[13]一切法非権非実とは、文に云く、非如非異と。又云く、亦復上中下法、有為無為、実不実法を行ぜずと、非虚非実は如実相なり。

 [14]若し一切の法皆権ならば何ぞ破せざる所あらん、縦令ひ百千種の師あり、一一の師の百千種の説を作すも是れ権ならざること無し、如来の説きたまふ所有るも、尚ほ復是れ権なり、況んや復人師の寧ろ権に非ることを得んや、前に出す所の如き悉く皆権なり、若し一切法皆実ならば何ぞ破せざる所あらん、唯此一事のみ実にして余の二は則ち真に非ずと、但だ一究竟の道のみなり、寧ろ衆多の究竟道を得んや。前に出す所の如き諸師皆破して実に入る、寧ろ復其樔窟を保たんや、若し一切法亦権亦実ならば復何ぞ敬せざる所あらん、一切悉く権有り実有り、那ぞ自ら一途を是とし他の異解を非とすることを得ん、一一の法中に皆権実有り、一向に権、一向に実なることを得ざるなり、若し一切法非権非実ならば復何ぞ破せざる所あらん、何ぞ復紛紜として強いて建立を生ぜん。直に名を列する尚ほ自ら此の如し、遙かに観じ玄かに覽、曠蕩高明なること此の若しと為ん、況んや旨趣を論ぜんをや。

 [15]今有権有実の句に就て更に十法を開す、十法の中に就て八番の解釈を為す、一に十名を列す、二に生起、三に解釈、四に引証、五に十を結して三種の権実と為す、六に三種の権実は三種の二諦を照すを分別す、七に諸経に約して権実を判ず、八に本迹に約して権実を判ず、一に列名とは謂く事理・理教・教行・縛脱・因果・体用・漸頓・開合・通別・悉檀、即ち是れ十種の名なり。

 [16]二に生起とは、無住の本より一切の法を立つ、無住とは理なり、一切の法とは事なり、理事の故に教有り、教に由るが故に行有り、行に由るが故に縛脱有り、脱に由るが故に因果を成じ、果に由るが故に体顕れ能く用あり、故に漸頓の化有り、漸頓を開くに由るが故に開合有り、開合の故に通別の益有り、両益を分別するが故に四悉檀有り、是れを十章の次第と為す云云。

 [17]三に解釈とは、理は是れ真如、真如は本より浄し、有仏無仏常に変易せや、故に理を名けて実と為す、事は是れ心意識等なり、浄不浄の業を起して改動して定らず、故に事を名けて権と為す。若し理に非れば以て事を立つる無く、事に非れば理を顕はす能はす、事に理を顕はすの功有り、是故に殷勤に方便を称歎す。

 [18]理教とは、前の理事を総じて皆名けて理と為す、例へば真俗倶に称して諦と為すが如し、諸仏之を体して聖と成るを得たまへり。聖とは正実なり、己が法を以て下衆生に被らしめんと欲して、理に因て教を設く、教は即ち権なり。教に非れば以て理を顕はす無く、理を顕はすは教に由る、是故に如来は方便を称歎す云云。

 [19]教行とは、教に依て理を求むれば則ち正行を生ず、行に進趣深浅の殊り有り、故に行を権と名くるなり。教に進趣深浅の異り無し、故に教を実と名くるなり。教に非れば以て行を立つること無く、行に非れば以て教に会ふ無し、教に会ふは行に由る、是故に如来方便を称歎す云云。

 [20]縛脱とは、行を為すこと理に違すれば則ち縛なり、縛は是れ虚妄なり、故に権と称す。行を為すこと理に順すれば則ち解を生ず、解は理に冥ふ、故に実と称す。縛に非れば脱を求むるに由無し、脱を得るは縛に由る、屍に因て海を渡るが如し、屍に岸を済るの力有り、故に方便を称歎す。

 [21]因果とは、因は進趣の暫用有り、故に権と名く、果は終を尅し永く証すること有り、故に実と為す。果無ければ因望む所無し、因無ければ果自ら顕はれず。是れ二観を以て方便道と為し、惑を断じて因を成じ、中道解脱の果に入るを得、若し二観に非れば豈に中道に契はんや、果は因に由て尅す、故に方便を称歎す。

 [22]体用とは、前の方便を因と為し、正観入住を果と為す、住出を体用と為す、体は即ち実相にして、分別有ること無し、用は即ち一切の法を立て差降同じからす、大地は一にして種種の芽を生ずるが如し。地に非れば以て生無く、生に非れば以て顕はる無し、流を尋ねて源を得、用を推して体を識

る、用に体を顕はすの功有り、故に方便を称歎す、漸頓とは、因を修して果を証し、体より用を起すに、倶に漸頓有り、今起用を明すに漸を用るを権と為し、頓を用るを実と為す、若し漸く引くに非んば頓に入るに由無し、漸に従て実を得、故に方便を称歎す。

 [23]開合は頓より漸を開す、漸自ら合せず、亦頓にも合せず、故に名けて権と為す、漸を究竟せしめて、還て頓に合す、故に名けて実と為す。開に由るが故に合あり、開に合の力有り、開に従て名を受く、故に方便を称歎す。

 [24]通別の益とは、通は則ち半字、無常の益なり、別は即ち満字、常住の益なり、然るに常益の道長ければ喜んで退没を生ず、故に化城を以て接引して安隠の想を生ぜしめ然して後に化を息めて引て宝所に至る。若し半の益無れば常に会すことを得ず、半に満を顕はすの功有り、故に方便を称歎す。

 [25]四悉檀とは、三は是れ世間なり、是故に権と為し、第一義は是れ出世なり、是故に実と為す。世に非れば出世を得ず、三悉檀に由て第一義を得、是故に如来は方便を称歎す。

 [26]当に四句を用ひて十番の権実を釈すべし、三番は是れ他経の意、一番は是れ此品の意なり云云。

 [27]四に引証とは、此十義は大小の教に通じ一切の法に亘れども且らく今の経を引く。「三界の三界を見るが如きにあらず」、三界とは是れ事、三界の見の如くならざるは理なり、諸法寂滅にして言をもて宣ぶ可らず、是れ理なり、「方便の力もて五比丘の為めに説く」は是れ教なり、「若し此経を聞くは是れ善く菩薩の道を行ず」は、教行を証するなり。又「汝等が行ずる所是れ菩薩道なり」、「仏子道を行じ已て来世に作仏を得ん」、又「種種の因縁もて而も仏道を求む」、「但だ虚妄を離るを名けて解脱と為すも、未だ一切の解脱を得ず」、「尽く諸仏所有の道法を行じ、道場にして果を成ずることを得」云云。「我れ仏眼を以て観じ六道の衆生を見る」、「始めに我身を見、我所説を聞て即ち皆信受して如来の慧に入る、先に修習し小乗を学する者を除く」云云。窮子は初めに逃れ、中間に客糞し、後に則ち財を付す、初めに化城に息うて後に宝所に引く、「種種の欲、種種の性相憶念」等、此れ通じて一部を引て証と為す、今別して一品を引かば、次第ならずと雖も十文具足す。「諸仏の智慧は甚深無量なり、其智慧の門解し難く入り難し」とは、一切の事理境智等を悉く名けて実と為す、阿含の言教を施設詮辯するは悉く是れ智慧の門なり、此れ理教に権実を論ずるを証す、「解し難く入り難く一切の声聞支仏知ること能はず」とは、即ち是は縛脱に権実を論ず。「所以者何仏会親近」より、「名称普聞」に至るまでは即ち是れ教行に権実を論ず。「成就甚深」より、「意趣難解」に至るまでは、即ち是れ体用に権実を論ず。「吾従成仏已来」とは、成仏は即ち是れ果なり、果は必らず因有り、即ち是れ因果に権実を論ず、「種種因縁譬喩」より「令離諸著」に至るまでは、即ち是れ漸頓に権実を論ず。「所以者何、如来方便知見皆已具足」とは、即ち是れ開合に権実を論ず。「諸仏為大事因縁故出現於世為令衆生開示悟入仏之知見故」とは、是れ利益に権実を論ずと為す。「取要言之仏悉成就」とは即ち是れ三悉檀成就なり。「止止不須説」とは即ち是れ第一義悉檀なり、是れを四悉檀に権実を論ずと為す。「所以者何仏悉成就第一希有」より「諸法実相」に至るまでは即ち是れ理なり。「所謂諸法如是相」とは即ち是れ事なり。是れを理事に権実を論ずと為す。此の一段の長行は五仏の権実を明す、仏仏皆爾り。

