[1]復次に神農の本方、用て後人を治するに、未だ必ずしも併せて益あらず、華陀、扁鵲、時を観じ薬を観じて更に方を立つ。所以は何ん。郷土に南北有り、人に儜健有り、食に鹹淡有り、薬に濃淡有り、病に軽重有り、本方に依つて治するに効益あること能はず、時に随つて製立するに仍差愈ることを得。仏初めて世に出づるに衆生機熟す、根に逗じて法を説きたまふに、悟ることを得ざるもの無し。後代澆漓にして情惑転た異なり、直に仏経を用ふれば其に於て益無し、菩薩機を観じて経を通じ論を作して衆生をして悟ることを得しむるに、唯彼を悟益す、是れ入仮の正意なり。豈、旧を守つて化道を壅ぐ可けんや。「釈論」に云はく、「経法に依随して広く名字を立て、而して為に義を作るを名けて法施と為す」と。

 [2]菩薩、此の如きの慧を修せんが為の故に大悲誓願、勤精進力あつて通じて止観を修す、諸仏、威を加して豁然として鑒朗なり、入仮の智に於て而して自在なることを得るなり。三に病に応じて薬を授くるとは、既に苦集の病を知れば、又道滅の薬を識る。若し衆生に出世の機無く。根性薄弱にして深化に堪へざるには但世の薬を授く。孔丘姫旦の如きは君臣を制し父子を定む、故に上を敬し下を愛して世間大いに治る、礼律節度あって尊卑序有り、此れ戒を扶くるなり、楽は以て心を和し、風を移し俗を易ふ、此は定を扶くるなり、先王の至徳要道、此れ慧を扶くるなり、元古混沌として未だ出世に宣しからず、辺表の根性、仏興を感ぜず、 我れ三聖を遣して彼真丹を化せしむ、礼義前に開き、大小乗の経は然して後に信ず可し、其丹既に然れば十方も亦爾なり、故に前に世法を用て而して之を授与す云云。又、出世の薬を授くるとは、十種の因縁所成の衆生、根性同じからず、則ち是れ病異なり、其病に随ふが故に薬を授くること亦異なり。謂はく、下、中、上、上の上なり。下根に四義あり、一には志楽狭劣、二には行力微弱、三には五濁障重、四には智慧極鈍なり。小法を楽むが故に生滅の法を説く、行力微弱なれば事の六度を修す、五濁障重ければ勤苦して対治す、智慧鈍なるが故に淫怒癡を断ずるを名けて解脱と為す、是を因縁生法の薬を授けて 下根の病を治すと為すなり。是れ下根なりと雖も、欣楽同じからず、諸聖論を作して復開きて四と為す。有を聞かんと楽ふ者には「阿毘曇」を説きて其小善を生じ、共五濁を破し、此方便に因つて真諦を見しむ。無を聞かんと楽ふ者には「成実論」を説きて其小善を生じ、悪を破して真に入らしむ。有無を聞かんと楽ふには「昆勒論」を説きて善を生じ悪を破して真に入らしむ。非有非無を聞かんと楽ふ者には、為に「離有無の経」を説きて善を生じ悪を破して其に入らしむ。是を入仮の菩薩、四の論を作つて四門を申べ、四薬を授けて諸病を治すと為す云云。次に中根の人に薬を授くるとは、此人心志小しく強く、行力小しく勝れたり、宣しく理善を生ずべし、五濁障軽く、智慧小し利なり。其楽欲に赴きて為に因縁即空を説き、聞きて理善を生じ、悪因を破して第一義を見る、是を「即空の薬を授けて中根の人を治す」と為す。此れ又四と為す、下、中、上、上の上を謂ふ。即ち是れ四門池に入る、前に例して云云。次に上根の人に薬を授くることを観ずるとは、楽欲の心広く、善根開闊し、五濁已に除こり、智慧又大なり、無量の四諦を授けて界外の善を生す、次第に五住を断じて中道に入ることを得しむ、是を即仮の薬を授けて上根の人を治すと為す。此に就いて又四と為す、即ち是れ四門授薬上に例して知る可し。次に上上根に薬を授くることを観ずるに、此人の楽欲、乃至智慧、悉く与等無し、故に上上と名く、為に理の如く直説するに善く空の如くにして生じ障空の如くにして滅し、究竟の道に入る、是を即中の薬を授けて上上根の人を治すと名く。亦四門の授薬治病有り云云。若し空観に入れば尚一法すら無し、何ぞ諸法有らん、今十六の道滅を授けて十六の苦集を治す。正しく是れ入仮、其類音に随つて妙声偏く告げ、彼耳識を発して転度して心に入り、服行することを得て各利益を獲しむ。一雲の雨す所にして而も諸の草木各生長することを得るが如し云云。

