[1]釈名第一、辨体第二、明宗第三、論用第四、判教第五なり。此の五章を釈するに、通あり別あり。通は是れ同の義、別は是れ異の義なり。此の五章の如き遍く衆経を解す、故に同と言ふなり。釈名は名異に、乃至判教は教異なり、故に別と言ふなり。衆経の初に例するに皆な五事を安ずるは、則ち同の義なり。如是は詮異に、我聞は人異に、一時は感応異に、仏住は処所異に、若干人は聴衆異なれり、則ち別の義なり。又た通とは共の義、別とは各の義なり。此の通別の如きは専ら一部に在り。通は則ち七番の共解、別は則ち五重の各説なり。例せば、利鈍に広略の二門を須ゆるが如し。衆教の通別は今論ぜざる所なり。一経の通別今当に辨ずべし。

 [2]通に就て七番の共解を作す。一には標章、二には引証、三には生起、四には開合、五には料簡、六には観心、七には会異なり。標章は億持し易から令む、念心を起すが故に。引証は仏語に拠る、信心を起すが故に。生起は雑乱せざら令む、定心を起すが故に。開合、料簡、会異等は、慧心を起すが故に。観心は聞に即して即ち行ず、精進心を起すが故に。五心立つて五根を成じ、五障を排して五力を成じ、乃至三脱門に入る。略して七重の共意を説くこと此の如し。広く五章を解する者は、一一に広く五心五根を起して仏の知見に開示し悟入せ令むる耳。

 [3]初に五章を標ず云云。名を標ずるに四と為す、一には立、二には分別、三には結、四には譬なり。立名とは、原と聖の名を建る、蓋し深を開いて以て始を進め、咸く視聴をして倶に見聞を得、途を尋ねて遠きに趣き、而して極に至ら令めんが為なり。故に名を以て法に名けて、衆生に施設す。分別とは、但だ法に麁妙あり。若し隔歴の三諦は麁法なり、円融の三諦は妙法なり。此の妙諦は本有なり。文に云はく、「是の法、法位に住す、世間の相常住なり。唯だ我のみ是の相を知る、十方の仏も亦た然り」と。「尚ほ不退の菩薩、入証の二乗の知る所に非ず。況んや復た人天群萌の類をや」と。仏、是を知ると雖も、務めて速かに説きたまはず。文に云はく、「我れ若し仏乗を讃せば衆生苦に没在せん、法を謗つて信ぜざるが故に三悪道に堕ちん」と。所以に初の教に融と不融を建立す、小根併びに聞かず。次の教は不融を建立す、大根都べて用ひず。次の教は倶に建立す、融を以て不融を斥び小根をして不融を恥ぢて融を慕は令む。次の教は倶に建立す、小根をして融に寄せて不融に向は令め、大根をして不融より融に向かは令む。種種に建立して衆生に施設すと雖も、但だ随他意語にして仏の本懷に非ず。故に「務めて速かに説きたまはず」と言ふなり。今の経は正直に不融を捨てて、但だ融を説く。一座席をして同一の道味なら令む、乃ち如来出世の本懷を暢べたまふなり。故に此の経を建立して、之を名けて妙と為す。結とは、当に知るべし。華厳は兼、三蔵は但、方等は対、般若は帯、此の経は復た兼・但・対・帯無し。専ら是れ正直無上の道なり、故に称して妙法と為すなり。蓮華に譬ふるは、例するに麁妙あり。云何なるか麁なる。狂華は無果、或は一華多菓、或は多華一菓、或は一華一菓、或は前菓後華、或は前華後菓なり。初は外道の空しく梵行を修して剋獲する所無きを喩へ、次は凡夫の父母を供養して報梵天に在ることを喩へ、次は声聞の種種の苦行は止だ涅槃を得るのみなるを喩へ、次は縁覚の一遠離の行も亦た涅槃を得るを喩へ、次は須陀洹却つて後の道を修するを喩へ、次は菩薩先に縁修に籍つて後の真修を生ずるを喩ふ。皆是れ麁華なり、以つて喩と為さず。蓮華は奇多し。蓮の為の故の華、華実具足するは、実に即して而も権なるを喩ふ可し。又た華開き蓮現ずるは、権に即して而も実なるを喩ふ可し。又た華落ちて蓮成じ、蓮成じて亦た落つるは、非権非実を喩ふ可し。是の如き等の種種の義便なり、故に蓮華を以つて妙法を喩ふるなり。

