[1]第三に閑居静処とは。衣食を具すと雖も住処は云何ん。随自意のごときは処に触れて安んずべきも、三種の三昧は必ず好処を須ふ。好処に三あり。一には深山遠谷、二には頭陀抖撒、三には蘭若伽藍。深山遠谷のごときは、途路艱険にして永く人蹤を絶す、誰か相悩乱せん、意を恣にして禅観し、念念道に在り、毀誉起らず、是処最も勝る。二に頭陀抖嫐は、極めて近きも三里、交往すること亦疎し、煩悩を覚策す、是処を次と為す。三には蘭若伽藍、閑静の寺、独り一房に処して事物に干らず、門を閉ぢて静坐し、正しく諦かに思惟す、是虞を下と為す。
[2]若し、三処を離れて余は則ち不可なり。白衣の齋邑は、此れ過を招き恥を来す。市の辺の閙寺も復宣しき処に非ず。身を安んじ道に入るには、必ず須らく選択すべし、慎みて率爾にすること勿れ。若し好処を得ては、数移ることを須ひざれ、云云。観心の処とは、諦理是なり。中道の法は、幽遠深遂なり、七種の方便、跡を絶ちて到らず、之を名けて深と為す。高広にして動せず、之を名けて山と為す。二辺を遠離す、之を称して静と為す。不生不起、之を称して閑と為す。「大品」に云はく、「若し、千由旬の外にして声聞心を起さば、此人、身は遠離すと雖も、心は遠離せず、憒閙を以て不憒閙と為すは遠離に非ざるなり。城の傍に住すと雖も、二乗の心を起さざる、是を遠離と名く」と。即ち上品の処なり。頭陀の処とは、即ち是れ出仮の観なり。此観は空と相隣る、蘭若と聚落と並ぶが如し。出仮の観は、心を俗諦に安じて薬病を分別し、無知る抖撒し、道種智を浄む。此れ次の処なり。閑寺の一房とは、即ち従仮入空の観なり。寺は本衆閙居の処、而して能く一室に安静す、仮は是れ囂塵なり、能く仮に即して而も空、当に知るべし、真諦も亦是れ処なりと。三諦の理に安んず、是れ止観の処なり、実に影を山林に遁れ密室に房隠せず、云云。
[3]第四に息諸縁務とは。縁務は禅を妨ぐこと由来甚し、蘭若の比丘は、喧を去つて静に就け、云何ぞ縁務を造営せん、蘭若の行を壊するは応ずる所に非ざるなり。縁務に四あり。一には生活、二には人事、三には技能、四には学問なり。一に生活の縁務とは、生方を経紀するなり、途に触れて紛糾し、一を得るも一を失ひ、道を喪ひ、心を乱る。若し衆事を勤営するは則ち随自意の摂なり、今の論ずる所に非ず。二に人事とは、慶弔俯仰、低昂造聘。此より往き、彼より来り、往来すること絶えず、況んや復衆人交絡して擾攘追尋せんをや。未れ親に違し師を離る、本、要道を求め、更に三州に結び、還つて五郡を敦うす、意何れにか之かんと欲す。裳を倒にして領を索め、火を鑚りて氷を求む、応ずる所に非ざるなり。三に技能とは、医法、卜筮、泥木、彩画、棊、書、呪術等是なり。皮の文、美角、膏煎、鐸毀、已に自から身を害す、況んや出世の道を修せんをや。而も樹木は鳥を招き、腐気は蠅を来すに当る、豈推折汚辱ならざらんや。四に学問とは、経論を読誦し、問答勝負する等是なり。領持記憶すれば心労し志倦む。言論往復すれば水濁り珠昏し。何の暇あつてか更に止観を修することを得ん。此事尚捨つ、況んや前の三務をや云云。
[4]観心の生活とは、愛は是れ業を養ふの法なり、水の種を潤すが如し。愛に因りて憂あり、憂に因りて畏れあり。若し、能く愛を断ずれば、生活の縁務を息むと名くるなり。人事は是れ業なり、業は三界に生じ。五道に往来す。愛は業を潤すを以て処処に生を受く。若し業無くんば、愛の潤す所なし。諸業、力ありと雖も作らざる者を逐はず、作らざるか故に生死則ち断ず。技術とは未だ聖道を得ずんば通を修することを得ず。虚妄の法は般若を障ふ。般若は虚空の如く戯論無く、文字無し。若し般若を得れば如意珠を得るが如し、但一心に修せよ、何ぞ遽は忽忽として神通を用ふることを為さんや。習学とは未だ無生忍を得ずして、而も世智弁聡を修して種種に分別するなり。皆是れ瓦礫草木にして真の宝珠に非ず、若し能く停住すれば、水則ち澄清なり。下は瑠璃を観、安除として宝を取る。能く世間生滅の法相を知る、種種の行類、何物か知らざらん。一切種智を以て知り、仏眼を以て見る。大道を行ぜんと欲せば、応に彼小経の中に従つて学ぶべからざるなり。
[5]第五に善知識とは、是れ大因縁なり、所謂、化導して仏に見ゆることを得しむ。阿難は「知識は、得道の半の因縁なり」と説き、仏は「応に爾るべからず、具足して全て因縁なり」と言へり。知識に三種あり、一には外護、二には同行、三には教授なり。深山絶域のごときは、資待する所なければ外護を仮らず。若し三種の三昧を修せんには応に勝縁を仰ぐべし。未れ外護とは白黒を簡ばず、但能く所須を営理す、過を見ることなく、触悩することなく、称歎することなく、帆挙して、而も損壊を致すこと莫かれ。母の児を養ふが如く、虎の子を銜むが如く、調和所を得。旧の行道の人、乃ち能く為すのみ、是を外護と名く。二に同行とは、随自意及び安楽行を行ずるには、未だ必ずしも伴を須ひざれども、方等般舟の行法は決して好き伴を須ふ。更に相策発して、眠らず散ぜず、日に其新なること有りて切瑳琢磨し、心を同うし志を斉うして一船に乗るが如く、互に相敬重して世尊を視るが如くす。是を同行と名く。三に教授とは、能く般若を説きて道と非道を示し、内外の方便、通塞妨障、皆能く決了す。善巧に法を説きて、示教利喜し、人の心を転破す。諸の方便に於て自ら能く決了すれば、独り行ずることを得べし、妨難を未だ諳んぜざれば宣しく捨つべからざるなり。「経」に言はく、「善師に随順して学すれば、恒沙の仏を見たてまつることを得ん」と。是を教授と名くるなり。
