[1]次に円門入実の観を明さば、先には円門を簡び、次には円観を明す。上の三蔵の門は実の色を滅して真に通ず、意を得ざれば諍ひ多し。体門は幻色に即して真に通じ、人に無諍の法を示す。別門は生死の色を体滅し、次第に法性の色を滅して中に通ずるも、意を得ざれば諍ひ多し。円門は生死の色に即して是れ法性の色なり、法性の色に即して而も中に通じ、人に無諍の法を示す。故に文に云はく、「無上道」と。又云はく、「而して深妙の道を行ず」と、即ち其の義なり。上の両門は中に通ぜざれば、分別することを俟たず。別円の両種は倶に中に通ず、其の同異を論ずるに略して十と為す。一には融と不融、二には即法と不即法、三には仏智と非仏智を明し、四には次行と不次行を明し、五には断の断惑と不断の断惑を明し、六には実位と不実位を明し、七には果縦と果不縦、八には円詮と不円詮、九には難問に約し、十には譬喩に約す。此の十意を尋ねて明かに八門の同異を識るなり。

 [2]一に融と不融を明さば、別教の四門は拠る所決定す。妙有の善色は空に関らず、畢竟空に拠れば有に関らず。乃至非空非有門も亦是の如し。四門は歴別にして当分に各通ず。意を得ざる者は定相を作して取り、性実に似同して殆んど冥初の覚を生ずるに濫ず云云。前の三蔵の有門は、已に外道の邪計を破すること先に尽くす。次の空等の三門は、邪を破すること則ち少し。又た通の巧の四門は三蔵の拙を破す。又た別教の門は通門の近を破す。已に二乗と与に共せず、何に況んや外道の冥覚をもつて妙有に濫ずるをや。妙有は如来蔵に依りて四門を分判す、何んぞ彼の尼犍の性実に同じきことを得ん。周璞と鄭璞は名同じく質を異にし、貴賎天懸なるが如し。今時、地論を学ぶ人は、道に反きて俗に還り、竊かに此の義を以て偸みて荘老に安んず。金石相ひ糅へて遂に邪正をして混淆せしめ、盲瞑の徒涇渭を別たず。若し諸の四門の意を得て、精しく真偽を簡べば偸盜生ぜず。然るに別門は定説を作すと雖も、是の如きの諍論は諸仏の境界なれば二乗も知らず、豈に外道に同じからん耶。円門は虚融微妙にして、定執す可からず。有を説くも無を隔てざれば、有に約して無を論ず。無を説くに有を隔てざれば、無に約して而も有を論ず。有無不二にして決定の相無し、仮に有に寄せて以て言端と為す。而るに此の有門は亦た即ち三門なり、一門無量門、無量門一門なり、一に非ず四に非ず、四にして一、一にして四なるは、此れ即ち円門の相なり。

 [3]復次に更に破会に約して融と不融の相を明すに、若し外道の邪見を破するは、二乗の邪曲を破せず、亦た大乗の方便を破せず。又た会すれども円かならざる者は、浄名の中の如し。凡夫の反復を会するも、声聞は無きなり。塵労の儔を会して如来の種と為すも、無為にして正位に入るは反復すること能はず。生死の悪人、煩悩の悪法皆な会せらるるも、二乗の善法、四果の聖人は会せられず。又た般若の中に、二乗所行の念処道品は皆な摩訶衍なり。貪欲・無明・見愛等も皆な摩訶衍せなりと明して、善悪の法悉く皆な会せらるるも、亦た悪人及び二乗の人等を会せず、其の作仏を辨ぜざるは、此れ即ち別門の摂なり。若し円の破は、別教より已去皆是れ方便なり。故に迦葉自ら破して云はく、「此より前は我等皆な邪見の人と名く」と。既に邪見の人と言ふ、則ち円の正道の法無し、則ち人法倶に破せらるるなり。別教の人法尚ほ爾り、何に況んや草庵の人法をや。二乗も尚ほ爾り、何に況んや凡夫の人法をや。是れ則ち円の破は固留する所無し。円の会は、諸の凡夫著法の衆を会す。「汝等皆当に作仏すべし、我れ敢て汝等を軽んぜず」と。五逆の調達も亦た受記を与へ、龍畜等も亦た受記を与ふ。況んや二乗菩薩等をや。「世間の治生産業も皆な実相と相ひ違背せず」と。即ち一切の悪法を会するなり。「汝等の所行は是れ菩薩の道なり」と。柝法の二乗も尚ほ会せらる、況んや通、況んや別をや。「汝は是れ我子、我は即ち是れ父なり」と。人法として会せられざることあること無く、倶に皆な融妙なるは、此れ即ち円門の摂なり。

 [4]復次に更に経文の前後に約して円と不円の相を明す。若し先に不融門を明すは此れ地前を説き、後に不融門を明して而も証融を言ふは此れ向の後を説く。或は先に証融門を明すは此れ向の後を説き、後に不融門を明すは此れ地前を説くは、此れ皆な別門の摂なり。若し先に融門を明し、証も亦た融ずるは此れ信の後を説き、後の証の不融を明すは此れ住の前を説く。或は先に証の不融を明すは此れ住の前を説き、後に証の融を明すは此れ信の後を説くは、此れ皆な円門の摂に属す云云。

 [5]二に即法不即法とは、若し有を説きて門と為るは此の有、生死の有に非ず、生死の外に出でて別に真善妙有を論ず。空門は二乗の真の外に出でて別に畢竟空を論じ、乃至非有非無門も亦是の如し。是を別の四門の相と為す。若し有を門と為すに生死の有に即して是れ実相の有なり、一切の法は有に趣く、有即ち法界なり。法界を出づるの外、更に法の論ずべき無し。生死即ち涅槃、涅槃即ち生死にして二無く別無し。有を挙げて門端と為る耳。実は一切の法を具して円通無礙なり、是を有門と名く。三門も亦是の如し。此れ即ち生死の法にして是れ円の四門の相なり。復次に即ち法に遍と不遍とありて円別の相を判ずるは、前に例して分別す云云。五住に約して偏と不偏とあり。復次に即法と不即法は、或は前或は後、別円の相を判ず。前に分別するが如し云云。

