[1]三には縁に対して異なりあることを明さば、縁は即ち是れ十因縁の法に成ぜらるる所の衆生なり。而して此の衆生に皆な十界の根性あり、熟する者は先に感ず。仏は成熟・未成熟の者を知りて、応ずるに時を失せず。若し衆生に解脱の縁未だ熟せざれども、全く棄つ可からず。此の機縁に対して止だ人天乗の説を作して、脩多羅等の名を作さず。故に天竺の外典には、十二部の名無く、亦た其の意無し。此の間の儒道も亦た斯の名無く、意義皆な闕きたり。若し法身、王と為りて十善道を示すとも亦た濫りに此の名を用ひず。故に地持の中に種性の菩薩は能く自ら熟し、又た能く他を熟すと説く。二乗の種性及び仏の種性あるは、法に随つて之を熟し、種性無き者は善趣を以て熟す。善趣の熟する者は即ち是れ其の義なり、種性熟のする者は下に説くが如し。若し深く観行する者は、妙に其の意を得べし。邪相を以て正相に入り、無礙辯を用ひて邪経・外典に約して十二部の義を作すこと、胡為ぞ得ざらん。而も正しく縁に対して説くに非ざるなり。次に十因縁所生の衆生に、小乗の根性あるに約す。此の機に対して説くに、通じては則ち十二、別しては則ち或は九、或は十一なり、云云。若し十因縁所成の衆生に、菩薩の機あるに対すれば、別説を作さずして但だ十二部経を明す、今総じて如来の四縁に対して、十二部の法を説くを論ずるに両種の四教の不同あり。一には隠顕に就いて共に四教を論ず、隠は即ち秘密教、顕は即ち頓・漸・不定教なり。秘密は既に隠れて世に流布するに非ざれば、此は置いて論ぜず。若し四法界の衆生に対して通じては十二部を説き、別しては或は九部、或は十一部を説くを漸法の説と名く。若し両法界の衆生に対しては、通じて十二部を説くは、此れ頓法を説くなり。或は四法界に対し、或は両法界に対して、或は別説を作し、或は但だ通説するは、此れ不定の法を説くなり。二には直ちに顕露漸教の中に就て更に四教を明すは、即ち是れ三蔵・通・別・円なり。三蔵教は直ちに三法界に対して別しては或は九、或は十一を説く。通教は四法界に対して通じて十二部の法を説くなり。別教は両法界に対して通じて十二部の法を説く。円教は一法界に対して通じて十二部の法を説く。前には無記化化禅を以て諸の慈悲と合して身輪を示現して、或は国師・道士・儒林の宗、父母兄弟、乃至猴猨鹿馬と為り、事に同じて利益すること称げて説く可からず。今、口輪の説は、例せば前に諸の慈悲を用つて無記化化禅に熏じて種種同じからず百千万法不可説不可説の如し。故に龍宮・象負・海を渧し山を研ぐ。八万四千の法蔵は窮尽す可からず。復た崖り無しと雖も、十二部を以つて往きて収むるに罄きて尽きずといふこと無し。
[2]四に所詮を明さば、若し委しく其の意を論ずれば、四教義の中に出づ。今略して詮の意を引かんのみ。若し人天乗を説くは、界内思議の俗を詮じて永く真を詮せず。若し漸教の人の為に別して九部、十一部を説き、乃至通じて十二部なるは、初は正しく思議の俗諦を詮じ、傍には思議の真諦を詮す。中ごろは正しく思議の真諦を詮じ、傍には思議の俗諦を詮ず。後には正しく不思議の真諦を詮じ、傍には不思議の俗諦を詮ずるなり。乃至双べて不思議の真俗を詮す、云云。若し頓の十二部を説くは、正しく不思議の真を詮じ、傍に不思議の俗を詮ず。若し不定を説くは、此れ則ち其の詮を定判す可からず。若し漸の中の四教に約して詮を明さば、三蔵は正しく思議の真を詮じ、傍には思議の俗を詮ず。若し三蔵の菩薩の為には、正しく思議の俗を詮じ、傍には思議の真を詮ず。若し通教の二乗は正しく思議の真を詮じ、傍には思議の俗を詮ず。若し通教の初心の菩薩の為には、二乗に同じ。若し後心の菩薩の為には、正しく俗を詮じ、傍に真を詮ず。若し別教の初心の為には、正しく界内の真俗を詮し、傍に界外の真俗を詮ず。若し中心の為には、正しく界外の真俗を詮じ、傍に界内の真俗を詮ず。若し後心の為には、双べて界内外の真俗を詮ず。若し円教の初中後心の為には、円かに界外の不思議の真俗を詮ず、云云。
[3]五に麁妙を明さば、即ち五と為す。一には理に約し、二には言に約し、三には所詮に約し、四には衆経に約し、五には正しく此の経に約す。一に理妙に就かば、一切の諸法は中道に非ざること無く、文字を離れて而も解脱を説くこと無し。文字の性離るれば、即ち是れ解脱なり。一切の所説は、理に即して而も妙なり。譬へば龍の雨を雨らすに、而も処処同じからず、或は水、或は火、或は刀杖なるが如し。理も亦た是の如し。理は具すれども情乖き、順ずる耳。乖くが故に麁と為し、理順ずるを妙と為す。
[4]二に言辞に約せば、仏、得道の夜より泥洹の夕に至るまで、常に般若を説き、常に中道を説き、而して一音法を演ぶるに類に随つて異解するが如し。一音の巧説は是れ則ち妙と為す。異類解を殊にするは、自ら麁妙あり。
[5]三に所詮に就かば、若し六道の衆生に対して人天乗を説くは、此れ有為を詮ずれば、能詮・所詮倶に麁なり。若し鈍根に対するに三蔵の五門は生滅の四諦の理を詮ずれば、此れ則ち能詮・所詮倶に麁なり。若し通教の体法の五門は、三蔵の析門に比するに、体門の能詮は巧みなりと雖も、而も所詮は猶是れ真諦なれば所詮も亦た麁なり。若し別教の五門は、能詮を麁と為し、所詮の中道を妙と為す。若し円教の五門は、能詮・所詮倶に皆な是れ妙なり。
[6]四に衆経に就かば、華厳は別を詮じ円を詮ず。三蔵は偏を詮じ、方等は四種の詮なり。般若は三種の詮あり。法華は唯一の詮なり。又た諸経に妙な詮ずること法華と異ならずして、而も麁詮を帯し、麁詮は妙に合することを得ず。是の故に麁と為す。法華は爾らず、仏、平等に説きたまふ。一味の雨の如し。「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」と。純ら是れ一の詮なり。又た云はく、「昔、声聞を毀呰するも、仏は実に大乗を以て教化す」と。又た云はく、「汝等の所行は是れ菩薩の道なり」と。此れ則ち麁を融じて妙ならしむ。此の如きの両意は衆経に異なり、是の故に妙と言ふ。譬へば良医の能く毒を変じて薬と為すが如し。二乗の根敗して反復すること能はざるを、之を名けて毒と為す。今経に記を得るは、即ち是れ毒を変じて薬と為す。故に論に云はく、「余経は秘密に非ず」と云ふは、法華を秘密とするなり。復た本地の円説あるは、諸経に無き所なり。後に在りて当に広く明すべし、云云。
