[75]爾時世尊告舎利弗汝已殷懃三請豈得不説より下は広く開三顕一を明す、凡そ七品半なり、文三と為す、一に上根人の為めに法説し、二に中根人の為めに譬説し、三に下根人の為めに宿世の因縁を説く、亦は理・事・行と名く。例せば大品の如し、亦三根の為にす云云。

 [76]今は十義を以て料揀す、一に通有り別有り、二に声聞有り声聞無し、三に惑に厚薄有り、四に根に転不転あり、五に根に悟不悟有り、六に領解無領解、七に得記不得記、八に悟に浅深有り、九に益に権実有り、十に待時不待時あり。

 [77]一に通別を明さば、初周は別しては法説と名け、通じては則ち三を具す、優曇花の時に一たび現ずが如きのみとは即ち譬説なり。若し我れ衆生に遇はば尽く教ふるに仏道を以てするとは、即ち因縁説なり。中周は別しては譬説と名け、通じては則ち亦三、我れ先に言はずや、皆菩薩を化せんが為めの故なりと。又合譬に、一仏乗に於て分別して三と説きたまふとは即ち是れ法説なり。二万億の仏の所に於て常に汝を教化すとは即ち因縁説なり。若し此文は法説に属すと謂はば、長者聞き已て驚て火宅に入り方に救済すべしといふを取る可し、即ち因縁説なり。下周は別しては宿世因縁と名け、通じては亦三を具す、涅槃の時到て衆亦清浄に仏慧に入らしむと、是れ法説なり。一の導師有りとは是れ譬説なり、而して三周と作すは、多に従ひ、正に従ひ、略に従ひ、傍に従ふ、名字をして乱らざらしめんと欲して各々一意に拠るのみ。問ふ、三周は三根の人の為めにす、一周に通じて三説有らば、一説に応に三根を具すべし、答ふ、法説は止だ上中の上に逗ずるのみに非ず、又中下有り、正に従ひ傍を略す、故に上根の人に逗ずと言ふのみ、余の二周も亦是の如し。

 [78]二に有声聞無声聞を明さば、光宅は定んで実行声聞有りといふ、若し実無しと言はば、権何の応ずる所あらん。開善の解は実行の声聞無しといふ、勝鬘の三乗の初業は法に愚ならずといふを引く、外凡已に一乗を知る、寧んぞ二乗猶ほ小果を執する有らんや。経に有りと明すは権なり、此二家は偏に執して経に乖き義を失す、若し定んで有らば、経に那ぞ声聞の弟子無くして但だ諸の菩薩を化すと言ふや、若し定んで無ければ、誰か化城に入らん。亦三の会す可き無くば、権何の引く所ぞ。若し実は有り権の為めに引かると言はば、亦応に実に三蔵の仏有りて、復権の三蔵の仏の為めに引かるべし、若し実に此仏無けれども但だ権仏有りといはば、何の意ぞ但だ権の声聞のみ有て実の声聞無しと許さざるや、此義例せず、実に界内の惑を断ずる者有り、此れを呼んで実と為す、而して権者之に応ず、何の処にか界内の惑を断ずる仏有りて、而して権の仏有て此仏に応ぜん。今明さく、有無は偏に執す可らず、若し長者の実智の往て観るに従はば則ち客作の人無けん、若し窮子の根性に就くときは則便ち自ら作人と謂はん。法華論に四種の声聞有り、一に決定、二に上慢、三に退大、四に応化なり、前の二は未だ熟せざれば、授記を与へず、後の二は記を与ふ。若し今経に依らば応に五有るべし、一に久しく小を習ひ、今世に道熟し、小教を聞て果を証す、論の如くんば、是れ決定の声聞なり。二に本と是れ菩薩にして、劫を積んで道を修し、中間に生死を疲厭し、大を退き小を取る。大品に称して別異の善根と為す、仏且らく其小道を成じて、為めに小教を説きたまふ、教を斉て結を断じ果を取る、是れ大を退き未だ久しからずして小を習て来た近ければ理応に悟り易かるべし、論の如くんば、是れ退菩提の声聞なり。三に此二を以ての故に、諸仏菩薩は内に秘し外に現じ、成就引接して大道に入らしむ、論の如くんば、是れ応化の声聞なり。四に若し権実の両種能く生死を出づるを見て、涅槃を欣楽し、戒定慧を修し、微に観慧有て未だ似位に入らず、薄く所得有れば是れ証果と謂ふ、此れを未得謂得、未証謂証と名く、論の如くんば即ち増上慢の声聞なり。五には大乗の声聞なり、仏道の声を以て一切をして聞かしむ。若し決定・退菩提の両種に従はば、即ち声聞有り、若し大乗に従はば理は灰断して永く化城に住すること無く終に宝所に帰す、実者既に爾れば則ち権有ること無し、故に声聞無し。若し増上慢の者は既に未だ位に入らざれば則ち実に非ず、又応化に非れば則ち権に非ず。若し此意を得れば有無冷然なり、何ぞ苦ろに諍ふことを須ひん。復次に秖だ大乗の声聞に就て復有無を論ぜば、若し権に応化と作て外に小迹を現じ内に大徳を隠せば、則ち大乗の声聞無しと謂ふ。若し自行の発迹顕本に従はば則ち大乗の声聞有りと言はん、今の開三顕一の正意は、決定・退大の声聞をして大乗の声聞と成らしめんが為めなり、自行既に立すれば即ち能く化して声聞に応ず、若し此意を得れば則ち有無に達するなり。

