[225]観心に釈せば、三智を観に名け、三諦を世に名ぐ、三観は是れ語の本なり、故に音と名く。

 [226]得大勢とは、思益に云く、我が足を投ずるの処は三千大千世界及び魔の宮殿を震動すと、故に大勢至と名く。悲花に云く、願はくは我が世界は観世音の如く等しくして異り有ること無けんと。宝蔵仏の言はく、汝は大千世界を取らんと願ずるに由るが故に、今当に汝を字けて大勢至と為すべしと。観心に釈せば三止を足と為し三謗の地に投じて十法界を動ず、一切の見愛所住の処は皆悉く傾動す云云。

 [227]不休息とは 思益に云く、恒河沙劫を一日夜と為し、是三十日を月と為し、十二月を歳と為す、百千万億劫を過ぎて一仏に値ひたてまつることを得、是の如く恒河沙の仏に値て諸の梵行を行じ功徳を修習す、然して後に記を受くるも心休息せずと、故に不休息と名く。観心とは、空を観じて空に住せず、仮に出でて仮に住せず、而して中に入りて中に住せず、二謗を双照するを不休息と名く。

 [228]宝掌とは、普超に云く、上徳の鎧を被て乃至仏も能く沮敗すること無し。大乗を釈せしむるに若し夢中に於ても二乗に志さず、常に実心と諸の通慧の心を以て、人の為めに講宜す、珍宝に於て心に貪惜する所無しと、故に宝掌と名く。観心とは不思議の三諦、之を名けて宝と為し、一心三観之を名けて掌と為す、此観掌を以て此諦宝を執り、自ら利し他を利す、故に宝掌と云ふ。

 [229]薬王とは、悲花に云く、願はくは賢劫の一千四仏、初めて道を成ずるに、我れ皆供養し、諸仏の入滅には我れ皆塔を起し、劫尽の苦悩には我れ皆救護せん、刀兵疾疫には大医王と作り、然して後に作仏せんと、宝蔵仏の言はく、今当に汝を字けて火浄薬王と為すべし、後に在て作仏せん、即ち楼至如来なりと。観心釈云云。此下七菩薩を釈するを欠く。

 [230]跋陀婆羅とは、此には善守と言ふ、亦賢守と云ふ。思益に云く、若し衆生の名を聞く者は畢定して三菩提を得んと、故に善守と名く。観解とは、中道の正観は諸善の中に於て最も上首と為す、故に善守と言ふ。

 [231]弥勒とは、此に慈氏と云ふ。思益に云く、若し衆生の見ん者は即ち慈心三昧を得んと、故に慈氏と名く。賢愚に云く、国王、象師の象を調するを見て即ち慈心生ず、是れより慈氏と名くるを得と。悲花に云く、刀火劫の中に於て衆生を擁護せんと発願すと、今観解とは、中道の正観は即ち是れ無縁の大慈あり、慈善根の力は諸の心数をして皆同体の大慈の法中に入れ、諸の不善を離れしむ、故に慈氏と称す。又云く、慈は乃ち姓なり、名は阿逸多、此には無勝と翻ず。下の文云云。此下に宝積を釈するを欠く。

 [232]導師とは、思益に云く。邪道に堕する衆生に於て大悲心を生じ正道に入らしめ恩報を求めずと、故に導師と名く。観解とは三観の妙智は一切の行を導き二辺に堕せず、皆正観に入る、故に導師と名く、未だ釈せざるものは後に追いて註するを俟て云云。

 [233]六に如是の下は是れ結句なり。

 [234]第三に雑衆を列すれば、旧に凡夫衆と云ふ、此中に聖有り。旧に俗衆と云ふ、此中に道有り。旧に天人衆と云ふ、此中に龍鬼有り。皆便ならず、今呼んで雑衆と為す、意は則ち兼ぬ、所謂五道二界八番なり、是故に雑と言ふ。方等経には亦地獄を列す、中陰経には亦無色を化す、此れ皆機に随て適現す、一例して並を作す可らず、復其次第を定む可らず。

 [235]旧云く、人は是れ土の主、諸客に譲て前に在り。無量義経は秖だ此経と席を同うして国王・国臣・国士・国女を明して賓主相譲ることを論ぜず、経家より出でて趣列して文に在り、或は別意有らん、未だ詳かにせずと。今此文を観ずるに八番有り、先に帝釈を標し、次に四王を列し、前に龍、後に鳥、鬼神重出す、此義の為めの故に呼んで雑衆と為す、其次第を言ふ可らす。又雑衆とは、此中に得道未得道の者有て雑り、果報と形服と雑る、故に雑と言ふ。其中に二乗道を得る者は無漏智と無明煩悩と雑る、故に雑と言ふ。其中に菩薩道を得る者は漚和と衆機と雑る、故に雑と言ふ。其中に仏道を得る者は一法に一切法を具す、故に雑と言ふ。雑の義是の如し、豈に凡夫の形俗を以て之を判ず可けんや、復五道人天等を以て之を判ず可らす、故に雑と言ふなり、此れは是れ約教釈なり云云。

 [236]釈提桓因因陀羅、或は旃提羅と云ふ、此には能作と翻す。忉利天の主と作る。忉利、此には三十三と翻ず、四面に各々八城あり、喜見城に就て合して三十三なり、共に須弥の頂に居す、須弥、此には安明と翻す。四宝の成ずる所にして、高広三百三十六万里なり、此れは是れ欲天の主なり、故に前に列す。雑阿含四十に云く、一比丘有り仏に問ひたてまつる、何が故ぞ釈提桓因と名くるや。答へたまはく、本と人為りし時頓施を行じ能く主と作るに堪ふ、故に釈提桓因と名く。何が故ぞ 富蘭陀羅と名く、人為りし時数数施を行ずるが故に。何が故ぞ 摩伽婆と名く、本と人為りし時の名なるが故に。何が故ぞ娑婆羅と名く、本と人為りし時此衣を布施するが故に、何が故ぞ憍尸迦と名く、本と人為りし時の姓なるが故に。何が故ぞ舎脂鉢低と名く、舎脂は是れ婦、鉢低は是れ夫なり。何か故ぞ千眼と名く、本と人為りし時聡明にして、一時の坐に於て千種の義を思ひ観察称量す、故に千眼と名く。何が故ぞ因提利と名く。三十二天の主と為ればなりと。瓔珞第三に云く、天帝を拘翼と名くと。

 [237]教門とは、阿含の中の帝釈は是れ阿那含なり。般若には十方に般若を難問する者を皆釈提桓因と名くと明す。別円の中には釈提桓因は首楞厳三昧を得と明す、内証同じからず、賢劫の二千二十四劫を過ぎて作仏し、無著世尊と号す云云。

 [238]本迹とは、十住行向は即ち三十、十地を一と為し、等覚を二と為し、妙覚を主と為す、同じく第一義天に棲み共に実相の甘露を服するは即ち本なり。須弥の頂に居するは迹なり。