[7]五に正しく此の経に就て妙の十二部を明さば、脩多羅を直説と名くるが如き、今の経には直ちに中道の仏の智慧を説く。六道・二乗・菩薩等の法を説かずして、唯だ仏法を説く。故に直説を妙と為す。祇夜妙とは、重ねて長行の中道の説を頌する耳。故に知んぬ、祇夜も亦た妙なることを。伽陀とは、龍女の献珠、喜見の説偈の如き、孤然として特り起る。此の偈は刹那の頃に於て便ち正覚を成ずることを明す。仏の菩提を成ずる事を称歎す、喜見の孤起は仏の容顏甚だ奇妙なることを歎ず。故に知んぬ、孤起の伽陀妙なることを。本事妙とは、即ち是れ二万仏の所にして無上道を教へて余事を教へざるは、即ち是れ本事妙なり。本生妙とは、十六王子の生身より生じて王子と為り、法身より生じて仏子と為ることを明す。即ち是れ本生妙なり。因縁とは、結縁覆講、大乗繫珠は小乗・人天等の縁を論ぜず。是を因縁妙と名くるなり。未曾有妙とは、天華・地動、二眉間光、三変土田等は是れ不可思議未曾有の事妙なり。譬喩妙とは、経題は法譬を以て名と為し、開三顕一を譬ふ。何んぞ曾て余事を譬へん。即ち譬喩妙なり。優波提舎妙とは、身子の仏に問ふに、仏は諸仏の智慧門を答ふ。龍女・智積の問答は、法華の事を論ず。智積の云はく、「我れ釈迦を見たてまつるに無量劫を経て方に菩提を成ず、此の女の須臾に成仏することを信ぜず」と。此れ別を執して円を疑ふなり。龍女の云はく、「仏、自ら証知したまふ、円珠を以て仏に献ず」と。此は円を以て別に答ふ。此れ即ち提舎妙なり。無問妙とは、文に云ふが如し、「問無くして自ら説きて所行の道を称歎す、三昧より安詳として起ちて舎利弗に告げて仏の智慧を説きたまふ」と。又た「宿世の因縁、吾れ今当に説くべし」と、即ち是れ無問妙なり。授記妙とは、三根に仏の記を授け、「皆な実智の中に安住して天人の為に敬まはる」と、即ち授記妙なり。方広妙とは、「其の車高広なり」と、「智慧深遠なり」等と、即ち是れ方広妙なり。当に知るべし、此の経は初め直説より乃至優波提舎まで、十二の意足る。而も皆な是れ妙なることを。此れ即ち麁に待して説法妙を明すなり。
[8]麁を開して妙を顕はさば、昔の十二・十一・九部の実を説かざる者も、今別に実の昔の不実に異る無し。昔は但だ言広にして理広を明さず。今、言広を開するに即ち理広なり。昔の異を開して今の同を顕はす、即ち是れ絶待に説法妙を明すなり。
[9]第六に観心を欠く、云云。
[10]第九に眷属妙とは、此に就て五と為す。一には来意を明し、二には眷属を明し、三には麁妙を明し、四には法門を明し、五には観心を辨ず。言ふ所の次第とは、若し説無くんば已みなん、説は必ず縁に被る。縁は即ち道を受くるの人なり。已に道を受くるが故に、即ち眷属と成る。譬へば父母の遺体は此を攬つて身を成じ、天性と為ることを得るが如し。天性親愛なるが故に眷と名け、更に相ひ臣順するが故に属と名く。行者も亦た爾り、受戒の時、此の戒法を説きて前人に授くるに、前人聴聞して即ち戒を発することを得。師弟の由つて生ずる所なり。禅も亦た是の如し。安心の法を授くるに、教の如く修行して即ち定を発することを得。是を我が師と為す、我は是れ弟子なり。慧も亦た是の如し。諸の法門を説きて転じて人心に入れ、法に由りて親を成ず。親の故に則ち信じ、信ずるが故に則ち順ず。是を眷属と名くるなり。他土は余根皆な利なれば、所用の塵に随つて之を起して他をして益を得せしむ。此の土は耳根利なるが故に、偏へに声塵を用ふ。故に二万仏の時に無上道を教へ、十六王子は法華を覆講す。是より已来た恒に眷属と為り、世世、師と倶に生ず。或は人天の眷属、或は三乗の眷属、或は一乗の眷属なり。故に身子の云はく、「今日乃も真に是れ仏子なることを知る」と。昔五人を教へて真無漏を得るを仏子と名け、菩薩の真を発せざるを名けて外人と為す。法華に於て大乗の解を発して、自ら昔日は真の仏子に非ずと称す。今は一実の道を説く。聞より悟解して法身生ずることを得。「仏口より生ず」とは、是れ聞慧の中に法身生ず、「法化より生す」とは、是れ思慧の中に法身生ず、「仏法の分を得」とは、是れ修慧の中に法身生ずるなり。二慧成就するは是れ真の仏子なり、天性を定めて眷属と成ることを得。故に説法の後に次で眷属を明す。
[11]二に眷属を明さば、又た五種と為す。一には理性の眷属を明し、二には業生の眷属を明し、三には願生の眷属を明し、四には神通生の眷属を明し、五には応生の眷属を明す。一に理性の眷属とは、衆生の如と仏の如と一如にして二如無し。理性相ひ関はりて、任運に是れ子なり。故に云はく、「我も亦た是の如し。衆聖の中の尊、世間の父なり。一切の衆生な皆な是れ吾が子なり」と。此は是れ理性なり。結縁と不結縁とに関はらずして皆な是れ仏子なり。
[12]二に業生の眷属とは、但だ衆生は理を以て論ずれば皆な子なれども、而も他の毒薬を飲んで失心の者、不失心の者あり。不失心とは、拝跪問訊して救護を求索し、薬を与ふれば即ち服す。故に大通の覆講に於て妙法華を説くに大乗の父子を結ぶことを得たり。其の失心の者は、良薬を与ふと雖も肯て服せず、生死に流浪して他国に逃逝す。即ち方便を起して或は三蔵の結縁を作して生滅の法を説き、或は通教の結縁を作して無生の法を説き、或は別教の結縁を作して不生生の恒沙の仏法を説き、或は円教の結縁を作して不生不生の一実相の法を説く。若は信、若は謗、因つて倒れ因つて起つ。喜根の謗ると雖も、後に要らず度を得るが如し。結縁已後、二十五三昧を以て二十五有の為に、三諦の法を説きて之を成熟す。或は中間に於て得度し、或は今に未だ度せず。復た得度・未度と雖も、皆是れ眷属なり。今、三蔵の仏は分段の国に於て出家成道す。往日の三蔵の縁は、或は度を得、或は未だ度を得ず。得度の者は灰身滅智して復た生を論ぜず。縁ありて未度の者は来りて、分段を牽く。昔し殷重に信順すれば、今親識と為りて道を受く。昔し汎汎に信順するは今疎外と為りて道を受く。昔時に拒謗するは、今怨家と為りて道を受く。甘露初めて降るに先に服嘗することを得るは、早く分段を断じて生死を出づることを得。大象の群を捍ぐが如し、倶に解脱を証す。五仏子の流の如きは、是れ異姓なりと雖も、則ち是れ法親内の眷属なり。若し道を得されば、是れ宗族なりと雖も外の眷属と名く。仏は其の人に於て則ち利益無し。若し滅度に入れば復更に生ぜず。此の人縁尽くれば伝へて後仏に付するなり。
