◎序品第一
〔仏世に出づること難く、仏是れを説くこと難し、此を伝訳すること難く、自ら開悟すること難し、師の講を聞くこと難く、一遍にして記すること難し。余二十七にして、金陵に於て聴受し、六十九にして、丹丘に於て添削す。留て後賢に贈て、共に仏慧を期せん〕
[1]委しく経題を釈すること已に上に説くが如し。
[2]序とは庠序と訓ず、謂く階位・宝主・問答、悉く庠序なり。経家は義に従ふ、次・由・述を謂ふなり、如是等の五事は経首に冠むる次序なり、放光六瑞は起発の端にして由序なり、問答釈疑は正説の弄引にして叙述なり、此三義を具す、故に釈して序と為す。
[3]品とは中阿含に跋渠と云ふ、此に翻じて品と為す、品とは義類同じき者を聚めて一段に在く、故に品と名くるなり。或は仏自ら唱る品あり、梵網の如し、或は、結集の置く所あり、大論の如し、或は訳人の添足あり、羅什の如し、今の薬王本事は是れ仏の唱ふるなり、妙音観音等は是れ経家にして訳人未だ聞かず。
[4]諸品の始め故に、第一と言ふ。
[5]仏は縁に赴て散花貫花の両説を作したまへり、結集者は説を按じて之を伝ふ、論者は経に依て之を申べ皆節目せず、古の講師は但だ義理を敷弘して章段を分たず、若し純ら此意を用ひば、後生殆んど起尽を識らざらん。又仏は貫散を説けども、集者は義に随て品を立つ。増一に云く、契経一分・律一分・阿毘曇一分と。契経に更に四を開く、謂く増一と長と中と雑となり、増一阿含は人天の因果を明し、長阿含は邪見を破し、中阿含は深義を明し、雑阿含は禅定を明す。律に 五部及び 八十誦を開き、阿毘曇に 六足・八犍度等を開く、阿含に謂ふ、施と戒と慧の六度皆足なりと。根性と道と定等の八種の聚を謂ふなり。天親、論を作て、七功徳を以て序品を分ち、五示現もて方便品を分つ、其余の品は各々処分有り。
[6]昔、河西の憑・江東の瑤は此意を取て経文を節目す、末代には尤も煩にして、光宅転た細なり、重雰太清を翳し、三光之が為めに耀を戢む、津を問ふ者の貴ばざる所なり、曇鸞の云く、細科煙の如くあがり雑礪塵の如く飛ぶと、蓋し若しは過ぎ若しは及ばざるなり。廬山の龍師は、文を分て序・正・流通と為す、二十七品統て唯だ両種なり、序より法師に至るは言方便・言真実なり、理一にして三を説くが故なり、宝塔の下は身方便・身真実なり、実に遠にして近と唱るが故なり、又方便より安楽行に至るは是れ因門、踊出より下は是れ果門なり。斉の中興の印、小山の瑤は、龍に従て経を受け分文同じ。玄暢は序より多宝に至るを因分と為し、勧持より神力に至るを果分と為し、嘱累より経を尽すまでを護持分と為す。又有る師の云く、序より学無学人記に至るは是れ法華の体、法師より嘱累に至るは受持の功徳を明し、薬王より経を尽すまでは諸の菩薩の本願を美むと。有る師は四段と作す、初品を序段と為し、方便より安楽行に至るは開三顕一段、踊出より分別功徳に訖るは開近顕遠段、後去の余勢は流通段なり。光宅の雲は印に従て経を受く、初に三段、次に各々二を開く、謂く通序と別序なり、正は謂く因門と果門、流通は謂く化他と自行なり、二序に各々五あり、二正に各々四あり、二流通に各々三あり、合して二十四段あり云云。夫れ経文を分節するは悉く是れ人情にして、蘭菊各々其の美を擅にす、後生応に是非諍競すべからず、三の益無く、一の道を喪はん、三の益とは世界等の三悉檀なり、一の道とは第一義悉檀なり。
[7]天台智者は文を分て三と為す、初の品を序と為し、方便品より分別功徳の十九行の偈に訖るまで凡て十五品半を正と為し、偈より後、経を尽すまで凡て十一品半を流通と名く。又一時分て二と為す、序より安楽行に至る十四品は迹に約して開権顕実す、踊出より経を訖る十四品は本に約して開権顕実す、本迹に各序・正・流通あり、初品を序と為し、方便より授学無学人記品に訖るまでを正と為し、法師より安楽行に訖るまでを流通と為す、踊出より弥勒已問斯事仏今答之に訖るまで半品を序と名け、仏告阿逸多より下分別功徳品の偈に訖るまでを名けて正と為し、此れより後、経を尽すまでを流通と為す、今の記は前の三段に従て文を消するなり。
[8]問ふ、一経に如何ぞ二序ある、答ふ、華厳は処々に衆を集め、阿含は篇々に如是あり、大品は前後に付嘱あり、皆一部に乖かす、両序何ぞ妨げん、今五義を安ぜざるは本門は次首に非るが故なり、迹門に但だ単に流通するは説法未だ竟らざればなり、有無の意爾か云ふ。
[9]今文を帖するに四と為す、一には列数、二には所以、三には引証、四には示相なり。列数とは、一には因縁、二は約教、三には本迹、四には観心なり。始め如是より而退に終るまで、皆四意を以て文を消す、而して今略して書す、或は三二一なり、貴むこと意を得るに在り、筆墨を煩はさす。
[10]二に所以とは、問ふ、若し略ならば則ち一ならん、若し広ならば四に匪じ、所以云何ん。答ふ、広ければ則ち智をして退せしめ、略なれば則ち意周ねからず、我れ今処中に説て、義をして明了にし易からしむ。因縁は亦感応と名く、衆生機無ければ近しと雖も見ず、慈善根の力は遠くとも而も自ら通じ、感応道交す、故に因縁の釈を用ふるなり。夫れ衆生は脱を求む、此機衆し、聖人の応を起す、応も亦衆し、此義更に広し、処中何れにか在る、然れば大経に云く、慈善根の力に無量の門あれども。略すれば則ち神通なりと。若し十方の機感ずればひろきこと虚空の若くならん。今娑婆国土を論ずるに、音声仏事をなすに則ち甘露の門開く、教に依て釈すれば処中の説明かなり。若し機に応じて教を設くれば、教に権実浅深の不同あらん、須らく指を置て月を存し、迹を亡じて本を尋ぬべし。故に、肇師の云く、本に非ざれば以て迹を垂るゝこと無く、迹に非んば以て本を顕はすこと無しと、故に本迹の釈を用ふるなり。若し迹を尋ぬれば迹広く、徒らに自ら疲労す、若し本を尋ぬれば本高く、高ふして極む可らず、日夜に他の宝を数るに自ら半銭の分無からん、但だ己心の高広を観ずれば無窮の聖応を扣く、機成じて感を致し己利を逮得す、故に観心の釈を用ふるなり。