 [6]三に仏智と非仏智に約せば、若し有を門と為すに一切智の空法を了達するを分別し、道種智の恒沙の仏法の差別不同を照すことを分別するは、是れ菩薩智にして即ち別の四門の相なり。若し有を門と為し、一切種智五眼具足して、円かに法界を照すと分別し、正遍知なるは即ち諸仏の智にして是れ円の四門の相なり。復次に別門に円智を説き、円門に別智を説く。或は前或は後に別円の相を分別すること、例して前の如し云云。復次に別門に円智を証し、円門に別智を証す。或は前或は後、別円を分別すること、前に分別するが如し云云。

 [7]四に次第と不次第に約せば、若し有を以て門と為し、門に依りて修行するに、漸次階差ありて微より著に至る。一行の中に即ち無量行なること能はず。乃至非空非有門も亦是の如し、是れ別の四門の相なり。若し有を以て門と為すに、一切法は有門に趣く。門に依りて修行するに亦た一切の行は有の行に趣き、一行無量行なるを名けて遍行と為す。乃至非空非有門も亦た是の如し、是れ円の四門の相なり。復次に別門に円の行あり、円門に別の行あり、或は前或は後、別円を分別すること、例して前の如し云云。

 [8]五に断の断と不断の断に約せば、夫れ至理虚無にして無明の体性本より自ら有ならざれば、何んぞ智慧を須ひん。解惑既に無し、安んぞ円別を用ひん。涅槃に云はく、「誰か智慧あり、誰か煩悩ある」と。浄名に曰はく、「婬怒癡の性は即ち是れ解脱なり、又た癡愛を断ぜして明脱を起す」と。此れ則ち断不断を論ぜず。大経に云はく、「闇の時明無く、明の時闇無し。智慧ある時は則ち煩悩無し」と。此れ智慧を用ひて煩悩を断ずるなり。若し別の有門は多く定分割截に就いて漸次に五住を断除すれば、則ち是れ思議の智断なり。乃至三門も亦是の如し。是を別の四門の相と為す。若し円の有門は、解惑不二にして多く不断の断を明し、五住も皆な不思議なり。即ち是れ不思議の断なり。乃至三門も亦是の如し。是を円の四門の相と為す。復次に円門に断を説き、別門に不断の断を説く。或は前或は後、別円の相を判ずるは、例して前に説くが如し云云。

 [9]六は実位と非実位に約せば、若し有門に界内の見思を断ずるに三十心の位を判じ、界外の見思無明を断ずるに十地の位を判じ、等覚の後心に無明を断じ尽して、妙覚の常果累外無事なりと明すは、此れ乃ち他家の因をもつて己が家の果と為す。皆な方便にして実位に非ざるなり。後の三門も大同小異なり、皆是れ別の四門の相なり。若し有門に初発意より三観一心にして界内の惑を断じ、円かに界外の無明を伏するに十信の位を判じ、進んで真智を発し、円かに界外の見思無明を断ずるに、四十心の位を判じ、等覚の後心に無明永く尽きて妙覚累外なるは、此は是れ究竟真実の位なり。乃至、三門も亦是の如し、是を円の四門の相と名く。復次に別門に実位を説き、円門に不実位を説く。別門に実位を証し、円門に不実位を証す。或は前、或は後皆な前に分別するが如し云云。

 [10]七に果縦と果不縦に約せば、若し有を門と為し、門に従つて果を証するに三徳縦横なり。法身は本有、般若は修成、解脱は始満と言はば、但だ果徳縦成なるのみにあらず、因も亦た局限す。地人の云ふが如き、初地に檀波羅蜜を具足すとは、余に於て修せずと為すには非ず、力に随ひ分に随ふ。檀の満は初地にして上地に通ぜず、余法は分にありて而も具足せざるは、是の義有余なり。三門も亦是の如し、是を別の四門の相と為す。若し有を門と為し、門に従つて果を証するに、三徳具足して不縦不横なり。亦た因も是の如し、一法門に一切の法門を具足し、通じて仏地に至る。華厳に云はく、「初の一地より諸地の功徳を具足す」と。大品に云はく、「初の阿字に四十一字の功徳を具足す」と。三門も亦是の如し、是を円の四門の相と為す。復次に別門に果不縦を説き、円門に果の縦を説く。或は前或は後、円別を判ずること前に例す云云。

 [11]八に円詮と不円詮に約せば、若し有を門と為すに門円融せず、或は一を融じ、或は二を融ず。門の前章は偏の弄引なり、門の中章は不融不即の菩薩の智、乃至偏の譬喩等を詮述し、門の後に還つて不融不即等を結す。三門も亦是の如し、是を別の四門の相と為す。若し有を門と為すに、一門即ち三門なり、門の前は円の弄引、門の中は融即仏智、乃至円の譬喩等を詮述し、門の後に融即等を結成す。三門も亦是の如し。是を円の四門の相と為す。復次に別門に円を詮し、円門に別を詮す。或は前或は後、別円の相を分別すること前に例す云云。

 [12]九に問答に約せば、若し有門に義を明すも未だ円別を辨ぜずんば、須らく問答覈徴して自ら円別の指趣を見んことを尋ぬべし、三門も亦是の如し云云。

 [13]十に譬喩に約すとは、諸門の前後、或は金銀宝物を挙げて譬へと為し、或は如意日月を挙げて譬へと為す。或は別を用ひて合し、或は円を用ひて合するに、円別の相自ら顕はる云云。今、十意を以て玄かに衆経を覧るに、円別の両門朗然として明かなり矣。

