[1]第七に遍く一切法の体と為すは、観経に云はく、「毘盧遮那は一切処に遍ず」と。一切とは四諦を出でず。大経に云はく、「仏の説きたまはざる所は十方の土の如し、説く所は爪上の土の如し」と。迦葉の云はく、「已に説くは是れ四諦なり、其の未だ説かざる者は五諦あるべしや」と。仏の言はく、「無なり」と。但だ此の四諦に無量の相ありと言ふ耳。若し然らば、広く開すれば即ち四種の四諦を成ず、具さに境妙の中に説くが如し、当に知るべし、苦・集は世間の善悪の因果、道・滅は出世の一切の因果なり。悉く実相を用つて体と為す。浄名に曰はく、「無住の本より一切の法を立す」と。此の謂ひ乎。然るに所依の体は、体妙にして異なること無し。能依の法は、法に麁妙あり。諸法相待して分別すること知んぬ可し。五昧に歴て麁妙を分別すること亦た知んぬ可し。開麁顕妙も亦た知んぬ可し云云。略して経体を説き竟んぬ。

 [2]大章第三に宗を明さば、宗とは修行の喉衿、顕体の要蹊なり。梁柱の屋を持ち、網を結ぶ綱維の如し。維を提ぐるときは則ち目動き、梁安んずるときは則ち桶存す。宗を釈するに五と為す、一には宗体を簡び、二には正しく宗を明し、三には衆経の同異、四には麁妙を明し、五には因果を結す。

 [3]宗と体とを簡ぶとは、有る人の言はく、宗は即ち是れ体、体は即ち是れ宗なりと。今用ひざる所なり。何となれば、宗致は既に是れ因果にして、因果は即ち二なり。体は因に非ず果に非ず、体は即ち不二なればなり。体若し是れ二ならば体は即ち体に非ず、体若し不二ならば体は即ち宗に非ず。宗若し不二ならば宗は即ち示に非ず、宗若し是れ二ならば宗は即ち体に非ず。云何んぞ而も体は即ち是れ宗、宗は即ち是れ体なりと言はん。又た柱梁は是れ屋の綱維にして、屋の空は是れ梁柱の取る所なり。応に梁柱を以て是れ屋の空あり、屋の空は是れ梁柱なるべからず。宗と体と若し一ならば、其の過是の如し。又た宗と体と異ならば、則ち二法孤調なり。宗は顕体の宗に非ず、体は宗が家の体に非ず。宗は顕体の宗に非ざるときは、宗則ち邪倒無印なり。体は宗が家の体に非ざるときは、則も体狭くして周ねからず。法性を離れて外に別に因果あらん。宗と体と若し異ならば、其の過是の如し。今言はく、不異にして而も異なり、非因非果に約して而も因果を論ず、故に宗と体との別ある耳。釈論に云はく、「若し諸法実相を離れては皆な魔事と名く」と。普賢観に云はく、「大乗の因とは諸法実相なり、大乗の果とは亦た諸法実相なり」と、即ち其の義なり、当に知るべし、実相の体は通ずれども而も因果に非ず。行の始めに因を辨じ、行の終りに果を論ず。而して復た遍円の別あることは、譬へば銅の体は始に非ず終に非ざれども、鑄て像と為すに擬するを即ち像の始と名け、治瑩悉く挙るを即ち像の終と名くるが如し。此れ円の因果に譬ふ。器皿に擬し及び其の成就するが若き、器皿の始終は遍の因果を譬ふるなり。七方便の心を発するを偏因と謂ひ、有余・無余を証するを偏果と名く。仏知見を聞くを円因と名け、妙覚を究竟するを円果と名く。若し此の喩を識れば、即せず離せず、宗の義明かなり奕。例せば正因仏性は因に非ず果に非ずして、而も是れ因にして果に非ざるを仏性と名け、是れ果にして因に非ざるを大涅槃と名くと言ふが如し。又た仏性は当に非ず本に非ずして、而も本より自ら之ありと言ふ。一切衆生は即ち涅槃の相なり、復た滅す可からず。又た「一切衆生悉く仏性あり」と言ふ。而して実には未だ三十二相あらず、未来に当に金剛の身を得べし。其の当に非ざるを以て、是の故に本と言ふ。其の本に非ざるを以て、是の故に当と言ふ。宗と体との義も亦復た是の如し。

