[295]爾時弥勒欲自決疑より下、偈に訖るまでは即ち是れ発問序なり、文二と為す、長行と偈頌となり、長行の中に経家は自らの疑、他の疑を述べて問を発す、問の中の此土他土文の如し。何の意ぞ偈頌有るや、龍樹の毘婆沙に云く、一に国土に随ふ、天竺に散花貫花の説有り、此間の序の後の銘の如くなり。二には楽欲同じからざるに随ふ、散説を楽ふ有り、或は章句を楽ふあり。三には解を生ずること同じからざるに随ふ、或は散説に於て解を得、或は章句に於て解を得。四には利鈍に随ふ、利なる者は一たび聞て即ち悟り、鈍なる者は再説して方に悟る。又仏の殷懃に重ねて説きたまふことを表はす。又衆集の前後なるが為めの故に偈有るのみなりと。
[296]偈に六十二行有り、文を両と為す、初の五十四行は上の問を頌し、後の八行は答を請す、問に就て両と為す、前の四行は此土を問ひ、後の五十行は他土を問ふ。
[297]長行には総じて此土の六瑞を問ふ、偈の中には長く香風地浄有て説法入定無し。文を観て、謂て盈縮と言ふ、義を尋ぬるに然らず。説法は是れ慧性、入定は是れ天心なり、天心慧性に由て能く動地放光を作す。末を挙ぐれば即ち能く本を知る、故に縮にして縮に非るなり。他は此意を見ず、弥勒は両事を問はずと謂て便ち以て瑞と為さず。今反て之を難ず、若し弥勒問はずんば文殊何が故ぞ而も答へん。又問ふ、何の処を指して問と為すや、今長行の総問を指す是れなり。若し更に其別問を顕はさば、秖だ導師の両字是なり、良に説法入定して能く人を導くを以て既に導師と称す、即ち是れ説法入定を問ふなり、是故に縮に非ず、他云く、風は檀林に由るが故に香し、地は之を加ふるに厳浄なり、両事を盈長す。今謂く盈に非ず。風は本と香無くして而も香し、奇特の為の故に以て瑞を成す。夫れ天花は至妙なり、豈に色有て而して香無んや、此れ因運んで果に至ることを表はす、花に香風有るが如し、花は既に地に集れば、地は則ち厳浄なり。因若し果に趣けば果は則ち厳浄なり。金光明に云く、功徳を聚集して仏身を荘厳すと、故に二事を以て四花を顕成す、盈にして盈に非るなり。
[298]眉間光の下、次に五十行有り、他土の六瑞を問はんことを頌す。旧云く、頌の中には、三乗四衆を問はず、仏の涅槃を問はず。今の教は三を廃す、那ぞ忽ち三を問はん、方に寿量を説く、那ぞ滅度を問はん、義に於て便ならず、故に問はざるなり。嗚呼、解せずして文を消し、経を抑へて情に就く。今明さく、頌の中に具に他土の六瑞を問ふ、文六と為す。初の三行は六趣の衆生を問ふ。二に四行は彼仏を見たてまつり及び説法を問ふ。三に三行は他土の四衆を問ふ。四に一行半は前を結し後を開す。五に三十一行半は他土に菩薩の行を修するを問ふ。六に七行は舎利を供養することを問ふ。即ち是れ仏の涅槃を問ふなり。
[299]初に三行は六趣を問ふ、此頌を験するに、上の文の光の東方を照すは、是れ総じて他土を照すの意なることを知るなり。此頌は上の総問を頌す、六趣衆生とは是れ能趣の人なり、生死とは是れ所趣の処なり、善悪業縁とは是れ趣の因なり、好醜は是れ趣果なり。
[300]又覩諸仏より下、第二に四行は彼仏を見たてまつることか問ふ、上には直ちに仏の説法を見たてまつるのみ。此には広く説法の相を明す、謂く頓教を説て大根性に逗ず、聖主師子とは、即ち此土に盧舎那の像を現ずるが如きなり。演説経法微妙第一とは、即ち此土は先づ高山を照し華厳教を演ぶるが如きなり。教諸菩薩とは、即ち此土の七処等の会には声聞の人無きが如くなり。照明仏法開悟衆生とは、即ち此土の始めて仏身を見たてまつりて如来の慧に入るが如きなり。
[301]若人遭苦の下、第三に三行は彼土の四衆を問ふ、即ち是れ頓説の後に、次に三蔵教を明すなり。若人遭苦とは声聞乗を開するなり、此頌に具に四諦を明すこと、文に在て分明なり云云。若し人、苦に遭て而も悪業を造れば、苦、尽すことを得ず、底下の衆生是なり。若し人、苦に遭て而も善業を造れば、苦も亦尽きず、下を厭ひ上を攀づるは、難陀の欲の為めの故に戒を持する等の如き是なり。若し人、苦に遭て、外道の法の中に於て解脱を求め、見を増し非を長ずる者、苦亦尽きず。若し人苦に遭て集を厭ひ、復依果を厭ひ、仏の涅槃を説きたまふを感ずる者、此人能く諸の苦際を尽すなり、他土も亦此乗を開すなり。若人有福の下の一行は、是れ中乗を開するなり。若し仏を供養したてまつること少くば苦に遭て悩を致す。若し仏を供すること多くば苦に遭ふと雖も而も福あり、故に声聞は三生に福を種え、支仏は百劫に福を種うと云ふ。彼の声聞に形ふ故に有福と言ふ。志求勝法とは、声聞は苦を厭て修行し、支仏は道を求むるが故に修行す、深く縁起勝妙の理を求むるは即ち是れ他土の中乗を開するなり。若有仏子の下、是れ六度の大乗を開するなり、真の慈悲は能く仏種を紹ぐ、故に仏子と言ふ。六度を修すが故に種種行と言ふ。志求の故に無上慧と言ふ。六度の中には六蔽無し、薬中に病無きが如し、故に浄道と言ふ、畢竟浄なるには非るなり。又、声聞は苦諦を観門と為し、縁覚は集諦を門と為し、六度の菩薩は道諦を門と為す、故に浄道と言ふ。
[302]文殊我住の下、第四に一行半有り、前を結して後を開く。見聞若斯は即ち是れ前を結す。如是衆多とは即ち是れ後を開するなり。
