[1]第六に禅定境を観ずるとは。夬れ長病遠行は是れ禅定の障なり。「立世阿毘曇」に云はく、「諫諍多く、營事多きは亦是れ禅定の障なり、復多く読誦すること有るも亦是れ禅定の障りなり」と。「文殊問菩提経」に云はく「禅定に三十六の垢有り」と、垢は即ち是れ障なり。上の諸境、入ることを得れば清凉池に到る。入流し竟れば則ち禅境を観ずることを須ひず。若し魔事過ぐと雖も而も真明未だ発せず、別修無しと雖も通修を以ての故に過去の習を発して諸禅紛現す。当に魔事を置て諸禅を観ずべし。所以は何ん。禅の楽美妙なり、喜んで耽味を生じ、垢膩日に増す。若し是れ道なりと謂はば増上慢に堕す、若し呵棄すれば全く方便を失す、此の如き等の過、具に記す可からず。魔の害を免ると雖も更に定の為に縛せらるるは、火を避けて水に堕するが如し、三眛に益無し、是義の為の故に須らく禅境を観ずべし。但禅支の諸定助道力有り、大小乗経皆共に称美す、若し四禅八定は「毘曇」「成実」に之を明すこと委細なり、自性(等)の九禅は「地持」、「十地」に甚だ分明為り。
[2]今、亦略して其発相を示すに粗四意と為す、一には開合を明す、二には発の因縁、三には発相を明し、四には止観を修す。
[3]初めに開合を明すとは、禅門は無量なり、且く十門に約す。一には根本四禅、二には十六特勝、三には通明、四には九想、五には八背捨、六には大不浄、七には慈心、八には因縁、九には念仏、十には神通なり。此十門と五門、十五門と云何が同異ある。但開合の異あるのみ。五を開して十と為るは、数息を開して特勝、通明を出し、不浄を開して背捨、大不浄を出し、慈心、因縁は本を守る。念仏門は、「毘曇」に界方便と名け、「禅経」に念仏と称す、此れ亦本を守る。神通は九禅の上に発するに約す、専ら一法に拠らず。十五門を合して十と為るは、数息、不浄に各三有り、則ち合せず。慈心に三有り、但合して一と為る、即ち衆生慈なり。二の名を沒する者は、禅は是れ門戸詮次の事法なり、法縁は是れ二乗の入理の観、無縁は是れ大乗の入理の観なり。理を沒すれば二を去り、事を存すれば唯一なり。若し開せば即ち二乗菩薩両境の中に属して摂す。因縁にも亦三門あり、三世の輪転は麤、果報と一念とは義を明すこと細なり、細なるが故に理に附し、麤なるが故に事に属す、今細を沒して麤を存すれば但三世門と称するなり。念仏にも亦三あり、但応仏を念ずるを取るのみ。神通は但五逋を取る。若し但五門を取らば収めざる所有り、若し十五を取らば義は理に濫せん、是故に理を簡んで事を開す、開合同じからずと雖も各其意有り。
[4]次に漏、無漏を明す。若し「毘曇」に依らば、此十禅を判じて皆有漏と名け、諦を縁ずるの智をもつて修するを無漏禅と名く。爾らずして但事を縁じて修するを有漏禅と名く。「成論」も亦爾り、根本等は是れ有漏、空、無相の心をもつて修するを無漏と名く。今は小しく彼犀異なり。十禅の体相に当る。是れ有漏、通じて是れ事禅なり、若し胡瓜能く熱病の為に而も因縁と作るは、小しく当に分別すべし。四禅は世間に本より有り、凡未外道も共にす、専ら此を修すれば祇有漏を発す。自行の十二門、化他の讃法讃者は「大経」に所謂「四十八年」と即ち此意なり。十六特勝、通明は、仏世に出でずとも利根の凡未は亦此禅を修す、而して無漏を発せず、如来若し説きたまへば亦無漏を発す、余禅に比するに其力弱しと雖も、交に根本より勝れたり。是義の為の故に亦有漏亦無漏と称す九想等は是れ出世の客法、是れ事法なりと雖も能く欲の過を防ぐ、諦智を俟たずして能く無漏を発す。迦絺那の如き、五百の羅漢人人七遍、為に四諦を説くに道を悟ること能はず、仏、不浄を説きたまへば即ち無漏を発す、厭患の力強し、故に判じて無漏に属す。若し無漏に非ずと言はば、応に称して聖戒定慧と為すべからず。聖の言は正なり、正豈無漏に過ぎんや。「大経」に云はく、「聖行とは諸仏の境界なり、二乗の知る所に非ず」と。仏、此法を説きたまふに二乗奉行す、故に聖行と名く。「今仏、聖法を説きたまふに二乗之を行ず、何ぞ無漏に非ざることを得んや」又「大品」に云はく、「根本は是れ世間の法施、不浄等は是れ出世の法施なり」と。既に出世と言ふ、豈無漏に非ざらん。又云はく、「九想は不浄を開き、不浄は身念処を開き、身念処は三念処を開き、三念処は三十七品を開き、三十七品は涅槃を開く、涅槃の初縁、豈、無漏に非ざらん。若し事禅は応に是れ有漏なるべしと言はば、譬へば二石を服するに一は熱、一は冷なり、同じく事禅なりと雖も応に漏無漏異るべし。若し無漏の縁を無漏と称せば、六地に見を断じ七地に思を断ず、此も亦是れ縁なり、亦応に無漏なるべし。六地、七地に見思を断ずる者は、終に単に根本を用ひず、会諦智を須て此位に寄せて発す、単に根本を用ふるは無漏の縁に非ず。不浄等は爾らず、直に不浄を以て能く縁を作すことを為す云云。十想を取らざる所以は、前の三は見諦、中の四は思惟、後の三は無学にして、皆理に属して摂す、故に取らず。八念を取らざるは、人有り九想を修するに怖れ無し、又念仏門に已に摂す、故に取らず。慈心観は両属なり。若し根本に依つて慈を起すは有漏に属し、若し不浄等に依つて慈を起すは無漏に属す。慈に地位無し、他の階級に約す。根本に依らば衆生縁と成り、背捨に依らば法縁と成る。因縁も亦他位無し。念仏、五通も皆他の階級に約す。例せば慈心の両属の如し云云。
[5]次に来意同じからず。問ふ、此中の十門と「次第禅門」及び対治と云何が同異あるや。答ふ、「次第禅門」は禅波羅蜜を成ぜんが為、禅の善根利なるが故に、禅門先に発して後に善悪を験す。此中は般若を成ぜんが為、禅の善根鈍なれば、先に煩悩に阻まれ、業に遇ひ魔に遭うて後に初めて禅を発す。対治の中は、遮障を破せんが為に助道を修成す、今の此は任運に自ら発す仍観境と為る、禅門と同じと雖も各其意有り云云。
