[1]二に諸境の開合とは、先に十如を用て首めと為す。何となれば、此の経の命章に、絶言もて十如を称歎すればなり。今、更に五境を説く。云何んが同異なるや。十二因縁と十如との開合とは、名異なるが故に開と言い、義同じきが故に合と言う。無明支は如是性に合し、行支は如是相に合し、識・名色・六入・触・受は如是体に合し、愛は如是縁に合し、取は如是力・作に合し、有は如是因に合し、生・老死は如是果・報等に合す、云云。又た、総じて合すとは、如是相は行・有の両支に合し、如是性は無明・愛・取の三支に合し、如是体は識・名色、乃至、老死の七支を合す。如是力は還って是れ煩悩道の三支にして、無明・愛・取は能く業を生ずる力なり。如是作は還って是れ行・有の二支にして、能く苦の為に業を作るなり。如是因は還って是れ行・有の二支にして、七苦の為めに因と作るなり。如是縁は還って是れ無明・愛・取の三支にして、能く業を潤して苦を取るなり。如是果は還って是れ行・有の習果なり。如是報は還って是れ行・有の業の、名色等の報を招く。此の両番は、通じて思議の十二因縁を用て、六道の十如是に合す。次に、不思議の十二因縁を用て、四聖の十如に合すとは、無明支転ずれは、即ち変じて明と為る。明は即ち了因にして、聖人の如是性と成る。悪の行支転ずれば、即ち変じて善行と為る。善行は即ち縁因にして、聖人の如是相と成る。識・名色等の苦道転ずれば、即ち法身にして、聖人の如是体と成る。愛・取の二支転ずれば、聖人の菩提心と成る。即ち是れ如是力なり。有支、果を含むは、変じて六度の行と成る。即ち聖人の如是作と成る。亦た転じて聖人の如是因と成る。此の有支の転に二種有り。正道に転ずるは如是因と成り、助道に転ずるは聖人の如是縁と成る。老死支転ずれば、法性常住と成り、聖人の如是果・報と成る、云云。又た、総じて作すとは、体・力・作の三法は秖だ是れ煩悩・業・苦にして、変じて法身・菩提心・六度の行等と成る。三法を勤習するに、内に在りては性と成り、外に在りては相と成る。正意は体と成り、誓願深遠なるは力と成り、行を立つるは作と成り、果を牽くは因と成り、相い助くるは縁と成り、剋発するは果・報と成る、云云。若し細かく四聖を分かたば、節節に異なり有り。今は大概を取るが故に、通じて釈するのみ。『経』に云わく、「一切の智願は猶お在りて失わず」と。二乗も亦た通釈を作すことを得るなり。
[2]四種の四諦は十如に合すとは、生滅・無生の両種の苦・集は是れ六道の十如なり。如是相・如是性は是れ集、如是体は是れ苦、如是作・力・因・縁は又是れ集、如是果・報は又た是れ苦なり、云云。生滅・無生の両種の道・滅は、是れ析・体の二乗、及び通の菩薩の十如なり。如是相・性は即ち是れ道、如是体は即ち是れ滅、如是力・作・因・縁は皆な是れ道、如是果・報は又た是れ滅なり。無量・無作の両種の苦・集は、即ち是れ四聖の界外の果報の十如なり。集諦は即ち是れ界外の如是相・性・力・作・因・縁なり。苦諦は即ち是れ界外の如是体・果・報等なり、云云。無量・無作の両種の道・滅は、即ち是れ四聖の界外の涅槃の十如なり。道諦は即ち是れ涅槃の性・相・力・作・因・縁等にして、亦た是れ般若・解脱なり。滅諦は即ち是れ涅槃の体・思・報等にして、亦た常住の法身と成るなり、云云。
[3]四種の四諦は四種の十二因縁に合すとは、生滅・無生の両の苦・集は、即ち是れ両種の思議の十二因縁なり。生滅・無生の両種の道・滅は、即ち是れ両種の思議の十二因縁の無明滅、乃至、老死滅なり。無量・無作の両の苦・集は、即ち是れ両の不思議の十二因縁なり。無量・無作の両の道・滅は、即ち是れ両の不思議の十二因縁の無明滅、乃至、老死滅なり。此れ解す可し。
[4]七種の二諦は十如に合とは、蔵・通・別・円入通の凡そ四俗は、皆な是れ六道の十如なり。蔵・通の両真は是れ二乗の十如なり。別・円入別との両俗は、有の辺は是れ六道の十如、無の辺は是れ二乗の十如なり。円の俗、此れは九法界の十如に通ず。別入通・円入通・別・円入別・円の凡そ五種の真は、皆な是れ仏法界の十如なり。
[5]七種の二諦は四種の十二因縁に合すとは、蔵・通・別円入通の凡そ四俗は、即ち是れ思議の両種の十二因縁なり。蔵・通の両真は、即ち是れ思議の十二因縁の無明滅、乃至、老死滅なり。別・円入別の両俗は、有の辺は是れ思議の十二因縁、無の辺は是れ思議の無明滅、乃至、老死滅なり。円の俗は即ち界の内外の四種の十二因縁に通ずるなり。別入通・円入通・別・円入別・円の凡そ五種の真は、即ち是れ界外の不思議の十二因縁の無明滅、乃至、老死滅なり。
[6]七種の二諦は四種の四諦に合すとは、実有の二諦は、即ち生滅の四諦なり。幻有の二諦は、即ち無生の四諦なり。別入通・円入通の両俗は、還って是れ無生の苦・集なり。別入通の真は是れ無量の道・滅なり。円入通の真は是れ無作の道・滅なり。別の俗、円入別と俗、此れは是れ無量の苦・集、円の俗は是れ無作の苦・集なり。別の真は是れ無量の道・滅、円入別の真、円の真は、是れ無作の道・滅なり。
[7]五種の三諦は十如に合すとは、別入通・円入通の両俗は、是れ六道の十如なり。別の俗、円入別の俗は、有の辺は是れ六道の十如、無の辺は是れ二乗の十如なり。円の俗は 意、九界に通ず、云云。五種の真諦は、皆な是れ二乗・菩薩等の十如なり。五種の中諦は、皆な是れ仏界の十如なり。
[8]五種の三諦は四種の十二因縁に合すとは、別入通・円入通の両俗は、是れ六道の思議の十二因縁なり。別・円入別の両俗は、有の辺は是れ思議の六道の十二因縁生、無の辺は是れ思議の十二因縁滅なり。円の俗は、義通ず、云云。今且らく是の四種の十二因縁を用うれば、五種の真諦は、即ち是れ思議の十二因縁滅なり。亦た即ち是れ不思議の十二因縁生なり。五種の中諦は、即ち是れ不思議の十二因縁滅なり。
