[135]第二に釈迦章を広ふす、六義の中に於て歎法希有無し、初めに開権、次に顕実、三に五濁を挙げて方便を釈す、四に偽を揀んで敦く一実を信ず、五に虚妄無し。
[136]我今亦如是とは、我は即ち釈迦なり、現在に三を先にして一を後にす、四仏の如くにして異らず、故に亦復如是と言ふ。知諸衆生有種々欲とは、即ち是れ五乗の根と性と欲となり、過去を根と名け、現在を欲と名け、未来を性と名く。深心所著とは即ち是れ根なり、方便とは即ち是れ宜に随て三乗の権法を開くなり。
[137]如此皆為得一仏乗とは即ち是れ顕実なり。仏乗は是れ教一、一切は是れ行一、種智の所知は是れ理一なり。
[138]十方尚無二乗何況有三よりは、是れ第三に五濁を挙げて開権を釈するなり、将に五濁を挙げんとして、先に其意を標す、上に已に諸仏の開権と顕実とを説けども、未だ実を隠して権を施すことを明さず、其法清浄湛一にして空の如し、尚ほ帯二帯三の権無し、況んや単三単五の権有らんや、秖だ五濁障重くして実を宜ぶるを得ざるが為に、須らく単五単三の権を施し亦帯二帯三の権を施すべし、故に一仏乗に於て分別して三を説くと言ふ、分別して若は帯二帯三の三、若は単五単三の三を説くなり。
[139]五濁とは自ら四別有り、初めに唱数、二に列名、三に体相、四に釈結なり。唱数、列名は文の如し。
[140]如是とは体相を明すなり、劫濁は別体無し、劫は是れ長時、刹那は是れ短時なり、但だ四濁に約して此仮名を立つ、文に劫濁の乱時と云ふは即ち此義なり。衆生濁も亦別体無し、見慢を攬て果報の上に此仮名を立つ、文に衆生垢重と云ふは即ち此義なり。煩悩濁は五鈍使を指して体と為す、見濁は五利使を指して体と為す、命濁は色心を連持するを指して体と為す云云。相とは四濁増劇して此時に聚在し、瞋恚増劇して刀兵起る、貪欲増劇して飢餓起り、愚癡増劇して疾病起る、三災起るが故に煩悩倍々隆にして諸見転た熾なり、麁弊の色心悪名穢称、年を摧き寿を減ず、衆濁交湊して、水の奔昏して風波鼓努し、魚籠攪撓して一の憀賴無きが如し、時の之をして然らしむ、劫初に光音天、地に堕ちて地をして欲有らしむるが如く、忉利天の麁渋園に入らば園の闘心を生ずるが如し、是れを劫濁の相と名く。煩悩濁とは、貪海の流を納めて未だ曾て飽足せず、瞋禹の毒を吸て諸の世間を撓す、癡闇頑嚚にして漆墨に過ぐ、慢高下視して陵忽に度無し、疑網信無く実を告ぐ可らず、是れを煩悩濁の相と為す。見濁とは、人無きを人有りと謂ひ、道有るを道無しと謂ふ、十六知見六十二等猶ほ羅網の如し。又稠林に似て纏縛屈曲して出るを得る能はず、是れ見濁の相なり。衆生濁とは、色心を攬て一の主宰を立つ、譬へば黐膠の物として著せざる無きが如し、六道に流宕し処々に生を受く、貧の如く短の如く、長と名け富と名く、是れを衆生濁の相と為す。命濁とは、朝に生じ暮に殞り、昼出で夕に没す、波のごとくに転じ煙のごとくに廻る、瞬息も住せず、是れ命濁の相なり、濁相衆多にして具に説く能はず。
[141]次第は煩悩と見とを根本と為す、此二濁より衆生を成ず、衆生より連持の命有り、此四時を経るを謂て劫濁と為すなり。
[142]料揀とは、問ふ、五濁若し大を障ふるならば。華厳の中に未だ濁を除かずして、法を聞くは何ぞや。答ふ、此れ応に四句に分別すべし、一に大乗の根利障重は、根利なるを以ての故に重障も障ふる能はず、此土の華厳の初めに大乗を聞く者是なり。二に根利障軽、三に根鈍障軽、他方の浄土に大乗を聞く者是なり、四に根鈍障重、此土の身子の流輩の濁を除て方に大乗を聞く者の如き是なり。
[143]問ふ、五濁は小を障るやいなや。答ふ、此れ小乗に就て応に四句に分別すべし、小乗の根利遮軽は障も障ふる能はず、身子是なり。根利遮重、障亦障ふる能はず、央掘是なり。根鈍遮軽、亦障と為らず、槃特是なり。根鈍遮重、此れ則ち障を成ず、小乗を聞かず、得度せざる者是なり。
[144]問ふ、自ら華厳に在らず三蔵に在らずして大を聞き小乗を聞くことを得る者有るは何ぞや。答ふ、此れ四教に就て教々の中に四門の分別を作す、根利遮軽は非空非有門を聞て入るなり。根利遮重は亦空亦有門を聞て入るなり。根鈍遮軽は空門を聞て入るなり。根鈍遮重は有門を聞て入るなり。両教の四門は小乗に約して分別す、両教の四門は大乗に約して分別す、細く推して解す可し云云。
[145]問ふ、五濁は一往何が故ぞ大を障へて而も小を障へざる。答ふ、衆生濁重くして妄りに五陰を計して四徳と為す、若し常我を聞かば即ち非を執して是と為さん、旧医の頑蠶にして乳の好悪を知らず、病起の根源を知らず、薬餌の開遮を知らず、知暁する所無し、故に濁は大を障ふるなり、文に我れ若し仏乗を讃せば衆生は苦に没在せんと云ふは即ち此義なり。若し無常苦空を聞かば、即ち生死を厭て涅槃を欣ひ、其邪計の執を破す、故に五濁は小を障へず、文に是思惟を作す時、十方の仏皆現じて、梵音をもて我れを慰喩すと云ふは即ち此義なり。
[146]五濁に約して四悉檀を論ぜば、劫と命とは是れ世界、衆生と見とは是れ為人、煩悩は是れ対治なり、三悉檀を用ひて其五濁を除き、後に為に大を説くは第一義悉檀なり。
[147]若し因果を論ずれば、則ち二は因、三は果なり、一は人、四は法なり、四は法、一は時なり、二は報障、二は煩悩障なり、業は其間に在り。衆生は是れ因成仮、命は是れ相続仮なり、相待仮知る可し。衆生は是れ受仮、四は是れ法仮、名仮は両処に通ず。煩悩と見とは凡夫に在り、余の三は凡聖に通ず。命は短、劫は長、余の三は長短に通ず。劫は但だ是れ時、命は法を帯して時を論ず。劫は内外に通ず、命は但だ内に在り。三小は人を害して物を害せず、三大は物を害して人を害せず。小劫は但だ人に在り。大劫は色界に通ず、命は五道三界に通ず。劫は是れ共濁、四は各各濁なり。小劫は是れ劫濁、大劫は濁不濁に通ず。八万より十歳に至るを小劫と為す、八十反を大劫と為すなり。
[148]問ふ、既に五濁と言ふ、何物か是れ五清なる。答ふ、邪正の三毒に準例するに、邪は是れ五濁、正は是れ五清なり、他方の浄土に邪の三毒無ければ則ち五濁障軽し。此義知る可し云云。
[149]若我弟子自謂より下は、是れ第四に偽を揀んで真を敦す、若し仏弟子ならば自ら能く信解せん、若し信解せずんば真の弟子に非ず、亦羅漢に非ず。時衆を敦逼して信受し解せしめん。文に就て二と為す、初めに真偽を揀ぶ、二に開除して疑を釈す、揀又二と為す、初めに若し聞かず知らざるは真の弟子に非ず、次に聞て信受せざるは増上慢と成る。