[303]我見彼土の下、第五に三十一行半有り、他土の菩薩の種種の修行を問ふなり、此れに就て三と為す、初の一行は総じて問ふ、次に十五行は次第に問ふ、次に十五行半は雑して問ふ、初に総問は解す可し。或有行施の下、第二に十五行有りて次第に問ふ中、六と為す。初めの六行は檀を問ふ、二に二行は尸を問ふ、三に一行は忍を問ふ、四に一行は進を問ふ、五に二行は禅を問ふ、六に三行は慧を問ふ。檀を問ふに就て三意有り、初めに四行は捨財を問ふ、一行は捨身を問ふ、一行は捨命を問ふ。珍宝奴婢は貴賤共に此施を能くす、駟馬宝車は豪侠の者の施す所なり。妻子等は是れ外身、身肉等は是れ内身なり。頭目を捨つるは即ち命を捨つるなり、而して法施を言はざるは後の般若に譲るなり。又身命財は生死の後際と等しく不壊常住を得るに約す、即ち是れ法施なり、故に別に説かざるなり。文殊師利見王の下、第二に二行は戒を問ふ。比丘に約して持戒を論ずれば、在家は施は易く戒は難し、出家は施は難く戒は易し、故に比丘に約して戒を明す、此中に五王経を引く云云。或見菩薩の下、第三に一行は忍を問ふ、忍に三種有り、閑林邃谷にして悪人悪獣、忍耐して瞋ること無し、即ち生忍なり。自ら節して志を守る、即ち苦行忍なり。仏道を求むる為めにするは即ち第一義忍なり。又而作比丘とは即ち苦行忍なり。独処閑静は即ち生忍なり、楽誦経典は即ち第一義忍なり。又見菩薩勇の下、第四に一行は精進を問ふ者なり。夫れ深山は畏る可し、窳怯の者の居る所に非ず、勇進者は能く之に安んず、傍に物無きが若く、実相を思修して念念に休まず、進んで仏道を求むるなり。又見離の下、第五に両行は禅を問ふ。前の一行は根本禅を修することを問ふ、後の一行は出世上上の禅を修することを問ふ、通途には皆根本の修有ることを得るなり。離欲とは、若し欲を離れて五通を得るは通教の定なり。又根本は本と欲を離る、背捨も亦不浄等を修して欲を離る。別教は兼て二乗の欲を離れ、中道は又順道の法愛の欲を離る云云。深修禅定とは、初禅の一品を発するは此定未だ深からず、乃至九品伝伝して深と為す。又背捨・九定・八勝・十一切入等、伝伝して深と為す、此定は転変自在にして能く諸通を発す、凡夫は但だ五通、二乗は六を具す。別教の菩薩は仏に譲て分に無漏有れども亦但だ五通と称するなり。円教は初後皆六通を具す。安禅万偈の下、第二に一行は上上禅を明す、此れは是れ別円の禅なり、静散相妨げず、滅定を起たずして諸の威儀を現ずること、修羅の琴の拊たずして韻あるが如し、縁無く念無けれども、感有れば則ち形る、故に能く安禅して仏を讃ずるなり。復見智深の下、第六に三行は般若を問ふ、二と為す、初めに一行は是れ自行なり。智深とは慧は理の本を窮むるなり。志固とは誓願広大なり、此れ即ち二種もて荘厳し、能く問ひ能く持するなり。又見仏子定慧の下、次に両行は是れ化他なり。未到は慧多く、無色は定多く、四禅は等し。又背捨は慧多く、九定は定多く、十一切は中等し。又二乗は定多く、菩薩は慧多く、仏は則ち等し。又空観は定多く、仮観は慧多く、中観は則ち等し。無量喩は即ち是れ種種の方便なり。諸教の中に無量の譬類を引て第一義を助顕するなり。破魔兵とは、空観は四魔を破し、仮観は次第に八魔を破し、中観は円に八魔・十魔・一切の魔を破す。撃鼓とは初発心住に便ち正覚を成じ、百仏世界に作仏して、円に梵輪の法皷を撃つ。又見菩薩寂然宴黙より下は第三に十五行半有りて復次第せず、見に随て問ふ。問ふ。上の六度は自ら万行を収得す、何ぞ更に問ふことを須ひて太だ煩雑なるや、答ふ、上に次第を問ふは自ら漸の一途なり、次第に非る者は不定の一途なり、既に種種の相貌と言ふ、何ぞ啻だに両途にして而も是れ煩と言はんや、此次第雑乱の両番の六度は他土に三蔵を開して後に方等十二部経を説き六度の相貌を辯ずるに擬す、具さに此間の如く異ならず。雑問の中に就て文七意と為す、初めに二行は禅を問ふ、又二あり、前の一行は捨禅に入るを問ふ、即ち是れ自行なり。次に又見菩薩放光の下は第二に一行は悲禅に入るを問ふ、即ち是れ化他なり。菩薩は定に入て光を放ち種種利益す、具さに華厳・思益に出づ云云。次に又見仏子未甞の下、第二に一行は精進を問ふ、即ち是れ般舟念仏等の法門なり。次に又見具戒の下、第三に一行は戒を問ふ。威儀無缺とは即ち是れ初めの不欠戒、浄如宝珠とは即ち是れ第十の究竟戒なり、中間解す可し。十戒は玄義中に説くが如し。次に又見仏子住忍の下、第四に一行半は忍を問ふ、即ち生法の二忍なり。次に又見菩薩離戯の下、第五に両行は更に禅を問ふ。離戯笑とは是れ掉悔蓋を却くなり。離癡眷属とは即ち瞋蓋を除くなり。近智者とは疑蓋を除くなり。一心除乱とは是れ貪蓋を却くなり。摂念山林とは睡蓋を除くなり。次に或見菩薩より飲食に至るの下は、第六に五行は檀を問ふ、二と為す、前に四行は四事の施を明す。如是の下は第二に一行は結成なり。次に或有菩薩説の下は、第七に三行有て般若を問ふ。初めに一行は説く可らずして而も般若を説く。二に一行は観ず可らずして而も般若を観ず。三に一行は言語道断、心行の処滅す、即ち是れ説く可らざるを説き、観ず可らざるを観じて般若を論ずるなり。或は此三番の般若を用ひて上の他土に方等を説く中の六度を見るを成ず可し。或は別して他土に方等を説きて後に大品の教を明し、盛んに般若の寂滅無二・清浄不著を譚ずるに擬す可し、此彼同じきなり。或は寂滅の法を説くは是れ方等の中の意、諸の法性は猶ほ虚空の如しと観ずるは是れ般若の意なる可し。正しく是れ法を歴て観を作す、法相二無しとは、此義実に大品と相会へり。若し彼土に法華を見るの意と作さば、「此妙慧を以て無上道を求む」の一行是なり、但だ妙慧を修する人を見て法華の妙慧の座席を見ず。若し座席を見ば即ち此れ彼の如しと知らん、何事の疑ふべき、但だ人を見て座を見ざれば衆を闔つて疑問するのみ。或は三番の般若は此間の般若と相同じかる可し、未だ知らず、此後に次に何の説く所ぞ、是故に疑問す、此両意は人に従て之を用ふるのみ。上の長行の文は迮く、但だ六意を挙ぐ、偈頌既に広し、義を顕はすこと冷然たり云云。