 [239]観心の解とは、自ら十善を行じ、他を勧めて随喜す、此三十善は皆空皆仮皆中なり、即ち是れ三十三の観門なり。

 [240]名月等の三天子は是れ内臣、卿相の如し。或は云く、是れ三光天子のみと。名月は是れ宝吉祥にして月天子、大勢至の応作なり。普香は是れ明星天子にして虚空蔵の応作なり、宝光は是れ宝意にして日天子、観世音の応作なり、此れ即ち本迹の釈なり。観解とは三観は即ち二智、三智は即ち三光なり、三諦より三智を生ず。諦は即ち天、智は即ち子なり云云。

 [241]四大天王とは帝釈の外臣にして武将の如きなり、四の宝山に居す、高さは須弥に半ばす、広さ二十四万里なり。東は提頭頼吒、此には持国と云ひ、亦安民と言ふ、黄金山に居して、二鬼を領す、揵闥婆・富単那なり、南は毘留勒叉、此には増長と云ふ、亦は免離と云ふ、瑠璃山に居して二鬼を領す、薜茘多・鳩槃荼なり。西は毘留博叉、此には非好報と云ひ、亦悪眼と云ひ、亦雑語と云ふ、白銀山に居して二鬼を領す、毒龍・毘舎闍なり。北は毘沙門にして、此には種種聞と云ひ、亦は多聞と云ふ、水精山に居して二鬼を領す、羅刹、夜叉なり、各各二鬼を領し人を悩まさしめず、故に護世と称す。

 [242]本迹とは、本は常楽我浄の四王と為り仏法を護持す、外人をして其枝葉を取り斫截破壊せしめず、常王は東方の常無常の双樹を護り、楽王は南方の楽無楽の双樹を護り、我王は西方の我無我の双樹を護り、浄王は北方の浄不浄の双樹を護る、枝幹は常を喩へ、華は我を喩へ、果は楽を喩へ、茂葉は浄を喩ふ、此華果を護り常に能く一切衆生を利益す、故に迹に四王と為り世を護るなり。

 [243]観解とは、四諦を観ずる智は即ち是れ四王なり、一諦の下に愛見の二惑を除く。即ち是れ八愛見を護るなり。

 [244]次に忉利の上に焔摩有り、此には善時と翻ず、大論には妙善と云ふ、忉利を去ること三百三十六万里なり、善時の上に兜率陀有り、此には妙足と翻ず。焔摩を去ること地遠きが如し、而して列せざるは略するのみ。何となれば、下天は鈍、上天は楽に著す、尚ほ知て来集す、況んや不著不鈍にして而も来らざらんをや。

 [245]自在は即ち第五、大自在は即ち第六なり、自ら五欲を化し、他は五欲を化す云云。有人言く、是れ色界頂の大自在なりと、此れ応に超へて彼に至るべからざるなり。本迹とは、此両天は、本は自在自在王等の定に住し、迹に両天と為るのみ。観心とは入空は是れ自在の観、入中は是れ大自在の観なり云云。

 [246]次に色界の天を列す、娑婆、此には忍と翻ず。其土の衆生は十悪に安んじ出離を肯んぜず、人に従て土を名く、故に称して忍と為すに悲花経に云く、云何が娑婆と名く、是の諸の衆生は三毒及び諸の煩悩を忍受す、故に忍土と名くと。亦は雑と名く、九道を雑へて共居すればなり云云。梵とは此には離欲と翻ず。下地の繋を除て色界に上升す、故に離欲と名け亦高浄と称す。尸棄とは此には翻じて頂髻と為す、又外国に火を喚んで樹提尸棄と為す、此王は本と火光定を修して欲界の惑を破す、徳に従て名を立つ、然るに経に梵王と標して復尸棄を挙ぐるは、両人に似如たり。釈論に依るに正しく尸棄を以て王と為す、今経は位を挙げ名を顕はす、恐くは一人に目たるのみ。禅の中間に住し、内に覚観有り、外に言説有り、主領して王たることを得しむ、単に禅を修すれば梵民と為り、四無量心を加ふるれば王と為るなり。初禅に梵衆・梵輔・大梵有り、今王を挙げて諸を摂するなり。光明とは二禅なり、此には少光・無量光・光音有り。三禅に少浄・無量浄・遍浄有り。四禅に密身亦は無挂礙・無量密亦は受福・密果亦は広果・無想密亦は無想有り、又五那含有り、不煩・不熱・善見・善現・色究竟なり、亦は大自在は即ち摩醯首羅なり、経文は存略して具さに出さず、但等とは此諸天を等するなり。例するに教門本迹観心有り、自ら之を思ふべし云云。

 [247]次に八龍を列せば、難陀は歓喜と名け、跋は善と名け、兄弟常に摩竭提を護り、雨沢時を以てし国に飢年無し、瓶沙王年ごとに一会を為し、百姓聞て皆歓喜す、此れに従て名を得、即ち目連の降する所の者なり、海中に居す。本迹に解すれば、本は歓喜地に住し、迹に海間に居す。観に解すれば、三観は即ち中道にして法喜を生ずるなり。娑伽羅は海に居するに従て名を受く、華厳に称する所なり。旧云く、国に因て名を得と、本は智度の大海に住し、迹に滄溟に処す。和修吉、此には多頭と云ふ、亦宝称と云ふ、水中に居す、本は普現色身三昧に住し、迹に多頭を示すなり。観は入仮の観に無量の法門を分別するなり云云。徳叉迦、此には現毒と云ふ、亦多舌と云ひ或は両舌と云ふ。本は楽説無礙辯の法門に住し、迹に多舌を示す。阿那婆達多、池に従て名を得、此には無熱と云ふ、無熱池とは、長阿含十八に云く、雪山の頂に池有り、阿耨達池と名く、中に五柱の堂有り、池に従て名を為す。龍王常に其中に処す。閻浮提の諸龍は三患有り、一に熱風熱沙身に著きて皮肉及び骨髄を焼き、以て苦悩と為す。二には悪風暴かに起て其宮殿を吹き宝飾衣等を失し、龍身自ら現じ、以て苦悩と為す。三には諸龍娯楽する時、金翅鳥宮に入り、始生の龍子を搏撮して之を食ふ、怖懼熱悩す。此池には三患無し。若し鳥の心を起して往かんと欲せば即便ち命終る、故に無熱悩池と名くるなりと。本は清涼の常楽我常に住し、迹に涼池に処す。観は三観の妙慧、五住の煩唼を浄ふして二死の熱沙を免る云云。摩那斯、此には大身と云ふ、或は大意、大力等なり。修羅海を排して喜見城を淹す、此龍身を縈して以て海水を遏む。本は無辺身の法門に住して、迹に大体と為る。観は中道の正観は其性広博なり云云。漚鉢羅、此には黛色蓮華池と云ふ、龍依住す、池に従て名を得。本は法華三昧に住し、迹に此池に居す。観は三観は即ち是れ修因、因は即ち蓮華なり、正法念経に云く、龍は諸天の為めに境を保つ、修羅は兵を興して前んで龍と鬪ふと、故に知ぬ、天の為めに管せらるるなり。

