[1]定聖行とは、略して三と為す。一には世間禅、二には出世禅、三には上上禅なり。世禅に復た二あり。一には根本味禅なり。隠没・有垢・無記なり。二に根本浄禅なり。不隠没・無垢・有記なり。根本とは、世・出世の法の根本なり。『大品』に云わく、「諸仏の成道、転法輪、入涅槃は悉く禅の中に在り」と。
若し能く深く根本を観ぜば、勝妙の上定を出生するが故に、根本と称するなり。隠没とは、闇証の観慧無きなり、有垢とは、地地に愛味を生ずるなり。無記とは、境界分明ならざるなり。此れに三品有り。謂わく、禅なり。等なり。空なり。即ち十二門禅なり。初めに方便を修するに、当に善く風・喘を簡び、明らかに正息を識るべし。安徐として数を記し、増滅せしむること莫し。若し数微細ならば、善く解して縁を転じ、調停して所を得て、証前の方便の法に当たる。或は麁細住に、皆な持身の法起こること有り。進んで欲界定、或は未到定を得、八触、発動して、五支成就す。是れ初禅を発す。『大論』に云わく、「已に婬火を離るることを得れば、則ち清涼定を獲。人の大いに熱悶すれども、冷池に入れば、則ち楽しむが如し」と、云云。若し上に進みて下を離れんと欲せば、凡夫は六行観に依り、仏弟子は多く八聖種を修す。行者は、初禅の覚・観支の中に於いて覚・観を厭離し、初禅を以て苦・麁・障と為す。二法は定心を動乱するが故に苦なり。二法従り喜・楽を生ずるが故に麁なり。二法は上定を翳うが故に障なり。二禅は此れに異なるを、勝・妙・出と名づく。総じて之を言わば、一に過を知りて受著せず、二に訶責し、三に析破して初禅を離るることを得、是れ二禅を修する相なり。善巧に攀厭すれば、則ち内外皎然として喜と倶に発して、四支成就す。故に『論』に云わく、「是の故に覚・観を除き、一識処に入ることを得。内心清浄なるが故に、定生じて喜・楽を得」と、云云。二禅の中、既に覚・観を離るれば、方便を作すことを得ず。定を出づる時、修習して下を厭い上に進むに、亦た六行有り。初禅を棄つる方法の如し、云云。爾の時、泯然として内外に依らず、楽と倶に発して五支成就す。故に『論』に云わく、「愛に由るが故に苦有り。喜を失えば、則ち憂を生ず。苦楽を離れて、身安し。捨・念、及び方便あり」と、云云。下を厭い上に進まんと欲するに、亦た六行有り。前の如し、云云。善く修むるが故に、心豁け開明して、出入の息断じて、捨と倶に発し、空明寂静にして、四支成就す。若し能く楽の患を知って不動を見ば、大いに安し。憂喜は先に已に除こり、苦楽も今亦た断ず、云云。行人は既に内に四禅を証して、外に福徳を修せんと欲すれば、応に四等を学ぶべし。此れに通修・別修有り。通修とは、『大論』に云わく、「是の慈は色界の四禅の中間に在りて修することを得」と。此の語は則ち通なり。別修とは、初禅に覚・観の分別有り、悲を修するに則ち易く、喜支は喜を修するに易く、楽支は慈を修するに易く、一心支は捨を修するに易し。復た次に、初禅は悲を修するに易く、二禅は喜を修するに易く、三禅は慈を修するに易く、四禅は捨を修するに易し。此れは即ち四無量定を修するの処所なり。復た次に、修する時、前人の離苦・得楽・歓喜・平等の相を縁じて定に入る。発する時、内に喜・楽・平等の法を得、外に前人の離苦・得楽を見る。或は内に得て外は見ず。或は外に見て内に得ず。邪正を分別す、云云。行人は色籠を出でんと欲して、四空定を修す。色を滅して心を存し、心心相い依るが故に、四空と名づく。方便とは、須らく訶すべし。色は是れ苦の本なり。饑渇寒熱あり。色を苦聚と為す。空を讃じて浄妙と為す。諸もろの逼迫を離る。一切の色を過ぎて、空定と相応せば、不苦不楽は倍ます更に増長す。深き定の中に於いて、唯だ虚空を見るのみにして、諸もろの色相無く、心に分散無し。復た次に、空定を得るが故に、色界を出過す。故に一切の色相を過ぐと名づく。空法、心を持して、種種の諸色起こることを得ざるが故に、有対の相を滅すと名づく。已に空定を得、決定して能く色法を捨て、憶恋せざるが故に、種種の色相を念ぜずと名づく、云云。下を訶して上を攀ずるに、皆な方便有り。委しくは『禅門』に在り、云云。根本味禅竟わる。
[2]根本浄禅は、不隠没・無垢・有記なり。上と相違す。此れは又た三品あり。六妙門・十六特勝・通明等を謂うなり。涅槃は是れ妙なり。此の六は能く通ずるが故に、六妙門と言う。此の三法は、三根性の為なり。慧性多ければ、為めに六妙門を説く。此の一一の門は、欲界の中に於いて、即ち能く無漏を発す。若し定性多くば、為めに十六特勝を説く。故に下地に無漏を発せず、上地に禅満じて、乃ち能く悟ることを得。定・慧の性等しければ、為めに通明を説く。通明の観慧は深細にして、下従り上に至りて、皆な能く無漏を発す。此れは是れ随機の説なり。若し対治を作せば、則ち復た別途なり、云云。若し広く修習を明かせば、則ち一切の諸禅を摂す。今は但だ次第相生の一轍の豎の意なるのみ。此の六門を修するに、修証合論すれば、則ち十二の法有り。仏の言わく、 「三四に遊止して、十二を出生す」と。即ち此れは数を修し、数を証し、乃至、浄を修し、浄を証す。数を修すとは、行人初めに気息を調和して、渋ならず滑ならず、安詳として徐ろに数え、一従り十に至る。心を摂して数に在り、馳散せしめず。是れ数を修すと名づく。数と相応すとは、覚心任運に、一従り十に至るまで、功力を加えず、心自ら数に住す。息微に心細なり。是れ数を証すと名づく。若し数の麁なるを患えば、当に数を放ちて随を修すべし。乃至、浄も亦た各おの是の如し。然るに、観に三義有り。一には慧観なり。真を観ず。二には得解観なり。即ち仮想の観なり。三に実観なり。此の中には初めに実観を用い、後に慧観を用う。実観を修すとは、定心の中に於いて、心眼を以て諦らかに此の身を観ずるに、細微入出の息の相は、空中の風の如く、皮肉筋骨三十六物は芭蕉の実ならざるが如く、内外の不浄なること甚だ厭悪す可し。復た、定中の喜・楽等の受を観ずるに、悉く破壊の相有り。是れ苦にして楽に非ず。又籰、定中の心識を観ずるに、無常にして刹那も住せず、著す可き処無し。復た、定中の善悪等の法を観ずるに、悉く因縁に属して、皆な自性無し。是の如く観ずる時、能く四倒を破して、人我を得ざれば、定何ぞ依る所あらん。是れ修観と名づく。是の如く修する時、息の出入して諸もろの毛孔に遍きことを覚り、心眼開明して、身内の三十六物、及び諸もろの虫戸、内外不浄なるを徹見す。衆苦逼迫し、刹那に変易す。一切の諸法、悉く自性無しと見る。心に悲喜を生じて、依倚する所無し。四念処を得て、四顛倒を破す。是れ観と相応すと名づく。具さには記すこと能わず、云云。仏は樹下に座して、内に安般を思う。一に数、二に随等なり。正しく是れ此の禅なり。
