[136]憍梵波提、此には牛呞と翻ず、無量寿には牛王と称す、増一には牛跡と云ふ。昔五百世に曾て牛王と為る。牛若し食して後は恒に虚哨を事とす、余報未だ夷かならず、唼唼として常に嚼む、時人称して牛呞と為す。昔五百の雁あり、一雁常に花果を得て雁王に供す。仏、一夏阿耆達王の請を受けたまふ、五百の比丘は皆馬麦を噉ふ、而して憍梵独り天上尸利沙園に在りて天王の供養を受く。増一に云く、天上に在るを楽ふて、人間に在るを楽はざるは牛跡比丘第一なりと。天上に在るを楽ふとは是れ楽欲に随ふ、世界悉檀なり。雁王に供する福の致す所とは為人なり。人の笑を避くとは対治なり。天笑はずとは第一義なり云云。

 [137]又云く、人は但だ形を観じて徳有るを知らず、若し羅漢を笑はば即ち罪を得、人の笑を避くが故に常に天上に居す、天は徳有ることを知て其形を笑はず、故に天に居るなりと。仏滅度の後、迦葉は千の大羅漢を集め、下座の僧を遣して憍梵を召さしむ、憍梵、仏及び和尚に問ふ、答へて言く、皆滅すと。即ち言く、仏出でたまはば我れも出づ。仏住したまはば我れも住す。仏滅したまはば我れも滅すれば四道は大迦葉の所に流注すと。水に偈を説く云云。大象既に去れば象子随ふ。世尊和尚既に滅度したまふ、我れ今此に在て復何んがせんと、斯れ亦第一義なり。

 [138]約教とは、天園に住するは是れ善を示す、牛嚼有るは是れ悪を示すは三蔵の意なり。牛嚼の身を以て道を得るは此れ悪の悪に非ることを示すなり。天園に居して而して嚼むは善の善に非ることを示すは通教の意なり。界内外の善悪を示すは別教の意なり。善悪の実相を示すは円教の意なり。

 [139]本迹とは、本は四無所畏に住す、聖主は牛王の如く第一義天に安住す、迹に牛呞を示して天上に居ることを楽ふなり。

 [140]観心とは、心性中道の理を観じ、安歩平正にして其疾きこと風の如し、即ち牛王の観なり。

 [141]離婆多、亦離越と云ふ、此には星宿と翻す。或は室宿、或は仮和合なり。文殊問経には常作声と称す、父母は星辰に従て子を乞ひ、既に其れを感獲す、星に因て名を作す、出家するを得と雖も猶ほ本の字に随ふ。仮和合とは、有人は釈論を引く、空亭中に宿すに二鬼の屍を争ふを見、其に分判を告ぐ、設ひ理に依るも理を枉るも倶に害を免れず、故に実に随て答ふ。大鬼は其手足を抜く、小鬼は屍を取て之を補ふ、食し竟て口を拭て去る、其煩悩に因て誰の身といふことを測らず、故に仮和合と言ふ。常作声とは、其れ此事を疑ふ、若し我が本身ならば眼に抜き去るを見る、若し是れ他身ならば復我に随て行住す、疑惑猶豫し人に逢ふて即ち問ふ、汝我が身を見るやいなやと、故に常作声と言ふ。衆僧の云く、此人度し易しと、語て云く、汝が身本と是れ他の遺体にして、己が有に非るなりと、即ち道を得たり云云。増一に云く、坐禅入定して心倒乱せざる者は離越比丘第一なりと。

 [142]約教とは、五陰を析破して我が所有に非ずと言ふは三蔵の意なり。五陰を体達するに本と我が有に非ずとは通の意なり。十法界の五陰を分別するに、皆己が有に非ずとは別の意なり。五陰を達するに我が有に非ず他の有に非ず、陰の実相を見るは即ち円の意なり。

 [143]本迹とは、本は日星宿三昧に住して迹に此名を示す。

 [144]観心とは観心念仏して十方の仏の多きを見たてまつること、夜に星を観ずるが如し云云。

 [145]畢陵伽婆蹉、此には余習と翻ず、五百世に婆羅門となり、余気猶高し、恒水を過ぐるに、咄、小婢、流を駐めよと、恒神之が為めに両派にす、神往て仏に訴ふ、仏懺謝せしむ。即ち手を合して、小婢瞋ること莫れと、大衆之を笑ひ懺するも更に罵る。仏の言く、本習此の如し、実には高心無しと。増一に云く、樹下に苦坐して風雨を避けざるは婆蹉比丘第一なりと。

 [146]約教とは慢を滅して慢無きは三蔵の意なり。慢に即して慢無きは、通の意なり。十法界の高下を分別するは別の意なり。八自在我の仏法を具足するは円の意なり。

 [147]本迹とは、本は常楽我浄、八自在の我に住し微妙の梵声なり、迹に慢心悪口を示すのみ。

 [148]観心とは、麁言軟語、皆第一義に帰すと観ず云云。

 [149]薄拘羅とは、此に善容と翻ず、或は偉形、或は大肥盛、或は腬嚢、或は楞鄧、或は売性なり、然れども色貌端正、故に善容と言ふなり、年一百六十歳にして、病無く夭無く、五の不死の報有り。後母熬槃釜中に置き水中に、魚食し刀もて破るも皆死せず、昔不殺戒を持つが故に、九十一劫に命中夭せず、昔僧に一の訶梨勒果を施す故に、身常に病無し、能く一戒を持し四戒荘厳し、堅く持して犯さず、火水をも避けず、余人は五戒を持すと雖も毀犯するもの多し云云。身は寂静を楽ふて常に閑居に処し衆中を楽はず、眼に玄黄等の色を楽はず、耳に世間の声を聞くを楽はず、鼻に世間の香臭を嗅がず、舌に曾て人の為めに一両句の語をも説かず、意は常に禅定に在て散乱せず、乃至舎利塔も亦閑静を楽ふ、阿育王は諸の羅漢の塔を礼す。次に其塔に至て而も偈を説て言く、自ら無明を練ると雖も世に於て利益少し、二十の貝子を供すと。増一に云く、一銭を施すに而も貝子塔より飛び出で来て王の足に著く、諸臣驚怪すと。閑静少欲にして、乃至其塔猶ほ是力有り、故に増一に云く、寿命は極めて長く終に中夭せず、常に閑居を楽て衆中に処せざるは薄拘羅第一なりと。

 [150]約教とは、喧を滅して真に入るは三蔵の寂静なり。喧に即して而も真なるは通の寂静なり。二辺を離れて中に入るは別の寂静なり。辺に即して而も中なるは円の寂静なり。