[6]次に浅深の不同を明すとは、四禅は是れ根本闇証味禅なり、凡聖通じて共にす、薄修するに即ち得。特勝は少しく観慧有りて味ならず闇証ならず、横に念処に対し、豎に根本に対す、故に先に味、次に浄なり。通明は観慧証相深細なり、総に次なり。此三は同じく是れ根本実観なり、惑を治するの力弱し。九想は正しく是れ仮想の初門前鋒欲を伏す、故に次に列ぬ。九想は但外境を厭患して未だ其心を治せず、故に次に八背捨なり。背捨は内外の貪欲を破すと雖も総にして而も別ならず、縁の中自在を得ず、故に次に大不浄を明して依正の貪を破するなり。総別に貪を治すと雖も未が大福徳を修せず、故に慈心を次にす。復内に重貪を治し、外に福徳を修すと雖も因縁に入らざれば則ち世間の正見に非ず、故に次に因縁、三世の輪輅、主無く我無くして世の正見を成ず。世の正見と雖も底下の因人を縁ずるは福力微弱なり、次に上果を縁ずるに福力広大なり。前来の諸定と雖も未だ力用に転変自在なること有らず、故に次に神通云云。
[7]次に互発同じからず。其次第の互発に凡そ八種有り、陰界の境に例して知んぬ可し云云。
[8]二に禅を発する因縁を明すとは、「大経」に云はく、「一切衆生皆初地の味禅有り、若は修するも修せざるも、必定して当に得べし」と。近情をもつて而して望めば、劫尽修せず、久遠をもつて之を推すに亦曾て蓋を離る。譬ふるに誦経を以てせば、廃すること近きは則ち習ひ易く、廃すること久しきは則ち習ひ難し。当に知るべし、昔次第に習ふこと有らば即ち次第に発し、乃至事に修するは事に発する等云云。彼大地の種類具足して両潤の気を得れば各各開生し、生ずること亦前後にして果を結ぶこと倶ならず、梅は四、桃は七、梨は九、柿は十、両縁同じと雖も実を成ずること異あるが如し。宿習は種の如く、止観は雨の如く、禅発は果の熟すること参差なるが如し、総じて八種と言ふのみ。是を内因縁の発と名くるなり。
[9]又、応に生ずべきの善有りと雖も、必ず威神を仮つて方に乃ち開発す。地、種有りと雖も日に非ざれば芽まず。仏は憎愛無し、縁に随つて普く益す、若し次第の縁は即ち次第に加し、乃至事修の縁は即ち事加す。鴻鐘は撃つに任すれども巨細は桴に由る。加ふること常に平等なれども、浅深聴習す。「大論」に云はく、「池の華、日を得ざれば翳死すること疑ひ無し。善も加を被らずんば沈溺して未だ顕れず」と。「浄度経」に云はく、「衆生自ら度するのみ、仏も其に於ては益無し。浄度菩薩の言はく、衆生若し仏の十二部経を聞かずんば、云何ぞ度することを得ん」と。二言相乖けども共に一意を成ず。是を外縁を発と名くるなり。
[10]三に諸禅の発相を明すとは、若は般舟にも亦根本を発すれども而も少し、常坐等は則ち多し。今且く坐に約して論ず、若し身端しく心摂して気息調和し、此心路を覚するに泯然として澄清なり、怙怙として安隠なり、躡躡として而して入る、其心縁に在つて而して馳散せざるは此を麤住と名く。此心従り後、怗怗たること前に勝れたるを名けて細住と為す。両心の前後の中間に必ず持身の法有り、此法起る時自然に身体正直なり。疲せず痛せず、物有りて身力を扶助するが如似し。若し来る時緊急にして勁痛し、去る時寛緩にして疲困せば、此は是れ麤悪の持法なり。若し好持法は麤細住を持して寛急の過無し。或は一両時、或は一両日、或は一両月にして、稍深細なることを覚え、豁爾として、心地に一分の開明を作す。身、雲の如く影の如くにして、煚然として明浄なり、定法と相応して心を持して動ぜず、壊抱浄除して爽爽として清冷なり。復空浄なりと雖も而も猶ほ身心の相を見る、未だ支林の功徳有らず。是を欲界定と名く。「成論」には此を十善相応の心と名く、閃閃爍として応に久しく住すべからず。今言はく、欲定は坯弱にして牢からず、称して閃爍と為す、定んで灯焰の如きには非ざるなり。叉称して電光為るものは、彼論に云はく、七依の外更に定有りて無漏を発するや不や。答へて云はく、欲界定有りて能く無漏を発す、無漏の発すること疾し、倏として電光の如し、若し無漏を発せずんば住する時則久し」と。「遺教」に云はく、「若し電光を見ば、暫くにして道を見ることを得ん」と。阿難の如きは心を策して発せず、心を放つて枕を取るに即ち電光に入る。電光は亦是れ金剛、金剛は孤ならず、欲界に因つて無漏に入る、無漏は発すること疾し、譬ふるに電光を以てす、欲界定此名を得るには非ざるなり。欲界定に住して或は年月を経、定法、心を持して懈無く痛無くして連日出でざるも亦得可し。是心従り後、泯然として一転して虚豁として欲界定中身首衣服牀鋪を見ず、猶ほ虚空の如く、冏冏として安隠なり、身は是れ事障、事は未来を障ふ、障去り身空しくして未来に発することを得、是を未到地の相と名く。所知無きの人は此定を得て是れ無生忍なりと謂ふ。性障猶在り、未だ初禅に入らず、豈、謬つて無生の定と称することを得んや。灰の火を覆ふを、愚者は軽んじて之を踏むが如し。若し「成論」に依らば未来禅無し、故に云ふ「汝の説く未来禅とは将に我が欲界定に非ずや」と。「毘曇」には則ち有り、尊者瞿沙。「釈論」には具に之を出す、仏、両説を備ふ而して論主偏に申ぶるのみ。今則ち人に逐つて之を判ずるに、自ら欲界定を得て月を累ね、未到に住すること久しからずして即ち初禅に入る有り、此は但欲界と称して未到と言はず。人の欲界に住すること久しからずして未到に在ること旬を経る有り故に未到と言ひ、欲界と言はず。人の具に久しく二法に在る有り、故に両定と言ふ。偏に判ず可からず、今は「大論」に依つて備に之を出す。
[11]若し節節の邪正の相は、修証の中に悉く説くが如し。但初禅は欲界を去ること近し、疆界の難多きが如し、応に須らく略して知るべし。初め麤住従り訖り非想に至るまで、通じて四分有り、退、護、住、進なり。退分に又二あり、一には任運の退、二には縁触の退なり。縁に内外有り、外の諸の方便二十五種、吐納所を失ふ、是を外縁触退と為す。静心の中に於て、三障、四魔而も憂愛を生ず、是を内縁触退と名く。後に或は更に修して得、或は修すれども得ず、此人甚だ多し。護分とは、善く内外の方便を以て、護の定心を将て損失せしめず。住分とは、或は守護するに因つて安隠にして失せず、必は任運に自ら住す、即ち是れ住分なり。進分とは、或は任運に進み、或は勤策して進む、各横豎有り、横豎に各漸頓有り。若し十二門一一にして而して進むは是を漸進と名け、若し一時に具足するは是を頓進と名け、特勝通明品品にして而して発するは是を横漸と名け、一時に倶に発する、是を横頓と名く、又四分の分分に皆四分有り、具に修証の中に説くが如し云云。
