[188]余失心者より下は、上の非滅現滅を譬ふ、上に二有り、一に久しからずして応に死すべしは、上の非滅現滅を譬ふ、二に諸子の醒悟するは、上の唱滅の利益を譬ふ。

 [189]又唱死の由は、子の服せざるに由るは上の薄徳、仏の常に在すを見たてまつりて、但だ憍恣を増すのみなるを譬ふ。上の現滅の中二有り、一には本とより実に滅せず、二に非滅唱滅なり、現滅の由を出さず、由は亦是れ唱滅の利益の中にあり、今の譬は第一を譬へず、而して現滅の由を明す、正しく衆生薄徳にして、仏を見たてまつりて修行せざるに由る、即ち是れ肯て薬を服せざるなり。

 [190]我今当設の下は、正しく応に死すべきことを唱ふるは非滅唱滅を譬ふ、此中に衰老を明すに二と為す、一に去住を擬宜するは、上の住すれば損有り、滅すれば益有ることを譬ふ。二に即作是言の下は、応に死すべきことを唱ふるは、正しく現滅を譬ふ、化期将に竟らんとするなり。死時已至とは、当に涅槃に入るべきなり、経教を留めて在く、故に是好良薬今留在此と云ふ。復至他国とは、即ち是れ此方に滅を現じ、他方に生を現ずるなり。上の文に願はくば他方に在て遙に守護せられよと云ふは即ち其義なり。遣使とは、或は涅槃の中の大声普告するを取て使人と為す、或は神通を用ひ、或は舎利を用ひ、或は経教を用ふる等を使人と為す、今は四依の菩薩を用ひて衆生に語て云く、仏已に滅度し、但だ此法を留めたまふ、我れ今宜弘す、汝当に受行すべしと、後時の衆生、若し四依の経法を伝述する無くんば、豈に能く自ら仏は已に滅度したまふことを知らんや、故に四依を用ふ、是れ使人なり。

 [191]二に是時諸子の下、諸子の醒悟は現滅の利益を譬ふ、上の文に二有り、一に損益を明す、二に損益を釈す、今は但だ得益を譬ふ、此中、自惟孤露の下は滅後の得益を明す、優波笈多の所化の流の如くなり。又二と為す、一に現滅の利益、二は是れ未来の機感なり、良に滅後の衆生醍悟して、薬を服し修行して以て因縁を作すに由て、能く未来の応化を感ず。遺教に云ふが如し、其未度の者には得度の因縁を作す、亦現に感見することを得る有りと。善賢観に云く、精進苦到して釈迦・分身・多宝、東方の善徳等及び七仏世尊を見たてまつることを得と。

 [192]第三に其父聞子悉已得差の下は、即ち是れ未来の益物威猛の力なり、父、子差ゆと聞くは即ち機あり、咸く之を見せしむるとは、即ち是れ未来の応化を起す、方に形声の両益を将てするなり、文の如し。

 [193]諸善男子於意云何より下は、不虚譬を牒す、三世の利益の虚しからざるを明すなり。

 [194]仏言我亦如是より去て合譬を明すなり。成仏已未無量劫とは過去世を合するなり。方便力言当滅度とは現在世を合するなり、文は略にして未来を合せず。亦無能説我虚妄とは、益物の虚しからざるを合するなり。

 [195]偈の二十五行半は上の法譬を頌す、初めに二十行半は法説を頌す、次に五行は譬説を頌す、上の法説に二有り、今頌亦二あり、初め十九行半は三世の益物を頌す、次に一行は皆実不虚を頌す。初め四行は過去世の益物を頌す、三と為す、初め一行は上の成道してより已に久しきことを頌す。次に常説法の下は、第二に一行は上の中間の益物を頌す。次に為度衆生の下は、第三に二行は上の住処を頌す。次に衆見我の下は、第二に五行は現在を頌す。上の文に二有り、初めに二行半は非生現生を頌す。次に我時語の下は、第二に二行半は非滅現滅を頌す。次に我見諸の下は、第三に十行半は上の未来を頌す。上は但だ常住不滅の四字に寄す、今の頌は則ち広し、文四と為す、初めに我見の下の一行半は、未来の機応を明す、次に神通力如是の下は第二に四行は上の常住不滅を頌す。常在霊鷲山とは、此れは実報土を謂ふなり。及余諸住処とは方便有余土を謂ふなり、即ち上の余国の義なり。天人充満とは、三十心は是れ人、十地は是れ天なり。撃天鼓とは無問自説なり。曼陀羅華とは賢聖の位を説くなり。次に我浄土の下は、第三に二行は見ざる因縁を明す。次に諸有修功徳の下は、第四に三行は見ることを得る因縁を明す。次に汝等有智の下は、第二に一行は上の利益の虚しからざるを頌するなり。

 [196]次に五行は讐を頌す、二と為す、一行は開譬を頌す、三と為す、初の一句は過去を頌す、為治の下の二句は現在を頌し、未来を頌せざるなり。無能説の下は、第三に一句は不虚を頌す。後に我亦為の下は、第二に四行は合讐を頌す、上の合の中には本と未来を合せず、今初の半行は過去を合することを頌す。次に凡夫の下は、第二に二行半は現在を合するを頌す。後に毎自作の下は、第三に一行は不虚を合するを頌す。開三顕一、開近顕遠して、衆生をして速に仏道に入らしめんと欲したまふ、此事必らず得て虚しからざるなり。

◎分別功徳品を釈す。

 [1]仏の寿量を説きたまふに、二世の弟子は種々の益を得、故に功徳と言ふ、浅深同じからず、故に分別品と言ふなり。

 [2]此文は是れ本門の第二授記段なり。

 [3]論に此文を分つに法力と修行力有り、法力とは五有り、一に証、二に信、三に供養、皆今の品の如し、四に聞法、随喜品の如し、五に読誦と持と説となり、読誦は法師功徳品の如し、持とは追て法師安楽行勧持の三品を指す、説とは神力嘱累品の如くなり。修行力とは、苦行力は薬王の如し、教化は妙音の如し、護難は観昔陀羅尼の如し、示功徳は妙荘厳王の如し、護法は普賢品の如くなり。