 [28]然るに法華論に、「諸仏智慧甚深」を解して証甚深と為す、甚深に五有り、謂く義甚深・実体甚深・内証甚深・依止甚深・無上甚深なり、無上甚深は大菩提を証するを謂ふなり、「智慧門」を名けて説阿含義甚深と為す、此れ理教の権実と意同じ。論に「仏曾て百千の仏に親近したまふ」を解して修行甚深と為す。「勇猛精進して名称普く聞ゆる」を増長功徳甚深と為す。此れ教行の権実と意同じ。論に「甚深未曾有の法を成就す」を解して微妙事甚深と為す。「意趣解し難し」等を無上甚深・入甚深と為す。此れ体用権実と意同じ。論に「吾れ成仏してより已来」を解して説如来功徳成就法と為す、此れ因果の権実と意同じ。論に「無数方便」を解して即ち是れ教化成就説法成就なりと、此れ漸頓の権実と意同じ。論に「如来の方便知見乃至深く無際に入る等を解して、是れ自身に不可思議の境を成就して、余の一切の菩薩に勝ると、此れは是れ利を明すなり。論に、「能く種種に分別して」より「衆の心を悦可す」等にいたるを解して是れ言語成就なりと、此れは是れ益なり。利益権実と意同じ。論に「要を取て之を言はば止なん説く須らず」等を解して可化衆生成就と為す、此れ四悉檀に可化不可化を分別すると意同じ。論に「唯仏と仏とのみ乃し能く究尽したまふ」を解して無量福成就と為す。諸仏は能く知りたまふとは、謂く如来法身の体は不変の故に、覚能く自ら証し成就す。能く衆生に随順して一切諸法の相等を説きたまふ等とは、此れ理事の権実と意同じ。

 [29]彼論は仏経を解す、今の疏は冥に二聖に符す、謂ひつ可し、修多羅と優波提舎と皆合すと。

 [30]五に権実を結すとは、此十種は四教に通ず、合して四十の権実なり、若し三蔵の中の自証の十法を自行の権実と名く、己が十法を説て衆生を利益するを化他の権実と名く、化他の十を皆合して権と為す、自行の十を皆合して実と為す、名けて自他の権実と為す。余の三教の十法を束ねて三種の権実と為すこと亦是の如し。又当教は各おの事理・教行・縛脱・因果の四種を以て自行の権実と為し、各おの理教開合の二種を以て是れを化他の権実とす、各おの体用・漸頓・通別・悉檀の四種を以て自他の権実と為す。其名同じと雖も其義各おの異なり。別して結すとは、三教の若しは通、若しは別、当分は皆是れ化他の権実なり、随他意語なるが故なり。円教の若しは通、若しは別、当分は皆是れ自行の権実なり、随自意語なるが故なり。化他の三は皆名けて権と為す、自行は皆名けて実と為す。

 [31]次に四句を結成す、随他意語とは即ち一切法は権なり、随自意語とは即ち一切法は実なり、双取は即ち一切法は亦権亦実なり、双非は即ち一切法は非権非実なり。

 [32]次に三番の釈品を結成すとは、若し自行自意は此文には道場にして得る所の法と称す、大経には道を修して得るが故にと云ふ、摂大乗に如理如量智と称す、皆是れ円教の自行の権実にして随自意語なり。仏能く此不可説の法に於て方便して能く説くと雖も而も衆生堪へず、若し発軫に単に此法を説て衆生を取らば即ち得ること能はざるなり、故に不可説不可説と言ふなり。復此事を置て自行の権実を以て別教の権実に共じて共に衆生を取らば、大機の利なる者は直に得、鈍なる者は曲て得、小機の利鈍は倶に得ず、蓋し華厳の意なり。復此事を置て単に三蔵の権実を用ひて衆生を取らば、大機の利鈍の者は密に得、顕には得ず、小機の利鈍の者は但だ証を保て、取るに亦得ず、蓋し三蔵の意なり。復是事を置て合して四種の権実を用ひて共に衆生を取らば、大機の利鈍の者は曲直倶に得、小機の利鈍の者は、証を保して倶に得ず、蓋し方等の意なり。復是事を置て三蔵の権実を捨て三種の権実を用ひて共に衆生を取らば、大機は利鈍共に得、小機の利鈍は証を保して倶に得ず、蓋し般若の意なり。復是事を置て三種の権実を捨て、単に円教の自行の権実を用ひて衆生を取らば、大小の機の利鈍倶に得、蓋し法華の意なり。如来の智慧は達せざる所靡し、明かに時宜に照して用与可否す、故に品を釈して云く、方とは諸の方法なり、便とは善巧に用ふるなり、巧に方法を用ひて衆生を取て得と、是故に殷勤に方便を称歎す。

 [33]復次に如来自証の権実は倶に説く可らず、衆生を愍念して自証の権を説て門と為す、物に於て宜しきに非ず、衆生入ることを得る能はず、故に自証も亦説く可らず。別の権実を説て門と為すに、利なる者は入ることを得るも鈍なる者は入らず、物に於て宜しきに非ず、別の権実も亦説く可らず、三蔵の権実を説て門と為すに、利なる者は密に入るも、鈍なる者は亦入らず、物に於て宜しきに非ざれば、亦説く可らず、三種の化他の権実を説て門と為すに、利なる者は入ることを得るも、鈍なるは亦入らず、物に於て宜しきに非ず、亦説く可らず、二種の化他の権実を説て門と為すに、利なる者に於ては入ることを得るも、鈍なるは亦入らず、亦説く可らず、物に於て宜しきに非ず、三種の化他の権実を捨て、但だ自行の権を説くに、利なる者、鈍なる者に於て倶に入ることを得。始めより終りに至るまで方便を以て門と為す、是故に如来は方便を称歎したまふ。品を釈して云く、方便は入実の門と為すと、即ち此意なり。前の一番は如来の能く方便を知り、能く方便を用ひたまふを明す、此一番は行者をして能く方便に随順せしむることを明す云云。

 [34]復次に如来の自証は道を修して得たまふ所なり、一切の方便に於て即ち是れ真実なり、而るに此真実は説くことを得可らず、能く之を説くと雖も衆生は実に即すること能はず、方便力を以て、不即を帯して一の即を説くに、利なる者は能く即し鈍なるは即すること能はず。又純ら一の不即を説くに、利なる者は密に即し、鈍なる者は即せず、又三の不即を帯して一の即を説くに、利なる者は能く即し、鈍なる者は即せず、又二の不即を帯して一の即を説くに、利なる者は能く即し、鈍たる者は即せず、又三の不即を廃して純ら一切の即を説くに、利鈍の者倶に能く即し、方便に於て真実を見ることを得。上の両意は方便を用ひ、方便に従る、此一意は方便に即して即ち真実なり、真実は即ち円因、円因は即ち自行の方便なり、此の如きの自行の方便は、今始めて証入す。上に品を釈して云く、方便とは即ち是れ真実なり、自行の方便に従て名を得、故に方便品と言ふなりと。