[12]今且く豎に約して進分を論ずれば、未到定従り漸く身心の虚寂なることを覚ゆ、内には身を見ず、外に物を見ず、或は一日乃至月歳を経て定心壊せず。此定の中に於て即ち身心微微なれども然も運運として而して動ずるを覚え、或は勳痒、軽重、冷煖、渋滑を発す。有人の言はく、「用心微細にして色界の浄色、欲界の身に触る。例せば、欲界の浄色諸根の上に在りて即ち見聞の用有るが如し」と。若し是義に依らば、触は外従り来るなり。若し一切衆生皆初地味禅有りと言はば、大いに富める盲児、竹の中に火有り、心内の煩悩而も並起せざるか如し。禅も亦是の如し、事障麤礙にして発することを得ること能はず。今修心漸く利にして性障既に除くるに、細法仍ほ起る、何ぞ必ず外より来らん。所以は何ん。数息は能く心を転じ、心は火を転じ、火は風を転じ、風は水を転じ、水は地を転じ、四大転ずること細なり、故に八触有るなり。麥変じて麹と為り、麹変じて糟となり、糟変じて酒と為るが如し。糟は欲定を喩へ、酒は初禅を喩ふ。麥を以て本と為す、外より来るに非ざるなり。若し定んで自ら出で外より来ると執せば、自他性の過に堕す。今「中論」に依つて四性を破し訖つて而して内出、外来を論ずるのみ。又八触は是れ四大なり、動軽は是れ風、痒煖は是れ火、冷滑は是水、重渋は是れ地なり。体用相添ふれば則ち八触有るのみ。若し動触起る時、或は頭背腰肋足等の処より漸漸に身に偏ず、身内に動を覚ゆれども外に動相無し、風の発するに似如て微微運運頭より足に至るは、多く退分を成ず、腰より発するは住分を成ず。足より発するは多くは是れ進分なり。
[13]動触に支林の功徳有り、功徳略して言ふに十種あり、空、明、定、智、善心、柔軟、喜楽、解脱、境界、相応なり。空とは動触発する時、空心、虚豁なり、復前の性障の未だ除かざる時に同じからず。明とは、冏浄、美妙、皎々として喩ふること無し。定とは一心安隠にして散動すること有ること無し。智とは復迷昏疑網ならず、心解静利なり。善心とは、慚愧信敬して、我曾て此法を得ざることを慚ぢて、以て愧恥と為し、我今尚ほ爾り、一切の賢聖深妙の法を具することを信じて敬揖すること無量なり。柔軟とは、欲界の隴悷麤獷を離れ、悩牛皮の意に随つて巻舒するが如し。喜とは所得の法に於て而も慶悦を生じ、楽とは触法の心を蜈しましめて恬愉美妙なり。解脱とは、復五蓋無し。相応とは心と動触の諸の功徳と相応して乱れず、又念持相応して而も忘失せず。或は一日、一月、一歳、安隠に久しく住して、念を斂むるに即ち来る。熏習既に久しくして動触の品秩転深し、是を豎の発と名く。余の七触豎に発す、此に例して知んぬ可し。若し動触発し已つて或は謝するも未だ謝せざるも又冷触を発す。冷触若は謝するも未だ謝せざるも更に余触を発す。交横なること前の八種の如し、是を横発と名く。復横豎前後なりと雖も、八触、十功徳、五支を以て之を察するに終に料乱せず。亦一念倶に成ずることを得ず、何を以ての故ぞ、八触、四大、水火相乖きて同時に成ずることを得ざればなり。然るに此八触に凡そ八十の功徳荘厳有り、名字同じと雖も而も悦楽異あり。沸羮熱●1.(くわく)、鯖魚沈李、味別に楽殊るが如し。余の六触も亦差別す。若し欲界定中に八触を発する者は、悉く是れ邪触、病煩悩触なり、具に修証の中に説くが如し、今は論ぜず、但初禅の八触に約して須らく邪正を簡ぶべし。何を以ての故ぞ。一は是れ辺地にして欲界を去ること近し、二は欲界の心を帯ぶれば邪は随つて入ることを得、門戸を開かば賊即ち進むことを得るが如し。鬼、禅中に入る、禅は鬼に非ざるなり。若し識らざる者は正触壊の唯邪悪のみ在り。邪触とは還つて八触、十功徳に約して、若は過ぎ若は及ばざるを明す。動触の起る時の如き、直爾に鬱鬱として遅からず疾からず、身の内に運動す。若し薳回ら急疾にして手燃掻擾なるは是れ太だ過ぎたるなり。若し都て動ぜざること縛られたる者の如くなるは是れ則ち及ばざるなり。余の冷煖等も亦是の如し。又動触の空明の十種に就きて、若は過ぎ若は及ばざるを論ずれば、此中の空は祇豁爾として無礙なり、是を正空と為す。若し永く寂絶して都て覚知すること無き者は太だ過ぎたるなり。若し鏗然として塊礙するは是れ及ばざるなり。明とは鏡月の了亮たるが如し、若は白日或は種種の光色を見るが如きは是れ太だ過ぎたるなり。若し都て所見無きは是れ及ばざるなり。定とは祇一心澄静なり、若し縛著して動ぜざるは是れ太だ過ぎたるなり。若し万境に馳散するは此れ及ばざるなり。乃至相応も亦是の如し。是を一の勁触の中の二十種の邪相と為す。余の七触、前に合すれば則ち一百六十の邪法有り。原ぬるに未れ、正禅には応に邪有るべからず、有る所以は、菖蒲を服するに将に薬力を得んとして而して瞋多く、黄精を服するに将に力を得んとして而して欲多きが如し。薬の爾らしむるに非ず、薬は麤法を推して、麤法将に出でんとして盛なるなり。若し単欲界の中は、但邪触有りて病を増し蓋を増すのみにして正しき功徳無し。若し色定に入らば則ち八触空明十功徳を動じ復百六十の邪有り、識らざる可からず。「大論」に云はく、「風有りて能く雨を成じ、風有りて能く雨を壊す、東北は雲屯し西南は雲散ず」と。禅も亦是の如し、八触、十功徳、此覚は禅を成じ、百六十の邪、此覚は禅を壊す。若し一法も邪有らば余法も亦皆染著す。謦へば一件賊と為らば余も皆悪黨なるが如し。若し初触に邪無くんば余法も皆善なり。
