[1]四に正しく今の意を論ずるに、二と為す。先に略して彼の名を用いて妙の義を顕わす。因に三義を具すとは、一法界に九法界を具するを、体広しと名づけ、九法界は即ち仏法界なるを、位高しと名づく。十法界は即空・即仮・即中なるを、用長しと名づく。一に即して三を論じ、三に即して一を論ず。各おの異なるに非ず、亦た横に非ず、亦た一に非ざるが故に、妙と称するなり。果の体に三義を具すとは、体は一切処に遍きを、体広しと名づく。久しく已に成仏して久遠久遠なることを、位高しと名づく。本従り迹を垂れ、過・現・未来の三世に物を益するを、用長しと名づく。是を因果の六義、余経に異なると為す。是の故に妙と称す。又た、乳の経の一種の因果は広・高・長にして、一種の因果は狭・下・短なれば、則ち一麁、一妙なり、云云。酪の経は唯だ一種の因果のみにして、狭・下・短なり。但だ麁なるのみにして妙無し。生蘇の経は、三種の因果は狭・下・短にして、一種の因果は広・高・長なれば、則ち三麁一妙なり。熟蘇の経は二種の因果は狭・下・短にして、一種の因果は広・高・長なれば、則ち二麁一妙なり。醍醐の経は一種の因果は広・高・長なれば、但だ妙なるのみにして麁無し。又た醍醐の経は妙因妙果にして、諸経の妙因妙果と異ならざるが故に、称して妙と為すなり。復た次に、観心もて釈す。若し己心を観ずるに、衆生心・仏心を具せずば、是れ体狭し。具せば、是れ体広し。若し己心、仏心に等しからずば、是れ位下し。若し仏心に等しくば、是れ位高し。若し己心・衆生心・仏心は即空・即仮・即中ならずば、是れ用短し。即空・即仮・即中ならば、是れ用長し。復た次に、一法界に於いて、十法界の六即位に通達せば、亦た是れ体広く、亦た是れ位高く、亦た是れ用長し。初めに十法界に約するは、是れ理一を顕わす。次に、五味に約するは、是れ教一に約す。次に、観心に約するは、是れ行一に約す。次に六即に約するは、是れ人一に約す。略して妙の義を示し竟わる。広く説かば、先に法、後に妙なり。

 [2]南岳師は三種を挙ぐ。謂わく、衆生法・仏法・心法なり。『経』に「衆生をして仏の知見に開示悟入せしめんが為なり」とあるが如し。若し衆生に仏の知見無くば、何ぞ開を論ずる所あらん。当に知るべし。仏の知見は衆生に蘊まるなり。又た、『経』に、「但だ父母の生ずる所の眼を以てするのみ」とあるは、即ち肉眼なり。内外の弥楼山を徹見するは、即ち天眼なり。諸色を洞見して、染著無きは、即ち慧眼なり。色を見て錯謬無きは、即ち法眼なり。未だ無漏を得ずと雖も、其の眼根清浄なること此の若し。一眼に諸眼の用を具するは、即ち仏眼なり。此れは是れ今経に衆生法の妙なるを明かすの文なり。『大経』に云わく、「大乗を学べば、肉眼有りと雖も、名づけて仏眼と為す。耳・鼻の五根も例して亦た是の如し」と。『殃掘』に云わく、「所謂る彼の眼根は、諸もろの如来に於いて、常に具足して減無く修し、了了分明に見る。乃至、意根も亦た是の如し」と。『大品』に云わく、「六自在王、性清浄なるが故なり」と。又た云わく、「一切法は眼に趣き、是の趣をば過ぎず。眼は尚お不可得なれば、何に況んや趣有り、非趣有らん。乃至、一切法、意に趣くことも亦た是の如し」と。此れは即ち諸経に衆生法の妙なるを明かすなり。仏法妙とは、『経』に「止みなん。止みなん。説くを須いず。我が法は妙にして思ひ難し」とあるが如し。仏法は権実に出でず。是の法は甚だ深妙にして、見難く了す可きこと難し。一切衆生の類は、能く仏を知る者無し。即ち実智妙なるなり。及び仏の諸余の法も亦た能く測る者無し。即ち仏の権智妙なるなり。是の如きの二法は、唯だ仏と仏とのみ乃ち能く諸法の実相を究尽す。是れ仏法妙と名づく。心法妙とは、安楽行の中に其の心を修摂し、一切法を観ずるに、動ぜず退せざるが如し。又た、「一念随喜す」等と。『普賢観』に云わく、「我が心自ら空にして、罪福に主無し」と。「心を観ずるに心無く、法、法に住せず」と。又た、心は純ら是れ法なり。『浄名』に云わく、「身を観ずるに実相なり。仏を観ずるも亦た然り。諸仏の解脱は、当に衆生の心行の中に於いて求むべし」と。『華厳』に云わく、「心・仏及び衆生、是の三に差別無し。心の微塵を破して、大千の経巻を出だす」と。是を心法妙と名づくるなり。