[150]世の弟子、師の法に随順して継嗣伝灯するが如し、若し聞かず知らざるときは、則ち法として順ず可き無し、何をか弟子と謂ふ、如来は昔し五濁に三を開するを説きたまふ、汝隋順して涅槃を得、聞くを得、知ることを得れば名けて弟子と為す、今五濁既に除こり、汝が為めに一を説く、何の意ぞ、聞かず知らざらん、聞かすとは即ち教一を聞かざるなり、知らざるとは即ち行一を知らざるなり、真に非ずとは即ち理一に非にず、弟子に非ずとは即ち人一に非るなり。
[151]次に又舎利の下は、第二に信ぜざるは増上慢と成ることを明さば、此れ其れを敦くして信ぜしむ、何となれば、汝自ら是れ後身なりと謂ふも、身尚ほ無量にして実に後身に非ず、汝自ら究竟と謂ふも猶は二百由旬を余す、実に究竟に非ず、未だ得ざるを得たりと謂ふ、豈に増上慢に非ずや、真の羅漢なる者は、濁除こり根利にして、究竟に非ずと知り、真の是法を信じて未だ是れ後身ならざれば上慢を起さず、究竟に非ずと知る、究竟を信ずるは即ち理一を信ずるなり、増上慢無きは即ち行一を成ず、信は則ち教を信ず、是れを教一と為す、是れ仏の弟子なるは則ち人一なり。
[152]除仏滅の下、第二に開除して疑を釈すとは、先に開除。仏の滅後は、増上慢と成らざるを除く。次に所以者何仏滅の下は、好人得難く深経解し難く亦上慢を成ぜざることを明す。若し仏の在世にして正しく此経を説くに、信ぜず受けずんば真の羅漢に非ずして増上慢を成ず、若し仏の滅後方に羅漢を得る者は、偏へに権経を執して円法を信ぜざるは増上慢に非ずと聴許す。又仏入滅したまふと雖も此経尚ほ在り、信ぜず受けずんば応に是れ上慢なるべきか、即ち開除することを得。仏の滅度の後此経有りと雖も、其文義を解する者、此人には遇ひ難し、羅漢をして信ぜず解せざらしむるを致すも亦増上慢に非ずと聴許す。
[153]次に疑を釈す、若し仏の滅後に経を解するの人に遇ひ難くんば、羅漢を得る者は即ち永く涅槃に入らんや、即ち釈して云く、是人は滅度の想を生ずと雖も、命を捨てゝ已後は便ち界外 有余の国に生じ、余仏に値遇して此経を間くことを得て即便ち決了す、釈論第九十三に畢定品を釈して云く、羅漢は先世の身を受けば身必ず応に滅すべし、何処に住在して而して仏道を具足するや。答ふ、羅漢は三界の漏の因縁尽て更に復三界に生ぜず、三界の外に出で、浄仏土有りて煩悩の名無し、是国土の仏の所に於て法華経を聞き仏道を具足すと、即ち法華を引て云く、羅漢有り、若し法華を聞かずして自ら滅度を得と謂はゞ、我れ余国に於て為めに是事を説き、汝皆作仏せんと、論既に経を引て証と為す、今経を釈するに還て論の解を将ふ。
[154]南岳師の云く、余仏とは 四依なり、羅漢は之に邁て経を聞て決了す。又羅漢は念仏定を修して十方の仏を見たてまつり、為めに此経を説て便ち決了することを得。又凡夫の行人は苦到に懴悔して十方の仏を見たてまつり、為めに説て亦決了することを得と。
[155]瑤師の云く、実の羅漢は必らず自ら法華を知り大を志求す、利根は則ち自ら知り、中下根は須らく聞て知るべし、故に聞知と言ふ、何ぞ仏の滅後に於て法華を聞かず、或は聞くも而も信ぜず、余仏に遇ひたてまつりて方に解すべけんや、末法の凡夫も猶尚ほ能く信ず、況んや聖人をや。仏の滅後を除くとは凡夫を指すなりと。有人の言く、凡夫は未だ法相を証せず、所見明かならで、執心固からず、所以に信じ易し、羅漢は法相を証し、所見分明にして、執心牢固なり、忽ち異説を聞て未だ便ち信受せず、故に不信と云ふ。其義必らず然り、故に身子の云く、将に魔の作仏して我心を悩乱するに非ずやと。若し此義し此義に従はゞ、羅漢を指して凡夫を指さず云云。此れ直だ異解なるのみ、此義を用ひざるなり。
[156]舎利弗の下、第五に虚妄無きことを明すとは、物の謗心を止む、此れ三と為す、初めに釈迦の実説を勧信す、故に汝等当一心信解受持仏語と云ふ。次に諸仏を勧信す、故に諸仏言無虚妄と云ふ。諸仏道同じ、弥々信受を加ふ。後に不虚を結成す、故に無有余乗唯一仏乗と云ふなり。
[157]第二に偈頌、一百二十一行有り、分て二と為す、初めに四行一句有り、上の許答を頌す、後に一百十六行三句有り、上の正答を頌す、上の許答に三有り、謂く順と誡と揀となり、今は順を頌せす、但だ揀と誡とを頌す、揀聚両と為す、初めの三行半は上の五千の退を頌す、次の二句は上の衆已に清浄なるを頌す、次の一句は誡聴を頌す。上慢我慢不信は四衆に通じて有り、但だ出家の二衆は多く道を修して禅を得、謬て聖果と謂ひ、偏へに上慢を起す、在俗は矜高にして多く我慢を起す、女人は智浅くして多く邪僻之生ず、「自ら其過を見ず」とは。三失をもて心を覆ひ、玼を蔵し徳を揚げて自ら省すること能はず、是れ無慚の人なり。若し自ら過を見ば 有羞の僧なり。於戒有缺漏とは、律儀に失有るを缺と名く、定共・道共に失有るを漏と名く、道定等無きが故に、内に悪覚を起す、玉の瑕を含むが如し。律儀無きが故に、外に身口を動かす、玉の瑕を露はすが如し、罪を覆て自ら得るが故に護惜と名く。小智とは学無学の智を得ずして而して世間の小智有り、妄りに有漏を謂て以て無漏と為す、小中の小なり、故に小智と言ふなり。糟糠とは無漏の禅定の潤ひ無きが故に糟の如く、理慧無きが故に糠の如し、是の五千等は世間禅有るは糟の如く、文字の解有るは糠の如し、文に封じて詮を失す、糠に米無きが如し。又槽糠は其大機無きを譬ふ、枝葉は其好器に非るを譬ふ、悉く用ふるに任へず、故に須らく之を遣るべし。舎利弗善聴とは即ち上の誡許を頌し、誡めて善く聴かしむるなり。
[158]諸仏所得法より下、一百十六行三句有り。上の正答を頌するなり、又二と為す、初めに諸仏所得法より下、七十三行一句有り、四仏章の門を頌す、今我亦如是より下、四十三行半有り、上の釈迦章の門を頌す、初めに就て又四と為す。初めに諸仏所得の下、三十四行三句は、上の諸仏の門を頌す。過去無数劫より下、第二に二十七行半有りて過去仏の門を頌す。未来諸世尊より下、第三に六行半有て未来仏の門を頌す。天人所供養より下、第四に四行半有て現在仏の門を頌す。