 [4]遠師は一乗を以て宗と為す、所謂る妙法なり。文を引きて云はく、「是の乗微妙にして上あること無しと為す」と。私に謂はく、三を破せんが為の故に一ならば、麁は妙因に非ずと待す、而して始末を該ねず。龍師の云はく、但だ果を以て宗と為す。妙法とは是れ如来の霊智の体なり、衆麁斯に尽くるを妙と為し、動静物に軌るを法と為す。法既に真妙なれば、蓮華を借りて之を譬ふ。果智を宗と為す所以なりと。私に謂はく、果は孤り立せず。云何んぞ其の因を棄てん。又た文に乖くなり。慧観の序に云はく、「会三帰一は乗の始めなり、慧覚成満するは乗の盛りなり、滅影澄神は乗の終りなり」と。什師歎じて云はく、若し深く経蔵に入るに非ずんば、豈能く是の如きの説を作さんと。印師の云はく、諸法実相は是れ一乗の妙境なり、境智を用つて宗と為す。境に三偽無し、故に実相と称すなりと。今謂はく、境を加へて而も果を闕く、腫れて肥を益さざるなり。光宅は一乗の因果を用つて宗と為す、前段を因と為し、後段を果と為す。私に謂はく、二文各因果あり。若し互に存し互に沒せば、則ち経の文を害せん。有る人は権実の二智を用つて宗と為す。私に謂はく、権を用ひば応に三は是れ経宗を明すべし。三は是れ今経に棄つる所なり、云何んぞ棄つる所を取りて宗とせん。又た師の云はく、此は妙法蓮華と名く、即ち名を以て宗と為す。妙法は是れ仏の得たまふ所にして、根本真実の法性なり。此の性は惑染に異ならず、惑と同ならず、故に妙と称す。即ち宗を名とする耳と。此は是れ地師の用ふる所なり。八識は是れ極果なるに拠る。今、摂大乗に之を破して、是れ生死の根本なりと謂ふ。有る師の云はく、常住を宗と為す、但だ未だ極上ならず。是れ覆相に常を明すと。私に謂はく、都て経の意に非ず。常若し覆はるれば、宗何の顕はす所ぞ。常覆はれざるも常は則ち宗に非ず。有る師の云はく、是れ顕了に常を明す、涅槃と広略を為す耳と。私に謂はく、常を宗となさば、常は因果無からん、常も亦た宗無し云云。有が言はく、万善を宗と為す、但だ是の善をして皆な作仏することを得せしむるなりと。私に謂はく、若し作仏せば即ち是れ果なり、何んぞ果を取りて宗と為さざらん。有が言はく、万善の中、無漏を取りて宗と為すと。私に謂はく、太だ局す。又だ小涅槃に濫ず。有る人の言はく、若し斯の異説を稟けて各益を蒙らば、衆釈も非と為すべきこと無し。聞きて而も悟らざれば、衆師も是と為す可き無し。一師の意唯だ悟に在ることを貴む、宜しく悟を以て経宗と為すべしと。大経に云はく、「若し定相あらば是れ生死の法、是れ魔王の相なり。仏法には定相無し、是の故に如来は非道を道と説き、道を非道と説く」と。当に知るべし、唯だ悟のみ是れ従ふと。私に謂はく、若し悟をもつて宗と為せば乃ち是れ果証なり。行因を謂ふに非ず。南を問ふに北を指す、方隅料乱す。又た定んで悟を以て宗と為さば是れ定の定たり、何んぞ不定と謂はん。説く者甚た多し、具さに出すこと能はず。

 [5]二に正しく宗を明さば、此の経は初め序品より安楽行品に訖るまで、方便を破廃して真実の仏知見を開顕す。亦た弟子の実因実果を明し、亦た師門の権因権果を明す。文義広しと雖も、其の樞要を撮るに弟子の実因を成ぜんが為なり。因は正、果は傍なり。故に前段に於て迹因迹果を明すなり。涌出品より勧発品に訖るまでは、迹を発して本を顕はし、方便の近寿を発して長遠の実果を明す。亦た弟子の実因実果を明し、亦た師門の権因権果を明す。而して師の実果を顕はせば、果は正、因は傍なり。故に後段に於て本因本果を明す。前の因果を合して共に経の宗と為す意此に在り。所以に経に二文を分ちて本を論じ迹を論ず。法譬を双べ題し、蓮を挙げ華を挙ぐ。師弟の権実総じて此の間に在り。

 [6]三に衆経の因果の同異とは、謂はく迹の因果は或は同或は異なり。本の因果は永く異なり。迹の因果は実相通じて諸体を印す。何れの経か此に約して因果を論ぜざらん。大品には非因非果の実相を明して体と為す。而して但だ因を宗と為す。般若の遣蕩は正しく是れ因の意なり。故に云はく、「菩薩の心の中を般若と名け、仏の心の中に在るを薩婆若と名く」と。文の中亦た菩薩の無正無減の因は、不断不常の薩婆若の果を獲と説く。叡師の序に云はく、「玄章を啓きて不住を以て始と為し、三慧に帰して無得を以て終と為す」と。終始は因果なり。文の中亦た一切種智の仏果を説けども、般若の因を成ぜんが為なれば、因は正、果は傍なり。無量義に摩訶般若歴劫修行を宣説す。故に知んぬ、彼の経に因を用つて宗と為ることを。浄名には仏国の因果の両義を用つて宗と為す、宝積は具さに因果を問ひ、仏備さに因果を答ふ。故に知んぬ、双べて因果を以て宗とすることを。華厳円頓の教は宗を解すること同じからず。或は言はく、因を用つて宗と為す。題して華厳と言ふに拠らば、是れ万行荘飾修因の義なり。文の中多く四十地の行相を説く、故に因を用つて宗と為すと。又云はく、果をもつて宗と為す、題して大方広仏と云ふに拠らば、仏は是れ極果の名なり。華厳は是れ定慧万善仏身を荘厳す。因を荘厳するに非ず。文の中多く舎那法身の事を説く、即ち果を以つて宗となすなりと。又た解して云はく、因果合して宗と為す、仏は即ち是れ果、華厳は即ち是れ因なりと言ふが如し。文の中具さに法身を説き、亦た諸地を説く。倶に因果を用つて宗と為す。諸経は縁に対すること同じからず、故に宗を明すこと互ひに異なる耳。般若は通じて三人に対すれば、傍真の因果あり。此の義は則ち異なり。別して菩薩に対するに復た利鈍あり、鈍の為には因を明す。此の義も亦た異なり。利人の因は此の義則ち同じ。浄名の仏国は義兼ぬ。若し三種の仏国の因果は、此の義則ち異なり。一種の仏国の因果は、則ち因なり。華厳も亦た両縁に対す、鈍は異に利は同じ。前に分別するが如し。又た此の意を以て五味の因果に歴ること、例して知んぬ可し。是を衆経の因果と迹門との同異の相と為す。