 [3]今、三法に依りて、更に広く分別す。若し衆生法を広くせば、一往は通じて諸もろの因果、及び一切の法を論ず。若し仏法を広くせば、此れは則ち果に拠る。若し心法を広くせば、此れ則ち因に拠る。衆生法を二と為す。先に法数を列ね、次に法相を解す。数とは、経論に或は一法に一切の法を摂するを明かす。謂わく、心是れなり。「三界に別の法無し。唯だ是れ一心の作なるのみ」と。或は二法に一切の法を摂するを明かす。所謂る名色なり。一切の世間の中に、但だ名と色とのみ有り。或は三法に一切の法を摂するに明かす。謂わく、命・識・煖なり。是の如き等、増数して、乃ち百千に至る。今経には十法を用て一切法を摂す。所謂る諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。南岳師、此の文を読むに、皆な如と云うが故に、呼びて十如と為すなり。天台師の云わく、「義に依りて文を読むに、凡そ三転有り」と。一に云わく、是相如・是性如、乃至、是報如なり」と。二に云わく、「如是相・如是性、乃至、如是報なり。」と。三に云わく、「相如是・性如是、乃至、報如是なり」と。若し皆な如と称せば、如を不異と名づく、即空の義なり。若し如是相・如是性と作さば、空の相性を点ずるに、名字施設し、邐迤同じからず。即仮の義なり。若し相如是と作さば、中道実相の是に如す。即中の義なり。分別して解し易からしむるが故に、空・仮・中を明かす。意を得て言を為さば、空は即ち仮・中なり。如に約して空を明かさば、一空は一切空なり。如を点じて相を明かさば、一仮は一切仮なり。是に就いて中を論ぜば、一中は一切中なり。一二三に非ずして、而も一二三、不縦不横なるを、名づけて実相と為す。唯だ仏と仏とのみ此の法を究竟す。是の十法に一切法を摂す。若し義の便に依らば、三意を作して分別す。若し読の便に依らば、当に偈文に「是の如き大果報の種種の性相の義」と云うに依るべし、云云。次に権実を判ずとは、光宅は前の五如是を以て権と為し、凡夫に属せしむ。次の四如是を実と為し、聖人に属せしむ。後の一如是は総じて権実を結ぶ。偈を引いて証して云わく、「是の如き大果報」と。「大」なるが故に、是れ実なりと知る。「種種の性相」なるが故に、是れ権なりと知る。今、恐らくは爾らず。「大」の義に三有り。大・多・勝なり。若し大を取りて実と為さば、亦た応に多をも取り、勝をも取るべし。「種種」の名は、豈に多の義に非ざらん。若し権は凡夫に属すと言わば、凡夫は何の意もて実無からん。若し実は聖人に属さば、聖人は何の意もて権無からん。此の如く抑没するは、義として依る可からず。又た北地師は、前の五を以て権と為し、後の五を実と為す。此れ皆人情なるのみ。今、権実を明かすとは、十如是を以て十法界に約す。六道・四聖を謂うなり。皆な法界と称するは、其の意に三有り。十の数は皆な法界に依る。法界の外に、更に復た法無し。能所合わせて称するが故に、十法界と言ふなり。二に此の十種の法は、分斉同じからず。因果隔別し、凡聖に異り有るが故に、之に加うるに界を以てするなり。三に此の十は、皆な即ち法界にして、一切法を摂す。一切法は地獄に趣き、是の趣をば過ぎず。当体は即ち理にして、更に依る所無きが故に、法界と名づく。乃至、仏法界も亦復た是の如し。若し十の数、法界に依らば、能依は所依に従い、即ち入空の界なり。十の界界隔つるは、即ち仮界なり。十の数皆な法界なるは、即ち中界なり。解し易からしめんと欲して、此の如く分別す。意を得て言を為さば、空は即ち仮・中にして、一二三無きこと、前の如し、云云。

 [4]此の一法界に十如是を具すれば、十法界に百如是を具す。又た、一法界に九法界を具すれば、則ち百法界・千如是有り。束ねて五差と為す。一に悪、二に善、三に二乗、四に菩薩、五に仏なり。判じて二法と為す、前の四は是れ権法、後の一は是れ実法なり。細かく論ずれば、各おの権実を具す。且らく両義に依る。然るに此の権実は不可思議にして、乃ち是れ三世の諸仏の二智の境なり。此れを以て境と為すに、何れの法か収めざらん。此の境、智を発するに、何れの智か発せざらん。故に文に「諸法」と云う。「諸法」とは、是れ照らす所の境広きなり。「唯だ仏と仏とのみ乃ち能く究尽す」とは、能照の智深く辺を窮め底を尽くすを明かすなり。「其の智慧の門は、難解難入なり」とは、境妙を歎ずるなり。「我が得る所の智慧は、微妙最第一なり」とは、智と境と相い称うを歎ずるなり。方便品の長行に略して此の法を説き、後の開示悟入に広く此の法を説く。火宅は此の法を譬喩し、信解は此の法を領解し、長者は子に此の法を付し、薬草は此の法を述成し、化城は引いて此の法に入らしむ。是の如き等種種なれども、秖だ十如権実の法に名づくるのみ。如来は洞達して十法の底を究め、十法の辺を尽くし、明らかに衆生の種・非種・芽・未芽・熟・不熟・可度脱・不可度脱を識る。如実に之を知りて、錯謬あること無し。殃掘摩羅は是れ悪人なりと雖も、実の相性熟すれば、即ち度することを得。四禅比丘は是れ善人なりと雖も、悪の性相熟すれば、即ち度するに堪えず。当に知るべし。衆生の法は、不可思議なり。実なりと雖も権、権なりと雖も実なり。実と権と相即して、相ひ妨礙せず。牛羊の眼を以て、衆生を観視す可からず、凡夫の心を以て衆生を評量す可からず。智、如来の如くば、乃ち能く評量す。何を以ての故に。衆生法は妙なるが故なり。

 [5]次に、十如是の法を解す。初めに通解し、後に別解す。通解とは、相は以て外に拠る。覧て別く可きを、名づけて相と為す。性は以て内に拠る。自分改めざるを、名づけて性と為す。主質を名づけて体と為し、功能を力と為し、構造を作と為し、習因を因と為し、助因を縁と為し、習果を果と為し、報果を報と為し、初めの相を本と為し、後の報を末と為し、帰趣する所の処を究竟等と為す、云云。若し如の義を作さば、初後皆な空なるを等と為す。若し性相の義を作さば、初後の相在るを等と為す。若し中の義を作さば、初後皆な実相なるを等と為す。今、此の等に依らず、三法具足するを、究竟等と為す。夫れ究竟とは、中は即ち究竟す。即ち是れ実相を等と為すなり。