 [4]光宅の云く、一に功徳門に約す、其行進み現在に因を修するを記す。二に智慧門に約す、其生を損し未来に果を得んことを記す。三に外凡の発心を明す。

 [5]夫れ授記は因果に通ず、此三は通じて是れ授記なるのみ。

 [6]下の八世界の発心は、応に初めに在て列すべし、外凡は経を聞て発心して三十心に住するを以てなり。

 [7]三十心に経を聞て始めて内凡を出で、初地に登て無生忍を得、初地に経を聞て進んで二地に入り、聞持を得、二地に経を聞て三地に入ることを得るを楽説辯と名く。三地に経を聞て四地に入り無量旋を得、四地に経を聞て五地に入るを不退と名く、五地より六地に入るを清浄輪と名く。

 [8]小千已去は損生門に約して記を授く、七地に已に無明の惑を断ず、惑に九品有り、能く九生の為めに因を作る、七地より已上は果報に期限有ること無し、判ずることを得可きこと難し、但だ九品の煩悩を断ずるに言を為すのみ。煩悩の品数は百千万種なり、今は一種の九品に約して義を作す、七地の所断は下上の二品と作す、乃至十地の所断も亦上下の二品と作す、金剛心の所断を一品と作す。

 [9]六地に経を聞て、七地の下忍に登て一品を断ず、所余の八品在れば八生の為めに因と作る、故に八生に当に菩提を得べしと云ふ。七地の上忍は復一品を断ずれば、即ち二品の生を損す、余の七品は七生の為めに因と作る、七生に当に菩提を得べし、諸品に例して上下有り、一品尽くれば一生を損す、文略なり、故に八生より乃し四生に至る。余有一生とは即ち金剛心に断ずるの法なりと。

 [10]法華論に云く、無生忍を得とは、初地の証智に入るを謂ふ、応に知るべし、八生より乃至一生に菩提を得とは、諸の凡夫は決定して能く初地を証す、分に随て生、一生に及び則ち菩提を証するを謂ふ。菩提とは三界の分段の生死を離れて、分に随て能く真如仏性を見るを菩提を得と名く、究竟して菩提を満足するを謂ふには非ずと。

 [11]今謂く、論は前は深く後は浅し、光宅は前は浅く後は深し、二彼相拒む、世執れか之を判ぜん。

 [12]夫れ無生法忍は経論同じからず、迦旃延子は、五法成就して不退転を獲と明すは六度の菩薩の位なり。須陀洹の若しは智、若しは断なるは、是れ菩薩の無生法忍とは、三乗の共の位なり。初地に登て無生忍を得るは別の菩薩の位なり。初住に登て無生法忍を得るは円の菩薩の位なり。皆聖教の明文なり、参乱す可らず。

 [13]又浄名には無等々に近づきて無生忍を得と。仁王に云く、金剛頂に至るを皆伏忍と名く、亦寂滅忍と名くと。蓋し是れ別円の地々通途の意にして定用す可らず。

 [14]即ち光宅は発心して内凡三十心の位と為り、無生忍と為るを以て是れ初地とす、皆別家の名教にして通家の門戸に非ず、初地より六地に至るを呼んで福徳門と為す、大経に有為有漏と称し、声聞僧と名く、則ち通教の意なるのみ。七地已上に九品の生因を断ずとは、小乗大乗の位に入ることを得る人は誰か惑を断ぜざらん。未だ定判するに足らず。若し七地に無明を断ずと言ふは通に非ず、又別に非ずして乃ち是れ別接通の意のみ。光宅は游漾して今の経に会せず。

 [15]天親は発心を以て無生忍と為し、八生より一生に至て、凡夫は決定して果報の生を断じ尽し初地に入ることを得るなり、無生忍を獲るとは、専ら別の義に拠れば、亦経に会せず。

 [16]今文を分て三と為す、一に経家の総序、二に如来の分別、三に時衆の供養なり。

 [17]総序は文の如し。

 [18]分別とは仏語は円妙なり、権位を用ひて経を釈す可らず、故に上の文の開示悟入仏之知見と、今の本門の増道損生は皆円位に約して解釈す。

 [19]下の八世界の発心は、六根清浄の人にして、初めて十信の位に入るなり。故に仁王に云く、十善の菩薩は大心を発し、長く三界の苦輪海に別るとは即ち此義なり。無生忍を得るは十住の位に入るなり、故に華厳に云く、初発心住に一発一切発して如来の一身無量身を得、清浄妙法身湛然として一切に応ずとは即ち此義なり。聞持陀羅尼を得とは十行の位に入るなり、楽説辯才を得とは十廻向の位に入るなり、無量旋陀羅尼を得とは初地に入るなり、不退を得ば二地に入るなり、清浄を得とは三地に入るなり、八生とは四地に入るなり、七生とは五地に入るなり、六生とは六地に入るなり、五生とは七地に入るなり、四生とは八地に入るなり、三生とは九地に入るなり、二生とは十地に入るなり、一生は等覚金剛心に入るなり。

 [20]若し増道損生を論ぜぱ、光宅の因生の生を断ずるが如くならず、天親の果報の生を断ずるが如くならず、但だ智徳に約して増を論じ、断徳に約して損を論ず、法身に約して生を論じ、無明に約して滅を論ず、例へば、大経の月喩の如し、初め一日より十五日に至るは光色漸く増す、十六日より三十日に至るまでは光色漸く減ず、一の月体に約して而して増滅を論じ、法身に約して而も智断を論ずるを喩ふ。或は一人に一時に八番の増有る可く、或は一世なる可し、或は八世、或は無量世、或は一念なる可く、或は八念なる可し、或は無量念。或は衆の微塵数の人も亦是の如くなる可し。是故に因生と果生を以て之を局る可らず、智断を離張して之を釈す可らず。

