[1]大経に云はく、「一実諦とは則ち二あること無し、二あること無きが故に一実諦と多く」と。又た一実諦は無虚偽に名く。又た一実諦は顛倒あること無し。又た一実諦は魔の所説に非ず。又た一実諦は常楽我浄に名く、常楽我浄は空仮中の異り無し。異なるときは則ち二と為す。二の故に一実諦に非ず。一実諦は即空即仮即中にして異無く二無し、故に一実諦と名く。若し三の異りあるときは則ち虚偽と為す、虚偽の法は一実諦と名けず。三異無きが故に即ち一実諦なり。若し異なれば、即ち是れ顛倒未だ破せざれば、一実諦に非ず。三の異り無きが故に顛倒無く、顛倒無きが故に一実諦と名く。異なる者は一乗と名けず。三法異ならずして具足円満なるを、名けて一乗と為す。是の乗高広にして衆宝荘挍す。故に一実諦と名く。魔は別異の空仮を証せずと雖も、而も能く別異の空仮を説く。若し空仮中異ならざる者は、魔は説くこと能はず。魔の説くこと能はざるを一実諦と名く。若し空仮中異ならば顛倒と名け、異ならざれば不顛倒と名く。不顛倒の故に煩悩無く、煩悩無きが故に名けて浄と為す。煩悩無きときは則ち業無く、業無きが故に名けて我と為す。業無きか故に報無く、報無きが故に楽と名く。報無きときは則ち生死無く、生死無きときは則ち常と名く。常楽我浄を一実諦と名くるなり。一実諦とは即ち是れ実相なり、実相とは即ち経の正体なり。是の如きの実相は即空仮中なり。即空の故に一切凡夫の愛論を破し、一切外道の見論を破す。即仮の故に三蔵の四門の小実を破し、三人共見の小実を破す。即中の故に次第の偏実を破す。復た諸の顛倒小偏等の因果四諦の法無く、亦た小偏等の三宝の名無し。唯だ実相の因果のみありて、四諦三宝宛然として具足す。亦た諸の方便の因果四諦三宝を具す。何を以ての故に、実相は是れ法界海なるが故なり。唯だ此の三諦は即ち是れ真の実相なり。又た次第の実を開するに即ち是れ円実なり、証道是れ同じきが故なり。又た三人共得の実を開するに、深く求めて即ち底に到るが故なり。又た三蔵の実を開し、声聞法を決了ず。又た諸の見論の実を開す、見に於て動ぜずして而も道品を修するが故なり。又た諸の愛論の実を開す、魔界即ち仏界なるが故なり。非道を行じて仏道に通達す。一切諸法の中に悉く安楽の性あり。即ち絶待に実を明す、是れ経の体なり。

 [2]五に譬をもつて簡ぶとは、今、三喩を借りて正しく偽真を顕はし、兼ねて開合破会等の意を明す。一に譬へば、三獣の河を渡るに同じく水に入るに、また三獣に強弱あり、河水に底岸あり。兎と馬は力弱ければ、彼の岸に渡ると雖も浮むこと浅くして深からず、又た底に到らず。大象は力強ければ、倶に底岸を得。三獣は三人を喩へ、水は即空を喩へ、底は不空を喩ふ。二乗は智少なければ深く求むること能はず、喩へば兎馬の如し。菩薩は智深きこと、喩へば大象の如し。水の軟は空を喩ふ、同じく空を見て不空を見ず。底は実相を喩ふ、菩薩のみ独り到り、智者は空及び不空を見る。到るに又た二種あり、小象は但だ底泥に到り、大象は深く実土に到る。別の智は不空を見ると雖も歴別にして実に非ず、円は不空を見て窮めて真実を顕はす。是の如きの喩は、但だ兎馬の二乗の実に非ざることを簡破するのみに非ず、亦た小象不空の実に非ざることを簡ぶ。乃ち大象の不空を取りて此の経の体と為すなり。此れ空中共じて真諦とするに約して、此の如きの簡を作すなり。二に譬へば、頗梨と如意との両珠は相ひ似て形類同じからんと欲すれども、而も頗梨は但空にして宝を雨らすこと能はず。如意珠は亦た空にして亦た宝を雨らす。頗梨の宝無きは以て偏空を喩へ、如意の能く雨らすは以て中道を喩ふ。此れ有無合して俗と為すに就いて、偽を簡んで真を顕はす。今の経の体は如意に同じきなり。又た但だ一の如意珠に約して譬を為さば、珠を得て力用を知らざるは、唯だ珠なる而已。智者は之を得て多く獲る所あり。二乗は空を得、空を証して休息す。菩薩は空を得て方便利益し、普く一切を度す。此は含中の真諦に就て其の得失を簡ぶなり。今経は智者の如意珠を得るが如きを以て経体と為す。三に譬へば、黄石の中の金の、愚夫は識ること無く之を視て石と謂ひ、擲つて糞穢に在り、都べて顧録せず。估客は之を得て融かして其の金を出て保重する而已。金匠之を得れば、種種の釵釧鐶鐺を造作し、仙客は之を得て練りて金丹と為し、天に飛び地に入り、日月を捫摸して変通自在なるが如し。野人は一切の凡夫を喩ふ。実相を具すと雖も、修習することを知らず。佶客は二乗を喩ふ。但だ煩悩の礦を断じ、即空の金を保して更に所為無し。金匠は別教の菩薩を喩ふ。善巧方便をもつて空と非空とを知りて仮に出でて物を化し、仏土を荘厳し、衆生を成就す。僊客は円教の菩薩を喩ふ。事に即して而も真にして、初発心の時便ち正覚を成じ、一身無量身を得て普く一切に応ず。今経は但だ金丹の実相を取りて、以て経体と為すなり。同じきに就て喩を為さば、初より後に至つて同じく是れ金なれば凡夫と円教と倶に是れ実相なり。異に就て喩と為さば、初の石は金に異なり、次の金は器に異なり、器は丹に異なり。丹の色浄徹にして類せば清油の柔軟妙好なるが若し。豈に鐶釧に同じからんや。状乖き色別なり、故に一種ならず。此れ与奪破会に就て其の得失を簡ぶ。此の三喩を引くことは、前は根性を喩ふ。根性に浅深あり、浅は其の空を得、深は其の仮を得、又た其の中を得。次に三情を喩ふ。初情は但だ苦を出でて仏道を志求せず、真を見て即ち息む。次情は歴別にして円修すること能はず。後者は広大にして法界に遍うして求む。第三は三方便を喩ふ。二乗は方便少なし、金を守つて住す。別教は方便弱くして、止だ能く厳飾の営生ず。円教は方便深し、故に能く雲を呑み漢を納る。今此の経の実相の体を明さば、大象の底を得るが如し。堅くして壊すべからざるを以て体妙を譬へ、円珠の普く雨すは其の用妙を譬へ、巧智の僊と成るは其の宗妙を譬ふ。此の如きの三譬は即ち是れ三徳なり、不従不横なるを名けて大乗と為す。大乗の中に於て別して真性を指して以て経体と為すなり。