 [6]次に、別解とは、気類相い似たるを取りて、合して四番と為す。初めに四趣、次に人天、次に二乗、次に菩薩・仏なり。初めに四趣の十法を明かす。如是相とは、即ち是れ悪相にして、不如意処に堕することを表わす。譬えば、人未だ禍せざるに、否色已に彰われ、相師は、覧別けて、能く凶衰を記すがごとし。悪相若し起こらば、遠く泥黎を表わす。凡夫は知らず、二乗は髣髴として知り、菩薩は知ること深からず、仏は知ること辺を尽くす。善き相師、洞らかに始終を見る如し。故に如是相と言ふなり。如是性とは、黒は自分の性なり、純ら黒悪を習い、改変す可きこと難し。木に火有り、縁に遭ひて即ち発するが如し。『大経』に云わく、「有漏の法は、生の性有るを以ての故に、生は能く之を生ず」と。此の悪に四趣の生の性有るが故に、縁は能く之を発す。若し泥木の像は外相有りと雖も、内に生の性無く、生は生ずること能はず。悪性は爾らざるが故に、如是性と言うなり。如是体とは、彼の摧折の麁悪の色心を攬りて、以て体質と為すなり。復た次に、此の世に先に已に心を摧き、来世に色を摧く。又た、此の世の華報も亦た色心を摧くが故に、摧かるる色心を以て体と為すなり。如是力とは、悪の功用なり。譬えば、片物は未だ用いられずと雖も、任ゆる所を指擬して、其れ用ありと言ふが如し。『大経』に云わく、「舍を作るには、木を取りて縷線を取らず、布を作るには、縷を取りて泥木を取らず」と。地獄には刀に登り剣に上るの用有り。餓鬼には銅を呑み鉄を噉うの用あり。畜生は強き者は弱きを伏し、魚鱗相ひ咀み、車を牽き、重を挽く。皆是れ悪の力用なり。如是作とは、構造経営して、三業を運動し、諸悪を建創す。之を名づけて作と為す。『大経』第八に云わく、「譬えば、世間に悪行を為す者を、名づけて半人と為すが如し」と。既に悪行を行なえば、地獄の作と名づくるなり。如是因とは、悪の習因なり。自ら種えて相い生じ、習続して断ぜず。習発するを以ての故に、悪を為すに成じ易きが故に、如是因と名づく。如是縁とは、縁は助なり。所謂る諸もろの悪の我・我所、所有る具度は、皆な能く習業を助成す。水の能く種を潤すが如し。故に報因を用て縁と為すなり。如是果とは、習果なり。多欲の人は地獄の身を受け、苦具を見て、謂いて欲境と為し、便ち染愛を起こすが如し。此を謂いて習果と為すなり。如是報とは、報果なり。多欲の人は地獄の中に在りて、欲境に趣く時、即ち銅柱、鉄床の苦を受くるが如し。故に如是報と名づくるなり。本末究竟等とは、即ち三義有り。本空なれば、末も亦た空なり。故に等と言う。又た、悪の果報は本の相性の中に在り。此れは、末は本と等し。本の相性は悪の果報の中に在り。此れは、本と末と等し。若し先に後事無くば、相師応に予め記すべからず。若し後に先の事無くば、相師は応に追いて記すべからず。当に知るべし。初後相い在り。此れ事を仮りて等を論ず。中実理心は、仏果と異ならず。一色一香も中道に非ざること無し。此れは理に約して等を論ず。是の義を以ての故に、本末究竟等と言う。三義具足するが故に、等と言ふなり。

 [7]次に、人天界の十法を辨ずとは、但だ善楽に就いて語を為すに、四趣と異なるのみ。相は、清升を表わし、性は是れ白法、体は是れ安楽の色心、力は是れ善器に堪任し、作は是れ止・行の二善を造り、因は是れ白業、縁は是れ善の我・我所、所有る具度、果は是れ任運に善心に酬いて生じ、報は是れ自然に楽を受け、等とは前に説くが如し、云云。

 [8]次に、二乗の法界の十法を辨ずとは、真無漏に約す。相は涅槃を表わし、性は是れ非白非黒の法、体は是れ五分法身、力は能く動き能く出でて、道器に堪任し、作は是れ精進勤策、因は是れ無漏の正智、縁は是れ行行の助道、果は是れ四果なり。二乗は既に不生なれば、是の故に報無し。何が故なるや。真を発するは、果にして報を論ぜず。無漏の法起こりて、習因に酬ゆれば、是れ習果たることを得。無漏の損生は、生を牽くの法に非ざるが故に、後報無し。三果に報有るは、残りの思未だ断ぜず、或は七生、或は一往来、或は色界の生にして、無漏の報に非ざるなり。是の故に唯だ九のみにして、十ならず。若し大乗に依らば、此の無漏は猶お有漏と名づく。『大経』に云わく、「福徳荘厳とは、有為有漏にして、是れ声聞僧なり」と。既に無漏に非ざれば、別惑を損せず、猶お変易の生を受く。則ち無漏を因と為し、無明を縁と為す。変易の土に生ずるは、即ち報有るなり。