[13]三に願の眷属とは、先世の結縁、未だ苦を断ぜずと雖も、願つて内の眷属の中に生ず。或は怨家等之に因つて道を受く。若し得道の者は法内の眷属と成り、得ざる者は法外の眷属と成る。若し仏滅度すれば、此の人益無ければ後仏に伝付するなり。
[14]四に神通の眷属とは、若し先世に仏に値ひて真を発し諦を見れども、生猶ほ未だ尽きざれば或は上界に在り、或は他方に在り。今仏、分段にして作仏し、或は願力を以てし、或は通力を以てして下界に来生す。或は親・中・怨と為りて仏の行化を輔け。余残の惑を断じて三界を出づ。若し残惑未だ尽きざれば、仏の入滅に値ひて亦た自ら能く断じ、或は後仏を待つ、云云。三蔵には界外の生を説かず。今、大乗の意を以て之を望むるに、昔、仏に値ひて得度し、三界の生尽きて変易の身を受く。縁は分段を牽けども是れ業生に非ず、但だ是れ願・通なり。願と通と云何んが異なる。自の報力に約して神通と名け、教に約して誓願と名く。神通生の者は本と受報の処に猶ほ報身あり、身通の力を以て形を分つて此に来る。若し願生の者は報処に身無し、願力を以て下生する耳。三蔵は結を断じて誓願をもつて生死の身を受くることを説かざれば、此の教に約して願を論ぜず。通教は則ち誓つて余習を扶けて分段に生ずることあれば、通に依つて願を明すに義に於て便と為す。此等は未だ法身を得ず。故に全く応生の眷属無し。三蔵の眷属を竟んぬ。
[15]往昔に無生の縁を結ぶ者は、或は已に道を得、或は未だ道を得ず。仏は分段に於て作仏す。未得道の者は当処に即ち業生あり、上界より下に向ふに即ち願・通の両生あり、願・通を分別すること前に説くが如し。横に他土より来る者は即ち願・通あり、竪に方便より来る者に亦た願・通あり。通教は未だ法身を得ず、故に応生の眷属無きなり。
[16]往昔曾て別教の縁を結ぶ者は、中間に事に同じて法を説きて種種に教詔するに、或は成熟・未熟あり。仏、今、分段に在りて作仏し、未得道の者は当処に即ち業生あり。上界より下に向ふに願・通あることを得。横に他方よりするに願・通あるを得。竪に方便より来るも亦た願・通あり、竪に実報より来る者に応生あることを得。無明先に破して已に法身の本を得、能く応を起して生死に入る。此れ則ち前に異なり、云云。
[17]往昔に円教の縁を結ぶ者は、中間に調熟して或は道を得、或は未だ道を得ず。今、分段に於て作仏す。先の縁、牽き来ること差別同じからず。若し未得道は当処に一あり、上界より下に向ふに二あり、他方より横に来るに二あり、方便より来るに亦た二あり、実報より来るに一あり。例して前の如し、云云。
[18]問ふ、法身は惑除き理顕はる、何が故ぞ生を受くるや。答ふ、応身の受生に其の意三あり、一には熟他の為に、二には熟自の為に、三には本縁の為なり。一に熟他とは、秖だ業生の善根微弱にして自ら発すること能はざるが為に、諸の菩薩等は先に得度すと雖も、彼の迷闇を愍んで慈力をもつて応を起し、二十五有に入りて師導と作り、諸の実行を引きて仏所に向はしむ。若し真道を得れば内の眷属と成りて応生に同じ、若し似道を得れば願・通に同じ。真似を得ざるは勝業を増進せしめ、皆な利益せしめて唐捐あること無し。華厳の中如き、仏、初め胎に託したまふことを説く。法身の菩薩皆な侍衛して下生すること、陰雲の月を籠めるが如し。余胎に散降して親・中・怨と為り、諸業を引くは、当に知るべし、諸の眷属は生死の人に非ざることを。摩耶は是れ千仏の母、浄飯は是れ千仏の父、羅睺羅は千仏の子なり。諸の声聞等は悉く内秘外現して衆に三毒ありと示すも、実に自ら仏土を浄む。諸の親族等は皆是れ大権にして、法身の上地なり。豈に凡夫ありて能く那羅延菩薩を懐かん耶。復次に外道の怨悪・抗拒・誹謗するは当に知るべし、皆是れ法身の所為なることを。何となれば、転輪の小善も世に出づるに怨無し。豈に無上の法王にして怨仇の路に満つることあらんや。若し仏に於て悪を起せば、悪道に罪を受く。何んぞ灼然として生生に相ひ悩ますことを得んや。龍象の蹴踏は驢の堪ふる所に非ず。調達は是れ賓伽羅菩薩、先世の大善知識なり。阿闍世は是れ不動菩薩、薩遮尼犍は是れ大方便菩薩なり、波旬は是れ不思議解脱に住す。故に華厳の列衆に諸の天龍鬼神悉く不可思議の法門に住することを明す。是の如き等の若しは親・中・怨、好・悪・逆・順は、皆是れ法身なり。先には是れ法内の眷属にして、今は応生の眷属と作る。若し親・中・怨、好・悪・逆・順の未だ法身を得ざれば、先に結縁すと雖も猶ほ法の外に在りと為す、同じく願・業等の眷属と称す。諸余の経典に此の権の利益の衆を明さざるに非ず。咸く是れ実内、実外、実好、実悪、実逆、実順と謂ふ。故に経に云はく、「未だ曾て人に向つて此の如きの事を説かず」と。今経には、仏自ら近の権を開して遠の実を顕はす。諸の眷属の迹の権を開して本の実を顕はす。故に文に云はく、「今当に汝が為に最実事を説くべし」と。是を応生の眷属、熟他の故に来ると名くるなり。
[19]二に自成の為に来るとは、法身の菩薩は道を進むること定まり無し。或は生身に従つて道を進め、或は法身に従つて道を進む。故に下の涌出の菩薩の云はく、「我も亦た自ら此の真浄の大法を得んと欲す」と。分別功徳品の中に増道損生を明すは、即ち其の義なり。
[20]三に本縁の為に牽かるるとは、本と此の仏に従つて初めて道心を発し、亦た此の仏に従つて不退地に住す。仏、尚ほ自ら分段に入りて仏事を施作す。有縁の者何んぞ来らざるを得ん。猶ほ百川の応に海に朝すべきが如し。縁牽きて応生することも亦復た是の如し。若し別して説かば、業生は分段に在り、願生と通生は方便に在り、応生は寂光に在り。通じて論ずれば、一処に具さに四種あり。実報已に法身を得て能く応を起し、四種の眷属と作るが如し。円の結縁の者に就かば未だ惑を断ぜずと雖も、自ら三種の眷属あり。得度の者に就かば、即ち是れ四なり。別の眷属も亦た四なること知んぬ可し。通と蔵の結縁の三種も知んぬ可し。応来の応無しと雖も、感応の応を論ずることを得。所応に就いて名を得るに、四義宛かも足る。問ふ、下方の涌出と、妙音の東来と、大経の中の十方の諸大菩薩を召請して娑羅林に集めて大師子吼するが如きは、四の眷属に於ては此は是れ何等ぞや。答ふ、是れ神通来にして神通生に非ず、是れ応来にして応生に非ず、是れ大誓願相ひ関はれば願生に非ず。是れ因縁相ひ召す。下方の声を聞き、妙音の光を見るが如きは、是れ諸仏大事業を以て来る。業生には非ず。業生の者は業来すること能はず、業来は是れ業生に非ず。願・通生の者は願・通来なること能はず、願・通来の者は亦た能く願・通生じ、亦た能く応来す。応来も亦た能く応生す、云云。