 [3]六に悟に就て簡ぶとは、夫れ法相真正なること誠に上に説くが如し。行未だ理に会せずんば、豈に諦と名くることを得んや。徒らに労して四説するに、語を逐ふて迷を生ず。粖と聞きては軟なりと謂ひ、雪と聞きては冷なりと謂ひ、貝と聞きては硬なりと謂ひ、鵠と聞きては動なりと謂ひて終に乳の真色を見ること能はず。情闇夜遊、何んぞ能く諦に到らん。叫喚して食を求め、飽理あること無し。己を執して実と為し、余は是れ妄語なりと。此の有、彼の無、是非互ひに起り、更に流動を益す、云何ぞ諦と名けん。若し諦を見んと欲せば、慙愧して羞づることあり、苦到に懺悔すれば機諸仏を感ず。禅慧開発して観心明浄に、信解虚融す。爾の時猶ほ闇中に杌を見て髣髴として明らかならずと名く、人木虫塵尚ほ了了ならず。若し能く安忍すれば、法愛生ぜずして無明豁かに破せん。明鏡動ぜず、浄水波無ければ魚石の色像任運に自ら明らかなるが如し。清浄の心は常に一なり、是の如きの尊妙の人は、則ち能く般若を見る。金錍眼を抉ぐるに一指・二指・三指分明なり。爾の時色を見て有と言ふも亦た是なり、無と言ふも亦た是なり。云何んぞ有は是なるや、的的の色は眼と相応し、諦諦の理は智と相ひ称ふ、之を名けて有と為す。云何んぞ無と為す。復た堅冷軟動の相無ければ、之を名けて無と為す。論に云はく、「一切実・一切非実・亦実亦不実・非実非不実・是の如きを皆な諸法の実相と名く」と。舎利弗の如き、実智の中に安住して、「我れ定んで当に作仏すべし、大人の為に敬はれん」と。爾の時乃ち謂ふべし。「永く尽く滅して余り無し」と。是を真実に体を見ると名く。故に涅槃に云はく、「八千の声聞は法華の中に於て如来の性を見ること、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」と。理に約して所作無しと明すは、此は是れ究竟の理なり。教に約して所作く無しとは、此の教を聞き已つて更に他聞せざるなり。行に約して所作無しとは、此の行を修し已つて更に轍を改めざるなり。是の如き等の種種の無所作の義あり云云。略して之を言はば、随智の妙悟に経体を見ることを得るなり。当に随智の妙悟の意を以て諸諦の境の中に歴て、節節に随情・智・情智の種種の分別あるべし、余の情想を簡び、唯だ随智を取りて経体を見ることを明すなり。

 [4]三に一法の異名とは、更に四と為す。一には異名を出し、二には解釈し、三には譬顕し、四には四随に約す。一に異名を出すとは。実相の体は秖だ是れ一法なれども、仏は種種の名を説きたまふ。亦た妙有・真善妙色・実際・畢竟空・如如・涅槃・虚空仏性・如来蔵・中実理心・非有非無・中道第一義諦・微妙寂滅等と名く。無量の異名は悉く是れ実相の別号なり、実相は亦是れ諸名の異号たる耳。惑ふ者は迷滞して名を執して異解す。経に云はく、「無智疑悔は則ち永失と為す」と。小乗の論師は専ら名相に於て諍競を起し、法を非し人を毀り、世代倣学して法の怨讎と為る。大乗の学者も亦復た是の如し。妙有を学ぶ者は自ら至極と称して、畢竟空を聞きて誹謗を生じ、其の法を受けず、其の人に耐へず。畢竟空を学ぶ者は自類朋聚して、正を引きて已に向へ、邪を推して他に与ふ。皆な天主の千名を識らず、釈提桓因と聞きては喜び、舎脂夫と聞きては恚る。帝釈を恭敬し拘翼を慢辱して、将に恐る、其の福、其の失を補はざることを。実相も亦た爾なり。同じく是れ一法なれば、豈に一を謗り一を信ず可けん耶。

 [5]二に解釈とは、小乗の名体は由来簡び易ければ置いて論ぜず。今分別する所は但だ別円の八門に約す。更に四句と為す、一には名・義・体同じく、二には名・義・体異なり、三には・名義同じうして而も体異なり、四には名・義異にして而も体同じきなり。初句は妙有を名と為し、真善妙色を義と為し、実際を体と為す。次に畢竟空を以て名と為し、如如を義と為し、涅槃を体と為す。次に虚空仏性を以て名と為し、如来蔵を義と為し、中実理心を体と為す。次に非有非無の中道を以て名と為し、第一義諦を義と為し、微妙寂滅を体と為す。是の如き等の名字と所以と理趣殊なりと雖も、而も同じく一門を用ふれば、意別あること無し。故に名義体同じと言ふなり。第二句の名義体無なりといふは、妙有の如きは是れ名なり、畢竟空は是れ義なり、如来蔵を体と為す。又た空は是れ名なり、如来蔵を義と為し、中道は是れ体なり。又た如来蔵を名と為し、中道を義と為し、妙有を体と為す。又た中道は是れ名なり、妙有を義と為し、空を体と為す。是の如き等の四門は、更互に同じからず、三種皆な別なり。故に名・義・体異なりと言ふなり。第三句の名義同うして而も体異なりとは、妙有を名と為し、妙色を義と為し、畢竟空を体と為るが如き、是れ則ち二は同じく、一は別なり、故に名義同じうして而し体異なりと言ふ。又た空を名と為し、如如を義と為し、妙有を体と為す。此れも亦た二は同じく一は別なり。余の両門も亦た是の如し。故に名義同じうして而も体異なりと言ふなり。第四句の名義異にして而も体同じとは、妙有等の名名同じからず、真善色等の義、義異なりあるが如き、而も同じく一体に帰して更に二趣無し。故に名義異にして而も体同じと言ふ。三門も亦た是の如し。前の三句は名義皆な融ぜず。初句は一名を尋ねて一義を得、一体を得て当門円融して余事に関はらず。第二句は異名を尋ねて異義異体を識れば、体義名最も融ぜず。此れ知る可きこと易し。第三句は体既に融ぜざれば、名義同じと雖も終に不合を成ず。皆是れ別門に義を明すなり。意を得ざる者は諍ひ此より起る。或は小大を陵ぎ、或は大小を奪ふ。何となれば、小乗は生死を断ぜんと欲して畢竟不但空を聞きて其の情欲に順じて是れ但空なりと謂つて、此を執して諍ひを起す。又た小乗は生死を断ぜんと欲するが故に有に非ず。涅槃を執する病を破するが故に無に非ず。中道の非有非無を聞きて其の小情を扶するを、是れ已が典の非有非無なりと謂ふ、故に二門に於て多く諍競を起す。若し中実の理心を聞きて小と相ひ乖けば、則ち諍ひを起さず。何となれば、二乗は空を翫びて而も今有を聞く。二乗は灰身滅智すれば、今心智を聞くに彼の情と乖く、