[304]文殊師利又有菩薩の下、第六に七行有り、仏滅後、舎利を以て塔を起つることを明すは、正しく上の他土の仏五濁に出で、無相の一法より漸頓の教を開するが故に、二法三道種種の行類相貌不同有ることを頌するは、上の所見の如くなり。今他土の仏の般涅槃し、仏子の徳を慕て為めに墳塔を樹つることを見るは、即ち無量は悉く一に帰入することを表はす、一より無量を出すは前の相に已に表はす、無量の一に帰するは正しく是れ涅槃に入るなり、云何ぞ寿量を妨ぐることを畏れて、塔を起て仏事を為すと作すや、痛しいかな、痛しいかな、文に就て六と為す、初めに一行は総じて仏滅起塔を標す。次に又見仏子造の下、第二に一行は塔の数を明す、次に宝塔高妙の下は、第三に一行は塔の量を明す。次に一一塔の下、第四に一行は塔の相を明す。次に諸天龍神の下、第五に一行は供養を明す。次に文殊の下、第六に両行は結なり。塔婆、此には方墳と云う、方墳は此土の塚墓の如し。大灌頂に翻じて塚と為すなり、殿堂は此土の霊宇の如し、崇台峻階は露を承け雲を干す、長く浮域を表し心を上聖に帰するのみ。樹王とは即ち波利質多なり、正しくは舎利を供し、傍に仏国土を厳る云云。
[305]仏放より下は第二に八行有て答を請ふ、二と為す、初めに三行は疑の事を挙げて請を述す、後の五行は伏難を釈す、初めの三行は三と為す、初めに一行は此土の事を見ることを挙ぐ。白毫を本と為す、故に先に挙ぐ。諸事に及ぶ故に種種と言ふ。次に諸仏の下は第二に一行は他土の事を見ることを挙ぐ。諸仏を本と為す、即ち総じて余の五を摂するなり。我等の下、第三に一行は答を請す。第二に伏難を釈するに就て二と為す、初めの四行は正しく伏難を釈し、次に一行は請を結す。伏難と言ふは、文殊内心に難を構へて肯て時に答へず、其意に三有り、一には此瑞は希奇にし倉卒軽爾に判ずること有る可らず。二には智衆は海の如く謙光して高に推る。三には靳固に前却して衆の渇仰を生ぜしむ、故に伏難を以て潜めて之を拒む、弥勒彰灼に難を釈する意も亦三有り、一には瑞大なるが故に疑大なり、若し為めに釈せずんば憂兕の懐に在て正説を聞くことを妨げん。二には衆海は乃ち多けれども機は仁者に在り、三には衆を闔つて仁を瞻る、故に知ぬ、誠を注いて殷重なり、所以に言を彰して難を釈し、請して時に答へしむ。初めの伏難は、正しく請ふに因て生ず、請して云く、仏子文殊、願はくは衆疑を決したまへと、文殊此に仍て初めの伏難を起す、汝は衆疑と云ふも衆未だ曾て疑はず、若し疑はば応に問ふべし、衆既に疑はず、我何ぞ決する所あらん。弥勒即ち第一の偈を以て釈して云く。四衆欣仰して仁及び我を瞻ると、我に及ぶは我をして問はしめんと欲す、仁を瞻るは仁の答を得んことを欲するなり。文殊は此れに因て第二の難を起す、衆同じく疑ふこと有りとも、答ふ可きこと易からす、仏の定を出でたまふを待て、然して後に疑を決せよ。弥勒即ち第二の偈を用ひて釈す、若し疑の懐に在ること有れば憂兕泰らかならず、応に以て時に答ふべし。復如来何の時にか定より起ちたまふを知る、故に仏子時に答へて疑を決して喜ばしめたまへと言ふ。文殊は此れに因て第三の難を起す、我れと仁者と同じく学地に居す。仏意を測らんと欲せば微に共に籌量せん。独り我をして答へしむること理に於て不可なり、弥勒即ち第三の偈を以て釈す、我も亦微心に思を下して両楹に踟蹰す、妙法を説くと為んや、当に授記すべしと為んや、故に仏道場に坐して得たまへる所の妙法、此を説かんと欲すと為んや、当に授記したまふべしと為んやと言ふ。文殊此に因て第四の難を起す、若し汝の説の如くならば即ち是れ疑を釈するなり、何ぞ我が答を煩さん。弥勒即ち第四の偈を以て釈す、安んぞ我猶豫の心を以て而して大事を判することを得ん、故に諸の仏土を示す、此れ小縁に非ずと言ふ。文殊の伏難既に窮まり、謙光亦止む、後の一偈は答を請するを結するなり。此四の伏難は 光宅、次師に受く、次師は江北の釗師に受く、既に是れ先賢の文外の巧思なり、今之を用ふ。
[306]是時文殊師利語弥勒より下偈を訖るまでを答問序と名く、長行と偈頌と有り、長行の文四と為す、一に語弥勒より下を惟忖答と名く。二に諸善男子我於過去より下を略曾見答と名く。三に諸善男子如過去より下は広曾見答と名く。四に今見此瑞与本無異より下は分明判答と名く。
[307]夫れ下を以て上を測るは止だ罔像に卜度す可し、昔を惟て今を儔するは頓に決す可らず、所以に初め髣髴に従い次に略見を引く。略見は未だ周からざれげ更に広曾見を引く、多を以て一を証し爾して乃ち分判す。
[308]惟忖答は上の此土の問に答へ、略曾見答は上の他土の問に答へ、広曾見答は双て此土他土の問に答ふ、判当答は双て此土他土の問を判するなり。
[309]惟忖答は二と為す、初めに標章、次に正しく惟忖す。惟とは思惟なり、忖とは忖量なり、今も昔の如くならんと惟い、昔も今の如くならんと忖る、然るに文殊は古仏なり、豈に応に知らざるべけんや、迹に思惟を示すなり。光宅は初後の両句は是れ法説なるを以て因果の広略を表はす、中間の三句は是れ譬説なり、欲説大法は是れ略開三顕一、略開近顕遠なり、演大法義は是れ広開三顕一、広開近顕遠なり。雨大法雨とは得記作仏を譬う。昔は因果定執して作仏を得ず、是れ枯涸の義なり、今皆作仏す、是れ雨潤を被る義なり。吹蠡は是れ三乗の号を改む、鼓を厳にし兵を誡るは無明を破するに譬うと。今明かさく、其法説は用いず、何となれば迹本の両門、由籍各各異る、迹の由籍起て弥勒疑を生じ、文殊為めに釈す、本の由籍は未だ起きざれば、弥勒何の疑う所ぞ、文殊何の釈する所あらん。