[14]正禅の五支とは、若し初触身に触れて縁に在るを覚と名け、細心に八触及び十眷属を分別するを名けて観と為し、昔は未だ得ざるに而も今得るを慶ぶが故に名けて喜と為し、恬愉なるを名けて楽と為し、寂然なるを一心と名く。「毘曇」には二十三の心数、一時にして而して発す、其強き者を取つて判じて五支と為す。五支は悉く是れ定の体、体前の方便は上に説くが如し。「成論」には五支前後相次で而して起るを明す、四支を方便と為し一心支を定体と為す。「大集」には第六黙然心を以て定の体と為す。有人の言はく、「五支は欲界の第九心に在り」と。或は言はく、「欲界定の前に在り」と。此れ則ち五支に非ざるなり。今弁ず、覚観と倶なる禅は正しく初禅に就きて判ず、那ぞ爾ることを得んや。五支同じく起つて而して強弱相翳すこと有り、成就する者を取つて以て五支を判ず。一槌をもつて鐘を撞くに初めは麤、中ごろは細なるの異あるが如し。五支も亦爾なり。初縁、覚相盛にして已に観等の四支有ることを妨げず。覚強ければ観未だ了ならず、覚息んで観方に明かなり、初め已に喜有り、観息んで喜支成ず、初め已に楽有りて楽未だ暢びず、喜息んで則ち楽成ず、初め已に一心有れども四支に動ぜらる、今楽謝すれば一心成ず。初め宝蔵を開きて是れ宝物なりと覚し、亦珍貴を知つて喜楽定想すれども、但未だ是れ何等の宝なるかを知らず、次に金銀を分別し、別ち已つて領納し喜を生ず、喜の故に楽を受け、安快一心なるが如し。人、飽くまで食すれば復須ふる所無きが如し、亦五欲に対すること極まつて睡るが如し。故に「論」に云はく、「人の宝蔵を得るが如し」と云云。若し四禅同じく一心支を以て体と為さば、云何ぞ四の異あるや。今分つ、初禅は是れ覚観が家の一心なるが故に四の別有り。若し、二禅に進むは、但覚観を呵す、初禅即ち壊す、別の義転明かなり。若し通ずる者は同じく一心を用て体と為すことなり。五支の名義相等を釈すること具に修証に在り云云。
[15]復次に、初めに八触を動ずるは功徳猶ほ麤なり、若し数数発するは即ち転深利なり。品或は三と言ひ、或は九と言ひ、或は無量品、更に互に蜈楽す、功徳叢閙にして一心を得ず。恆に妓を奏するが如く、人客多くして応対すること一たび已り一たび已れば復来るに似たり。出散すれば暫く無し、薄歛むれば復現ず。
[16]若し之を去らんと欲せば但覚観を呵せよ、初禅謝し已つて即ち中間の単定を発す、亦は轌寂心と名け、亦は退禅地と名け、亦は篾屑喩と名く、此単の静心中に於て既に下を失つて未だ上を発せず、若し憂悔を生ぜば此心も亦失せん。若し悔いざれば内浄即ち発す、復八触の受納分別無し、故に一識定と名く。四大の色を混じて一の浄色を成ず、照心転浄くして喜と倶に発す、魔邪の相無し、辺境に非ざるを以ての故なり、喜巳つて楽を生じ、楽謝すれば一心に入る。
[17]此禅は喜動し、楽安ぜず、当に喜を呵すべし、喜、謝して未到に入る。忽ち三禅を発し楽と倶に起る。還つて是れ色法転妙なり、喜に倚つて楽を生ぜず、此の正しき楽は身に遍くして受く、聖人は能く捨て、凡未は捨つること難しと為す。此に五支有り。捨、念、慧、楽、一心を謂ふ。経論に之を出すこと、或は前或は後なり、皆是れ修行の小異なるのみ。
[18]此楽は苦に対す、楽を呵すれば即ち謝す、亦未到有り、未到、謝し已つて不動定を発す、還つて是れ色法転妙なり、苦楽の為に動ぜられざるを不動定と名くるなり。定法安隠にして出入の息断ず、不苦不楽、捨、念、清浄、一心支なり。
[19]爾りと雖も猶是れ色法なれば、三種の色を呵して三種の色を滅し、空を縁じて定を得。復色を見ず、心の色を脱することを得ること鳥の篭を出づるが如し、是を空定と名く。此定謝し已つて亦未到に入る、識を縁じて定を生ずるを名けて識処と為す。此定謝し已つて無所有を縁じ、無所有の法に入りて相応するを不用処と名く。「旧」に云はく、「少し許りの識を縁ず」と。若し爾らば即ち是れ所有処なり、亦是れ用処なり、何ぞ不用、無所有と謂はんや。此定過ぎ已つて忽ち非想非非想を発す。此定は識処を縁ぜず、故に非想なり、不用処を縁ぜざるが故に非非想なり。更に上法として攀ず可き無く、三界の頂禅にして世に極妙と為す。外道は計して涅槃と為せども実には是れ闇証なり、苦集を具足し、三有を尽すに垂んとして還つて三途に堕す。委悉に根本禅を明すこと、往きて修証の中に之を尋ねよ。
[20]次に特勝の発するを明すとは、若し律教に依らば応に不浄の後に在るべし。行に依らば不浄の前に在り。律に云へるが如し「仏、比丘の為に不浄観を説くに皆厭患を生ず、臭身と共に住すること能はず、衣鉢をもつて鹿杖を雇ひて自ら害す、仏、不浄を放つて特勝を修せしむ」と。大黄巴豆、人を瀉せしむること太だ過ぐれば、身力弱き者は即便ち之を弊し、更に余の薬を以て並べ下し、並べ補ふ、補ふが故に是れ愛す、下すが故に是れ策す。策は根本より勝れ、愛は不浄より勝れたり。観有れば亦無漏と名け、対治力弱ければ亦有漏と名く。廉食の人の豚猪を噉ふが如し、屎を貯めたる物と鄙めども而も猶ほ強て之を食ふべし、若し六月の臭猪は虫蠅の集る所、復食す可からず。特勝は是れ実観、猶、従容なる可し、不浄は是れ仮想、復耐ゆ可からず云云。
[21]特勝の発する者は忽ち気息の出入長短を見て、来も所従無く、去も所至無し、入も積聚せず、出も分散せずと知る。若し根本に約せば即ち是れ麤細住なり。若し息の来去、身に遍ずるを見るは、若し根本に約せば是れ未到地なり、而して根本は暗証身牀鋪等無しと謂ふは、実に無きには非ざるなり。灰の火上を覆ふを、愚者は軽んじて之を蹈むが如し。夜、食を噉ふが如く盲の婦に触るるが如し、皆其情を暢べず。今は観慧有つて息の身に遍きを見て、而して定心明浄安隠なり、故に闇証に異るなり。又身の中の三十六物を見ること、倉を開きて穀粟麻豆を見るが如し。若し根本に対せば即ち初禅の位なり。前の八触、身倉に触るれども、心眼開けざれば内物を見ず、特勝には既に観慧有り、触、身倉は開きて心眼即ち三十六物を見る、肝は緑豆の如く、心は祟豆の如く、腎は烏豆の如く、脾は粟の如し、大小腸の道、更に相応通す血脈の灌注すること、江河の流るるが如し。内に十二物の肝心痰癊等有り、中に十二の膜膚肪膏等有り、外に十二の髪毛等有り。出入の息、其間に統致す。不浄、無常、苦、空、無我なり。