 [4]体とは四と為す、一には字を釈し、二には同を引き、三には非を簡び、四には正を結す。体の字は礼に訓ず、礼は法なり。各其の親を親とし、各其の子を子とす。君臣、節に撙く。若し礼無くんば、則ち法に非ざるなり。出世の法体も亦復た是の如し。善・悪・凡・聖・菩薩・仏、一切、法性を出でず。正しく実相を指して以て正体と為すなり。故に寿量品に云はく、「三界の三界を見るが如くならず、如に非ず異に非ず」と。三界の人の若きは、三界を見て異と為し。二乗の人は、三界を見て如と為す。菩薩の人は、三界を見ること亦た如亦た異なり。仏は三界を見ること如に非ず異に非ず、双べて如・異を照す。今は仏の所見を取つて、実相の正体と為すなり。金剛蔵は仏の甚微の智を説く、辞異に意同じ。其の辞に曰はく、「空にして有、不二、不異、不尽なり」と。空は断無に非ず、故に空にして有と言ふ。有即ち是れ空、空即ち是れ有なり、故に不二と言ふ。空有を離れて外に別に中道あるに非ず、故に不異と言ふ。一切処に遍す、故に不尽と言ふ。此れ亦た龍樹と意同じ。中論に云はく、「因縁所生の法、即空・即仮・即中なり」と。因縁所生の法即空とは、此れ断無に非るなり。即仮とは不二なり。即中とは不異なり。因縁所生の法は、即ち一切処に遍するなり。今言はく、実相の体は権に即して而も実なれば、断無の謗を離るるなり。実に即して而も権なれば、建立の謗を離るるなり。権実即ち権実に非ざれば、異の謗を離るるなり。双べて権実を照して一切処に遍ずれば、尽の謗を離るるなり。斯れ乃ち二経の双美を総べ、両論の同致を申べ、二家の懸会を顕はす、今の経の正体を明すなり。私に謂はく、実相の法は横に凡夫の四執を破し、竪に三聖の証得を破す。凡夫を破すること解す可し。聖を破すとは、三蔵の二乗は但空を指して極と為す。頗梨珠の一往真に似たれども、再び研けば便ち偽なるに譬ふ。身子の云はく、「我等同じく法性に入れども、如来無量の知見を失す」と。空有の旨、正しく此の証を破するなり。通教の人は、但空・不但空共ずるを指して極と為す。雑色の珠を裹むに、光色に随つて変ずるに譬ふ。所見の光を縁じて其の本体を亡じ、玄黄の色を逐ふて二乗に堕落す。大経に云はく、「声聞の人は但だ空を見て不空を見ず、菩薩の人は但だ空を見るのみに非ず、亦た不空を見る」と。所見既に殊なり。不二の旨、正しく此の証を破するなり。別教の人は、不但空を指して極と為す。逈かに二辺を出づること、雲外の月の如し。辺を棄てて中を取るは空を捨てて空を求むるが如し。不異の旨、正しく此の証を破す。若し彼には有り、此には無ければ、則ち正法遍ねからず。不尽の旨亦た此の証を破するなり。此等は皆な仏の甚微智に非ず、金剛蔵の意と同じからず。仏の証得したまふ本有常住に非ざれば、方便品と同じからず。一切処に遍せざれば、寿量品と同じからず。既に正体に会せず、何れの法にか摂属せん。但空は是れ化他の実、但・不但は是れ自行化他の実、二辺を出づるの中は是れ自行の権、並びに他経の所説にして今の体に非ざるなり。今経の体とは、化他の権実、即ち是れ自行の権実と体す、垢衣の内身、実に是れ長者たるが如し。自行化他の権実、即ち是れ自行の権実と体す、衣内の繋珠、即ち無価の宝なるが如きなり。自行の権即ち自行の実なるは、一切世間の治生産業皆な実相と相ひ違背せざるか如し。一色一香も中道に非ざること無し、況んや自行の実、而も実に非ざらん耶。