若し此中に於て已に是れ開近顕遠の疑を釈せば、後に地裂け衆涌るに、弥勒何が故ぞ更に疑わん、更に疑ふときは則ち浪りに疑ひ浪りに釈す、後を釈することは既に虚しく、前を釈することも亦謬る、此れ大に妨ぐる所有り、故に用ひざるなり。今明かさく、弥勒は但だ迹中の此彼二土等の瑞を問う、文殊は惟忖答を以て迹中の事を答えて寿量の本中の事に関わらざるなり。欲説大法とは説法の瑞を答う、雨大法雨は雨花の瑞を答う。吹大法蠡は大衆の心喜の瑞を答う。撃大法鼓は地動の瑞を答う。演大法義は放光の瑞を答う。欲説大法とは、昔の諸仏は無量義を説て後に則ち開権顕実し、無量を収めて一に帰することを惟い、今仏は既に説法し已り、亦応に開権顕実し、無量を会して以て一に帰すべきことを忖る。一とは即ち大法なり。雨大法雨とは、昔の諸仏、天より四花を雨らして後、普ねく円因の住行向地に入るるを惟い、今仏は雨花の後皆仏因の住行向地を成ぜんことを忖る、故に雨大法雨と言ふなり。吹大法蠡とは、昔の四衆、瑞を見て歓喜して未曾有なることを得て、障り除こり機動じて即ち人教行理を改むることを惟い、今の衆喜んで亦障り除こり機動じて人教行理を改むべきことを忖る、改むる所既に深し、故に吹大法蠡と言ふなり。撃大法鼓とは、昔は地動じ已て後即ち六番に無明の賊を破すること有ることを惟い、今仏は地動の已後、亦応に六番に無明の惑を破すべきことぞ忖る、声教極めて妙なり、故に撃大法鼓と言う。演大法義とは、昔の諸仏は白毫の光を放ちて後法華を説く、彼此の道同じきを惟い、今仏は放光已後、広く五仏の道同じきことを明さんことを忖る、既に是れ仏道なり。故に演大法義と言う。是の如きの五句は、悉く是れ昔を惟て今を判じ、今を忖て昔に類するに文に会し義に附す、唯入定の一瑞を少く、而して雨花地動放光等は皆入定に由るが故に爾り、意は則ち兼ね具う、労く疑ふこと無かるべきなり、此一条を闕く、故に略答と称するのみ。今更に別して解すれば、初めの一句は総、後の四句は別なり、総とは大法是なり、別とは雨・吹・撃・演の開・示・悟・入是れなり、天は小大に非ず赤白に非ずして而も赤白の花を雨らすが如し。第一義は開示悟入に非るが如きも、此理を見る時は即ち開示悟入を証す、譬へば種子は雨を得て萌し開くが如く、今大法雨を聞て法性の種を潤し、無明の糠を破し十住の仏知見を開くなり。譬へば蠡を吹て是れ号を改むと知るが如く、今と先と已に十住を得、今は十住より法を聞て更に改めて十行に入り、仏知見を示すなり。譬へば鼓を撃つに是れ兵を誡むことを知るが如く、今と先と已に十行に在り、今十行より法を聞て誡めて廻向に入り、仏知見を悟るなり。演の言は布なり、横に闊く豎に深し、乃ち是れ演の義なり。今と先と已に十向に在り、今十廻向より十地に入り仏知見に入る、源を窮め辺を尽し、深広に備り足るなり。昔の六瑞已後、即ち開示悟入することを惟い、今瑞の後も亦応に是の如くなるべきを忖る、横豎に惟忖答を釈すること竟る。
[310]我於過去より下、第二に略曾見を引て答ふる者なり、初めは己が智を以て惟忖し、今は略曾を以て小しく前よりは分明なり、此を挙げて他土の問を答うるなり、此土の五瑞は他土に通ぜず、唯放光の一瑞のみ遍ねく東方を照す、略曾見答は専ら放光を答う、故に知ぬ、是れ他土の問を答ふるなり、今の見は昔の如く、昔は秖だ今の如し、衆生をして咸な聞知することを得しめんと欲する者は即ち聞思の両慧なり、亦信法の両行なり、無量を収めて一に帰し、三乗の教理を改めて、六番に無明等を破するなり、諸仏の道同じく、仏の知見に開示悟入するなり。故に一切世間難信の法と言うなり。
[311]如過去の下、三に広曾見答を引て更に略を分明す、此れ広く此土他土の問を答ふるなり、弥勒は光に因て横に東方を見、以て問を為す、文殊は昔を引て豎に見て答を為す、横豎に諸仏の道同じきことを顕はすなり。文三と為す、初めに一仏同を引く、次に二万仏同を引く、後に最後の一仏同を引く。
[312]前の一仏に就て又三と為す、一に時節を明し、二に名を標し、三に説法なり、時節は文の如し。仏有り日月と号すと名同じきを標する者は、通号は今仏と同じかる可し、別名云何ぞ同じからん、此れ当に名は別に義同じきを以て釈を為すべし、何となれば、日は是れ慧、月は是れ定なり、定慧は是れ自行の徳、灯明は是れ化他の徳なり、能仁は定慧を能くし自他を能くす、又日と月と灯は是れ三智なり、今仏も亦三智あり、縁に随て称別なれども義は則ち殊ならず、故に名同と言う。演説法の下、第三に説法同とは、昔仏の先頓後漸と、今仏の初頓後漸と同じなり、演説正法初中後善とは即ち是れ頓教なり、夫れ七善の語は乃ち大小に通ず、文を尋ぬるに是れ大乗の七善なり、初中後善とは即ち是れ頓教の序・正・流通なり、名けて時節善と為す、其義深遠とは即ち是れ頓教了義の理にして、二乗其辺底を測らず、故に深遠と言う、是れを義善と名く。其語巧妙とは即ち是れ頓教八音の吐く所にして、理に会して直に説きて菩薩の心を悦ばしむ、即ち頓教の文を名けて語善と為す。純一無雑とは二乗と共せず、即ち是れ頓教独一の善なり。具足とは具に界内界外満字の法を明す、即ち是れ頓教の円満善なり。清白とは二辺の瑕穢無し、即ち是れ頓教の調柔善なり。師の云く、行善と。梵行の相とは、梵は即ち頓教の無縁の慈善なり。又初中後善は解する者同じからず、今且らく一途に依る、若し小乗には戒定慧を以て三善と為す、大乗には初中後心を以て三善と為す、金光明に云く、前心の如来は不可思議なり、中心の如来は種種荘厳す、後心の如来は破壊す可らずと、此れも亦三善の意なり。文殊は古仏の頓教の七善を引くに、今仏の頓説の七善と同じく、亦他土の初めの頓説と同じ、此れを用て答を為す所以は、上の弥勒は光に拠て横に他土の仏を問ふて、聖主師子は経法の微妙第一なるを演説すと云ふに酬ふ。