[248]次に四緊那羅を列す、亦真陀羅と云ふ、此には疑神と云ふ、人に似て而も一角有り、故に人非人と号す、天帝の法楽の神なり。十宝山に居す、身に異相有り即ち上て楽を奏す、仏時に法を説きたまへば、諸天般遮于瑟を弦歌して而も法門を頌す。旧云く、法緊は四諦を奏し、妙緊は十二因縁を奏し、大緊は六度を奏し、持緊は総じて前三を奏すと。今言く、四教の法門を奏すなりと。本は不可思議に住し、滅定を起たすして安禅として合掌し、千万の偈を以て諸の法王を讃ず、迹に弦管に寄せて十力を歌詠す。観は音声即空即仮即中を観じ、三諦に随順するは即ち是れ仏を讃ずるなり。

 [249]四乾闥婆、此には嗅香と云ふ、香を以て食と為す、亦香陰と云ふ、其身より香を出す、此れは是れ天帝の俗楽の神なり。楽とは幢倒の伎なり、楽音とは弦管を鼓節ずるなり、美とは幢倒中の勝品なる者なり、美音とは弦管中の勝たる者なり。

 [250]阿修羅とは此に無酒と云ふ、四天下に花を採て大海に醞す、魚龍の業力にて其味変らず瞋妬して誓て断ず、故に無酒神と言ふ、亦不端と云ふ。弥天の安師は質諒と云ふ、質諒は、直信なり、此神は諂曲にして名と相称はず、二種有り、鬼道の摂なる者は大海の辺に居す、畜生道の摂なる者は大海の底に居す。婆稚とは此に被縛と云ふ、或は五処に縛せらると云ひ、或は五の悪物を頸に繋け脱することを得ずと云ふ、故に被縛と云ふ、亦有縛と云ふ。帝釈の為めに縛せられる。本は能く五繋をもて魔外道を繋し、迹に此像を為すのみ。正法華に最勝と云ふ。観は三観の智を以て五住の惑を縛し実際の中に入る。佉羅騫駄、此には広肩胛と云ひ、亦悪陰と云ふ、海水を涌す者なり、正本に宝錦と云ふ。本は権実二智に住し、慈もて衆生を荷ふ故に、迹に広肩胛と為る。観は三観は能く五住の生死の大海を鼓覆するなり。毘摩質多、此には浄心と云ひ、亦は種種疑と云ふ、海水を波だてて声を出せば毘摩質多と名く、即ち舎脂の父なり。観仏三昧に云く、光音天は此地に生ず、地にして欲有らしめば海に入て不浄を洗ひ、泥に堕して変じて卵と為る。八千歳にして一女を生ず、千頭に一を少く、二十四手あり、此女水に戯れ、水の精身に入て、八千歳にして一男を生ず、二十四頭なり、千手に一を少く。海水の波の音を名けて毘摩質多と為す、乾闥婆の女を索て舎脂を生ず、帝釈の業力は。其父をして七宝殿へ居らしめ納て妻と為す。後其父に讒して遂に兵を交へ、脚に海水を波うたせ手に喜見を攻む。帝釈は般若の呪力を以て害を為すこと能はずと。正本に燕居と云ふ。本は色心本浄なり、迹に此名を為す。観は正しく中道を観ず、即ち是れ浄心なり。羅睺羅、此には障持と云ふ、日月を障持する者なり、是れ畜生の種にして、身長八万四千由旬、口の広さ千由句なり、宝珠にて身を厳る、天女・天園林を観ずるに、若し四天下の人、父母に孝養し沙門に供養すれば、諸天に威力有て上空より刀を雨らす、若し爾らざれば、諸天は宮に入て出でず。又日は光を放て其眼を照すに見ることを得る能はず。手掌を挙げて日を障ふに、世人咸だ日蝕怪険なりと言て種種邪説す。月を掩ふも亦是の如し、或は大声を作すに、世人天獣吼へ険乱して王衰へんと言ふて種種邪説す。日月を怖る時倍して其身を大にし気もて日月を呵す、日月は光を失て来て仏に訴ふ。仏羅睺に告げたまはく、日月を呑むこと莫れと。羅睺の支節戦動して、身に白汗を流し即ち日月を放つ、日月の力・衆生の力・仏の力・衆の因縁の故に害を為すこと能はず。昔婆羅門有り、聡明にして広施す、四千の車に食を載せ、曠野に於て施す。一の仏塔有り、悪人に焼かる、即ち四千の車を以て水を載せ火を滅し塔を救ふ、歓喜し発願すらく、願はくは大身を得て欲界に第一とならんと、既に正信無くんば闘を好み戦を愛す、喜施の故に光明城に生じ羅睺羅と作る、修羅の主なり。正本に吸気と云ふ、本と観とは云云。

 [251]次に四の迦楼羅を列す、此には金翅と云ふ、翅翮金色なり、四天下の大樹の上に居す、両翅相去ること三百三十六万里なり。有人の言く、荘子に呼んで鵬と為す、鵬行くときは衆鳥之を翼く、亦称して鳳皇と為すと。私に謂く、鳳は生草を践ます、竹実を噉ひ乳桐に棲むと、金翅は龍を噉ふ、云何ぞ是の類ならん。大威徳とは威は群輩に勝る、又威は諸龍を 摂するなり、正本に具足と云ふ。大身とは群輩より大なり。大満とは龍恒に己が意に充満するなり。如意とは頸に此珠有るなり、正本に不可動と云ふ。迦楼鳥に神力有り、雄は化して天子と為り、雌は変じて天女と為る、己が住処を化して宝宮有り、亦百味有り、而も報として龍を食ふことを須ゆ。胎は能く胎を噉ひ、三を噉ふこと能はず、卵は能く二を噉ひ、湿は能く三を噉ひ、化は能く四を噉ふ、観仏三昧経に云く、正音は迦楼、一日は山の東に一の龍王と五百の小龍を噉ふ、三方亦爾り、周て而も復始む、寿八千年、終に臨んで勢を失す、龍子を噉はんと欲するに龍母之を●157嘇すれば食ふことを得ず、即ち瞋て金剛山より海を透して地輪を穿ち過ぐ。風輪を過ぐる能はず、風之を弾じて故の孔より湧て金剛山に到る、是の如く七返して山頂に還て命終す、肉裂け火起て将に宝山を焼かんとす、難陀雨を雨らして之を滅す、肉爛れ心の風輸を衝くこと亦七返、山上に堕して如意珠と成る、龍之を得れば即ち王と為る、人王も亦此珠を感ずる者なりと。

