[1]七に本眷属妙とは経に云はく、「此の諸の菩薩は下方の空中に住す。此等は是れ我が子、我は則ち是れ父なり」と。「下方」とは、下を名けて底と為す。大品に諸法底三昧あり。釈論に云はく、「智度の大道は仏。底を窮む」と当に知るべし、「此の諸の菩薩は仏に隣りて智度の底を窮むることを。「虚空」とは、法性虚空の寂光なり。本時の寂光の空中より、今時の寂光の空中に出づ。今時の寂光の空中の者は、本時の者を識らず。故に云はく、「我れ諸国に経遊するに乃ち一人をも識らず」と。地涌千界は皆是れ本時の応の眷属なり。三無き所以は、時節既に久しければ、権転じて実と為る。但だ一にして三無し。或は一を挙ぐるに例して三あることを知る可きなり。本より迹を垂る、迹の中に始めて成仏する時、亦た業・願・通・応あり。中間の所化も亦た四種あり。文殊・観音・調達等は或は称して師と為し、或は弟子と称す。惑ふ者に於ては未だ了せず。若し中間を払はば、是れ迹に非ざること無し。則ち迹と本とは解す可し。若し迹を執して本を疑はば、二義倶に失す、云云。問ふ、迹本相ひ望むるに千界の塵は則ち少く。増道の数は則ち多し。本迹の法身は浅深異たる耶。答ふ、法身は先より満じて増無く減無し、化縁の広狭に約する耳。問ふ、若し爾らば初住・二住は化縁に多少あり、法身も亦応に浅深無かるべきや。答ふ、菩薩は位未だ窮まらざれば、実証に約して浅深を判ず。仏位已に満ずれば、但だ権化に約して四句に広狭を論ずることあり、云云。問ふ、因果等を明すに、皆な迹仏に約して本を指す。眷属を明すに、本を召して迹に到ることは何んぞ耶。答ふ、因果等の法は幽微にして暁め難し、故に此に約して彼を指す。眷属は是れ人なれば、召して証するに易しと為す。或は本の人を将つて迹の人に示し或は迹の法を将つて本の法を顕はす可し、互に現ずる意なる耳。

 [2]八に本涅槃妙とは、経に「又復た其の涅槃に入るは、実の滅度に非ずして便ち唱へて当に滅度を取るべし」と言ふ「非実滅度」とは、常住の本寂なり。「唱言滅度」とは、衆生を調伏するなり。悉く本時の涅槃にして迹の涅槃に非ず。迹とは大経に明さく、「声光の集まる所は、諸の弟子に始まり、蝮蠆に終る。無辺身菩薩弟子の位は、身量無辺なり。豈に大師に倚臥背痛あらんや」と。此れ乃ち生身に病を示し滅を示せども、法身は疾無く常に存して変ぜず。或は析空の因滅し果亡ずるを取りて、有余・無余の涅槃を明す。或は体法の空の因滅し果亡ずるを取りて、有余、無余の涅槃を明す。生身の迹滅すとは、阿含の中の如き、結業の身は父母の所生なり。国を棄て王を捐てて六年苦行し、三十四心に結を断じて成道す。八十二歳の老比丘の身、純陀が舎に詣り、鉢を持して食を乞ひ、檀の耳羮を食し、食し訖りて説法す。果報の寿命、中夜にして尽きて無余涅槃に入る。火を以て闍毘して舎利を収取するは、此れ三蔵の涅槃の相なり。釈論に云ふが若き、「六地の菩薩は見思已に尽き、七地より去つて誓ひて余習を扶けて生死の身を受く。乃至上生下降し、一念相応の慧をもって習を断じて成仏す。度すべき衆生の縁尽くれば、化を息めて無余涅槃に入る」と。此れ通仏の涅槃の相なり。若し地人の云はく、縁修は真修を顕はし、菩提の果満じて大涅槃を成ず、亦た称して方便浄涅槃と為すと。大経に云はく、「是の色を滅するに因りて常色を獲得す。受・想・行・識も亦復是の如し。是を色解脱、受想行識解脱と名く」と。乃ち是れ分段変易の因尽きて常住の有余涅槃を獲るなり。両処の陰果の身尽きて常住の無余涅槃を獲るなり。此と前と異なり、是れ別仏の涅槃の相なり。大経に云はく、「大般涅槃は常住不変にして、能く種種の示現を建て衆生を調伏す」と。首楞厳に広く説くが如し。大涅槃を常楽我浄と名く。此れ前と異なれり、即ち円の涅槃の相なり。経に曰はく、「今日座中の無央数の衆は、各見るところ不同なり。或は如来の涅槃に入るを見、或は如来の世に住すること一劫・減一劫なりと見、或は如来の世に住すること無量劫たりと見、或は丈六の身と見、或は小身大身と見、或は報身の蓮華蔵世界海に座して百千億の釈迦牟尼仏の為に心地の法門を説くことを見、或は法身の虚空に同じくして分別あること無く、無相無礙にして遍く法界虚空に同ずと見、或は此の処は娑羅樹林にして悉く是れ土砂草木石壁なりと見、或は此の処は金銀七宝清浄に荘厳すと見、或は此の処は三世の諸仏の所遊の処なりと見、或は此の処は即ち是れ不可思議諸仏の境界真実の法体なりと見る」と、此れ仏身依正に各各四の相あることを明す、即ち前の四涅槃の相なり。大経と此の経と義同じ。大経は常住を以て宗と為す。迦葉初めに長寿を問ふに、仏の答への中、処処に多く未来の常住を顕はし、少しく先成の寿命を明す。法華に已に説くが為の故なり。彼の経は一両処に説くと雖も、判じて近成の短命と為す可からず。今経は正しく発迹顕本を明す。無量寿命を宗と為れば、少しく未来の常住を説く。一両処に少しく説くと雖も、判じて無常と為す可からず。二経互ひに挙ぐ。利根は本常なりと知れば未来も亦た常なり。未来の長寿を解すれば、亦た本来の長寿を解す。其の義是れ同じ。又た此の経に、「数数生を現じ滅を現ず」とは、生も実の生に非ず、滅も実の滅に非ず、常住の義顕らかなり。又た二万の灯明迦葉は皆な涅槃を説かず、秖だ法華に於て本常未来常を明す、弥法華に常を明すの義顕らかなることを見るなり、云云。三義を以ての故に、諸の涅槃は迹にして本に非ざることを知る。今始めて入るが故に、入りて復た出づるが故に、中間を払ふが故なり。此の迹の涅槃は皆な本より垂る、云何んぞ迹を執して謂つて是れ本なりと言はん、是れ迹本に識らざるなり。若し迹を払ひ本を顕はすときは、則ち二義に迷はず。迹に非ず本に非ず。不思議一なり。

