[1]第二に思仮を体して空に入る破法遍とは、即ち三と為す、一には思仮を明し、二には体観を明し、三には其位を明す。思仮とは貪、瞋、癡慢を謂ふ、此を鈍使と名け、亦は正三毒と名く。三界に歴て十と為す、又三界凡そ九地なるに約するに、地地九品有り、合して八十一品、皆能く業を潤し三界の生を受く。初果猶七反、未だ尽さず、灯の滅せんとして方に盛なるが如し、復、欲有りと雖も婦に非れば淫せず、復、瞋有りと雖も地を墾くに夭せず、復愚有りと雖も性実を計せす、道共戒の力、任運に是の如し、故に正煩悩と称するなり、見惑瀾漫として無方に、境に触れて著を生ずるに同じからず。思惟と称するは解に従つて名を得、初は真を観ずること浅し、猶事障有り、後に真を重慮して、此惑即ち除く、故に思惟の惑と名くるなり。数人の云はく、「欲界を貪と為し、上界を愛と名く」と。「成論」の人は此語を難ず、「上界に味禅の貪有り、下界に欲愛有り」と。愛貪倶に通ず、何の意ぞ偏に判ずる、若し、「下界は貪重し、上界は貪軽し」と言はば、貪軽きは貪に非ざる可きや、此れ亦是れ一並なり、但、仏有る時は、縁に対して別説す、仮名にして定まること無し、豈一例す可けんや。但煩悩を召得せしむ、即ち須く破除すべし、何ぞ労して貪愛を諍はんや。譬へば糞を除ふに、唯穢を却くを以て先と為す、分別は急に非ざるが如し。道に入るの要は方便に在り、名相は傍たるのみ。若し委しく知らんと欲せば、「毘曇」「成実」に備悉に之を明す、彼に往きて尋ぬ可し。空仮の観、今論する所なり。

 [2]二には体観を明すとは。若し生滅門は先に析智を用て見を断じ、後に還つて析智を用て重慮して思を断ず。無生滅門は初に体見を用て空に入り、後に還つて体思を用て重慮す、更に余途ならざるなり。今貪欲の仮に体して空に入るとは、欲惑の九品、一一の品起るに即ち三仮有り。女に六欲有るが如き、色欲、形貌欲、威儀姿態欲、言語音声欲、細滑欲、人相欲を謂ふ、分別すること云云。此六欲、若し行人に触るれば能く諸根を染汚す、内に血脈を動じ、貪相外に現す。初果尚未だ断ぜざる所、何に況んや凡夫をや。難陀の余習、衆中に女を見るに先づ共に言談し、欲残習を動かす、況んや正使なる者をや。「法華」に云はく、「女人の身に於て、能く欲想を生ずるの相を取つて而して為に法を説かざれ」と。若し此相を取つて、塵、意根を動かし、欲心を起す者は即ち因成仮なり。念起り、相続して断ぜずば遂に事を行ずることを致す、即ち相続仮なり。有欲の心相、無欲の心相に異るを以て即ち相待仮なり。仮虚不実、終に之を計して以て道理と為さず。此欲心を観ずるに、根従り生ずと為んや、塵従り生ずとせんや、共と為んや、雑と為んや。若し根従り生ぜば、未だ塵に対せざるの時、心応に自ら起るべし。若し塵従り生ぜば、塵既に是れ他なり、我に於て何ぞ預らん。若し共じて生ぜば応に両心を起すべし。若し無因より生ぜば、因無きは不可なり。四句、欲を推すに、欲に来る処無し、既に来る処無くんば亦去る処無し、欲無く、句無く、来無く、去無し、畢竟空寂なり、利根の人は此の如く観ずる時、思仮の一品去り、一分の真明かに顕る。設ひ未だ相応せざるも、四悉檀を用て信法廻転し、善く止観を調へて即ち相応することを得。一品の思を断じ、一分の真を顕す云云。若し鈍人は、因成の中に於て観ずるに、初品未だ去らずんば更に相続の中に於て観ぜよ。前念滅して生ずと為んや、滅せずして生ずと為んや、亦滅亦不滅にして生ずと為んや、非滅非不滅にして生ずと為んや。若し滅して生ぜば、滅、生ずること能はず。若し滅せずして生ぜば、滅せずば則ち生ぜず。若し滅不滅にして生ぜば、性相違するが故に、若し離して生ぜば。此れ則ち不可なり。四句、欲無く、亦四無し、此の如く観ずる時、即ち応に入ることを得、生法両空を成ずべし。若し入らずんば四悉巧に修せよ。修するに又入らずんば、更に相待の中に於て観を作せ、前に例して解す可し。初品既に爾り。後の八品も亦然なり。貪欲の九品を破すること既に爾り、瞋、癡、慢の九品を破するも亦然なり、例して自ら解す可し、復委しく記せず。九品真顕るるは即ち是れ理不生、九品の惑尽くるは即ち是れ因不生、欲界の果の起らざるは即ち是れ果不生、不生の故に不滅、即ち是れ無生法忍なり云云。問ふ、欲界の煩悩は定んで九品なりや。答ふ、若し「成論」は無礙道に伏し、解脱道に断ず、唯九品を論ず。若し「阿毘曇」は、方便道、勝進道有りて両道に伏し、無礙道に断じ解脱道に証す、無惑の処を証するなり、諸経多く用ふ、今且く之に依る。若し、見仮従り観に入るに、無漏心疾くして観を出でずして断ずれば品秩を論ぜず、修道容与、方便有ることを得、善巧に修習し、信法廻転し、転じて勝進品に入る、若し数数勝進すれば、当に知るべし、品秩も亦多し、何ぞただ九有るのみならん、九とは大いに分つて言を為すのみ。