 [3]四に入仮の位を明さば、一には教に歴て位を判ずることを明し、二には利益を明し、三には破法遍を結す。人の意、みないはく「先に見仮を除き、後に思惟を却く」と、入空の果尚ほ已に迢遰なり、出仮の化物己が能くする所に非ず、崖に望んで自から絶す。今当に仮の位の不同を分別すべし、未れ三乗の初め、法に愚ならず、皆仏を求めんと欲し、生死を厭患して喜んで多く退転す。譬へば、人有つて倶に他方に七宝の山有りと聞き、心を翹げて脚を束ね、若し路、艱険を念はば便ち退きて前まざるが如し、行人も亦爾なり、生死を畏懼して大を退して空に沈む、後に菩薩の勝妙の功徳を聞きて自ら敗種なりと惟うて泣いて大千を動かす、所因を待たでして而して憂悔を懐く、若し、此義に依らば但入空のみ有つて便ち入仮の事無きなり。若し、三蔵の菩薩は初に空の狼を修して煩悩の羊を伏し、而して結を断ぜず、若し結を断ずる者は。則ち六度功徳の身肥ゆること無し。是れ初阿僧祇の位なり。二僧祇に煩悩脂消して功徳転た肥えたり、三僧祇に正しく仮位に入って衆生を利盆す、此れ下根の人なり、中根は二僧祇に已に煩悩を伏し、六度の身を肥やして即ち能く化物す、豈、三を待たんや。上根は初発心の時、一切を度せんが為に誓つて作仏を求む、他の説を聞くに因つて心已に明解して深く真理を識る、他を度せんが為の故に断証を求めず、心又一転す、我応に他を度すべし、応に度せずんばあるべからず、当に勤めて一切の薬病を分別す。何を以ての故に。五事重きが故なり。人の児を将いて険を過ぐるが如し、自ら既に安隠にして那んぞ児を擲つことを得んや、自ら空を知ると雖も而も棄捨せず、是を初心に即ち能く仮に入りて二僧祇に至るを待たずと為すなり。通教の位は、人多く経を執して云はく、「八地に出仮を修す、或は六地七地に結を断ず、羅漢と斉しうして方に出仮を修す」と、此れ一途の説なり、必ず全く爾らず。但仏ご三根の為に分別したまふ、下根は惑を断じ尽して方に能く出仮す、仏「法華」の中に於て、其涅槃を取る心を破して、勧めて無上道を発し、方便の慧を起さしむ、二乗既に然り、極鈍の菩薩も亦応に此説に同じかるべし。今此を判じて下根と為すのみ。中根は見惑を断じ已つて生死少しく寛く、思は任運に断ず。第二地を菩薩の神通と名け、此従り已去は即ち能く仮に入る。上根は初心の聞慧即ち能く「見思即ち空なり」と体達して已に衆生の為に依止処と作る、何ぞ七地にして方に出仮することを須ひんや。若し七地ならば「大品」の為に呵せらる。大鳥有り、身の長さ三百由旬、而して両の翅無し、天従りして而して堕つれば、若は死し若は死に等しきの苦あり。菩薩も亦是の如し、初より一向に専ら空を修して六地に至る、是を三空の身肥えて仮の翅生ぜずと為す、若は二乗の方便道に堕するを死等の苦と名く、若は初果に堕する、之を名けて死と為す、若は見尽く、是れ死等なり、若は無学、是を死と為す。是鳥、天上に還らんと欲せんに、去ることを得べけんや不や、無学地に堕すれば菩薩心を発せんと欲すれども永く得ること能はず。人の閹せられては五欲すること能はざるが如し。「華厳」「大品」は之を治すること能はず。唯「法華」のみ有りて能く無学をして還つて善根を生じ仏道を成ずることを得しむ、所以に妙と称するなり。闡提は心有り、猶ほ仏と作る可し、二乗は智を滅す、心生す可からず「法華」能く治す、復称して妙と為す云云。別教の人は十住心の後十行の位にして入仮の方便を修す。何を以ての故に。入理般若を名けて住と為す、往生の功徳を名けて行と為す云云、下根なり。十住の初心に即ち能く仮に入る、已に無漏を得、一たび受けて退せず、即ち能く出用す、何十行に至つて方に大悲を起すことを須ひんや、中根なり云云。又別教の初心は法に愚ならず、一切の功徳猶幻化の如しと達解す、名字に於て滞らずして、而して方便に修し五因縁を具して以て衆生を益す、上根なり。円教の十信、六根浄の時に即ち遍く十法界の事を見聞す、若し是れ空に入れば猶ほ一物も無し、既に六根互用と言ふ、即ち是れ入仮の位なり。又五品弟子は正しく六度を行じて広く能く法を説く、即ち是れ入仮の位なり、何ぞ必ず六根浄を待たんや。又初心の人、能く如来秘密蔵を知つて円かに三諦を観ず、尚ほ能く即ち中、豈、即仮ならざらんや。「大品」に云はく、「初め道場に坐して尚ほ便ち正覚を成じ、法輪を転じて衆生を度す、又六即をもつて料簡するに便ち出仮の義有り、何ぞ須らく五品に至ることを待つべけんや。上来の諸教、皆三の位有り、若し定判せば、応に下根を取つて以て其位を明すべし、則ち二義有り、一には教に依るが故に、二には決して退転せず、入仮の行成ず。中上は乍ちに進退有り、故に共に約して位を論ぜず。

 [4]既に三根の出仮有り、例するに応に三根の入空あるべし。謂はく、情入、似入、真入なり。情入とは触人能く入る、散情を謂ふには非ず、諦を縁ずるの観、似真の前に於て空の法塵と相応す。若し爾らば何の益かあるや。此れ情益あり。若し益あらば退すること無けん。併せて退せず。設ひ退するも能く憶念して数修して後に大益を致す。問ふ、通別の上根能く空に入り仮に出づ、円と何の異なりあるや。答ふ、通人の出入は即中なること能はず、別人は次第に出入す、一心なること能はず、円人は一心に出入し、亦能く別に出入す。「多く中に入り少しく二に入る、多く二に入り少しく中に入る、多く空中に入り少しく仮に入る、多く仮に入り少しく空中に入る、多く仮中に入り少しく空に入る、多く空に入り少しく仮中に入る」を謂ふなり。別に増減すと雖も而も三謗欠かず。若し爾らば則ち次第の別に非ず。然るに尚ほ能く勝別を為す、況んや、劣を為すこと能はざらんや。

 [5]二に入仮の利益を明すとは、菩薩本空を貴んで而して空を修せず、本衆生の為の故に空を修す、空を貴ばざるが故に住せず、衆生を益せんが為の故に須らく出づべし、故に真従り応を起し、法眼、機に称ふこと有り。応に仏身を以て得度すべきには即ち仏身を作して法を説き、薬を授く。応に菩薩、二乗、天、竜、八部等の形を以て得度すべきには、而も為に之を現ず。衆生を成就し仏国土を浄むるを乃ち利益と名く。三蔵の菩薩、復仮に出づと雖も有漏の神通にして真より応を起すに非ず、世智の分別にして法眼の明に非ず、衆生を利すと雖も而も成就に非ず、仏事を作すと雖も仏土を浄むるに非ず。止是れ少分の教化、益を為すこと、甚だ微なり云云。若し通教の入仮は、薬病を分別すと雖も、但二諦に依る、診病深からず、識薬遠からず、但是れ作意の神通にして真より応を起すには非ざるなり。応は始終有り、為に父母師長と作る、世世に結縁し処処に調伏す、動もすれば、無量阿僧祇劫を経て、善根若し熟すれば即ち王宮に生じ、道樹にして仏と作り、漸頓に人を度し、乃至涅槃に入り、舎利、世に住して久久に利益す。始め有り終り有るを乃ち名けて応と為し、無にして欻に有、暫く出でて還つて没す、故に真応に非ざるなり。一時の片益、成就と名けず、身を灰にし滅に入る、仏土を浄むるに非ざるなり。別教の十行入仮の利益、義は通教に同じ、若し登地の時如来の一身無量身を得れば、湛然として一切に応ず、爾時病を知り、病の淵源を尽す、爾時薬を識り薬の府蔵を窮む、爾時薬を授くること印の如くにして差はず、真の道種智。最勝の法眼、応化すべき所は任運に普く周し、和光同塵は結縁の始め、八相成道は以て其終りを論じ、亦は名けて化と為す、亦名けて応と為す、其見聞の者は、益を蒙らざること無し、施為する所有れば是れ仏国土を浄む入仮の利益、皆実にして虚たらず。登地既に然り。後地例して爾なり。乃至円教は初住に仮に入り、真実に利益す、乃至後心も亦復是の如し。若し此意を得て変化を料簡せば、即ち真偽を識らん。所以はいかん、魔も亦能く有漏の心を以て無漏の形を作し、変じて仏像と為る。「老子」「西升」も亦仏と作つて胡を化すと云ふ、諸の外道等、釈を変じて羊と為し河を停めて耳に在り、世智の五通、作さざる所なし。是の如きの邪化、無量無辺なり、尚ほ三蔵の五通の化に非ず、云何ぞ是れ別円の任運の真化なることを得ん。化の語は多種なり。眼無き人は謬つて信受を生ず、能く深く観察して雷同すべからず。故に知んぬ、法身地従り、応を十界に垂れて衆生を度脱す、此の如きの入仮は真の利益の位なり。