 [21]然るに本門の得道は数は衆経に倍す、但だ数多きのみに非ず、又熏修の日も久し、元本より迹を垂れ、処々に開引し、中間に相値て数々成熟し、今世に五味もて節節に調伏す、収羅結撮して法華に帰会す。譬へば田家の春に生じ夏長じ、耕種耘治し、秋収め冬蔵し、一時に穫刈するが如し。

 [22]法華より已後得道の者有るは桾拾の如きのみ。

 [23]三に時衆供養とは、深遠の法を聞て大饒益を得、仏恩を報ぜんと欲して而して供養を設く、亦是れ事に寄せて以て領解を表すなり。上の迹門に菩薩も亦悟れども、而も大事は未だ畢らず、所以に陳べず、 本門既に竟り、弥勒は総じて領解を申ぶ、諸菩薩の幡蓋を執持して次第にして而も上り梵天に至ることを明す。幡とは転の義、蓋とは覆の義、地とは始の義、梵とは浄の義なり。智

断番々に転じ、慈悲番々に覆ふ、高下深浅、次第を失せず、梵天に際まるは諸菩薩の増道損生して、妙覚に隣て極浄に極まることを表はす。若し天親の解を作さば、只初地の一番を得るのみ、豈に此文と会することを得んや。

 [24]偈に十九行有り、分て三と為す、初めに二行は時衆の得解を頌す、次に九行は如来の分別を頌す、後に八行は時衆の供養を頌す。得無量無漏清浄之果報とは、二乗の有量に異なることを揀ぶ、故に無量と言ふ、妙因の所感の故に清浄と言ふ、無障礙土の故に果報と言ふ、二乗の報無きに異なるなり。聞仏寿無量、此文定んで判じて無量と為す、何ぞ旧解の有量を用ふることを得ん。

 [25]南師は偈の後の長行より下は流通段に属す、上の迹門の文殊の現在なれども亦是れ流通なるを引く。北師は四信の弟子現在に経を聞くを以て判じて正説に属す、又如来滅後より下は乃ち是れ流通となす、二家尽く用ふ可し。

 [26]今且らく南方に依る。偈の後より凡そ十一品半は分てこと為す、一に此れより下不軽品に至るまでは弘経の功徳深きことを明し流通を勧む、二に神力品より下の八品は付嘱流通なり、各復三有り、此半品及び随喜品は、初品の因の功徳を明して流通を勧む、二に法師功徳よりは初品の果の功徳を明し、流通を勧む、不軽品は信毀の罪福を引て証して流通を勧む。後の三は、神力嘱累は嘱累流通し、薬王の下の五品は、化他に約して流通を勧む、普賢は自行に約して流通を勧む。

 [27]生起とは現在に経を聞き真似の両解の益を得ること上に説くが如し。若し直に一句を聞て而して随喜を生ずるは、現在の四信に其功徳を格するが如し。未来に仏無くば恐くは人は福少なるを疑はん、故に滅後の五品の功徳を説くなり。因の功徳は微密にして、未だ果の功徳の彰灼なるに若かず、故に法師功徳品を説く。因果双べ挙ぐるは、未だ引証の分明なるに若かず、故に不軽を説く。往人を挙ぐると雖も、未だ現変に若かず、故に神力を説く。神力を示すと雖も、未だ摩頂付嘱なるに若かず、故に嘱累を説く。通途に嘱累すと雖も、未だ其要術もて身を棄て道を存することを示すに若かず、故に薬王を説く。能化を誡むと雖も、未だ其所化の法を聞く処に随て応に仏の想を生すべきを誡むるに若かず、故に妙昔観昔を説く。若し初心の弘経は既に神力無し、当に内禁に依るべし、故に陀羅尼を説く、復外護を須ふ、故に厳王普賢を説く、聯翩重畳して、大法をして弘通せしむるのみ。

 [28]偈の後の長行に就て二と為す、一に現在の四信、二に滅後の五品なり。

 [29]云何が四信なるや、略して解するは三人、広説するは二人、観成は一人、信は四人に通ず、故に四信と言ふなり。

 [30]四信とは、一には一念の信解、未だ演説すること能はず、二には略して言趣を解す、三には広く他の為めに説く、四には深信にして観成す。

 [31]初めに一念の信解に長行と偈頌有り、長行に三有り、一に其人を挙示す、二に功徳を明す、三に位行不退なり。今一念信解を釈せば、謂く聞く所の処に随て豁爾として開明す、語に随て而して入り、罣礙有ること無く、一切法は皆是れ仏法なることを信ず。又仏法は一切法を隔てざることを信ず、仏法を得ず、一切法を得ず、而して一切法を見、亦仏法を見る、一に即して而して三、三に即して而して一なり、亦是れ非道を行じて仏道に通達す、仏道を行じて一切道に通達す、仏道一切道を得ずして、而して仏道一切道に通達す、所有無くして而も有り、而も有にして所有無し、所有に非ず無所有に非ず、門前の路の一切に通達して、東西南北●371 (?)として壅礙すること無さが如し、眼耳鼻舌身意に凡そ所対有れば、悉く亦是の如し、疑無きを信と曰ひ、明了なるを解と曰ふ、是れを一念信解の心と為すなり。若し坐して思惟すれば、思惟する所に随て豁然として開悟し三諦に通達すること亦復是の如し。是の如きの信解を鉄輪位と名く。又一解は未だ是れ具足の鉄輪ならず、乃ち是れ十信の初心なり、其人未だ六根清浄を得ず、故に鉄輪の正信に非ざるなり。

 [32]次に格量とは、先に総じて無量を論ず。次に多少を格量す、二と為す、初めに五度を挙げて格量の本と為す。般若は即ち是れ今の正慧なり、故に除般若と言ふなり。問ふ、既に般若を離るれば則ち五を度と名けず、答ふ、皆仏慧を求めんが為めに、施戒の辺を尽くすを亦度と名くるを得、蓋し次第の意なり、以是功徳の下は、第二に正しく多少を格するなり。

