[1]又復当に観ずべし、無量劫来多く名色及以、想行に約して、而して我人を計す、若し其を執作するに忽ち讃罵を聞きて云はく、「我を讃罵す」と、行、住、坐、臥、一切の事物に皆我を計す、膠を手に塗れば執るに随つて著くが如し。「経」に云はく、「凡夫若し我心を離るといはば、是処有ること無し」と。若し貧窮に遭はば本心を失すれども、亦我を計すること息まず、若し富貴を得れば勢を恣にし毒を縦にして天下を酷害す、赫怒隆盛にして辜無きを怨枉す、諸業の興起すること皆我の為す所なり、誰か代り当らん者ぞ、風に逆つて火を執る、豈、手を焼かざらんや、彼夜房に謂つて鬼有りと言ふも天明けて照了するに乃ち本旧人なるが如し。又智慧無きが故に計して我有りと言ふ、慧を以て之を観ずるに実に我有ること無し、我、何処に在るや、頭足支節一一に諦かに観ずるに了に我を見ず、何の処にか人及以衆生有らん、業力の機関、仮に空聚と為り、衆縁従り、生ず、宰主有ること無し、宿亭に宿るに二鬼屍を爭ふが如し。此の如く観ずる時、我倒休息す。若し四観を修せば四顛倒を破す、道心起して大怖畏を生ず、怨の為に逐はるるが如く、怨国に叛くが如く、険道を行くが如く、念念周慞して祇出路を求む。麞は獵圍を聞きて霍驚し絶走す、水草に遭ふと雖も何の暇あつてか故噉せん、志は免脱に在り、声聞は是の如きなり、若し、鹿の圍を透り小しく難を免るることを得ば、並び馳せ並び顧み、悲鳴呦咽して本の群を痛戀す、復踟蹰すと雖も更に知んぬ何の益ぞ、気を茹み声を呑み悲を銜みて前進す。縁覚は是の如し、自ら生死を出でて衆生を愍念す、悲悼哀傷すと雖も救抜すること能はず。若し大象王は、圍み合するを聞くと雖も独り去るに忍びず、自ら力大にして刀箭を遮るに堪ふることを知り、其子を守護して、群をして安穩に傷害を免るることを得しむ。菩薩は是の如し、無常無我の諸の観明かなる時、怖畏すること心に切にして水火を蹈むが如し。又慈悲を起すこと母の子を念ずるが如し、衆生盲冥にして苦焼を覚らず、我今云何ぞ之を棄てて独り去らん、生死に安耐して智の方便を以て教化淳熟し、得度の因縁を作す。自の功徳法身慧命に於て展転して増長す、有縁の機熟すれば即ち道場に坐し仏と成り、衆生と共に三界を出づ、彼大象の自他倶に安きが如し。若し小象の子は刀箭を捍ぐと雖も必ず為に中られ、自他益為し、初心の菩薩は生死に入らんと欲するに、生死之に触れて善根を失退し、法身破壊す、然りと雖も大悲心を発すれば功徳歎ず可し、故に菩薩は生死を怖ると雖も而も恒に善本を求め、衆生を荷負して二乗に同じからず、生死に住すと雖も五欲を貪るに非ず、但兼済を為して凡夫に同じからざるなり。「経」に云はく、「調伏に住せず不調伏に住せず、無我なることを知ると雖も而も人に誨へて倦まず、涅槃を知ると雖も而も永く滅せず、不浄を知ると雖も厭離を説かず、即ち此義なり。多く六度の功徳善本を修すること羊の身の肥えたるに似たり、勤めて無常を観ずるに諸の悪業壊す、恒に狼の怖を被むれば羊に脂無きが如し、是を事の般若を修する根と名く。自行教他、讃法讃者、十方の仏を称して証と為し救と為す。諸仏威加して障を離れ解脱す、即ち四種の十慧と相応す。是を事の油、助けて道の明を増すと為す云云。

 [2]若し全く理観無く又事懺無く、輙く仏印を望み、利を希ひ名を規る、若し仏印せば是処有ること無し。若し理観無間にして事を借りて蔽を破し、真実の心をもつて懺せば、印すること是処りあり。

 [3]事の助道を須ふる所以は、二万億の仏の所にして珠を繋く、中ごろ大乗を忘れて即ち大を以て化せず、更に六百劫小を以て之を起し、生死を怖畏し漸く父の舍に向はしむるが如し、故に知んぬ、応に小を借りて大を助くべし。又仏初め大をもつて化せんと欲す、諸仏印せず、若し方便を思はば即ち善哉と称す。富家の子の病めるに応に黄竜湯を用ふべし、父母豈好薬を惜まんや、宜しく之を強ゆべきのみ、服み已つて病差ゆるが如し。仏、本願有り、衆をして我が如くならしめんと、豈、大乗を惜まんや、事已むことを獲ずして機に逗じて対治す、助道門を開くこと義亦是の如し。

 [4]問うて曰はく、助道を修せずんば三昧成ぜず、六度は応に道品に勝るべきや。答ふ、此に三句あり、六度は道品を破し、道品は六度を破す、六度は道品を修し、道品は六度を修す、六度は即ち道品、道品は即ち六度なり。上の如く道品、真に契ふこと能はず、若し六度を修すれば即ち能く蔽を破す、豈六度は道品を破するに非ずや。或時は、六度彼岸に到ること能はず、若し道品を修すれば即ち悟入することを得、是を道品は六度を破すと為す。若し六度を修して先に六蔽を破し、進んで道品を修す、任運に成ず可きは是を六度は道品を修すと為す。上の所説の如き、即ち是れ道品は六度を修するなり。六度、道品相即すとは、檀は即ち摩訶衍、四念処も亦即ち摩訶衍、檀と道品とは二無く別無し、不可得の故なり。通じて諸法を論ずるに、行に於て益無きは互に相破有り、行に於て益有るは互に相修あり、理に約すれば互に相即有り、若し四諦、因縁、有無、非有無、広く一切の法に歴て皆三番有り、若し此意を得れば自在に説く云云。

 [5]云何が六度に調伏諸根の義を摂する。若し六根が六塵を受けずんば即ち諸の道品の中の捨除覚分に合す、即ち是れ檀度が諸根を調伏するなり。六根が六塵の為に傷つけられずんば即ち道品の正業、正語、正命に合す、即ち是れ戒度が諸根の調伏するなり。違情の六塵に安忍して動ぜずんば即ち道品の四種の念に合す、是を忍度が諸根を調伏すと名く。根塵を守護して常に懈怠せずんば即ち道品の八種の精進に合す、是を進度が諸根を調伏すと名く。定心乱れず、六塵の為に惑されずんば、即ち道品の八種の定に合す、是を禅度が諸根を調伏すと名く。六塵を無常、苦、空、寂滅なりと知るは、即ち道品の十種の慧に合す、是を智度が諸根を調伏すと名くるなり。此れ乃ち三蔵に諸根を調伏し六度を満足するなり。

 [6]復次に眼空なりと知りて眼を受けず、色空、色を受けず、根塵空なるが故に、常捨行と名く、乃至、意空、意を受けず、法空、法を受けず、常捨行と名く、即ち道品の除捨覚分に合す、是を檀度が諸根を調伏すと名く。色空なれば眼空を傷けること能はず、眼空なれば色空を傷けること能はず、乃至、法空、意の便を得ず、意空、法の便を得ず、即ち道品の正語、業、命に合す、是を尸度が諸根を調伏すと名く。又、眼色空づるが故に則ち違無く順無く、忍不忍無し、乃至意法空なるが故に違無く順無く、忍不忍無し、即ち道品の四種の念に合す、是を忍度が諸根を調伏すと名く。眼色常に空なれば空ならざるの時無し、是の如きの習応は般若と相応す、乃至意法常に空なり空ならざるの時無し是を般若と相応すと名く、即ち道品の八種の精進に合す、是を進度が諸根を調伏すと名く。眼色空なるが故に乱ならず、味ならず、乃至、意法空なるが故に乱ならず味ならず、即ち道品の諸定に合す、是を禅度が諸度を調伏すと名く。眼色空なるが故に愚ならず智ならず、乃至、意法空なるが故に愚ならず智ならず、即ち道品の十種の智に合す、是を智度が諸根を調伏すと名く。此は是れ通教に諸根を調伏し六度を満足するなり。

