[1]次に内邪の得失を明すとは、三蔵の四門は本入理の為にして而して執して戯論を成じ見を発し禅を獲、兼ねて経籍を通ず。若し此門を以て、自ら執するは、ただ応に善を生ずべし、既に見と相応すれば還つて三行を起す。其善を行ずる者は専ら諸有の為にして而して果報を造る。有門に取著して而して愛恚を生じ、勝つ者は慢坑に堕し、負くる者は憂獄に堕す、煩悩を生ずる処、有門還つて閉じて解脱を得ず。悪行を行ずる者、有を執して是と為し、余の者は皆非す。此有門の為に悪として作さざること無く、邪鬼心に入りて唯衆非を長ず。九十六道、三は仏法に順ず、故に阿毘曇道、修多羅道有り。但五百の羅漢は此有門に於て出づることを得、豈、応に是れ邪なるべけんや。今の人、僻取すれば、鬼則ち心に入る、故に阿毘曇鬼と称す、或は見従り入り、或は禅より入る、自行に一有り、化人に亦四あり。一門既に爾り、三門も亦然なり。若は通、別、円等にも各四門有りて見を生ず、一見に亦三行を具す。善を行ずる者は知んぬ可し。悪を行ずる者は、「大乗の中の貪欲即ち是れ道、三毒の中に一切の仏法を具す」と執す。此の如きは実語なり、本煩悩を滅す、而して僻んで取著すれば還つて結業を生ず、称毀憂愛し、欺慢嘊喍して名利を競ふ。自行には則ち一、化他には四有り。既に無漏に非ざれば、無明、業を潤す。業力、生を牽く、何の至らざる所あらん。細説すること能はず、前に準じて知んぬ可し。

 [2]是の如き等の見は聖道に違し、又能く種種の罪過を生長す。其識らざる者は執して、是れ道なりと謂ふ、設ひ是れ見なりと知るも見に随つて而して行じ、以て自ら埋没す、豈、能く見に於て動じ、不動にして而も道品を修せんや。略して、見発して諸の過失を生ずることを言ふなり。

 [3]二に真偽を並決することを明すとは、一には所起の法に就いて並決し、二には所依の法に就いて並決す。

 [4]今通じて外の外道の四句従り、乃至円の四門外道の見、通、韋陀、乃至円門の三念処、三解脱まで、名数是れ同じ、所起の見罪、繋縛異なること無し、譬へば金鉄の二鎖の如し。又、外道の四句従り、乃至円門の四見、名は清美なりと雖も起す所の煩悩は体是の汚穢なり、譬へば玉鼠の二璞の如し。又外道の四句従り、乃至円門の四見、同じに研錬すと雖も、成、不成有り、譬へば牛驢の二乳の如し。又外道の四見従り、乃至円門の四見に害、不害有り、譬へば迦羅、鎮頭の二果の如し。計する所の神我は乃ち是れ縛法なり、自在の我に非ず。各己見を執して余を妄語と為し、互に相是非す、何ぞ如実に関らんや。自ら真道と謂ひて、翻つて有の路を開く、涅槃を得ることを望んで方に生死に沈む。自ら諦当すと言ふも終に邪僻を成じ、愛処に愛を生じ瞋処に瞋を生ず。慈悲を起すと雖も、愛見の悲のみ、塗割を安ずと雖も乃ち生滅の強忍なり。一切智なりと雖も世情の推度なり、神通、根本、変化を得と雖も有漏の変化なり。読む所の韋陀は世智の説く所なり、陀羅尼の力に非ず、法界の流に非ず。鈍使を断ずと雖も歩屈虫の如し、世医の冶する所は差え已へて更に発す、八十八使の集海浩然たり、三界の生死、苦輪際無く、有漏に沈著して永く出づるの期無し、皆是れ諸見幻偽なり、豈、真実の道と為す可けん。

 [5]二に所依の法の異なるに約すとは、一切の諸見、各其法に依る。三の外の外道は是れ有漏の人、有漏の法を発し、有漏の心を以て著法に著す。著法、著心の体は是れ諍競なり、但因の時頭の捉り髪を抜くのみに非ず、諸見を発し已つて是れ涅槃なりと謂ふ。執成じ見猛くして毒増し闘ひ盛なり、所依の法は真に非ず、所発の見も亦是れ偽なり。此れ邪法なりと雖も若し密に意を得れば、邪の相を以て正相に入る。華飛び葉動くが如き、少因縁を藉りて尚支仏を証す、何に況んや世間の旧法をや。然るに、支仏は正なりと雖も華葉は終に正教に非ず、外の外道密に悟れども、而も其法門は但諸見に通じ、正法に非ざるなり。皆著心が著法に著するに由つて因果倶に闘ふ、断奠するに是れ邪法、邪見を生ずるなり。

