[1]二に近の利益とは、寂滅道場に起り、始めて正覚を成じて即ち法輪を転じ、毒鼓天鼓を撃ちて衆生を利益す。法華に至る已前に斉つて益も亦た浅深あり、死に亦た奢促あり。何となれば、教は本と縁に逗ず、縁は略して四と為す。教も亦た四あり、教主も亦た四あり。皆な法王と称し、王三昧を具して自ら二十五有を破して衆生を七益すること、例して前に説くが如し。又た大小乗の経に、仏、王三昧に入りて光を放ち、法を説き、善悪の諸趣の果苦に益を得る者を明す。阿含の中に説くが如し、「仏の光明を見、仏の手触を蒙りて六道の苦患悉く除愈することを得」と。又た大品に云はく、「光を放ちて地獄の衆生を照すに、苦悩即ち除いて、生じて第六天に斉し」と。苦の除こるは是れ果の益、天に生ずるは是れ因の益なり。大品に称して華葉の益と為すなり。又た仏、光を放ちて幽闇の処皆な大いに明かなり。各おの是の念を作す、「此の中、云何んぞ忽ちに衆生を生ずる」と、此も亦た是れ果の益なり。此の因果の益は、四の教主の仏、通じて能く此の益あり。別して益を論ぜば、則ち是れ浅深同じからず。謂はく声聞は正を断じ、縁覚は習を侵す。同じく中草と名く。菩薩は惑を伏し、兼ねて衆生を度す。故に経に云はく、「世尊の処を求めて我れ当に作仏すべし」と。精進を行じて定まるは是を上草の益と名く。蓋し三蔵の教生の慈善根力の利益の相なり。経に云はく、「若し諸の菩薩、智慧堅固にして三界に了達し、最上乗を求む」と。即ち三人同じく無生を観ずるなり。但だ前の析智の益あるのみに非ず、別に巧度あり。即ち是れ体真なり、是を小樹増長の益と為す。蓋し通の教主の利益の相なり。経に云はく、「復た禅に住するありて神通力を得、諸法の空を聞きて心大いに歓喜す」と。住禅とは九種の大禅に住するなり。心大歓喜とは歓喜地に登るなり。「無数億百千の衆生を度す」とは、是を大樹増長と名く。但だ前の因果析体の益あるのみに非ず、而も別に分別道種智、乃至一切種智の益あり。蓋し別の教主の利益の相なり。経に云はく、¬今当に汝が為に最実事を説くべし」と。啻だ前の如きの益のみならず、乃ち即ち無明を破して仏性を顕出する究竟の実益あり。蓋し円の教主の利益の相なり。復次に前の三教の益は、劣にして勝を兼ねず、勝は則ち劣を兼ぬ。解す可し云云。又た五味に歴れば、乳教は但だ因と果と大樹と実事との四益ありて三草一木を明さず。大乗経は二乗の人の手に入らず、聾の如く啞の如くなるを以ての故なり。酪教は但だ三草等の四益あり。生蘇には備さに七益あり、熟蘇には析法の三草無く而して体法等の七益あり。醍醐には但だ実事の益のみあり。前の諸の益は皆な麁なり、今の益は則ち妙なり。近くは寂滅より訖り法華に至るまでを生身の菩薩と為し、但だ八番の益を得て第九・第十の益を得ざるなり。又た得の義あるは、即ち是れ菩薩、法性身より来りて分段に入り、願通応生等の眷属と作りて進んで無明を破し、残品を断除して即ち第九・第十番の益を明すことを得るなり。始め寂滅より終り法華に至るまで略して十益と言ふなり。
[2]問ふ、法身の菩薩、応身仏の説法を聞きて、応身中の益に亦た法身をして益を得せしむる耶。答ふ、譬へば鏡を磨するに鏡転た明かなれば、色像も亦た明なるが如し。又た問ふ、応身、法を聞きて益あるに法身も亦た益せば、応身、病を現ずるに法身も亦た病む耶。答ふ、此の病若し実ならば、応病まば法も亦た病まん。秖だ応の病は実に非ずと為す。実に非ざるが故に、応身に病無ければ法身も亦た病無し。又た若し応身の病を現ずること少なければ、当に知るべし、法身の益も亦た少し。若し能く応身の病を現ずること広ければ、法身の益も亦た広し。今、諸句を作して料簡せば、自ら果は益して因は益せず、因は益して果は益せず。倶に益し、倶に益せざるあり。此れ即ち現事なり、解す可し。自ら壊の益、成の益、亦壊亦成の益、不壊不成の益あり。不壊不成の益は是れ清涼の益、四趣の因は是れ壊の益、非想の因は是れ成の益、中間は是れ亦成亦壊の益なり云云。自ら因の益即ち果の益、果の益即ち因の益なるあり、此は変易の因移り果易るの意なり。自ら因の益は増道に非ず、果の益は損生に非ず。是の因果の益を得、是の因果の益を得ず。分段の報の因果なり。自ら因の益は是れ増道、果の益は是れ損生にして、是れ因果の益を得ず、是の因果の益を得るあり、習因習果なり。自ら真の益にして、俗の益に非ざるあるは、二乗なり。俗の益にして真の益に非ざるは、六度の菩薩なり。自ら先に俗の益にして、後に真の益なるあるは、六度の菩薩なり。自ら先に真の益にして、後に俗の益なるあるは、通の菩薩なり。自ら真俗の益にして中の益に非ず、中の益にして真俗の益に非ざるあるは、別なり。自ら真益即ち俗益、亦即ち中道の益なるあるは、円なり。
[3]三に当文の利益とは、今経に就くに備さに七益あり。復た差別すと雖も、即ち差別無し。譬へば芽茎枝葉の生長不同なれども、而も是れ一地の所生なるが如し。七益誠に復た浅深あれども、実相に非ずといふこと無し。故に差別にして無差別と言ふなり。諸経は差別の麁益なり、同じく此の経に入れば無差の妙益なり。或は進んで諸の妙益に入り、或は位を按じて妙益を成ず。進入の益とは、本と是れ地上清涼なれども、今則ち進んで大乗を発し、解心明浄なり。或は観行妙、相似分真の中に進む。本と是れ人天の因益なれども、今進んで相似分真に入る。本と是れ小乗の学・無学の益なれども、今無明を破して分真妙益に進む。譬へば声を迴して角に入るが如く、小を転じて大と為すなり。通別の進益は此に例して知るべし。按位の益とは、本と是れ麁果地の上の清涼にして、即ち理妙の益と成る。麁因の益を按ずるに、即ち是れ観行の妙益なり。麁の学・無学の益を按ずるに、即ち是れ相似の妙益なり。麁即ち妙と開すれば、進入を須ひず。通別は此に例して知んぬ可し。進入の妙益は即ち是れ。麁益に待して妙益を明す。按位の益は即ち是れ絶待妙の益なり云云。諸の麁益をもつて眷属を判ぜば、果因の二益は業生の眷属と為るに堪へたり。中上の二草・小樹等は、願通の眷属と為るに堪へたり。大樹の見性已去は皆な応生の眷属の摂なり云云。進入の按位とは、理妙・仮名・観行妙は業生の眷属と為るに堪へたり。相似妙は願通の眷属と為るに堪へたり。分真は応生の眷属と為るに堪へたり。是を此の経の利益の相と名くるなり云云。