 [151]本とは、本は大寂滅定に住して長寿は是れ常、無病は是れ楽、不夭は是れ我、寂静は是れ浄なり。此四徳の本に居して、迹に六根の寂静を示すのみ。

 [152]観心とは、心性中道、即空即仮即中なるは、常楽我浄の観なり。

 [153]摩訶拘絺羅、此には大膝と翻ず、舎利弗の舅なり、由来論ずるに姉に勝つも、姉孕んで論ずるに則ち勝たず、懐む所の者の智なるを知る、辯に寄するに尚爾り、何に況んや胎を出でんをや云云。即ち家を棄てて南天竺に往き十八経を読む、時の人之を笑ふ、累世にも通じ難し、一生に冀ふところに非ずと、喟然として歎じて曰く、家に在ては姉の為めに勝たれ、路に出でては他の為めに軽んぜらる、誓て読むこと休まずと。爪を剪るに暇無し、時の人呼んで長爪梵志と為す。学訖て家に還り、甥の在る所を問ふ、人の云く、仏の弟子と為ると。即ち大に憍慢す、我甥は八歳にして声五竺に震ふ、彼沙門は何の道術有てか我が姉の子を誘ふと、径仏所に往く、思惟すること良や久ふして一法も心に入るることを得ずとて、仏に語て言く、一切の法を忍ばず、忍は即ち安の義なり、此れ一切法我れ皆能く破し、安ずることを得ざらしめんと言ふ、故に一切法を忍ぜずと言ふ。仏問ひたまはく、汝が見は是れ忍ならんやいなや、此れ両の負処に堕す、若し我が見忍ぜば、前に已に一切忍ぜずと云ふ。若し我が見忍ぜざれば以て仏に勝ること無しと。即ち低頭して法眼浄を得たり。身子は仏を扇ぎたてまつり、舅の論を聞て阿羅漢果を得たり。増一に云く、四辯才を得て、難に触れて能く答ふるは拘絺羅第一なりと。南方の天王毘留匐叉、常に来て随侍す。

 [154]約教とは、外、四韋陀に通じ、内、三蔵に通ずるは三蔵の四辯なり。我に所得無く辯乃ち是の如きは通教の辯なり。若しは名、若しは義、十法界に遍きは別教の辯なり。実相に依て一切に遍き辯は円教の辯なり。

 [155]本迹とは、本は口密、口輪不思議の化、大定大慧に住し、迹に大膝を示すなり。

 [156]観心とは、心の即空即定、即仮即慧を観じて以て其心を厳る云云。

 [157]難陀、亦は放牛難陀と云ふ、此には善歓喜と翻ず、亦欣楽と翻ず、浄飯王十万の釈に偪て出家す、即ち一人なり。有師の言く、是れ律の中の跋難陀なりと。

 [158]約教とは、事に歓喜あり、理に歓喜無きは、三蔵の意なり。事の歓喜に即して是れ理の歓喜なるは是れ通教の意なり。歓喜地は即ち別教なり。歓喜住は即ち円教の意なり。

 [159]本迹とは、本は実際に住して喜に非ず不喜に非ず、迹に歓喜と名く。

 [160]観心とは、心を観ずるに理と相似し相応す、故に歓喜観と名くるなり。

 [161]孫陀羅難陀、孫陀羅は此には好愛と翻ず。亦端正なり、難陀は前の如し。種姓は那律の中に説くが如し、四月九日に生る、仏に短きこと四指なり、容儀挺特にして世と殊異す、若し衆中に入れば識らざる者有て、謂て仏来ると言ふ。弥沙塞律に云く、摩竭に裸形外道有り、大に聡明にして国人号して智者見者と為す、身子と共に論議す、舌を結して善心生じ、仏法に於て出家せんと欲す。難陀の色貌姝偉なるを見て歎じて云く、短小の比丘すら智慧概り難し、況んや堂々たる者をやと、難陀即ち度して出家せしむと。婦は即ち孫陀利にして、極めて端正なり、食息むにも相離れず、仏阿難と途に乞食を行じ其門に到りたまふ。正に婦と共に高楼に在て食す、即ち起ちて仏を迎へたてまつる。婦の言く、君還るを須ちて、乃ち共に食せんのみと。仏に白して言さく、転輪王の種、云何んぞ自ら辱ると。仏鉢を持して飯を取る。仏即ち尼倶類園に還り阿難に語りたまふ、難陀をして食を送り来らしめよと。阿難、仏の旨を宣べ其をして飯を送り仏に奉ぜしむ。仏、頭を剃らしむるに、拳を握て剃者に語らく、刀を持して閻浮提の王の頂に臨むこと勿れと。仏偪り、止むことを得ず、乃ち頭を剃る。明日仏と五百の比丘と請に応ず、住して寺を守らんことを求む、意に逃れ去らんことを欲す、仏、房を関し地を掃はしむ、南を関して北開く、此を掃へば彼汚る、復仏の帰りたまはんことを懼れて即ち逃げ走て帰り去る。路に於て仏に値ひ、身を屏して樹に隠る。樹迥に空に升る、仏見たまひて即ち喚んで将て還る。問ひたまはく、何故ぞ去ると、即ち答ふ、昨、婦と別る、還るを待て乃ち食せん、婦を憶ふて去るのみと、仏将ゐて天堂地獄に遊びたまふ云云。故に婦の字を以て之を標す。

 [162]約教とは、俗諦に法喜有り、真諦に喜無しとは三蔵教なり。俗の喜に即して是れ真の喜なるは通教なり。通の法喜に従て俗の法喜、中の法喜有るは別教なり。通の喜に即して一切の法喜を具するは円教なり。

 [163]本迹、観心前の如し云云。

 [164]富楼那は満願と翻ず、弥多羅は慈と翻ず、尼は女なり。父は満江に於て梵天に祷て子を求む。正に江の満るに値ひ、又七宝の器の中に宝を盛満して母の懐に入ると夢み母子を懐む。父の願満るを獲たり。諸の願の遂ぐるに従ふ故に満願と言ふ。母を弥多羅尼と名く、此には慈行と翻ず、又知識と云ふ。四韋陀に此品有り、其母之を誦す、此を以て名と為す。尼とは女なり。通じて女を称して尼と為し、通じて男を称して那と為す。既に是れ慈の生ずる所なる故に慈子と言ふ。増一に云く、我父を満と名け、我母を慈と名く、諸の梵行人は我れを呼んで満慈子と為すと。此れ父母の両縁に従て名を得る故に満慈子と云ふ。是人は善く内外の経書を知て知らざる所靡し、知満ずるに就くが故に復満と名く。増一に云く、善能く広く説き義理を分別するは満願子最も第一なりと。下の文に云く、説法の人の中に於て最も第一と為すと、第一とは満字を説くなり。本国に還て利益せんと欲す、仏の言く、彼国は弊悪なり、汝云何と。答ふ、我れ当に忍を修すべし、若し我れを毀辱せば、我れ当に自ら拳欧を得ざるを幸とすべし、拳欧する時は自ら木杖を得ざるを幸とすべし、木杖の時は自ら刀刃を得ざるを幸とすべし、刀刃の時は自ら五陰の毒器を離るを幸とすべしと、是れを行忍の満と為す、故に満と名く。七車喩経の中に説く、大智舎利弗の為めに称歎せらる、一切の梵行人は皆当に衣を縈ふて汝を頂戴すべし、若し汝を見ん者は大利益を得んと、是れを歎の満と為す、故に満と名く。