 [6]若し三蔵の四門は、是れ出世の聖人、出世の法を得、体是れ清浄にして煩悩を滅するの処なり。唯仏経のみが是れ正法なるに非ず、五百の申ぶる所も亦能く道を得。「妙勝定」に云はく、「仏、世を去つて後一百年、十万の人出家して九万人道を得、二百年の時、十万の人出家して一万人道を得」と。当に知るべし。無著の心を以て無著の法に著せず、発心真正にして無常を覚悟し、念念生滅して朝は夕を保たず、出要を志求し、門を封じて染を生じ而して戯論を起さず。譬へば、人有りて速に王を見んことを欲するが如し、賜を受け職に拝せられて、四門従り入るも、何の暇あってか盤停して好醜を諍計せん。門は此れ通途と知って、須く諍計すべからず、薬は病を治せんが為、応に分別すべからざるが如し。速に火宅を出で、諸の苦際を尽す、真明発する時は究竟の道を証して、畢竟して諍ひ無し。諍ひ無ければ則ち業無し、業無ければ則ち生死無く、但道滅のみ有りて心地坦然たり、因果倶に無くして闘諍倶に滅す、唯正見のみ有りて邪見無し。復次に四門は、是れ正法なりと雖も若し著心を以て此四門に著すれば則ち邪見を生ず。四門の異なるを見て修因の時に於て多く闘諍を起す。譬へば人有りて久しく城門に住し、瓦木を分別し、精麤を評薄し、南は是北は非、東は巧西は拙と謂ふ。自ら稽留を作つて肯へて前進せざるは門の過に非ざるが如きなり。著する者も亦爾なり、名相を分別して広く煩悩を知り、多く道品を誦す。名を要として衆を聚め、媒衒して達を求む。自大の鼓を打ち、我慢の幢を豎て、他に誇耀し、互に闘諍を生じ、頭を捉り髪を抜く、八十八使の瞋愛浩然たり。皆著心に由つて、正法門に於て而も邪見を生ず。起す所の煩悩は外の外道と更に異なり有ること無し、計する所の法を論ずれば天懸地殊なり。「方等」に云はく、「種種に橋を問ふは智者の呵する所なり」と。人亦是の如し、学道の為の故に此四門を修す、三十余年、一門を分別して尚ほ未だ明了ならず、功夫纔に著すれば年已に老ゆ矣、三種の味無く、空しく生じ空しく死し、唐しく一期を棄つ。彼橋を問ふが如く、何の利益を有らん。此れ著心が無著の法に著して而して邪見を起すに由るなり。次に通教の四門は、体は是れ正法にして近く化城に通ず。前に曲にして此は直なり、巧拙殊なりと雖も、通ずる処は別無し。天門は直華、余門は曲陋なるが如し。二門に住せざれば倶に通進することを得、若し瓦木を数ふれば二倶に遅壅す。若し法門に稽滞せざれば、若は因若は果、倶に諍著無し、是を無著心と名く。無著の法に著せざれば邪見を生ぜざるなり。復次に、若し著心を以て此直門に著すれば亦邪見を生ず、或は名の為、衆の為、勝の為、利の為に、門の相を分別するは、瞋愛慢結、此に因りて生ずることを得。譬へば、毒を以て良薬の中に内るが如し、安んぞ死せざることを得んや。見著の毒を以て正法の中に入るれば苦集を増長す、如来の咎には非ざるなり。利根の外道は、邪相を以て正相に入り、著をして著無からしめ、仏弟子と成る。鈍根の内道は、正相を以て邪に入り、無著をして著有らしめ、邪弟子と為る、豈、悲しまざる哉。別円の四門は、巧拙利鈍倶に究竟の涅槃に通ず、因、住著せざれば果に闘諍無し。若し門に封して見を起せば則ち煩悩を生ず、漚楼佉と等し。此を以て而して観ずるに、明眼の人の涇渭に臨むが如し、豈名に迷うて而も清濁を識らざるを容さんや。