[159]今初めに諸仏の門を頌する中に就て、長行と凡そ三異有り、一には彼此互に無し、二には前後間出す、三には開合同じからず、上は歎法希有有て而して五濁無し、頌に五濁有て而して歎法無し、上には先に歎法し、次に不虚を明し、開権顕実す、今は先に開権顕実し、後に不虚を明す、上には勧信と不虚と合して説き、今は勧信を分て不虚を隔つなり。私に謂く、上は釈迦の方便を以て諸仏の権を釈成す、偈の中には釈迦の実を以て諸仏の顕一を釈成す、是れ四の異なり。此初めの頌文五と為す、初めに諸仏所得法より下五行三句は諸仏の施権を頌す、二に我設是方便より下十三行は諸仏の顕実を頌す、三に若人信帰仏より下四行半は諸仏の章の勧信を頌す、四に若我遇衆生より下九行半は長じて五濁を頌す、五に我有方便の下の両行は上の不虚を頌す、今初めに開権を釈す、文二と為す、初めの四行一句は正しく権を施すを頌す、次の一行半は施権の意を結することを頌す、今は初めなり。諸仏所得法とは、道を修して諸の権法を得るなり。無量方便力の下は上の無数方便種々因縁演説諸法を頌するなり。衆生心念とは上の随宜説法を頌するなり。頌の中に広く随宜の相を出す、即ち是れ九法界の機を照して七方便を説く、総じて言へば九と七となり、定んで判ず可らず、故に若干と言ふ。欲の宜しきに随て応に世界悉檀を用ふべく、性の宜しきに随て応に為人悉檀を用ふべく、悪業の宜しきに随て応に対治悉檀を用ふべし、現に希望を起する念と名く、法門同じからざるを種々と名く、過去の所習を性と名く、現在に欣楽するを欲と名く。或は習欲は性を成じ、性を成じて習欲を生ず可し云云。善悪業とは、七方便伝々して善悪と為る云云。仏は権智を以て諸の方便の性欲を照す、然して後諸の因縁譬喩を以て、其宜しき所に随て 九部経を説きたまふ、十二部は 玄義の中に説くが如し。鈍根楽小法とは、一行半は施権の意を結するなり。前世は根鈍にして今世は機無し、大を聞くに堪へず、故に不行深妙道と言ふ。前世は貪著の障重くして、今世は衆苦に悩まさる、唯小を聞く可し、故に為是説涅槃と言ふなり。我設是方便より下第二の十三行は諸仏の顕実を頌す、文四と為す、初めに三行は理一を頌す。令得入仏慧とは上の一大事因縁を頌するなり。決定説大乗とは総じて開示悟仏知見を頌するなり。入大乗為本は上の入仏知見を頌するなり。仏子心浄より下、第二に四行半は上の諸仏如来但教化菩薩を頌し以て人一を明す。上には直に教化菩薩と云ふ、頌中広く諸の方便の人皆実人と成ることを出す。有仏子心浄とは即ち別教の人なり、此仏子の為めに大乗経を説く、記を得て心喜びて即ち円教真実の人と成る。声聞若菩薩とは、声聞は縁覚を兼得す、若は菩薩は六度通教等の諸菩薩を兼得す。皆成仏無疑とは、即ち是れ七種の方便にして、仏子に非ること無し、即ち是れ人一を頌するなり。十方仏土中より下、第三に一行三句は上の如来但以一仏乗為衆生説法無有余乗若二若三を頌す、十方の仏の唯一法を説くが若きは即ち是れ教一なり。仮名引導は即ち方便教なり。仮名の三教に牒して仏慧の一教を顕はす、其文分明なり。無有余乗とは別教中の円入別の余無きなり、無二とは通教中の半満相対の二無きなり、無三とは三蔵中の三無し、此の如き等の二三は、皆是れ仮の名字にして、諸の衆生を引導す、今は但一仏円教乗のみなり。諸仏出於世唯此一事実より下、第四に三行三句有て、上の諸有所作営為一事を頌する行一の文なり、事は即ち是れ行なり。柊不以小乗済度於衆生とは、即ち是れ上の常為一大事の意を頌するなり。仏自住大乗以此度衆生とは、上の唯以仏之知見示悟衆生を頌す、後の一行は小を以て度せざるの意を釈す。若人信帰仏より下、第三に四行半は上の勧信を頌す、上に汝等当信仏之所説と云ふ、頌中二有り、初めに二行半有て、果を挙げて勧信す、二に舎利弗の下二行は、因を挙げて勧信す、果を挙げる中、初めに一行半は内心を挙ぐ、若人信帰仏如来不欺誑とは仏心の清浄なることを明す、無明の慳垢、衆悪已に断じ、浄心の中より説きたまふ、故に是れ信ず可し。我以相厳身の下一行は外色を明す、身相炳著にして光色端厳なり、内に闇惑無く、外に光明有り、則ち口に欺誑無く、衆の為めに尊まれて、大乗の印を説きたまふ、則ち信受す可し。我本立誓願の下二行は、是れ因を挙げて勧信す、此れ亦二と為す、初め我本立誓の下一行は昔誓を挙ぐ、二に如我昔の下一行は願満を明す。我れ昔の誓願は、但だ自ら菩提を誓ふのみに非ず、亦衆生をして同じく仏慧に入らしめんと誓ふ、今誓に酬ゆるが故に説きたまふ、是れ亦信ず可し。今菩提既に満じ、衆生も亦入る、汝既に自ら仏慧を証せり、亦我が誓の虚ならざることを験めよ、因を挙げて勧信することを結成するなり。問ふ、本誓既に普ねきも今衆生尚ほ多し、願云何ぞ満ぜん。答ふ、仏は三世に物を益したまふ、今は現在に願満を論ずるを明すなり。若我遇衆生の下、第四に九行半は五濁を挙ぐ、上に五濁を明すは釈迦章の後に在り、今の頌文は総仏門の末に在り、釈迦門の中に又更に重出す、此れ諸仏の同じく五濁に出でたまひて、皆三を先にして一を後にすることを明すなり、此文四と為す、初めに一行は総じて五濁の大を障ふることを明す、次に六行は別して五濁の三を障ふることを明す、三に一行は五濁の為の故に方便して小を説くことを明す、四に一行半は大の為めに小を説くことを明す、小は五濁を治して大の願興ることを得。若我遇衆生とは、中阿含十二に云く、劫初に光音天世間に下生し、男女尊卑無く。衆共に世に生ず、故に衆生と言ふと、此れ最初に拠るなり。若し衆陰を攬て而して仮名の衆生有るは、此れ一期の受報に拠るなり。若し処々に生を受くるが故に衆生と名くと言ふは、此れ業力の五道に流転するに拠るなり。正法念に云く、十種の衆生とは、謂く長・短・方・円・三角・青・黄・赤・白・紫なりと、云何なるか衆生の生死長なる、地獄に在る時は身に不可思議の苦を受け、心に無量無辺の悪を念ず。畜生に在る時は身迭に相ひ呑嗷し、心迭に相ひ逼悩す。鬼に在る時は身焼山の若く、心は沸鑊の如く、邪見熾盛にして觝突癡兇す。人に在る時は身口意常に不饒益の事を作して以て自ら労苦す、身口意常に不饒益の事を念じて以て自ら牽纏す。天に在る時は六塵に耽染し縦逸嬉戯し、正法を聞かずして福源を杜塞す、是れを衆生の生死長しと名く。云何なるか衆生生死短なる、地獄に在る時は能く一念に心を寂静にして戒を取る。畜生に在る時は能く一念に心を静にして三宝に依る。餓鬼に在る時は能く一念に心を静にして諸根を静にす。人に在る時は能く六度を修して父母を養三宝を敬し、善を以て身口意を厳る。天に在る時は天楽を捨て戒を持し禅を楽み、教化読誦して梵行少語なり、是れを衆生の生死短しと為す。云何なるが衆生の方の生死なる、鬱単越の如き、一切の物に於て我所無く、身を捨て必らず天に上る、天上より又天に上り、唯善処に向升す、是れを生死の方楞と名く。云何なるか衆生円の生死なる、唯三途四趣の中に在て、団欒円転すること旋火煙の廻るが如き是なり。