 [7]若し眼色は十法界を具す、十法界は各果報の勝劣不同あり、各各の修因に深浅の異り有り、因果無量にして、窮尽すべからず、無知を除郤して法相を分別するに愛著する所無し、乃至、意法は十法界を具す、分別して著すること無くんば即ち道品の除捨覚分に合す、是を檀度が諸根を調伏すと名く。眼色、乃至、意法を分別するに無量の相貌あり、未だ曾て機に差ひ他の善根を傷らず、自らも亦無量の根塵の為に傷られざるは、即ち道品の正業、語、命に合す、是を戒度が諸根を調伏すと名く。又十界の根塵に於て、若は違、若は順、其心動ぜず、仮の中に安住して能く忍びて道事を成ずるは即し道品の諸念に合す、是を忍度の諸根を調伏すと名く。又一切の根塵を分別するに、若し難心苦心を起すとも、亦中退せず、生死に於て勇有らば即ち道品の精進に合す、是を進度の諸根を調伏すと名く。又一切の根塵を分別するに、心、壊乱せず、動ぜず、僻せず、即ち道品の諸定に合す、是を禅度の諸根を調伏すと名く。又一切の根塵を分別するに、道種智の力、授薬宜しきに当り、方便善巧にして亦染著無くんば即ち道品の諸慧に合す、是を智度の諸根を調伏すと名く。此は即ち別教に諸根を調伏し六度を満足するなり。

 [8]復次に若し「殃掘摩羅経」に云ふが如き、「所謂彼眼根は、諸の如来に於て常なり、具足無減に修し、了了分明に見る」と。彼とは是れ九法界の眼根なり。如来に於て常なりとは、九界自ら各各真に非ずと謂ふも、如来、之を観ずるに即仏法界、二無く別無し。無減に修すとは、諸根を観ずるに即ち仏眼、一心三諦、円因具足して欠減あることなし。了了分明に見るとは、実を照すを了了と為し、権を照すを分明と為す、三智一心の中、五眼具足し円に照すを名けて了了に仏性を見ると為すなり。見るとは、円証を論じ、修すとは円因を論ずるなり。又、具足修とは、眼根を観じて二辺の漏を捨つるを名けて檀と為す。眼根が二辺の為に傷られざるを名けて尸と為す。眼根寂滅して二辺の為に動ぜられざるを名けて羼提と為す。眼根及び識、自然に薩婆若海に流入するを名けて精進と為す。眼の実性を観ずるを名けて上定と為す。一切種智を以て、眼の中道を照すを名けて智慧と為す。是を眼根の具足無減修と為す。無減修の故に了了分明に眼法界を見る、乃至、彼意根諸の如来に於て常なり、具足無減修にして、了了分明に知る。一一の根に於て即空、即仮、即中、三観一心を無減修と名く、慧眼、法眼、仏眼を証し、一心の中に得るを了了に見ると名く、皆上に説くが如し。根既に此の如し、塵も亦復然なり、一切の諸法も亦復是の如し。是れ円教に諸根を調伏し六度を満足すと為すなり。

 [9]此れ則ち究竟して調伏し、究竟して満足す、是の如きの助道は究竟の道を助く。当に知るべし六度は遍く能く一切の諸根を調伏することを。「大品」に云はく、「施者、受者、財物、不可得なるが故に檀波羅蜜を具足す」と。三事を亡じ著する所無き、正しく檀の体に当る。応に是れ具足者なるべし、財法の二施を行ず、見の具足と名くるは事理二ながら円なり。自他倶に益す、故に具足と名く、事は則ち其慳法を破して而して能く財を捨て、理は則ち其慳心を破して而して能く法を捨つ。二ながら破し二ながら捨し、体用具足するを檀波羅蜜と名くるなり。

 [10]云何が六度に仏の威儀を摂する。仏は十力、無畏、不共法等を以て威儀と為し、一心の中に四道品を修するを仏の威儀を修すと名く、仏眼、仏智を証するを仏の威儀を得と名く。今、語の便を逐ひて道品に約して十力を摂することを明さば、若し四種の道品は即ち是れ四種の四諦智なり、因果を決定す、生滅の集は決して三界の苦を受くるを知るは斯れ是の処り有り。生滅の集、若し無余涅槃に至らば斯れ是の処り無し。若し生滅の道は能く苦を尽して涅槃に入るは斯れ是の処り有り。生滅の道、若し三界に至るは斯れ是の処り無し。乃至、無作の集、通じて変易に至るは斯れ是の処り有り。若し通じて無上涅槃に至るは是の処り有ること無し。若し無作の道滅は通じて一切種智に至るは斯れ是の処り有り。若し通じて二乗に至るは是の処り有ること無し。是四の因果、一心の中に知りて決判明断するを是処非処力と名く。故に如来は仏法の中に於て師子吼を何す、独り我が法の中に四沙門の果有りと、即ち此義なり。業報智力とは、四種の集を知らば是れ業を知り、苦を知らば是れ報を知る、道滅も亦爾り、四種の業報を分別して浅深謬らざる、是れ二の力なり、禅定の力を知るは、四種の道諦の中の八の定、深浅を分別し照了して差はず、是れ三の力なり。根欲性力を知るとは過去の苦集不同を知るを根力と名け、現在の苦集の楽欲不同なるを知るを欲力と名け、未来の苦集の得失不同なるを知るを性力と名く、是れ、四、五、六の力なり。知至処道力とは、四の道諦所至の処を知る、是れ七の力なり。知宿命・天眼力とは、過去一世多世の種性好悪、寿命の長短を照すを、宿命力と名け、未来の生処の好醜を照すを、天眼力と名く、是を八、九の力と名くるなり。漏尽力とは四種の滅諦、証する所の無漏の心慧等の解脱なり、是一法門に而も四種有りとは、王の密語も智臣は意を解するが如し。仏、十力を説きて四種の機に赴くに、小者をして大を謗りて其功徳を傷らしめず、大者をして小を得て其善根を抑へしめず、彼彼独り聞き各々利を獲、無謀の権巧なり、故に能仁と号す。菩薩は智臣なり。深く密語を解す、意三蔵に在りと知らば即ち生滅を問ひ、鄭重に諮詢して有縁をして疾に悟らしむ、乃至、意円に在りと知らば、或は無作を頌し、或は無作を問ひ他をして解を得しむ、一音殊に唱へ、万聴咸を悦ぶ。口密無辺の義尽すべからず、止四釈を、作す、何ぞ疑を致すに足らん耶。問ふ、十力は是れ仏の威儀なり、初心云何ぞ能く学ばん、云何ぞ能く得ん。答ふ、「大論」に云はく、「菩薩の般若を行ずること、十力、無畏、応に住すべからず、若は仏、仏法に於て過失有ること無し、是れ即ち応に住すべし、若は菩薩、仏法無くんば何をか住を論ずる所あらんと、釈して云はく、「菩薩、仏の功徳を修するに多く重著を生ず。此重心を破するが故に応に住すべからずと言ふ」と。又菩薩分に十力、無畏を得、既に未だ究竟せず、故に応に住すべからず、と。若し爾らば、前に修すと雖も而も未だ得ず、後は入位を語る、何ぞ初心に関らん。若し「華厳の十住品」に依らば、云はく、「菩薩は初発心に十力の分を得るに因つて、正念天子法慧を問うて云はく、「初心の大士は十力の方便を修するに、云何が家、非家、出家学道を知るや、云何が方便して梵行を修習し、十住道を具して速に菩提を成ずるや」と。答へて云はく、菩薩は先に当に十種の法を分別すべし、三業及び仏、法、僧、戒を謂ふ。若し身是れ梵行ならば、梵行渾濁、八万戸の虫、若し身業是れ梵行ならば、四儀顧眄、挙足不足、若し口是れ梵行ならば、音声触心、唇齒舌動、若し口業是れ梵行ならば、則ち是れ語言、乃至、戒是れ梵行ならば、戒場にして十衆、清浄を問ひ、戒師、白四羯磨し、髪を剃り食乞ふ、等、皆梵行に非ず。梵行や何処に在りと為す、誰か梵行有らん。三世平等なること猶ほ虚空の如し、是を方便と名く、又更に増上の十法を修習す、所謂、十力甚深無量なり、是の如く観ずる者は、疾く一切諸仏の功徳を得、初発心の時、便ち正覚を成じ、一切の法、真実の性を知りて慧身を具足し、他に由りて悟らず」と、此の如きの明文、豈、初心に十力を修証するに非ずや。又、「地持」に云はく、「菩薩は如来蔵を知り、聞思の前の行、自性禅を修し、一切禅に入ることを得」と。一切禅に三種有り、一には現法楽なり、現法楽の故に歓喜地と称す。二には十力種性の三摩跋提、及び二乗の除入を出生す。三には利益衆生禅なり。十住を聞慧と名く、十行を思慧と名く、此聞思の前、自性を修するを以て一切禅に入り、三法を具することを得、豈、初心に修有り証有るに非ずや、三の拠明なり。道品、六度、及び仏の十力、宛転して相摂すること皆上に説くが如し、若し道品、六度を修すれば即ち是れ仏の十力を修するなり、若し諸根を調伏し六度を満足するは即ち是れ十力を満足し、仏の威儀に住して異なること無きなり。「十住毘婆沙」に云はく、「力は扶助を名く、気力窮尽すべからず」と。「地持」に云はく。「得勝堪能、名けて力と為す」と。十処に於て悉く実の如く虚妄を離れ、魔に勝つ、自行の故に得勝と名け、能く方便を以て衆生を利益す、故に堪能と言ふなり。然るに仏力は無量なり、何ぞ止十と言ふや。実に是れ一智に十事を縁ずるが故に十と言ふ、此十、衆生を化するに足る、十を挙ぐるに余も亦知る可し。「殃掘」に云はく、「十力は是れ声聞宗にして摩訶衍に非ず、大乗には無量力有り」と。此二釈、弥々四種の十力の意を顕はす。