 [7]略して見発を明すときは則ち五番有り、一番に四有れば則ち二十門有り、一門に七有りて合して一百四十の見法の不同あり、広く論ずれば無量なり、皆因縁に藉つて而して開発することを得るなり。良に通じて止を修するが故に諸禅発することを得、通じて観を修するが故に諸見発することを得るを以て、通修の縁は乃ち止観に由れども、而も根本の別因は必ず前世に由る。或は外の外道の中に在りて学し、或は仏弟子と為つて大小乗の中に学す。或は法相を聞くに因つて曾て諸見を発し、或は坐禅に因つて此諸見を発す。隔生廃忘して解、現前せず、今、静心を修し、或は経論を聞き、其宿業を熏じ、見法還つて生ず。先世に熟する者は今則ち発し易し、先世に生渋なれば今則ち発し難し、生を隔つること遠きは則ち難く、近きは則ち易し。若し外の外見熟すること近きは則ち前に発し、内の見熟すること近きは則ち先に現ず。神通、韋陀は既に是れ事相なり、生を隔つれば忘れ易く発し難し、見は是れ慧性なり、忘れ難く発し易し。人の久しく別るれば、名を憶するも面を忘るが如し、事理難易、亦復是の如し。若し前世に、外に鬼縁有らば鬼則ち之に加して鬼禅鬼見を発す、外は聖縁有らば聖人之に加して正禅見を発するなり。

 [8]復次に、若し先に未だ諸見の過患を識らざれば、見に於て怖を生じ、怱怱として急に断ず、今其邪相を識らば、慎んで卒に断ずること莫れ、但其成就を恣にして助道の力と作さば必ず巨益有らん。腹に虫有らば当に寸白は養ひて後に幹珠を瀉すべきが如し。然る所以は、世間の癡人、頑として牛馬に同じ、徒に法音を雷震し、錦繍を溢敷し、其聞見に於て益無し、五欲に耽著すること、蠱を患ふる者の如し、若し諸見を発すれば見は鈍使を噉ふ、之を寸白に喩ふ。見慧と正観とは相隣る、法を聞きて悟り易し、彼珠湯の如し。是義の為の故に須らく見を養ひて心を研き、前駆して開導すべし。

 [9]若し、二乗に入らば則ち見を動じて道品を修す、若し大乗に入らば見を動ぜずして道品を修す、寇に対し賊を破つて然して後に勳成る。是を外見を養ひて以て侍者と為すと為すなり。若し、三蔵の拙の四門の見、通の巧の四門の見を発せば、見は是れ障なりと雖も道を助くること亦深し、若し福徳の法は、天に升ること甚だ易く、道を取ることは則ち難し。見は是れ慧性、沈淪すること亦易く、道を悟ること甚だ疾し。「大論」に云はく、「三悪も亦得道の人有れども少きが故に説かず、白人に黒黶あるも黒人と名けざるのみ」と。既に是れ見なりと知れば、惑は起ることを得ず、其分別を恣にす。諸の外道の如き、先より見心有れども仏化を被る時は快馬の鞭影を見るが如く、即便ち悟ることを得。若し見無き者は万斧すれども断ぜず、牛馬の為に説法するに相領解せざるか如し。㺐獠全く未だ語を解せず、若為ぞ玄を論ぜん故に仏は其人に於て則世に出でず、形を分ち質を散じ、師と為り友と為りて其見法を導く、仏日初めて出づれば権者は実を引き、法を聞きて即ち悟る。「法華」に云ふ、「密かに二人を遣はす」とは、法に約すれば方便の二教を論じ、人に約すれば是れ権にして二乗に同ず。衆聖屈曲して尚ほ其見を教ふ、今見発することを得、豈、遽に除く可けんや。若し先世に別円の八門を修すれども、未だ通惑を断ぜずして此見若し発すれば、過三外に同じ。若し先世に已に通惑を破すれども、未だ別理を悟らざれば、或は二乗に同じ、前見尚ほ養ふ、況んや此見をや。「浄名」は二乗の過の辺を取つて撥して外道に属す、又助の辺を取って之を使って侍と為す、進退に之を解す、一向なること勿れ。

