[1]最実位を明すとは、即ち円教の位なり。此を十意と為す。一には名義を簡び、二には位数を明し、三には断伏を明し、四には功用を明し、五には麁妙を明し、六には位興を明し、七には位廃を明し、八には麁を開して妙を顕はし、九には経を引き、十には妙位の始終なり。
[2]一に名義を簡ぶとは、若し円と別との不同に自ら十意あり。下の辨体の中に説かん。今、通・別・円に約して三句をもつて料簡す、一には名通義円、二には名別義円、三には名義倶円なり。名通義円とは、下の文に云はく、「我等、今日真の阿羅漢なり、普く其の中に於て応に供養を受くべし」と。又た云はく、「我等、今日真に是れ声聞なり、仏道の声を以て一切をして聞かしむ」と。此の名、通・蔵と同じけれども、而も義は異なり。何となれば、彼は但だ四住の賊を殺して無明尚ほ在り、此れ不生は義偏なり。故に天女の曰はく、「結習未だ尽きずして華則ち身に著く」と。今は通別の両惑を殺して如来の滅度を得、故に殺賊の義円かなり。又た彼は是れ分段不生なれども界外に猶ほ生ず。宝性論に云はく、「二乗は無漏界に於て三種の意陰を生ず」と。今は則ち分段・変易の二倶に不生、不生の義円かなり。彼は是れ界内の応供にして界外の応供に非ず。浄名に曰はく、「其の汝を供するは福田と名けず」と。即ち応供の義偏なり。今は則ち普く其の中に於て供養を受くべし、則ち応供の義円かなり。彼は但だ小乗なれば他に従つて四諦の声を聞く。則ち声偏に聞偏なり。今は能く一切法界をして一実の四諦仏道の声を聞かしむ。一切をして聞かしむるは則ち声聞の義円かなり。故に知れぬ、義に依つて語に依らず、円に従つて位を判ずることを。名別義円とは、五十二位の如きは名別と同じけれども、而も初中後位円融妙実、随自意語にして是れ教道の方便に非ず。義に依つて語に依らず、応に円に従つて位を判にずべし。名義倶円とは、文に云はく、「開示悟入皆な是れ仏の知見なり、仏の一切種智の知、仏眼の見なり。此の知見は欠減あること無し」と。又た「如来の室に入り、如来の座に坐し、如来の荘厳を以てす」と。是れ則ち名義倶に円かにして円位を判ずるなり。
[3]二に位数を明さば、又た三となす。一には数を明し、二には引きて多少を証し、三には料簡なり。数とは、人の解同じからず。有が言はく、頓悟は即ち仏にして復た位次の殊り無しと。思益を引きて云はく、「是の如く学する者は、一地より一地に至らず」と。又た有る師の言はく、頓悟の初心は即ち究竟の円極なりと、而して四十二位ある者は是れ鈍根を化するに方便して浅深の名を立つる耳。楞伽を引きて言はく、「初地は即ち二地、二地は即ち三地なり。寂滅真如に何の次位かあらん」と。又た有る師の言はく、初に頓悟にして十住に至るは即ち是れ十地なり、而も十行・十迴向・十地ありと説くは此れ是れ重ねて説く耳と。今謂はく、諸解悉く是れ偏取なり。然るに平等法界は尚ほ悟と不悟とを論ぜず、孰れか浅深を辨ぜん。既に悟と不悟とを論ずることを得、何んぞ浅深を論ずることを妨げんや。究竟の大乗は、華厳・大集・大品・法華・涅槃に過ぎること無し。法界平等無説無示なりと明すと雖も、而も菩薩の行位は終に是れ炳然たり。又た有る人の言はく、平等法界には定んで次位無しと。今例して此の語を難ず、真諦に分別あり耶、真諦に分別無し耶。見真の者に七賢・七聖・二十七賢聖等を判ず。今、実相平等にして次位無しと雖も、実相を見る者には次位を判ずるに何の咎かあらん。大論に云はく、「譬へば海に入るに、始めて入る者と、中に到る者と、彼の岸に至る者とあるが如し」と。若し見真に位を判ずるは江河の浅深の如く、若し実相に位を判ずるは海に入る深浅の如し。故に普賢観に云はく、「大乗の因とは諸法実相、大乗の果とは亦た諸法実相なり」と。
[4]諸の次位を論ずること、徒だ臆説に非ず。契経に随順して四悉檀を以て位を明すに妨げあること無し。還つて七種に約して以て階位を明す、謂はく十信・十住・十行・十迴向・十地・等覚・妙覚なり。今、十信の前に於て更に五品の位を明す云云。若し人宿殖深厚にして、或は善知識に値ひ、或は経巻に従ひて円かに妙理を聞く。謂はく、一法一切法・一切法一法にして、一に非ず一切に非ず、不可思議なり。前に説く所の如き、円の信解を起す。一心の中に十法界を具することを信ずるは、一微塵に大千の経巻あるが如し。此の心を開かんと欲して円行を修す、円行とは一行一切行なり。略して言つて。十と為す。謂はく、一念に平等に具足して思議すべからずと識り、己が昏沈を傷みて慈を一切に及ぼす。又た此の心常に寂、常に照なることと知る。寂照の心を用ひて一切法を破するに、即空・即仮・即中なり。又た一心と諸心との、若は通、若は塞を識る。能く此の心に於て道品を具足し、菩提の路に向ふ。又た此の心の正助の法を解し、又た己心及び凡聖の心を識る。又た心を安んじて動ぜず、堕せず、退せず、散ぜず。一心の無量の功徳を識ると雖も、染著せず。十心成就す。要を挙げて之を言はば、其の心念念悉く諸波羅密と相応す、是を円教の初随喜品の位と名く。
[5]行者の円信始めて生ずれば、善く須らく将養すべし。若し事に渉つて紛動せば、道芽をして破敗せしめん。唯だ内に理観を修し、外に則ち大乗経典を受持し読誦せば、聞に観を助くるの力あり。内外相籍りて円信転た明かに十心堅固なり。金剛般若に云はく、「一日三時に恒河沙の身を以て布施せんに、一句を受持する功徳に如かず」と。初品の観智は目の如く、次の品の読誦は日の如し。日に光あるが故に、目に種種の色を見る。論に云はく、「実に於ては了因と名け、余に於ては生因と名く。福は菩提に趣かず、二は能く菩提に趣く」と。聞に巨益あること、意此に在り。是を第二品の位と名く。
[6]行者の内観転た強く外資又た著はる。円解懷に在りて弘誓熏動し、更に説法を加へて実の如く演布す。安楽行に云はく、「但だ大乗の法を以て答へよ」と、「設ひ方便を以て宜しきに随へども、終には大を悟らしむべし」と。浄名に云はく、「説法浄ければ則ち智慧浄し」と。毘曇に云はく、「説法解脱、聴法解脱」と。説法開導は是れ前人得道の全因縁なり、化の功己に帰して十心則ち三倍して転た明かなり。是を第三品の位と名く。