 [252]次に人を列せば、韋提希は母なり、思惟と翻ず。頻婆娑羅、此には模実と翻ず、父なり。阿闍世とは未生怨、或は呼んで婆留支と為ず、此には無指と云ふ、内人将護し呼んで善見と為す、善見の名は本なり、無指の称は迹を表す。大経に云く、阿闍は不生と名く、世とは怨と名く、仏性を生ぜざるを以ての故に、則ち煩悩の怨生ず、煩悩の怨生ずる故に仏性を見ず、煩悩を生ぜざれば即ち仏性を見る。又阿闍とは不生と名く、世は世法に名く、世の八法の汚さざる所なるを以ての故に、故に阿闍世と名くと。此れは是れ本の義なり。普超経に云く、阿闍世は文殊に従て懺悔し柔順忍を得、命終して賓吒羅地獄に入る、入るに即して即ち出でて上方の仏土に生じて無生忍を得たり。弥勒の出づる時、復此界に来て不動菩薩と名く、後に当に作仏して浄界如来と号すべしと。其迹既に爾り、本豈に量る可けんや。法華を説く時清浄衆に預り、涅槃の時に至て逆罪の者を引く、何ぞ迦葉の法華に於て記を受け、涅槃に於て付属に堪へざるに異らん。迹に迷て其本に惑ふ可らざるなり。観解は貪愛の母、無明の父、此れを害する故に逆と称す、逆は即ち順なり、非道を行じて仏道に通達す。

 [253]問ふ、仏、人中に在て法を説きたまふに、人衆を列ぬること何ぞ少き、答ふ、文略して載せず、人は実には少からず。文に「及諸小王転輪聖王等」と云ふ、無量義の中に四輪王・国王・国臣・国民・士女を列す、其衆則ち広し、問ふ、天人龍鬼皆仏を見たてまつりて聞法す、地獄の一道、無色の一界、何の意ぞ列せざる、答ふ、此義今当に辯ずべし、夫れ諸道の升沈は、戒に持毀有るに由り、見仏不見仏は乗に緩急有るに由る、然るに戒を持するに麁細有るが故に報に優劣有り、乗を持するに小大有れば見仏に権実有り、且らく略して戒乗を判ずるに各各三品と為す、涅槃の一句に依て開して四句と為して之を釈するに其義則ち顕はる。一に戒乗倶に急、二に戒緩乗急、三に戒急乗緩、四に戒乗倶に緩なり。若し通じて戒乗を論すれば、一切の善法、一切の観慧、皆戒と称することを得、亦皆是れ乗なり、人天五乗は即ち是れ其義なり、道共等の戒は、悉く是れ通の意なり。今別に就て判ずるに、三帰、五戒、十善、八斎、出家の律儀乃至定共は能く身口を防ぐ、悪道の果を遮へ人天の報を得る者、之を名けて戒と為す。若し経を聞き解を生じ、観智もて四諦十二縁・六度・生滅・無生滅等を推尋す、智能く煩悩を破し三界を運出する者、之を名けて乗と為す、故に大品に云く、有相の善は動ぜず出です、無相の善は、能く動じ能く出ずと。即ち此義なり。若し戒乗倶に急なれば、下品の戒を持して戒急なれば報は人中に在り。小乗を持して乗急なれば、人中の身を以て三蔵教の時に於て見仏聞法す。中乗を持して乗急なれば、人の報身を以て、通教の大乗、乃至帯方便の諸の大乗経の時に於て見仏聞法す。上乗を持して乗急なれば、人の報身を以て、華厳法華等の教及び諸教の中の円に於て

見仏聞法す、預め列して同聞衆と為る者是れなり。若し中品の戒を持すること急なれば、報は欲界の天に在り。小乗を持して乗急なれば、欲界の天の身を以て、三蔵の時に於て見仏聞法す。余は上に説くが如し。若し上品の戒を持すること急にして加へて禅定を修すれば、報は色無色天等に在り。小乗を持して乗急なれば、色無色天の身を以て、三蔵中に於て見仏聞法す。余は上に説くが如し。第一句を釈し竟る。若し戒緩乗急なれば、三品の戒は皆緩なれば報は三途に堕す。小乗を持して乗急なれば、三途の身を以て三蔵の中に於て見仏聞法す。余は上に説くが如し。第二句を釈し竟る。若し戒急乗緩なれば、三戒急なるが故に、欲界の人天及び色無色天の身を受く、三乗緩なるが故に、仏出世して三乗の法を説くと雖も楽報に愛著し五欲に耽荒して仏を見たてまつらず法を聞かず。舎衛の三億の家及び諸の見聞せざる者、三界楽著の諸天等是れなり。第三句を釈し竟る。若し戒乗倶に緩なれば、三途の報を受けて仏を見たてまつらず法を聞かざるなり、第四句を釈し竟る。此文に地獄を列せざるは、其戒緩にして苦重く報隔り、上乗も又緩にして法華に於て見仏聞法すること能はざるを以てなり。余経に列すること有るは余乗急なるのみ。又無色天を列せざるは、上戒急なるが故に、天身を受け定味に著す。上乗緩なるが故に、法華に於て見仏聞法すること能はず、余経に列すること有るは余乗急なること有るのみ。若し此意を得て一一に天龍八部を勘ふれば、皆本縁の緩急、来不来の義を識り悉く解す可し。広く釈すること浄名疏の如し。又権者の実を引くことを識らば本迹の義転た明かならん、此れを将て己が観行を勘ふれば三世の因果朗然として識る可し。各仏礼足とは総じて衆集を結するなり。

 [254]爾時世尊の下より品を訖るまでを別序と名く。文を五と為す、一に衆集、二に現瑞、三に疑念、四に発問、五に答問なり。

 [255]光宅は逆順に生起す、衆集に由るが故に瑞を現じ、乃至問に由るが故に答ふ、答は問に由る、乃至瑞は衆集に由る、此れ乃ち翻覆して縁起し鉤鎖相連る、正を序するの意、竟に自ら未だ顕はれず。直に是れ因縁の一釈にして尚ほ自ら明ならず、況んや二三四縁了かに趣向無し。

 [256]今明す五序は正中の四一を序す。集衆は人一を叙し、現瑞は理一を叙し、疑念は行一を叙し、問答は教一を叙す、此れ則ち因縁の釈なり。約教とは、此序は正を序す、三蔵に非ず、通に非ず、別に非ず、乃ち是れ円の正を序するのみ。本迹に約せば、若し序を以て寿量の中の本地の四一を序するは此義自ら知る可し、復記せず、観心は解す可し云云。