 [10]今生に道を修して見心発せば真理も期すべし、見若し未だ発せざれ聖境会し難からん。

 [11]第四に見に約して止観を修するとは、上に通じて得見の不同を論ずるが如き、則ち一百四十種あり、若し別して内邪に就かば則ち一百一十二種有り。若し宗を作して義を明さば凡そ幾くの宗か有る、「十地」、「中」、「摂」、「数論」等見相を分別す同と為んや異と為んや、邪正の途轍、優降幾何ぞ、若し此意を解せば相関らざることを知らん、其れ解せざる者は知ること復奈何ん。 夫れ仏法に両説あり、一には摂、二には折。安楽行の長短を称せざるか如きは是れ摂の義なり。「大経」の刀杖を執持し、乃至首を斬るは是れ折の義なり。与奪途を殊にすと雖も倶に利益せしむ。若し諸見流転せば、須く断じて尽さしむべし、若し神明を助練し、心を回らして正に入らば、皆摂受すべし。多種の人に約して上の諸見を説く、一人に之を併せ発する者有ること無し、設ひ、皆発するも会し、相呑噉す、唯一事のみ実なり。一一の見に約して、各法門を作す、巧みに言方を示さば九十日を経ん。一一の見を束ねて一の観門を同うし、一切の法を具す、亦尽す可からず、多一自在、今且らく一見に約す、衆多も亦然なり。諸見の中、空能く一切を壊す、一切は空を壊すること能はず、人を引くこと甚だ利なり、今当に先に空見を観ずべし、例して十意と為す。

 [12]思議境とは、空見は十法界の法を出生す、胡瓜は熱に非ずして能く病の因と為り、空は十界に非ずして能く因縁と作る。

 [13]「成論」に云はく、「刹那の辺見心起るは即ち是れ不善なり」と。「毘曇」に明す、「刹那の辺見心起るは善悪に当らず、名けて無記と為す、因等起の心、一切の善悪之に因つて而して起る」と。

 [14]今、此空見に亦二義有り、若し別して観ぜば因等起の如し、十法界は之に因つて而して生ず。所以は何ん、昔、未だ空見あらず、未だ曾て行を為さず、今空見を発するに即ち三行有り、前に説けるが如し。

 [15]空に由って悪を造る者は、無礙の法を行ず、上は経仏敬田の尊む可きことを見ず、下は親恩の徳を見ず、裸畜の法を習ひ、世間、出世等の善を断滅す。闡提は悪なりと雖も尚ほ憐愛の善を存す、空見は永く無し、純ら三品の悪、逆害傷毀するは即ち地獄界なり。無慚無愧なるは即ち畜生界なり。慳貪にして斎を破し、不浄にして自ら活くるは即ち餓鬼界なり。斎を破するが故に常に飢え、不浄の故に穢を噉ふ。空に因つて善を行ずる者は持戒苦行して十善を荘厳し、三業淳熟するは即ち三善道界なり。又根本を発するは即ち色界なり。