 [35]六に諦を照すことを分別せば、前に既に通別当分に権実を結束す、今還て此智照に約するに、義は則ち見易し。若し通じて十種を以て自行の二智を明さば、即ち随智の二諦を照すなり、通じて十法を用ひて縁に逗ずれば、即ち随情の二諦を照すなり、若し四を束ねて二と為さば、即ち随情智の二諦を照すなり。若し当分に諦を照さば、事理・教行・縛脱・因果、悉く是れ自証なるは、即ち随智の二諦を照すなり、理教・開合、此両つは化他に属す、即ち随情の二諦を照すなり、体用・漸頓・通別・悉檀の四は自他に通ず、即ち随情智の二諦を照すなり、三教の諦を照すも。此れに準じて解す可し。又三蔵の三十種の二智は、是れ化他の二智なり、皆随情の二諦を照す、若し通別の六十種は是れ自他の二智なり、即ち随情智の二諦を照すなり。通教は或時は前の三蔵と共に随情の二諦と為る、若し円教の三十種の権実は是れ自行の二智にして、随智の二諦を照すなり。又三教の若しは通、若しは別、皆是れ縁に逗ず、悉く是れ化他の二智にして、随情の二諦を照す、円教の若しは通若しは別、皆是れ自行の二智にして、即ち随智の二諦を照すなり、若し三教の実を束ねて権と為し、円教の権を束ねて実と為すは、即ち自他の二智にして、随情智の二諦を照すなり。

 [36]七に諸経に約すれば、華厳は教を論ずれば但だ是れ満字、時を論ずれば但だ是れ乳なり、法を論ずれば是れ一は自行、一は化他なり。若し人に対せば但だ是れ菩薩にして、二乗は聾唖のみ、生身の菩薩も亦未だ自行の権、随智の実を発すること能はず。若し今の経文に依らば、未だ曾て人に向て此の如き事を説かずと。三蔵に約すれば、若し教を論ずれば唯是れ半字なり、若し法を論ずれば是れ一種の化他なり。若し時を論ずれば即ち是れ酪なり、若し今の文に依らば、門外に住立し弊垢の衣を著し除糞の器を執る二乗の人なるのみ。方等教に約すれば、若し教を論ずれば半に対して満を論ず、若し時を論ずれば酪に並べて蘇を明す、若し法を論ずれば三種の化他、一種の自行有り、若し今の文に依らば心相ひ体信して入出に難無しと。般若に約すれば、若し教を論ずれば半を帯して満を論ず、若し時に依らば生を挟んで而も熟なり、若し法に依らば則ち二種の化他、一種の自行有り、若し今の文に依らば出内取与し皆令知せしむと。法華に約して教を論ずれば、半を廃して満を論ず、若し時を論ずれば純ら是れ醍醐なり、若し法を論ずれば唯自行のみ有り、若し今の文に依らば開権顕実なり。此れ実に我子、我の生む所、我は実に是れ父、付するに家業を以てし授記作仏せしむ。前教に説かざるは今皆之れを発す、正直に方便を捨て但だ無上道を説くと、故に是れ自行の権なり、故に方便品と言ふ。自余は或は是れ自他の二智、或は化他の二智なり。復次に華厳は二菩薩に対して一自一他を説く、二乗に擬せざれば聞かず解せず、三蔵は二乗に対して一の化他を説く、菩薩に擬せざるが故に自行無し、方等は具に小大に対す、二乗に対しては、両の化他を説き、菩薩に対して一自一他を説く、般若も亦三に対して一自二他を説く、二乗に対して一他を説き、菩薩に対して一自一他を説く、法華は普ねく機熟の者に対して但だ一の自を明し復他を論ぜず。文に云く、菩薩は是法を聞て疑網皆已に除こり、千二百の羅漢は悉く亦当に作仏すべしと、一切の衆生は悉く自行の方便に入る、故に方便品と言ふ云云。

 [37]八に本迹とは、如来の本地久しく已に一切の権実を証得するを名けて自行と為す、中間に迹を垂れ亦兼帯等の説を作す、今日迹を垂れ、寂滅道場にして別の化他を帯して自行を説く。次に一の化他を説き、次に三を説き、次に二を説き、次に廃三等を説くを、皆化他の権実と名く、本の権を束ねて実と名け、迹の実を束ねて権と名く。即ち是れ自他の権実なり。此れを結するときは則ち四句有り、一切実、一切権、一切亦権亦実、一切非権非実なり云云。身子本と一切の権実を証するは即ち自行なり、迹に鹿苑に在ては単に化他を受く、方等に在ては一を受けて三折を被むる、般若に在ては二を帯して一を転ず、法華に至つては三を廃して一を悟る、皆是れ化他の権実なり。本の権を束ねて実と為し、迹の実を束ねて権と為すは即ち自他の権実なり。亦四句を具す云云。若し仏の迹に従つて説かば、亦是れ化他の権実にして、亦方便品と称す、若し引て円因に入るに従へば自行も亦是れ方便品なり、若し身子の迹権に従はば亦是れ方便品なり、若し身子の迹の実に入るに従はば亦是れ方便品なり、此諸の義の為めの故に方便品と称するなり。

 [38]此品より下分別功徳品の十九行の偈に訖り。或は偈の後の現在の四信弟子の文尽るに至るを名けて正説分と為す、若し両の正説を作さば、此より下授学無学人記品に訖るまでは是れ迹門の正説なり、今且らく近を逐て迹門の正説に就て更に両と為す、一に此れより下は是れ略の開三顕一、二に告舎利弗汝已殷勤より下は是れ広の開三顕一なり。略は更に二と為す、初めに爾時世尊より下は是れ略の開三顕一、二に爾時大衆より下は是れ動執生疑なり、略の開三顕一に長行と偈頌有り、長行を二と為す、一に言に寄て二智を歎ず、二に言を絶して二智を歎ず、若し言を措かずんば則ち能く知る者無けん、復称揚すと雖も言は尽すこと能はず、諸仏の二智は前に説くが如し云云。寄言を二と為す、一には諸仏の権実を明す、二には釈迦の権実を明す、諸仏の道同じ、是故に倶に歎ず、上に光り他土を照すに弥勒は横に問ふ、文殊は古を引き、大衆は豎に聞くは、正しく此れを表はすなり、故に発軫に定より起て即ち諸仏の道同じきことを明すなり。諸仏を歎ずる文に就て三と為す、一に双歎、二に双釈、三に双結なり、双歎の中に就て先に経家は提起す、次に正しく歎ず。

 [39]爾時とは、爾の時に当るなり、仏は常に定に在したまふ、何が故ぞ起つと言ふや、此れ示す所有るなり、往古の諸仏は此経を説きたまふ時必らず前に無量義に入り、即ち法華に入りたまふ、今仏も亦爾り、此れは世界悉檀に哀んで定より起ちたまふことを示す、履歴・法縁、二倶に審諦なり、説かば必らず謬らず、物の信を増長したまふ、此れ為人悉檀に哀んで定より起ちたまふことを示す、仏は寂にして常に照したまふ、尚ほ須らく定に入て方に乃ち説法すべし、況んや復散心にして妄りに所説有らんや、此れは是れ対治悉檀に哀んで定より起ちたまふなり、定に入ては理を縁じ、心を実相に安じ、定を出でては他をして心を実相に安ぜしめたまふ、此れは是れ第一義悉檀に哀んで定より起ちたまふなり、此四法を安ず、故に安詳而起と言ふなり。告舎利弗とは、小乗の中に智慧第一なり、将に其れに因て小智を破して大智を顕はさんと欲するなり、廃会開覆に凡そ十種あり、玄義の中に説くが如し。此れ乃ち経家の提起の文なり。