[21]三に麁妙を明さば、若し三蔵の根性の眷属は此の性下劣なり。昔、此の縁を結ぶも、縁亦た浅小なり。中間に法を以て成熟するに、成熟すること蓋し少なり。若し仏国に来生して内外の眷属・業・願・通等と作り、乃至三蔵の仏に応来影響するは、皆な麁の眷属なり。通と別との根性、乃至内外巧みなりと雖も、別に異なりあり、準例して知んぬ可し。皆た麁の眷属なり。此の経には、「諸の衆生は悉く是れ吾子にして客作の人に非ず」と説く。其の理性を論ずるに是れ子に非ざること無し。是を理性の眷属妙と名く。往昔の覆講、結縁繫珠、二万億仏にして無上道を教ふ。経に云はく、「若し我れ衆生に遇はば、尽く教ふるに仏道を以てす」と。若し衆生に仏性無くんば教ふるに仏道を以てするは過は則ち仏に属す。若し衆生皆な仏性あらんに、迷惑して教を受けざるは過は衆生に属す。一切の有心皆な当に作仏すべし。闡提も心を断ぜざれば、猶ほ反復することあり。作仏すること何んぞ難からん。二乗は灰滅す、滅智は則ち心尽き、灰身は則ち色尽く。色心倶に敗すれば、其れ五欲に於て復た堪ふる所無し。而して能く世世に之に遇ひて尽く仏道を教ふ。此れ則ち中間の成熟妙なり。今、法華に於て普く作仏を得るは此れ希有の事なり。最上の医王は、毒を変じて薬と為す。能く敗種を治し、無心も成仏するは、此れ則ち内外の眷属妙なり。譬へば陣に臨んで勲を争ふは、前鋒第一なるが如し。仏は諸教を説きて衆生を収羅す。而して灰心の二乗は処処に入らずして法華に於て忽然として入ることを得。故に涅槃に、遙かに八千の声聞に記莂を授くることを得るを、秋収冬蔵して更に所作無きが如しと指す。若し法華に仏性を悟らずんば、涅槃に遙かに指すべからず。若し衆生に本と仏性無くんば、往昔の結縁応に教ふるに仏道を以てすべからず。始を原ね終を要するに、仏性の義明かなり。意を以て得可し。今、華厳師に問ふ、頓極の教一切衆生に仏性ありと説くや。若し其れあらば、二乗何んぞ経を聞きて、授記作仏せずして、那んぞ忽ちに聾の如く瘂の如くなる。若し二乗も本と仏性ありと言はば、怱怱として小を取ること本根に閹するが如くなるべし。本根已に敗せば治す可しと為んや、治す可からずと為んや。若し治す可くんば何が故ぞ治せざる。若し治す可からずんば、那んぞ復た一切衆生に皆な仏性ありと言ふことを得ん。故に知んぬ、華厳に治すること能はざる所は、是れ方便の説なることを。法華の能く治するは、是れ如実の説なり。能く難治を治するは、此の処則ち妙なり。所謂ゆる結縁妙・成熟妙・業生妙・願生妙・応生妙・内眷属妙・外眷属妙なり。能く妙道を受け妙事に影響す、是の故に妙と称す。若し此の意を将つて五味に約せば、乳教には別・円の両眷属あり、一は麁、一は妙なり。酪教は但だ一麁なり。生蘇は三麁一妙なり、熟蘇は二麁一妙なり。法華は麁無くして但だ妙なり。是を相待に眷属妙を明すと名くるなり。又た麁を開して妙を顕さば、諸経は麁の眷属を明して皆な仏性を見ず。今の法華は天性を定め、父子を審らかにするに復た客作に非ず。故に常不軽は深く此の意を得、一切衆生の正因滅せざることを知りて敢て軽慢せず。諸の過去の仏、現在、若は滅後に於て、若は一句をも聞くことあるは、皆な仏道を成ずることを得るは、即ち了因滅せざるなり。「低頭挙手も皆な仏道を成ず」とは、即も縁因滅せざるなり。一切衆生は此の三徳を具せざること無し。即ち是れ開麁顕妙にして、絶待に眷属妙を明すなり。
[22]四に法門の眷属を明さば、此れ普現菩薩の浄名居士に問ふが如し。「父母妻子、親戚眷属、吏民知識、悉く是れ誰とか為ん。奴婢僮僕、象馬車乗、皆な何れの所にか在る」と。浄名答へて云はく、「方便を父と為し、智度を母と為す。一切衆の導師、此に由つて生ぜざること無し」と。法喜を妻と為し、慈悲を女と為し、善心誠実は男、畢竟空寂は舎、弟子は衆の塵労、意の転ずる所に随ふ。道品の善知識、是に由つて正覚を成ず」と。此れ法門を以て眷属と為す。若し爾らば、法門同じからず、深浅異なり有らん。若し三蔵の法門は真を観ずるを実と為し、仮を観ずるを権と為し、此の二智満ずるを以て即ち名けて仏と為す。仏は即ち導師なり。六道に慈悲するは即ち是れ女なり。他をして善く真諦に順ぜしむるを名けて男と為す。此の法を得る時の喜を、此を名けて妻と為す。此の心の中に諸波羅蜜、道品等を修するは、即ち是れ善知識なり。若し通教の中の法門の眷属とは、諸法は如幻如化なりと観じて、即空に体達するを実と為し、四門の同異を分別するを権と為す。此の二智に於て解を生ずるを導師と名く。衆生を慈愛するを女と為し、善直の心を生ぜしむるを男と為し、六度、道品を行ずるを知識と為す。是を通教の中の法門の眷属と為す、云云。若し別教の法門恒沙の眷属は、真俗合するを権智と為す、是れ父なり。中実の理を母と為す。無量の慈善、無量の道品、諸波羅蜜、通達して滞り無し。道種智分明にして機を観じ薬を識る、即ち是れ別教の中の眷属なり。故に無量義に云はく、「諸仏法王の父、経教夫人の母、和合して諸の菩薩の子を出生す」と。十住毘婆沙に云はく、「般舟三昧の父、大悲無生の母、一切の諸の如来は此の二法より生ず」と。宝性論に云はく、「大乗の信を子と為し、般若以て母と為す。禅は胎なり、大悲を乳母と為す。諸仏は実の子の如し。闡提は大乗を謗るの障、外道は横に身中に我ありと計するの障、声聞は生死を怖畏するの障、支仏は利益衆生を背捨するの障あり。菩薩は四法を修して対治を為す、信を修し、般若を修し、虚空定・首楞厳定を修し、大悲を修して清浄法界を得、彼岸に到りて如来の性を見、如来の家に生ず。是れ仏子なり。既に如来の性を見、如来の家に生すと道ふ。当に知るべし、如来を用つて父と為すことを。無量の法門不可説不可説にして皆能く仏子を生ず、云云。若し円教の法門に眷属を明さば、自行の三諦一諦を実と為し、化他の一諦三諦を権と為す。随情の一諦三諦を権と為し、随智の三諦一諦を一実と為す。此の不思議より解を生ず。一心に万行の善を具するを男と為し、無縁の大慈を女と為し、仏知見を聞きて喜を生ずるを妻と為し、非浄非垢等の中道の道品、六波羅蜜を善知識と為す。是の如き等の実相円極の法門を以て眷属と為す。初住の中に便ち正覚を成じ、能く八相をもつて物を化するは、即ち是れ導師なり。前来の諸の法門は既に麁なれば、生ずる諸の導師も亦た麁なり。今は法門の眷属既に妙なれば、所生の導師も亦た妙なり。此の意を用つて五味の教に歴れば、乳教は一麁一妙、酪教は但だ一麁あり、生蘇は三麁一妙あり、熟蘇は二麁一妙なり、法華は但だ一妙あり。麁に待する意竟んぬ。諸経は妙なる者は自ら妙、麁なる者は自ら麁なり。今経は但だ妙なる者を妙と為るのみに非ず、亦復た麁あること無し。是の前来の諸麁を絓へて悉く皆な決了して一の平等大慧の妙法門と為す、絶待の意竟んぬ。