一切の身行皆休して終に身の為に而も諸悪を造らず。是を除諸身行と名く。若し道品に対せば是れ身念処なり、若し根本に対せば即ち是れ覚観の両支なり、心眼初めて開くるは是れ覚支なり、三十六物を分別して謬り無きは是れ観支なり。心の受喜は喜支に対す、前の喜を隠沒有垢味と名く、今の喜は不隠沒無垢味なり。即ち是れ法喜なり、是れ受の喜に非ざるなり。心受楽は亦是の如し、受楽の楽に非ず、楽の中の三受皆苦にして楽無しと知るを楽支と名く。受諸心行は是れ一心支なり、衆生は是れ一心なりと知る、根本の実の一心を計するに同じからざるなり。若し道品に対せば皆受念処なり。心作喜、心作摂とは、前の喜は三十六物従ひ生ず、此は直に心に就て喜を作す、故に知んぬ二禅に対することを。「大集」に「二禅は但三支、内浄無し」と明せり。今の心作喜は意此に似たり。作摂とは喜動ずれば則ち散ず、若し作摂すれば一心に入ることを得。根本は但内浄受喜なり、特勝は観慧有りて恆に喜心を摂す。心作解脱とは、此れ三禅に対す。根本の楽は猗喜身に遍じて受く凡未は捨つること難しと為す。特勝は観慧有れば則ち愛味無し、故に解脱と言ふ、心作喜従り心作解脱に至るまで、皆是れ心念処なり。観無常従りは第四禅に対す、余処も亦無常を観ずれども未だ是れ別治ならず、不動定を得て之を味うて常と為す。今は観慧有り、「苦楽を離るれども而も終に是れ色法にして猶ほ是れ無常なり、応に染を生ずべからず」と知る。故に無常と称す。観の出散従り空処に対す。三種の色を滅すること鳥の篭を出づるが如し、故に出と言ひ、空を縁ずるが故に散と言ふ。空を縁ずと雖も亦観慧有り、観離欲は是れ識処に対す。空を縁ずること多きは則ち散ず、散を名けて欲と為す。特勝の観慧は是散心を離る、故に離欲と名く。観滅は無所有処に対す、特勝の観慧ば識の若は多きも若は少きも皆無しと観ず、故に観滅と名く。観棄捨は非想非非想処に対す。識処及び無所有処を棄て、更に妙定有り、名けて非想非非想と為す、凡未は妄りに涅槃と謂ふ、仏弟子は其れ麤煩悩無しと雖も而も細煩悩有りと知りて、而も愛味すること無し、故に浄禅と称す。無常従り棄捨に至るまで皆法念処と名く。此十六の法、横豎に治法に対す。節節皆異り、根本の闇証は功徳則ち薄し、食に、鹽無きが如し、特勝は功徳則ち重し、食に鹽有るが如し。委しく発相を論ずるは具に修証の中の如し云云。
[22]次に通明禅の発する相は、上の特勝は修するの時観慧猶ほ総じて三十六物を見る、証相も亦総なり。通明は修する時細妙、証する時分明なり。「華厳」にも亦此名有り。「大集」には宝炬陀羅尼を弁ず、正しく是れ此禅なり。「請観音」も亦是れ此意なり、修する時、三事通じて修し、能く三明六通を発す。又宝炬を修する時、乃至滅受想定に入る。当に知るべし此門は八解脱、三明、六通を具することを、故に通明と名くるなり。「大集」に此五支の名目を弁ず、謂はく、「如心覚、大覚、思惟、大思惟、観於心性、是を覚支と名く。心行、大行、遍行を観ずる是を観支と為す。如実知、大知、心動至心喜、是を喜支と為す。身安く心安うして楽触を受く、是を安支と為す。心住、大住縁を乱さず、是を定支と名く」と。初めに三事を観ずるに皆融ず、証する時も三事皆一なり、故に如心覚と名く。真諦を覚するに色息心泯一にして異ること無し。又俗諦を識る、皮肉骨等皆九十九重有り。五蔵は五気を生ずるを覚し、亦身中の虫戸の行来言語を見る、細として了せざること無し。託胎の初陰を覚す、過去の無明業は是れ蝋なり、現在の父母の精血は是れ泥なり、過去の業住せず、故に印壊と名く。現在に識を託して名色具足す、故に文成と名く。生蔵の下、熟蔵の上、子腸の中に住在して、形甚だ微細なり。唯一念の妄想有りて、色心相依る、有るが如く、無きが如く、夢の如し。業行力の故に自然に能く一念の思心を起し、父母を感召す。母便ち青色、呼声、●2.(さん)気、酢味を思ひ、此念力に因つて一毫の気を生ず、気変じて水と為り、水変じて血と為り、血変じて肉と為る。母の気、出入して以て相資潤し、便ち肝の蔵を成ずることを得。上に向ふは眼と成り、下に向ふは手足の大指と成る。若し白色、哭声、腥気、辛味を思へば、便ち肺蔵を成ず、上に向ふは鼻と為り、下に向ふは手足の第二の指と為る。若し赤色、語声、焦気、苦味を思へば便ち心の蔵を成ず、上に向ふは口と為り、下に向ふは手足の第三の指と為る。若し黄色、歌声、香気、甜味を思へば、便ち脾の蔵を成ず。上に向ふは舌と為り、下に向ふは手足の第四の指と為る。若し黒色、吟声、臭気、鹹味を思はば便ち、腎蔵を成じ、上に向ふは耳と成り、下に向ふは手足の第五の指と成る。身分の細微を覚する、例して皆此の如し。思惟、大思惟とは即ち是れ真俗を思惟するなり。観於心性とは、即ち是れ空なり。若し真なるも、若は俗なるも、同じく心性に入る。「請観音」に云はく、「一一如実の際に入る」と。此の如きの覚支は、上と倍異るなり。心行大行とは、上の覚支は是れ解なり、今の心行去りは是れ観行なり。心、世諦に行ず、故に行と名け、真諦を行ずるが故に大行と名く。三事倶に行ず、故に遍行と名く。心住とは俗諦に於て一心を得るなり。大住とは真諦に於て一心を得るなり。不乱於縁とは、真俗無量の境界を見ると雖も而も心に於て謬らざるなり。具に其相を明すこと、備に通明観の中に広く説くが如し。此定を発する時は身、息、心同じく芭蕉の相の如く堅実有ること無しと見るは是れ未到地の相なり。此三事同じく泡沫の相の如しと見るは是れ初禅なり。三事同じく浮雲の相の如しと見るは是れ二禅なり。三事同じく影相の如しと見るは是れ三禅なり。三事同じく鏡の像の如しと見るは是れ、四禅なり。此の三事を滅して皆空なり、空を滅して識を縁ず、識を滅して無所有を縁ず、無所有を滅して非想非非想を縁ず、非想非非想の三種の受想を滅して而して身に滅受の法を証し、以て解脱を成ずるなり。俗観有るが故に亦有漏と名け、真観有るが故に亦無漏と名く。此禅は事理既に備ふれば階位具足す。「成論」の人は、応に此を用ひて道定を明す、八解脱に入るべし。義に於ては便と為せども而も肯て用ひず。「阿毘曇」は八背捨に約して事理有ることを得。倶に外道に異にして倶解脱の人と成る。「成論」は但理のみ有りて事無し、便ち倶解脱の人無し。外道の禅に約して事禅と為さば、亦応に十善に約して戒と為し、世智を慧と成す。戒慧既に外道に異り、定何の意ぞ同じからん。是れ則ち客医に客定無し、八術成ぜず。委しく其相を論ずること、具に修証の中に在りて説く云云。