 [40]法華論に云わく、仏は甚深三昧に入て正念にして動じたまはず、如実智をもて観じ三昧より起ちたまふ、如来の自在力を得たまふを現ずるが故なり。如来定に入りたまふは、能く驚忤すること無きが故なりと、論と今と義相応す。第一義悉檀は世間を出過す、故に能く驚忤すること無し、四悉檀に障礙無し、故に自在を得るなり云云。加趺坐とは古往の微塵恒沙の諸仏及び弟子は、尽く此法を行ずるが故に、又加趺して悪覚を起すに尚ほ他の敬心を生ず、況んや深境界に入て天人を適悦せざらんや。又世の受用の法に非ず、外道と共ならず、能く魔軍煩悩を破するが故に、又能く三種の菩提道を生ずるが故に。私に謂く、此れは是れ四悉檀の意なりと。問ふ、余経に念を繋けて前に在りと云ふは云何、答ふ、色相と生死と煩悩との境界に背て後に在くが故に、寂滅と涅槃と所縁とを観じて前に在くが故に応に四解を作すべし云云。問ふ、云何が面に在るや、答ふ、凡そ人は面に於て欲を起し能く猗楽を生ず、然して後に身に遍す、又九処より穢を流す、面に七孔有り、不浄を以て欲を治す、故に縁を繋けて面に在り其一、又六識は面に在り、心は多く上縁す、一切の賢聖は空を尚び空と相応するを表はす、故に縁を繋けて面に在り其二、又若し面を観ずるときは則ち能く六識を分別す、分別せんが為めの故に、故に縁を繋けて面に在り其三、又身に六分有り、頭面を勝と為す、諸法の中に実相第一なることを表はす、第一の法なるが故に、縁を繋けて面に在り其四。

 [41]二智を双歎ずるに就て、先に実を歎じ、次に権を歎ず。実とは諸仏の智慧なり、三種の化他の権実に非ず、故に諸仏と言ふ、自行の実を顕す、故に智慧と言ふ、此智慧の体は即ち一心三智なり。甚深無量とは即ち称歎の辞なり、仏の実智は豎に如理の底に徹することを明す、故に甚深と言ふ。横に法界の辺を窮む、故に無量と言ふ、 無量甚深にして、深に高く横に広し、譬へば根深きときは則ち条茂く、源遠きときは則ち流れ長きが如し、実智既に然り、権智も例して爾り云云。其智慧門とは即ち是れ権智を歎ずるなり。蓋し是れ自行の道前の方便なり、進趣の力有り、故に名けて門と為す、門より入りて道中に到る、道中を実と称し、道前を権と謂ふなり。難解難入とは権を歎ずるの辞なり。不謀にして而も了す、無方の大用なり、七種の方便は測り度ること能はず、十住に始めて解し、十地を入と為す、初と後とを挙ぐ、中間の難示にして難悟なること知る可し、而して別して声聞縁覚の知ること能はざる所を挙るは、執重きが故に別して之を破するのみ。法身の本意は、元と自行の権実を以て之に擬す、機無くして逃走す、故に不知と言ふ。華厳に頓に照すに声唖瞽聵なり、故に不知と言ふ。方等に弾斥するに草庵に保住す、故に不知と言ふ。般若に教を転ずるに、心に一飱を悕取するの意無し、故に不知と言ふ。今大機啓発し、光を放ち地を動かす、彼此今古、諸仏の道同じ、由ほ疑惑を懐く、故に不知と言ふ。利根の菩薩は節節に能く知る、鈍は二乗に同じ、是れ亦知らざるなり。門とは光宅は二乗の方便を取て今経の智慧門と為す、此れ須らく与奪すべし。若し爾らば即ち是れ門を得、云何ぞ如来は破して不知と言はん、不知ならば則ち門に非るなり。与とは此れは是れ最浅の能なり、永く所を識らず云云。今解すらく、自ら方便の智慧を門と為して仏の智慧に入ることぞ得る有り、瓔珞に云ふが如し、二観を方便道と為し中道第一義諦に入ることを得と、亦是れ三教に各各四門有て方便と為し、中道に入ることを得。光宅の解は二観の中に於て秖だ是れ一観のみ、十二門に於て秖だ是れ一門のみなり云云。又方便の智慧を門と為し方便の智に入ることを得るは、即ち是れ三教の各各の四門の教に斉て入証するなり、自ら仏智を門と為して仏の智慧に入ることを得る有り、上に円因を方便品と称すと説くが如し、即ち是れ自行の観智を門と為す、即ち是れ今の経に歎ずる所の其智慧門なり、円教の四門は即ち其の一なり、自ら実を門と為して方便智に入る有り、二諦を双照するは、即ち其の義なり。此の如く釈せば豊富開闊たり、何ぞ光宅の区区たる一種の如くならんや、若し論に阿含を以て門と為るに依らば、此れ須らく諸教を開拓すべく、観に準じて知る可し云云。

 [42]所以者何より下は光宅は釈迦を歎ずる章と云ふ、今文の意を推すに、是れ諸仏の二智を双釈するなり。仏會親近より尽行道法に至るは、是れ諸仏の実智を釈するなり、良に外に仏に値ふこと多く至要を稟承するに由る、故に実智甚深なり、良に内に純厚を行じて尽く道法を行ずるに由る、故に実智無量なり、無量は則ち横に広を釈し、甚深は則ち豎に高を釈するなり。

 [43]勇猛精進名称普聞とは是れ諸仏の権智を釈す、其智慧門は解し難く入り難し、良に勇猛精進にして能く難入の門に入るに由る、既に門に入り已て沢ひ被ること疆り無く、物は勝徳を欽ぶ故に名称普く聞ゆるなり、亦句を分つべし、勇猛精進にして能く法門に入るは即ち権智の深きを釈し、名称普聞は即ち権智の広を釈す、権の文を観るに深広の語無けれども、実智に例すれば此義則ち成ず云云。

 [44]成就甚深より下は諸仏の二智を双結す、理に称て究竟す、故に成就と言ふ。彼岸の底に到る故に甚深と言ふ、此れ実智を結成するなり、機に称て適会す、故に随宜と言ふ、七方便の知る所に非ず、故に難解と言ふ、此れ権智を結成するなり。情に随へば則ち理を翳ふ、故に難解と言ふ、了義の故に意顕る、故に知り易しと言ふ。摂大乗に云く、了義経は文に依て義を判じ、不了義経は義に依て文を判ずと、即ち斯の義なり。有る時解すらく、成就甚深未會有法とは、自行の権実を結し、随宜所説意趣難解とは、化他の権実を結するなり云云。

 [45]吾従成仏已来よりは、是れ釈迦の権実を歎ず、旧云く、釈迦の権実は各各歎ず、謂く吾従成仏の下、是れ権を歎ず、所以者何よりは是れ権を釈す、如来知見広大の下は是れ実を歎ず、無量無礙より下は是れ実を釈す、如来能種種分別より下は是れ実の文を結歎すと、旧の料揀に前後三意有り、一に合して諸仏の二智を歎ずとは二智の体同を明す、開して釈迦の二智を歎ずとは二智の功用に異有ることを明す。二に垂迹の本を明すが故に諸仏は先に実を歎ず、顕本の能を明すが故に釈迦は先に権を歎ず。三に諸仏は自行を顕はすには先づ須らく実を得べし、釈迦は化他を明すには先に権を以て童蒙を引く、而して互に現じ出没するは、将に体円にして偏に存す可らざるを明さんとす、存すれば則ち旨を失するなり。

 [46]今謂く爾らず、但だ文の次第に依るに義に於て解し易し、曲辯すべからず。又汝諸仏道同と云ふ、云何ぞ異解せん、人善く孝順を讃じて而して父母を打擲するが如し云云。