[23]五に観心の眷属とは、即ち六と為す。一には愛心、二には見心、四は則ち四教なり。愛心の眷属とは、無明を父と為し、癡愛を母と為して煩悩の子孫を出生す。貪著憶想して心中の法門を得んと欲するを以て魔鬼便ち入る。媚女の思想するは邪媚之に媚びるが如し。行人も亦た爾り、偏邪を憶想すれば邪物入ることを得。鬼力を以ての故に或は権解を生じ、或は実解を生す。邪解生ずるが故に鬼の導師生ず。鬼の慈善を起し、邪法の喜に著し、邪の六度道品を行じ、邪辯を得、心明かに口利にして諸の法門を説くは、即ち愛心の眷属なり。邪相既に利なれば、四見を発得し、見心推画して諸の法門を作る。心所見の処を実と為し、他に同ずるを権と為す。心に愛を起すを女と為し、心に分別するを男と為し、是の如きの心中に六度を修するを道品と為す。是を見心の眷属と名く。何となれば、此の見愛は己が心の苦・集を識らずして妄りに道・滅と為す。字と非字とを知らざること、虫の木を食むが如し。偶法門の名を得れども、名ありて義無し。豈に愛見に非ず耶。若し能く心を観じて愛見の心は皆是れ因縁生の法にして無常生滅すと識れば、即ち四番の観心の眷属あり。中論の偈に云ふが如し、「因縁生の法は即空・即仮・即中なり」と。仍ほ四観に於て各各眷属を明すこと、前に準じて知んぬ可し。五の観心を判じて麁と為し、後の一の観心を妙と為す。又た麁を決して妙を論ずるに、人尚ほ自ら己が愛見の心は是れ因縁生なりと識らず。何んぞ能く因縁の心、即空・即仮なりと識らん。尚ほ空・仮を識らず、何んぞ能く魔界即ち仏界にして見に於て動ぜずして三十七品を修せん耶。今、愛即ち是れ法性と観じ、見を観ずるに動ぜず、三十七品を修すれば、魔界、見界即ち是れ仏界なり。非字の中に於て而も能く字を知り、非道を行じて仏道に通達す。一切法に於て是れ妙ならざること無し。事の眷属を明して聴学の文字の人を伏し、法門の眷属を明して行教の人を伏し、観心の眷属を明して観心坐禅の人を伏す。三種の法門並びに其の聞見に過ぎたり、云云。
[24]第十に功徳利益とは、秖だ功徳利益にして、一にして異なり無し。若し分別せば、自益を功徳と名け、益他を利益と名く、云云。此を四と為す。一には利益の来意、二には正説の中の利益、三には流通の中の利益、四には観心の中の利益なり。一に利益の来意とは、諸仏の所為は未だ嘗て空しく過ぎず。釈論に云はく、「仏、王三昧に入りて前に光を放ちて前者を度し、後に光を放ちて後者を度す。譬へば網魚の前に獲、後に獲るが如し。光を見、法を聞くに皆な唐捐ならず」と。浄名に云はく、「法宝普く照して甘露を雨らすとは、即ち身口の両益なり」と。華厳・思益に並びに放光は慳を破し、瞋を破し、癡を破する等と云ふ。具さには彼の説の如し。今の経に、四大弟子は仏の開三顕一の益を領す。仏の言はく、「如来に復た無量の功徳あり、汝等説くとも尽くすこと能はず。譬へば大雲の世間に起るが如し」とは、形益を譬ふるなり。雷を興し電を輝かすは、神通の益を譬ふるなり。其雨普等は説法の益を譬ふるなり。而も諸の草木各各生長することを得るは即ち是れ四種の眷属皆な七益に沾ふなり。故に次に利益妙を明すなり。
[25]二に正説の利益を又た三と為す、先には遠益を論じ、次には近益を論じ、三には当文の益を論ず。遠益とは、即ち大通仏の所にして、十六王子、化を助けて宣揚して双べて毒・天の二鼓ぞ撃つ。善生ずるに浅深あり、惑死するに奢促あり。始め人天の善より終り大樹に至るまでは浅益なり。始め初心の最実より終り後心の最実は深益なり。始め不善を破し終り塵沙を破するは奢の死なり。始め無明を破し終り亦た無明を破するは促の死なり。死の奢促は是れ毒鼓の力、善生の浅深は天鼓の力なり。故に文に云はく、「有を破するの法王、世に出現して衆生の欲に随つて為に法を説く」と、即ち二鼓の文義なり。
[26]破有の義は前に説くが如し、説法の益の義、今当に説くべし。略して七益と為す。一には二十五有の果報の益なり、亦た地上清涼の益と名く。二には二十五有の因華開敷の益なり、亦た小草の益と名く。三には真諦三昧析法の益なり、亦た中草の益と名く。四には俗諦三昧五通の益なり、亦た上草の益と名く。五には真諦三昧体法の益なり、亦た小樹の益と名く。六には俗諦三昧六通の益なり、亦た大樹の益と名く。七には中道王三昧の益なり、亦た最実事の益と名く。若し二十五有の因果の益は、業生の眷属と為るに堪へたり。若し真諦三昧の体・析の益は、願生の眷属となるに堪へたり。若し俗諦三昧、五通・六通の益は、神通の眷属となるに堪へたり。若し中道王三昧の益は、応生の眷属となるに堪へたり。私に謂はく、応に四双八益あるべし。直ちに是れ前を開して後を合す、故に七益と言ふ。若し後を開して前を合せば亦た是れ七益なり。前後倶に開すれば、即ち是れ八益なり。所謂中道次第の益、中道不次第の益なり。若し前後倶に合せば、則ち是れ六益なり、云云。