 [16]又空に因つて声聞を生ずるとは、若し空と謂はば其れ実に空中の四諦を識らず。所以は何ん。若し法性を証すれば是れ空是れ浄なり。虚妄の空見は必ず果報に依る、果報は是れ汚穢の色なり、「大品」に云はく、「色の若は常、無常等、皆色に依ると。空を受納するは是なり、余は則ち非なり。空の像貌は有為に異なるを取る、空を縁じて三行を起し、空心の余法に勝るることを分別す、是を五陰と名く。」空塵の意に対するは即ち是れ二入なり、更に意識を加ふるは即ち是れ三界なり、界、入、陰等は即ち是れ苦諦なり。空見は是れ瞋処、愛処、慢処なり。有の見弱き者は則ち有法を摣破し、理を掣きて空に就き、疑起ることを得ず。若し摣めども破せず、掣けども来らざれば則ち嘊喍して疑を生ず。又今疑無しと雖も後に当に大いに疑ふべし。何を以ての故ぞ。若し空是れ理ならば、応に聖と等しかるべし、既に等しからざれば安んぞ疑はざることを得ん。是れ誰か空を計する、空を計する者は我なり、我は実に空に非ず、空亦我に非ず、空に因つて我を生じ、我れ行じ、我れ解し、我を讃め、我れを毀ると謂ふ。此空辺に著して捨離す可からず、空道に因ると謂うて涅槃に通ぜんことを望まば、則ち空を以て戒と為し、鶏狗等に非ず、因に非ざるを因と計す、是れ因盜の戒取なり、空を計して空と為すは、実に理空に非ず。果に非ざるを果と計す、是れ果盜の見取なり。空見偏僻なる、即ち是れ邪見なり。是の如きの十使は空従りして而して生ず。欲の苦の下に十を具す、集の下に七有り、身辺戒取を除く、道の下に八有り、身辺を除く、滅の下に七有り、身辺戒取を除く、合して三十二、色無色各四瞋を除く、各二十八、合して八十八使あり、是を集諦と名く。集は苦に迷うて起る、古は集に由つて生ず、苦集の流転、長爪は識らず。復一の鬼有り、頭上に火然ゆ、非想より已来尚ほ自ら未だ免れず、何ぞ空に於て苦集を識らざることを得ん。若し空見の苦集を識れば、苦集皆色に依る、一切の色法を身と名く、身色は汚穢なり、汚穢は是れ不浄、智者の悪む所なり、浄倒を破するを身念処と名く。若し空見を受くるは是れ不受を受け、第二の句を受く。空に順ずるは即ち楽受なり、空に違するは即ち苦受なり、違せず順ぜざるは即ち不苦不楽受なり、三受は即ち三苦、苦を計して楽と為す、是を顛倒と名く。若し楽無きことを知らば楽顛倒を破す、受念処と名くるなり。空塵心に対して而も意識を生ず、此心生滅して、新新に流動す、縁有らば思生ず、縁無くば思生ぜず、生滅無常にして而も是れ常なりと謂ふは即ち是れ顛倒なり。識の無常なるを識り即ち常倒を破するを心念処と名く。空の像貌を取つて而も善悪を行じ、行の中に我を計す。行若し是れ我ならば行に好悪有り、行に興廃有り、我も亦応に爾るべし。諸行は無量なり、我若し遍ぜば我則ち無量ならん、若し遍ぜずんば則ち一行に我無く、衆行にも亦我無けん。強いて我有りと計す、即ち是れ顛倒なり、若し無我を知らば則ち想行を破するを法念処と名く。但諸陰通じて四倒を計すれども、想行に於て我を計すること強く、色に於て浄を計すること強く、心に於て常を計すること強く、受に於て楽を計すること強きを別念処と名く。若し総念処は則ち爾らず。是を空見は念処観を生ずと為す。倒を破するの観を勤むるは即ち是れ正勤なり、定心の中に修するを如意足と名く、五善根の生ずるを名けて根と為す。五惑を破するを名けて力と為し、安隠道に用ふるを七覚と名け、安隠道の中に行ずるを八正道と名く、是を空見能く道諦を生ずと為す。四倒除くが故に是れ癡滅す、癈滅するが故に愛滅す、愛滅するが故に瞋滅す、瞋滅するが故に空は道に非ずと知り、慙愧して頭を低るるは則ち是れ慢滅するなり。復執する所無くんば則ち疑滅するなり。空見既に苦集を具す、苦集は畢竟空に非ず、空を執する心破す、空心破するが故に我を求むるに得叵し、我得叵きが故に則ち身見破す、身見破するが故に則ち我見破す、我見破するが故に辺見破す、空見は道に非ざれば戒取破す、空は涅槃に非ざれば見取破す、空は理に当らざれば邪見破す。十使破するが故に八十八使破す、八十八使破するが故に子縛破す、子縛破するが故に能く初果を発し進んで無学を成ず。果縛破して無余涅槃に入る、是を空見が滅諦を生ずと為す、即ち声聞法界なり。若し空見に於て明かに四諦を識らば則ち尽苦の真道を知る、真道伏断して賢聖を成ずることを得、乃至一百四十種の見、単複具足無言等の見、皆真道を識る、諸見の中に於て能く動じ能く出づ。若し爾らざる者は、四真諦を見ず、是故に久しく生死の大菩海に流転す。若し能く四諦を見れば則ち生死を断ずることを得、生有既に尽き已つて更に諸有を受けずと、即ち此意なり。