云何なるか三角の生死なる、謂く善業・不善業・無記等是れなり。云何なるか衆生青の生死なる、恒に闇地獄に入り、常に怖怕する是れなり。云何なるが衆生黄の生死なる、餓鬼の飢羸し萎黄なる是なり。云何なるか衆生赤の生死なる。畜生迭に相ひ食嗷し、流血赫然たる是れなり。云何なるか衆生白の生死なる、謂く人中天中の白業善道なり、諸天の死に臨む時の如き、余天語て言く、汝は人道に生じ去れと、若し人の死に臨まば、知識語て言く、汝は天中に向て去れと。当に知るべし、両処は是れ白の生死なり。又第五に云く、心に地獄の黒色、鬼の鴿色、畜生の黄、人の赤、天の白を画くと、此義云何。答ふ、上は五道の果報を説き、今は五道の造業を説く、故に其れ同じからざるのみ云云。是の如き等の衆生は、若為んが仏と相遇ふや、衆生は苦悩を以て自煎し、諸仏は大悲を以て物を済ひ、悲と苦と相対す、故に相遇と言ふ、又仏の如と衆生の如と一如にして二如無し、天性相ひ関はる、故に相遇と言ふ。夫れ大悲は恒に衆生を愍む、若し人天を以て教へば。我れ則ち闇惑に堕せんと、止だ青黄赤紫方円楞角等の生死を免るのみ、仏道を教ふるに非ず、若し衆生に遇て小乗を修せしめば我れ則ち慳貧に堕せんと、此事不可なりと為す、秖だ二十五有を出せばなり。若し衆生に遇て通別を教へしめば、我れ則ち偏僻に堕して仏の知見を失はんと。今皆衆生をして実相の妙慧を得て、一切皆是れ仏法にして正道に非ること無しと体達せしむ、此れ則ち尽く教ふるに仏道を以てして、生死の苦を永く尽さしむ。我れ常に是の如く説かんとす、但だ衆生の根鈍にして罪重く願の如くなる可らず。過去に仏有り、住無住と号す。己が国の衆生をして同日同時に成仏し即日に滅度せしめんと発願す、又賢劫の前に仏有りて平等と号す、亦已が国及び十方の衆生をして亦同じく一日に成仏し即日に滅度せしめんと願ず、今日仏有り、復衆生有り。云何ぞや。仏の言く、止みなん止みなん、我れ前に言ふ所は人身を得たる者のみと、頗し五道をして同日に成仏せしめんと発願せるもの有りやいなや。仏の言く、器に非るの身を以て無上道を成ず可らず、要らず先づ三趣を化して人天を得しめ、然して後、乃はち願の如くす可し、三趣は善道に非ず、何ぞ能く成仏せん、人の宝聚を求むるに空中に於て求めざるか如し。
[160]我知此衆生の下、第二に六行は別して五濁を明す、五と為す、初め二行は衆生濁を明す。善本とは真如実相なり、此れに依て善根を種へず、故に大を感ぜざるなり。堅著五欲とは即ち諸悪の本、癡より愛有るときは則ち我が病生ず。受胎之微形より下、第二に一行は別して命濁を明す、観心に釈せば一念の心起れば即ち未来の為めに業と作る、業は即ち胎なり、胎業窮り無くして世世に断ぜず、断ぜざるは即ち是れ増長なり、受胎之微形とは、形は即ち五陰、陰を世と名く、寿命は諸陰入の世を連持す、初め薄酪より已り老死に至る、故に世世増上と名く、是れ命濁なりな受陰身経に説く、凡夫身を受け、初めの七は未だ転異せず、二の七は生相有り、薄酪の如し、三の七は厚酪の如し、四の七は凝酥の如し、五の七は坏の如し、六の七は肉搏の如し、七の七は肉摶より五疱を生ず、頭手脚等なり、八の七は又五疱なり、一頭両膊両腕なり、九の七は続て二十四疱を生ず、四疱は眼耳鼻舌と作る、二十疱は二十指と為る、十の七は転じて腹相を現ず、漸々に皮骨分解して諸の異相と作る、七百の筋・七千の脈を生ず、所須の相に随て一風を用て之を染む、白相を須ふるは白風染む、乃至余風も亦是の如し、香風の故に安隠端正なり、臭風の故に安隠ならず、則ち醜陋邪戻なり、後に胎を出で五穀を食すれば則ち八万戸の虫を生ずるなりと。
[161]入邪見翻林の下、第三に一行は是れ見濁なり、五見交加して稠林密茂なるが如しに、若し有とならば是れ常見なり、若し無といへば是れ断見なり、此二見に因て六十二を生ず、或は云く、外道は我を計するに四句有り、色即ち是れ我、色を離れて是れ我、色大我小なれば我は色中に住す、我大色小なれば色は我中に住す、四陰亦爾り、是れを二十と為す、三世に六十と為る、根本を并て六十二と為すと、或は 大品の中に説く所の如し。
[162]次に深著虚妄の下、第四に一行は煩悩濁を頌す、文の如し、
[163]於千万億の下、第五に一行は劫濁を頌す。長時に仏法無し、即ち是れ劫濁なり、又上来の四濁は集て時の中に在り、故に劫濁と名く。如是人難度とは、五濁障る故に、一乗を信ぜざれば則ち度す可らざるなり。観解は、念々に悪覚して、永く正観の自覚無れば、即ち仏を見たてまつらず、心に八正無くんば即ち法を聞かず、此心度し難し。是故舎利弗の下、第三に一行は即ち権に為めに小を説く、文の如し。我雖説涅槃の下、第四に一行半は即ち是れ終に大に入らしむ。三界の妄を析し尽して色を滅し空を取るは則ち真の滅に非ず、若し無明は本とより無にして常寂なりと体達するは即ち是れ真の滅なり、本より無にして寂なりと雖も、若し道を修せざれば契会するに由無し、故に仏子行道已来世得作仏と言ふなり。
[164]我有方便力の下、第五に両行は上の不虚を頌す、上に汝等当信仏之所説言不虚妄と云ふ、勧信は前に既に頌し訖る、不虚は今更に頌す、初めの二句は先に釈迦の先に三開することを明す。次の両句は諸仏の後に実を顕はすことを明す、互に現はすのみ。後の一行の正しく不虚を明す。前に権、後に実、誠言虚しからず、疑を生ずること勿れ。
[165]過去無数劫より下、第二に二十七行半は上の過去仏の章を頌す、文二と為す、初めに二行は開三を頌す、文の如し。是諸世尊の下、第一に二十五行半有りて顕一を頌す、上の文の顕実は兼て四一有り、今の偈は具に頌す、中に於て又二あり、初めに一行は略して上の三一を頌す。皆説一乗法とは即ち是れ教一を頌す。化無量衆生とは人一を頌す。令入於仏道とは即ち理一を頌し、行一を兼ね得。次に又諸大聖主の下、第二に二十四行半有り、五乗に約して広く顕一を頌す、文に就て二と為す、初めに一行半は総じて五乗に約して以て一を顕はす。天人群生類とは、是れ諸乗を挙げて以て人一を明す。更以異方便とは、諸行を挙げて以て行一を顕はし、教一を兼ね得。第一義とは即ち是れ理一なり。異方便の下は正因仏性、即ち第一義の理なり。若し円妙の正観を用ふるは、此れ即ち実相の方便にして名けて異と為さず、若し七方便の観を用ひて第一義を助顕するは異の方便と名く。次に若有衆生の下、第二に二十三行有り、別して五乗に約して以て真実を顕はすに即ち三と為す、初めに二行は菩薩乗を開す、次に第二に一行は二乗を開す、第三に二十行は天人乗を開す、今初めに若有衆生類の下の二行は菩薩乗を開す。