 [14]復た五昧に約して少多を分別せば、乳教は両種の四門、酪教は一種の四門、生蘇は四種の四門、熟蘇は三種の四門、此の経は一種の四門なり云云。

 [15]今の経の十義は、一切法空如実相なりと観ず。「声聞法を決了するに是れ諸経の王なり」と。「方便の門を開す」と。此は是れ凡と小と大の人法を融ずるなり。¬一切世間の治生産業は皆な実相と相ひ違背せず」と。「即ち客作の者は是れ長者の子なり」と。此は是れ即法の義なり。「仏の知見に開示し悟入す」と、「今応に作すべき所は唯だ仏の智慧なり」と、即ち仏慧なり。著如来衣坐室等は即ち不次第の行なり。「五欲を断ぜずして而も諸根を浄む」と。「又た五百由旬を過ぐ」とは、即ち不断の断の義なり。「五品六根浄」と、「宝乗に乗じて四方に遊ぶとは、即ち実位なり。「仏自ら大乗に住し定慧の力荘厳す、此を以て衆生を度す」とは、即ち果不縦なり。「合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」とは、即ち今仏の文の前の円詮なり。「諸法実相の義、已に汝等が為に説く」とは、即ち古仏の文の後の円詮なり。智積と龍女との問答は、円を顕はすなり。輪王の頂珠と、其の車高広とは、皆な円喩なり。十意既に足れば円門明かなり矣。融門の四相を今当に説くべし。若し仏の智慧は、微妙第一なりと言ふ。又云はく、「我れ如来の智慧を以て彼の久遠を観ずるに猶ほ今の若し」と、智の妙法を知るは有門なり。「一切の法空にして常に寂滅の相なり、終に空に帰す」とは、空門なり。「諸法は常に無性なり、仏種は縁より起る」とは、即ち亦空亦有門なり。「非如非異」「非虚非実」の双非両捨は、即ち非空非有門なり。四相は門を標し、十意は別を簡ぶ。故に知んぬ、此の経は円の四門を明すことを云云。

 [16]二に入実の観を明すとは、上に已に四の円門を知れば、今、有門に依りて観を修す。観は則ち十と為す云云。前の十二の思議の門に対して不思議境と名く、不思議境は即ち是れ一実の四諦なり。謂はく、生死の苦諦不可思議にして、即空即仮即中なり。即空の故に方便浄、即仮の故に円浄、即中の故に性浄なり。三浄を一心の中に得るを大涅槃と名く。浄名に曰はく、「一切衆生は即ち大涅槃なり」と。故に不可思議の四諦と名くるなり。復た滅すべからず。此れ即ち生死の苦諦是れ無作の滅なり、亦た是れ集道なり。煩悩の集諦不可思議にして即空即仮即中なり。即空の故に一切智と名け、即仮の故に道種智と名け、即中の故に一切種智なり。三智一心の中に得るを大般若と名く。浄名に曰はく、¬一切衆生即ち菩提の相なり、復た得べからず」と。此れ即ち煩悩の集にして、而も是れ無作の道諦なり。亦是れ苦滅なり。故に不思議の一実の四諦と名くるなり。亦是れ真善妙色なり、何となれば、生死即空の故に真と名け、生死即仮の故に善と名け、生死即中の故に妙と名く。此を有門の不可思議境と名くるなり。

 [17]二に真正の心を発すとは、一切衆生は即ち大涅槃なり、云何んぞ顛倒して楽を以て苦と為す。即ち大悲を起し、両の誓願を興して未度の者をして度せしめ、未断の者をして断ぜしむ。一切の煩悩は即ち是れ菩提なり、云何んぞ愚闇にして道を以て非道と為す。即ち大慈を起し両の誓願を興して未知の者をして知らしめ、未得の者をして得せしむ。無縁の慈悲清浄の誓願なり。慈善根の力任運に一切衆生を吸取するなり。

 [18]三に安心とは、既に体解成就し、発心具足す。豈に池に臨んで魚を観、肯て網を結ばず。糧を裹み脚を束ねて、安座して行かざる可けんや。修行の要は定慧を出でず、譬へば陰陽調適して万物秀実なるが如し。雨旱節ならずんば、焦爛して豈に生ぜんや。若し両輪均平なれば是の乗能く運し、二翼具足すれば飛升するに堪任す、生死即ち涅槃なりと体するを名けて定と為し、煩悩即ち菩提なりと達するを名けて慧と為す。一心の中に於て巧みに定慧を修し、一切の行を具足するなり。

 [19]四に破法遍とは、此の妙慧を以てすれば、金剛の斧を擬する所皆な砕くるが如く、翳無き日の臨む所皆な朗かなるが如し。若し生死即ち涅槃なれば分段変易の苦諦皆な破し、若し煩悩即ち菩提なれば四住五住の集諦皆を破す。復た能く破すと雖も、亦た所破あらず。何となれば、生死即ち涅槃なり、故に破する所無きなり。

 [20]五に識通塞とは、主兵宝の取舎宜しきを得るが如き、強き者は之を綏め、弱き者は之を撫す。生死の過患を知るを名けて塞と為し、即ち涅槃なるを名けて通と為す。煩悩悩乱するを名けて塞と為し、即ち是れ菩提なるを名けて通と為す。始め外道の四見より、乃至円教の四門まで皆な通塞を識る。節節に執著するは即ち是れ塞なり、節節に亡妙なるを名けて通と為す。若し諸法の夷嶮を識らざれば、但だ行法の前まざるのみに非ず、亦た重宝を亡去するなり。

 [21]六に善識道品とは、生死即ち涅槃と観ずれば、十界の生死の色陰皆な浄に非ず、不浄に非ず、乃至識陰も常に非ず不常に非ず。能く八顛倒を破するは、即ち法性の四念処なり。念処の中に道品・三解脱及び一切の法を具す。又た涅槃即ち生死と知るは四枯樹を顕はし、生死即ち涅槃と知るは四栄樹を顕はす。生死涅槃不二なりと知るは即ち一実諦なり。非枯非栄は大涅槃に住するなり。

 [22]七に善修対治とは、若し正道に障り多ければ応に助道を須ふべし。生死即ち涅槃と観ずれば、報障を治するなり。煩悩即ち菩提と観ずれば、業障と煩悩障を治するなり。

 [23]八に善知次位とは、生死の法、本より即ち涅槃なるは理の涅槃なり、生死即ち涅槃と解知するは名字の涅槃なり、勤めて生死即ち涅槃と観ずるは観行の涅槃なり、善根功徳の生ずるは即ち相似の涅槃なり、真実の慧起るは即ち分真の涅槃なり。生死の底を尽くすは即ち究竟の涅槃なり、煩悩即ち菩提を観ずるも亦是の如し。