 [3]九に本寿命妙とは上の因妙の中には智慧を以て命と為す、此れは則ち長に非ず短に非ず、非長非短の慧妙に由つて能く長短と為る。此の中に正しく長短の寿命を明す。経に、「処処に自ら名字の不同、年紀の大小を説く」と。「年紀」とは、是れ寿命なり。「大小」とは、長短なり。経に、「中間処処年紀大小」とは迹に約して而も懸かに本を指すなり。迹の不同とは、三蔵の仏は父母の生身八十二にして尽き、身灰して智滅して畢竟して生ぜず。通教の仏は誓願の身、化縁若し訖れば、亦た灰断に帰し滅し、已りて生ぜず。此の両仏は但だ業に斉り縁に斉つて、非長非短の慧命を得ず。長、短と作り、大小の寿命と作すこと能はざるなり、別教は登地に無明を破して如来の一身無量身を得。一身湛然として安住し、無量身は百界に作仏し、亦た九界の身を示し、亦た年紀大小を論ずることを得。大は即ち大乗の常の寿、小は即ち小乗の無常の寿なり。円教は登住の時亦た是の如し。此等は皆な因中の菩薩なれども、常に非ず無常に非ずして能く常無常大小の寿を作す。況んや後心をや、況んや妙覚をや。此の如き等の寿は三義あれば、皆な迹中因果の寿なり。此の寿は皆な本地の因果円満なるに従つて而も此の迹を垂る。迹既に此の如し、況んや復た本をや。経に、「我れ本と菩薩の道を行ずる時、成ずる所の寿命、今猶未だ尽きず」とは、本因を指す。因の寿尚ほ未だ尽きず、況んや本果の寿をや。若し迹を執するときは、則ち本を知らず。今、迹を払ふときは則ち本を識る。亦た不思議一なることを識るなり。

 [4]十に本利益妙を釈せば、文に云はく、「皆な歓喜を得せしむ」と。歓喜とは、即ち利益の相なり。若し迹中の三乗共の十地、別の十地・開権顕実・按位妙・入位妙、是の如き等の益、乃至寿命を聞きて増道損生するは、皆是れ迹の中の益なり。乃至中間の権実の益も、亦是れ迹の益なり。迹を以て本に望むるに、本も亦応に偏円の利益あるべし。所以に下方の菩薩の皆な虚空に住する者は皆な寂光に居す。本の益なり。故に本の本より以て迹を垂れ、迹を借りて以て本を知る。復た具さに記せざるなり。

 [5]第六に三世に約して料簡せば、文に云はく、「如来自在神通の力、如来大勢威猛の力、如来師子奮迅の力」と、即ち是れ三世益物の文なり。若し過去の最初に証する所の権実の法を名けて本と為すなり。本証より已後方便をもて他を化し、開三顕一、発迹顕本するは還つて最初を指して本と為す。中間の示現、発迹顕本も亦た最初を指して本と為す。今日の発迹顕本も亦た最初を指して本と為す。未来の発本顕迹も亦た最初を指して本と為す。三世は乃ち殊なれども、毘盧遮那の一本は異ならず。百千の枝葉同じく一根に趣くが如し云云。問ふ、現見の無量の仏は悉く是れ釈迦の分身なり。当に猶ほ余仏ありて余仏に復た分身あるべしと為んや不や。答ふ、普賢観に云はく、「東方に仏あり名けて善徳と曰ふ。彼の仏に亦た分身の諸仏あり」と、若し爾らば、亦た諸仏あり、諸仏に亦た分身あらん。又た神力品に云はく、「弾指と謦欬と、是の二の音声遍く十方諸仏の世界に至る。彼の仏の四衆、遙かに供養を伸べ、散ずる所の諸物十方より来ること、譬へば雲聚の如くにして、遍く此の間の諸仏の上に覆ふ」と。故に知んぬ、諸仏あり諸仏に亦た分身あることを。問ふ、三世の諸仏に皆な分身あらば、云何んぞ復た多宝如来は全身散せず、禅定に入るが如しと言ふや。若し全身散ぜずんば、云何んぞ復た十方に遊び、法華経を証すと言はん。二意云何んが通ぜん。答ふ、釈論に念仏を解する中に云はく、「多宝は人の説法を請ずること無ければ、便ち涅槃に入り、後に仏身及び七宝の塔を化して法華経を証す」と。若し論の釈に従へば、乃ち是れ全身を化作す、分身無きに非ざるなり。師の云はく、若し説法することを得ずと言はば、那んぞ四衆に告げて、我滅後に一の大塔を起てよといはん。都べて説法せざるに非ず、応に是れ法華を説かざるなるべし。故に大誓願を発して生身の骨を砕かず、全身散ぜずして出でて円経を証す如入禅定とは不滅を表し、出でて常経を証するは偏ならざるを表す。不偏不滅にして円常の義顕はる。口に真浄の大法と唱ふるは、真は是れ常なり。略して二徳を挙ぐ、我と楽は知んぬべし。鈍者は文を読んで猶ほ自ら覚らざるなり。問ふ、三世の諸仏皆な本を顕はさば、最初の実成は若為れぞ本を顕はさん。答ふ、必ずしも皆な本を顕はさず。今、有の義を作さば、最初の妙覚は初住を指して本と為す。若し初住に加を被りて妙覚と作るは、亦た初住を指して本と為す。初住の前は竪に指す所無きも、横に体用あれば即ち体を指すに、豈に本に非ざらんや。又た願を発する故に寿の長遠を説くは、文の如し、云云。又た解すらく、最初の仏は長遠、已今、権実等の本迹の顕はす可き無しと雖も、而も体用・教行・理教・事理等の本迹の顕はす可きあり、云云。若し無の義を作さば、最初始成の仏の若きは既に始めて本を得て、未だ迹を垂るることを論ぜざれば、久迹の発すべき無く、久本の顕はすべき無し、云云。若し久成の仏は釈迦の例、東方を以て譬と為すが如し。若し此より久しき者は、即ち四方を以て譬と為す。又久しき者は十方を譬と為す、若し此より近き者は則ち東方を減じて譬と為し、若し都べて無き者は則ち譬ふる所無し、云云。問ふ、若し実の初成に久本の顕はすべき無くんば、云何んぞ経に、「是れ我が方便なり、諸仏も亦た然り」と言ふや。答ふ、長久の本無しと雖も、若し須らく方便を用ふべき者には、仏に延促劫智ありて能く七日を演べて無量劫の義と為す、云云。問ふ、仏に若し久成と始成あり、発迹と不発迹あらば、亦応に開三顕一、不開三不顕一あるべき耶。答ふ、若し菩薩と声聞と共に僧と為さば、則ち開三顕一あり。若し純ら菩薩を僧と為さば、何んぞ開顕を須いん耶。問ふ、若し三を開して一を顕はさずんば、五仏の章云何ん。答ふ、同じく是れ声聞と菩薩と共に僧と為す。五濁の世に出づれば此の如くなる可し。浄土に出づる仏は則ち然らず。問ふ、十麁を破して十妙を顕はさば、則ち無明の惑尽き一実の理彰はる。今更に迹の妙を破して麁と為し、本を顕はして妙と為す。何れの惑を破して何れの理をか顕はすや。答ふ、無明の重数甚だ多し、実相の海深くして無量なり。此の如く破顕するに咎無し。又た問ふ、若し爾らば還つて妙を以て妙を破す。所破の妙は妙にして而も更に麁なり。亦還つて麁を以て麁を破するに所破の麁は例するに、更に是れ妙なるべし。所破の四住も例して亦た応に妙なるべしや。答ふ、頓に就いて義を明さば、秖だ四住は即ち是れ妙に於てす。況んや四住を破するの智は、寧ろ妙に非ざらん耶。又た問ふ、若し爾らば但だ頓の義ありて、応に漸の義無かるべし。答ふ、若し漸頓を分たば、漸の能所は倶に麁、頓の能所は倶に妙なり、云云。問ふ、中間に偏円権実あれども、而も同じく是れ権と称すれば、亦応に同じく称して偏と為すべき耶。答ふ、通の義は則ち爾り、別の義は然らず。偏円は法に約す、法は則ち已に定まる、故に偏は円に非ず。円は偏に非ず。権実は教に約す、迹中の施設は同じく皆是れ仮なり、故に仮に就いて権を論ずる耳。問ふ、既に麁を帯するの妙あり、復た麁を帯せざる妙あり、亦応に妙を帯するの麁、妙を帯せざるの麁あるべきや。答ふ、此に応に四句あるべし。麁を帯するの妙は即ち別教なり、麁を帯せざるの妙は即ち円教なり、妙を帯するの麁は即ち通教なり、妙を帯せざるの麁は即ち三蔵なり。又た麁を帯するの妙は通の如く、麁を帯せざるの妙は円の如く、亦は麁を帯し亦は麁を帯せざるは別の如く、帯に非ず不帯に非ざるは円接別の如く、円・別・接通の如し。又た五味に約せば、麁にして妙を帯せざるは酪の如く、妙にして麁を帯せざるは醍醐の如く、亦は麁を帯し亦は麁を帯せざるは生・熟蘇の如く、麁を帯するに非ず麁を帯せざるに非ざるは乳の如し、云云。問ふ、二麁既に同じからず、那んぞ忽に同じく呼んで麁と為るや。答ふ、事に浅深あるが故に二と為し、倶に妙理に非ざるが故に同じく是れ麁なり。問ふ、応に方便を帯するの実、方便を帯せざるの実あるべきや。答ふ、例せよ。問ふ、亦応に二を帯するの一あり、二を帯せざるの一あるべきや。答ふ、例せよ。通じて論ぜば、本迹は秖だ是れ権実なり。別して論ぜば、高下は宜しく本迹を用ふべし。横に真偽を論ずれば、宜しく権実を用ふべし。本迹は身に約し、位に約す。権実は智に約し、教に約す、云云。問ふ、本地の十妙は、六重の本迹に約せば、何れに摂属するや。答ふ、已今に非ず、中間に非ず。乃ち是れ体用・教行・理教等に共じて十妙を論ずるなり。