 [165]約教とは、析法に殷勤にして、所作已に辦ずるは、三蔵の願満なり。即空に体達して空法に於て証を得るは通教の願満なり。法眼具足するは別教の願満なり。秘密蔵に住するは円教の願満なり。

 [166]本迹とは、本願久しく満じ、迹に説法第一と為り、衆生の知識を示すなり。

 [167]観心とは、止観の中の人行理等の善知識の観の如きなり。

 [168]須菩提、此には空生と翻ず、生ずる時、家中の倉庫筐篋器皿一切皆空なり、占者に問ふ、占者吉と言ふ、空に因て生ずれば字を空生と曰ふ。依報の器皿瑞空に従て以て正報に名く、依正倶に吉なり、故に空生と言ふなり、常に空行を修す、故に善業と言ふ。若し供養すれば現報を得るが故に、故に善吉と言ふ。常に楽つて閑林石窟寂静の処に遊止し、修する所の行業空を以て本と為し、常に空定に入て無諍三昧に住し喜んで空法を説く、宣辯する所有れば皆空を分別し、衆生を将護し礙を起さしめず、行くを嫌へば即ち住し、住を嫌へば即ち行く。仏忉利より下り給ふに、率土輻湊して前を争て頂礼す、石室に端坐して諸法の空を念ず、色は仏に非ず、乃至識は仏に非ず、眼は仏に非ず、乃至意は仏に非ず、豁然として道を悟る。仏蓮華比丘尼に告げたまはく、汝が前に礼せるに非ず、汝は色身を礼す、須菩提は前に法身を見ると。

 [169]約教とは、自ら色を滅して空智生ずること有り、色を体して空智生ず、有智より空智を生じ、空智より俗智を生じ、俗智より中智を生ず、空生ずれば即ち有智なり、是れ円の空智生ずるなり、而して今は是れ円の空智生ずるなり。

 [170]本迹とは、本は実相法身に住し、迹に空を見て生ずることを示すなり。

 [171]観心とは、内外中間に在らず、自ら有るに非ず、是れを観心の法身と為すなり。

 [172]阿難、此には歓喜或は無染と云ふ、浄飯王、太子の金輪と為りて其宗社に覇たらんと冀ふ、忽ち国を棄て王を捐るに、憂悩して殆んど絶えんとす、魔来て之を誑す、汝が子已に死すと。王哭して云く、阿夷が語既に虚しく瑞相も亦験無しと。復天有て来て云く、汝が子成仏すと。王疑て未だ決せず、須臾にして信報す、昨夜天地大に動き、太子成仏すと、王大に歓喜す。白飯王奏して云く、児を生ずと、国を挙げて欣欣たり、因て歓喜と名く。是れを父母の字を作すと為す。阿難は端正にして人見て皆悦ぶ、仏覆肩衣を著せしめたまふ。一の女人有り、児を将て井に詣る、阿難を見て目視して眴ろがず、覚えずして綆を以て其児の頸に繋ぐ。中阿含に云く、四衆若し阿難の所説を聞かば、若しは多、若しは少、歓喜せざること無しと。発問せんと欲する時、先づ謦咳を為すに大衆皆歓喜す、四衆若し其黙して行住坐臥し指撝処分し進止動転するを観て皆歓喜す。阿難は四月八日仏成道の日に生る、仏に侍して二十五年を得、此れを推さば仏の年は五十五、阿難の年は二十五なり。仏時に侍を求めたまふ、五百為らんことを請ふ、前に説くが如し。衆は阿難を勧む、阿難順従し、五百皆歓喜す。目連は阿難の三願を騰ぐ、仏の言はく、預め譏嫌を知て故き衣食を受けざらんことを求む、自ら利益せんと欲して出入に時無からんことを求むと、仏印して而して許したまふ、仏の言はく、阿難は過去の侍に勝る。過去の侍は説を聞て乃ち解す、今は仏、未だ言を発せざるに阿難已に如来の意を解す、是れを須ひ是れを須ひざる皆悉く能く知る、故に法を以て阿難に付すと、如来歓喜し、四天王は各仏に鉢を奉ず。仏累ねて之を按じ、合して一鉢と成す、四縁宛然として此鉢大に重し。阿難歓喜して荷ひ持して倦むこと無し。中阿含第七に云く、阿難は仏に侍すること二十五年、聞く所は八十千揵度、皆誦して遺さず、重ねて一句を問はず、念力歓喜す、阿難仏に随て天人龍宮に入り、天人龍女を見るも心に染著無し、未だ残思を尽さずと雖も、而も能く染まで、一切の天人龍神歓喜せざる無し、仏滅度の後は師子の床に在り。迦葉大衆讃じて曰く、面は浄満月の如く、眼は青蓮華の若し、仏法の大海水、阿難の心に流入すと、自ら誓て坐して涅槃に入る、住せば離車の怨有らんことを恐れ、進めば闍王の怨有らんことを恐る、恒河の中に於て風奮迅三昧に入り、身を分て四分と為す、一は天に与へ、一は龍に与へ、一は毘舎離に、一は阿闍世なりと。阿育王は阿難の塔を礼し、千万両の金を奉じ偈もて歎じて曰く、能く法身を摂持し、法燈の故に法住す、念を仏智海に盛る、故に上供養を設く、多く聞く所を念持して、口に微妙の語を出す、世尊の讃歎したまふ所、天人の愛する所なりと。増一に云く、時を知り物を明めて至る所疑無し、憶する所は忘れず、多聞広達にして奉持に堪任なるは阿難第一なりと。約教とは、歓喜阿難は三蔵なり。賢阿難は通なり。典蔵阿難は別なり。海阿難は円なり。