[7]上来のごとく前に観心を熟すれども、未だ事に渉るに遑あらず。今、正観稍明かなれば、即ち傍に利物を兼ぬ。能く少施を以て虚空法界と等しく、一切法をして檀に趣かしむ、檀を法界と為す。大品に云はく、「菩薩は少施を以て声聞・辟支仏の上に超過せむとせば、当に般若を学すべし」と、即ち此の意なり。余の五も亦た是の如し。事相少しと雖も、運懷甚だ大なり。此れ則ち理観を正と為し、事行を傍となす。故に「兼ねて布施を行ず」と言ふ。事福をもつて理を資くるときは、則ち十心弥盛んなり。是を第四品の位と名く。
[8]行人の円観稍熟して事理融ぜんと欲すれば、事に渉つて理を妨げず、理に在りて事を隔てず。故に具さに六度を行ず。若し布施する時は二辺の取著無く、十法界の依正一捨一切捨なり。財身及び命・無畏等の施なり。若し持戒の時は、性重譏嫌等しうして差別あること無く、五部の重軽触犯する所無し。若し忍を行ずる時は、生法寂滅し荷負安耐す。若し精進を行ずるも、身心倶に静にして間無く退無し。若し禅を行ずる時は、諸禅に遊入し静散妨げ無し。若し慧を修する時は、権実の二智究了通達し、乃至世智治生産業皆な実相と相ひ違背せず。具足して仏の知見を解釈し、而も正観に於て火の薪を益すが如し。此は是れ第五品の位なり。此の如き五品円信の功徳は、東西八方も喩と為すべからず。是れ初心なりと雖も、而も声聞の無学の功徳に勝る。具さには経に説くが如し。若し比決して解を取らんと欲せば、類せば三蔵家の別総四念処の位の如し。義推するに通教の乾慧地の位の如く、亦た伏忍の位の如し。義推するに、亦た是れ別教の十信の位なることを得云云。
[9]私に謂はく、五品の位は是れ円家の方便の初なり。解し易からしめんと欲して、小に準じて大に望むれば三蔵の五停心の如し。初品に円かに法界を信ず、上諸仏を信じ下衆生を信じて皆な随喜を起す。是れ円家の慈停心なり。遍く法界の上の嫉妬を対治す。第二品は大乗の文字を読誦す、文字は是れ法身の気命なり、読誦明利なるは是れ円家の数息停心なり、遍く法界の上の覚観を治す。説法品は能く自ら心を浄め、亦た他心を浄む。是れ円家の因縁停心にして遍く法界の上の自他の癡を治す。癡去るが故に諸行去り、乃至老死も去る。兼行六度品は是れ円家の不浄停心なり、六蔽の初を貪欲と名く。若し貪欲を捨つれば欲の因・欲の果皆な捨す。捨するが故に復た報身無く、浄に非ず不浄に非ざるなり。正行六度品は是れ円家の念仏停心なり、正行六度の時、事に即して而も理なり。理は道を妨げず、事は道を妨ぐ。事に即して而も理なれば、障の論ずべきもの無し。大意此の如し云云。
[10]一に十信の位を明さば、初に円聞を以て能く円信を起し、円行を修し、善巧増益して此の円行をして五倍して深明ならしむ。此の円行に因りて円位に入ることを得るなり。善く平等法界を修するを以て即ち信心に入り、善く慈愍を修して即ち念心に入り、善く寂照を修して即ち進心に入り、善く破法を修して即に慧心に入り、善く通塞を修して即も定心に入り、善く道品を修して即ち不退心に入り、善く正助を修して即ち迴向心に入り、善く凡聖の位を修して即ち護法心に入り、善く不動を修して即ち戒心に入り、善く無著を修して即ち願心に入る。是を十信の位に入ると名く。纓珞に云はく、「一信に十あり、十信に百あり、百法を一切法の根本と為すなり」と。是を円教の鉄輪十信の位と名く、即ち是れ六根清浄なり。円教の似解にして、煗・頂・忍・世第一法なり。普賢観に無生忍を明す前、十境界ありとは、即ち此の位なり。此の信心に入りて能く界内の見思を破し尽し、又た界外の塵沙無知を破し、能く無明住地の惑を伏す。仁王般若に云はく、「十善の菩薩、大心を発し長く三界の苦輪海に別る」と。亦た此の位なり。此の位は経経に之を出すこと不同なり。華厳に、法慧菩薩、正念天子に答へて、菩薩は十種の梵行空を観じ、十種の智力を学して初住に入ることを明す。十種の梵行空とは、即ち一実諦、亦た無作の滅諦なり。十種の智力を学すとは、即ち無作の道諦を観ず。即ち十信の位なり。大品に云ふが若き、「譬へば海に入るに、先に平相を見るが如し。亦た是れ是の乗は三界の中より出づ」と。仁王般若と普賢観は、前に引くが如し。下の文の入如来室座衣等は、即ち是れ四安楽行の行処・近処を修す。涅槃に云はく、「復た一行あり、是れ如来行にして所謂る大乗なり」と。大論に云はく、「菩薩は初発心より即ち涅槃を観じて道を行ず、若し涅槃を観じて道を行ずるに、相似の解を生ずるは即ち是れ一行如来行なり」と云云。
[11]二に十住の位を明さば、相似の十信より能く十住の真の中智に入るを以てなり。初発心住の発する時三種の心発す。一には縁因の善心発し、二には了因の慧心発し、三には正因の理心発す。即ち是れ前の境・智・行妙の三種開発するなり。住とは、三徳涅槃に住するなり。縁因の心発するは即ち是れ不可思議解脱、首楞厳定に住するなり。慧心発するは、即ち是れ摩訶般若畢竟空に住するなり。正因の心発するは、即ち是れ実相法身、中道第一義に住するなり。要を挙げて之を言はば、即ち是れ三徳一切の仏法に住するなり。又た清浄円満の菩提心、無縁の慈悲、無作の誓願普く法界を覆ふに住す。又た一念の中に一切の万行諸波羅密を成就するに住す。又た一切種智円かに法界の見思無明を断ずるに住す。又た仏眼を得て円かに十法界三諦の法を見るに住す。又た円かに一切の法門に入るに住す、所謂る二十五三昧、冥に衆生を益す。又た菩薩円満の業を成就し、能く一切の神通を顕はす。三輪不思議の化法界に弥満し、顕はに衆生を益するを謂ふ。又た能く開権顕実を成就して一乗の道に入る。又た能く一切の仏土を厳浄し、能く三業を起し、一切十方の仏を供養し、円満陀羅尼を得。一切の仏法を受持すること、雲の雨を持つが如し。又た能く一地より一切諸地の功徳を具足し、心心寂滅して自然に薩婆若海に流入するに住す。華厳に云はく、「初住の菩薩の所有の功徳は、三世の諸仏も歎じて尽すこと能はず。若し具足して説かば、凡人は聞きて迷乱し心狂を発せん」と。