 [3]次に色界の九品を破するとは、或は世智を用ひ、或は無漏智を用ふ、慧解脱の人の如きは亦世禅無く、但無漏を用ひて無学を成ずることを得、初果、禅無き者は進修して理、重慮し、無漏智を用ふるなり、若し倶解脱の人は或は無漏智を用ひ、或は世智を用ふ、今且らく世智に依つて得禅の者に約して便と為す。若し初に禅を習うて事障を破すれば欲界定を発す、性障を破すれば即ち色定を発す、故に事障未来、性障根本と云ふ。性障若し除これば初禅の法起る、八触身に触れて五支の功徳生ず、是れ初禅の相なり。其中に味あるを貪と名け、不得の者を軽んずるを慢と名け、禅の中の苦集を知らざるを癡と名く、此の如きの三惑、復九品有り。品品に三仮あり、色法の八触欲界意根等に触するは即ち是れ因成なり、分別して観を為し念念断ぜざるは即ち是れ相続なり、此発禅の心、不発に異るは即ち是れ相待なり。若し観破せざれば禅に随つて生を受く、何ぞ不生と謂はん。今四句の止観を用て善巧に修習す。方便勝進して一品の惑断ずるを無礙道と名く、無惑の処を証するは即ち解脱道なり、一分の惑除こるは即ち因果等しく無生、是を従仮入空と名くるなり。相続、相待、四観を用て仮を観じ空に入る、亦是の如し。初品を破する、既に然り、余の八品も亦是の如し。貪を破すること既に然り、慢癡の九品を破するも亦是の如し。若し初禅に事障を破し、中間を発すれば、此に於て命終して二禅に生ぜず。例せば欲界の性障去らずんば初禅に生ぜざるが如し。今初禅に性を破して二禅即ち発す、喜と倶に生ず、猗喜楽四支等あり、此中、味有り、貪有り、慢有り、癡有り、各九品有り、品品に三仮有り、内浄法塵、意根と合するは是れ因成、内浄の心、相続して生ずることを得、不内浄に待して而して内浄有り、是を三仮と為す。若し観検せざれば禅に随って生を受く。今止観を用て修習して方便勝進を成ず、無礙に惑を断じ、解脱に真を証して事理の無生に入る。若し未だ入らざる者は更に相続、相待を観ず、亦是の如し。余の八品も亦是の如し。癡慢等も亦是の如し。二禅も亦事障性障有り。事去つて中間を発し、性去つて三禅を発す、楽と倶に発す、此楽深妙なれども聖人は能く捨つ、凡未は捨つること難しと為す、此中に愛慢癡有り、凡そ九品有りて品品に三仮有り。楽は意根に対して楽心相続す、無楽に待して楽有り。若し観察せざれば禅に随つて生を受く。今四句の観慧を用て之を破し、方便勝進して無礙に惑を断じ、解脱に真を証し、事理の無生を成す。若し未だ去らずんば更に相続、相待を修す。及び余の八品も亦是の如し、癡慢の九品も亦是の如し。三禅に亦事性の両障有り、若し性障を破すれば捨倶に起る時、亦愛、慢、癡を備ふ、亦九品三仮有り。不動法は意根に対す、即ち因成等、若し観察せざれば禅に随つて生を受く。今止観を用ひて方便勝進して無礙解脱、事理の無生を成ず。若し未だ去らざる者は更に相続、相待を観ず、亦是の如し。余の八品及び癡慢等、亦是の如し。若し無想天は色を留めて心を滅す、故に無想と名く。情に無想と謂ひ、具足して想在り。例せば事障を断ずれども性障猶存するが如し。終に色を出です、此を外道の天と名く、前に見心を破し、見心久しく去らば当に此天に生ぜざるべし。或は因縁の事為に心此定を起す、即ち三仮等有り、亦四観を用て之を破す、相続、相待も亦是の如し。若し五那含天は、更に四禅を練て無漏を用ひ、有漏を夾熏す、色定転明かにして果報転勝る、勝定起る時、亦愛慢癡九品三仮の惑有り、四観を用て体達して無礙解脱、事理の無生を成ず。若し未だ去らざるには、更に相続、相待を修す、亦是の如し。余の八品も亦是の如し、癡慢も亦是の如し。色界、四九三十六品の不生竟る。

 [4]次に無色界の九品を破するとは、若し有対等の三種の色を滅せんと欲するは、是時、事障を破すれば未到を発し、性障を破しては空処に入る。空処定に亦愛、慢、癡を具す、還つて四観を用て方便勝進して事理の無生を成ず。若し去らずんば更に相続、相待を修す、亦是の如し。八品及び癡、慢等も亦是の如し。先に空を縁ず、空多きときは則ち散ず、空を捨てて識を縁じ即ち識定を得、心と相応す。亦愛、慢、癡等の惑を具す、亦四観を用ひ、方便勝進等、事理の無生を成ず、余は例して知んぬ可し。先に識を縁ずること多ければ定心分散す、多識を捨てて無所有の識を縁ず。若し少識を縁ぜば豈無所有と名くることを得んや、則ち是れ少識を用ふ、豈不用処と名くることを得んや。今、無所有を縁じて定に入るに此法、心と相応す、亦三仮等を具す、亦四観用ふ、余は例して知んぬ可し。先の識処は癰の如く、無所有処は瘡の如し、更に勝定有り。非有想非無想と名く。「阿毘曇」「婆沙」に云はく、「無想天の無想に非ず、三空の有想に非ず、故に非有想非無想と言ふなり」と。人師の云はく、「無想は是れ色天異界なり、応に此に仍て名を得べからず、同界に就いて名を釈す、前の無所有定に已に想を除く、今復無想を除く、想、無想両ながら捨つ、故に非有想非無想と言ふなり」と。「大論」に云はく、「一は常に有漏、三は当に分別すべし、前の三は是れ亦有漏亦無漏、能く出世の智を発すれば亦無漏と名け、此定は無漏を発せざれば専ら是れ有漏」と。教門、機に対して或は覆、或は顕、此の如きの説を作す、自ら人の此定中に於て無漏を発する有り、此れ復云何、今且く教に依る云云。此定は麤煩悩無しと雖も十種の細法を成就す、「禅門」の如し。応に知るべし、此定も亦三仮を具す。今一向に無漏智を用て破して方便勝進し、無礙解脱に事理の無生を成ず。九品も亦是の如し、前に例して知るべし。

 [5]若し世智を用て諸の思惑を断ずるを尽智と名く、無漏智断を無生智と名く。是を体思観と名け、三界の九九八十一品の思惑を破し尽すを破法遍と名くるなり。

 [6]三に破思仮入空の位を明すとは、四と為す、一には三蔵家の破思の位、二には通家の破思の位、三には別の名を通家の共位に名け、四には別の名を通家菩薩の位に名く。三蔵の破思の位とは「成論」には「十六心、正しく是れ初果の位なり」と明し、「異部」には「十六心、是れ修道の位なり」と明す。今且く修道に依て、一品の欲惑を断じ次第に第五品尽るに至るを皆斯陀含向と名く。若し超断して第五品に至るを家家と名く。次に六品を断じ尽すを斯陀含果と名く。超断して六品尽るに至るを一往来と名く。次に第七品を断じて第八品に至るを阿那含向と名く。超断して第八品に至るを一種子と名く。次に第九品を断じ尽すを阿那含果と名く、畢竟して復欲界に還来せず。次に初禅の初品を断じて非想の第八品に至る、凡そ七十一品、悉く阿羅漢向と名く。六種の那含、位、其中に在り。第九の無礙道に非想の第九の惑を断じ尽し、第九の解脱道に証するを阿羅漢果と名く。三界の思尽きて、尽智無生智を得るを煩悩不生と名く。八十一分の真空を証するを理不生と名く。真智慧足るを智慧不生と名く。生死を受けざるを果報不生と名く。若し支作を論ぜば更に少しく習気を侵して生ぜざるを異と為すのみ。此れ析仮断思に約して位を判ず、略して此の如し。