[11]三に引証、方便品に云く、十方の諸仏、一大事因縁の為めの故に世に出現したまふと、若し人天小乗は一に非ず大に非ず、又仏事に非ず機感を成ぜず、実相を一と名け広博を大と名く、仏、此を指して事と為し世に出現したまふ、是を一大事因縁と名くるなり。又云く、種々の法門を以て仏道を宣示すと、当に知るべし、種々の声教、若しは微、若しは著、若しは権、若しは実、皆仏道の為めに而も筌罤と作る。大経に云く、麁言及び軟語、皆第一義に帰すと、此れ之を謂なり。寿量品に云く、今天人阿修羅、皆我れ少にして出家し、釈氏の宮を出で、伽耶城を去ること遠からずして三菩提を得と謂へり、然るに我れ実に成仏してより已来、無量無辺阿僧祇劫なり、斯の方便を以て衆生を導利すと。方便品に又云く、我れ本と誓願を立つ、普ねく一切衆をして亦同じく此道を得、我が如く等しくして異なること無らしめむと。又五百受記品に云く、内、菩薩の行を秘し、外、是れ声聞なりと現ず、実に自ら仏土を浄ふして、衆に三毒ありと示し、又邪見の相を現ず、我が弟子、是の如く方便して衆生を度すと。此れ則ち師弟皆な本迹を明すなり云云。譬喩品に云く、若し人汝が説く所を信ぜば、即ち我を見、亦汝及び比丘僧并に諸の菩薩を見ると為すと。当に知るべし、所聞あるに随て諦心観察すれば、信心の中に於て三宝を見ることを得、説を聞くは是れ法宝、我を見るは是れ仏宝、汝等を見るは是れ僧宝なり云云。
[12]四に相を示せば、且らく三段に約して因縁の相を示す、衆生久遠に仏の善巧に仏道の因縁を種へしむるを蒙り、中間に相ひ値て更に異の方便を以て第一義を助顕し而して之を成熟し、今日雨花動地して如来の滅度を以て而して之を滅度したまふ。復次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す、地涌等是なり。復次に中間を種と為し、四味を熟と為し、王城を脱と為す、今の開示悟入の者、是れなり。復次に今世を種と為し、次世を熟と為し、後世を脱と為す、未来得度の者是れなり。未だ是れ本門ならずと雖も、意を取て説くのみ。其間に節々に三世九世を作り、種と為し熟と為し脱と為す、亦応に妨げなかるべし、何を以ての故に、如来自在神通の力、師子奮迅大勢威猛の力は自在に説けばなり。是の如き等を以ての故に序分有るなり。衆は希有の瑞を見て顒々として欽渇し、具足の道を聞んと欲す、仏は機に乗じて化を設け、仏の知見に開示し悟入せしめたまふ、故に正説分有るなり、但だ当時に大利益を獲るのみに非ず、後の五百歳、遠く妙道に沾ふ故に流通分あるなり。
[13]又教相を示せば、此序は人天清升の為めに序と作るに非ず、二乗小道の為めに序と作るに非ず、即空通三の為めに序と作るに不ず、独り菩薩法の為めに序と作るに不ず、乃ち正直に方便を捨て、但だ無上仏道を説かんが為めに序と作るのみ。此正は、世間を指して正と為すにあらず、蛍光の析智を指して正と為すにあらず、灯炬の体法智を指して正と為すにあらず、星月の道種智を指して正と為すにあらず、乃ち日光の一切種智を指して正と為す。此流通は、楊葉木牛木馬の為めに而も流通と作るに非らず、半字を流通するに非ず。共字を流通するに非らず、別字を流通するに非ず、純ら是れ円満修多羅満字の法を流通するなり。
[14]次に本迹を示せば、久遠に菩薩の道を行ぜし時、先仏の法華経を宣揚したまふに亦三分上中下の語有り、亦本迹あり、但だ仏と仏相望するに是れ則ち窮ること無し。別して最初成仏の時、説く所の法華の三分上中下の語を取て、専ら名けて上と為し、之を名けて本と為す、何を以ての故に、最初成仏初説の法なるが故に上と為し本と為す、此意知る可し。中間の行化、大通智勝、然灯等の仏を助けて法華の三分を宣揚する者、但だ名けて中と為し、但だ名けて迹と為す、何を以ての故に、前に上有るが故に、前に本有るが故なり。今日王城に説く所の三分は、但だ名けて下と為し、但だ名けて迹と為す、乃至、師子奮迅の力。未来永永に説く所の三分も亦最初を指して上と為し本と為す。譬へば大樹の千枝万葉有りと雖も、其根本を論ずれば、伝伝して相指することを得ず、同じく一根を宗とするが如し、此喩解す可し云云。
[15]次に観心の相を示せば、当に己心に約して戒・定・慧を論じて三分と為すべし、修行には戒を以て初めとし、定は中、慧は後なり、若しは法門には慧を以て本と為し、定・戒を迹と為す。又戒・定・慧各各三分を作す、前方便と、白四羯磨と結竟を戒の三分と為し、二十五方便と正観と歴縁と、又善入出仕百千三昧等を定の三分と為し、因縁所生法の即空即仮即中を慧の三分と為す。
[16]已に三分に約して四種の相を示す。
[17]当に此義を用ひて、如是より去て作礼而退に至る已還を、悉く四意を作て文を消すべし、但だ此義に準望して比知すれば則ち易し、分別顕示するときは其辞則ち難し、行者善く之を思量せよ、語異にして意同じ、千車轍を共にし万流鹹会するものなり。
[18]序に通別有り、如是より去て却坐一面に至るは通序なり、爾時世尊より去て品に至るは別序なり、通序は諸教に通じ、別序は別して一経なり、通序は五、或は六或は七と為す云云。如是とは所聞の法体を挙ぐ。我聞とは能持の人なり。一時とは聞持の和合、異時に非るなり。仏とは時に仏に従て聞くなり。王城耆山は聞持の所なり。与大比丘とは是れ聞持の伴なり、此れ皆因縁和合して次第に相ひ生ずるなり。
[19]又如是とは、三世の仏の経の初めに皆如是を安ず、諸仏の道同にして世と諍はざるは、世界悉檀なり。大論に云く、時方を挙げて人をして信を生ぜしむると、為人悉檀なり、又外道の阿欧の二字の如ならず是ならざるを対破するは対治悉檀なり、又如是とは信順の辞なり、信ずれば則ち所聞の理会し、順ずれば則ち師資の道成ると、即ち第一義悉檀なり。因縁の釈甚だ広し、具に載する事能はず云云。
[20]教に約して釈せば、経に三世の仏の法は初め皆如是と称す、先仏に漸・頓・秘密・不定等の経あり、漸に又三蔵・通・別・円あり、今仏も亦爾り、諸経同じからざれば如是も亦異る、応に一匙もて衆戸を開くべからず。又仏と阿難と二文異ならざるを如と為し、能詮の所詮を詮するを是と為す、今阿難は、仏の何等の文を伝へ何等の是を詮する、漸の文を以て頓の是を伝へ、偏の文を以て円の是を詮す可らず、伝詮若し謬れば則ち文は如ならず、文如ならざれば則ち理是ならず、此義明め難し、須らく意を加へて詳審すべし。
[21]且らく漸教に依て分別せば、仏の明さく、俗には文字有り、真には文字無しと、阿難、仏の俗諦の文字を伝へて仏説と異たらず、故に如と名く、此俗文に因て真諦の理に会す、故に名けて是と為す、此れ則ち三蔵経の初めに如是を明すなり。
[22]仏の明さく、色に即して是れ空、空即ち是れ色、色空なり空色なり、二無く別無しと、空色異ならざるを如と為し、事に即して真なるを是と為す、阿難、仏の文を伝へて異ならざるを如と為し、能詮即ち所詮なるを是と為す。此れ則ち通教の経の初めの如是なり。