 [33]若善男子の下は、第三に位行不退を明すなり。別の六心は猶ほ退し、七心は退せず、円の初住の心は即ち不退なり、寿量を聞く功徳は外よりして而して資け、円順の信解は内よりして而して熏ず、所以に退せず。大品に云く、菩薩の退する有り、退せざる有り、魔有り、魔無しと、皆此義なり。

 [34]偈十九行半、初めに十二行は、先に多少を格量するを頌す。次に二行は追て人相を頌す、後に五行半は行位不退を頌す。無量劫行道とは、久しく諸度を修するなり。願我於未来とは、慈悲の願を起すなり、久しき行願を藉て、経を聞て信解す、今の初品に始めて此経を聞て一念信解す、功は久行に等しく亦乃ち之に過ぐるなり。

 [35]又阿逸多聞仏寿長遠とは是れ第二品なり、前は但だ信解、未だ敷説すること能はず、説は名数に渉る、須らく方言を善くすべし、今の品は具足す、故に他の為めに解説すと言ふ、勝に従て名を受け第二品と名く、説力を以ての故に能く自他無上の慧を起す、此文は先に人相を標し、次に格量するなり。

 [36]何況広聞此経の下は第三品、広く聞き広く解し、広く他の為めに説き、広く供養を修す、供養は外に資け、内智をして疾く入り、能く一切種智を生ぜしむ、先に人相を出し、次に格量するなり。

 [37]阿逸多の下は、第四に人は上の三品を備へ、加へて観行を修し、禅に人て慧を用ひ、想成りて相起り、能く有余と実報の両土の相貌を見る。仏、比丘僧と共に常に耆山に在すを見るとは方便有余土の相なり。又娑婆純ら諸の菩薩なるを見るとは実報の相なり、初の二品は是れ聞慧の位、広聞広説は是れ思慧の位、観行想成は是れ修慧の位なり浅より深に之き六根清浄の十信の位と成るなり。

 [38]又如来滅後の下は、五品を明す、文二と為す、先に五品を列ね四品の功徳を格量す、後の随喜品は初品の功徳を挌量す。

 [39]問ふ何故に爾るや。答ふ、四品は粗々格量し、初品は広く格量す、広く格量し巳て勝れたる者を況出す、意を以て得可し、仏は文を煩にせず、巧に説きたまふこと此の若くなり。

 [40]五品とは、一に直に随喜の心を起す、二に加へて自ら受持読誦す、三に加へて他の受持読誦を勧む、四に加へて兼ねて六度を行ず、五に加へて正しく六度を行ずるなり。

 [41]此五人は、通じて論ずれば皆自行化他あり、下の文に云く、五十人展転して相ひ教ふるなりと、既に皆自行有れば通じて弟子と称す、皆化他有れば通じて法師と称するなり。別して論ずれば、二人は但だ自行、三人は化他を具す、法師と作て往くを名くれば、三に在て五に在らず、自行既に通ず、所以に皆弟子と称するなり。

 [42]初品は人を標するのみ、格量は後に在て説く。何況の下は第二品、能く受持読誦する者を況出する是れなり、標人解す可し。斯人頂戴より下は是れ格量なり、初心は縁に紛動せられ、正業を修するを妨げんことを畏る、直に専ら此経を持するは即ち上の供養なり、事を廃して理を存するに益する所弘多なり。後心は理観若し熟すれば、外に渉るも内を妨げず、事は道を資く、油多ければ火猛きが如し、流れに順じて而して帆を揚げ、又功力を加ふれば其勢転た疾きが若くなり。経文を指すに是れ法身の舎利にして、生身の舎利を安ずることを須ひず、文は所詮を詮す、能詮は是れ塔なれば、事の塔を須ひず、経文は能く第一義僧を容るれば、相従の僧を俟たざるなり。問ふ、若し爾らば持経は即ち是れ第一義戒なり、何故ぞ復能持戒者と言はん。答ふ、此れは初品の意を明す、応に後品を以て難を作すべからず、若し釈せんと欲せば、持経は即ち理戒に順ず、亦是れ任蓮に初篇二篇を持得す。今能持戒者と言ふは第三篇より去て事中に虧くること無きのみ。

 [43]第三品は復能く他を教ふる者是れなり、先に人を標す。起立より下は格量なり。

 [44]況復有人の下は第四品、復能く兼ねて六度を行ずる者是れなり、先に人を標す、其徳最勝より下は格量なり。

 [45]若人読誦の下は第五品、復能く正しく六度を行ずる者是れなり、先に人を標す、若我滅後より下は格量なり。

 [46]此五品を結せば、前の三人は是れ聞慧の位、兼行六度は思慧の位、正行六度は是れ修慧の位なり、都て是れ十信の前のみ。或は云ふ、初の随喜品、是れ信心の位に入る、一品を分て両心と為す。五品は即ち十信心にして、即ち是れ鉄輪六根清浄の位なり。

 [47]偈に十九行半あり、初めに五行半は第二品を頌す。次に若能持の下三行は第三品を頌す。若有信解の下四行は、次に第四品を頌す。次に恭敬の下七行は第五品を頌す。生心如仏想とは初依の人を如来と号するなり。不久詣道樹とは、其位鉄輪に在り、久しからずして銅輪に入ることを得、能く八相作仏するなり。已趣道場とは行処なり、三菩提とは近処なり、此第五品は第四信と斉し、同じく是れ修慧の位なり、若し入位を論ずれば、同じく是れ六根清浄の位なり、而して現未仏世滅後の異有るのみ云云。

