[15]漸々具足菩薩の下は第二に授記なり、文七と為す、一に因円を明す。

 [16]二に過無量の下は果満を明す。

 [17]三に国土の広浄なるを明す、四に国劫の名字を明す、五に仏の寿量を明す、六に法性の大だ久しきを明す、七に仏の滅後に舎利を供養するを明す。第三の国の広浄なる中に就て復五あり、一に国大にして厳浄なることを明す。地平如掌とは、経には直だ如掌と言て手掌と言はず、手掌は平ならざれば則ち引く所に非ず。海底に石有り掌と名く、此石は一微塵許りも平ならざること有ること無し、当に是れ類するに海掌の如くなるべきのみ。又賢劫経には正しく仏の手掌の如くなることを明す、人の掌を引くに非るなり。

 [18]二に純ら是れ善道なることを明す。

 [19]三に人天の福慧具足することを明す。月蔵の第九に法食・喜食・禅食あり、経文には総じて法喜禅悦と言ふ、分別するに応に三種の差別有るべし。

 [20]四に菩薩と声聞衆の数甚だ多きことを明す。

 [21]五に総結なり。月蔵の第五に云く、不殺に十功徳を得、一に一切衆生に於て無所畏を得、乃至第十に命修て善道に生ず。後に作仏して国に害仗の具無し、国人長寿なり。不盗に十の功徳あり、一に果報具足して而して大に事を為すに決断して難礙有ること無し、乃至第十に死して善道に生ず、後に作仏して国に華宝の荘厳充満す。不淫に十の功徳あり、一に諸根に律儀あり事を為すに決断なり、乃至死して善道に生ず、後に作仏して国に女人無し。不妄語に十の功徳あり、一に衆生は其言を信じ、乃至死して善道に生ず、後に作仏の時国に臭穢無く、常に宝華に満つ。不雨舌に十の功徳あり、一に身は壊す可らず、乃至死して善道に生じ、後に作仏して国、魔も眷属を壊すること能はず。不悪口に十の功徳を得、一に柔軟語、乃至死して善道に生じ、作仏して国に法声充満す。不綺語に十の功徳あり、一に天人愛敬し、乃至死して善道に生ず、作仏の国の衆生は強記にして忘れず。不貪に十の功徳あり、一に身根缺けず、乃至死して善道に生ず、作仏の国に魔外道無し。不瞋に十の功徳あり、一に一切の瞋を離る、乃至死して善道に生ず、作仏の国の人は三昧を得。不邪見に十の功徳あり、一に心性柔善、乃至死して善道に生ず、作仏の国の人は正信なりと。

 [22]偈に二十一行半有り、上の発迹と授記を頌す。初め十四行有りて発迹を頌す、次に七行半は授記を頌す、初めに復二あり、前の七行は総じて諸の声聞の迹を発し、上の我等の意を頌するなり。後の七行は上の満願の迹を発するを頌す、総の中五有り。

 [23]初め一行は総じて仏子の行を為すこと難思にして、已に垂迹の法を得ることを標す。次に知衆楽小法の下、第二に一行は、垂迹の由を明す。次に以無数方便の下、第三に二行は、垂迹の利益を明す。次に内秘の下、第四に二行は、内に大道を懐き外に小失を現ずることを明す。次に若我具足の下、第五に一行は、略を指して広を抑ふ。小欲とは小乗を求むることを示すなり、懈怠とは大乗を退することを示すなり。但だ示して声聞と為るのみに非ず、亦外道及び三毒の凡夫と作るなり、身子は瞋を示し、難陀は貪を示し、調達は癡を示す云云。

 [24]今此富の下、第二に七行は満願の迹本を発することを頌す、上の文三有り、今略して二を頌す。初め五行は過去の本を顕はすことを頌す。後の未来亦供養の下第二に二行は、三世の中の仏所の行因を頌す、略して七仏及び現仏を頌せざるなり。

 [25]供養諸如来の下七行半は授記を頌す、上の文七有り、今は其四を頌す。初め半行は因円を頌す、次の半行は果満を頌す。其国名浄の下三句は、超へて劫国の名号を頌す。菩薩衆甚多の下五行三句は、国土の広浄を頌す、略して寿命法住滅後の起塔を頌せざるなり。

 [26]第二に千二百に記を授く、一に念請、二に記を与ふ、三に領解、請記は文の如し。

 [27]授記の文に長行と偈頌有り、長行に三有り、一に総じて千二百に記を許す。

 [28]二に別して陳如に授く。陳如は最初に道を悟り首に居する上座なる、故に別して記を授く。

 [29]三に別して記を五百に授く。五百の名同じ、須らく別に記を与ふべし。問ふ、但だ五百の記を得るを見て千二百を見ざる。答ふ、此五百は即ち千二百の数なり、頌の中の末後の一行半は、総じて七百に授く、故に是れ千二百なり。又持品に云く、我れ先に総じて一切の声聞に皆已に記を授くるを説くと、即ち今の一行半を指すなり、是れ止だ七百の声聞に授くるのみに非るなり。

 [30]偈頌に十一行半有て二と為す、初め九行半は、陳如及与び五百に記することを頌す、後の一行半は総じて一切の声聞に記を授く。

 [31]五百の領解、文に長行と偈頌有り、長行は先に経家は其歓喜を叙し、次に自ら領解を陳ぶ、経家は先に今の得歓喜を応び、次に昔し解せざりしことを愧るが故に自ら責む、応の中先に内心の応喜を明し、後に外形の恭敬を明すなり。悔過自責とは、即ち是れ其昔し解せざりしことを愧ることを明すなり。

 [32]世尊我等の下第二に自ら領解を陳ぶるに二有り、一に法説、二に譬説なり、法説の中に、初めに少を得て足れりと為すことを悔ひ、次に根鈍にして悟り難きを責む。

 [33]世尊より乃至滅度までは、是れ昔し迷て小を得て足れりと為して大を求むることを知らざりしことを悔責す。

 [34]今乃知之よりは、是れ根鈍にして始めて悟り、早く之を知らざりしことを責む、今小は究竟に非ず、大は真実たることを知るなり。

 [35]譬の中に二あり、初めに略、次に正しく彗を挙ぐ。如無智とは、略して譬を挙げて況す、所以者何の下は、無智の意を釈するなり。

 [36]譬説に二有り、一は酔酒の譬、法説の自ら少を得て足れりと為し、大を求むることを知らざりしことを悔るを譬ふ、前の法譬の宿世の中の施権の意を領す。二は親友覚悟譬、法説の自ら根鈍にして悟り難く、今乃ち之を知ることを責むるを譬ふ、前の法譬の宿世の中の顕実を領す。初めに就て復三意あり、一には繋珠譬、上の王子結縁を領す。二には酔臥不覚譬、上の其退大に遇ふことを領す。三には起已遊行譬、上の之を接するに小を以てすることを領す。譬如有人とは、即ち二乗の人なり。