 [11]云何が道品に四無所畏を摂するや。一切智無畏とは、即ち是れ備に四種の苦諦を知りて他の為に分別し、明かに過患を示す、決定して師子吼し、微しの畏相も無く、能く難じて是法、非法と言ふこと無し。障道無畏とは、四種の集諦、四の道滅を障し、決定して師子吼し、微しの畏るる相も無く、能く難じて此を障道に非ずと言ふこと無し。尽苦道無畏とは。四種の道諦、能く是道を行じて苦を尽し、世間を出づることを得、決定して師子吼し、微しの畏相も無し。無漏無畏とは、即ち四種の滅諦、各所証あり、各所滅あり、決定して師子吼し、微しの畏るる相も無し。道品無畏とは、宛転して相摂す、若し道品、六度を修するは、即ち是れ無畏を修して仏の威儀に住するなり。「大論」に云はく、「内心に具足するを名けて力と為し、外用怯れ無きを無畏と名く」と。「十住毘婆沙」に云はく、「一法を無畏と名く、云何ぞ四と言ふや。四の事の中に於て疑無し、故に四と名く」と、仏は応に一切の法に於て畏れ無かるべし、云何ぞ但四なる、大要を学げて事の端を開く、余も亦畏れ無きなり。

 [12]十八不共法を摂するとは、初の身、口の無失、此二は是れ四種の道品の正業、語命なり、供するを得れども高ならず、毀に逢へども下ならず、無不定心と名く、四威僕恒に定に在り、無不知已捨と名く、此二法は是れ四種の道品中の八種の定なり。身戒心慧を修すること尽すべからず、欲無減と名く。慈悲人を度し、寂滅に安住して増ぜず、滅ぜず精進無減と名く。無量劫、一切衆生の為に苦を受くれども疲れず厭はざるを、念無減と名く。此三法は是れ四種の道品の中の八種の精進なり。常に三世の衆生の心を照して、更に観ずることを須ひず、而も為に法を説きて、先の念を失はざるを、慧無減と名く。三世の事を憶して忘れざるを解脱無減と名く。自然に覚悟して二乗に同じからざるを解脱知見無減と名く。一切の身業、智慧を本と為す、無礙の智を得て説くこと尽すべからざるを身業共智慧行と名く。口意共智慧行も亦是の如し。凡て十二法は是れ四種道品の中の十種の慧なり。摂法を結成すること、意上に説くが如し。

 [13]四無礙智を摂するとは、法無礙は是れ四種の四諦の名字の法なり、名字は心の分別に従ふ、若し心無くんば誰が為に名を作さん、既に一心無量心に達し、亦一名無量名を知る、名、尽すべからず、是を法無礙と名く。義無礙とは諸法諸名皆一義に帰す、所謂、如実の義、義無礙と名く。辭無礙とは、十法界の衆生、言辭同じからず、皆悉く解了す、十界の音辭、一の音辭に入り、一界を知れば即ち十界を解して罣礙有ること無きを辭無礙と名く。又法は是れ四諦の法門なり、義は是れ四種の道諦なり、辭は是れ四種の苦諦なり云云。楽説無礙とは四種の四諦を以て巧みに機縁に赴く、旋転交絡して、説きて尽くすべからず、他をして楽聞せしめ、一字の中に於て一切の字、一切の義を説きて一切の音に赴く、其根性に当つて各利益に沾ふ。結摂の意、上に説くが如し。

 [14]六通を摂するとは、眼、耳、如意の三通は調伏諸根の中に説くが如し、他心、宿命、漏尽は十力の中に説くが如し。

 [15]三明を摂するとは六通の中に説くが如し。

 [16]四摂を摂するとは、若し布施は即ち四種の道品の中の除捨覚分を摂するなり。愛語は即ち四種の道品の中の正業、語、命なり。利行同事は即ち四種の道品の中の八定なり。定に神力有り、故に能く利行同事す云云。

 [17]陀羅尼を摂するとは、諸の善法を持すること、完器に水を盛るが如し、諸の悪法を遮すること棘援の果を防ぐが如し、即ち是れ四種の道品の中の四正勤なり、勤めて二悪を遮し勤めて二善を生ず、故に「十住毘婆沙の偈」に云はく、已生の悪法を断ずること 猶し毒蛇を除くが如し 未生の悪法を断ずること 預め流水を防ぐが如し 已生の善を増長せしむること 甘果栽に漑ぐが如し 未生の善、生ずることを為すこと 木を鑚つて火を出すが如しと。