[6]観心の知識とは、「大品」に云はく、「仏、菩薩、羅漢は是れ善知識なり、六波羅蜜、三十七品は是れ善知識なり、法性実際も是れ善知識なり」と。若し、仏、菩薩等の威光覆育するは即ち外護なり。六度の道品は是れ入道の門、即ち同行なり。法性実際は即ち是れ諦理にして諸仏の師とする所、境にして能く智を発す、即ち教授なり。今、各各に三義を具す。一に仏の威神の覆護するが如きは即ち是れ外護なり。二に諸仏、聖人も亦瓔珞を脱ぎて弊垢の衣を著け、除糞の器を執り、光を和らげて物を利するは、豈同行にあらずや。三に諸仏、菩薩は一昔をもつて法を演べ、開発し化導して、各解することを得しむるは、即ち是れ教授なり。此れ即ち三義を具すといふなり。六度の道品も亦三義を具す。助道を護助と名く、道を助けて正道を発すれば即ち是れ外護なり。正と助と合するが故に即ち是れ同行なり。此正と助とに依りて、規矩を失はざれば三解脱門に通入す、即ち是れ教授なり。法性にも亦三義を具す。境は是れ師とする所、冥に熏じ密に益するは即ち是れ外護なり。境と智と相応ずるは即ち是れ同行なり。未だ理を見ざる時は盲の如し、諦法の顕るる時は目の如く、智用僻なし。「経」に言はく、「我法を修する者は、証して乃ち自ら知る、心に実行なくんば、何ぞ問ふことを用ふることを為さんや」と、即ち教授なり。此れ則ち三の三合して九句、前に就いて十二句となる。前の三と次の三は、是れ事の知識、余の六句は是れ理の知識なり。若し、此を将て三諦に約せば、入空観の時は、衆聖を外護と為し、即空の道品を同行と為し、真諦を教授と為す。亦六事と六理を具す、云云。仮中の両観も亦復是の如し。三諦合して三十六番、十八の事と十八の理を有す。若し四悉檀に歴れば、即ち衆多の知識の義を有するなり。若し、能く此知識の法門を了せば、善財が法界に入るの意則ち解すべし。此等同じく是れ知識なりと雖も、「華厳」の云ふに依らば、「善知識魔、三昧魔、菩提心魔あり。魔は能く人をして善を捨て悪に従はしめ、又能く人を化して二乗の地に墮せしむ」と。若し然らば、羅漢の人は但真謗を行すれば善知識にあらず。若し内秘外現の声聞を取つて知識と為さば、菩薩も亦天竜と作りて引きて実相に入る、何ぞ独り羅漢のみならん。此義則ち通ず、知識に非ざること無し。今、魔と言ふは、実の羅漢が人をして化城に至らしむる者を取るなり。即ち真の善知識にあらすして、但是れ半字の知識なり、半の菩提道を行じて半の煩悩を損す。奪与互に明さば或は知識或は魔なり。別教は若し意を得ざれば、中道に会せす、亦是れ知識魔なり。円教の三種は方に是れ真の善知識なり。三昧と菩提心とも此に例して解すべし、云云。
[7]第二に呵五欲とは。謂く、色、声、香、味、触、「十住毘婆沙」に云はく、「六情を禁ずること、狗、鹿、魚、蛇、猿、鳥を繋ぐが如し」と。狗は聚落を楽ひ、鹿は山沢を楽ひ、魚は池沼を楽ひ、蛇は穴居を楽ひ、猿は深林を楽ひ、鳥は空に依ることを楽ふ。六根の六塵を楽ふは、是れ凡未の浅智弱志なるをもつては、能く降伏する所に非ず。唯、智慧、堅心、正念有りて以てのみ乃ち能く降伏す。総じて六根を喩ふるなり。今私に之に対するに、眼は色を貪る、色は質像有れば聚落の如く、眼は狗の如きなり。耳は声を貪る、声は質像無ければ空沢の如く、耳は鹿の如きなり。鼻の香を貪るは魚の如きなり。舌の味を引くは蛇の如きなり。身の触に著するは猿の如きなり。心の法を縁ずるは鳥の如きなり。今、意を除きて但五塵を明すは、五塵は欲に非ずして而も其中に味有り、能く、行人須欲の心を生ずるが故に五欲と言ふなり。譬へば陶師、人客延請すれば功を就すことを得ざるが如し。五欲も亦爾り、常に能く牽きて諸の魔境に入らしむ、前の縁を具すと雖も、摂心立て難し、是故に須く呵すべし。色欲とは、所謂赤白、長短、明眸、善睞、素頸、翠眉、皓歯、丹唇、乃至、依報の紅黄朱紫の諸珍宝物なり、人の心を惑動すること、「禅門」の中に説く所の如し。色害は尤も深く、人をして狂酔せしむ、生死の根本、良に此に由るなり。難陀の如きは、欲の為に戒を持し、羅漢を得と雖も、習気尚多し、況んや復具縛の者をや。国王も耽荒して度無く、宗廟社稷の重きを顧みずんば、欲楽の為の故に身は怨国に入らん。此間の上代、国を亡ぼし家を破るも、多くは欲より起れり。赫赫たる宗周をも褒姒之を亡ぼすは、即ち其事なり。「経」に云はく、「衆生は、財色に貪狼して之に坐へられて道を得ず」と。「観経」に云はく、色使に使はれて、恩愛の奴と為り、自在なることを得ず」と。若し能く色の過患を知らば、則ち為に欺かれざるなり。是の如く呵し已れば、色欲即ち息み、縁想生ぜず、心を専らにして定に入る。声欲とは、即ち是れ嬌媚、妖詞、婬声、染語、糸竹、絃管、環釧、鈴珮等の声なり。香欲とは、即ち是れ鬱弗、氛氳、蘭馨、麝気、芬芳酷烈、郁毓の物、及び男女の身分等の香なり。味欲とは即ち是れ酒肉、珍肴、肥膄、津膩、甘甜、酸辣、酥油、鮮血等なり。触欲とは、即ち是れ冷暖、細滑、軽重、強軟、名衣、上服、男女の身分等なり。此五の過患は、色は熟金丸の之を執れば則ち焼かるるが如く、声は毒塗鼓の之を聞けば必ず死するが如く、香は憋竜の気の之を嗅げば則ち病むが如く、味は沸きたる蜜湯に舌則ち爛かるるが如く、蜜もて塗りたる刀の之を舐ぶれば、則ち傷つくが如く、触は臥したる師子の之に近づけば則ち齧まるるが如し。此五欲は、之を得れば厭くことなく、悪心転た懺にして、火に薪を益すが如く、世世に害を為すこと怨賊より劇し。累劫より已来、常に相劫奪し、色心を推折す。今方に禅寂するに復相悩乱するも、深く其過を知れば、貪染休息す、事相は具さに「禅門」の中の如し、云云。上代の「名僧の詩」に云はく、「之を遠ざくれば士と為り易く、之を近づくれば情を為し難し。香味は高志を頽し、声色は駆齢を喪ぼす」と。