 [47]釈迦の文に就て亦三と為す、初めに双歎、次に双釈、後に双結なり。

 [48]吾従成就已来は実智を歎ず、若に実智円かならざれば仏道成ぜず、既に成仏と云ふ、一成一切成なり、即ち是れ実智を歎ずるなり。種種因縁の下は是れ権智を歎ずるなり、四十余年三種の化他の権実を以て衆生に逗会す、故に種種因縁と言ふなり。譬喩とは、小乗の中には芭蕉水沫を以て譬と為す、大乗の中には乾城鏡幻等の譬を以てす、諸論に依らば、小乗を以て乳に譬ヘ、大乗を醍醐に譬ふるなり。広演とは能く一法に於て無量の義を出すなり。無数方便とは即ち七種の方便なり。引導衆生令離諸著とは、散の十善を説て三途の著を離る、浄の十善を説て欲界の著を離る、三蔵を説て見思の著を離る、菩薩の法を説て涅槃の著を離る、仏法を説て順道法愛の著を離る。

 [49]所以者何よりは是れ二智を双釈するなり、如来の半句は即ち是れ実智を釈す、真如実相の中より来て而して仏道を成ずることを得、故に如来と名く、即ち実智を成ずるを釈するなり。方便とは即ち是れ権智を釈す。方便善巧なるに由るが故に種種の因縁を能くす。知見波羅蜜とは即ち是れ権実知見を双べ挙ぐるなり、一切種智を実知と名け、仏眼を実見と名く、道種智を権知と名け、法眼を権見と名く、悉く事理の辺に到るが故に悉く波羅蜜と名く。皆已具足とは権実悉く究竟するなり、若し双釈の意を作さずんば、那ぞ忽ち皆已と言はん、皆已とは双釈の意顕はるるなり。

 [50]如来知見広大深遠よりは即ち是れ釈迦の二智を双結するなり。如来知見とは前に説くが如し。広大とは横を明し、深遠は豎を明す、此の如きの実智は横に非ず豎に非ず、言に寄て往て歎じて其の横豎を論ず、照すこと限極無きことは、函大なれば蓋大なるが如くなり。無量無礙の下は即ち是れ権智を結するなり、自行の権の道前の方便なれば諸の法門に約す、故に知ぬ、是れ権智を結すること明けし、実智は若干無きなり、光宅は此れを以て実智を釈せり、但だ光宅のみ実智を識らざるのみに非ず、梁代は皆其無礙慧に若干無きを知らざるなり云々。無量とは即ち仏地の四等なり。無礙とは即ち仏地の四辯なり、能く一辞一義に於て無量を旋出して楽説窮らず、別通の菩薩に比するに甲上土の地に方るが如し。力とは即ち十力、畏とは即ち四無所畏、禅とは禅の実相を尽すなり、定は即ち首楞厳定、三昧は即ち王三昧なり。深入無際は豎に深を結成す、成就一切来會有法は横に広を結成するなり。

 [51]舎利弗如来能種種分別より下は、旧には将て前の権実を結成す、今用て後を起す、将に言を絶せんと欲して、更に権実を挙して絶歎の由と為す、文二と為す、初めに絶歎の由を挙げ、次に絶言の境を指す。

 [52]鄭重とは殷勤を表はすなり。如来能善分別巧説諸法とは、即ち権を挙ぐるなり。言辞柔軟悦可衆心とは実を挙ぐるなり、何を以てか知ることを得る、上に他土に頓を説くを見て云く、其声清浄にして柔軟の音を出すと、下に身子の領解に云く、仏の柔軟の音、深遠にして甚だ微妙なるを聞くと、前後の両文に拠るに知ぬ、是れ実智を挙ぐるなり、前の歎の中には、実を前にし権を後にす、今何の意ぞ、権を前にし実を後にする、前は言を寄せんと欲する故に実より而も権を舒し、今は言を絶せんと欲して須らく権を巻て実に帰すべきことを明すのみ。

 [53]取要言之よりは是れ実の境を指す、要は実に過ぐる莫きなり。無量無辺未會有法とは是れ権の境を指す。又要を挙ぐるは是れ創め指すの端なり。無量無辺とは是れ権を指し、未會有法とは是れ実を指す、言は此二法は悉く成就したまへるなり、道を修して得るが故に、此れ那ぞ説く可けん、若し単に一事を明さば、応に悉と言ふべからず、既に権実を双指す、其意明けし。

 [54]止者の下第二に即ち絶言歎なり。印師の云く止に因て其の疑請の心を生ぜんと欲するなりと。観師の云く、実法は知り難し。故に先に抑止し其の常情を驚かすと。今明さく、此法は深寂にして言語の道断へ、体説く可らず、故に止て之を歎ず。設ひ慈悲もて為めに説くも、聞て解すること能はず、其善根を傷めん、是故に止むなり。

 [55]所以者何より下は是れ止歎の意を釈す、意両と為す、一に仏は是れ最上の人にして、最上の法を成就し修得したまへるが故に説く可らざるに就く、次に甚深境界不可思議の故に説く可らざることを明す。仏成就に就くの下は、上人の権実は横に満て説く可らざることを明す。唯仏与仏より下は。上人の権実は豎に深くして説く可らざることを明す。

 [56]成就は不成就に対す、乃至難解は不難解に対す、即ち是れ横に成就を明すなり。道を修して得るが故に、故に説く可らず。唯仏与仏乃能究尽とは、初と中とは分に獲て未だ其源を尽くさず、十四日の月の光用未だ普ねからざるが如し、独り仏と仏とのみ辺底を究竟することは、十五日の月の体は円ならざる無く、光遍ねからざる無きが如し、此の如く豎に深く道を修して得るが故に、故に説く可らず。

 [57]諸法実相より下は、即ち是れ甚深の境界不可思議なり、故に説く可らず。光宅の云く、初めの一句は二智の章を標す、諸法は権実の境を標す、三三にして一に非ず、故に諸法と言ふ、三法の中には其教最も顕はる、教は必らず機に逗ず、仍ほ其人有り、故に知ぬ、三三にして是れ権教なり。実相とは是れ実智の境なり、一理は虚に非ず、故に実相と言ふ。四一の中には偏へに一の理を挙ぐるは、理は是れ本なるが故に、故に是れ実なり。中に九句有り、還て上の両章を釈するのみ。前の五句は権章を釈す。如是相とは三乗の言教は攬て別つ可きなり。如是性とは三乗教の性分は移易す可らざるなり。如是体とは三乗の教、八音の章句、各各体有り、菩薩の教は六度を以て体と為す云云。如是力とは三乗の教用は訓導の力たり。如是作とは三乗の教は前人に被むるに造作有るなり、実智の境を広するに略して章を牒せず、実境に四一有り、四を以て其一理を広す。如是因とは境は真解を生ずるを因と為す、万善は果に望むるなり。如是縁とは境は実智を発するを縁と為す、因の望む所の処を以て果と為す、果の起て因に酬るを報と為す、後の二句は双結す。初めの句は権を結す、本は即ち相を挙ぐ、末は即ち作を挙ぐ、次の句は実を結す、究竟は即ち因を結す、等は即ち報を結するなりと。北地師の云く、三乗の法は皆相性果報本末有るなりと。瑤師の云く、如是相性は、此れは智慧の照用を釈す、三乗萌すこと異なるを相と為す、必爾に三を成ずるを性と為す、発心を体と為し、心に随て堪る所を力と為す、力に所造有るを作と為し、行を作して果を招くを因と為す、因とは其己が分を語ふ、所由を縁と為す、縁とは其外の力を語ふ、遂げ剋するを果と為す、因に酬ゆるを報と為す、相を本と為し、報を末と為す、終に同じく一致するを究竟等と為すなり。如是とは其事差はざるなり。暢師は但だ仏の上に約して作す、相とは十力各各相貌有るなり、性とは根に従て各各所習有り。所習の改まらざる之を謂て性と為す、是れ性力の境なり。体とは根性同じからず、欲する所亦異なり、其心用の縛著するを言ふが故に体を以て名と為す、此れ欲力の境なり。力とは定の別名なり、神通変動は定に非ずんば運ばず、心を鎮め乱を静むるは、定に非ずんば寂ならず、故に力を禅定の境と為すなり。作とは是れ業なり、即ち業力の境なり。因とは道を因と為し、能く涅槃に至る、即ち至る処は道力の境なり。縁とは縁は宿命力の境なり。果とは今因召く所の果は未来に在るに拠る、是れ天眼力の境なり。報とは今の報は以て往因に望むるに拠る、即ち漏尽力の境なり、故に報を語ふは是れ漏尽なり。本とは是れ相、末は是れ報なり、総じて之に望むるに都て是れ処非処力の境なり。