[23]仏の明さく、生死は是れ有辺、涅槃は是れ無辺なり、生死の有辺を出でて、涅槃の無辺に入り、涅槃の無辺を出でて中道に入ると、阿難は此有を出でて無に入り、無を出でて中に入るを伝へて、仏説と異なる無きを如と為し、浅より深に至りて無非なるを是と曰ふ、此れ則ち別教の経の初めの如是なり。
[24]仏の明さく生死即ち涅槃、亦即ち中道なり、況んや復涅槃、寧ろ中道に非ざらんや、真如法界・実性実際・一切処に徧して仏法に非ること無しと、阿難、此れを伝へて仏説と異なること無し、故に名けて如と為す、如如不動の故に名けて是と為す、是れ則ち円教の経の初めの如是なり。若し俗を動じて如に入らば三蔵の義のみ、俗を動ぜずして即ち是れ如なるは通教の義のみ、如を動じて如に入らば別教の義のみ、如を動ぜずして而して是れ如なるは円教の義なり云云。
[25]若しは頓の如是は円と同じく、不定の如是は前後更互す、秘密は隠れて而も伝へず。八教の網を敷て法界の海に亘す、其漏るること有らんことを懼る、況んや羅の一目、若為んぞ独り張らん、又一時に四の箭を接して地に堕せしめざるも、未だ敢て捷しと称せず、鈍驢を策ち跛鼈を駆るも尚ほ一を得ず、何に況んや四をや云云。
[26]本迹に約して如是を釈せば三世十方、横竪皆爾り。過去遠遠、現在漫漫、未来永永、皆悉く是の如し、何れの処か是れ本、何れの処か是れ迹ならん。且らく釈尊に約するに、最初成道の経の初めの如是は是れ本なり、中間に作仏して説きたまへる経。今日説く所の経の初の如是は皆迹なり。又阿難伝ふる所の如是は迹なり、仏説きたまふ所の如是は本なり。又師弟の如是に通達すること今日に始まるに非ず、亦中間に非るは本なり、而も中間、而も今日なるは迹なり。
[27]観心もて釈せば、前の悉檀・教・迹等の諸の如是の義を観ずるに、悉く是れ因縁生の法なり、縁生即空なるは即ち通観なり、因縁即空即仮たるは別観なり、二観を方便道と為し、中道第一義に入ることを得て二諦を照するは亦通亦別の観なり。上来悉く是れ中道なるは非通非別の観なり。下の文に云く、若し人汝が説く所を信ぜば、即ち為れ我を見、亦汝及び比丘僧並に諸の菩薩を見るなりと、即ち観行の明文なり。信は則ち機を論ず、見は則ち是れ応、即ち因縁なり。又信に浅深有り、見に権実有りて、種種に分別すること同じからざるは、即ち教を分別するなり。又法華の文を信すれば、則ち実相の本を見る。若し身子の化を見れば、則ち龍陀の本を見る、若し始成の釈尊を見たてまつるときは、亦久成の先仏を見たてまつる、若し千二百の比丘、八万の菩薩を見んものは、亦其本を見るなり。又経を聞て心に信じて疑無く、此信心明浄なるを覚るは、即ち是れ仏を見たてまつるなり、慧数分明なるは、是れ身子を見るなり、諸数分明なるは、是れ衆の比丘を見るなり。慈悲心浄は是れ諸の菩薩を見るなり。心に約して四と為し帖釈するに転た明かなり。
[28]若し他経を釈せば、但だ三意を用ひて、未だ本を発し迹を顕はさざるが為の故なり、当に知るべし、今の経の三釈は他と同じく、一釈は彼と異なる云云。
[29]四番に如是を釈し竟る云云。
[30]我聞とは或は聞如是といふ、蓋し経本同じからず、前後互に挙ぐるのみ、今例して四釈と為す、大論に云く、耳根壊せずして声可聞の処に在り、作心して聞んと欲し衆縁和合す、故に我聞と言ふ。問ふ、応に耳聞と言ふべし、那ぞ我聞と云ふや、答ふ、我は是れ耳の主、我を挙げて衆縁を摂す、此れ世界の釈なり、阿難、高きに登て我聞と称す、大衆応に悲号す、適に如来を見たてまつり、今我聞と称す、無学飛騰して偈を説く、仏話経に明さく、文殊結集するに先に題を唱へ、次に如是我聞と称す、時衆悲号すと、此れ為人の釈なり。阿難、高きに登て我聞と称して衆の疑を遣る、阿難の身、仏と相似たるも、仏より短きこと三指なり、衆疑らく、釈尊重ねて出るか、或は他方の仏来るか、或は阿難成仏するかと、若し我聞と唱せば三疑即ち遣る、此れ対治の釈なり。阿難は学人、俗に随て我聞と称す、第一義の中には我無く聞無し、古来の衆釈、同じく是れ因縁の一意のみ。
[31]教に約して解釈せば、釈論に云く、凡夫に三種の我あり、見と慢と名字とを謂ふ、学人に二種、無学に一種あり、阿難は是れ学人、邪我無くして能く慢我を伏す、世の名字に随て我と称するに咎無しと、此れ三蔵の意を用ひて我を釈するなり、十住毘婆沙に云く、四句に我と称するは皆邪見に堕す、仏が正法の中には我無し、誰か聞んと、此れは通教の意を用ふるなり。大経に云く、阿難は多聞の士、我・無我而も不二なりと知り、双て我・無我を分別すと、此れ別教の意を用ふるなり。又阿難は、我・無我而も不二と知て、方便して侍者と為り、如来の無礙の智慧を伝持す、自在の音声を以て、権を伝へ実を伝ふ、何の不可か有らん、此れ円教を用ひて我を釈するなり。又正法念経に三阿難を明かす、阿難陀、此には歓喜と云ふ、小乗蔵を持す。阿難跋陀、此には歓喜賢と云ふ、雑蔵を受持す。阿難娑伽、此には歓喜海と云ふ、仏蔵を持す。阿含経に典蔵阿難有り、菩薩蔵を持す、蓋し一人に四徳を具するを指す、四法門を伝持す、其義自ら顕かなり云云。
[32]本迹に釈せば、若し未だ会入せざれば、阿難は世に随て我と名くと言ふ可し、若し迹を発して本を顕せば、空王仏の所にして同時に発心せるも、方便して、伝法の人と為るを示す、何ぞ能くせざる所あらん。
[33]観心に釈せば、因縁所生の法を観ずるに、即空即仮即中なり、即空とは我無我なり、即仮とは我を分別するなり、即中とは真妙の我なり云云。
[34]聞を釈せば、阿難は仏の得道の夜生れ、仏に侍すること二十余年、未だ仏に侍せざる時は応に是れ聞かざるべし。大論に云く、阿難は集法の時自ら云く、仏の初めの転法輪、我れ爾の時見ず、是の如きは展転して聞けりと、当に知るべし、悉くは聞かざるなり。旧解に云く。阿難仏覚三昧を得て、力自ら能く聞くと。報恩経に云く、阿難は四の願を求む、未だ聞かざる所の経をば、願はくは仏重ねて説き給へと、又云く、仏口密に為に説くなり。胎経に云く、仏金棺より金臂を出し、重ねて阿難の為めに入胎の相を現じたまふ、諸経皆聞く、況んや余処の説をや。此文に云く、阿難記を得て即ち本願を憶し、先仏の法を持すること皆今の如くなり、此れ因縁の釈なり。
[35]若し教に約せば、歓喜阿難は面は浄満月の如く、眼は青蓮華の若し、親しく仏旨を承くること仰げる完器の如し、伝へて以て人を化すこと異瓶に瀉ぐが如し、此れ聞聞の法を伝ふるなり。歓喜賢は、学地に住して空無相の願を得、眼・耳・鼻・舌の諸根漏さず、聞不聞の法を伝持するなり。典蔵阿難は、含受する所多く、大雲の雨を持するが如し、此れ不聞聞の法を伝持するなり。阿難海は、是れ多聞の士なり、自然に能く是常と無常とを解了す。若し如来は常に説法したまはずと知るは、是を菩薩多聞を具足すと名く。仏法の大海の水は阿難の心に流入す、此れ不聞不聞の法を伝持するなり。今の経は是れ海阿難の不聞不聞の妙法を持するなり。