 [9]次に、菩薩・仏界の十法を明かすとは、此れは更に細かく開くに、三種の菩薩有り、云云。六度の菩薩の若きは、福徳に約して、相・性・体・力を論じ、善業を因と為し、煩悩を縁と為し、三十四心に結を断ずるを果と為す。仏は則ち報無し。菩薩は即ち十を具するなり。通教の菩薩の若きは、無漏に約して、相・性を論ず。六地の前の残りの思は報を受け、六地に思尽きて、後身を受けず。誓扶習生すれば、実の業報に非ざるが故に、唯だ九のみにして、十無し。別教の菩薩の若きは、中道を修し次第観を行ずるに約して、十法を論ず。此の人は、通惑を断ずと雖も、自ら生有りと知れば、則ち十法を具す、云云。夫れ変易に生ずれば、則ち三種同じからず。一に全く未だ別惑を断ぜずして、変易に生ずとは、即ち是れ三蔵の二乗、及び通教の三乗、是れなり。類せば、分段博地の凡夫の見思を伏せざる者の如し、云云。二に別惑を伏し、変易に生ずとは、即ち是れ別教の三十心の人、中道を習い、伏して未だ断ぜず。類せば、分段小乗の方便道の如きなり、云云。三には別惑を断じ、変易に生ずとは、初地、初住に惑を断ずるが如き、是れなり。類せば、初果に見諦を断ずと雖も、猶ほ七生有るが如し。彼も亦た是の如し。若し未だ断伏せずして生ぜば、方便行、真無漏を用て因と為し、無明を縁と為す。若し伏断せば、順道法愛を因と為し、無明を縁と為して、変易の土に生ず、云云。仏界の十法とは、皆な中道に約して分別するなり。『浄名』に云わく、「一切衆生は皆な菩提の相なり。復た得可からず」と。此れ即ち縁因を仏の相と為す。性は以て内に拠るとは、智願猶お在りて失わず。智は即ち了因なるを仏の性と為す。自性清浄心は即ち是れ正因なるを仏の体と為す。此れ即ち三軌なり、云云。力とは、初めて菩提心を発し、二乗の上に超ゆるを、名づけて力と為す。作とは、四弘の誓願要期なり。因とは、即ち智慧荘厳なり。縁とは、即ち福徳荘厳なり。果は、即ち一念相応の大覚、朗然無上の菩提を習果と為すなり。報は、即ち大般涅槃の果果の断徳、禅定、三昧、一切具足す。是れ報果なり。本末等とは、即ち相性の三諦は究竟の三諦と異ならざる故に等と言うなり。空諦の等とは、元初の衆生の如、乃至、仏の如は皆な等しきなり。俗諦の等とは、衆生未だ発心せざるに、仏は当に仏と作るべしと記す。仏は既に已に成仏すれば、仏の本生の事を説く。即ち是れ初後相い在り。仮の等なり。中の等とは、凡聖は皆な実相なり。

 [10]仏界に就かば、亦た九、亦た十なり。通途に語を為さば、地地従り皆な万行有り、福徳を因と為し、無明を縁と為し、習果、報果あり、分に十法を得て、具足せざること無し。此の経に云わく、「無量無漏清浄の果報を得」と。「法王の法の中に久しく梵行を修し、始めて今日に於て其の果報を得」と。又た云わく、「久しく業を修して得る所なり」と。『大経』に云わく、「我れ今献ぐる所の食もて、願はくは無上の報を得ん」と。『仁王』に云わく、「三賢十聖は、果報に住す」と。『摂大乗』に云わく、「因縁生死、有後生死」と。皆な是れ分に果報を論ず。果報は即ち是れ生滅なり。何となれば、無明は分に尽く。是の故に滅を論ず。真明は転た盛んなり。是の故に生と言う。又た、残りの無明在り。是の故に生と言う。一分の惑除く。是の故に滅と言う。『大論』に云わく、「一人は能く耘り、一人は能く種ゆ」と。万行資成するは種の如く、智慧の惑を破するは耘りの如し。増道損生、意此こに在り。四十一地に皆な十法有るなり。若し妙覚に就かば、亦た九、亦た十なり。何となれば、中道の智慧は、乃ち是れ生を損す。生既に未だ尽きざるが故に、諸地の生滅の不同有り。妙覚は、損生の義足る。最後那んぞ報を論ずることを得ん。故に云わく、「唯だ仏一人のみ浄土に居す」と。三十生尽きて、大覚に等し。後有の生死無きは、煩悩尽くるが故なり。智徳已に円かなれば、復た習果無く、後身を受けざるが故に、報果無し。又た、現生の後に約して、九を論じ、十を論ず、云云。若し『涅槃経』の文を按ぜば、「願はくは無上の報を得ん」とは、即ち仏界の報の無上を明かすなり。仏の報、既に無上と言えば、仏の相性等の九法は悉く皆な無上なり。何となれば、六道の相性は全く五住を表わし、二乗の相性は四住を破することを表わし、全く無明を表わし、菩薩の相性は次第に五住を破することを表わす。仏の相性は、一切種智の浄きこと虚空の若く、五住の染する所と為らざるを表わすが故に、仏の十法は最も無上と為す、云云。復た次に、六趣の相は生死の苦を表わし、二乗の相は涅槃の楽を表わし、仏界の相は非生死非涅槃の中道の常楽我浄を表わす故に、仏界は最も是れ無上なりと言う。復た次に、四道は悪を表わし、人天は善を表わし、二乗は無漏善を表わし、菩薩・仏は非漏非無漏の善を表わすが故に、仏界は最も無上と為す。復た次に、六道は諸有る因縁生の法を表わし、二乗は即空を表わし、菩薩は即仮を表わし、仏は即空・即仮・即中を表わすが故に、仏界は最も無上と為す。復た次に、四趣は但だ悪を表わすのみにして、善を表わすこと能わず。人天の相は但だ善を表わすのみにして、悪を表わすこと能わず。二乗は但だ無漏を表わすのみにして、善悪を兼ねず。仏の相は、兼ねて一切の相を表わす。若し仏の相を解せば、即ち遍く一切の相を解す。是の故に仏界は最も無上と為す。故に『賢聖集』に云わく、「地獄の中陰は但だ地獄を見るのみにして、上趣を知ること能わず。天の中陰の若きは、能く天、及び下を知る。其の相、之を表わせども、正遍知と名づけず」と。仏の相は正遍知を表わすなり。仏智は既に遍く諸相を知れば、而も経教に応に遍く之を説くべし。若し此の法を用て五味の教に歴ば、乳教は、菩薩界・仏界の両の性相を説き、或は即仮の等に入り、或は即中の等に入る。中に入るは乃ち是れ無上なれども、一の方便を帯ぶれば、未だ全くは無上ならず。酪教は、但だ二乗の相性を明かし、析空の等に入ることを得るのみにして、尚ほ即空の等に入ることを明かさず。況んや復た余をや。故に無上に非ず。生蘇は四種の相性を明かし、或は析空の等に入り、或は即空の等に入り、或は即仮の等に入り、或は即中の等に入る。唯だ仏の相性のみ即空・即仮・即中に入ることを得れども、三の方便を帯ぶるが故に、無上に非ず。熟蘇は三種の相性を明かし、或は即空に入り、或は即仮に入り、或は即中に入る。唯だ仏の性相のみ即空・即仮・即中に入ることを得れども、二の方便を帯ぶるが故に、無上に非ず。此の『法華経』は、九種の性相、皆な即空・即仮・即中に入ることを明かす。「汝は実に我が子、我は実に汝の父なり。一色一味も純ら是れ仏法にして、更に余法無し」と。故に知んぬ。仏界は最も無上と為す。