[23]次に不浄禅の発すを明さば、先に九想に就て又両と為す、一には壊法の人、二には不壊法の人なり。若し壊法の人の修する九想は、一には脹想、二には壊想、三には血塗想、四には膿爛想、五には青瘀想、六には噉想、七には散想、八には骨想、九には焼想なり。此人は但苦を断ぜんことを求めて骨人を焼滅す、急に無学を取つて事観を欣ばず。既に骨人の観ず可き無ければ、便ち禅定神通変化願智頂禅無し。焼滅すと言ふと雖も実には身の在ること有り。例せば受想を滅すれども而も身証するが如し云云。此人、好んで退す。「毘曇」に退相有るが如し、四果は沙の井底に住するが如きなり。「阿含」に云はく、『三果、戒を退して家に還り、律儀を毀失すれども道共を失せず、俗人謗を生じて聖法無しと言ふ。仏の言はく、「欲飽きて厭を起すこと久しからず、当に還つて更に出家を求むべし、諸の比丘度せず、仏、即ち之を度して便ち羅漢を得」阿難問うて言はく、「大徳是れ学の退するか、無学の退するか」答へて言はく、「学の退なり」』と。若し然らば即ち是れ世智をもつて惑を断ずる慧解脱の人なり、故に退有ることを得。無漏智、一品の惑を断じ一品の解を進めて而して退有るに非ざるなり。若し此九想を発し、諸禅の功徳無きものは是れ壊法の人なり。
[24]若し不壊法の人の九想は、初めの脹想従り来つて骨想に住し、焼想に進まず、流光、背捨、勝処、観、練、薰、修、神道、変化有ることを得、一切の功徳具足して倶解脱の人と成るなり。若し修する時、愛多きは外を観じ、見多きは身を観じ、見愛等しきは内外観。若し発する時は、此に準じて知んぬべし。坐禅の中に於て忽ち死屍の地に在るを見る。言説すること方に爾るに奄に便ち那にか去る、気尽き身冷え、神逝き色変ず、無常の遷す所にして豪戝を簡ばず、老少も端醜も逃れ避くる処無く、慈父も孝子も相代る者無し。屍腥くして地に在り、風吹き日暴じて、本と永く異り。或は一屍多屍を見る。是れ大不浄観の相なり。或は一聚落一国土に満ち、或は一屍色変じ、或は多屍色変ず。死屍は九数に非ずと雖も、是れ諸想の本なり。故に先に之を説く。是れ等の死屍、顔色黯黒なり、身体洪直にして手足葩華たり、膖脹膾鄧、韋の嚢に風を盛るが如く、九孔流溢し、甚だ穢悪と為す。行者自ら念ふに、我が身も是の如く、未だ離れず未だ脱れず、所愛の人を観ずることも亦復是の如し。是相発する時、一分の定心を得て黮々安快なり。須臾の間に此脹れたる屍、風吹き日暴して、皮肉破壊し、身体坼裂して形色改異し、了らかに識る可からざるを見る。是を壊相と名く。又拆裂の処、血中より出で、散溜塗漫、処処斑駮し、地に灌溢し、臭処蓬勃たるを見る。是を血塗相と為す。又膿爛流潰し、●3.(さい)々滂沱たり、蝋の火を得たるが如くなるを見るを、是を膿爛相と名く。又殘皮余肉、風日に乾炙して臭敗黮々たり、半は青、半は瘀みて●4.(らふ)々●5.(たふ)々たるを見る、是を青瘀相と為す。又此屍而も狐狼鴟鷲の為に敢食せられ、紛葩闘ひ競ひ、爴裂拽挽するを見る、是を噉相と為す。又頭手処を異にし、五蔵分張して収歛すべからざるを見る、是を散相と為す。又二種の骨を見る、一は膿膏を帯び、一は純ら白浄なり、或は一具の骨を見、或は聚落に遍ず。是の如きの諸相転ずる時、定心随つて転ず、●6.(あん)々として沈寂なり、愉愉として静妙なり、安快の相、説くとも貲るべからず。不壊法の人の観ずる所は此に斉れり。
[25]未だ此相を見ざれば愛染甚だ強し、若し此を見已れば欲心都て罷む、懸に忍耐せず。糞を見ざれば猶ほ能く飯を噉ふも、忽ち臭気を聞かば即便も嘔吐するが如し。亦浄法を捉ふる婆羅門の、而も癰髓を塗れる餅を噉ひ、頭を槌つて自ら責め、我已に了りぬとするが如し。若し此相を鐙すれば復高眉翠眼、皓歯丹脣と雖も、一毫の屎粉、其上を覆ふが如く、亦爛屍の仮に繒綵をを著けたるが如し。尚眼に視ず、沈んや当に身近づくべけんや。鹿杖を雇ひて自ら害す、沈んや鳴抱婬楽せんや。是の如き想は、是れ婬欲の病の大黄湯なり。貪食の人、審かに豚猪は屎を盛るの物なることを知れども、猶ほ強て喫噉するが如し。猪虫の臭きを見て更に能く食するや不や。前の特勝は力弱ければ未だ決定して除かず、今は観力強ければ婬火疾く滅す。故に云ふ、九想観の成ずる時、六賊稍已に除く、及び愛の怨詐を識り、兼て仮実の虚なることを知る。是の如きの厭患は何ぞ但欲を除くのみならん、亦能く無漏を発し、亦摩訶衍を成ず。「釈論」に、死変の想を解し竟つて、仍六波羅蜜、四無量心を説く、諸師咸く翻じ謬ると云ふ。今明す、菩薩は初想を修するに即ち摩訶衍を具す、故に広く諸法を出し、後即ち「乃至焼想も亦是の如し」と云ふ、那ぞ、脱落と云はんや。
[26]次に八背捨を発するを明す、前の三番は是れ根本味浄なり、九想より一切処に至るまでを名けて観と為す、九次第定は是れ練師子奮迅は是れ熏、超越は是れ修なり、此四は事定なり。今先に背捨を明す、背捨に又総別有り、総は二乗に共じ、別は菩薩に在り。又背捨は定まらず、或は因中に果を説きて、背捨を名けて解脱と為し、自ら果の中に因を説くこと有りて、解脱を名けて背捨と為す。若し定判せば、惑を断ずること究竟し、事理具足するを称して解脱と為し。若し惑未だ尽きず、定未だ備らざるを但背捨と名く。背とは下地及び自地の浄潔の五欲を厭ふなり、捨とは是奢心を捨つるなり、故に背捨と名く。若し愛多きを破するに外相を発するは前に説けるが如し、若し見の多きを破するに内相を発するは、内相は即ち八背捨なり。一には内有色外観色、乃至、第八滅受想背捨なり。