[8]観心の呵五欲とは、色欲の中の如きは滋味無量なり、謂はく、常、無常、我、無我、浄、不浄、苦、楽、空、有、世第一義、皆是れ滋味なり。故に「大論」に云はく、「色の中に味相無し、凡未応に著すべからず」と。若し、色は是れ常なりと謂はば、是見は色に依る。若し色は無常、亦常亦無常、非常非無常なりといふは、是見も皆色に依る。乃至、非如去非不如去、非辺非無辺等、是見も皆色に依る。悉く是れ諍競なり、執して是れ実なりと謂ひて戯論す、智慧の眼を破して互に相是非し、色の為に業を造る、適有なれば此有は即ち生死有り。是の如く観ずる者は欲を増長す、是れ欲を呵するに非ざるなり。今色を観ずるに、有無等の六十二見、皆無明に依る。無明は無常なり、生滅して住せず。速朽の法なり、念念磨滅す。我無く主無くんば寂滅涅槃なり。無明既に爾り、無明より生ずるところの若は有、若は無等も、悉く皆、無常寂滅涅槃なり。既に主我無し、誰か実、誰か虚ならん。終に色に於て生死の業を起さずんば、業謝し、果亡ず、是を色を呵して空に入り、而も解脱を得と為す。色を呵すること既に爾り、余の四も亦然なり、是を、三蔵の析法呵五欲と名くるなり。「中論」に此を指して「善く戯論を滅するものにあらざるなり」と云へり。若し摩訶衍に色欲を呵するは、諸見は皆無明に依ると体知す、無明即ち空なれば諸見も亦即ち空なり。故に「金剛般若」に云はく、「須陀洹とは名けて入流と為す、実には入流ならず、色声香味触に入らざるが故なり」と。所以は何ん。若し色の析すべきもの有らば色に入ると名く可し。色即ち是れ空なれば色の入るべき無し、故に不入と名く。既に流の入る可き無ければ即ち業果無し、是を「善く戯論を滅す」と名く。色を呵すること既に爾り、余の四も亦然なり。復次に、色即ち空なるを呵するとは、但色の空に入りて種種の色相を分別すること能はずんば、云何ぞ能く一切の衆生を度せん。衆生は色に於て種種の計を起す、即ち是れ種種の集種種の苦を招くなり。苦、集の病多ければ道滅の薬も亦復無量なり。若し他を化せんと欲せば、豈空を証して而して観察せざるべけんや。是故に空は空に非ずと知りて、空従り仮に入り、恒沙の仏法悉く通達せしむ。若し此の如くならずんば、猶色空を受入すと名く。今深く色空を呵して受けず、入らず、広く色を分別す。復分別すと雖も、但名字のみ有り。名字は即ち空なるが故に称して仮と為す。色を呵すること既に爾り、余の四も亦然なり。又、色の二辺を呵すこと、「大品」に云ふが如し、「色の中には味相無し、凡未応に著すべからず。色の中には離相無し、二乗応に離るべからす」と。色、無明、有、無等の見を破す、是れ其味を呵するなり。其沈空を破するは、是れ其離を呵するなり。若し定んで味有らば、応に離あるべからず。若し定んで離有らば、応に味あるべからず。味定まらざるが故に味に非ず、離定まらざるか故に離に非ず、二辺に著せざるは、即ち是れ、味に非ず、離に非ず、色の中道実相を顕すなり。故に「釈論」に云はく、「二乗は禅の為の故に色の事を呵す、波羅蜜と名けず、菩薩は色を呵す、即ち色の実相を見る。色の実相を見るは即ち是れ禅の実相を見る。故に波羅蜜と名く、色の彼岸に到るなり。色の彼岸に到れば即ち是れ色の中道を見るなり。色を分別するとは即ち是れ色の俗を見るなり。色に即して空とは、是れ色の真を見るなり。是の如く色を呵するは、色の源底を尽す、三諦三昧を成じ、三種の智慧を発す。深く色を呵して止観の方便と為す、其意此に在り。色を呵すること既に然り、余の四も亦爾なり。
[9]第三に五蓋を棄つとは。所謂、貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑、通じて蓋と称するは、蓋覆し纒綿して心神昏闇となり定慧発せず、故に名けて蓋と為す。前に五欲を呵するは、乃ち是れ五根が現在の五塵に対して五識を発す。今、五蓋を棄つるは、即ち是れ五識転じて意地に入り、追つて過去を縁じ、逆に未来の五塵等の法を応り。心内の大障と為る。喩へば陶師の身の中に疾あれば、執作すること能はざるが如し。蓋も亦是の如し。妨げを為すこと既に深ければ、之に加ふるに棄を以てす。毒樹を翦るが如く、愉賊を検するが如く、留む可からざるなり。「大品」に云はく、「欲及び悪法を離る」と。欲を離るとは五欲なり、前に呵する所の如し。悪法とは五蓋なり、宣しく須く急に棄つべし。此五蓋とは其相云何ん。貪欲蓋起らば、昔時更ふる所の五欲を追念し、浄潔の色を念ずるに眼と対を作す。愛す可きの声を憶ふに髣髴として耳に在り。意を悦ばしむるの香を思ふに、結使の門を開く。美味を想ふに甘液口に流る。諸の触を受けしことを憶ふに、毛豎ちて戦動す。此の如き等の麤弊の五欲を貪り、思想計校して、心に酔惑を生じ、正念を忘失す。或は密かに方便を作して更に之を得んことを望む。若し、未だ曾て得ずんは、亦復推尋し、或は当に求むべし。心、塵境に入りて間念あること無く、麤覚は禅を蓋ふ、禅何に由てか獲ん。是を貪欲蓋の相と名く。瞋恚蓋とは、是人の我を悩まし、我が親を悩まし、我が怨を称歎するを追想し、三世九悩、怨対結恨して、心熟し気麤なり。