 [6]三に破法遍を結するとは、未だ真を発せざるの前は、計著する所に随つて百千万種皆名けて見と為す。盲の乳を問ふが如し、乳の真色に非ず、若は繩、若は杵、何ぞ象の事に関らん、囈言の見、見即ち是れ仮なり。故に単複具足に歴て観を以て之を破す、破、若し遍からずんば空に入ることを得ず、見思若し尽くるを乃ち破法遍と名くるなり。文字に就て論ぜば乃ち当に此の如くなるべし。意は則ち然らず、見思即ち是れ無明、無明即ち是れ法性、見思破するは即ち是れ無明破す、無明破するは即ち是れ法性を見る、実相空に入つて方に破法遍と名くるなり。従空入仮の破法遍も亦爾り、仮に無量の病法薬法授薬法有り、此三を分別するに達せざる所あらば破法遍と名けず、未だ法眼を発せざるの前、分別有りて分に所見有りと雖も、破遍と名けず。六根浄の時、一病を分別するに若干種有り、一句の法を解して無量の句に達す、十方諸仏の説法、一時に受持す、是を相似の気分と為す。通を障るの無知既に破して雙べて二謗を照すを方に破法遍と名くるなり。要を挙げて 之を言へば、次第に破する者は則ち遍と名けず、不次第に破するを乃ち名けて遍と為すのみ。前の観法重沓既に多し、人の迷はんことを恐るるが故に二観の後に約して破法遍を結するなり。

 [7]第三に中道正観の破法遍を明すとは、前の生不生の止観の破法遍は一往自行に似たり。次の不生生の止観の破法遍は一往化他に似たり、今の不生不生の止観の破法遍は一往雙べて自他を非し又雙べて自他を照すに似たり。生不生即ち不生生、亦即ち不生不生なり、自即ち自ならず、亦自に非ず不自に非ず、不生生は即ち生不生、亦是れ不生不生なり、他即ち他に非ず、亦他に非ず不他に非ず、不生不生は即ち生不生、亦是れ不生生、亦是れ雙非ならず、亦是れ雙照ならず。種種に分別して解し易からしむるが故に前の如きの説をなすのみな此れに就いて四と為す、一には中観を修するの意、二には中観を修するの縁、三には正しく中観を修す、四には位の利益を明す。

 [8]其意とは三蔵の中の菩薩は偏に世智を用ひて俗を照し、二乗は遍に析仮を用ひて真に入る。仏は二諦周足すれば弟子と異り、仮に第三観を設く、設ひ有を離れ無を離るるの説を作すも、祇是れ有無の二見を離れ、実に別理の観ずべき無し、故に第三観を持ひざるなり。通教の二乗は偏に体法を用て真に入り、菩薩は慈をもつて仮に入る、唯仏のみともに照したまふ、道観雙流なること弟子に異なり、亦仮に第三観を設く、亦別理の真諦に異なる無し。開善の執する所。仏果二諦の外に出です、即ち此義なり。別の理なしと雖も、しかも真の如幻如化の不生不滅の中道の名有ることを得るなり。亦中道の義有ることを得とは仏の満字の門は通に通じ、別に通す、鈍根はただ能く通に通ずるのみにて別に通ずること能はず、故に此教に別接の義有ることを得。利なる者は被接すれば更に中道を用ふ、被接せざる者は第三観を須ひず、別接の義、顕体の中に説けるが如し云云。別教若し二諦三諦を作さば皆元中道を知る、若し三諦を作さば解す可し、若し二諦を作す者は、中道を真と為し、有無を俗と為す、此二諦を照して従容中当なるを中道と名け、二用偏無きを雙照と名く、二名を作すと雖も中理亦顕かなり。此理玄深、根鈍にして障重きは、眼闇き者が針を穿に諦かならざるか如し。云何が針を穿つ、常の理の為めの故に先に取相を破し、慧眼空を見る。次に無知を破し法眼仮を見る、進んで中道を修し一分の無明を破し、一分の仏眼を開き、一分の中を見る。方に是れ真因、因果円満、乃ち名けて仏と為す、二諦は正意に非ず、故に因と名けず。例せば小乗の方便は惑を伏して真を見ざれば修道と名けず、見諦を発して後、真の修道を具す、始めて是れ真因、無学を真果と為すが如し。別教を例して爾なり。二観は既に是れ方便、必ず中を須ふ、復必ず須ふと雖も前の二観を要す、二観若し未だ弁ぜざれば亦第三観に暇あらざるなり。円教は初めより中道を知る、亦前に両惑を破す、奢促異り有り。何を以ての故に。別は両惑を除き三十心を歴、ややもすれば劫数を経、然して後に始めて無明を破す。円教は爾らず、ただ是身に於て即ち両惑を破し、即ち中道に入る、一生に弁ずべし。譬へば、賊に三重有り、一人は器械鈍く、身力羸れ、智謀少なし、先に二重を破し、更に人物を整へて方に第三を破す、所以に日月を遅回す。有人、身壮にして兵利く権多し、一日の中に即ち三重を破して時節を待たざるか如し。此を以て之に喩ふ、其義見つ可し。又両鉄の一は種種に焼治し方に利用有り、一は是れ古珠にして焼に即して即ち利なるが如し。是義の為の故に円教は初心に即ち三観を修す、二観の成ずるを待たず、是義を以ての故に、即ち須らく第三観を明すべきなり。二に中観を修するの因縁とは、略して五と為す、一には無縁の慈悲の為に、二には弘誓の願を満し、三には仏の智慧を求む、四には大方便を学す、五には牢強の精進を修す。一に無縁の慈悲とは、即ち如来の慈悲なり。此慈悲と実相と同体にして、衆生の相を取らず、故に愛見に非ず、涅槃の相を取らす、故に空寂に非ず、空寂に非ざるが故に法縁の慈悲に非ず、愛見に非ざるが故に衆生縁に非ず、二辺の相無し、故に無縁と名く。「大経」に云はく、「如来を縁ずる者を名けて無縁と曰ふ」と。普く法界を覆ひ、苦本を抜除し究竟の楽を与ふ。上の両観の慈は、慈に辺表有り、如来の慈は即ち斉限無し、上の両観の慈は菩薩と共ず、無縁の慈は独り如来に在り、上の両慈は包含する所無し、如来の慈は一切の仏法十力無畏を具す。是れ如来蔵諸法の都海なり。故に「大経」に云はく、「慈、若は有、若は無、非有非無、是の如きの慈は、乃ち是れ諸仏如来の境界」と。当に知るべし、慈に三諦を具すなり。迦葉、讃して云はく、「今我一法を以て讃せんと欲す。所謂慈心世間に遊ぶなり、是慈は即ち是大法聚、是慈は即ち是れ真の解脱、解脱は即ち是れ大涅槃なり。上の慈は作意して乃ち成ず、此慈は任運に無請を依と為す。手より師子を出し彼をして調伏せしむ。慈石の鉄を吸ふが如く、無心にして而して取る。未れ鉄が障の外に在らば石吸ふこと能はず、衆生の心性は即ち無縁の慈、無明の障隔つれば任運に一切を吸取すること能はず、今無明障を破して仏の慈石を顕して任運に無量の仏法、無量の衆生を吸取せんことを欲す、此慈を修せんと欲せば中道観に非ずんば誰か能く開闢せん、水より生ぜる火は、水、滅すること能はず。還つて火を用て滅するが如し。此無明の障は両親に依つて生ず、両観の除くこと能はざる所なり、唯中道観のみ乃ち能く破すのみ、是因縁の為に第三観を修するなり。