 [17]次に空見が支仏を生ずることを明さば、空見は空に非ず、妄りに是れ空と謂ふは顛倒の分別なり、倒は即ち是れ無明、無明の故に空見に取著す、若し無明を知らば何の取著する所かあらん。若し無明を知らば取有を起さず、故きを畢へて新きを造らず、新きを造らざれば取有を起さず、故きを畢るは是れ無明を起さず、若し無明くんば則ち智明を成ず。故に智慧有る時は則ち煩悩無し、煩悩無き時は則ち無明滅す、無明滅すれば則ち諸行滅し、乃至老死滅す。「中論」に云はく、「何をか声聞が十二因縁の義を観ずると云ふ」と。乃ち常、無常等の六十二見を説けるも、問答殆ど相応せず。今は秖是れ常、無常等の見は皆是れ無明なりと答ふ。無明を知りて取有を起きず、即ち是れ声聞法の中の十二因縁の観なり。「法華」に云はく「独の善寂を楽ひて自然の慧を求む」と。此慧は善く六十二見を寂するなり。又刹那の空見を観ずるに既に四諦を具す、此空見の心を有と為んや無と為んや。刹那の心起るに便ち五陰を具す、云何ぞ無と言はん、此れ即ち有支なり。有は即ち果を含む、亦是れ因中有果の義なり。若し無果を作す者は、有支有因なり、因の義具足す、有何従り生ぜん。若し取無んば有則ち生ぜず。取は即ち五見なり、空を執するは是れ辺、空に於て我を計し、空を謂うて道と為し、涅槃と為し、正と為す、是を取支と為す。取は愛従り生ず、愛すれば喜び違すれば瞋る、彼に慢り此を疑ふ、此を愛支と名く。愛は受に因つて生ず、受の故に愛起る、一法を受けて愛味して追求するが如し。受は触に因ると知る、意根有るを以て空塵触るることを得るなり。経に云はく、「触の因縁の故に諸受を生ず」と。触は入に由る、塵、諸根に触す、故に入を得。入は名色歌羅邏の三事に由る。色に五胞有り、命能く連持す。識に四陰の名有り、又三事の名色は初託胎の識に由る。識は往業に由り、業は無明に由る。無明は是れ過去の顛倒、有と謂ひ無と謂ふ一切の諸見なり、故に能く今世の色軀を成辨す。経に云はく「識種、業田、愛水、無明覆蔽して名色の芽を生ず」と。今復顛倒して空見に迷うて善悪の行を起し、未来名色の芽を種え、顛倒又顛倒、無明又無明、更に相因縁して窮り已ること有ること無し。若し無明顛倒なりと知らば、須らく若は有若は無を推画すべからず、其体性を達するに本自ら実ならず、妄想の因縁和合するが故に有り、既に顛倒なりと知らば、無明即ち寝なる、寝なるが故に諸行老死皆寝む。空見の無明老死寝む者は、一百四十の諸見の無明老死皆寝む、寝むが故に是れ二十五有を破して習気を侵除す、是を空見が支仏法界を生ずと名く。若し空見に於て是れ無明なりと識らば、無明滅す可し。若し識らざる者は尚ほ空見を出ず、見の為に業を造る、蚕の繭を作るが如し、何ぞ支仏を成ずることを得んや。鼻隔の禅師は空見を発得して多く網の中に堕して自ら抜くこと能はず。散心の法師は諸使を分別すと雖も亦自ら空見の過患を知らず。闇証の凡亀、盲狗の穭吠、自行化他全く道気無し。

 [18]空見が六度菩薩の法を生ずるとは、既に空見の諦縁を識らば即ち是れ病を知り薬を識る。薬を識るが故に自ら欣び、病を知るが故に彼を愍み、衆生と共に苦を離れ楽を求めんと欲す。空見の陰界は是れ苦、十使等は是れ集、念処等は是れ道、四倒の破するは是れ滅なり、此に約して誓を起す。一の空見の如き、一日一夜に凡そ幾許の百千億の陰をか生ずる、一一の五陰、即ち是れ衆生なり、日夜既に爾り、何にいわんや一世をや、何にいわんや無量世をや。空見既に爾なり、余見も亦然り。能生の見既に多し、所生の陰則ち数ふ可からず、一人尚ほ爾り、何に況や多人をや、是を衆生無辺誓願度と為す。一の空見の念念に八十八使あるが如く、余の三見六十二等にも亦八十八使あり、一人尚ほ爾り、何に況や多人をや、是を煩悩無量誓願断と名く。一の空見に念処道品を修するが如く、余の一切の見、正助の道、無量無辺なり、一人尚ほ爾り、多人も亦然り、是を法門無尽誓願知と為す、一の空見は煩悩滅するが如く、無量の見無量の煩悩を亦滅す、一人既に爾り、諸人も亦然なり、是を無上仏道誓願成と名く。若し衆生苦集是れ性実ならば則ち度す可からず。苦集は因縁より生じ、自性有ること無きを以ての故に、苦海乾かす可く、集源竭し易し。故に度と言ふのみ。空を観じ願を起すは上に説くが如し。空に約して行を起すとは、若し空見を執して而して布施を行ずるは、乃ち是れ魔の施なり、空見の諦縁無常無我等の過を知らば則ち空見を捨つ、亦他を愍みて勧めて空見を捨てて而して布施を行ぜしむ。若し空見を執して而して戒を持する者は、鷄狗等の戒を持すると何ぞ異らん。空見の無常等の過を知らば、空見の為に傷られず、他を慈愍して空見を防がしむ。若し空見を執して瞋処愛処と為し、強て忍を行ずる者は、是れ力足らずして他を畏るるが故に忍するなり。今空見の無量の過患を知らば、能く空見及び六十二を伏す、亦他を勧めて空見に安忍せしむ。若し空見を除かずして而して精進する者は、見を雑ふれば精に非ず、退して三途に入る、進に非ざるなり。今空見を知つて空見の起らざるを精と為す、空見の業破れて而して升出することを得を進と名く、亦他を勧めて此精進を修せしむ。若し空見を破せずして禅を得る者は多くは是れ鬼法なり。今空の過を知つて空見の為に動ぜられず、正禅正通を成じて諂媚憍利を為さず、此神通を以て衆生を勧化して、見の散を捨てて禅に入らしむ。若し空見を執して而して智慧を修するは愚癡の世智なり。今空見の諦縁を識り、無常の狼を以て空見の羊を怖れ、煩悩の脂を銷す、広く願行を起して功徳の身肥え、衆生を悲愍して脂を除き肉を長ぜしむ。若し有縁の機熟すれば即ち道場に坐して断結作仏す、是を、空見が六度法界を生ずと名く。空見は即ち是れ無明、無明は即ち空なり、無明従り一切の苦集を生ず、皆不可得なりと観ず。何とならば四倒は是れ横計、寧ろ性実有らんや、所治の倒は有に非ず、能治の念処、何んぞ得べけん、乃至覚道も皆悉く不生なり、故に不可得なり、故に「大品」に云はく、「苦空等を習応す」と云云。二乗に即空を知つて苦を断じ滅に入る。菩薩は即空の慈悲願行、誓つて衆生を度す、衆生を度すと雖も虚空を度するが如し、煩悩を滅すと雖も空と共に闘ふが如し、法門を生ずと雖も虚空の生ずるが如し、衆生を滅すと雖も実に衆生の滅度を得る者無し。是智、是断、是れ菩薩の無生法忍なり、是を空見が通教の菩薩法界を生ずと名くるなり。此空見を観ずるに無量の相有り、所謂四諦分別校計するに窮尽す可からず。此無尽は空見従り生ず、空見は無明従り生ず、所生無量にして能生も亦無量なり、能生は既に仮名なれば所生も亦是れ仮名なり。此無明を推すに法性従り生ず、譬へば夢を尋ねて眠に由ると知るが如し。此空見を観じて而して実相を識る、実相は即ち如来蔵なり、無量の客塵が此蔵理を覆ふ、恆沙の法門を修して清浄の性を顕す、是を空見が別教の法を生ずと名くるなり。空見が円教の法を生ずること、前の如く後の如し。