 [173]本迹とは、本は非歓喜非不歓喜に住し、法身は虚空の如く、智慧は雲雨の如く、能く持し能く受く、迹に歓喜と為るなり。

 [174]観心は、相似の即空即仮即中と相応す、是れ観心の歓喜なり、乃至真観と相応す云云。

 [175]羅睺羅、此には覆障と言ふ、往昔鼠の穴を塞ぐ、又婆羅門を看ざる六日、是縁に由ての故に、故に覆障と言ふ。太子出家を求むれども父王許さず、殷勤にして已まず。王の言く、若し汝子有らば汝が出家を聴さんと、菩薩、指をもて妃の腹を指し、却後六年に汝当に男を生むべしと。胎に在ること六年なり、故に覆障と言ふ。真諦三蔵云く、羅睺は本と修羅と名く、能く手もて日月を障ふ、此に翻じて応に障月と言ふべしと。仏の言く、我法は月の如し、此児は我れを障へて即ち出家せしめず、世世に我れを障へ、我れ世世に能く捨つと、故に覆障と言ふ。仏出家の後に耶輸娠むこと有り、諸釈咸く瞋る、何に因てか此れ有ると、治せんと欲し殺さんと欲し悪声路に盈つ、宝女劬毘羅之を証し小し差ゆ、因て火坑を焚きて大誓願を発す、我れ若し非を為さば子母倶に滅し、若し真の遺体ならば天当に証を為すべしと、因て子を抱て坑に投ず、坑変じて池と為り蓮華もて体を捧ぐ、王及び国人始めて復疑はず。後に仏国に還りたまふ、耶輸、羅睺をして仏に歓喜丸を奉らしむ、羅云、幼稚の年を以て、大衆の中に於て径に持て仏に上る、耶輸此れを以て謗を息む、謗は子有るに由る、故に覆障と言ふ。祖王歓喜す、其父を失ふと雖も而も其子を獲、孫金輪と為らば吾亦何ぞ恨みん、其長大を想ひ神宝の至るを冀ふ、而るに仏出家せしめんことを索む、父王許さず。耶輸将て高楼に上る、目連空を飛んで来り取る。仏度して出家せしめ、舎利弗に付して弟子と為したまふ。既に出家し已れば王位亦失す、故に覆障と言ふ。羅睺は沙弥の年を以て喜んで多く妄語す、国王・大臣・婆羅門・居士の来て仏に見えんことを求む、羅云答へて云く、在さずと、無量の人をして仏を見たてまつることを得ざらしむ、是れを他を障ふと為す。是妄語に由て仏即ち訶責したまふ。行て還て羅云をして足を洗はしむ、脚もて澡盆を挑げ、三たび覆し三たび仰ぐ、然して後地に覆して命じて水を注がしか、羅睺の云く、盆覆て水を注ぐに立たずと。仏の言く、汝は覆盆の如し、仏法の中に於て法水立たず、今当に実語して妄語すること勿るべしと。後時道を修むること殷勤にして獲ず、以て仏に問ひたてまつる。仏の言く、汝は人の為めに五陰を説くや未しやと。答へて言く、未しと。当に他の為めに説くべし、説き竟て又問ふ、汝は十二入を説くや未しや、十八界を説くや未しや、説法は是れ得道の門なり、若し道を得んと欲せば、当に他の為めに法を説くべしと。因て広く説法し竟ぬ、然して後道を得たり、是れを覆障と為す。既に已に得道し見愛皆除こり、三界の生尽ぬ、故に覆障と言ふ。三界の生尽くれば願牽く能はず、故に覆障と言ふ。仏四大羅漢に勅したまふ、滅度することを得ざれ、我法の滅尽を待てと、是れに由て住持して、今に未だ無余涅槃に入るを得ず、故に覆障と言ふ云云。

 [176]約教とは、析法の道諦の四住を障るは三蔵の意なり。体法の道諦四住を障るは通教なり。次第の三智の五住を障るは別教なり。一心の三智の五住を障るは円教なり。

 [177]本迹とは、本は中道に住して二辺を障塞す、八種の障は涅槃の辺を障へ、一種の障は生死の辺を障ふ、一種は生死を障ふるに非ず、涅槃を障ふるに非ずして、無余を障ふるなり。

 [178]観心は前に例して解す可し云云。

 [179]六に是の如き等の衆の知識する所を結す、或は言く、知は秖だ是れ識なりと。或は言く、名を聞くを知と為し、形を見るを識と為す、形を見るを知と為し、心を見るを識と為すと。本迹とは、本は衆生の為めに満字の知識と作り、迹に半字の知識と為る云云。観行の知識は止観の如し、多知識衆竟る。

 [180]次に少知識衆を列せば、復有学無学二千人と倶なり、但だ位を挙げ数を明して而も徳を歎ぜず、此れを呼んで少知識衆と為すのみ。聖と凡と交を絶つも亦多識少識を分別せず、特に以て高を希ひ遠を慕ふ者は多識を以て之を引き、名を蔵し徳を隠して退譲する者は少識を以て之を引く、衆生に随順するが故に若干有り、多少の迹を以て其本を失ふ可らず。

 [181]学無学とは、三蔵の中の十八種の学人、九種の無学人なり。通教は五地を皆学と名け、六地を無学と名く。又通教は九地を名けて学と為し、仏地を無学と為す。別円の中には或は功用無功用に就き、或は具足未具足に就て学無学を明す。阿含に云く、外道仏に問ひたてまつる、羅漢は更に学するやいなやと。仏の言はく、羅漢は悪法を作さずして、善法に住す、其無学を学ぶを即ち名けて学と為すと。若し爾らば、学人も亦無学と称するや、学人は其の所断に斉て復更に断ぜず、即ち是れ無学なり、是れを四句と為す。五方便に就ては非学非無学便ち是れ五句なり。四教の中に約するに例して亦応に爾るべし、四五二十句なり。

 [182]本迹とは、本は法身の大士にして、満字の学無学の位に居す、衆生は応に半字の学無学の人を以て双樹を荘厳すべきなり。

 [183]観とは正しく中道を観じて二辺の中間を縁ぜざるは即ち是れ無学なり、能く是の如く観ずるを、是れを名けて学と為す。

 [184]若し観門に就て数を明さば、色心を観ずるに十法界十如を具す、界如互に論ずれば即ち二千を具す。迹を挙ぐるが故に本法を標す、迹は即ち是れ本の迹なり。

 [185]次に尼衆を列せば、旧は此れを以て前に例して二衆と為すも、今は用ひず。若し前に例して多識少識の二衆と為さば、又復文無し、義も亦不可なり、但だ是れ両の衆主を挙ぐ、何ぞ須らく苦んで名けて大小多少と為すべけんや。

 [186]先づ波闍波提を列す、此には大愛道と翻ず、亦は憍曇弥と云ふ、此には衆主と翻ず、尼とは天竺女人の通名なり。本は智度の法門に住し、迹に千仏の母と為り導師を生育す。観に釈さば、中観広博なるを大と名け、無縁の慈を愛と名け、中理虚通なるを道と名く。大は即ち自行、愛は即ち化他なり。愛を以ての故に生を受け、慈の故に有に渉るが如く、道は即ち自行化他に通ずるなり。

 [187]六千とは数なり。観門とは六根清浄にして千の功徳を具するを観ず。眼に八百有り、耳に千二百なりと雖も、多を以て少に足し数六千に満つ、本の法門を表す、亦是れ観行の意なり。