 [5]宗とは三と為す、一には示、二には簡、三には結なり。宗とは要なり。所謂る仏の自行の因果、以て宗と為すなす。云何んが要と為す、無量の衆善、因を言へば則ち摂し、無量の証得、果を言へば則ち摂す。綱維を提ぐるに目として動かざること無く、衣の一角を牽くに縷として来らざること無きが如し。故に宗要と言ふ。然るに諸の因果、善く須らく明かに識るべし。尚ほ別教の因果を取らず、況んや余の因果をや。余の因果とは、昔は三因大いに異に、而も三果小く同じ。又た三因大いに同じく、而も三果小しく異なり。又た一因逈かに出て、一果融せず。因、善を摂せず。果、徳を収めず。則ち仏自行の因に非ず、仏道場証得の果に非ず。又た簡とは、諸経に仏の往昔所行の因果を明すは、悉く皆な払はる、咸く是れ方便なり。今経の宗要に非ず。意を取つて言を為さば、因は久遠の実修を窮め、果は久遠の実証を窮む。此の如きの因は、竪に七種の方便より高く、横に十法界の法を包む。初に此の実相の行を修するを名けて仏因と為し、道場に得る所を名けて仏果と為す。但だ智を以て知る可く、言を以て具さにす可からず。略して此の如きの因果を挙げて、以つて宗要と為す耳。

 [6]用とは三と為す、一には示、二には簡、三には益なり。用とは力用なり。三種の権実二智、皆是れ力用なり。力用の中に於て更に分別せば、自行の二智、理を照すに理周きを名けて力と為し、二種の化他の二智、機を鑑るに機遍きを名けて用と為す。秖だ自行の二智即ち是れ化他の二智、化他の二智即ち是れ自行の二智なり。理を照すは即ち機を鑑みるなり、機を鑑みるは即ち理を照すなり。薩婆悉達、祖王の弓を彎りて満つるが如きを名けて力と為す。七の鉄鼓に中り、一の鉄囲山を貫き、地に洞りて水輪に徹するを名けて用と為す。諸の方便教は力用微弱なること、凡人の弓箭の如し。何んとなれば、昔の縁は化他の二智を禀けて理を照すこと遍ねからず、信を生ずること深からず、疑を除くこと尽きず。今の縁は自行の二智を禀けて仏の境界を極め、法界の信を起して円妙の道を増し、根本の惑を断じて変易の生を損す。但だ生身及び生身得忍の両種の菩薩を倶に益するのみに非ず、法身・法身の後心の両種の菩薩も亦た倶に益す。化の功広大に利潤弘深なるは、蓋し茲の経の力用なり

 [7]教相に三と為す。一には根性の融不融の相、二には化道の始終不始終の相、三には師弟の遠近不遠近の相なり。教とは、聖人、下に被らしむるの言なり。相とは、同異を分別するなり。云何んが分別する。日の初めて出づれば前に高山を照すが如し。厚く善根を植ゆるもの斯の頓説を感ず。頓説は本と小の為にせず。小は座に在りと雖も、聾の如く瘂の如し。良に小、大に堪えず、亦是れ大、小を隔つるに由る。此れ華厳の如し。法の縁に被むるに約すれば、縁、大の益を得るを頓教の相と名く。説の次第に約すれば、牛より乳味を出すの相と名く。次に幽谷を照す。浅行偏に明し、当分に漸く解す。此れ三蔵の如し。三蔵は本と大の為にせず。大は座に在りと雖も多跢婆和すれば小の識らざる所なり。此れ乃ち小、大を隔て、大、小に隠る。法の縁に被むるに約すれば漸教の相と名く。説の次第に約すれば、酪味の相と名く。次に平地を照す。影、万水に臨み、器の方円を逐ひ、波の動静に随ふ。一仏土を示すに、浄穢同じからざら令め、一身を示現するに、巨細各異なり。一音をもつて法を説くに、類に随つて各解す。恐畏し、歓喜し、厭離し、断疑す。神力不共なり。故に見に浄・穢あり、聞に褒・貶あり、嗅に簷蔔・不簷蔔あり、華に著身・不著身あり、慧に若干・不若干あり。此れ浄名方等の如し。法の縁に被むるに約すれば猶ほ是れ漸教なり。説の次第に約すれば、生蘇味の相なり。復た義あり、大人は其の光用を蒙り、嬰児は其の晴明を喪ふ。夜遊の者は伏匿し、作務の者は興成す。故に文に云はく、¬但だ菩薩の為に其の実事を説いて、而も我が為に斯の真要を説かず」と。