 [6]第七に麁妙を判ぜば、若し迹り中已得の十麁を麁と為し、十妙を妙と為す。未開の十麁を麁と為し、十を開して妙と成す。具さに前に説くが如し、迹中の若は麁に待する妙、若は麁を開する妙、此の妙は本妙に異ならず。而して始得と言はば、始得を麁と為す。本の中の先に成ずるところの、若は麁、若は妙、若は開麁妙も、亦た迹の妙に異ならず。而も是れ先得なり、先得を妙と称す。又た迹の中の事理を始めて得るを麁と為し、本の中の事理の先より得るを妙と為す。迹の中の理教・教行・体用・権実等も亦是の如し。又若し未だ発迹顕本せずんば、但だ迹の中の事理の麁妙を解して終に本の中の事麁を解すること能はず。況んや本の中の理妙を解せんや。弥勒も尚ほ達せず、何に況んや余人をや。若し迹の中の事理を発して即ち本の中の事理を顕はせば、亦た本の中の事理に由つて能く迹の中の事理を垂るることを知る。迹は既に本に由るときは、則ち本は妙、迹は麁なり。既に本迹の殊りあり、故に麁妙と言ふ。妙理は則ち迹に非ず本に非ず不思議一なり。理教・教行・体用・権実・已今等も亦た是の如し。

 [7]第八に権実を明さば、迹の中の十麁の境を照すを権と為し、迹の中の十妙の境を照すを実と為す。乃至中間三世に照す所の十麁の境を権と為し、十妙の境を実と為す。若は権、若は実、悉く皆是れ迹なり、迹の故に権と称す。是の如きの中間に、無量無量不可説節節権実あり。余経には尚ほ中間一番の権すら無し、況んや一番の実をや。尚ほ中間一番の権実すら無し、況んや無量番をや。尚ほ中間の権実すら無し、況んや本地の権実あらんや。中間の権実を皆な名けて権と為し、本初に十麁十妙を照すを皆な名けて実と為す、迹の権、本の実は倶に不思議なり、不思議は即ち是れ法性なり。法性の理は古に非ず今に非ず、本に非ず迹に非ず、権に非ず実に非ず。但だ此の法性に約して本迹・権実・麁妙を論ずる耳。但だ世俗の文字に去来今あるを以て、菩提に去来今ありと謂ふには非ざるなり。復次に権実を分別せば則ち三種あり、自行と化他と自行化他を謂ふ。具さには境妙の中に説くが如し。本地の自行所契の権実の二智を、仏の自行の権実と名く。本より已来た乃至鹿苑に於ける種種の方便は随他意語なり。此の二智を説きて迴転して無方なるを、仏の化他の権実二智と名く。化他に二種ありと雖も皆な名けて権と為し、自行に二種ありと雖も皆な名けて実と為す。是を自行化他合説の権実と名く。復次に迹の中に実に約して権を施すは意、実に在り、而も実の意は測り難し。何となれば、化城は是れ権なれども、而も人は実の解を作す、是れ権を識らず、亦た実を知らざるなり。若し権を廃して実を顕はすは、意、権に在り。権は則ち測り易し。何となれば、既に化城の一事は是れ仏の権施なりと知れば、則ち遍く恒沙の仏法に達し、遠く久劫の方便に通ず。故に華厳の中に明さく、「阿鞞跋致の為に多く事数を明す」とは、即ち其の義なり。若し権を開して実を顕はすは、事法に達し已れば、権の意即ち息む。亦た権を離れて遠く実を求めず。権即ち是れ実なれば、復た別の権無し、故に開権顕実と言ふなり。迹の中既に三意あること此の如し。迹は本に由つて垂る、本も亦た是の如し。本迹殊なりと雖も不思議一なり、云云。