[9]五種の三諦は四種の四諦に合すとは、別入通・円入通の両俗は、即ち無生の苦・集なり。別の俗、円入別の俗、円の俗は、通じて是れ無生の苦・集なり。亦た是れ無生の道・滅なり。亦た是れ無量の苦・集なり。別入通・円入通の両真は、本と但空を取る辺は、是れ無生の道・滅なり。別の真、円入別との真は、即ち是れ無生の道・滅なれども、無量に於いては是れ苦・集なり。円の真は、無生に於いては是れ道・滅なれども、無量・無作に於いては是れ苦・集なり。別入通の中は是れ無量の道・滅、円入通の中は是れ無作の道・滅、別の中は是れ無量の道・滅、円入別の中は是れ無作の道・滅、円の中は正しく是れ無作の道・滅なり。
[10]五種の三諦は七種の二諦に合すとは、前の両の二諦の、合せられざるを簡ぶなり。次に二種の二諦は、二の俗は即ち是れ五種の三諦が家の五種の俗、二の真は、空の辺は即ち是れ五種の三諦が家の真、不空の辺は即ち是れ五種の三諦が家の中なり。後の三種の二諦は、三の俗は、空の辺は即ち是れ五種の三諦が家の真、有の辺は即ち是れ五種の三諦が家の俗、三の真は即ち是れ五種の三諦が家の中なり。又た、一種の説を作して、後に簡ぶが如きは、前の二諦は合せられず。後の五俗に真有り俗有り、後の五真に真有り中有り。
[11]一実諦は十如に合すとは、一一の法界に皆な十界を具す。九界を簡却すれば、但だ仏法界と同じきのみ。三種の十二因縁を簡ぶに、但だ一種の十二因縁滅と同じきのみ。三種の四諦を簡ぶに、但だ一実の四諦と同じきのみ。七種の二諦を簡ぶに、但だ五の真諦と同・不同有るのみ。五種の三諦を簡ぶに、但だ五の中諦と同じきのみ、云云。
[12]無諦不可説と言うは、十如に合す。如は不異に名づく。即ち是れ空寂なり。言辞の相は寂滅して、説示す可からず。即ち是れ十種は皆な如の義なり。諸もろの無明滅、乃至、老死滅は、其の義甚深なり。甚深は、即ち無諦と同じきなり。生生不可説、乃至、不生不生不可説は、即ち無諦と同じきなり。七種の真諦は、皆な不可説なり。最初の真諦不可説とは、身子の云うが如し。「我れは、解脱の中に言説有ること無しと聞く」と。況んや後の六をや。生死に非ず、涅槃に非ず。既に二辺に非ざれば、亦た中道無し。即ち五種の中諦は、無諦と同じきなり。一実を虚空と名づく。虚空に一無し。云何んが実有るや。即ち無諦と同じきなり。無諦は自ら存する所無し。平等大慧は若干無きなり。若干無しと雖も、若干無量なり。之を舒ぶれば、法界に充満す。何く従り来るやを知らず。無量なれども若干無し。之を収むれば、有る所を知ること莫し。何く従り去るやを知らず。不来不去は、即ち是れ法仏なり、云云。
[13]復た次に七種の二諦は、縁に赴きて開合し、転転相入す。一一に又た各おの随情・随情智・随智等有り。余の五義も例するに、亦た応に有るべし、今具さには載せず。何となれば、仏は一音を以て法を演説するに、衆生は類に随って各おの解を得ればなり。自ら之れを思え。
[14]問う。諸境の理既に融会すれば、何の意ぞ紛葩して更に相い拘入せんや。答う。如来、十界の性相を観知するに、成熟の者、未成熟の者有り。大機未だ熟さずば、謗を起こさしめず。小機若し熟さば、時を失わしめず。其の宜しき所に随って単に応じ、複に応じ、偏円相入して、之を成熟し、聞けば即ち益を得しむ。『華厳』は具さに十界を鑑みると雖も、両界熟するが故に、別・円の二種をもて之を成熟す。三蔵も亦た十界を鑑みれども、二乗の性相熟するが故に、生滅を用て、之を成熟す。方等も亦た十界を鑑みれども、四界熟するが故に四種を用て相入して、之を成熟す。『般若』も亦た十界を鑑みれども、亦た四界熟するが故に、三種を用て相入して、之を成熟す。『法華』も亦た十界を鑑みれども、一の性相熟すれば、但だ一の円諦もて之れを成熟するのみ。若し善巧の方便、出没の調熟無くば、云何んが境智、而も融妙なることを得るや。譬えば画師の尚お能く五彩を淡入して、種種の像を作るが如し。況んや仏法王は法に於いて自在にして、而も種種に間入して衆生を調伏すること能わざらんや。
[15]問う。上に六境等を明かす。此の経は、名無くして其の義有ることを聴可するや。答う。十如の名義は、已に前に備う。四種の十二因縁は、化城品に生滅の十二因縁を明かす。譬喩品の「但だ虚妄を離るのみ」とは、是れ不生の十二因縁なり。方便品に「仏種は縁に従り起こる」と云うは、是れ界外の無量・無作の両種の十二因縁なり。四の四諦とは、譬喩品の「諸もろの苦の因る所は、貪欲を本と為す」とは、是れ生滅の四諦なり。薬草喩品の「空法に了達す」とは、是れ無生の四諦なり。又た、「無上道」と云い、及び方便品の「但だ無上道を説くのみ」「如来の滅度」等とは、是れ界外の無量・無作の両種の四諦なり。十如の差別は是れ世諦なり。「唯だ仏と仏とのみ乃ち能く諸法の実相を究尽す」とは、即ち真諦なり。安楽行品に云わく、「亦た有為・無為、実・不実の法を分別せざれ」と。『有』は是れ俗諦、『無』は是れ真諦なり。「亦た不分別せざれ」は、是れ二辺を遮して、中道を顕わす。寿量に云わく、「如に非ず、異に非ず」と。「異に非ず」は俗に非ず、「如に非ず」は真に非ず。三諦の義なり。方便品に云わく、「更に異の方便を以て、第一義を助顕す」と。是れ一実諦なり。又た云わく、「唯だ此の一事のみ実なり」と。若しは言わく「無分別の法を説く」と。又た、「諸法の寂滅の相は、言を以て宣ぶ可からず」と。是れ無諦の義なり。
[16]第二に智妙とは、至理は玄微にして、智に非ざれば顕わるること莫し。智は能く所を知れども、境に非ざれば融ぜず。境既に融妙なれば、智も亦た之れに称う。其れ猶お影響のごとし。故に境に次いで智を説く。