 [7]二に本門の因果は永く諸経に異なるとは、若し三蔵の菩薩は始めより実の因果を行じて、権の因果無し。乃至、仏は道樹にして始めて成ずと明せば、久遠の本迹に非ず。通教の菩薩も亦た始に因を行ずるに、神通変化して而も本迹を論ず。久遠の本迹に非ざるなり。大品には菩薩は本迹あり、二乗は則ち無しと説く。仏、始めて生・法二身の本迹を得ると説きて、久遠を説かず。浄名には声聞に本迹ありと説かず、但だ菩薩のみ不思議の本迹に住すと明す。仏に浄土ありと説くも、螺髻の見る所は亦た久遠に非ず。華厳には舎那・釈迦を本迹と為すと説く。菩薩も亦た本迹あり。声聞は尚ほ聞かず解せず、云何んぞ自ら本迹あらん。今経は声聞に本ありと発く。本に因果あり、示して二乗迹中の因果と為す。仏の迹を発す。王宮生身の生、道樹法身の生、乃至中間の生・法二身悉く皆是れ迹なり。但だ最初に先に真応を得を得るを取りて、之を名けて本と為す。故に師弟の本因本果は余経と永く異なり。

 [8]今経の迹中の師弟の因果と衆経と同あり異あり、本の中の師弟の因果は衆経に無き所なり。正しく此の因果を以て経の妙宗と為すなり。

 [9]四に麁妙とは、若し半字の因、道樹の偏果は此の宗則ち麁なり。大品に明す所の三乗共の因果も亦是の如し。不共の因は菩薩一日般若を行ずれば、日の闇を照すが如く、発心に即ち神通に遊戯すと云ふと雖も、而も猶ほ麁因を帯し、円因独り顕はるることを得ず。法身は無来無去なりと説くと雖も、猶ほ麁果を帯し、円果にして独り顕はるゝことを得ず。故に名けて麁と為す。方等の中には偏の因果を弾じて、高原陸地に蓮華を生ずと雖も、偏の円に入ることを得るを辨ぜず。円彰顕ならざれば、是れ亦た麁と為す。華厳は前に高山を照し一の円因を説き、究竟の後身に一の円果を説く。又た別の因果を帯すれば、所帯の処、麁なり。今経は声聞は記を受け、菩薩は疑ひ除こる。同じく仏知見を開き倶に一の円因に入る。発迹顕本して同じく実果を悟る。因円かに果実にして方便を帯せず、永く余経に異なり。故に称して妙と為す。麁を開すれば、昔の縁は根鈍にして未だ仏乗の因果を讃ずるを聞くに堪へず、方便の因果を用つて近情を引接し、五昧に調熟して心漸く通泰す。麁因を決了するに同じく妙因を成じ、諸の麁果を決するに同じく妙果を成ず。故に低頭挙手、著法の衆皆な仏道を成じ、更に仏道の因に非ずといふこと無し。仏道既に成ず、那んぞ猶ほ非仏の果あることを得ん。散善微因も今皆な開決するに、悉く是れ円因なり。何に況んや二乗の行をや、何に況んや菩薩の行をや、皆是れ妙因果ならずといふこと無し。

 [10]五に結成とは即ち二と為す、一には因果を結し、二には四句をもつて料簡す。夫れ経に因果を説くは、正しくは通じて生法の行人を益せんが為なり。若し権を開して実を顕はすは、正しくは七種の方便の生身未入の者をして入らしめ、傍らに生法二身已入の者をして進ましむ。若し寿量の長遠を説くは、傍らに生身未入の者をして入らしめ、正しく生法已入の者をして進ましむ。神力品に云はく、「如来の所有る一切甚深の事」とは、非因非果は是れ甚深の理なり、因果は是れ甚深の事なり。七種の方便、初めて円に入ることを得るより銅輪の位に登るまで、之を名けて因と為す。乃至余の一生の在るありて、若し一生を転ずれば即ち妙覚を得る、之を名けて果と為す。二住より等覚に至る中間を名けて亦因亦因因、亦果亦果果と為す。無礙道を用つて一分の無明を伏するを、之を名けて因と為す。解脱道を用つて一分の無明を断ずるを、之を名けて果と為す。此の解脱に約して復た無礙を修す、故に因因と云ふ。此の無礙より復た解脱を得、故に果果と言ふ。復次に初の十住を因と為し、十行を果と為す。十行を因と為し迴向を果と為す。十向を因となし、十地を果と為す。十地を因と為し、等覚を果と為す。等覚を因と為し、妙覚を果と為す。妙覚は唯だ果、唯だ解脱なり。因と名け、無礙と名くることを得ず。初住は唯だ因、唯だ無礙なり、果と名け、解脱と名くることを得ず。何となれば、初住に真を見るは、真を以て因と為す。住前相似は是れ真因に非ず。若し性徳を初因と為すを取らば、弾指散華は是れ縁、因の種、随聞一句は是れ了因の種、凡そ心ある者は是れ正因の種なり。此れ乃ち遠く性徳の三因の種子を論ず、是れ真実を円発に非ず、故に取りて因とせざるなり。