 [58]上来の諸釈は一途ならざるに非ず、然も理に於て通ぜず、文に於て允ならず、文允ならずとは経に諸法と云ふ、何の法か収めざらん、豈に止だ三乗のみならんや。理通ぜずとは経に実相と云ふ、何の所にか在らざらん、而して但だ因果の体のみに在らんや、若し実は独り仏に在らば、仏は則ち権ならず、権は独り三乗に在らば、三乗は則ち永く実無けん、若し三乗は但だ五とのみ為すときは、則ち権法足らず、復全く実無けん。若し四句但だ仏にのみ在らば、仏全く権無く、実も亦足らざらん、義は凡夫に渉らずんば、則ち諸法の文便ち是れ無用ならん、実相遍からずば、実相の外に別に更に法有らん、此の如き等の過あり、故に皆用ひざるなり。

 [59]釈論三十一に一一の法に各各九種有ることを明す、一に各各体有り、二に各各法有り、眼耳は同じく四大の造と雖も、而も眼には見るの用有り、耳には見る功無きが如し。火は熱を以て法と為し而して潤すこと能はざるが如し。三に各各力有り、火は焼を以て力と為し、水は潤を以て力と為すが如し。四に各各因有り、五に各各縁有り、六に各各果有り、七に各各性有り、八に各各限礙有り、九に各各開通方便有り、達磨欝多は此九種を将て法華の中の十如を会す、各各法有りとは即ち是れ法華の中の如是作なり。各各限礙有りとは即ち是れ法華の中の如是相なり。各各果有りとは即ち是れ法華の中の如是果如是報なり。各各開通方便有りとは即ち是れ法華の中の如是本末究竟等なり、余は名同じ、解す可し。

 [60]今此境を明すに二と為す、初めの一句は略して権実の章を標す、文の如し。

 [61]次の十句は広く権実の相を釈す、今四番を作して釈す。一に十法界に約し、二に仏法界に約し、三に離合に約し、四に位に約す。経に諸法と云ふ、故に十法界を用ひて釈するなり。

 [62]経に仏所成就第一希有之法と云ふ、故に仏法界を用ひて釈するなり。経に止止不須説我法妙難思と云ふ、故に離合を用ひて釈するなり。経に唯仏与仏乃能究尽と云ふ、故に位を用ひて釈するなり。

 [63]十法界に約すとは、謂く六道四聖、是れを十法と為すなり。法無量と雖も教は十を出でず、一一の界中に復多派なりと雖も十如を出です。地獄界の如き、当地に自ら相性本末を具す、亦畜生界の相性本末を具す、乃至仏法界の相性本末を具して欠減有ること無し。故に毘曇毘婆沙第七に云く、地獄道に他化天の法を成就すと、即ち是れ其の例なり、余の九法界も亦是の如し、当に知るべし、一一の界に皆九界の十如有ることを。若し自位の九界の十如を照すは皆名けて権と為す、其自位の仏界の十如を照すは、之を名けて実と為す、一の中に無量を具し、無量の中に一を具す、所以に不可思議と名く。若し六道三聖の五如を照すを権と為し、若し仏界の四如を照すを実と為さば当分歴歴なり、此れ則ち説く可く示す可し、何ぞ止止絶言の歎を俟たん。所以に一の中に無量あり、凡夫は具すと雖も理を絶して情に迷ふ、二乗は具すと雖も捨離して脱を求む、菩薩は具すと雖も照すこと則ち周からずば、不了了と名く、如来は洞かに覽て横豎具足したまふ、唯独り自ら明了にして余人の見ざる所、宣示す可らず、止止の絶言は其れ此に在るのみ。上の 玄義の中に已に説く、今具に記せず云云。

 [64]二に仏法界に約して釈せば、仏界は相に非ず不相に非やして而も如是相と名く、万善の縁因を指す、故に下の文に衆宝荘校と云ふ、即ち其義なり。仏界は性に非ず不性に非ずして而も如是性と名く、智慧の了因を指す、故に下の文に有大白牛と云ふなり。仏界は体に非ず不体に非ずして而も如是体と名く、実相の正因を指す、故に下の文に其車高広と云ふなり。仏界は力に非ず不力に非ずして而も名けて力と為す、菩提道心慈善根力等を指す、故に下の文に又於其上張設幰蓋と云ふなり。仏界は作に非ず不作に非ずして而も如是作と名く、任運無功用の道を指す、故に下の文に其疾如風と云ふなり、仏界は因に非ず不因に非ずして而も如是因と名く。四十一位を指す、故に下の文に乗是宝乗遊於四方といふなり。仏界は縁に非ず不縁に非ずして而も如是縁と名く、一切の助菩提道を指す、故に下の文に、又多僕従而侍衛之といふなり。仏界は果に非ず不果に非ずして而も如是果と名く、妙覚朗然、円因の剋する所を指す、故に下の文に直至道場いふなり。仏界は報に非ず不報に非ずして而も如是報と名く、大般涅槃を指す、故に下の文に得無量無漏清浄之果報といふなり。仏界は本に非ず末に非ずして而も本末と言ふ、本は即ち仏相、末は即ち仏報、是れ自行の権なり、仏界は等に非ず不等に非ずして而も究竟等と言ふ、実相を指す、故に標章して実相と云ふなり、是れ自行の実なり、実に即して而も権なり、故に本末と言ふ、権に即して而も実なり、故に言て等と為す。此れは是れ如来自行の権実にして、最も無上と為す、無上の相乃至無上の果報は、横に広く豎に深くして而も上有ること無し、故に標章に諸法実相と云ふなり。例して亦応に諸法実性、実体、実力と言ふべし、乃至応に実究竟等と言ふべし、但だ略して一を挙げて而も諸を蔽ふのみ。如来遍く照し横豎悉く周きこと、掌果を観ずるが如し、秖だ凡夫は双盲の如く、二乗は眇目の如く。菩薩は夜視るに朦朧として暁かならざるが為に、説くことを得可らず、止止の絶言、其意此に在るのみ。

 [65]三に離合に約すとは、若し仏心の中に観ずる所の十界十如は皆無上の相なり、乃至無上の果報なり、唯是れ一仏法界にして、海の万流を総るが如く、千車の共に轍を一にするが若し、此れ即ち自行の権実なり、若し随他意は則ち九法界の十如相性等有り、即ち是れ化他の権実なり、化他は復実有りと雖も皆束ねて権と為す、自行に復権有りと雖も皆束ねて実と為す、此れ即ち自行化他の権実なり、随他には則ち開し、随自には即ち合す、横豎周ねく照し開合自在なり。無量を開すと雖も無量にして而も一たり、合して一と為すと雖も、一にして而も無量なり、無量は一と雖も而も非一非無量なり、非一非無量と雖も而も一にして而も無量なり、唯仏と仏とのみ乃し能く究尽したまふ。凡夫は則ち誹謗して信ぜず、二乗は則ち迷悶して受けず、菩薩は則ち塵杌未だ明かならず。此義の為めの故に止止絶言ず云云。

 [66]四に位に約すとは、如是相とは一切衆生に皆実相有り、本より自ら之有り、乃ち是れ如来蔵の相貌なり。如是性とは即ち是れ性徳の智慧、第一義空なり。如是体とは即ち是れ中道法性の理なり、是れを三徳と為す、十法界に通じて位位に皆有り、若し此三徳を研て十信の位に入れば則ち如是力如是作と名く、四十一地に入らば如是因如是縁と名く、若し仏地に至らば如是果如是報と名く。初めの三を本と名け、後の三を末と名く、初後同じく是れ三徳なり、故に究竟等と言ふ。