[17]智を即ち二と為す。初めに総じて諸智を論じ、二に境に対して智を論ず。総じて智を六と為す。一に数、二に類、三に相、四に照、五に判、六に開なり。
[18] 数とは、一に世智、二に五停心・四念処の智、三に四善根の智、四に四果の智、五に支仏の智、六に六度の智、七に体法声聞の智、八に体法支仏の智、九に体法菩薩の入真方便の智、十に体法菩薩の出仮の智、十一に別教の十信の智、十二に三十心の智、十三に十地の智、十四に三蔵の仏の智、十五に通教の仏の智、十六に別教の仏の智、十七に円教の五品弟子の智、十八に六根清浄の智、十九に初住より等覚に至るの智、二十には妙覚の智なり。
[19]二に類とは、世智は道無く、邪計妄執す。心は理外に行じて、信ぜず入らざるが故に一と為す。五停心・四念処は、已に初賢に入りて、仏法の気分あれども、倶に是れ外凡なるが故に一と為す。四善根は、同じく是れ内凡なるが故に一と為す。四果は、同じく真を見るが故に一と為す。支仏は、別相観もて能く習を侵すが故に一と為す。六度は、理を縁ずる智弱く、事を縁ずる智強きが故に一と為す。通教の方便の声聞は、体法智勝るるが故に一と為す。支仏は、又た小しく勝るるが故に一と為す。通教の菩薩の入真方便の智は、四門遍く学ぶが故に一と為す。通教の出仮の菩薩の智は、正しく俗を縁ずるが故に一と為す。別教の十信の智は、先に中道を知り、前に勝れ後に劣るが故に一と為す。別教の三十心は、倶に是れ内凡なるが故に一と為す。十地は、同じく是れ聖智なるが故に一と為す。三蔵の仏は、是れ師の位の名にして、三乗の弟子に勝るるが故に一と為す。通教の仏の智は、惑を断じ機を照らすこと勝るるが故に一と為す。別教の仏の智は、又た勝るるが故に一と為す。円教の五品弟子は、同じく煩悩性を具して、能く如来秘密の蔵を知るが故に一と為す。六根清浄の智は、真に隣るが故に一と為す。初住より等覚に至るは、同じく無明を破するが故に一と為す。妙覚の仏の智は、無上最尊なるが故に一と為す。是の如き等、其の類に随って、相似の者を分かち、或は離し、或は合して、判じて二十と為す、云云。
[20]三に相を辨ずとは、天竺の世智は、極は非想に至る。此の間に宗とする所は、要は忠孝に在り。五行・六芸・天文・地理・医方・卜相・兵法・貨法・草木千種なるも皆な識り、禽獣万品なるも名を知る。又た、左に塗り右に割き、等しくして憎愛無く、根本定を獲て、五神通を発す。河を停めて耳に在き、釈を変じて羊と為し、風雲を納吐し、日月を椚模す。法は是れ世間の法、定は是れ不動の定、慧は是れ動出せず。 名利を邀め、見愛を増す。世心の知る所なるが故に、世智と名づくるなり。
[21]五停・四念とは、定有るが故に停と言い、慧有るが故に観と言う。観は能く邪を翻じ、定は能く乱を制す。数息は散を治し、不浄は貪を治し、慈は瞋を治し、因縁は癡を治し、念仏は障道を治す。念処は、是れ苦諦の上を観ずるの四智にして、四倒を治す。四倒起らざるは、此の四観に由る。初めに四倒を翻じて、未だ聖理に入らざるが故に、外凡の智と言うなり。
[22] 煖法は、四諦の境を縁じて智を生ず。煩悩を伏するの智更に増して、十六観智と成る。火鑽の上下相い依りて火を生じ薪を焼くが如し。有の智を以て有の境を知り、能く煖智を生じて、有をして萎粹せしむ。夏時に華を聚めて癪と為すに、華より煖気を生じて、還って自ら萎粹するが如し。又た、陰に依りて陰を観ずるに、智火を発して還って陰を焼くこと、両竹相い摩して火を生じ、還って竹林を焼くが如し。尊者瞿沙の説かく、「解脱を求むる智火は、煖最も初めに在り。火は煙の初めに在るを以って相と為すが如し。」と。無漏の智火も亦た煖法の先に在るを以って相と為す。日の明相の初めに在るを相と為すが如し。是の故に煖と名づく。正法・毘尼の中に於いて、信愛敬を生ず。正法とは道諦を縁じて信じ、毘尼とは滅諦を縁じて信ず。煖は能く四諦を縁ず。云何んが二と言わん。答う、此の二は最も勝るれば、応に先に説くべし。又た、正法は是れ三諦、毘尼は是れ滅諦なり。仏は満宿の為めにするが如し。「我に四句の法有り。当に汝の為めに説くべし。知らんと欲するや。当に汝が意を恣にすべし。」と。四句は、即ち四諦なり。所有る布施・持戒、尽く解脱に向かうは、是れ其の意趣なり。色界定より起こるは、是れ其の依なり。自他の前に於いて善根を生ずるは、是れ相似の因なり。四の真諦を縁ず。頂は是れ其の功用の果なり。自他の相似の後に善根を生ずるは、是れ依果なり。色界の五陰は、是れ其の報なり。涅槃決定の因と、及び善根を断ぜざるとは、是れ其の利なり。十六行は、是れ其の行なり。是れ縁生なり。是れ修慧なり。色界繋なり。三三昧なり。三根は説く所に随って相応す。衆多の心なり。是れ退なり。煖に三種有り。下の下、下の中、下の上を謂う。頂に三有り。中の下、中の中、中の上なり。忍に二種有り。上の下、上の中なり。世第一に一種あり、上の上を謂う。此の四善根は、三を以て之を言わば、煖は是れ下、頂は是れ中、忍・世第一は是れ上なり。復た有る説は、「煖に二有り、下の下、下の中を謂う。頂に三有り。下の上、中の下、中の中を謂う。忍に三有り。中の上、上の下、上の中を謂う。世第一法に一有り。上の上を謂う。亦た三を以て之を言わば、煖は是れ下の下、頂は是れ下の中、忍は是れ中の上、世第一は是れ上の上なり」と。瞿沙の云わく、「煖に下の三有り、頂に六有り。下の下、乃至、中の上なり。忍に八有り。下の下、乃至、上の中なり。世第一は、但だ上の上なるのみ。三を以て之れを言わば、煖法は一種なり。下を謂う。頂法は二種なり、下、中を謂う。忍に三種有り。下、中、上を謂う。世第一に一種有り。上を謂う」と。煖に二の捨有り。一に離界地、二は退時なり。退する時、捨てて地獄に堕す。五無間を作れども、善根を断ぜず。頂も亦た是の如し。忍は唯だ一の捨なるのみにして、地獄に堕せず、云云。