 [257]衆集に就て又二あり、初には衆集の威儀、次に衆集の供養なり。法華論に此れを目けて威儀如法住と為す。四衆とは 旧云く、出家在家各各二あり、合して四衆と為すと、此れ名局て意周からず、今一衆に約して更に開いて四と為す、謂く発起衆・当機衆・影響衆・結縁衆なり。発起とは権謀智鑑して、機を知り時を知り、撃揚発動し成辯利益す、大象の樹を躄して象子をして飽くことを得せしむるが如し、所謂発起して集めしめ。瑞相を発起し、乃至問答等を発起するなり、皆発起衆と名く。当機とは宿し徳本を植え、縁合し時熟し、癰の潰へんと欲するが如く、座を起たずして聞て即ち道を得、此れを当機衆と名く。影響とは、古往の諸仏、法身の菩薩は其円極を隠して法王を匡輔す、衆星の月を繞るが如し、為作無しと雖も而も巨益有り、此れを影響衆と名く。結縁とは、力は引導撃動の能無く、徳は伏物鎮厳の用に非ず、而して過去の根浅く、覆漏汚雑し、三慧生ぜず、現世に見仏聞法すと雖も四悉檀の益無し、但だ未来得度の因縁を作る、此れを結縁衆と名く。比丘衆既に爾り、余の三衆も亦然り、合して十六衆なり、類せば大通智勝仏の時の如し、王子の覆講は、即ち彼時の発起衆なり。法か聞き道を得るは即ち彼時の当機衆なり。 法を聞て未だ度せず、而して世世相値て今に声聞地に住する有るは即ち彼時の結縁衆なり。彼仏世の時に尚ほ四四十六衆有り、今仏の道も同じ、寧ろ無きことを得んや、此れは是れ円教の十六衆なり。三教に約するも亦例して知る可し。本迹は解す可し。観心は境を研き観を作し、名字、観行位の中に在るは即ち結縁衆と成る。相似位に入るは即ち当機衆と成る、分真位に入るは即ち発起・影響衆と成る云云。

 [258]囲遶とは、仏初めて出世し人未だ法を知らず、浄居天下つて化して人の像と為り、到り已て右に旋り、旋り已て敬礼す、礼し已て却て坐して法を聴く、天の敬に因て人以て楷と為す、此れ因縁の解なり。囲遶とは行旋の威儀なり、四門の機動じて倶に円理を見るを表はす、円を以て偏に対するに例して四義有り、即ち教門の解なり。又仏身を周匝して相好荘厳す、四旋瞻仰して念仏定を増すは即ち観心の解なり。若し仏の色身を観じて法身を見ることを得るは即ち本迹の解なり。

 [259]供養とは、通じては三業皆な是れ供養なり、別して論ずれば卑謹虔礼を恭敬と名け、至念専注するを尊重と名け、発言称美するを讃歎と名け、其依報を施すを供養と名く。此中の文は略にして、具さに辯ぜば応に無量義経に広く説くが如くなるべし。天厨天香天鉢器等は即ち是れ供養なり、大荘厳菩薩及び八万の大士合掌叉手するは即ち是れ恭敬なり、一心に瞻仰するは即ち是れ尊重なり、七言の偈を説くは即ち是れ讃歎なり、今衆集を論ずるに、彼文を指すことは、彼経の衆集説法竟て儼然として散ぜず、即ち彼座席にして仍ほ法華を説く、故に知ぬ、三業の供養は異り有ることを得ず、彼広を用ひて此略を釈す、義に於て咎無し。

 [260]為諸菩薩説大乗経より下、以仏舎利起七宝塔に訖るまで是れ現相序なり。瑤師は七瑞を明す、此土に六を開き他土は総じて一なり。光宅は此彼各各六瑞とす、此六は動は則ち法を説て人を度し、静は則ち定に入て理を観ず、動静を一双と為す、上天は四花を雨らし、下地は六種に動ず、上下を一双と為す。大衆は内に歓喜を懐き、如来は外に光明を放つ、内外を一双と為す。今謂く、文の起尽を尋るに光宅の如し、若し名義の便易を取るに表報の意並に自ら未だ彰かならず。今明さく智定と因果と感応を三双と為す、智は則ち一を指して多くを説く、定は則ち諦に義処を縁ず、因は則ち四位の天花、果は則ち六処の地動ず、感は則ち大乗の機発し、応は則ち円毫之を照す。此六を皆瑞相と称するは、文に云く、今の相は本瑞の如しと。瑞は秖だ是れ相のみ、人情に分別して密報を以て瑞と為し、奇異を相と為す。相は何の報ずる所ぞ、妙理玄賾にして、之を説くこと至て難し、人情は悠悠として尊重すること能はず、先に異相を以て常情を駭変し、常情既に変じて而して欽渇を生ず、故に異を以て相を釈し、報を以て瑞を釈す。略して六瑞の十妙を表報することを明さば、感応妙の中に已に説く、今更に道はん、説法瑞は説法妙智妙を表報し、入定瑞は行妙を表報し、雨花瑞は位妙を表報し、地動瑞は境妙乗妙を表報し、衆喜瑞は眷属妙利益妙を表報し、放光瑞は感応妙神通妙を表報す、是故に六種倶に現相序と名く。

 [261]説大乗教とは、善戒経に七大有り、一に法大、十二部の毘仏略を謂ふなり。二に心大、菩提を求むるを謂ふなり。三に解大、菩薩蔵を解するを謂ふなり。四に浄大、見道の浄心を謂ふ云云。五に荘厳大、福徳智慧を謂ふなり。六に時大、三僧祇行の行を謂ふなり。七に具足大、相好を以て自ら厳て菩提を得るを謂ふなり。六は是れ因大、七は是れ果大なり、大因大果合して大乗経と為すなり。今十妙の義を将て経を捒ぬること応に解す可し。

 [262]生師の云く、無相の空理は大乗の本なり、三を封じてより来た久し、頓に無三を説かば信を取ること能はず、故に無相を説て法華の序と為すと。観師の意も同じ。若し爾らば般若、浄名は皆応に是れ序なるべし、何ぞ独り無量義のみならんや、彼れ釈して云く、此の如く五時に由るが故に、後の教起ることを得と。更に問ふ、若し爾らば無量義と諸経と皆通途に相生じ、別序に関するに非ず。

 [263]基師の云く、空理は形無し、故に無量と云ふと。序の意は前に同じ、難亦是の如し。

 [264]印師の云く、無相の善に成仏の義有り、故に無量と云ふ。又云く、彼経は有三無三異り有ることを説かず、大品は法華の指す所に非ず、指せるもの秦地に来らずと、今謂く、此経は是れ宋元嘉三年、慧表比丘、南海郡の朝廷寺に於て、曇摩耶舎に遇て此本を受く、武当山に還り、永明三年始めて世に伝ふるなり。経既に已に来る、豈に送て天竺に還す可んや。光宅の云く、無量義は万善同帰。能く仏道を成ずるを以てす。法華は正しく無二無三破三与一を明すを異とす、故に即ち序と為すと。若し万善同帰すと言はば二三何ぞ同じく帰せざらん、二三若し帰せば序正異ならず、若し二を破し三を破すと言はば何ぞ万を破せざらん、二を破し三を破さば則ち二無く三無し、既に其れ万を破す、是れ則ち序無し、経に互に挙ぐる意を取て異と為さば異を成せざるなり。異の意顕はれざれば、序の義も亦成ぜざるなり。

 [265]劉虬の注に云く、無相を本と為す、無相の一法は義を含むこと貲られずと。若し義を含むこと貲られざれば、即ち是れ有相なり。何ぞ無相と謂はん。

 [266]諸師を尋ぬるに各偏へに一種なり。若し有相の善に成仏の義有りと言はば此れ三蔵の意ならんのみ。若し無相の善に成仏の義有りと言はば此れ通教の意なるのみ。若し法を含むこと貲られずと言はば此れ別教の意なるのみ。並に他経に明す所は皆法華を序するの意に非るのみ。