[27]已に略して七益を説き竟んぬ、今更に広く開して十益と為す。一には果の益、二には因の益、三には声聞の益、四には縁覚の益、五には六度の益、六には通の益、七には別の益、八には円の益、九には変易の益、十には実報の益なり。果の益とは、即ち二十五有の果報の益なり。八大地獄あり、阿鼻と想と黒縄と衆合と叫喚と大叫喚と焦熱と大焦熱とを謂ふ。一一に各各十六の小獄ありて眷属と為す。合して一百三十六所あり。此の正地獄は地の下二万由旬に在り。其の傍地獄は、或は地上に在り、或は鉄囲山の間に在り。傍は軽く正は重し。重き者は遍く百三十六を歴、中なる者は遍くせず、下なる者は復た減ず。其の中の衆生は、常に熱苦の為に逼めらる。具さに説く可からず。聞く者驚怖せん。四解脱経には称して火塗と為す。初入・初出の両時に化す可し。其の中の罪人の宿世の善根、可発・関・宜なれば、而も為に聖人赴・対して之に応ず、或は光照を蒙り、或は雨を注いで火を滅し、或は調達・婆藪、開示し説法するに、熱悶甦醒して身体清涼なり。冥顕の両益を獲て諸の苦息むことを得。八の寒氷は阿波波等を謂ふ、亦た百三十六所あり。乃至冥顕の両益を得、温煖身に適ふ。是を地獄の果の上に清涼の益を得と為すなり。畜生とは略して三種あり、水と陸と空なり。陸に三品あり、重き者は土内にして光明を見ず、中なる者は山林、軽き者は人に畜養せらる。彊き者は弱きを伏し、血を飲み肉を噉ひ、怖畏百端なり。四解脱経に称して血塗と為す。其の中の衆生先世の善根、可発・関・宜なれば聖人赴・対しに之に応ず。無所畏を得、冥顕の両益を獲せしむ。是を畜生の果の上の清涼の益と為すなり。餓鬼とは、或は海渚に居し、或は人間・山林の中に在り。或は人の形に似、或は獣の形に似たり。重き者は飢火節焰ありて漿水の名すら聞かず。中なる者は蕩滌膿血糞穢を伺ひ求め、軽き者は時に薄く一たび飽く。加ふるに刀杖駆逼を以てし、海を塞ぎ河を塡む。四解脱に称して刀塗と為す。其の中の衆生先世の善根、可発・関・宜なれば聖人赴・対して之に応ず。手より香乳を出して施して飽満せしめ、冥顕の両益を獲せしむ。是を餓鬼の果の上の清涼の益と為すなり。阿脩羅とは、或は半須弥の巖窟に居し、或は大海の辺、或は大海の底なり。諸天と憾みを為し、恒に怖畏を懐く。雷の鳴るを謂つて天鼓と為し、龍の雨らすは変じて刀剣と成る。此の中の衆生、先世の善根、可発・関・宜なれば聖人赴・対して之に応ず。軟言をもつて調伏し、冥顕の両益を獲せしむ。是を阿脩羅の果の上の清涼の益と為すなり。四天下の人は果報勝劣ありと雖も、倶に生老病死あり、同じく是れ軽報の泥犁なり。其の中の衆生先世の善根、可発・関・宜なれば聖人赴・対して之に応ず。所離をして離るることを得、所求をして求むることを得、冥顕の両益を獲せしむ。六欲天とは、地天は別して脩羅闘戦の難あり、通じては五衰の死相ありて苦は地獄に等し。其の中の諸天先世の善根、可発・関・宜なれば聖人赴・対して之に応じて冥顕の両益を獲せしむるなり。四禅・梵王・無想・那含等の色天は、下界の諸苦無しと雖も、而も色の為に籠めらる。若し命尽くる時は禅に入ることを楽はず、風触れて身を吹くに唯だ眼識を除いて余は皆な苦あり。其の中の諸天先世の善根、可発・関・宜なれば聖人赴・対して之に応じて冥顕の両益を獲すしむ。四空の諸天は、欲・色界等の苦無しと雖も、瘡の如く癰の如く癡の如く、箭の体に入るが如くにして細煩悩を成就す。其の中の諸天先世の善根、可発・関・宜なれば聖人赴・対して之に応じて冥顕の両益を獲せしむ。此の清涼の益、合して之を言はば、蓋し凡聖の慈善根の力に由る。別して之を言はば、本と菩薩の初め二十五有所防の悪を観じて悲を起し、二十五の能防の善を観じて慈を起し、此の慈悲を以て王三昧に熏じて衆生を捨てず、関・宜に赴・対して利益を得せしむるに由る。大経に二十五三昧をもつて二十五有を破することを明す。十番の一の意略して此の如し。
[28]二番に二十五有修因の益とは、夫れ自他の因果は各義の便に随つて互ひに一辺を挙げて之を説くことは則ち易し。前の果報の益は処所・時節不同なれば、一身に備さに諸益を論ずることを得ず。多人・多処に従ふは顕はし易し。若し因の益を明さば、一人の心に無量の業を起す、其の義顕はし易し。故に一人に約して二十五有の因の益を明すなり。云何なるか因の益なる。四因壊するの益、二十一因成ずるの益、或は一因壊するの益、一因成ずるの益、二十三の亦は成じ亦は壊するの益なり。若し戒の自ら制する無く、其の身口を縦にして四趣の業を作すを地獄の人と名く。若し悪を捨てて戒を持すれば、天人を見ると名く。但だ禁戒厳峻なれども、縁に遇ひて動退するときは則ち悪業還つて興る。或は四重・五逆・塔寺を焚毀す。此の心生ずる時は悪起り戒没す。是の業熟成すれば、必ず悪道に堕す。此の心を離れて戒善を成就せんと欲するに、此に可発・関・宜の機ありて無垢三昧赴・対して之に応ずるを感ず。悪心豁かに破して地獄の因息みて、冥顕の両益を得、云云。今の人は道場に入つて懺悔すと雖も、悪心転ぜざるときは則ち悪業壊せず。悪業壊せざれば得縄断ぜず、罪滅することを得ざるなり。若し慳貪諂媚にして名聞を邀射し、内に実徳無くして人の称美を欲す。此の悪起り戒伏すれば、鬼の中に堕す。若し慚愧無く、債を負ふて還さず。恭敬の心無く、憍慢瞋忿、貪婪饕餮す。此の悪起りて戒伏すれば、畜生道に堕す。若し賢は嫉み、能を妬み、勝他の為の故に而も福力を修し、蛆毒の悪心をもつて方便墜陥して他を驚怖す。是の悪起りて戒伏すれば、阿脩羅の業に堕す。此の三悪心を離れて戒善を成就せんと欲するに、善に可発・関・宜の機あらば、聖、赴・対して之に応ずることを用ふ。悪心豁かに破して戒善完具す。此を四趣の因壊し人天の因成ずと名く。冥顕の両益を獲。此れ人道の修因に約して此の釈を作す耳。若し諸趣に約せば、地獄を出でんと欲して畜に入り、畜を出でんと欲して鬼に入り、鬼を出でんと欲して脩羅に入り、脩羅は出て人道に入らんと欲するに、皆な伝伝して因あり、因成じ業転ずること、此に例して知んぬ可し、云云。若し堅く五戒を持ち、兼ねて仁義を行じ、父母に孝順して信敬慚愧するは即ち是れ人業なり。人業に四品あり、上と中と下と下下となり。若し果報に就かば閻浮提を下下と為し、若し人道に就かば欝単越を下下と為す。或時は善心歇末にして悪念唯だ強し。善の成ずべきあり、悪の滅すべきあり。関・宜の機あらば聖赴・対して之に応ずることを用ひて、四悪趣壊し四品の善成じて冥顕の両益を獲せしむ、云云。若し十善を修持して任運無間に善心成熟するは即ち天の業なり。故に云はく、純悪の心にして善念の間はること無きは即ち悪道の業なり、果の時純ら苦なるが故に。善悪相ひ間りて起るは即ち人の業なり、人中の果報は苦楽相ひ間るか故に。十善任運に成ずるは是れ天の業なり、天の中の果報は自然なるが故なり。若し十善は修し兼て護法の心を起すは即ち四天王の業なり。若し十善を修し、兼て慈を以て人を化するは、是れ三十三天の業なり。若し十善を修し、其の心細妙にして任運に成熟し、行住坐臥衆生を悩まさず、善巧純続するは、是れ焰摩の業なり。若し十善を修し兼て禅定を修して摂心麁住・細住なるは、是れ兜率の業なり。