[23]頂法とは、色界の善根に、動・不動、住・不住有り、難・不難、断・不断、退・不退有り。動、乃至、退者に就いて、二有り。下なる者は是れ煖、上は是れ頂なり。彼の不動、乃至、不退の者を二と為す。下なる者は是れ忍、上なる者は是れ世第一法なり。復た有る説は、「応に下頂と言うべし。所以は何ん。煖法の頂に在るが故に、頂と名づけ、忍法の下に在るが故に下と名づく」と。復た有る説は、「山頂の道は、人久しくは住せず、若し難無くば、必ず此こを過ぎて彼しこに到るべく、若し難に遇わば、即便ち退還するが如し。行者も頂に住すること久しからず。若し難無くば、必ず忍に到り、難有らば、退きて煖に還る。猶お山頂の如し。故に頂と名づく」と。云何んが観と為すや。仏法僧に於いて、下の小信を生ず。小信とは、此の法久しく停まらざるが故に、下小と言う。此の信、仏を縁じて小信を生ずるは、是れ道諦を縁ず。法を縁じて下の小信を生ずるは、是れ滅諦を縁ず。
問う、応に能く四諦を縁ずべし、云何んが二諦を縁ずと言うや。答う、道・滅は勝るるが故なり。清浄にして過無く、是れ妙、是れ離にして、能く信を生ずる処なり。化を受くる者の信楽の心を生ぜんが為めの故なり。若し世尊、苦・集は是れ信敬す可しと説けば、則ち化を受くる者無し。此の煩悩・悪行・邪見・顛倒は云何んが信敬す可きや。我れは常に此れに逼迫せらる。化を受くる者は、道・滅に於いて、欣楽を生ず。是の故に二を説くなり。復た有る説は、「仏・僧を信ずるは是れ道を縁じ、法を信ずるは是れ三諦を縁ずれば、則ち尽く四諦を信ずるなり」と。問う。頂に住するも亦た陰を信じ、亦た宝を信じ、亦た諦を信ず。何が故に但だ三宝を信ずと説くのみならん。答う。三宝は、是れ信敬を生ずる処なり。但だ行者の意に随うのみ。陰に於いて悦適を生ずるは、是れ名づけて煖と為す。宝に於いて悦適を生ずるは、是れ名づけて頂と為す。諦に於いて悦適を生ずるは、是れ名づけて忍と為す。問う、何が故に頂の退にして、煖の退を説かざらん。答う。頂既に退すれば、亦た応に煖の退を説くべし。行者は頂に在る時、煩悩業の留難多し。煩悩等は是の念を作さく、「若し行者は忍に到れば、我れは復た誰れが身の中に於いて、当に果報を作るべけん」と。欲界を離るる時の若きも亦た念ずらく、「行者、欲界を出づれば、我れは復た誰れが身の中に於いて、果報を生ぜん」と。非想非非想処を離るる時も亦た念ずらく、「行者、彼の欲を離れ已らば、更に身を受けず。我れは復た誰れが身の中に於いて、果報を生ぜん」と。此の三時に於いて、諸もろの留難多し。留難もて退するが故に、大いに憂悩す。人の、宝蔵を見て大いに喜び、取らんと欲して、即ち失うが如し。頂法に住する者は自ら念ずらく、「久しからずして、当に忍を得、永く悪道を断じて、大重利を獲ること、猶ほ聖人の如かるべし」と。而して忽ちに退失するが故に、大いに憂悩す。是の故に頂退と言うなり。若し能く善友に親近し、其れに従いて随順方便の法を聞き、内心に正観して、仏菩提を信じ、善く法を説くを信じ、僧の清浄の功徳を信ぜば、是れ宝を信ずることを説き、色は無常なりと説き、乃至、識は無常なりと説くは、是れ陰を信ずることと説き、苦・集・滅・道有ることを知るは、是れ諦を信ずることと説く。若し是の如くば、即ち頂に住す。若し是の如からずば、即ち頂退す。
[24]忍法の観とは、正しく欲界の苦、色・無色界の苦、欲界の行の集、色・無色界の行の集、欲界の行の滅、色・無色界の行の滅、欲界の行を断ずる道、色・無色界の行を断ずる道を観ず。是の如き三十二心は、是れ下忍と名づく。行者は、後時に漸漸に行、及び縁を減損す。復た更に正しく欲界の苦、色・無色界の苦を観じ、乃至、欲界の行を断ずる道を観じて、色・無色界の行を断ずる道を観ずることを除く。是の中に従って中忍と名づく。復た更に正しく欲界の苦を観じて、色・無色界の苦を観じ、乃至、色・無色界の行の滅を観じて、一切の道を除滅す。復た正しく欲界の苦、色・無色界の苦を観じ、乃至、欲界の行の滅を観じて、色・無色界の行の滅を除く。復た正しく欲界の苦を観じ、乃至、色・無色界の行の集を観じて、一切の滅を徐滅す。復た正しく欲界の苦を観じ、乃至、欲界の行の集を観じて、色・無色界の行の集を除く。復た正しく欲界、色・無色の苦を観じて、一切の集を除く。復た正しく欲界の苦を観じて、色・無色界の苦を除く。復た正しく欲界の常に相続して断ぜず、遠離せざることを観ず。是の如く観ずる時、深く厭患を生ず。復た更に減損して、但だ二心を作して、一行を観ずるのみ。苦法忍・苦法智に如似たり。是の如く正しく観ずるは、是れ中忍と名づく。復た一心に欲界の苦を観ずるを以て、是れ上忍と名づく。
[25]復た次に、世第一法を生ず。世第一法の後、次に苦法忍を生ず。譬えば、人の己が国従り他の国に適かんと欲するに、財産多くして持ち去ること能はず、物を以て銭に易え、猶ほ銭を嫌いて金に易え、金を嫌いて多価の宝に易えて、他国に往適くが如し。行者は、乃至、漸く捨て、相続して離れず、上忍を生ず。上忍の後に、第一法を生じ、第一法の後に、苦忍を生ず。問う、世第一法に、三品有りや。答う。一人には無く、多人には有り。身子は上、目蓮は中、余は皆な下なり。仏・支仏・声聞に就いて、三品と為す。世第一法とは、此の心・心数の法は、余の法に於いて最と為し、勝と為し、長と為し、尊と為し、上と為し、妙と為す。亦は分、亦は都なり。分とは、世間の法に勝るるとも、見諦には勝れず。見諦の眷属は、相い離れず。慧力は偏えに多きが故に、熏禅は凡夫と同じく一処に生ぜざるが故に、尽智の時の一切の善根は、永く一切の諸もろの垢障を離るるが故なり。三三昧は、乃至、無漏を悪賎す。何に況んや有漏をや。応に都勝なるべからず。