 [7]二に通家体思三乗共位とは、「大品」に明すが如きは、乾慧地、性地、乃至第六地は、声聞に共ず、七地に至つて支仏に共ず、八地九地に至つて菩薩に共ず、菩薩地転じて第十に入るを仏地と名く。言ふ所の共地にして而も高下有る者は、「論」に云はく、「三人同じく正使を断じ、同じく有余無余の涅槃に入るが故に共と言ふなり」と。木を焼くに炭有り灰有り等の如し、故に高下有るなり。乾慧地は正しく是れ三賢位、一に五停心、二に別相念処、三に総相念処なり、通じて是れ外凡、故に乾慧地と言ふなり。性とは、即ち是れ四善根位、総相念処の力を以て善有漏の五陰を発す、名けて煖と為す、増進すること初中後心、頂、忍、世第一法に入ることを得、通じて内凡と名く、故に性地と言ふ。此両位は共に見惑を伏す。八人とは八忍なり、世第一従り転じて無間三昧に入る、故に八人と名く。見とは真を見るなり、三界の見惑を断じ、八十八使皆尽く、故に見地と言ふなり。薄とは、欲界思惟の六品を除く、故に薄地と名くるなり。離欲とは欲界の九品を除き尽す、故に離欲地と言ふ。已弁とは色無色の七十二品を除き尽す、火の木を焼きて炭と為すが如し。故に已弁地と言ふ。辟支仏とは、福慧深利にして能く習気を侵除す、木を焼きて灰と成るが如し。菩薩とは、福慧深利にして道観雙流す、習気及び色心無知を断じて法眼、道種智を得、遊戯神通、仏国土を浄め、仏の力、無畏等の法を学ぶ、残習将に尽んとす、余れる少しの灰の如し。仏智とは、大功徳、智慧を資利し、一念相応の慧を得て習気永く尽く、劫焼の火は炭無く灰無きが如し。此れ即ち三乗共の十地、思惑を断ずるの位なり。

 [8]三に別の名を通家の共位に名くるとは、旧に云はく、「三地に見を断ず」と、或は言はく、「四地に見を断ず」と、或は言はく、「六地に思を断じ尽す」と、或は言はく、「七地に思を断じ尽す」と。今此語を覈ふるに、若し「三地、四地皆見を断ず」と云はば、此師は通教の義を解せず。何となれば三乗共位、同じく無間三昧に入りて出入観ぜず、而にして見を断ず、那ぞ忽に三地、四地を用て皆見を断ずる耶。若し但第三地に見を断ずるを取らば第四地に応に思を断ずべし。若し但第四地に見を断ずるを取らば第三地に応に未だ見を断ぜず。若し両地に見を断ずるを用ひば出入観と為んや、出入観せずと為んや。若し出入観せざるときは則ち両地無けん、若し出入観せば断見の位に非ず。人師救うて云はく、「経説此の如し」と。此師、経の意を解せず。今言はく。「経は別の義を借りて通を顕すのみ」別見、義長し、三地、四地を論ず、通見、義短し、不出入観を論ず。然るに、名は別を借る可し、義は必ず通に依る、若し不出入観の釈を作す者は、若し三地と言はば断見の初に拠る、四地と言はば断見の後に拠る、皆出入観せず。例せば第十六心を、或は是れ見道と言ひ、或は是れ思道と言ふが如し。別の名を借りて通位と名くと言はば、外凡三賢は是れ乾慧地、而して名けて十信と為す、内凡の四善根は是れ性地、而して名けて十住、十行、十廻向と為す、八人見地は是れ須陀洹、而して名けて初歓喜地と為すなり。薄地は是れ斯陀含、斯陀含に向有り果有り、向を立てて離垢地と為し、果を立てて明地と為す。離欲地は是れ阿那含、阿那含に向有り果有り、向を立てて炎地と為し、果を立てて難勝地と為す。已弁地は是れ阿羅漢、阿羅漢に向有り果有り、向を立てて現前地と為し、果を立てて遠行地と為す。辟支仏の位、立てて不動地と為し、菩薩地、立てて善慧地と為す、或は菩薩地の後心を以て法雲地と為し、或は仏地を以て法雲地と為す。「大品」に云はく、「十地の菩薩、仏の如しと為す」と。此釈を作すことを得るなり。若し此別の名を借つて三人の通位を判ぜば、即ち、初地に見惑を断じ、二地に欲界一両品の思を断じ、三地に六品の思を断じ、四地に七八品の思を断じ、五地に九品の思を断じ、六地に七十一品の思を断じ、七地に七十二品の思を断じ、八地已上に習を侵し、無知を断ずる等、前に例して知んぬ可し云云。

 [9]四に別名を借つて通家の菩薩の位を名くるとは、乾慧は是れ外凡、性地は是れ内凡、八人を初地と為し、十五心を二地と為し、十六心を三地と為し、此三地皆観を出でずして而して見惑を断ず。四忍を初地と為し、四智を二地と為し、四比忍を三地と為し、四比智を四地と為す、此四地皆観を出でずして而して見惑を断ず。此の如く釈せば、豈、旧と同ならんや云云。薄は即ち五地、六品の思を断ず、離欲は即ち六地、九品の思を断ず、已弁は即ち七地、色無色の思を断じ尽す。支仏は即ち八地、乃至仏地に習無知を断ず、前に例して云云。旧に云はく、「六地に思を断じ尽して羅漢に斉し」と。或は「仁王経」を用ふ、七地は羅漢に斉し、但六地を離欲と名く、止欲界の九品を離る、秖阿那含と斉しかる可し。縦令果を帯びて向を行ずるも猶非想の第九品の在る有り、亦羅漢と斉しきことを得ず。若し七地は是れ已弁、果に就かば爾るべし。向より来果に属せば、則ち初禅の初品已に七地に属す、爾時已弁と名くることを得んや。今若し釈義の便を取らば、十度に約して義を明す、第六の般若入空の慧を以て惑を断じ尽すこと、羅漢と斉し、第七の方便、般若出仮の化用、此名目便なりと為す、若し七地を取て羅漢に斉しからしめ、諸地に約するに果向に対すれば、七地正しく第四果と斉し。此れ皆一往、相主対す、経論定まらず、復須く斟酌すべし、苟くも執すべからず云云。問ふ、三乗共に断ず、其義、已に顕る、何を用てか拠と為して更に独り菩薩地を開するや。答ふ、「大論」に三処の焦炷を判ぜり、則ち三種の菩薩の断惑有り。乾慧は是れ伏惑、尚ほ初炎と為ることを得、今八人真断を取つて初炎と為す、何の不可なることか有らん云云。又「大品」に十地の菩薩、仏の如しと為すを明す。既に後地の極に隣るを明す、豈、無中地に初地無きことを得んや。此に拠て而して推して更に独り菩薩の十地を開するに、何ぞ咎あらん。若し十地無くんば経に応に「菩薩の地業を修治す、初地より十地に至るまで地地各如于の法門有り」と言ふべからず云云。又「大論」に云はく、「乾慧地、菩薩の法に於ては是れ伏忍、性地は菩薩の法に於ては是れ柔順忍、八人地は菩薩に於ては是れ無生忍、見地は菩薩に於て是れ無生忍の果、薄地は菩薩に於ては離欲清浄と名く。離欲地は菩薩に於て遊戯神通と名く。已弁地は声聞に於て仏地と名け、菩薩に於ては是れ無生法忍なり。」故に「大品」に云はく、「須陀洹の若は智、若は断、是れ菩薩の無生法忍、乃至支仏の若は智、若は断、是れ菩薩の無生法忍なり」と。此の如く論ずる者、已に自ら別して菩薩に約す、今此に準じて義を作る、復何の咎が有らん。問ふ、欲界も亦九品を断ず、何の意ぞ果を判ずること多き。答ふ、険処は難多ければ多く城壁を須ふるが如し、欲界は難多ければ多果を以て休息するなり。若し爾らば、欲界は散多し、須らく多く禅を立つべし。答ふ、欲界は定地に非ざれば禅を立つることを得ず、無漏縁通ずれば果を立つることを得。問ふ、三乗の人、知断既に斉し、何が故ぞ二乗を智断と名け菩薩を法忍と名くる。答ふ、忍は因、智は果、故に十五心を忍と名け、十六心を智と名く、又二乗は宣しく証を取り智断を判ずべく、菩薩は仏に望むれば猶ほ因に居す、但忍の名を受く、又菩薩は一品の思尽れば即ち一分目在の生あり、故に品品の死、品品の生、能く生死の労苦を忍んで涅槃に入らず、故に忍と名くるなり。