忿怒相続して百計伺候す。相中害し、彼を危うし、身を安ぜんと欲す、其毒忿を恣にして暢情快と為す。此の如きの瞋火、諸の功徳を焼く。禅定支林、豈生長することを得んや。此れ即ち瞋恚蓋の相なり。睡眠蓋とは、心神昏昏たるを睡と為し、六識闇塞し、四支倚放するを眠と為す。眠を増心数の法と名く。烏闇況塞、密かに来つて人を覆ふに防衛すべきこと難し。五情識ること無くんば猶死人の如し、但片息を余す、名けて小死と為す。若し眠を喜ばば、眠は則ち滋多なり。「薩遮経」に云はく、「若し人睡眠多ければ懈怠して得ること有るを妨ぐ、未だ得ざる者は得す、已に得たる者は退失す。若し勝道を得んと欲せば、睡、疑、放逸を除け。精進して諸念を策うたば、悪を離れ功徳集る」と。「釈論」に云はく、「眠を大闇と為す、見る所無し」と。日日に欺誑して人の明を奪ふ、亦陣の白刃の間に臨むが如く、毒蛇と共に室を同じうして居するが如く、人の縛せられ、将い去つて殺さるるが如き、爾時、云何ぞ安じて眠るべけんや、眠の禅を妨ぐること、其過ち最も重し。是を睡眠蓋の相と為す。掉悔とは、若し覚観偏に起れば、前の蓋に属して摂す。今、覚観等しく起つて遍く諸法を縁ず。乍ち貪欲を縁じ、又瞋恚及び邪癡を想ふ、炎炎として停まらず、卓卓として住すること無し。乍ち起り乍ち伏して種種紛紜なり。身は趣き無くして遊行し、口は益無くして談笑す、是を名けて掉と為す。掉にして悔無くんば、則ち蓋を成さず。其掉を以ての故に心地思惟す。謹慎節ならす、云何ぞ乃ち無益の事を作さん、実に恥ずべきと為す。心中憂悔し、懊結、心を繞へば、則ち悔蓋を成ず。禅定を蓋覆して開発することを得ず。若し人、懺悔して往を改むるに、自ら其心を責めて而も憂悔を生ず。若し禅定に入らば過ちを知る而已なり、応に想著すべからず。但故きを悔いて免脱を得るのみに非ず、当に禅定清浄の法を修すべし、那んぞ悔を将て心を縈ひ、大事を妨ぐることを得ん。故に云はく、「悔し已つて復憂ふること莫れ、応に常に念著すべからず。応に作すべからすして而も作し、応に作すべくして而を作さず」と、即ち是れ此意なり。是を掉悔蓋の相と名くるなり。疑蓋とは、此れ見諦障理の疑に非ず、乃ち是れ障定疑なり。疑に三種有り、一には自を疑ふ、二に師を疑ふ、三には法を疑ふ。一に自を疑ふとは、謂はく、我身は底下にして必ず道の器に非ずと、是故に身を疑ふ。二に師を疑ふとは、此人、身口我壊に称はず、何ぞ必らず能く深禅好慧有らん。師として之に事ふるは将た我を誤らざらんや。三に法を疑ふとは、受くる所の法、何ぞ心ず理に中らん。三の疑、猶予して当に壊抱に在らば禅定発せず、設ひ発するも永く失す。此は是れ疑の蓋の相なり。
[10]五蓋の病相是の如し、棄法や云何。行者、当に自ら省察すべし、今、我が心中に何の病か偏に多きと。若し病を知らば、応に先に之を治すべし。若し貪欲蓋重くば当に不浄観を用て之を棄つべし。何を以ての故ぞ。向は五欲を謂つて浄と為し、愛著纒綿せり、今は不浄と観ずるに膿嚢涕唾、一として欣ぶべき無し、厭悪の心生じて怨の為に逐はるるが如し、何ぞ智ある者、当に是を楽ふべけんや。故に知んぬ、此観は貪を治するの薬なるを。此蓋若し去らば、心即ち安きことを得ん。若し瞋恚の蓋多からんには、当に慈心を念じて恚火を滅除すべし。此火は能く二世の功徳を焼く、人は見んことを喜ばず、毒害残暴にして禽獣と異なること無し。生死の怨対、累劫にも息まず、即ち世の微恨も後には大怨と成る。今慈心を修して此悪を棄捨し、一切の人を観ずるに、父母の親想にて悉く楽を得しむ。若し楽を得ずんば我れ当に勤心して安楽を得しむべし、云何ぞ彼に於て怨対を生ぜんと。是観を作す時は瞋心即ち息み、心を安じて禅に入る。若し、睡蓋多からんには、当に勤めて精進し、身心を策励すべし。意を加へて防擬し、法相を思惟し、善悪の法を分別選択して睡蓋をして入ることを得しむること勿れ。又当に善悪の心を選択して、法喜を生ぜしむべし。心既に明浄なれば睡蓋自ら除く、睡眠の因縁を以て二世の楽を失すること莫れ。徒らに生じ、徒らに死しては一の獲べき無し。宝の山に入り、手を空うして而して帰るが如し、深く傷歎ずべし。当に好く心を制し、善巧に防御すべきなり。杖、菊、貝、申燃、起星、水洗をもつてせよ。若し掉散ならば、応に数息を用ふべし。何を以ての故ぞ。此蓋は甚だ利にして、来る時覚らず、久しきにおいて始めて知る。今数息を用ふるに、若は数成らず、或は時に中ごろ忘るれば、即ち已に去ると知りて、覚り已つて更に教へよ。数相成就すれば則ち覚観伏せられ、若し之を治せずんば、身を終るまで蓋を被る。若し三疑壊に在らば当に是念を作すべし、我が身は即ち是れ大いに富める盲児なり、無上法身の財宝を具足すれども煩悩に翳はれて道眼未だ開けず、要らず当に修治すべし、終に放捨せずんば又無量劫来の習因何ぞ定まらん、豈自ら疑ひて時を失ひ利を失ふべけん、人身は得難く怖心は起り難し、疑惑を以て而も自ら毀傷すること莫れと。若し師を疑はば、我れ今智無し、上聖大人は皆其法を求めて其人を取らず、雪山は鬼に従つて偈を請ひ、天帝は畜を拝して師と為せり。「大論」に云はく、「嚢の臭きを以て其金を棄てざれ、慢は高山の雨水停まらざるか如く、卑は江海は万川の帰集するが如し、我は法を以ての故に復応に彼を敬ふべし」と。「普超経」に云はく、「人人相見て、相平相すること莫れ、智は如来の如くして乃ち能く人を平す、身子の云はく、『我れ今より去つて、敢へて復是人は生死に入らん、是人は涅槃に入らんと言はず』と」、即ち此意なり。