 [18]三十二相を摂するとは、「婆沙」に云はく、「阿毘曇の相品の中」に、一一の相に三種の分別あり、相の体、相の業、相の果を謂ふなり」と。「大論」に云はく、「百劫に三十二相を種ゆ」と。即ち其義なり、還つて三蔵の道品六度を用て、之を望むるに終に施、戒、慧等を出さず、文煩はしければ委しくせず。摂の意は知んぬべし。若し通教の相体、業、果は上に同じかなざるなり。若し相を以て仏を求めば、転輪聖王即ち是れ如来ならん。是人は邪道を行ず。仏の説きたまはく、「三十二相は即ち三十二相に非ず」と、一一委く空心を用て蕩浄し、空と相応するを名けて相と為すなり。「毘婆沙」に亦云はく、「菩薩は一心に三十二相の業を修習す」と。皆慧を以て、本と為す、慧は即ち空慧なり、若し爾らば三十二相は皆道品の十慧、及び智度の為に摂せらる、即ち通教の意なり。復次に前の両の道品は、教門、因を明すに相業を修することを得、果を論ずるに相体有ることを得、但此相は少しく輪王に勝る、魔も能く化作す、故に奇特に非ず、無余涅槃に入らば相則ち永く滅す、譬へば、銅を得て面を照すこと能はざるが如し。二乗は、三蔵の仏と共に、倶に真を得れども法界の像無し、当に知るべし、前の両の道品は相を修するの法に非ざるを。若し後の両の道品は是れ相を修するの法なり。「法華」に云はく、「深く罪福の相に達し、遍く十方を照す、微妙の浄の法身、相を具すること三十二」と。若し、中道を証すれば、中道に即ち此相を具す。「法華」の中、二乗開示悟入して妙に中道に会すれば、即ち八相の仏記を与ふるが如し。譬へば、鏡を得れば万像必ず形るが如し。大乗、中を得れば現ぜざる所靡し、法身の相は名けて真相と為す。「浄名」に云はく、「已に世間所有の飾好を捨つ」と。輪王、魔羅、世相に身を厳る、皆是れ虚妄なり、故に已捨と言ふ、中道の明鏡、本諸相無し、無相にして而も相なれば、妍醜彼に由り、多少は縁に任す、普現の色身、即ち真相なり。「無量寿観」に云はく、「阿弥陀仏は八万四千の相あり、一一の相に八万四千の好あり」と。「薩遮」、「華厳」皆云はく、「相を大相海と為し、好を小相海と為す」と。既に相海と言ふ、豈、三十二に局らんや。縁の為に同じからず、多少は彼に在り、此真実の相は別円両道品所摂為り、義自ら知んぬべし、委しく記すること能はず。

 [19]当に知るべし、六度の助道は諸の善法を摂すること無量無辺なり、上の十二條を挙げて以て義の端を示す。余も亦摂することを知れ。助道にして尚ほ爾なり。何に況んや。正道をや云云。

 [20]第八に次位を明すとは、夫れ真似の二位、解脱知見有らば朱紫分明なり。

 [21]終に、謬り謂うて、未だ得ざるを得たりと謂ひ、四善根を計して以て初果と為し、初果を無学と為さず、自ら断証する所、未だ断証せざるところを知る。四門の名位、殊なり有りと雖も断及び諦理、孱然として異ならず。二乗は多く一生に結を断ずることを論ず、時節既に促る、教門に明す所、大同小異なり、過ちて迭動せざれ。菩薩の教門は、但時長行遠なるのみに非ず、智断亦別なり、径路乃ち殊なれども、帰途は一なり。六度の初僧祇は未だ作仏を知らず、二僧祇は知りて而も説かず、三僧祇は自から知り亦説く、百劫に大人の相を種え、五の功徳を具するを不退地と名く、皆似位なり。道場に坐して仏と成るを方に真位と名く。此教の初め浅なるも尚ほ次位有り、豈、凡夫の造心、即ち上位と言ふ有らんや、此れ増上慢に非ず、推して誰に与へんか。

 [22]通教の二乗の真似の位は、智は三蔵に異にして断位は殊ならず、若し菩薩の位は條然として同じからず、名義の通別を簡ぶこと「法華玄」の如し云云。

 [23]別教の惑断智位は、二乗は声唖にして其境界に非ず、故に名けて別と為す。一往、「摂論」、「華厳」に明す所の地位を望むに、即ち是れ其義なり。但別の義は多途なり、機に赴きて説を異にす、横なれば即ち四門同じからず、豎なれば則ち階降深浅あり、定んで一経を執して而も相是非すべからず。又菩薩は或は通論を造りて経を釈し、或は別論を造りて経を釈す、竜樹の千部の論を作るが如し、天親及び諸の菩薩の論復何ぞ量らん、此を度る者少し。那ぞ苦に一意を専らにして余門を非撥することを得んや、若し、苟且に抑揚せば仏の方便を失し、自ら毀損を招かん、長途を望まんと欲して飜つて哽塞を成ず。今別位を明すに四門の異説、種種に同じからず、阡陌経緯ありと雖も、其致は一なり。此方未だ多論有らずと雖も、而も前の四門をもつて之を推すに、若は通教に種種の位を説くは、其同じく是れ真諦なることを知る、別教に種種の位を説くは、其同じく是れ中道なることを知る。「経」に言はく、「種種の道を説くと雖も、其実は一乗の為なり、其所説の法は皆悉く一切智地に到る」と。此意を得ば、狐疑息み難く闘諍生ぜず。土の破思仮の中に已に略して諸位を説けり、若し知らんと欲せば彼に往きて之を尋ねよ云云。

 [24]又今十意有り、仏法を融通す。一には道理を明す、寂絶亡離して思議すべからず、即ち是れ四諦、三、二、一、無随情智等、或は開、或は合なり、若し此意を識らば、権実の道理冷然として自ら照さん。二には教門の綱格、匡骨盤峙、包括密露、涇渭大小、即ち是れ漸、頓、不定、秘密、蔵、通、別、円なり。芳し此意を得れば声教の開合、化道知る可し。三に経論は矛盾して、言義相乖けり、情を以て通ずべからず、博を以て解すべからず、古来の執諍代を連ねて消せず、若し四悉檀の意を得れば即ち結滞開融す、壊抱瑣析、抜擲自在にして此に惑ひ彼を疑はざるなり。四には、若し謬り執して而して塞著を生ずることを知れば、巧に破して尽く浄めん、単複具足、無言窮逐し、能破は所破の如し、何の得る所有らんや。五には法門を結正して行位に対当す、修に方便あり、証は階差あり、権実大小、賢聖濫せずば、増上慢の罪、何従りして而も生ぜんや。六には一一の法門に於て縦横無礙なり、綸緒次第し、亹亹として章を成ず。七には開章科段して鉤鎖相承け、生起愛す可し。八には経文を帖釈す、婉転として繍媚あり、総じて上の諸の方法を用て語に従つて消釈するに義順じて而も文当れり。九に梵漢を飜譯す、名数兼通して、方言をして壅がらざらしむ。十には一一の句偈、聞の如くして修し、心に入りて観を成ず、観と合すれば観は則ち印あり、心を印じて観を作す、他の宝を数ふるに非ず。唯、飜譯名数、未だ広く尋ぬるに暇あらず、 九意は世間の文字の法師と共ならず、亦、事相の禅師と共ならず、一種の禅師は唯観心の一意あり、或は浅、或は偽、余の九は全く無し、此れ虚言に非ず、後賢、眼有らんもの当に証知すべし。次位とは十位の一なり。