◎随喜功徳品を釈す。

 [1]随とは事理に随順して、二無く別無し、喜は是れ己を応び人を応ぶ。

 [2]深奥の法を聞て理に順ずるに実の功徳有り、事に順ずるに権の功徳有り、己を応ぶは智慧有り、人を応ぶは慈悲有るなり。

 [3]権実智断を合して而も之を説く、故に随喜功徳品と言ふ。

 [4]又理に順ずとは仏の本地の深遠深遠なるを聞て信順して逆はず、一毫の疑滞無し、事に順ずとは、仏の三世の益物は横竪該亘して一切処に遍するを聞て、亦一毫の疑滞無し、広事に即して而して深理に達し、深理に即して而して広事に達す、不二にして而も二、不別にして而も別なり、二と雖も別と雖も、二無く別無し。此の如きの信解は之を名けて随と為す。

 [5]如来出世したまひて四十余年は真実を顕はしたまはず、七方便の人は誠諦を語らず、我及び人を応ぶ、凡夫の心を以て仏の所知に等じ、所生の眼を用ひて如来の見に同ず、此の如きの知見は、法界を究竟す、広くして涯底無く、等無等等無く、更に過上無し。

 [6]仏今此れを説きたまひ、我れは此れを聞くことを得、故に随喜功徳品と名く。

 [7]第五十人は是れ初品の初めなり。初めは但だ一念の理解有り、但だ一念の応己応他有りて未だ事行有らず、恩は人に及ぱず、獲る所の功徳を如来は巧に喩へたまふに功は無学を蓋ふ、況んや復最初に会に於て聞く者をや、況んや復二三四五品の者をや、況んや復入位の十住十行乃至後心の者をや、誰か是の如きの深妙の功徳を聞て而して景慕せざらん。如来は此れを説て物をして之を尚ばしむ、故に随喜功徳品と言ふなり。

 [8]上来持経の功徳を称美す、時衆は咸く真因の位に入り、乃ち斯の徳を致すと謂ふも、初心の初に於ては軽弱の想を起さん、忽ち 好堅地に処して芽已に百囲し、頻伽㲉に在て声衆鳥に勝るゝことを聞く、希有奇特にして軽疑釈然たり、故に随喜功徳品と名く。

 [9]外道の五通を得る者は能く山を移し海を竭す、而れども見愛を伏せず、煖法の人に及ばず、二乗の無学は子果倶に脱するも、猶ほ涅槃の縛を被りて、其因果倶に権なることを知らず、通教の人は修因は巧なりと雖も、発心は五百由旬を識らず、得果は止だ四住を除くのみ、別人は二乗に勝ると雖も、修因は則ち偏にして其門は又拙し、仏の讃ずる所に非ず、皆初随喜の人に及ばず

 [10]仏は今阿を挙げて以て後の荼を況したまふに、都て諸教に勝る、故に随喜功徳品と言ふ。問ふ、此れと大品の随喜と云何、答ふ、此れは法なり、彼は人なり、人法互に挙ぐ。

 [11]文に問答有り、各々長行と偈頌あり、前の品に已に四人を格して初の者を説かず、弥勒は機を承けて此義を問出す、文の如し。

 [12]仏の答二と為す、初めは内心随喜の人に答へ、二は直に外聴法の人を明す、初めを五と為す、一に展転して相ひ教ゆ、二に格量の本、三に問、四に答、五に正しく格量す。

 [13]南方に五十人を解して三と為す、一に展転勝、二に展転平、三に展転劣なり、勝れたる者は得難し、平なる者も亦希れなり、劣れる者は是れに比ぶ、劣を格して平勝を況出すと。

 [14]北方の人解すらく、最初妙覚は第十地の人の為めに説く、十地の人は第九地の人の為めに説く、是の如く展転して十信に至ると、後を格して初を況するなりと。

 [15]今謂く爾らず、仏は明に初品は会中に於て聞き伝々して相ひ教ふることを言ふ、展転五十は後を格して初を況するなり、後は十信の始めに非ず、初めは妙覚の終に非ず、何ぞ此解を用ひん、此解は深を窮む、経旨に会せず。

 [16]今二と為す、一に横に諸教の四衆に約す、二に直に円教に約して之を数ふ。

 [17]三蔵に四門有り、一々の門に四衆有り、更に沙弥沙弥尼を開して合して六人なり、四門なれば則ち二十四人なり、信行と法行に約すれば則ち四十八人なり、最初と最後を合して五十人となる、通別の四門も亦是の如し。

 [18]直に円門に就て数ふれば、数法に小七と大七有り、大七は七々四十九有り、皆是れ師弟にして、自行化他の徳を具す、最後の一人は但だ是れ自解にして教他の徳無し、故に下を格して以て上を顕はすのみ。

 [19]格量の中、先に世楽を与へて果苦を抜き、後に涅槃の楽を与へて生死の苦を抜く。

 [20]此れは是れ略して梵福を挙ぐるなり。

 [21]今更に之を広ぜん、閣浮に満つ人の福は、西瞿耶尼の一人の福に及ばず、西瞿に満てる人の福は東弗婆提の一人の福に及ばず、三天下に満てる人の福は、北鬱単越の一人の福に及ばず、四天下に満てる人の福は、一の四天王に及ばず、四天王は一の釈に及ばず、乃至第六天は、一の梵の福に及ばず、梵の福に定散有り、散は塔無き処には塔を作り、塔の壊れたる者は之を治す、僧衆を和合し、法輪を転ぜんことを請ふ、衆散ずれば還て之を合す、是れを四福と為す、梵天と等し、故に梵福と言ふなり。

 [22]聖福とは謂く阿羅漢の最後身に住して有余涅槃を得る者是れなり。又体法の三乗の人有て、同じく無生を学す、煩悩を断じ尽くすこと、木を焼て炭と成すが如し。又薩埵の聖福は自行化他、倶に無言説の道を以て煩悩を断じ無余に入る。又薩埵の福は、謂く初発心より次第に人を化し大涅槃に入る。

 [23]是の如く格量するに、梵福は聖福に及ばず、聖福は体聖の福に及ばず、体聖の福は小薩埵の福に及ばず、小薩埋の福は大薩埵の福に及ばず、大薩埵の福は法華経を聞く初随喜の福に及ばず、何を以ての故に、彼は仏法に非るが故に、実に非るが故に、円に非るが故なり、後果に住すと雖も、我が初心に及ばず、其義是の如し。