 [10]若し別教に就て破思仮の位を明さば、初め見を破して正しく初住に入る、二住より七住に至つて思仮を破す、細しく品秩を分つて諸の住の位を判ぜんと欲せば、前に準じて知んぬ可し。八九十住従り正しく是れ習を侵す、十行是れ正しく出仮の位、復前に関らざるなり云云。

 [11]若し円教に就いて、思仮を破する位は、初に見仮を破す、正しく是れ初信なり、第二信より第七信に至つて是れ思仮を破す、細しく品秩を分つて以て諸信に対せんと欲せば前に準じて知んぬ可し。八信より十信に至つて習を断じ尽す。「華厳」に云はく、「初発心の時、正習一時に倶に尽く、余有ること無し」と、界外の正習未だ尽さす、此れ乃ち界内の正習尽るのみ。「華厳」に云はく、「初発心已に牟尼に過ぐ」と、即ち此義なり。云何が過ぐる、正習倶に尽きて能く八相作仏す、此れ則ち斉し、又三観円に修す、此れ則ち過勝なり。若し爾らば亦応に声聞の菩薩に過ぐるもの有るべし。然るに仏道の声聞を以てすれば、灼然として 菩薩に過ぐ。

 [12]復次に前の諸位、仮を破する名は同なれども理を縁じ智を用ふるは則ち異り。三蔵、通教等の二乗、仮を破するは、世諦死する時出仮すること能はざれば自在の生無し。通教の菩薩、仮を破するに世諦死する時、還つて能く出仮して自在に生を受く、化縁若し訖れば身を灰にして空を証す。別教、仮を破するは、世諦死する時亦能く出仮して自在に生を受く、中道を顕さんが為に終に空に住せず。円教、仮を破するは、既に真を見るに即して即ち是れ入仮、即ち是れ入中、円に無明を伏するなり。若し、「二乗と菩薩と智断皆同じ、化他の辺異り」と言はば、此は是れ通教の意、相比望するのみ。若し「二乗と菩薩と智異に断同じ」と言はば、是れ別円相比望するのみ。

 [13]問ふ、思仮を破して空に入るに凡そ九九八十一品を破す、云何ぞ復超果の義有るや。答ふ、次第分別するに前の句数有り、行人未だ必ずしも一向に品次を按じて入るにあらす。若し三蔵の中十六心の後、即ち一念に果を超え那含に至る、或は超えて羅漢に至る、有り、豈更に漸次、前の重数の如くならんや。諸品を次歴せずと雖も而も諸品惑尽き、諸品定発す云云。又三蔵の仏の如き、一念相応して見思頓に尽き、仏の功徳一時に現前す、根利なるを以ての故に品秩に由らず、利は品を超ゆと雖も品は廃することを得ず、何を以ての故に、諸仏の教門、法是の如くなるが故なり。問ふ、利根は能く超ゆ、身子最も利なるに何の意ぞ超えざるや。答ふ、小乗は鈍を引く。品に依て蘇息す、故に超えざるなり、身子は大智なり、応に転法輪の将と作つて品秩を分別すべし、故に七日或は十五日と云ひ、超えず。阿難は侍者と作るが為の故に超えず、智力無きには非ざるなり。通教の菩薩は智、二乗より利なり、亦応に超有るべし、衆生を荷負して而して道首と作れば広く須く分別すべし、故に超を論ぜず。別円の二教も亦是の如し、超と不超と有りと雖も終に是れ思仮を破すること遍し。超過に凡そ四有り、一には本断超、二には小超、三には大超。四には大々超なり、本凡地に在りて非想定を得、今無漏を発し第十六心満じて帥ち阿那含を得。本凡地に在りて或は初禅、二、三、四禅を得、今十六心満ず、亦是れ阿那含なり、本凡地に在り、欲界の九品、世智を以て之を断ずる事多少あるに随つて第十六心満ずれば、本断に随つて果を超ゆ、皆本断超と名く。若し凡地未だ禅を得ず、十六心満じて超えて能く兼ねて欲界の諸品を除き、或は三両品なる者、即ち是れ家家一種子等、即ち是れ小超なり。本凡地に在つて法を聴き善来と唱ふることを聞きて羅漢を成ずる者は、即ち是れ大超なり。仏の一念に正習倶に尽すが如きは此れ大大超と名く。円人は根最も利なり、復是れ実説、復品秩無し、此れ則ち最も能く超ゆ。「瓔珞」に、頓悟の如来を明す。「法華」に一刹那の頃に便ち正覚を成ず、此義に従はば則ち超有り、慈悲誓願重大、此れ則ち不超なり。「浄名」に云はく、「仏道を成じ衆生を度すと雖も而も菩薩の道を行ず」と、此れ則ち亦超亦不超なり。実相の理は則ち超無く不超無し、機に随ふときは則ち遍く動ず、理に任ずるときは則ち常に寂なり云云。