 [9]二に本誓願を満ずるとは、初発心の時、四弘誓を起すこと虚空と等し、空仮の両観は苦を知って集を断ずるは猶枝葉の如し、未だ断ずること知らざる所は、喩ふるに根本の若し。空仮の両観、道を修し滅を証するに猶ほ炬の如し、諸山の幽闇なるは、力めても明にすること能はず。両観を修すと雖も誓願未だ満ぜず、譬へば百川の海を溢らすこと能はざるが如し。娑伽羅竜王の霔ぐ所の泉池、一たび霔げば即ち満つ。中道正観も亦復是の如し、一切の苦を知り、法界の集を断じ、無上の道を修し、究竟の滅を証す。本願満ぜんが為の故に須らく第三観を修すべし。

 [10]三に仏の智慧を求むとは、即ち是れ如来の一切種智の知、仏眼の見、広大深遠、横豎に覚了し、究寛じて具足す。上の両観の眼智、仏法に比するに猶盲人の闇中に想画して観見すること能はざるが如し。坑坎に墜落す、云何ぞ前むことを得んや。若し中道を修するは、目足有つて清涼池に到るが如し。二辺の熟悶を除き、醒覚し休息す、其水を飲服するに冷滑香甘なり、是を仏智の知と名く。其池相の方円深浅水色清浄なるを見る、是を仏眼の見と名く。如来実相の眼智を得んと欲せば、中の止観に非ざれば成ぜず、故に第三観を修す。

 [11]四に大方便を学すとは、即ち是れ如来無謀の善権、無方の大用なり、首楞厳に住して、種種に示現す、不可思議巧方便の力、諸衆生に虚空の中の風を示し、劫焼に草を負ひて焼害無からしむ、此れ難事と為す、故に善巧を須ふ。弥勒の先に天子の為に不退行を説くが如き、浄名即ち弾じて云はく、「如の生従り菩提を得る耶」と云云。菩提無し、此見を起すこと勿れ、既に見を破し已つて即ち「寂滅是れ菩提、不二是れ菩提、一切衆生即ち是れ菩提なり」と説く云云。天子、玄を聞きて無生忍を悟る、是二大士、槌砧更に扣へて悟り難き者をして悟り難き法を悟らしむ。若し方便無くんば云何ぞ他を利せん。又、如来初めに即ち大を説きたまはず、種種の方便、譬類言辞を出して衆生を引導す、諸著を離れしめ、然して後に仏の知見を開き示すに一乗を以てす、是故に慇」勤に方便を称歎す、真実の顕るることを得るの功は善権に由る。故に言ふ、種種の道を説くと雖も其実一乗の為なり、更に異の方便を以て第一義を助顕す、仏智は思議し叵し、方便して宣しきに随つて説く、仏意測る可きこと難し、能く解を得ること有ること無しと。故に百千の方便を以て鈍根の者をして妙に寰中に契はしむ。上の二観の智、力用軽微なり、富樓那は彼外道を化するに反つて蚩弄せらる、文殊は暫く往くに師徒風に靡くが如し。如来の此方便を得んと欲する者は、若し中観に非ずんば成ずること能はざる所なり、故に第三観を修すなり。

 [12]五に大精進とは、大事を為さんと欲せば、大いに功力を用ふ。「法華」に云はく、「勇健に有って能く難事を為すが如し、動ぜず、退せざる、方に薩埵と名く、身命を顧みず、何に況んや財物をや」と菩提を得と雖も猶尚息ず、何に況んや未だ得ざるをや。上の両観は功微に賞少し、中観は功天下に蓋ひ、賞、窮まつて髻を解く大精進と為し、第三観を修するなり。

 [13]中道を修する因縁甚だ多し、出仮の観に対せんが為に略して五を説くのみ云云。

 [14]三に正修中観とは、此観正しく無明を破す、無明懸絶、眼慮の見知に非ず、云何ぞ観ずべき。例せば初観の真を観ずるが如し、真に色像無く亦方所無し、但陰入界の心を観じて三仮の惑、四句推求して巧に止観を修する、無漏の発することを得るを名けて真を見ると為す。次の観は仮を観ず、仮も復云何ん、但空智を観じて能く不空ならしか、一心の中に於て万行を点示す、即ち法眼を発し遍く薬病を知る、故に仮観と名く。今、無明を観ずるに、亦復是の如し、二観の智を観ずる、彼惑を破するに当つて之を名て智と為す。今中道に望むれば智還つて惑を成ず、此惑是れ中智が、家の障り、故に智障と言ふ。又此智は中智を障へ、中智発せず、故に智障と名く、前には智能く障と言ひ、後には智が障を被ると言ふ、例せば六十二見の如し、見は慧性を名く、慧は即ち世智、若し無漏に望むれば此慧性は見思と合して能く真を障ふ。此二諦の智、無明と合して中道を障ふること亦復是の如し。又能障は是れ惑、所障は是れ中智、能所合論す、故に智障と言ふ。云何が此二智即ち是れ無明なりと観ずるや。若し是れ明なりと言はば種智現前して洞かに諸仏の十力無畏一切の諸法を識つて円足覚了して是れ明なることを得可し、而して今は爾らず、豈、無明に非ずや。

 [15]此無明を観ずるに即ち三番と為す。一には無明を観じ、二には法性を観じ、三には真縁を観ず。一には無明を観ずるとは、空仮の智、心と相応す、此二智を観ずるに法性より生ずと為んや。無明より生ずと為んや。法性無明の合より生ずと為んや。離より生ずと為んや。若し法性従りせば法性は無生なり、若し無明従りせば無明は不実なり、亦中道に関はらず。若し合共して生ぜば則ちこの過あり、若し離従り生ぜば則ち因縁無し、「中論」に云はく、「諸法不自生云云」と。是の如く広く破す、上の因成の中に説くが如し。此観を作す時、泯然として清浄なり、心に依倚無く、亦住著せず、覚せず知らず、能観所観猶ほ虚空の如し、説示すべからず、未だ真を発せずと雖も四句の中に於て決定して執せず。譬ば闇中遙に株杌を望んで人か杌かを審にせず、人応に六分動相あるべし、杌ならば六分無く、是れ不動相なり、久しく住して之を観じて心に是れ杌と謂へども亦明了ならざるが如し。四句の執を起すは即ち動相に喩ふ、動は無常の相を喩へ、不動は常を喩ふ。久しく観じて已まず、定んで是れ常なりと知つて四執を起きず、而して無明未だ破せざれば猶ほ了了ならず、了了ならずと雖も定めて一常一切常を知る、大直道を行じて留難無きが故なり。前に見思塵沙。久しく已に穿徹す、唯二観の智、即ち金剛に喩ふ。智障を観破するを観穿の観と名く、此理に安心するを観達観と名く。此理不可思議なるを第一義空と名く。二乗頑境の空に待して名けて智慧と為す、而して此法性は智に非ず不智に非ず、是を中観に三義を具すと為すなり。復次に智障無明を体達す、自他の性、共、無因性無し、畢竟して不可得なり。持戒の比丘虫無きの水を観ずるに、此中に動ずる者は、虫か、塵か、虫ならば即ち生相あらん、塵ならば生相無けん、諦かに観じて已まずして、是れ塵なりと知ると誰も亦明了ならざるか如し。若し、無明に四性有りと謂はば、性は是れ生動、若し四性無きは性無く、生動無し、動ぜずと知ると雖も亦決定せず、決定せずと雖も而も決定して常住にして動ぜずと観ず。前に生死涅槃の二辺の流動、上の両観已に止みぬ。唯無明有つて回転すること未だ息まず、今心の本源に達するに無明寂静なるを止息の止と名く。此理に安心するを、停止の止と名く。常住の理は止に非ず、不止に非ず、無常の動に対す、故に言うて止と為す。即ち是れ止に非ず、不止に非ず、是を中止に三義を具すと名くるなり。復次に智障の心中に、即ち三仮四句の止観有り、信法回転、四悉檀巧に修す、皆例して前に説けるが如し。是の如きの四句は即ち是れ観門なり。若し此四を離るれば観を修するの処無し、善巧方便、門に因つて而して通じに中道を見ることを得、中道を見る時、即ち四観に非ず、若し一観に於て入ることを得れば余の句即ち融じて更に修することを須ひず、若し未だ通入せずんば、但勤めて四句を修して方便して悟を取れ。若し此四を執すれば即ち為に焼かる。遮壅して通ぜず、若し執滞無くんば即ち是れ無明を観じて四句に悟ることを得るなり。