 [79]第三に惑に厚薄有りとは、瑤師の云く、三根は得果已後無生に遊観す、無生の理は是れ一なり、其出観に及んで三教を縁ずれば則ち異なり、必異の三教を将て無生の一理に惑ふ、謂く教既に三なれば理豈に一なるべけんや。又一理を将て三教に惑ふ、理既に是れ一なり、教寧んぞ三を得んや。理教の間に 踟蹰して得失に廻遑す、理を以て教に惑ふは此れ得の義有り、教を以て理に惑ふは此れ失の義有り、上根は理を以て教に惑ふ、情多し、初に法説を聞て情に順じて即ち悟る。下根は教を以て理に惑ふ情多し、法説の無三を聞て其計謂に逆ふ、故に三たび聞て乃ち解る。中根は二楹の際に処すれば、法説に悟らずして譬説に便ち了す。今謂く、此の三根の釈、未だ必らずも爾るべからず。三人は何等の理教に踟蹰するや、若し小乗の理教に廻遑せば、則ち疑惑未だ尽きず、尚ほ初果断結の人に非ず。若し大乗の理教に廻遑せば、大乗は条然として永く異なり、何ぞ曾て小乗と相乱して而して踟蹰と言はんや。若し小を以て大に惑ひ、大を以て小に惑はば、爾前は未だ方便を斥せざれば、那ぞ忽ちに遊観出入して予め踟蹰すること有らん、既に予め踟蹰せば、即ち已に疑生じ執動ずること、今日に始まるに非ず、若し先より執を動じて疑を生ぜは、開三顕一を聞て即ち応に領解すべし、那ぞ忽ちに猶ほ驚疑すること有らん。進退拠る無し、故に此解を用ひず。今明さく、根に利鈍有りとは、皆大乗の根性を論ず、惑に厚薄有りとは別惑に約して言を為すのみ。即ち四句と為す、一に惑軽く根利なり、二に惑重く根利なり、三に惑軽く根鈍なり、四に惑重く根鈍なり。若し別惑軽くして大根利たるは、初めて聞て即ち悟る、若し惑重くして根利たるは、再び聞て方に暁らむ、若し惑軽くして根鈍なるは、三たび聞て乃ち決す、第四句は復三たび聞くと雖も悟ることを得ること能はず、止だ結縁衆と為るのみ。或は初めの両句の根利たるは同じく上根と為す可し、或は中間の両句は中下の根と為す可し云云。復次に初品の無明に三重ありて初住の中道を覆ふに約す、若し初めの法説には、上根の人は三重無明を一時に倶に尽して仏知見を開き、菩薩の位に入りて菩提の記を得ん。中根は二重の無明を断じ、下根は一重を断ず、次に譬説の時は、中根は第三重を断じ尽し、仏知見を開き菩薩の位に入り記莂を授くるを得、下根は進んで二重を断ず、次に因縁説を聞き、下根は三重を断じ尽して仏知見を開きて菩薩の位に入るなり。例せば小乗の十六心の未だ満たざるは、初果と名くることを得ず、十六心満ずるを須陀洹と名くる如し。

 [80]四に転根不転根を明さば、旧云く、上根は初めに法説を聞き即ち悟る、而して中根は転じて上根に同じく、下根は進んで中根に同じ、若し譬説の時は、中根は前に已に上と成れば即ち能く悟ることを得、下根は上と成る、次に因縁説の時は、下根は已に上に同じ、故に即ち悟るを得と。若し爾らば下を転じて上と成り、因縁説の時は皆悉く是れ上にして利と為ること則ち均し、那ぞ猶ほ鈍者は因縁説を待つと称することを得んや。若し転じて上と成らば即ち上に同じく悟らん、若し其れ未だ悟らずば猶ほ鈍の名を受くれば、則ち転根の義無し、例せば身子は一たび聞き、目連は再たび聴きて同じく初果を得るが如し、若し二智利ならば則ち復優劣無けん、若し猶ほ利鈍と称せば転根の義成ぜず。夫れ衆生の心神は定かならず、悪縁に遇へば利を転じて鈍と為り、善縁に遇へば鈍を転じて利と為る、先世に仏に値ひたてまつりて法を聞き、自ら下中を転じて上と為ること有らば、倶に法説に於て悟ることを得ん、自ら下を転じて中と為ること有らば、譬説を聞て解を得ん、下なる者は転ぜず、三周に乃ち了す、此の如きの転根は旧釈に同じからず。三刀をもて木を斫るに、利は一、中は二、鈍なる者は三たび下す、利鈍の名失せざるも、木断の処は是れ同じきに譬ふ。問ふ、三根は初住の位に入るも猶ほ利鈍有りやいなや。答ふ、真修の体顕はれば則ち差降無し。問ふ、若し爾らば、初住已上は更に縁修を起すに優劣有りやいなや。答ふ、此同位の人は復勝負無し、真修の体融ず、寧んぞ異なること有ることを得んや。

 [81]五に悟不悟有るを明さば、経中には多く菩薩を上根と為し、縁覚を中根、声聞を下根なりと明す、若し菩薩を上根なりと言はば、応に併せて法説の中に在て悟ることを得、縁覚は併せて譬説の中に在て解を得、声聞は併せて因縁の中に在て悟ることを得べしや、然るに経中に一往三根を判出す、悟解に至ては義未だ必らずしも然らず、今の経は、但だ声聞の得解を見て支仏を見ざるは、支仏は是れ中根にして、既に仏の出世に値へば、声聞の数に入る、根に随て悟を得るが故に、別に縁覚を標せざるのみ、故に身子の請偈に云く、其れ縁覚を求むる者は比丘比丘尼と、此文に依るに、即ち縁覚は四衆の中の摂に入ることを知るなり。又法師品に云く、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の声聞を求むる者、支仏を求むる者と、豈に縁覚の得解無らんや。旧云く、菩薩は是れ上根なれども、必らずしも皆利ならず、多に従て上と為す、而して執心転じ易し、其域懐を原るに仏を求め、但だ三百を過ぎ已て即ち近果を求むることを執す、此疑は悟り易し、三根の菩薩は同じく法説に在て解を得。上なるは或は略説に在り、中なるは或は広説の初に在り。下なるは身子と斉しと。今明さく、菩薩の語は通ず、但だ大心を発さしむれば悉く是れ菩薩なり、何ぞ必らずしも併がら是れ利根ならん、身子に及ぶこと尚少し、豈に初周の前に已に併がら悟を得ることを得んや。若し爾らば寿量を流通するに何の意ぞ、諸の菩薩の節節に無生忍を悟ることを得る者、菩提心を発す者有らんや。旧云く、寿量の中の悟は皆是れ法身にして増道損生すと、今言く爾らず、六百八十万億那由他恒河沙の人有り、無生法忍を得るに、此人始めて此忍を得、当に知るべし、寿量の前は未だ是れ法身ならず、故に知ぬ、菩薩は悟ることを得ること、局て初周の初めに在る可らざることを。問ふ、菩薩の悟ることを得ることは始終に通ぜば、二乗の悟を得ることも亦応に後に至るべし、答ふ、三周に父子の天性を定むること已に竟らば則ち皆菩薩と名く、設ひ後に在て悟るも同じく菩薩の悟と名くるなり。