若し五乗の釈を作さば、但だ是れ六度の菩薩乗なり、若し七方便の釈を作さば通別菩薩乗を兼得す、何となれば、三教の大乗は皆六度を行じて而して運心に異り有り、相心に六度を行ずるは即ち三蔵の菩薩なり。無相は即ち通教なり、相無相に非ずして次第に六度を行ずるは即ち別教なり、今は但だ六度を列するのみ、未だ知らず、定判して誰に属するやを。上の文を尋ぬるに、更以異方便と云へば、独り六度の菩薩のみに非ず、即ち三教の菩薩の方便なり、昔の聞法は皆已に教一を成ず、昔の六度の行は皆已に行一を成ず。如是諸人等とは皆已に人一を成ず、皆已成仏道とは、皆已に理一を成ずるなり。諸仏滅度已若人善軟心より一行は、声聞縁覚を開して皆一乗に入るなり、何を以てか知ることを得、大品に阿羅漢の心調ひ柔軟なりと歎ず、又浄名に云く、調伏の心に住することは是れ賢聖の行なりと、是を以て之を知る、昔の善軟心は皆行一を成ず。諸人等とは是れ人一、成仏道とは是れ理一なり。供養舎利の下、第三に二十行は人天乗を開す、是れ人天乗なることを彰かにせず、但だ造像起塔、専至散乱を明す、故に知ぬ、是れ天人業なることを。 地師解して云く、童子は是れ童真地にして、二乗凡夫の二辺の欲心無し、砂を聚めて塔と為す、砂は是れ無著、塔は是れ衆行なり、積集して正覚の心を含蔵すと、彼れ謂く、義は無生に会す、以て深詣と為すと。今謂く文に乖き豎に狹し、何となれば登地は自ら応に成仏すべし、修羅の海を度るが如し、何ぞ奇と為すに足らん、今童稚の戯砂と乱心の歌詠、微を指すに即ち著なるを以て、凡夫の海を度るが如く不可思議なり、仏は分明に広く五乗を会して毫善も漏さずして、而も収羅の広意を棄てゝ、径に無生を取る、若し向の釈の如くならば殆んど二乗を摂せず、況んや凡夫をや、深を論ずれば但だ是れ一致なるのみ、広を定むれば則ち経文に乖く。問ふ、人天の小善は応に果報に住すべし、云何ぞ皆已に仏道を成ずと言ふや。答ふ、此れ応に三仏性の義を明すなるべし。大経に言く、復仏性有り、善根の人には有れども、闡提の人に無しとは。即ち是れ人天の小善の低頭挙手なり、山を為るは簣に始まり、合抱は毫に初まる、昔しは方便未だ開かざれば果報に住すと謂へり、今は方便の行を開す、即ち是れ縁因仏性の能く菩提に趣き顕実の義を成ずるなり。此れに就て二と為す、前の十九行は、天人の小善の縁因の種子を成ずるに約して以て顕実を明す、後の一行は、了因の種子に約して以て顕実を明す、文を尋ねて解す可し、前の十九行は十と為す、初めに三行半は造塔に約して天乗を明す。因時に至心に財を傾けて宝を捨つれば、果時に任運自然に楽を受く、故に是れ天乗なり。木櫁とは長安に木有りて櫁と名く、亦像を造るに任へたり、金光明に云く、仏舎利の芥粟の如き許りを以て小塔の中に置くに、三十三天は已に自然の果報に有りと、即ち其義なり。次に乃至童子の下、第二に一行は、童子戯に砂もて塔を作る、即ち是れ人業なり。因時に汎々悠然として善を作せば、果時に作意勤求して楽を得、故に是れ人業なり。次に若人為仏故の下、第三に四行は、志心造像に約して天業を明す。優婆塞戒経に膠を用ふることを許さず、失意の罪を得ればなりと、而して此の経は用ふる者なり。古師の云く、外国には樹の膠を用ふるのみと。光宅の言く。或は有る処には必らず須らく像に於て牛皮の膠を用ふることを聴許すべし、若し他物有らば即ち用ふることを得ざるなりと。有が言く、大豆の汁は膠に代て清なる可し、然るに牛皮は終に是れ不浄の物にして、後に不浄の果報を得ん、不浄銭は造像に任へず、如法の浄銭に換へ取て像を造る可しと。地持には雌黄の臭物を用ひず。戒経には半身の像を造ることを許さず、失意の罪を得ればなり。善相起らざれば生死の中に堕落す、然るに造像には各々擬する所有り、若し当堂の仏は必らず須らく坐すべし、消息の仏は或は坐し或は臥す、行動の仏は必らず応に立つべし、而して弟子は塔殿立像の前に於て坐することを得ざれ、此処は定んで仏に属するが故なり、若し白衣舎の余処の坐像の前に久しく立つこと能はざれ、坐らんことを乞ふ者は得んも、立像の前には即ち坐することを得ざるなり云云。次に乃至童子の下、第四に一行は人業を明す。次に如是諸人の下、第五に一行牛は顕実を結成す。諸人は皆人一を成ず、漸々積功徳具足大悲心とは即ち行一を成ず、仏道は即ち理一を成ず、既已に成仏す、復能く四一なり、但化菩薩は即ち是れ教一なり云云。次に若人於塔廟の下、第六に三行半は諸塵供養に約して天業を明す。銅鈸とは長安の人は露盤を呼んで銅鈸と為す、彼に在て経を翻ず、故に彼れを用ひて之に名くるのみ。次に若人散乱の下、第七に一行は散心に塵を用ひて供養するに約して人業を明すなり。次に或有人礼の下、第八に一行は身業供養に約して天人業を明す。礼拝の一句は、五体地に著するは是れ上礼にして即ち天業なり、合掌低頭は是れ中礼にして其れ人業なり。次に以此供養の下、第九に一行半は結成す、但だ実を顕はして自ら仏道を成ずるのみに非ず、亦能く権の、薪尽て涅槃するを開ずるなり云云。次に若人散の下、第十に一行有り、口業に約す、上に例せば応に天と人との業を具すべし、今は但だ人業を出すのみ云云。南無は大に義有り、或は度我と言ふ、度我は衆生に施す可し、若し仏の諸仏に答へたまふは度我の義便ならず。五戒経に驚怖と称す、驚怖とは正しく仏に施す可きなり、生死の険難は実に驚怖す可し、大を以て之を救ふに得ず、今諸仏に同じく小を以て之を済ふ、驚怖は仏に施して可なり。故に文に喜称南無仏と云ふ、喜とは救物の儀を得ることを喜ぶなり、五戒経に又帰命と云ふ、悉く衆生に施すのみ。調達は臨終に南無と称して未だ仏とに称することを得ず、便ち地獄に堕す、仏は其をして地獄より出で、当に辟支仏と作り、字を南無と曰ふべしと記したまふ、外国に天像に事る者あり、金を以て像頭と為す、賊来て之を盗み、取るに得る能はず、即ち南無仏と称するに、便ち頭を得たり、明日衆聚て云く、天像頭を失す、便ち是れ天より来り著すること無きのみ、著すれば云何ぞ頭を失せんと、天即ち一人を降して云く、賊来て頭を取るに即ち南無仏と称す、諸天皆驚動す、是故に我が便を得、是故に頭を失すと。衆人の云く、天は仏に如かずや、既に如かずんば今何ぞ仏に事へざらん、 賊南無仏と称し、尚ほ天頭を得、況んや賢者の南無仏と称せんをや、十方の尊神は敢て当らず、但だ精進して懈怠すること勿れと。