 [188]羅睺羅母耶輸陀羅とは、子を以て母を標す、此には花色と翻す、亦は名聞と曰ふ。或は云く、翻無しと。温良恭倹にして徳は太子に斉し、然るに家に在ては菩薩の妻と為り、天人に知識せられたり。家を出でては尼衆の主と為つて位は無学に居す、豈に是れ名聞無きの衆ならんや。十二遊経に三夫人を出す、第一瞿夷、二耶輸、三鹿野なり。未曾有及び瑞応は皆羅睺は是れ瞿夷の子と云ふ。涅槃及び法華には、皆是れ耶輸の子と云ふ、二義云何が通ぜん。或は彼経は大母を挙げ此処には所生を挙げたるなる可し。釈論には瞿毘陀は是れ宝女にして孕まずと、即ち是れ瞿夷なり。此には明女と翻す、故に知ぬ、定んで是れ耶輸の子なり。

 [189]本迹とは、妻は則ち斉なり、豈に博地にして太子の妻と為ること有らんや、故に知ぬ、本は寂定微妙の法喜に住して、迹に仏の妻と為ることを。悲花に云く、宝蔵仏の所にして妻と為らんことを誓願するのみと。

 [190]空を観ずる無漏の法喜は、即ち鹿野を以て妻を表す、仮を観ずる道種智の法喜は、即ち耶輸を以て妻を表す、中を観ずる法喜は、即ち瞿夷を以て妻を表す。

 [191]上には当分に本迹・観心を明す、今更に総じて論ぜん。善権の曲巧を顕わし観行の精微を明かす。

[192]夫れ首楞厳をもて種種に示現し、根性に称適して為さざる所靡し、今且らく近く論ぜん。迹を王宮に託し神を聖后に降す、法身の菩薩は皆仏の行化を輔け影を余家に散ず。若しは三十二瑞金姿誕応すれば、諸の大士各各に出生す、或は室を空にし、宝を雨らし辯に寄せて夢を通ず。若し皇太子、国を捨て王を捐て城を踰へ道を学すれば、諸の大士悉く師に従て業を請ひ、才芸兼ね通じ彼の宗匠と為る。若し法輪初めて啓け甘露の門開け闢するに諸の大士の化縁未だ熟せず、同じく受けざることを示す。庭を分て礼を抗し、我道真なりと崇む。能化所化全く生しきこと乳の如し。若し所化の縁熟すれば、則ち素絲染め易く池花早く開く、凡を革めて聖と成し、乳を転じて酪と成す、師宗は仏の上首の弟子と為り、或は智慧神通辯才三昧各各第一なり、共に法王を輔けて更に未度を度し、重ねて已熟を熟す。方等の座席に於て、菩薩の不可思議の功徳を聞て小を恥ぢ大を慕ふ。小を恥ぢては則ち嗚呼して自ら責む、如来無量の知見を失はんことを。大を慕ひては則ち知らず、当に云何がして仏の無上の慧を得べけんと、酪を転じて生蘇と為すが如し。次に船若の摩訶衍門を聞く、初め色心を歴て種智に終るまで、小大を含挾す、出内取与し、或は共、或は別、或は偏、或は円。命を奉じて領知し、而して希取する無し、未だ頓に捨てずと雖も已に漸く通泰す。生蘇を転じて熟蘇と為すが如し。次に法華を聞く、天性を会し、父子を定め記莂を授けて大乗を付し、三を廃して一に帰す、余の四味同じく一の醍醐なるが如し。一人をして独り滅度を得しめず、皆如来の滅度を以て而も之を滅度す。法王法臣大事出世して巧に方便を用ふ、初めに半字の法を用ひて二十五有の繁芿を破し、四枯の双樹を成じて衆生を利益す。次に半満の法を用ひて二乗の独善を破し、菩薩の広大を成じ、四栄の双樹を成じ、聖人を利益す。後に常住の満字を用ひて二辺の前後を破し、非枯非栄の仏の秘密蔵を成じて、究竟して利益す、主将の功畢り、大誓の願満つ、故に身子目連は法華に於て化を息む、聖主の命を贖ふ。斯れ亦久しからず。文に云く、我が本の誓願の如き今は已に満足す、如来は久しからずして当に涅槃に入りたまふべしと。唱滅の言は此れより起る、二万の灯明、迦葉仏等は皆法華に於て究竟したまふ、今師弟皆此経に於て迹を発するを以て、内に菩薩道を秘し、外に現に声聞と作る、我れ実に成仏已来無量億劫なり。此れを以て之を推するに、諸の大羅漢は法身地より影を俯し、縁に随て迹に万水に臨む、学無学と為り男と作り女と作り道を示し俗を示す、首楞厳の力現ぜざる所靡し、方便善権此の若しと為す云云。

 [193]総じて観を明さば、上の師弟の施化、法身の所為、若し観の方便を作さざれば行人に於て益無し。貧の宝を数ふるが如く盲の燭を執るに似たり。然るに心数は甚だ多し、且らく善数に約す。弟子は衆きも、但だ十人を挙ぐるが如きのみ。十の善数とは、謂く信・進・念・定・慧・喜・猗・捨・覚・戒なり、此十数は心王を輔け、能く悪を改めて善に就き、凡を革め聖と成し、一切の法門を辦ず、但だ、十心を以て本と為す、十弟子の仏の行化を輔け、共に衆生を熟して仏法を立つるが如きなり、信数は那律の天眼第一に対す、眼は是れ五根の首、諸方は東を以て上と為すが如し、信は諸数に於て初めて仏法に入るなり。進数は迦葉の頭陀第一に対す、抖擻勤苦、進数に対するなり。念数は波離の持律第一に対す、念力牢強なれば憶持して忘れざるなり。定数は目連の神通第一に対す。慧数は身子の智慧第一に対す、皆解す可し。喜数は阿難の多聞第一に対す、多聞分別の楽ひ、楽は即ち喜数なり。猗数は旃延に対す、論の体は微を窮め理を尽し、邪を除き正を顕はす、猗の悪を離れて善を得、苦を放れて楽に入るが如きなり。捨数は善吉の解空第一に対す、若し空平等に住するは捨数と相応す。覚数は富楼那の説法第一に対す、覚は是れ語の本、本立すれば則ち辯説窮り無し。戒数は羅云の持戒第一に対す、解す可し。十数は心王を扶けて能く観行を成ず、一念の中に於て深く善法に入り三宝具足す、王は即ち仏宝、数は即ち僧宝、所縁の実際は王無く数無し、即ち法宝なり。若し実際に入れば王数の功力用足る。又通じて大地の十数の心王と倶に起るを取る、善に入り悪に入り、遍ねく一切に通ず、謂く想・欲・触・慧・念・思・解脱・憶・定・受なり。想は富楼那に対す、想は仮名を得、其人善く仮名に達して辯才滞ること無し。欲は迦葉に対す、迦葉は世間の欲無くして、而して無為を欲す。触は旃延に対す、触は二事に入り、更に相渉入す、旃延は善く論議し、能く往復を窮む。慧は即ち身子なり、解す可し。念は波離に対す、念は持律の上なり。思は羅云に対す、思は是れ行陰、此人の実行持戒なり。解脱は善吉に対す、脱は無累に名く、此人は空を解し有に於て脱を得たり。憶は那律に対す、憶動発して境を取り天眼を修すること易し、三摩提定数は目連に対す、解す可し。受は阿難に対す、多聞領持して謬り無きなり。十人各各衆徳を備ふ、専門を引かんが為めに仏道を宣示し衆生の欲するところに随ふ、慧を欲する者は身子を師とし、乃至多聞を欲する者は阿難を師とす、共に法王を輔け各各一職を掌る、今の観心も亦是の如し、一々の心中に皆王数を具す、観を成ぜんが為めの故に、王数相扶けて開悟を取る、或は想数に於て道に入り、或は欲数に於て道に入る、宜しき所の者に随て心王心数而も共に之を攻む、塵労の諸心を化取して而も仏事を作す。此観を作して未だ悟らざるは、観行乳の如く、若し無漏を発するは観行酪の如く、若し塵沙を破するは生熟蘇の如く、若し無明を破するは観は醍醐の如し。醐醍の時に至て王数皆畢る。心心法数行ぜず、故に般若波羅蜜を行ずと名く。普賢観に云く、心を観ずるに心無く、法は法に住せず、我心自ら空にして、罪福に主無しと、即ち是れ心無く数無きを名けて正観と為す、是の心数の塵労、若し尽さざれば観は則ち訖らず、故に経に言く、衆生度せずんば我れ正覚を成ぜずとは即ち此意なり云云。