故に執して諍ひを作さざるなり。是を小、大を陵盜するを以ての故に諍ふ。大は小を奪ふとは、大乗の学者は共三乗の人の空門と、非空非有門との名二乗に同じきを見て、深意を見ず。即ち推して誑相不真宗に属す。但だ妙有と亦空亦有の両門を取りて是の円常の法を引き、二を輸して二を輸せず、此の諍ひは少しく可なり。若し空は是れ不但なり、非有非無は是れ二辺を遮すと知るは、則ち四門倶に奪にして、而も小は苦に二門を諍ふ。又た大乗の四門は名義融ぜず、門門各諍ひて自ら相ひ呑噬す。況んや爾小乗をや。野干、師子を陵奪するに、寧んぞ当に爾を噉はざるべけんや。三句は諍ひを生ずれば、今の経体に非ざるなり。第四句は名義異にして而も体同じ、体に衆義ありて功用甚だ多し。四門は縁に随つて種種異称あれども、体融ずるを以ての故に円かに衆名に応ず。法体既に同じければ、異名異義なれども、而も諍はざるなり。其の相云何ん、今当に略して説くべし。無量義に云はく、「無量義とは一法より生ず」と。其の一法とは謂ゆる実相なり。実相の相は、相として不相なるは無く、相として無相ならず。名けて実相と為す。此れ不可破壊真実に従つて名を得。又た此の実相は諸仏の得法なり、故に妙有と称す。妙有は見る可からずと雖も、諸仏は能く見る。故に真善妙色と称す。実相は二辺の有に非ず、故に畢竟空と名く。空理湛然として非一非異なり、次に如如と名く。実相は寂滅の故に涅槃と名け、覚了不改の故に虚空仏性と名け、含受する所多きが故に如来蔵と名け、寂照霊智の故に中実理心と名け、有に依らず亦た無に附せざるが故に中道と名け、最上無過の故に第一義諦と名く。是の如き等の種種の異名は、倶に実相に名く。種種の所以は、倶に是れ実相の功能なり。其の体既に円かなれば、名義隔つること無し。蓋し是れ経の正体なり。復次に諸法は既に是れ実相の異名にして、而も実相の当体なり。又た実相は亦是れ諸法の異名にして、而も諸法の当体なり。妙有は破壊す可からず、故に実相と名く。諸仏能く見たまふ、故に真善妙色と名く。余物を雑へざるを畢竟空と名け、二無く別無きが故に如如と名け、覚了不変の故に仏性と名け、諸法を含備するが故に如来蔵と名け、寂滅霊知の故に中実理心と名け、諸辺を遮雑するが故に中道と名け、無上無過なれば第一義諦と名く。随つて一法の当体を以て用ゆるに随つて称を立つること、此に例して知んぬ可し。大経に云はく、「解脱の法は諸の名字多し、百句の解脱も秖だ一の解脱なり」と。大論に云はく、「若し法の如く観ずれば、仏と般若と涅槃と是の三則ち一相なり、其の実は異なりあること無し」と。若し此の意を得れば、種種の名は皆な実相と名け、亦た般若と名け、亦は解脱と名くることを知る。三法は亦是れ諸法の名、諸法は亦是れ三法の体なり云云。

 [6]三に譬をもつて顕はすとは、譬へば一人を金師と名け、能く金を鍛ひて其の体黄なるが如きは初句の法を譬ふ。譬へば一人を青と名け、能く漆を作り、其の身白浄なり。又た一人を烏と名け、能く朱を斫きて其の身則ち紫なるが如し。是の如き等の無量百千の名・技・身異なるは第二句を譬ふ。譬へば百人同姓同名にして、同じく一技を解し、而して其の身各異なるが如きは第三句を譬ふ。譬へば一人乱に遭ひ禍を蒙りて処処に姓を換へ、処処に名を変ふるが如し。張儀范蠡の類の如き、多くの官職に渉り身に衆位を備ふ。若し多技に従へて名を得れば、書画金鉄等の師なり。若し文官に従へば儒林中散、若し武官に従へば熊渠次飛なり。処に随つて名を換ふるは名異なるを譬へ、技に随つて称を得るは義の異なるを譬ふ。而も体是れ一なれば更に異人に非ず。経に言はく、「王家の力士は一人千に当る。此の人未だ必ずしも力、千に敵せざれども、直だ種種の技芸の能く千に勝るを以ての故に、故に当千と称す」と。工、衆技に遍ねければ、技として通ぜざること無し。仕へて衆位を具すれば、官として歴ざること無し。是れ不可壊の人、妙技術の人、有体気の人、無過患の人、遍通達の人、能破敵の人、上族姓の人、富財技の人、多知の人、中庶信直の人、頂蓋の人にして、第四句の法を譬ふるなり。譬をもつて顕はすこと冷然たり。故に知んぬ、前の三句は別意に属し、後の一句は円意に属することを。