分に彼の煖・頂・忍法に勝る。亦た応に第一と言うべし。応に分勝と言うべし。煖・頂・忍・一切の凡夫の得る所の禅・無量・解脱・除入に勝るるなり。或は都勝と言う。一切の事業の中に勝ると謂うには非ず。但だ能く聖道の門を開くを以ての故なるのみ。彼の見諦等は、聖道の門を開くこと能わず。世第一法は聖道の門を開くを以て、彼の見諦等の法、修することを得。見諦等の法、修することを得るは、皆な是れ世第一法の功用なり。是の世第一法の名義は、最勝の義、是れ第一の義なり。妙果を得るは是れ第一の義なり。高幢の頂に、更に上有ること無きが如し。是れ第一の義なり。問う。前の諸もろの義に、差別ありや。答う。此れ皆な上妙の義を歎説するも、亦た差別有り。不浄、安般に於いては最と名づけ、聞慧に於いては勝と名づけ、思慧に於いては長と名づけ、煖に於いては尊と為し、頂に於いては上と為し、忍に於いては妙と為す。又た、未至に依るを最と為し、初禅に依るを勝と為し、中問を長と為し、二禅を尊と為し、三禅を上と為し、四禅を妙と為す。是の如きの種種の説、此れは『毘婆沙』に依りて釈す。委しく知らんと欲せば、彼れに向かって尋ねよ。
[26]初果は八忍八智にして、三果は重慮して真を縁ずれば、九無礙、九解脱の智なり。
[27]支仏は、総相・別相を用う。三世に約して苦集を明かし、十二因縁を分別するが如きは、即ち別相の相なり。
[28]六度は、理を縁ずる智弱ければ、伏すれども、未だ断ぜず。事の智強ければ、能く身・命・財を捨てて、遺顧する所無し。声聞は、能く真を発して聖と成れども、猶お我が衣、我が鉢を論じ、互いに強弱を論ず、云云。
[29]通教の声聞は、総相の一門をもて、俗は即ち真なりと達す。通教の縁覚は、能く一門の総相・別相に於いて、俗は即ち真なりと達す。通教の菩薩は、能く四門の総相・別相に於いて、俗は即ち真なりと達す。又た、能く遍く四門に出仮して、衆生を教化す。
[30]十信には果頭の真如実相を信じて、此の理を求めんが為めに、十信の心を起こす。十住は正しく入空を習い、傍ら仮・中を習う。十行は正しく仮を習い、傍ら中を習う。十迴向は正しく中を習う。初地に中を証し、二地已上に中を重慮す。
[31]三蔵の仏は、一時に三十四心、八忍・八智・九無礙・九解脱を用いて、正習を断じ尽くす。通の仏は、道場に座し、一念相応の慧もて余残の習気を断ず。別教の仏は、金剛の後心を用いて、一品の無明を断じ、究竟し尽くして成仏す。或は言わく、「断ずる時、是れ等覚ならば、仏は断ずる所無し」と。但だ円満菩提を証得して、具足するのみ。
[32]円の五品は、五欲を断ぜずして、而も諸根を浄め、煩悩の性を具して、能く如来の秘密の蔵を知る。六根浄の位は、相似の中道智を獲。初住は、如来の一身・無量身を獲、法流海の中に入りて行じ、任蓮に流注す。後の位は解す可し。復た記さず。
[33]四に智の境を照らすことを明かすとは、若し智に由りて境を照らし、境に由りて智を発せば、四句皆な性の中に堕す。別に記すが如し、云云。若し四悉擅の因縁もて境智を立てば、但だ名字有るのみ、云云。問う。智は能く境を照らす。境も亦た能く智を照らすや。答う。若し不思議と作して釈せば、更互に相い照らすこと、義として亦た妨げ無し。『仁王般若』に云わく、「智、及び智処を説くを、皆な名づけて般若と為す」と。鏡面の互相いに照らすに譬う。亦た大地の一、能く種種の芽を生じ、芽も亦た地の一を生ずるが如し。且らく斯の義を置く。
[34]世智は六道の十如を照らす。五停心智より去って体法に至るまで、凡そ七智は、二乗の十如を照らす。六度、及び通教の出仮の菩薩の智は両属す。上求は菩薩の十如を照らし、下化は六道の十如を照らす。四十心の智も亦た両属す。上求は菩薩の十如を照らし、下化は六道の十如を照らす。十地の智も両属す。次第に照らすは菩薩の十如を照らし、不次第に照らすは仏の十如を照らす。五品より去って凡そ四智は、皆な仏界の十如を照らす。総略すること此の如し。細かく捒らば、云云。
[35]二十智は四種の十二因縁の境を照らすとは、世智・五停・四念・四果、乃至、支仏・六度・三蔵の仏の凡そ七智は、思議生滅の十二因縁の境を照らす。通教の三乗の入真方便の智・出仮の智・仏智との凡そ五智は、思議不生不滅の十二因縁の境を照らす。別教の十信・三十心・十地・仏との凡そ四智は、不思議生滅の十二因縁の境を照らす。其の中、別の意無からず。且らく大判に従う。円教の四智は、不思議不生不滅の十二因縁の境を照らす。
[36]二十智の四種の四諦を照らすとは、前の三蔵等の七智は、生滅の四諦の境を照らす。次の通教の五智は、無生滅の四諦の境を照らす。次の別教の四智は、無量の境を照らす。次の円教の四智は、無作の四諦の境を照らす。
[37]次に、二十智は二諦を照らすとは、前の七智は是れ析空の二諦を照らし、次の五智は是れ体空の二諦を照らし、次の八智は顕中の二諦を照らす。其の間、別円相入の者は、意を以て得可べし、云云。
[38]次に二十智の三諦を照らすことを明かすとは、前の七智は無中の二諦を照らす。是れ因縁もて生ずる所の法にして、皆な俗の摂に属す。次の五智は含中の二諦を照らす。即空の一句にして、皆な真諦の摂に属するなり。次の別・円の八智は顕中の二諦を照らす。「即ち是れ仮名なり」・「亦た中道と名づく」の二句にして、皆な中道諦の摂に属するなり。
[39]次に二十智の一実諦を照らすとは、此こに須らく『釈論』に四悉檀を明かして、皆な名づけて実と為すを引くべし。世界の故に実、乃至第一義の故に実なり。当に知るべし。実の語は、亦た四諦に通ず。生滅の故に実、無生滅の故に実、無量の故に実、無作の故に実なり。前の三蔵の七智は生滅の実を照らし、次の通教の五智は無生滅の実を照らし、次の別教の四智は無量の実を照らし、次の円教の四智は無作の実を照らす。前後の諸もろの実は、云云。