 [37]親友とは、昔日の第十六王子なり。家は即ち大乗教を家と為すなり。酔酒而臥とは、爾時に当て大機暫く発し、無明暫く伏す、経を聞くことを得て、内心に微しく解するも、無明重きを以ての故に、還て復迷失す。酔に二義有り、一に重酔、都て覚知せず、二に軽酔、微しく覚めて尋で忘る、亦不覚と名く、二義有りと雖も、終に繋珠を成ず、毒鼓の如きのみ。官事当行とは、王子の余処の機興り、縁に逗じて往て応ずることを明す、故に当行と云ふ。法を弘め他を化するは、此れ私務に非ず、故に官事と云ふ。無償宝珠とは、一乗実相真如智宝なり。繋其衣裏とは、慚愧忍辱にして能く瞋恚を遮し、及び外悪を防ぐは即ち是れ外衣なり。信楽の心の内に善根を裹むは即ち是れ内衣なり、時に法を聞て微しく信じ楽欲するは即ち了因智願の種子なり。

 [38]第二に酔臥不覚知とは、無明の心重くして尋で復憶せす、此れ中間に懈退して大法を受けざりしことを領するなり。

 [39]第三に起已遊行他国とは、上の中間に之を接するに小を以てし、三乗の化を受くることを領するなり。善根発せんことを欲して、苦を厭て楽を求む、故に起已遊行と云ふ。無明の解を覆て、本に向て大乗の衣食を求むることを知らず、故に他国に向て小乗の衣食を求めんと言ふ。若し魔仏相ひ望めば、生死の魔界を他国と為し、仏法の大小を皆本国と為す、小大相望むるに就かば、小乗は未だ生死を免れす、猶ほ是れ他国なり。大乗は永く生死を免る、乃ち本土究竟して源に還ると為すなり。大乗の国に背て小乗の土に往くことを明す、珠に従て取給することを知らす、而して傭作して自ら資け一日の価を獲、少を得て足れりと為すなり。

 [40]於後曾遇の下、第二に親友発覚譬、上の是の本因縁を以て今法華を説き、等しく大車を賜ふことを領するなり、此れ三と為す、先に呵責、二に示珠、三に勧貿なり。呵責とは上の動執生疑を譬ふ、示珠とは宿世の因縁を譬ふ、勧貿とは得記作仏を譬ふ。三周に皆此三意有り、法説の中の我令脱苦縛とは即ち是れ呵責なり。

 [41]五仏章は即ち是れ開示、身子の得記は即ち是れ勧貿なり。譬説の中の我先不言皆為菩提とは即ち是れ呵責、三車一車は即ち是れ示珠、中根の得記は即ち是れ勧貿なり、下根の宿世因縁の汝等善聴は即ら是れ呵責、覆講結縁して、環て為に大を説くは即ち是れ示珠。

 [42]下根の得記は即ち是れ勧貿なり、繋珠の中の三意は三周を望むれば、始め仏樹に在て大を以て擬するは即ち是れ繋珠、無機息化は即ち是れ酔臥、尋で方便を施すは即ち是れ起行なり。譬喩の中の二万億仏所は即ち是れ繋珠、傍人を遣はして追ふに悶絶して受けずとは即ち是れ酔臥、三車もて引き得るは即ち是れ起行なり。因縁の中の大通智勝仏所は即ち是れ繋珠、中路懈退は即ち是れ酔臥、之を接するに小を以てするは即ち是れ起行なり、此等を皆権を領すと名くるなり。某年日月とは、大通仏の所を指すなり。

 [43]仏亦如是の下、第二に合譬なり、譬に本と二有り、今は各三意有り。教化我等より下は、初の一の繋珠を合す、而尋魔忘とは、初めの二の酔て覚知せざるを合す、既得羅漢の下は、初の三の起ち已て遊行するを合す。

 [44]一切智願の下は、後の親友覚示譬を合す、上に三有り、今も亦三あり。智願不失よりは、是れ後の一の呵責を合す。我久令汝より下は、後の二の示珠を合す。我今乃知より下は、後の三の勧貿所須を合するなり。

 [45]第二に偈頌に十二行半有て二と為す、初め一行半は内心の得解を頌す、又二あり、初め一行は応喜を頌す、次に半行は悔責を頌するなり。

 [46]次に於無量仏宝の下は、第二に十一行有て自陳領解を頌す、上の文二有り、今初めの半行は、少を得て足れりと為すを悔責することを頌す、略して悟り難く今乃ち之を知ることを頌せず。

 [47]如無智愚人の半行は、略して譬を挙ぐるを頌す。便自以為足とは無智の意を釈するを頌す。

 [48]次の十行は、譬説の開合を頌す、初め六行は開を頌す、後の四行は合を頌す、上の開に二有り、今初め四行は、宝を捨て知らざるを頌す、後の二行は、親友の覚悟を頌す、余文見易し。

◎授学無学人記品を釈す

 [1]真を研き惑を断ずるを名けて学と為す、具窮まり惑尽くるを無学と名く、真理を研修し勝見を慕求す、之を名けて学と為す、学位は三果四向真無漏の慧に在るなり、阿羅洸果は、理を研くこと已に窮まり、勝見已に極まつて復学する所無し、故に無学と名く。教に約して品を釈せば、析法をもて真を研く、之を名けて学と為す、惑尽き真窮まるを名けて無学と為すは三蔵の意なり。体法をもて真を研く、之を名けて学と為す、真無く惑無きを名けて無学と為すは通の意なり。浅より深に之く、之を名けて学と為す、通別の惑尽き、権実の理窮まるを名けて無学と為すは此れ別の意なり。如来蔵を研ぐに学無学有り、法性実相にして学に非や無学に非ず、而も学にして而も無学なり云云。是の二千人は或は是れ学、或は是れ無学の人なり、同じく是れ一流なれば一時に記を受く、同一の名号の故に別して一品と為すなり。

 [2]此品は是れ授記の文の中の第二段なり、此文に就て二と為す、一に請記、二に授記なり、請の中に復二あり、一には二人請す、二には二千人請す。

 [3]二人の記を請するに復二有り、一に黙念なり、二は言を発して記を請す、発言請記に復二あり、一には例を引くに亦応に分有るべし、二には望を引くなり、二人最も親し、時衆の望む所なり。羅雲は是れ仏の子にして俗の中に親重し、阿難は仏の法蔵を持して道の中に親勝る、勝重の両人別記を蒙らざるときは、則ち衆の望足らざるなり。問ふ、若しは重若しは勝、応に上流に同じかるべし、何の意ぞ此に在る、列衆の若如き、二人は上数の中に在り、記を獲ること何の意ぞ下に居す。答ふ、総じて千二百に記を与ふ、二人は已に上流に同じ、今更に別記を索るのみ、阿難は是れ学人、羅雲は弟子の位なり、故に学無学の章に入るのみ。