[11]二に四句料簡とは、問ふ、若し初住に理に入るを名けて円因円果と為すと言はば、何んぞ文に「漸漸修学得成仏道」と云ふことを得んや。答ふ、応に両種の四句を作して料簡すべし。自ら漸の円なるあり、自ら円の漸なるあり。自ら漸の漸なるあり、自ら円の円なるあり。漸円とは、此れ理外の七種の方便、同じく仏知見を開いて始めて円理を見るに約す。円理を見るとは、良に理外の七種の方便漸く円因に入るに由る。故に漸円と言ふ。漸円の三句云云。円漸とは、初めて此の円に入りて同じく三諦を観じ、実相の理を見ること初後殊なること無し。然るに事の中の修行未だ尽く備ふること能はず、復須らく研習すべし。初めて円に入るに拠る、故に名けて円と為す。進んで上行を修するを、復た名けて漸と為す。漸漸とは、二住より去つて等覚に至る。此は是れ円家の漸漸にして理外の漸漸に非ず。円円とは、妙覚に至るも亦た漸円と名け、亦た円円と名く。円理は先より円、今復た事円なり、故に円円と名く。復次に円漸は初住の如し、漸漸は二住より已去三十心に至るが如く、漸円は初地已去の如く、円円は即ち妙覚なり。三十心に同じく賢聖の義ありと雖も、義をもつて称して賢と為す、伏多く断少きが故なり。十地より去つては名けて聖と為す、伏少く断多きが故なり。又た十住を賢の聖と名け、二十心は是れ聖の賢なり。十地・等覚は是れ聖、妙覚は是れ聖の聖なり。今喩を借るに、初月は匡郭已に円かなれども光用未だ備はらず、是れ円漸を譬ふ。二日より十四日に至つては其の明漸く進む、是れ漸漸を譬ふ。十五日に至るは是れ漸円を譬へ、又た円円を譬ふ。夫れ月に虧盈無けれども、亦た月に約して虧盈を辨ず。理は円漸無けれども、亦た理に約して円漸を判ずる耳。此の経の宗は利益巨大なり、始め円漸より終り円円に竟るまで、大乗の因果増長し具足す云云。問ふ、既に円漸と称す、復た円別と称するや。乃至通蔵も亦応に爾るべしや。答ふ、此の義は四教章の中に出づ。其の意云何ん、三蔵の三蔵は解すべし。別とは諦・縁・度なり、通とは真諦なり。円とは無学辨ずるなり。通の通とは同じく無生なり。三蔵とは道諦の中の戒・定・慧なり。別とは正習の尽不尽なり、化他・不化他・出仮・不出仮の別なり、円とは同じく真を証するなり。別の別とは上に別に下に別なり。三蔵とは無量の道諦の中の戒・定・慧を修するなり。通とは四門倶に中に契ふなり。円とは五住尽くるなり。円の円とは融なり。別とは四門の異なり。通とは四門相ひ摂するなり。蔵とは円の道諦、円の戒・定・慧なり。此の義既に通ず、亦応に漸円、円漸の四句皆な得べし。因果を結すること皆な成ず。然して後に麁妙を判じ、麁妙を開すること悉く得るなり。

 [12]大章第四に用を明さば、用は是れ如来の妙能、此の経の勝用なり。如来は権実二智を以て妙能と為し、此の経は断疑生信を以て勝用と為す。秖だ二智能く疑を断じて信を生ず。信を生じ疑を断ずることは二智に由る。人に約し法に約し、左右互に論ずる耳。前に宗を明すに、宗体に就て分別し、宗と体とをして濫せざらしむ。今、用を論ずるに宗用に就て分別し、宗と用とをして濫せざらしむ。何となれば、宗も亦た用あり、用も亦た宗あり。宗の用は用の用に非ず、用の用は宗の用に非ず。用の宗は宗の宗に非ず。宗の宗は用の宗に非ず。宗の用とは、因果は是れ宗、因果に各断伏あるを用と為す。用に宗ありとは、慈悲を用の宗と為し、断疑生信を用の用と為す。若し宗を論ずるには、且らく断伏を置いて但だ因果を論ず。今、用を明すには但だ断疑生信を論じて且らく慈悲を置く。若し此の意を得るときは、則ち権実の二智を知る。能く疑を断じ信を生ず。是れ今経の大用なり、其の義明かなり矣。用を論ずるに開して五と為す、一には力用を明し、二には同異を明し、三には歴別を明し、四には四悉檀に対し、五には悉檀の同異なり。

 [13]一に正しく用を明さば、諸経には純ら仏の智慧を明さず。仏の自の応迹を発せず。正しく二乗の果を破廃せず。生身の菩薩の近疑を断じ、其の遠信を起さしめず。本地を顕はして法身の菩薩の本念仏の道を増し、界外の生を損せしめず。此の如きの力用は衆経に無き所なり、今経に之を具す。所以に命章に二乗・菩薩等の智を論ぜず、純ら仏の微妙の智慧を顕はす。衆生の九法界の知見を開かずして、純ら衆生の仏知見を開く。余経は但だ仏の変ずる所の化是れ迹なりと道ひて、仏身自ら是れ迹なりと道はず。今経は自ら仏身是れ迹なりと道ふ、其の余の変化は寧ろ迹に非ざることを得んや。今経は正しく化城の二乗の果を破廃す、況んや其の行因を耶。又た方便教を稟くる菩薩、迹を執して極と為るを破す。今皆な発廃して悉く是れ権迹なりと称す、及び中間の諸疑悉く断じて深遠不思議の信を起す。又た本地真実の功徳を顕はして、法身の菩薩をして大利益を得せしむ。初め初阿より終り後荼に隣る。十方那由他の土を抹して塵と為し、増道の菩薩を数ふるに尽くさしむること能はず。蓋し如来、権実二智一味の雨を雨らすに普等四方倶に下るとは、一切の諸の四門倶に破するなり。具足の道を求むる者を充足して、其の深疑を断じ其の大信を起し、一円因に入りて摩訶衍の車を控きて四方に遊び、直ちに道場に至らしむ。大用大力あり、妙能妙益猶ほ自ら未だ尽くさず。復次に此の力能く二乗の果を破す。二乗は生死を怖畏して空に入りて証を取り、安隠の想ひを生じ、已度の想ひを生ず。三無為の坑に堕し、若は死、若は死に等しき苦あり。已に敗種して更に還つて生ぜざるが如し。智医も手を拱き、方薬も用無し。涅槃の能く闡提を治するが如きに至つては、此れ則ち易と為す。闡提は心智滅せず。夫れ心ある者は皆な当に作仏すべし。定死の人に非ずんば、治すること則ち難からず。二乗は灰身滅智す。身を灰するときは則ち色も常住に非ず、智を滅するときは則ち心慮已に尽く。焦芽敗種も復た高原陸地に在り、既に聾にして且つ瘂なり、永く反覆無し。諸の教主の棄つる所、諸経の方薬行はれず。今は則ち本仏の智大きく、妙法の薬良し。色身灰ならずして浄瑠璃の如し、内外の色像悉く中に於て現ず。心智をして滅せず、仏の知見に開示し悟入せしめ、客作の賎人をして菩提の家業を付せしめ、高原陸地に仏の蓮華を授く。其の耳は一時に十方界の声を聴き、其の舌は一切の類に随つて仏の音声を演べて一切をして聞かしむ。能く一根を以て遍く衆用を為す、即ち是れ今経の力用なり。