 [7]四に四随に約せば、問ふ、実相は一法なり、何が故ぞ多義紛然たるや。答ふ、彼の根機に随ひて種種に差別あり。欲に赴き、宜しきに赴き、治に赴き悟に赴く。例せば世人の数を学ぶときは則ち大を捨て、衍を修するときは則ち小を棄て、空を習ふときは則ち有を悪み、地を善くするときは則ち中を弾ずるが如し。既に聞かんことを欲せざれば、之を聞くとも悦ばず。心に信受無ければ、煩悩を滅せず道心を発せず。各己が典に於て偏に習ひて性を成ず、未来聞法の根縁と作ることを得。如来時に於いて仏眼を以て其の信等の諸根を観じ、若干の言辨を以て随応方便して為に法を説く。有の根性の為には妙有、真善妙色を説きて、違はず逆はず。信戒忍進は空見を蕩除し、即ち能く悟入して実相に契ふ。空の根性の為には畢竟空・如如・涅槃等を説きて諦聴諦受し、善を以て悪を攻め、無相最上なり。亦空亦有の根性の為には虚空仏性・如来蔵・中実理心を説きて、欣然として善を起し、非を離れて心浄し。非空非有の根性の為には即ち非有非無の中道をもつて二辺を遮し、不去・不来・不断・不常・不一・不異等を説きて、聴聞を得んことを欲して欣ぶこと渇飲の如し。信楽修習して衆善発生し、執見皆な祛つて悪として尽くさざること無く、第一義の理豁然として明かに発す。此の四根に随ふ故に四門異説す。説異なるが故に名異なり、功別なるが故に義異なり。理を悟ること殊ならざれば、体終に是れ一なり。故に求那跋摩の云はく、諸論各端を異にすれども、修行の理に二無し。偏に執すれば是非あれども、達する者は違諍あること無しと。故に四随は唱を殊にすれども、是れ一実の異名なる耳。

 [8]第四に実相に入るの門を明さば、夫れ実相は幽微にして其の理淵奥なり。絶壑に登るには必ず飛梯を仮るが如く、真源に契はんと欲せば要らず教行に因る。故に教行を以て門と為す。下の文に云はく、「仏教の門を以て三界の苦を出づ」と。「仏子、道を行じ已つて来世に作仏することを得ん」と。門は能通に名くとは此の謂なり。略して四意と為す、一には略して門の相を示し、二には入門の観を示し、三には麁妙を示し、四には開顕を示す。

 [9]門の相を示さば、夫れ仏法は宣示す可からず、縁に赴きて説く者は必ず四句を以て理を詮じ、能く行人を通じて真実の地に入る。大論に云はく、「是の如きの法に於て第一義悉檀を説く。謂ゆる一切実・一切不実・一切亦実亦不実・一切非実非不実、是の如きを皆な諸法の実相と名く」と。実相は尚ほ是れ一に非ず、那んぞ四と言ふことを得ん。当に知るべし、四は是れ実相に入るの門なる耳なることを。又た云はく、「四門より清涼池に入る、是の門無礙なり。唯だ利者のみ入ることを得るに非ず、鈍者も亦た入る。唯だ定者のみに非ず、散心専志精進する者も亦た入ることを得」と。又た云はく、「般若に四種の相あり、謂ゆる有相・無相、乃至非有非無相なり」と。般若は尚ほ一相に非ず、云何んぞ四相あらん。当に知るべし、亦是れ般若に入るの門なることを。又た云はく、「般若波羅密は、譬へば大火焰の如く四辺取る可からず。邪見の火焼くが故なり。若し火に触れずんば身を温め食を熟す。若し火に触るゝ者は火則ち身を焼く。身既に焼かるれば温食も用無し。四門は本と般若に通じ、煩悩を除きて大事を辨ず。若し取著する者は則ち邪見を成じ法身を焼く。法身既に焼かるれば四門何等にか通ぜん。若し火に触れずんば、門則ち能く通ずるなり。若し仏教を以て門と為すは、教略して四と為す云云。若し一教に於て四句を以て理を詮ずれば、即ち是れ四門なり。四四合して十六門と為す。若し行を以て門と為さば、教を禀けて観を修し、思に因つて入ることを得、即ち行を以て門と為す。教に藉りて真を発するときは、則ち教を以て門と為す。初に教を聞くに、快馬の鞭影を見て即ち正路に入るが若きは、修観を須ひず。若し初め観を修するに、夜電光を見るが如く、即ち道を得ることを得ば、更に教を須ひず。並びに是れ往昔の善根習熟す。今、教門に於て通ずることを得るを名けて信行と為し、観門に於て通ずることを得るを法行と名く。若し聞きて即ち悟らずんば、応に須らく観を修すべし。観に於て悟る者は転じて法行と成る。若し観を修して悟らずんば、更に法を聴くことを須ひ、法を聴きて悟ることを得れば転じて信行と名く。教は即ち観の門と為し、観は即ち教の門と為す。教を聞きて而も観じ、教を観じて而も聞き、教観相ひ資けて則ち通入して門を成ず。教観合して論ずれば則ち三十二門あり、此れ其の大数を語ふ耳。細かに門を尋ぬるに、実には無量あらん。五百の身因、三十二の不二門あり、善財は法界に遊びて無量の知識に値ひ、無量の教門、無量の観行を説く。喜見城の如きは千二百の門あり、実相の法城豈に一轍のみならんや。経に云はく、「種種の法門を説きて仏道を宣示す」と。