[4]三に流通の利益を明さば三と為す。一には師を出し、二には法を出し、三には益を出す。弘経の行人は具さに凡聖に通ず。若し法身の菩薩は誓願荘厳す。此土・他土・下土・上土にして権実の七益・九益・十益を得しむ。化の功已に帰して、還つて法身を資けて増道損生するなり。生身の菩薩も亦た能く此土・他土にして経を弘め、他をして権実の七益を得せしむ。化の功已に帰して増通損生す。而して上土に利益すること能はざるなり。凡夫の師は亦た能く此土に弘経して、他をして権実の七益を得せしむ。化の功已に帰して品位を増益す。故に無量義に云はく、「病導師あり、此の岸に在りて船筏を成就して人を彼岸に渡す」と。即ち其の義なり。問ふ、凡夫は但能く凡夫の為に弘経して凡夫をして益を得せしむるや、亦能く聖人をして益を得しむる耶。答ふ、聖に二種あり、一には小乗の聖、二には大乗の聖なり。経に云ふが如し、「若し実阿羅漢を得て滅度の相を生ずることあらば、若し余仏に遭ふて便ち決了することを得」と。南岳師の云はく、初依を余仏と名く。無明未だ破せざるを之を名けて余と為し、能く如来秘密の蔵を知り深く円理を覚するを之を名けて仏と為す。仏の滅後に実に羅漢を得る者は、権実に於て未だ了せず。若し初依に遭はば即ち能く決了して相似の益を成じ、或は進んで分真の益に入らしむ」此の文は往し凡夫の師の小乗の聖人の為に経を弘めて得益を得せしむるを証するなり。経に云はく、「六根清浄の人、法を説けば十方の諸仏皆な之を見んことを楽ふ。其の処の説法に同ず。一切の天龍は、其の所説を聞きて皆大いに歓喜す」と。此も亦た是れ凡夫の師の大聖の為に法を説くの明文なり。
[5]二に法を出さば、通経の方法は明かに聖言に出づ。文に云はく、「若し衆生信受せずんば、当に余の深法の中に於て示教利喜すべし」と。余とは方便を帯するなり、深とは中道を明すなり。方便を帯して中道を明すは即ち別教なり。若し但だ方便にして中道を明さざるは即ち通蔵等の教なり。経の文は別を用ひて円を助くることを許す、而も例して推すに、亦応に通を用ひて円を助くべし。又た文に云はく、「更に異の方便を以て第一義を助顕す」と。豈に蔵通を隔てん耶。但だ菩薩を已に定慧を得、亦た権意を得たり。実を以て権に濫せず、亦た権は是れ実なりと謂はず。但だ為に実を弘むるに、而も衆生は信ぜざれば、須らく実の為に権を施し、浅を以て深を助くるに虚妄無かるべし。此れ則ち双べて権実を用ひて経を弘むるなり。安楽行に云はく、「若し難問することあらば、小乗の法を以て答へざれ。但だ大乗を以て為に解説して一切種智を得せしむべし」と。此れ則ち但だ実を用ひて経を弘めしむるなり。又た云はく、「宜しきに随つて為に説く」と。此も亦た権を隔てざるなり。今時の人の法を弘むるに、或は一向に大を用ひ、或は一向に小を用ふれば皆な仏意を得ず。善く経を弘むる者は用与時に適ふ。口に権を説くと雖も、而も内心は実法に違せず。但だ衆生をして権実の七益を得せしむるは、弘経に於いて暢ぶ矣。
[6]三に益を出さば、然るに流通の利益は第三の流通段を待たず方に利益を明す。秖だ正説の文の中、已に未来弘経の利を指す。譬喩品の後、授記品の末、法師品の中に皆な弘経の功徳利益を明す。能く如来の滅後に於いて一句偈を聞く者に、亦た三菩提の記を与受す。況んや弘宣する者をや。竊かに一人の為に説く者は功徳尚ほ多し。況んや衆に処して広く説く者をや。展転して第五十人に至るに、随喜の功徳尚ほ二乗の境界に非ず。況んや最初会中に聞きて随喜せん者をや。常不軽は一句を流通する、尚ほ六根清浄を得たり。況んや具足して流通せん者をや。初品の弟子の弘経の功徳は、無量億劫に五波羅密を行ずるも喩と為すことを得ず。況んや第五品をや。十方の虚空に寧ろ辺表あるも、五品の弘経は尚ほ窮尽し叵し。皆な云はく、「如来の室に入り、如来の衣を著し、如来の座に坐す」と。如来の法は皆な数量に非ず、況んや八万の大士、千界微塵の菩薩にして而も当に説くべけん耶、而も当に知るべけん耶。唯だ如来を除いて能く尽く知る者無し。凡師の弘経は、凡をして七益あらしむ。経に云はく、「此の経は是れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し是の経を聞かば不老不死」とは、老死の中に於て老死の実相を識る。老死は是れ果報の法なり、実相を識るは即ち清涼理妙の益を得るなり。亦た果報の益なり。能く此の経を持つが故に安楽土に生じ、蓮華の中に処して貪欲の為に悩まされず、亦是れ十悩乱を離る。是れ善く菩薩の道を行ず、亦た名字の益と名く。亦た是れ観行の妙なり、亦是れ修因の妙なり。陀羅尼を得て能く仮を旋らして空に入るは、即ち是れ下・中・上の薬草等の益なり。亦是れ小樹の益なり。百千旋陀羅尼を得るは、即ち大樹の益なり。法音方便陀羅尼を得るは、是れ相似の実益なり。若し須臾も聞くことあるは、即ち究竟の三菩提を得るは即ち是れ真実の益なり。復次に人の高原を穿鑿して乾土を見るが如きは、是れ下・中・上の薬草の益なり。泥を見るは是れ小樹・大樹の益なり。水を得るは是れ最実の益なり。後の五百歳も尚ほ此の益を獲、況んや復今時に経を弘め他を利する。寧ろ七益無からん耶。