 [24]私に謂く、人を勧めて法を聴かしむるは、与陀羅尼菩薩共生一処より、人相具足に至るまで、合して五十の功徳有り、功徳を将て人に目くるに亦五十と成る、但だ上の五十は内解の随喜を論じ、今は唯外事を論ずるを異と為すなり。又此文に亦六根の功徳有り、利根・智慧は是れ意の功徳、不瘖瘂は舌の功徳、鼻修高直は鼻の功徳、見仏は眼の功徳、聞法は耳の功徳、余は是れ身の功徳なり、前は是れ相似位の功徳、今は是れ相似位の前の功徳のみ。

 [25]聴経の文四と為す、一に自ら往く、二に座を分つ、三に他を勧む、四に具に聴て修行す云云。

 [26]偈十八行二と為す、初めに九行は随喜を頌す、次に若有勧の下第二に九行は聴経を頌す、随喜の中に三あり、前の一行半は五十人を頌す、次に最後人の下第二に五行半に格量の本を頌す、次に最後の下第三に二行は格量を頌す、略して福の甚だ多きを頌せず。後の九行は聴経を頌す、小しく次第せず、四と為す、初め五行は超へて勧聴経を頌す、次に若故詣の下は第二に二行は追て自往を頌す、次に若於講法の下は第三に一行は分座を頌す、次に何況の下は第四に一行は修行を頌す云云。

◎法師功徳品を釈す。

 [1]法師の義は上に説くが如し。功徳とは、前には初品の初の功徳を謂ひ、今は五品の上の六根清浄を謂ふ、内外荘厳す、五根清浄なるを外荘厳と名く、意根清浄なるを内荘厳と名く。又地獄より已上仏に至る已還、一切の色像悉く身中に現ずる者を内荘厳と名く、地獄より已上仏より已還、一切の色像の普現三昧を以て而して外に化する者を外荘厳と名く、身根既に爾り、余の五根亦然り、読誦既に爾り、四種亦然り、初品既に爾り、四品加然り、相似既に爾り、分真倍然り。

 [2]行者此功徳の利なるを説くを聞て喜び自ら勝へず、勤求して厭ふこと無く、信進み倍増す。

 [3]明に大乗に大勢力有るを識て決して疑網無し。

 [4]似解の初の初は、二乗の極の極に過ること百千万倍なり、始を指して終を顕はし、懸に究竟の第一義諦不可思議なることを解す。

 [5]此品に明す所は斯の四意を備ふ、故に法師功徳品と言ふなり。

 [6]六根の功徳とは光宅の云く、三業合して十善、一善に十を具すれば百と為る、自行化他随喜讃歎を合して四百、五種の法師に約して二千と為る、三品に之を分て即ち六千の功徳なり、此土の三根は用弱し、奪て八百と言ふ、三根用強し、与へて千二と言ふ。与奪合論すれば、還て是れ六千なりと。有る人は数を明すこと光宅と同じ、下品は八百、中品は一千、上品は千二百なりと。

 [7]諸師の偏釈は未だ今の経に会せず、亦諸教にも合せず。

 [8]大品に云く、色浄し、故に般若も浄し、般若浄し、故に色も浄し、色浄なれば五根浄なり、般若浄なれば意根浄なりと。若し六根等しくば、云何ぞ上中下の強弱の用を判ぜんや。若し一は強、一は不屈、一は浄、一は不浄なれば、一は上品にして余は上品に非ず云云。正法華は整足して六千の功徳を具す、上中下を論ぜず云云。法華論に云く、凡人は経力を以ての故に勝根の用を得、未だ初地に入らずと雖も、父母所生の肉眼を以て大千の内外を見るなりと。大経に云く、如来の一根は則ち能く色を見、声を聞き香を嗅ぎ、味を別ち触を覚り法を知ると。

 [9]今経の六根清浄と大品と同じ、是功徳を以て六根を荘厳するは正法華と同じ。鼻に色を見、声を聞き覚知するは涅槃と同じ、肉眼に天眼慧法仏眼等の用有るは、論と同じ。文義此の如し、偏見を以て正経を抑ふ可らず。今当に之を説くべし。光宅の数は整足す、恨むらくは文に依らざることを。

 [10]今按ずるに、三業の安楽行に即ち十善有り、一善に十有れば、即ち百善なり、一善の中に十如有れば、即ち千善なり、化他に就けば二千と為り、如来の室、如来の衣、如来の座に約すれば即ち六千と成る、五種法師は悉く六根清浄を具す、一々の根に皆一千の功徳有るなり。

 [11]復次に一心の中に十法界を具し、一々の界に皆十如有れば、即ち一百と成る、一根は通じて六塵を取れば、即ち六百有り。定慧の二荘厳に約すれば、即ち是れ一千二百なり、根々悉く定慧を用ひて荘厳す、等しく千二百なり。

 [12]若し六根清浄を論ぜば、清浄は則ち功徳の若しは少若しは多を言はず、若し荘厳を言はゞ、能盈能縮能等あり、等荘厳とは根々六千なり。若し千二と言はゞ其能盈を顕はす、若し八百と言はゞ其能縮を顕はす、若し清浄と言はゞ、無盈無縮無等なり。六根の互用は根自在なるが故に、思議す可らざる故なり。若し偏に判ずれば則ち旨を失せん。

 [13]相似位は若し四輪に依らば即ち鉄輪位なり、若し五十二位に依らば即ち十信心なり、若し仁王に依らば即ち十善大心なり。今常精進に対すれば即ち十信の第三心なり、観経の名目は異なりと雖も、同じく是れ円教相似の位なるのみ。