私に謂はく、初住に十徳を成就するは、応に是れ十信の中の十法、似を転じて真となし、一住に十を具するべし。細意を以て之を尋ぬれば、対当相応せん。何となれば、十信の百法は一切法の本たり、豈に此の釈を作すことを得ざらん耶。初住既に爾り。三観現前し、無功用の心に法界無量品の無明を断ずること称計すべからず。一往大いに分ちて略して十品の智断と為す。即ち是れ十住なり。故に仁王に云はく、「入理の般若を名けて住と為す」と。即ち是れ十番に進んで無漏を発し、同じく中道仏性第一義の理を見る。不住の法を以て浅より深に至り、仏の三徳及び一切の仏法に住す、故に十住の位と名く。此の位は諸経の出処同じからず。華厳に云はく、「初発心の時便ち正覚を成じて諸法真実の性に了達す、所有の聞法他に由つて悟らず。是の菩薩は十種の智力を成就し究竟して虚妄を離れ、染無きこと虚空の如し。清浄妙法身湛然として一切に応ず」と。当に知るべし、即ち是れ真無漏を発して無明の初品を断ずるなり。浄名に云はく、「一念に一切の法ぞ知る、是を座道場と為す。一切智を成就するが故に」と、亦た是れ不二法門に入り無生忍を得るなり。大品に明さく、「初発心より即ち道場に座し、法輪を転じて衆生を度す」と。当に知るべし、此の菩薩を仏の如しと為す、亦た是れ阿字門なり、所謂る一切法初不生なり。即ち是れ今経の衆生をして仏知見を開かしめんが為なり、亦た是れ龍女は刹那の頃に於て菩提心を発し、等正覚を成ず。即ち是れ涅槃に「発心と畢竟の二別ならず、是の如きの二心には、前心を難し」と明すなり。此の諸の大乗悉く円の初発心住の位を明す。乃至第十住云云。
[12]三に十行の位を明さば、即ち是れ十住より後、実相の真明不可思議なり。更に十番の智断をもつて十品の無明を破す、一行一切行念念に進趣して平等法界海に流入し、諸波羅密任運に生長す。自行化他の功徳虚空と等し、故に十行の位と名く。
[13]十迴向の位とは、即ち是れ十行の後無功用の道なり。不可思議の真明念念に開発す。一切法界の願行事理、自然に和融して平等法界海に迴入す。更に十番の智断を証し、十品の無明を破す、故に迴向と名くるなり。
[14]十地の位とは、即ち是れ無漏の真明無功用の道に入る。猶ほ大地の如し、能く一切の仏法を生じ、法界の衆生を荷負して普く三世の仏地に入る。又た十番の智断を証し、十品の無明を破す、故に十地の位と名くるなり。
[15]等覚地とは、無始の無明の源底を観達して辺際智満じ、畢竟清浄なり。最後窮源微細の無明を断じて中道の山頂に登り、無明の父母と別る、是を有所断者と名け、有上士と名くるなり。
[16]七に妙覚地を明さば、究竟の解脱、無上の仏智なり。故に無所断者・名無上士と言ふ。是れ則ち三徳不縦不横にして究竟後心の大涅槃なり。一切大なれば、理大・誓願大・荘厳大・智断大・遍知大・道大・用大・権実大・利益大・無住大なり。即ち是れ前の十観成乗の円極、竟に仏に在り、荼を過ぎて字の説くべきもの無し云云。故に盧舍那仏を名けて浄満と為す、一切皆な満ずればなり。
[17]二に次に衆経を引きて位数の多少を明さば、大涅槃に云はく、「月愛三昧は初め一日より十五日に至つて、光色漸漸に増長す」と。又た「十六日より三十日に至つては、光色漸漸に損減す」と。光色の増長するは十五の智徳摩訶般若を譬へ、光色の漸く減ずるは十五の断徳無累解脱を譬ふ。三十心を三の智断と為し、十地を十の智断と為し、等覚と妙覚は各一智断と為す。合して十五の智断なり、月の体は法身を譬ふ。大経に云はく、「月の性は常に円かにして実に増減あること無し、須弥山に因るが故に虧盈あり。増ぜずして而も増して白月漸く著はる。減ぜずして而も減じて黒月稍く無し」と。法身も亦た爾なり。実に智断無し、無明に因るが故に如に約して智を論ずるに、如は実に智ならず。如に約して断を論ずるに、如は実に断ならず。智無しと雖も、而も智なれば般若漸漸に明かなり。断無しと雖も、而も断なれば解脱漸漸に離る、月を挙げて喩と為すは、是れ円教の智断の位なることを知るなり。大経に云はく、「初より諸子を秘密の蔵、三徳涅槃に安置して然して後我常に此の秘蔵に於て般浬槃すべし」と。此れ即ち最後の智断なり。問ふ、何んぞ月の喩は位を譬ふと知ることを得んや。答ふ、仁王に十四忍を明す、三十心を三般若と為し、十地を十般若と為し、等覚を一般若と為す。十四般若は菩薩の心中に在りて、皆な名けて忍と為す。転じて仏心に至るを、之を名けて智と為す。此れ十五日に智を明すの位と同じ。勝天王に十四般若の位を明すは、正しく十四日の月を用つて譬となす。故に此の釈を作すなり。大品に四十二字門を明すも、語等しく字等し。南岳師の云はく、此は是れ諸仏の密語なり、何んぞ必らず四十二位を表せざらんと。諸の学人は、釈論を執して、此の解無しと云ひて多く疑つて用ひず。但だ論の本文は千巻なり、什師は九倍と作して之を略す。何ぞ必ず此の解無からん耶。今謂はく、此の解深く冥会すべし。何となれば、経に云はく、「初の阿と後の荼との中に四十あり、初の阿字門に四十一字具す」と。後の荼も亦た爾り。華厳に云はく、「初の一地より一切諸地の功徳を具足す」と。此の義即ち同じ。経に云はく、「若し阿字門を聞けば則ち一切の義を解す、所謂る諸法初不生の故に」と。此れ豈に円教の初住に初めて無生法忍を得るに非ずや。荼を過ぎて字の説くべき無きは、豈に妙覚無上無過に非ずや。広乗品に一切の法皆な是れ摩訶行なりと明し竟りて、即ち四十二字門を説く。豈に円教の菩薩の初発心より諸法実相を得、一切の仏法を具するが故に阿字と名け、妙覚地に至つて一切法の底を窮むるが故に荼字と名くるに非ずや。此の義、其の数、円位とともに甚だ自ら分明なり。又た四十二字の後に即ち菩薩の十地を説く、此は是れ別教の方便の次位を明すなり。又た十地の後に次で三乗共の十地を説く、此れ通教の方便の位を顕はすなり。経の文の次比三義宛然たり。今、四十二字を取りて以て円位を証す。