[7]第四に観心とは、小乗は心起つて未だ身口を動ぜざるは名けて業と為さずと明す。大乗は刹那の造罪も、殃無間に堕つと明す。無間は是れ大苦報の処、刹那は業を促起する処なり。促心暫くも起れば重業已に成ず。況んや九法界にして而も具足せざらんや。若し能く心を浄むれば、諸業即ち浄し。浄心観とは、謂はく諸心は悉く是れ因縁生の法にして、即空即仮即中なりと観ずる一心三観なり。是の観を以ての故に、心も心に非ずと知れば、心は但だ名のみあり。法も法に非ずと知れば、法に我あること無し。名も名無しと知れば、即ち是れ我等なり。法も法無しと知れば、即ち涅槃等なり。此の解起る時、我我所に於て雲の如く幻の如し。即ち是れ地上清涼の益なり。信敬慚愧し、諸の善心生じて空仮中に於て意に而も勇あるは、即ち是れ因の益なり。念念に即空と相応するは、是れ中・上草・小樹等の益なり。念念に即仮と相応するは、是れ大樹の益なり。念念に即中と相応するは、是れ最実事の益なり。一念の益心に於て七種に分別す云云。夫れ一向無生観の人は但だ心益を信じて外仏の威加の益を信ぜず、此れ自性の癡に堕す。又た一向に外仏の加を信じて内心に益を求めずんば、此れ他性の癡に堕す。共の癡、無因の癡も亦た解す可し。自性の癡の人は、眼に世間に重きを牽くに進まざる者も、傍より力をもつて助け進むを見る。云何んぞ罪垢重き者の、仏威建立して観慧をして益を得せしむることを信ぜざらん耶。又た汝何れの処に従ひて是の無生の内観を得たる耶。師に従ふ耶。経に従ふ耶。自に従つて悟る耶。師と経とは即ち是れ汝の外縁なり。若し自ら悟らば、必ず冥加を被むらん。汝、恩を知らざること、樹木の日月風雨等の恩を識らざるが如し。又た三事ありて汝、外加を知らず、一には教を信ぜず、二には自ら行じて外加を求めず、三には人を教へず。直だ是れ汝が不信にして、外益無きには非ざるなり。経に曰はく、「内に非ず外に非ず、而も内而も外なり」と。而内の故に諸仏の解脱は心中に於て求め、而外の故に諸仏護念す。云何んぞ外益を信ぜざる耶云云。他・共・無因の癡は例して解すべし。即仮の故に自性無く、即空の故に他性無く、即中の故に共性無く、双照の故に無因性無し云云。
[8]第五に権実を結成するとは、光宅の云はく、三三の境を照すを権と為し、四一の境を照すを実と為すと。今此の解を用ひず。既に大乗の果を以て大の理と為さば、何んぞ小乗の果を用ひて小の理と為さざる、彼救ひて云はく、小果は真に非ず、故に其の果を以て理と為さずと。若し爾らば、権教及び権行の人は、何んぞ嘗て是れ実ならん。既に権教の行人を立つ、何んぞ権理を立てざらん。又た権若し理無くんば、俗を諦と称すべからず。既に俗諦と言ふ、権も応に止だ三なるべからず。実に四あらば、夫れ因果は是れ二法なり、云何んぞ二法を以て理一とせん耶。経に云はく、「一切法を観ずるに如実の相なり、行ぜず分別せず」と。云何んぞ因果を分別して理と為ん。若し爾らば、便ち実相無ければ、則ち魔の所説なり、故に彼の釈を用ひず。
[9]今明さく、十麁の境を照すを権と為し、十妙の境を照すを実と為す。十麁とは即ち前の九法界の三因縁等の諸の麁の諦智、乃至麁の利益を皆な権と称するなり。十妙を照すとは即ち是れ理妙、乃至利益妙なり。妙の故に実と為す。復次に十妙の為の故に十麁を開出す。蓮の為の故の華は意ろ蓮に在りて而も蓮隠れて現ぜざるが如く、余の深法に於て示教利喜するに、余法に実あれども而も実顕はれず。文に云はく、「如来の方便は意趣解し難し」と。又た華開き蓮現ずるを、十麁を開して十妙を顕はすときは、則ち復た十麁無きに讐ふ。唯だ一大事不可思議の境界、乃至利益なり。肇師の云はく、「始め仏国より終り法供養まで、皆な不可思議を明すと。今も亦た例して爾り。既に麁を開すること已れば始終皆な妙なり。又た五味に約せば、乳味は則ち十妙の為に十麁を明せば、十麁を開して十妙を顕はすことあり。則ち一権一実を成ず。若し四悉檀に就かば、則ち六権二実あり。若し四門に約すれば、則ち十二権四実なり。若し三蔵に約すれば一向是れ権にして、化城楊葉なり。還つて三蔵に就いて化他に約するは権と為し、自行に就いて実と為す。四悉檀に約せば三権一実、四門に約せば十二権四実なり。若し方等は既に備さに四教あり。故に三十種の権、一十種の実なり。若し四悉檀に約せば、十四権二実なり。四門に対せば、五十六権八実なり。若し摩訶般若に約せば、既に三蔵を廃して但だ三教を用ふ。通別の二十種を権と為し、一十種の円を実と為す。若し悉檀に約せば、十権二実なり。若し四門に歴れば、四十権八実なり。若し法華に至れば、前来を一向に皆な廃して但だ一実を説く。実の中には方便無きに非ざれども、但だ是も実相の方便なれば、同じく称して実と為す。今悉檀に約せば、未悟の前は三権、悟れば即ち一実なり。若し四門に歴れば、十二権四実なり。名数は一往三蔵に同じくして而も意は天懸かに地殊なるあり。彼の教の十二権四実は一向に是れ権なり、法華は一向に是れ実なり。方等・般若に異なることを料簡せば云云。故に云はく、「但だ無上道を説き、真実の相を示す」と、此の謂なり。