三人倶に学ぶと雖も、二乗は証を取る。具さに大品の如し。若し法の縁に被むるに約すれば、猶ほ是れ漸教なり。説の次第に約すれば、熟蘇味の相と名く。復た義あり。日光普く照して、高下悉く均平なり。土圭をもつて影を測るに、縮ならず盈ならず。若は低頭、若は小音、若は散乱、若は微善、皆な仏道を成ず。「人の独り滅度を得ることあら令めず、皆如来の滅度を以て而も之を滅度す」と。具さには今経の如し。若し法の縁に被むるに約すれば、漸円教と名く。若し説の次第は、醍醐味の相なり。当に知るべし、華厳の譬、涅槃と義同じきことを。三子・三田・三馬等の譬、皆な菩薩を先にし、次に二乗に及ぼし、後は則ち凡聖を平等にす云云。問ふ、既に五味を以て分別す、那んぞ同じく漸と称するや。答ふ、漸に約して五味を明すことを得る耳。又た若し小、大を聞かざるは大一向に是れ頓、若し大、小を用ひざるは小一向に是れ漸、若し大を以て小を破するは是れ漸頓並びに陳ぶ、若し小を帯して大を明すは是れ漸頓相ひ資く、若し小を会して大に帰するは是れ漸頓泯合す。故に無量義に云はく、「漸頓の二法、三道、四果合せず」と。今時は則ち合す、即ち此の義なり。問ふ、云何んが相ひ資く。答ふ、小、大を聞き小を恥ざて大を慕ふ、是を頓、小を資くと為す。仏、善吉に命じて転教せしめ大いに菩薩を益す、是を漸、頓を資くと為す。前に分別するが如きは、但だ顕露に約して漸頓五味の相を明す。若し不定を論ぜば、義則ち然らず。高山に頓説すと雖も寂場を動ぜずして而も鹿苑に遊化し、四諦の生滅を説くと雖も而も不生不滅を妨げず、菩薩の為に仏の境界を説くと雖も而も二乗の智断あり、五人果を証すと雖も八万の諸天無生忍を獲ることを妨げず。当に知るべし、頓に即して而も漸、漸に即して而も頓なることを。大経に云はく、「或時は深を説き、或時は浅を説く。応に開すべきに即ち遮し、応に遮すべきを即ち開す」と。一時・一説・一念の中に備さに不定あり、旧義の専ら一部を判ずるに同じからず。味味の中、悉く此の如し。此れ乃ち顕露不定なり。秘密不定は、其の義然らず。如来は法に於て最も自在を得たり、若は智、若は機、若は時、若は処、三密四門、妨無く礙無し。此の座には頓を説き、十方には漸を説き不定を説く。頓の座は十方を聞かず、十方は頓の座を聞かず。或は十方には頓を説き不定を説き、此の座には漸を説く。各各相ひ知聞せず、此に於ては是れ顕、彼に於ては是れ密なり。或は一人の為には頓を説き、或は多人の為には漸を説き不定を説く。或は一人の為には漸を説き、多人の為には頓を説く。各各相ひ知らず、互に顕密と為る。或は一座には黙し十方には説く。十方には黙し一座には説く。或は倶に黙し、倶に説く。各各相ひ知らず、互に顕密と為る。復た此の如しと雖も、未だ如来の法に於て自在なるの力を尽さず。但だ智をもつて知る可く、言をもつて辨ず可からず。復た甚だ多しと雖も、亦た漸、頓・不定、秘密を出でず。今の法華は是れ顕露にして秘密に非ず、是れ漸頓にして漸漸に非ず、是れ合にして不合に非ず、是れ醍醐にして四味に非ず、是れ定にして不定に非ず。此の如く分別するに、此経、衆経の相と異なり。

 [8]又た異とは、余教は当機益物にして如来施化の意を説かず。此の経は、仏、設教の元始、巧に衆生の為に頓・漸・不定・顕密の種子を作し、中間に頓・漸・五味を以て調伏し長養して而も之を成熟し、又た頓・漸の五味を以て而も之を度脱し、並びに脱し、並びに熟し、並びに種えて番番に息まず、大勢威猛三世に物を益することを明す。具さに信解品の中に説くが如し、余経と異なり。