[18]此の経の分別功徳品に初心の五品弟子の位を明すの文甚だ分別なり。法師功徳品に六根清浄の相を明す。方便品に云はく、「諸仏は一大事因縁の為の故に世に出現す、衆生をして仏の知見を開かしむるが為に」の四句あり。南岳師、解して云はく、開仏知見は是れ十住の位、示仏知見は是れ十行の位、悟仏知見は是れ十迴向の位、入仏知見は是れ十地・等覚の位なり。皆な仏知と言ふは、一切種智を得るなり。皆な仏見と言ふは、悉く仏眼を得るなり。又た経に云はく、「是を諸仏の一大事因縁と為す」とは、同じく一乗の諸法実相に入るなり。又た云はく、「唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法実相を究尽す」とは、即ち是れ妙覚の位なり。又た譬喩品には、「諸子、門外に車を索む。長者、各等一の大車を暘ふ。是の時に諸子、是の宝乗に乗じて四方に遊び、喜戯快楽し自在無礙にして直ちに道場に至る」と。四方と言ふは、即ち開・示・悟・入の四十位を譬ふ。直ちに道場に至るとは、即ち是れ実相を究尽する妙覚の位なり。序品の中の天より四華を雨らすは、此の四十の因位を表するなり。上に引く所の衆経の如きを証と為す。及び今の文に四十二位を明すを引くに、炳然として皆な是れ無次位の次位なり。実相に達し、増道損生するに次位を論ずる耳。
[19]三に料簡とは、問ふ、無明の仏性中道を覆ふは、止だ四十二品と作して断ずる耶。答ふ、無明は所有無しと雖も、有ならずして而も有なり。階品無きにあらず。一往大いに分ちて四十二品と為す。然るに其の品数は無量無辺なり。大論に云はく、「無明の品類は其の数甚だ多し、是の故に処処に破無明三昧を説く」と。又た云はく、「法愛尽き難ければ、処処に重ねて般若を説く」と。此の諸の円位は不可思議なり。若し専ら法門に対せば、尋ぬる者意を失し、多く別解別執して則ち円融の道に乖かん。此の如き等の位は、凡情を以て局取すること莫れ、凡心を以て能く宣ぶるところに不ず。華厳に云はく、「諸地は説くべからず、何に況んや以て人に示さんや」と。且らく是の事を置く。若し大乗の懺悔をもつて初随喜円信の心を発し一旋陀羅尼を獲るも、已に人に向つて説くべからず。種種に分別すと雖も、亦た解せしむべからず。況んや後の諸位をや。二乗も尚ほ其の名を聞かず、豈に凡人能く説かんや。此の語に意あり、大師自ら己証を説きたまふものなり。又た且らく是の事を置く。声聞は四念処を学し、煗法を発得するも亦た外凡に向つて説き尽すべからず。設ひ種種に解すとも、亦た知ること能はず。又た是の事を置く。人の座禅して初の五支を発する如き、未証の者の為に説くべからず。設ひ方便して説くとも彼も亦た解せず。又た是の事を置く。斲輪の人、其の術を以て其の子に授くること能はず、況んや諸の深法を而も説くべけんや。末代の学者は多く経論の方便断伏を執して諍鬪す云云。水の性の冷やかなるが如きは、飲まずんば安んぞ知らん。此れ乃ち諸仏の縁に赴く不思議の語なれば、機に随ひて増減し位数同じからず。爾未だ証得せずして、空しく諍ひて何か為ん。普く願はくは、法界の衆生、僧に帰して諍論を息め、大和合海に入らんことを。
[20]又た四句を以て円位を料簡す。或は初に開して後を合し、或は後を開して初を合し、或は初後倶に開し、或は初後倶に合す。大経に、「三十三天不死の甘露を将臣共に服す」と明すが如きは、此れ諸位を譬ふ。前を開して三十心となし、十地を合して一と為し、等覚を一と為す。三十二臣に譬ふるは因位を喩へ、妙覚を主となすは果位を喩ふ。君と臣と同じく甘露を服すれば、因と果と倶に常楽を証するなり。若し円位を以て之を釈せずんば、此の文会し難し。是を初を開して後を合し、以て円位を明すと為す。若し十四般若は三十心を合して三般若と為し、十地を開して十般若と為し、等覚に就て十四般若と為すは、皆な是れ因位なり。転じて薩婆若に入るとは、即ち是れ果位なり。是を前を合し後を開して、以て円位を明すと為す。若し四十二字門は、即ち是れ初後倶に開して以て円位を明す。若し天より四華を雨らすは、開・示・悟・入を表じ、四方に遊ぶとは、此れ即ち前後倶に合するなり。諸経の開合の不同は皆な是れ悉檀方便にして、而も円位宛然たり奕。
[21]三に円位の断伏を明すとは、五品已に円かに一実の四諦を解す。其の心念念に法界の諸波羅密と相応す。遍体、邪曲偏等の倒無くして円かに枝客根本の惑を伏す、故に伏忍と名く。諸教の初心には此の気分無し。大経に云はく、「大乗を学する者は肉眼ありと雖も、名けて仏眼と為す」と。殼中の鳴も諸鳥に勝る。例せば、小乗の伏煗の如し。仏法には則ち有り、外道には則ち無し。今此の伏忍は、円教には則ち有り三教には則ち無し。十信の位は、伏道転た強くして似解を発得し、界内の見思、界外の無知塵沙を破す。経の文に、「三陀羅尼を得」と云ふが如きは、但だ似道と名く。未だ是れ真道ならず、旋陀羅尼は是れ仮を旋らして真に入り、百千旋陀羅尼は是れ真を旋らして俗に入り、法音方便は正しく是れ伏道にして未だ中に入ることを得ず。纓珞の従仮入空観の如きは、見思を断ずと雖も但だ虚妄を離るるを名けて解脱と為す。其の実は未だ一切解脱を得ず。当に知るべし、六根浄なりと雖も円教の煗・頂・四善根・柔順忍・伏道の位のみ。若し初住に入れば真の法音陀羅尼を得、正しく無明を破するを始めて断道と名く。仏性常住第一義の理を見るを、円教の無生忍と名く。十行・十迴向・十地・等覚は皆な無明を破す、同じく是れ無生忍の位なり。妙覚は断道已に周く、究変じて成就するを、名けて寂滅忍と為す。若し位に約して別して判ぜば、伏順の二忍は但だ伏して断ぜず。例せば無礙道の如し。妙覚の一忍は断にして而も伏に不ず、例せば解脱道の如し。無生の一忍は、亦は伏亦は断、亦は無礙亦は解脱なり。若し通の義を論せば、妙覚の寂滅忍も亦た無生忍と名く。大経に云はく、「涅を不生と言ひ、槃を不滅と言ふ。不生不滅を大涅槃と名く」と。亦た伏忍と名く。仁王に云はく、「初発心より金剛の頂に至るまで皆な伏忍と名く」と。伏は是れ賢の義なり、普賢菩薩は衆伏の頂に居す。伏忍既に通ずれば。順忍は解すべし。伏順既に其れ上に通ず、寂滅無生も亦た下に通ずべし。思益に云はく、「一切衆生即ち滅尽定なり」と。浄名に云はく、「一切衆生皆な如なり」と。如は即ち無生忍なり。