[3]十六特勝とは、名を釈す、云云。此れは因縁に従って名を得。修の相とは、息の入るを知り、息の出づるを知れば、此れは数息に代う。息を調うること綿細にして、一心に息に随う。入る時は鼻従り臍に至ると知り、出づる時は臍従り鼻に至ると知り、照に随って乱れず。風・喘・気を知るを麁と為し、息を知るを細と為す。麁に入れば、即ち調えて細ならしむ。門を守る人の、入るを知り、出づるを知りて、悪しきは遮り、好きは進むるが如し。渋滑、軽重、冷煖、久近、難易、皆な知る。息は命の依る所と為り、一息還らざれば、即便ち命尽くと知る。息と命とは危脆無常なることを覚りて、愛慢を生ぜず。息は我に非ずと知れば、即ち見を生ぜず。息の長短を知るが若きを欲界定に対し、息の身に遍きを知るを未到地に対し、諸もろの身行を除くを初禅の覚・観支に対し、受喜を喜支に対し、受楽を楽支に対し、諸もろの心行を受くるを一心支に対し、心に喜を作すは即ち喜と倶なる禅、心に摂を作すは即ち二禅の一心支、心に解脱を作すは即ち三禅の楽、無常を観ずるは即ち四禅の不動、出散を観ずるは即ち空処、離欲を観ずるは即ち識処、滅を観ずるは即ち無所有処に対し、棄捨を観ずるを非想非非想処に対す。棄捨を観ずる時、即便ち三乗の涅槃を獲得す。若し横に観慧を論ぜば、即ち四念処に対す、云云。
[4]通明禅とは、行者、息・色・心の三事を観ずるに、分別無し。諦らかに出入の息を観ずるに、入に積聚無く、出に分散無く、来に経る所無く、去に履渉無し。空中の風の如く、性に有る所無し。息は本と身に依る。身本と有らずして、先世の妄想は、今の四大を招く。虚空を囲みて、仮りに名づけて身と為す。頭等の六分、三十六物、四微一一身に非ず。身を観ずるに心に由る。心は縁に由りて起こる。生滅迅速にして、住処、相貌を見ず。但だ名字有るのみ。名字も亦た空なり。是の如く息・色・心を観ずるに、三性の別異を得ず。既に三事を得ざれば、即ち一切法を得ず。此れは是れ修の相なり。証とは、内に真諦の空を証すること、観の解の如し。次第に此の身を通達して、色と息と分明なり。亦た世門の天文・地理の、身と相応することを知る。能く三界の禅定を具し、能く非想に細煩悩有るを知り、惑を破し真を発して、三乗の涅槃を得。委くは『禅門』に在り。世間禅竟わる。
[5]二に出世間禅を明かすとは、即ち四種有り。観・練・熏・修を謂う。観とは、九想・八背捨・八勝処・十一切処を謂う。通じて観禅と称す。行人は婬火を破せんが為めに、必ず須らく想を増し純熟すべし。観ずる所に随う時に、定と相応す。想と定とは心を持して、心に分散無く、能く世間の貪愛を除く。六種の欲を破す。有る人は赤白黄黒等の色に著し、或は相藐の端厳なるに著し、或は威儀恣態に著し、或は語言嬌媚に著し、或は細滑なる肌体に著し、或は意に可うの人に著す。此の六欲の淵は、行者を沈没す。能く九想を修して、此の六賊を除く。死想は威儀・言語の両欲を破し、脹想・壊想・噉想は形貌欲を破し、血途想・靑瘀想・膿爛想は色欲を破し、骨想・焼想は細滑欲を破す。九想は通じて著する所の人欲を除き、又た、噉想・散想は意を著くる人を除く。此の九は既に欲を除けば、亦た瞋癡を薄くし、九十八使の山動く。是れ不浄の初門なりと雖も、能く大事を成ずること、海中の屍の之れに依りて度ることを得るが如し、云云。八背捨の名は、云云。浄潔の五欲に背き、著心を捨離するが故に、背捨と名づく。修とは、行人、持戒清浄にして、大誓願を発し、大事を成ぜんと欲す。身を端し心を正して、諦らかに足の大指を観じて、大豆の黒み脹れ、はれ起こるが如しと想う。此の想成ずる時、更に進んで貍豆の大きさの如く、更に一指の大きさの如く、更に鶏の卵の大きさの如し。次に、二指、三、四、五指なり。次に趺の底、踵、踝、ふくらはぎ、膝、髀、臗を観ずるに、悉く膖脹するを見る。次に、右脚を観ずるも亦た是の如し。復た、当に大小便道、腰、背、腹、脊、胸、脇の、悉く腫脹を見るを想うべし。又た、右の胛、臂、肘、腕、掌、五指を観じ、又た、頭・頷等なり。足従り頭に至り、頭従り足に至り、身を循りて観察して、唯だ腫脹するを見るに、心に厭悪を生ず。復た、当に壊、膿、爛を観ずべし。大小便道より虫膿流出し、臭きこと死狗より劇し。己身既に爾れば、愛する所の人を観ずるも、亦復た是の如し。内に我を見るに破し、外に貪愛を破す。久しく観察に住すれば、世の貪愛を除く。次に、皮肉を除却す。白骨を諦観して、骨の色相の異なるを見る。青・黄・白・鴿を謂う。是の如く骨相も亦復た我無し。此の観を得る時を、欲界定と名づく。次に、骨の青を観ずる時、此の天地の東西南北悉く皆な青相なるを見る。黄・白・鴿色も亦復た是の如し。此は是れ未到の相なり。又た、骨人を観ずるに、眉間より光を出し、光の中に仏を見るは、是れ初背捨の成ずる相なり。是の如く次第して、乃ち八背捨の発する相に至るは、具さには『禅門』の如し、云云。八勝処とは、初めの両勝処は、位、初禅に在り。三・四の両勝処は、位、二禅に在り。後の四勝処は、位、四禅に在り。三禅は楽多く心鈍なるが故に、立てざるなり。前の背捨は、縁の中の多少、自在なるを得ず。是の故に勝処は更に深細にして、少多好醜を観察して、悉く勝知勝見ならしむ。快馬の能く陣を破り、亦た能く自ら其の馬を制するが如し、云云。十一切処とは、八色両心更相いに渉入するを以て、広普遍満して、転変無礙なり。具さには『禅門』の如し、云云。