 [10]今且らく四教に約して十六門の相を明さん。三蔵の四門とは、初に有門を明さば、謂はく生死の法は本より世性・微塵・父母の所作に非ず、乃ち是れ無明正因縁の法より諸行を出生す。煩悩・業・苦の三道悉く皆是れ有なり。一切の有為は無常・苦・空・無我なり。能く煗・頂・世第一法を発得し、真無漏の因を発して真を用ひて道を修す。此れ則ち道諦も亦是れ有なり。子果既に既じて有余・無余の涅槃を得。故に大集に云はく、「甚深の理は説く可からず、第一実義は声字無し。陳如比丘は諸法に於て真実の知見を獲得す」と。此れ則ち滅に因りて真に会す、真も亦是れ有なり。此は是れ諸の阿毘曇論の申ぶる所にして、有を見て道を得れば即ち有門なり。二に空門とは即ち是れ彼の教に正因縁の無明老死、苦集の二諦を析す。三仮浮虚、仮実を破して悉く空平等に入りて真無漏を発す。空に因りて真を見れば、空は即ち第一義の門なり。故に須菩提は石室に在りて生滅無常を観じて空に入る。空に因りて道を得、仏の法身を見る。恐らくは此は是れ成実論の申ぶる所なり。三に有空門を明さば、即ち是れ彼の教に正因縁生滅を明すに亦は有亦は空なり。若し此の教を稟くれば、能く偏に有無を執するの見を破す。因縁の有空を見て真の無漏を発し、有無に因りて真の有無を見る。即ち是れ第一義の門なり。此は是れ迦旃延、門に因りて道に入るなり。故に昆勒論を作りて還つて此の門を申ぶるなり。四に非有非無門とは、即ち是れ彼の教に正因縁の生滅を明す、非有非無の理なり。若し此の教を稟来れば能く有無の辺邪の執見を破し、因縁の非有非無を見て真無漏を発す。非有非無に因りて真の非有非無を見るは即ち第一義の門なり。悪口の車匿は此に因りて道に入る、未だ論の来るを見ず。有る人の言はく、犢子阿毘曇に此の意を申ぶと。彼の論に我は第五の不可説蔵の中に在りと明す。我は三世に非ざるが故に有我に非ず、無為に非ざるが故に無我に非ず。此れ恐らく未だ定んで用ふ可からざるなり。

 [11]二に通教の四門の相を明さば、此は是れ摩訶衍の門なり。通に通じ別に通ずれば、偏に取る可からず。今、通に通ずるに約して四門を論ぜば、上の三蔵の四門は皆な色を滅して空に入る。実人の頭等の六分を析して人を求むるに得ざるか故に名けて空と為すが如し。通教の四門は皆な色に即して是れ空なること、鏡像を観ずるに六分即空なるが如し。析し尽くして空と為すことを待たず。大論に云はく、「仏、比丘に告げたまはく、空を観ずるに即ち疊、疊を観ずるに即ち空なり」と。此は是れ体門の析門に異なるなり。三蔵は生空を観じて道を得、三蔵は生空を観じて道を得已つて、又た更に法空を観ずれば、生法の二境融ぜず。今の通門は生空即ち法空、法空即ち生空にして二無く別無し。大品に云はく、「色性は我性の如く、我性は色性の如し、此の二皆な幻化の如し」と。有る人の言はく、三蔵は実性を計するを破し、実法に約して我を求むるに得ず、但だ是れ性空を観ず。大乗は相の自性是れ空なりと明し、検し已りて空と為すことを須ひずと。此れ乃ち一往の言なり。大品に云はく、「常に性空にして性空ならざる時無し。諸法を暁了するに、幻化・水月・鏡像の如し、豈に止だ相空のみならん」と。秖だ此の幻化に約して即ち四門を判ず。論に云はく、「一切実・一切不実・一切亦実亦不実・一切非実非不実」と。仏は此の四句に於て広く第一義悉檀を説きたまふ。一切実を有門と為すは、若は業、若は果の善悪等の法、乃至涅槃も皆な幻化なり。譬へば鏡中の像は実性無しと雖も、而も幻化の頭等の六分あるを有門と為す。諸法既に幻化の如し、幻化は本より自ら実無く、実無きが故に空なり。乃至涅槃も亦た幻化の如し。鏡中の像の仮に形色あれども、求むるに得べからざるが如し。是を空門と為す。諸法既に幻の如くなれば、故に名けて有と為す。

幻は不可得なり、故に名けて空と為す。鏡中の像の見れども而も見る可からず、見る可からざれども而も見るが如し。是れ亦空亦有門なり。幻有尚ほ不可得なり、況んや復た幻空にして而も当に得べけん耶。即ち是れ両つながら捨つるを門と為す。是れ通教即空の四門なり若し三乗共に稟くれども、而も根性同じからざれば、各四句に於て第一義に入る、故に此の四句を皆な名けて門と為す。故に青目の注論に云はく、「諸法実相に三種あり」と。今是の三乗の人同じく、此の門に入りて第一義を見るは、是れ即空の一種なり。

 [12]三に別教の四門を明さば、若し中論の偈を用ふれば亦は名けて仮名と為すなり。而も四門を辨ぜば即ち大論の四句の如し、亦た是れ此の四句の意なし。言ふ所の別とは、下蔵通に異なるに七義あるが故に別なり、上円教に異なり、又た歴別に中に入る故に別と言ふ。此の意は正しく大経に出づ、但だ多く散説せり。今、乳等の喩に約して即ち別の四門を顕はす。文に云はく、「仏性は乳に酪あり、石中に金あり、力士の額珠の如し」と。即ち是れ有門なり。若し石に金の性無く、乳に酪の性無く、衆生の仏性は猶ほ虚空の如く、大般涅槃も空、迦毘羅城も空なりと明すは、即ち是れ空門なり。又た云はく、「仏性は亦有亦無なり。云何なるをか有とせん、一切衆生悉く皆な有なるが故なり。云何なるをか無とせん、善方便に従つて見ることを得るが故なり。又た譬へば、乳の中に亦た酪の性あり、亦た酪の性無し。即ち是れ亦有亦無の門なり。若し仏性は即ち是れ中道なりと明すは、双非して両つながら遣る。又た譬へば乳の中に酪の性あるに非ず、又た酪の性無きに非ず。即ち是れ非空非有門なり。別教の菩薩は此の四門の教を稟けて仏性を見るに因りて大涅槃に住す。故に此の四句は即ち是れ別教の四門なり。一往用ひて別門に擬す、経の文は或時は円門と為せども、此の義下に在りて料簡す云云。

 [13]円教の四門の相は、此の門は仏性第一義に入ることを明す。一往は別門と名義是れ同じけれども、細しく意趣を尋ぬれば別に多途あり。その同異を分別すること、下に在りて委しく論ずべし云云。