[27]言ふ所の内有色外観色とは、内色を破せず壊せず、内に白骨皮肉を観じて而して外には死屍等を観ず。若し修相は具に「禅門」の如し、今略して発相を示す。行者忽ち自身の足指を見るに、皮●7.(ふく)れて泡の如し、漸漸に膊に至り腰に至り身に通じ頂に到る。斯須にして洪直に、身を挙げて脹れること急に、五指葩華し、両燃柱の如く、腰腹は甕の如く、頭は盆の如く、処処に臚脹すること風の章嚢に満つるが如し。此相発する時、或は燃より頂に至り、或は頂より燃に至りて一の繩床に満つ、皮急に肉裂けて将に綻潰せんと欲す、既に潰れて膿流れ、浸漬湿沢す。又頂従り足に至つて皮肉自ら脱げ、唯白骨のみ在り、支節相柱して●8.(くう)然として動ぜず、皮肉堕落して聚つて一処に在り、猶ほ虫の聚まるが如く、汚穢鄙醜なり。若し此相を発すれば深く其身を患ひて之を厭ふこと糞の如し、何に沈んや妻子財宝にして而も悋惜を生ぜんや。薩埵の身を亡し、鹿杖をもつて害せらるる者、皆斯観を得たるなり。内には我を計せず、外には所を愛せず、頭を低うして慚愧し、厭心相続す云云。「大経」に云はく「皮肉を除却して諦に白骨を観ず」と。一一の節の間、皆繋念せしめ、逆順に観察して骨をして浄潔ならしむ、是を内有色相と名くるなり。外観色とは、外は死屍の膖脹し膿壊して一聚落一国土に満つるを見る。前の九想に観ずる所の不浄の如し。故に外観色と言ふ、位は欲界定に在り。此法増進して骨に四色を起すを見る、青、黄、白、鴿なり、煜々爚々として将に発せんとして発せず、青色には青光あり、乃至鴿色には鴿光あり、状流水の如く、光骨人を篭む、塵霧鏡日の如し。若し心に足を縁ずれば、光随つて下に向ひ、若し心に頭を縁ずれば光随つて上に向ふ。青光の力を以て十方を映蔽すれば悉く青色なるを見る、須弥山の、方に随つて色一なるが如し。乃至鴿色も亦是の如し。若し此光色の将に発せんとして発せざるは、位未到地定に在り。是の如く薳久しうして光応に自ら発すべし、若し発せずんば、当に心を摂して諦に観ずべし、眉間より之を放つて便ち発す、状竹の孔より煙を吐くが如し、初は乃ち小小後は乃ち散大なり、四色宛転して眉問従り出で、遍く十方を照して豁爾として大いに明かなり。一色に亦十の功徳、八触、五支、正邪等の相有り。初め色発するの時を覚と名け、八色を分別するを名けて観と為す。昔肉の中に骨有りと知ると雖も。骨の中の八色を知らず、昔未だ見ざりし所、慶喜し悲慚するを名けて喜支と為す。此色発する時深く楽法有りて心地恬愉なるを名けて楽支と為す。定心湛然として安住して動ぜず、黮々として転深し。空明智定、信敬慚愧して謗毀を生ぜず、蓋を離れて相応す、若は冷煖等、叢叢として虚虚、皆謬乱無し、故に叢林と称す。但此収動痒空明五支等の相、心眼開明にして法深く楽重し、根本に同じからず、亦特勝通明に異り、彼は皮肉を帯すれば触通暢せず、今は骨人に触る、其法甚だ妙なり。若し邪相の八色に入るを論ぜば、或は青色を見ること甚だ分明ならず、斑駮として好ならず、即ち是れ邪相なり、七色も亦是の如し。闇証は観慧無し、夜は賊多きが如し、今の禅は観有り、昼は偽り少きが如し、設ひ有るも郤け易し。三蔵の云ふが若き、「八色は是れ色界の法、欲界の骨人に触れて諸の功徳を起すことを致す」と、此れ根本有漏に依つて此の如きの説を作すなり。大乗には「戒定慧の法悉く尽す可からず」と明す。何を以ての故に。命朽ち戒謝すれども、無作は滅せず、定は惑を伏すと雖も断ずること。久しからざるに在り。虫の身に入りて蔵を殘なひ、命を害するに即ち未だ死せずと雖も、勢久しく存せざるが如し。慧道、失すること無くんば初果七死するとも無漏湛然なり、当に知るべし戒定は是れ無漏の法なり、若し爾らば八色の光は便ち是れ界外の法なり。若し此相を発すれば、初背捨成じて、位は初禅に在り。「成論」に云はく、「両背捨は欲界の摂、浄背捨は色界の摂、四背捨は無色界の摂、滅背捨は三界を過ぐ」と。「毘曇」に云はく、「初めの二の背捨は欲界及び二禅に通ず、浄背捨は四禅に在り、言く三禅は楽多ければ背捨を立てず」と。復有大の言はく、「三禅は勝処無し、四禅は背捨無し」と。三家互に異る。今「釈論」に依るに、初の背捨二の勝処は初禅の摂、既に五支有り、験む、是れ初禅なることを。
[28]二に、内に色無くして不浄の心を以て外色を観ずるとは、骨大は是れ精血の成ずる所、応に須らく呵滅して骨の四微を析すべし。大乗の体法は、骨は心従り生ず、心は幻化の如くなれば骨大虚仮、骨大自ら滅すと知る。好馬の人の意に任ずるが如く好人の事を共にするに、去来捩ること無きが如し。骨人去り已つて新法未だ来らず、喜んで多く退堕す。不浄の心を以て但外色を観ず、外色とは外の死屍等なり、又外とは骨人の放つ所の八色なり。外色を観ずる所以は、此れ欲界を去ること猶ほ近ければ、外の不浄を観ずることを須ふ。若し骨大を壊することを修するは、別に観法有り、今は但法の発することを論ずるのみ。忽ち骨人を見るに、自然に誚磨す、但八色及び外の不浄の在る有り、骨人滅する時は、位中間に在り。又八色を見るに内浄の法と同時に倶起す、青黄等の光更に一番の増明を作す。内浄、喜、楽、一心の四支の功徳、転前に勝る、是を、二の背捨と為す、位は二禅に在り。
[29]三に浄背捨身作証とは、初禅二禅は遍身の楽に非ず、四禅は楽無し、何ぞ証を為す所あらん。「成論」の人は「四禅共に浄背捨なり」といふ。今は両禅を以て共に浄背捨とす、既に、「三禅に遍身の楽有り」と言ふ、以て証と為すべし。即ち是れ其初、成就することは四禅に在り、能く勝処を具足す、故に知んぬ浄背捨、位は三禅に在るなり。浄とは、「釈論」に云く、「縁浄なるが故に浄」と。八色已に是れ浄法にして而して未だ浄縁に瑩練せられず、浄色極つて四禅に在り、此色起る時八色を瑩して更に転た明浄なり、故に「縁浄なるが故に浄」と言ふ。遍身受とは、楽の極は三禅に在るが故なり、此二禅を総で浄背捨と為すなり。浄に四義有り、不浄の不浄とは、欲界の身、已に是れ不浄にして而して今膖脹す、故に不浄の不浄と言ふ。不浄の浄とは、皮肉を除郤して諦に白骨を観ずるに復筋血無く、珂の如く貝の如し、故に不浄の浄と言ふ。浄の不浄とは、是れ眉間より出づる所の八色の光明なり、光明は是れ浄、未だ練治せられず、故に浄の不浄と言ふなり。浄の浄とは、第三の背捨なり、更に浄縁に練治せらる、故に浄の浄と言ふ。