[6]練禅とは、即ち九次第定なり。上来、八禅を得と雖も、入るに則ち間なり。今、純熟して初めの浅き従り、極めて後の深きに至らしめんと欲して、次第して入り、中間に垢滓間穢有ること無く、不次第の者をして次第ならしむ。故に次第と名づく。亦た是れ無漏をもて有漏を練り、諸もろの間穬を除くが故に、練禅と名づく。亦た是れ均しく諸禅を調え、定慧をして斉平にして無間ならしむるなり。『阿毘曇』に熏・練を明かすに、但だ無漏を以て四禅に熏ずと言うのみ。今、無漏を以て、通じて八地を練る、即ち是れ次第に無間三昧に入るなり。
[7]熏禅とは、即ち師子奮迅三昧なり。前は是れ次第無間に入り、今も亦た是れ次第無間に入り、亦た能く次第無間に出づ。麁間、及び法愛、味塵を除くこと、猶お師子の能く却き能く進みて、諸もろの塵土を奮うが如し。行者は、此の法に入出して、能く遍く諸禅を熏じ、悉く通利にして転変自在ならしむ。皮熟を熏じ、意に随って物を作るが如し。
[8]修禅とは、超越三昧なり。近遠に超入し、近遠に超出し、近遠に超住す。是の禅は功徳最も深きが故に、頂禅と名づく。諸もろの法門に於いて、自在に出入す、云云。
[9]又た、九次第定は、善く八背捨に入り、奮迅は善く八背捨を出で、超越は善く八背捨に住す。「善く百千の三昧に入り出で住す」とは、即ち此の意なり。譬えば、画師の五彩相い淡くして無量の色を出だすが如く、世間の果は但だ四大を以て一切の五陰を出だすのみなるが如し。定法も亦た爾り。但だ観・練・熏・修を以て、一切の神通変化を出生するに、種として備わらざること無し。『大経』に云わく、「菩薩は禅に住して、堪忍地を得」と。地は能く持し、能く生ず。一一の禅の中に、皆な慈悲・誓願・道品・六度の諸行有りて、具足せざること無し。何となれば、戒定の中に於いて観慧を明かすが若きは、即ち共念処なり。単に観を論ずるは、是れ性念処なり。通じて戒定等、境智、文字等を取るは、是れ縁念処なり。又た、不浄観は浄の顛倒を破す。是れ自念処なり。諸禅の中の心受の苦楽にして、三世の内外の受は不可得なりと観じて、楽の顛倒を破するは、是れ受念処なり。諸禅の心は心有るを以ての故に善悪を造作し、心無ければ則ち作者無しと観じて、我の顛倒を破するは、是れ法念処なり。心は生滅して前後際断すと観じて、常の顛倒を破するは、是れ心念処なり。復た次に、八背捨は四念処を観じ、九次第定は四念処を練り、奮迅は四念処に熏じ、超越は四念処を修す。二乗は自らの滅度の為めに、此の五禅を修し、四枯の念処を成ずれば、堪忍地と名づけず。菩薩は衆生を化せんが為めに、深く念処を観じ、慈悲・誓願もて衆生を荷負して、四栄の念処を成ず。是れ摩訶衍にして、堪忍地と名づくるなり。
[10]問う。無色は無身なるに、云何んが四念処を具するや。答う、『毘曇』に云わく、「無色に道共戒有り。戒は是れ無作色なり。無漏の縁通ずるを以ての故に、此の戒色は無漏に随って無色に至るなり」と。『成論』の人の云わく、「色は是れ無教法なり。無色に至らず」と。『舎利弗毘曇』に云わく、「無色に色有り」と。当に知るべし。小乗に義を明かすに、即ち両意有り。『大経』に云わく、「無色界の色は諸もろの声聞の知る所に非ず」と。若し爾らば、四念処の無色に通ずること、亦復た何ぞ妨げん。問う、諸禅の中、但だ念処を明かすことを得るのみにして、尚お正勤無し。云何んが道品を具するや。答う。位に約して言を為さば、念処に後品無し。修行に義を為さば、念処に道品を具するなり。『大論』に云わく、「初めに善の有漏の五陰を修し、有為法の中に於いて、正憶念を得るは、即ち念処の智慧なり。四種の精進は、即ち是れ正勤なり。定心の中に修するを、如意足と名づく。五善根生ずるを名づけて根と為し、根の増長するを名づけて力と為し、道用を分別するを名づけて七覚と為し、安穩道の中に行ずるを八正道と名づく」と。初善有漏の中に已に能く此を具す。何ぞ須らく見道に方に八正有るべけん。若し念処に既に三十七品を具せば、煖・頂等も例して然り。観禅既に爾れば、練・熏・修等も亦た然り。然るに、菩薩は一一の禅の中に於いて、入る所の法門に随って、衆生を慈悲すること、父母、食を得て其の子を忘れざるが如し。痴闇の、内に従って自ら楽を求めず、他に従って外に求め、五欲に耽荒して苦を求め、得ては怖れ、失いては憂え、諸欲に楽無きを愍傷し、此れが為めに悲を起こす。夫れ欲の患いは是の如し。何ぞ能く之れを去りて、禅定の楽を得て、則ち欺く所と為らざらん。是の故に慈を起こす。四弘誓有るなり。又た、諸禅の中に六度を修するは、衆生は世間の生活業務に縛著して、暫くも捨つること能わざれども、菩薩は之れを棄てて、一心に禅に入る。是れ檀と名づく。若し戒を持せずば、禅定発せず。又た、禅に入る時、雑念起こらず、任運に悪無し。是れ尸なり。身口を拘検して、労を捍ぎ苦を忍び、外塵を制して著せず、内入を抑えて起こさざるは、是れ忍と為す。初中後夜に繋念相続し、行住座臥に心常に定に在りて、間念を生ぜざるは、是れ精進と名づく。一心、定に在りて、乱れず味せざるは、名づけて定と為す。若し一心、定に在りて、能く世間の生滅の法相を知り、深く邪偽を識らば、般若と名づく。一切の衆行は、皆な禅の中に於いて具足す。一一の禅の中に、能く諸もろの功徳を生じ、慈悲荷負す。是の故に堪忍の地と名づくることを得。
[11]三に出世間上上禅とは、即ち九種の大禅なり。『地持』に釈する所の如し。今、具さには論ぜず。自性禅とは、即ち是れ心の実性を観ずるを、名づけて上定と為す。一切の諸法は、頗し心に由らざる者有らん、心に一切を摂すること、如意珠の如し。此の九の大禅は、皆な是れ法界なり。一切は禅に趣き、境に造るに即ち真なり。一色一香も中道に非ざること無し。二乗は尚お其の名を知らず。況んや其の定を証せんや。
[12]前の根本旧禅は乳の如く、練禅は酪の如く、熏禅は生蘇の如く、修禅は熟蘇の如く、九の大禅は醍醐の如し。醍醐を妙と為すなり。復た次に、根本禅、愛味の心の中に修するは即ち乳と成り、自度の心の中に修するは即ち酪と成り、慈悲の心の中に修するは即ち生蘇と成り、慈悲の次第の心の中に修するは即ち熟蘇と成り、実相の心の中に修するは即ち醍醐と成る。余の四味も亦た是の如し。若し実相の心を以て修せずば、皆な名づけて麁と為す。