文殊は豎に昔を引て此れを挙げて答を為す、即ち是れ初めに仏の頓法を説くに同じなり。「声聞を求むる人の為に応ぜる四諦の法を説く」とは、即ち是れ古仏の頓に次ぐの後、漸教の法を開するに同じなり、上に若し人苦に遭へば為めに涅槃を説くと問う、今古仏も亦此漸を開するを引て以て斯の問に答するなり。「辟支仏を求むるものの為めに応ぜる十二因縁の法を説く」とは、上の若し人福有り、勝法を志求するの問に答うるなり。「諸の菩薩の為めに応ぜる六波羅蜜を説く」とは、上の仏子種種の行を修するの問に答うるなり、皆古仏の漸教を開するに同じきを引くなり。広く曾て仏を見たてまつるを引て他土の問に答うるなり。「三菩提を得て一切種智を成ぜしむ」とは、此れ古仏の頓漸を開して後、即ち顕実の説をもて始終究竟することを明す、此れ弥勒の他土の仏の般涅槃し、涅槃の後に塔を起つるを見るの問に答うるなり。若し古仏の説法の六波羅蜜に至るを引くは、今仏の已と昔と同じきことを明す、令得三菩提より去て、今仏の当と昔と同じきを明す云云。
[313]次に二万仏の名号説法皆同じきことを引く、初めは一仏を引て備さに頓漸の説法同じきを挙ぐ、中に二万仏を挙げ、但だ頓を説くに同じきを挙ぐ、故に初中後善と言うなり、後に一仏を引て但だ漸を開するに同じきを挙ぐ、然る所以は互に挙るのみ、前を指すこと知るべし、而して二万の前仏を引かざるは正しく名字説法皆同じき為めなり、義に拠るを便と為るのみ。姓波羅堕とは此に捷疾と翻じ亦利根と云い、亦満語と云うなり。
[314]其最後の下、第三に一仏同を引く、文三と為す、一には曾見の事は今の已と同じきを明す。二には曾見の事は今の今と同じきを明す。三に曾見の事は今の当と同じきを明す、曾とは昔の更る所を謂う、已は謝して過去に在るを謂う、曾と已と倶に謝し倶に更る、今久遠の者を取て曾と為し、小しき近き者を已と謂う、六瑞等を取て今と為す、仏出定より去るを取て当と為すなり。
[315]第一に其最後仏有八子よりは是れ曾と已と同じ。昔仏は八子、今仏は一子なり、数等しからずと雖も、並に同居の土に出ず、土に見思有り、倶に子有るを示す、子有るの事同じ、一と八と縁に赴て別に所表有り、一子を生ずるは総じて一道清浄を表わす、八子を生ずるは八正道を表わす、数異にして義同じ、今子有るの義同じきを取るなり。又昔仏の子は出家して大乗の意を発す、今仏の子は小乗の果に住す、此れ云何ぞ同じからん、昔は化道已に竟て、顕本の事彰なり。故に大乗の意を発すと言う、今は未だ迹を発せず、猶ほ羅漢と言うがごとし、下の文に至て発本するは即ち是れ菩薩にして其義則ち同じ。
[316]是時日月灯明仏説大乗経より下、第二に曾と今と同じきを明す。昔仏の自土の六瑞は、悉く今と同じ、次第文の如し。昔仏の他土の六瑞は、総じて今の見る所の如しと云う、則ち知ぬ、昔仏の他土の六瑞も亦今と同じきことを。昔別序を明すに既に現相と懐疑の二序同じき有て、而して集衆と発問と答問の三序無きは、義推するに則ち有らん、既に説法と言う、知ぬ、必らず衆を集むることを、既に懐疑と道う、知ぬ、応に問有るべきことを、若し問はば必らず答へん、二に例すれば必らず三序の同じきを兼ね得るなり。又若し昔の答を述すれば則ち文殊の辞を費すを俟たず、既に答を言はざれば亦問を出さず、其義解す可し。
[317]時有菩薩名曰妙光より下、第三に曾と当と同じきことを明す、此文六と為す、一に時有菩薩よりは是れ因人同なり、二に爾時日月灯明仏従三昧起よりは是れ説法名同なり、三に六十小劫よりは是れ時節同なり、四に説是経已於梵魔沙門よりは是れ唱滅同なり、五に時有菩薩名曰徳蔵よりは是れ授記同なり、六に便於中夜よりは滅後の通経同なることを明す。
[318]今は初めに。云何が因人同じき、昔仏は定より起て、妙光菩薩に因て経を説く、今の仏は定より起て身子の声聞に因て経を説く、此れ云何が同じからん。瑤師の云く、因とは因託なり、一乗の経を付伝す、直に対告するの人に非ざるなり、彼の仏の対告、何ぞ必ずしも是れ妙光ならん、今の身子に対告するが如き、身子は未だ必らずしも能く宣通すること有らず、因託して宣通すること妙光に若く莫し、今の因委の如きも文殊に若く莫し、今の仏の歎ぜざる者、往仏何ぞ必らずしも歎ぜん、文殊の往仏の妙光を歎ずるを引くは、正しくは因託す可きを明すのみ。又旧は薬王を以て所因の人と為すは亦爾る可し、但だ往を引て今を証す、小しく類せざるのみ。或は言く、文殊の疑を釈するに因て、定より起て経を説くことを得と、此対は便ならず。今明さく、爾らず、経文は自ら妙光に因て正しく説くと云う、而るに因託流通の解を作さんや、又薬王を取て例と為す、此れ乃ち公に仏語を抗む、何ぞ経を釈するに関らんや。昔は妙光に因り今は身子に因る、正しく是れ所因の人同じ。昔仏の八子は妙光を師とす。如来は定より起て妙光に対告し、又妙光に付託す、今仏の子の羅云は亦身子を師とす、仏定より起て亦身子に対告し、迹門竟て又身子に付託したまふ、今古孱斉し、更に若為ぞ此れに勝れん、而して近く身子を棄て遠く薬王を取る、疑者の言く、妙光は是れ菩薩、身子は是れ声聞なり、云何ぞ是れ同じからんと、昔は事已に彰るれば譚して菩薩と為す、今は事未だ発せざれば、是声聞と道う、迹を発するに比及で、身子は是れ大菩薩なり、同に非ずして何とか謂はん、昔妙光迹を垂れば、何ぞ必らず声聞と作らざらん、特に是れ文殊の巧説、方便して隠顕するのみ。