 [194]第二に菩薩衆を列すれば、釈論に云く、菩薩は出家、在家の四衆の摂と為すべし、何が故ぞ別に列する、答ふ、菩薩の四衆の中に堕する有り、四衆の菩薩の中に堕せざる有り、其発心作仏せざるが為めなりと、故に今別に同じく発心して作仏を求むる者を列して菩薩衆と名く。文六と為す、一に気類、二に大数、三に階位、四に歎徳、五に列名、六に結句なり。

 [195]一に気類とは即ち是れ菩薩摩訶薩なり、若し具さに存せば応に菩提薩埵・摩訶薩埵と言ふべし。什師煩を嫌ふて提埵の二字を略す、菩提、此には道と言ふ、薩埵、此には心と言ふ、摩訶、此には大と言ふ、此諸人等、皆広博の大道を求む、又衆生を成熟す、故に道心大道心の気類なり。

 [196]菩薩多種なり、謂く偏・通・別・円。釈論に迦旃延子の六度の斉限あつて満ずるを明すを引くが如きは、此れは血の衆生を調へて乳と為さんと欲するなり。大品に菩薩有り、発心して薩婆若と相応すと明すが若きは、此れは乳を調へて酪に入れんと欲するなり。大品に菩薩有りて発心して遊戯神通して仏国土を浄めんと明すが若き、又浄名の中に不思議解脱を得る者、皆能く身を変じて座に登り、而して復屈を受け訶を被むるが如きは、此れ酪を調へて生熟蘇と為さんと欲するなり。大品に菩薩有りて発心して即ち道樹に坐し正覚を成じ法輪を転じ衆生を度すと明すが若きは、此れは是れ蘇を調へて醍醐と為すなり。故に下文に云く、菩薩是法を聞て疑網皆已に除こると。又云く、若し菩薩ありて法華を聞かずんば、善く菩薩道を行ずるに非ず、若し此経を聞かば即ち善く菩薩道を行ずと。又涅槃に云く、菩薩ありて涅槃を聞かずんば、常に希望有り、若し涅槃を聞かば希望都て息むと、故に略するに四種有るなり。

 [197]本迹とは、本地は測り難し、或は等覚に居し、或は法王に斉し、善財の法界に入り文殊を見るに、色像無辺にして法門深遠なるが如し、本は諸仏に隣り、迹に釈迦を輔けて菩薩と為る、普く色身三昧の力を現じ、影を散じ容を垂る、口輪不可思議の化を以て、宜しきに随て広く説く、意を以て知る可し、言を以て辯ず可らざるなり。迹に四味を引て一実に帰する所以なり、譬へば鎚碪は諸の淳璞を器とするが如し、醍醐を成じ已れば一期の化息む、然るに其本地は究竟して成就す、豈に是れ今日始めて大乗に入らんや。亦寂滅道場の高山先づ照すにも非ず、若しは頓、若しは漸、皆迹の為す所なるのみ。

 [298]観の解とは、中道の観心は双て二諦を照すを大と名く、通じて菩提の果に至るを道と名く、五住の塵労を破するを成衆生と名く云云。

 [199]八万人とは数なり、余経の集衆甚だ多し、此経何ぞ少き。或は是れ其大数を語る、或は王の密事を論ずるは、率土の同じく謀る可らざるに譬ふ云云。

 [200]観心に約すれば、一の善心を観ずるに十法界を具す、十界交互に百法界、千の性相等を具す、十善なれば即ち万法なり、八正道に約すれば即ち八万の法門なり云云。

 [201]皆於阿耨三菩提不退転とは位を明すなり、阿耨、此には無上道と云ふ、境妙の中に説くが如し、位は位妙の中に説くが如し、不退転とは位行念に約して不退を論ず。

 [202]応に四種に分別すべし、三悪道に生ぜざるは位不退なり、辺地に生ぜず、諸根完具し女身を受けざるは即ち行不退なり、常に宿命を識るは即ち念不退なり、此れを具するを阿鞞跋致地と名く、三蔵の義なり。

[203]六心已前の軽毛の菩薩は信根未だ立せざれば其位猶ほ退す、七心已上は、初地より六地に至るまで、退して凡夫二乗と為らざるを位不退と名く。正使已に尽くと雖も、而も未だ遍ねく万行を修する能はざれば其行猶ほ退す、七地に至るを行不退と名く、而も猶ほ二乗の念を起す、故に念に退有り’、八地に至て道観双流して法流水に入るを念不退と名く、此れを阿鞞跋致地と名くるが若き、此れ乃ち三乗共の十地の義のみ。

 [204]地師の云く、十住は是れ証不退、十行は是れ位不退、十廻向は是れ行不退、十地は是れ念不退なりと、此れは是れ別教の義なり、此経には会せず、今用ひざる所なり。瓔珞に云く、初地に三観現前し、心心寂滅して自然に流入すと、此れ亦別教の不退にして今亦用ひず。

 [205]華厳は初住に如来の一身無量身を得、三不退を具すと明すが若き。此れ円教の不退なり、此れは是れ一実の事なり、今は此れを用ひて位を判ずるなり。

 [206]本迹とは、本地は寂滅にして、尚ほ十地に非ず、況んや是れ初住ならんや、尚ほ初住不退に非ず、況んや復別通ならんや、別通の位は宜しく余経の列衆を釈すべし、円教の位は正しく今の経に在り、諸の経論の師は既に迹を識らず、安んぞ能く本を知らん、歎ずる所既に謬る、毀り其中に在り、還て増減の両謗を成ず、何ぞ歎徳を謂はん。