 [9]又た衆経には、咸く道樹に師の実智始めて満じて道樹を起つて始めて権智を施すと云ふ。今経には、師の権実、道樹の前に在つて久久に已に満ずることを明す。諸経には、二乗の弟子、実智に入ることを得ず、亦た権智を施すこと能はざることを明す。今経には、弟子の入実甚だ久しく、亦た先に解して権を行ずることを明す。又た衆経には、尚ほ道樹の前の師と弟との近近の権実を論ぜず、況んや復た遠遠をや。今経には、道樹の前の権実長遠なることを明す。補処も世界を数ふるに知らず、況んや其の塵数をや。経に云はく、「昔し未だ曾て説かざる所を今皆な当に聞くことを得べし」と。殷勤に称讃すること、良に以あるなり。当に知るべし、此の経、諸教に異なることを。

 [10]二に引証とは、文殊の問に答ふる偈に云ふが如し、「我れ灯明仏の本の光瑞此の如くなるを見る、是を以て知る、今仏、法華経を説んと欲したまふことを」と。何んぞ但だ二万億のみならんや、大通智勝、及び五仏の章の中の三世の仏説皆な法華と名くるなり。文に云はく、「念仏、光明を放ちて実相の義を助発す」と。又云はく、「諸法実相の義、已に汝等が為に説く」と。又云はく、「無量の衆に尊まれて、為に実相の印を説く」と。此も亦た今古同じく実相を以て体と為すなり。文に云はく、「仏、当に法雨を雨らし求道の者を充足すべし」と。即ち是れ会三帰一の法雨、仏道の因を求むる者をして充足せ令め、乃至一切皆な会して充足令せむ。若し開近顕遠の法雨は、仏道の果を求むる者をして充足せ令む。文に云はく、「諸の三乗を求むる人、若し疑悔あらば、仏、当に為に除断して尽く余りあること無から令むべし」と。又云はく、「諸仏の法、久しうして後要ず当に真実を説くべし」と。即ち是れ三乗・五乗・七方便・九法界等の疑を断じて皆な信を生ぜしむ、此れ経の用を証するなり。又た如来神力品に云はく、「要を以て之を言はば、如来の一切所有の法、如来の一切自在神力、如来の一切秘要の蔵、如来の一切甚深の事、皆な此経に於て宣示し顕説す」と。一切法とは、権実の一切法にして皆な摂するなり、此れ経名を証するなり。一切自在神力とは、内用を自在と名け外用を神力と名く、即ち用を証するなり。一切秘要の蔵とは、器に非れば授くること莫きを秘と為し、正体を要と為し、含容する所多くして積聚無きを蔵と名く、此れ体を証するなり。一切甚深の事とは、実相を甚深と名け、実相の為に因を修するを深因と名け、実相を究竟するを深果と名く。又法師品に云はく、「若し此の経を聞かば、乃ち是れ善く菩薩の道を行ず」と。深因なり。「仏道を求むる者、咸く我前に於て妙法華経の一句を聞き、乃至一念も随喜せんに、我れ皆な授記を与ふ」と乃至「須臾も之を聞かば、即ち究竟三菩提の深果を得ん」と、此れ宗を証するなり。二文を引く所以んは、古仏は事定れば要略を挙げて以つて疑を釈し、今仏は説き竟つて要略を挙げて以つて付囑す。中間は正しく機に当つて広く説く、故に引いて証せざる耳。若し引かば、開示悟入即ち其の文なり。「為大事因縁故」は名を証し、「仏之知見」は体を証し、「聞示悟入」は宗を証し、「為令衆生」は用を証し、此れ余経に異なるは教を証するなり。又た薬王品に十譬を挙げて教を歎ず、今其の六を引く。「大いなること海の如く、高きこと山の如く、円なること月の如く、照すこと日の如く、自在すること梵王の如く、極まれること仏の如し」と。海は是れ坎の徳。万流帰するが故に、同一鹹なるが故に。法華も亦た爾り、仏の証得する所にして、万善同じく帰し、同じく仏乗に乗ず。江河川流には此の大徳無し、余経も亦た爾り。故に法華は最大なり。山王最も高し、四宝の所成なるが故に、純ら諸天の居なるが故に。法華も亦た爾り、四味の教の頂に在つて四の誹謗を離る、開示悟入して純ら一根一縁同一道味なり、純ら是れ菩薩にして声聞の弟子無きが故なり。