 [4]二千の請記は但だ黙念引例に有り、二意同じきが故に如阿難願と言ふのみ。発言無き者は、重無く勝等の事無ければなり。

 [5]授記に復二あり、一に先に二人に記し、後に二千に記す、阿難の記の中に復五あり、一に長行、二に偈頌、三に八千の菩薩疑を生じ、四に如来は迹を発して疑を釈す、五に阿難は本を顕はして述歎す。疑とは通じて疑ふ、声聞今日発心し、即ち仏記を蒙むり国浄此の若くなるを、昔方等の中に諸の菩薩に記するには、無量劫の行にして乃ち仏記を得たるなり、仏は即ち迹を発して疑を釈す、昔日我と同じく大心を発す、即ち是れ同学なり、我は精進に由て、前み超へて仏を得たり、彼は多聞に由て猶ほ故に経を持し、迹に侍者と為る本地此の如し、今妙記を授く、何ぞ疑ふ可きに足らん。余記悉く文の如し。

◎法師品を釈す

 [1]此品に五種の法師あり、一に受持、二に読、三に誦、四に解説、五に書寫なり。大論に六種の法師を明す、 信力の故に受、念力の故に持、文を看るを読と為す、忘れざるを誦と為す、宜伝するを説と為す、聖人の経書は解し難ければ、須らく解釈すべし、六種の法師は今の経には受・持を合して一と為す、解・説を合して一と為す、読誦を開して二と為す、書写を足して五と為す。

 [2]別して論ずれば、四人は是れ自行、一人は是れ化他なり。大経に九品を分り、前の四人は解無ければ、是れ弟子の位、後の五人は解有れば是れ師の位なり。通じて論ずれば、若し自ら五法を軌とするは則ち自行の法師、若し他に五法を教ふるは則ち化他の法師なり、自軌の故に通じて弟子と称す、化他の故に通じて法師と称す、今は通の義に従ふ、故に法師品と名く。

 [3]若し減数の説を作さば五を束ねて四と為す、即ち四安楽行なり、後に説くが如し。

 [4]若し四を束ねて三と為さば、受持は是れ意業、読と誦と説とは是れ口業、書写は是れ身業なり。別して論すれば、口業は是れ化他、身と意とは是れ自行なり。通じて論やれば、三業を自ら軌とするは即ち是れ自行の法師、三業を教詔するは即ち化他の法師なり、故に法師品と言ふ。

 [5]又是れ三門なり、此五法を行じて以て自ら熏修するは即ち福徳門なり、五法を弘宜して広く利益するは即ち化他門なり、自ら修して彼を益するに皆仏教に順ずるは即ち報恩門なり。別して論ずれば、自修報恩を自行と名く、彼を益するは即ち化他なり。通じて論すれば、自軌々他皆法師と称す、故に法師品と言ふなり。

 [6]又読と誦と書写は是れ外行にして即ち如来の衣、受持は是れ内行にして即ち如来の座なり、解説して他を益するは是れ如来の室なり、如来の室を別して論ずれば是れ匠他なり、衣座を別して論ずれば是れ自匠なり、通じて論ずれば爾らず、慈悲もて物を覆ひ、惠利己に帰す、之を名くるに室の如し、彼悪を遮して己が醜を障る、之を名けて衣と為す、心を空に安じて方に能く他を安ず、他を安じ己を安ずる、之を名けて座と為す、此れ則ち自ら三法を軌とす、亦法師と名く。物を利するには、必らず慈悲を以て室に入るを首と為す、有に渉るには忍辱を以て基と為す、他を済ふには、我を亡ずるを以て本と為す、能く三法を行ずれば、大教宜通す、即ち世間の依止なり、故に法師と名く。

 [7]又束ねて二と為す、謂く自行と化他なり、此れ解し易し、復記せず。

 [8]又束ねて一と為す、謂く如来の行は一切の行を具す、悲は一切の苦を抜く、謂く四趣三界二乗菩薩等の苦なり、慈は一切の楽を与ふ、謂く人天の涅槃常住等の楽なり、柔和の衣は一切の醜を障ふ、謂く四住の無知無明等の醜なり、空座は一切の相を亡ず、謂く有相・無相・非有相・非無相なり、此れ則ち通の意なり。

 [9]別の意とは、慈悲は一切の善を生ず、柔和は一切の悪を遮す、空座は一切の相を蕩かす。

 [10]又慈忍は一切の福徳を立つ、空座は一切の智慧を成ず、智慧は是れ目にして所謂る五眼なり、福徳は是れ足にして所謂る六度なり。

 [11]又慈悲は一切声聞縁覚に勝る、柔和は一切の凡夫外道に勝る、空座は析体偏等の菩薩に勝る。故に浮名に云く、譬へば怨に勝るを乃ち勇と為す可きが如しと。

 [12]又慈悲は天魔を破す、柔和は陰魔を破す、空は煩悩魔死魔を破す。大品に云く、一切衆生を化し、一切空を観ずれぱ魔も便を得ずと云云。

 [13]又慈忍の故に能く問ふ、空座の故に能く答ふ、二荘厳を具す、又空を観ずるが故に能く問ふ。慈忍の故に能く答ふ。

 [14]慈忍の故に能く種へ、能く立て、能く資く、空慧の故に能く耘し、能く破し、能く導く。

 [15]又慈悲の故に何の隔る所あらん、柔和の故に何の礙る所あらん、空座の故に何の諍ふ所あらん。

 [16]三諦を出るが故に名けて勝幢と為す、包含し普く摂するを摩訶衍と名く、是れ如来の行なり、故に三昧王と称す。

 [17]経に云く、一切の善法は慈を根本と為す、忍辱は第一の道にして無相最上なりと。

 [18]若し円行を論ぜば説きて尽す可らず云云。

 [19]問ふ、何が故ぞ三法に約して法師を明すや。答ふ、事をもて一往論ぜば、必らず須らく堂に登り服を整へ座に坐すべくして、乃ち敷弘す可し、故に三に約するのみ。

 [20]又事理を合して論ずれば、夫れ迷惑は三種を出でず、一に苦果の惑を起すに約す、二に結業の惑を起すに約す、三に謗理惑を起すに約す、故に三門を用ひて而して之を示導す。