欲界定は是れ化楽の業なり、未到定の事障を破するは是れ他化の業なり、四禅は是れ色界の業なり、慈・悲・喜・捨を兼ね、心数法の中に定を得るは是れ梵王の業なり、心を滅して無心定を修するは是れ無想の業なり。問ふ、無想は是れ邪見の天なり、云何んぞ機感と為るや。答ふ。大集に云はく、「菩薩、衆生を調伏すること多種なり。或は邪、或は正なり。非道を行じて仏道に通達す」と、云云。若し旧の云はく、聖人は両片の無漏を以て一片の有漏に夾熏して、練りて無漏を成ずと。今言はく、九次第定の有漏を熏修して無漏を成ずるは、是れ那含の業なり。四空定は是れ無色界の業なり。是の如き等の二十一有は自地の苦の麁を患へて出要を修せんと欲するに、所求を得ず所捨を離れず。爾の時即ち可発・関・宜の機と名く。二十一の三昧の慈悲の力を感じて其の修因を破し、所離をして去ることを得せしめ、所求をして成ずることを得せしむ。抜苦与楽、冥顕の両益あり。此れ経の文に「小草、小根、小茎、小枝、小葉、而も生長することを得」と云ふが如し。是れ此の益なり。合して之を言はば、蓋し凡聖の慈善根の力に由る。別して之を言はば、本と菩薩の初め二百五十戒を持ちて根本等の禅を修し、一一能防の善法の中に於て皆な慈悲を起す。慈悲・本誓は王三昧に熏じて衆生を捨てず、関・宜に赴・対して各利益を得るに由る。大経に云はく、「二十五三昧は二十五有を破す」と、十番の二の意、略して此の如し、云云。
[29]三番に声聞の利益とは、若し人の生死を厭患するに、死を以て生を受け生を以て死に帰し、精神を労累して輪転際り無し。貪欲自ら蔽ひ、犛牛の尾を愛するが如くにして解脱を得ず。故に言ふ、若し人苦に遇ひ老病死を厭はば、為に涅槃を説きて諸の苦際を尽さしむと。既に厭心内に決して志し出離を求む。是の事の為の故に声聞の道を修す。若し戒を持つ時、愛見の羅刹、浮囊を毀損して戒をして不浄ならしむるに、戒不浄なるが故に、三昧現前せず。既に戒定無ければ、無漏発せず。是の故に一心に戒定慧を修す。可発・関・宜の機あれば、無垢等の四三昧の力の之に加ふることを感じて、四趣の業をして起らざらしめ、戒をして清浄ならしむ。若し均しく定慧を修するに、慧に若し定あれば慧は狂ならず、定に若し慧あれば定は愚ならず。之を名けて賢と為す。賢は隣聖に名く。此の定慧を修するに一心に精進すること頭然を救ふが如く、禅慧を願楽すること渇して飲を思ふが如くす。而も二十一有漏の業に擾乱せらるるが為に、若し諸の三昧の力の之に加ふることを得れば、定発し観明かにして、四善根成就し伏道純熟す。一刹那に転じて即便ち真を発し、須陀洹を成ず、二十五有の見諦の煩悩八十八使を破す。是を二十五三昧通じて加して見諦の惑を断ぜしめ、而も復兼ねて四思を除くと為す。故に、第十六心に即ち修道に入ると云ふ。是れ其の義なり。次に修道に入る。若し是れ超人は一時に十の三昧力を用つて之に加し、五下分の思惟の惑を破す。若し鈍人は其の分分に思惑を断ずるに随つて、則ち分分に三昧を用ひて之に加し、三界の惑を尽して真諦三昧の益を究竟するなり。此れ中草の利益なり。合して之を言はば、蓋し凡聖の慈善根力に由る。別して之を言はば、本の慈悲に由る。初めに十法界の中の析空滅色の善を観ず。教に因つて、弘誓、王三昧に熏じ、衆生を捨てずして中草の利益あることを致すなり。大経に二十五三昧の二十五有を破することを明す。十番の三の意略して此の如し。
[30]四番に縁覚の利益とは、若し人、宿善深利なるは無仏世に在りて生死を厭患し、独り善寂を楽ひ、深く因縁を観ず。文に云はく、「曾て仏を供養し勝法を志求するには、為に縁覚を説く」と。此の人大福の可発・関・宜あれば、聖人赴・対して之に感じ、其の華飛び釧動くに冥顕の両益を獲て支仏の道を悟らしむ。此れ猶ほ中草の利益に属するなり。
[31]五番に六度の菩薩は、四諦を観じ六度の行を行ず。若し檀を行ずる時、人の頭を乞ひ、眼・国城妻子を索むるに従つて、心或は転動すれば檀度成ぜず。自ら是れ悪なりと知りて檀の善を成ぜんと欲するに、可発・関・宜の機あれば、三昧力を蒙りて其の慳蔽を伏す。是れ餓鬼の有を破するなり。蔽心に既に去り、歓喜して布施すること甘露を飲むが如し。有為の法は危脆無常なりと知る、是れ心楽三昧の冥顕の益を蒙るなり。尸羅若し成ずれば、是れ毀戒の蔽を伏し地獄の有を破す。是れ無垢三昧の益なり。忍成ずれば瞋の蔽を伏し畜生の有を破す、不退三昧の益なり。禅成ずれば是れ乱蔽を伏し、人の有を破す、是れ四三昧の益なり。精進成ずれば懈怠の蔽を伏し、脩羅の有を破す、歓喜三昧の益なり。慧成ずれば愚癡の蔽を伏し、天の有を破す、十七三昧の益なり。六蔽は是れ六道の業なり、具さには菩薩戒本に出づ。六道の業を伏するを以ての故に、諸の蔽の為に悩まされず、五神通を得て六道に遊び、六度の行を成ず。此れ即ち上草の益なり。通は応に前の如くなるべし。別して之を論ぜば本と十法界の事の中の善悪を観ずるに由りて弘誓を起し、三三昧に熏じて衆生を捨てず、云云。
[32]六番に通人の益とは、此は是れ三乗共学の人なり。若し乾慧地・性地・八人・見地には即ち是れ二十五三昧の益を用ふ。薄地より去つて十地に至るまでは、二十一三昧を用ひて加して思惑を破す。又た無知をも侵除す。是を小樹の益と名くるなり。総別の慈悲は前に例して知んぬ可し、云云。
[33]七番に別人の益とは、此は是れ次第の心中に縁を法界に繫け、念を法界に一にす。十住に入つて真諦三昧の益を得、十行・十迴向に入りて俗諦三昧の益を得、十地に入りて中諦三昧の益を得。此れ即ち大樹の益なり。総別の慈悲は前に例す、云云。
[34]八番に円人の益とは、此は是れ三諦一実の理を修し、念を法界に一にし、縁を法界に繫ぐ。若し歴縁対境は、挙足下足、道場に非ざること無し。其の心念念に諸の波羅蜜と相応す。四三昧を修し、十種の境を観ず。可発・関・宜あれば聖人赴・対して之に応じ、豁然として開悟し或は似、或は真に冥顕の両益を得。此は是れ円かに二十五三昧を用ひて円かに加して二十五有を破し、我性を顕出して実事の益を究竟ずることを得るなり。