 [82]六に有領解無領解を明さば、若し三乗同じく悟らば何の意ぞ但だ声聞の領解のみを見て其二は無きや、今明さく、無仏に出世するを独覚と名く、仏の十二因縁の法を説きたまふを聞くを縁覚と名く、既に声聞数の中に入て得悟領解す、皆別に出さず、大意見る可し。身子迦葉等は悉く是れ中乗の根性なり、故に声聞の領解に縁覚を兼ね得て労しく別に出すこと無きなり。又四衆の中に縁覚の心を発する者有り、其人の悟ることを得ること即ち一ならざるなり。信解品に云く、密かに二人を遣はして追捉して将ひ還らしむと、即ち是れ其義なり。菩薩領解せざることは、声聞の教は仏を得ることを明さず、今の経に其の大に帰するの路を開くも、自ら解の謬らんことを恐る、故に仏に対して解を述ぶ、菩薩は爾らず、故に領解無し。又其意三有り、一に菩薩は本意は仏を求む、設ひ異執有りとも而も執軽し、終に仏を取るに帰す、不得の慮り有ること無し、今三周の説を聞て、但だ是れ其観慧を正す、故に領解を須ひず。二に菩薩の大を悟ることは処処に文有り、二乗の作仏は今の教より始めて要を逐て流伝す、故に菩薩の領解を略す、胡文には或は有べし、漢には略して書かざるのみ。三に菩薩の位行は深絶なり、諸の新小の菩薩は敢て領解せず、寿量を説き竟て弥勒総じて都て領解す、初め無生法忍より終り余有一生在に訖るまで則ち是れ領解を具足す、更に何物をか求めん云云。

 [83]七に得記不得記とは、若し同じく皆領解せば、何が故ぞ声聞は記を得て縁覚菩薩の受記を見ざる、此れ亦三意あり、一には昔しは二乗の正位に入るは発心すること能はずと明す、何に由てか記を得ん、今既に大を悟り、斯の別決を欣ぶ、故に為めに劫国を記するなり。菩薩発心して仏を求め、行成じて自ら満ず、故に急に求むることを欣ばず、仏も亦促かに授けず。又前教は処処に菩薩に記を授く、此れは是れ恒の説なり、要を逐て伝訳す、前の如し云云。二に菩薩に亦別記有り、調達龍女、豈に記に非らんや。又法師品に云く、声聞を求むる者、辟支仏を求むる者。仏道を求むる者、是の如き等の類、咸く仏前に於て法華経を聞く、我れ皆授記を与ふ、当に三菩提を得べしと、此れ豈に皆記するに非ざらんや。三に二乗は昔より来た未だ曾て八相の記を得ず、故に其劫国を記す、菩薩は先に已に曾て記す、故に重ねて明さざるのみ。浅近の記は初住に已に得たり、菩薩の欣ぶ所に非ず、菩薩の欣ぶ所は乃ち是れ円極妙覚の遠記なるのみ、故に寿量品の中に、始め発心より一生得に訖るまで、妙因斯に満じ極果頓に円かなりと、此れ乃ち法身の記莂を授くるなり、何ぞ無記と謂はんや。問ふ、若し小、大を悟らば、応に同じく法身の記を授くべし、那ぞ八相の記を授くることを得んや、答ふ、八相は是れ応記なり、既に応記を得れば必らず本有ることを知る、物をして知聞して共に来縁を結ばしめんと欲す、故に応記を与ふるのみ。又此二乗は若し寿量を聞かば、即ち同じく生を損し法身の記を得るなり。

 [84]八に悟に浅深有るを明さば、一往は同じく無明を破して初住に入証す、細く尋ぬれば応に必ず明晦あるべし。初めに法説を聞て尚ほ仏慧に入り、更に譬説を聞く、豈に重ねて明ならざらんや。又因縁を聞て理自ら増進せん、更に寿量を聞て弥々復た優深ならん。聴法の人重ねて聞かば前に勝るが如し。単複の厚薄、之に方べて知る可きなり。

 [85]九に権実得益の不同を明さば、一に云く、実行は益を得、権行は正しく接引影響の為なり。其益を論ぜずと、今明さく、爾らず、若し寿量に至れば権実悉く益を得、増道弥々高く、損生弥々尽し、円に隣り極に際て、唯一生在るのみ、豈に権者の益に非ずや、所以に初めに影響と為て共に実行を熟し、後に極果を説くときは則ち自の道明かなり。文に云く、出入息利すること乃ち他国に遍すと、息利の他に在るは即ち是れ己利なり、実行の益を得ることは権引に由る、化の功を己に帰して権も亦益を得る、故に一音をもて法を演説したまふに衆生類に随て各々解を得、何ぞ必らずしも須らく寿量を待つべけんや云云。又我れ自ら此真浄の大法を得んことを欲する、即ち是れ自の益なり。

 [86]十に待時不待時を明さば、爾前に悟らず、必らず法華を待て悟る者を名けて待時と為す、法華の前の教に已に解す者を不待時と名く、何が故に爾るや、仏に顕密の二説有り、若し顕説に論を為さば、法華の前は二乗未だ大道を悟らず、要らず須らく五味に調熟して会すること法華に在るべし、故に云く、説時未だ至らざるか故に、今正に是れ其の時なり、決定して大乗を説かんと此れ即ち待時なり。若し密教に論を為さば、未だ必らずしも具に五味を待て法華に在て方に会せず、爾前に密に入る者有り、故に不待時と名く。此れ乃ち大に時不時を判ずるなり。若し三周に就けば亦是れ待時不待時あり、迹本二門に亦是れ待時不待時あり、前後に悟入すること有るを致す、即ち此意なり。問ふ、一種の根性は密に非ず顕に非ず、二時に摂せざる者有り、応に是れ時を失して永く得悟せざる可きや。答ふ、余経は或は此れを謂て時を失すと為さん、今の経は爾らず、此人は密顕の両時に於て悟らずと雖も、滅度の想を生ずと雖も、而も彼土に於て是経を聞くことを得、故に時を失すること無し、乃ち是れ彼土の時を待つのみ。問ふ、五千の起去は応に是れ時を失ふべし。答ふ、此等は応に如来の滅度の後の弘経人を以て益を受くべし。

 [87]問ふ、身子初周に四衆三根の為めに請ふ、譬周に中下の為めに請ふ、云何ぞ仏は各々三根の人の為めに三周に法を説きたまふと言ふや。答ふ、此語は便ならず、請すれば則ち普請なれば、説も亦普ねく説く、但だ上根は智利にして法を聞て悟を得、中根は中に処し、譬を聞て悟を得、下根は下に居し、三を聞て悟を得、汝は当に義に随ふべし、云何ぞ語に随はん云云。

 [88]問ふ、宿世は是れ過去の事なり、法譬は是れ当現の事なりやいなや。答ふ、経に文無し、義もて推するに応に爾るべし、三を引て一に帰す、三より一に望むるに、一は則ち是れ当なり、事を挙げて譬と為すに、譬は即ち是れ現なり、後に準じて前に望むるに応に所問の如くなるべし。