又た事に就て無生と為し、理に就て寂滅と為す。又た分証は寂滅と為せども、果に讓つて無生と為す。若し因果に約せば、亦た通別あり。通とは一切衆生即ち大涅槃なり、即ち是れ因に約して果を論ず。仏性とは之を名けて因と為す、此れ即ち果に約して因を論ず。大経に云はく、「是れ果にして因に非ざるを大涅槃と名け、是れ因にして果に非ざるを名けて仏性となす」と。了かに仏性を見るは乃ち是れ仏に於てす、故に亦た是れ因なることを得云云。等覚を妙覚に望めて因と為し、菩薩に望めて果と為す。自下已去は亦た因、亦は因因、亦は果、亦は果果なり。分別の義に約せば、伏順の二忍は未だ是れ真因ならず、無生の一忍は未だ是れ真果ならず。十住より去つて真因と名け、妙覚を真果と名く。云何んぞ伏順は真因に非ざる、例せば小乗方便の位を修道と名けず、見諦已去を真修の道に約するが如し。此の義知んぬべし。今、順忍の中に見思を断除するは、水上の油の虚妄にして吹き易きが如し。無明は是れ同体の惑なり、水内の乳の如し。唯だ登住已去の菩薩鵞王は、能く無明の乳を唼んで法性の水を清うす。此より已去乃ち真因を判ず。
[22]復次に別教に三地或は四地に見を断じ尽し、六地或は七地に思を断じ尽すと判ず。此れ応に爾るべからず。何となれば、無明の見思は体を同じうする惑なれば、何んぞ前後に断ずることを得ん耶。当に是れ別教を小乗に附傍する方便の説なるべき耳。若し見先に尽くれば則ち実理に復た障りあること無し、云何んぞ十地の見は了了ならざらん。地持に云はく、「第九に離一切見清浄浄禅」と。第九は是れ等覚地なり、離見禅に入りて乃ち大菩提の果を成ず。若し見先に断ぜば等覚復た何の離する所あらん。若し思前に尽くれば、後の地は応に果報及び諸の禅定無かるべし、何となれば、華厳に明す阿僧祇の香雲華雲不可思議にして法界に充塞する者は、此は是れ菩薩勝妙の果報の感ずる所の五塵なり、此を呼んで欲界の思惑と為す。一切の菩薩皆な無量百千の三昧禅定心塵の法に入出する、此を呼んで色・無色界の思惑と為す。若し七地に思尽くれば、上地に応に六塵を絶すべし。何が故ぞ復た三賢十聖は果報に住すと言ふ。若し果報に住せば、思は前に尽きず。今明さく、此の如きの見思は通じて上地に至り、仏に至つて方に尽く。故に唯だ仏一人のみ浄土に居し、唯だ仏一人のみ能く源を尽すと云ふ。是の故に伏断は前に分別するが如し云云。問ふ、界内は必ず先に見を断じ、次に思、後に無知なり。界外は何の意ぞ爾らざるや。答ふ、界内は三途の苦重きが為に先に見を断じ、次に思、後に無知に及ぶ。界外は苦軽し、故に先に枝、後に本なり。又た思と無知は偏真を障へず、真理を見るが為の故に先に見を除く。界外の塵沙は是れ体上の惑なり、遠く能く理を障ふ。先に遠障を却け、次に近障を除く云云。復次に三蔵の中の後身の菩薩、及び超果の二乗は、見思同じく断ず。亦た先に思を断ず云云。不超果の者は前後断のみ。通教も亦た超・不超の二義あり、別教は前後断、円教は同断なり。前後の問は、但だ一途を見る耳云云。
[23]四に功用を明すに、若し字を分ちて義を解せば、功は自進を論じ、用は益物を論ず。字を合して解せば、正しく化他を語ふ。五品の位は理未だ顕はれずと雖も、観慧已に円かなり。煩悩性を具して能く如来秘密の蔵を知り、世間の為に初依止と作るに堪へたり。此の人に依止するは猶ほ如来の如し。当に知るべく、久しからずして道樹に詣り、三菩提に近づく。一切世間皆な応に向つて礼すべし、一切の賢聖皆な之と見んことを楽ふ。若し六根似解は、円観転た明かにして長く苦海と別る。能く一妙音を以て三千界に遍満し、意の至る所に随つて一切の天龍皆な其の処に向つて法を聴き、其の人に所説の法あれば能く大衆をして歓喜せしむ。猶是れ第一の依止なり。涅槃に四依を標するは、義、円と別とに通ず。人師は多く別に約して判ず。地前を通じて初依と名け、登地より三地に至つて見を断じ尽くすを須陀洹と名け、五地に至つて思を侵すを斯陀含と名く、是れ第二依なり。七地に至つて思尽くるを阿那含と名く、是れ第三依なり。八地より十地に至つて欲・色・心の三習尽くるを阿羅漢と名く、是れ第四依なり。若し円を推して別に望むれば、応に十住に約して三依を明し、住前に対して四依と為すべし。若し始終を判ずれば、五品・六根を初依と為し、十住を二依と為し、十行・十迴向を三依と為し、十地・等覚を四依と為す。初住より已上総じて功用を論ず、若し豎の功未だ深からずんば横の用広からず、豎の功若し深ければ横の用必ず広し。譬へば諸の樹の根深ければ則ち枝闊く、華葉亦た多きが如し。初住に豎に一分の無明を破し、一分の二十五三昧を獲、一分の我性を顕はす。其の実処を論ずれば不可思議なり。教門に依れば、横は則ち百仏世界に分身散影し、十法界の像と作りて衆生を利祐す。是の如く住住に豎に入り、倍倍転た深し、無明漸漸に尽き三昧転転して増し、我性分分に顕はれ、横用稍稍に広し。千仏界、万仏界、恒沙仏界、不可説不可説仏界なり。是の如きの界に遍じて八相成道し衆生を教化す、況んや余の九法界の身をや。諸行諸地も亦た復た是の如し。其の満足を論ぜば、唯だ仏と仏とのみ乃し能く無明の源を究尽す。故に経に言はく、「仏心の中の如きは無明無し、唯だ仏法王のみ究竟の王三昧に住す、毘盧遮那法身は横に法界に周く、豎に菩提を極め、大功円満し、勝用具足す」と云云。