 [24]九に善安忍とは、能く内外強軟の遮障を安して観心を壊せず、若し生死即ち涅槃と観ずれば、陰入境・病患・業・魔・禅・二乗・菩薩等の境の為に動壊せられず。若し煩悩即ち菩提と観ずれば、諸見、増上慢の境の為に動壊せられざるなり。

 [25]十に無法愛とは、既に障難を過ぎて道根成立し諸の功徳生ず。生死・即ち涅槃と観ずるが故に諸禅三昧の功徳生じ、煩悩即ち菩提と観ずるが故に諸の陀羅尼・無畏・不共、諸の般若生ず。生死涅槃不二と観ず、故に法身実相生ず。相似の功徳は理に順じて而も生ず。喜んで順道法愛を起す、生を法愛と名け、上らず退せざるを名けて頂堕と為す。此の愛若し起らば即ち当に疾く滅すべし。愛若し滅し已れば無明を破し、仏知見を開き、実相の体を証す。生死即ち涅槃と観ず、故に解脱を証得ず。煩悩即ち菩提なり、故に般若を証得す。此の二不二なり、法身を証得して一身無量身なり。無上の宝聚・如意円珠、衆法具足す。是を有門より実に入りて経体を証得すと名く。余の三門も亦是の如し。

 [26]是の十種の観は経文に具足す。「是の法示すべからず、言辞の相寂滅す。諸余の衆生の類は能く解を得ることあること無し」と。又た「我法は妙にして思ひ難し」とは、即ち不思議境なり。「一切衆生の中に於て大慈心を起し、非菩薩の中に於て大悲心を起す。我れ三菩提を得る時、神通力・智慧力を以て之を引きて是の法の中に住するを得せしむ」とは、即ち正しく発心なり。「仏、自ら大乗に住す、其の所得の法の如きは定慧の力荘厳す」とは、即ち是れ二法に安んじて自ら成じ他を成ずるなり。「破有法王」とは、即ち是れ破法遍なり。又た「日月の光明の如く、能く諸の幽瞑を除き、斯の人世間に行じ能く衆生の闇を破す」とは、即ち破法遍なり。¬一導師ありて将に衆人を導き、明了の心決定して嶮に在りて衆難を済ふ」とは、善く通塞を知るなり、浄蔵浄眼の善く三十七品諸波羅蜜を修するは、即ち是れ両意なり。「増道損生して四方に遊ぶ」とは、即ち是れ次位を識るなり。「安住して動ぜざること須弥の頂の如し」と、「如来の衣を著す」とは、即ち安忍なり。「是の諸の声を聞くと雖も、之を聴きて著せず。其の意等の六根皆な清浄なること此の若しと言ふ」と、又た云はく、「真浄の大法」とは、即ち無法愛なり。是の十種の観は散じて経文にあり、而れども人知らず。今、十数を撮聚して有門に入れて、観と為す、乃至三門もまた小異大同なり。十観の実に入ること、亦復た是の如し。

 [27]復次に此の十観の意は但だ独り今の経に出づるのみに非ず、大小乗の経論に備さに其の意あり。摩黎山の純ぱら栴檀を出すが如し。固に外道の四韋陀典、及び此の間の荘老の載する所に非ざるなり。世人は咸く共に講読すれども、而も文に対して知らず。若し道を学ばんと欲するも全く方便無し、悲しいかな。夫れ徒らに毂捋を知りて鑽搖を解せず。若し十意を識らば、小乗の四門に於て倶に用ひて真に入り、大乗の四門に於て倶に用ひて実に入る。既に実に入り已れば、乳糜を食ひて更に所須無きが如し。半如意珠・全如意珠を一切に布施す。此の施ありと雖も、人の生を軽んじ道を重んじて、勤心に修習することあるを見ず。受にず用ひずんば、徒らに施して何の益かあらん。我れ則ち悔ゆ。益する所無しと雖も、毒鼓の因と作る。具さに之の如くならんと欲せば、委しくは止観の如し云云。

 [28]三に諸門の麁妙を明さば二と為す。一には能所に就て麁妙を判じ、二には諸門に約して麁妙を判ず。能所を四句と為す。門は能通を名く、理は是れ所通なり。自ら能通は麁にして所通も亦た麁なるあり、能通は妙にして所通は麁なるあり、能通は麁にして所通は妙なるあり、能通は妙にして所通も亦た妙なるあり。三蔵の四門は事に扶するに浅近なり、故に能通を麁と為す。但だ遍真を詮ずれば、所通も亦た麁なり。通教の四門は大乗の体法は如実の巧度なれば、能通を妙と為し、三乗遍く証すれば所通を麁と為す。別教の四門は、教道方便なれば能通を麁と為し、円真に詮入すれば所通を妙と為す。円教の四門は、証道実説なれば能通を妙と為し、事に即して而も円なれば所通も亦た妙なり。又自ら麁の能所を帯するあり、生蘇の教是れなり。麁の能所を帯せざるは乳教是れなり。自ら麁の所を帯して麁の能を帯せざるあり、熟蘇の教是れなり。自ら麁の能を帯して麁の所を帯せざるあり、円接通と接別は是れなり、涅槃の中の諸門も亦た是れなり。問ふ、経に云はく、「唯だ一門のみありて而も復た狭小なり」と。麁の故に一小と称すとせんや、妙の故に一小と称すとせんや。答ふ、此の義当に通用すべし、局つて一門に在る可からず。何となれば、三蔵の四門の如きは機に赴きて異説す、故に四と言ふ。同じく是れ仏教なり、故に一と言ふ。門門の方便異なり、故に四と言ふ。同じく涅槃に向ふ、故に一と言ふ。所通は能通に従ふ、故に四と言ふ。能通は所通に会す、放に一と言ふ。文字の中には菩提無し、是れ教に約して狭小を論ず。譬へば隘路の二人並び行くことを受けざるか如し、即ち行に約して狭小を論ず。教行の両門、真を取るに契ひ難し。即ち理に約して狭小を論ず云云。通教も亦是の如し。縁に逗じて別説す、故に四と為す。同じく是れ仏教なり、故に一と言ふ。観法同じからず、故に四あり。倶に無生に向ふ、故に一と為す。所は能に随ふ、故に四と為す。能は所に随ふ、故に一と為す。通教は事に即して而も真なれば、文字の中に菩提あり。善悪倶に観ずるに皆な不可得なるは、即ち是れ並び行ふ。此の義に約して狭小を論ぜず。但だ教観真理を取るに当り難し、故に理を名けて狭小を為す云云。別教の四門も亦是の如し。四機の為に説く、故に四あり。同じく是れ仏教なり、故に一を言ふ。入実の観異なり、故に四と言ふ。倶に一実に向ふ、故に一と言ふ。所は能に随ふ、故に四と言ふ。能は所に会す、故に一と言ふ。生死に即して是れ涅槃にあらざれば教は狭小なり、煩悩に即して是れ菩提にあらず、故に行も狭小なり。教行に理を取るに当り難きを理に狭小を論ずと名く。円教の四門も亦是の如し。四種の機に逗ず、故に四と言ふ。皆是れ仏説なり、故に一と言ふ。入実の観異なり、故に四と言ふ。四観は実に向ふ、故に一と言ふ。門を将つて理に名く。故に四と言ふ。理を以て門に応ず、故に一と言ふ。此の教は生死に即して是れ涅槃なれば教は狭小ならず。煩悩即ち菩提なれば行も狭小ならず。而して此の教観は理を取るに当り難ければ、理を名けて狭小と為す。若し経文の唯だ一門のみありて而も復た狭小といふに依らば、正しく教行の門、理を取るに当らざるを語ふ。故に狭小と言ふなり。今、一句を拓開するに処処不同なり、豈に定執して一文を守る可けん耶。若し此の意を得れば、麁妙自ら明かなり云云。