 [11]復た次に、余経に明かす所の九の性相は、仏の性相の即空・即仮・即中に入ることを得ざれば、此の経に皆な方便を開き、普く入ることを得せしむ。又た、其の相性を按ずるに、即ち是れ即空・即仮・即中にして、引入を論ぜず。是の故に如来は殷勤に此の『法華経』を称歎して、最も無上と為す。意此に在るなり。復た次に、百界千法、縦横甚だ多けれども、経論の偈を以て之を結び、其れをして解し易からしむ。『中論』の偈に云わく、「因縁もて生ずる所の法は、我れ即ち是れ空なりと説き、亦た名づけて仮名と為し、亦は中道の義と名づく」と。六道の相性は、即ち是れ「因縁もて生ずる所の法」なり。二乗、及び通教の菩薩等の相性は、是れ「我れ即ち是れ空なり説く」なり。六度・別教の菩薩の相性は、是れ「亦た名づけて仮名と為す」なり。仏界の相性は、是れ「亦た中道の義と名づく」なり。要を結ぶこと少なしと雖も、前の多きを摂得す。義は則ち見る可し、云云。又た『涅槃』の偈に云わく、「諸行は無常なり。是れ生滅の法なり。生滅滅し已りて、寂滅を楽と為す」と。六道の相性は、即ち是れ「諸行」なり。二乗・通教の相性は、即ち是れ「無常」なり。別教の菩薩の相性は、即ち是れ「生滅滅し已る」なり。仏界の相性は、即ち是れ「寂滅を楽と為す」なり。又た、「生滅滅し已りて、寂滅を楽と為す」は、即ち是れ別教の相性なり。生滅に即して、仍りて是れ寂滅なり。滅し已るを待たずして、方に称して楽と為すは、是れ円教の仏界の相性と為す、云云。又た、七仏通戒偈に云わく、「諸悪は作すこと莫かれ。衆善は奉行せよ。自ら其の意を浄めよ。是れ諸仏の教なり」と。四趣の相性は、即ち是れ「諸悪」なり。人天の相性は、即ち是れ「衆善」なり。「自ら其の意を浄めよ」は、即ち析体の浄意有り、是れ二乗の相性なり。入仮の浄意は、是れ菩薩の相性なり。入中の浄意は、是れ仏界の相性なり、云云。若し能く十の相性、衆もろの経・論・律と合するを解せば、即ち三蔵の通別に通達し、一切の法を識るに障礙有ること無し。広く衆生法の相を明かし竟わる。

 [12]二に広く仏法を明かすとは、仏は豈に別の法有らん。秖だ百界千如は是れ仏の境界なるのみ。唯だ仏と仏とのみ斯の理を究竟す。函大なれば、蓋も亦た随いて大なるが如し。無辺の仏智を以て、広大の仏境を照らして、其の源底に到るを、随自意の法と名づくるなり。若し九法界の性相の本末を照らして、繊芥も遺さずば、随他意の法と名づく。二法の本従り十界の迹を垂れ、或は己身を示し、或は他身を示し、或は自意語を説き、或は他意語を説く。自意・他意は不可思議、己身・他身は微妙寂絶にして、皆な非権非実なれども、能く九界の権、一界の実に応じて、仏法に於いて、損減する所無し。諸仏の法は、豈に妙ならざらんや。是の事知る可し、労わしく広く説くこと無し。方便品の中に至りて、当に更に之を明かすべし。

 [13]三に広く心法を釈すとは、前に明かす所の法は、豈に心と異なることを得ん。但し衆生法は太だ広く、仏法は太だ高し。初学に於いて、難しと為す。然るに、心、仏、及び衆生、是の三は差別無ければ、但だ自ら己心を観ずるは、則ち易しと為す。『涅槃』に云わく、「一切の衆生は三定を具す」と。上定とは、仏性を謂うなり。能く心性を観ずるを、名づけて上定と為す。上の能く下を兼ぬるは、即ち衆生法を摂得するなり。『華厳』に云わく、「心を法界に遊ばして、虚空の如ければ、則ち諸仏の境界を知る」と。「法界」は即ち中なり。「虚空」は、即ち空なり。「心、仏」は即ち仮なり。三種を具するは、即ち仏の境界なり。是れ心を観ずるに、仍お仏法を具すと為す。又た、「心を法界に遊ばす」とは、根塵相対して一念の心起こるを観ずるに、十界の中に於いて、必ず一界に属す。若し一界に属さば、即ち百界千法を具す。一念の中に於いて、悉く皆な備足す。此の心の幻師は、一日夜に於いて、常に種種の衆生、種種の五陰、種種の国土を造る。所謂る地獄の仮実国土、乃至、仏界の仮実国土なり。行人、当に自ら選択すべし。何れの道にか従う可けん、と。又た「虚空の如し」とは、心を観ずるに、自ら心を生ぜば、縁を籍るを須いず。縁を籍りて心有らば、心に生ずる力無し。縁も亦た生ずること無し。心・縁各おの無くば、合すれども云何んが有るや。合してすら尚を得叵し。離るれば則ち生ぜず。尚お一生すら無し。況んや百界千法有らんや。心は空なるを以ての故に、心従り生ずる所は、一切皆な空なり。此の空も亦た空なり。若し空は空に非ずば、空を点じて仮を設く。仮も亦た仮に非ず。仮無く空無く、畢竟清浄なり。又復た物の境界とは、上は仏法に等しく、下は衆生法に等し。又た、心法とは、心・仏、及び衆生、是の三は差別無し。是を心法と名づくるなり。問う。一念心云何んが百界千法を含受するや。答ふ。三種を借りて譬えと為す、『止観』の中に説くが如し、云云。