若し涅槃に約すれば、涅槃は備さに四教を釈す、亦是れ三十の権と一十の実なり。一往は方等に似同して、而も意は逈かに異なり。彼は則ち二は実に入り、二は実に入らず。今の涅槃は四倶に実に入る。因中には則ち三権一実あり、果に在りては則ち四実にして権無し。若し四悉檀に約せば、十四権二実なり。四門に歴れば、五十六権八実なり。若し更に三の四門に約せば、五十六権なり。若し果門は、四実とも但だ是れ実なり。其の本因に仍つて故に四と説く耳。是れ則ち四門より実に入る。果に約せば、四実十二権なり。法華の義と斉しきなり。故に知んぬ、諸教は同じく権実ありと雖も、権実同じからず。或は一向に実、或は一向に権、或は権実相ひ兼ぬ。皆是れ当機の情に称ふ。理を縁ずること未だ融ぜず。今総じて教に就て権実を判ぜば、若し三蔵と通と別の三教に約すれば是れ権なり、円教を実と為す。又た諸教は権実未だ融ぜざるを権と為し、既に融じて権を開し実を顕はすを実と為す。今の法華は是れ一円なるが故に実と為し、又た開権の故に実と為す。若し円教に就いて語を為さば、前の三教の三十麁を照すを権と為し、十妙を照すを実と為す。若し開権の円融に就て語を為さば、三十の麁を決して皆な妙を成ず、但だ称して実と為す。是の故に妙と称す。若し理を悟ることを取らば、理は即ち非権非実にして一法をも見ず。空拳、小児を誑らかして権を説き実を説く、是れ則ち麁と為す。理は則ち非権非実なり、是の故に妙と為すなり。
[10]第二に本に約して十妙を明さば二と為す。先に本迹を釈し、二に十妙を明す。本迹を釈するに六と為す。本とは理本、即ち是れ実相一究竟の道なり。迹とは諸法実相を除いて其の余の種種を皆な名けて迹と為す。又た理と事とを皆な名けて本と為し、理を説き事を説くを皆な教迹と名くるなり。又た理事の教を皆な名けて本と為し、教を禀けて修行するを名けて迹と為す。人の処に依るときは則ち行跡あり、跡を尋ねて処を得るが如し。又た行能く体を証すれば、体を本と為す。体に依りて用を起せば用を迹と為す。又た実得の体用を名けて本と為し、権施の体用を名けて迹と為す。又た今日顕はす所の者を本と為し、先来已に説く者を迹と為す。此の六義に約して以て本迹を明すなり。
[11]一に理事に約して本迹を明さば、無住の本より一切の法を立す。無住の理は即ち是れ本時の実相真諦なり、一切法は即ち是れ本地の森羅俗諦なり。実相の真本に由りて俗迹を垂る、俗迹を尋ねて即ち真本を顕はす。本迹殊なりと雖も不思議一なり。故に文に云はく、「一切の法を観ずるに空如実相なり。但だ因縁を以てあり、顛倒より生ず」と云云。
[12]二に理教に本迹を明さば、即ち是れ本地所照の二諦は倶に不可説なるが故に皆な本と名くるなり。昔し仏、方便して之を説くは即ち是れ二諦の教なり、教を名けて迹と為す。若し二諦の本無きときは則ち二種の教無く、若し教迹無くんば豈に諦の本を顕はさん。本迹異なりと雖も不思議一なり。文に云はく、「是の法は示すべからず、言辞の相寂滅す。方便力を以ての故に五比丘の為に説く」と。
[13]三に教行に約して本迹と為すは、最初に昔仏の教を禀けて以て本と為し、即ち修因致果の行あり。教、理を詮ずるに由りて、行を起すことを得。行に由りて教に会して理を顕はすことを得。本迹殊なりと雖も不思議一なり。文に云はく、「諸法は本より来た常に自ら寂滅の相なり、仏子、道を行じ已つて来世に作仏することを得ん」と云云。
[14]四に体用に約して本迹を明さば、昔最初に修行して理に契ふに由りて法身を証するを本と為す。初め法身の本を得るが故に、体に即して応身の用を起す。応身に由りて法身を顕はすことを得。本迹殊なりと雖も不思議一なり。文に云はく、「吾れ成仏してより已来た甚大久遠なること斯の若し、但だ方便を以て衆生を教化して此の如きの説を作す」と。
[15]五に実権に約して本迹を明さば、実とは最初久遠実得の法応二身を皆な名けて本と為し、中間に数数生を唱へ滅を唱へて種種権施する法応二身を故に名けて迹と為す。初め法応の本を得るに非ずんば、則ち中間法応の迹無し。迹に由りて本を顕はす、本迹殊なりと雖も不思議一なり。文に云はく、「是れ我が方便なり、諸仏も亦た然り」と。
[16]六に今已に約して本迹を論ぜば、前来の諸教已に事理、乃至権実を説くは皆是れ迹なり。今経所説の久遠の事理、乃至権実は皆な名けて本と為す。今明す所の久遠の本に非ずんば、以て已説の迹を垂るゝこと無く。已説の迹に非ずんば、豈今の本を顕はさんや。本迹殊なりと雖も不思議一なり。文に云はく、「諸仏の法は久うして後、要らず当に真実を説くべし」と。
[17]若し已今に約して本迹を論ぜば、已を指して迹と為し、釈迦寂滅道場より已来の十麁十妙を摂得して悉く名けて迹と為す。今を指して本と為すは総じて遠く最初本時の諸麁諸妙を摂して皆な名けて本と為すなり。若し権実に約して本迹を明さば、権を指して迹と為し、別して中間種種の異名の仏の十麁十妙を摂得して皆名けて権と為す。実を指して本と為すは、最初の十麁十妙を摂得して悉く名けて実と為す。若し体用に約して本迹を明さば、用を指して迹と為し、最初の感応・神通・説法・眷属・利益等の五妙を摂得す。体を指して本と為すは、最初の三法妙を摂得するなり。若し教行に約して本迹を為さば、行を指して迹と為し、最初の行妙・位妙を摂得す。教を指して本と為すは、最初の本時の智妙を摂得す。若し理教を本迹と為さば、理を指して本と為し、本初の境妙を摂得す。教を指して迹と為して本時の師の教妙を摂得し、兼て本師の十妙を得。若し理事を本迹と為さば、事を指して迹と為し、本時の諸麁の境を摂得す。理を指して本と為し、本時の諸妙の境を摂得す。最初の本を本と為せば、但だ本にして迹に非ず。最後の已説は但だ迹にして本に非ず。中間は亦た迹亦は本なり。若し本地の本無くんば、中間最後の迹を垂得すること能はず。若し已説の迹無くんば、今説の本を顕得すること能はず。本迹殊なりと雖も不思議一なり。
