仏の所行の処なりと見、或は此の処は即ち是れ不可思議諸仏の境界真実の法なりと見る」と。夫れ日初めて出づるに先に高山を照す。日若し没するに垂んとして、亦た応に峻嶺に余輝あるべし。故に蓮華蔵海は、通じて涅槃の後に至る。況んや前教を耶。若し修多羅半酪の教は、別して論ずれば第二時に在り、通じて論ずれば亦た後に至る。何となれば、迦留陀夷は法華の中に於て面り受記を得、後に聚落に入りて害せられて結戒の縁起と作る。又た身子の如きは、法華の請主なり、後に入滅す。均提は三衣を持して至る、仏、問ふ云云。豈に三蔵の後に至るに非ず耶。釈論に云はく、「初め鹿苑より涅槃の夜に至るまで、説く所の戒定慧を結して修妬路等の蔵と為す」と。当に知るべし、三蔵は通じて後に至ることを。若し方等教の半満相対するは、是れ生蘇の教なり。別して論ずれば是れ第三時なれども、通じて論ずれば亦た後に至る。何となれば、陀羅尼に云はく、「先に王舎城に於て諸の声聞に記を授け、今復た舎衞国祇陀林の中に於て復た声聞に記を授く。昔し波羅奈に於ても声聞に記を授く」と。身子の云はく、「世尊は虚ならず、言ふ所は真実なり、故に能く第二第三に我等に記を授く」と。故に知んぬ、方等は法華の後に至ることを。般若は半を帯して満を論ず、是れ熟蘇の教なり。別して論ずれば第四時に在れども、通じて論ずれば亦た初後に至る。何となれば、「得道の夜より泥洹の夜に至るまで、常に般若を説く」と。又た釈論に云はく、「須菩提は畢定不畢定を問ふ」と。当に知るべし、般若も亦た後に至ることを。若し涅槃醍醐の満教は、別して論ずれば第五時に在り、通じて論ずれば亦た初に至る。何となれば、釈論に云く、「初発心より常に涅槃を観じて道を行ず」と。前来の諸教は豈に発心の菩薩の涅槃を観ずること無からん耶。大経に云はく、「我れ道場菩提樹下に坐して初めて正を成ず。爾の時無量阿僧祇恒沙世界の諸の菩薩も亦た会て我に是の甚深の義を問へり。然るに其の問ふ所の句義功徳も亦た皆な是の如くにして、等しうして異なりあること無し。是の如く問ふ者は、則ち能く無量の衆生を利益す」と。此れ則ち通じて前に至るなり。若し法華は顕露の辺に論ずれば、前に在ることを見ず。秘密の辺に論ずれば、理に障礙無し。故に身子の云はく、「我れ昔し仏に従つて是の如きの法を聞き、諸の菩薩の受記作仏することを見る」と。豈に昔の通記を証するの文に非ずや。問ふ、涅槃には追て四を説く、方等には正しく四を開し、別教に復た四あり。若為ぞ分別せん。答ふ、涅槃は当四に通じて仏性に入り、別教は次第して後に仏性を見、方等は証を保して二は性を見ず云云。

 [7]二に益不益に就て料簡せば、若し華厳を乳と為し三蔵を酪と為せば、此れ則ち方便の昧ひ濃やかに大乗の昧ひ薄し。此を釈するに三と為す、一には用益を取つて論を為す。貴薬なれども病治に非ず、賎薬なれども是れ病に宜し。貴薬なれども宜しきに非ざれば、徒らに服して益無きが如し。初め華厳を説くに、初心に於て未だ深益あらず、漸機に於て亦た未だ転ぜず。二縁に於ては乳の如し。若し漸機は、三蔵を稟けて能く見思を断じ、三毒稍尽くして即ち凡を転じて聖と成る。乳を変じて酪と為すが如し。用いて益あるを以て賎を勝と謂ひ、用いて益あらざらざれども貴を劣と謂ふ可からず。華厳も亦た是の如し。小に於ては乳の如く、大に於ては醍醐の如し。少分の譬喩にして、全く求む可からざるなり。二には良医に一の秘方ありて十二薬を具し、三種最も貴くして善く病の相盈縮の宜しき所を占ひ、終に候に乖きて謬つて所治あらざるか如し。仏も亦た是の如し。円方妙治は十二部を具す。無問と広と記を最も甚深と為す。菩薩は智利なれば具足して全く服し、二乗は病重ければ九を以て剤と為す。