 [207]観心とは、三観は即ち三不退なり、又一心三観は即ち一心の三不退なり云云。

 [208]旧云く、皆得陀羅尼より去は始めて是れ徳を歎ずと、今不退転を取るに即ち両意を具す、上を成ずるは位を明すに属し、後を起すは歎徳に属す。旧に云く、歎徳を十二句と作し、分て四意と為す、初の三句は現徳を歎じ、次の三句は往行を歎じ、次の四句は内体を歎じ、後の両句は外名を歎ず、四意同じからざれども而も徳初めに居す、故に歎徳と称す。現を歎ずるに又両あり、初めの一句は自行を歎じ、後の二句は化他を歎ず、行を歎ずるに三と為す、初めの句は行の本を歎ず、本は諸仏に従て般若を得、次の句は本行を歎ず、行は福徳なり、既に福徳有り、能く慧を資く。次の句は仏の為めに歎ぜらる。体に又三あり、初めの慈悲は応身を歎じ、中間の両句は心慧報身を歎ず、後の一句は法身を歎ず。名を歎ずるにこと為す、初めの句は名普ねく聞ゆるを歎じ、次の句は能く衆生を度するを歎ずと。此分文は極めて眉眼有り、宗体を覈論するに殊に趣向無し。若し通教を歎ぜば、通教に三身無し、又仏慧に入るに非れば名普ねく聞へず、種種の義成ぜず。若し別教を歎ぜば、別教の初地は已に二乗を過ぐ、云何ぞ七地に更に声聞支仏の念を起さん。若し円教を歎ぜば、応に七地已下に不退の徳無しと言ふべからず、進退当ること無し、竟に誰をか歎ずと知らん、是れ用ひざる所なり。

 [209]今は十三句を以て横竪と作して文を消す、一には竪に十地に約する義便なり、二には横に初住に約する義便なり。不退転とは、前を成ずるは即ち是れ位を明し、後を起すは即ち是れ徳を歎ずるなり、以て初地に対す、初地を歓喜と名く、其の二辺に退堕せずして、中道に入りて三不退を獲ることを喜ぶ、故に知ぬ、初の歓喜地を歎ずるなり。

 [210]皆得陀羅尼とは二地を歎ず、二地を離垢と名け、亦は離達と名く、諸悪を離遮し衆善を達持す、即ち陀羅尼の義なり、故に知ぬ、離垢地を歎ずるなり。

 [211]楽説辯才は三地を歎ず、三地を明地と名く、内に智明かなれば外に説辯あり、智を知らんと欲せば説に在り、説に種種有り、楽説最勝の故なり、故に知ぬ、第三の明地を歎ずるなり。

 [212]転不退転法輪は四地を歓ず、四地は焔と名く、焔は能く闇を破す、又能く炷を焦す、法輪を転じて自ら己が惑を害すること炷を焦すが如し、他の迷を破すること闇を除くが如し。故に知ぬ、第四の焔地を歎ずるなり。

 [213]供養百千諸仏は五地を歎ず、五地を難勝地と名く、此地は深禅定を得、神通力を用ひて勝れ難く及び難し、一念の頃に於て遍ねく十方に至て諸仏を供養す、故に知ぬ、第五地を歎ずるなり。

 [214]於諸仏所植衆徳本とは六地を歎ず、六地を現前と名く、禅を得て能く諸仏を供養するに由て、福は種智を資けて種智現前す、智は是れ徳の本なり、種を地に植るが如し、故に知ぬ、第六地を歎ずるなり。

 [215]常為諸仏之所称歎とは第七遠行地を歎ず、此地は二智の方便は一切に出過し、広く利益を修し仏心に称会す、故に知ぬ、第七地を歎ずるなり。

 [216]以慈修身は第八不動地を歎ず、正智動ぜず、三界を出でず、但だ慈を以て身を薫じ、応じて五道に入る、口に薫じて為めに法を説き、心に薫じて為めに方便を設く。正法華には具さに三業に薫ず、故に知ぬ、第八地を歎ずるなり。

 [217]善入仏慧は第九地を歎ず、九地を善慧と名く、深く実際に入り妙に本源に徹す、此名義最も合す、故に知ぬ、第九地を歎ずるなり。

 [218]通達大智は第十地を歎ず、十地を法雲と名く、法身は虚空の如く、禅定は大雲の如く、智慧は大雨の如し、善く仏法に入るを慧と名け、巧に仏法を用ふるを智と名く、互に挙るのみ。到於彼岸は十地の内徳を歎ず、三諦の彼岸に到り、因中に果を説く、又到ること久しからざるに在るなり。名称普聞とは十地の外徳を歎ず、内徳深広なるに由て、声名をして普ねく聞へしむるを致す、内外相称す、若し等覚の位を開かば、此二句之に擬す。能度百千衆生とは余地の人を度するは、或は一界より九界に至る、能度と名けず、十地は前に勝る、故に能度と称す。

 [219]諸地悉く衆の功徳を具す、而して今出没して釈する者は、人情異を好むが為めの故なり、十地の名便に依るが故に、又竪の義をして解し易からしむるが故に、此の一途を作して文を消するのみ。