 [67]初位の三徳は悪に通じ善に通じ。賢に通じ聖に通じ、小に通じ大に通じ、始に通じ極に通ず、悪に在りと雖も而も沈まず、善に在りと雖も而も升らず、賢に在りと雖も而も下らず、聖に在りと雖も而も高ぶらず、小に在りと雖も而も窄まず、大に在りと雖も而も寛からず、始に在りと雖も而も新に非ず、極に在りと雖も而も故に非ず、故に是れ不可思議にして、説くことを得可らず、止止絶言するのみ。

 [68]復次に三徳究竟等とは、十界の相性権実開合差別若干なり、平等大慧を以て実の如く之を観ずれば究竟して皆等し。若し此境に迷へば、即ち六界の相性有り、名けて世諦と為す。若し此境を解すれば、即ち二乗の相性有り。名けて真諦と為す、此れ迷に非ず解に非ずと達すれば、即ち菩薩仏界の性相有り、中道第一義諦なり、若し此慧を以て俗諦に等すれば俗諦は迷に非ず、真諦に等すれば真諦は解に非ず、解に非ず迷に非ず、迷解を双非するを但だ平等と名く、若し双べて照せば権は即ち是れ実、実は即ち是れ権なり、二と雖も而も不二なるを、亦究竟等と名くるなり。又権実不二の境は、七種の方便は不二の智を以て不二の境を等すること能はず。唯諸仏のみ有て不二の智を以て不二の境を等じたまふ、故に究竟等と言ふ。又今大乗の機動じて九界の性相を明さず、直に一切性相悉く仏界の性相に入ることを説く、昔の教に説かざれば昔は今と等しからずと謂ふ、今の教に之を説けば昔と今と等しと知る、故に究竟等と言ふ。初めに惑解に約して等じ、次に人に約して等じ、後に教に約して等ず、此れを説くこと甚だ広し、記者の委悉すること能はざるのみ。

 [69]若し絶言絶思に就て不可思議を明さば、釈論七十九に云く、不可思議は不決定に名く、一切の心心数の法を出で、一切の言語の道を出づ、行ずること能はず、到ること能はず、故に不可思議と名くと。若し譬喩に就て不可思議を明さば釈論十四の如し、色を敗壊するを以て平等の道に趣くことを得るなし、色の不異を観すれば乃ち能く大乗に等し、明と暗と共に合するが如し、而して汝見ずして、明暗異なりと謂ふ、其義を知らんと欲せば彼の月光の如し、又日の出の時、暗は十方に向はず、暗常に在て帰趣する所無し、明も亦是の如し、暗と共に合す。生死と道と合す、道は即ち是れ生死、仏の尽したまふ所は已に尽し、度したまふ所は已に度す、皆不可思議なり。諸経諸論、此例甚だ多し。若し事中の不可思議に就かば、阿含経に四不可思議を明す如し、謂く衆生と世界と龍と仏となり、衆生は何処より来り何処に向て去る、底の為めに生じ底の為めに而も死す、世界は有辺無辺と為んや、可断不可断と為んや、天龍人鬼誰が所造と為んや。阿含に云く、一の士夫あり王舎城拘羞羅池の側に於て世間の辺無辺を思惟す。四兵の藕絲の孔に入るを見て自ら驚き、我れ狂へるやと、世に此狂無し、仏に問ひたてまつれば仏の言く、狂に非ず、是れ修羅の諸天の為めに逐はれ、退て藕絲の孔に入て蔵るなりと、此れ乃ち世間の思惟にして涅槃の道に非ず、義の饒益する無く、法の饒益する無く、梵行の饒益する無し云云。龍の雨は龍の口耳眼鼻舌より出づと為すや、実に爾の許より出です、但だ其念より出づ、善を念じ悪を念すれば皆能く雨を出す、前の本行に由て今是力を得、須弥の腹に天有り大力と名く、亦能く雨を作す。又経に五道に各各一の不可思議あることを出す、地獄は断続有り。畜生は能く飛ぶ、鬼は能く少を変じて多と為す、人は能く火をして薪を焼かしむ、天は能く自然に果報を致す、皆是れ果報の法にして事の不可思議なり云云。此れは是れ因縁の事に約して、不可思議を釈す、況んや甚深の境界は寧ろ不可思議に非ずや。

 [70]偈に二十一行有て両と為す、初めの十七行半は長行を頌す、後の三行半は略して三を開て一を顕はし、執を動じて疑を生す、前に又二あり、初めに四行は言に寄せて歎ずるを頌す、後に十三行半は言を絶して歎ずるを頌す、夫れ偈頌長行互に広略有るは義そして顕はし易からしむるのみ。長行に二仏権実各各を歎ずるは化縁の異を表はす故なり、頌の中に二仏合して歎ずるは二智の理同じきを示すが故なり。初めの寄言の中に又二あり、初めの両行は合して二仏の二智を頌す、後の二行は合して二仏の釈歎結歎等を頌するなり。初めに又二あり、今初めの一句の世雄とは、上の諸仏の智慧を頌す、不可量とは上の甚深無量を頌す、此れ諸仏の実智を頌するなり。次の三句は上の諸仏の権智を頌す、此れに三の異有り、一には上には人を挙げ、又法を標す、故に諸仏智慧と云ふ、今の頌には但だ人を頌して人を将て以て法を美む、故に世雄と云ふ。二には上には開して歎じ、今は合して歎ず、法は別なるを以ての故に須らく開くべく、人は総なるを以ての故に須らく合すべし。三には上には一切の二乗は知らずと云ひ、今は一切衆生の類は知らずと言ふ。仏力の下、後の一行は釈迦の二智を歎ずるを頌するなり、仏とは吾従成仏を頌するなり、正しく実智を頌す。力無畏等とは、諸の功徳を頌す、是れ権智を頌するなり。余法とは即ち化他の権を指す、是れ実智の余助のみ。正しく上の種種の因縁を頌するなり云云。本従の下、後の二行は合して二仏の釈歎結歎の意を頌するなり。本従無数仏具足行諸道とは上の諸仏の釈歎の仏會親近百千諸仏尽行道法の文を頌するなり。甚深微妙法とは、上の実を結歎する成就甚深未會有法を頌するなり。難見難可了とは、上の権を結歎する意趣難解を頌するなり。於無量億劫行此諸道已とは、上の釈迦を釈する知見波羅蜜皆已得具足を頌す、上の二句は因具足を挙ぐ、次下の一句は果具足を挙ぐ。我已悉知見の一句は、上の釈迦の二智を結する如来知見広大の文を頌するなり。或時は四偈を用ひて合して上の二仏の権実を頌す、文六と為す、初めに世雄の一句は総じて二仏の二智を頌す、二に諸天及世人の三句は揀人を頌す、三に仏力の下の一行は、釈迦の中の権実を釈するを頌す、四に本従の下の一行は、諸仏の権実を釈するを頌す、五に於無量の下の半行は、上の行因を頌す、六に道場得成の下の二句は、上の得果を頌す。如是大果報より去て第二に十三行半有り、上の絶言を頌するなり、文五と為す、初めの半行の如是大果報は即ち不思議の境を頌す。但だ初後を挙げて中間は略す、知ぬ可し。義の字は兼て究竟等を頌するなり。大と種種とは玄義の中に説くが如し。我及十方仏の下第二に半行は追て取要言之仏悉成就を頌するなり。不可示の下第三に半行は、追て上の止不須説を頌するなり。実相は方所に非ず、故に示す可らず、言語の道に非ず、故に言辞の相寂滅す。諸余衆生類より下、第四に不知の人を挙ぐることを頌す、故に上の長行に、知る者有ること無し、故に止て説かざることを明す。頌の中の十行半は不知の人を頌出す、文八と為す、初めに半偈は総じて不入の者を揀ぶ、即ち七方便なり。除諸の下、第二に二句は能入の者を揀ぶ、即ち円教の十信なり、故に信力堅固者と言ふなり。長行に究竟の仏の知を明す、頌の中には初信の知を明す、互に挙ぐるのみ。諸仏子の下、第三に一行半有りて二乗の不知を揀ぶ。仮使満の下、第四に一行有りて身子の不知を挙ぐ。正使満の下、第五に一行半は諸の大弟子を挙ぐ。辟支仏の下、第六に二行は支仏を挙ぐ。新発意の下、第七に二行半は発心菩薩の不入を挙ぐ。発心の語通ず、或は六度の菩薩の三僧衹に未だ惑を断ぜざるを名けて発心と為す可し、或は上の人天の中を指すに、自ら六度を摂得するも、而も発心の語は別して通別等の発心を擬す可きなり。不退菩薩の下、第八に一行有り、不退の菩薩も亦知らざるを揀ぶなり。通教の不退は界内の惑を断ず、是故に別理を知らず、別教の地前も亦位不退行不退等を証する有るも、亦知らざる所なり。