常に恭敬を三世の如来に起せ。師は即ち未来の諸仏なり、云何ぞ疑を生ぜんや。若し法を疑はば、我れ法眼未だ開けず、未だ是非を別たず、憑信するのみなり。仏法は海の如し、唯信じてのみ能く入る。「法華」に云はく、「諸の声聞等は己が智分に非ず、信を以ての故に入る」と。我の盲冥、復信受せずして、更に何の帰する所あらん、長く淪み永く溺れて出要を知らず。和伽利云云。優波笈多は弟子を教へて樹に上らしむ云云。若し心、法を信ずれば法則ち心に染む、猶予狐疑すれば、事覆器に同じ。問うて日はく。五蓋悉く定を障ふるや不や、答ふ、解する者同じからず、或は云はく、無知は是れ正障。何となれば禅は是れ門戸詮次の法なり、知、無知相乖くが故に。疑眠蓋是なり。或は言はく、散動は是れ正障なり。何となれば、定と散は相乖くが故に。掉悔是なり。或は言はく、貪瞋は是れ正障なり。何となれば、禅は是れ柔軟の善法なり、剛と柔とは相乖くが故に。貪瞋是なり。是の如き等、各拠るところ同じからず云云。今釈するは然らず、五蓋通じて是れ障なり、而も行者に随つて強弱あり。若し人、貪欲蓋多きは此蓋是れ正障にして余は是れ傍なり。四蓋も亦爾なり。譬へば四大通じて皆是れ病なれども、未だ必ずしも倶に発せず、共動する者に随つて、正しく能く人を殺すが如し。蓋も亦応に爾るべし。先に強きを治すれば、弱き者自ら去り、禅定発することを得べし云云。「十住毘婆沙」に云はく、「若し人、放逸なれば諸蓋則ち心を覆ひ、天に生ずることも猶尚難し、何に況んや果を得るに於てをや。若し人、勤めて精進すれば則ち能く諸蓋を裂く、諸蓋既に裂き已れば諸願悉く皆得」と。是を事法に依つて蓋を棄つと名くるなり。
[11]問ふ、初禅発するの時、五蓋畢寛じて尽るや不や。答ふ、此れ当に分別すべし、何となれば、三毒を離して四分と為す。貪、瞋、癡偏えに発するは是れ三分、名けて等と為さず、三分等しく起るを名けて等と為す、三毒偏に起るは是れ覚観にして而も多に非ず、三分等しく起るを覚観多と名く、即ち是れ第四分なり。「成論」に此を呼んで刹那の心と為す。刹那の心は既に通じて三毒を縁ずれば、三毒等しく起る。故に知んぬ、刹那の心は即ち是れ善悪成ずることを。「阿毘曇」に明さく、「此刹那の心起るは、但是れ無明無記なり、善悪未だ成ぜず」と。何を以ての故ぞ。通じて三毒を縁やと雖も、正しく三毒に属せす、既に正しく属せず、那ぞ是れ善悪なることを得ん、是れ悪に非ずと雖も三毒之に因て起れば、此無記を呼んで因等起と為し、而も名けて善悪と為さず。此二論は異なりと雖も、同じく是れ第四分を明すなり。此四分を離して五蓋と為す、貪瞋の両分は是れ両蓋、癡分を開して睡、疑の両蓋と為し、等分を掉悔蓋と為す。若し広く四分を開せば、一分には則ち二万一千の煩悩あり、四分合して八万四千有り、苦諦に約すれば則ち是れ八万四千の法蔵、集諦に約すれば則ち是れ八万四千の塵労門、道諦に約すれば則ち是れ八万四千の三昧陀羅尼等、滅諦に約すれば則ち是れ八万四千の諸波羅蜜なり。四分の法相該深なること此の若し、五蓋の理も応に高広なるべし。「阿毘曇」に那ぞ「貪は止欲界、上地は愛と名く、上は亦瞋無し」と判ずることを得んや。此義は已に「成論」の為に難ぜらる。若し上地の軽き貪を愛と名くれば、亦応に軽き瞋を恚と名くべきや。故に知んぬ、覆相抑異なるを、未だ是れ通方ならざるのみ。今、五蓋を釈して四分に望むるは、通じて仏地に至るなり。上の棄五蓋の相は、此は是れ鈍使の五蓋なり、止初禅を障ふ、初禅若し発すれば此蓋は棄て尽す、常途の論ずる所は秖是れ此意なり云云。
[12]利使の五蓋は真諦を障ふ、前に明す所の如し。空見の人、所執を計して実と為し、余は是れ妄語とし、之に乖くときは則ち瞋り、之に順ずるときは則ち愛す、即ち貪瞋の両蓋なり。無明の闇心は謬つて執する所あり、明審に知るに非ず、即ち睡眠蓋なり。種種の戯論は見浄にて益無し、即ち掉悔蓋なり。即ち疑無しと雖も後方に大いに疑ふ。何を以ての故ぞ。既に是れ実なりと執す、何ぞ復疑ふ所あらん、後に若し破せらるれば、心に疑惑を生じ、此五、心を覆うて終に諦を見ず。此蓋を呵棄すれば、蓋去り道発して須陀洹を証す。初果より去つて真を取り愛と為し、思を捨つるを瞋と為し、思惑の未だ尽きざるを睡と為し、失脱妄念を掉と為し、無学に非ざるを疑と名く。故に知んぬ、五蓋の真を障ふること通じて三果に至る、此五蓋を除かば即ち是れ無学なり。復次に、空に依て蓋を起すは俗諦の理を障ふ。所以は何ん。空に沈みて証を取るものは空を以て是と為す、譬へば、貪人の少を得て便ち足れりと為し、更に好き者を願はざるが如し。此空を保愛するは即ち貪蓋なり。生死を憎厭して捨して観ぜざるは即ち瞋蓋なり。無為空寂にして肯えて仮を照さざる、乃至五種の塩を識らざるを睡蓋と名く。空乱意の衆生、其境界に非ざるを掉悔蓋と名く。仮智明ならざるを疑蓋と名く。此蓋を棄てずんば道種智、俗諦三昧終に現前せず、此蓋若し除くれば法眼明朗なり。復次に、中に依て蓋を起すは中道を障ふ。所以は何ん。菩薩は仏法を貪求すること海の流れを呑むが如くにして厭足あること無し、愛と名くる法を生じ、道に順ずる貪を起す。此を貪蓋と名く。二乗を喜ばず、大樹、枝を折つて怨鳥を宿せしめず、是を瞋蓋と名く。無明は長遠なり、設い上地といへども猶分在あり。「大論」に云はく、「処処に破無明三昧を説くは、初め破すと雖も、後更に須らく破すべければなり」と。智慧の明無きは即ち睡蓋なり。菩薩の三業は失すること無しと雖も、仏に比すれば猶漏失あるを掉悔蓋と名く。初後理円なれども、而も初心の智慧は彼に逮はず、是を疑蓋と名く。此蓋、棄てずんば終に実相と相応せず、此蓋、若し除くれば真如の理顕れ、仏智見を開く。此五蓋の法は局つて初心に在るにあらず、地地に皆あり、ただ仏のみ究竟して八万四千の波羅蜜具足円満し、彼岸に到る。故に「地持」に云はく「第九は離一切見清浄浄禅」と。若し此意を得れば蓋相則ち長し、但欲界のみに非ず。