[36]本迹に解せば、上の四の聞の如くんば皆迹引にして而して本地は思議す可らや云云。
[37]観心に釈せば、因縁の法を観ずるは是れ聞々を観ずるなり、空を観ずるは是れ聞不聞を観ずるなり、仮を観ずるは是れ不聞聞を観するなり、中を観ずるは是れ不聞不聞を観ずるなり云云。一念の観とは妙観なり云云。
[38]一時とは、肇師の云く、法王運を啓く嘉会の時なりとは世界なり。論に云く、迦羅は是れ実時、内の弟子に時・食時・著衣を示すとは為人なり。三摩耶は是れ仮時、外道の邪見を破すとは対治なり、若し時と道と合するは第一義なり云云。
[39]若し見諦已上無学已下は下の一時と名く、若し三人同じく第一義に入るは中の一時と名く、若し登地已上は上の一時と名く、若し初住已上は上上の一時と名く、今の経は是れ上上の一時なり、此れは教に約して分別するなり。
[40]本迹とは前の諸の一時は迹なり、久遠実得の一時は本なり。
[41]観心に釈せば、心を観ずるに、先に空、次に仮、後に中なるは次第の観心なり、心を観ずるに、即空即仮即中なるは円妙の観心なり。
[42]仏とは、劫初には病無く、劫尽には病多し、長寿の時は楽にして短寿の時は苦なり、東天下は富んで寿し、西天下は珠宝多く牛羊多し、北天下は、我無く臣属無し、此の如きの時処は仏の出づるを感ぜず、八万歳の時、百年の時までに南天下には未だ果を見ずして因を修す、故に仏其地に出づ、離車子云く、摩竭提国は大池の如し、仏其国に出づるは大蓮華の如しと、無勝云く、仏は衆生に於て平等にして二無し、汝等は五欲に耽荒して仏を見ざるのみ、仏は汝を棄てて、摩竭提に出づるに非ずと、此れ皆世界の釈なり。日若し出でずんば、池中の未生、生已等の華、翳死すること疑無し、仏若し世に出でたまへば、則ち刹利・婆羅門・居士・四天王乃至有頂有り、此は為人に就て釈するなり。三乗の根性は仏の出世を感ず、余は感ずること能はず、善く有頂の種を断じ、永く生死の流を度る、此れ対治に就て説くなり。仏は法性に於て動無く出無し、能く衆生をして動出を感見せしめ、而して如来に於ては実に動出無し、此れ第一義に就て説くなり、皆因縁の釈なるのみ。
[43]仏を覚者知者と名く、道場樹下に於て、世間・出世間の総相・別相を知覚す。世を覚するは即ち苦集、出世を覚するは即ち道滅なり。亦能く他を覚す、身長丈六、寿八十、老比丘の像、菩提樹下にして、三十四心に正習倶に尽すは、即ち三蔵の仏の自覚覚他なり、比丘の像を帯して尊特の身を現じ、樹下にして一念相応して余残の習を断ずるは、即ち通仏の自覚覚他なり。単に尊特の相を現じ、蓮花台に坐し、仏職を受くるは、即ち別仏の自覚覚他なり。前の三相を隠して、唯不可思議如虚空の相を示すは、即ち円仏の自覚覚他なり。故に経に云く、或は如来丈六の身を見、或は小身大身を見、或は花台に坐して百千の釈迦の為めに心地の法門を説くを見、或は身、虚空に同じく、法界に遍して分別有ること無きを見たてまつる。即ち此義なり、是を教に約して分別すと為すなり。
[44]本迹に釈せば、一仏を本と為し、三仏を迹と為す、中間に示現して、数数生を唱へ、数数滅を唱ふ、皆是れ迹なり、唯本地の四仏は皆是れ本なり。
[45]観心に釈せば、因縁所生の心を観ずるに、先に空、次に仮、後に中なるは皆偏覚なり、心を観ずるに即空即仮即中なるは是れ円覚なり云云。
[46]住とは、能住は所住に住す、所住は即ち是れ忍土の王城、能住は即ち是れ四威儀にして世に住して未だ滅せず、此れ則ち世界の因縁もて住を釈するなり。又住とは、十善道に住し、四禅中に住す、此れ乃ち為人の因縁もて住を釈するなり。又住とは三三昧に住するは対治の因縁もて住を釈す、又住とは首楞厳に住す、即ち是れ第一義の因縁もて住を釈するなり云云。
[47]教に約せば、三蔵の仏は析門より真無漏を発して有余無余の涅槃に住す、通仏は体門より真を発して有余無余の涅槃に住す、別仏は次第門より入りて秘密蔵に住す、円仏は不次第門より入りて秘密蔵に住す、前の三仏の住は能所皆麁なり、後の一仏の住は能所倶に妙なり。今の経は則ち是れ円仏の妙住に住するなり。
[48]本迹の解とは、三蔵の仏は応に涅槃すべし、慈悲もて迹を垂れ生身にして世に住す、通仏は誓願慈悲もて、余習を扶けて衆生を度し仏事を作す、別円の仏は皆慈悲もて法性に薫じて衆生を愍むが故に、応を法界に垂れたまふ、当に知るべし、四仏は本仏の住に住す。慈悲を以ての故に、忍土の王城に住し、威儀の世に住したまふ。是れを迹住と名く。
[49]観の解は、観は境に住す、或は無常の境、即空即仮即中等の境に住す、無住の法を以て、境の中に住す、故に名けて住と為す。
[50]王舎城とは、天竺には 羅閲祇伽羅と称す、羅閲祇、此には王舎と云ひ、伽羅、此には城と云ふ。国を摩伽陀と名く、此には不害と云ふ、刑殺の法無ければなり。亦摩竭提と云ふ、此には天羅と云ふ、天羅とは王の名なり、王を以て国に名く、此王は即ち 駁足の父なり、昔久遠劫に此王千の小国に主たり、王、山を巡て牸の師子に値ふ、衆人迸散す、仍て王と共に交はる、後、月満じて殿上に来て生む。王是れ己が子なりと知て訛て言ふ、我既に児無し、此れ乃ち天の賜ふところ、養て太子と為さんと、足の上に斑駁あれば、時人号して駁足と為す。後に王位を紹ぎ喜んで肉を噉ふ、厨人に勅して肉をして少かしむる無し、一時遽かに闕く、乃ち城西の新死の小児を取て膳と為す、王の言はく、大だ美なり、之に勅して常に此肉を辦ぜしむ。厨人日に一人を捕ふ、国を挙げて愁恐す、千の小国、兵を興して王を廃し、耆闍山の中に置く、諸の羅刹は、之を輔けて鬼王と為す、因て山神と誓ひ、千の王を取て山を祭らんと誓ふ、九百九十九を捕へ得て、唯普明王を少く、後の時伺ひ執て之を得るに、大に啼哭して恨む、生来実語にして而も今信に乖くと、駁足之を放ちて国に還らしむ、大施を作し太子を立て、仍て死に就くに形悅び心安し、駁足之を問ふ、答ふ、聖法を聞くことを得たりと、因て之を説かしむるに、広く慈心を讃して殺害を毀呰す、仍て四の非常の偈を説く云云。駁足、法を聞て空平等地を得、即ち初地なり。千王各おの一渧の血、三条の髪を取て山神の願に賽す、駁足は千王と共に舎城を立ち、五山の中に都して大国と為し、各おの千の小国を以て子胤に付し、千王更迭に大国の事を知る。又百姓、五山の内に在て七遍舎を作り七度焼かる、百姓議して云く、我が薄福に由て数煨燼を致す、王は福力有り、其舎焼けず、今より已後は皆我が屋を排して王舎と為さんと、是に由て焼を免がる、故に王舎城と称す。又駁足、千王と共に舎を其地に立つ、故に王舎と称す。又駁足、道を得て千王を放赦す、千王赦を其地に被る、故に地を名けて王赦と為し、而して経家は音を借りて屋舎の字と為すのみ。因縁は大論及び諸経に出づ云云。