 [21]又理に約せば真に迷ふが故に苦に堕す、故に慈悲門を用ふ、俗に迷ふが故に空に沈み楽を受く、故に和忍門を用ふ、中に迷ふが故に智障と成る、故に空門を用ふ云云。

 [22]法とは軌則なり、師とは訓匠なり、法は軌る可しと雖も、体は自ら弘らず、之を通ずるは人に在り、五種は経を通すれば、皆師と称することを得、法を挙げて其自行を成じ、皆妙法を以て師と為す、妙法を師として自行成就す、故に法師と言ふ。又五種の人は能く妙法を以て他を訓匠す、故に法を挙げて師と目く、故に法師品と称するなり。若しは自ら法に軌り、若しは法は他を匠す、倶に法師と名くるは、則ち因縁もて品を釈するなり、凡そ多種の解は皆円教の法門に約して而して品を釈するなり。

 [23]前の三周もて是れ迹門の正説領解受記竟る。此より下の五品は是れ迹門の流通なり、止だ当時を蔭益するのみに非ず、復来世を津洽せんと欲す、故に五品の流通有り。法師と宝塔の両品は、弘経の功深く福重く、未聞に流通して利益巨大なることを明す。達多の一品は、往の弘経を引て彼我兼ね益し、以て功徳の深重なることを証す。持品は八万の大士の忍力成ずる者は此土に経を弘め、新に得記の者は他土に経を弘む。安楽行の一品は、旧云く、接退流通なりと、或は当に此の如くなるべきも、未だ必らずしも全く然らず、外凡の初心は斯の勝福を欣ぶも声聞の畏憚を見、菩薩の擯辱を聞き、己が力弱くして自他を益すること無きを顧み、便ち退没を生ず。仏は此人の為めに安楽行を説きたまひ、之に依て法弘まり、危苦を処らず。又法師品は、釈尊自ら弘経の功福を説て命じて流通を覓む。宝塔品は、多宝、分身もて且つ証し且つ助け、勧めて流通を覓む。法師品の初めの長行と偈頌は、五種の法師もて能く法を持するの人を歎美す、後の長行と偈頌は、所持の法を歎美す、又通経の方軌を示す。初めに復二あり、一に禀道の弟子門に就て功深く福重し、二に授迸の師門の功深く福重し、弟子門に又二あり、一に仏世の弟子、二に滅後の弟子なり。

 [24]初めに因薬王告八万とは、因とは憑寄なり、妙法を以て薬王に憑寄し、其をして領受せしめ、八万に告語し皆流通せしめんと欲するなり。人を指して其見不を問ふは、的しく持経得福の人を示すなり。

 [25]仏世に又二なり、一に告薬王より下は人類を揀出す、二に咸於仏前より下は得記の縁を揀出す。若し仏前に於て当機の妙悟するは、是れ多聞深解の二千五百の者是なり、皆已に現前に総別の記を与へ竟る、今揀ぶ所の類は、或は是れ八部の類、或は是れ四聚三乗の類にして法華の座席を絓ぶ。咸於仏前とは其時節を明す、仏に値ひたてまつりて座に在るなり。一句一偈とは聞法極めて少きなり。乃至一念とは時節最も促かなり。皆与記当得菩提とは、其聞極めて少く、時極めて促かなるに、随喜の功は遂に仏果を得ることを明す。何に況んや、具足して聞くことを得、尽形に受持し五種に流通し三業に供養せんをや云云。

 [26]聞一句一偈とは、聞少く解浅きの類に今皆記を与ふ、少き者にも尚記す、況んや復多く深きものをや、少を以て多を況す、普く広きこと此の若し。下周既に爾り、巾上も亦然り、意を以て知る可し、更に説くことを俟たず。

 [27]見実三昧経に、別して四天王に記を与へ、同じく火持と名く、三十三天を同じく因陀羅幢王と名く、拘翼を同じく無著と名く、焔天を同じく浄智と名く、兜率を同じく釈法王と名く、上の両天も亦通じて記を与へ、別名を顕はさず、梵天を大智力と名く、此れは是れ聞多解深の類なり、今は聞少解浅の類に与ふるのみ。

 [28]旧云く、支仏菩薩に受記無しと、此文は三乗に皆記す、疑を須ひざるなり。

 [29]一偈一句とは、増一集に云く、随て経中の要偈を取る、四諦の流の如き奢是れなりと。十住毘婆沙に云く、悪賤を厭と名く、求めざるを無欲と名く、心に垢無きを解脱と名く。檐を捨るを涅槃と名く、集を悪賤し苦を求めず、無垢は是れ道、捨檐は是れ滅なりと。又云く、仏は満宿に語る、我に四句有り、所謂る四諦四念処等是れなりと。

 [30]観心もてすれば一一の句を以み一一の偈を以みるに、句として無く偈として而も一ならざる者無し云云。

 [31]若し迹門の中の要句を取らば、開示悟入、乗是宝乗遊於四方、四安楽行、勧発の四意等是れなり。

 [32]一念随喜とは、自ら未だ行有らす、但だ法及び人を随喜する功報尚多し、況んや行の到るをや。

 [33]随喜喜心に二有り、若し開権顕実を聞かば、即ち一念の心中に於て深く非権非実の理を解し仏知見を信す、又能く双べて権実を一解して事理円融す、煩悩の性を具すと雖も、能く如来秘密の蔵を知る、此れ即ち竪に随喜を論ずるなり。

 [34]又若し開権顕実の意を聞て、即ち一心に於て広く一切の心を解し、及び一切の法は皆是れ仏法にして障礙有ること無し。若し分別せんと欲せば辯説窮り無けん、月は四月より歳に至て旋輅して尽きず、未だ真を得ずと雖も、随喜の心は能く此の如く解す、法既に此の如し、人も亦是の如し、此れ横に約して随喜を論ずるなり。

 [35]横に即して而も竪、竪に即して而も横なり。

 [36]故に大経に云く、寧ろ少聞にして多く義味を解せんことを願ふとは、即ち此意なり、後に当に更に説くべし。

 [37]告薬王又如来滅後より下は、仏滅後の弟子を明す、亦二あり、先に弟子の類を出し、略して人を挙ぐること、上に例して知る可し。次に我亦与記と言ふは、功報は前に解するが如くなり。

 [38]若復有人の下、第二に師門、長行と偈頌有り、長行に二有り、先に別、後に総なり、別とは人は下と上を譚じ、時は現と未とを譚ず、総とは下上及以び現未を論ずること無し、通じて之に逆へば罪を得、之に順ずれば福を得ることを明すなり。別に就て復二あり、一に現世を明す、二に来世を明す、現世に就て復二あり、先に下品の師を明し、後に上品の師を明す。下品の師二と為す、初めに師の相を明し、次に師の功報を明す。