[13]復次に、言語分別するに邐迆として階梯あり。前の鈍利の両蓋は、是れ凡未の時に棄てらる。俗諦の上の蓋は、是れ二乗の時に棄てらる。中道を障ふるの蓋は、是れ菩薩の時に棄てらる。此の如く蓋を論ずるときは。後は初に関らず。地摂の二論師は多く此意を明す、果頭の法は凡夫に関らず。那ぞ即事而修なる可けん。円の釈は爾らず、何を以てか知ることを得ん。若し上地の人の為に説くといはば、応に法性の仏と作りて法性の国に現じ、法性の菩薩の為に之を説くべし、何の意ぞ相輔けて此三界に現ずるや、此凡俗を度せんと欲するが為の故に、此妙法を論じ、其をして修することを得しむ、若し爾らずと言はば、誰の為にか権を施すや、権、何の引く所ぞや。若し此意を得ば、初心の凡夫も能く一念に於て円に諸の蓋を棄つ。故に「大品」に云はく、「一切の法は欲事に趣く、是趣過ぎず、欲事尚得べからず、何に況んや応に趣、不趣あるべけんや」と。釈して曰はく、起は即ち是れ有なり、能趣、所趣あるが故に、即ち俗諦を弁ず。欲事得べからざるは即ち是れ空を明すなり、空の中には能趣、所趣無きが故に、即ち真諦を弁ず。云何ぞ当に趣、非趣あらん、即ち是れ中道を弁ず。当に知るべし、三諦は秖一の欲事に在るのみなるを。今更に広く釈して義をして解すること易からしめん。云何ぞ一切の法は欲事に趣き、是趣過ぎざるや。欲事は法界と為す。故に一切法の根本なり。初め欲覚を起すが如き、已に諸法を具すれども。心麤にして知らず、漸漸に滑利して制御すること能はず、便ち其事を習ふ、初め試みに熱を歇む、之を習ふときは則ち慣れ、餮啜にも忘れ叵し、即便ち戒を退して家に還り、欲境を求覓す、覓めて足ることを知らず、或は偸み、或は劫め、或は偪め、或は貿ふ、是の如き等種種に欲を求めて而も罪過を生ず、若し此境を得れば、大いに供養を須ふ、或は偸奪して財を求め、或は殺生して適を取る、若し其れ富貴なるは心を縦にして罪を造る、若し其れ貧窮なるは悪念亦広し、欲の罪既に成ず。此有を有するに適はば則ち生死有り、応に遍く果を受くべし、随つて何れの道に在りても欲転倍盛ならん。受胎の微形、世世に常に増長し、十二因縁、輪転して際り無し。当に知るべし、一切の法は欲に趣かざること無し、欲にして法界の外、更に別の法無きを。当に知るべし、一切の五蓋、上に説くが如くなれば、初めの一念に於て悉く皆具足す。欲の因縁生の法為る、其義見つべきなり。云何ぞ欲の法界空なる。外の五塵求むるに得べからず、内の意根求むるに得べからず、中間の意識求むるに得べからず、内外合して求むるに得べからず。内外を離れて求むるに得べからず。過去の欲縁求むるに得べからず、現在の欲因求むるに得べからず、未来の欲果求むるに得べからず、横豎に之を求むるに畢竟寂静なり。欲は即ち是れ空、欲空なるが故に、欲より生ずる所の一切の法も亦即ち是れ空、空も亦不可得なり。是を空を観じて利鈍の蓋を棄つと為すなり。既に己心の一欲は一切の欲なることを識らば、即ち一切の衆生も亦復是の如しと識り、且く余道を置きて直に人道を説くに、種種の色像、種種の音声、種種の心行、種種の依報、各同じからず。応に知るべし、欲の因、種別無量なり。一人の因果にして已に自ら窮りなし、何に況んや多人をや。一界にして是の如し、況んや九法界をや。一法にして是の如し、何に況んや百法をや。譬へば寇に対するが如し、寇は是れ勳の本なり、能く寇を破するが故に大功名あり、大富貴を得。無量の貪欲は是れ如来の種なること亦復是の如し、能く菩薩をして無量百千の法門を出生せしむ。薪多ければ火猛なり、糞壤華を生ず、貪欲是れ道なりとは此謂なり。若し貪欲を断じて、貪欲空に住せば何に由りてか一切の法門を出生せん。「経」に云はく、「五欲を断ぜずして能く諸根を浄む」と。是の如く観ずる時、俗諦の五蓋、自然に清浄なり。能く此の如くすと雖も未だ欲の宝性を見ず、実性は空に非ず、亦復仮に非ず、仮に非ざるが故に豈無量たること有らんや、空に非ざるが故に豈寂然たること有らんや、空及び仮名、是二皆無く、趣むく非趣無し。趣無しとは利鈍両番の五蓋、玄に除く。非趣無しとは、一番の五蓋除きて中道を識ることを得れば、又一番除きて断破する所無し、棄滅する所無くして而も四番の五蓋、一念に円に除き、二十五有を破して欲の実性を見るを、王三昧と名け一切法を具す、是を円観して円蓋を棄つと名く。此の如きの法門を理即是と名く。此の如きの解を作すを名字即是と名く。初心の此観を観行即是と名く。上の如く色を訶すれば即ち眼根を浄む、声を訶すれば即ち耳根を浄む、香を訶すれば即ち鼻根を浄む、味を訶すれば即ち舌根を浄む、触を訶すれば即ち身根を浄む、五蓋を棄つれば即ち意根を浄む、六根の浄き時、相似即是と名く。三惑破し、三諦顕るるを分真即是と名く。若し能く欲蓋の辺底を尽せば究竟即是と名く。円に欲蓋を棄つること既に爾り、余の蓋も亦然なり。