 [89]問ふ、旧に五濁は大を障るを以て四句の料揀あり、前に説くが如し、有人、見を断ずると無明と合して共に障と為す。法華論に、煩悩無き人、染慢有り、一乗法身の常住を知らずと云ふは是なりと指すなり、若し博地に涅槃を執せずして而して法を聞かざるもの、即ち是れ無明独り障と為る。若し爾らば、当に三周に法を聞き已て無明を破すと為んや、当に未だ法を聞かずして無明を破すと為んや、若し法を聞き已て破さば、則ち無明は是れ障に非ず、若し未だ法を聞かずして而しく能く無明を破さば、都盧て障り有ること無し、是義如何。答ふ、是れ他人の立義なり、今其れが為めに通ぜん、譬へば灯生じて闇滅す、其前後を定む可らざるが如し、前後ならずと雖も、闇は定んで是れ障なり云云。

 [90]問ふ、勝鬘に云く、三乗の初業は法に愚ならず、自ら当に覚るべきことを知ると。優婆塞戒経第十四に云く、二乗は自ら菩提を得ることを知て、且らく小乗の果を取ると。又十三に云く、之を知るは易く、之を行ずるは難し、一乗を知ると雖も而も羅漢を取ると、彼両経は皆知と言ふ、今の経は、云何ぞ三根の徒猶ほ自ら知らず、初めに疑ひ後に悟る、此義云何。答ふ、此経も亦知と云ふ。文に云く、若し実に羅漢を得るも此法を信ぜずとは、是処り有ること無し、仏の滅後に現前に仏無きを除く、此人は滅度の想を生ずと雖も、若し余仏に遇はば便ち決了することを得んと。凡そ三意有り、前には知を明し、次には不知を明し、後には知に会帰す、永らく知らざるに非ず。又身子の云く、今仏前に於て皆疑惑に堕す、我れ今是義の所趣を知らずと。又大通仏の時、声聞多く疑惑を生ず、彼れ見仏聞法して、尚ほ疑て知らず、況んや見聞せずして那ぞ忽ちに知ることを得ん。若し二文を執して更に相矛盾せば秖だ諍競を増す、道に於て何の益ある、論者は止余事を論ず可し、声聞は聖と成れり、能く知ると能く知らずとは、唯仏の境界にして爾が識る所に非ず。今試に之を融せん、三乗の初業とは、初業を二と為す、若し久遠を初業と為さば曾て大を聞くときは則ち法に愚ならず、若し中ろ忘じ、今日小を学んで始めて念処を修するを取て初業と為さば、是れ則ち知らず、其義此の如し。若し此意を得れば、権に初業と為れば是れ則ち能く知る。実に是れ初業なるは則ち知ること能はず。有人の言く、利者は能く知り、鈍者は知ること能はずと、此れ応に四句あるべし、権に利鈍と為て倶に知ること能はざることを示す、権に利鈍と為て倶に能く知ることを示し、権に利鈍と為て聞けば則ち能く知り、聞かざれば知らず、権に利鈍と為て倶に非知非不知を示す、今は此判を取らず、但だ権者は内心に了了に久しく知り、実行の者は未だ大に入るか得ず、是故に知らざるを取る、義に於て自ら顕はる云云。

 [91]問ふ、縁覚は無仏の世に出づ、云何ぞ三周に縁覚有ることを得んや。答ふ、釈論に云く縁覚独覚あり、独覚は無仏の世に出で、縁覚は願て仏の世に生ると。華厳に云く、菩薩は兜率より下るに、光を放て之を照す、覚れば即ち身を捨て、覚らざれば之を徙すと。大経には彗星と云ふ。中論に云く、支仏の世に出でば仏法已に滅すと、此れは是れ独覚の人なり、願て仏の世に生るとは、先に初果を得て、十四生に未だ満たずして仏に値はば即ち羅漢と成る、仏に値はざれば即ち独覚と成る、其れ既に仏に値ふも亦寿を捨てず、亦移されず、願て仏を見たてまつる故に、二果三果も例して然り。又部行縁覚有り、無仏の世に在て師徒訓化するなり、此れに応に二種有るべし。仏世を去りたまひて後文字無く、衆生の根鈍の故に、支仏は法を説かず、此れは部行に非ざるなり、部行とは能く法を説くなり。又変化の縁覚有り、宜しく応に見るべき者には縁覚の身を現ず、今三周の座に縁覚有るは其義解す可し。

 [92]初周法説、文五と為す、一に殷勤三請豈得不説より下、巻に訖るは正しく是れ法説なり。二に第二巻の初めより偈頌に訖るまでは、是れ身子の領解なり。三に吾今於天人より下仏所護念に訖るまでは、是れ仏の述成なり。四に汝於来世より宜応自欣慶に訖るまでは、是れ授記を与ふるなり。五に四衆より尽廻向仏道に訖るまでは、是れ四衆の歓喜なり。初めに長行と偈頌有り、長行三と為す、一に許、二に受旨、三に正説なり。許の文三と為す、一に順許、二に誡許、三に揀許なり。

 [93]汝已三請とは、是れ順許なり。汝今諦聴とは是れ誡許なり、諦聴は是れ聞慧、善思は是れ思慧、念之は是れ修慧なり。大経に四善法を明し、大涅槃の因と為す、一に善知識は如来なり、余は解す可し。

 [94]説是語時とは是れ揀衆許なり、五千座に在り、故に如来は三たび止む。今将に許説せんとして威神をもて去ら遣めたまふ、故に揀衆と名く。五濁の障多きを罪重と名く、小を執して大を翳すを根深と名く、未だ得ざるを得たりと謂ふを上慢と名く、未だ三果を得ず、未だ無学を証せず。有如此失とは、謂く障と執と慢の三種の失なり。而不制止とは上に開三顕一を聞くに言略にして、義隠るれば、猶は未だ謗を生ぜず、繋珠の因縁と作るに足る、去れば則ち益有り。若し広の開三顕一を聞かば、情に乖て謗を起さん、住すれば則ち損有り、是故に制止したまはざるなり。此衆無復枝葉とは、枝葉は細末にして器用に任へず、此等方便の方便を執す、大に於て器に非ず。大品に云く、枝葉に攀附して根本を棄つ、是人を不黠と為すと、即ち是れ此義なり。退亦佳矣とは、既に小を以て自ら翳し、復他の大光を妨ぐ、今退て謗法の諐無く、復他を障るの過無し、故に佳矣と云ふなり。上には枝葉未だ去らず、如来三たび止む、貞実のものは聞かんことを願ず、故に身子は四たび請ふ、師弟機を鑒みて、徒らに靳固するに非るなり。問ふ、仏の大慈悲は何ぞ神力をもて其をして住して聞かざらしむること華厳の中の聾唖の如く、何ぞ増すに毒鼓に状どり喜根勝意の如くせざる、答ふ、各々所以有り、華厳の末席に始めて漸を開して未だ小執を破せず、故に座に在て隔つ、今は諸仏の法は久しくして後要らず当に真実を説くべし、正に化を滅し庵を破せんと欲す、宜しく須らく楝遣すベし。若し去住倶に謗らば、宜しく喜根の如く強て説くべし。今去るときは則ち益有り、那ぞ忽ちに住せしめん、住するときは則ち損有り、那ぞ忽ちに遣らざらん、 喜根は慈を以ての故に強て説く、如来は悲を以ての故に発遣す。問ふ、五千の座に在れば即ち益を蒙らず、去て何の益か有らん。答ふ、此れ当機に非ず、是れ結縁の人のみ、已に上に説くが如し。昔大通仏の時亦無量の衆生有り、心に疑惑を生ず、世々に師と倶に生じて今皆得度す、此人も亦爾り。大経を説く時、万五千億の人是経中に於て信心を生ぜず、是人は未来に於て亦当に信ずることを得べし、此れに例するに益は久しからざるに在り。金光明の中に、時に閻浮提に二種の人有りといふ、亦是れ斯の例の意なり。汝今善聴とは即ち結許なり。