此れ若し縮せざれば、病に於て益無し。不縮に於ては乳と為し、縮に於ては酪と為す。此れ相生の次第を取りて譬と為し、濃淡浅深を用ひざるなり。三に行人の心に約せば、華厳を説く時は凡夫の見思転ぜず、故に乳の如しと言ふ。三蔵を説く時は見思の惑を断ず、故に酪の如しと言ふ。方等に至る時は挫かれ恥伏して真極と言はず、故に生蘇の如し。般若に至るの時は教を領して法を識る、熟蘇の如し。法華に至るの時は無明を破して仏知見を開き、受記作仏して心已に清浄なり。故に醍醐の如しと言ふ。行人の心生ければ教も亦た未だ転ぜず。行人の心熟すれば教も亦た随つて熟す。問ふ、一人の五味を稟くと為んや、五人と為ん耶。答ふ、自ら二人の一昧を稟くるあり。華厳の中の純一の根性の如きは、即ち醍醐を得て五味を歴ざるなり。大経に云はく、「雪山に草あり、牛若し食すれば即ち是れ醍醐を得」と。自ら一人の五味を歴るあり。小乗の根性の如きは、頓に於ては乳の如く、三蔵は酪の如く、「乃至醍醐に方に乃ち究竟す。大経に云ふが如し、「牛より乳を出し、乃至蘇より醍醐を出す」と。自ら利根の菩薩未入位の声聞ありて、或は三蔵の中に於て性を見るは、是れ二味を歴るなり。自ら方等の中に性を見るあり、是れ三味を歴るなり。般若の中に性を見るは、是れ四味を歴るなり。三百の比丘の如し。大経に云はく、「毒を乳の中に置かば、五味の中に遍じて悉く能く人を殺す」と、即ち此の意なり。

 [8]三に諸教に歴て料簡せば、大経に云ふが如し。「凡夫は乳の如く、声聞は酪の如く、菩薩は生熟蘇の如く、仏は醍醐の如し」と。今此の譬を釈せば、総じて半満五時を喩ふ。凡夫は治道無く、全く生きこと乳の如し。声聞は真を発すれば、通じて皆な酪の如し。通教の菩薩及び二乗は生蘇の如く、別教は熟蘇の如く、円教は醍醐の如し。今当教に各五味を判ずべし。大経に云はく、「凡夫は乳の如く、須陀洹は酪の如く、斯陀含は生蘇の如く、阿那含は熟蘇の如く、阿羅漢・支仏・仏は醍醐の如し」と。超果の者の即ち醍醐を得るあり、或は味味に入る者あり。此れ即ち三蔵教の中の三意なり。当通教の中の五味とは、大経の三十二に云はく、「凡夫の仏性は雑血の乳の如し。血とは即ち是れ無明行等の一切の煩悩なり」乳とは、即ち善の五陰なり。是の故に我れ説かく、諸の煩悩及び善の五陰に従つて三菩提を得と。衆生の身は皆な精血に従つて而も成仏することを得るが如し、仏性も亦た爾り」と。須陀洹・斯陀含は少しく煩悩を断ずれば真乳の如く、阿那含は酪の如く、阿羅漢は生蘇の如く、支仏より十地の菩薩に至るまでは熟蘇の如く、仏は醍醐の如し。超果と不定とは云云。当別教に自ら五味を明さば、第九に云はく、「衆生は牛の新たに生じて血乳未だ別れざるか如く、声聞と縁覚は酪の如く、菩薩の人は生熟蘇の如く、諸仏世尊は猶ほ醍醐の如し」と。具さに超果と不定とあり云云。当円教は但だ一味なり。大経に云はく、「雪山に草あり。名けて忍草と曰ふ。牛若し食すれば、即ち醍醐を得」と。正直純一なり、故に五味を論ぜず。若し無差別の中に差別を作さば、名字即乃至究竟即に約して五味の相生を判ずるなり。仏より十二部を出すは、即ち是れ乳を出す、新医の乳を用ふるなり。四善根に約して、発の中に就て五味と為す可きなり。