 [25]若し円教の次位は、菩薩境の中に於て応に広く分別すべし、但彼は証、今は修、故に、須く略して弁ずべし。若し四種三昧修習の方便は通じて上に説くが如し、唯法華懺のみ別して六時、五悔に約して重ねて方便を作す。今、五悔に就て其位相を明す。先に逆順の十心を知りて而して縁を実相に繋ぐ、是れ第一の懺なり、常に懺悔して懺せざるの時無し、但、心理微密、観用軽疎、黑悪覆障し、卒に開曉し難し、重ねて身口を運んで意業を助発す、疾に相応せしめて更に五悔を加ふるのみ、懺とは先悪を陳露するに名け、悔とは往を改め来を修するに名く。仏智は遍く照し、仏慈は普く摂す。我れ身口を以て仏の足下に投ず、願くば、世間眼、我が懺悔を証したまへ、我れ無始より無量、仏道を遮へるの罪あり、無明に偪まられ正真を識らず、三界に従つて繋し、身、口、意を動かし、十悪罪を起す、三宝、六親、四生、五道、不饒益の事をなし、三乗の心を発する人を破し、五七逆を造る、自ら作し他を教へ、作すを見て随喜す、応に現生の後、諸の苦悩を受くべし。三世の菩薩の仏道を求むる時に懺悔したまふが如く、我も亦是の如し、己が昏沈にして智慧の眼無きことを傷む、是語を発する時、声涙倶に下り、至誠真実、五体を地に投ずるは、樹の崩れ倒るるが如く、我人を摧柝して衆悪傾殄す、是を懺悔と名く。勧請とは名けて祈求と為す、声聞は自度なれば、直に己が罪を懺す、菩薩は衆を愍むが故に道を行ず、故に須く勧請すべし。我今罪を知る、尚ほ脱を得ず、衆生は知らずして劫を経て流転すれども我に救ふ力無ければ十方の仏を請す、仏は衆生を愍みて巨細を簡ばず、必す冀へば願に従ひたまふ。「大論」に、請、不請を明す云云。法輪を転ぜんことを請ふ、謂はく、勧、示、証、四諦に於て眼智明覚を生ぜしむ、是を三転と名く。有人言はく、「三乗を説きたまはんことを請ふを三転と名く」と。仏若し法を説きたまはば、衆生は涅槃の証を得、設し未だ得ざる者は且く世間の楽を受けしむ、仏若し普く許すときは則ち一切安きことを得、我れ一切に預かる、罪苦も亦除かん、遍く雨を請ふが如く、我に小田あらば自ら甘潤に霑はん、世に住したまはんことを請はば、夫れ命は業に随つて住することを得、変化は心に随つて住することを得、心止まらず化滅す、我れ今仏を請じて衆生を饒益す、大なる炬火の如し、変化の心を止むること莫く、久しく安穩に住して一切を度脱したまへ。是を勧請と名く。随喜とは名けて慶彼と為す、仏、既に三たび法輪を転じ、衆生は三世の利益を得、我は彼を助けて喜ぶ、又我れ応に勧化して其をして生ぜしむべし、其善自から生ず、是故に我れ喜ぶ。三世の衆生の福徳の善、三世の三乗の無漏の善、三世の諸仏の初心従り入滅に至るまでの一切の諸善を喜ぶ。我皆随喜し、亦他を教へて喜ばしむ、香を買売するもの傍に観るもの三人同じく薰ずるが如し、能化受化、及び随喜の者、三の善均等なり、衆の惑を観ずれば甚だ悲傷すべし、衆生の善を観ずれば応に大いに恭敬すべし。常不軽の如き、深く、衆生に正、縁、了を具すと知る、即ち未だ発せずと雖も、会すれば必ず生ずべし、毒鼓は遠くも近きも、為に要ず当に死すべし、故に之を敬ふこと仏の如し。何となれば、未来の諸の世尊、其数量り有ること無し、此れ深く是れ随喜する意なり。「法華」は法を随喜す。「大品」は人を随喜す。人法互に挙ぐるのみ。廻向とは、衆善を廻ぐらして菩提に向ふ、一切の賢聖の功徳広大なるを我れ今随喜す、福亦広大なり、衆生は善無し、我れ善を以て施し、衆生に施し已つて正しく菩提に向ふ、声を廻して角に入れば響き聞ゆること則ち遠きが如し。廻向を大利と為す、正しき廻向は三界の道を断じ、諸の戯論を滅し、煩悩の泥を乾かし、棘刺の林を滅し、重擔を捨除す、取らず、念ぜず、見ず、得ず、分別せず、能く廻向する者、廻向せらるる処、諸法皆妄想なり、和合の故に有り、一切の法は実に不生なり、已、今、当の生無く、已、今、当の滅無し、諸法は是の如し、我れ諸法に順じて随喜し廻向すること、三世の諸仏の所知、所見、所許の如くなる、是を真実正廻向と名く、亦、最上具足大廻向と名く。即ち仏を謗らず、過咎無く、所繋無く、毒無く、失無し、何ぞ但廻向のみ此の如くならん、前の三、後の一も亦然り。「毘婆沙」に云はく、「罪は応に是の如く懺すべし、勧請、随喜の福、菩提に廻向す」と。発願とは、誓なり、人に物を許すに若し劵を分たずんば物則ち定まらざるが如し。衆生に善を施すに、若し心を要せず、或は恐らく退悔せん、之に加ふるに誓を以てす。又誓願無くんば、牛の御無くんば所趣を知らざるが如し、願来つて行を持し、将て所在に至る。又陀羅尼と名く、善を持し悪を遮す、坯は火を得て物を盛る可きに堪へるが如し。二乗は生尽くるが故に願を須ひず、菩薩は生生に物を化す、須く総願、別願すべし、四弘は是れ総願なり、法蔵、「華厳」の所説は一一の善行陀羅尼にして皆別願有り。今、道場に於て日夜六時に此懺悔を行じて大悪業の罪を破し、勧請して謗法の罪を破し、随喜して嫉妬の罪を破し、廻向して諸有の為にするの罪を破し、空無相願に順ず、所得の功徳は限量すべからず、譬算校計も亦説くこと能はず。

 [26]若し能く五悔の方便を勤行すれば観門を助開し、一心三諦豁爾として開明なり、浄鏡に臨みて遍く諸色を了するが如し、一念の中に於て円解成就す、功力を加へずして任運に分明なり、正信堅固にして能く移動すること無し、此を深信随喜心と名く、即ち初品弟子の位なり。「分別功徳品」に云はく、「其れ衆生有りて仏の寿命の長遠なることを聞き、乃至、能く一念の信解を生ぜん、得る所の功徳は限量すべからず。能く如来無上の慧を起す、若し此経を聞きて而して毀呰せずして随喜の心を起す、当に知るべし已に深信解の相と為す」と、即ち初品の文なり。又円解の観心を以て五悔を修行し、更に読誦を加ふ、善言妙義、心と相会すること膏の火を助くるが如し、是時、心観益明らかなるを第二品と名くるなり。「文」に云はく、「何に況んや読誦し受持せん者をや、斯人は則ち如来を頂戴すと為す」と。又増品の勝心を以て五悔を修行し、更に説法を加ふ、其内解を転じて前人を導利す、曠済を以ての故に化の功己に帰す、心更に一転して前に倍勝するを第三品と名くるなり。「文」に云はく、「若し受持し読誦し、他人の為に説き、自ら書し、人を教へて書せしめ、経巻を供養する有らば、復、塔寺を起て衆僧を供養することを須ひず」と。又、増進の心を以て五悔を修行し、兼ねて六度を修す、福徳の力の故に倍観心を助け、更に一重深く進むを第四品と名くるなり。「文」に云はく、「況んや復人ありて能く是経を持ち兼ねて六度を行ぜん、其徳最も勝れて無量無辺なり、譬へば虚空の如く一切種智に至る」と。又此心を以て五悔を修行し、正しく六度を修す、自行化他、事理具足して心観無礙なること転た前に勝れ、比喩すべからざるを第五品と名くるなり。「文」に云はく、「能く他人の為に種種に解説し、清浄に戒を持ち、柔和の者と共にして而して共に同じく止り、忍辱にして瞋り無く、志念堅固にして常に坐禅を貴んで諸の深定を得、精進勇猛にして諸の善法を摂し、利根智慧ならん。当に知るべし是人は已に道場に趣き三菩提に近づくと」と。若し爾らば、五品の位は十信の前に在り、若し、普賢観に依らば即ち五品を以て十信の五心と為す、 但仏意は知り難し、機に赴きて説を異にす、此を借りて解を開く、何ぞ労苦して諍はん云云。復次に、今此一章は是れ陰、界、入の境を観ず、須く陰、入に約して而して次位を判ずべし。所謂黒の陰、界、入は即ち三悪道の位なり、白の陰、界、入は即ち三善道の位なり、善の方便の陰、界、入は即ち小乗の似位なり、無漏の陰、界、入は即ち二乗の真位なり、変易の陰、界、入は即ち五種の人の位なり、法性の常色、常受、想、行、識の陰、界、入は即ち仏位なり云云。又、仮名五品、既に転た明浄にして豁かに聞慧に入り、通達して滞りなく深く信じて動じ難く、即ち信心なり。此の如く次第に念、進、慧、定、陀羅尼、戒、護、廻向、願等の十信具足するを六根清浄相似の位と名く。四住已に尽せり。「仁王般若」に云はく、「十善の菩薩、大心を発し、長く三界を苦輪海と別る」と、即ち此意なり。次に初住に入りて無明を破し仏性を見る。「華厳」に云はく、「初発心の時に便ち正覚を成ず、真実の性、他に由つて悟らず」と、即ち此意なり。是の如く次第に四十二位あり、究竟妙覚、叨濫有ること無し、是を知次位と名く。