 [16]二に法性に約して無明を破するとは、上に四句に智障を観じて無明の生を求むるに、決定して得がたし、或は一種の解を生じ、或は一定を発して決して無明即ち是れ法性と謂ふ、此の如きの計は、是れ悟心に非ず、但観解を発するのみ。闇に塵杌を見て決して塵杌と謂ふが如し。即ち当に観を移して法性を観ずべし、当に無明の心滅して法性の心生ずべしと為んや、当に滅せずして法性の心生ずべしと為んや、当に亦滅亦不滅にして法性の心生ずべしと為んや、当に非滅非不滅にして法性の心生ずべしと為んや。若し無明滅して而して法性生ぜば、滅何ぞ能く生ぜん、滅せずして生ぜば明と無明と並ぶ、共じて生ぜば即ち二の過有り、離せば則ち不可なり。自ならず、他ならず、共ならず、無因ならず。是の如きの四句、一一の句の中、信法回転し、四悉善巧にして即ち能く悟ることを得、四門の池に通ず。未だ悟ることを得ずと雖も、決定して此中道の観智、能く無明を破すと謂ひ、常に是の如く学して更に余修せざるなり。

 [17]三に真縁に約して無明を破するとは、此観智を観ず、誰に待して名を得る、智と為んや非智と為んや、若し横に待せば十方の諸仏は是れ智、是れ明、我に智明無きに待するなり。若し豎に待せば、我将来に於て盲冥を破除して而して大明を得ん。今は是れ智無く明無きに待するなり。是の如きの智明は是れ縁修と為んや、是れ真修と為んや、真縁合修なりや、真を離れ縁を離るるや。若し縁修ならば、縁は是れ無常なり、云何ぞ常を生ぜん、若し是れ真修ならば真は修に応ぜず。此を釈するに両家有り、一には云はく「縁修が真修を顕はす」二には云はく。「縁修滅して真自から顕る」真自ら顕るれば是れ自生なり、縁に由つて顕るれば是れ他生なり、真縁合せば是れ共生なり、真縁を離すれば是れ無因生なり。四句に智を求むるも得べからず、亦無智を得ず。何を以ての故ぞ。智に待して無智を説く、智無きが故に待す可き所無し、故に無智も亦無し。若し真縁を執して是と為さば中を発すること能はず、倶に是れ智を障ふ。若し執せざれば即ち是れ四門なり。若し理に契ふことを得れば、理は真に非ず、縁に非ず、共に非ず、離に非ず、説示すべからず。

 [18]若し機縁有れば亦四説す可し、悉檀の方便、復定執すること無し、縁に随つて説を異にすれば、聞きて即ち道を得。所謂無常従り常を生ず、「大経」に云はく、「因は是れ無常にして而して果は是れ常」と。又云はく、「伊蘭子依り栴檀樹を生ず」。或は時に云はく、「法王種性の中従り生ず」と。即ち是れ真修なり。或は言はく、「無明滅するに因つて則ち菩提の灯を得」と。或は言はく、「内観に非ず外観に非ずして而して是智慧を得」と云云。無得の得、是得は無所得なるを以て入空の意なり。無所得即ち是れ得なるは、入仮の意なり。得、無所得、皆不可得にして雙べて得無得を照すは、即中の意なり。諸菩薩等、或は偏に一門を申ぶ。天親の「阿梨耶識を世諦と為し、別に真如有り」と明すが如き、此は是れ論の正主なり。禅定助道は皆是れ陪従の荘厳なるのみ。「中論」の畢竟空を申ぶるが如きは、空を論の主と為す、共余は亦是れ助道なるのみ。余門も亦応に菩薩が論を作つて之を申ぶる有るべし、論を作つて説を異にすれども、豈、四門を離れんや、門に因ること殊なり有れども、契会して異ならず。若し此意を得れば、何の乖諍する所あらん、苦にして矛盾を興さん。若し四門を用て観を修せば、或は楽、或は宣、或は対、或は入あり、一門既に爾り、余門も亦然なり、観行別なりと雖も得道何ぞ異ならん。経論は縁の為に同じからず、古来の諍競の通ず可きこと難き処も、此を用て解釈せば、氷の如くに治し、雲の如くに銷えん。此の如きの観行は、教根理に契ふ、印会し允合す、何の是非か有らん。明眼の人は義に依つて語に依らず、有智の者は必ず疑を生ぜず、目無く解無きものは、徒労し、愍怪するもなんぞ益あるべけんや。

 [19]問ふ、無明は即ち法性なり、法性即ち無明なり、無明破するの時法性も破するや否や。法性顕るるの時、無明も顕るるや不や。答ふ、然り、理は実に名無し、無明に対して法性と称す、法性顕るれば、則ち無明転変じて明と為る、無明破すれば則ち無明無し、誰に対して復法性を論ぜんや。問ふ、無明即ち法性ならば、復無明無し、誰と相即せんや。答ふ、氷を識らざる人の為には、水は是れ氷と指し、氷是れ水と指すが如き、但名字のみ有り、なんぞ復二物相即すること有らんや。一の珠を月に向くれば水を生じ、日に向れば火を生す、向はざれば則ち水火無きが如き、一物にして未だかつて二ならず、而も水火の殊なり有る耳。