 [220]次に横に歎ぜば、直に初住に約して之を説く、余の位位例して解す可し。初発心住は、一発一切発にして二辺を出過し、凡を革めて聖に超へ中道に入る、其心寂滅にして念念に薩婆若海に流入す、故に不退転を得と言ふ。初住に取相無知無明等の障を遮離し、般若解脱法身等の徳を持達す、故に陀羅尼を得と言ふ。十信の似解も尚ほ能く妙音を以て遍ねく三千界に満つ、何に況んや初住の真解口密の功徳をや。故に楽説辯才と言ふ。初住に能く身を百世界に分て作仏す、其実処を論ずれば無量無辺なり、能く作仏し説法教化するを以ての故に能転不退法輪と言ふ。初住に不思議の神力を得て遍ねく能く法界の諸仏に承事す、故に「百千の諸仏を供養す」と言ふ。初住に実相の本を得、能く衆徳を植るなり、初住に仏の知見を開き、己が法と諸仏と同じと知見す、故に「仏の為に称歎せらる」といふ。初住の無縁の慈は、普ねく色身を現じ遍ねく法界に応ず、故に「慈を以て身を修す」と言ふ。初住に秘密蔵に入る、故に「善く仏慧に入る」と言ふ。初住の一心三智は能く障礙すること無し、故に「大智に通達す」と云ふ。初住の事理は分に究竟す、故に「彼岸に到る」と言ふ。初住の円徳に真実にして名と相称ふ、故に「名称普ねく諸仏世界に聞ゆ」と言ふ。初住は能く十法界の為めに依止と作て安立救護す、故に「能く百千衆生を度す」と言ふ。初住に更に無量無辺不可思議の種種の功徳有り、略して十三句を言ふのみ。二住より去乃至等覚も亦復是の如し。故に大品に云く、初め阿字門に四十一字の功徳を具す、後の荼も亦諸字の功徳を具す、中間も亦爾り、字等しく語等しく功徳も亦等しと、問ふ、此中に断惑の徳を歎ず、三蔵は惑を断ぜざれば、歎ぜられざる可し、声聞尚ほ歎ぜらる、迹に通別と為る、何ぞ徳を歎ぜざるや。答ふ、通じて迹を歎ずれば乃ち此義有り、今経は正しく円人を明せば方便を歎ぜざるのみと。問ふ、云何ぞ諸句の功徳は皆初住を歎ずるや。答へて曰く、余位亦是の如し、何ぞ独り初住のみならん。旧に八地に諸の功徳有りと云て以て疑を為さず、今円に初住を歎ず、何れの徳か摂せざらん、初住尚ほ爾り。何に況んや後位をや。法華論に云く、上支下支門は総相別相なり、応に知るべし、初め不退転を得るの一句は是れ総なり、此不退に十種の示現有り、聞法不退転は即ち是れ陀羅尼、楽説不退転は即ち是れ楽説辯才、説不退転は即ち是れ不退の法輪を転ずるなり。依善知識不退転は即ち是れ百千の諸仏を供養して衆の徳本を植うるなり、断疑不退転は即ち是れ諸仏の為に称歎せられ、入事不退転は即ち是れ慈を以て身を修め、入一切智如実境不退転は即ち是れ善く仏慧に入るなり。依我空法空不退転は即ち是れ大智に通達し、入如実境不退転は即ち是れ彼岸に到り、応作所作不退転は即ち是れ百千の衆生を度するなり、故に初の総句は即ち是れ上支、次の諸の別句は即ち是れ下支なりと。記の中に横に初住の徳を歎ず、即ち此意と同じきなり。論に云く、二に摂取事門とは、諸の菩薩は何等の清浄地の中に住し、何等の方便に因り、何等の境界、何等の応作所作を示現するが故にと。若し此義に従はば竪に菩薩の徳を歎ずることを作すも亦妨げ無し。

 [221]観心に歎徳を解するとは、不退転は前に説くが如し。陀羅尼とは空観は是れ旋陀羅尼、仮観は是れ百千旋陀羅尼、中観は是れ法音方便陀羅尼なり。又空観をもて心を観ずるに但だ名字のみ有り、即ち聞持陀羅尼なり。仮観をもて心を観ずるに、無量の心、心心数の法は皆是れ法門なるは、即ち行持陀羅尼なり。中観をもて心を観ずるに心は即ち実相たるは、即ち是れ義持陀羅尼なり。仮観をもて心を観ずるに十法界の法を具するは、即ち法無礙辯なり。中観をもて心を観ずるに十法界皆実相に入るは即ち義無礙辯なり、空観をもて心を観ずるに十法界は但だ名字語言のみ有るは即ち辞無礙辯なり。一心を観ずるに即ち三心、三心即ち一心、一界一切界、旋転無礙なるは、即ち楽説無礙辯なり。空観は是れ位不退の法輪を転ず、仮観は是れ行不退の法輪を転ず、中観は是れ念不退の法輪を転ず。仏に供養すとは秖だ是れ仏語に随順す、今仏の教に順じて三の観心を修するは即ち是れ仏を供養するなり、五住を破し解脱を得んが為めの故に即ち法を供養するなり。三諦の理和するは即ち僧を供養するなり。又衆行の心の観智の心を資くるは即ち仏を供養するなり、観智の心の境界を開発するは即ち法を供養するなり。境智の心の和するは即ち僧を供養するなり。実相の心は是れ観智の心の本、観智の心は是れ衆行の心の本なり。本を得れば種植則ち立つ、故に「衆の徳本を植ゆ」と言ふ。観智の心は境界に冥じ、境界は観智に印す、智は照す所有りて常に境と合す、即ち是れ仏の為めに歎ぜらるるなり。空観は法縁の慈の為めに薫ぜらる、仮観は衆生縁の慈の為めに薫ぜらる、中観は無縁の慈の為めに薫ぜらる。空観は通の仏慧に入り、仮観は別の仏慧に入る、中観は円の仏慧に入る、空観は一切智の彼岸に到る、仮観は道種智の彼岸に到り、中観は一切種智の彼岸に到るなり。空観は真諦を聞き、仮観は俗諦を聞き、中観は普ねく中道第一義諦を聞き、亦普ねく三諦を聞く。空観は四住百千の衆生を度し、仮観は塵沙百千の衆生を度し、中観は無明百千の衆生を度す、一心三観に無量の徳有り、歎ずれども尽すこと能はず、止だ略説するのみ。

 [222]五に列名とは、大士の大名は或は法門に従ひ、或は行徳に従ひ、或は本願に従ふ、是れ一名なりと雖も無量の義を備ふ、今経に依り観に依て十八の菩薩の名を銷す。

 [223]文殊師利、此には妙徳と云ふ、大経には了了に仏性を見ること猶ほ妙徳等の如しと云ひ、無行経には満殊尸利と云ひ、普超には濡首と云ひ、思益には諸法を説くと雖も而も法相を起さず非法相を起さず、故に妙徳と名くと云ふ。悲花に云く、願くは我れ菩薩の道を行じ、化する所の衆生、皆十方に於て先に正覚を成じ、我天眼をして悉く皆之を見せしめん、我の国土は皆一生の菩薩をして悉く我れに従て道心を勧発せしめん、我れ菩薩の道を行ずること斉限有ること無しと。宝蔵仏の云く、汝功徳を作すこと甚だ深く甚だ深し、妙土を取らんことを願ふ、今故に汝を号して文殊師利と名くと、北方歓喜世界に在て作仏し、歓喜蔵摩尼宝積仏と号す、今猶ほ現在す、名を聞けば四の重罪を滅す、菩薩の像と為り釈迦に影響するのみ。心性の理を観ずるに、三徳秘密、縦ならず横ならず、故に妙徳と名く。

 [224]観世音とは、天竺には婆婁吉底税と云ふ。思益に云く、若し衆生の見ん者は、即時に畢定して菩提を得、名を称する者は衆苦を免るることを得んと、故に観音と名く。悲花に云く、若し衆生有て苦を受くるも、我名を称する者、我れを念ずる者、我が天耳天眼の為めに見聞せられん、苦を免るるを得ずんば正覚を取らじと。宝蔵仏の云く、汝は一切の衆生を観じて大悲心を生ず、今当に汝を字けて観世音と為すべしと。此の下の文は自ら名を釈す云云。