 [27]第九に安忍とは、能く忍んで道事を成ず、動ぜず亦退せず、是心を薩埵と名く。始め陰界を観ずるより、識次位に至る 八法障転じ慧開く、或は末だ品に入らず、或は初品に入りて神智爽利なり。若し鋒刄の霜を飛ばすがごとくんば物に触れて斯ち断ず。初心の聡叡なる。此に逾えたること有り、本聴学せずして能く経論を解す、他の義疏を覧で、洞かに宗途を識る、一條を釈せんと欲するに弁ずるも尽すべからず。若し宝を懐にし璧を蔵し、解を蘊み名を匿し、密かに勤めて精進せば、必ず品に入ることを得、或は深品に進み、志念堅固にして能く移易すること無きを弥々勝術と為す。但、錐は嚢に処らず、覆ひ難く露れ易し、或は講者の理に称はざるを見、或は行道の者の轍に当らざるを見、慈悲示語するに即ち圍繞せられ、凡そ講説せしむるに、或は勧めて衆生と為り、内痒外動、即ち一両句の法を説き、或は一両節の禅を示す初め一人に対するに馳伝すること漸く広ければ即ち止することを得ず、初め益有りと謂へども他を益すること蓋し微なく、自行を廃損す、唯、品秩の進まざるのみに非ず、障道還つて興る。象の子は力微にして、身、刀箭に沒す、湯を掬して氷に投ずるに飜つて氷聚を添ふ。「毘婆沙」に「破敗の菩薩と云ふなり」と。昔、鄴洛の禅師、名は河海に播す、往くときは則ち四方雲のごとくに仰ぎ、去るときは則ち千百群を成ず、隠隠轟轟、亦何の利益有らん、臨終に皆悔ゆ。武津の歎じて曰はく、「一生にして銅輪に入らんことを望む、衆を領すること太だ早くして求むる所克くせず」、「願文」を著して云はく、「択べ択べ択べ択べ」と。高勝、軌を垂るる以て鏡とすべし、修行此に至らば審に自ら斟酌せよ、智力強盛ならば須らく広く利益すべし、大象の群を押すが如し、若し其れ然らずんば且く当に安忍して深く三昧を修すべし、行成じ力著はれて、化を為すも晩からず。「大論」に云はく、「菩薩は人を度するを以て事と為す」と、「云何ぞ深山にして自ら善しとす。答へて曰はく、薬を服し身を将い、体康くして業に復するが如し、身は遠離すと雖も心は遠離せず」と。若し、六根清浄に至れば初依の人と名く、説法する所有れば亦信受すべし、一音遍満し、聞く者歓喜す、是れ化他の位なり。若し、此時出でずんば、強軟の両賊、之を如何ともすること無し、自行転た成じて他に於て弁ずることあらん、大象は捍格して刀箭施すこと無し、日光世を照して長氷自から冶く、此れ即ち安忍の力なり焉。若し名誉の羅羂、利養の毛繩を被つて眷属樹に集り、妨蠧内に侵し、枝葉外に尽きれば、当に早く之を推るべし、受くること莫く、著すること莫れ。推るに若し去らずして飜つて黏繋せらるれば、当に徳を縮め瑕を露し、狂を揚げ実を隠す、密に金唄を覆つて盜をして見しむること莫れ、若し、迹を遁ぐるに脱せずんば、当に一挙万里、絶域他方にして相諳練すること無く、快く道を学ぶことを得て求那跋摩の如くすべし云云。若し名利眷属、外より来り破らば、此三術を憶ひ、齒を齧つて忍耐せよ、千万請ずと雖も確乎として抜け難し、譲れや、隠せや、去れや。若し煩悩、業、定、見、慢等内より来り破らば、亦三術を憶へ、即空、即仮、即中なり。設使、肌肉を屠粉すとも、心、動散せず、大地鎭壓すとも重淪と為らず、毘嵐にも軽からず、塞氷にも冷なるに非ず、猛炎にも寧ろ熱せんや、心を端して正しく観ず、那ぞ薄く片禅を証して即ち以て喜と為し、纔に少悪を見て即ち以て憂と為ることを得ん。坯器堆れ易く菴華は実り難し、「大品」に云はく、「無量の人、菩提心を発すれども、多くは二乗の地に墮す」と、大事を弁ぜんが為に、弥須らく安忍すべし。若し此意を得れば九境を須ひず、若し未だ了せずんば当に更に広く明すべし。

 [28]第十に無法愛とは、上の九事を行じて内外の障を過ぐれば、応に真に入ることを得べし、而も入らざる者は法愛住著を以て而して前むことを得ざるなり。「毘曇」に云はく、「煖法猶ほ退す、五根若し立ち上忍真を発すれば則ち退を論ぜず。頂法若し愛心を生ずれば応に入るべくして入らず、退して四重、五逆を為す」と。通別皆頂墮の義有り。既に位に入らず、又、二乗に墮せず、「大論」に云はく、「三三昧は是れ似道の位、未だ真を発せざる時は喜んで法愛有り、名けて頂墮と為す」と。今の人の道を行ずる、万、此に至らず、此に至らば善く自ら防護せよ、此位は内外の障無くして唯法愛のみ有り、法愛は断じ難し、若し稽留すること有らば此れ小事に非ず。譬へば同帆にして一は去り一は停るが如し。停は即ち住著、又、沙に著せず亦岸に著せずと雖も、風息むが故に住す。沙に著せざるは内障無きことを喩へ、岸は外障を喩ふ、而して法愛を生じて無住の風息む、進まず退かざるを名けて頂墮と為す。若し法愛を破すれば三解脱に入り、真の中道を発す、所有の慧身、他に由つて悟らず、自然に薩婆若海に流入して無生忍に住す、亦は寂滅忍と名く、首楞厳を以て神通に遊戯し、大智慧を具すること大海水の如し、所有の功徳、唯仏のみ能く知る。