 [14]三に四門の料簡とは、夫れ見思の両惑は通別の二理を障ふ、若し障を破し理を顕すは門に非ざれば通ぜず。「阿毘曇」に明す、「我人衆生は亀毛兎角の求むるに得べからざるが如し、唯、実法のみ有り、此実法に迷ひて横に見思を起す、見思無常、念念住せず、実法遷動し、分分に生滅す」と。此の如く観ずれば能く単複具足の諸見を破し、亦三界八十一品の思を破し、因果惑智等の不生を成ず、是を三蔵有門破法の意と名くるなり。鹿苑は、初に開きて、拘隣の五人先に清浄を獲。又、頞鞞、三諦を説きて身子見を破す、七日を経て後阿羅漢を得、千二百等多く有門に於て第一義を見る。「大論」に云はく、「若し般若の方便を得ば、「阿毘曇」に入りて有の中に墮せず」と。「大集」に云はく、「常見の人は、異念断と説く」と。即ち是れ溝港断結の義なり、豈、有門に仮を破するの意に非ずや。「成論」の人、云何ぞ斥けて「是れ調心の方便にして而して道を得ず」と言ふや。若し、「成論」に明す所は、我人本より無し、実法有りと雖も浮虚にして有に非ず、若し此浮虚に迷へば横に見思を起して生死に流転す、「此見思皆三仮浮虚、仮実皆無なり」と観ずるを平等空と名く。此の如きの観を修すれば単複具足、無量の諸見を破す、亦八十一品の諸の思を破して惑智因果等の不生を成ず、是を三蔵空門破法の意と名く。故に彼論に云はく「我今正しく三蔵の中の実義を明さんと欲す、実義とは空是なり」と。「阿含経」に云はく、「是老死、誰老死、二倶に邪見なり」と。是老死とは即ち是れ法空なり、誰老死とは即ち衆生空なり。又云はく「仏の法身とは即ち是れ空なり」と、須菩提は智偏に明かにして能く石室に於て、仏の法身を見る。故に「大品」の中に加を被つて空を説き、身子は加を被つて般若を説く、仏、大空を以て小空に並べ、大智をもつて小智に並べんと欲す、故に二人をして転教せしむ。「大論」に云はく、「若し般若の方便を得ずして空に入れば無中に墮す」と。「大集」に云はく、「断見の人は一念に断ずと説く」と。豈、平等空の意に非ずや。当に知るべし三蔵に復空門を説くことを。「阿毘曇」の人、云何がして盪に「是れ大乗の空義なり」と言ふ。若は迦旃延の如き、其所入の門を申ぶるに、「昆勒論」を造つて南天竺に伝ふ、「仮の無なること前に同じく、実法は亦有亦無なり。若し定相を起さば横に見思を起す」と。此実法を観ずるに有無従容して亦単複等の見、八十一品の思を破し、惑智因果等の不生を成ず、是を三蔵の亦空亦有門の破法の意と名く。故に「大論」に云はく、「若し般若の方便を得て昆勒門に入らば、有無の中に堕せず」と。非空非有門とは、「釈論」に明すが如き、車匿心調うて柔軟ならば当に為に「那迦旃延経」を説くべし、「有を離れ無を離れて乃ち道を得可し」と。此観も亦能く単複の諸見、八十一品の思を破す、従仮入空に惑智因果等の無生を成ず、即ち是れ三蔵非有非無門の破仮之意なり。当に知るべし、車匿、小乗の道を得て濫りに大乗中道の門と為す可からざるを。此の如きの四門、悉く称して溝港の得道と為るとは、溝港は是れ初果なるを以ての故なり。勝るる者は更に別して其名を受く、三門の別有ることを致す、亦通じて是れ溝港なることを得。有門は無常の溝港、無門は空平等の溝港、亦有亦無門は従容の溝港、非有非無門は雙非の溝港なり、溝港皆是れ四門の初果なり。四門、観は別なれども真諦を見ること同じ。城に四門有れども会通すること異らざるが如し。故に「大集」に云はく、「常見の人は異念断と雖も、断見の人は一念断と説く」と、二人殊りと雖も其得道を論ずるに更に差別無し。「大経」に云はく、「五百の比丘、各身因を説く、正説に非ざること無し」と。跋摩の云はく、「諸論、各端を異にすれども、修行の理に二無し、偏執すれば是非有り、達する者は違諍無し」と。時に宋家盛んに「成実」を弘め、異執し競ひ起れば、偈を作して之を譏る、然るに真諦寂寥として実に一四に非ず。身子の日はく、「吾れ聞く、解脱の中に言説有ること無し」と、豈、四門標牓す可けんや。若し定執を生ぜは悉く道を得ず、何ぞ独り、有門のみならん。若し見思袪れば四門皆得、何ぞ独り空門のみならん。応に独り論主の義成じ数人の義壊すと言ふべからず。若し四悉檀の意を得れば論数倶に成ず、若し意を得ずんば論数倶に壊す、乃至非有非無門も亦是の如し。若し「有門は法相を明すこと麤、空門は法を明すこと細なれば、巧拙相望みて成壊を為す」と言はば、三門倶に劣、独り一門のみに非ず。何が故ぞ、四門好んで相形斥するや。良に、二乗自度、但一道従り直に入り、偏に拠りて融ぜざるに由る、後人晩学、此に因て過を生ず。三蔵の菩薩は、則ち是の如くならず、析空して惑を伏し遍く四門を学す。化他の為の故に広く法相を識る、成仏の時は正遍知と名く。故に「釈論」に迦旃延子の菩薩の義を明せるを引きて云はく、「釈迦菩薩、初め釈迦仏に値ひて発心し、罽那尸棄仏に至る、是れ初阿僧祇、心に作仏を知らず、口に亦説かず。次に然灯仏に至るを二と為す、毘婆尸仏を三と為す、六度を行じて満ずるに各時節有り。尸毘の鴿に代るが如きは是れ檀の満、乃至劬嬪大臣、閻浮提を分つは是れ般若の満、百劫に三十二相を種う、因を論ずるときは則ち釈迦を指し、果を論ずるときは則ち弥勒を指す、遍く四門の道法を行じ、煩悩を伏薄す。竜樹難じて云はく、「薄は即ち是れ断、斯陀含の六品の思を侵すを名けて薄地と為すが如し。汝、既に断ぜす、那ぞ薄と称することを得ん」と。故に知んぬ、但是れ伏道に薄を論ずるのみ。三十四心を方に乃ち断と称す。能く此の如くすと雖も猶是れ初教の方便の説なり。「涅槃」に称して半字と為し、「法華」に二十年の中、常に糞を除はしむ」と名け、「釈論」には名けて拙医と為す、「維摩」には称して貧所楽法と為し、天親は呼んで下劣乗と為す。皆此四門を指す、今の所用に非ざるなり。