 [14]文二と為す、初めに総じて六根の盈縮功徳の数を列す。

 [15]次に別して六章と作して解釈す、各々長行と偈頌有り。眼根の章は、父母所生なれば肉眼と名く、而して所見天眼に過ぐることを明す。梵王報得の天眼は、己が界に在て遍ねく大千を見れども、大千の外は風輪有て、眼の与めに障りを作せば外を見ること能はず。若し他界に在ては則ち遍ねく大千を見ず、所統に非る故なり。小羅漢は小千を見、大羅漢は大千を見る、辟支仏は百仏世界を見るに風輪を以て礙と為さず、亦己他界の隔り無し、今の経に眼を論ずるに、能く大千の内外を見る、応に是れ天眼なるべし、那ぞ肉眼と名くる。此れは是れ円教の似位なり。経の力に因て勝根の用有り、既に未だ真を発せず、天眼と称することを得ず、猶ほ肉眼と名く、例せば小乗の方便は未だ神通を得ざれば則ち天眼と称せざるが如きのみ、猶ほ是れ分段の身なり、故に父母所生と称す。肉眼と称すと雖も、五眼の用を具す、大千の内外を見るは天眼の用、一切衆生及び業の因縁を見るは法眼の用、其目甚だ清浄なるは慧眼の用なり。一時に悉く大千の内外を見、業を見、浄を見、又円かに法界の上の惑を伏するは仏眼の用なり。大経に云く、肉眼有りと雖も名けて仏眼と為すと、仏眼の故に清浄と名く、五眼を其するが故に、故に荘厳と言ふ。能盈能縮を勝根の用と名け、根自在と名く、豈に秖だ八百千二百の解を作す可けんや。

 [16]耳根の章は、遍ねく大千の内外十法界の昔声を聞く、六道を聞くは即ち肉天の二耳、二乗を聞くは即ち慧耳、菩薩を聞くは即ち法耳、仏を聞くは即ち仏耳なり。又父母所生は肉耳、能く内外を聞くは即ち天耳、之を聴て著せざるは即ち慧耳、謬らざるは法耳、一時に互に聞くは即ち仏耳なり。耳を以て眼を例するに眼亦是の如し、人天を見るは是れ二眼、二乗を見るは是れ慧眼、菩薩を見るは是れ法眼、仏を見るは即ち仏眼なり云云。

 [17]鼻根の章も亦是の如し、父母所生は即ち肉鼻、大千の内外は即ち天鼻、染せず著せざるは即ち慧鼻、分別して謬らざるは即ち法鼻、一時に互に用ふるは即ち仏鼻なり。此章の互用を明さば、鼻は好悪を知り貴賤を別つ、天宮の荘厳等を観るは、則ち鼻に眼の用有り、読経し説法するに、香を聞て能く知るは、鼻に耳の用有るなり。諸の樹花果実、及び蘇油香気は鼻に舌の用有るなり。入禅出禅は禅に八触有るが故に、五欲嬉戯も亦是れ触法なれば、鼻に身の用有り、染欲癡恚心亦知修善とは、鼻に意の用有り、鼻根の自在の勝用は茲の若し、例するに五根も亦是の如し。

 [18]舌根の章も亦是の如し、父母所生は即ち是れ肉舌、能く十法界の語を作す、此れに約するに即ち是れ五舌の義明かなり。能く十法界の語を作すは即ち天舌、不壊は即ち慧舌、不謬は即ち法舌、一時互用は即ち仏舌なり云云。問ふ、苦渋悪味も舌に至て皆変じて上味と成らば、衆色も眼に到つて、何ぞ変じて妙色と成らざる、旧は例せず、味に損益有り、損する者は変じ、損せざる者は変ぜす、諸色は眼を壊せず、故に例せず。今の解は爾らず、一切の色は仏の色に同じ、一切の声は仏の声に同じ、等しく皆清浄なり、例するに則ち妨げ無し。遍ねく一切の色法声法を知り、乱ること無く謬ること無し、分別するも亦妨げ無し、自在の根、那ぞ頑礙の解を作らんや。

 [19]身根の章も亦是の如し、世間の所有皆身中に於て現ずるは肉身の用なり、上は有頂に至て身中に於て現ずるは天身の用なり、二乗の身中に現ずるは慧身の用なり、菩薩の身中に於て現ずるは法身の用なり、仏の身中に於て現じたまふは仏身の用なり、一時に円に現じ、一時に互に用ひ、一時に謬り無く一時に著すること無し云云。

 [20]意根の章も亦是の如し、世間の資生産業皆正法に順ずとは、人意浄く、天心の所行、天の動作する所を悉く知るは天意浄く、四月は即ち四諦、一歳は即ち十二月なれば是れ十二因縁なり、実相と相違背せざるは、即ち慧意浄く、一月は即ち一乗なれば菩薩の意浄く、思量する所有るは、皆是れ先仏の経の中の所説なるは即ち仏意浄し、一時に円かに明かに、一時に円かに亙り、一時に染無く、一時に謬り無し、根用自在にして、能盈能縮能等能浄なり云云。

◎常不軽菩薩品を釈す。

 [1]内に不軽の解を懐き、外に不軽の境を敬ふ、身に不軽の行を立て、口に不軽の教を宜べ、人に不軽の目を作す。

 [2]不軽の解とは、法華論に云く、此菩薩は衆生に仏性有るを知り、敢て之を軽んぜずと、仏性に五有り、 正因仏性は本当に通亘し、縁了仏性は種子本有にして、今に適まるに非ざるなり。果性果果性は、定んで当に之を得べし、決して虚しからざるなり、是れを不軽の解と名く。解を将て以て人に歴るに、彼亦此の如し、是れを不軽の境を敬ふと名く。此境を敬ふが故に不軽の行と名く。此語を宜ぶるが故に不軽の教と名く。昔し毀る者は此れを以て人に目け、今の経家は此れを以て品に目く。

 [3]見実三昧に云く、仏は父王の為めに説きたまはく、一切は皆是れ仏なりと。王問ふ、一切衆生は即ち是れ仏なりやいなやと。仏答へたまはく、若し実の如く衆生を見れば、其れに於て即ち是れ仏なりと。