 [14]上に已に仏の智力を説き竟んぬ、今更に重むて説かん。漢の末三分するが如き、曹公の智略当時第一なれども、復た楊修に劣ること三十五里なり。此の真丹の人の智は外国の外道の智に及ばざ ること、芥を山に比するが如し。一切世人の外道の智は、舎利弗の智の十六分が一にも及ばず。二乗の智は蛍火の虫の如く、菩薩の智は日光の如し。通の菩薩の智は鴻鵠の勢ひ遠きに及ばざるが如く、別の菩薩の智は金翅鳥の一須弥より一須弥に至るが如し。別の菩薩の智は爪上の土の如く、仏の智慧に比すれば十方の土の如し、当に知んぬべし、仏の智慧は至つて融じ、至つて即し、至つて頓、至つて実なり。思議すべからず、不縦不横にして円妙無比なり。喩をもつて尽くすべからず。問答す。余経は純ら説かず、今経独り純ら之を説く、此れ仏の実智の力大なり。譬へば十の小牛乃至一龍十龍一力士の如し。十力士は五通の人に如かず、外の五通は一の羅漢に如かず。一の羅漢は一の目連に如かず、目連は一の身子に如かず。身子は菩薩に如かず、菩薩は別の菩薩に如かず。別の菩薩は円の菩薩に如かず、円の菩薩は仏に如かず。仏迹甚だ大なり、化も復た化を作し、化化尽くること無し。無謀にして而も当ること、修羅の琴の如し。一切の賢聖も能く測る者無し。仏の権力既に此の如し。余の諸義は例して知んぬ可し、復た記せず。

 [15]二に同異を明さば、問ふ、実相の体、因果の宗は既に衆経に通ず。権実の二智は復た云何ん。答ふ、名は通用すと雖も、力は大いに差別す。蔵・通は二智を以て四住の疑を断じ、偏真の信を生ず。浄名は二乗及び偏行の菩薩を弾斥すと雖も、亦是れ界内に疑を断じ信を生ず。小乗及び方便の菩薩をして、大疑を断じ大信を生ぜしむること能はず。大品の通意も亦是れ界内の疑を断じ信を生ず。別意は界外に在りと雖も、亦未だ近疑を断じ遠信を生ぜしめず。華厳の正意は界外の疑を断じ円信を生ずるも、亦未だ近を断じ遠を生ぜず。故に権実の二名は復た通用すと雖も、而も力は大いに異なり、今経は仏菩提の二智を用ひて、七種の方便の最大の無明を断じ、同じく円因に入る、近迹を執するの情を破して本地の深信を生ず、乃至等覚も亦た疑を断じ信を生ぜしむ。是の如きの勝用、豈に衆経に同じからん耶。

 [16]三に別釈を両と為す、一には別して迹門を釈し、二には別して本門を釈す。迹門を釈するに十と為す、一には破三顕一、二には廃三顕一、三には開三顕一、四には会三顕一、五には住一顕一、六には住三顕一、七には、住非三非一顕一、八には覆三顕一、九には住三用一、十には住一用三なり。此の意は通じて十妙に歴、一一の妙の中皆な十意を具す。義推して解す可し云云。

 [17]今別に就て説かば、破三顕一とは正しく三情を破して而も一智を顕はす。何となれば、昔し若し初めに仏乗を讃せば、衆生は苦に没在せん。既に大を聞くに堪へず、過去の仏の所行の方便力を尋念するに、亦応に三乗を説くべし。三乗を説き已れば、教に斉り三情に封ぜられて更に好き者を願はず。今、三の執を破して仏智を顕はす、故に「諸仏の法は久しうして後、要らず当に真実を説くべし」と言ふなり。

 [18]廃三顕一とは此れ正しく教を廃す。其の情を破すと雖も、若し教を廃せずんば樹想還つて生ず。教を執して惑を生ず、是の故に教を廃す。「正直に方便を捨てゝ但だ無上道を説く」と、「十方仏土の中には唯だ一乗の法のみありて、二も無く亦た三も無し」と。

 [19]開三顕一とは、正しくは理に就き、傍らには教に約することを得。約教とは、昔の教は三人真に入ることを明し、今の教は三人仏を得ることを明す。正しく理に約するは、秖だ是れ二乗の真空自ら実相あり、昔の方便は深からざれば、妙に見ること能はず。今此の空を開するに即ち是れ実相なり、故に声聞の法を決了するに是れ諸経の王なりと言ふ。「方便の門を開して真実の相を示す」と。大経に云はく、「諸の声聞の為に慧眼を開発す」と。

 [20]会三顕一とは、正しく行に就く。大品の会宗に云はく、「四念処・四禅等皆な是れ摩訶衍なり」と。但だ其の法を会して未だ其の人を会せず。此の経は人と法と行と倶に会す、故に云ふ、「汝等の所行は是れ菩薩道なり、漸漸に修学して悉く当に成仏すべし」と。「低頭挙手皆な仏道を成ず」と云云。