[40]次に二十智の無諦無照とは、無諦は別の理無し。若し四種の四諦に於いて悟ることを得ば、復た諦と不諦とを見ざるが故に、無諦も亦た通ずるなり。前の七智は生滅の無諦を照らす。生生不可説の故なり。次の五智は無生滅の無諦を照らす。生不生不可説の故なり。次の四智は無量の無諦を照らす。不生生不可説の故なり。次の四智は無作の無諦を照らす。不生不生不可説の故なり。前の無諦は是れ権、後の無諦は是れ実なり。此れ言教に就く。若し妙悟に就いて、聖人の心の中に照らす所に同じければ、則ち権実有るを見ざるが故に、非権非実なり。空拳をもて小児を誑かし、一切を誘度す。方便もて権を説き、方便もて実を説く。理に会するの時は、復た権実無きが故に、非権非実と称するを妙と為すなり。
[41]五に麁妙を明かすとは、前の十二番の智は是れ麁、後の八番の智を妙と為す。何となれば、蔵・通等の仏は自ら是れ無常なり。亦た常を説かず。彼の二乗・菩薩は、何ぞ常を聞き、常を信じ、常を修することを得ん。是の故に麁と為す。別教の十信は、初めより已に常を聞き、常を信修す。尚お彼の仏に勝る、何に況んや余をや。是の故に妙と為す。常途に「『法華』に常を明かさず」と云うは、秖だ是れ三蔵の意なるのみ。今、明かさく十信は中を知り、已に牟尼を過ぐれば、則ち八番を妙と為すなり。又た、別教の四智は、三麁一妙なり。円教の四智は、悉く皆な妙と称す。何となれば、地人の云わく、「中道は乃ち是れ果頭に能く顕わる。初心の学者は、仰いで此の理を信ず。藕絲の山に懸かるが如し。故に説・信・行は、皆な円の意に非ざるなり。故に十信の智を麁と為す。十住は正しく空を修し、傍ら仮・中を修す。十行は正しく仮を修し、傍ら中を修す。十迴向は始めて正しく中を修す。此の中は但だ理なるのみにして、諸法を具せず。是の故に皆な麁なり。登地の智は、無明を破して、中道を見る。証すれば、則ち妙と為す。類せば、通・蔵の両種は倶に道を得れども、三蔵の門は拙なるが如し。今、別教も亦た爾り。教門は皆な権なれども、証は是れ妙なり、云云。円教の四智は皆な妙なりとは、法相の如く説き、説の如くにして信じ、理の如くにして行ず。始め五品を論じ、終わり妙覚に竟わるまで、実にして権に非ず、是の故に皆な妙なり。是れを麁智に待して妙智を説くと名づくるなり。
[42]又た、知・見に約して麁妙を明かすとは、智と見とは云何ん。然るに、分別するに四有り。知らず見ず、知れども見るに非ず、見れども知るに非ず、亦た知り亦た見る。先に三蔵に約して釈し、後に円に約して釈す。中間は例して解す可し。凡夫は聞かざるが故に知らず、証せざるが故に見ず。五停・四念より世第一法に至るまで、聞くが故に知ると名づけ、未だ証せざるか故に見るに非ず。辟支仏は聞かざるが故に知るに非ず、自然に証するが故に是れ見る。四果は聞くが故に亦た是れ知り、証するが故に亦た是れ見る。伝伝して麁妙を判ずること解す可し。円教に約して釈すとは、七方便は聞かざるが故に知らず、未だ証せざるが故に見ず。五品・六根は聞くが故に知り、未だ証せざるが故に見ず。宿習を発する者は、見ると名づけ、聞くに従わざるが故に知らず。教を禀けて証入する者は、亦た知り亦た見る。此れは節節に伝えて麁妙と為す。究竟して論ぜば、前来の二十種の智あり。略して之を言わば、権実の二智を出でず。『経』に「如来は方便知見波羅密皆な悉く具足す」とあるが如し。即ち総じて束ねて前来の諸もろの権智を得るなり。「如来の知見は、広大深遠なり」と。即ち是れ総じて前来の実智を束ぬるなり。方便は既に其れ具足すれば、何ぞ該ねざる所あらん。知見は既に其れ広大深遠なれば、何ぞ摂せざる所あらん。境淵は辺無ければ、智水は測ること莫し。唯だ仏と仏とのみ乃ち能く究尽す。此の如きの知見は、即ち是れ眼・智なり。眼は即ち五眼具足し、智は即ち三智一心なり。一切種智は実を知り、両智は権を知る。仏眼は実を見、四眼は権を見る。此の知は即ち是れ見、此の見は即ち是れ知なり。前の諸智に対するに、諸智は是れ麁にして、此の知見を、之を名づけて妙と為すなり。
[43]若し知見の中の意を得ば、復た五眼を論ぜず。迷う者未だ了せざれば、更に眼に約して麁妙を明かす。肉眼の盲閉するが如き、何に由りてか色を見ん。徒らに人の説を聞きて、種種の想を起こすは、終に真見に非ず。眼をして開かしめんと欲せば、応に須らく膜を治すべし。那んぞ眼を閉づることを得ん。執諍、何の益せんや。眼を閉じて想えば則ち麁、眼開きて見れば則ち妙なり。天眼未だ開かざれば、障の外を見ざるを麁と為す。禅定・願智を修するの力能く浄色を発得し、障の内外を徹して、明闇に隔て無し。慧眼未だ開かざれば、常に死逕を行く。仮令い情想するも、亦復た実に非ざるが故に、麁と為す。無漏豁らかに発するが故に、称して妙と為す。諦理明了なるが故に、妙と称す。法眼未だ開かざれば、機に差いて法を説く。身子の僻教、満願の穢器の如きを、名づけて麁と為す。通を障うる無知を破して、薬病を分別するを、之れ名づけて妙と為す。仏眼開かざれば、実相を見ず。故に文に云わく、「二乗の人、及び新たに発心する者、不退の菩薩の知ること能わざる所なり」と。故に四眼は皆な麁なり。「諸もろの菩薩衆と信力竪固なる者を除く」と。信を以て入ることを得、相似の仏眼は、能く真の仏知見を開けば、乃ち名づけて妙と為す。諸教は多く四眼を説き、或は四眼を帯びて仏眼を説く、是の故に麁と為す。今経は独り仏眼を説くのみ。是の故に妙と為す。是れ麁に待して妙と為すと為すなり。