[18]二に本の十妙を明さば、一には本因妙、二には本果妙、三には本国土妙、四には本感応妙、五には本神通妙、六には本説法妙、七には本眷属妙、八には本涅槃妙、九には本寿命妙、十には本利益妙なり。此の十妙を釈するに又た十重と為す、一には略して十意を釈し、二には生起次第、三には本迹の開合を明し、四には文を引きて証成し、五には広く解し、六には三世の料簡、七には麁妙を論じ、八には権実を結成し、九には利益、十には観心なり。
[19]一に略釈とは、本因妙とは本初に菩提心を発して、菩薩の道を行じて修する所の因なり。十六王子の大通仏の時に在りて弘経結縁するが如きは、皆是れ中間の所作にして本因に非ざるなり。若し娑婆を墨と為し、東に行くこと千界にして方に一点を下し、点不点等尽く抹して塵と為し、一塵を一劫とし、復是に過ぐること百千万億那他劫なり。弥勒の補処出仮の種智を以て直ちに世界を数ふるに、尚ほ知ること能はず。況んや其の塵を数ふるは、寧んぞ当に尽すことを得べけんや。特に是れ如来の巧喩、其の長遠の相を顕はす。況んや世智の巧歴算数を以てせん耶。文に云はく、「我れ仏眼を以て彼の久遠を観るに、猶今の若し」と。唯だ仏のみ能く此の如きの久遠を知る。皆是れ亦の因にして本の因に非ざるなり。若し中間の因を留むれば後に於て信じ難し。是の故に法華に迹を払ひて疑ひを除く。権にして実に非ず。我れ本と菩薩の道を行ずる時とは中間に在らず、是を過ぎて已前の所行の道、之を名けて本と為す。即ち是れ本因妙なり。二に本果妙を明さば、本初所行の円妙の因は、究竟の常楽我浄に契得す。乃ち是れ本果なり。寂滅道場の舎那成仏を取りて本果と為さざるなり。尚ほ中間の果を取りて以て本果と為さず。況んや舎那の始成は云何んぞ是れ本ならん。但だ成仏してより已来た、甚大久遠の初に証するの果を取りて本果妙と名くるなり。三に本国土とは、本既に果を成ず、必ず依国あらん。今既に迹は同居に在り、或は三土に在り。中間に亦た四土あり。本仏も亦応に土あるべし。復何れの処にか居するや。文に云はく、「是より来た、我れ常に此の娑婆世界に在りて説法教化す」と。此の文を按ずるに実に今日迹中の娑婆に非ず、亦た中間権迹の処所に非ず。乃ち是れ本の娑婆、即ち本土妙なり。四に本感応とは、既に已に果を成ずれば、即ち本時所証の二十五三昧ありて慈悲誓願、機感相ひ関はる。能く寂に即して而も照なり、故に本感応と言ふなり。五に本神通とは、亦是れ昔時所得の無記化化禅と、本因の時の諸の慈悲と合して施化して作す所の神通をもつて、最初に度すべき衆生を駭動す、故に本神通と言ふなり。六に本説法とは、即ち是れ往昔初めて道場に座し、始めて正覚を成じ、初めて法輪を転ず。四辨所説の法を本説法と名くるなり。七に本眷属とは、本時の説法を被むる所の人なり。下方に住する者の弥勒も識らざるが如きは即ち本の眷属なり。八に本涅槃とは、本時所証の断徳涅槃なり。亦是れ本時の応の同居方便の二土に処して、有縁のものは既に度し、唱へて滅に入ると言ふは即ち本涅槃なり。九に本寿命とは、既に入滅を唱ふれば則ち長短遠近の寿命あり。十に本利益とは、本の業・願・通・応等の眷属の八番十番に饒益するもの是れなり。
[20]二に生起とは、此の十種の義は縁に赴きて直ちに説けば、散じて経文に在り。今編次せんと欲す、故に須らく生起すべし。本因の初に居する所以は、必ず因に由りて果を致す。果成ずるが故に国あり。極果国に居すれば即ち機を照すことあり。機動ずるときは則ち化を施す、化を施すときは則ち神通あり。神通竟つて次に為に法を説く。説法の所被は即ち眷属と成り、眷属已に度すれば縁尽きて涅槃す。涅槃するが故に則ち寿命の長短を論ず。長短の寿の作す所の利益、乃至仏滅度の後に正像等の益あり。義は乃ち無量なれども、止だ十条を作して始終を収束するに復次第を成ずるなり。
[21]三に迹本の同異とは、迹の中には因を開して果を合す。習果報果を合して三法妙と為すなり。本の中には因は合して果を開す、習果を開して報果を出し、本国土妙を明すなり。此の同異を作す者は、義の便に依りて互に去取あり。迹の中には委悉に境・智・行・位を明す。本の文は語略して通じて束ねて因妙と為す。意を得るものは、是の開合を知る耳。果妙とは即ち是れ迹の中の三軌妙なり。感応・神通・説法・眷属は、名は上に同じ。本に涅槃・寿命妙を開することは、久遠の諸仏の灯明・迦葉仏等の如きは、皆な法華に於て即ち涅槃に入る。義をもつて推すに、本仏は必ず是れ浄土浄機ならん。又た往時已に成ず、故に涅槃等の妙を開出するなり。迹の中に此の二義無きことは、釈迦は法華に於いて唱へて涅槃すと言ふと雖も、而も未だ滅度せず。此の事方に涅槃に在り、故に迹の中に辨ぜず。利益は上に同じ。