 [14]二に入門の観を示すに亦た二と為す。先には略して入門の処を示し、二には略して入門の観を示す。略して入門の処を示さば、能通の教門は大いに十六と為せども、所通の理は但だ是れ偏円の両真なり。前の八門は同じく偏真に入り、後の八門は同じく円真に入る。何が故に偏真の理は一にして門は八なる耶。三蔵の四門は紆迴隘陋なれば名けて拙度と為し、通教の四門は是れ摩訶衍にして寛直の巧度なり。門に巧拙の殊なりあれば能通を八と為し、真理は二無ければ所通は唯だ一なり。譬へば州城に四面の門を開くが如く、四面の偏門は以て三蔵を譬へ、四面の直門は以て通教を譬ふ。偏直既に殊なれば能通を八と為し、君は是れ一なれば所通不二ならしむるなり。別教の四門は偏にした未だ融ぜず、円の四門は円にして且つ融ず。偏円既に殊なれども能通を八と為し、円真は不二なれば所通は唯だ一なり。譬へば帝城に四面の門を開くが如く、四面の偏門は以て別教を譬へ、四面の直門は以て円教を譬ふ。偏直既に殊なれば能通を八と為し、帝尊は不二なれば所通は唯だ一なり云云。問ふ、小乗は一種の四門にして摩訶衍は何が故ぞ三種の四門あるや。答ふ、小乗は浅近なれば一生に結を断ず、喩へば小家の如し。大乗は深遠なれば通ずる処則ち長し。譬へば大家の千門万戸を須ふるが如し。三の四も何んぞ多とするに足らん耶。問ふ、摩訶衍の門は那んぞ三人真を見ることを得るや。答ふ、此の門の正意は大に通じ、傍には小に通ず。譬へば王国に通門別門あるが如し。別門は朝士を通じ、通門は朝市を通ず。民庶登踐なるを以て謂つて民門と為すべからず。摩訶衍の通門も亦た是の如し。正しくは実相に通じ、傍らには真諦に通ず。故に三乗の灰断は兼て此の門に由る。兼て偏真に通ずるを以て、而も小乗の門と名く可からず。

 [15]二に略して入門の観を示さば、先に三蔵の有門の観を明す。彼の有門の中に信法を具す。信行は説を聞きて即ち悟れば此の心疾利にして、得道の方法は人に示す可きこと難し。且く法行の観門に約せば、即ち十意と為す。一には所観の境を識り、二には真正の発心、三には遵つて定慧を修し、四には能く法を破すること遍し、五には善く通を知り塞を知り、六には善く道品を用ひ、七には善く対治を用ひ、八には善く次位を知り、九には善能く安忍し、十には法愛生せず。阿毘曇の中に此の十意を具すれども其の文間散なり。論設、道を行ぜんと欲れども、何に依りてか修することを知らず、岐路に惑ひて所従を識ること莫きが如し。今其の要意を撮つて通じて始終に冠らしむるときは、則ち有門入道の観を識るなり。一に所観の境を明さば、即ち是れ正無明の因縁より一切法を生ずと識るなり。若し世間の苦楽の法は毘紐天より生ずと謂ひ、或は世性より生じ、微塵より生ずと言ふは、皆な邪因縁の生なり。若し自然法爾にして誰の作者無しと言ふは、此れ無因縁の生なり。無因縁の生は是れ因を破して果を破せず。邪因縁は亦是れ正因果を破す。是等は悉く正因縁の境に非ざれば、応に観ずべからざる所なり。数は隣虚を存し、論は隣虚を破す。此れと邪無と相ひ濫ず、殆んど正因縁の境に非ず。何となれば、隣虚の有無は未だ二見を免れざれば、猶是れ無明顛倒なり。倒の故に是れ集、集の故に麁細等の色を感ず。無明顛倒は既に其れ不実なり、所感の苦の果報那んぞ定んで有無を計することを得ん。故に大論に云はく、「色の若は麁、若は細、総じて之を観ずるに無常無我なり、無我の故に主無し。若は麁、若は細、若は因、若は縁、若は苦、若は集、若は依、若は正、皆な無常無主にして悉く是れ無明顛倒の作す所なり」と。阿毘曇門に広く説くが如し。是を正因縁の所観の境を識り、外道の邪無の因縁に同じからずと名くるなり。

 [16]二に発心真正とは、既に無明顛倒の流転、行識乃至老死は旃火輪の如しと識る。結業を休息せんと欲して正しく涅槃を求む。二乗の心を発して見愛を出離し、名利を要めず。但だ諸有を破して、苦集を増長せず。唯だ無余を志す。其の心清浄にして雑ならず偽ならず。此の心真正なるを正発心と名く、外道天魔に同じからざるなり。

 [17]三に遵修定慧とは、行人既に誓つて有を出づることを求め、波羅提木叉に依りて住して道を修するに、但だ罪障紛馳して心安きことを得ず。道何に由つてか剋せん。為に四念処を修し、五停心を学し、五種の障を破す。五停の事観は即ち是れ定、定の念処を生ずるは即ち慧なり。慧と定と均停す、故に安心と名く。又た定慧調適す。故に停心と名く。若は定慧無く、若は単の定慧なる、若は均調ならざる定慧は、皆な賢人と名けず。世間の賢人の智徳具足するが如き、智は則ち閑はざる所靡く、徳は則ち美行欠くること無し、許由巣父は乃ち賢と称す可し。若し智多くして徳寡なきは狂人と名け、徳多くして智寡きは癡人と名く。狂と癡と皆な賢に非ざるなり。賢は賢能に名け、亦た賢善に名く。善の故に徳あり、能の故に智ありて智徳具足す、故に賢人と称す。行者も亦た爾り、四念処の慧を修し、五停心の定を学して定慧具足す。云何んが数息に定慧を具足する。諸の覚散を制して一より十に至りて息及び数を知るに、無常生滅して念念停まらず。又若し不浄を観ぜば、当に深く穢悪を厭ふべし。能観所観無常生滅し、速朽虚誑にして諸の衆生を誑かす。観を厭ひて恚を起さば、須らく慈定と相応して他の得楽を見るべし。亦た此の定及び彼の楽相の無常生滅なるを知る。因縁観の時は横に四生悉く是れ因縁生の法なりと観じ、竪に三界も亦た是れ因縁生の法なりと観ず。縁より生ずる者は、悉く是れ無常無我なり。諸の障起らば、応に念仏を須ふべきこと、亦是の如し。是を五停具さに定慧を修すと名く。定あるが故に狂ならず、慧あるが故に愚ならず。此に依りて心を安んずるを、衆行の基址と為す。煗頂を発生して苦忍の真明に入り、聖に隣るを賢と為す、義此に在り。外道の鑽搖を知らず、漿猶ほ得難きに同じからず。況んや復た酪酥等をや。