[30]四に空背捨とは、一切の色を過ぎ、有対の色を滅し、種種の色を念ぜず。一切色は是れ欲界の内外色、有対は是れ五根の所対なり、此両色は前の三背捨に已に滅す、但八色有つて心に随つて転変す、故に種種の色と言ふ。色を呵して空を縁ず、更に別法無く但空定に入る。若し凡未は染多くして空定に保著す、聖人は深心智慧利にして、直に去つて廻らず、故に背捨と名く。
[31]若し空を縁ずること多きは則ち散ず、虚誑にして実ならず、空を捨て識を縁じ、識法相応するを識処背捨と名く。
[32]又識は、生滅、無常、虚誑にして、復所縁無く、但、能縁のみ有り、故に無応有応と言ふなり。
[33]識処は癰の如く、無所有処は瘡の如し、識、無識を捨つるは即ち是れ非想非非想なり。
[34]此無想には猶ほ細煩悩有り、今は、能く非想を縁ずるの受想を捨て、亦復能滅の想も無し、定法身を持し、泯然として無想なり、氷魚蟄虫の如し。若し所滅を以て名と為さば、上に攀ぢ下を厭ふと何の異りあらん。今は能く自地を滅し亦他地を滅するに従つて名を得るなり、故に滅受想背捨と言ふ、具に修証の中に説けるが如し。「毘曇」に明す、「滅定を得るは是れ倶解脱、此の一定を得ざるは但慧解脱と名く」と。「成論」に「電光を得るは慧解脱と名け、具に世間禅を得るを倶解脱と名く」と。「成論」の後の四、更に別法無し、無漏心を以て此を修すること然るべし、前の三、何が意ぞ別法無くして而も外道の禅に約するや云云。
[35]若し過去に曾て八定を得。故に宿習を発す。而して滅定の一種、無漏を得ざれば修則ち成ぜず、故に宿習を論ぜざるなり、九次第定、超越等は、三蔵に約せば凡人此定を修すること有ること無し、故に宿習を発することを論ぜざるなり。若し大乗に約せば亦応に此義有るべし、今論ぜざる所なり。
[36]次に大不浄観の発を明さば、亦は大背捨と名く。前に観ずる所、発する所は、皮肉を除郤して、諦に骨人、死屍の不浄を観ず
或は一屍両屍、城邑聚落、不浄流溢する等と、但自他の正報に約す、故に小不浄と言ふなり。此に約して而して厭背を論ずるが故に背捨と名く、亦是れ総別の相なり云云。
[37]若し大不浄観は、何ぞ但正報の流溢不浄のみならん。依報の宅字、錢財、穀米、衣服、故食、山河園林、江淮池沼、絓りて是れ色法は悉く皆不浄にて虫膿流出し、臭処腥臊なり。舍は丘墓の如く、錢は死蛇の如く羮は屎汁の如く、飯は白虫の如く、衣は臭皮の如く、山は肉聚の如く、池は膿河の如く、園林は枯骨の如く、江海は汪穢の如し。「大経」に云はく、「美羮も穢汁の想を作す」と。即ち此観なり。坐禅の中に於て忽ち上の如く見る、此大地を見るに一の好処も無し、依正復貪るべからず、是を大不浄の発と名くるなり、初め火を然すに功を加へて攅発するに、煙炎蓋し微し、火既に勢を成ぜば復薪を択ばず、乃至江河も亦能く乾竭するが如し。
[38]初め不浄を観ずるは止一屍一国なり、婬心乍ち興り乍ち廃す、今、定力已に成じ厭悪亦盛なり、一切の依正不浄に非ざること無く、欲心永く息む。復次に、諸物に何の定相か有らん、人の果報に随つて感見すること同じからず。善業は浄色を感じ、悪業は不浄色を感ず。諸天の宝地、宝宮、人中の富楽、諸の瓦石を執るに変じて金銀と成るが如し。善力の招く所にして依正倶に浄し。「僧護経」に説く所、地獄の獄相同じからざるが如し。或は身肉は地と為し、他の為に耕さるるを見、或は身、樹林の如く衆に摧折せらるるを見、或は身、山の如く屋の如く衣の如し、凡そ一百二十種あり、皆悪業の感ずる所にして不浄の色を招くなり。若し浄色を執して保愛すること堅固ならば、大観の力を以て大著の心を破し、大顛倒を飜じて大不浄観を成ぜよ。何を以ての故ぞ。未れ幻術の法は多く是れ欺誑なり、神通の法は其道理を得、凡そ一切の物は皆転変すべし、蘇蝋金鐵の煖に遇ひて流変するが如く、水の冷に遇ひて地と成るが如し、此得解の観は転変の道を契ふ、定力爾るが故なり。若し根本は但下地の著を除くのみにして自他を除くこと能はず、若し小大の背捨は、未だ是れ無漏ならず、但下地自地の著を除く、若し無漏の縁通ずれば則ち下、自、上皆著を除くなり。
[39]若し人、大不浄を発して背捨に入らば亦大なり、初禅の摂なり。若し内に骨人無く外に八色及び依正の両報を観ずれば境を縁ずること大なるが故に第二の大背捨と名く、二禅の摂なり。若し大不浄を以て浄背捨に入らば亦大なり、乃至滅背捨も亦是の如し。若し大勝処を論ぜば、更に背捨を熟して、縁に於て転変自在ならしむ。「大論」に明さく、「鈍人は八背捨を修し竟つて方に勝処一切処を修す、中根は三の背捨を修し竟つて四禅の中に於て勝処等を修す、上根は祇初背捨を修するに即ち一切法を修するなり」と。今は処中にして説く。若は多、若は少なるは還つて依正に約す。一屍を少と為し、二屍を多と為す、是の如く伝伝して解す可し。一衣、一食、一山河を少と為し、無量の衣食山河を多と為す。初め修するには少従り多に至り、今発するも亦応に爾るべし。若は好、若は醜なるは、善業の端正なるを好と為し、悪業の鄙陋なるを醜と為す。此二皆我に於て美き者を好と為し、我に於て悪しき者を醜と為す。此二皆智慧有るを好と為し、皆愚癡有るを醜と為す。此二富貴なるを好と為し貪賎なるを醜と為す。此の如きの好醜倶に不浄なり、山河、国土、衣食、屋宅の、若は好なるも若は醜なるも倶に不浄なり。又依正倶に醜なり、骨人の放つ所の八色を好と為し、又八色亦醜なり、練せらるるを好と為す、好醜皆不浄なり。此両の勝処は初禅の摂なり。若し内に色相無く外に色の若は多若は少若は好若は醜なるを観ずるの勝知勝見は、内に骨人を滅し、外に八色有り、又依正の多、少、好、醜有り、前に説けるが如し云云。