 [14]二に妙を明かすとは、一には通釈、二には別釈なり。通を又た二と為す。一に相待、二に絶待なり。此の経は唯だ二妙を明かすのみにして、更に非絶非待の文無し。若し更に作さば、何れの惑を断じて、何れの理を顕わさん。故に更に論ぜざるなり。光宅は『法華』の妙を用て、前の諸教の皆な麁なるに待す。巨いに妨ぐる所有り。前に難ずるか如し、云云。今、麁に待する妙とは、半字を麁と為すに待して、満字を妙と為すことを明かす。亦た是れ常・無常、大・小相待して麁妙と為すなり。『浄名』に云わく、「法を説くに、有ならず、亦た無ならず。因縁を以ての故に、諸法生ず」と。即ち是れ満字を明かすなり。「始めて仏樹に座して力めて魔を降し、甘露の滅を得て覚道成ず」と。即ち昔の半を提げて、待して満を出だすなり。『般若』に云わく、「閻浮提に於いて、第二の法論の転ずるを見る」と。亦た是れ鹿苑を第一と為すに対し、待して『般若』を第二と為すなり。『涅槃』に云わく、「昔、波羅奈に於いて、初めて法輪を転じ、今、尸城に於いて、復た法輪を転ず」と。衆経は皆な共に鹿苑を以て半と為し、小と為し、麁と為す。此に待して、満・大・妙を明かす。其の義は是れ同じ。今、『法華』に明かさく、「昔、波羅奈に於いて、四諦の法輪、五衆の生滅を転じ、今、復た最妙無上の法輪を転ず」と。此れも亦た鹿苑を麁と為すに待して、『法華』を妙と為す。妙の義は皆な同じ。麁に待することも亦た等し。文義、此に在るなり。問ふ、方等に斉りてより来た、満理殊なること無ければ、悉く応に妙と称すべし。答ふ。今も亦た教を剋み、時を定めず。那んぞ忽ち方等に斉ると云わんや。縦令い爾るも、別に所以あり。何となれば、利根の菩薩は、彼しこに於いて妙に入ること、『法華』と異ならず、鈍根の菩薩、及び二乗の人は、猶ほ方便を帯びて、諸味に調伏す。方等は生蘇を帯びて、妙を論じて、以て麁に待す。『般若』は熟蘇を帯びて妙を論じて、以て麁を待す。今経は二味の方便無く、純真の醍醐に妙を論じて、以て麁を待す。此の妙と彼の妙と、妙の義に殊なり無し。但だ方便を帯ぶると、方便を帯びざるとを異なりと為すのみ。復た次に、三蔵は但だ半字の生滅門なるのみにして、満理に通ずること能わざるが故に、名づけて麁と為す。満字は是れ不生不滅の門なり。能く満理に通ずるが故に、妙と名づく。能く満理に通ずるに、復た二種有り。一には方便を帯びて満理に通ず。二には直ちに満理を顕わす。方等、『般若』は方便を帯びて満理に通ず。今経は直ちに満理を顕わす。故に『中論』に云わく、「鈍根の弟子の為めに、因縁の生滅の相を説き、利根の弟子の為めに、因縁の不生不滅の相を説く」と、云云。『中論』の偈云云。若し即空ならずは、真に通ずるの方便と為す。是の故に麁と言う。若し能く即空ならば、是れ中に通ずる方便なり。中に通ずる方便にして、若し即空・即仮を帯びて中に通ぜば、麁なり。空・仮を帯びず、直ちに中に通ぜば、妙なり、云云。問ふ、乳より醍醐に至るまで、同じく称して満と為す、是の譬えは云何ん。答う。今、譬えを以て譬を解す。官に三航、及以び私船有るが如し。此の岸従り、人を彼の岸に度すに、乳教は、大・中の両航もて共に人を彼の岸に度すが如し。酪教は私船もて人を中洲に度すが如し。生蘇は、四種の如く、小航と私船とをもつて人を中洲に度し、両航もて人を彼の岸に度す。熟蘇は、三航の如く、一航は中洲、二航は彼の岸なり。醍醐は、大航もて人を彼の岸に度すが如し。三航は同じく是れ官物なるが故に、倶に称して満と為す。私船は官物に非ず、是の故に半と言ふ。官物の中に、二航は小にして、容るる所蓋し寡なし。大航は壮麗にして、容載倍ます多し。独り称して妙と為すのみ。智者は譬喩を以て解することを得。其の譬えの義是の如し、云云。