 [9]六に増数に教を明さば、先に迹に約し、次に本に約す。夫れ教は本と機に逗ず、機既に一ならざれば教迹衆多なり。何んぞ但だ半満五時のみならん。当に知るべし、無量種の教なることを。今且らく一を増して八に至る。初に一法に約して開合を明さば、「十方仏土の中には唯だ一乗の法のみあり」と。此の法に於て解せざるは、全く生きこと乳の如し。若し開かんと欲せば、円を開して別教の一乗を出すなり。若し別に於て解せざるは全く生きこと乳の如し。又た通の一乗を開くなり。若し通に於て解せざるは、亦た全く生きこと乳の如し。又た三蔵の一乗を開するなり。開して四と為すと雖も、皆な一大乗法と名け、倶に仏果を求むるなり。若し三蔵の一乗に於て解を得れば、即ち乳を変じて酪を成ず。乃至本の一乗に入るなり云云。若し四の一乗に於て解せざれば、又た更に三蔵に於て声聞・支仏の教を開出す。若し結を断じて果を証し心漸く通泰する者は、即ち二乗を却けて唯だ大乗求仏と言ふ。漸く般若を以て洮汰して心をして調熟せしむれば、即ち方便の一乗を廃して唯だ円実のみ一乗なり。故に云はく、「我れ本と誓願するが如き、今は已に満足す。一切衆生を化して皆な仏道に入らしむ。若し小乗を以て化せば、我れ則ち慳貪に堕せん。此の不可なりと為す」と。是の故に始め一に従つて一を開し、終に一に従つて一に帰す。若し二法に約して開合を論ぜば、半満両教に約す。初に華厳の満を明すに、若し衆生に機無ければ、次に満に約して半を開し、次に方等に半に対して満を明し、次に般若に半を帯して満を明し、次に法華に半を捨てて満を明す。始めは則ち満に従つて半を開し、終は則ち半を廃して満に帰す云云。次に三法に約して開合を論ぜば、即ち是れ一仏乗に於て方便して三を説く。既に息を知り已れば、化城を滅却す。亦是れ三善に約すれば、声聞を下善と為す云云。次に四法に約して開合を論ぜば、即ち是れ四教なり。円に約して別を開し、別に約して通を開し、次に三蔵を開す。是の如く次第に会し来りて円に合す云云。又た四法に開合を論ぜば、四門に約す。本と是れ円の四門なり、衆生解せざれば別の四門乃至通・三蔵の四門を開出す。利なる者は伝伝して入ることを得、鈍者は五味に調入す。次に五法に約して開合を論ぜば、即ち是れ五味なり。初の十二部より修多羅乃至涅槃を開し、教教に五味を論ず。初の五味より諸の五味を開し、細細に漸く合して還つて円満の五味に帰す。次に六法に約して開合を論ぜば、即ち是れ四教の大乗の六度・七覚分・八正道なり、初に円を開して別を出し、乃至三蔵なり。是の如く縮合して一円道に還る云云。次に七法に約して開合を論ぜば、四教・二乗并びに人天乗を謂ふ。若し上向は円別を合し、不者下向は人天を合して七数をして足らしむ。開合は云云。次に八法に約して開合を論ぜば前の八法に約して開今す云云。若し開合の意を得れば、自在に之を説く。

 [10]二に本門に約して教の開合を明せば、迹を借りて本を知る、本も亦復た是の如し。復次に本門の中に、或示己身、或示他身、或説己法、或説他法を明す。己身は是れ仏法界の像なり、他身は是れ九法界の像なり。己法は是れ円頓仏の知見なり、此を降りて以下は皆な是れ他法なり。種種の形を示すと雖も、度脱せしめんと欲するが故なり。種種の道を説くと雖も、其の実は一乗の為なり。此れ即ち開合の意なり。是の如く開合すれば、半満五味宛然として失無し。次第の意は、弥復た分明なり。次第の意に非ざるは自然に解す可し、不定の教は弥見易しと為す矣。一より一を開するは十方仏土の中には、唯だ一乗の法のみあり。衆生解せざれば、全く生きこと乳の如し。此の円の一乗より別の一乗を開出す。衆生は又た解せざれば、全く生きこと乳の如し。又た体法の一乗を開出す。衆生は又た解せざれば、亦た全く生きこと乳の如し。又た析法の一乗を開出す。衆生即ち解すれば、是れ則ち乳を転じて酪を為す。次に体法に入るは即ち酪を転じて生蘇と為す。次に別の一乗に入るは即ち生蘇を転じて熟蘇と為す。次に転じて円の一乗に入るは熟蘇を転じて醍醐と為すが如し。是の中、備さに頓・漸・不定あり云云。此は是れ一に従つて以て一を開し、一に従つて以て一に帰するなり。