 [19]復次に見惑浩浩として四十里の水の如く、思惑の残勢は一渧の水の如し、前の諸の方便は共に見惑を治す、惑の尽くるを名けて入流と為す、任運にして退せず、見惑は除き難し、巧に方便を須ひよ。「成論」に云はく、「空を以て惑を治す」と。若し空をもつて治するに入ることを得れば余法を俟たず、若し入らずんば更に何の治をか設けん。水の中より生ずる火を、水は滅すること能はざるが如し。空見過を起すに、空何ぞ能く治せんや。今は空見苦集の病を知つて然して後に諦智を用ひ之を治す。三蔵無常の智、通家即空の智、皆前に見を除く、別も亦前に見を除きて空に入り、次は善巧に出仮すること空中に樹を種えるが如し、円は作意して見を除かずと雖も見自ら前に除く。堅牢の見を除くに種種の方をもつて治す、云何ぞ直に「但空を以て治す」と言はんや。云何ぞ諸治共に一見を治する。冷を患へて四種の薬を用ふるが如し、薑桂を服する者は病を去け力を複す、五石を服する者は病去つて色を益す、重婁を服する者は寿を加へ能く飛ぶ、金丹を服する者は大仙人と成る、病は同じく一種、薬法異と為す、力を得ることも亦異り。四教は見を治するに、見尽きて解異り。見を治すること既に爾り、余を治することも亦然なり。此四の治は即ち是れ四念処なり、「遺教」に「四念処に依つて道を修し、火宅を出ることを得しむ」と。所以は何ん。一の空見の心即ち三界なり、三界に別法無く、唯是れ一心の作のみ、空見は六道の業を生じ六道の身を受け、六道の処に居す、処は即ち火宅、身居は即ち苦具、業は即ち鬼神なり、競うて共に推排し、三車自ら運して乃ち出ることを得るのみ。三車は即ち是れ三蔵の中の三乗の念処なり、亦是れ通の中の三人共に一念処なり、又是れ別の方便の中の三種の念処なり、真実の一種の念処なり、又円の一実の念処なり。略しては九種の四念処を説き、中にしては九種の道品を説き、広にしては九種の四諦を説く。是諸の念処は皆能く見を治して火宅を出ることを得、遺嘱の意、義は此に在り。但釈迦初めて出で、先に三人に示すに各四念処を用ふ、此れ「法華」の羊、鹿、牛車各火宅を出るが如し。次に三人同じく一念処の修することを説く、此れ「大品」の「是乗三界従り出で、薩婆若の中に到つて住する」が如し。亦「大集」の「三乗の人同じく無言説の道を以て煩悩を断ずる」が如し。次に菩薩の次第念処を修することを説く、此れ「大品」不共般若の諸の念処乗、別にして而して未だ合せざるか如し。後一切小大、同一の念処を説く、此れ「法華」の「同じく大車に乗じて直に道場に至る」が如し。此空見に約して諸惑を明し、諸治を明す、諸の経論と相違背せず、「一微塵の中に大千の経巻有り」とは即ち此意なり。