 [39]師の相とは、即ち是れ五種の法師と十種の供養なり。次に薬王当知是諸人等已曾供養の下は、下品の功報を明すなり。曾供養とは、先に因深なり、愍衆生故生此人間とは、現の功大なることを明すなり。若有人問の下は、未来の報重きを明すなり。

 [40]何況尽能受持よりは、上品の師を明す、亦二あり、先に上品の師の相を況出す。次に薬王当知是人自捨清浄業報とは、此れ上品の功報を明すなり。

 [41]若是善男子於我滅後能竊為一人の下は滅後の師亦下上有ることを明す、下品に亦二あり、先に下品の人を出すは、即ち是れ但だ竪に其意を得るなり。慧有るも聞無くば、止だ竊に説くに堪へたり、未だ衆に処す可らず、故に是れ下品の師なり。竊に一人の為めに一句を説くは、一句の解を得ると雖も、既に広く聞き多く異義を学ばざれば、衆中にして而も説く可らず、一切の問難に通ぜざる所有れば、便ち正理をして宜弘することを得ざらしむ、釈論に明すが如し。慧有て聞無きは、譬へば小雨の雷無きが如しと、若し此一句の正言を巾べんと欲すれば、且らく当に竊かに説くべきのみ。当知是人則如来使とは、其功報を明すなり、経は是れ如智の所説にして如理を説く、今日の行人は此如教を秉て如理を宜す、即ち是れ如来の使ふ所なり。行如来事とは、如智もて如理を照すを事と為す、今日の行人は、如教に依て如理を行ず、即ち是れ如来の事を行ずるなり、一如の智、一如の理もて、衆生を化するを事と為す、今日の行人は能く大悲有て、此経の中の真如の理を以て衆生の為めに説き利益を得しむ、亦如来の事を行ずと名くるなり。観心もて解せば、如来の使とは、智心もて境を観ず、境は即ち真如なり、境来て智か発す、智は如の為に使はるるなり。如来所泣とは、観智は如の中より来るなり、行如来事とは、一切の法に歴て真如ならざる無し、真如は卸ち仏の事なり。

 [42]何况於大衆中の下は上品の人を明す、略して功報を格量せず、此意知る可きなり。

 [43]若有悪人の下、第二に総じて五種の法師の逆ふ者は罪ぞ得、順ふ者は福を得ることを明すなり。此中の罪福は福田の濃を論ぜず、但だ初後の心に約して其軽重を明すのみ。初心の学人は既に煩悩を具す、若し障礙を加ふれば、則ち学する所の事を廃す、故に罪を護るどと多し、仏は則ち平等にして悪も于偪せず、豈に能く障礙せんや、故に罪軽しと言ふ、供養も亦爾り、此人は有待なり、若し供養を得ば所修の事成ず、故に施すに其福勝る。仏は則ち待無くして衆事満足す、復獻供すと雖も、仏に於て益無し、故に報劣ると言ふ。譬へば王子の難に在るに所須を供奉すれば其功甚大なり、若し王種を辱むれば、罪を護ること軽からず、故に罪福倶に重し。若し大王に衣食七獻ずるは、要を為す事微なり、汝侵陵せんと欲するも損を致すこと能はず、故に罪福供に薄きが如し。

 [44]薬王の下は、読誦は仏の荘厳の如くなることを明す、即ち是れ之に順ずれば福を得るたり。仏は定慧を以て荘厳す、此人能く定慧を修するが故なり。為如来肩荷とは、背に在るを荷と為す、眉に在るを檐と為す、非権非実法身の体を修するは、即ち是れ如来の為に荷はる。能権能実の二智の用は、即ち是れ如来の為に檐はる。随所向方応向礼とは、上には法を以て師と為すを明す、今は物の師と為るに堪へたることを明す、此人に趣向有らば、悉く実相と相応す、皆敬順す可し、順は印ち是れ向、敬は即ち是れ礼なり、敬して而も之に順じ、及び供養等を興す云云。

 [45]偈に十六行有り、三と為す、初め二偈は長行を頌せず、別して自行と利他を奬勧す。次の十三行は、上の師門の別通を頌す、後の一行は軽を歎ず、別総を頌する中に又二あり、初め七行は別を頌す、後の六行は総を頌す、上の別門に現未有り、今初めの四行は現を頌し、後の三行は未を頌す、上の現未の一師に各上下有り、今初めに若有能の下の一行は下品を頌す、上半は法師を出す。当知仏所の下の半は功徳を出すなり。諸有能受持、此下三行は、現在の上品の師を頌す、初め半行は上品の師を出す、捨於清浄土の下、第二に二行半は功報を頌するなり。吾滅後の下、此三行は未来を頌す、初めの二行は、超へて上品を況出するを頌す、二と為す、今初めに吾滅後の下半行は法師を頌す、長行中には本と功報を闕くも今偈には則ち有り。当合掌の下第二に一行半は功徳を明すなり。若能於後世の下、第二に一行は、追て下品の師を頌す、初めの半は人を出すことを頌す、次に我遣在の下、第二に半は功報を頌するなり。若於一劫の下、第二に六行は、総じて上の総門を頌す、上の総門亦二あり、初めの二行は逆ふ者の罪を得ることを頌す、有人求仏逧の下、第二に四行は、之に順ずるもの福を得ることを頌するなり。薬王今告汝の下、第三に一行は経の尊妙を歎ず。

 [46]爾時仏復告より下、第二に所持の法及び弘経の方法を歎ず、所持の法は是れ自軌の法、弘経の法は是れ軌他の法なり、長行と偈頌有り、長行は初めに経法を歎ず、次に方軌なり、歎を五と為す、一に法に約して歎ず、亦格量の歎なり。二に人に約して歎ず、三に処に約して歎ず、四に因に約して歎ず、五に果に約して歎ず、 法妙なるが故に人貴く、人貴きが故に処尊し、処稼きが故に因円なり、因円なるが故に果極なり。

 [47]初めに法を歎ずるとは、已今当の説あり、此経を最と為すと。

 [48]有師解すらく、已は是れ般若、当は是れ涅槃なり、法華の前は小大相隔つれども、法華已後は已に曾同することを得、此経は正しく是れ曾三の始め、帰一の初めなり、故に第一と言ふと。