 [95]受旨は文の如し。

 [96]如是妙法より下は是れ正しく広説なり、文二と為す、一に四仏を明す章、上の諸仏の権実を広す、二に釈迦を明す章、上の釈迦の権実を広す。上の句逗の少きは是れ文略なり、総じて諸仏と云ふは是れ人略なり、但だ開三と顕一とは是れ義略なり、此中の章句多きは是れ文広なり、五仏を明すは是れ人広なり、六番を明すは是れ義広なり。六とは一には法の希有を歎ず、二には説に虚妄無し、三には方便を開す、四には真実を示す、五には五濁を挙げて権を釈す、六には偽を楝んで実を敦す、歎法は尊重を生ぜしむ、説に虚謬無きは其誹謗を止む、方便を開するは小に執すること莫からしむ、真実を示すは其をして大を悟らしむ。五濁を挙ぐるは必らず三を施すを示す、偽を楝ぶは必らず真実を要す、五章の中に於て一々応に六義を備ふべし、而して前後互に出して具足せざる者は蓋し如来の巧説は略にして闕くること無からしめ、詣て文を煩はさざらしむるのみ。又六義の前後亦復在る無し云云。

 [97]四仏の章は両と為す、初めに総じて諸仏を明す、次に三世を列す、総章応に六を具すべし、今但だ四あり、一には法を歎ず、二には虚妄無し、三には方便を開す、四には真実を示す、二義を闕くは後の文を指すなり。

 [98]歎法の中、法譬双歎す、時乃説之とは、諸仏同じく五濁に出づれば、必らず前に三を開したまふ。今の世尊の如きも四十余年にして始めて真実を顕はしたまふ、久々に稀疎の故に時乃説之と言ふ。久しく説かざるは人の堪へざるが為めの故に、時未だ至らざるか故に、五千未だ遣らざるが故なり。今人已に堪へ、時已に至り、五千已に去る、決定して大乗を説く故に時乃説之と言ふ。

 [99]優曇花とは此には霊瑞と言ふ、三千年に一たび現ず、現ずれば則ち金輪王出づ、三乗の調熟已後方に妙法を説き法王の記を授くるを表す。又酪・生蘇・熟蘇の三味を隔跨して已後乃し醍醐を説く云云。観心は、心即中と観ずるを名けて瑞と為す、此観一切法に通じて実相に至るを名けて霊と為す云云。

 [100]汝等当信とは虚妄無き法を勧信するなり、此理至て深し、理は昔と異なり、此言至て妙にして、言は昔と反す、此行至て普ねし、行は昔と乖く、此人至て勝る、昔の劣に勝る、還て客作の四種の麁を指すに而も今は皆妙なり、物の謗を生ぜんことを恐る、故に勧信するなり。虚妄無き人は虚妄無き法を説くを信ずるなり。

 [101]随宜所説より下は是れ方便を開するなり、文三と為す、謂く開・釈・結なり。初めに仏道は三種の機宜に随て方便を説きたまふことを明す、故に随宜と言ふ、而して仏の意は実に在り、物の能く解すること莫し、故に意趣難解と言ふなり。所以者何とは釈なり、今仏の権能を挙げて諸仏の方便を釈す、巧慧同じきが故に、此れを借て彼を釈す。我以無数方便の如きは、諸仏の開権も亦我が如くなり。是法非思量とは此に両義有り、或は開権を結すと作し、或は正しく顕実を作す、開権を結すとは仏意知り難し、唯仏と仏と能く了したまふ、禀教の者は三と謂ふ、諸仏は一と知りたまふのみ。

 [102]顕実を作すとは即ち後の文に属す、文五と為す、一には勝人の法を標し、二には出世の意を標し、三には重示し、四には正しく釈し、五には結成す。

 [103]人法を標すとは、無分別の法は唯是れ仏の所知たることを挙ぐ、仏は無分別智を以て無分別の法を解知す、即ち是れ顕実の法なり。

 [104]所以者何の下、二に出世の意を標すとは両と為す、初めに総、次に字を分つ。総とは諸仏は如実の相を覚したまひ、此実道に乗じて世に出応し、秖だ衆生をして此実相を得しむ、唯此事の為に世に出現したまふ、曾て他事無し。 諸法実相を除て余は皆魔事と名く。字を分て釈せば、一は則ち一実相なり、五に非ず、三に非ず、七に非ず、九に非ず、故に一と言ふなり。其性広博にして五三七九より博し、故に名けて大と為す。諸仏出世の儀式なる故に名けて事と為す、衆生此機有て仏を感ず、故に名けて因と為す、仏は機に乗じて応じたまふ、故に名けて縁と為す、是れを出世の本意と為す、而して今三を開するは一の為めの弄引なるのみ。人の取らんと欲して先づ当に之を与ふべきが如し、種々の道を説くと雖も、其実は一乗の為めなりとは、即ち此義なり。

 [105]舎利弗云何の下、三に重ねて標すとは、将に分別せんと欲して更に重ねて提起して解釈の端と為す。又此大事は仏の尊重したまふ所、釈論の中に明すが如し、父王は多く太子の名を聞かんと欲して数々之を説けども、厭足有ること無し云云と。