 [15]次に通教の四門の不同とは、若し、「一切仮実、無明従り生ず、無明は幻の如し、所生の一切も亦皆幻の如し」と明すは、如幻、虚空の如しと雖も而も如幻破仮の観有り、虚空の如しと雖も而も虚空の如くにして生ず、故に諸法不生にして而も般若生ず。是の如きの観慧は能く諸の見、諸の思を破して惑智因果等の不生を成ず、是を有門の観意と名く。若し「仮実の諸法体、幻化の如し、乃至涅槃も亦幻化の如し」と言はば、幻化は是れ易解の空、涅槃は是れ難解の空なり、易を挙げて難を況す、而して難易皆空、亦幻人の空と共に闘ふが如し、能観所観、性皆寂滅なり。此の如きの空慧は「諸の見思を幻に即して而して真なり」と体して、能く惑智因果等の無生を成ず、是を空門破仮の意と名く。若し「一切の法は鏡中の像の見れども見る可からざるが如し」と明すは、見は是れ亦有、不可見は是れ亦無、無と雖も而も有、有と雖も而も無なり。是の如く観ずる者は能く諸法の見思を破して惑智因果の無生を成ず、是を亦空亦有門の破仮観の意と名くるなり。既に幻化と言ふ、豈有無に当らんや、有に当らざるが故に有に従つて有ならす、無に当らざるが故に無に従つて無ならず。此の如きの観慧、能く諸法の見思を破す、惑智因果等の無生を成ず、是を非有非無門の破仮観の意と名く。若し三蔵は実色に約して見を起せば、溝港の析観を以て雙べて二見を非す、実の柱を実に破するが如し。通教は幻色に約して見を起せば、即空の体観を以て雙べて二見を非す、鏡中の柱の如し。体して而も破を論ず、故に非有非無と言ふ、中道に非ずと雖も而も是れ体法虚融にして諸の見著を浄む。故に論に云はく、「般若波羅蜜は譬へば大火焔の四辺取る可からざるが如し」と、彼偈に四門の意を具す、細しく尋ぬるに甚だ自ら分明なり。又云はく、「般若に四種の相有り」と、又云はく「四門より清涼池に入る」と、皆是れ四門の誠証なり。若し取著せざれば、皆能く通入す、若し取著する者は即ち為に焼かる。仏は人に無諍の法を示さんが為に此四門の観を説きたまふなり。問ふ、仏、何れの処にか人に諍法を示したまへるや。答ふ、仏は人に諍法を示したまはず、衆生、解せずして執して諍を成ず、三蔵は浅近なれば四門相妨げ、執諍生じ易し。「成論」の人の如き、「毘曇」を撥つて云はく、「是れ調心の方便にして全く道を得ず」と。「毘曇」の人の云はく、「唯是れ有を見て道を得、空は大乗に属す」と。此二論師は四門の意を失して浪りに撥し浪りに擋す、見執鏗然として諍計起り易し、此を名けて「人に諍法を示す」と為すのみ。通教は、「法は幻化の如し、復実色無し、但、名字のみ有り」と体す、名字易虚なり、扶順して乖くこと無ければ諍計を生ずること少なし。「大論」に三蔵を形斥して云はく、「余経は多く人に諍法を示す、般若は人に無諍の法を示す、又、如実の巧度と名く」と。「中論」に云はく、「諸法実相、三人共に得」と、「大品」に「名けて三乗の大同じく無言説の道を以て煩悩を断じ、第一義を見ると為す、亦共般若と名く」と。「涅槃」に名けて「三獣渡河」と為す。皆是れ通教四門の観意なり、亦今の所用に非ざるなり。

 [16]次に別教の四門とは、即ち是れ別理を観じ別惑を断ず、前と同じからず、次第に修し次第に証す、後と同じからず。「大経に云はく、「大涅槃を聞くに無上道、大衆正行有り、発心出家して戒を持し、定を修し、四諦の慧を観じ、二十五三昧を得」と。事相の次第、三蔵に殊ならず、但大涅槃の心を以て諸法を導く、此を以て前と異り、漸く五行を修す、此を以て後に異り、故に称して別と為すなり。四門と言ふは、幻化の見思を観じ、虚妄の色尽きて別に妙色有るを名けて仏性と為す。「大経」に云はく、「空空とは即ち是れ外道、解脱とは即ち是れ不空、即ち是れ真善妙色なり、如来秘蔵、有ならざることを得ず、又我とは即ち如来蔵、如来蔵とは即ち是れ仏性なり」と。「如来蔵経」に云はく、「弊帛裹の金、土模内の像」と。凡そ十譬等有り、即ち是れ有門なり。空門とは「大経」に云はく、「迦毘羅城も空、如来蔵も空、大涅槃も空なり」と。又云はく、「諸の衆生をして、悉く無色の大般涅槃を得しむ、涅槃は有に非ず、世俗に因るが故に涅槃有りと名く。涅槃は色に非ず声に非ず、云何がしてか而も見聞することを得可しと言はん」と。即ち是れ空門なり。亦空亦有門とは、智者は空及与不空を見る、若し、空と言はば則ち常楽我浄無けん、若し不空と言はば誰か復是常楽我浄を受くる、水酒酩の瓶の如し、空及以不空と説く可からず、是れを亦空亦有門と名く。非有非無門とは、四を絶し百を離し、言語道断え、説示す可からず。「涅槃」に云はく、「非常非断を名けて中道と為す」と、即ち是れ其門なり。此の如きの四門、意を得れば通じて実相に入る、若し意を得ずんば伏惑の方便次第の意のみ。「涅槃」に名けて菩薩の聖行と為し、「大品」に名けて不共般若と為す、此れ皆、是れ別教の四門の意なり、今の所有に非ざるなり。

 [17]円教の四門は、妙理頓説、前の二種に異り、円融無礙、歴別に異る。云何が四門、見思の仮を観ずるに、即ち是れ法界、仏法を具足す、又諸法即ち是れ法性因縁、乃至第一義も亦是れ因縁なり。「大経」に云はく、「無明を滅するに囚つて熾然たる三菩提の灯を得」と。是を有門と名く。空門とは、幻化の見思及び一切法を観ずるに因に在らず、縁に属せず、我及び涅槃、是二皆空、唯空病有り、空病も亦空、此れ即ち三諦皆空なり。云何が亦空亦有門なる、幻化の見思、真実無しと雖も仮名を分別するに則ち尽す可からず。一微塵の中に大千の経巻有るが如し、第一義に於て而して動ぜず、善能く、諸法相を分別することも亦大地一にして能く種種の芽を生ずるが如し、名相無き中に名相を仮りて説く、乃至仏も亦但名字のみ有り。是を亦有亦無門と為す。云何が非有非無門なる、幻化の見思を観ずるに即ち是れ法性、法性は思議す可からず、世に非ざるが故に有に非ず、出世に非ざるが故に無に非ず、一色一香も中道に非ざること無し、一中一切中、毘盧遮那は一切処に遍ず、豈見思にして而も実法を非する有らんや。是を非有非無門と名く。云何ぞ一門即ち是れ三門なるや、一門尚ほ是れ一切法なり、何ぞ止三のみならんや、所以は何ん。因縁所生の法を観ずるは是れ初門、一切皆初門なり、初門即空なれば一空一切空、即ち是れ第二門なり。此初門即仮なれば一仮一切仮なり、即ち是れ第三門なり。此初門即中なれば一中一切中なり、即ち是れ第四門なり。初門既に即ち是れ三門、三門即ち是れ一門なり、但、一門を挙げて名と為す、四名有りと雖も、理に隔別無し。上の如く無生門に依て見思を破する者は、即ち是れ空門、一門一切門、独り無生なる而已にあらず、一破一切破、止見思を破する而已なるに非ず。従仮入空、一空一切空、但空が生死を空ずる而已なるに非ず。是の如きの義は、即ち是れ円教の四門なり、正しく是れ今の所用なり。