 [18]四に破法遍とは、見有得道を成ずるは、其れ心を定慧に安んず。若し五停心の後共念処を修する時、不浄等を帯して遍く諸法を破するは事理悉く成ず。若し五停心の後、単に性念処を修する時は一向に理観なり。無常の慧を以て遍く諸見を破す。破見の観は中論の下の両品に明す所の如し。仏、始めて法輪を転ずるに余法を説かず、但だ無常を明して遍く一切の外道の、若は有、若は無、乃至非有非無、神及び世間、常無常等の六十二見を破して、清浄なることを得せしむ。今、阿毘曇師は他の破を受けて云はく、無常は是れ小乗、常は是れ大乗なり。常は無常を破することを得るも、無常は常を破することを得ず。若し前の意を得れば、此れ応に然るべからず。朱だ道を得ざる前の執心の計する所の常・無常・亦常亦無常・非常非無常等は、法塵・意根に対して諸見を生ず。見は縁より生ず、縁より生ずる者は悉く是れ無常なり。云何んぞ外道に常楽我浄あらん。是の如きの四倒は、悉く無常を用ひて之を破す。故に五百の比丘、達兜に語つて言はく、「但だ無常を修して以て道を得べく、以て通を得べし」と。六群比丘の如き、他の為に法を説くに純ら無常を説く。当に知るべし、見に深浅無く、悉く無常の為に破せらるゝことを。旧医の純ら乳薬を用ふるに同じからざるなり。

 [19]五。知通塞とは、前に遍く諸見の過を破すと雖も、未だ其の徳を見ず。過は即ち是れ塞、徳は即ち是れ通なり。若し有見の中の八十八使、乃至非有非無不可説の見の中の八十八使は悉く縁より生ず。之を名けて塞と為す。塞の故に須らく破すべし。復其の通を識るとは、所謂る有見の中の道滅、乃至非有非無不可説の見の中の道滅なり。是の如きの道滅は因縁より生ず、之を名けて通と為す。通は何んぞ須らく破すべけん。若し諸見を識らずんば、是の事は実にして余は妄語なりと謂ひ、見を孰して業を成じ、愛潤は果を感ず。豈に塞に非ず耶。能く諸見に於て、一一皆な無常顛倒なりと知りて計著を生ぜず。執せざるときは則ち業無く、業無きときは則ち果無し。是の如く達する者は則ち道滅あり、豈に通と名けざらんや。外道の虫の木を食みて、是の虫是字非字を知らざるか如くなるに同じからず。

 [20]六に善く道品を修すとは、豈に唯だ此の通塞を識る而已ならんや。当に道品を修して諸の法門を進むべし。謂はく、此の有の見、乃至不可説の見を観ずるに、皆な色に依る。汚穢不浄なるは、則ち身念処なり。若し有の受を受け、乃至不可説の受を受くるに皆な三受に依る、受は即ち是れ苦なるは受念処と名く。諸見に起す所の想行は、悉く是れ無我なりと観ずるを法念処と名く。諸見の心、念念無常なりと観ずるを心念処と名く。此の四観を観ずるを、有為法の中に正憶念を得ると名く。是の念を得るが故に、四倒則ち伏するは、是を念処と名く。四観を勤修するを四正勤と名く。定心の中に修するを四如意と名く。五善根生ずるが故に五根と名く。五根増長して諸の悪法を遮ぎる故に五力と名く。定慧調停なるを七覚分と名け、安隠道の中に行ずるを八正道と名く。今は約位の道品に非ず、但だ通修に就て三十七を論ずる耳。若し一の停心門に三十七品を作らば、余の停心も亦是の如し。阿毘曇の道謗の中に広く分別すべし云云。此の三十七品は是れ行道の法なり、将に涅槃の城に至らんとするに三門あり。所謂る苦の下の二行を空解脱門と為す。集道に各四あり、苦の下に二あり、是れ無作解脱門なり。滅の下に四あり、是れ無相解脱門なり。若し涅槃の門開すれば即ち入ることを得るなり。故に仏は須跋陀羅経の中に於て決定師子吼して、「唯だ我法の中にのみ八正道あり、外道の法の中には尚ほ一道すら無し、何に況んや八道を耶」と。

 [21]七に善く対治を修すとは、若し利人は即ち入るも、若し入らざる者は当に助道を修すべし。故に論に云はく、「十二禅等は悉く是れ助開門の法なり、正慧既に弱ければ遮障起ることを得。助道を修して援と為す」と。論に云はく、「貪欲起らば不浄背捨等を修することを教ふ。縁の中に自在ならざれば、当に勝処を教ふべし。縁の中に広普ならざれば、当に一切処を教ふべし。若し福徳を少くば、当に無量心を教ふべし。若し色を出でんと欲せば、当に四空を教ふべし」と。是の如き等は悉く是れ助道助開門の法なり。外道の根本禅に於て愛見慢を起すに同じからず。

 [22]八に善く次位を識るとは、此の如きの正助等の法を修すと雖も、得ずして即ち我は是れ聖人なりと言ひて、真似に叨濫するは賢聖を知らざるなり。今明かに真似の階差を識りて、自ら聖に非ずと知れば、増上の慢則ち生ずることを得ず。外道の戒取見取、生死の法を計して、以て涅槃と為すに同じからず。

 [23]九に善く安忍を修すとは、別想念処の力弱くして、未だ通泰に甚へず、転じて総相念処を修し、或は一を総べ、或は二を総べ、乃至は四を総ぶるなり。是の時応に須らく安忍して諦観をして成就せしめ、転じて煗法に入り、似道の煙り生ずべし。大経に云はく、「煗は有漏有為なりと雖も、還つて能く有漏有為を破壊す。我が弟子にはあり、外道には則ち無し」と。又た若し安忍すれば即ち頂法を成ず、頂法の成ずるを忍と名け、彼の辺に到る。如し其れ忍ぜずんば、則ち退して此の辺に還る。故に「頂法退して五逆を為り、煗法退して闡提と為る」と云ふ。是の故に、此の中に善く須らく内外の諸障を安忍すべし。外道の細微の遮法を安忍すること能はざるに同じからず。