[44]六に開麁顕妙を明かすとは、前の十六番の智は、若し決了せずば、但だ是れ麁智なるのみ。若し決了することを得ば、悉く妙智と成る。何となれば、妙荘厳王の如きは先に是れ外道の世智なれども、『法華経』を聞きて、便ち決了することを得、邪相を以て正相に入り。諸見に於いて動ぜずして、而も三十七品を修し、八邪を捨てずして、而も八正に入る。即ち是れ世智を決して、妙智に入ることを得。或は五品と斉しく、或は相似と斉しく、或は分得と斉し。節節に入の義有り。細かく作さば、云云。若し五停方便智、乃至、通教の仏等の智は、若し決了せずば、即ち是れ麁智なり。今、開権顕実せば、「汝等の行ずる所は是れ菩薩の道」にして、来りて妙位に入る。須らく一一に十二番の智を将て、来りて円妙の四智に入り、或は五品・相似・分得等の智に入るべし、云云。又た、別教の歴別の智を決了して妙智に入る。当体は即ち是れ某の位にして、進んで是れ某の位に入る。細かく捒らば、云云。十六の麁智は、皆な妙智と成る。麁として待す可き無し。即ち是れ絶待の智妙なり。
[45]復た次に、麁眼を開して妙眼と為すとは、余経は説きて五眼と為すと雖も、五眼融ぜず。是の故に麁と為す。今経は四眼を決了して、仏眼に入らしむ。文に云わく、「父母の生ずる所の眼は、遂に清浄なることを得」と。「大乗を学ぶ者は、肉眼有りと雖も、名づけて仏眼と為す」と。即ち是れ肉眼を決了して、名づけて仏眼と為すなり。『浄名』に云わく、「世孰れか真の天眼有る者あらん、仏世尊有りて、二相を以て諸仏の国を見ず」と。此れは即ち是れ天眼を決了す。即ち是れ仏眼なり。「願はくは、世尊の如く、慧眼第一浄なることを得ん」とは、即ち是れ慧眼を決了して、能く妙に入ることを得。法眼を決して妙に入るとは、辺際智満ずる是れなり。四眼融じて仏眼に入れば、寂にして而も常に照らす。故に文に云わく、「声聞の法を決了するに、是れ諸経の王なり」と。五眼具足して菩提を成じ、仏の知見を開くが故に、称して妙と為す。問う、仏眼開くを、乃ち名づけて妙と為さば、六根は浄なりと雖も、云何んが妙と為ん。答う、仏眼未だ開かずと雖も、已に能く円かに学び、円かに信ず。迦陵頻伽鳥、㲉の中に在りと雖も、音声已に諸鳥に勝るるが如し。即ち是れ仮名・相似等の妙なり。若し開かば、即ち是れ分妙、究竟妙なり、云云。
[46]二に境に対して智を明かすに、又た二あり。一に五境に対し、二に展転して相い照らして境に対す。初めに応に十如の境に対すべし。此れは既に一経の意にして、処処に之を説けば、解す可し。故に復た釈せず。
[47]次に、四種の十二因縁に対して智を明かすとは、『大経』に云わく、「十二因縁に四種の観有り。下智観の故に声聞の菩提を得、中智観の故に縁覚の菩提を得、上智観の故に菩薩の菩提を得、上上智観の故に仏の菩提を得」と。何となれば、十二因縁は本と是れ一境なればなり。解の不同なるに縁りて、開きて四種を成ず。今、四教の意を以て之れを釈せば、三蔵は具さに三人有れども、皆な析智を以て、界内の十二因縁の事を観じて、初門と為す。然るに、析智は浅弱にして、三人の中、声聞最も劣なり。劣人を以て浅法を標するが故に、下智と名づく。通教も亦た三人有り。同じく体智を以て、界内の十二因縁の理を観ず。体法は深しと雖も、蔵に望むれば巧みと為し、別に望むれば未だ巧みならず。三人の中には、縁覚は是れ中なり。中人を以て通法に名づくるが故に、中智と言う。別教は、仏と菩薩と倶に界外の十二因縁の事を知る。次第の菩薩は仏に比すれば、猶ほ未だ是れ上ならざれども、通・蔵に比すれば則ち是れ上法なり、故に上智を以て名に当つるなり。円教は、仏と菩薩と倶に界外の十二因縁の理を観ず。初心は事に即して而も中なり。此の法は最も勝るるが故に、仏を以て名に当つ。故に上上智観と言うなり。四教を以て四観を釈するに、義に於いて允合す、云云。言う所の下智観とは、受は触に由り、触は入に由り、入は名色に由り、名色は識に由り、識は行に由り、行は無明に由ることを観ず。無明の顛倒、不善の思惟は、不善の行を致し、四趣の識・名色等を感ず。若し善の思惟は善行を致さば、人天の識・名色等を感ず。此の無明を観ずるに、念念無常にして、前後住せず、生ずる所の善悪は、遷変して速かに朽ち、受くる所の名色は、衰損して代謝す。煩悩・業・苦は、更互の因縁にして、都て暫くも停まること無し。過去の二因、現在の五果、現在の三因、未来の二果は、三世に迴復すること、猶お車輪の若し。癡惑の本は、既に無常・苦・空・無我なれば、即ち無明滅す。無明滅するが故に、諸行滅し、乃至、老死滅す。若し火を然やさずば、是れ則ち煙無し。是れ子縛断と名づく。子無ければ、則ち果無し。滅智灰身して、二十五有を離る。是れ果縛断と名づく。則ち是れ下智もて十二因縁を観じて、声聞の菩提を得るなり。
[48]中智とは、受は触に由り、乃至、行は無明に由ることを観ず。無明は秖だ是れ一念の癡心なるのみ。心には形質無く、但だ名字あるのみ。内外中間に、字を求むるに得ず。是の字は住せず、亦た不住ならず。猶ほ幻化の如くにして、虚しく眼目を誑かす。無明の体相は、本と自ら有ならず、妄想の因縁和合して生ず。有る所無きが故に、仮に無明と名づく。不善の思惟、心行の造る所なり。無明は幻化の如しと達せざるを以ての故に、善・不善の思惟を起こせば、即ち善・不善の行有りて、善・不善の名色・触・受を受く。今、無明は幻の如しと達するが故に、則ち諸行も亦た化の如し。幻従り識・名色等を生ずるに、皆な幻の如し。愛・取・有生じて三世に輪転し、幻化遷改して、都て真実無し。有智の人は、応に中に於いて愛恚を生ずべからず。無明既に不可得なれば、則ち無明生ぜず。生ぜざれば、則ち滅せず。諸行・老死も、亦た不生不滅なり。不生の故に則ち新に非ず、不滅の故に則ち故に非ず。故に非ずとは、故の畢わる可き無く、新に非ずとは、新の造る可き無し。新無しとは、子縛断じ、故無しとは、果縛断ず。是れ中智もて十二因縁を観じて、縁覚の菩提を得と名づく。