[24]五に諸位に通じて麁妙を論ぜば、小草は止だ四趣を免れて動ぜず出でず。中草は復た動出すと雖も、智、源を窮めず、恩、物に及ばず。上草は能く兼済すと雖も、色を滅すれば拙と為す。小樹は巧みなりと雖も、功は界内に斉る。故に其の位皆な麁なり。大樹実事は、同じく中道を縁じて皆な無明を破し、倶に界外の功用あり。故に此の位を妙と為す。而して別教は方便門より曲逕紆迴し、所因の処拙なれば其の位亦た麁なり。円教は直門なり、是の故に妙と為す。又た三蔵の菩薩は全く惑を断ぜず、円教の五品に望むるに斉あり劣あり。同じく惑を断ぜず、是の故に斉と言ふ。五品は円かに常住を解す、彼は全く常住を聞かず、是の故に劣と為す。若し三蔵の仏の位は見思を断じ尽す、六根清浄の位に望むれば斉あり劣あり。同じく四住を除くは、此の処を斉と為す。若し無明を伏すれば、三蔵則ち劣なり。仏すら尚ほ劣と為す。二乗は知んぬべし。当に知るべし三草は蒙籠として生の用浅短なり、故に其の位皆な麁なり。若し乾慧地・性地を五品の位に望むるに斉あり劣あり、前に例す云云。若し八人六地に見思尽き、七地に方便を修し、仏に至つて習を断じ尽すは、円教の似解に望むるに斉あり劣あり。前に例して解すべし。当に知るべし、小樹の位は未だ干雲婆娑の能あらず、是の故に皆な麁なり。若し別教の十信を五品の位に望むるに斉あり劣あり、同じく未だ惑を断ぜず、是の故に斉と為す。十信は歴別にして五品は円解なり、此れ則ち優と為す。別教の十住は通の見思を断じ、十二行は塵沙を破し、十迴向は無明を伏す。秖だ円家の十信の位と斉し。優劣は云云。若し登地に無明を破するは、秖だ円家の初住と斉し、何となれば、若し十地には十品に無明を破し、円家の十住も亦た十品の無明を破す。設ひ十地を開して三十品とするも、秖だ是れ円家の十住の三十品と斉し。若し与へて論を為さば、円家は十住を開せず、三十心を合せ取りて三十品と為し、別家の十地の三十品と等しからしめば則ち十地と円家の十迴向と斉し。若し奪つて論を為せば、別家の仏地と円家の初行と斉し。与へて論を為せば、別家の仏地と円家の初地と斉し。故に知んぬ、別教の権説に仏を判ずること則ち高く、実に望めて言を為さば其の仏猶ほ下る。譬へば辺方未だ静かならざれば官を授くること則ち高く、爵を定め勳を論ずれば官を置くこと則ち下くきが如し。別教の権説は高しと雖も、而も麁なり、円教の実説は低しと雖も、而も妙なり。此の譬解すべし。我が因を以て汝が果と為せば、別の位は則ち麁なり。当に知るべし、大樹は巨囲なりと雖も、要らず地に因りて方に漸く生長することを。是に知んぬ、円位は初めより後に至るまで皆な是れ実説なり、実に伏し実に断ず、倶に皆な妙と称す云云。大論に云はく、「譬へば樹あり、名を好堅と曰ふ。地に在ること百歳、一出即ち長きこと百丈にして衆樹の頂きを蓋ふが如し」と。此れ円の位を譬ふるなり。
[25]六に位興を明さば、問ふ、権位皆な麁ならば、仏、何の意ぞ説きたまふ耶。答ふ、諸の衆生は好楽同じからず、生善の縁同じからず、過を知り悪を改むること同じからず、説に当つて悟を取ること同じからざるが為なり。是の故に如来の種種の諸説皆な利益あり。若し界内の好楽に随はば、前の両教の位を説く。若し界外の好楽に随はば、後の両教の位を説く。界内の事善を生ずるには、三蔵の位を説き。界内の理善を生ずるには、通教の位を説く。界外の事善を生ずるには、別教の位を説き。界外の理善を生ずるには、円教の位を説く。界内の事悪を破するには、三蔵の位を説き、界内の理悪を破するには、通教の位を説く。塵沙の事悪を破するには、別教の位を説き。無明の理悪を破すには、円教の位を説く。事を縁じて真に入るには、三蔵の位を説き。理を縁じて真に入るには、通教の位を説く。事より中に入るには、別教の位を説き。理を縁じて中を見るには、円教の位を説く。是の義の為の故に諸の位興ることを得、階差高下無量なり矣。
[26]七に位廃を明さば、理は本より位あること無く、位は縁の為に興る。縁既に迭ひに興れば位も亦た迭ひに謝す、是れ法華に始めて復た廃するに非ず。須らく諸の破立の意を識るべし。妄りに破し妄りに立つることを得ざれ。何となれば、元夫れ如来の三蔵の位を立つるは、権に事善を生ず、事善既に生じ、済用若し足らば便ち廃すべし。通別の位も亦た是の如し、此は是れ如来の破立の意なり。若し毘曇婆娑の中に菩薩の義を明すは、龍樹、往往に之を破す。謂はく、其れ仏の方便を失す、是の故に須らく破すべし。仏の方便を申ぶ、是の故に須らく立つべし。此は是れ龍樹の破立の意なり。若し常途の大乗師は全く三蔵を整理せず、此れ則ち仏の方便を失す。常途の小乗師は経の義を探り取りて弘むる所の論を釈し、菩薩の義を辨ず。毘婆沙に自ら菩薩の義を説いて而も肯て用ひず。大乗経を取りて三蔵空有の二門を解するは、豈に相ひ会すべけんや。此れ二過あり、一には仏の方便を埋め、二には論主の菩薩の義を解せざることを彰はす。是の故に須らく破すべし。縦令ひ経を引きて大乗の義を釈すとも、是れ何等の大乗ぞや。若し通教の大乗と作さば、三乗同じく真諦に入り、仏に至るも亦た然り。那んぞ八地に中道を観じて無明を破するを得ん。通の義を作すこと成ぜず、是の故に須らく破すべし。若し別教の大乗の義を作さば、始め初心より二乗と異る、那んぞ六地に将に羅漢斉しきことを得ん。別の義を作すこと成ぜず、是の故に須らく破すべし。又た別は是れ方便なり、権を執して実を謗ず、是の故に須らく破すべし。往者は人往きて義定まるも、今は其の過を窺ひ見る。是の故に須らく破すべし。仏の方便を申ぶれば、復応に須らく立つべし。即ち是れ今時の破立の意なり。而して円教は一師より起る、三権を超へて一実に即す。境・智・行・位、前と同じからず。若し文理会することあらば、夷途共に遊び、旨を失し轍に乖くは、請ふ、良導に従へ。先に此の意を叙し、次に位を廃することを明さん。
[27]若し仏、機に赴きて興廃破立するは、無量義経に云ふが如し。「無量の法とは、一法より生ず、所謂る二道・三法・四果なり」と。二道とは即ち頓漸なり、三法とは即ち三乗なり、四果とは四位なり、此の無量の法は一法より生ず。何となれば、二道は既に是れ頓漸なり、頓は即ち大道にして、日、高山を照す、且らく置いて未だ論ぜず。
[28]今、漸道の初を明さば即ち三蔵教なり、教に云はく、「仏を求めば当に三阿僧祇劫に六度の行を修し、百劫に相を種ゆれば乃ち仏を得べし」と。事善を生ぜしめんと欲するが故に是の説を作す。仏を求めんと欲する者は、悪を改めて善に従へば善立ちて教廃す。即便ち破して曰はく、豈に菩薩の結惑を断ぜずして而も菩提を得ることあらんや。毒器は食を貯ふるに任へず。此の教即ち廃すれば行位皆な廃す。本と果を望んで因を行ず、果の望むべきもの無くんば、仏智・仏位倶に廃す。若し二乗の廃を辨ずるに約せば、本と事の行をして心を調へしめ、拙度に従つて真を見る、真を見ること己れば教意即ち足る、是の故に析教廃す。此の諸義の為の故に、蔵を廃して通を立つと言ふ。