 [24]十に法愛不生とは、上来既に四善根生ずることを得れども、若し法愛を起さば退して五逆闡提と為らずと雖も、而も見諦に入ることを得ず。是れ則ち三番縮観して進んで上忍世第一法と成る。苦忍・真明を発して十六刹那に初果を成ずることを得。或は超果を成じ、或は重ねて観を用ひて五下五上を断じて無学を成ずることを得。若し利人、観を用ふれば節節に入ることを得。若し鈍人、観を用ふれば具さに十に来至す。阿毘曇の中に復広く解すと雖も、十意を出でず。五百の阿羅漢は毘婆沙を作りて正しく有門の得道を申ぶ。云何んぞ是れ調心の方便なりと言ふ。四門調適すれば倶に能く道を得。若し取著を生ずれば倶に道を得ず。若し但だ有を見て道を得、空を見て道を得ずと云はば、云何んぞ外人に異ならん。故に大論に云はく、「若し般若の方便を得ざれば、則ち有無に堕す」と。今、十法を以て方便と為し、直ちに真門に入る。永く外道に異なるなり。是を以て有門入真の観と為すなり。

 [25]余の空門、亦空亦有門、非空非有門の入真の観の始終の方便は、有門に比するに各各不同あり。然るに倶に偏真に会し、三界の惑を断ずるは更に異なること無し。其の三門も有に準じて例して応に十観なるべし。大同小異なり。意を以て得べし。今煩はしく記すこと能はず云云。

 [26]次に通教の有門の観を明さば、例して十意と為す。列名は云云。諸法は皆な幻化の如しと体解す。三人の発心同じと雖も、亦た小異あり云云。中論師の云はく、「此の中は是れ大乗の声聞なり」と。今言はく非なり。経に云はく、「声聞縁覚を得んと欲せば、当に般若を学すべし」と。論に云はく、「声聞及び縁覚の解脱涅槃の道は皆な般若より得」と。経論には是れ大と云はず、人師の謬まる耳。定慧不可得なりと知ると雖も、而も心を二法に安んず。幻化の慧を以て遍く四見、六十二見及び一切の諸法を破す。幻化の中の苦集を知るを名けて塞と為し、幻化の中の道滅を知るを名けて通と為す。不可得の心を以て三十七品を修す。所治無きを以て諸の対治を学して乾慧地乃至仏地を識る。幻化の慧は外魔の為に動ぜられず、内障に退せられず。諸法不生にして般若生じ、亦た愛著せずして即ち真に入ることを得。若は智、若は断、無生法忍なり。前に比するに巧みなりと為す。準作して知んぬ可し。復委して記せず。余の三門の十意も大同小異なり。意を以て得べし、亦た煩はしく文を記せざるなり。

 [27]次に別教の有門の観を明さば、即ち十意と為す云云。一に観境とは凡夫の四見四門の外に超出す。亦た二乗の四門の法に非ず、亦た通教の四門の法に非ず、諸の四門の法を境と為すは、実相と名けず。生死涅槃に非ざる如来蔵とは、乃ち名けて妙有と為し、真実の法あり。此の如きの妙有は一切法の為に依持と作り、此の妙有より諸法を出生す。是を所観の境と為すなり。二に発心を明さば、菩薩は深く実相の妙有を観じて、生死の為に遷されず、金蔵草に穢し額珠鬪に没す。貧窮狐露にして甚だ愍傷すべし。菩薩此が為に大慈悲を起し、四弘誓願す。思益に三十二の大悲あり。華厳に云はく、¬一人・一国・一界、微塵の人の為にせず。乃ち法界の衆生の為に菩提心を発す」と。是の如きの発心は大勢力ありて、師子吼の如し。既に発心し已りて安心進行す、前に説く所の種種の定慧の如し。是の如きの時の中には、宜しく応に是の如きの定を修すべし。是の如きの時の中には、宜しく応に是の如きの慧を修すべし。定愛し慧策して心を安んじて道を修す。二法に依止して余に依止せざるを、是を安心の法と為すなり。還つて妙有の慧を以て遍く生死の一切の諸見六十二等を破す。功徳黒闇皆悉く受けずして、遍く涅槃の沈空取証を破す、猶ほ大樹の怨鳥を宿さざるか如し。一一の法の中に於て明かに通塞を知る。雪山の中に備さに毒草あり、亦た薬王あるが如し。菩薩は須らく知るべし。此の如きの心起るは即ち是れ六道の苦集なり、名けて塞と為す。是の如きの心起るは即ち是れ二乗の道滅なり、名けて通と為す。又た是の如きの心起るは是れ二乗の苦集なり、名けて塞と為す。是の如きの心起るは名けて菩薩の道滅なり、名けて通と為す。是の如きの心起るは名けて菩薩の苦集と為し、是の如きの心起るは仏の道滅と名くることを。苦集の中に於て能く非道を知りて仏道に通達し、能く仏道を知りて壅塞を起す、了了として滞り無きは、是を通塞を識ると為す。善修道品とは、夫れ三十七品は是れ菩薩の宝炬陀羅尼なり。倒を破するの念処・勤行の定心・五善根生じて能く五悪を排し。定慧調適して安隠道の中に行ず。十相を離るゝが故に空三昧と名け、亦た空相を見ざるを無相三昧と名け、願求を作さざるを無作三昧と名く。是の行道の法は涅槃に近ずく門なり。若し諸法対治の門を修するは、所謂る常無常・恆非恆・安非安・為無為・断不断・涅槃非涅槃・増上非増上なり。常に楽ふて諸の対治門を観察して実相を助開するなり。初め十信より十住・十行・十迴向・十地・等覚・妙覚あり、聖位の深浅悉く知りて謬まること無く、終に我れ叨極りに上位をむと謂はず。内に善悪の両覚、違従の二賊を忍び、外に八風を忍ぶ。忍力を以ての故に傾動せられず。設ひ相似の法を証するも、法愛起らざれば菩薩の頂に堕せず。生を法愛と名く、是の愛無きが故に即ち菩薩の位に入る。無明の穢草を破して妙有の金蔵を顕出し、仏性を見ることを得て実相に入る。是を有門に入実の観を修すと為すなり。余の空門・亦空亦有門・非空非有門の入実の観も、例して亦た十と為す。諸門の方便は各不同なりと雖も、倶に円真に会して理に差二無し。三門の観法は、有に準じて知んぬ可し、復た委しく記せず云云。