 [267]法華論に十七種を列する若きは皆法華の異名なり。無量義とは即ち法華の一名なり、今論の意を申るに、仏は直に此名を説きて、此定に入りたまふ、故に序と為ることを得、大品・金光明・涅槃は皆先に名を唱ふ。序に於て妨げ無し、今の経は文殊、古仏を引きて、亦無量義と名く。又云く、当に大乗経の妙法蓮華と名くるを説くべしと、此れ亦序の中に名を唱ふ、論の意と同じなり。今彼経釈を按ずるに、無量義とは一法より生ず、其一法とは所謂る無相なり、無相不相を名けて実相と為す、此実相より無量の法を生ず、所謂二法・三道・四果なりと。 今此文を釈せば、無相とは生死の相無きなり、不相とは涅槃の相ならざるなり、涅槃も亦無し、故に不相無相と言ふ。中道を指して実相と為すなり。二法とは即ち頓漸なり、頓は謂く華厳の頓の中の一切法なり、漸は謂く三蔵、方等、般若の一切法なり、三道とは即ち三乗なり、四果とは即ち羅漢・支仏・菩薩・仏なり。此等の諸法を名けて無量と為す。実相を義処と為す、一の義処より無量の法を出す、無量の法の一の義処に入るが為めに序と作すことを得。譬へば算師、一算より諸算を下し、諸算を除つて一算に帰す、下すに由るが故に除く。下すは除の序と為るが如し。一より諸を派ち、諸を収めて一に帰す、開くを合の序と為すも亦復是の如し。此の如きの消釈、彼経論に違せず、亦此経と合す云云。復次に無量義の讃偈に、法身は百非洞らかに遣り、応じて丈六紫金輝と為ることを明す。普賢観に常楽我浄の四波羅蜜の住処を明す、前後の両文は皆常を明す、豈に中間の寿量而も是れ無常なること有らんや。他難じて云く、序に已に常を説かば、正は何の道ふ所ぞと、今反て之を難ず、涅槃は、純陀は是れ序なるを以て、已に常宗を開す、正は何の道ふ所ぞ。他又浄名の序の金剛無為無数にして而も正説に常を明さざるに例して法華も亦応に爾るべしと、今還反て之を難ず、純陀の序は常なり涅槃の正は応に無常なるべし、今序の常を論ず、正の常何ぞ疑はん。

 [268]教菩薩法とは、無量義処を用ひて菩薩を教ふるなり、義処は即ち諦理なり、下の文に普ねく一切衆をして亦同じく此道を得せしむと。又云く、若し我れ衆生に遇て尽く教ふるに仏道を以てすとは即ち此意なり。

 [269]仏所護念とは、無量義処は是れ仏自ら証得したまひし所、是故に如来の護念する所なり、下の文に云く、仏は自ら大乗に在るなりと、開示せんと欲すと雖も、衆生の根鈍なれば、久しく斯の要を黙して務ぎて速に説かずと、故に護念と言ふ。

 [270]仏説経已入無量義処三昧とは慧定相成ず。禅に非ずば智ならず。須らく先に定に入るべし、智に非れば禅ならず、故に先に法を説きたまふ。智に即して而して定、定に即して而して智、先後の入出に隔礙有ること無し。疑ふ者の云く、若し未だ無量義を説かずんば斯の定に入る可し、此経を説き已て何が故ぞ定に入ると。釈して言く、先に此定に入り、後に此経を説く、解す可し。此経を説き竟て而して更に入るとは、是れ法華の為めに序と作るのみ。何となれば、若し先に開せずんば則ち後に合する所無し、先に開定に入るは合定の為めに序と作る、称して瑞相と為すは即ち此義なり。若し次第を作さば、先に無量義三昧に入り已て応に法華三昧に入るべし。若し明文彰顕ならば時衆則ち知らん、何ぞ弥勒の殷勤、文殊の靳固を俟たん、故に知ぬ、序と作ること其義転明らかなることを。

 [271]身心不動とは、所縁の処と相応すればなり。身の本源は湛たること虚空の若し、心の理性は畢竟常寂なり、大通智勝は、身体及び手足、寂然として安じて動ぜず、其心は常に憺怕にして、未だ曾て散乱有らず、身は金剛の若く動転す可らず。心は虚空の若く分別有ること無し。無量義処三昧の法は、身心を持つが故に動ぜざるなり。称して無量と為すは、此定は寂にして而も常に照して能く世間を知る、此一法より無量の法を出すなり。若し序の義を作さば、身の法体は動運す、今は動運せざらしむ、心の法体は分別す、今は分別せざらしむ、序の義明けし。問ふ、瑞相は本と奇異を論ず、説法入定は仏の恒の儀なり、何ぞ瑞と為すことを得ん。答ふ、説法は竟ると雖も時衆は散ぜず、肅として待つ所有り、故に知ぬ、前の説法に衆を挙げて来集し後聞を待つ、此事奇特にして常の説と異る、何の意ぞ瑞に非らん、開定に入ると雖も意は合定に在り、常の入定と異り有り、何の意ぞ瑞相に非らんや、又文殊古仏の六瑞を引くに皆此事有り。若し昔瑞相に非ずば何を以てか今を証せん、今古同じく然り、豈に凡情を以て而も之を非す可んや。

 [272]天四花を雨らすとは、旧は小大白小大赤と云ふ、正法華には意花・大意花・浦嚮花・大浦嚮花と云ふ、釈論九十九には天花の妙なる者を曼陀羅と名くと云ひ、又七十九には八百の比丘の成仏の国土は、常に五色の曼陀羅花を雨らすと云ふ。旧は小大白を雨らすとは在家の二衆を表はし、小大赤は出家の二衆を表はすといふ、其昔より来た、因にして而も未だ果ならざるを表はす、今謂く、此解は狹にして当らず、直に四衆を論ぜば、三蔵の中の十六衆を収むること尚尽さず、況んや復四十八衆をや、是故に狹と為す。夫れ花の相は密に其因を報ず、四衆は昔より来た已に是れ因なり、何ぞ花の報ずるを俟たん。若し其果を報ぜば、天応に実を雨らすべし、何が故ぞ花を雨らさん、故に当らずと云ふ。今言く、雨花は其昔因の仏因に非ることを明す、三蔵の中の因は是れ二乗の因なり、通の中の因は是れ共の因、別の中は是れ菩薩の因なり、皆仏因に非ず、今天より花を雨らすは、其当に仏因を獲べきことを報ず。仏因とは即ち四輪の因なり、小白は銅輪・習種性・開仏知見を表はすなり。大白は銀輪・性種性・十行の示仏知見を表はすなり。小赤は金輪・道種性・十廻向の悟仏知見を表はすなり。大赤は琉璃輪・聖種性・十地の入仏知見を表はすなり。四輪皆同じく是れ因、是因は中に由て而も生ず。故に天より雨らす、是れ因位なるに由ての故に花を以て之を表はす。但だ因は果に趣くの義有り、故に「而散仏上」といふ、此の如きの因果は誰が当に感剋すべき、秖だ是れ此会の時衆なり、故に「及諸大衆」と言ふなり。下の文殊の疑を釈する、吹大法蠡等の四句、又正説の中の開示悟入、又大車を与ふる中の遊於四方節節相承は、皆是れ位の義なり、故に知ぬ、花は因位を表はすなり。問ふ、四輪は是れ別位の義なり、那ぞ円位を釈するを得んや、答ふ、名通義円なること尚ほ失する所無し、況んや名別義円なること。而も用ふることを得ざらんや。問ふ、別の義の賢聖は円にも亦有りや。答ふ、已に玄義の如し。若し四花倶に天より雨らすは四衆の当に同じく一因を成ずべきを表はすと言はば、此の如きの釈は三蔵の義を出ずるも、未だ通の義を出でず。若し四衆同じく是れ菩薩の因と言はば、此釈は通の義を出ずるも、未だ別の義を出でず。並に仏因に非ず、皆法華の意に非ざるなり、法華の意は前に説くが如し。