那先経に云く、人死に臨んで南無仏と称し、泥梨を免るゝことを得るは云何ん、人の一石を持して水に置かば石必らず没すること疑無し、若し能く百の石子を持して船上に置かば、必らず没せざるが如し、若し直爾に死すれば必らず泥梨に入ること、石を水に置くが如し、若し死に臨んで南無仏と称せば、仏力の故に泥梨に入らざらしむ、船の力の故に石をして没せざらしむるなり云云と。胎経報恩経に云く、華林園第三大会の九十二億の人は、是れ釈尊の遺法の中に、一たび南無仏と称せん人は弥勒を見ることを得るなりと。次に於諸過去仏の下、第二に一行有りて了因の種子を明す。若し上に例せば皆相無相、非有相非無相、至心散心等の五乗の種子有り、今皆開して一実に入らしむ云云。至心に一句を聞くは是れ天業なり、散心に一句を聞くは是れ人業なり云云。問ふ、何の意ぞ、過去仏の門に約して広く五乗を明すや。答ふ、三世の仏に皆開権有り、但だ未来は未だ起らず、現在は始めて行ず、証に於て義弱し、過去は開権已に久し、化を受くるの人皆四一を成じ、並に十方に於て権を施し実を顕す、義を証する事強し、之を虚言に構ふるよりは、之を験ずるに実を以てするに如かず、故に過去仏に於て広く五乗を説くなり。
[166]未来諸世尊より下、第三に六行半有りて上の未来仏の章を頌す、文二と為す、初めの一行半は開三を頌す、後の五行は顕一を頌す。度脱諸衆生とは、一行は人一を頌す。諸仏本誓願の一行は行一を頌す。仏の所行の道、此道を得せしめんと誓ひたまふ、豈に行一に非ずや。未来世諸仏の両行は教一を頌す。知法常無性とは、実相は常住にして自性無く乃至無因性無し、無性も亦無性なり、是れを無性と名く。仏種従縁起とは、中道無性は即ち是れ仏種なり、此理に迷ふ者、無明を縁と為るに由れば、則ち衆生起ること有り、此理を解する者、教行を縁と為るに由れば、則ち正覚起ること有り、仏種を起さんと欲して一乗の教を須ふ、此れ即ち教一を頌するなり。又無性とは即ち正因仏性なり、仏種従縁起とは即ち是れ縁了なり、縁を以て了を資けて正種起るを得、一起れば一切起る、此の如きの三性を名けて一乗と為すなり。是法住法位の一行は理一を頌するなり。衆生と正覚は一如にして二無し。悉く如を出でず、皆如法を位と為すなり。世間相常住とは、出世の正覚は 如を以て位と為す、亦如を以て相と為す、位も相も常住なり、世間の衆生も亦 如を以て位と為す、亦如を以て相と為す、豈に常住ならざらんや、世間の相既に常住なり。豈に理一に非ずや。又世間を釈せば、即ち是れ陰界入なり、常住とは即ち正因なり、然るに此正因は六法に即せず、縁了は六法を離れず、正因常の故に縁了亦常なり、故に世間相常住と言ふなり。於道場知己とは此れ果を挙げて開権顕実を釈成す、道場に朗然として斯の理を久しく暢べたまふに、物情の障重ければ方便して三を施したまふ云云。
[167]天人所供養より下、第四に四行半有りて現在仏の章を頌す、上の文四有り、今は三を頌し、後の結を頌せず。初めの一行半は化を為すの意を頌す、正しく衆生を安隠せんが為めなり。次に知第一寂滅の下の一行は上の顕実を頌す。知第一寂滅とは即ち理一を頌す、其実為仏乗とは或は教一を頌し、或は行一を頌す。後に知衆生諸行の下の二行は開権を頌す、文の如し。
[168]今我亦如是より下、第二に四十三行半有りて釈迦の章を頌す、上の文には歎法希有無し、頌中には六を具す、但だ旧解の釈迦章は譬本を点出す、上を指して下に本とす、文義交加すれば、疏を尋ぬるに則ち目眩み、説を聴かば則ち心乱れ、鈍者は惑を致す、私に記するもの、先に撰して前に置き、文に至て更に帖す、庶くは以て自ら鏡むのみ。然るに釈迦章の偈に凡そ両意あり、一に上を頌す、二に下に本づく。上根は已に悟り、中根は未だ了せず、故に須らく諭を作て還て上の法を譬ふべし、譬は孤り起らす、承躡に由有り、故に譬本と言ふなり。
[169]古旧は五譬と為す、一に長者譬、二に思済譬、三に権誘譬、四に平等譬、五に不虚譬なり、然るに初めは是れ総譬にして独り長者のみに非ず、思済は是れ子を救ふに義を得ざるのみ、猶ほ見火譬を少くが故に用ひず。
[170]瑤師の云く、方便品の中の諸仏随宜所説より長行に竟るまでは正しく一乗の真実を顕はす、凡そ四章有り、一は昔の四三を開して今の四一を成や、二には五濁を以ての故に一乗を説くことを得ず、三には若我弟子自謂より下は得ざる者を明す、四には汝当一心信解より下は不虚妄を明す、始末は言異れども、意を以て之を求むるに皆実なり、下の火宅の中には、但だ方便品の内の三章を譬ふ、譬如より下、願時賜与に竟るまでは、是れ第一に五濁の章を譬ふ、各賜諸子等一大車より得未曾有に竟るまでは、是れ第二に真実の章を譬ふ、是長者等賜諸子より寧有虚妄不に竟るまでは、是れ第三に不虚妄章を譬ふと。
[171]玄暢師の云く、六譬あり、一には宅中衆災の相、二には覚者唯仏のみ一乗の念を起したまふ、三には衆生受けず、為めに怖畏の事を説く、四には三乗の楽を説く、五には還て一乗の教を説く、六には不虚妄を結するなりと。
[172]龍師の云く、六譬あり、一に舎宅の父子は仏の三界に王として衆生を化したまへるを譬ふるなり。二に長者の見火は我れ仏眼を以て六道の衆生を観見するに譬ふなり。三に長者の救火は仏三七に衆生を度せんと欲して大を用ふることを得ざるを譬ふなり。四に長者方便して誘ふに三車を以てするは、仏三乗の教を設くるを譬ふるなり。五に長者の一大車を賜ふは妙法華を説くを譬ふるなり。六に不虚妄の譬なりと。
[173]光宅の十譬とは、一に今我亦如是の二行は総じて上の権実を頌して、下の総譬の為めに本と作る。二に令利弗当知の四行は、上の五濁を頌して、下の見火譬の本と為す。三に我始坐道場の六行半は、大乗をもて化するに得ざることを明して、下の救子不得譬の本と為す。四に尋念過去仏の十一行は、三乗もて化するに得るを明して、下の救子得譬の本と為す。五に我見仏子等の一行は、大機発することを明し、下の見子免難譬の本と為す。六に咸以恭敬心の一行は、三乗の果を索むることを明して、下の諸子索車譬の本と為す。七に我即作是念の二行一句は、如来の歓喜を明して、下の長者歓喜譬の本と為す。八に於諸菩薩前の三句は、為めに大乗を説くことを明して、下の等賜大車譬の本と為す。九に菩薩聞是法の一行は、衆生の歓喜を明して、下の諸子得車歓喜譬の本と為す。十に汝等勿有疑の一行半は、仏に虚妄無きことを明して、下の長者不虚譬の本と為すなり。
[174]有人之を評すらく、若し句を以て判ぜば、応に 十九句有るべし、若し義を以て判ぜば、則ち六義有り、一に総、二に見火、三に一乗化不得、四に三乗化得、五に還説一乗、六に不虚なり、自余は六義の内に摂入すと。