 [15]二に絶待もて妙を明かすとは、四と為す。一に随情の三仮の法起こるに、若し真諦に入らば、待対即ち絶す。故に身子の云わく、「我れは解脱の中に言説あること無しと聞く」と。此れは三蔵の経の中の絶待の意なり。二に随理の三仮の若きは、一切世間は皆な幻化の如く、事に即して而も真にして、一事の而も真に非ざる者有ること無し。更に何物を待って、不真と為さんや。彼の三蔵の絶、還つて絶ならざるに望むるに、事に即して而も真なるは、乃ち是れ絶待なり。此れは通教の絶待なり。三に別教若し起こらば、即真の絶に望むに、還って是れ世諦なり。何となれば、大涅槃に非ず、猶ほ是れ生死の世諦なればなり。絶は還つて待有り。若し別教の中道に入れば、待は即ち絶す。四に円教若し起こらば、無分別の法を説く。辺に即して而も中にして、仏法に非ざること無く、亡泯清浄なり。豈に更に仏法ありて仏法に待せん。如来の法界なるが故に、法界を出でて外に、復た法の相い形比す可きもの有ること無し。誰れに待して麁と為し、誰れに形べて妙なるを得ん。待す可き所無く、亦た絶する所無し。何と名づくるかを知らざれば、強いて言いて絶と為す。『大経』に云わく、「大は不可称量、不可思議に名づくるが故に、名づけて大と為す。譬えば、虚空は小空に因りて名づけて大と為さざるが如きなり。涅槃も亦た爾り、小相に因りて大涅槃と名づけず」と。妙も亦た是の如し。妙は不可思議に名づく。麁に因りて名づけて妙と為さず。若し定んで法界有り、広大独絶すと謂わば、此れは則ち大いに有る所有り、何を謂いて絶と為さん。今、法界は清浄にして、見聞覚知に非ず、説示す可からず。文に云わく、「止みなん。止みなん。説く須いず。我が法は妙にして思ひ難し」と。「止みなん。止みなん。説くを須いず」とは、即ち是れ言を絶す。「我が法は妙にして思い難し」とは、即ち是れ思いを絶す。又た云わく、「是の法は示す可からず、言辞の相は寂滅す」と。亦た是れ絶歎の文なり。待を以て示す可からず、絶を以て示す可からず、待を滅し、絶を滅するが故に、「寂滅」と言う。又た云わく、「一切諸法は、常に寂滅の相にして、終に空に帰す」と。此の「空」も亦た空れば、則ち復た待絶無し。『中論』に云わく、「若し法、待の為めに成ぜば、是の法還つて待を成ず」と。今は則ち待に因ること無く、亦た成ずる所の法無し。『華首』に云わく、「既に無生忍を得れば、亦た無生を生ぜず、無生は即ち無生なり」と。是れ絶待と名づく。此れを降りて已外、若し更に作さば、何物を絶して、何れの理をか顕わさん。流浪無窮なれば、則ち戯論に堕す。乃ち是れ迷情の分別なれば、絶は不絶に待し、非絶非待は亦待亦絶に待し、言語相い逐い、永く絶無し。何となれば、言語は覚観従り生ず。心慮息まざれば、語何に由りてか絶せん。癡犬の塊を逐い、徒らに自ら疲労すれども、塊終に絶せざるが如し。若し能く寰中を妙悟せば、覚観の風を息め、心水澄清にして、言思皆な絶す。黠しき師子、塊を放ちて人を逐うが如し。塊の本既に除これば、塊は則ち絶す。妙悟するの時、洞らかに法界の外に法無きを知りて、絶を論ずるは、有門に約して絶を明かすなり。是の絶も亦た絶するは、空門に約して絶を明かすなり。快馬の鞭影を見て、入るを得ざること無きが如し。是を絶待妙と名づくるなり。是の両妙を用て、上の三法を妙にす。衆生の法も亦た二妙を具すれば、之を称して妙と為す。仏法・心法も亦た二妙を具すれば、之を称して妙と為す。若し上の四種の絶待を将て五味の経に約せば、乳教は両絶し、酪教は一絶し、生蘇は四絶し、熟蘇は三絶し、此の経は但だ一絶有るのみ。開権の絶の若きは、一妙の絶に入らざること無きなり。問う。何の意もて絶を以て妙を釈せん。答う。秖だ妙を喚びて絶と為すのみ。絶は是れ妙の異名なり。世人、絶能と称するが如きのみ。又た、妙は是れ能絶、麁は是れ所絶なり。此の妙に麁を絶するの功有るが故に、絶を挙げて、以て妙に名づく。迹の中に、先に方便の教を施せば、大教起こることを得ざるが如し。今、大教若し起こらば、方便の教は絶す。所絶を将て、以て妙と名づくるのみ。又た、迹の中に、大教既に起これば、本地の大教は興ることを得ず。今、本地の教興らば、迹の中の大教は即ち絶す。迹の大を絶するは、功、本の大に由る。迹を絶するのを大を将て、本の大に名づく。故に絶と言うなり。又た、本の大教若し興らば、観心の妙は起こることを得ず。今、観に入りて、縁寂せば、言語の道断じ、本の教は即ち絶す。絶は観に由る。此の絶の名を将て、観妙に名づく。此の義を顕わさんが為めの故に、絶を以つて妙と為す。今、迹の絶妙を将て、上の衆生法を妙にす。本地の絶妙を将て、上の仏法を妙にす。観心の絶妙を以て、上の心法を妙にす。前の四絶は横に四教に約し、今の三絶は竪に円教に約す、云云。

 [16]別して妙を釈すとは、三と為す。鹿苑の三麁、鷲頭の一妙の若きは、皆な迹の中の説なり。迹に約して十重を開きて妙を論ず。此の妙に迹有り、本有り。本は元初に拠る、元初の本妙は、十重に妙を論ず。迹本は倶に是れ教なり。教に依りて観を作さば、観に復た十重有りて妙を論ず。迹の中に、衆生法妙・仏法妙・心法妙有り。各おの十重なれば、合わせて三十重なり。此れは衆経に妙を論ずると、同有り、異有り。本の中の三十妙は、衆経と一向に異なる。此の六十重は、一一に復た待妙・絶妙有れば、則ち一百二十重有り。若し破麁顕妙せば、即ち上の相待妙を用う。若し開麁顕妙せば、即ち上の絶待妙を用う、云々。