 [8]第九に利益とは、前には生身の益を明し、次には法身の益を明す。生身は両処に益を得。迹門に会三帰一し開権顕実するに、生身の菩薩の利益を得るは、十妙の中に於て五妙の益を得るなり。何となれば、境妙は則ち通じて一切具さにあり。乗妙は則ち別にして究竟じて仏に在り。感応・神通・説法は、皆是れ果上の益なり。若し未だ果を証せざれば此の益を論ぜず。若し六即位の中に於ては四即の益を得。理即と究竟即は例して前の如し。但だ名字即の中の智・行・位・眷属・功徳、乃至分真即の中の智・行・位・眷属・功徳を得。身子の記を得るが如き、四衆天龍歓喜して偈を説きて云はく、「大智舎利弗、今、尊記を受くることを得たり。我等も亦是の如し、悉く当に作仏することを得べし」と。即ち是れ生身の菩薩、迹門の説法を聞きて益を得るの相なり。本を発して迹を顕はし、仏寿長遠なりと説くに、観仏三昧大いに増長することを得。此に従ふも亦た生身の菩薩、十妙の中の五益を得ることあり。六即の中の四益あり。生を損し道を増す、云云。二住より去つて一生在に至るまで、皆是れ法身、五益を得るなり。何を以ての故に、応生も本地の功徳を聞くに観仏三昧転た更に深広なり。称げて量る可からず。前来の迹中の益の比に非ず。何となれば、仏境転た深ければ、功徳も亦た大なり。故に分別功徳品に云はく、「仏、希有の法を説きたまふ、昔し未だ曾て聞かざる所なり。世尊は大力あり寿命量る可からず。説くに法利を得る者、歓喜身に充遍す。或は不退地に住す、或は陀羅尼を得」と。即ち是れ生法二身の得益の相なり。若し実道の得益を論ぜば、両処殊ならず、而も権智の事用は相比することを得ず。喩へば慧解脱と倶解脱の無漏は、不二にして而も功徳に優劣あるが如し。前の迹門の得道は止だ無生法忍に斉り、本門の得道は余の一生在に斉り、塵を以て数と為す。多少深浅豈に前に同じからんや。当に彼の文を揀ぶべし、発心の処に従へば、即ち是れ六根浄の位なり、乃至一生在は即ち是れ最後の分真なり、云云。又た流通の利益とは、前に迹門を流通するは是の諸の発誓の菩薩、及び諸の羅漢の授記を得る者、此土・他土に経を弘む。其の功徳を論ぜば、文を観るに但だ冥利を明して顕益を説かず。今、本門を説くに一切の諸仏所有の法を付嘱し、兼ねて迹門の法を得るなり。秘奥の蔵は即ち是本迹の中の実相なり、一切甚深の事は即ち是れ本迹の中の因果なり。此の如き等の法を千世界微塵の菩薩に付嘱し、法身地に経を弘む。何んぞ但だ生身の此土・他土に経を弘むる如くならん耶。十法界の身の諸の国土に遊ぶに、則ち冥顕の両益あり。疑ふ者の云はく、法身は常に有仏なり、何んぞ菩薩の弘むることを須ひんと。但し之を弘むること人に在れば、時を待ち伴を待つ。仏、世に在すと雖も、而も文殊は龍宮に入るが如し。法身の処に仏ありと雖も、復た外縁を須ふ。故に仏は付嘱したまふ。舌を吐き頂を摩して種種の相貌をもつて殷勤に付嘱して此の法を弘めしめ、無量微妙の功徳を得るなり。其の聞くことある者の、妙益称げて数ふべからず。故に文に云はく、「若し仏の寿量を説くを聞くことあらば、一切皆な歓喜して無量の無漏功徳の果報を得ん」とは、即ち此の意なり。

 [9]十に観心とは、本の妙は長遠なり、豈に心に観ず可けんや。即是ならずと雖も亦た心を離れず、何となれば仏の如と衆生の如と、一如にして二如無し。仏は既に心を観じて此の本妙を得たり、迹用広大にして称げて説くべからず。我が如は仏の如に如す、亦当に心を観じて此の大利を出すべし。亦た願はくは我が如速かに仏の如の如くならん。故に文に云はく、「仏寿の無量なるを聞きて深心に須臾も信ぜば、其の福、彼に過ぎん。願はくは我れ未来に於て長寿にして、衆生を度すること今日の世尊の諸釈の中の王の如く、道場に師子吼して法を説きて畏るる所無からん。我等、未来に於て一切に尊敬せられ道場に坐する時、寿を説くことも亦是の如くならん」と。此れ即ち観心の本妙に六即の利益を得るの相なり、云云。

 [10]問ふ、大と妙とは云何ん。答ふ、此れ応に三双六句をもつて分別すべし、云云。文に云はく、「仏自ら大乗に住す」と。又云はく、「是の如きの大果報」と。又云はく、「大車あり」と。而して題に称して妙と為す。涅槃に云ふが如く、「大般涅槃微妙の経典」と、而して題に称して大と為す。妙に即して是れ大、大に即して是れ妙なり。大品に云はく、「色は深に非ず、妙に非ず、乃至識は深に非ず妙に非ず」と。此は是れ大、妙を破するなり。此の文に云はく、「一切法空寂にして無漏無為無大無小」と、此は是れ妙、大を破するなり。大阿羅漢の如き、此の大猶ほ妙を修す。滅・止・妙・離の如き、此の妙猶ほ更に大を修す、云云。問ふ、若し大と妙と一等ならば、余経も倶に応に妙と称すべきや。答ふ、余経は通じて論ずるに、理に約すれば大妙殊ならず、而も別しては方便を帯す。此の経は方便を帯せず、故に別して妙と称す。小乗も入ることを得れば発迹顕本す、故に別して妙と称す。問ふ、大小倶に妙と称せば、大小倶に常を明すや。一往なり。之を斥く、云云。小乗の滅・止・妙・離は名同じく、理異なり、是れ常なることを得ず。並して云はく、是れ妙なることを得ざるや。答ふ、妙は不可思議に名く。小乗の真諦は言を亡じ慮を絶す。通じて是れ不思議なることを得れば、通じて名けて妙と為る耳。次に当に之を縦すべし。亦た三無為を以て常と称することを得れども、而も常異なり。又た並す、既に倶に常と称すれば、亦た倶に一に会せんや。答ふ、諸見を会して同じく真に入る。而も会すること異なり。又た並す、倶に無常、倶に麁、倶に会せざるべき耶。例通ずれども而も義は異なり、云何んぞ大乗は無常ならん。大乗は但だ無常無きのみに非ず、亦た常も無し。常無きを以ての故に無常と言ふ、云何んぞ大乗は是れ麁なるや、夫れ言説あれば即ち名けて麁と為す。云何んぞ大乗は不会ならん耶、一切の諸法は皆是れ仏法なれば、更に会する所無し、云云。