 [71]次に又告舎利弗無漏の下、第五に一行半は、上の難解の法、仏のみ能く実相の境を知ろしめしたまふを頌す。無漏不思議とは、上の要を結して権実所止の境を挙ぐるを頌するなり。甚深微妙法の一句は、上の第一希有難解之法を頌す。我今已具得の三句は、上の唯仏与仏乃能究尽を頌するなり、諸仏の道同じくして、同じく皆究竟することを明す、故に唯我知是相十方仏亦然と云ふ。不思議を釈せば、如意珠の毫釐の有ること無きも能く衆宝を雨らすが如し、実相は不生にして能く般若を生ずるなり。無漏不思議の一行半を本と為す、四種の解釈を生出す、已に上に説くが如し。無漏の半句に従て十法界の釈の為めに本と作る、十法界の十如は、諸の凡聖の理性を収めて漏失する無きなり。三諦を収めて漏失無く、権実智に漏失する無し、不思議に約して開合の釈の為めに本と作る、権に即して而も実、実に即して而も権なり、故に不可思議なり。甚深微妙法に約して、仏法界の釈の為めに本と作る、此れ知る可し。唯我知是相に約して、約位釈の為めに本と作る、此れ亦知る可し云云。

 [72]舎利弗当知諸仏語無異より下は略して三を開して一を顕はし、執を動じて疑を生ず、開顕に就て二と為す、初めに諸仏の顕実を明し、次に釈迦の開三を明す、互に一辺を明すのみ。諸仏語無異とは、此れ諸仏の化道是れ同じきことを論ず、次の両句は勧信し、後の両句は正しく顕実なり。世尊法久後要当説真実とは即ち真を顕はすなり、昔の執を動じて今の疑を生ず。 将非魔作仏とは正しく此語を聞くに由るなり、仏既に如実の語もて勧信したふ、何事ぞ翻て疑はん、疑に因て謗を起す者を防ぐ為めの故に須らく勧信すべきのみ。告諸声聞衆より下は釈迦の開三を明す、文三と為す、初めの一行は正しく開三を明す。将に二乗の非を明さんとする故に逮得涅槃者と言ふ。又解す、我令脱苦縛逮得涅槃は即ち六度の菩薩乗に擬す、何を以てか之を知る、六度の行を修して即ち四趣の縛を免るも、未だ滅度に入る能はず、三僧衹百劫に乃ち涅槃を得ん。逮の言は遠く乃ち及ぼすのみ。又六度の行は前に他を度す、故に我令脱苦縛と言ふ。後に無漏を取る故に逮得涅槃と言ふ。此を義もて之を推すに是れ六度の乗なることを知るなり。又数を以て之を推すに、下の句に仏以方便力示以三乗教と云ふ、若し此れを指さずんば、何を将てか三と為さん、応に重ねて二乗を数へて三乗と為すべからざるなり。次の半行は正しく三乗は皆是れ虚偽なりと斥く。次の両句は三を立つるの意を出す、意は是れ権に引て諸苦を離れしむるが故なり、真実と為すに非ず、但だ是れ方便門のみ。

 [73]爾時大衆より下は是れ疑を騰て請を致す、三は偽、一は真なりと聞くに由ての故に、執動じて疑生ず。文二と為す、一に疑を叙し、二に正しく決を請す、疑を叙すに又二なり、一に経家叙す、二に正しく疑を生ず、先に千二百の疑を叙す。次に四衆を叙す。上に三乗は皆是れ方便なりと斥す、疑を叙すること但だ二乗に在るは、其執重く疑深きを以て偏に挙ぐ、若し下の疑を陳ぶる中に至て即ち求仏諸菩薩大数有八万と云ふ亦皆疑有り、故に知ぬ、三乗は僉疑へども、偏に二乗を挙ぐるのみ。各作是念より下は是れ正しく疑ふなり、又二と為す、一に仏の二智を疑ひ、二に己が所得ぞ疑ふ。何故殷懃称歎方便よりは、即ち是れ総じて権実の二智を疑ふ、而作是言仏所得法甚深よりは是れ実智を疑ふ、有所言説意趣難知の下は是れ権智を疑ふ、諸仏の語は異ること無し、要らす当に真実を説きたまふべしといふを聞くを以て、此れより疑を生ず、何となれば、仏は昔、三乗の智慧は同じく証して差はず、但だ余習に尽不尽有るのみと説きたまふ、今忽ちに如来の二智は我が及ぶ所に非ずと称歎したまふ、是故に仏の二智を疑ふなり。仏説一解脱義我等亦得此法より下は、此れは是れ自ら所得を疑ふ、三乗の聖道は是れ真の出要なり、我れ此理を修して亦涅槃に到る、而るに今忽ち皆是れ方便なりと言ふ、未だ知らず、何者か真実なる、故に不知是義所趣と言ふ、此れ上に三を斥して偽と為すよりして是の疑を生ずるなり。

 [74]爾時舎利の下、第二に正しく請す、文に三請二止有り、前に就て三止と為す。瑤師龍師の云く、初めに止るは理深く解し難き為めなり、初めに請するは自他の決を求むるが為めなり、次に止るは驚疑して信ぜざるが為めなり、次に請するは久しく殖えて必らず解せんが為めなり、後に止るは必らず謗て悪に堕せんが為めなり、後に請するは利根の益を得んが為めなりと。今師或時云く、仏は予め三周の得益前後倶ならざることを知りたまふ、故に三たび抑へて其の三たび請するを俟つなりと。初請に就て二と為す、一に長行、二に偈頌、長行二と為す、一に疑を陳べ、二に請を陳ぶ、疑を陳ぶとは二智を疑ひ、請を陳ぶるは己が請と衆の請なり。頌の中に十一行の偈有り、文六と為す、初めの二句は実智を疑ふことを頌す。自説得の下、第二に三行は権智を疑ふを頌す。無漏諸の下、第三に三行有りて、三乗四衆の疑有るを明す。上の句は羅漢を明す、後の二行は縁覚を明す、中間の及求涅槃者と称するは即ち是れ六度の菩薩を明すなり、何を以てか知ることを得ん、上には逮得涅槃者と云ひ、此中には及と称す、及とは此菩薩自ら涅槃を求め、又以て他に及ぼす、故に二乗に異す、知ぬ、是れ菩薩なることを。於諸の下、第四に一行半有りて身子の疑を明す。仏口所生の下、第五に一行有りて仏子の疑を明す。諸天龍の下、第六に二行は総じて同じく疑ひ請するを明すなり。夫れ偈頌と長行は意を以て推す可し、其頌に非るが如きは即ち是れ長に出す、義に於て急に非る者は、文を煩はして分擘すること能はず、故に略するのみ。爾時仏告より下は是れ二止なり、更に疑を牒して請を為す、悉く文の如し云云。