[13]若し開麁顕妙せば、阿那波那は、即ち是れ摩訶衍なり。法界実相は、諸法を摂持す。此れを離るるの外に、更に別の妙無し。故に知んぬ。諸仏の成道、転法輪、入涅槃は、皆な四禅に在り。四禅の中に実相を見るを、禅波羅蜜と名づく、何に況んや余定をや。此れは即ち絶待妙の義なり。定聖行竟わる。
[14]慧聖行とは、四種の四諦の慧を謂う、云云。生滅の四諦の慧とは、還って九想・背捨を観ずるに、依正の両報は膖脹爛壊不浄の色なり。是れ逼迫の相、現の相、三苦の相なり。是れ苦諦の慧なり。迷いを起こさず、依正に著するを以て、恩愛の奴と作り、身口を運動して、三品の十悪業を起こし、三途等の生を惑ずるは、生長の相、転の相、二十五有の相なり。又た、世間の因果、不浄、過患を知りて、深く愧じ厭い耻じ、終に他を殺して己れを活かし、彼れを奪って身を潤し、不浄に耽湎し、曲を隠し直を求め、怨親を離合し、栄辱を間構し、内に諂い外に佞り、引納度無く、毒を縦にし道を傷り、邪僻にして真を失わず。不浄を為して十悪業を作さず、慚愧羞鄙し、三品の十善を行じ、三善道の生を感ず。亦た是れ生長の相、転の相、二十五有の相なり。是れ集諦の慧と名づく。依正の不浄を観じて浄の顛倒を破し、諸受は即ち三苦なりと観じて楽の顛倒を破し、諸行の和合を観じて我の顛倒を破し、諸心の生滅を観じて常の顛倒を破す。別相・総相・善巧の正勤・如意・根・力・覚・道は涅槃の門に向かう。慈悲・誓願・六度の諸行等は、即ち大乗の相なり。亦た是れ戒定慧の相なり。亦た是れ能除の相なり。是れ道諦の慧と名づく。倒起こらざれば、則ち業起こらず。業起こらざれば、即ち因起こらず、因起こらざるが故に、果起こらず。是れ寂滅の相と名づく。亦た二十五有の滅の相なり。亦た除相と名づく。是を生滅の四諦の慧と為す。
[15]無生の四諦の慧とは、不浄の色を観ずるに、色性自ら空なり。色滅して空なるには非ず、鏡の中の像に真実有ること無きが如し。洞らかに五受陰は空にして、有る所無しと達し、苦に苦無しと解して、而も真諦有り。是れ苦諦の慧なり。集は心に由るも、心は幻化の如ければ、起こす所の集も亦た幻化の如く、一切の愛見は虚空と等しと知る。是れ集諦の慧と名づく。道は本と集を治す。所治は既に幻化の如ければ、能治も亦た幻化の如し、是れ道諦の慧と名づく。法に若し生有らば、亦た滅有る可し。法本と生ぜざれば、今則ち滅せず。若し一法の涅槃に過ぐる者有らば、我れも亦た幻化の如しと説く。是れ滅諦の慧と名づく。五陰・衆生は虚空の如しと知ると雖も、空の如きの衆生を度せんことを誓う。集は有る所無しと知ると雖も、諸もろの妄想を断ずること、空と共に闘うが如し。道は二相ならずと知ると雖も、勤めて空中に於いて樹を種ゆ。衆生の滅度を得る者無しと雖も、無量の衆生を滅度す。此の、事に即して而も真なるに約して、道品・六度等を論ず、云云。是れ無生の四諦の慧と名づく。
[16]無量の四諦の慧とは、『大経』に云わく、「仏、四諦を説くに、若し法を摂すること尽くせば、則ち説かざる所の者は十方の土の如しと言うべからず。法を摂すること尽くさずば、応に五諦有るべし。仏の言わく、『四諦に摂し尽くす』と。第五の諦無し。但だ苦に無量の相有り。集・滅・道等にも皆な無量の相有り。我れは彼の経に於いて、竟に之れを説かず」と。若し是れ空ならば、空に尚お空無し。云何んぞ無量なるや。当に知るべし、出仮分別の慧なり。此の慧、遍く十法界の仮実の差別を知るを苦諦の慧と名づけ、遍く五住の煩悩の不同を知るを集諦の慧と名づけ、遍く半満正助等の行を解するを道諦の慧と名づけ、半満十六門の諸滅門の不同を解するは是れ滅諦の慧なり。二乗は但だ四諦の薬のみを服して見思の病を治し、自らは生死を出づるも、分別に於いては則ち閑なり。菩薩は大医王と作る。須らく種種の脈を診て種種の病を識り、種種の薬を精しくして種種の差ゆることを得ることを解すべし。此れに約して種種の慈悲を起こし、種種の行、諸度、道品を行じ、種種の衆生を成じ、種種の仏土を浄む。広く説くこと『止観』の如し、云云。是を無量の四諦の慧と名づく。
[17]無作の四諦の慧とは、解惑の因縁は而も四を成ずるなり。『大経』に云わく、「宝珠、体に在るも、謂いて失去すと呼んで、憂愁啼哭す」と。但だ其の体、及び瘡を見るのみにして、宝珠、及び鏡を見ず。唯だ憂悲有るのみにして、復た歓喜無し。此れは道・滅に迷いて、苦・集を起こす。若し瘡の体は即ち是れ宝珠なりと解すれば、則ち喜びて哭せず。無明を滅するに因りて、即ち熾然たる三菩提の灯を得。此の解悟の因縁は、即ち是れ道・滅なり。道・滅は即ち苦・集、苦・集即ち道・滅なり。若し爾れば、則ち四は四に非ず。四は既に四に非ざれば、無量も亦た無量に非ず。無量は既に無量に非ざれば、則ち仮は仮に非ず。仮は仮に非ざるが故に、則ち空は空に非ず。何ぞ但だ空に即して空に非ざるのみならん、亦た仮に即して仮に非ず。双亡・正入にして、即ち寂照双流す。『大品』に云わく、「一切種智は即ち寂滅の相なり、種種の行類の相貌皆な知るを、一切種智と名づく」と。「寂滅の相」は、即ち是れ双遮双亡なり。「行類の相貌皆な知る」は、即ち是れ双流双照なり。無心に亡照し、任運に寂知するが故に、不可思議と名づく、即ち無作の四諦の慧なり。『大経』に云わく、「苦無く、謗無く、実有り。集・道・滅無く、諦無く、実有り。実は即ち中道・如来・虚空・仏性なり」と。