 [20]四に中観を修する位とは、前の両の止を中道の雙遮の方便と為し、両の観は是れ雙照の方便なり、此遮照に因つて中道に入ることを得、自然に雙流し、自然に雙照す。此雙流を修するに凡そ三処有り。別接通のごときは七地に修を論じ、八地に証を論ず、別教は十回向に修を論じ、登地に証を論ず。此の如く修証高遠迢遰なり、初心の衆生、尚ほ乾慧を修することを得ず、云何ぞ能く八地を証せんや。此中道観は、凡に於て益無し。又初心尚ほ未だ十信に入らず回向に至らん、若し回向無くんば、豈、中を修することを得んや、修無きときは則ち証無し。此中道観は、凡未の人に於て崖を望んで益無し。今円教を明す、五品の初め祗是れ凡地、即ち能く円かに三諦を観ず、中空を修して如来の座に坐し、寂滅忍を修して如来の衣を著し、仏の定慧を修し如来の荘厳を以て而して自ら荘厳す、無縁の慈を修して如来の室に入る。始め初品より進んで第五に入り、相似の法起る。鵠を見て池あるを知り、煙を望んで火あるを験む。即ち是れ相似位の人、六根清浄に入れるなり。例せば、外道は念処を修せざれば永く煖の分無きが如し、二観も亦爾なり、中道を修せざれば似解発せず。今、五品に中を修して能く似解を生じ、転じて初住に入つて即ち無明を破す。故に「華厳」に初住を解して云はく、「染無きこと虚空の如し、清浄妙法身なり、湛然として一切に応ず」と。正使及び習、一時に皆尽して遺余有ること無し、「初発、牟尼に過ぐ」とは此謂なり。始め初品より終り初住に至るまで、一生に修す可く一生に証す可し。位、七地に登るを待つて爾して乃ち修習するにはあらす、何の暇あつてか歓喜に始めて雙流に入らん。 前教に其位を高うする所以は、方便の説なればなり、円教の位下きは、真実の説なればなり。「法華」に云はく、「此の如きの事、是れ我方便なり、諸仏も亦然り、今当に汝が為に最実事を説かん」と。即ち此意なり。復次に、三蔵の菩薩、道場に坐する時、猶ほ是れ惑を具す、故に雙流無し、雙流は位仏に在るのみ。通敦に別の来り接する有らば、雙流の位は八地に有り。別教の雙流は位初地に在り、故に漸漸に之を引く、其位やや低くし、実意いよいよ顕るるなり。「初住に一分の無明を破す、是れ雙流の位なり」と言ふと雖も、此は是れ略語なり。譬へば、帆を挙げて一日に三千、略して一日と言ふが如くなるのみ。又、禅に九品有るが如し、此れ亦大較なり、仏の四禅を得たまへるを身子は知らず、身子の四禅に入れるを目連は知らず、目連の四禅に入れるを諸比丘は知らざるか如し。此の如く、往きて推すに、禅はただ九品のみにあらず。初住も亦爾り、一品と言うは亦無量品なり。此の位能く法界に遍く仏事を作す、限量ある可からず。「首楞厳」「華厳」の中に広く説けるが如し、尚ほ八相を示す、何に況んや余をや云云。前の両観の後已に破法遍を結成せり、上に説けるが如し、今中道の正観、無明法性を観ずるに二辺に依らず、四句に依らず、畢竟清浄にして倚無く著無し、故に「浄名」に云はく、「稽首す、空の如くにして所依無し」と。此智豁かに開けて一破一切破、遍からざる所靡し、故に破法遍と名くるなり。 第二に余門に約して破法遍を明さば、上は無生の一門に約して豎に三観を修し三諦を徹照して法を破すること遍し、無量の諸門、無生門に望むれば、余門は是れ横なり。譬ば径直の重門の如し、此れ則ち豎と名く、斉しく並に邐迤す、故に称して横と為す。若は横、若は豎、皆王に見ゆることを得、故に横に約して観を論じ、破法遍を弁ずるなり。横門とは「中論」の八不の如し、「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」と。一論に八門を明す、諸経論には則ち無量なり、或は不有、不無、不垢、不浄、不住、不著、不受、不取、不虚、不実、不縛、不脱、此の如き等の諸の教行門、其数無量なれども倶に皆能く通ず、故に称して門と為す。

 [21]「中論」に云はく、「若し深く不常不断を観ずれば即ち無生無滅の義に入る。何を以ての故に。不生は即ち不異、不滅は即ち不一、生は集成を名く、即ち異の義なり、滅は散壊を名く、即ち一の義なり。不生は即ち不常、不滅は即ち不断、不生は即ち不来、不滅は即ち不去、不生は即ち不垢、不滅は即ち不浄、不生は即ち不増、不滅は即ち不減、不生は即ち不縛、不滅は即ち不脱、不生は即ち不有、不滅は即ち不無なり」と。是故に深く不生不滅を観ずる、即ち是れ諸門の義なり。

 [22]若し無生門に陰界入の次第不次第乃至三障四魔を観ぜば、余門も亦是の如し。若し無生門に、心は工なる画師の種種の五陰を造るが如し、一切世間の中には心従り造らざるもの無し、一の陰界入一切の陰界入、一の性相体力一切の性相体力等なり」と観ぜば、余門も亦是の如し。若し無生門に真正の菩提心を発し、四弘誓願を起さば、余門も亦是の如し。若し無生門に、止観に安心して自行化他、信法回転、善巧の悉檀あれば、余鬥も亦是の如し。若し無生門に有無を識りて単複具足無言説の見を破し、一一に皆三仮四観有り、是の如く自ならず他ならず。共ならず無因ならざれば、余門も亦是の如し。若し無生門に見を破するに七万二千三百八十四の止観有れば、余門も亦是の如し。若し無生門に智障を観ずるに、自生も自生に非ず、故に自生の空を説く、自生の空も自空に非ざるが故に自生の仮を説く、自仮も仮に非ず自空も空に非ざるが故に自生の中を説く、自生の中も但中ならず、雙べて空仮を照すが故に三観一心を説かば、余の諸門も亦是の如し。若し無生門に智障を観ずるに、他生も非他生、共生非共生、無因生非無因生、乃至三観一心なれば、余門も亦是の如し。若し無生門に智障を観ずるに、自滅も自滅に非ず、故に自滅の空を説く、自空も自空に非ず、故に自滅の仮を説く、自仮も仮に非ず、自空も空に非ず、故に自滅の中を説く、自滅の中も但中ならず、雙べて空仮を照すが故に自滅の三観一心を説けば、余門も亦是の如し。若し無生門に智障を観ずるに、他滅非他滅、共滅非共滅、無因滅非無因滅、乃至三観一心なれば、余門も亦是の如し。若し無生門、自待も自待に非ず、故に自待の空を説く、自空も自空に非ざるが故に自待の仮を説く、自空も空に非ず自仮も仮に非ざるが故に自待の中を説く、自の中も但中ならず、雙べて二諦を照す、故に三観一心を説けば、余門も亦是の如し。若し無生門、他待非他待、共待非共待、無囚待非無因待、乃至三観一心なれば、余門も亦是の如し。若し無生門、三観をもつて破法遍を結成すれば、余門も亦是の如し。若し無生門、上の如き等の諸法、余門に度入するに縦横無礙にして金剛刀の如く能く障る者無し。