[22]四に文を引きて証せば、遠く他経に索めず、亦た通じて部内を引かず。但だ本門に就て十義を証成するなり。然るに先仏の法華は、恒河沙阿閦婆の如き偈あり。仏は霊山に八年説法したまふ、胡本の中の事、復た応に何んぞ窮むべけんや。真丹の辺鄙に止だ大意を聞き、人七巻を見て謂つて小経と為す。胡の文浩博なり、何んぞ辨ぜざる所かあらん。今、数紙の内に就て十証宛然たり。文に云はく、「我れ本と菩薩の道を行ずる時、成ずる所の寿命今猶ほ尽きず」とは、即ち是れ本の行因妙なり。文に云はく、「我れ実に成仏してより已来た、無量無辺億那由他なり」と。又云はく、「我れ実に成仏してより已来た、久遠なること斯の若し。但た方便を以て衆生を教化して此の如きの説を作す」と、即ち是れ本果妙なり。文に云はく、「我れ娑婆世界に於いて三菩提を得已つて、是の諸の菩薩を教化し示道す」と、又云はく、「是より来た、我れ常に此の娑婆世界に在りて説法教化す。亦た余処に於て衆生を導利す」と。此の国土は復た今時の娑婆に非ず、即ち本国土妙なり。文に云はく、「若し衆生ありて我所に来至するに、我れ仏眼を以て其の信等の諸根の利鈍を観ず」と。此れ即ち本時照機の智、是れ感応妙なり。文に云はく、「如来秘密神通の力」と、又た中間の文に云はく、「或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」と、即ち是れ形を十界に垂れて、種種の像と作るなり。本を験らむるに亦た然り。是れ本神通妙なり。文に云はく、「是の諸の菩薩は悉く是れ我が所化なり、大道心を発せしめて今皆な不退に住して、我が道法を修学す」と。又た「中間に或は己事を説き、或は他事を説く」と、本を験らむるに亦た然り。即ち本説法妙なり。文に云はく、「此の諸の菩薩は身皆な金色なり、下方の空中に住す。此等は是れ我が子なり。我れ久遠より来た是等の衆を教化す」と、即ち本眷属妙なり。文に云はく、「又復た其れ涅槃に入ると言ふ、是の如きは皆な方便を以て分別す」と。又云はく、「今実に滅するに非ずして、而も便ち唱へて当に滅度を取るべし」と言ふ。往縁既に訖つて而も唱へて滅に入る。中間に既に涅槃を唱ふと、本を例するに亦た涅槃あり。即ち本涅槃妙なり。文に云はく、「処処に自ら名字の不同、年紀の大小を説く」と、年とは即ち寿命、大小とは即ち長短常無常なり。中間既に爾れば、本寿も亦然なり。即ち本寿命妙なり。文に云はく、「又た方便を以て微妙の法を説き、能く衆生をして歓喜の心を発さしむ」と、即ち中間の利益なり。又た云はく、「仏の寿命劫数長遠なること是の如しと説くを聞きて、無量無辺阿僧祇の衆生は大饒益を得」と、即ち迹中の益なり。迹と中間と既に爾り、本を例するに亦た然り。即ち是れ本利益妙なり。十の拠は経に在りて、人の造るに非ざるなり。
[23]五に広く釈せば、夫れ本に非ざれば以て迹を垂るゝこと無く、若し能く迹を解するときは則ち亦た本を知る。未解の者の為に更に重ねて分別す。但だ本極の法身は微妙深遠なり。仏、若し説かずんば弥勒も尚ほ闇し。何に況んや下地をや、何に況んや凡夫をや。然りと雖も、父母の年は知らずんばある可からず。如来の功徳、何んぞ識らざる容けんや。今略して経の旨に依りて髣髴に推尋せん。本因妙とは、経に云はく、「我れ本と菩薩の道を行ずる時、成ずる所の寿命」とは、慧命は即ち本時の智妙なり。「我れ本と行ず」とは、行は是れ進趣にして即ち本行妙なり。「菩薩道時」とは、菩薩は是れ因人なれば復た位妙を顕はすなり。一句の文に三妙を証成す。三妙は即ち本時の因妙にして、迹の因に非ざるなり。迹の因は多種なり。或は言はく、「昔し陶師と為りて先の釈迦仏に値ひてたてまつり、三事をもつて供養す、籍草と然灯と石密の漿なり。口を発いて記を得るに、父母の名字、弟子侍人も皆な先仏の如し」と。即ち是れ初阿僧祇の発心なり。既に断惑を明さざれば知んぬ、是れ三蔵の行因の相なることを。或は言はく、昔し摩納と為りて然燈仏に値ひたてまつり、五華を奉散し髮を布きて泥を掩ひ、身を虚空に躍らして無生忍を得たり。仏、授記を与へて釈迦文と号す」と。大品に亦云はく、「華厳城の内に記を得」と。義は此と同じ。并びに断惑を云ふ。故に知んぬ、通仏行因の相なることを。或は言はく、「昔し宝海梵志と為りて刪提嵐国宝蔵仏の所にして大精進を行じ、十方の仏、華を送つて供養す」と、既に宝蔵仏の父たり、又是れ弥陀の師なり、其の功徳を称するに思議す可からず。故に知んぬ、是れ別円行因の相なることを。三義を以ての故に、此の諸因は悉く是れ迹因なることを知る。一には近の故に、二には浅深同じからざるが故に、三には払はるゝが故なり。今世已前、本成已後、中間の行行は悉く是れ方便なり。故に知んぬ、是れ迹の因なることを。若し迹の因を執して本因と為さば、斯れ迹を知らず、亦た本をも識らざるなり。天月を識らずして但だ池月の若は光、若は桂、若は輪を観るが如し。下に準じて上を知る。光は智妙を譬へ、桂は行妙を譬へ、輪は位妙を譬ふ。若し迹の中の三妙を識りて、迹を払ひ本を顕はすに、即ち本地の因妙を知ること、影を撥つて天を指すが如けん。云何んぞ盆に臨んで而も漢を仰がざらん。嗚呼聾駭は若為れぞ道を論ぜん耶。若し斯の意を得れば迹の本は本に非ず、本の迹は迹に非ず、本迹殊なりと雖も不思議一なり。問ふ、経に本行菩薩道時と称するは、応に初住に在りて真道を得る時なるべし。中間は応に是れ諸地の増道損生なるべし。今の寂場は応に是れ妙覚なるべし。妙覚、本を顕はすに、応に昔の初住を指して云ふなるべし。此の一途を允と為んや。答ふ、文義不可なり。文に云はく、「尽く諸仏所有の道法を行ず」と。又云はく、「具足して諸道を行ず」と、悉く具足するの因は乃ち是れ本因なり。初住は悉具と称することを得ず、故に指す所の本因に非ざるなり。又た中間の果は悉く是れ権なりと払ふ、況んや今の寂場の果何んぞ実と為すことを得ん。又た中間の果も尚ほ払はれるれば、中間の因寧んぞ実因ならん。故に爾か問ふは非なり。