 [106]諸仏世尊の下、第四に正しく釈すとは、先に諸解を出す、旧云く、四一、謂く果一・人一・教一・因一なり、果一とは初めの両句は説者に拠る、後の両句は受者に拠る、説者に就かば一往前の因門に於て略して果の理を説き、先に仏の知見を開き、卒経に後の果門に於て広く果の理を顕はし仏の知見を示す、受者に約するに、先に因門に略して開するに始めて悟解を得、後に果門には広く深く理趣に入るを得と、今は此解を用ひず、何となれば、経に四句を明すに皆為令衆生と云ふ、語意は悉く前の機の得益を主とす、化主に関はるに非ず、応に所化の人の開悟と作すべし、那ぞ即ち両句を分て能化者の開示と作さんや。又正しく是れ因門の説法開三顕一の時なり、那ぞ両句を分出して果門の中の説と為すを得んや、果門の因縁は未だ会せず、那ぞ予め説くことを得ん。若し爾らば六瑞は初めに興り仏の未だ定を起ちたまはざるに、応に是れ略説なるべし。五千未だ去らざるに、応に是れ広説なるべし、二処既に其れ然らずんば、果門安ぞ此の如くたることを得んと’、下方未だ出です、分身未だ集らざるに、那ぞ因門の二句を以て果門と為すことを得んや。

 [107]次に光宅の云く、初めの一句は是れ開除開出なり、昔方便もて三を説き五濁を除かしめ、大乗を開出して知見の道理を覚悟せしむ、先に人の為めに此理を開説すと雖も、所以を説かず、更に此理を示況して聞慧を生ぜしむ、聞くと雖も未だ所以を悟らず、更に広く分別して思慧を開悟せしむ、既に信悟して意を得れば、即ち発心して仏の知見を学せしむ。修慧を得れば仏の知見の道理に入らしむと、今亦用ひず、何となれば、汝は旧に同じく章に命けて是れ果一と云ふ、四句皆応に果の義を作すべし、云何ぞ三慧を用ひて文を消せん。因果矛盾し前後相違す。又三慧に多種あり、此経は正しく二乗を破し決定して三蔵中の三慧を用ひず、菩薩の方便と二乗と同じければ蓋し是れ通の意なり。又用ふ可らず。若し別の三慧を作さば、是れ菩薩の法なり、都て仏法に非ず、若し円の三慧を作さば、円の三慧は未だ仏知見を開せず、経を消すること不可なり。若し余の三慧を作さば、経を去ること逾々遠し。若し円の三慧を作さば果一の義成ぜず、都て用ふ可らず云云。

 [108]次に 地論師の云く、第五の恒沙の八分の解を得るは、即ち三十心の位を開と為す。初地より六地に至て見思尽て解転た分明なるは示の如し。七地より八地に至て空有並べ観じて無礙なるは悟の如し。十地を入と為すと。経に十地を名けて眼見と為すを引く、今亦用ひず、何となれば此経に開仏知見を明す、仏は一切種智を以て知り、仏は仏眼を以て見たまふ、此智眼を開するを乃はち仏知見と名くるなり、云何ぞ第五の恒沙の八分の解を生じて猶未だ地に入らざるを取て、之を称して開と為さん、此の如く開を論ずるは仏眼を開するに非ず、此の如きの知は一切種智の知に非ず、経と会せず、故に用ひず云云。

 [109]有人解すらく、初めの句は是れ理にして、後の三句は是れ略解なり、謂く八苦五濁は当果を障ふ、是れ閉なり、今の教は五濁を除て仏果の知見顕はる、故に開と名く。穢累除こりて理顕はるを清浄と名く、後の三句は是れ聞思修なり、此れを難ずること前に同じ。

 [110]有人の言く、三乗別教を開と為し、三乗通教を示と為し、抑揚を悟と為し、法華を人と為すと。又 人解すらく、三乗通を開と為し、抑揚を示と為し、無量義を悟と為し、法華を入と為すと、此二解は三句を擘て他経に向ひ一句を裂て法華に置く、擘裂穿鑿し傷害誣誷す、其過大なり。

 [111]有人の言く、三十心は是れ開、初地より六地に至るを示と為し、七地より九地に至るを悟と為し、十地を入と為すと、此人通を傍にして別を挟んで、此の如きの語を作す、未だ法華の奇異を見ず、何ぞ称歎を俟たんや。

 [112]有人は華厳・瓔珞・仁王・摂大乗・十七地論・五凡夫等、皆五十二位有り、地前に四十心有るを引く、何ぞ之を用ひざる、此人は謬て華厳を引く、華厳には十信を明さず、縦使ひ諸部に地前の四十心の位を明すことあるも皆断道に非ず、何に因てか此れを用ひて開仏知見を解せん、皆漫語のみ。

 [113]有人釈論の四智総別一時にして得るを引く、応に此れを用ひて開示悟入を解すべからす、開示悟入は浅深有るに似たり。又四智は位高く開示は浅深に通ず、此れ応に例に非るべし、此人は但だ釈論の四智の一時を見て開示の一時を見ず。

 [114]有人の言く、非空非有は是れ開、能空能有は是れ示、空有不二は是れ悟、空有不二にして而も二なりと了するは是れ入なりと、此人は二諦に約して解を作す、尚ほ二乗を抜出すること能はず、寧ろ是れ法華の一の意ならんや。

 [115]有人の言く、三諦の理に達するを開と為し、三諦分明なるを示と為し、三諦の一異を見ざるを悟と為し、任運に流に順するを入と為すなりと、此人は邐迤の三諦に約して義を作す、尚ほ菩薩の法を出でず、寧ろ是れ仏法ならんや。

 [116]有人解すらく、仏知見とは一切智の総相を知と為し、一切種智の別相を見と為すと、此れ亦然らず、釈論に明さく、一切智は是れ声聞の智、道種智は是れ菩薩の智、一切種智は是れ仏智なりと、此れは是れ歴別の一切種智にして三智一心の中に在るに非ず、何ぞ二乗の知と別仏の見を以て円仏の知見を釈せんや。

 [117]有人解すらく、尽智の煩悩清浄なるを知と名け、無生智の因果の患累畢竟して無生なるを見と名くと、此人は通家の仏の名教を取て究竟の仏を解す、都て相応せず。上の諸師の如き、漫りに諸経の中の語を取り、都て法華の大意を見ず。

 [118]法華論に云く、一には無上の義、一切智を除きて更に余事無し。経の開仏知見為令衆生得清浄故出現於世の如し。二に同の義、声聞と辟支仏と仏性法身平等なるが故に。経の欲示衆生仏知見故出現於世の如し、仏性と法身と更に差別無きが故なり。三に不知の義、謂く二乗の人は究竟して唯一仏乗なるを知らざるが故に。経の欲悟仏知見出現於世の如し。四に不退転地を証せしめ、現に無量の智業を与ふるが為めの故に、経の欲令衆生入仏知見故の如しと、論の言は次第す、初めに開仏知見を無上と為し、次に三乗同じく仏性法身有るを示す、仏智無上を明すと雖も、但だ仏のみ独り有ることを恐る、故に第二に三乗同じく有ることを明す。三乗同じく有りと雖も而も二乗は悟らざれば、其に示して知らしむ、知ると雖も而も不退を得ず、故に第四不退を得しむ。