 [11]次に蓮華を釈せば、四意と為す。一には法譬を定め、二には旧釈を引き、三には経論を出し、四には正しく解釈す。法譬を定むとは、権実は顕はれ難ければ、喩を蓮華に借りて妙法を譬ふ。又た七喩の文多し、故に譬を以て題を標す。又た解して云はく、蓮華は譬に非ずして、当体に名を得と。類せば劫初には万物に名無し、聖人理を観じて準則して名を作すが如し、蛛の羅の絲を引くに之に倣ひて網を結び、蓬の飛びて独り運するに依つて而も車を造り、浮槎の流に汎んで而も舟を立て、鳥跡の文を成すに而も字を写すが如し。皆な理に法りて而も事を制する耳。今、蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず、乃ち是れ法華の法門なり。法華の法門は清浄にして因果微妙なれば、此の法門を名けて蓮華と為す。即ち是れ法華三昧の当体の名なり、譬喩に非ざるなり。余経には多く自ら名を釈すれども、此の経には解すること無し。或は是れ其の文未だ度らざる耳。而して此の両釈は皆な道理あり。今、二意を融ず。問ふ、蓮華は定んで是れ法華三昧の蓮華なりや、定んで是れ華草の蓮華なりや。答ふ、定んで是れ法の蓮華なり。法の蓮華は解し難し、故に草華をなして喩と為す。利根は名に即して理を解すれば、譬喩を仮らず、但だ法華の解を作す。中下は未だ悟らざれば、譬を須ひて乃ち知る。解し易きの蓮華を以て、解し難きの蓮華を喩ふ。故に三周の説法ありて上中下根に逗ず。上根に約すれば是れ法の名なり、中下に約すれば是れ譬の名なり、三根合せ論じて双べて法譬を標す。此の如く解する者は、誰と諍ひを為さん耶。今且らく法譬に依りて釈を為すなり。

 [12]二に旧解を引かば、叡師の序に云はく、「未だ敷かざるを屈摩羅と名け、将に落ちんとするを迦摩羅と名け、中に処して盛んなる時を分陀利と名く」と。遠師の云はく、「分陀利迦は是れ蓮華の開喩なり。然るに体は時を逐ふて遷り、名は色に随つて変ず。故に三名あるなり」と。大経に亦云はく、「人中の蓮華、分陀利華」と。二名並べ題するは応に通別の異なりあるべし。今、蓮華は是れ通、分陀利は是れ別称なるを取る。道朗の云はく、「鮮白色、或は翻じて赤色と為し、或は翻じて最香と為す」と。此の如きは皆是れ開盛の義なり。分陀利を挙ぐるときは則ち之を兼ぬ矣。問ふ、梵本は別を挙げ、此の方には通を用ふるは何んぞや。答ふ、外国には三時の名あり、此の方には則ち無し。但だ通名を挙ぐるに、通自ら別を兼ぬ。他の蓮華を解するに十六義あり。蓮華の縁に従つて生ずるは、仏性の縁に従つて起るを譬ふ。蓮華の能く梵王を生ずるは、縁に従つて仏を生ずるを譬ふ。蓮華の生ずること必ず淤泥に在るは、解の生死より起るを譬ふ、蓮華は是れ瑞にして見る者歓喜するは、見る者の仏と成るを譬ふ。蓮華は微より著に之く、一礼一念も皆な作仏を得るを譬ふ、蓮華は必ず倶なるは、因果亦た倶なるを譬ふ、華に必ず蓮あるは、因は必ず仏と作るを譬ふ。蓮華は引いて蓮華世界に入るを譬ふ、蓮華は是れ仏の践む所なるは、衆聖の託生するを譬ふ。此の十譬は秖だ是れ今家の行妙を譬ふる中の片意なる耳。蓮華は淤泥より生じて淤泥に染まざるは、一、三の中にありて、三、一を染せざるを譬ふ。蓮華の三時に異なるは、三を開するに秖だ是れ一なるを譬ふ。蓮華に開あり合あるは、縁に対するに隠あり顕あるを譬ふ。蓮華は諸華に於て最も勝るるは、諸説の中に第一なるを譬ふ。華開きて実顕はるるは、巧に説きて理顕はるるを譬ふ。蓮華に三時の異りあるは、権実の時に適ふことを譬ふ。此の六譬は秖だ是れ今家の説法妙の中の片意なる耳。光宅の云ふが如き、余華は華果倶ならざるは、余経の偏に因果を明すを譬ふ。此の蓮華は華果必ず倶なるは、此の経に双べて因果を辨ずるを譬ふ。弟子門には因を明し、師門には果を明す、故に蓮華を借りて喩と為すと。今謂はく、此の解は語略にして義偏なり。若し迹門には、師弟各因果あり。文に云はく、「我れ尽く諸仏所有の道法を行じ、道場にして果を成ずることを得たり」と。即ち師の因果なり、会三帰一は即ち弟子の因なり、得記作仏は即ち弟子の果なり。本門に云はく、「我れ本と菩薩の道を行ずる時」とは、即ち師の因なり。「我れ仏を得てより已来た甚大久遠なり」とは、即ち師の果なり。「我れ昔其の初発心を教ゆ」とは、即ち弟子の因なり。「今皆な不退に住し、悉く当に成仏することを得べし」とは、即ち弟子の果なり。彼の義は偏にして略なり、故に用ひず。且らく其の語を助成せば、四微の色法の如きは、華と蓮とに当らざれども、而も微に約して華を論じ蓮を論ず。今の実相の理は、本迹の因果に当らざれども、而も理に約して本迹因果を明す耳。又た四微の如きは、開と合とに当らざれども、而も微に約して開合を論ず。実相は権実に当らざれども、而も実相に約して開権顕実・発迹顕本を論ずる耳。