[29]元より通教を稟けて三蔵を学せざるは、此の人に於ては廃を論ぜず。通を立つるの意は理善を生ぜんが為なり、体法は惑を断じ、巧度に従つて真に入る、教の意即ち足る、智者は空を見、復た応に不空をも見るべし、那んぞ恒に空に住することを得ん、通教則ち発す。菩蔵の行智悉く廃し、仏の智位も亦た廃す云云。二乗は但だ教のみ廃す、余は云云。此の通教は、通に通じ別に通ず。共般若の意は上に説くが如し、不共般若の意は則ち廃せざることあり云云。故に知んぬ、成論・地論師は秖だ共般若の意を見て不共の意を見ず。中論師は不共の意を得て、共の意を失す。通教は既に両意を具す。通の菩薩及び方便の声聞に於ては即ち是れ廃の意なり、住果の声聞は未だ是れ廃の義にあらず。不共の菩薩は則ち不廃の義なり云云。
[30]若し別起る時は、界外の事善を生ず。若し無知塵沙を破して事善既に成ずれば、教意即ち足る、復た須らく破すべし此れ随他意語なり。是の故に別教の教廃し地前の行位悉く廃す。地上の位及び仏位皆な高を廃して下に帰す、是の故に別を廃して円を立す。
[31]円の八番の位は皆な是れ実位なり、故に廃すべからず。大経に云はく、「一切の江河悉く迴曲あり、一切の叢林必ず樹木ありと。諸教は情に随ふが故に迴曲あり、三草二木は是れ仏の方便なるが故に真実に非ず、宜しく位を廃すべし。金沙大河は直ちに西海に入り、金銀の樹は悉く是れ宝林なり、曲に非ずして是れ直なり。是の故に廃せず。昔し頓より漸を出せば、漸は頓に合せず、漸を引きて頓に入る、処処に廃すべし。今已に頓に会す、頓何んぞ廃すべけん。文に云はく、「始め我身を見る」云云。是の故に一教は廃せず。又た云はく、「但だ無上道を説く」と、此の道廃せず。
[32]昔は一仏乗に於て分別して三と説けば三乗合せず、三をして一に合せしめんと欲せば処処に須らく廃すべし。今、三を会して一に帰し、同じく一乗に乗ず。是の故に一行は廃せず。
[33]昔は四果隔別す、羅漢・辟支仏・菩薩の習果、方便の仏果を謂ふ。又た四仏を四果と為す。此の果を合せんと欲せば、処処に須らく廃すべし。今は草庵已に破し、化城又た滅し、同じく宝所に至る、是の故に一果は廃せず。若し是の義に従へば、三は廃し一は廃せず。然るに三教に廃あり不廃あり。何となれば、得道の夜より泥洹の夜に至つて説く所の四阿含経を結して声聞蔵と為す。初教何んぞ曾て廃せん前人の事善を成じ、後人の事善に逗ず、故に廃あり不廃あり。通教は前を成じ、後に逗ずるも亦た是の如し。別教の前を成じ、後に逗ずるも亦た是の如し。円教には立あり、不立あり。初め高山を照すは已に自ら是れ立、三蔵に於ては不立なり。文に云はく、「始め我身を見て如来の慧に入る」と。即ち是れ前の立なり。「小を学する者、今、仏慧に入る」と、即ち是れ後の立なり。中間に知んぬべし。諸の行智に廃あり不廃あり、諸の果位に廃あり不廃あり。若し諸味に歴れば、乳味に両教あり。一の教・行・位は亦た廃亦た不廃、一の教・行・位は不廃なり。酪の教・行・位は廃あり不廃あり、生蘇の四教は三の教・行・位は廃あり不廃はり、一の教・行・位は廃せず。熟蘇の三教は両の教・行・位は廃あり不廃あり、一の教・行・位は廃せず。法華は三の教・行・位は皆な廃し、一の教・行・位は廃せず。但だ無上道を説き、同じく一の宝乗に乗じ、倶に直ちに道場に至る、故に三義皆な廃せず。無量義に云はく、「二道・三法・四果合せず」と。法華に至りて皆な合す、故に廃を論ぜざるなり。成道より已来た四十余年、未だ真実を顕はさず。法華に始めて真実を顕はす。相ひ伝へて云はく、仏、年七十二歳にして法華経を説きたまふと云云。又た教廃して行・位は廃せず、行・位廃して教は廃せず、倶に廃し倶に廃せず。云何んが教廃して行・位は廃せざる、住巣の声聞の猶ほ草庵に在るは行・位廃せずして而も教は廃するなり。云何んが行・位は廃して教は廃せざる、利根の密益は教を廃するを待たずして早く行・位を休むる者是れなり。云何んが倶に廃する、三蔵の菩薩是れなり。云何んが倶に廃せざる、後縁に逗ずる者是れなり。通教・別教は此に例して解すべし云云。若し施権に就かば、三の教・行・位は立して一は立せず。若し廃権に就かば、三の教・行・位は廃して一は廃せず。若し利根に就かば、一は立し三は立せず。若し鈍根に就かば、三は立して一は立せず。若し鈍を転じて利と為すに就かば、一は立し三は立せず。利鈍合論せば亦た立、亦は不立、亦は廃、亦は不廃なり。若し平等法界に就かば、立に非ず、不立に非ず、廃に非ず、不廃に非ず。又た教を廃して更に教を聞き、自ら教を廃して更に教を聞かざるあり、自ら教を廃せず更に教を聞くあり、自ら教を廃せず更に教を聞かざるあり。云何んが教を廃して更に教を聞くとは、六度の事善を廃して更に亡三の理善を聞くが如し。云何んが教を廃して更に教を聞かずとは、住果の二乗の教を廃し已りて減に入るが如し。云何んが教を廃せずして更に教を聞くとは、次第の学者に逗ずるに方等の中並に小大の名を聞く者の如し。云何んが廃せずして更に聞かずとは、未だ教を廃せずして而も密に入る者なり。又た智を廃して更に智を修し、智を廃せずして更に智を修し、智を廃して智を修せず、智を廃せず智を修せず。云何んが智を廃して更に智を修す、三蔵の菩薩の己が智を廃して更に無生智を修するものこれなり。云何んが智を廃せずして更に智を修す、住果の声聞は己が智を廃せずして薳復た遊観して無生智を学するも、実に巧智を用つて結を断ぜざるなり。又た次第習の者も是れなり。云何んが智を廃せずして智を修せざる、亦た是れ住果の声聞の滅度の想を生じて肯て大を修せざるなり。四弟子の領解に、「我れ昔し身体疲懈し、但だ空無相願を念じて菩薩の法に於て都べて願楽の心無し」と云ふが如き者是れなり。及び更に後の縁に逗ずる者是れなり。云何んが智を廃して智を修せざる、三蔵の智を廃する菩薩の退いて諸悪をなす者是れなり。亦た是れ智を廃し已りて密に頓の中に入り、方便智を修せざるもの是れなり。