[51]教に約せば、像法決疑経に云く、一切の大衆の見る所同じからず、或は娑羅林の地悉く是れ土砂・草木・石壁なりと見、或は七宝清浄の荘厳なりと見、或は此林は是れ三世の諸仏の遊行したまふ所の処なりと見、或は此林は即ち是れ不可思議諸仏の境界、真実の法体なりと見ると、例して此義を知る、四見同じからず、所住既に然れば能住も亦爾り、此れ則ち教に約して分別するなり。
[52]本迹・観心後に在て説かん。
[53]耆闍崛山とは、此には霊鷲と翻じ、亦鷲頭と云ひ、亦狼跡と云ふ。梁武の云く、王鴡と、詩人の詠ずる所の関雎是なりと引くなり。爾雅に云く、鵄に似たりと。又解す、山の峯、鷲に似たり、峯を将て山に名くと。又云く、山の南に尸陀林あり、鷲の尸を食ひ竟て其山に棲む、時の人呼んで鷲山と為すと、又解す、前仏今仏皆此山に居す、若し仏の滅後には羅漢住し、法滅には支仏住し、支仏無ければ鬼神住す、既に是れ聖霊の居る所、総て三事有り、因て呼んで霊鷲山と為すと。五の精舎あり、鞞婆羅跋恕、此には天主穴と云ふ。薩多般那求訶、此には七葉穴と云ふ。因陀世羅求訶、此には蛇神山と云ふ。薩簸恕魂直迦鉢婆羅、此には少独力山と云ふ。五には是れ耆闍崛山なり。問ふ、劫火洞然として天地廓清なり、云何ぞ前仏後仏同じく此山に居したまふや。答ふ、後の劫立つるに本の相還て現ず、神通を得る人、昔の名を知て以て今に名くるのみ。例せば先劫に瞿曇を姓とし、本姓を将て以て今に姓とするが如きなり。
[54]教に約して山を釈せば、例するに城の義に説くが如し云云。
[55]観に釈せば、王は即ち心王、舎は即ち五陰なり、心王此舎を造る、若し五陰の舎を析して空ずるに、空を涅槃の城と為すは、此観既に浅し、土木を見るが如し、若し五陰の舎を体して即ち空ずるに、空を涅槃の城と為すは即ち通教なり。若し五陰の舎を観じ、是色を滅するに因て常色を獲得す。受・想・行・識も亦復是の如し。此四徳は、常に諸仏の遊びたまふ所の処為り。若し五陰即ち法性、法性即ち受想行識と観じ、一切衆生即ち是れ涅槃、復滅す可らず、畢竟空寂の舎なり、是の如きの涅槃は、即ち是れ真如の実体なり云云。
[56]観心の山は、若し色陰を観じて無知なるは山の如し、識陰は霊の如く、三陰は鷲の如し、此霊鷲無常と観ずるは即ち析観なり、此霊鷲即ち空なりと観ずるは体観なり、霊を観ずるに即ち智性なるは了因、智慧荘厳なり。鷲は即ち聚集なるは縁因、福徳荘厳なり。山は即ち法性なるは正因、不動なり、三法を秘密蔵と名く、自ら其中に住し、亦用て人を度す。
[57]下の文に云く、仏は自ら大乗に住したまふと、即ち別円の二観なり云云。
[58]中とは仏は中道を好みたまふ、中天に升り、中日に中国に降り、中夜に滅したまふ、皆中道を表はす、今山の中に処して中道を説くなり。
[59]同聞衆を釈するに三と為す、初めに声聞、次に菩薩、後には雑衆なり、諸経多く爾り。
[60]旧の云く、事あり義あり、事とは形迹の親疎に逐ふ、声聞は形は俗網を出でて迹は如来に近し、経を証するに親と為す、故に前に列するなり。天人は形乖き服異にして迹は侍奉に非ず、経を証するに疎と為す、故に後に列するなり、菩薩は形は検節せず、迹は定れる処無し、既に俗に同じからず、復僧に異なるなり。季孟の間に処す、故に中に居するの仲なり。義有りとは、声聞は涅槃を欣び、天人は生死に著し、各おの偏する所有り、菩薩は欣ばず著せず。中に居して宗を求む、故に両間に在りと、釈論の意も亦爾り。此一解は両釈に似たり、事の解は因縁に似たり、義の解は約教に似たり云云。
[61]本迹の解は、声聞は内秘外現なり、何ぞ嘗て涅槃を保証せん、天人は皆大薩埵なり、豈に復生死に耽染せん。皆是れ迹に二辺を引くも而も本は常に中道なり。
[62]観心に釈せば、従仮入空観は即ち偏へに生死を破す、従空入仮観は即ち偏へに涅槃を破す、中道正観は復前後無し云云。
[63]声聞を列ぬるに二と為す、先に比丘、次に比丘尼なり、比丘に又二あり、先に多知識のものを列ね、次に少知識のものを列ぬ、旧呼んで大名聞・小名聞と為す。然りと雖も拠無し。今文に依て判ずるに此の如し。多知識衆に就て六と為す、一に類、二に数、三に位、四に歎、五に列名、六に結なり。
[64]一に類とは、皆是れ大比丘の気類なり、群方の貴賤各おの班輩有るに譬ふ、今の諸の比丘は、皆衆の知識する所の高誉大徳なり。
[65]釈論に明す与とは共の義なり、七一を挙げて共を解す、謂く一時・一処・一戒・一心・一見・一道・一解脱なり。
[66]若し教に歴れば応に各おの七一を明すべし、三蔵は一の七一、通教は二の七一、別教は無量の七一、円教は一の七一なり。
[67]若し未だ迹を発せざれば、正しく是れ三蔵、通教の中の七一なり。
[68]直に両意を明す、幾か異なる、時と処と戒と解脱とは是れ同、心・見・道の三種は則ち異なり。若し開三顕一に至れば、即ち円教の七一に入ることを得るなり。法華論に四種の声聞あり、今住果の者を開して両と為す、析法の住果は是れ三蔵の声聞、体法の住果は是れ通教の声聞なり。応化の者を開して両と為す、登地の応化は別教の声聞、登住の応化は円教の声聞なり。仏道の声聞を開して亦両と為す、他をして次第に仏道を聞かしむるは是れ別教の声聞、他をして不次第に仏道を聞かしむるは即ち円の声聞なり、声聞の義浩然たり、云何ぞ涅槃を証する者を以て之を判ぜん云云。
[69]大とは、釈論に明す、大は亦多と言ひ、亦は勝と言ふ、器量尊重にして、天王等の大人の為に敬せらる、故に大と言ふ。九十五種の外道に勝出す、故に勝と言ふ。遍ねく内外の経書を知る、故に多と言ふ。又数一万二千に至る、故に多と言ふ。今明す、大道有るが故に、大用有るが故に、大知有るが故に、故に大と言ふ。勝とは、道勝れ、用勝れ、知勝る、故に勝と言ふ。多とは、道多く、用多く、知多し、故に多と言ふと。道は即ち性念処にして、一切智の外道より大なり。用は即ち共念処にして、神通外道に勝る。知は即ち縁念処にして、四章韋外道より多きなり。