次に二に従つて以て二を開するは、元は本と是れ如来蔵なり。如来蔵の中に備さに半満不思議の二あり。衆生解せざれば、全く生きこと乳の如し。又た帯半の満を開出す。又た解せざれば、全く生きこと乳の如し。又た破半の満を開出す。衆生解せざれば、亦た全く生きこと乳の如し。又た単に半を説く。衆生解すれば、乳を転じて酪となる。次に破半の満を説くに、酪を転じて生蘇と為る。次に帯半の満を説きて、衆生をして一の熟蘇と為す。次に純ら不思議の満を説けば、衆生は醍醐の如し。此の中に具さに頓漸不定あり、即ち二に従つて二を開し、二に従つて二に帰す。三に従つて三に帰すとは、本と是れ即空即仮即中の三なり。衆生解せざれば、即ち次第の三を開す。又た解せざれば、即ち体真の三を開す。又た解せざれば、即ち析法の三を開す。利人は析空の三に従つて体空の三に入る。体に従つて次に入り、次に従つて即に入る。鈍者は析の三に住す、故に即空の三を用ひて之を調ふ、即ち生蘇なり。又た次の三を用ひて調へて熟蘇と為し、今方に即空即仮即中に入ることを得。此れ三法に約して、開合を論ずるなり。四法の開合とは、本と是れ円の四門なり。衆生解せざれば、別の四門乃至三蔵の四門を開す。伝伝して入らしむること、前の如し。五法に約して開合を論ぜば、五味に約すること前に準ず云云。乃至八も亦た是の如し。

 [11]記者、私に異同を録す

 [12]有る人、釈論の会宗品を引きて十大経を挙ぐ。「雲経・大雲経・法華経、般若は最大なり」と。又た大明品に云はく、「諸余の善法は般若の中に入る、謂はく、法華経も亦た是れ善法なり」と。第百巻に云はく、「法華は是れ秘密、般若は秘密に非ず。二乗の作仏を明さざるが為の故に」と。又た云はく、「般若法華は是れ異名なるのみ」と。此の三種云何んが通ぜん。有る人、会して云はく、「衆聖は無心を以て無相に契ふこと衆流の海に納まるが如し。若し其れ物を化するには、無相を以て宗と為すこと空の総包するが如し。般若に盛んに此の二を明す、故に十経に於て最も大なり。又た般若に第一義悉檀を明す、是の故に最も大なり。又た九十品の前の六十品は実慧を明し、無尽品より去りては方便を明す。二慧は是れ三世の仏の法身の父母なり、是の故に最も大なり。善衆経に此の二を明すは、皆な般若の中に摂入すと。問ふ、衆経に此の二を明す、亦た応に般若は衆経の中に摂入すべしや。答ふ、大品は最初より専ら此の二を明す、余経は爾らず。古来より般若は是れ得道経と称す、故に知んぬ、大なることを。今謂はく、還つて是れ論の語に大の義を専らにす、何んぞ会通と謂はん。会通せば、共般若・不共般若あり、不共般若は最大なり。余経に若し不共を明すは、其の義正等なり云云。他、会通す。法華に二乗作仏を明すは是れ秘密なり、般若には二乗作仏を明さざるが故に秘密に非ず。秘密は則ち深、般若は則ち浅なり。何となれば、般若に菩薩は是れ仏因と明す、義に於て解し易し、故に秘密に非ず。二乗作仏は昔教と反して義に於て解し難し、故に是れ秘密なり。論に云はく、「薬を用ひて薬と為すは其の事明し、毒を以て薬と為すは其の事難きが如し」と云云。然るに密と顕は大小に通ず。釈論の第四に云はく、顕示教には羅漢は惑を断ずれば清浄なり、菩薩は惑を断ぜざれば清浄ならずと明す。故に菩薩は後に在りて列ぬ。若し秘密の法には、菩薩は六神通を得て一切の煩悩を断じ、二乗の上に超えたりと明す。当に知るべし、顕示は浅く、秘密は深きことを。今、般若・法華に皆な菩薩は無生忍を得て六神通を具すと明す、並びに秘密、並びに深、並びに大なり。秘密に就て更に秘・不秘を論ず。般若に二乗作仏を明さざれば、此の一条を闕く、故に不秘と言ふのみ。問ふ、般若は未だ権を開せず、応に是れ秘密なるべし。