 [13]三に経論を引かば、法華論に十七名を列ぬ。一には無量義、二には最勝、三には大方等、四には教菩薩法、五には仏所護念、六には諸仏秘蔵、七には一切仏蔵、八には一切仏密字、九には生一切仏、十には一切仏道場、十一には一切仏所転法輪、十二には一切仏堅固舎利、十三には諸仏大巧方便、十四には説一乗、十五には第一義住、十六には妙法蓮華、十七には法門摂無量名字句身、頻婆羅・阿閦婆等なり。余の名は悉く解釈せず、唯だ十七名を列ぬ。次に蓮華を解するに二義あり、一には出水の義不可尽にして小乗泥濁の水を出離するが故なり。復た義あり蓮華の泥水を出づるは、喩へば諸の声聞、如来大衆の中に入りて坐するに、諸の菩薩の蓮華の上に坐するが如く、無上の智慧清浄の境界を説くを聞きて如来の密蔵を証するを譬ふるが故なり。二に華開くは、衆生は大乗の中に於て心怯弱にして信を生ずること能はざるが故に、如来の浄妙法身を開示して信心を生ぜしむるが故なり。今、論意を解せば、若し衆生をして浄妙法身を見せしむと言はば、此れ妙因開発するを以て蓮華と為すなり。若し如来大衆に入りて蓮華の上に坐すと言ふは、此は妙報国土を以て蓮華と為すなり。何となれば、盧舎那仏、蓮華蔵海に処して大菩薩と共ず、皆な生死の人に非ず。若し声聞此に入ることを得れば、即ち妙報国土を蓮華と為すなり。彼の論を今の意に望むれば、乃ち是れ行位の両妙なる耳。大集に云はく、「憐愍を茎と為す、智慧は葉なり。三昧を鬚と為す、解脱は敷なり。菩薩の蜂王甘露を食す、我れ今、仏の蓮華を敬礼す。又た戒・定・慧・陀羅尼を以て纓珞と為し、菩薩を荘厳す」と。今、経を解せば、当に是れ菩薩四法を攬りて仮名の人を成ずること蜂の華に在るが如し。復た前の四法を以て自ら資くること、蜂の華を食ふが如くなるべし。

 [14]四に正しく釈せば、若し大集の行法の因果を蓮華と為すに依らば、菩薩の上に処するは即ち是れ因華なり、仏の蓮華を礼するは即ち是れ果華なり。若し法華論に依らば、依報の国土を以て蓮華と為す。復た菩薩は蓮華の行を修するに由りて報に蓮華の国土を得。当に知るべし、依正因果悉く是れ蓮華の法なり、何んぞ譬を須ひて顕はさん。鈍根の人の法性の蓮華を解せざるが為の故に、世華を挙げて譬と為るも、亦応に何の妨げあるべけん。然るに経の文、両処に「優曇鉢華時一現耳」と説く。此の華若し生ずれば、輪王応に出づべし。若し此の経を説かば、即ち仏記を授くるの法王世に出づるなり。此の霊瑞華は蓮華に似たり、故に以て喩と為す。若し此の意に従はば、即ち是れ喩を借りて妙法を喩ふるなり。夫れ喩には少喩と遍喩あり、涅槃の如し、云云。但だ少喩は月を以て面を喩ふるに、其の眉目を求むることを得ず。雪山を象に況するも、其の尾牙を覓む可からず。今の法華三昧は以て喩と為ること無けれども、此の蓮華に喩ふる耳。

 [15]夫れ華に多種あり、已に前に説くが如し。唯だ此の蓮華のみ華果倶に多し、因に万行を含し、果に万徳を円るを譬ふ可し。故に以て譬と為す。又た余華は麁なり、九法界の十如是の因果を喩ふ。此の華は妙なり、仏法界の十如の因果を喩ふ。又た此の華を以て仏法界を喩ふるに、迹本の両門に各三喩あり。迹を喩ふとは、一には華生ずれば必ず蓮あり、蓮の為の華にして蓮は見る可からず。此れ実に約して権を明すに、意、実に在り、能く知る者無きを譬ふ。文に云はく、「我が意は測る可きこと難し、能く問を発する者無し」と。又云はく、「宜しきに随つて説く所、意趣解し難し」と。二には華開くが故に蓮現ず、而も華を須ひて蓮を養ふ。権の中に実あれども、而も知ること能はず、今、権を開して実を顕はすに、意、権を須ふることを譬ふ。広く恒沙の仏法を識ることは、秖だ実を成して深く仏知見を識らしめんが為なるのみ。三には華落ちて蓮成ず、即ち三を廃して一を顕はすことを喩ふ。「唯だ一仏乗を以て直ちに道場に至る」と。菩薩は行ありて、見ること了了ならず。但だ華の開くが如し。諸仏は行ぜざるを以ての故に、見ること則ち了了なり。譬へば華落ちて蓮の成ずるが如し。此の三は迹門の初の方便より引きて大乗に入り、終竟に円満するを譬ふるなり。又た三譬の本門を譬ふるは、一には華は必ず蓮あるは、迹は必ず本あり、迹に本を含ずるを譬ふ。意、本に在りと雖も仏旨知り難し。弥勒も識らざるなり。二には華開きて蓮現ずるは、迹を開して本を顕はすは意、迹に在るを譬ふ。能く菩薩をして仏の方便を識らしむ。既に迹を識り已れば還つて本を識り、増道損生す。三に華落ちて蓮成ずるは、迹を廃して本を顕はすを譬ふ。既に本を識り已れば復た迹に迷はず、但だ法身に於て道を修して上地を円満するなり。此の三の譬は本門を譬ふ。始め初開より終り本地に至る。二門六譬は各各擬する所あり。初の重は仏界の十如より九界の十如を施出するに約す。次の重は九界の十如を開して、仏界の十如を顕はす。三の重は九界の十如を廃して、仏界の十如を成ず。三譬に迹門の始終を摂得し尽すなり。若し此の意を得れば、十二因縁・四諦・三諦等、智・行・位、乃至功徳利益も、亦た此の譬を用つて之を譬ふべし、云云。第四重は本の仏界の十如より、迹の中の仏界の十如を施出するに約す。第五重は迹の中の仏界の十如を開して、本の中の仏界の十如を顕出す。第六重は迹の中の仏界の十如を廃して本の中の仏界の十如を成ず。始終円満し、開合具足す、是を少分に蓮華を以て譬と為すと為るなり。