[319]是時日月より下、第二に説法名同は文の如し、上に弥勒は他土の初頓を見、頓の後に漸を見る、漸の後に種種の行を見る、行の後境無けれども、後に仏の涅槃を見る、今文殊は曾て仏の初の頓、頓後の漸を見漸後に種種行と云うは即ち法華を見るなるを答う、此れ彼六瑞の後、已に法華を説く、法華の後に即ち涅槃に入る。此れ分明に定んで他土の問に答うるなり。
[320]六十小より下、第三に時節同とは、下の文に、五十小劫は半日の如しと謂うと云うが如し、即ち是れ同なり。
[321]日月灯明より下、第四に唱滅同とは、昔は法華を説て即ち入滅を唱う、亦迦葉仏の如し云云。今仏は宝塔品を説く中、如来久しからずして当に涅槃に入るべきことを明す、化道已に足て滅を唱うる事斉しきなり。
[322]時有菩薩の下、第五に授記同とは、昔は徳蔵菩薩に記を授け、今経には声聞に記を授く、豈に是れ同じきことを得んや。昔は事已に成る、故に菩薩に記を授くと言う。然るに正しく是れ会三帰一し声聞は記を得るなり、若し昔声聞に記を授くと説かば、仏は定より起て更に何の論ずる所かあらん、文殊は巧に譚ず。故に迹を発せざるのみ、菩薩に記を授くと説くが若き諸経皆爾り、執教の者未だ驚かざるなり云云。
[323]仏授記已より下、第六に通経同、文五と為す、一に時節。即ち仏の滅後なり。二に其人を出す、即ち妙光なり。三に久近、即ち八十小劫なり。四に所化の衆、即ち八子と八百なり。五に古今を結会す、即ち求名妙徳等なり、所化の人に就て又二と為す、初めに八子は行成て久しく已に仏を得、八百のうちの一は方に成じて今補処に住す、此八子八百を引く所以は、近くは則ち疑を釈し、密に寿量を開く。疑を釈すとは、或は謂く弥勒は補処なれば大と為し、文殊は補処に非れば小と為す、小は応に答うべからず、大は応に問うべからずと。故に八百を挙ぐ、宜しく応に問うこと有るべし、妙光は昔親しく仏に対し先に復師と為る、故に疑を釈することは謬に非ず。密に寿量を開すとは、八子の最小のもの、仏となりて然灯と号す、然灯は是れ定光なり、妙光は是れ釈迦九世の祖師なり、孫今成仏し、師祖弟子と為る、師弟定ること無し、将に密に生非生、滅非滅の意を顕さんとす。問う、弥勒は昔し諸仏を見たてまつりて、曾て法華を聞く、何が故ぞ疑問すると、答う、時衆の機宜しくば応に須らく扣発すべきのみ。
[324]第四に今見此瑞より下は分明判答と名く、今昔の六瑞は既に同じ、惟忖決定して謬らざれば、略曾広曾まで皆決定するなり。当説大乗とは前の説法瑞を決定するなり、名妙法蓮華とは前の雨花瑞を決定するなり、教菩薩法とは前の衆喜瑞を決定するなり。仏所護念とは前の地動瑞を決定するなり、入定を兼総して悉く其中に在り。有人已同当同と作して今同と作さず、文を尋ぬるに云く、今此瑞を見るに、本と異る無しと、此れ正しく今を語る、云何ぞ六瑞を喚んで已と作さん、此文に拠て今と為す、故に三同の釈を作るなり。
[325]頌に四十五行の偈有り、上の惟忖、略曾見答を頌せず、広曾見の中に於て、但だ前後を頌して中間を頌せざるなり。初めに両行有り、広曾見中の時節名号説法等の同を頌するなり。仏未出家より下、第二に三十九行の偈有り、最後の仏の三同を頌す、次に四行有り、決定答を頌す。第二の三同中に就て三有り、初めに一行の偈有り、曾と已と同じきことを頌す。次に第二に十五行半有り、曾と今と同なるを頌す。第三に次に二十二行半有り、曾と当と同なるを頌す。
[326]仏説大より下、第二に今同の文に就て、又二あり、初めに十四行は此彼の六瑞を頌す、第二に爾時四部衆より下一行半は、四衆の疑を懐くを頌す、初めに又二あり、初めに四行の偈有り、此土の六瑞同じきを頌す。而して天鼓自鳴を長出して無問自説を表はすなり、現諸希有事とは即ち総じて諸瑞を頌すなり。此光照より下、第二に次に十行は他土の六瑞同じきを頌す、長行には但だ如今所見是諸仏土と云う、其文則ち略、此の頌は広なり、文五と為す、初めの三行は六趣の衆生を見ること同じきことを頌す、次に又見諸如来の下、第二に一行両句は見仏同を頌す。次に世尊在の下、第三に両句は仏頓教の七善法を説きたまうを聞くこと同じきを頌すなり。次に一一諸仏の下、第四に三行は声聞等の三乗を見るは即ち是れ昔仏の漸教の法を開すること同なるを頌するなり、次に又見諸菩薩の下、第五に二行は、菩薩の種種の因縁を見ることを頌す、即ち是れ方等般若の教を開くこと同じきを頌す。初めの三行は文の如し。第二に一行半は釈す。自然成仏道とは、方便道は則ち心を加へて修習す、真道を発するは、即ち是れ自然、任運に理と合するなり、四教に約すること知る可し云云。問う、発真自然ならば何ぞ諸仏の説法を須ひん。答う、船流れに順ずるに、若し風に遇い棹の助けを加ふれば疾く至る所有るが如し、風は見仏聞法を喩え、棹は修行を喩う、例せば、初果の任運に七生なる、若し仏に値て修を加ふれば、或は一生二生に無学に至ることを得るが如し云云。自然成仏道とは是れ報身、瑠璃は是れ法身にして本より浄し、金像は是れ物に応じて形を現ず。世尊在大衆敷演深法義の下、第三に半行は、此れ則ち法を将て人に約するなり、法既に深玄なり、当に知るべし、必らず大機を運んで頓教を開くなり、此れ上の純一無雑七善の文を頌するなり。一一諸仏土声聞衆の下、第四に三行は、此れ即ち人を将て法に約す、人既に二乗なり、必らず知ぬ、三蔵の説を開くなり、即ち上の声聞人の為めに応ぜる四諦を説く等を頌するなり、縁覚を頌出せずと雖も兼ね摂して中に在り。行施忍辱等とは四度を等しくするのみ、此一行は、上の六度の大乗を頌するなり。又見菩薩深入諸禅定の下、第五に両行は、上の他土の菩薩の種種の因縁信解相貌を見るを頌するなり、略して上の起塔に答へざるなり。上には他土の法華の相を見ざるか故に、此れに次で起塔を見る、今は法華の相を答出するが故に、起塔入滅の事は後に在て答うるなり。次に爾時四部衆の下、第二に一行半は、追て昔仏の四衆の疑念を頌す、文の如し。