 [23]若し、此意を得れば、経論を通釈するに、義に随つて回転し、文義允当にして処として合せざること無し。所以は何ん。若し、此義を将て「無行経」を釈せば、即ち無生の意を転じて無行の門に入らん、所謂諦の無行、智の無行、菩提心の無行、心を止観に安ずるの無行、見思無知無明等を破するの無行、生死、涅槃、中間等、皆無行、無行の行、無行の位、無行の教、是の如き等、一切悉く無行の門の中に入つて説くに究竟して具足するなり。若し「金剛般若経」を釈せば、即ち無生の意を転じて不住門の中に度入せん。種種の不住あり、色に住せずして布施し、声、香、味、触に住せずして布施し、境智に住せずして布施し、慈悲に住せずして布施し、見思の中に住せずして布施し、無知、無明の中に住せずして布施す、是を檀波羅蜜と名く。色の中に住せずして持戒し、乃至色の中に住せずして般若あり、初地に応に住すべからず、乃至、十地も住すべからず、諸法不住なりと雖も無住の法を以て般若の中に住す、即ち是れ入空、無住の法を以て世諦に住す、即ち是れ入仮、無住の法を以て実相に住す、即ち是れ入中。此無住の慧は即ち是れ金剛三昧なり、能く 磐石砂礫を破して本際に徹至す。故に「仁王経」に、三処に金剛三昧を明す、七地、初地、初住なり。即ち是れ金剛の無住をもつて三教の位の義を釈す。又云はく、「釈迦牟尼、大寂定金剛三昧に入る」と。若し爾らば、常途、応に「無礙道に金剛有り、断道に金剛無し」と云ふべからず。経に「仏有り」と云ふ、豈、断道有るに非ずや。天親、無著の論、開善の広解、詛んぞ無生無住の意を出でんや。略して二経を挙げて度曲の端を示すのみ。若し此意を得れば、千の経、万の論も豁として疑無けん。此は是れ観を学ぶの初章、義を思ふの根本、異を釈するの妙慧、道に入るの指帰なり、綱骨曠大にして事理具足す、一を解すれば千従ふ、法門自在なり云云。

 [24]問ふ、無生の一門、一切の仏法を申ぶ、復何ぞ余門を用ふるや。答ふ、法相此の如し、二義相須ふ、人人同じからず、各各自ら行ずれば、応に余門を須ふべし。「浄名」の三十二菩薩、各各己が入不二法門を説くが如し。「生滅は是れ生死にして二と為す、不生不滅は則ち二無し」と言はば、乃ち是れ空門なり。何ぞ中道に関らんや。今解す、生は是れ生死、滅は是れ涅槃、是を二と為す、雙べて二辺を遮し中道に入ることを得、是を不二法門に入ると為す。此菩薩、自ら己門を説きて他門を説かず「華厳」に云はく、「我唯此一門を知る」と、即ち是れ各各入門を説く、門則ち無量なり。又他縁同じからざれば、逗化も一に非ず、前の一番の人は無生無滅と説くを聞きて悟を得、余は其宣しきに非ず、所以に益無し、次に菩薩は更に不垢不浄を説きて不二門に入る、共宣しき所に当れば之を聞きて道を得、是れ則ち横門無量なり、八千の菩薩各各之を説く、云何ぞ難じて「一門にて足る」と言はんや。復次に行人、無生門に依つて四三昧を修すに、或時は歓喜頂受し、或ときは信善の心生じ、或ときは悪覚の執破し、或ときは恍恍として悟らんことを欲す。若し爾らば、此無生門は是れ非道門なり、若し爾らずんば其門に非ざるなり。当に更に無滅門従り入りて、喜生じ善発し執破し道に近づくべし、当に知るべし、無滅は是れ其道門なり、爾らずんば其に於て門に非ず、是の如く広く衆門に歴て一一に検試せば、会して相応すること有らん。羅を張ること既に広ければ心鳥自から獲、此義の為の故に横を将て豎に約し、以て門通を顕すなり。

 [25]第三に横豎一心に止観を明さば、上に説く所の如き横豎深広にして一切の邪孰を破し、一切の経論を申べ、一切の観行を修し、一切の根縁に逗す、回転窮まり無し、言煩はしくして見難し、今当に結束して其正意を出だすべし。若し無生門、千万重畳なれどもただ是れ無明一念囚縁所生の法、即空即仮即中不思議の三諦、一心三観、一切種智、仏眼等の法なるのみ、無生門既に爾り、諸余の横門も亦復是くの如し。種種に説くと雖もただ一心三観なり。故に横無く豎無し。

 [26]但一心に止観を修するに又二と為す、一には総じて一心を明す、二には余の一心に歴。総とはただ無明一念の心に約す、此心に三諦を具す、一観に体達するに此観に三観を具す。

 [27]若し前来横豎の諸説を得ずんば、此の如きの境智、何に由つてか解す可き。前に「一念の無明、法性と合して即ち一切の百千の夢事有り、一陰界入一切陰界入、無量単複具足無言等の見、三界九地一切の諸思、十六門をもつて破する等の諸法ある」ことを説く。先に已に次第横豎聞き竟る。今は一心因縁生の法を聞かば、即ち懸かに前来一切次第因縁生の法を超え、懸かに不可思議因縁生の法を識る。前に「諸法皆三仮の四句、句句に実を求むるに得べからず、単複の諸見皆空、九地の諸思も皆空、十六門皆空なる」ことを説く。先に已に聞くが故に今一心即ち是れ空なりと聞きて懸に前来の次第の諸空を超え、懸に不可思議畢竟の妙空を識る。前来明す所の諸の仮、覆疎倒入し、薬病授薬等の法を分別すること先に已に聞くが故に、今一心即仮と聞きて懸に前来の次第の仮を超え、懸に雙照二諦の仮を識る。今非空非仮と聞かば懸に前来の諸空皆空に非ず、諸仮皆仮に非ざるを超え、又前来一切の非有非無を分別す、単の見の中の非有非無、複の見の中の非有非無、具足の中の非有非無、三蔵の中の非有非無、通門の非有非無、別門の非有非無、前に已に聞けるが故に、今非有非無を聞きて懸に前来の諸の非有非無を超えて懸に中道不可思議の非有非無を識る。此の如きの三諦一心の中に解する者、此人得難し。

 [28]何を以ての故ぞ、心に約して無明を論じ、還つて心に約して因縁所生の法を論ず、故に前来一切の法有り。心即空に約す、故に前来の諸空有り。還つて心に約して仮を論ず、故に前釆の出仮等有り。亦心に約して法界を論ず、故に中道の非空非仮有り。三諦具足してただ一心に在り。相貌を分別すれば次第に説くが如し、若し道理を論ぜばただ一心に在りて即空即仮即中なり。一刹那にして而も三相有り、三相同じからず、生住滅異なるが如し。一心三観も亦是の如し、生は仮有を喩へ、滅は空無を喩へ、住は非空非有を喩へ、三諦同じからずして而してただ一念なり、生住滅異なれどもただ一刹那なるが如し。三観、三智、三止、三眼、例して則ち知る可し。

 [29]是の如く観ずれば則ち是れ衆生が仏知見を開く、衆生と言ふは、貪恚癡の心、皆我有りと計す、我は即ち衆生、我は心を逐うて起る、心は三毒を起し、即ち衆生と名く。此心起る時即空即仮即中なり、心の念を起すに随つて止観具足す。 観を仏知と名け、止を仏見と名く、念念の中に於て止観現前ず、即ち是れ衆生が仏知見を開くなり。