 [18]若し爾らば何ぞ前来に種種の分別を用ひしや。但凡情闇鈍にして説かずんば知らず、先に誘ひて之を開き、後に正道に入る。「法華」に云はく、「種種の道を説くと雖も、其実は一乗の為なり」と。若し此意を得れば終日分別すれども分別する所無し。「涅槃」に名けて「復一行有り、是を如来行」と為すと。「法華」に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と名け。「大品」に名けて「一切種智、一切の法を知る」と為し。「浄名」に称して「薝蔔林に入らば余香を嗅がず」と為し。「華厳」に称して、「法界」と為す。即ち是は此四門の意なり。上の無生門の破仮、若し其意を得る者は、乃ち是れ円教の門なり、方便門に非ざるなり、所以に称して破法遍と為す云云。

 [19]第二に従空入仮の破法遍とは、即ち四と為す、一には入仮の意、二には入仮の因縁を明し、三には入仮の観を明し、四には入仮の位を明す。入仮の意とは、自ら但空従り仮に入る有り、自ら空も空に非ずと知りて空を破して仮に入る有り。夫れ二乗の智断も亦同く真を証すれども、大悲無きが故に菩薩と名けず。「華厳」に云はく、「諸法の実の性相、二乗も亦皆得、而して名けて仏と為さず」と。若し自行を論ずれば入空に分有り、若し化物を論ずれば出仮則ち無し。菩薩は従仮入空して自ら縛著を破すれば凡夫に同じからず、従空入仮して他の縛著を破すれば二乗に同からず、有に処すれども染せられず、法眼、薬を識りて、慈悲、病に逗ず、博く愛して限り無く、兼済ひて倦むこと無く、心用自在なり。善巧方便、空の中に樹を種ゆるが如し、又仰ぎて空中を射るに、筈筈相拄けて地に堕さしめざるが如し。若し空に住すれば則ち衆生に於て永く利益無し、志は利他に存す、即ち入仮の意なり。

 [20]入仮の因縁とは、略して言ふに五有り、一に慈悲心重しとは、初仮を破するの時、諸の衆生の顛倒獄縛して、よく出づること得ざるを見て、大慈悲を起して、愛すること一子に同じ。今既に惑を断じて空に入らば同体の哀傷、倍復隆重なり、人を先にし己を後にす、与抜弥篤し。二に本誓願を憶すとは、本弘誓を発して、苦を抜き楽を与へてて安穩を得しむ。今衆生に苦多く、未だ度を得ること能はず、我れ若し独り免るれば先心に辜違せん、本壊を忘れず、豈含識を捨てんや。仮に入り事を同じ而して之を引導す、二乗の初業は法に愚ならず、亦大願有り、生を隔て、中ごろ忘れて大を退し、小を取る、衆聖の呵する所なり。菩薩は爾らず、母の食を得れば常に其兒を憶ふが如し。三には智慧猛利なり、若し空に入る時は即ち「空の中には他を棄るの過有り」と知る。何を以ての故に、若し空に往すれば則ち「仏国土を浄め、衆生を教化して仏法を具足すること」無し。皆弁ずること能はず、既に過を知り已つて空を非して仮に入るなり。四には善巧方便、能く世間に入るに生死煩悩と雖も智慧を損すること能はず、遮障留難弥化道を助く。五には大精進力、仏道長遠なりと雖も以て遙なりと為さず、衆生数多なりと雖も而も意に勇有り、心堅くして退すること無く、精進発趣して初より疲怠無し、是を五縁と名く。此の如きの五意、「浄名経」と同じ、彼文に三種の慰喩有り、先に観身無常等を明す、是れ入空の慰喩なり。最後に云はく、「当に医王と作るべし」と。是れ入中の慰喩なり。中間は是れ入仮の慰喩なり。即ち五意有り。己が疾を以て彼疾を愍む、即ち是れ同体の大悲なり。当に宿世無敷劫の苦を識るべし、豈、本誓に非ずや。当に一切衆生を饒益することを念ずべし、豈、空の過を知るに非ずや。所修の福を憶し、浄命を念ず、即ち是れ善巧方便なり。憂悩を生ずること勿れ、常に精進を起す、即ち是れ第五意なり。此義彼文と懸合す云云。従空入仮に、四法若し無くんば決して出づること能はず、利根の一種、今当に分別すべし。但空に住するの声聞は未だ必ずしも鈍根ならず、入仮の菩薩も未だ必ずしも利根ならず、身子の如きは智利にして而も出仮せず、当に四句を用て之を釈すべし、或は根利にして空に住す、或は根鈍にして空に住す、或は根利にして仮に入る、或は根鈍にして仮に入る。譬ば、身羸れて力無けれども而も謄勇成就すれば、険に入りて敵を破するに、前に横陣無し、自ら身力雄壯にして膽勇復強きあり、左推し右盪して能く当る者無し。自ら身力多しと雖も、怯弱畏懼すれば、好力有りと雖も陣に望んで膽を失ふもの有り。自ら力無く膽無く、両事具せざるものあるが如し何ぞ能く功なるもの有らんや。今、空に住するの人に亦両種有り、仮に出づるも亦然り、五縁を具する者、「親有り、約有り、策有り、力有り、瞻有る」が如し、故に能く仮に入る。智根鈍なりと雖も、四事の因縁亦能く仮に入る、声聞の人、利智有りと雖も全く四事無し、故に仮に入ること能はざるなり。