[18]此の如く観ずる時、無縁の慈悲は、二辺の苦を抜き、中道の楽を与う。色は浄に非ず、不浄に非ず、即空・即仮・即中なりと修す。枯に非ず、栄に非ずして、中間に滅を論ず。一切の道品は、具足せざること無し。遍く十法界の依正を捨つるを檀と名づけ、中道の道共の尸の彼岸に到るを戒と名づけ、寂滅忍に住して二辺動ぜざるを忍と名づけ、二辺間わらざるを牢強の精進と名づけ、王三昧に入り首楞厳に住するを禅と名づけ、実相般若を智慧と名づけ、無謀の功用を方便と名づけ、八自在の我を力と名づけ、無記化化禅を願と名づけ、三智一心の中に得るを智と名づく。一波羅密に十を具し、亦た一切の仏法を具す。一行は無量行、無量行は一行なり。是れ如来行なり。是れ無作の四諦の慧と名づく。此の慧を修する時、即ち無所畏地に住することを得。即ち初歓喜地なり。五怖畏を離るとは、不活畏・悪名畏・死畏・悪道畏・大衆威徳畏を謂う。『大経』に云わく、「貪欲・恚・癡を畏れず」と。此れは内に三毒無く、外に八風を離るれば、即ち悪名の畏無し。「地獄等を畏れず」と言ふが若きは、即ち悪道畏無し。「沙門・婆羅門を畏れず」と言うが若きは、即ち大衆畏無し。中道を見れば、即ち二死の畏無し。実相の智慧の常命立てば、不活畏無し。此の地に入ることを得て、二十五三昧を具し、二十五有を破し、二十五有の我性を顕わす。我性は即ち実性、実性は即ち仏性なり。仏の知見を開いて真の中道を発し、無明惑を断じて真応二身を顕わし、縁感ずれば即ち応ず。百仏世界に十法界の身を現じ、三世の仏智地に入りて、能く自利・利他し、真実の大慶するを歓喜地と名づくるなり。此の地に四徳を具足す。二十五有の煩悩を破するを浄と名づけ、二十五有の業を破するを我と名づけ、二十五有の報を受けざるを楽と名づけ、二十五有の生死無きを常と名づく。常楽我浄を、名づけて仏性顕わると為すは、即ち此の意なり。
[19]『地持』に「五怖畏を離る」と説くは、無我智を修すれば、我想生ぜず。云何んが当に我愛・衆具愛有るべきや。是れ不活畏を離る。他人に於いて求欲する所有らず、常に一切衆生を饒益するは、是れ悪名畏を離る。我見・我想に於いて、心不生なるは、是れ死畏を離る。此の身命終して、未来世に於いて、必ず仏・菩薩と共に会うは、是れ悪道畏を離る。世間を観ずるに、与等の者無し。況んや復た過上するものをや。是れ大衆畏を離る。『十地経』も亦た同じ。『十地論』に解して云わく、「是の中の
[20]第一は身に依り、第二は口に依り、第三・第四は身に依り、第五は意に依る」と。活とは、依身の用うる所の衆具、能く生を資くるを資生と名づけ、生を活と為すなり。此れは因中に就いて果を説く。菩薩に此の畏無し。復た次に、名字言説は皆な口の失に依る。名を護ること、利養の為めにせず、心に他人の恭敬を悕望せざるが故に、悪名無しと名づく。第五は意に依ること解す可し。三・四とは身に依る、善道を愛して悪道を憎めば、身を愛憎すること無きが故に、悪道畏無し。亦た身を愛憎せざるが故に死畏無し。
[21]私に謂わく、貪欲等を畏れざるは、無作の集壊す。悪道を畏れざる、此れを無作の苦壊すと名づく。大衆を畏れざるは、此れは是れ無作の道立つ。不活無く、死畏無き、此れは是れ性を見、常を得て、無作の滅立つ。復た次に、二十五有を破するは、有能く果を含む。有破するが故に集諦壊し、果破するが故に苦諦壊す。二十五三昧を得れば、道諦立ち、二十五有の我性を見れば、我性は即ち仏性にして、滅諦立つ。二十五有を破すれば、則ち煩悩無し。是れ浄徳なり。二十五有の果を破するが故に苦無きは、是れ常徳なり。二十五三昧を得るは、是れ楽なり、二十五有の我性を見るは、是れ我なり。四徳宛然たり。
[22]今、二十五三昧の名を釈するに、四悉檀の意に依る。一には時に随って趣かに立つ。人の多子なるに、各おの一名を立てて、兄弟をして濫ぜざらしむるが如し。二十五三昧も亦復た是の如し。各おの一名を挙げて、世諦をして乱ぜざらしむ。豈に定執す可けんや。二に其の義の便に随い、各おの所以に随って、一名を立つるなり。三に事に随って対当す。各おの主治有れば、対に従って名を得るなり。四に理実に名無けれども、理に依って字を立つ。四意有りと雖も、多く対治を用い、理に約して、以て二十五三昧を立つるなり。通じて二十五を釈するに、各おの四意と為す。一に諸有の過患を出だし、二に本法の功徳を明かし、三に行を結んで三昧を成じ、四に慈悲をもて有を破す。一一に皆な爾り。
[23]地獄の有は無垢三昧を用て破すとは、地獄は是れ重垢の報いの処なり。報因は則ち是れ垢なり。悪業の垢・見思の垢、塵沙の垢・無明の垢を謂う其の一。菩薩は先に此の過を見て、諸垢を破せんが為めに、前来明かす所の根本戒を修して悪業の垢を破し、前来明かす所の背捨等の定を修して見思の垢を伏し、前来明かす所の生滅・無生滅の慧を修して見思の垢を破し、前来明かす所の無量の慧を修して塵沙の垢を破し、前来明かす所の無作の慧を修して無明の垢を破す其の二。見思の垢を破するが故に真諦三昧成じ、悪業の苦。塵沙の垢を破するが故に俗諦三昧成じ、無明の垢を破するが故に中道王三昧成ず其の三。菩薩は自ら地獄の諸垢を破する時、句句皆な慈悲・誓願有りて、冥に法界に熏ず。彼の地獄の有に若し機縁ありて慈悲に関からば、王三昧の力を以て、法性不動にして、而も能く之に応ず。婆藪、調達の如き、宜しき所の身を示し、宜しき所の法を説く。彼の地獄の中に若し善機有らば、持戒の中の慈悲を以て之に応じ、苦を離れ楽を得せしむ。入空の機有れば、生・無生の慧等の慈悲を以て之れに応じ、真諦を得せしむ。入仮の機有らば、無量の慧の慈悲を以て之れに応じ、俗諦を得せしむ。入中の機有らば、無作の慧の慈悲を以て之れに応じ、王三昧を得せしむ。先に自ら垢無く、今、他をして垢を無からしむが故に此の三昧を無垢と名づくるなり下去りて此の如し。復た委しくは記さざるなり。
[24]畜生の有は不退三昧を用て破すとは、畜生は慚愧無く、善道を退失すれば、則ち是れ悪業の故に退し、見思の故に退し、塵沙の故に退し、無明の故に退す。菩薩は諸もろの退を破せんが為めに、前の持戒を修して悪業の退を破し、禅定を修して見思の退を伏し、生・無生の慧を修して見思の退を破し、無量の慧を修して塵沙の退を破し、無作の慧を修して無明の退を破す。見思破するが故に、位不退を得て、真諦三昧成ず。悪業・塵沙破するが故に、行不退を得て、俗諦三昧成ず。無明破するが故に、念不退を得て、中道三味成ず。本と諸行を修するに、皆な慈悲・誓願有りて、冥に法界に熏ず。彼の畜生の中に、若し機縁有りて慈悲に関からば、王三昧の力を以て、法性を動ぜずして、往きて之れに応ず。宜しく何の身を示すべく、宜しく何の法を説くけん。龍と為り、象と為り、鵽鳥大鷲となる。若し善機有らば、戒定の慈悲を以て之れに応じ、苦を出でて楽を得せしむ。入空の機有らば、生・無生の慧の慈悲を以て之れに応じ、有を出でて無を得せしめ、真諦三昧成ず。入仮の機有らば、無量の慧の慈悲を以て之れに応じ、空を免れ仮を得せしめ、俗諦三昧成ず。入中の機有らば、無作の慧の慈悲を以て之れに応じ、辺を出でて中に入らしめ、王三昧成ず。菩薩は自ら既に退せず、他をして退せざらしむるが故に、不退三昧と名づくるなり。