 [16]多分喩とは、釈論に師子吼の義を解するに、深山谷種より生長し、身力・手足・爪牙・頭尾・震吼等の譬をもつて師子吼の法門を譬ふ。亦た大経に、波利質多樹の黄嘴皰果等を明して遍く行人を喩ふるが如し。今も亦た是の如し。初の種子より乃至蓮成ずるまで、妙法を喩ふるなり。譬へば石蓮の烏皮外に在り、白肉内に在り、四微を質と為し、巻荷生ぜんと欲するに微細の衆具あり、華を開き鬚を布き、蓮実の房成るに初後異ならざるか如し。蓮華の始終に十義具足す。仏界の衆生は始め無明より終り仏果に至るまで十如是の法欠減あること無きを譬ふ。総じて譬ふること竟んぬ。

 [17]譬へば石蓮の如し、黒きは則ち染め叵く、硬ければ則ち壊し叵し。方ならず円ならず、生ぜず滅せず。劫初には種無きが故に生ぜず、今も初めに異ならず、故に滅せず。是を蓮子の相と名く。一切衆生の自性清浄心も亦復た是の如し。客塵の為に染せられず、生死重積すれども而も心性は住せず、動ぜず、生ぜず滅せず。即ち是れ仏界の如是相なり。浄名に曰はく、「一切衆生即ち菩提の相なり」とは、即ち其の義なり。

 [18]譬へば蓮子の復た烏皮淤泥の中にありと雖も、白肉改まらざるが如し。一切衆生の了因の智慧も亦復た是の如し。五住の淤泥、生死の果報、一切の智願猶ほ在りて失せず、是を仏界の如是性と名く。故に言はく、「煩悩即ち菩提なり」と。又た「諸法は不生なれども般若生ず」とは、即ち其の義なり。

 [19]譬へば蓮子の淤泥の中に在れども而も四微朽ちず、是を蓮子の体と名くるが如し。一切衆生の正因仏性も亦復た是の如し、常楽我浄の不動不壊なるを仏界の如是体と名く。大経に言はく、「是の味真正にして停留して山に在り、草木叢林も覆滅すること能はず」とは、即ち其の義なり。

 [20]譬へば蓮子の皮殼の為に籠められ、泥の法に没せらるれども、而も巻荷心に在りて生長の気あるが如し。一切衆生の心も亦是の如し。苦果の為に縛せられ、集惑に沈めらると雖も、而も能く中に於て菩提心を発すること、甚だ大雄猛なり。師子乳の如く、師子筋の弦の如し。是を仏界の如是力と名く、経に言はく、「若し菩提心を発すれば、無辺の生死を動じ無始の有輪を破す。閻浮の人は未だ果を見ざれども、而も能く勇猛に発心するなり」と。

 [21]譬へば蓮子の復た微小なりと雖も、烏皮の内に具さに根茎華葉鬚台ありて衆具頓に足るが如し。是を蓮子の如是作と名く。一切衆生の初発菩提心も亦復た是の如し。明解決定し、慈悲誓願をもつて上求下化し、誓つて成就を取る。志し疲退せず、是を仏界の如是作と名く。華首経に言はく、「一切の諸の功徳皆な初心の中に在り」と、即ち其の義なり。

 [22]譬へば蓮子の根は淤泥に依れども、而も華は虚空に処し、風日に照動して昼夜に増長し、栄耀頓に足るが如し。一切衆生も亦復た是の如し。無明際より菩提心を発し、菩薩の行を修し、生死を出離して法性の中に入る。因行成就し、仏日に値ひて神通の風を被り、其の心念念に薩婆若海に入る。此を仏界の如是因と名く。経に言はく、「無量劫に於て作す所の功徳は、五茎の蓮華を然燈仏に上りて功徳を得ること多きには如かず。此は是れ真因成就なり」とは、即ち其の義なり。

 [23]譬へば蓮華の鬚蘂囲遶して、華内蓮外在るが如し。此を蓮華の如是縁と名く。菩薩も亦是の如し。真因の中に於て万行六波羅蜜を具足す。一行一切行にして因を資助するは、鬚の華の内に在るが如く、若し果を得る時は衆行休息すること鬚の蓮の外に在るが如し。是を仏界の如是縁と名く。経に言はく、「尽く諸仏所有の道法を行ず」と、即ち其の義なり。

 [24]譬へば蓮華の華成じて蓮を結び、而も華葉零落して台子に実を成ずるが如し。此を蓮子の如是果と名く。菩薩も亦是の如し、真因所感の無上菩提の大果円満し、究竟じて実を成ず。是を仏界の如是果と名く。故に経に言はく、「仏子、道を行じ已つて来世に作仏することを得」と、即ち其の義なり。

[25]譬へば蓮実の房台包遶するが如し、此を蓮子の如是報と名く。菩薩も亦是の如し、大果円満して無上の報足る、習果の果は報果に依ること、実の台に依るが如し。経に言はく、「是の如きの大果報は久修業の得る所なり」とは、即ち其の義なり。

 [26]譬へば泥蓮の四微、空に処するに蓮の四微、初後異ならざるか如し、此を蓮子の本末等と名く。一切衆生も亦是の如し、本有の四徳隠るるを如来蔵と名け、修成の四徳顕はるるを名けて法身と為す。性徳と修徳の常楽我浄は、一にして而も二無し。是を仏界の十如の本末究竟等と名く、経に言はく、「衆生の如と仏の如と、一如にして二如無し」とは、即ち其の義なり。是れ蓮華を用ひて十如の境を譬ふること竟んぬ。

 [27]次に蓮華を用ひて十二因縁を譬ふれば、烏皮淤泥水草重覆すること、通じて上に説くが如し。即ち是れ無明支の種子なり。能生の力は、即ち是れ行支なり。内に巻荷ありて華鬚備さに具するは、即ち是れ識・名色・六入・触・受支なり。潤を含するは、愛・取・有支なり。団円盤屈して出づることを得ること能はざるは、即ち是れ老死支なり。若し能く芽鋒萌動して烏皮を鑚り破るは、即ち是れ無明滅なり。復た烏皮の内に在りて生ぜざるは、即ち是れ諸行滅なり。㲉殻の外に出づるは、即ち是れ生死滅なり。此れ略して四種の十二因縁を譬ふるなり。

 [28]次に蓮華を用ひて四諦を譬ふれば、烏皮は界内の苦を譬へ、白肉は界内の集を譬ふ。泥は界外の集を譬へ、水は界外の苦を譬ふ。道滅は知んぬ可し。此れ通じて四種の四諦を譬ふるなり。次に蓮華を用ひて二諦を譬ふれば、蓮藕茎葉等は俗を譬へ、蓮藕茎孔の空なるは真を譬ふ。此れ通じて七種の二諦を譬ふるなり。次に蓮華を用ひて三諦を譬ふれば、真と俗とは前の如し、四微を常楽我浄に擬して中道第一義諦を譬ふ。此れ通じて五種の三諦を譬ふるなり。四微の無生無滅なるは一実諦を譬ふ。劫初に生無く今時に滅無きは、無諦の無説に譬ふるなり。蓮華を用つて境妙を譬ふること竟んぬ。