 [49]経に法華を歎じて已今当の外に在りと、此師は一節を闕く云云。

 [50]今初めに已と言ふは、大品已上の漸頓の諸説なり、今とは同一の座席にして、無量義経を謂ふなり。当とは涅槃を謂ふなり。

 [51]大品等の漸頓は皆方便を帯し、信を取ること易しと為す、今の無業義は一より無量を生じ無量未だ一に還らず、是れ亦信じ易し。 今の法華は法を論ずれば、一切の差別融通して一法に帰す人を論ずれば、則ち師弟の本迹倶に皆久遠にして二門悉く昔と反す、信じ難く解し難し。鋒に当る難事を法華に已に説く、涅槃は後に在れば則ち信ず可きこと易きなり。

 [52]秘要之蔵とは、隠して而も説かざるを秘と為す、一切を総ぶるを要と為す、真如実相を包蘊するを蔵と為す。

 [53]不可分布とは、法は妙にして信じ難し、深智には授く可く、無智は罪を益す、故に妄りに説く可らざるなり。

 [54]従昔已来未曾顕説とは三蔵の中に於て二乗の作仏を説かず、亦師弟の本迹を明さず、 方等般若は実相の蔵を説くと雖も、亦未だ五乗の作仏を説かず、亦未だ発迹顕本せず、頓漸の諸経は皆未だ融曾せず、故に名けて秘と為す。此経は具に昔に秘する所の法を説く、即ち是れ秘密蔵を開すれば亦即ち是れ秘密蔵なり、此の如く秘蔵して未だ曾て顕はに説かず。

 [55]如来在世〔在世は現本は現在に作る〕猶多怨嫉とは、四十余年に即ち説くことを得ず、今説かんと欲すと雖も、而も五千は尋で即ち座を退く、仏世尚ほ爾り、何に況んや未来をや、理は化し難きに在るなり。

 [56]如来滅後其能書持の下、第二に人に約して歎ずるなり。此法は人に在らば則ち人尊貴なり。如来衣覆とは、即ち是れ大忍を修学するを衣と為すなり。上文に如来の荘厳と云ふなり。仏護念とは、実相を仏と為し、実智を子と為す、実相を尊崇して実智を発生す、即ち諸仏の為めに護念せらるゝなり、四信を信力と為し、四弘を願力と為す、大智を善根力と為すなり。信は則ち理を信ず、理は即ち法身なり、志願は是れ行を立つ、行は即ち解脱なり、善根は根固くして動じ難し。此れ即ち般若なり。当に知るべし、三力は即ち是れ三徳秘密の蔵なることを。初心は此に棲めば仏と殊ならず、故に与如来共宿と名くるなり。又信力もて畢竟空如来智を修す、如来は畢章空に棲んで舎と為す、此人は信力もて亦畢竟空を学す、故に如来と共に宿す。手摩頭とは、此人は願力善力自行の権実を以て、以て機感と為す、機感を頭と名く、如来は化他の権実二智を以て手と名く、前人の自行の権実の頭を開発して感応道交す、故に摩頭と言ふ、摩頭は即ち授記なり。

 [57]在々処々の下、第三に処に約して歎ず、此法は処に在れば即ち処貴し。夫れ仏の生処、得道・転法輪、入涅槃等の処は法王の遊ぶ処にして、皆応に塔を起つべし、此経は是れ法身の生処、得道の場、法輪の正体、大涅槃の窟なり、此経の在る所は須らく塔もて供養すべし。不復安舎利とは、釈論に云く、砕骨は是れ生身の舎利、経巻は是れ法身の舎利なりと、此経は是れ法身の舎利なり、更に生身の舎利を安ずるを須たず。生法二身に各々全砕有り、皆解す可し云云。

 [58]若出家の下、第四に因を挙げて歎ず。若未善行菩薩道とは、前の三教を禀く、即ち是れ砕散法身の舎利なり、未だ巧度なること能はず、若し円教に入らば、即ち是れ全身の舎利にして、則ち巧度なり、巧度を善行と為すなり。

 [59]共有衆生の下、第五に果を挙げて歎ず、文五と為す、一に果に近きことを明す、二に開譬、三に合瞽、四に近を釈す、五に非を揀ぶ。

 [60]今初めに果に近きことを明す。当に知るべし、必らず三菩提の果に近づくことを得とは、安楽行の中には名けて近処と為す、此れ菩提の果なり、仏眼仏智知見の処を体と為す。

 [61]則ち二種有り、一には初心の菩提、二は後心の菩提なり。

 [62]今近と言ふは、正しく初住の菩提に近づくなり。

 [63]又円の果を望めて而して円因を修し似解を得る者を之を名けて近と為す。前に因に約して歎ずるに、通別の因を修するは、即ち是れ未だ善ならず、円果を去ること遠きなり。若し円因を修すれば、即ち是れ善行なり、円果を去ること近きなり。

 [64]今は円の如実智を以て因と為し、還て以て果と為す、道前の真如は即ち是れ正因、道中の真如は即ち縁因と為す、亦は了因と名く、浴後の真如は即ち是れ円果なり、故に普賢観に云く、大乗の因とは即ち是れ実相なり、大乗の果とは亦是れ実相なりと。釈論に云く、初めに実相を観ずるを因と名け、観じ竟るを果と名くと、理に就て論ぜば、真如実相は因果に当ること無く、亦前後に非ず、若し衆生の修行に約すれば、則ち前後及以び因果有るなり。

 [65]譬如有人の下、第二に開譬を二釈と為す、一に観門に約す、二に教門に約す、観門とは、衆生の心に諸の煩悩を具するを高原と名く、観智を修習するを穿掘と名く、方に理味を証するは清水を得るが如し。

 [66]通観に依るに、乾慧地は乾土の如く、性地を湿土泥と為す、見諦を清水を得ると為す。

 [67]別観は従仮入空は但だ空を見て不空を見ず、四住を断ずるは乾土を鑿るが如し、水を去ること尚遠し。従空出仮は先に仮に非ずと知り、今は空に非ずと知る、是の二観に因て中道に入ることを得、能く無明を伏するは、転た湿土を見る、水を去ること則ち近きなり。

 [68]円観は中道は空に非ず仮に非ずして、而して空仮を照す、漸く湿泥に至るが如し、四住已に尽き、無明已に伏し、已に中道相似の円解を得、故に如泥と言ふ、若し初住に入らば真中の解を発し、即ち無明を破するは泥の澄清なるが如し。中道を見るを得るは清水を見るが如し。法華論に仏性の水と云ふ、当に次第を知るべし。

 [69]次に教門に約せば、土は経教を譬ヘ、水は中道を喩ふ、教は中道を詮すること、土の水を含むが如し。

 [70]三蔵の教門は未だ中道を詮せず、猶ほ乾土の如し、方等般若は方便を帯して中道の義を説く、湿土を見るが如し。法華の教は正直顕露に無上道を説く、泥を見るが如し、法華の教に因て聞思修を生じ、即ち中道を悟る、真に仏性を見て、発する所の真慧は復文に依らず、清水を獲て復土相無きが如し、故に華厳に云く、十住の菩薩の所有の慧身は、他に由て悟らざるなりと。