[25]餓鬼の有は心楽三昧を用て破すとは、此の有は常に饑渇に弊す。悪業の苦、見思の煩悩の苦、客塵闇障の苦、無明根本の苦あり。菩薩は諸もろの苦を破せんが為めに、前の持戒を修して、悪業の苦を破し、定を修して見思の苦を伏し、生・無生の慧を修して見思の苦を破し、無量の慧を修して塵沙の苦を破し、無作の慧を修して無明の苦を破す。見思の苦を破して無為の心楽三昧成じ、悪業・塵沙の苦を破して多聞分別楽三昧成じ、無明の苦を破して常楽三昧成ず。本行の慈悲を以て、冥に法界に熏ず。彼の餓鬼道に、若し機縁有りて慈悲と相い関からば、王三昧の力もて法性を動ぜずして而も往きて之れに応じ。宜しき所の身を示し、宜しき所の法を説く。若し善機有らば、持戒の慈悲を以て之れに応じ、手より香乳を出だし、施して飽満せしむ。入空の機有らば、生・無生の慈悲を以て之れに応じ、無為の岸に到らしむ。入仮の機有らば、無量の慈悲を以て之れに応じ、五道に遊戯せしむ。入中の機有らば、無作の慈悲を以て之れに応じ、三毒の根を浄めて仏道を成ずること、疑い無からしむ。菩薩は自ら既に楽を得、又た、他をして楽を得せしむれば、是の故に名づけて心楽三昧と為すなり。
[26]阿修羅の有は歓喜三昧を用うとは、修羅は猜疑・怖畏多ければ、則ち悪業の疑怖、見思の疑怖、塵沙の疑怖、無明の疑怖有り。菩薩は是の諸もろの疑怖を破せんが為めに、而も諸行を修す。戒を修持して悪業の疑怖を破し、諸もろの禅定を修して見思の怖を伏し、生・無生の慧を修して見思の怖を破し、無量の慧を修して塵沙の怖を破し、無作の慧を修して無明の怖を破す。見思破するが故に空法喜三昧を成じ、悪業・塵沙破するが故に一切衆生喜見三昧を成じ、無明破するが故に喜王三昧を成ず。本との諸行の慈悲・誓願を以て、冥に法界に熏ず。彼の修羅の中に、若し機縁有りて慈悲に関からば、王三昧の力を以て、法性を動ぜずして、而も往きて之れに応じ、宜しき所の身を示し、宜しき所の法を説く。善機有らば、応ずるに持戒の身の慈悲を以てして、悪業の怖を離れしむ。入空の機有らば、応ずるに生・無生の慈悲を以てして、見思の怖を離れしむ。入仮の機有らば、応ずるに無量の慈悲を以てして、無知の怖を離れしむ。入中の機有らば、応ずるに無作の慈悲を以てして、無明の怖を離れしむ。自ら三喜を証し、他をして復た三怖無からしむ。是の故に歓喜三昧と名づく。此の前は、悉く対治を用いて名を立つるなり。
[27]弗婆提の有は日光三昧を用て破すとは、日は朝に東より出づれば、便に随って名と為すのみ。日は智光の能く照らして迷惑を除くを譬う。東天下の人に、悪業の闇、見思の闇、塵沙の闇、無明の闇有り。菩薩は此の諸もろの闇を照らさんが為めの故に、前の戒の光を修して悪業の闇を破し、禅定の流光を修して見思の闇を伏し、一切智の光を修して見思の闇を破し、道種智の光を修して塵沙の闇を破し、一切種智の光を修して無明の闇を破す。見思の闇を破するが故に一切智の日光三昧を成じ、塵沙の闇を破するが故に道種智の日光三昧を成じ、無明の闇破するが故に一切種智の日光三昧成ず。本行の慈悲・誓願を以て、冥に法界に熏す。彼の弗婆提に、若し機縁有りて慈悲に関からば、王三昧の力もて法性を動ぜずして而も往きて之れに応じ、身を示し法を説く。若し事善の有らば、持戒の慈悲を以て之れに応じ、悪業の闇を免れしむ。入空の機有らば、生・無生の慈悲を以て之れに応じ、見思の闇を免れしむ。入仮の機有らば、無量の慈悲を以て之れに応じ、無知の闇を免れしむ。入中の機有らば、無作の慈悲を以て之れ
に応じ、無明の闇を免れしむ。自ら既に闇を破し、亦た他をして闇を破せしむるが故に、日光三昧と称するなり。
[28]瞿耶尼の有は月光三昧を用て破すとは、月は夕に初めて西に現ず。亦た便に随って名を立つ、月も亦た闇を照らすこと、例して日光に同じ、云云。
[29]欝単越は、熱焰三昧を用て破すとは、北方は是れ陰地なれば、氷結んで銷し難し。熱焰の赫照に非ざる自りは、終に融冶せず。北天下の人は、無我に氷執して、化度す可きこと難し。若し智火慧焰に非ずば、無我所の心終に得度せず。彼の無我所は、乃ち是れ妄計にして、猶お自性の人我、法我、真如我有り。菩薩は諸もろの我を破せんが為めに、生滅・無生滅の慧を修して性の人我を破し、無量の慧を修して法我を破し、無作の慧を修して真如我を破す。人空を得て真諦の智焰を成じ、法空を得て俗諦の智焰を成じ、真如空を得て中道の智焰を成ず。本との慈悲を以て、冥に法界に熏ず。彼の欝単越に、若し機縁有りて慈悲に関からば、王三昧の力を以て、法性を動ぜずして而も往きて之れに応じ、身を示し法を説く。善機有らば、応ずるに戒の慈悲を以てして、妄計の無我を免れしむ。入空の機有らば、応ずるに生・無生の慈悲を以てして、性我を免れしむ。入仮の機有らば、応ずるに無量の慈悲を以てして、法我を免れしむ。入中の機有らば、無作の慈悲を以て之れに応じ、真如我を免れしむ。自ら妄我を破し、他をして妄我を破せしむるが故に、熱焰三昧と名づくるなり。
[30]閻浮提の有は如幻三昧を用て破すとは、南天下は果報雑雑にして、寿命等は定まらず。猶お幻化の如し。此れは則ち心従り業を幻出し、見思を幻出し、無知を幻出し、無明を幻出す。菩薩は諸もろの幻を破せんが為めに、持戒従り無作を幻出して結業の幻を破し、禅定従り背捨を幻出し、生・無生の慧従り無漏を幻出し、無量の慧従り有漏を幻出し、無作の慧従り非漏非無漏を幻出す。見思の幻破すれば真諦の幻成じ、無知の幻破すれば俗諦の幻成じ、無明の幻破すれば中道の幻成ず。故に『経』に言わく、「如来は是れ大幻師なり」と。彼の閻浮提に、諸もろの機縁有りて誓願に関からば、本との慈悲を以て、感に随って之れに応ず。自ら諸もろの幻を破し、他の諸もろの幻を成ず。是の故に名づけて如幻三昧と為す。余は上に説くが如し。