月は能く虧盈なるが故に、月は漸く円なるが故なり。法華も亦た爾り、同体の権実なるが故に、漸を会して頓に入るが故なり。灯炬星月の闇と共に住するは、諸経の二乗の道果を存して小と並び立つに譬ふ。日は能く闇を破するが故なり。法華は化城を破し、草庵を除くが故なり。又た日は星月を映奪して現ぜざら令むるが故なり。法華は迹を払ひ、方便を除くが故なり。輪王は四域に於て自在なり、釈王は三十三天に於て自在なり、大梵は三界に於て自在なり。諸経は或は俗諦に於て自在なり、或は真諦に於て自在なり、或は中道に於て自在なれども、但だ是れ歴別の自在にして大自在に非ず。今経は三諦円融して最も自在を得れば、大梵王に讐ふ。余経は衆生を抜いて生死を出すこと、五仏子の凡夫に於て第一なるが如し。或は衆生を抜いて涅槃を出すこと、菩薩の無学の上に居するが如し。今の経は衆生を抜出して方便教の菩薩の上に過ぎて即ち法王と成らしむ、最も第一と為す。諸の譬喩を引いて教相の最大なるな明す。例して知る。用・宗・体・名も亦た大なること海の如く、境・智乃至利益も亦た大なること海の如し。教相は山の如く、四味の教の上に在り、用・宗・体・名・境・智・利益も亦復た是の如し。教相は虧盈円満なること月の如し、用・宗・体・名・境・智・利益も亦復た是の如し。教は化城を破す、用・宗・体・名・境・智・利益も亦復た是の如し。教相は自在なり、余も亦た是の如し。教相は王中の王なり、余も亦た是の如し。但だ文を引いて教を証するのみに非ず、余の義も亦た成ず。

 [11]三に生起とは、能生を生と為し、所生を起と為す。前後次第あつて、麁細相違せず。肇の云はく、「名は物を召すの功無く、物は名に応ずるの実無し。名無く物無し、名・物安んぞ在らん」と。蓋し第一義の中の無相の意耳。世諦は言を為すに名無くんば以つて法を顕はすこと無し、故に初に名を釈す。名は法に名く、法は即ち是れ体なり。名を尋ねて体を識る、体は宗に非れば会せす。体に会して自行已に円なれば、体より用を起して含識を導利す。利益既に多ければ、須らく教相を分別すべきなり。神力品の中は教の次第に約す。一切法本と皆な仏法なり。大経に云はく、「一切の世諦、若し如来に於ては即ち是れ第一義諦なり、衆生顛倒して仏法に非ずと謂へり」と。今は明かに言つて之を示す、故に一切法と言ふなり。此の法を説かんと欲して先に神力を以て駭動す、故に一切自在神力と言ふなり。既に変通を見て醒悟し渇仰すれば、為に教を説くことを得。教は実相を詮はす、故に秘密の蔵と言ふなり。教を禀けて修行するに因果あり、故に甚深の事と言ふなり。四義と余経との同異を分別せんと欲すれば、次に教相を明す耳。序品は行の次第に約す。初に経巻若しは善知識に従つて聞見する所あるは、即ち名を聞くなり。聞くが故に理を推して体顕はる。体を顕はすには行を須ゆ、行は即ち因果なれば宗なり。行は自ら惑を排し亦た衆生を利す、是れ用なり。同異を分別するは教相なり。開示悟入も亦た行の次第に約す。法は本と開閉無し、今呼んで方便の門開くと為すは、此れ名を聞くなり。真実の相を示すは体なり。迷より悟を得るは因を悟るなり。因に由るが故に果を悟るは宗なり。悟るが故に深く入り、亦た他をして入ら令むるは用なり。同異を分別するは教なり。今の五義は、序品の行の次第を扶くるに依る。