法華には権を開す、応に是れ顕示なるべし。答ふ、若し開権を取らば、所問の如し。今、浅易を取りて顕示と為るのみ。問ふ、若し爾らば未了の者の如何んぞ大と言はん。答ふ、二慧に拠りて深大と為し、二乗作仏を明さざるを未了と為す。問ふ、既に深大と言ふ、何んぞ二乗は是れ方便にして作仏を得せしむと説かざるや。此の義未了ならば、亦何んぞ大ならんや。答ふ、独り自ら釈するのみに非ず。叡師も亦た云ふ、般若は照なり、法華は実なり。理を窮め性を尽して万行を明すことを論ずるときは、則ち実は照に如かず。大いに真化を明し、本と三無しと解することを取らば、則ち照は実に如かずと。是の故に深を歎ずるときは則ち般若の功重し、実を美むるときは則ち法華の用高し。問ふ、叡師を引くと雖も、枯を攀ぢて力を求め、覚えずして人杌倶に倒るるが如し。釈猶ほ未了なり。今謂はく、不共般若にして何れの時か二乗作仏を明さざらん。法華の平等大慧と更に復た何んぞ殊ならんや。

 [13]衆の経論に教を明すこと一に非ず。若し摩得勒伽には二蔵あり、声聞蔵と菩薩蔵なり。又た諸経に三蔵あり、二は上の如し。雑蔵を加ふ。十一部経を分つは是れ声聞蔵、方広部は是れ菩薩蔵、十二部を合するは是れ雑蔵なり。又た四蔵あり、更に仏蔵を開す菩薩処胎経に八蔵あり、胎化蔵・中陰蔵・摩訶衍方等蔵・戒律蔵・十住蔵・雑蔵・金剛蔵・仏蔵を謂ふ。彼の諸蔵、云何んが会通せん。二蔵を通ぜば、其の一は声聞に通じ、其の二は菩薩蔵に通ず。三蔵に通ぜば、初教は声聞蔵、次は雑に通ず。其の一は菩薩蔵に通ず。四蔵に通ぜば、一一相ひ通ず。八蔵に通ぜば、八蔵は降神己来、四教は転法輪より己来た時節節に異なりあり。今は転法輪より来たの八教を以て之を通ず。若し胎化蔵・中陰蔵は、未だ阿難の為に説かざる時なれば即ち是れ秘密教なり。阿難の為に説く時は、即ち是れ不定教なり。摩訶衍方等蔵は即ち頓教なり。戒律蔵より去りての五蔵は、即ち漸教の中の次第なり。戒律蔵は即ち三蔵教なり。十住蔵は即ち方等教なり。雑蔵は即ち通教なり。金剛蔵は即ち別教なり。仏蔵は即ち円教なり。然るに仏意は測り難し、一往相ひ望めて此の会通を作す云云。

 [14]問ふ、四教の名義は何れの経に出づるや。答ふ、長阿含の行品に、「仏、円弥城の北、尸舎婆村に在して四大教を説くは、仏に従つて聞き、和合衆・多比丘に従つて聞き、一比丘に従つて聞く、是を四大教と名く」と。月灯三昧経の第六に、四種の修多羅を明す。諸行と呵責と煩悩と清浄を謂ふ。私に之を釈会せば、諸行は是れ因縁生の法なれば、即ち三蔵の義なり。呵責は是れ過罪を体知すれば、即ち通教の義なり。煩悩とは巨海に入らざれば宝珠を得ず、若し煩悩無きときは則ち智慧無し、即ち別教の義なり。清浄とは既に一の浄を挙げて名に当つ、任運に我常楽等あれば、即ち円教なり。又た一一の教に四に修多羅を具す。諸行は即ち集諦、諸行の果は即ち苦諦、諸行は対治、煩悩を対治するは即ち道諦、諸行清浄なるは即ち滅諦なり。此れ三蔵の中に、四の修多羅を具すなり。又た諸行を呵責するは即ち集諦、諸有を呵責するは即ち苦諦、煩悩を呵責する対治は即ち道諦、呵責の清浄は即ち滅諦なり。此れ通教の中に、四の修多羅を具するなり。又た煩悩の諸行は是れ集諦、煩悩の諸有は是れ苦諦、煩悩の行の呵責を被るは即ち道諦、煩悩の清浄は即ち滅諦なり。此れ別教の中に、四の修多羅を具すなり。又た煩悩即ち生死なるは、苦諦の清浄なり。菩提即ち煩悩なるは、集諦の清浄なり。煩悩即ち菩提なるは、道諦の清浄なり。生死即ち涅槃なるは滅諦の清浄なり。此れ円教の中の四の修多羅なり。彼の経に復た四論・四法・四境界・四門・四断煩悩智・四苦・四集・四道を明すは、皆な四教と相応す。