 [30]此観成就するを初随喜品と名く。讃誦扶助し、此観転明かにして第二品を成ず。行の如くにして而して説く、心を資くること転明かにして第三品を成ず。兼ねて六度を行じ功徳転深うして第四品を成ず。具に六度を行じ、事理減ずること無くして第五品を成ず。第五品転じて六根清浄に入るを相似の位と名く。故に「法華」に云はく、「未だ無漏を得ずと雖も而も其意根の清浄なること此のごとし」と。相似の位より進んで銅輪に入り、無明を破して無生忍を得、四十二地の諸位なり。故に「法華」に云はく、「是の如きの無漏清浄の果報を得」と。亦是れ三賢十聖、果報に住す、唯仏一人浄土に居するなり、賢聖を以て仏に例すれば妙覚を指す、是れ報なり。「大経」に「無上報を得」と云ふは、現報有るが故に無上報と名く、生後無きが故に仏に報無しと言ふ。「大経」に亦云はく、「子果果子」と、現報を以ての故に即ち子果の如し、後報無きが故に果子と名けず云云。又「金光明」に称して応身と為す、境智相応するなり。境に就て法身と為し、智に就て報身と為し、起用を応身と為す。法身を得るを以ての故に常恒に不変なり、法身清浄にして広大なること法界の如く、究竟して虚空の如く、未来際を尽すなり。「宝性論」に云はく、「常は即ち不生、恒は即ち不老、清浄は即ち不病、不変は即ち不死、法身は是れ浄徳広大にして法界の如きは是れ我徳なり、究竟して虚空の如きは是れ楽徳なり、未来際を尽くすは是れ常徳なり」と。故に知んぬ、初住法身、即ち是の如きの常楽我浄を具して生老死無きことを云云。

 [31]歴余一心三観とは、若し総じて無明の心、未だ必ずしも是れ宣しかざれば、更に余心に歴、或は欲心、瞋心、慢心、此等の心起るに即空即仮即中なり、還つて総の中に説く所の如し云云。

 [32]前来の所説は、但識陰を観じて此の如きの説を為す。余の四陰も亦是の如し、十二入十八界も亦是の如し、是を陰界入の境を観ずと名く。破法遍竟んぬ。

 [33]問ふ、入仮の中に因縁有り、入空何の意ぞ無きや、入空には四門を以て料簡す、仮の中には何の意ぞ無きや。答ふ、入空にも亦有り、略するが故に説かざるのみ。何となれば、謂はく、解脱の為の故に、他を脱せしめんが為の故に、慧命の為の故に、無漏の為の故に、法位の為の故なり。未れ生死の縛著は我が精神を労す、空に非ざれば解せす、自ら既に縛有つて能く他の縛を解くとは、是処り有ること無し、他を脱せんが為の故に応須に空に入るべし、賢聖は慧を以て命と為し、慧命は空に非ずば立たず、諸の神通の中には、無漏通勝る、勝神通の為の故に応須に空に入るべし、又法位は慧に非ざれば入ず、空慧は能く速かに法位に入る、入空の因縁甚だ多し、後に例するが故に五を説くのみ。未れ空観は小大偏円に通ず、分別して濫せざらしめんと欲せば須らく四門を以て料簡すべし。仮中は小に雑ぜず、故に用ひざるのみ。空観に二種あり、析空は専ら小に在り、体空は小大共なり。今の料簡は体空を簡び、同じく体を用ふると雖も所為応別なり、故に須らく料簡すべし、別円の能通は各各四門ありと雖も所通の処は同なり、故に料簡則ち閑なるのみ。

 [34]智障とは、異解同じからず、今達磨鬱多羅の釈を出す。煩悩は是れ惑心なり、故に煩悩是れ障、智は是れ明解なり。云何ぞ智を説いて障と為すや。智に二種有り、証智、識智なり。識智の分別は体には違し想には順ず、想は順ずるが故に説きて智と為す、体には違して分別すれば証智の為に礙とす、故に智を説きて障と為す。又仏、二障に於て解脱を得るなり。「涅槃」に云はく、「愛を断ずるが故に心解脱を得、無明を断ずるが故に智解脱を得と。「地持」の中に説く、「愛を煩悩の首と為す」と。故に心解脱は煩悩障を対治するなり。一切無明の穢汚を遠離し、一切の所知に於て知ること障礙無きを智浄と名く、智浄は即ち慧解脱なり。若し智の所知礙を以て智障と名くるは、無明を以ての故に智に於て礙有り、正に無明を以て智障の体と為すなり。「入大乗論」に云はく、「出世間の無明是れ智障、世間の無明は賢聖已に遠離す」と。即ち是れ先に煩悩障を断ずるなり。二障倶に是れ煩悩なり。云何ぞ無明を以て智障と為すや。無明は是れ智に即するの惑、智を以て体と為す、智に即して障を説く。例せば、無為生死、無為に即して而して生死を説き、無為を以て名と為すが如し。愛は即ち四住地なり、亦能く智を障ふ、然るに是れ心に異るの惑。解惑は倶ならず、体は是れ煩悩、故に当体を名と為し、煩悩障と名くるなり。復次に愛は能く諸有をして相続せしめ、能く心をして煩はしめ、心の為に悩を作す、無明覆蔽すと雖も、然も生は愛水に由つて生を招く、功強し、故に愛を名けて煩悩障と為す。無明不了、正しく解脱と反す、愛性違すと雖も然れども無明を以て本と為す、無明性迷ふ、智を障ふるの義顕はなり、故に所障に従つて名けて智障と為す。無明に二有り、一には迷理。二には迷事、何者か是れ智障なる。「地持」に説くが如し、二乗の無漏人、無我の智を煩悩障の浄智と為し、仏菩薩の法、無我の智を智障の浄智と為す。若し爾らば二倶に是れ理に迷ふを智障と為す。又智の所知の礙るを名けて智障と為さば、一切法に於て知に障礙無し、即ち事の中に於て知に障礙無し、但是れ事に迷ふを智障と為す。若し爾らば何物をか定と為さん。事を照し理を照すの智、智に二有りと雖も二に別体無し、智障無明、亦二性無し、二の説有りと雖も而も二無し。

 [35]又心智を障と為さば、究竟尋求分別智、如実を礙へ、証智を得ず、此れ亦智に即して是れ障なり、想を滅し心を滅するを以ての故に智を断ずるの義有り、若し分別を捨れば即ち先の智障清浄なり。又是れ条然に非ず、故に智も亦断ぜず、是を以て経に福を失せざるの言有り、「百論」に、仏説を引き福に於て畏るること無き者は助道応に行ずべきなり。人一向の論を作す、即ち断不断の二途有り、計に矛盾無し、偏執を生じて竸ふこと勿れ。

 [36]問ふ、「瓔珞」に云はく、「第三観、初地に現前す」と、今云何ぞ、或は八地に在りと説き、或は初住に在りと説くや。答ふ、義を借りて相成ず、或は高を借りて下を成ず、故に八地と言ふ、或は下を借りて高を成ず、故に初住と言ふ「瓔珞」は別教を明す、故に初地と言ふなり。問ふ、仮の中の両観は三根の人の修位を明す、初観は修位を判ずるを見ず。答ふ、後観くわしく位に入りてまさに仮中を修す、故に位に約して三根の浅深を判ず、初観は凡地に始る、位の浅深を判ず可き無し。又「瓔珞」にも亦有り、文に云はく、「四地を須陀洹と名く」と、此れ応に是れ下根なるべし。又三地に須陀洹を明す、此れ応に中根なるべし、或は初地に須陀洹を明す、此れ上根を語る云云。