[49]上智観とは、受は触に由り、乃至、行は無明に由ることを観ず。無明は秖だ是れ癡の一念の心なるのみ。心癡なるが故に煩悩を派出し、煩悩に由りて諸業を派出し、業に由りて諸苦を派出す。此の煩悩を観ずるに、種別同じからず。同じからざるが故に、業同じからず。業同じからざるが故に、苦同じからず。諸行若干にして、名色各おの異なる。種種の三道は無量無辺なれども、分別して濫れず。此の煩悩に因りて、此の業を起こし、此の苦を得、彼の業、及び彼の煩悩に関からざることを知る。是の如きの三道は、三徳を覆障す、破障の方便も、亦復た無量なり。無明若し破せば、般若を顕出し、業破せば、解脱を顕出し、識・名色破せば、法身を顕出す。愛・取・有・老死も亦復た是の如し。自ら既に解し已れば、復た能く他を化す。一切の種に於いて、一切の法を知り、道種智を起こして、衆生を導利す。是を上智をもて十二因縁を観ずと名づくるなり。
[50]上上智観とは、受は触に由り、乃至、行は無明に由ることを観ず。十二支の三道は即ち是れ三徳なりと知る。豈に三徳を断破して、更に三徳を求むれば、則ち諸法の相を壊す可けん。煩悩道は、即ち般若なり。当に知るべし。煩悩も闇ならず。般若は、即ち煩悩なれば、般若も明ならず。煩悩は既に闇ならざれば、何ぞ更に断ずることを須いん。般若も明ならざれば、何ぞ能く破する所あらん。闇も本よ闇に非ざれば、明を須いず。耆婆、毒を執りて薬と成ずるが如し。豈に此れを捨てて彼れを取る可けん。業道は即ち是れ解脱なりとは、当に知るべし。業道も縛に非ず。解脱は即ち業なりとは、脱も自在に非ず。業も縛に非ざるが故に、何ぞ離る可き所あらん。脱も自在に非ざれば、何ぞ得る可き所あらん。神通の人の如きは、豈に此れを避けて彼れに就かんや。苦道は即ち法身なりとは、当に知るべし。苦も生死に非ず。法身は即ち生死なれば、法身も楽に非ず。苦も生死に非ざれば、何ぞ憂う可き所あらん。法身も楽に非ざれば、何ぞ喜ぶ可き所あらん。彼の虚空に得無く失無く、忻ばず戚えざるが如し。是の如く観ぜば、三道は三徳に異ならず、三徳は三道に異ならず、亦た三道に於いて、一切の仏法を具す。何となれば、三道は即ち三徳、三徳は是れ大涅槃にして、秘密蔵と名づく。此れは即ち仏果を具す。深く十二因縁を観ずるは、即ち是れ道場に座す。此れは即ち仏因を具す。仏因・仏果皆な悉く具足す。余は例して知る可し。是れ上上智もて十二因縁を観じて、仏の菩提を得と名づく。此れに約して、応に麁妙を判じ、開麁顕妙すべし。意、解す可きが故に、委しくは記さざるのみ。又た、四智もて四境を照らすに、境若し転ぜずば、其の智は則ち麁なり。四境転ぜば、妙境と成り、麁智は即ち妙智と成る。仍お是れ待絶の意なり、云云。
[51]二に四種の四諦に対して智を明かすとは、『大経』に云わく、「聖諦を知る智に、則ち二種有り。中智、上智なり。中智とは声聞・縁覚、上智とは諸仏・菩薩なり」と。若し此の文に依らば、体・析を束ねて、合わせ称して中と為し、大乗の利鈍を束ねて、合わせ称して上と為す。今、若し根縁の利鈍・内外の事理に約せば、開いて即ち四を成ず。声聞は根鈍にして、四諦の事を縁ず。即ち生滅の四諦の智なり。縁覚は根利にして、四諦の理を縁ず。即ち無生の四諦の智なり。菩薩は智浅くして、不思議の事を縁ず。即ち無量の四諦の智なり。諸仏は智深くして、不思議の理を縁ず。即ち無作の四諦の智なり。此れ乃ち『大経』の一文なり。又た云わく、「凡夫は苦有りて諦無し、声聞は苦有り、苦諦有り」と。凡夫は苦の理を見ざるが故に、諦無しと言う。声聞は能く無常・苦・空を見るが故に、諦有りと言う。即ち是れ生滅の四諦の智なり。又云わく、「菩薩の人は、苦無苦にして、而も真諦有ることを解す」と。即ち是れ苦は苦に非ずと体するが故に、苦無しと言う。事に即して而も真なるが故に、諦有りと言う。乃ち是れ摩訶行門の無生の四諦の智なり。又云わく、「諸陰は是れ苦なりと知り、諸入を門と為すを知るを、亦た名づけて苦と為す。諸界を分と為すを知るを、亦た名づけて性と為し、亦た名づけて苦を為す。是れ中智と名づく」と。前の説に依らば、即ち声聞に属するなり。「諸もろの苦、諸もろの入・界等を分別するに、無量の相有り。我れは彼の経に於いて、竟に之れを説かず。是れを上智と名づく。受・想・行・識も亦復た是の如し。諸もろの声聞・縁覚の境界に非ず」と。此れは即ち前の両意に異なる。既に上智と称すれば、又た二乗の境界に非ず。豈に別教の菩薩、恆沙の仏法・如来蔵の理を観ずるに非ざらんや。是れを無量の四諦の智と為す。又た云わく、「如来は苦に非ず、集に非ず、滅に非ず、道に非ず、諦に非ず、是れ実なり。虚空は苦に非ず、諦に非ず、是れ実なり」と。「苦に非ず」とは、虚妄の生死に非ず。「諦に非ず」とは、二乗の涅槃に非ず。「是れ実なり」とは、即ち是れ実相中道の仏性なり。又云わく、「苦有り、苦の因有り、苦の尽有り、苦の対有り。如来は苦に非ず、乃至、対に非ず。是の故に実と為す」と。此の如く義を明かすこと、既に上の三番に異なれば、豈に無作の四諦の智に非ざらんや。此の一諦を四と為すに例するに、余の三も亦た応に爾るべし。謂わく、集有り、集の果有り、集の尽有り、集の対有り。尽有り、尽の因有り、尽の障有り、尽障の相有り。対有り、対の果有り、対の障有り、対の障の相有り。如来は此の四四十六種に非ず。但だ是れ実に於いてするのみ、云云。是の如き等の智もて四諦を観ずるに、諦既に未だ融ぜざれば、智・諦は皆な麁なり。独り苦に非ず、対に非ず、実有ること有るを妙と為すのみ。若し諦円かならば、智も亦た随って円かなり、皆な是れ如来の苦に非ず、諦に非ず、是れ実の妙智なり。此れは即ち待絶の両意なり、云云。