[175]又十譬は則ち法譬参差なり、法説の中には、索車は前に在り、父喜は後に在り、譬説の中には、父喜は前に在り、索車は後に在り、会通せんと欲すと雖も、終に迂廻と成る。又大小相違す、法説は大機の動ずるを見るが故に喜び、譬説は小縁もて難を免るゝを見るが故に喜ぶ、法説は大因を明し。譬説は小果を叙す、法説は大の障将に傾かんとし、譬説は小難已に離る、義勢乖各す。又有無異るが故に、法説の中には、上根悟り易きを叙す、故に索車無し。譬説は中根猶惑あることを明す、故に索車有り。若し恭敬を引て索車と為さば殊に文意を体せず、今は此四失無し。
[176]然るに有無とは長行に五有り、一に開三、二に顕一、三に五濁、四に真偽、五に不虚なり、偈も亦五あり、但だ長行には真偽有れども、偈には則ち無し、偈には歎法有れども、長行には則ち無し、互に現ずるのみ。次第とは、長行は先に開三、後に顕一す、偈は先に顕一、後に開三す。開合とは、開三と顕一とを総譬の本と為す、二偈合して而も開せず。次に五濁の文を離して四譬の本と為し、開して而も合せず、不虚を不虚譬の本と為す、合せず開せず。取捨を明さば、四段の経文を六譬の本と為し、取て捨てず、歎法の一章は六譬に非る故に捨てゝ取らす。総別を論ぜば、初めに開三顕一は、総じて釈迦一化の教門を叙し、五濁より去ては皆別譬に属するなり。次に本迹とは、総じて仏教を叙するは総じて本迹を含す、五濁より去ては、別して本迹を明す。五濁の一章は正しく法身の本に居して衆生の苦を見て大悲を起すことを明す、一乗の化を得ざるよりは迹を乖るゝなり云云。
[177]今謂く、迹門の大意は正しく是れ開三と顕一となり、前に直ちに法説するに、上根は即ち悟解すれども、中下は未だ悟らず、更に為めに譬を作して、三一を譬へて暁了することを得しむ。前の法説の中に、既に略広に三を開して一を顕はす、後の譬説の中にも。亦応に略広に三を許して一を賜ふべく、因縁の中にも、亦応に三を引て一に入るべし。
[178]若し 三譬六譬十譬を作らば、三周の文に於て合せす、四人の信解に於て乖離す、是れ用ひざる所なり。
[179]今明さく、釈迦章を頌する中、大に分て両と為す、初めに今我亦如是より下両行の偈は、略して上の権実を頌し、下の総譬の為めに本と作る。第二に我以仏眼観見より下四十一行半の偈有り、広く上の六義を頌し、下の別譬の為めに本と作る。
[180]今総頌に約する中、即ち六の意有り、総譬の六義の為めに本と作ることを得。偈に云く、今我亦如是と、我は即ち釈迦なり、是れ一化の主たり、下の有大長者譬の為めに本と作る。安穏とは即ち大涅槃常楽の住処なり、此処寂静にして五濁の障無し、故に安穏と名く。安隠は即ち不安穏に対す、不安穏は即ち三界の生死行化の所なり、五濁の障有るを不安穏と名く、即ち下の火宅の譬の為めに本と作る。衆生とは即ち是れ五道受化の徒にして、下の五百人の譬の為めに本と作る。又安穏とは即ち是れ安穏の法にして、還て不安穏の法に対す、不安穏の法とは即ち五濁の法なり、下の火起の譬の為めに本と作る。種々の法門とは即ち不種々に対す、下の唯有一門の譬の為めに本と作る。知衆生性欲とは即ち是れ五道根性にして三乗の差別有り、下の三十子譬の為めに本と作る。上に向へば即ち是れ略頌、下に向へば即ち是れ総譬の本なり、本末相承け文義整足す、譬の中に当に更に 上を引て下を証すべし云云。
[181]広く上の六義を頌する中より文を分て四と作し、下の別譬の本と作す。初めに我以仏眼観より下四行は、広く上の五濁を頌し、下の見火譬の本と為す。二に我始坐道場より下十七行半は、広く上の一に於て三を開するを頌し、下の寝大施小譬の為めに本と作る。三に我見仏子等より六行は、広く上の顕実を頌し、下の等賜大車譬の為めに本と作る。四に如三世諸仏より下五行半有り、広く上の歎法希有を頌す。次に二行半有り、正しく上の不虚を頌す。次に六行有りて上の敦信を頌す、此三意を合して下の不虚譬の為めに本と作る。而して正しく二行半を用ひて不虚を頌し、下の不虚の譬の為めに本と作る。
[182]大概此の如し、細派して更に開せば、初めに五濁を頌する中に三意有り、初めに半行一字有りて仏眼の観見を明し、後の長者能見譬の為めに本と作る。次に六道衆生の下二行三句四字有りて、所見の五濁を明し、後の所見火譬の為めに本と作る。次に為是衆生の下、第三に半行有りて大悲を起すを明し、後の長者驚入火宅譬の為めに本と作る。二に我始坐の下、開三を頌するが若きは更に二意を開す、初めに六行半有りて、大乗を用ひて化するに得ざることを念じ、下の身手有力而不用之寝大譬の為めに本と作る。次に尋念過去の下十一行有りて、諸仏に同じく三乗をもて化せんことを念じ、後の設三車施小譬の為めに本と作る。三に上の顕実を頌する中、更に四意を開す、初めてに舎利弗当知我見仏子の下二行は、大乗の機動くことを明し、後の索車譬の為めに本と作る。次に我即作の下、第二に両行一句有りて仏の歓喜を明し、後の見子免難譬の為めに本と作る。次に於諸菩薩の下、第三に三句は正しく実を顕はし、後の等賜一大車譬の為めに本と作る。次に菩薩聞是の下、第四に一行は受行悟入を明し、後の諸子得一大車歓喜譬の為めに本と為る。上の不虚を頌するは、直に下の不虚譬の為めに本と作る、開することを論ぜざるなり。
[183]又一時大に開して三譬と為す、初めに今我亦如是の両行は合して離せず、下の総譬の為めに本と作る。二に我以仏眼観より下は離して合せす、下の別譬の為めに本と作る。三に不虚譬は離せず合せず、不虚譬の為めに本と作る。
[184]若し上を承け下に本けば、略広二頌は則ち三周及び信解の中に通ず、文と義と悉く皆闕けず、若し広頌に約せば更に 四意を開して上の四義を頌し、下の四譬の為めに本と作す、此れも亦三周及び信解の中に通じて文義闕けず。若し更に子派せば、五濁を頌する中を開して 三と為す、方便を頌する中を開して 二と為す、顕実を頌する中を開して 四と為す。不虚の中の但だ一を合して十意を成して下の十譬の本と作す、此十意は但だ法譬の両周に在り、信解及び因縁の中には、其文則ち闕く。
[185]故に三節の開章を作し、上を承け下に本たり、是れ趣無くして漫りに作すに非ず。