 [29]今、止観進趣の方便は此に斉るのみ、入住の功徳は今論ずる所無し、後当に重ねて弁ずべし。

 [30]是十種の法を大乗の観と名く、是乗を学する者を摩訶衍と名く。云何が大乗なる。「法華」

に云ふが如し、「各諸子に等一の大車を賜ふ。其車高広にして衆宝荘校す、周帀して欄楯あり、四面に鈴を懸けたり、又、其上に於て幰蓋を張設し、亦珍奇の雑宝を以て而して之を厳飾す、宝繩交絡し、諸の華纓を垂る、綩莚を重ね敷き、丹枕を安置す、駕するに白牛を以てす、肥荘にして力多し、膚色充潔、形体殊好にして大筋力有り、行歩平正にして其疾きこと風の如し、又僕従多くして而して之に侍衞す」と。止観の大乗も亦是の如し、念念の心を観ずるに法性実相に非ざること無し。是を「等一の大車」と名く。一一の心に於て、即空、即仮、即中なる、是を「各大車を賜ふ」と名く。三諦の源に徹するを名けて「高」と為し、十法界を収むるを名けて「広」と為す、無量の道品を「衆宝荘校す」と名け、四勤、悪を遮し善を持し、又願ひ来つて行を持し、釘鑷牢固なるを「周帀して欄楯あり」と名く。法義辭弁、宣暢開覚するを「四面に鈴を懸けたり」と名け、慈悲普く覆ひて遺限有ること無きを「幰蓋を張設す」と名く。道品所摂の十力、無畏、十八不共の法、他と共にせざるを「珍奇の厳飾」と名く。四弘誓願、心を要して退せざるを「宝繩交絡」と名く。四摂、物を摂して物の悦ばざること無きを「諸の華纓を垂る」と名く。諸禅三昧、六神通を起すを「重ねて綩莚を敷く」と名く。四門、宗に帰して諸行を休息するを「丹枕を安置す」と名く、四念処の慧の八倒の黑を破除するを「駕するに白牛を以てす」と、名く。四正勤の二善を増長するを「肥壯多力」と名く、二悪を遮断し、二悪尽く浄し、故に「膚色充潔」と名く。四如意足、四弁自在なるを「形体珠好」と名け、五根盤固にして移動すべからざるを、名けて「筋」と為し、五力増長して諸の悪法を遮するを、名けて「力」と為し、七覚簡択するを名けて「行歩」と為し、八道安穩なるを名けて「平正」と為す。対治助道、広く諸法を摂するを「又、僕従多くして而して之を侍衞す」と名く。法愛無明を破し薩婆若海に入り、真を発すること速疾なるを「其疾きこと風の如し」と名く、諸子を運載して嬉戯快楽するなり。此大乗の観、法門の具度と彼経と合す、故に大乗の観と名くるなり。復次に一切の法悉く一乗の故に、夫れ心有る者は具足せざること無し、此の如きの妙法、是を理乗と名く。如来の説きたまはずば則ち知ること能はず、教を聞くを以て歓喜頂受す、即ち名字乗なり。名を聞くに因るが故に、教に依つて修行して五品の位に入るを観行乗と名く。六根清浄を得るを相似乗と名く。三界より出で薩婆若の中に到つて住す、是も亦住せず、若し初住乃至十住に入らば真実の乗を得、東方に遊び、十行は南方に遊ぶ、十向は西方に遊び、十地は北方に遊ぶ、輪環無際にして空を得て而して止る、中央に止まるは即ち妙覚なり、直ちに道場に至るは是れ此意なり。今の人は秖「悪を捨て空を取る是れ大乗なり」と謂ふ、此空は尚六十二見単複の悪を免れず、何ぞ動出、乗と為ることを得んや、設ひ借して乗と為るとも秖一の禿乗なり、法門具度無し、正法の大城、金剛の宝蔵は、具足して欠くること無し、何の所か而も無けん、豈、禿空のみを容れんや、若し但爾らば邪見の乗に乗じて険悪の道に入る、是れ壊驢車なるのみ云云。

 [31]端坐して陰入を観ずること上に説くが如し。縁に歴、境に対して陰界を観ずるとは、縁とは六作を謂ひ、境とは六塵を謂ふ、「大論」に云はく、「縁に於て作者を生じ、塵に於て受者を生ず」と。「随自意」の中に説くが如し、若し般舟、常行、法華、方等の半行は、或は掃灑執作皆行動有り、随自意は最も多し。若し、行の中に於て観を習はずんば、云何ぞ速に道理と相応せん。

 [32]略して其相を弁ぜば、前に例して十と為す、初に所観の境は、若し足を挙げ足を下すは、足は是れ色法なり、色は心に由つて運して此より彼に至る、此心は色に依る、即ち是れ色陰、此行を領受するは即ち受陰なり、行に於て我を計するは即ち想陰なり、或は善行悪行は即ち行陰なり、行の中の心は即ち識陰なり、行の塵、意に対すれば則ち界入有り、乃至、眼色意法も亦是の如し、是陰界入は挙下の間に於て悉く皆具足す、此の如きの陰入は、即ち是れ無明と行陰と合し、行の中の陰界入を生ず、陰界入は無明に異ならず、無明は即ち是れ法性、法性は即ち是れ法界なり、一切の法、行の中に趣きて是趣過ぎず、一の陰界入は一切の陰界入なり、一多、一ならず多ならず、相妨礙せず、是を行の中の不思議境と名く。此境に達する時は慈悲と倶に起つて己が昏沈を傷む、無量劫より来常に陰入の為に迷惑欺誑せらる、今始めて覚知するに、一切衆生悉く是れ一乗、昏醉倒解、甚だ憐愍すべし、誓つて無明を破して衆の依止と作り心定慧に安んじ而も之を寂照す。心既に安きを得ば遍く見思、無知、無明を破して三諦の障、横豎皆尽く。又善く通塞を識りて終に中に於て薬を取りて病を成ぜず。善く道品栄枯の念処を知りて雙樹の中間にして般涅楽に入る。又善く行の中の対治の六度を知りて涅槃を助開す。深く次位を識り、我が此行は未だ上聖に同じからずと知り、慚愧進修して休已こと有ること無し。能く行の中に於て外は名利を降し、内には三障を伏して安忍して動ぜず、法愛滞著して頂墮せしむること莫し。十法成就して即ち銅輪に入り、無生忍を証し、一の大車の高広厳浄に衆宝荘校し、其疾きこと風の如くにして、嬉戯快楽するを得て、是宝乗に乗じて直ちに道場に至る。是れ行縁に約して観を作し、無明の糠を治し、法性の米を顕す、足を挙げ足を下げ、道場の中より来つて仏法を具足す、前に例して知んぬべし。行縁既に爾り、住、坐、臥、語、作作、前に例して解すべし。三の三昧には臥法無し、随自意には則ち有り。昔国王臥の中に於て辟支仏を悟る、当に知るべし。臥の中に観行有ることを得るなり云云。