 [17]迹の中の十妙とは、一に境妙、二に智妙、三に行妙、四に位妙、五に三法妙、六に感応妙、七に神通妙、八に説法妙、九に眷属妙、十に功徳利益妙なり。

 [18]十妙を釈するに、五番と為す。一に標章、二に引証、三に生起、四に広解、五に権実を結ぶ。云何んが境妙なるや。十如・因縁・四諦・三諦・二諦・一諦等を謂う。是れ諸仏の師とする所なるが故に、境妙と称す。智妙とは、所謂る二十智、四菩提智、下・中・上・上上、七の権実、五の三智、一の如実智なり。境妙なるを以ての故に、智も亦た随いて妙なり。法常なるを以ての故に、諸仏も亦た常なり。函蓋相い称ひて、境智不可思議なるが故に、智妙と称するなり。行妙とは、増数の行を謂う、次第の五行・不次第の五行なり。智は行を導くが故に、故に行妙と言う。位妙とは、三草位・二木位・一実位を謂う。妙行の契う所なるが故に、位妙と言う。三法妙とは、総の三法・縦の三法・横の三法・不縦不横の三法・類通の三法を謂う。皆な秘密蔵なるが故に、称して妙と為す。感応妙とは、四句の感応・三十六句の感応・二十五の感応・別円の感応を謂う。水は上升せず、月は下降せずして、一月、一時に普く衆水に現ず。諸仏は来らず、衆生は往かずして、慈善根の力もて此の如き事を見るが故に、感応妙と名づく。神通妙とは、報の通・修の通・作意の通・体法の通・無記化化の通を謂う。無謀の権は、縁に称いて転変す。若しは遠、若は近、若は種、若は熟、若は脱、皆な一乗の為めなるが故に、神通妙と言う。説法妙とは、十二部の法・小部の法・大部の法・逗縁の法・所詮の法・円妙の法を説くを謂う。理の如く円かに説いて、咸く衆生をして仏の知見に開示悟入せしむるが故に、説法妙と言う。眷属妙とは、業の眷属・神通の眷属・願の眷属・応の眷属・法門の眷属を謂う。陰雲の月を籠むるが如く、群臣豪族は前後に囲遶するが故に、眷属妙と言う。利益妙とは、果の益・因の益・空の益・仮の益・中の益・変易の益を謂う。猶ほ大海の能く龍雨を受くるが如きが故に、利益妙と名づく。

 [19]二に引証とは、但だ迹の文を引くのみにして、尚ほ本の文を引かず。況んや余経を引かんや。文に云わく、「諸法の如是相等、唯だ仏と仏とのみ乃ち能く諸法の実相を究尽す」と。「実相」は是れ仏の智慧の門なり。門は即ち境なり。又た云わく、「甚深微妙の法は、見難く、了す可きこと難し。我れ、及び十方の仏は、乃ち能く是の相を知る」と。即ち境妙なり。「我が得る所の智慧は、微妙最第一なり」と。又た「此の妙慧を以て、無上道を求む。無漏不思議甚深微妙の法は、唯だ我のみ是の相を知る」と、云々。即ち智妙なり。「本と無数仏に従いて、具足して諸もろの道を行ず。此の諸もろの道を行じ已りて、道場に果を成ずることを得」と。又た云わく、「合掌して敬心を以て、具足の道を聞かんと欲す」と。又た「諸法は本と従り来た、常に自ら寂滅の相なり。仏子は道を行じ已りて、来世に仏と作ることを得」と。即ち行妙なり。天の四華を雨らすは、住・行・向・地を表わし、開示悟入も亦た是れ位の義なり。「是の宝乗に乗じて四方に遊ぶ」と。「四方」は是れ因位なり。「直ちに道場に至る」は、是れ果位なり。是を位妙と名づく。「仏は自ら大乗に住す。其の得る所の法の如きは、定慧の力もて荘厳す」と。「大乗」は、即ち真性なり。「定」は、即ち資成なり。「慧」は即ち観照なり。是を三法妙と為す。「我れは三七日の中に於いて、是の如き事を思惟す」と。又た「我れは仏眼を以て観るに、六道の衆生を見る」と。又た「一切衆生は皆な是れ吾が子なり」と。又た「遙かに其の父の師子の床に踞するを見る」と。即ち感応妙なり。「今、仏世尊は三昧に入る。是れ不可思議にして、希有の事を現ず」と。神通妙なり。「如来は能く種種に分別し、巧みに諸法を説く。言辞柔軟にして、衆の心を悦可す」と。身子の云わく、「仏の柔軟の音を聞くに、深遠にして甚だ微妙なり」と。又た「其の説く所の法は、皆な悉く一切智地に到る」と。又た「但だ無上道を説くのみ」と。又た「已今当の説、最も難信難解と為す」と。即ち説法妙なり。「但だ菩薩を教化するのみにして、声聞の弟子無し」と。即ち眷属妙なり。「現在、未来に、若し一句一偈を聞かば、皆な三菩提の記を与う」と。又た「須臾も聞かば、即ち三菩提を究竟することを得」と。又た「若し小乗を以て化さば、我れは即ち慳貪に堕す。此の事は不可と為す」と。又た「終に一人をして独り滅度を得せしめず、皆な如来の滅度を以て之を滅度す」と。即ち利益妙なり。

 [20]三に生起とは、実相の境は、仏・天人の作す所に非ず。本と自ら之れ有りて、今に適むるに非ざるなり。故に最も初めに居す。理に迷うが故に惑を起こし、理を解するが故に智を生ず。智を行の本と為す。智の目に因りて、行の足を起こす。目足、及び境の三法を乗と為し、是の乗に乗じて、清涼地に入り、諸位に登る。位は何ぞ住する所あらん。三法の秘密蔵の中に住す。是の法に住し已りて、寂にして而も常に照らす。十方界の機を照らして、機来れば、必ず応ず。若し機に赴いて応を垂れば、先に身輪を用いて、神通もて駭発す。変通を見已りて、道を受くるに堪任せば、即ち口輪を以て宣示し開導す。既に法雨に霑えば、教を禀け道を受けて、法の眷属と成る。眷属は行を行じて、生死の本を抜き、仏の知見を開き、大利益を得。前の五は自に約して因果具足し、後の五は他に約して能所具足す。法は無量なりと雖も、十の義意円かなり。自他の始終、皆な悉く究竟するなり。