[186]略を頌する中、初めの一行は上の顕実を頌し、後の一行は上の開権を頌す。此文は窄しと雖も具に四一を頌す、今我亦如是とは、諸仏の是に如して、同じく一実を以て衆生を教化す、此れは是れ総じて顕実を頌するなり。 安穩とは涅槃秘蔵は是れ安穩の処なり、仏は自ら其の中に住したまひ、亦衆生を安置して秘密蔵に入らしめたまふ、安穏処は即ち理一を頌するなり、衆生は即ち人一や頌す、種々法門入於仏道は即ち行一を頌す、宣示は即ち教一なり。智慧力とは即ち権智の力なり、知衆生性欲とは小機を鑒みるなり。方便説諸法とは正しく権を施すなり。皆令得歓喜とは宜しきに随ひ機に称ふなり。二偈は略なりと雖も仏の一化を収む、権を開し実を顕はし、始を原ね終を要む、罄て尽きざること無し、故に略頌は下の総譬の本と為ると称するなり。
[187]二に我以仏眼観より下四十一行半は、広く上の六義を頌す、旧は最後の七行を以て、是れ法説の流通とす、今は用ひず。歎法敦信を頌することを用ふるのみ。初めに四行は上の五濁の開三を頌す、次に第二に十七行半は方便の化を施すことを頌す、次に第三に六行は上の顕実を頌す、次に第四に五行半は上の歎法希有を頌す。釈迦章無しと雖も諸仏章の中を指すなり。次に第五に二行半は上の不虚を頌す、次に第六に六行は上の敦信を頌す。
[188]初めに四行は五濁を頌す、上の文に四有り、唱数と列名と出体と結釈となり、今は但だ数と名と体の三を頌するなり、上には五濁の為めの故に三を説くと云ふ、今は五濁の為めの故に世に出づと云ふ、出世の本は応に大を説くべし、障あれば已むことを獲ず、故に前に小を説く。此れ又三と為す、初めに十一字は仏に能見の眼有ることを明す、次に第二に六道の下の二行三句四字は所見の五濁を明す。次に第三に為是衆生の下半行有りて、大悲を起して応赴することを明す。
[189]初めの十一字のうちの我以仏眼観見とは、下の文に云く、長者門外に在て立つと、下を挙げて上を証す、知ぬ、仏は法身の地に在て、常寂の仏眼を以て円に群機を照したまふ、若し根利にして濁軽くば、則ち盧舎那の像を以て一乗の法を説く、若し根鈍にして濁重くば、則ち瓔珞を脱し老比丘の像を以て驚て火宅に入り、方便して三を開したまふ、秖だ是れ時に機を鑒みたまふのみ、故に我以仏眼観見と言ふなり。若し色法を観ぜば、応に天眼を用ふべし、若し根機を分別せば応に法眼を用ふべし、云何ぞ仏眼を以て見ると言ふや、仏眼は円に通ずれば、勝を挙げて劣を兼ぬ。又四眼は仏眼に入れば皆仏眼と名く云云。
[190]六道衆生の下、第二に二行三句四字有りて所見の五濁を明す。貧窮無福慧の半行は衆生濁を頌す。入生死険道相続苦不断とは此れ命濁を頌す、深著於五欲の一行は煩悩濁を頌す。不求大勢仏及与断苦法とは此れ劫濁を頌す。深入諸邪見以苦欲捨苦とは此れ見濁を頌す、或は云く、五熱は身を炙り、苦を捨んと欲望して、反て苦報を得と。或は云く、諸見は即ち是れ受、受は即ち是れ苦なり、此苦因を行じて苦を捨んと望欲す、豈に得可けんやと。
[191]普曜に曰く、五道の源来は五戒は人と為り十善は天に生ず、慳貧は餓鬼に堕し、觝突は畜生に堕し、十悪は地獄に堕す、五趣五陰六衰無ければ則ち是れ泥洹なり、生死に処せす、泥洹に住せずして便ち菩提の決を受くと。毘曇毘婆沙第七に云く、地獄の中の人、初生の時に念じて云く、昔し沙門の説を聞くに貪欲は是れ地獄の過悪にして、大に畏る可き処なり、我れ昔し貪欲を断ぜずして今此劇悩を受くと、此れ貪欲は是れ地獄の因たることを挙ぐるなり。
[192]又云く、五道に各々自爾の法有り、地獄は色断じて還て続く、畜生は能く虚空を飛ぶ、餓鬼は摶食を施す時、能く人中に来到し、人中には勇健念力梵行有り、勇健とは果を見ずして広く能く因を修す、念力とは久遠の所作にして而も能く憶す、梵行とは能く解脱と達との分を得て正決定を得。天中には自然に意の所須に随て即ち得ること有り云云と。
[193]地獄の中に他化自在天の煩悩業及び善を成就して而して現前に行ぜず、他化自在に地獄の煩悩業及び不善を成就して而して現前に行ぜず、上を挙げ下を挙ぐ、中間は知ぬ可し。
[194]地獄は此方の名にして、胡には泥梨と称する者なり、秦には無有と言ふ、喜楽有ること無く、気味無く、歓無く利無し、故に無有と云ふ。或は卑下と言ひ、或は堕落と言ふ、中陰に倒懸して、諸根皆毀壊するが故なり。或は無と言ふは更に赦すこと無き処なり、獄卒は是れ変化にして衆生の数に非ざるを見せしむ、初め罪人を将て縛して閻王の所に至るは、是れ衆生の数なり。若し苦を受くる時は衆生の数に非ず、此の如く解するは、初めは皆正語なるも若し苦痛を受くる声は復た分別す可らず。
[195]畜生とは形傍行傍なり、故に畜生と名く。又畜生とは遍有と名く、遍ねく五道の中に有り、四天三十三天に悉く有り、而して上天の所乗の象馬等は是れ福業の化作にして衆生の数に非るなり。又畜生とは盲冥と名く、盲冥とは無明多きが故に畜生と名く。劫初の時は皆聖語を解す、後に飲食異に、諂心にして而も語皆変ず、或は復能く語らず。
[196]鬼とは胡に闍梨多と言ふ、秦には祖父と言ふ、衆生の最初に彼道に生ぜるを祖父と名く、後に生ずる者も亦祖父と名く。又慳貧にして此趣に堕す、此趣は飢渇多し、故に餓鬼と名く、亦諸天に駆り使はれ亦飲食を希望す、故に餓鬼と名く。
[197]人とは胡に摩㝹奢と言ふ、此に意と云ふ、昔し頂生王初めて化す、諸の所作有らば、当に善く思惟し、善く籌量し、善く憶念すべしと、即ち王の教の如くにして、諸の所作有らば、先に思量し憶念す、故に人を名けて意と為す。又人は能く意を息めて能く道を修し達分を得。又云く、人を慢と名く、五道の中に慢多き者を人趣と称するなり。
[198]阿修羅とは、修羅を天と名く、阿を非と言ふ、非天の、故に阿修羅と称す。又修羅を端正と名く、彼れは端正ならざる故に阿修羅と言ふ。修羅を酒と名く、阿の言は無なり、彼れ酒無きが故に阿修羅と言ふなり。
[199]天とは天然自然勝れ、楽勝れ身勝る、故に天を勝と名く。衆事悉く余趣に勝る、常に光を以て自ら照す、故に名けて天と為す。又天とは天然自然なり、阿含に云く、衆生は是れ仮名なり、界は是れ法、五趣の衆生は法界と和合す。若し衆生不善心を行ずる時は、不善界と倶なり、善心を行ずる時は、善界と倶なり、勝心を行する時は、勝界と倶なり、鄙心を行ずる時は、鄙界と倶なり、是故に比丘は当に是の学を作して種々の界を善くすべし、前は是れ因縁に六趣を釈す、後は観心もて六趣を釈するに似たり。
[200]為是衆生故の下、第三に半行有て大悲を起すことを明す、「而して大悲心を起す」とは、上に能見を挙げ、次に所見を明す、今は大悲、心を熏じて三界に応入し、方便を施設し、引て仏慧に趣くことを明すなり。