 [21]住一顕 一とは、此れ仏の本意に就く。本と実智を以て物を化す、仏は平等に説くこと一昧の雨の如し。「仏、自ら大乗に住す、其の所得の法の如きは、定慧の力荘厳す。此を以て衆生を度す」と。「若し小乗を以て化せば、我れ則ち慳貪に堕せん、是の事を不可と為す」と。故に知んぬ、得道の夜より常に中道を説き、常に大乗を説くことを。而して衆生は罪の故に、故に如来をして毒を以て乳に塗り、弊垢の衣を著せしめ、方便婆和して引いて大に向はしむ。故に言ふ、「種種の道を説くと雖も、其の実は一乗の為なり」と云云。

 [22]住三顕一とは、此れ仏の権智に就く。方便して物を化す。「尋いで過去の仏の所行の方便力を念ふに、我れ今も亦是の如し、即ち婆羅奈に趣きて方便力を以ての故に五比丘の為に説く」と。過去の諸仏も亦た三乗に住して而も一乗を顕はす、今仏も亦た爾り。故に「更に異の方便を以て第一義を助顕す」と言ふ。又た昔し菩薩の前に於て声聞を毀訾す、然れども仏は実は大乗を以て度脱を得せしむ。

 [23]住非三非一顕一とは、或は理に約し、或は事に約す。理に約すとは、「是の法は法位に住す、世間の相常住なり」と、「是の法は示す可からず」と、「法は常に無性なりと知る」と、「仏種は縁より起る」と。無性は即ち非三非一なり。縁より起るとは、是れ三の縁より一を顕はして非三非一に会せ令む。事に約するは、即ち是れ人天乗なり。此の乗は三に非ず、亦復た一に非ず。常に此の乗を以て引きて大に入らしむ。低頭挙手皆な仏道を成ず。「若し我れ衆生に遇ふに、尽く教ふるに仏道を以てす」と。

 [24]覆三顕一とは、此れ権巧多端なるに就く。前の権は前に廃す、但だ其の病を除いて其の法を除かず。法除かざる故に、後縁を化するに擬す。若し此の法を破せば、後に何の用ふる所あらん。機息めば則ち覆ひ、機興れば則ち用ふ。何んぞ但だ仏のみ爾らん。入実の菩薩も亦た然なり。「若し此の法を信ぜざるものあらば、余の深法の中に於て示教利喜せよ」と云云。

 [25]住三用一とは、此れ法身妙応の眷属に就く。前の住三顕一は是れ師門なり、今の住三用一は是れ弟子門なり。富褸那等の如きは実に是れ法身なれども現に声聞と作り。三に住して而も常に一を顕はすことを示し、同梵行者を饒益す。

 [26]住一用三とは、此れ本誓に就く。華光作仏して願つて三乗を説けども、而も悪世に非ざるが如し。今仏も亦た宝蔵仏の所に於て悪世に於て此の三乗を説くことを願ふ云云。但だ権実の大用、法界を包括す。豈に十意のみならんや、十妙の用を顕はさんが為に、故に略して十と言ふ耳。

 [27]破三顕一は是れ智妙を用ひ、廃三顕一は是れ説法妙を用ひ、開三顕一は是れ境妙を用ひ、会三顕一は是れ行妙を用ひ、住一顕一は是れ乗妙を用ひ、住三顕一は是れ感応妙を用ひ、住非三非一顕一は是れ神通妙を用ひ、覆三顕一は是れ位妙を用ひ、住三用一は是れ眷属妙を用ひ、住一用三は是れ利益妙を用ふ。十用を将つて十妙に対当するに文義相ひ揀ぶ。大意解す可し云云。

 [28]二に本門の力用は、例して十意と為す。若し文の便を扶せば応に開近顕遠と言ふべし、若し義の便を取らば応に本迹と言ふべし。秖だ近を呼んで迹と為し、遠を本と為す。名は異なれども義は同じ。言ふ所の十とは、一には破迹顕本、二には廃迹顕本、三には開迹顕本、四には会迹顕本、五には住本顕本、六には住迹顕本、七には住非迹非本顕本、八には覆迹顕本、九には住迹用本、十には住本用迹なり。通じて本門に就くに、一一の妙の中皆な十意を具す。

 [29]若し別して論ぜば、破迹顕本は亦た情を破するに就く。序品・方便・宝塔の三文に已に執を動じ疑を生ず。文殊、弥勒に答へて云ふが如し。昔の八王子は妙光を師として事ふ。妙光は先に補処に居して、而し王子は成仏す、号して燃灯と曰ふ。弟子、今又た成仏して号して釈迦と曰ふ。妙光は翻つて弟子と為り、字を文殊と曰ふ。迹執を動じて此の疑を生ず、何に由りてか決す可けん。今言はく、是れ補処淹緩なるに非ず、亦た弟子超越するに非ず。良に釈迦の成道已に久しきに由りて昔は弟子を示し、今は師と作ることを示す耳。此の迹の疑を払つて本智を顕はす、故に破迹顕本と言ふなり。方便品に云はく、「我れ久遠劫より来た、涅槃の道を讃示して生死の苦永く尽くす。我れ常に是の如く説く」と。当に知るべし、生死久しく已に永く尽くれば、是れ中間に始めて涅槃に入るに非ざることを。宝塔涌現して滅を示せども滅せず、迹に即して而も常なることを証す。分身皆な集まること八方称げて数ふ可からず。分身既に多し、当に知るべし、成仏久しきことを矣。荷積満池の喩の如し。三品の文を推すに、已に是れ破迹の漸なり。所以に下方の涌出は寂滅道場にして化を受くるに非ず、亦た他方分身の所にして化を受くるに非ず。此の両処の人は弥勒も皆な識る、而して今は識らず、所以に驚疑す。此の近情を破して本の長遠を顕はす。故に文に云はく、「一切世間皆な謂ふ、我が釈迦牟尼は釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からずして三菩提を得と。然れども、我れ実に成仏してより来た、無最百千万億那由他劫なり」と。直ちに世界を挙げて弥勒に問ふに、弥勒其の数を知らず。何に況んや、世界の中の塵にして而も当に数ふ可けんや。此は是れ近執の謂を破して、共の遠智を生ずるなり。