 [71]有人言く、初教は高原の乾土の如く、大品は湿土の如く、法華は泥の如く、仏果は水の如しと。有人言く、維摩思益は乾土の如く、無量義は湿土の如く、法華は泥の如く、仏果は水の如しと。有人言く、大品は乾土の如く、無量義は湿土の如く、法華は泥の如く、仏果は水の如しと、三家は皆五時の説なり。

 [72]生師の云く、法華を受持し仏道を求め、得んと欲すること渇の如し、三乗は一乗に於て信じ難く、法華に於て解を求むること高原の如し。受持し読誦するを穿と為す、未だ聞くが如くにして而も解すること能はざるを未聞と為す、乾土の如し。能く解するを泥に至ると為す、注家も同じ。

 [73]有人云く、此一解は仏を去ること遠く、一解は仏を去ること近し、初めの三師は、諸教は仏を去ること遠く、法華は怖を去ること近きを明し、後の二解は、但だ法華の中に於て遠近を論ず。

 [74]経を尋ぬるに応に二義なるべし、一に余経を挙げて法華に対し遠近を明す、二に法華に就て遠近を論ず、諸師は経旨を失す。

 [75]問ふ、余経は何が故ぞ仏を去ること遠き、答ふ、未だ権を開せず、仏を求むる人未だ決せざればなり。法華は唯一にして三無く、永く退心を出づ、故に仏を去ること近し。文に云く、決了声聞法と。

 [76]問ふ、般若は云何ぞ仏を去ること遠き。答ふ、未だ権を開せざるの辺は則ち遠し、始行の菩薩は、般若に密に化し財を付することを覚せず、則ち其れに於て是れ遠し、夫れ般若の実慧の方便、是れ三世の仏の法身の父母なり、仏を求むる者は、老病人を両の健きもの之を扶くれば遍く能く遠く去るが如し、当に知るべし、般若は最勝にして、法華の開権は般若の顕実に異らず、般若の外に別に法華有るに非ず、法華と般若を異にするのみ。

 [77]既に是れ諸師異釈す、故に之を録するのみ。

 [78]次に菩薩亦復如是の下、第三に合譬なり、法華の中に於て聞思修を獲るは、即ち是れ円観の三慧にして、方に能く果に近し、乾湿等の教の中の聞思修に非るなり。

 [79]所以者何の下、第四に得近の意を釈するなり。一切菩薩とは、証の権因を明すなり、三菩提とは一切の権果を明すなり、権因と権果は皆此経に摂属す、乾湿等の土、悉く水に依るが如し、故に摂属と言なり。

 [80]開方便門示真実相とは、光宅云く、昔の鹿苑は機雑す、盛んに三蔵を説て未だ一理を明さず、爾の時は権を以て実を隠し、一理は権教の為めに閉ざさる、今の王城は大機に赴て真実を顕はす、真実既に顕はるれば則ち昔の教を廃除す、昔の教廃せらるゝが故に方便の門開き、一理既に彰るれば、真実の相顕はるゝなりと。

 [81]私に謂く、此解は乃ち是れ方便を破して、方便を開するに非るなり。

 [82]河西の道朗云く、直に三を詺けて方便と為すは即ち是れ方便門を開く、昔は三は是れ方便と言はず、故に方便の門閉ず、今は三を詺けて方便と為す、即ち一を示して真実と為すなりと。

 [83]私に謂く、此釈は文に符ふ。

 [84]有人解すらく、教と身との両方便を開して、教と身との両真実を示す、三世の仏は唯形声の権実有るのみ、此に約して開示すれば、則ち十二八万煥然として了かなりと。

 [85]私に謂く、前の二師は教に約して開示す、後の人は之に加ふるに身を以てす、此れ龍印の義を竊んで而して己が釈と為すなり、還て是れ方便を破する意にして、開の義に非るなり。

 [86]問ふ、方便の当体は是れ門なりや、実相に通ずるが為めの故に門と為すや、私に答ふ、二義を其す、実相の為めの門は解す可し、当体是れ門とは、華厳に善知識を尋ねて種々の法門を得、砂を算へ海を観ずる等の如し、此二門に各ゝ開閉有り、昔しは三は是れ方便なりと言はず、故に其門掩へり。今三は是れ方便なりと説く、故に其門聞けり。昔は一は是れ真実と説かず、実門掩へり、今は一は是れ真実と説く、故に実門開けり。二には此方便は復実相に通ず、故に三乗の方便は一乗の門と為る。実相も亦二義あり、一に当体虚通なるが故に、之を名けて門と為す、浮名の不二門、華厳の法界門等の如し。二に能く方便を通じて門と作す。劉虬の云く、物を通ずるの功は乃ち一に由る、故に一を方便の門と為す、汲引の效は頗る三に賴る、故に三を真実の相と為す、三に非ずと言ふときは、則ち方便の門を開くことを得、唯一を語るときは、則ち真実の相を示す可し。

 [87]有人云く、具に論ずれば三義有り、一には三を以て方便と為し、一を真実と為ず。二に三と一とは皆方便にして、三に非ず一に非ざるを真実と為す。三に三と一を二と為し、非三非一を不二と為す、二と不二とは皆権にして非二非不二を実と為す、此三章もて門と為ることを得、三を以て一門と為すが如き、此れ権を以て実に通ず。若し一を以て三の門と為さば、実を以て権を起す、乃至二と不二も亦爾り、互に門と為すことを得、亦互に相と為ることを得、但だ互に権実と為ることを得ざるのみ。

 [88]私に謂く、三を以て一の門と為さば、三乗は実相に通ずるやいなや、若し通ぜざれば則ち門に非ず、三を開ずるを須て始めて是れ門なることを得るなり。若し三を開せば復三に非るなり、云何ぞ三を以て実相の門と為さん。又三は仏因に非ず、那ぞ是れ実相の門なることを得ん。此一義を破すれば余の二は例して去らん云云。

 [89]問ふ、方便と真実と互に門と為ることを得ば、亦方便を方便門と為し、実相を宝相の門と為すことを得んやいなや、此に四句有り、二は前の如し、三に実相を実相門と為す、四に方便を方便門と為す、名を義の門と為し、義を名の門と為すが如し。方便の名に由て方便の義を顕はす、故に名を義の門と為す。方便の義に由て方便の名に応ず、故に義を名の門と為す、実相も亦爾り。中論の序に云く、実は名に非ずんば悟らず、故に中に寄せて以て之を宜すと、即ち其事なり。