[14]第四に調五事とは、謂ゆる、食を調へ、眠を調へ、身を調へ、息を調へ、心を調ふ。前に喩ふる所の如く、土水調はざれば器と為すに任へず、五事善からざれば禅に入ることを得ず。眠食の両事は定外に就て之を調ふ、三事は入、出、住に就て之を調ふ。
[15]食を調ふとは、病を増し、眠を増し、煩悩を増す等の食は、則ち応に食すべからざるなり。身を安んじ、疾を愈すの物は、是れ応に食すべき所なり。略して之を言ふに、飢えず飽かず、是れ食の調相なり。「尼揵経」に日はく、「噉食すること太だ過ぐれば、体は回動し難く、竄惰懈怠なり、食ふ所消し難く二世の利を失ふ。睡眠して自ら苦を受け、迷悶して醒寤し難し」と、眠を調ふとは。眠は是れ眼の食なり、苦節すべからず。心数を増し、功夫を損失す。復恣にすべからず。上の蓋を訶する中、一向に除棄するは正しく定に入るの障りとなるが故なり。此中は散心に在り、時に四大を従容するが故なり、各其意あり、略して而も之を言ふに、節にせず、恣にせざる、是れ調眠の相なり。三事合して調ふるとは、三事は相依て相離るることを得ず、初め胎を受くるが如き、一には煗、二には命、三には識なり。煗は是れ遺体の色、命は是れ気息、報風連持す、識は是れ一期の心主なり。胎に託するに即ち三事あり。三事増長して七日に一たび変ず。三十八の七日竟つて三事出生するを嬰児と名く。三事停住するを壮年と名く。三事衰微するを名けて老と為す。三事滅壊するを名けて死と為す。三事は始終相離るることを得ず、須く合して調ふべきなり。初め定に入るの時、身を調へて寛ならず急ならざらしむ。息を調へて渋ならず滑ならざらしむ。心を調へて沈ならず浮ならざらしむ。麤を調へて細に入り、禅定の中に住す、不調の処に随つて覚つて当に検校し、調へて安隠ならしむべし。絃を調へ、弄に入りて後、曲を成ぜずんば即ち絃軫差異することを知り、覚つて之を改むるが如し。若し定を出でんと欲せば細より麤に至る、儀に「次第禅門」の如きなり。若し能く凡夫の三事を調ふれば、変じて聖人の三法となる、色は戒を発するの由と為り、息は定に入るの門と為り、心は慧を生ずるの因と為る。此戒は能く悪趣凡鄙の身を捨てて聖人の六度を成弁し、法身を満足す。此息は能散動の悪覚を変じて即ち禅悦法喜を成ず。禅に因つて慧を発す、聖人之を以て命と為す、此心即ち能く生死の心を改めて菩提心真常の聖識と為す。此三法に始めて 合して聖胎を成ず。始め初心より終り後心に至るまで、唯此三法相離るることを得ず云云。
[16]観心の調五事とは、前の法喜禅悦を食と為すが如し。初め真諦を観じて生ずる所の定慧は、多くは入空と為りて諸法を消浄す、此は是れ飢の相なり。「法華」に云はく、「飢餓羸痩して体に瘡癬を生ず」と。第二に俗諦を観じて生ずる所の定慧は、多くは是れ俗を扶けて諸法を仮立す、名けて飽相と為す。故に劫を歴て恒沙の仏法を修行すと云ふ。是二観は飢飽調はず、中道の禅悦法喜は調和中適して二辺の偏なし、是を不飢不飽と名く云云。眠を調ふるとは、空観は未だ無明を破せず、無明と空と合す、況空保住、眠相則ち多し。仮に出でて分別するは無明を伏す、眠相則ち少し。今、中道観は従容なり、若し無明を断ずれば一切の善法則ち生処無し、塵労の儔は是れ如来の種なり、癡愛断ぜずして諸の明脱を起す。若し無明を恣にせば無上の仏道何に由てか成ずることを得ん。「経」に云はく、「無明転ずれば即ち変じて明と為る」と。非道を行じて仏道に通達す、無明の性、明の性、二無く別無し、豈、無明の性を断じて更に明の性を修すべけんや。調伏に住せず、不調伏に住せず、即ち是れ理観の調眠なり。合して三事を調ふるに即ち三番と為る。「大経」に云はく、「六波羅蜜満足の身」と。此の如きの身を調へて寛ならず急ならざらしむ。「大品」に云はく、「楽説弁卒に起る、是を魔事と為す。卒に起らざるも亦是れ魔事なり」と。卒に起るとは。卒に六度を行ず、是れ急なり。卒に放捨するは是れ寛なり。急ならず、寛ならざる、是れ身の調相なり。身を調ふるとは、禅悦法喜の慧命を以て息と為す。「大品」に云ふが如し、「般若は利に非ず鈍に非ず」と。若し鈍なれば名けて渋と為す、若し利なるは即ち滑と名く、鈍ならず利ならざるを息の調相と名くるなり。心を調ふるとは、菩提心を得ること難しとす、是を沈と為す、菩提心は得ること易しとす、名けて浮と為す、難に非ず易に非ずとする、是を調相と為す。
[17]次に三観に約して三事を調ふるとは、微妙の善心を以て菩提心と為すこと前に明すが如し。四種の菩提心あり。三蔵、通教のごときは、結を断ぜんが為に空に入り真を以て証と為す、此心を沈と為す。別教のごときは、他を化し仮に出で、薬病を分別し、広く法門を識り、菩提心を発す。此心を浮と為す。円教のごときは実相の理を観じて雙べ遮し雙べ照す、空に非ざるが故に沈ならず、仮に非ざるが故に浮ならす。是の如きの心を発するを名けて調相と為す。身を調ふるとは、通教に惑を断じ六度を明すを急と為し。別教に仮に出でて分別するを寛と為し、中道にして二辺に依らざるを寛ならず急ならずと為すなり。息を調ふるとは、通教の慧命入空を滑と為し、別教の入仮を渋と為し、中道にして二辺に依らざるを不渋不滑と為す。復次に三観に約して各各調ふるとは、初観に身、息、心を止するを急、滑、沈と為す。次に身、息、心を観ずるを寛、渋、浮と為す。若し能く中適すれば即ち方便を成じ、真諦に入ることを得るなり。第二観に身、息、心を止するを急、滑、沈と為し、身、息、心を観ずるを寛、渋、浮と為す、若し能く止観中適すれば則ち方便を成じ、道種智を発して俗諦の理を見る云云。中道に身、息、心を止するを急、滑、沈と為し、身、息、心を観ずるを寛、渋、浮と為す、若し能く中適して止観従容なれば即ち方便を成じ、中道に入ることを得、実相の理を見るなり。