 [30]廃迹顕本とは、亦た説法に就く。昔し五濁の障り重きが為に遠く本地を説くことを得ず、但だ迹中の近成を示す。今は障り除き機動ず、須らく道樹王城の迹中の説は皆な是れ方便なりと廃すべし。執近の心既に断じ、封近の教亦た息む。文に云はく、「是より来た、我れ常に此の娑婆世界に在りて説法教化す」と。亦た、「余処百千万億那由他阿増祇の国に於て衆生を導利す」と。即ち是れ一期の迹教を廃して久遠の本説を顕はすなり。

 [31]開迹顕本とは、此も亦た法に就き亦た理に就く。秖だ文殊の迹ぶる所の燃灯仏、及び久遠より来た涅槃の道を讃示し、及び分身の諸仏、此の如きは迹説なれども、是れ顕本の意を以てす。惑ふ者は未だ玄旨を悟らず。今、若し本を顕はすに亦た逈かに余途に就かず、還つて近迹を開して其の本要を示す耳。理に就かば但だ深く方便の迹を観ずれば、本理即ち顕はる。文に云はく、「我れ実に成仏してより已来た、久遠なること斯の若し」と、「但だ方便を以て衆生を教化して仏道に入らしむ」と。若し仏道に入れば、迹に即して本を得るなり。

 [32]会迹顕本とは、此れ則ち行に就く。迹中の諸行を尋ぬるに、或は此の仏に従つて行を行じて記を得、或は彼の仏に従つて行を行じて記を得、或は己身、他身を示して機に随つて応現し、長短大小なり。諸の迹は悉く本より垂る。若し古今を結会せば、還つて迹を結して本を顕はす耳。本迹殊なりと雖も、不思議一なり。文に云はく、「諸の善男子、是の中間に於て、我れ燃灯仏等と説き、又た復た其れ涅槃に入ると言ふ。此の如きは皆是れ方便をもつて分別するなり」と。即ち迹を会して本を顕はす意なり。

 [33]住本顕本とは、此は仏の本意に就く。即ち下方の菩薩空中に於て住し、法身の仏、法身の菩薩の為に法を説き、法身、道を修するに純ら一乗を説くが如し。文に云はく、「娑婆世界は純ら黄金を以つて地と為し、人天充満す」と。又云はく、「人衆は焼尽すと見れども、我浄土は毀たれず。能く是の如く深く観ずるを、是を深信解の相と為す」と。常に是の本に住して恒に本を顕はす。文に云はく、「我れ成仏してより已来た、甚大久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして常住にして滅せず」と。豈に住本顕本に非ずや。

 [34]住迹顕本とは、此は迹の意に就く、即ち是れ釈迦生身に住して而も一を顕はす、一を顕はすに由るが故に、古仏の塔涌す。塔涌するが故に分身を召請す。分身集まるが故に、弘経を慕覓して下方より出現す。弘経を慕覓し下方より出現すれば、弥勒は疑問す。問ふが故に寿の長遠を説き、執を動じ疑を遣る。是を住迹顕本と為すなり。文に云はく、「我れ仏眼を以て其の信等の諸根を観じ、乃至種種の方便を以て微妙の法を説き、能く衆生をして観喜の心を発さしむ」と。

 [35]非迹非本に住して本を顕はすとは、此れ絶言冥会に約す。即ち是れ本に非ず、迹に非ずして而も能く本迹あり。昔は迹に非ずして而も迹を垂れ、今は本に非ずして而も本を顕はす。文に云はく、「非実非虚、非如非如、非異斯の如きの事は如来明かに見たまふ」と。

 [36]覆迹顕本とは、亦た機応多端なるに約す。若し迹を執すれば本を障ふ、故に覆うて執せざらしむ。更に後の機に対して還つて須らく迹を用ふべし、故に師子奮迅の力あり。文に云はく、「若干の言辞・因縁譬喩を以て種種に説法す、所作の仏事未だ曾て暫くも廃せず」と。

 [37]住迹用本とは、上来迹に住して本を顕はすは、直ちに是れ迹中の随機方便をもつて本地の理を顕はす。今、住迹用本と言ふは、即ち是れ中間、迹、道樹に至つて数数生滅す。他身他事とは、皆な本地の実因実果種種の本法を用つて、諸の衆生の為に而も仏事を作す。故に住迹用本と言ふ。此れ師に就て解を為す。若し弟子に約せば、即ち是れ本地妙応の眷属なり。権迹に住して形を九道に垂れ、而も本法を用つて衆生を利益す。文に云はく、「然るに我れ今実に滅度するに非ず、而も便ち唱へて当に滅度を取るべしと言ふ。如来は是の方便を以て衆生を教化したまふ」と。此は是れ迹に住して本時の滅度を用つて而も滅度を示すなり。

 [38]住本用迹とは、即ち是れ本地を動ぜずして而も迹を法界に周うし、非生に生を現じ、非滅に滅を現ず。常に此の迹を用つて衆生を利潤す、此の義は師に拠る。若し弟子に拠らば、即ち是れ法身の菩薩、不住の法を以て本地に住す。無謀の権、迹用尽くること無し。文に云はく、「又た善男子、諸仏如来の法は皆な是の如し、衆生を度せんが為なり、皆な実にして虚ならず」と。

 [39]仏、散じて衆縁に赴けば、文小しく次ならず。今、堤し来つて義を証するに、寿量の文を引きて尽くす。

 [40]破迹顕本・会迹顕本は別して因妙を用ひ、開迹顕本は是れ別して論ぜば本果妙を用ひ、住本顕本は是れ別して本国土妙を用ひ、廃迹顕本は別して論ぜば是れ本説法妙を用ひ、住非迹非本は別して論ぜば是れ本感応妙を用ひ、覆迹顕本は別して論ぜば是れ本神通妙を用ひ、住迹用本は別して論ぜば是れ本寿命妙を用ひ、亦た是れ本眷属妙を用ふ。住本用迹は別して論ぜば是れ本涅槃妙に住す、亦是れ本利益妙なり云云。