 [273]普仏世界地六種動とは、旧云く、三乗の人の因果決定の六執を動ずとは、此れ三蔵家の三乗の六執を破して未だ通教の三乗の六執を破せず。通教は法に約すれば三人の因果同じ。若し人に約すれば三人の因果異なり。此の同異倶に破せらる、而して旧家の破の意は此れを破せざるなり。別教に三乗の名無ければ則ち六執無し、旧の破せざる所なり。今明さく、別家は因の時も三法縦横、果の時の三法も亦縦横なり、此れ則ち須らく破すべし。

 [274]今釈す地六種に動ずるは、円家の六番に無明を破すことを表はす、無明磐礴として未だ曾て侵毀せず、方に将に破壊せんとす、故に地を動じて以て之を表はす。無明若し転ずれば即ち変じて明と為る、故に普仏世界六種に震動するなり。六種は住行向地等妙の六番を表はすなり。

 [275]優婆塞清浄行経に云く、菩薩生る時地を動ずるとは、此生に已に尽して復煩悩無く、一切衆生の応に道を得べき者、煩悩の将に滅せんとすることを示すが故に動ずとは、即ち此義なり。

 [276]本迹の解は、文殊の疑を釈するに古仏を引て答を為すが如き、密に此意を得れば即ち是れ本を識らん、他仏のみ昔し斯の瑞を現ずと謂ふに非ず、而して我が世尊本と亦斯の瑞あり、今一反するに非るなり云云。

 [277]観行は六根を動ずるなり、地の相堅固なること、六根氷執して未だ曾て大乗の道に入らざるが如し、動じ難きの地を動じて、未だ浄めざるの根を浄むることを表はす。東涌西没とは、東方は青にして、肝を主り、肝は眼を主る。西方は白にして肺を主り、肺は鼻を主る、此れ眼根の功徳生じて鼻根の煩悩互に滅し、鼻根の功徳生じて眼中の煩悩互に滅することを表はす。余方の涌没は余根の生滅を表はすこと、亦復是の如し。六動とは、動と起と涌と震と吼と覚となり、一一の中に又三有り、謂く動・遍動・等遍動なり、直に動ずるを動と為し、四天下の動ずるを遍動と為し、大千動ずるを等遍動と為す、余の五も亦是の如し、合して十八種の動なり、此れ即ち十八界を浄むるを表はすなり云云。

 [278]次に大衆の心の喜瑞を明さば、衆は雨花地動を見て甘露将に降らんとするを知り、欣躍内に充つ、大機当に発して勝応を感ずべきことを表はす。問ふ、喜怒は人の常の情なり、何ぞ瑞と為すことを得ん、答ふ、天花は眼を悅ばしめ、地動は心を震ふ、大経に云く、動ずる時能く衆生の心をして動ぜしむと、花地は是れ外瑞、心喜は是れ内瑞なり、非常の喜なり、昔曾て有りと雖も、而も喜の為めに動ぜられず、而して能く一心に仏を観たてまつる、何ぞ瑞に非ることや得ん。若し歓喜して陰心を動ずと言はば人天の義なり、若し喜の真諦無漏の心を動ずるは蔵通の義なり。若し喜の即仮の心を動ずるは別の義なり。喜の実相の心を動ずるは円の義なり。

 [279]次に仏の放光の瑞を明す、即ち機に応じて教を設け、惑を破して疑を除くことを表はす。白毫に種種の功徳を具す。観仏海三昧経に云く、仏初生の時は毫長さ五尺、苦行の時は長さ一丈四尺、仏を得るの時は長さ一丈五尺なり、其毫の中表倶に空、白琉璃の筒の如くにして内外清浄なり。初発心より中間の行行、種種の相貌、乃至入涅槃、一切の功徳皆毫中に現ず。毫は二眉の間に在り、即ち中道を表はす、常なり、其相の柔軟なるは楽を表はす、巻舒自在なるは我を表はす、白は即ち浄を表はす、光を放ち闇を破するは中道の智慧を生ずることを表はず、光り此土他土を照すは自覚覚他を表はす。

 [280]復次に二乗は二謗に達すと雖も、中道を知らざること二眉有て而も白毫無きが如し。別教は三諦を知ると雖も、毫中に一切法を具すること能はず、当に知るべし、初めより後に至る、法界の中の事、悉く毫内に現ずとは即ち円教の意を表はすなり。

 [281]復次に衆経に放光を明すこと同じからず。大品には足下の千輻輪相より乃至頂髻まで、一一に各各六万億の光明を放つ、彼に広く説くが如し。大経に面門より光を放つといひ、此経は白毫より光を放つといふ、縁宜同じからざるのみ。

 [282]又光を収むることも同じからず、育王経に云く、収むるに背より入るは過去の事を記さんと欲し、収むるに前より入るは未来の事を記さんと欲すと、而して現在の事を記するを見ず。私に謂く、脇より入るは応に現在の事を記すべきなり、足より入るは地獄を記し、踝より入るは畜生を記し、脚指より入るは鬼を記し、膝より入るは人を記し、左掌より入るは鉄輪王を記し、右掌より入るは金輪王を記し及び諸天を記し、臍より入るは声聞を記し、口より入るは縁覚を記し、白毫より入るは菩薩を記し、肉髻より入るは仏を記す。而して今経に白毫の光を放て而も未だ光を収むるの文を見ざるは略するのみ。

 [283]又解して云く、光を放つは現在の事を照す、光を収むるは将来の事を明す、此経は正しく此土他土の諸仏道同じきを論ず、故に正しく放光を論ず、若し諸仏道同じきを解せば即ち開示悟入して任運に記を獲ん、則ち放光を正と為し、収光は是れ傍なり、故に略して説かざるのみ。