具さには彼の如し、応に知りぬべし。地論の第七に云はく、「一念の心に十波羅密・四摂・三十七品・四家を具す」と。四家を釈して云はく、「般若家、諦家、捨煩悩家、苦清浄家なり」と。私に釈せば、苦諦に約して初門と為し、道品を修して苦をして清浄ならしむるは、即ち三蔵の義なり。捨煩悩家とは、即ち無相体達するを捨と為し、色是れ空なるが如き空捨無相を以て道品を修するを論ずるは、此れ即ち通教の義なり。般若家とは、般若の智照せば諸法明了なり。恒沙の法門皆悉く通達して而も道品を修するは、此れ即ち別教の義なり。諦家とは、諦は即ち実相の理なり即ち是れ円教にして、実相に約して、而も道品を修するなり、具さには彼に説くが如し云云。

 [15]達摩鬱多羅、教迹の義を釈して云はく、教とは仏、下に被るの言を謂ふ。迹とは蹤跡を謂ふ、亦た応跡・化跡なりと。言ふこころは、聖人の布教は各帰従あり。然るに諸家の判教は一に非ず。一に云はく、「釈迦の一代は頓漸を出でず、漸に七階・五時あり。世共に同じく伝へて是と言はざる無しと。又た云はく、五時の言、那んぞ定を得べけん。但だ双林已前は是れ有余にして不了なり、涅槃の唱へ、之を以て了と為すと。又た言はく、「仏は一音をもつて万に報ず。衆生は大小並びに受く。何んぞ頓漸を以て住きて定むべけんや。頓漸なしと判ず。

 [16]今之を経論に験むるに、皆是れ穿鑿するのみ。何となれば、人云はく、仏教は頓漸を出でずと。而も実には頓漸に教を摂すること尽くさず。四阿含経・五部の戒律の如きは、教未だ深を窮めざれば未だ頓と名くることを得ず。説は始終に亘れば、大の与に次第して漸と為らず。是れ則ち頓漸に摂せず、何んぞ仏教は頓漸を出でずと言ふことを得んや。然るに頓無きにあらず、全く破することを得ず。何となれば、凡そ頓漸を論ずることは蓋し所為に随ふ。若し如来に就かば実に大小並べ陳ぶ、時に前後無し。但だ所為の人は悟解同じからず。自ら頓受あり、或は漸より入る。所聞に随つて結集す、何んぞ頓無しと言ふことを得んや。但だ其の時節を定めて、其の浅深を比ぶ可からざる耳。

 [17]人、漸教の中に七階五時ありと言ふ。言はく、仏、初めて成道して提謂、波利の為に五戒十善の人天の教門を説くと。然るに仏は衆生に随つて、聞くに宜しければ便ち説く。何んぞ唯だ初時に局つて、二人の為に五戒を説くことを得ん。又た五戒経の中には、二りの長者は不起法忍を得、三百人は信忍を得、二百人は須陀洹果を得と。普曜経の中には、仏、二りの長者の為に記を授けて密成如来と号せんと。若し爾らば、初に二人の為に人天教門を説くと言ふは、義何の依拠かある。又た二りの長者は仏を見て法を聞き、仏を礼して去る。竟に鹿苑に向はず。初め五戒を説く時、未だ陳如を化せず。誰と接次して、而も名けて漸と為さん。人第二時十二年の中に三乗別教を説くと言ふ。若し爾らば、十二年を過ぎて、四諦・因縁・六度を聞くに宜しきあらば、豈に説かざる可けんや。若し説かば是れ則ち三乗別教なり、止だ十二年の中に在るに不ず。若し説かずんば是れ一段後に在りて聞くに宜しき者、仏豈に化せざる可けんや。定んで此の理無し。経に言はく、「声聞の為に四諦を説き、乃至六度を説く」と。止だ十二年ならず。蓋し一代の中、聞くに宜しき者に随つて即ち説く耳。四阿含経・五部律の如きは、是れ声聞の為に説くに、乃ち聖滅に訖る、即ち是れ其の事なり。故に増一経に説かく、「釈迦、十二年の中に略して戒を説く。後に瑕玼起れば、乃ち広く制す」と。長阿含遊行経に説かく、「乃至涅槃」と。何んぞ小乗は悉く十二年の中と言ふことを得んや。人言はく、第三時の三十年の中に空宗般若・維摩、思益を説くと。何れの経文に依りて、三十年の中なることを知るや。四十年の後に法華一乗を説くと言ふは、法華経の中、弥勒の言はく、「仏、成道してより来た、始めて四十余年を過ぐ」と。然るに法華は定んて大品経の後に在りと言ふ可からず。何が故ぞ、大智論に云はく、「須菩提、法華の中に於て挙手低頭皆な作仏を得と説くを聞きて、是を以て今、退の義を問ふ」と。若し爾らば大品と法華と前後何んぞ定まらん。