 [90]問ふ、三を以て三を顕はし、一を以て一を顕はすを得んやいなや、此れも亦四句あり、二は前の如し、三を以て三を顕はすとは、昔の三は今の一に異りと言はば、此三は一の外に在り、今の一は昔の三に異り、此れ一は三の外に在るなり、故に一は三の一に非ず、三は一の三に非ず、悉く是れ執見なり、此病を破するが故に、一仏乗に於て分別して三と説く、故に三は是れ一の三なり、汝等が行ずる所は是れ菩薩道なり、故に一は是れ三の一なり、三と一と既に相異らず、因縁の義なり、因縁の三一を以て自性の三一を顕はすも亦自性の三一を以て因縁の三一を顕はす、故に三を以て一を顕はし、一を以て三を顕はすと云ふ。

 [91]有人は十五処に門を明すを引く、方便品に二有り。譬喩品に六有り、信解品に三有り、化城品に二有り、法師品に一有り、観音品に一有り。方便に二とは、智慧門は権智を実智の門と為す。生師の云く、言教を門と為す、言教もて実智を説く、故に言教は是れ実智の門なりと、法華論同じなり。次に云く、種々の法門を以て仏道を宜示すとは此れ大乗教を用ひて門と為すなり。譬喩に六有りとは、一に其家広大にして唯一門有りとは還て大乗教を以て門と為す。二に云く、所焼の門とは此れは三界の限域に約して門と為す、家を詺けて門と為すが如し。三に唯一門のみ有て而して復狭小なりとは還て是れ大乗教をもて門と為す。四に三車は門外に在りとは還て三界を以て門と為す。五に仏教の門を以て三界の苦を出づとは此れは小教を用ひて門と為す。六に門外に在て立つとは大乗に依らば、二死の限域を用ひて門と為す、小乗も亦一切煩悩の外に出づ、正習已に尽くるを門外に在て立つと名くるなり。信解品の門側に住立するとは、大乗の理教を門と為す、二に猶ほ門外に在りと云ふは亦前の如し。三に長者の門内と云ふは前の如し。化城の請じて甘露の門を開くとは、亦大小の教門なり、重門喬楼閣とは、亦小乗の三空門を用ふ。方便門は前に擇するが如し。観音も亦大教を以て門と為す。

 [92]今聞方便を釈せば、昔に説かざる所を今皆之を説く、昔は一切世間の治生産業を説く、何ぞ曾て是れ方便に於てせん。今皆之を開するに、即ち是れ実相と相ひ違背せず、昔小乗の方便若しは小乗の果を説く、小乗の果は尚ほ実相の門に非ず、況んや小の方便にして而して当に是れ門なるべけんや、今皆之を開するに即ち是れ実相なり、汝等が行ずる所は是れ菩薩の道なり、声聞の法を決了するに、是れ諸経の王なり、昔二を説て方便門と為すは、今皆之を開するに即ち是れ実相なり、寧ろ復是れ門ならんや、咸く衆生をして仏の知見に開示し悟入せしむ、一色一香も仏法に非ること無し。若しは門、若しは非門、悉く皆之を開し、真実の相を示して仏性の水を顕はす。

 [93]若し開せずんば則ち深固幽遠にして人の能く到るもの無し、而して今之を開すれば即ち水を見ることを得、乾土無きなり。

 [94]又三慧と作して釈す、一切皆此経に属すとは即ち円の聞慧なり、此経開方便は即ち円の思慧なり、示真実相とは即ち円の修慧なり、此三は幽遠にして、仏今回示したまふ、即ち真を観ることを得るなり。

 [95]薬王若有菩薩聞の下、第五に非を揀ぶ。若し菩薩所説を聞て而して驚疑すると、声聞の上慢なるは悉く是れ乾土にして、尚ほ湿土に非ず、況んや水を見んをや。

 [96]若有善男子善女人如来滅後より下、第二に略して弘経の方法を示す、又二と為す、一に方法を示す、二に利益を明す、方法三と為す、一に章門を楞す、二に解釈、三に修を勧む。

 [97]如来の室を修するは是れ大慈悲なり、若し同体に就かば即ち法身なり、若し衆生に被むるは即も是れ解脱なり、能く衆生をして同体に曾せしむるは即ち是れ般若なり、如来の衣を修するは、若し所覆に就かば即ち法身なり、若し能覆の厳身に就かば即ち寂滅忍なり。若し和光利物に就かば即ち解脱なり、若し能坐に就かば即ち般若なり、若し所坐に就かば即ち法身なり。身と座と冥に称ふは即ち解脱なり。又大慈安楽は即ち資成、柔和は嗔を伏し惑を断ずるは即ち観照、座に坐するは即ち法身なり。

 [98]安楽行の中に還て此三法を広くす、上の文の如来荘厳は即ち衣なり、上に如来肩所荷と云ふは、即ち此座なり、擔とは即ち擔運にして、是れ室に入るなり。

 [99]我於余国の下、第二に五の利益を挙げて洸逎を獄櫚す、一に化人を遣はす、二に化の四衆を遣はす、三に八部を遣はす、四に仏身を見る、五に総持を与ふるなり。若し初心に未だ淳ならざれば、止だ化人を遣はす可し、未だ化の四衆八部を遣はす可らず、若し天龍を見れば、此れに倚て自ら高ぶり、其道を妨損せん、故に見せしむ可らざるなり。若し心に倚著無れば則ち仏を見たてまつるに堪ゆ、況んや復天龍をや、況んや総持自証の利益を得んをや。

 [100]偈に十八行半有て三と為す、初めに一行は総じて勧めて長行を頌せず、次に十六行半は、上の長行を頌す、後の一行は勧を結す、上に果に約して歎ず、文五有り、今初め一行半は開瞽を頌す、次に薬王汝当知より第二に二行半は合譬を頌す、略して頌の三の近果と釈と揀非とを頌せざるなり。上の通経方軌の中二有り、方軌と利益なり、今十二行半の頌は、初め三行半は方軌を頌す中に三有り、今も亦三意を頌するなり。我千万億の下、次に九行は利益を頌す、初め一行は総じて如来の五事を以て利益したまふの意を明す。正しく応身の十方に遍満するに由て、能く五事ぞ為して行人を守護す。若我滅後の下一行半は、第二の遣四衆を頌す。引導の下一行半は、第一の遣化人を頌す。若説法之人の下二行は、第五の総持を得せしむるを頌す。若人具是徳の下一行は、第四に仏を見たてまつることを得せしむるを頌す。若人在空閑の下二行は、第三の遣八部を頌す云云。