[31]四天王の有は不動三昧を用て破するとは、此の天は国土を守護し、世界を遊行すれば、則ち果報の動、見思・塵沙・無明・等の動有り。菩薩は諸行を修して諸動を破し、三昧を成ず。
[32]誓願熏じ、機縁感ずれば、本との慈悲を以て、他をして四動を破せしめ、三の不動を成ず。是の故に不動三昧と名づく。委悉には上に説くが如し。
[33]三十三天の有は難伏三昧を用うとは、此れは是れ地居の頂なれば、即ち是れ果報伏し難く、見思・塵沙・無明等伏し難し。菩薩は諸行を修して、其の上に出で、諸もろの難伏を破し、自ら三昧を成ず。誓願は他を熏じ、若し機縁有らば、本との慈悲を以て、他をして証を得しむ。是の故に三昧を名づけて難伏と為す、余は上に説くが如し。
[34] 焰摩天の有は悦意三昧を用て破すとは、此の天は空に処して、刀杖戦闘無し。之れを以て悦と為す。此れは是れ果報の中の悦にして、而も未だ不動の業の悦有らず。亦た無漏、道種智、中智等の悦無し。菩薩は諸もろの不悦を破せんが為めに、而も諸行を修し、自ら三諦の悦意三昧を成ず。誓い、法界に熏じて、機縁有らば、本との慈悲を以て、他をして意悦せしむ。是の故に三昧を名づけて悦意と為す。余は上に説くが如し。
[35]兜率陀天の有は青色三昧を用て破すとは、真諦三蔵の云わく、「此の天の果報は、青を楽う。宮殿、服玩等は一切皆な青なり」と。菩薩は諸もろの青を破せんが為めに、第一義を修して、青・黄・赤・白に非ずして、而も青・黄・赤・白を見る。第一義は戒定慧に非ずして、而も戒定慧なり。戒を以て果報の青を破し、生・無生の慧を以て見思の青を破す。真に非ずして真を見、仮に非ずして仮を見、中に非ずして中を見るも、亦復た是の如し。三青の障破して、自ら三諦の三青三昧を成じ、乃至、感応して他の三昧を成ず。上に例して解す可し。
[36]黄色三昧は化楽天の有を破す。
[37]赤色三昧は他化自在天の有を破す。
[38]白色三昧は初禅の有を破す。皆な是れ果報の白等なり。青色三昧に例して、大意解す可し。白色三昧とは、初禅の、五欲を離るるを白と為す。未だ覚・観を離れざるが故に、是れ黒なり。見思・塵沙・無明等の黒なり。此の諸もろの黒を破して、諸行の白を修し、自ら三昧を成じ、又た、他の三昧を成ずること、上に説くが如し。
[39]種種三昧もて梵王の有を破すとは、梵王は大千界を主領す。種類既に多ければ、即ち是れ果報は種種なり。未だ種種の空、種種の仮、種種の中を見ず。此の種種を破して、種種の行を修し、自ら種種を成じ、亦た他の種種を成ずること、上に説くが如し。
[40]二禅は双三昧を用うとは、二禅は独り内浄・喜の両支有り。余支は余禅と共なり。此れは即ち果報の双なり。而して未だ双空・双仮・双中を見ず。例して上に説くが如し。
[41]三禅は雷音三昧を用うとは、此の禅は楽最も深し。氷魚・蟄虫の如く、是れ果報の著楽なり。又た、空楽・仮楽・中楽に著す。諸もろの楽を驚駭せんが為めに、諸もろの雷音の行を修す。余は上に説くが如し。
[42]四禅は注雨三昧を用うとは、四禅は大地の如く、種種の種子を具す。若し雨を得ずば、芽は生ずることを得ず。一切の善根は、四禅の中に在り。業の種、三諦の種を謂う。諸行の雨を修して、自ら三昧を生じ、慈悲もて機に応じて、他の三昧を生ず、云云。
[43]無想天の有は如虚空三昧を用うとは、外道は空に非ざるを、妄りに涅槃と計し、果報は空に非ず、三諦は皆な虚無に非ずと謂う。諸もろの空浄の行を修して、自ら成じ、他を成ず、云云。
[44]阿那含天は照鏡三昧を用うとは、此れは聖無漏の天なり。浄色を得と雖も、但だ是れ報の浄色なるのみにして、未だ色の空を究尽せざること、鏡の未だ極明ならざるが如し。未だ色の仮を知らざること、鏡の未だ影有らざるが如し。未だ色の中を知らざること、未だ鏡の円に達せざるが如し。余は上に説くが如し。
[45]空処に無礙三昧を用うとは、此の定は色籠を出づることを得れば、即ち果報無礙なれども、未だ是れ空・仮・中等の無礙ならず。余は上に説くが如し。
[46]識処は常三昧を用うとは、此の定は謂わく、識相続して断ぜざるを常と為す。此れは乃ち定の報なり。三無為の常、化用の常、常楽の常に非ず。例して上の如し、云云。
[47]不用処は楽三昧を似て破すとは、此の処は癡なるが如し。癡なるが故に是れ苦、乃至、無明の苦あり。例して上の如し、云云。
[48]非想非非想は我三昧を用て破すとは、頂天は是れ涅槃の果報なりと謂えども、猶お細煩悩有りて自在ならず。乃至、無明ありて自在ならず。修行して之れを破し、真我、随俗の我、常楽の我を得ること、例して上の如し、云云。
[49]此の二十五を皆な三昧と称するは、調直定なればなり。真諦は空無漏を以て調直と為し、出仮は機に称うを以て調直と為し、中道は二辺を遮するを調直と為す。故に皆な三諦を具すれば、則ち通じて三昧と称す。又た、王と称するは、空・仮の調直は末だ王と為すことを得ず。所以に二乗の入空、菩薩の出仮は、法王と名づけず。中道は調直なるが故に、王と称することを得。一一の三昧に皆な中道有れば、悉く称して王と為す。『大経』に云わく、「是の二十五三昧を、諸もろの三昧の王と名づく」と。即ち其の位高の義なり。若し是の三昧に入らば、一切の三昧は悉く其の中に入る。即ち其の体広の義なり。二十五有の機に応ずるは、即ち其の用長なり。無畏地の中に、具さに二十五三昧の種種の力用を得。須弥を芥に入るれども、樹木を傷つけず。毛孔に海を納るれども、亀魚を嬈さず。地獄に処すと雖も、身心に苦無く、変通出没するに、動ぜずして而も遠し。即ち其の妙の義なり。蓋し乃ち慧聖行成じて、能く是の力有るなり。
[50]問う、三昧の有を破するは、乃ち是れ『涅槃』の文なり。何ぞ此れを釈することを得ん。答う、第三に云わく、「有を破す法王は、世に出現し、衆生の欲に随って、為に説法す」と。四意の明文、宛然として具足す。又た、『涅槃』に菩薩の破有を明かし、此の経に法王の破有を明かすこと、弥いよ其の義を顕わすなり。聖行を明かすこと竟わる。