 [12]四に開合とは、五章共に一経を釈す、種種に分別するは解し易から令むるが故なり。凡そ三種の間合あり、五種・十種・譬喩を謂ふ。初に釈名は通じて事理を論じ、顕体は専ら理を論じ、宗用は但だ事を論じ、教相は事理を分別す。釈名は通じて教行を説き、顕体は教に非ず行に非ず、宗・用は但だ行、教相は但だ教なり。釈名は通じて因果を説き、顕体は因に非ず果に非ず、宗は自の因果、用は教化の因果、教相は上の法を分別する耳。釈名は通じて自行化他を論じ、体は自に非ず他に非ず、宗は是れ自行、用は是れ化他、教相は自他を分別す。釈名は通じて説黙を論じ、体は説に非ず黙に非ず、宗は黙、用は説、教相は分別す云云。十種とは、釈名は総じて三軌を論じ、体・宗・用は開いて三軌に対し、教相は三軌を分別す。釈名は総じて三道を論じ、体・宗・用は開して三道に対し、教相は三道を分別す。乃至第十に釈名は総じて三徳を論じ、体・宗・用は開して三徳に対し、教相は三徳を分別す云云。譬喩とは、譬へば総じて人身と名け、身を開すれば則ち識・命・煖あり、諸身を分別するに貴賎賢愚種種の差降あるが如し。人身は名を讐へ、識は以て体を譬へ、命は以て宗を譬へ、煖は以て用を譬へ、分別は教相を讐ふ云云。

 [13]五に料簡とは、若し蓮の為の故の華は、華果必ず倶なれば、将た因中有果に堕せざらん耶。答ふ、因中に果あるは旧医の邪法、已に初教の為に破せらる。尚ほ麁の権実の義に非ず、況んや是れ妙因妙果にして新医真乳の法ならん耶。問ふ、華は以て権を喩ふ、権は是れ小乗の法ならば則ち応に草庵を破すべからず。草庵既に破せば、何んぞ華を以て権を喩ふることを得ん。答ふ、小乗は是れ化他の権なり、是故に須らく破すべし。今は自行の権を明す、故に華を以て喩ふる耳。問ふ、文の内に火宅より医子に至るまでの凡そ七譬は悉く蓮華を明さず、何を以てか此を取つて題と為すや。答ふ、七の譬は是れ別、蓮華は是れ総、総を挙げて別を摂す、故に篇首に冠らしむるなり。問ふ、一切の法皆な仏法なり。何んの意ぞ権を簡んで実を取つて体と為すや。答ふ、若し権を開して実を顕せば、諸法皆な体なり。若し権を廃して実を顕すは、前に用ふる所の如し。問ふ、何んが故ぞ双べて因果を用へて宗と為すや。答ふ、因に由つて果を致す、果は因の為に辨ぜらる。若し能辨に従へば因を以て宗と為し、若し所辨に従へば果を以て宗と為す。二義本と是れ相成す、単に取ることを得ず。又た迹本の二文、倶に因果を説くが故なり。問ふ、宗を論ずるに化他の因果を簡び、用を明すには倶に自他の権実を取るや。答ふ、宗は自行を論ず、故に須らく他を簡ぶべし。用は是れ他を益す、是の故に双べ取る。又た問ふ、用は是れ化他ならば、亦た自行の権実を須ひざるべし。答ふ、自利を以て他を利せんと欲するが故なり。並す、宗も亦応に然るべし、自ら化他の因果を行ぜんと欲す、是故に応に他を取るべきなり。答ふ、化他の因果は仏菩提を致すこと能はず、是の故に取らず。並す、用の他の権実も亦た他をして極に至ら令むること能はざれば亦応に取るべからず。答ふ、他は此を須ひて利するに宜しく、是の故に取るなり。問ふ、宗用倶に智断を明す、云何んが分別せん。答ふ、自行は智徳を以て宗と為し断徳を用と為す。若し化他は自他の智断を倶に宗と為し、化他の智断を倶に用と為す。問ふ、何んが故ぞ五章にして四ならず六ならざるや。答ふ、設ひ四・六と作すも亦復た疑を生じ無窮の問に堕せん、非なり。問ふ、経経各異意あり、那んぞ五義をもつて共に衆経を釈することを得ん耶。答ふ、若し経経別して釈せば、但だ別を得て同を得ず。今共に五義を論ずれば、同を得て別を失せず。