 [29]二に諸門に約して麁妙を判ぜば、先に三蔵の四門を明すに皆是れ能通なり。四門に執著すれば倶に皆な壅礙す。成壊麁妙更に優劣無し。此れ則ち偏えに判ず可からず。若し法に従つて語を為せば、有は則ち俗に附し、道に入ること即ち拙なり。空は則ち真に傍つて道に入れば、則ち巧なり。故に釈論に云はく、「鈍根の人の為に生空を説き、利根の為に法空を説く」とは、則ち其の義なり。亦有亦無門は前に望むれば巧と為すも、後に望むれば是れ拙なり。非有非無門は則ち是れ巧なり。大論に云はく、「半有半無の者は名けて鈍人と為す」と。此れ四門の法に約して麁妙を判ずるなり。今、根性の便宜に約せば、若し有門に宜しきは、有門成じて三門壊す。若し無門に宜しきは、無門成じて三門壊す。乃至第四の門も亦是の如し。若し一門に就て皆な四悉檀を得る者を皆な名けて成と為し、四悉檀を失ふ者を皆な名けて壊と為す。還つて一門に就かば欲に赴くを得と為し、情に乖くを失と為す。宜しきに当るを得と為し、宜しきに当らざるを失と為す。病を治するを得と為し、病を治せざるを失と為す。第一義を見るを得と為し、第一義を見ざるを失と為す。伝じて成壊あり。此に約して麁妙を論ずることを得るなり。又た十観に約して麁妙を判ぜば、因縁を観ずるに境正なるを得と為し、境邪僻なるを失と為す。真正の心を発するを得と為し、爾らざるを失と為す。安心所を得と為し。安心調はざるを失と為す。破法遍を得と為し、不遍を失と為す。通塞を知るを得と為し、通塞を知らざるを失と為す。乃至順道法愛の生ぜざるを得と為し、順道法愛の生ずるを失と為す。若し一門の十法成就すれば、則ち此の門を妙と為し、余門を麁と為す。若し余門の十法成就し、此の門成就せざれば、則ち此を麁と為し、余門を妙と為す云云。

 [30]通の四門の麁妙は、通の理は唯だ一にして、一は説く可からず。何の形比してか麁妙を論ず可きあらん。機に赴きて門を説くに就かば優劣無きに不ず。四門の深浅を判ずれば、三蔵の中に説くが如し。又た一一の門に約して、若し四悉檀の機に会することを説かば、之を名づけて妙と為す。若し四機に乖かば、之を名づけて麁と為す。若し一一の門、十観の修行に於いて、句句に所を得るを、之を名づけて妙と為す。句句に所を失ふを、之を名けて麁と為す。麁の故に四辺火に焼かれ、清涼池に入るこを得ず。此に異なる者は之を名けて妙と為す。

 [31]別の四門の麁妙とは、若し法相を論ぜば有門は事に附す、故に麁と為す。空門は理に傍ふ、故に妙と為す。空門は単理たるが故に麁と為し、亦空亦有門は両通す、故に妙と為す。亦空亦有は両つながら存する故に麁と為し、非空非有門は両つながら捨つる故に妙と為す。若し根縁に約せば、則ち是の如くならず有門は欲に称ふ故に妙と為し、三門は欲に称はざるが故に麁と為す。有門は是れ宜なるが故に妙と為し、三門は宜に非ざる故に麁と為す。有門は悪に対する故に妙と為し、三門は対に非ざる故に麁と為す。有門は第一義を見る故に妙と為し、三門は第一義を見ざる故に麁と為す。余の三門も亦是の如し。又た有門の真善妙色の境を識る者を鎮頭迦と名け、境を識らざる故に迦羅迦と名く。正しく心を発するが故に鎮頭迦と名け、正しく心を発せざるを迦羅迦と名く。心を定慧に安んずるを鎮頭迦と名け、二法に安んぜざるを迦羅迦と名く。諸法を破すること遍きを鎮頭迦と名け、破法遍からざるを迦羅迦と名く。善く通塞を識るを鎮頭迦と名け、通塞を識らざるを迦羅迦と名く。三十七品を修するを鎮頭迦と名け、道品を修せざるを迦羅迦と名く。善く対治を解するを鎮頭迦と名け、対治を善くせざるを迦羅迦と名く。善く次位を知るを鎮頭迦と名け次位を識らざるを迦羅迦と名く。安忍して動ぜざるを鎮頭迦と名け、安忍すること能はざるを迦羅迦と名く。順道の愛無きを鎮頭迦と名け、順道の愛起るを迦羅迦と名く。迦羅迦果は則ち九分あり、鎮頭迦果は纔に一分あり。若し十観成就すれば則ち十分の鎮頭あり、十観皆な妙なり、若し九分の迦羅は迦羅は則ち麁にして、一分の鎮頭は鎮頭即ち妙なり。畳華の千斤なるは真金の一両に如かず、故に此に約して麁妙を判ずるなり。有門既に爾り、余の三門も亦是の如し。