[327]天人所奉尊より下二十二行半は、曾と今、当と同じきことを頌す、文六と為す、初めに両行二句は因人の同を頌す、次に説是法の下、第二に一句は上の説法同を頌す。次に満六十小劫の下、第三に一行一句は時節同を頌す。不思議の延促劫智に約すなり、妙光は皆悉く昔仏の法を受持するなり、亦身子の仏の付嘱を受くるが如くなり。次に仏説是法華の下、第四に五行は上の唱滅同を頌す、即ち是れ上の他土入滅の意を答ふるなり。此文に就て唱滅有り嘱累有り、嘱累は遺教の如く、悲泣有るは涅槃の如し、慰喩有るは亦遺教の如し、其得度者は悉く皆得度す、未度の者には得度の因縁を作す、例せば今仏将て弥勒に付するが如し云云。次に是徳蔵の下、第五に一行半有りて上の授記を頌す。次に仏此夜より第六に十二行有て上の通経を頌す、通経又五と為す、初めに両行有り、上の仏滅後の時節、四衆の得益を頌す。如薪尽火滅とは、小乗の仏は果報身を以て薪と為し、智慧を火と為す。慧は報身に依る、身滅すれば智亡ず、大乗の仏は機を以て薪と為し、逗応を火と為す、衆生の機尽くれば応の形も亦滅す。倍加精進とは、応に滅度を以て度すべき者なり。次に是妙光の下、第二に両句有り、上の能弘経の人を頌す。次に八十小劫の下、第三に両句有り、上の行経の時節を頌す。次に是諸八王の下、第四に八行有り、上の所益の弟子を頌す、又二と為す、初めに三行は已成の弟子を頌す。次に是妙光の下、第二に五行に当成の弟子を頌す。次に彼仏滅の下、第五に一行有り、上の古今を結会するを頌す。
[328]後の四偈は、旧云く、是れ結成して物をして慕仰せしむと、今釈す、爾らず、上の長行に分明判答有り、此文之を頌す。文三と為す、初めに我見灯の下、初めに一行有り、上の当説大乗経を頌す。次に今相如本の下、第二に両行は、上の教菩薩法を頌す。次に諸求三乗人の下、第三に一行は、上の仏所護念を頌す、文に在て解す可し。又前に弥勒は、四伏難を釈し、文殊をして必定して答有らしむ、此中には、是れ文殊は四伏疑を断じて、弥勒をして復更に問うこと莫らしむ。初めに第一疑は、文殊広く先仏の曾て法華を説きたまふことを引くに因るが故に、弥勒は潜に疑て問はんと欲す、諸仏縁に赴て人と時と各各異なり、古仏は法華と名くと雖も、今仏は何ぞ必らずしも此の如くならんと、文殊即ち第一偈を以て断じて云く、我れ灯明仏を見たてまつりしに本の光瑞此の如し、是を以て知ぬ、今仏も法華経を説かんと欲したまふらんと、此れ其名を疑うの問を断ずるなり。弥勒此に因て又疑う、自ら名同じく義同じき有り、自ら名同じく義異る有り、此名何の顕召する所ぞ、文殊即ち第二の偈を以て断じて云く、今の相は本の瑞の如し、是れ諸仏の方便なり、今仏の光明を放ちたまふも実相の義を助発するならんと、此れは是れ其体を疑ふの問を断ず。弥勒此れに因て又疑う。実相は無相なり、何人か之を会せんと、文殊即ち第三偈を以て断じて云く、諸人今当に知るべし、合掌して一心に待ちたてまつれ、仏当に法雨を雨らして求道の者を充足したまふべしと、此れ其宗を疑うの問を断ず。弥勒此れに因て又疑う。仏は法雨を雨らして止だ菩薩を洽すや、又二乗を潤したまふやと、文殊即ち第四の偈を以て断じて云く、諸の三乗を求むる人、若し疑悔有らば、仏当に為めに除断して、尽して余有ること無らしめたまはんと。此れ即ち其用を疑うの問を断ず。弥勒聯翩として疑を構ふ、文殊は頻煩に為めに断ず、既に事窮まり理尽て、即ち之を懐に得、謂ふ可し、問答を善くして二荘厳を具することを。光宅は但だ釗師の四種の伏難を釈して文殊をして必らず答へしむることを述するを知て、弥勒の美を顕はせども、文殊の四の伏疑を釈して弥勒をして問はざらしむることを見ず、妙徳の能を抑う、此義は天台より出づ、他の疏に伝ふるに非ず、語を後賢に寄て人の長を遏むること勿れ、釗師より已後数百年中に法華を講ずる者路に溢る、頗る斯の意を見る有らんや不や、長に非ずして何とか謂はん。
◎方便品を釈す
[1]此れを釈するに略と広と有り、略を二と為す、先に略、次に料簡なり。
[2]方とは法なり、便とは用なり、法に方円有り、用に差会有り、三の権は是れ矩、是れ方なり、一の実は是れ規、是れ円なり、若し智の矩に詣れば則ち善く偏の法を用て衆生に逗会す、若し智の規に詣るときは則ち善く円の法を用ひて衆生に逗会す、譬へば偏に指を挙て以て偏処を目すが如し、是れ偏法を挙て以て智を目す、宜しく法を用て以て方を釈し、用を将て以て便を釈すべし、若し総じて指を挙て以て円処を目さば、宜しく秘を将て以て方を釈し、妙を以て便を釈すべきなり。偏法を挙て方便を釈するは、蓋し衆生の欲に随て仏の本懐に非ざるなり。経に諸著を離れ三界の苦を出さしむ、是故に如来は殷勤に方便を称歎するといふが如し、此義他経を釈す可し、今品の意に非ず。
[3]又方便とは門なり、門は能通に名け所通に通ず、方便権略は皆是れ哢引にして、真実の為めに門と作る、真実の顕はることを得るは功は方便に由る、能顕に従て名を得、故に門を以て方便を釈す。経に方便の門を開して真実の相を示すといふが如し、此義は他経を釈す可し、今の品の意に非ず。
[4]又方とは秘なり、便とは妙なり、妙は方に達す、即ち是れ真秘なり。内衣の裏の無価の珠を点ずるに、王の頂上に唯一珠有ると二無く別無し、客作の人を指すに是れ長者の子にして亦二無く別無し。斯の如きの言、是れ秘、是れ妙なり、経に唯我れのみ是相を知る、十方仏も亦然り、止なん止なん、説くべからず、我が法は妙にして思ひ難していうが如し。故に秘を以て方を釈し、妙を以て便を釈す、正に是れ今の品の意なり、故に方便品と言うなり。