 [18]然るに大品法華及び涅槃の三教の浅深は輒く言ふ可きこと難し。何となれば、涅槃の仏性を亦た般若と名け、亦は一乗と名く。一乗は是れ法華の宗、般若は是れ大品に説く所、即ち是れ性を明す。復た何の未了かあらん乎に。大品の中に第一義空を説くと涅槃経に空を明すと、異なること無し。皆な色空乃至大涅槃亦空と云ふ。又た大品に涅槃は化に非ずと説き、維摩には仏身は五非常を離ると説く。涅槃に常を明すと涅槃に不空を説くと、何の異なりあらん。而も自ら分別を生じ、維摩は偏に常を明すと詺け、大品は一向空を説くと言ふや。人、阿難等の諸の声聞の大品の会に在るを以て、復た法華会を経て終に涅槃に至る。故に知んぬ、大品・法華・涅槃は応に浅深あるべしと。義は必ずしも爾らず。何となれば、阿難・迦葉の如き、法華会を経て若し未だ常を説くことを聞かざれば、涅槃会の中には二人在らず。何に由りてか常の解あることを得て涅槃を流通せん。復次に舎利弗は仏涅槃の前七日に在りて滅度す。大目連は執杖外道の為に打たれ、亦た仏の前に在りて涅槃す。皆な双林の会に在らず、豈に常の解を得ざる可けん乎。即ち知る、法華の中に已に常を悟り竟れば、更に聞くことを仮らざることを。又た舎利弗等の諸の声聞は、皆な是れ如来の影響なり、法華経に説くが如し。衆の小法を楽ひて而も大智を畏ると知る、是の故に諸の菩薩は声聞縁覚と作ると。涅槃に亦た云はく、「我が法の最長子は是れ大迦葉と名く。阿難多聞の士は能く一切の疑を断じ、自然に能く是の常と無常とを解了す」と。故に知んぬ、影響の人は大に在りては則ち大、小に在りては則ち小なることを。何んぞ其の人に就て、以て階漸を定む可けんや。又た若し法華より後涅槃に入らば、法華経の中に已に王宮は始なるに非ず。久しく来た道を成ずと明す。何に由りてか涅槃の中に、方に道樹始成を引きて実を執して疑を為さんや。故に知んぬ、一段の衆生の最後に常を聞く者の為に涅槃経を説くことを。法華を聞く者は涅槃を聞くことを仮らざるなり。又た涅槃経に大利益あり、法華の中の八千の声聞、記莂を受くることを得て大果実を成ずるが如しと。若し法華の得記を以て涅槃の益を証せば、即ち是れ理同じくして教に深浅無きこと明かなり矣。又た法華優波提舎の中に法華経は理円かに教極りて欠少する所無きことを明す。龍樹は大智論の中に於て、法華を歎じて最も甚深と為す。何が故ぞ余経は皆な阿難に付し、唯だ法華のみ但だ菩薩に付するやと。是に知んぬ、法華は究竟満足にして須らく疑を致すべからざることを。復た当に知るべし、諸の大乗経の指帰殊ならず。但だ宜しきに随つて異なりを為す耳。華厳・無量義・法華の如き、皆な三昧の名なり。般若は是れ大智慧なり。維摩は不思議解脱を説く、是れ解脱なり。大涅槃は是れ究竟の滅なり。文殊問の菩提は是れ満足の道なり。悉く是れ仏法なり、法に優劣無し。中に於て果を明すは、皆是れ仏果なり。因を明すは皆是れ地の行、理を明すは皆是れ法性、所為は皆是れ菩薩なり。指帰当に異なりあるべからず、人何為れぞ強て優劣を作すや。若し爾らば、誕公の云はく、「双樹已前法華経までは悉く不了なりと指すと。豈に誣誷に非ざらんや。