 [29]次に更に九妙を譬ふれば、内に生性あるは智妙を譬ふ。巻荷の生ずる性は空の智妙を譬へ、鬚葉の生性は仮の智妙を譬へ蓮台の四微の生性は中の智妙を譬ふ。此の三の生性は一心三智の妙を譬ふるなり。

 [30]蓮子は小なりと雖も、備さに根茎華葉あるは、行妙を譬ふ。茎は即ち慈悲、葉は即ち智慧、鬚は即ち三昧、開敷は即ち解脱なり。又た葉を以て三慈を譬ふれば、水を覆ふ青葉は衆生縁の慈を譬へ、水を覆ふ黄葉は法縁の慈を譬へ、倚葉は無縁の慈を譬ふ。倚荷若し出づれば蓮生ずること久しからず、無縁の慈成ずれば記を得ること久しからず。又た根華子葉の人蜂を利益するは即ち檀なり、香気は即ち尸なり、泥に生じて辱じざるは即ち忍なり、増長するは即ち精進なり、柔湿するは即ち禅なり、汚れざるは即ち慧なり。此に斉つて行妙を譬ふるなり。

 [31]蓮は理即の位を譬ふ。芽の皮を鑽るは麁住の位、芽の皮を出づるは細住の位、泥を鑚るは欲定の位、泥に斉るは未到の位、泥を出でて水に在るは四禅の位なり。禅定は水の如く、能く欲の塵を洗ふ。水に処して増長するは、無色の位を譬ふ。此に斉つて観行の蓮華の位を譬ふ。水を出づるは見思を破するを譬へ、相似の蓮華は十信の位なり、空に処して含んで敷かんと欲するは十住の位を譬ふ。鬚台は識るべし、十行の位を譬ふることを。日に随つて開迴するは、十迴向の位を譬へ、敷舒成就して蜂蝶を荷負するは十地の位を譬へ、鬚葉零落して台子の独り在るは、衆行を休息するを譬ふ。妙覚円満し、果上無事にして真常湛然なり。此れ皆な位妙を譬ふるなり。

 [32]蓮に四微あるは真性軌を譬へ、蓮房の内の虚なると茎藕の中の空なるは観照軌を譬へ、台房囲遶するは資成軌を譬ふ。此れ三法乗妙を譬ふるなり。

 [33]蓮成じて空に処し、影清水に臨むは顕機顕応を譬へ、影濁水に臨むは冥機冥応を譬へ、影風浪の水に臨むは亦冥亦顕の機応を譬ふ。大経に云はく、「闇中の樹影」と。夜影の水に臨むは非冥非顕の機応を譬ふ。此等は感応妙を譬ふるなり。

 [34]若し風、蓮華を揺がすに東に昂り西に倒き、南に向ひ北に映り、下風には則ち合し、上風には則ち開くは、即ち東涌西没、中涌辺没等を譬ふ。此は地動瑞を譬ふるなり。日暮に華合するは入定瑞を譬へ、日出でて華開くは説法瑞を譬ふ。遠く望むときは則ち紅く、近く望むときは則ち白く、赤華青葉相ひ映じて輝赫なるは放光瑞を譬ふ。流芳野に遍きは栴檀風瑞を譬へ、蘂粖飄颺するは天雨華瑞を譬へ、風雨飄灑して翻珠相棠なるは天鼓自然鳴瑞を譬ふ。此等は皆な神通妙を譬ふるなり。

 [35]華合して未だ開かざるは、一乗を隠して分別して三を説くを譬ふ。華葉の正しく開くは、三を会して一に帰し但だ一乗を説くを譬ふ。華落蓮存するは、教を絶して理に冥ずるを譬ふ。若し如来は常に説法せざれども、乃ち多聞と名くと知る。此等は説法妙を譬ふるなり。

 [36]一藕の辺より更に一華を生じ、展転して復た無量の蓮華を生ずるは、業生の眷属妙を譬ふ。一の蓮房より子を堕して泥に在りて、更に蓮華を生じ展転して復た無量の蓮華を生ずるは、神通眷属妙を譬ふ。掘りて彼の藕を移し、彼の蓮子を採りて此の池に種ゆるに、蓮華熾盛なるは、願生の眷属妙を譬ふ。彼の池より飛び来ること游絲薄霧の如く、此の池に入りて蓮華の熾盛なるは、応生の眷属妙を譬ふ。

 [37]魚鼈其の下に噞喁し、蜂蝶其の上に翔り集まるは、衆生の果報清涼の妙益を譬ふ。見る者歓喜するは因の益を譬へ、其の葉を採用するは三草の益を譬へ、其の華を採用するは妙の小樹の益を譬へ、其の蓮を採用するは妙の大樹の益を譬へ、其の藕を採用するは妙の実事の益を譬ふ。此等は功徳利益を譬ふるなり。是の如き等の譬え、及び余の無量の譬喩は、以て迹の中の十妙を譬ふ、云云。

 [38]次に本を譬ふれば、譬へば一池に蓮華の始めて熟し、熟し已つて堕落し、泥水に投じて方に復た生長し、乃至成熟す。是の如く展転して更に生熟し、歳月既に積りて遂に大池に遍く、華田に布満するが如し。仏も亦た是の如し。本初に因を修し果を証すること已に竟りて衆生の為の故に更に方便を起し、生死の中に在りて初発心を示し、復た究竟を示す。数数生滅すること無数百千なり。本地より応に垂れ。俯して凡俗に同じて更に五行を修す。烏蓮の更に茎葉を生ずるは、更に聖行を修するを譬ふ。蓮子の四微の稍稍増長するは、更に天行を修するを譬ふ。荷葉の始めて生ずるは、更に梵行を修するを譬ふ。蓮子の泥に堕つるは、諸悪に同じて更に病行を修するを譬ふ。蓮芽の始めて萌すは、小善に同じて更に嬰児行を修するを譬ふ。是の如く三世の益物は称げて計るべからず、遍く法界に満して分身迹を垂れ、迹を開し迹を廃する等の益に非ずといふこと無し、云云。

 [39]若し蓮華に非ずんば、何に由りてか遍く上来の諸法を喩へん。法と譬と双べ辨ず、故に妙法蓮華と称するなり。