 [119]又一番は菩薩に約す、開は前の如し、示は諸の菩薩の疑有る者に如実の修行を知らしむるが故に、悟は未だ菩提心を発せざるものをして発心せしむるが故に、入は已に菩提心を発して法に入らしむるが故に。

 [120]第三番は凡夫に約す、開は前の如し、示は其に法身仏性有ることを示すが故に、悟は外道衆をして覚悟を生ぜしむるが故に、入は大菩提に入らしむるが故に。

 [121]今師は四解を作る、論に乖かず、論は句句に釈し、今は一句に四釈を作る、論は不退転地を証することを明し、今は四位の釈を作る、論は如来能く実を証したまふことを知り、今は四智の釈を作る、論は同の義を明し、今は観心の釈を作る、論は究竟処を知らざることを明し、今は四門の釈を作る云云。

 [122]今顕実を釈するに無量の法皆一なり、玄義の中の十妙の如し、則ち是れ十種の一なり、若し旧解に和せば且らく四一を作る。

 [123]若し無量一とは一色一香も中道に非ること無し、此義知る可し。若し十の一を作さば、文を帖して整足す、次第せずと雖も十義減ずること無し、所以はいかん、我れ無数の方便種種の因縁を以て諸法を演説すとは、此れは自ら是れ開権の文なるのみ。是法非思量分別之所能解よりは理一を顕はす、唯有諸仏乃能知之は智一を顕はす。唯以一大事とは、小く須らく分別すべし、一は則ち是れ理、大は則ち是れ智、事は則ち是れ行なり、理は智を発し、智は行を導く、此義の便を逐ふに是れ行一を顕はす、知見とは、智は理を知る、眼は諦法を見る、諦法無為なれば則ち分別無し、無為を以ての故に而も差別有り、此知見に約して開示悟入を論ず、略を以て広に擬するに則ち四十位有り、是れ位一を顕はす。又四句を結する文を取て一を明す、一は即ち法身、大は即ち般若、事は即ち解脱なり、是れ秘密蔵なり、即ち三法の一を顕はす。出現於世とは感応一なることを顕す。但教化菩薩とは眷属一なることを顕はす。諸有所作とは神通一たることを顕はす。唯以仏之知見示悟衆生とは利益一なることを顕はす。但以一仏乗故為衆生説法とは、説法一なることを顕はす。経文は義を印して信に符契の如し。若し略して旧に和して四一を作さば、数は同うして義は異なり、旧に果一と云ふ、今は理一と言ふ、義に依り文に依る、義に依るとは、若し理一無ければ衆事顛倒す、悉く是れ魔説にして、復仏経に非ず、故に理一を須ふ。文に依るとは文に仏知見と称す、今は所知見を取る、所見は即ち諦にして、所知は即ち境なり、境と諦は即ち自走の理なり、故に理一と名く。旧は因一と云ふ、今は行一と云ふ、因の語は単にして義は別なり、行一は語は通じて因果を収得す、故に行一と言ふ。人一教一は彼と同じ。

 [124]今且らく略に従て説て四一を以て文を消す、先に理一を釈す、復四意と為す、一に四位に約し、二に四智に約し、三に四門に約し、四に観心に約す。

 [125]一に四位に約すとは、諦境は知見す可らず、智眼に約して乃ち能く知見す、二智と四眼は知見すること能はず、唯一切種智と仏眼は則ち能く知見するなり、経に為令衆生聞仏知見と云て仏果の自知自見を論ぜず、若し偏に仏果を語らば即ち衆生を失す、若し衆生を語らば則ち仏知見無し、故に偏に取る可らず、三教の行人は是れ衆生なりと雖も未だ仏眼仏智有らず、故に実相を知見すること能はず、円教の四位も亦是れ衆生なれども、又分に仏眼仏智を得、則ち衆生の義成じ知見の義も亦成ず。故に此四位に寄て以て理一を釈す。瑞相の中の天雨四花の如き、万善同じく帰して四位に入ることを得、四位の華に乗じて以て仏果に趣くことを表す、故に位に約して理を顕はすなり。開とは即ち是れ十住、初めに無明を破して如来蔵を開き宝相の理を見る、何となれば性徳の理は通別の両惑の為に染著せられ了知す可きこと難し、初心に能く円に信じ円に受け円に伏して而して未だ断ずること能はざるは名けて開と為さず。内に観行を加へ外に法雨の助を藉りて、通別の惑蔵を破し真修の性を顕出し、知見朗然として開発す、日出づれば闇滅し眼目に用有るが如し、故に名けて開と為す。縁と修と惑を破す、故に使得清浄と名く。仁王に云く入理般若を名けて住と為すと、十住の小白花の位に住するなり。示とは惑障既に除こり、知見の体顕はる、体は万徳を備へ法界の衆徳を顕示すること分明なり、故に名けて示と為す。即ち是れ十行の大白の位なり。悟とは障除こり体顕はれ法界の行明かなり、事理融通し更に二趣無し。摂大乗師の云く、如理智、如量智と、今は理量不二たる故に名けて悟と為す、即ち十廻向の小赤の位なり。入とは事理既に融し自在無礙なり、自在に流注して任運に阿より荼に到り薩婆若海に入る。摂大乗師の如理如量と云ふが如きは通達自在なり、如量の知見は能く衆徳を持す、如理の知見は能く諸惑を遮す、即ち是れ十地の大赤の位なり。然るに円道の妙位は、一位の中に即ち四十一地の功徳を具す、秖だ開は即ち示悟入等を具す、更に異心に非ず、但だ如理の知見は分別浅深の相有ること無し、如量の知見を顕はさんと欲すが故に四位を分別するのみ。発心と畢竟の二別ならず、是の如きの二心の前心は難しと、既に難易と云ふ、即ち知る、初心と畢竟心と応に明晦浅深の別有るべし。猶ほ月体は初後倶に円なれども而も朔望の殊り有るが如し、四位の知見は皆明かに実相を照せども而も開入の異を説くのみ云云。