[18]行者善く三事を調へて聖胎に託せしむ。即行の心の未だ所属あらざるか如くんば、応に当に勤心して方便智度の父母を和会し、聖胎に託すべし、豈、地獄三途人天の胎に託すべけんや。
[19]第五に行五法とは、所謂る、欲、精進 念、巧慧、一心なり。前に陶師の、衆事悉く整ふも、而も作ることを肯せず、作るに殷勤ならず、作法を存せず、作ること巧便ならず、作ること専一ならずんば、則ち事成ぜざるに喩ふ。今も亦是の如し、上の二十法備はると雖も、若し楽欲希慕、身心苦策、念想方便、一心決志無くんば、止観現前するに由なし。若し能く欣習して厭ふこと無く、曉夜に懈らず、念念相続して善く其意を得、一心異なること無くんば、此人は能く前路に進む。一心は船柁に譬ふ、巧慧は点頭の如く、三種は篙櫓の如し、若し一事を少かば則ち安隠ならず。又飛鳥の眼を以て視、尾を以て制し、翅を以て前むが如し。此五法無くんば、事禅も尚難し、何に況んや理定をや。当に知るべし、五法を通じて小大事理の為に而も方便の作ることを。「成論」に四支を用て方便と為し、一心を定の体と為す。若し然らば、四禅に皆一心有り、一心に異り無し、云何が四禅の別を判ぜんや、今は此を用ひざるなり。「瓔珞」のごときは「五支皆方便、第六黙然を定の体と為す」と云ふ。四禅は倶に黙然あり、亦分別し難し。「毘曇」のごときは、五法を用て方便と為し、五支皆定の体と為ず、所以に四禅に通別の異り有り、一心を通体と為し、初支を別体と為す、故に覚観と倶なる禅、乃至捨と倶なる禅と云ふ。別支と一心と同じく起れば、一心を簡ぶに深浅の異りあることを得。「釈論」は此説に同じ。今亦之を用ふ。「論」の文に五法を解するとは、欲とは欲界従り初禅に到らんと欲す。精進とは、欲界過ぎ難し、若し精進せずんば出づることを得ること能はず、叛きて本国に還るに界首度り難きが如し。故に「論」に云はく、「施、戒、忍は世間の常法なり、客主の礼の如し、法応に供給すべし、悪を作る者の治せらるるを見ては、敢て罪を為さず、或は小力の故に而も忍ず。故に精進を須ひず、今般若を生ぜんと欲するには要らず禅定に因る、必らず大いに精進すべし、身心急著にして爾して乃ち成弁す。仏の説きたまへるが如し、血肉脂髄皆竭尽せしむとも、但皮骨をして在らしめば精進を捨てず、乃ち禅定智慧を得と。此三事を得れば衆事皆弁ず、是故に大いに精進すべきなり。念とは常に初禅を念じて余事を念ぜず。慧とは初禅は尊重にして貴む可く、欲界は欺誑にして悪む可きことを分別す。初禅を攀上勝妙出と為し、欲界を厭下苦麤障と為す。因果合論すれば則ち十二観あり。若し此言に依らば外道の六行と同じ、但外道は専ら禅を求めんが為にして、今の仏弟子は邪相を用ひて正相に入る、無漏心に修すれば還つて正法を成ず、是を巧慧と為す。一心とは此法を修するの時、心を一にし、志を専らにして更に余を縁ぜず、決定の一心にして、是れ入定の一心に非ざるなり。復次に欲とは生死よりして而も涅槃に入らんと欲す。精進とは有漏を雑へざるを精と名け、一向に 進求するを進と名く。念とは但涅槃寂滅を念じて余事を念ぜず。巧慧とは、生死の過患は賢聖の呵する所、涅槃の安楽は聖の称歓する所なりと分別す。一心とは、決定怖畏して八正道を修し、直に去つて回らず。是を方便と為し、而も真に入ることを得るなり。復次に欲とは、広く衆生を化して仏法を成就せんと欲す。精進とは、衆生の性は多く、仏法は長遠なりと雖も、誓つて退悔無きなり。念とは、非心骨に徹して母が子を念ふが如し。方便とは、巧みに諸病を知り、明らかに法薬を識り、逗会して宣しきに適ふ。一心とは、決定して他を化し、誓つて度脱せしむ、心異ならず二ならず。復次に欲とは、薩陀波崙が般若を聞かんと欲して自ら身命を惜まざるが如し。精進とは般若を聞かんが為の故に七日七夜閑林に悲泣し、七歳行立して坐せず臥せず。念とは常に、我れ何れの時に当に般若を聞くべきかを念じて更に余念無し。巧慧とは、留難有りと雖も留難も難むこと能はず、身を売るに魔も蔽ふこと能はず、水に隠すに更に能く血を刺すが如く、魔事を転じて仏事と為す、即ち巧慧なり。一心とは、志を決して移らず、復二念あらざるなり。復次に重説す。欲とは、二辺より正しく中道に入らんと欲するなり。二辺を雑へざるを精と為し、任運に流入するを進と為す。縁を法界に繋け、念を法界に一うするを念と為す。中観の方便を修するを善巧と名く。二辺を息め、心水澄清にして能く世間生滅の法相を知り、其心を二にせず、清浄常一にして能く般若を見るなり。
[20]此二十五法、通じて一切禅慧の方便と為す。諸観同じからず、故に方便も亦転ず。譬へば、曲弄既に別なれば調絃も亦別なるが如し。若し細しく分別すれば則ち無量の方便あれども、文繁ければ載せず、意を以て得べし。今此二十五法を用て定外の方便と為し、亦は遠方便と名く。是調心に因て豁然として理を見る。理を見るの時、誰か内外を論ぜん、豈遠近あらんや。「大品」に云はく、「内観をもつて是智慧を得るに非ず、外観にも非ず、内外観にも非ず。外観を離れず内観及び内外観を離れず、亦無観を以て是智慧を得るにもあらず」と。今は且く此に約して外の方便を明せしなり。然れば定執して而も是非を生ずべからず、若し此意を解して沈浮所を得れば、内外倶に方便を成ず、若し意を得ざれば、倶に方便に非ざるなり。