[5]料簡とは初番の釈は是れ体外の方便、化物の権、随他意語なり、次の釈も亦是れ体外の方便、自行化他の権、亦是れ随自他意語なり、後の釈は是れ同体の方便、即ち是れ自行の権、随自意語なり。
[6]初の釈の方便は能入に非ず所入に非ず、次の釈の方便は是れ能入にして所入に非ず、後の釈の方便は是れ所入にして能入に非ず、故に知ぬ、名同じくして其義大に異る、世人多く此意を見ずして、浪りに方便品を釈す云云。
[7]問う、方便と権と云何。答う、四句に分別するに、自ら方便の権を破する有り、権の方便を破す、方便の権を修し、権の方便を修す、方便は即ち権、権は即ち方便なり。方便の権を破すとは、四種皆是れ秘妙の方便なり、此方便は随他意の権を破するなり、権の方便を破すとは、権は是れ同体の権にして、体外の方便を破するなり、相修とは亦解す可し、相即とは亦解す可し云云。三句は他経を釈す可し、第四句は今の品の意なり。故に正法華には善権品と名く、権は即ち方便にして、二無く別無し、低頭挙手も皆仏道を成ず、方便善権は皆真実なり。
[8]広釈とは、先に旧解の五時の権実を出す、十二年の前の無常の事を照すを権と為し、無常の理を照すを実と為す、阿毘曇を指すべし。今謂く、釈論に無常は是れ対治の法にして、皆三悉檀に属すと破す、云何ぞ実有らんや、今の所用に非ず。十二年の後の般若の仮有を照すを権と為し、仮有即空を照すを実と為す、釈論に亦此義を破す、念相の観已に除こり言語の法皆滅すと、仮有即空を照すは猶是れ観想のみ、今の所用に非ず。次に浄名・思益は、内に静かに空有の二境を鑒るを実智と為し、外の変動の応用を権智と為す。今謂く、内鑒外用を二と為す、不二門に入るに非ず、今の所用に非ず。次に法華は三三を照すを権と為し、四一を照すを実と為す。今謂く、三権は一向に実に会せず、一実は三権に関らず、今の所用に非ず、次に涅槃は金剛の前の無常を権と為し、金剛の後の常を実と為す、今謂く、道前の真如も亦是れ常、道後の如量智も亦是れ権なり、此五時の権実は今の所用に非ず。乃至半満四宗に明す所の権実二智も亦今の所用に非ず。復有人解す、方便は是れ権爾、実は是れ審実なり。又方便は是れ権巧、実は是れ智慧なり。又方便は是れ権仮、三車を門外に仮る、又方便は是れ権宜、宜しく三乗を説くべきが故なり。又権は是れ譬の名、譬へば秤の錘、之を前むれば則ち重く、之を却くれば則ち軽く、中に処れば則ち平なるが如し。仏智の照察称量に合すと。是の如き等の釈、各各一途を取る。権爾権仮は処所に約す、権宜は法門に約す、権巧・秤錘は智能に約す。各各包含せず、義融妙ならず、此れを用ひて今の品を釈す可らず。又 有人は四種の二慧を以てす、初めに一は是れ権、一は是れ実なり。次に空有二智は空を観じて証せざれば、二乗を離れ、有に渉て染無ければ凡夫を出ず。次に空有の内静なるを実と為し、外用を権と為す。次に金剛の前後の常無常を権実と為す。初の二慧は信を生ぜしめ、次の二慧は解を生ぜしむ、次の二慧は他を化せしめ、後の二慧は是れ果なり。此諸の二慧、凡そ三転有り、初めに有を以て俗と為し、空を真と為す、次に空有を俗と為し、非空非有を真と為す。次に空有を二と為し、非空非有を不二と為す、二不二を皆俗と為し、非二非不二を真と為す。教と智も亦然り、何が故ぞ爾る、為人悉檀の故に、自ら人有て前を聞て悟らず、後を聞て即ち悟る、是故に二諦同じからす。又如来は常に二諦に依て法を説く、故に二諦に三門有り。又仏教多しと雖も三門を出でず。又、漸く衆生を引くが故なり。凡夫は心形是れ実なりと計す、蓋し実に非ればなり、法性の空は、乃ち真なるのみ。凡夫は即ち有を捨て空を取る、故に空有は皆是れ俗、非空非有は乃ち是れ真なりと説く。或者は二辺を捨て復中道に滞る、故に第三には二辺を遠離して中道に著せず、乃ち是れ真なり。此れ五乗の人の為めなり、初めは凡夫を引て信を生じ有を出づ、次に二乗を引て中に入らしむ、次に菩薩を引て中偏倶に捨てしむ。又中を学する者の為めにす、謂く三仮を世と為し、三仮の空なるを真と為す、此れ但だ初意を得るなり。次に三仮の空有を非するは皆俗、非空非有を真と為す云云。今彼の釈を詳にするに、乃ち是れ五時に傍せて己が意を顕はす、却て漸次梯隥の非のみ、他経を釈す可し、今の品の意に非ず。経に云く、咸く衆生をして皆覩見することを得しむと、何の時か前後開悟不同ならん。又云く、正直に方便を捨つと、那んぞ漸次に円妙に会することを用ひん。又初めに引く生信解化果等は、何ぞ今経の悟入の意に関らんや。天親の十七名を列するが如し、第十三に大巧方便と名く。又大乗方便経に方便の十種を明すに第九に善巧と名く、二乗を移して大乗方便波羅蜜に入らしむ、当に知るべし、今の品は乃ち是れ如来の方便なれば、一切法を摂すること空の色を包むが如く、海の流れを納むるが若し、豈に諸師の一枝一派を以て法界の大都を釈す可けんや。
[9]今権実を明さば、先ず四句を作る、謂く一切法皆権なり、一切法皆実なり、一切法亦権亦実なり、一切法非権非実なり。
[10]一切法権とは文に云ふが如し、諸法如是性相体力本末等と、介爾も言有れば皆是れ権なり。
[11]一切法実とは、文に如来巧に諸法を説て衆心を悦可すといふが如し、衆心は入実を以て悦と為す。又諸法は本より来、常に自ら寂滅の相なりと。又云く、如来の説く所、皆悉く一切智地に到ると。又云く、皆実にして虚ならずと。又大経に四句皆不可説なりと。
[12]一切法亦権亦実とは、文に所謂諸法如実相と云が如し、是双て一切亦権亦実を明す、例へば不浄観は亦実亦虚なるが如し云云。