 [19]人情既に爾り、経論は云何ん。摩得勒伽に十二部経を説く、唯だ方広部は是れ菩薩蔵、十部は是れ声聞蔵なり。又た仏は声聞菩薩の為に出苦の道を説く。諸の集経の者は、菩薩の為に説く所を以て菩薩蔵と為し、声聞の為に説く所を以て声聞蔵と為ず。龍樹は大智論の中に於て亦た云はく、「大迦葉と阿難と香山に在りて三蔵を撰集して声聞蔵と為し、文殊と阿難と摩訶衍経を集めて菩薩蔵と為す」と。涅槃に亦た云はく、「十一部経を二乗の所持と為し、方等部を菩薩の所持と為す」と。是を以て経論に依按するに、略して唯だ二種なるのみ。声聞蔵と及び菩薩蔵なり。然るに教は必ず人に対す。人別各二あり。声聞蔵の中に決定の声聞と及び退菩提心の声聞とあり。菩薩蔵の中に頓悟の大士あり。漸入の菩薩あり。声聞蔵の中の決定の声聞とは、久しく別異の善根を習へば小心狭劣にして小性を成就し、一向に小を楽ふ。仏為に小を説くに、畢竟作証して大に趣くこと能はず。退菩提心の声聞と言ふは、是の人嘗て先仏及び諸の菩薩の所に於て菩提心を発せども、但だ生を経、死を歴るに本念を忘失し、遂に小心を生じて志し小を願ふ。仏、為に小を説きて終に大に趣かしむ。然るに決定の声聞は一向に小に住し、退菩提心の声聞は後に能く大に趣く。去あり住ありと雖も、而も小を受くるの時は一なり。故に此の二人に対して説く所を声聞蔵と為す。菩薩蔵の中に能く頓悟する者あり。華厳等の経の所為の衆生の如きは小に由りて来らず、一往に大に入る、故に名けて頓と為す。漸より入る者は、即ち向の退菩提心の声聞なり。後に能く大に入り、大は小より来る、故に称して漸と為す。頓漸の不同ありと雖も、然も大を受くるの処は一なり。故に此の二人に対して説く所を菩薩蔵と為すなり。然るに此の二蔵は所為に随ひ、所説に随ふ。声聞蔵の中に菩薩の影響と為るあり。然れども所為に非ざれば、菩薩に従へて名けて大乗経と作す可からず。菩薩蔵の中に亦た声聞の人あり、正しく所為の宗に非ざれば声聞の法を説かず、故に名けて小乗の法と為す可からず。人に擬して法を定むるに、各自ら不同なり。是れ要を以て而も之を摂す、略すれば唯だ二なるのみ。問ふ、仏は三乗の人の為に三種の教を説く、何を以ての故に蔵を判ずるに唯だ其の二あるや。答ふ、仏、三乗を求むる人の為に三乗の法を説く。然るに因縁を聞く者は即ち是れ声聞なり。辟支仏は無仏世に出でて但だ神通を現じ、黙して説く所無し。故に経を結集する者、集めて二蔵と為すなり。経に依りて教を判ず、厥の致云ふこと爾り。今の四教と達摩の二蔵との会通云何ん。彼は自ら要をもつて之を摂するに略して唯だ二種ありと云ふ、今は開して之を分つて四教と為す耳。声聞蔵は即ち三蔵教なり、菩薩蔵は即ち通別円教なり。決定の声聞の為に三蔵教を説き、退大の声聞の為に通教を説き、漸悟の菩薩の為に別教を説き、頓悟の菩薩の為に円教を説くなり。唯だ名数融じ易きのみに非ず、而も義意玄かに合す。今古符契して、一にして二無し焉。

 [20]唯だ文略にして而も義は広し、一を教へて而も諸を蔽つ。若し隠を申べて以て顕ならしむれば、須らく多く論義を作るべし。川澤を捕猟するに、饒に筌罤を結ぶが如し。豈に漁猟する者、博を好まん耶。已むことを得ずして、而も博ふする耳。師の云はく、「我れ五章を以て略して玄義を譚ずるに、能く文外の妙を申ぶるに非ず。特に是れ粗ぼ懷く所を述ぶるのみ。常に恨らくは、言は意を暢ぶること能はざることを。況んや復た記するに、能く言を尽くさんや。然りと雖も、若し能く七義を尋ね、次に十妙に通じ、別体の七を研き、余の五の鉤瑣相承し、宛宛として繍の如し。経を引きて印定し、句句環合す。直だ諸の名教を包むのみに非ず、半満を該ぬる而已矣。又た事に即して観を成じ、凡夫の乾土を鑿ち、聖法の水泥を見る。円通の道、斯に於て通ず矣。遍朗の朗は茲に於て明かなり矣。此を前に備へ、今更に文を後に消するなり。