 [126]二に四智に約せば、今円教の四智を以て四位に対せんと欲す、般若の中の教を通ずる釈の如くならざるなり。一に道慧、道の実性を見て実性の中に仏知見を開するを得るなり。二に道種慧、十法界の諸道の種別、解惑の相を知り、一一に皆仏知見を示すなり。三に一切智、一切法の一相寂滅を知る、寂滅は即ち仏知見を悟るなり。四に一切種智、一切法の一相寂滅の相を知り種種の行類相貌を皆識る。即ち仏知見に入るなり。又道慧の如理を開と名け、道種慧の如量を示と名け一切智の理の量不二を悟と称し、一切種智の理量双照を入と為す、此れ亦実理に浅深無き中に約して、而も浅深を分別するなり。

 [127]三に円教の四門に約す、横に四句を釈せば、空門は一空一切空、即ち開仏知見、有門は一有一切有、即ち示仏知見なり、亦空亦有門は一切亦空亦有、即ち悟仏知見なり。非空非有門は一切非空非有、即ち入仏知見なり。能通は則ち四、所通は則ち一なり。開示悟入は是れ能通の門、所知所見は是れ所通の理なり。

 [128]四に観心に約して釈せば、心性三諦の理は不可思議なることを観ず、此観の明浄なることを名けて開と為す、不可思議なりと雖も而も能く空仮中の心を分別するに、宛然として濫すること無きを名けて示と為す、空仮中の心、三に即して而も一、一に即して而も三なるを、名けて悟と為す、空仮中の心、空仮中に非ずして而も斉しく空仮中を照すを名けて入と為す、是れを一心三観にして而も開示悟入の殊りを分つと為すなり。四種の釈ある所以は、理を見るは位に由る、位の立つは智に由る、智の発するは門に由る、門の通ずるは観に由る、観の故に則ち門通じ、門通ずるが故に智成る、智成るが故に位立ち、位立つが故に理を見る、理を見るが故に名けて理一と為すなり。

 [129]舎利弗是為諸仏以一大事より下は、即ち是れ理一の義を結成するなり。昔の方便教も亦義をもて開示悟入を論ずることを得るも、而も仏知見に非ず、故に是れ権なり、今は仏知見を明す、故に是れ実なり、実は即ち理一なり。

 [130]告舎利弗如来但教化菩薩よりは、是れ人一を明す、昔の方便に就て三乗を教化すと謂ふ、理実にして而も言はば但だ菩薩を化す、彼窮子の自ら客作の賤人と謂ひ、長者の観ずる所は実に己が子と為すが如き、即ち是れ人一なり。

 [131]諸有所作常為一事よりは 光宅は教一と称す、今は行一と言ふ。諸の三乗の衆行は之を名けて諸と為す、円の為めの故に諸なれば、即ち是れ一事なり、此行は何の至り到る所ぞ、唯仏の知見に趣く、即ち是れ行一の意なり、亦此れを持して教一と為す可し。若し教主に就て言を為さば、諸の所作有るは唯教化を以て事と為す、此れ教一を便と為す。若し行人に就て語を為さば、所作の事なり、事作は即ち是れ行なり、今は此便を取て呼んで行一と為すなり。然るに四句に皆二義あり、理一の中の如きに至ては、若し能知見を取らば即ち位一を便と為す、所知見は理一を便と為す。人一の句の中、若し教化を取らば教一を便と為す、若し菩薩を取らば人一を便と為す、教一の句の中、若し一仏乗を以て而も衆生の為めに法を説くを取らば、此れ教一を便と為す、若し乗運の義を取らば行一を便と為す、四句通じて然り、便を逐て釈するのみ。

 [132]但以一仏乗よりは光宅は因一と為す、今は教一と言ふ。円頓の教を一仏乗と名く、故に序品に云く、大乗経を説くと、即ち是れ教の義なり。別教より已去は皆有余の説と名く、即ち不了義にして仏の一乗に非ず。光宅の云く、縁覚声聞の二無く、偏行の菩薩の三無しと。又有人の云く、菩薩縁覚無きを無二と為す、声聞も無きを無三と為すと、若し此解を作さば、秖だ是れ三蔵の諸乗無くして通乗を存するのみ、何ぞ一仏乗に関はらんや、有人の言く、縁覚無きを無二と為す、声聞無きを無三と為す、菩薩の大乗を存すと。若し爾らば秖だ三蔵中の二乗無くして三蔵中の菩薩無きにあらず、此れ有余を存す、何ぞ仏乗に関はらん、何処の経論にか声聞を以て第三と為さん、既に此次第無し、都て是れ妄説なり。若し汝が解に依らば、無二は是れ縁覚無く、無三は是れ菩薩無きなり、第一は是れ声聞にして、応に無を被らざるべし。若し此の如くならば則ち大に倒乱す、今言く、但以一仏乗とは、純ら仏法の円教乗を説くなり。無余乗とは別教帯方便有余の説無し。無二とは般若の中の帯二無きなり。無三とは方等の中の所対の三無きなり。此の如きの二三皆無し。況んや三蔵中の三をや。

 [133]舎利弗一切十方諸仏法亦如是よりは、即ち是れ第五に総じて結す。

 [134]三世の仏の章は各各教一行一を明す、後に総じて人一理一を論ず、文に在て見る可し。若し当章に自ら四一を作すも亦得ん、而して総の文の顕かなるに及ばざるなり。菩薩瓔珞経第十三に九世の仏を明す、過去の三世の仏と、現と未も亦爾り、未来の三世の仏とは、古仏は慈悲をもて未来に入り種種の形を作し衆生を度する者是なり。未来の現在の仏とは当に未来の記を受くべき者是なり。未来の未来仏とは、当仏の転次に受記する者是なり。過去は此れに準じて知る可し云云。現在の現在仏とは当化主の者是なり、現在の未来仏とは次に補する者是なり、現在の過去仏とは古仏の迹を垂るる者是なり。過去諸仏章よりは此中に応に六義を具すべし、但だ二種を出す、一に開方便、二に顕真実なり、両は則ち上を指し、両は則ち下を指す。以無量無数方便とは開権を明すなり。是法皆為一仏乗故とは顕実を明すなり。上の一仏乗に例せば即ち是れ教一なり。従諸仏聞法とは是れ法を聞くと雖も、法は衆生に被らしむれば人一を兼ね得るなり。究竟皆得一切種智とは、種智の所知は即ち是れ理一、 能知は即ち是れ行一なり、次第ならずと雖も四一兼ね足るなり。未来仏章よりは亦二義有り、上を指し下を指し、兼ねて即ち六を具す云云。現在仏門よりは正しく是れ化主なり、初めに仏出の意を標す。諸仏章の中の唯以大事因縁出現於世の如き、此れ亦是の如し、唯衆生を饒益し安楽にしたまはんが為めに而も世に出でたまふなり。次に開権、次に顕実、文に四一を具するなり。