[70]教に約して大・多・勝を釈せば、大人に敬せらる等は、是れ三蔵中の釈のみ。大とは大力の羅漢に敬せらるるなり。多とは遍ねく生滅即ち無生滅の法を知るなり。勝とは三蔵の四門に勝るなり、此れ通教の釈なり。又大とは体法の大力の羅漢に敬せらるるなり。多とは恒沙の仏法皆知るなり。勝とは二乗の人に勝る、此れ別教の釈なり。又大とは諸の大菩薩に敬せらるるなり。多とは法界不可量の法悉く知るなり。勝とは諸の菩薩に勝るなり、此れ円教の釈なり。
[71]本迹とは、此諸の大徳、久しく諸仏の為に咨嗟せらる、本と勝幢三昧を得て諸の外道に超え、先に已に種智の遍知を成就す。迹来て仏の行化を輔け、愛見の中の大・多・勝と作ることを示す。乳を引て酪に入らんと欲して、又三蔵の中の大・多・勝と作り、酪を引て生蘇に入らんと欲して、方等の中の大・多・勝を示し、生蘇を引て熟蘇に入らんと欲して、転教して般若の中の大・多・勝と作らんことを示し、熟蘇を引て醍醐に入らんと欲する故に、法華の中の大・多・勝と作るなり、然るに其本地の大・多・勝は久し矣云云。
[72]観心とは空観を大と為し、仮観を多と為し、中観を勝と為す。又直ちに中観に就くに、心性広博にして猶し虚空の若し、故に大と名く、二辺を双遮して寂滅海に入る、故に勝と名く。二諦を双照して含容する所多く、一心一切心なり、故に多と名くるなり。
[73]比丘とは、肇師の云く、秦には浄命・乞食・破煩悩・能持戒・怖魔等と言ふ、天竺の一名は此四義を含む。秦には以て翻ずる無し、故に本称を存すと。什師の云く、始めは妻子の家を出で、応に乞食を以て自ら資け、清浄活命なれば、終には三界の家を出づべし。必らず須らく煩悩を破し、戒を持して自ら守るべし、此二義を具すれば、天魔は其の境を出でんことを怖るなりと。
[74]釈論に云く、怖魔・破悪・乞士と、魔は生死を楽ふ、其れ既に出家し、復余人を化して倶に三界を離れしめ魔の意に乖く。魔は力を用ひて制するに翻て 五繫を被むり、但だ愁懼するのみ、故に怖魔と名く。出家の人は必らず身口の七悪を破す、故に破悪と言ふ。夫れ在家には三種の如法あり、一に田、二に商、三に仕なり、用ひて身命を養ふ、出家の人には仏此れを許さず、唯乞ふて自ら済ふに身安く道存し檀越を福利す、三義相成ずるは即ち比丘の義なり。涅槃・宝梁には、皆破悪を挙げて、比丘と名くるは具さに説かざるなり。
[75]今明す、此三義応に初後に通ずべし、初めて出家する時の如きは白四羯磨するに、無作の戒力、一切の境に遍して、無作の悪を翻す、初め禅定を修して定共戒を発し、意地を防伏して貪瞋起らず。初め観慧を修して相似の道共戒を発し能く煩悩を伏す、初心も亦破悪と称す、何ぞ独り後心のみならんや。怖魔とは初め髪を剃り戒を稟くるに、已に魔をして愁へしむ。定を修して煩悩を伏せんと欲し、慧を修して煩悩を破せんと欲す、初心も亦魔をして怖れしむ、何ぞ独り後心のみならんや。乞士とは、初め邪命を離れて乞を以て自活し、禅を修するには境を歴て定を求め、慧を修するには理を縁じて無漏を求む、皆是れ乞士なり、何に況んや相応して而も乞士に非らんをや、此義を具するが故に、通じて比丘と名く。経家に依れば、皆後心の比丘を歎ずるのみ。此れ皆三蔵の意なり。若し縁を歴て真を求むるを乞士と名け、障理の惑を破するを破悪と名け、此行を修して四魔を怖れしむるは即ち通教の義なり。若し三諦を歴て理を求むるを乞士と名け、通別の惑を除くを破悪と名け、八魔・十魔を怖れしむるは即ち別の義なり。若し生死に即して実相の味を求むるを乞士と名け、煩悩即菩提と達するを破悪と名け、魔界即ち仏界なるは是れ円教の義なり、若し未た迹を発せざれば、但だ前の二義を明す、若し已に本を顕はさば後の意を具するなり。
[76]本迹とは、本と涅槃の山頂に登て、無明癡愛の父母、結業の妻子と別れ、分段変易の家を出で、久しく五住を除く、何れの悪か破せざらん、真の法喜を獲ることは、乳糜を食して更に所須無きが如し、中道道共の尸波羅蜜、摂衆生の戒度を持し、魔界降伏して即ち仏界の如、乗御に堪任す、本地の功徳、久しく已に成就す、衆生を調へんが為に、迹に五味の比丘を示して衆生を伝引す、例せば前に釈するが如し。
[77]観心とは、一念の心を観ずるに、浄きこと虚空の若し、二辺の桎梏の為めに礙げられず、平等大慧にして、住なく著なく、即ち出家と名く。中観を以て自ら資け、法身の慧命を活かすを名けて乞士と為す、五住の煩悩は即ち是れ菩提なりと観ず、是を破悪と名く。一切の諸辺の顛倒、中道に非ること無し、即ち是れ怖魔なり云云。
[78]衆とは天竺には僧伽と云ふ、此には和合衆と翻ず、一人は和合と名けず、四人已上を乃ち和合と名く。事和して別衆無く、法和して別理無し、仏は常に千二百五十人と倶なり、三迦葉に千人、身子・目連に二百五十なり。又云く、耶舎に五十と。雑阿含四十五に云く、五百の比丘の中に、九十人は三明、九十人は倶解脱、余は但だ慧解脱なりと。釈論に四種の僧を明す、浄命に依らざるを破戒僧と名け、法律を解せざるを愚癡僧と名け、五方便を慚愧僧と名け、苦法忍より去て真実僧と名く、此中は三種に非ず、但だ是れ真実僧なり。
[79]若し四教に依らば、此僧は偏円の五味の座を歴て同聞の人と作る、今は正しく是れ円教中の証信なり。
[80]本迹に釈せば、本は実相の理と和し、又法界の衆生の機縁と和す、而して迹は半字事理の僧と為り、五味の中を歴て諸の衆生を引く云云。
[81]観の解とは、初めて中観を学し、相似の観に入れども、既に未だ真を発せざれば第一義天に慚ぢ、諸の聖人に愧づ、即ち是れ有羞僧なり。観慧若し発すれば、即ち真実僧なり。若し此れに異なる者は、即ち前の両僧なり。観行に依らざるを破戒僧と名け、観の相を解せざるを愚癡僧と名く。
[82]類を挙ぐるの義竟る。
[83]二に数を明すとは即ち是れ一万二千人なり。
[84]本迹とは本は是れ一万二千の菩薩、迹に万二千の声聞と為るなり。
[85]観とは十二入を観ずるに、一入に十法界を具す、一界に又十界あり、界界に各おの十如是あり、即ち是れ一千なり、一入既に一千なれば十二入は即ち是れ万二千の法門なり。