又た位を廃して更に位に入り、位を廃して位に入らず、廃せず更に入らず、廃せずして而も入る。云何んか位を廃して更に位に入る、三蔵の菩薩の不断惑の位を廃して断惑の位に入るもの是れなり。云何んが位を廃して更に位に入らざる、謂はく位を廃して密に頓を悟る者次第の位に入らざるなり。云何んが位を廃せずして更に位に入らざる、謂はく住果の二乗是れなり。云何んが位を廃せずして而も更に位に入る、謂はく後の縁に逗ずる者なり。亦た是れ未だ廃せずして密に悟りて上位に入るなり。通教・別教の智位を料簡すること、亦た応に此の如くなるべし云云。問ふ、廃して更に修するは益あるべし、廃して修せざれば何の益かあらんや。答ふ、自ら修を廃して益を得ることあり、自ら訶廃するも聞きて修せずと雖も、而も小の鄙劣を恥づることありて其の取証を折くの心あり、亦是れ益あるなり。又た其の断結に斉れば、謂つて益無しと言へども、迴心して大に入れば即ち是れ益を得云云。
[34]八に麁位を開して妙位を顕はすとは、若し三を破して一を顕はす相待の意は、前の如くなるを得べし。三に即して是れ一なる絶待の意は、義は則ち爾らず。何となれば、昔の権は実を蘊すること華の蓮を含むが如し。権を開して実を顕はすは華開きて蓮現はるるが如し、此の華を離れ已つて別に更に蓮あること無く、此の麁を離れ已つて別に更に妙あること無し。何んぞ麁を破して妙に往くことを須ひん、但だ権位を開して即ち妙位を顕はすなり。生死の麁心を開すとは、凡夫に反覆あり、菩提心を発し易く、生死即涅槃にして二無く別無く、麁に即して是れ妙なることを明すなり。若し始め凡夫より析・体・別・円の四心を発さば、亦是れ四位の初心皆な是れ因縁所生の心にして、即ち此れ因縁即空・即仮・即中なれば、円の初心と無二無別なり。諸の初心は是れ乳に妙を顕はす、即ち是れ毒を乳の中に置かば即ち能く人を殺すなり、殺に奢促あり、若し位を按して而も妙なるは即ち仮名妙を成じ、若し進んで方便に入るは相似妙を成じ、若し進んで理に入るは即ち分真妙を成ず云云。若し六度の権の位行を開せば、檀は即ち因縁生の法にして即空即仮即中なれば、檀を開して仏性を見ることを得。乃至般若も亦復た是の如し。亦た毒を乳の中に置かば即ち能く人を殺すと名く。按位は即ち仮名妙なり、若し方便に進めば相似妙を成ず。若し進んで理に入らば分真妙を成ず云云。方便の声聞の未だ位に入らざる者の権を開して実を顕はすも亦是の如し。三蔵の断結の位は、若し未だ権を開せずんば永く反復無し、焦種の芽無きが如し。今、析空を開するに即仮即中なり、毒を酪の中に置くが如し、亦能く人を殺す。麁を按ずるに即ち妙、是れ相似の位なり、若し進んで入らば位に随つて妙を判ず。次に通教の二乗・菩薩を開するも亦是の如し。出仮の菩薩の位は、此の仮を決了するに仮即ち是れ中なり。毒を生蘇に置きて、而して能く人を殺すが如し。麁を按して即ち妙なるは是れ相似の位なり、若し進んで入るは位に随つて妙を判ず。若し別教の十信の位を開するは前に同じ。若し十住を開せば二乗に同じ云云。若し十行の位を開せば通教出仮の菩薩に同じ。若し十迴向伏無明の位を開せば此に即して而も中なり、是を毒を熟蘇に置きて即ち能く人を殺すと名く。麁を按するに即ち妙なるは是れ相似の位なり、若し進んで入るは位に随つて妙を判ず。若し登地の位決了せざる者は秖だ是れ拙度の位なり。今、此の権を決して実を顕はすことを得せしむるは、即ち是れ毒を醍醐に置きて而も人を殺す。麁を按するに即ち妙なるは是れ十住の位なり、若し進んで入るは位に随つて妙を判ず。若し諸の権を決するに、或は按位妙、或は進入妙なり。麁の待すべき無く同じく一妙を成ずること、其の義已に顕はる。今更に譬説せば、譬へば小国の大臣、大国に来朝して本の位次を失ふが如し。行伍に預ると雖も、限外の空官なり。若し大国の小臣は心膂憑寄すれば、爵乃ち未だ高からざれども他に敬貴せらる。諸教の諸位、麁を決して妙に入るに入流を得と雖も、円教の入妙に比せんと欲するに猶是れ鈍の中より来る。円教の発心は未だ位に入らずと雖も、能く如来秘密の蔵を知れば位ち作仏と喚ぶ。初心尚ほ然り、何に況んや後位をや云云。
[35]九に涅槃の五譬を引きて四教の位を成ず。若し四教を将つて譬を釈せずんば、譬を解すべからず。若し五譬は四教の位を判ずるに非ずんば、信を取ること難しと為す。若し経文を信ずれば則ち位の義暁らめ易く、諸位の意を解せば彼の譬冷然たり。彼此相ひ須つて兼美と謂ひつべし。彼の文に云はく、「凡夫は乳の如く、須陀洹は酪の如く、斯陀含は生蘇の如く、阿那含は熟蘇の如く、阿羅漢・支仏・仏は醍醐の如し」と、此れ三蔵の五位を譬ふ。何となれば、凡夫は全く生にして未だ惑を除くこと能はず、菩薩も亦爾り、但だ乳の如くなるを得るのみ。須陀洹は見を破し、凡を革めて聖と成る、乳変じて酪と為すが如し。斯陀含は六品の思を侵す、故に生蘇の如し。阿那含は欲界の思を尽す、故に熟蘇の如し。阿羅漢と支仏と仏とは皆な三界の見思を断じ尽す、故に同じく醍醐と称す。故に釈論に云はく、「声聞経の中には、阿羅漢地を称して仏地と為す」と。故に共じて一味と為す。問ふ、此の経には三蔵の菩薩を以て上草と為す、彼の経には云何んぞ菩薩を以て乳味とするや。答ふ、経は化他の辺の強きを取りて之を上草に喩へ、此の中は自証の力弱ければ凡夫に同じく乳味と為す云云。三十二に云はく、「凡夫は雑血の乳の如く、須陀洹・斯陀含は浄乳の如く、阿那含は酪の如く、阿羅漢は生蘇の如く、支仏・菩薩は熟蘇の如く、仏は醍醐の如し」と。此れ通教の五位を譬ふるなり。凡夫は惑を断ぜざれば、乳の猶ほ血を雑ふるが如し。二果は思を侵すこと未だ多からざれば、初果に同じく乳の如し。三果は欲の思已に尽す、故に酪の如し。四果は見思倶に尽す、生蘇の如し。支仏は智利にして習を侵せば少しく声聞に勝る、故に菩薩と共に熟蘇の如し。十地を仏地と名く、即ち是れ醍醐なり。前は菩薩を凡味に同ずるを以て、故に是れ三蔵なることを知る。今は菩薩を支仏に同ずるを以て、故に知んぬ、是れ通なることを。若し通と作して釈せずんば、譬の義何に由りてか解すべけんや云云。