 [32]円教の四門とは則ち皆な妙にして麁無し。何となれば有門を法界と為せば一切の法を摂して思議すべからず、即ち是れ一切法なり。況んや復た三門をや。空門は即ち是れ法界なり、一切の法を摂す。況んや復た三門をや。余の二も亦是の如し、法相平等にして復た優劣無し。若し爾らば則ち四門の異なり無し。但だ根機に順じ、縁に赴きて四説するに因る。四指をもつて一月を指すに、月は一なれども指は四なるが如し。何となれば、此れ衆生世世に此の四門を習ふに因って以て性を成ず。昔し四門の中に理を推すに、無明を翻ぜんと欲して即ち慧の根性と成る。昔し四門の中に善を修して悪業を翻ぜんと欲して、即ち福徳の根性と成る。福慧の因縁は今、名色・触・受を感じ、各本習に於て而も愛・取を起す。是を十法に円性の衆生を成ずと為す。欲楽同じからざれば、宜治に異なりあり。仏智明かに鑑みて機を照すに差ふこと無し。世界悉檀を以て四性の欲に赴きて、此の四門を説く。為人悉檀を以て四善を生じ、対治悉檀を以て其の四執を治し、第一義悉檀を以て四人をして理を見せしむ。此の四縁無ければ、仏、説法したまはず。縁既に一ならざるも略して其の四を言ふ。皆是れ正直に方便を捨てて但だ無上道を説く門の相円融して四門皆な妙なり。此れ教門に就く、更に麁妙を判ぜん。何となれば、若し四悉檀の意を得ざれば、諸論諍競して誰か能く融通せん。地論の如き南北二道あり、加へて復た摂大乗興りて各自ら真と謂つて互に相ひ排斥して負処に堕せしむ。若し意を得ざれば四門倶に失す。但だ円門は融浄にして教尚ほ虚玄なり。経論を銷釈するに何の競か息まざらん。若し道に入らんと欲せば、何れの門か通ぜざらん。理を悟るの時、豈に応に四を存すべけん。修行の時、豈に応に塞あるべけんや。但だ四塞に軽重あり。別教は門隔てり、悟る者は乖くこと無けれども、未だ悟らざれば諍ひを成ず。其の執大いに重し。譬へば鈍馬の手を痛めて乃ち去るが如し。円門は虚玄なれば、未悟の時も其の執則ち軽し。譬へば快馬の鞭影を見て即ち去るが如し。此の如きの軽執は、若し未だ第一義の益を得ざれば、三悉檀の利を失はず。故に論に云はく、「是の四悉檀は皆な実にして虚ならず」と。何となれば、世界の故に実、乃至第一を見るが故に実なり。倶に是れ実なりと雖も、実に浅深あり。亦倶に是れ虚なり。何となれば、有門に世界悉檀を説くが如きは、楽欲に於ては是れ実なれども、余に於ては則ち虚なり。有門に生善を実と為すも、余に於ては則ち虚なり。有門に破悪を実と為すも、余に於ては則ち虚なり。有門に第一義を見るを実と為すも、余に於ては則ち虚なり。乃至三門も亦是の如し。有門の三悉檀は世界に於けるが故に実なるも、第一義に於ては則ち虚なり。一悉檀は第一義に於けるが故に実なるも、世界に於ては則ち虚なり。実の故に妙と為し、虚の故に麁と為す。広く作すこと云云。

 [33]若し此の麁妙を以て五味に約せば、乳教に八門あり、四は麁、四は妙なり。所通は倶に妙なり。酪教は四門を麁と為す、理も亦是れ麁なり。生蘇に則ち十六門ありて、十二門は是れ麁、四門は是れ妙なり。両の所通を麁と為し、両の所通を妙と為す。熟蘇に十二門あり。八門は是れ麁、四門は是れ妙なり。一理を麁と為し、一理を妙と為す。法華は四門を妙と為す、一理も亦た妙なり。諸の声聞の人は、前来は門理倶に麁なれども、此の法華に至つて門理融妙なり。菩薩は不定にして、或は方等般若に於ては門理融妙なり、極鈍の者は二乗に同じ。涅槃に十六門ありて、十二門は麁にして四門は妙と為す、所通は倶に妙なり。何となれば、前来の諸門は麁妙各通ずれども、猶ほ権理を存す。涅槃は爾らず、一切諸法の中に悉く安楽の性あり、是の諸の衆生に皆な仏性あり。復権理無くして但だ一の妙理なり。而も更に麁門を存して妙理の方便と為し、皆な実に入ることを明す。梵志問ひて云ふが如し、因無常なるが故に果云何んぞ常ならんと。仏、反質して答ふ云云。故に知んぬ、百川海に総ぶるが如く、諸門実に会す。実理は要急なり、是の故に須らく融ずべし。鈍根を接引して麁の方便を存す。法華は折伏して権門の理を破す。金沙大河の復た迴曲無きが如し。涅槃は摂受して更に権門を許す、各因縁の為に存廃異なりあり。然るに金沙百川の海に帰すること別ならず云云。