[51]二に梵行とは、梵とは浄なり。二辺の愛見・証得無き、之れを名づけて浄と為す。此の浄法を以て衆生を与抜す。即ち是れ無縁の慈・悲・喜・捨なり。菩薩は大涅槃の心を以て聖行を修し、無畏地を得、二十五三昧の無方の大用を具す。爾の時の慈悲は、是れ真の梵行なり。余の梵天の修する所の四無量心に非ず、亦た三蔵・通教の衆生縁・法縁等の慈悲に非ざるなり。今の慈・悲・喜・捨を以て衆行を熏修するに、成辨せざること無し。『大経』に云わく、「若し人有りて、誰れか是れ一切諸善根の本なるやと問わば、当に慈是れなり言うべし」と。慈は既に是れ行の本なるが故に、梵行と言う。若し円に依りて語らば、亦た『大経』の如し。慈は即ち如来、慈は即ち仏性なり。慈若し仏の十力・四無所畏・三十二相を具せずば、是れ声聞の慈なり。若し具足せば、是れ如来の慈なり。是の慈は即ち是れ大法聚、是の慈即ち大涅槃なり。慈の力は弘深にして、一切の福徳荘厳を具するが故に、梵行と名づく。
[52]三に天行とは、第一義天なり。天然の理、此れは道前を語う。理に由りて行を成ずるは、此れ道中を語う。行に由りて理顕わるるは、此れは道後を語う。今は理に由りて行を成ずるに約するが故に、天行と言う。菩薩は初地に入ると雖も、初地は住すべからず、得る所有るを以ての故なり。上の十地の慧を修して、十重に真修の慧を発す。理に由りて行を成ずるを、名づけて天行と為す。天行は即ち智慧荘厳なり。上、仏道を求むるが故に、聖行・天行有り。下、衆生を化するが故に、梵行・病行・嬰児行有るなり。
[53]四に嬰児行とは、若し福慧転た増せば、実相弥いよ顕わる。作意して衆生を利益せずと雖も、任運に能く冥・顕の両益有り。天行の力に冥益有り、梵行の力に顕益有り。衆生に小善の機有りと雖も、菩薩の開発すること無ければ、生長することを得ず。慈善根の力は、磁石の鉄を吸うが如し。和光利行して、能く衆生をして菩薩の其の始学に同ずるを見ることを得しむ。漸く五戒・十善、人天の果報、楊葉の行を修す。又た、二百五十戒・観・練・熏・修・四諦・十二因縁・三十七品を示して、二乗の嬰児行に同ず。又た、六度を習いて、三阿僧祇百劫に、相好を種え、煩悩を柔伏する六度の菩薩の小善の行に示同す。又た、色に即して是れ空なる無生無滅の通教の小善の行に示同す、又た、別教の歴別次第する相似の中道の小善の行を示同す。皆な是れ慈心の力もて、俯して群小に同じ、提引し成就す。慈心の与楽に従って、嬰児行を起こす。『大経』に云わく、「能く大字を説く、所謂る婆和なり」と。此れは即ち六度の小行にして、而も作仏を求むるが故に「大字」と言う。又た、「昼夜親疎等の相を見ず」と云うは、即ち通教の菩薩の色に即して是れ空なる意に同ずるなり。又た云わく、「大小の諸事を造作すること能はず」と。「大事」は、即ち五逆なり。「小事」は、即ち二乗の心なり。此れは即ち別教に同ず。別教は生死に非ざるが故に、五逆無し。涅槃に非ざるが故に、小乗の心無し。又た「楊樹黄葉」と云うは、即ち人天の五戒・十善の嬰児に同ず。又た「非道を道と為す。能く道を生ずる微因縁なるを以ての故なり」と云うは、即ち二乗の嬰児に同ずるなり。慈善根の力もて能く出仮して物を化し、小善の方便に同じて、仏慧に引入するは、円教の嬰児と作すなり。『経』に云わく、「起住、来去、語言すること能はず」と。『経』の如し、云云。又た、麁妙を判じ、開麁顕妙すること、例して解す可し、云云。
[54]五に病行とは、此れは無縁の大悲従り起こる。若し始めて小善を生ぜば、必ず病行有り。今、生善に同ずる辺を嬰児行と名づけ、煩悩に同ずる辺を名づけて病行と為す。衆生病むを以て、則ち大悲は心に熏ず。是の故に我れ病む。或は地獄に遊戯し、或は畜生の形と作り、身を化して餓鬼等と作るは、悉く是れ悪業の病に同ず。調達等の如し。又た、父母、妻子、金鏘、馬麦、寒風に衣を索め、熱病に乳を求むること有るを示すは、此れは人天に結業、生老病死の病有ることを示す。又た、道場にて三十四心に結を断ずることを示すは、二乗の見思の病に示同す。方便もて附近して、語りて勤作せしむ。三蔵・通教の菩薩も亦た是の如し。又た、別教の寂滅道場に、初めて塵沙・無明の病を断ずるに同ず。是の故に菩薩は悉く彼の病に同じ、法界に遍くして衆生を利益す。次第の五行竟わる。
[55]問う。聖行は三地を証し、梵行は両地を証す。天行・病行・嬰児行は何ぞ地を証せざらん。答う。聖・梵の両行は修因に名づくるが故に、地を証するを論ず。天行は正しく是れ証する所なり。病・児の両行は果従り応を起こすが故に、証を論ぜざるのみ。又た、義有り。『経』に別の義を顕わすは、地前に従って、各おの入証す。『経』に円の義を顕わすは、登地に同一に証す。又た、地前に円を修せざるに非ず、登地に別有ること無きに非ず、互いに顕わして解し易からしむるが故に、文を煩わしくせず。地前の別とは、戒行は浅き従り深きに至りて不動地を証し、定行は浅き従り深きに至りて堪忍地を証し、慧行は浅き従り深きに至りて無畏地を証す。地上より去りて並びに同じとは、豈に三地条然として永く別なること有らん。秖だ登地の時、二辺の動かす所と為らざるを不動地と名づけ、上、仏法を持ち、下、衆生を荷うを堪忍地と名づけ、生死・涅槃に於いて倶に自在なるを得るを無畏地と名づく。無畏地は我の徳に従って名を立て、堪忍地は楽の徳に従って名を立て、不動地は常の徳に従って名を立つ。浄の徳は三処に通ず。登地の日、四徳倶に成ずれば、則ち増減無し。蓋し化道は宜しく然るべし。例せば朝三暮四の意の如きのみ。登地従り去りては、地地に自行有り、地地に自証有り。自行は秖だ是れ天行を修し、自証は秖だ是れ天行を証するのみ。故に別に天行の証を説かざるなり。若し地前の化他を梵行と名づけば、慈・悲・喜は是れ化他の事行、一子地は是れ其の証なり。捨心は是れ化他の理行、空平等は是れ其の証なり。此の二地も亦た条然ならず、登地の慈悲なるが故に一子と言い、慈悲、体と同じき故に空平等と言うのみ。地地に悲有りて悪に同ずるを病行と名づけ、地地に慈有りて善に同ずるを嬰児行と名づく。証道は是れ同じきが故に、別に説かず。仏地の功徳は、仰いで信ずるのみ。豈に闇心もて定んで分別す可けんや。略して答うること此の如し、云云。