 [20]次に不思議境を明さば、一念の空見に十法界を具す。即ち是れ法性なり、法性は更に遠き物に非ず、即ち是れ空見の心なり。「浄名」に云はく、「諸仏の解脱は当に衆生の心行の中に於て求むべし」と、当に六十二見の中に於て求むべし、三法異らず、故に宛転して相指す。一切衆生は即ち是れ菩提、復得べからず、即ち円浄解脱なり。五陰即ち是れ涅槃、復滅すべからず、即ち方便浄解脱なり。衆生の如は即ち仏の如、是れ性浄解脱なり。仏の解脱とは、即ち是れ色解脱等の五種の涅槃なり、空見の心は即ち是れ汚穢の五陰なり、五陰即ち衆生有り、衆生即ち五陰有り、名色衆生更互に相縛して相離るることを得ず、此五陰を観ずるに即ち是れ涅槃、復滅すべからず、本より繋縛無し、即ち是れ解脱なり、本有の解脱に一切の法を摂す、故に言ふ、「解脱は心に即して而して求む」と。又見心の五陰を観ずるに即ち是れ法性なり、便ち復見心の五陰無し、是色を滅するに因つて常色等の法性の五陰を獲得す、衆生を滅するに因つて常住法性の衆生を獲得す。能く一色は一切色なり、一識は一切識なり、一衆生は一切衆生なり、相妨礙せず、明鏡の浄くして衆の色像を現ずるが如し、是を性浄と名く、三種の解脱は相離るることを得ず、不縦不横、不可思議、円満具足、空見の中に求む、是を不可思議境と名く。

 [21]此境は無明法性宛然として具足す、己が昏沈にして今始めて覚知することを傷む、一切衆生も亦復是の如し、既に是れ法性、那ぞ慈を起さざらん、既に是れ無明、那ぞ悲を起さざらん。

 [22]此空見を観ずるに本性空寂、浄きこと虚空の若し、善巧に安心して此二法を研く。

 [23]見陰見仮四句生ぜず。

 [24]単複の諸句、句句に苦集無明蔽の塞あり、句句に道滅等の通あり。

 [25]空見を観ずるに一陰一切陰、三諦、動ぜざれば則ち法身を了す。不動の陰、非浄非不浄等を観じて雙樹にして涅槃す、亦是れ道場なり、是観を般若と名く。八倒破するを解脱と名く。一の念処に於て一切の念処を起して衆生を調伏す。是の如きの三法は因に非ず果に非ず、因に非ずして而も因なれば念処は是れ道場なり、果に非ずして而も果なれば雙樹の中間にして而も涅槃に入る、空見動ぜずして而も不思議の三十七品を修す。是の如く遍く破して空見を得ざるを空二昧と名く、空相を見ざるを無相三昧と名く、是の如きの三昧は真縁従り生ぜざるを無作三昧と名く。

 [26]若し入らずんば大誓願を発して、内には執見を捨て、外には命財を捨てよ、空見、理に乖くは戒清浄ならず、誓つて空見をして法身を犯さざらしめよ。七支を守護して含識を撓さざれ。若し空見喧動すれば中忍成ぜす、今誓つて苦到にして空見に安心す、橋地海の如く、総じて我身に集め、心終に動ぜず。若し空見間雑せば誓つて純一に専精して念念に流入せよ。又空見擾動して一に安ずること能はずんば、至誠に懺悔して二の攀縁を息めよ。一切種智の開せざる者は、無明未だ破せざればなり、誓つて空見を観じ、法性現前せしめよ。剛決進勇して証せずんば休まざれ。是の如きの対治は涅槃を助開す。

 [27]深く位次を識つて上地に濫せざれ。

 [28]内外の風塵も破壊すること能はず。

 [29]順道法愛生ぜず、故に頂堕無く、心心寂滅して薩婆若海に流入す。

 [30]一の大車に乗じ、四方は遊び、直に道場に至つて 等正覚を成ず。余は上に説くが如し云云。