[86]三に位を明さば、皆是れ阿羅漢なり、阿颰経に応真と云ひ、瑞応に真人と云ふ、悉く是れ無生もて、羅漢を釈するなり。旧翻に依るに無著・不生・応供と云ひ、或は翻無しと言ふ、名に三義を含む、無明の糠脱して後世の田中に生死の果報を受けず、故に不生と云ふ、九十八使の煩悩尽く、故に殺賊と名く、智断の功徳を具して人天の福田と為るに堪へたり、故に応供と言ふ、此三義を含め阿羅漢を釈するなり。或は言く、初めに始めて無生を学するに、生未だ無生ならず、初め魔を怖れしむと雖も魔未だ大には怖れず、初め乞士なりと雖も未だ是れ灼然として供に応ぜず、今は無生忍を獲て煩悩の賊を破し尽す、是れ好良田なり、果を以て因に対して羅漢の三義を釈す。若し成就を論ぜば応に果の三義を取るべし、若し初めに通ぜば亦因の三義を取る。
[87]此の如く釈するは、皆三蔵、通の中の意のみ。若し別円は義則ち然らず、但だ賊を殺すのみに非ず、亦不賊を殺す、不賊とは涅槃是れなり、是れ亦須らく破すべし、故に是れ殺賊の義なり、生を生ぜず、亦不生を生ぜず、無漏は是れ不生なり、但だ供に応ずるのみに非ず、亦是れ応に供す、一切衆生は是れ供応なり、皆初地初住の徳を歎ずるなり。
[88]本迹は本は不受三昧を得て、二辺に於て著する所無し、故に不生と名く、五住の惑を断ず、故に殺賊と名く、能く九道を福し衆生を饒益す、故に応供有り、本の義なり、方便して衆生を度し、五味を歴て伝伝して不生と作るは迹なり。又本は是れ法身、迹に己利を示す。本は是れ般若、迹に不生を示す、本は是れ解脱、迹に殺賊を示す云云。
[89]観心とは空観は是れ般若、仮観は是れ解脱、中観は是れ法身なり。又観心は従仮入空観も亦三義有り、乃至中道観に無明の賊を殺し二乗の心を生ぜず、此人を供養すること世尊を供養したてまつるが如し。方等に云く、仏及び文殊を供するは、方等を行ずる者に一食を施して躯に充るに如かずと。下の文に云く、仏を毀讃するは罪福軽し、持経の者を毀讃するは罪福重しと、何となれば、仏には食の想なく、久しく八風を離れば損益を為さず、持経の者に施すは、肉身を全くし報命を続け法身を生し慧命を増す、故に益有り、之を毀れば憂悩し退悔す、若し好時を失へば則ち救ふべからず。故に大に損す云云。
[90]四に歎徳文に五句有り、上の三徳を歎ず。法華論に云く、初句は総、後句は別なりと、当に知るべし、諸句は皆羅漢の句を歎ずるのみなることを。諸漏已に尽き復煩悩無しとの此両句は上の殺賊を歎ず、漏とは三漏なり、成論に云く、道を失ふが故に漏と名くと。律に云く、癡人は業を造て諸漏の門を開くと。毘曇に云く。生死に漏落すと。論律の語は異にして而も同じく漏の義を明す、良に賊誑に由て理宝を失ひ、貧窮孤露なり、諸の悪業を造り生死の苦を致す、法身を亡じ慧命を失ひ重宝を喪ふ、皆是れ賊の義なり、応に是れ不生の義もて徳を歎ずと謂ふべからざるなり。煩悩とは即ち九十八使なり、流扼纏蓋等、行人を逼悩す、煩悩は是れ能潤、漏業は是れ所潤なり、能所既に尽るは正しく是れ殺賊の義なり、那ぞ不生の歎と作すことを得んや。逮得己利の一句は、是れ応供を歎ずるなり、三界の因果を皆名けて他と為し、智断の功徳を皆己利と名く。己利具足す、故に応供を成ず。諸有の結を尽くし、心に自在を得との両句は、是れ不生を歎ずるなり、諸有は即ち二十五有の生処なり、結は即ち二十五有の生因なり、因尽き果亡ず、不生を歎ずること明けし、応に殺賊の歎と作すべからざるなり。羅漢は但だ結尽に応じ未だ有尽に応ぜず、有尽とは因中に果を説くなり、又尽ること久しからざるに在るなり。心に自在を得とは、定の具足するを心自在と名け、慧の具足するを慧自在と名く、慧自在は未だ必らずしも心自在ならず、心自在は必らず慧自在なり、今心自在と言ふは、即ち是れ定慧具足の倶解脱の人なり、倶解脱の人の生は決定して尽く、験に知ぬ、不生の徳を歎ずることを。若し法華論に依らば、呼んで上上起門と為す、則ち是れ後を以て前を釈するなり。論に云く、諸漏尽くるを以ての故に羅漢と名く、心に自在を得るを以ての故に有結尽くと名くと、是の如く伝伝して上を釈するなり。
[91]本迹とは、不生不生なるを大涅槃と名く、煩悩漏流、其源久しく竭き、復、二乗及び凡夫地に堕落せざるは、即ち本の不生なり、法身の智断、実相の功徳を本の己利と名け、王三昧を得て二十五有を破し、我性を顕出して八自在の我を具するを本の殺賊と名け、迹に二乗の功徳を示すのみ。
[92]観心とは中道の正観なり、空仮の二辺に漏落せざれば、二辺の煩悩滅ずるなり、能く心性を観ずるを名けて上定と為す、衣珠の秘蔵、是れ己の物なるは即ち己利なり、正しく中道を観ずるに結賊則ち断ず、結無きが故に有も亦断ず、二辺、心を縛すること能はず、故に自在と名く、煩悩有りと雖も煩悩無きが如し、煩悩を断ぜずして而も涅槃に入るとは即ち其義なり。
[93]五に名を列す、略して二十一の尊者を挙ぐ、仏の諸の弟子は皆衆行を備ふ、而して其円能を隠して、各おの一徳に従て名を標するは偏好を引かんと欲する故なり。増一阿含に云く、憍陳如比丘は、皆上座の名ある者の有徳の大人と共に相ひ随ひ、舎利弗は智慧深利なる者と共に相ひ随ひ、目連は神通大力の者と共に相ひ随ふと、皆一法を掌て諸の偏好を引く意なり、若し名を消せんと欲せば須らく其行を識るべく、徳に従て号を立つるに、往て通ぜざること無きなり、一一の羅漢、例して四釈を作さん云云。
[94]憍陳如は姓なり、此には火器と翻ず、婆羅門の種なり、其先きは火に事ふ、此に従て族に命けたり、火に二義有り。照なり、焼なり、照は則ち闇生ぜず、焼は則ち物生ぜず、此れ不生を以て姓と為すなり。阿若とは名なり、此には已知と翻ず、或は無知と言ふ、無知とは所知無きには非ざるなり、乃ち是れ無を知るのみ。若し二諦に依らば即ち是れ真を知る、無生智を以て名と為すなり。無量寿・文殊問・阿毘曇婆沙、皆称して了本際・知本際と為す、若し四諦に依らば即ち是れ滅を知るなり、而も諸経に多く名けて無知と為し、或は翻じて得道と為す、増一阿含に云く、我が仏法の中に寛仁博識にして初めて法味を受くるものは拘隣如比丘第一なりと、故に阿若を以て名と為すなり。願とは、仏、昔、飢世に於て化して赤目の大魚と為り、気を閉ぢ喘へがずして示して死相を為したまふ、木工五人、先に斧をもて魚の肉を斫る、仏時に誓て言く、当来世に於つ先ず此れ等を度せんと、先づ願じて其れに無生を与ふ、故に阿若と云ふ。又迦葉仏の時、九人道を学し五人未だ果を得ず、釈迦の法の中に於て最も先に開悟せんと誓ふ。本願の牽く所、前に無生を得たり、故に阿若と名く。行とは智生じ悪滅す。智断の行なり、夫れ巨夜に長く寝ねて人の能く覚する無し。日光未だ出でざるに明星前に現ず、憍陳如比丘は初めに無生智を得、譬へば明星の衆明の始めに在るが若し、一切人の智の明、陳如に前だつ無し、故に阿若と名く。最も先に闇を破するは明星に過ぐる莫し。