 [284]若し丈六の仏の光を放つとは三蔵の義なり、若し尊特の仏と丈六の仏と共に光を放つとは通の義なり、若し尊特の仏の独り光を放つとは別の義なり。若し丈六の仏即ち毘盧遮那法身にして光を放つとは円の義なり。旧に云く、此土の六瑞訖り、膩吒天に至ると、今文を尋ぬるに照東方万八千土より下は即ち是れ他土六瑞の文なり。蓋し斟酌は人に由るのみ。旧云く、実には十方を照す、東方を照すとは一乗の因果は是れ諸の因果の上なることを表はす、万は是れ数の円なり、果位の満を表はす、八千は数缺く、因果の未だ足らざるを表はすと、若し東方を照すに義已に足らん、更に九方を照すは、復何の表する所ぞ。今明さく、東は是れ方の始め、十住は是れ位の始めなり、迹門の説法に、生身の菩薩、朗然として理を見、十住に入り、仏の知見を開くを表はす。初めを挙ぐれば即ち中後を知る、故に「周遍せざること靡し」と云ふ者、当に知るべし、諸方も亦然なり、諸位も亦然なることを。

 [285]若し本門の説法に就かば四方の仏の集るは即ち本門の説法に法身の菩薩の増道捐生の四位増長するを表はすなり。

 [286]観もて解さば、万八千とは、十八界に約して百法界千の性相を論すれば、即ち一万八千有り、此等の境界は仏慧未だ開かず、今応に当に開くべし、故に数を以て之を表するのみ。文に云く、阿鼻獄より上は有頂に至るとは即ち六法界なり。又諸仏菩薩比丘等を見るとは十界具足なり、故に文に「周遍せざること靡し」と云ふ、即ち此意なり。若し文を分たば此土の第六相に属す。若し他土に属せば即ち是れ総相に他土を照す文なり。

 [287]次に光り他土を照す六瑞を明さば、一に六趣を見、二に諸仏を見たてまつる、即ち是れ上聖と下凡を一双と為す。三に仏の説法を聞く、四に四衆の得道を見る、即ち是れ人法の一双なり。五に菩薩の行行を見、六に仏の涅槃したまふを見る。即ち是れ始終の一双なり。

 [288]既に化す可き衆生有れば即ち能化の仏有り、仏有れば即ち説法有り、説法すれば即ち弟子有り、弟子は即ち是れ行の始め、行の始めは必らず終を致すなり。

 [289]若し此土の六瑞は総じて衆生の当に自覚を獲べきを報じ、彼土の六瑞は総じて衆生の当に覚他を獲べきことを報ず。又此彼の六瑞は此彼の諸仏道同じきことを表はす。尽見彼土六趣衆生より下、行菩薩道に至るまでは是れ彼土の已に此と同じきことを現はす。復見諸仏より下、七宝塔に至るまでは是れ此土の当に彼と同じかるべきことを現ず、略して説き竟る。

 [290]更に広説せば、又見六趣衆生よりは是れ彼仏の五濁の為めの故に世に出現す、此仏も亦然り、二土の出世の意同じきことを現はすなり。及聞諸仏所説経とは、是れ彼の仏の初め無相の一法より頓に非ずして而も頓、此土に初め華厳を説くと意同じきことを現はすなり。并見諸比丘より下は、是れ彼仏の漸に非ずして而も漸、此土の仏の次に三蔵を説くと意同じきことを現はすなり。復見諸菩薩より下は、是れ彼仏の三蔵の後、方等般若の衆経を説くは、此土の仏の三蔵の後と意同じなり。復見諸仏より下、起七宝塔に至るまでは、是れ彼仏の般若の後、開権顕実し、無量の法を収めて還て一法に入れ入涅槃を唱へて化を息めて塔を起すことを現はす。光彼土を照して始終究竟して炳然として目に在り。当に知るべし、此土の一より無量を出し、頓に非ずして而も頓、漸に非ずして而も漸なり、其事已に竟る、必らず当に無量の法を収めて還て一法に入れ開権顕実し、化を息めて真に帰し、彼土と同じかるべきなり。復次に種種因縁とは、昔の善を因と為し今の教を縁と為す。又別して説かば、正しく是れ三蔵の後、共不共の般若を明すを因と為し、助道の戒定慧等を縁と為す。三人に約すれば即ち種種の因縁有り。又共不共の人に就けば、種種の因縁あり、種種の相貌は共不共各各四門あり、一一の門に復無量の相貌有り。五百の比丘の各各身因を説くは即ち其義なり。不共の四門も亦是の如し、故に知ぬ、因縁・相貌は種別無量にして、皆是れ彼れと此れと同じ、彼れに此相を明すに因縁・相貌還て一因一縁一相一貌に入る、当に知るべし、此土も亦彼と同じ。

[291]爾時弥勒作是念より今当問誰に訖るまでは是れ疑念序なり、文両と為す、一に弥勒の疑念、二に大衆の疑念なり。弥勒に三念有り、一に正しく六瑞を念ず、二に誰にか問はんことを念ず、三に文殊を念ず。文殊の念起れば第二の念除こる。唯初念在て但だ一疑を成ずなり。

[292]神変とは神は内なり、変は外なり。神は天心に名く、即ち是れ天然の内慧なり。変は変動に名く、即ち是れ六瑞の外に彰るなり。首楞厳に云く、仏不二の法に住して能く神通を作したまふと。法王の法力は超へて一切に蓋ふ。弥勒、外変を測らず、亦内慧を知らず、故に念ぞ興すこと此に至る。若し夫れ庸人は術者を知らず、散人は定者を知らず、凡人は聖者を知らず、小聖は身子を知らず、身子は菩薩を知らず、菩薩は補処を知らず、補処は尊極を知らず、此れは極処に就て亦知らざるなり。又弥勒は仏に値ひ善を植ること既に多し、何ぞ髣髴に知らざるべけん。応に須らく明を隠し闇を示し権に知らずと言ふべきなり。

[293]大衆に両念有り、一に正しく六瑞を念じ、二に誰にか問はんことを念ず。若し下の偈を将て此に望むるに亦三念有るを得。偈に云く、四衆欣仰して仁及び我を瞻ると、第三の念無んば何事ぞ仁を瞻ん。而して此中に無くば、補処を推って先に居らんと欲するなり。旧解に先に三意有り、一に是れ補処、二に三念有り、三に能く問を発す、此義の為めの故に大衆に一念を闕くなり。 [294]問ふ、文殊弥勒の徳位相亜ぐ、何が故ぞ一は問ひ一は答ふる。答ふ、夫れ機に在無有り、位は斉等なりと雖も賓主宜しきを異にす、聖人は機を承く、問に非ずば答ふること能はざればなり。又法門に権実有り、権の補処は須らく問ふべく、実者は須らく答ふべし。又迹に久近有り、近は問ひ久は答ふ。又名に便易有り、弥勒を慈と名く、慈は衆生の為めに応に須らく問ふべし。文殊は妙徳と名く、徳は応に須らく答ふべし、此れ即ち四種に文の意を消するなり。