[24]二に本果妙を明さば、経に「我れ成仏してより已来た甚大久遠なり」と言ふ。「我」とは即ち真性軌なり、「仏」とは覚の義、即ち観照軌なり。「已来」とは如実の道に乗じ来りて正覚を成ず、即ち是れ応に起す資成軌なり。此の如きの三軌は成じてより来た已に久し、即ち本果妙なり。本果円満すること久しく昔に在り、今の述成に非ず。述成は又た一種に非ず。或は言はく、道樹草座にして三十四心に見思倶に断じ、朗然として大悟し、世間出世間の一切の諸法を覚知す、之を名けて仏と為す。唯だ此の仏のみありて十方の仏無し。三世の仏とは悉く是れ他仏なり、我が分身に非ず」と、此れ即ち三蔵仏果の相なり。或は言はく、道樹にして天衣を座と為し、一念相応の慧を以て余残の習気を断じて成仏することを得と。大品の中に、共般若を説く時、十方に千仏ありて現ず、問難する人を皆な須菩提・釈提桓因等と字く。亦是れ他仏にして我が分身に非ず。此れ即ち通仏果成の相なり。或は言はく、寂滅道場にして七宝華を座と為し、身、華台に称ひ、千葉の上の一一の菩薩に復た百億の菩薩あり、是の如くして則ち千と百億の菩薩あり。十方に白毫及び分身の光を放つ。白毫は華台の菩薩の頂に入り、分身の光は華葉の菩薩の頂に入る。此を法王の職位を受け、諸の仏法の底を窮め得て成仏することを得と名く。華台を報仏と名け、華葉の上を応仏と名くるは、報と応と但だ是れ相ひ関はる而已、相即することを得ずと、此は是れ別仏果成の相なり。或は言はく、道場にして虚空を以て座と為し、一成一切成なり。毘盧遮那は一切処に遍じ、舎那釈迦の成も亦た一切処に遍ず。三仏具足して欠減あること無く、三仏相即して一異あること無し。法華の八方一一の方に、各四百万億那由他の国土に安置する釈迦悉く是れ遮那なり」と。普賢観に云はく、「釈迦牟尼を毘盧遮那と名く」と、此れ即ち円仏果成の相なり。三義あるが故に、此の諸果は皆是れ迹の果なることを知る。一には今世に始めて成ずるが故に、二には浅深不同なるが故に、三には中間を払ふが故なり。若し是れ本果ならば、何んぞ今日始めて成ずることを得ん。本果は一果一切果なり、何んぞ前後差別して不同なることを得ん。今世の前本成の後より百千万億に因を行じ果を得、生を唱へ滅を唱ふるは悉く是れ中間なれば、払つて方便と為す。寂滅樹王も何んぞ迹に非ざることを得ん。若し迹果を執して本果と為さば、斯れ迹を知らず、亦た本を識らざるなり。本より迹を乖るゝこと月の水に現ずるが如く、迹を払つて本を顕はすこと、影を撥ひて天を指すが如し。当に始成の果は皆な迹果なりと撥ひて、久成の果は是れ本果なりと指すべし。此の如く解する者は、中間の果の疑ひ颯然として皆な尽く。長遠の信は其の義明かなり焉。迹の本は本に非ず、本の迹は迹に非ず、迹本殊なりと雖も不思議一なり。
[25]三に本国土妙とは、経に云はく、「是より来た我れ常に此の娑婆世界に在つて説法教化し、亦た余処に於て衆生を導利す」と。娑婆とは即ち本時の同居土なり。余処とは即ち本時の三土なり。此れ本時の真応の所栖の土を指す、迹中の土に非ざるなり。迹の中に土を明すこと、又た一途に非ず。或は言はく、此の三千百億の日月を統ぶるとは、同居の穢土なり。或は言はく、西方に土あり、名けて無勝と曰ふ、其の土の所有ゆる荘厳の事は猶ほ安養の如しとは、同居の浄土なり。或は言はく、華王世界蓮華蔵海と言ふは、是れ実報土なり。或は言はく、「其の仏の住処を常寂光と名く」とは、即ち究竟の土なり。寂光は理通ずること鏡の如く器の如し。諸土は別異なること像の如く飯の如し。業力の隔つる所、感見不同なり。浄名に云はく、「我が仏土は浄けれども汝は見ず」と、此れ乃ち衆生の感見の差別にして、仏土に関はらざるなり。今此の三界は皆な是れ我が有なりと言ふが若きは、諸土の浄穢・調伏・摂受は皆な仏の所為なり。譬へば百姓は土に居すれども、土は其の有に非ざるが如く、父、舎を立つるに父去れどす舎存するが如し。如来も亦た爾り、衆生の為の故に仏土を取り、化訖り滅に入りて、仏去れども土は存す。此れ乃ち仏の土にして、衆生に関はらざるなり。復次に三変土田とは、或は是れ同居の穢を変じて同居の浄を見せしめ、或は方便有余の浄を見る、例せば寿量に云ふが如し。「若し深信解ある者は、仏常に耆闍崛山に在して大菩薩声聞衆僧と共なりと見る」と、是れなり。或は実報の浄を見る。例せば、娑婆国土は皆な紺琉璃にして純ら諸の菩薩のみなるを見るが如し、即ち其の義なり。或は寂光等を見るなり。法華三昧の力、見をして不同ならしむる耳。三義あるが故に。諸土は悉く迹の土なりと知ること得るなり。一には今仏の所栖なるが故に、二には前後修立するが故に、三には中間は払はるゝが故なり。若し是れ本土は今仏の所栖に非ず、今仏の所栖は即ち迹の土なり。若し是れ本土は一土一切土なり。応に前後修立し深浅不同なるべからず。今土已前本土已後を皆な中間と名く、中間を悉く方便と称す。況んや今の土寧ろ迹に非ざることを得んや。本より迹を垂れ、迹を執して本と為るは、此れ迹を知らず、亦た本を識らざるなり。今、迹を払つて本を指す、本時所栖の四土は是れ本国土妙なり。迹の本は本に非ず。本の迹は迹に非ず。迹に非ず本に非ざれば、即ち不思議一なり。