 [4]私に此語に類す、若し実の如く仏を見ざれば、其れに於ては則ち聖に非ず、譬へば初めに的を射ることを学ぶに、乖くこと多く当ること少なり、地を以て的と為せば、往くとして著かざる無し、若し賢聖を分別せば、執れが是、執れが非ならん、実の如く之を観ずれば、即ち是れ仏なり。

 [5]初めは是れ因縁の解、後は是れ円教の解なり云云。

 [6]此品は人を引て証と為す、五品の功徳深く、六根の報重きを証す、我れ昔し随喜して現と生と後の報を獲たりと、以て流通を募るなり。

 [7]文に長行と偈頌有り、長行三と為す、一に双て前品の罪福を指す、二に双て今品の信毀を開す、三に双て後の二の逆順を勧む。

 [8]双指とは先に罪を指すこと法師品に説くが如し、次に福を指すこと功徳品に説くが如し、文の如し。

 [9]第二に双て信毀を開すとは、事本と本事と有り、事本に時節・名号・劫国・説法等有り、悉く文の如し。

 [10]第二に最初威音王より下は是れ本事を明す、又三あり、初めに時節を明す、二に於像法中の下は、双て両人の名を標す。毀る者の因時を増上慢と名け、信ずる者の因時を常不軽と名く。

 [11]次に第三に得大勢の下は、双て得失を明す、得失に又二あり、初めに信ずる者に就て得を論ず。正説の宏宗を得、流通の妙益を得。

 [12]名常不軽は是れ人一、凡有所見は是れ理一、皆悉礼拜は是れ行一、而作是言は是れ教一なり、此れは是れ開権顕実の四一なり。

 [13]乃至遠見より下は是れ本の理一、故往礼拜は是れ本の行一、而作是言は是れ本の教一にして人一を少く、其義解す可し、此れは是れ開近顕遠の四一なり。

 [14]文に專ら経典を読誦せず、但だ礼拜を行ずと云ふは、此れは是れ初随喜の人の位なり。

 [15]一切の法は、悉く安楽の性有り、皆一実相なることを随喜す、一切の人に皆三仏性有ることを随喜す、読誦経典は即ち了因の性、皆菩薩道を行ずとは、即ち縁因の性、敢て軽慢せずして、而して復深く敬ふとは即ち正因の性なり。

 [16]人を敬ひ法を敬ひ、諍競を起さゞるは即ち随喜の意なり。

 [17]軽んぜずして深く敬ふは、是れ如来の座なり、打罵を忍ぶは是れ如来の衣を著するなり、慈悲心を以て常に行じて替へざるは即ち如来の室なり。又深く敬ふは是れ意業、不軽の説は是れ口業、故らに往て礼拜するは是れ身業なり、此三と慈悲と倶なるは即ち誓願安楽行なり。

 [18]此の如きの三四は豈に流通の妙益に非ずして而して何んとか謂はんや。

 [19]四衆之中より下は、第二に毀る者の失を明す。生瞋恚心不浄者とは、四一を受けざるなり。罵りて無智と言ふ、智は理を知れども、既に無智と言へば、理一を受けざるなり。比丘とは即ち人一を受けざるなり。従何所来とは行一を受けざるなり。虚妄授記とは敬一を受けざるなり。経歴多年常被罵とは、開権顕実の四一を一受けざることを結するなり。避け走て遠く住して高声に唱へて言へども、亦復受けざるは、此れ開近顕遠の本地の四一を受けざるなり。常作是語故とは、信者の深く信じて休まざることを結するなり。四衆為めに不軽の名を作すとは、此れは毀者の呰毀して止まざることを結するなり。問ふ、釈迦は出世して踟蹰して説かず、常不軽は一たび見て造次にして言ふは何ぞや。答ふ、本と已に善有り、釈迦は小を以て而して之を将護したまふ、本と未だ善有らざれば、不軽は大を以て而して強て之を毒す云云

 [20]臨欲終時より下は双て信毀の果報を明す、初の文二と為す、一に果報を明す、二に古今を結会す。

 [21]信者に三報を論ず、現に六根清浄を得、生には灯明仏に値ひたてまつり、後に二千億仏に値ひたてまつる、神通力は是れ身業の浄、楽説辯力は是れ口業の浄、善寂力は是れ意業の浄なり云云。

 [22]結会に又二あり、初めに結会なり、文の如し。若我宿世より下は、第二に是れ信者を挙げて而して順を勧むるなり、文の如し。

 [23]彼時四衆より下は毀者の果報を明す、又二あり、先に得果を明す、後に古今を結す。

 [24]毀者は善悪の両果を得、謗るが故に悪に堕す、仏性の名を聞く、毒鼓の力は善の果報を獲るなり。

 [25]古今を結するに又二あり、初めに古今を結す。次に当知より下は、逆を挙げて以て順を顕はし、持を勧めて以て毀を遮す。経に大力有て終に大果を感ず、務めて当に五種の行を勤習すべし。

 [26]偶に十九行半有り、初めに十五行半は但だ信毀の因果を頌す、後の四行は勧持を頌す、文に在て見る可し、細出せざるなり。著法とは是法は示す可らず、若し定んで是れ有なりと謂はば即ち是れ法に著するなり、乃至定んで是れ非有非無なりと謂はば亦法に著する者と名く。仏蔵に云く、刀輪は閻浮人を害するに其失猶少し、有所得の心にして大乗を説く者は、其罪彼に過ぐるなりと云云。大論に云く、有に執じて無と諍ひ、乃至非有非無を執じて有無と諍ふは牛皮龍縄倶に患を免れざるが如しと。中論に云く、諸仏の空法を説きたまふは本と有を化せんが為めなり、若し空に著すること有らば諸仏の化したまはざる所なり。若し定んで諸法は有に非ず無に非ずと言わば是れを愚癡の論と名くと。若し四悉檀の意を失はば、自行化他皆法に著すと名く、若し四悉檀の意を得れば、自他倶に著無きなり。