[35]九番に変易の益とは、此は是れ方便有余土の人の益なり。前の八番の中、凡そ四処、或は九処あり。謂はく、声聞・縁覚・通教の菩薩、別教の三十心、円教の似解なり。止だ見思を破して未だ無明を除かず。無明は無漏を潤して方便の生を受く。故に下の文に云はく、「我れ余国に於て作仏して更に異名あり、而して彼の土に於て仏の智慧を求め、是の経を聞くことを得」と。即ち是れ彼の土に一乗に入るなり。勝鬘に云はく、「三人変易土に生ず、謂はく大力の羅漢・辟支仏・菩薩等なり」と。楞伽に云はく、「三種の意生身」とは、一には安楽法意生身なり。此は二乗の人の涅槃安楽に入る意に擬せんと欲す。二には三昧意生身なり、此は通教の出仮化物、神通を用ふる三昧意に擬するなり。三には自性意生身なり。此は別教の中道を修する自性の意に擬するなり。通じて意と言ふは、安楽は空意を作し、三昧は仮意を作し、自性は中意を作す。別・円の似解は、猶未だ真を発せざれば皆な作意と名く。故に論に云はく、「是の時、意地を過ぎて智業の中に住在す」と。若し真を発するは是れ智業なる可し、未だ真を発せざるは猶ほ意地に在り。是の人、彼に生ずるに、析法の者は鈍、体法の者は利なり。別人は已に仮を習ひ、又た小しく利なり。円人は先より即中なれば最も利なり。既に利鈍の殊なりあれば彼に於て修学するに即ち次第、不次第の両益あり。又た是れ次第・不次第に二十五三昧に両応を用ふるなり。是を九人、方便国に生じ、始めて彼の土に於て諸有の我性を見、最実の益を得と為す。若し分別して言はば、謂はく方便土は三界の外に在り。若し事に即して而も真なれば、必ずしも遠きに在らず。下の文に云はく、「若し能く深心に信解するときは、則ち仏、常に耆闍崛山に在して大菩薩、声聞衆僧と共に囲遶せられ、説法したまふを見ると為す」と、即ち方便土の意なり。
[36]十番に実報土の益とは、即ち実報土の人の益なり。八番の中に両人生ずることあり。方便土に又た二人あり。悉く無明を破して実相を見る者は、方に彼に生ずることを得。但だ無明の重数甚だ多し。三賢十聖は実報に住すと雖も、報未だ尽きざれば猶ほ残惑あり。更に王三昧を用ひて四十一番に之を益す。妙覚に至りて豎に窮め横に遍して不生不滅なり。不生不滅とは、無明永く尽き智慧円かに足る、故に不生不滅と言ふ。又た機感満足し、利益究竟す、故に不生不滅と言ふ。若し分別して言を為さば、謂はく実報は方便の外に在り。若し事に即して而も真なれば、此れも亦た遠ならず。文に云はく、「娑婆を観見するに瑠璃を地と為し、坦然平正なり。諸台楼観は衆宝の所成にして、純ら諸菩薩のみ咸く其の中に処す」と。即ち実報土の意なり。若しは麁妙の機、若しは別・円の応、若しは浄穢の土、若しは浅深の益は十番を出でず。法界を包括して利益略周ねし。大意見つ可し、繁文を俟たず。是を大通仏の所にして毒鼓、生を損じ、聞に遠近あり死に奢促あり、天鼓の増道、聞に遠近ありと為す。故に益に深浅あらしめ、業・通・願・応の諸の眷属の利益あることを致すなり。
[37]問ふ、初番に已に二十五有を破して益を得竟るときは、則ち有の破すべき無く、更に益の論ずべき無し。何んぞ須らく十番に至るべけん耶。答ふ、初めに二十五の果報の苦を破して、果報の益を獲せしむ。次に二十五の因の苦を破して、修因の益を獲せしむ。次に二十五有の見思の苦を破して、真の三昧の益を得せしむ。次に二十五の空を破して二十五有の仮に出でしめ、俗の三昧の益を得せしむ。次に二十五有の有・空の二辺を破して、中道王三昧の益を顕はす。次に方便有余土を破して、二十五の仮に出でて、俗・王の両三昧の益を得せしむ。次に実報土を破して、但だ深く王三昧の益を顕はす。三諦未だ了了ならざる者は益の意息まず、故に十番あり、其の義是の如し。問ふ、三諦は独り極地に在りや、亦た凡に通ずることを得るや。答ふ、大品に云ふが如し、「衆生の色・受・想・行・識」と。又た云はく、「無等等の色・受・想・行・識」と。仁王に云はく、「法性の色、法性の受・想・行・識」と。大経に云はく、「是の色を滅するに因つて常色を獲得す、受・想・行・識も亦復た是の如し」と。是れ則ち凡より聖に至るまで皆悉く是れ有り、即ち俗諦なり。浄名に云はく、「衆生の如と弥勒の如と賢聖の如は、一如にして二如無し」と。大品に云はく、「色も空なれば、受・想・行・識も空なり。若し一法の涅槃に過ぐるあれば、亦た如幻如化なり」と。此れ則ち凡聖皆な空、即ち真諦なり。大経に云はく、「二十五有に我ありや。答へて言はく、我あり。我は即ち仏性、仏性は即ち中道なり。因縁生の法は、一色一香も中道ならざる無し」と。此れ則ち凡より聖に至るまで悉く皆な是れ中道第一義諦なり。問ふ、遠く利益を論ずるに、経に遠を語すること多し。第一に云はく、久遠劫より来た、涅槃の道を讃示し、生死の苦永く尽く、我れ常に是の如く説く」と。第二に云はく、「我れ昔、二万億仏の所に於て無上道を教ゆ」と。第三に云はく、「宿世の因縁我れ今当に説くべし」と。定んで何れの文に拠る耶。答ふ、第一の文に直ちに従久遠劫来と云ふ。久遠の言は信実に杳漫にして未だ本地を顕はさず。或は中間に拠らん。第二に直ちに昔曾二万億仏所と云ふ、未だ劫数を判ぜざれば久近明らめ難し。後の文を将つて準望するに、近近なるに似如たり。今、遠益を論ずるは、第三の文を取る。三千界の墨を以て東に千界を過ぎ、乃ち一点を下す。点と不点と尽く抹して塵と為し、一塵を一劫とせん。復是の数に過ぐること、無量無辺百千万億阿僧祇劫なり。此の明文を用ひて二万億仏の所に望むるに、始めて昨日と為す。是より已来た大乗を結ぶの首と為す。彼の仏は八千劫に経を説き、十六王子は八万四千劫に覆講す。彼の経論は文広く時深し。時に於て聴衆、或は当座に已に悟る可く、或は中間に化得す可く、或は近来に化得す可し。咸く宝所に至つて法性身を受け、応生の眷属と為る。内秘外現して共に衆生を熟して而も仏事を為す。浄名に曰はく、「成道して法輪を転ずと雖も、而も菩薩の道を行ず」と。是れ此の意なり。時に於て聴衆未だ真実の益を得ず。若し相似の益は、隔生すれども忘れず。名字・観行の益は、生を隔つるときは則ち忘れ、或は忘れざるあり。忘るる者も若し善知識に値はば、宿善還つて生ず。若し悪友に値はば、則ち本心を失す。是の故に中間に種種に塗熨す。或は多く大乗を以て熟し、或は多く小乗を以て熟す。方便に生ずる者は、種種の道を説くと雖も、其の実は一乗の為なり。亦復た皆な宝所に至ることを得て、法性身を受けしむ。而も彼の国に於て第九番、十番の真実の利益を被る。千世界の微塵の菩薩の如きは、即ち其の流なり。斯等已に前に究竟するを久遠の利益と名く。其の中の衆生、今に於て声聞地に住する者あれば、更に近く利益を論ず。後に説くが如し、云云。