 [14]六に観心を明さば、標章より料簡に至るまで悉く観心を明す。心は幻焰の如く但だ名字のみあり、之を名けて心と為す。適に其れ有と言ふも色質を見ず、適に其れ無と言ふも復た慮想を起す。有無を以て思度すべからざるが故に、故に心を名けて妙と為す。妙心軌とるべし、之を称して法と為す。心法は因に非ず果に非ず、能く理の如く観ずれば即ち因果を辨ず、是を蓮華と名く。一心、観を成ずるに由つて亦た転じて余心を教ゆ、之を名けて経と為す。釈名竟る。心は本と名無く、亦た無名無し、心は不生に名く、亦復た滅せず、心即ち実相なり。初めて観ずるを因と為し、観成ずるを果と為す。心を観ずるを以ての故に、悪覚起らず。心数の塵労、若しは同、若しは異、皆な化せられて転ず。是を観心をもつて、五章を標し竟ると為す。観心の引証とは、釈論に云はく、「一陰を色と名け、四陰を名と名く」と。心は但だ是れ名のみなり。大経に云はく、「能く心性を観ずるを名けて上定と為す」と。上定とは第一義定なり、心是れ体なることを証す。大経に云はく、「夫れ心ある者は皆な当に三菩提を得べし」と、心は是れ宗なり。遺教に云はく、「心を一処に制すれば、事として辨ぜざること無し」と、心は是れ用なり。釈論に云はく、「三界は別の法無し、唯だ是れ一心の作」と、心能く地獄、心能く天堂、心能く凡夫、心能く賢聖なり。覚観の心は是れ語の本、心を以て心を分別するは心是れ教相なることを証するなり。観心の生起とは、心を以て心を観ずるに能観の心に由つて所観の境あり。観の境に契ふを以つての故に。心に従つて解脱を得るが故なり。若し一心、解脱を得れば能く一切の数をして皆な解脱を得せ令むるが故なり。心王・心数の同起偏起等を分別するは、即ち是れ教相なるが故なり。観心の開合とは、心は是れ諸法の本なれば心は即ち総なり。別して説くに三種の心あり。煩悩の心は是れ三支、苦果の心は是れ七支、業の心は是れ二支なり。苦心即ち法身なるは、是れ心の体なり、煩悩心即ち般若なるは、是れ心の宗なり。業心即ち解脱なるは、是れ心の用なり。即ち心を開して三と為すなり。十二因縁の心の生を分別するに即ち六道の差降あり、心の滅を分別するに即ち四聖の高下あり。是を教相は開合を兼ぬと為すなり。観心の料簡とは、問ふ、事解已に足る、何んぞ煩はしく心を観ぜん。答ふ、大論に云はく、「仏、信行の人の為には樹を以て喩と為し、法行の人の為には身を以て喩と為す」と。今も亦是の如し。文字の人の為には事に約して解釈し、座禅の人の為には観心の解を作す。又た論に四句を作して評す。慧あつて多聞無きは是れ実相を知らず、譬へば大闇の中には目あれども見る所無きが如し。多聞にして智慧無きは亦た実相を知らず、譬へば大明の中には灯あれども而も照すこと無きが如し。多聞利智慧なるは、是の所説応に受くべし。聞無く智慧無きを、是を人身牛と名く。今聞慧兼ね修せ使めんとして、義観双べ挙ぐ。百論に盲跛の譬あり、牟子に説行の義あり。華厳に云はく、「譬へば貧窮の人、日夜に他の宝を数へて自ら半銭の分無きが如し」と、偏聞の失なり。下の文に云はく、「未だ得ざるを得たりと謂ひ、未だ証せざるを証すと謂ふ」と、偏観の失なり。何となれば、視聴のみならば馳散すること風中の灯の物を照して了ならざるが如し。但だ耳より入り口より出づるを貴んで都べて心を治せず、自ら是として人を陵いで見を増し非を長ず。刃を把つて自ら傷る。解の悪道を牽くことは、其の観を習はざるに由るなり。若し観心の人、心に即して而も是、己れ則ち仏と均しと謂ひ、都べて経論を尋ねずして増上慢に随す。此れ則ち炬を抱いて自ら焼かる。行の悪道を牽くことは、聞を習はざるに由るなり。若し貧窮を免れんと欲せば、当に三観を勤むべし。上慢を免れんと欲せば、当に六即を聞くべし。「世間の相常住」とは、理即なり。「諸の過去の仏に於て若し一句を聞くことあらば」とは、名字即なり。「深信随喜」とは、観行即なり。「六根清浄」とは、相似即なり。「実智の中に安住す」とは、分証即なり。「唯だ仏と仏とのみ実相を究尽す」とは、究竟即なり。心を修して内観すれば、則ち法財あり。正信にして外に聞けば復た上慢無し。眼慧明聞、利益を具足す、何んぞ観解せざることを得ん耶。