陳如も亦爾なり、一切の人の闇滅する、陳如に前だつ無し、故に阿若と名く。前なるは、太子、国を棄て王を捐て山に人て道を学す、父の王思念して五人を遣はして追侍せしむ。所謂拘隣・頞鞞、亦は湿鞞、亦は阿説示・亦は馬星と云ふ、跋提、亦は摩訶男といふ、十力迦葉・拘利太子なり。二は是母の親、三は是父の親なり、二人は欲を以て浄と為し。三人は苦行を以て浄と為す、太子勤めて苦行を行ず、二人は便ち之を捨て去る。三人猶ほ侍す、太子苦行を捨て、還て飲食蘇油煖水を受くるに、三人又捨て去る。太子は道を得て、先に五人の為めに四諦を説く。初めに二人を教ふるに、拘隣は法眼浄を、四人は未だ得ず。三人乞食して六人共に噉ふ。次に三人に教ふるに三人は法眼浄を、二人は乞食して六人共に噉ふ。第三説法の時。拘隣ら五人、八万の諸天、遠塵離垢し五人は無生を得たり、仏、三たび問ふ、法を知るや未しやと、即ち三たび答へて云く、已に知ると。地神唱へ空神伝へて、乃至梵世咸な已に知ると称す、拘隣最も前なり、初めに仏の道相を見たてまつり、初めに法鼓を聞き。初めに道香を服し、初めに甘露を嘗め、初めに法流に入り、初めに真諦に登る、閻浮提の得道の、最も一切の人、一切の天、一切の羅漢の前に在り、故に十二遊経に云く、仏成道して第一年に五人を度し、第二年に三迦葉を度し、第五年に身子・目連を度したまふと、当に知るべし。阿若は前に在ること明けし、此れ因縁の釈なり。
[95]三蔵教とは、盲は無生の智を譬へ、鏡は無生の境を譬ふ、陰入界なり。頭等の六分は現在の因を譬ふるなり、像は未来の果を譬ふるなり。若し服を開て鏡を取れば、形対して像生ず、愚の故に断絶せず。若し眼を閉づれば盲の如くにして則ち見る所無し、六分を見ざるは是れ因の不生、鏡像を見ざるは是れ果の不生なり、故に 阿含経に云く、若し色有り。色は是れ浄なりと謂ふは、浄は即ち生にして不生に非ず、若し受想行識有り、識は是れ浄なりと謂ふは、浄は即ち生にして不生に非ず、若し受有り、受は是れ楽なりと謂ふは、楽は即ち生にして不生に非ず、乃至色ありて、色は是れ楽ならば、楽は是れ生にして不生に非ず、若し想行有り、行は是れ我なりと計するは、我は是れ生にして不生に非ず、乃至色ありて、色は是れ我ならば、我は是れ生にして不生に非ず。若し識有り、識は是れ常と計するは、常は是れ生にして不生に非ず。乃至色ありて、色は是れ常ならば、常は是れ生にして不生に非ず、譬へば鏡を執て面を見るに、面は是れ生にして不生に非るが如し。若し五陰有りと謂ふは、悉く是れ生にして不生に非ず。若し能く色は浄に非ず。乃至識は常に非ずと知り、又能く色は無常苦空不浄なり、乃至識は無常苦無我不浄なりと知るもの、是れを不生にして是れ生に非ずと為す。盲の鏡を執るに像の生ずるを見ざるか如し、是れを不生にして是れ生に非ずと為す。既に不生を知る、寧んぞ復中に於て我は是れ色なりと計し、我は色に異なり、我は色の中に在り、色は我の中に在り、乃至識も亦是の如しと計せんや。是の如く観ずるは、現の因来の果なり、倶に皆生ならず、盲の鏡に対して形像を見ざるか如し、是れを観陰無生観智と名くるなり。入界を観ぜば、凡そ海と言ふは、復深広なりと雖も亦此彼の岸あり。蓋し小水のみ。若し眼、色を見已て愛念し、染著し、貪楽して身口意業を起すもの、是れを大海と為す、一切世間の天人修羅を沈没す。当に知るべし、眼は是れ大海、色は是れ濤波なり、此色を愛するが故に是れ徊澓す、中に於て不善の覚を起すは、是れ悪の魚龍なり、妬害を起すは、是れ男の羅刹なり、染愛を起すは、是れ女鬼なり、身口意を起すは、是れ鹹を飲んで自ら没するなり、是れを眼色に於て知ること無くして而も無明の愛を生ずと為す、愛生ずる故に名けて行と為す、行生ずる故に名けて業と為す、業、識を縛して中陰に入るを是れを識生ずと為す、受くる所の胞胎、五疱未だ成らざるを是れを名色生ずと為す、五疱成じ已るを六入生ずと名く、六入の未だ能く苦楽を別けざるを名けて触生ずと為す、苦楽を別つを受生ずと名く、塵に於て染を起すを愛生ずと名く。四方に馳求するを取生ずと名く、身口意を造るを有生ずと名く、応に未来の五陰を受くべきを生生ずと名く、未来の陰変ずるを老生ずと名く、未来の陰壊するを死生ずと名く、心中内に熱するを憂生ずと名く。声を発して大に喚ぶを悲生ずと名く、身心顦悸するを苦悩生ずと名く、是れを眼、色を見る時、即ち三世十二因縁の大苦聚の生ずるあつて不生に非ずと名く、耳鼻舌身意、眼界乃至法界も亦是の如し、是れを入界生にして不生に非ずと為す。云何が不生なる、眼色を観ずる時、苦の種を種えず、苦の芽を生ぜず、臭汁を漏さず、蛆蝿を集めず、若し種生ぜざれば則ち芽生ぜず、則ち臭汁生ぜず則ち蛆蝿生ぜず、故に不生と名く。云何が苦の種なる、眼、色を見る時貪恚の覚を起す、是れを苦種と為す、五欲の法を念ずるは是れ苦の芽を生ずるなり、六根は六塵を取る、是れを臭汁流出すと名く、六塵の中に於て善悪競ひ起る、是れを蛆蝿と名く。若し眼色の無常苦空無我を知れば、則ち貪恚生ぜず、念欲生ぜず、取境生ぜず、善悪の行生ぜず、是れを不生と為す。耳鼻舌身意も亦是の如し、是れ眼界乃至法界も亦是の如し。阿若は最初に此三蔵不生智を得、故に阿若憍陳如と名く。
[96]通教の無生の観は譬へば幻人の幻鏡を執ずるに、幻の六分を以て幻鏡に臨み幻像を観るが如し、像は鏡より生ずるに非ず、面より生ずるに非ず、鏡面合して生ずるに非ず、鏡面を離れて生ずるに非ず、既に四句より生ぜざれば則ち内外中間に非ず、常に自ら有らず、亦滅する処無し、去て東西南北の方に至らず、性本より無生、生を滅して無生なるに非ず、性本より無滅、滅を滅して無滅なるに非ず、生無く滅無し、故に無生と曰ふ。受想行識も亦復是の如し。又幻色を観ずるに、幻の鏡像の如く、受を観ずるに泡の如く、想を観ずるに炎の如く、行を観ずるに芭蕉の如く、識を観ずるに幻の如し、幻は幻物より生ぜず、幻師より生ぜず、物師合して生ずるに非ず、物師を離れて生ずるに非ず、四句に幻の生を求むるに、生の従来するところ無し、四方に幻の滅を求むるに、滅の去る処無し、性本より無生、生を滅して無生なるに非ず、性本より無滅、滅を滅して無滅なるに非ず、生無く滅無し、故に無生と曰ふ。根塵の村落を観ずるに、結賊の止る所、本より已来一一実ならず、妄想の故に起る業力の機関を仮に空聚と為す。無明の体性は本と自ら有らず、妄想の因縁和合して而も有り、有も本と自ら無なり、因縁もて諸を成ず、煩悩業苦、旋火輪の如し、其の本無なるを観ずること皆上に説くが如し、此れ通の意なり云云。