 [34]四に麁門を開して妙門を顕はさば、問ふ、中論は先に摩訶衍門を明し、後に二乗門を明す。今何の意ぞ先に小門を明し、後に大門を明すや、答う、中論は時人の見、病を成ずるが為に、先に大を以て蕩かし、後に入真の門を示す。今経は復た見の病無し、但だ草庵に住すれば須らく方便の門を開して円実の相を示すべし。故に先に小門を列ね、次に大門を明す。開破時に適ひて各其の美あり。若し法華の後の教は更に開することを俟たず。法華の前の教は、或は門理已に妙に入る者は、更に何の開する所ぞ。或は門理妙なりと雖も、而も人未だ妙ならず。門理妙なる者は亦た須らく開す可からず。若は門、若は理、若は人の未だ妙ならざる者は、今当に開すべし。謂はく、一切の愛見煩悩は即ち是れ菩提なりと開す、故に「一切法空如実相を観ず」と云ふ。一切の生死即ち是れ涅槃なりと開す、故に「世間相常住なり」と云ふ。一切の凡人は即ち是れ妙人なりと開す、故に「一切衆生は皆是れ吾が子なり」と云ふ。一切の愛見言教も、即ち是れ仏法なりと開す、故に「若し俗間の経書を説き、生を治め業を産るも皆な実相と相ひ違背せず」と云ふ。一切衆生即ち是れ妙理なりと開す、故に「衆生をして仏の知見を開かしめんが為に」と云ふ。示・悟・入等も亦復た是の如し。一切の小乗の法即ち是れ妙法なりと開す、故に「声聞法を決了するに是れ諸経の王なり」と云ふ、一切の声聞教を開す、故に「仏、昔し菩薩の前に於て声聞を毀訾す。然るに仏は実に大乗を以て教化せらる」と言ふ。一切の声聞の行は即ち是れ妙行なりと開す、故に「汝等の所行是れ菩薩の道なり」と云ふ。一切の声聞の理は即ち是れ妙理なりと開す、故に「方便の門を開して真実の相を示す」と云ふ。諸の菩薩の未だ妙を被らざる者を開して今皆な円を得せしむ、故に「菩薩は是の法を聞きて疑網悉く已に除く」と云ふ。別教に一種の菩薩あり、三蔵に亦た一種の菩薩あり、通教に一種の菩薩あり、未だ決了せざる者は今皆な開顕す。若は門、若は理、妙に入らざること無し。是を権を開して実を顕はし、麁を決して妙ならしむと名くるなり云云。

 [35]第五に実相を諸経の為に体と作すに、更に五と為す。一には今経の体の種種の異名、二には諸経の体の種種の異名、三には傍正の料簡、四には此彼の料簡、五には麁妙、麁を開して妙を顕はす。一に此の経の体の名前後同異なるは、序品に云はく、「今、仏、光明を放ちて実相の義を助発す」と。又云はく、「諸法実相の義、已に汝等が為に説く」と。方便品に広く説く中に云はく、諸仏は一大事因縁をもつて仏知見を開す」と。「無上道」と、「実相印」等と。譬喩の中には大車を以て一大乗を譬へ、信解の中には家業を付すと名け、薬草の中には一切智地・最実事と名け、化城の中には実所と名け、授記の中には繋珠と名け、法師の中には秘密蔵と名け、宝塔の中には平等大慧と名け、安楽行の中には実相と名け、寿量の中には非如非異と名け、神力品の中には秘要の蔵といひ、妙音の中には普現色身三昧と名け、観音の中に普門と名け、勧発の中には殖衆徳本と名く。是の如き等の異名同じからず、其の義も亦た異れり。理極は真実なり、実を以て相と為す、故に実相と名く。霊知寂照なるを仏知見と名け、三世の諸仏は唯此を用ひて自行化他す、故に大事因縁と言ふ。虚通を道と名け、諸法を正定するを実相印と名け、運載を乗と名け、仏事を成辨するを家業と名け、一切の所依の故に智地と名け、諸法の元なる故に宝所と名け、円妙にして難思なるが故に宝珠と言ひ、積聚する所無くして而も衆法を含ずれば秘蔵秘要と名け、通達無礎なるを平等大慧と名け、二辺を遮するを非如非異と名け、妙色自在なるが故に普現三昧と言ひ、入実の由なるが故に普門と名け、諸法由りて生ずるが故に徳本と言ふ。是の如きの名義差別すれども、体は即ち実相なり。已に上に説くが如し云云。

 [36]二に諸経の体の種種の異名とは、問ふ、釈論に云はく、「実相の印無きは是れ魔の所説なり」と、今、実相を談ず、用ひて体と為すべし。余経は爾らず、応に是れ魔説なるべしや。答ふ、然らざるなり。諸経の異名は、或は真善妙色、或は畢竟空、或は如来蔵、或は中道等、種種の異名ありて具さに載す可からず。皆是れ実相の別称にして、悉く是れ正印なり。各第一と称す、実印に由るが故なり。若し此の意を失はば則ち仏法に非ず、故に衆経の体同じと言ふなり。

 [37]三に傍正の料簡とは、衆経は半満小大の殊なりあつて、体に傍正あり。正は即ち実相、傍は即ち偏真なり。偏真も或時は実相を含じ、実相も或時は偏真を帯す。而も通じて実相と称す。故に中論に云はく、「実相は三人共に得」と。共に得とは、即ち偏真なり。大経に云はく、「声聞の人は但だ空を見る」と、空は即ち傍なり。「智者は空及与び不空を見る」と、不空は即ち正なり。此の経に云はく、「我等昔日同じく法性に入る」と、法性は即ち傍なり。「今日実智の中に安住す」と、実智の中とは即ち正なり。小乗の三法印は此れ傍なり、通教は傍を帯して正を明し、別円は但だ正を明して復た傍を論ぜず。若し五味に約せば、乳は唯だ正を論じ、酪は唯だ傍を論じ、生蘇と熟蘇は傍正相ひ兼帯し、醍醐は唯だ正なり。又た正の実相に諸の名字多く、名字に約する中に復た傍正を論ず。勝鬘には自性清浄を正と為し、余名を傍と為す。華厳には法身を以て正と為し、般若は一切種智を以て正と為す。涅槃は仏性を以て正と為し、此の経は実相一乗を以て正と為し、余名を傍と為す。此れ則ち傍に非ず正に非ずして傍正を論ず、傍正悉く是れ経の体なり云云。