[26]四に本感応妙とは、経に云はく、「若し衆生ありて我所に来至するに、我れ仏眼を以て其の信等の諸根の利鈍を観ず」と。「衆生来至」とは感、法身を扣くなり。「我以仏眼観」とは慈悲往きて応ずるなり。「諸根利鈍」とは十法界の冥顕欣厭の不同なり。此れ本時に二十五三昧を証する感応を指す、迹中の感応には非ざるなり。迹の応に多種あり、或は言はく、「一日三時に定に入りて度すべきの機を観ず」と、此は三蔵の仏、分段穢国の九法界の機を照す析空の感応なり。或は言はく、「俗に即して而も真なれば、入出を須ひずして任運に能く知る」と、此は通仏、分段浄国の九法界の機を照す体空の感応なり。或は言はく、「王三昧を用ひて歴別に十法界の機を照す」と、此れ別仏、方便有余土を照す次第の感応なり。或は言はく、「王三昧一時に十法界の機を照す」と、此れ円仏、十法界寂光土の機を照す円の感応なり。三義あるが故に。知んぬ諸の感応は迹にして本に非ざることを。始成の故に、不同の故に、払はるゝが故なり。寂場樹下に始めて偏円満す、故に知んぬ、是れ迹なることを。或は前に修し後に学す、深浅同じからず。故に知んぬ、是れ権なることを。中間より已来た皆な方便なりと払ふ、寧んぞ迹に非ざらん耶。本より迹を出す、豈に迹を執して本と為す可けんや。迹を払つて本を顕はす、宜しく迹を捨てゝ本を指すべし。本の迹、迹の本なれば、不思議一なり云云。復次に或は本の感は麁、迹の感は妙なり。或は本の感は妙、迹の感は麁なり。倶に妙、倶に麁なり。応も亦是の如し。又た本の感は広く、迹の感は狭し。或は迹の感は広く、本の感は狭し。倶に狭、倶に広なり。応も亦是の如し。但だ今昔を取りて本迹を判じ、麁妙広狭に約せざるなり云云。
[27]五に本神通妙とは、経に言はく、「如来秘神通の力」と。又た云はく、「或は己身他身を示し、己事他事を示す」と。「己身己事」を示すとは円の神通なり。「他身他事」を示すとは偏の神通なり。「秘密」とは妙なり。若は偏、若は円、皆是れ妙なり。此れ本時の神通を指す、迹の神通に非ざるなり。迹の通は多種あり。或は言はく、「背・捨・除入・十四変化に依りて六通を獲得す、外道に過ぎ二乗に勝る」と、此れ乃ち三蔵仏の通なり。或は言はく、「体法無漏の慧に依りて六通を獲得し、背捨に依る者に勝る」とは、此れ通仏の神力なり。或は言はく、「前の六通を束ねて五と為し、中道に依りて無漏通を発す」と。此の六は是れ別仏の通なり。或は言はく、「中道無記化化禅に六通一切の変化を具す、滅定を起たずして諸の威儀を現じ、語黙相ひ妨げず、動寂二理無し」と。又た今経の中の六瑞変土等の如きは、皆是れ円仏の通なり。三義を以ての故に諸の神通を推すに迹にして本に非ず。始めて獲、近く修し、疑ひを払ふ等なり。上に説くが如し。又た四句に料簡することも亦た上の如し。然るに本より迹を垂る、迹は則ち本に非ず。迹を払ひて本を顕はす、宜しく迹を棄てゝ本を指すべし。本の迹、迹の本なれば不思議一なり。
[28]六に本説法妙とは、経に云はく、「此等は我が所化なり、大道心を発さしめ、今皆な不退に住す」と。「我所化」とは正しく是れ説法なり、「令発大道心」とは小の説に非ざることを簡ぶなり。此れ本時の簡説を指す、迹の説に非ざるなり。迹の説は多種なり。若し涅槃に依らば、初後の両味は牛より出づと明す。若し義を以て推せば、中間の三味も亦応に牛より出づべし。何となれば、凡犢の凡草を噉はば、但だ能く乳を出す。忍草を噉はざるが故に四味を出さず。良犢は調善にして高ならず湿ならず。酒糟麦麩。五味円満し、具足して牛に在り。但だ飲噉を聴せばしぼるに随つて出づ。若し凡草を噉はばしぼるに即ち乳を出す。下の忍草を噉はば、しぼるに即ち酪を出す。中の忍草を噉はば、しぼるに生蘇を出す。上の忍草を噉はば、しぼるに熟蘇を出す。上上の忍草を噉はば、しぼるに醍醐を出す。若し牛より五味を出すは漸法を譬ふるなり。牛より醍醐を出すは頓法を譬ふるなり。牛より三味を出すは不定法を譬ふるなり。仏も亦是の如し、偏円満足して仏心の中に在り、機の扣撃を聴さば説則ち同じからず。善趣の機撃てば人天の法輪を出し、析法の機撃ては二乗の法輪を出し、体法の機撃てば巧度の法輪を出し、歴別の機撃てば漸次の法輪を出し、円頓の機撃ては無作の法輪を出す。又た両機撃てば第四第五味を出し、又た一機撃ては第二味を出し、又た四機撃てば四味を出して第一味を除き、又た三機撃てば三味を出して第一第二味を除き、又た一機撃てば第五味を出して四味を除く。復次に三蔵の道場にして得る所の法は、乳の牛に在るが如し、道場を起つて即ち乳の法輪を説く。通仏の道場にして得る所の法は、酪の牛に在るが如し、道場を起つて即ち酪の法輪を説く。別仏の道場にして得る所の法は、五味の倶に牛に在るが如し、道場より起つて次第の五味の法輪を説く。円仏の道場にして得る所の法は、醍醐の牛に在るが如し、道場より起つて即ち醍醐の法輪を説く。問ふ、大経に云はく、「乳糜を食ひて更に所須無きが如し」と、応に是れ乳の法輪なるべしや。答ふ、乳に多種あり。麁牛の乳を出すは乳則ち害を為す。善犢の乳は是れ乳最も良し。問ふ、乳既に多種ならば醍醐も一ならざるや。答ふ、経に羅漢支仏を以て醍醐と為す。故に知んぬ、優劣あることを。此の中大いに義あり、宜しく之を熟思すべし。三義に例りて往きて推すに、上の諸の説法は迹にして本に非ず。始めて満じ、始めて説き。中間にして払はる。中間に満じ、中間に説くは尚皆な方便なり。況んや今満じ、今説くは寧んぞ迹に非ざらん耶。迹を執するときは則ち倶に失し、迹を払ふときは倶に解す。迹に非ず、本に非ず、不思議一なり。復次に已説を迹と為し、今説を本と為す。已は本、今は迹、倶に迹、倶に本なり云云。或は実本権迹の四句あり云云。体用乃至事理の四句あり云云。