 [33]境に対するとは、眼に約せば我を計して、我れ能く受くと言ふ、一塵に三有り、合して十八の受者あり。眼が色を見るに、五陰、三界、二入有り、例して上に説くが如し。又「弥勒相骨経」に云はく、「一念、色を見るに三百億の五陰の生滅有り、一一の五陰は即ち是れ衆生なり、若し爾らば眼が色に対する時、何ぞ啻五陰、三界、二入のみならん。若し此の如く眼色を観ずるは、名けて減修と為す、摩訶衍に非ず。若し眼色を観ずるに諸の如来に於て常なり、具足無減に修す、眼識来入の門なりとは、眼色の一念の心起れば即ち是れ法界、一切の法を具す、即空、即仮、即中なり。四句を以て求むるに不可得なり、故に即空と言ふ。弥勒の色を相するが如き、一念に三百億の五陰の生滅あり、乃至、一地十地、色を相すること既に爾り、受、相、行、識も亦復是の如し。又外道は髑髏を打つて声を作し、聴きて生処を知り無量の事を知る、香、味、触等も亦復是の如し、故に即仮と言ふ。仮も定んで仮ならず、空も定んで空ならず、則ち空に非ず仮に非ず。若し眼の一法、空に非ず仮に非ざれば則ち一切の法空に非ず仮に非ず、猶ほ虚空の如くにして有無永く寂なり、亦、日月の如し、幽として照さざること無し。空仮無しと雖も雙べて空仮を照す、因縁の麤色を照すを肉眼と名け、因縁の細色を照すを天眼と名け、因縁の色空を照すを慧眼と名け、因縁の色仮を照すを法眼と名け、因縁の色中を照すを仏眼と名く。五眼、一心の中に具すとは凡夫の膿血の肉眼を具するに非ず、亦、諸天所得の天眼に非ず、亦、二乗の沈空の慧眼にも非ず、亦、菩薩の分別の眼にも非ず、但、仏眼に具に五眼有るを以てなり、衆流、海に入れば本の名字を失するが如し。故に仏、善吉に問ひて云はく、「如来に五眼有りや不や」、答へて云はく、「有り」と。皆如来に有りと称す、何ぞ凡夫、二乗の眼に関らんや。「請観音に」云はく、「五眼具足して菩提を成ず」と。三観一心なるを以て無減修と名け、一眼に五力を具するを以て明見来入門と名く、亦是れ円の証なり。眼に於て内外自在なり、眼より正受に入りて鼻三昧より起ち、鼻より入りて眼より起つ、動ずと雖も而も寂、寂なるも動を妨げず、寂なりと雖も而も動ず、動なるも寂を妨げず、見ると雖も見ず、見ずして而も見る、乃ち明見来入門と称するなり。問ふ、仏に五眼を具せば、応に五境を照すべし。「経」に云はく、「我れ五眼を以て三聚の衆生を見ず、狂愚、目無くして而も見と言ふや」と、又云はく、「色を見ること盲と等し、既に盲に等しくして那ぞ麤細の色を見ることを得んや」と。答ふ、五境皆実相に冥す、実相は則ち見るべからず、見るべからざるが故に之を喩ふるに盲の如し、見る可からずと雖も見に減少無し、五眼洞徹して諸境分明なり、五照と言ふと雖も照何ぞ必ず有らん、盲の如しと言ふと雖も盲何ぞ必ず無からん。「浄名」に云はく、「不来の相にして而も来り、不見の相にして而も見る」と、即ち此意なり、是を不思議境と為す。

 [34]我眼と衆生の眼と二無く別無し、云何ぞ衆生覚らず知らざるや、即ち慈悲を起して誓つて当に度脱すべし。此願を満ぜんと欲して心を定慧に安んず。能く止観を以て遍く諸法を破す。眼色の中に於て明かに通塞を識りて虫道の如くならず。眼陰の中に於て四念処を修す、浄に非ず不浄に非ず、枯栄雙べ遣つて而して涅槃に入る。諸の対治を学んで三脱を助開す。明かに六即を識りて叨濫を起さず、我が所観の眼は五眼を具すと雖も但是れ名字、但是れ観行、若し漸く障の外を見、後十方を見るは普賢観の如し、頓に大千を見るは常不軽の如し、漸頓両ながら見、六根互に用ふ、我れ悉く未だ階はず、応に慢を起すべからず、懈愧して勤行す。若し徳建ち名立つは、当に内外の障を忍んで安きこと須弥の若くすべし。法愛生ぜざる時は則ち留滞無し。

 [35]其疾きこと風の如く、真実の眼を証す、一の大車に乗じて直ちに道場に至る。若し眼の中より入ることを得るは、多く眼中に於て広く仏事を作す、常に金光を放つて一切を照耀す。「浄名」に云はく、「或は仏土有り、光明を以て仏事を為す」と。眼色の一受は既に爾り、余の二受も亦然なり。余の五根、五塵、十五の受も亦然り、広く説くこと前の如し、前の意を将て六根に度入し之を用ふ、但煩悩を破し去らしむ、常科に拘らず。若し耳の中より大車を得るは、多く音声を用ひて仏事を為す。鼻中香を用ひ、舌中味を用ひ、身中天衣を用ひ、意中寂滅を用ふ、一根の仏事、互に諸根に通ず、方便して物を利する時に或は同じからず、而も衆生をして究竟の楽を得しむるなり云云。

 [36]若し能く上の如く、勤めて而して之を行ぜば、一生の中に於て必ず空しく過さざらん。聞くと雖も用ひずんば、黑蚖の珠を懐くが如し、何ぞ長蛇に益あるものならんや。今、三譬を以て得失を譬へん。匹夫の隻勇あるもの、一刀一箭を修治して一寇両寇を破し、一金一銀を暘ふことを獲て、祿、一妻一子を潤す、此の如きの人は但利器械、戟を負ひて前駆し、命を以て貨に博ふ、何を用てか広く兵法を知らんや、若し国の麹蘖、舟楫、鹽梅、霖雨と為らんと欲せば、須く文武を善くすべし、計、帷帳に在りて万里に折衝す、所学の処深ければ、所破も亦大なり、賞を獲ること既に重く、祿の潤すこと甚だ多し。知ると雖も而も用ひず、用ふれども而も屢北ぐれば尚ほ身を済ふこと能はず、沢豈人に及ばんや。禅観を学ぶ者も是の如し、唯一法を知り、或は止、或は観、少悪を破するに擬し、心を寂し道を行じ、少禅定を得、少眷属を摂し、便ち以て足れりと為すは匹夫の闘の如くなるのみ。大禅師と作つて大煩悩を破し、無量の善法を顕して無量の縁を益せんと欲せば、当に十法の止観を学し、洞かに意趣に達し、六縁、六受に於て行用相応すべし、煩悩卒に起らば即便観有り。観は惑の表に過ぐ、難事に勇健にして髻を解きて珠を得。若し、解すれども而も用ひず、用ふれども而も当らずして而して反つて惑心を師とす、道、安んぞ克くせんや。又、野巫の如き、唯一術を解して方に一人を救ひ、一の脯袢を獲、何ぞ神農の本草を学ぶことを須ひんや。大医と為らんと欲せば遍く衆治を覧て広く諸疾を療せよ、転脈転精、数用ひ数験あれば恩救博し。禅を学する者も亦是の如し、但一法を専らにして惑を治して即ち去るも、当時の微益は終に大途包括の意に非ず、亦煩悩を破し無生忍に入ること能はず、医薬に善と雖も方に依て服せずんば病豈差えんや、止観を読誦すること甚だ利なりとも、心に行用せずんば無生は終に現前せず。又、義を学するが如き、止一問一答して一時に衒耀せんと欲せば、何ぞ広く経綸を尋ぬることを須ひん。法主と作らんと欲せば当に異部を善くすべし、諳解の処多しと雖も而も曾て衆に出でずんば、怯弱にして酬往に任へず、若し怯怖無くんば機に臨んで百転し、無方の答を以て縦横の問に答ふ、是を大法師と為す。観行の人も亦復是の如し、観行若し明かなれば、能く縁に歴、境に対して触処に用ふることを得、若し是の如くならずんば、魔軍何に由つてか破す可き、煩悩の重病何に由つてか除く可き、法性の深義何に由つてか顕す可き、三事弁ぜずんば區區として困役す、秖是れ生死の凡夫なり、学道の方便と為すに非ざるなり。