 [38]四に彼此に就いて料簡せば、上は別円二法の異名に約して料簡し、今更に通じて小大の四句に就て料簡す。或は名・義・体此の経と同じく、或は名・義・体此の経と異なり、或は名・義は此の経と同じくして而も体異なり、或は名・義は此の経と異にして而も体同じ。三蔵の中に若し体を名けて実相と為すは、此の名義は此の経と同じくして而も体異なり。若し名けて実相と為さずんば、此れ名・義・体は此の経と異なり。唯だ両句を論じて両句あること無し。通教に実相を名けて体と為さば、此の名義同じけれども、而も体は異なり。若し此の名を作さずんば、則ち名・義・体倶に異なり。若し通門の遠く中道に通ずるものは則ち名・義・体同じく、名義異にして而も体同じ。別教を円教に望むれば四句あり、一法の異名の中に分別するが如し云云。五味に歴れば、乳教は両種の名義同じく、両種の名義異にして而も体同じ。酪教は前の如し云云。生蘇と熟蘇の中も前の如し云云。涅槃の中の四種は名義異に、名義同にして而も皆な体は同じ。一仏性なれば則ち差別無し云云。

 [39]五に麁妙とは、正実相の中の傍正の異名は、此れ乃ち異名異義なれども、其の体は本と同じければ此れ麁妙無し。但だ傍を麁と為し、傍に正を含じ、正に傍を帯するは一往亦た麁と為し、但だ正を妙と為すなり。蔵通は名同じく義同じけれども、而も体別なれば一向に是れ麁なり。別は名義或は同じく、或は異なり。教門の異なるを麁と為し、体同じきを妙と為す。名義同じく、名義異にして而も体同じきを妙と為す。五味に歴る中の麁妙は知る可し。麁を開するは即ち傍を開するなり。或は傍教を開すれば即ち正教なり。「仏、昔し菩薩の前に於て声聞を毀訾すれども、然も仏は実に大乗を以て教化せらる」と。或は傍行を開するに即ち正行なり、「汝等が所行は是れ菩薩の道なり」と。或は傍人を開するに即ち正人なり。客作の人の一日の価も即ち長者の子なりと。或は傍体を開すれば即ち正体なり。方便の門を開して真実の相を示すと。後に此の貧人を見て、示すに繋くる所の珠を以てすと。深く傍理を観ずるに即ち正理なり。一切皆な妙なれば麁の待すべき無きは即ち経の正意なり。

 [40]第六に諸行の体とは、此を四と為す。一には諸行の同異、二には経に依つて修行し、三には麁妙、四には開麁なり。行の同異とは、夫れ教を禀けて行を立つるは信法を出でず。鈍者は聞に因りて解を得。解に従つて行を立つ、故に信行と名く。利者は自ら推して解を得解に従つて行を立つ、故に法行と名く。二行は四教に通ず、三蔵の信法は傍の実相を以て体と為し、通教の信法は傍に正を含ずるを以て体と為す、別教の信法は正を以て体と為し、円の信法も亦た正を用つて体と為す。若し横に行を論ずれば、即ち是れ諸波羅密慈悲喜捨等なり、当教に体を論ず。若し横竪の諸行に体あれば、則ち本立して道生ず。若し体に行あれば、体は則の行に籍りて顕はるなり。重ねて円の竪の行を明さば、五品六根は相似の正を以て体と為し、初住より等覚に至つては皆な真正を用つて体と為す。横の行とは大品に云ふが如し、「一切の法皆是れ摩訶衍なり、不可得なるを以てなり」と。不可得の故に即ち正実相なり。此の文に云はく、「諸法の若は有、若は無を得ず。等しく諸子に各一大車を賜ふ」と、即ち其の義なり。「儒童の然灯仏を見て無生忍を得るは、行に真体あり」と、金剛般若に云はく、「往相無くして布施するは、人の目ありて種種の色を見るが如し」とは、即ち其の義なり。竪の行に体あれば其の車則ち高く、横の行に体あれば其の車即ち広し。高広にして大いに運ぶ、行歩平正にして其の疾きこと風の如し云云。

 [41]二に経に依つて修行すとは、前の信法の両行を意通じ時寛し。或は劫数を経ること、譬へば長く囲むが如し。若し諸経に依りて別して行法は明すは、日を剋し時を制す、喩へば苦に攻むるが如し。若し事行に随つて行ぜば、行は則ち体無し。若し理行に随つて行ぜば、此の空慧と行と相応せしむ。能く無量の障道の罪を破し、能く無生忍を得るは、此の行に体あればなり。諸経の別行は乃ち多けれども略して其の四を言はん。謂はく、常行行・常坐行・半行半坐行・非行非坐行なり。諸行に各事相の方法あつて勤身苦策して、悉く実相正観を用つて体と為す。念念無間に清浄なること空の如し。具さに観の意を論ずること、上観の中に説くが如し。然るに小乗の戒蔵には懴重を許さず、修多羅蔵には犯重の人をして仏身を念ぜしむ。仏身とは空を念ずるなり。亦た備さに常行等の方法あれども、而も偏空を以て体と為す。通教も亦た常行等の方法を明し、而も即空を用つて体と為す。別の行は歴別、円の行は虚融にして倶に正実相を用つて体と為す。此の四行を以て五昧に歴て方法の体を論ずること、義推して知んぬ可し。

 [42]三に麁妙とは、蔵通の信法は、真似の横竪の諸行は傍実相を以て体と為し、体行倶に麁なり。別なり利の信法の真似の横竪の諸行は、別門に依ると雖も正実相を用つて麁と為す。因は無常なれども果は是れ常なり、故に行は麁、体は妙なり。円の信法の真似の横竪は、円門の正麁に依れば体行倶に妙なり。五昧に歴て麁妙を明すこと知んぬ可し云云。諸経の方法に依れば、常行等の行は傍を以て体と為す、体行倶に麁なり。正を以て体とすれば、則ち行は麁にして体は妙なり。体行倶に妙なること前に例して知んぬ可し。五昧に歴ることも亦た解す可し云云。

 [43]四に麁を開すとは、三蔵の信法の爾行を開するに、亦是れ声聞の法を決了するに是れ諸経の王なり。聞き已つて諦かに思惟し、無上道に近づくことを得。聞は即ち信行、思惟は即ち法行なり。皆な無上道に近づくは、即ち大乗無相の行の真に近づくなり。横の行を開せば、低頭挙手歌詠散心皆な已に仏道を成す。三蔵の最浅なるも尚ほ開せらるれば即ち妙なり、況れや通別等をや。意を以て得べし。小乗に依る常行等の方法を開せば、小小の微善も一として成仏せざること無し。意を以て得べし云云。