 [41]四に悉檀を結成すとは、権実二智の十用同じからず、即ち是れ一音の演説類に随つて各解す。迹中の破廃は七種の方便をして、仏知見を開かしむ。本中の破廃は恒沙の菩薩をして、疑を断じ道を増せしむ。皆是れ四悉檀の意をもつて衆生を成熟す。今此の十用を束ねて四悉檀と為す。先には迹門を束ね、次には本門を束ぬ。迹に又た二と為す、先には別して束ね、次には通じて束ぬ。別とは、開三顕一・住三用一・会三帰一、此の三条は為人悉檀に属す。何となれば本此の三を習ふ、今還つて三に約して一を修す。途を改め轍を易へず、秖だ深く此の三を観ずるに一理自ら顕はる。三の中に一あれば取捨を須ひず、故に開三顕一は為人悉檀に属す。住三用一も亦是の如し。秖だ此の三に就て而も一道を修す。富楼那の怛だ声聞に住して而も自ら饒益し、亦能く同梵行者を饒益するが如し。即ち是れ三法を改めずして能く一の解を生ずれば、皆な為人悉檀に属するなり。破三・廃三・覆三、此の三は対治に属す。其の三に封ぜられて一を疑へば、其の情を斥破す。権教を廃して密かに権法を覆ひ、執病の心をして除こり、一実の道に入りて実智の中に安住せしむるなり。住三顕一・住一用三の両種は世界悉檀に属す。何となれば、世界は楽欲を以て本と為す。若し衆生三乗の道を得んと欲して一実の化を聞かんことを欲せず。故に仏自ら一に住すれども、彼に同じて三を説く。又た三乗の縁異なるは、世界の隔別するが如し。故に世界悉檀と名くるなり。住三顕一は亦是れ世界なり。何となれば、仏は人法に随つて方便に住し、調熟して一を顕はす、故に世界悉檀に属するなり。住一顕一・住非三非一顕一は、此れ第一義悉檀に属す。通じて四悉檀を明さば、秖だ三を破して一を顕はすに四種の益あることを得。何となれば、君子は過を聞かんことを楽ひ、小人は愆を聞かんことを悪む。過を知つて必ず改めんことを欲するは、即ち執を破して病を除かんが為なり。歓喜奉行は即ち是れ世界なり。若し住三を執すれば道を進むること能はず、三を破して一に従ふに、覚悟の心生じ善法増進す。是を為人と名くるなり。三を執すれば是れ病なり、一を説くを薬と為す、是を対治と名くるなり。若し破三を聞きて理を見ることを得るは、第一義と名く。余の九種も例して爾り。故に知んぬ、仏の善巧、機縁に称合して皆な益を得せしむるは、四悉檀の力なることを。

 [42]二に本門の十用を結して四悉檀とするも、亦た別と通との二意あり。住迹顕本住本、用迹は此れ世界悉檀に属す、亦た随楽欲と名く。釈すること前の如し。開迹顕本・会迹顕本・住迹用本は為人悉檀に属す。途を改めずして更に修す。還つて本法に約して顕本を修するなり。釈すること前の如し。破迹・廃迹・覆迹は対治に属す。住本顕本・住非本非迹顕本は第一義に属す。釈すること前の如し。次に通じて一科に約して四悉檀を結せば、亦た前の如し。余の九も例して亦た爾り、具さに解すること云云。

 [43]五に四悉檀の同異とは、余経に亦た四悉檀の破三顕一・破迹顕本等を用ふれども、而も此と異なりあり。即ち両と為す、一には迹門に異を明し、二には本門に異を明す。迹門の異とは、三蔵の中に亦た四悉檀破廃等の意あるも、但だ有余・無余の涅槃と為す云云。大品の中の共般若も亦た四悉檀の破立廃等の意を用ふれども、但だ真理を悟りて未だ円に入ること能はず云云。方等の中に亦た破三顕一あり、菩薩の人に於ては一分の同あり、二乗の人は実に入ることを得ず。故に十弟子は浄名に訶せられ、八邪に堕して衆数に入らず。此は是れ破斥の語なり。不思議大乗の道を称歎す。皆な四悉檀の意を用ふれども、而も二乗は悟らず。此の経は四悉檀の意を用ふるに、二乗も疑を断じ執を除き、仏の正道に入り、受記作仏することを得。故に知んぬ、此の経は四悉檀を用ふること巧妙なることを。文に云はく、「言辞柔軟にして衆の心を悦可す」と。身子の領解に云はく、「仏、種種の縁、譬喩を以て巧みに言説したまふ。其の心安きこと海の如し。我れ聞きて疑網断じ、実智の中に安住す」と、即ち其の義なり。問ふ、法華に一を顕はすこと還つて先の破を藉る。前の調熟無くんば、今も亦た解せざらん。答ふ、今日悟ることを得るは昔の弾訶に由れども、但だ功は此の経に属して彼の得に非ずと名く。譬へば百人共に一賊を囲むに、而も攻め囲むの力は実に衆人に頼むも、能く賊を擒ふる者は勳を得て百人に属せざるか如し云云。此の経の開権顕実四悉檀の大用を最も雄猛と為す云云。発迹顕本の四悉檀は永く衆経に異なり。何となれば、迹中の力用已に諸教に出づ。本の中の十用は諸経に一も無し。況んや当に十あるべけんや。迹の中の悉檀に已に諸経に出づ、本の中の悉檀は諸経に一も無し、何に況んや四あらんや。意を以て推す可し、煩はしく多く記すること無し。