 [21]三に入仮の観を明すとは、即ち三と為す、一には知病、二には識薬、三には授薬なり。病を知るとは、見思の病を知る。見の根本を知り、見を起すの因縁を知り、見を起すの久近を知り、見の惑の重数を知る。云何が見の根本を知る、我見は諸見の本為り、一念の惑心は我見の本為り。此惑心従り無量の見を起す、縦横稠密にして称計すべからず。此見の為の故に衆の結業を造り、三途に堕墜し、沈廻して已むこと無し。旋火輪の、若し之れ息めんと欲せば、応当に手を止むべきが如し。「心も心無し、妄想の故に心起る」と知り、亦「我も我無し、顛倒の故に我生ずと」知る、顛倒及び妄想息めば、即ち是れ根本息み技條自ら去る。云何が見起の因縁を知る、因縁同からざれば、見を生ずることも亦異り。何を以てか知ることを得るや、内外の相の故に知るなり。内外の相とは、衆生の居処相異り、時序の寒熱、国土の高低、産育の精麤、食物の濃淡、処所異るが故に果報の相異り、土風の出す所と雖も、蓄散豊倹、或は有、或は無、或は得、或は失、貧富飢飽なり云云。形貌相異り、矬長短醜、偉瘠健病云云。根性欣悪相異りと、栄を忽にし位を棄て、樵漁自ら楽しむ、牛を扣へて相を干し、鼎を負うて卿を邀ふ、文を専にし武を専にし、洒に耽り味を嗜む、多貪多奢、多瞋多喜、多癡多黠、是の如く参差として百千万品なり、直置人道各殊別なり、何に況んや異類をや、勝へて言ふ可からず。此の如く依正種種に不同なるは、必ず、「業異り、業異るが故に見を起すことも亦異り」と知る。是故に則ち末を見て本を知り、外を見て内を識る。云何が起見の久近を知る。是の如きの見、積累重沓、止一世に非ざることを知り。是の如きの見、近世に起す所なることを知り、是の如きの見、此世、適ひて起ることを知り、是の如きの見、未来に方に盛ならんことを知る。云何が見の重数の多少を知る。一の有の見従り三仮を派出す、又三仮従り四句を派出す、三仮合して十二句なり、又四句従り四悉檀を出す、十二句合して四十八の悉檀なり。又一の悉檀に性空相空を派出す、四十八の悉檀合して九十六の性相空有り、一一の句に各止観有り、合して一百九十二句の止観なり。前の根本に就て都合三百四十八句なり、此れ、信行の人に就て此の如し、法行の人も亦是の如し、信行転じて法行と為る。亦是の如し、法行転じて信行と為るも亦是の如し。四人に就て合して一千三百九十二句有り、此れ一の有の見に約して此の如し、無の見も亦是の如し、亦有亦無の見も亦是の如し、非有非無の見も亦是の如し、四見に就て五千五百六十八句有り、此れ単の四見に就て此の如きなり。複の四見も亦是の如し、具足の四見も亦是の如し、三種の四見に就て合して一万六千七百四句有り。不可説の見は初の有の見の如く、但一千三百九十二句有り、是れ則ち合して一万八千九十六句有り、此は是れ所破にして此の如し。能破も亦是の如し、能所合して論ずれば則ち三万六千一百九十二句有り、自行此の如し、化他も亦是の如し、自行化他都合七万二千三百八十四句なり。若し更に六十二見、八十八使に約して、三仮四句等を論ずれば則ち無量無辺有り、窮尽す可からず。病相は無量なり、菩薩は悉く知る、「若干の句共に此見を成ず」と知り「若干の句共に彼見を成ず」と知る。深浅軽重、善巧分別して而して僻謬無き、是を集を知ると名く。既に集を知り已つて亦能く苦を知る、苦集の流転、精しく本末も曉る。又、入空の前、遍く見思を観じて総じて病相を知り、出仮の方便と為す、後に一門を用ひて惑を断じ空に入る、若し出仮の時、見思を分別して之を照すときは、則ち易く薄く止観を修すに法眼則ち明かなり。二乗の入空は専ら一門に依る、此弄引無くして二の弟子を教ふるに謬つて薬を授く、又五意に少なし、何ぞ能く仮に入らん。而して菩薩善巧大悲本願、大精進力、或は諸想を寂して而して法眼を発し、見病を識知す。或は見法を達観して道種智を発し、惑法は明了にす。若し悟らざる者は、但精進力、勤めて止観を研す、内因既に熟すれば外は仏加を被る、或は冥に、或は顕に、豁然として開悟す、諸の見病に於て句句明了なり、鏡の中に於て諸の色像を見るが如し。自ら識り、他を識り、諦審無礙なり。

 [22]次に「思病の本を知る、思の起る因縁を知り、思起る久近を知り、思病の重数を知る」ことを明す。三の意、見病に例して知る可し、思仮は癡を以て本と為す云云。重数とは、九地に則ち八十一品有り、初の一品に三仮有り、四句の止観有り、三仮合して十二句なり。一句に即ち信解見得有り、各各四悉檀を用ふ、信法各に八有り、合して則ち十六番なり。此信法互に転ずる義有り、復十六と為る、前と合すれば則ち三十二句あり。一句既に三十二句あり、三十二句三仮合して十二句有れば則ち三百八十四句有り、一一の句に復性相二空有れば、則ち合して七百六十八句有り。前を足せば合して一千一百五十二句と為る、根本を含すれば合して一千一百六十四句と為る。一品此の如し、九品合すれば一万四百七十六句有り。欲界の九品此の如し、三界の九品合すれば九万四千二百八十四句有り。所破此の如し、能破も亦然り、能所合すれば一十八万八千五百六十八句有り。自行此の如し、化他も亦然なり、合すれば三十七万七千一百三十六句の止観有り。若し細しく論ぜば一一の品に復無量の品有り、一一の禅に復無量の禅、通明、背捨等有り、直置諸禅発するの時已に自ら説く可からず、況んや復禅禅品品をや。品品の内に復三仮、四観等の句有り、其数知り難し、若し見惑四十里の水に準ぜば、此は一渧を縁ず、応に是れ一十里の水なるべし、横に起らざるが故に之を一渧と称す、重数甚だ多ければ、亦十里なる可し。二乗は直に入る、故に分別せず、菩薩は初め思仮を破するに、已に方便を作す。先に総じて知り竟んぬ、今仮に出でて観を修し、法眼を助開す、通じて止観を用て仮を知るの門と為す。別修に各方法有り、諸の縁念を息むるを止と名け、此思仮を縁ずるは観と名く。大悲本願、大精進力、諸仏の威加はり、豁然として開解す、法眼の見、道種智の知を得、思仮の病相を分別すること分明なり云云。

 [23]上の見思の重数、煩はしと雖も、之を知ること何ぞ妨げん。五部律の如き、人の胸に填らざれども縁に対し事を行ずれば能く自ら正し、他を正し、此諸句を学して則ち用ひば、自行化他意に随つて礙り無し。

 [24]二に仮に入り薬を識るとは、病相無量なれば薬も亦無量なり。略して言ふに三と為す、一には世間の法薬、二には出世間の法薬、三には出世間上上の法薬なり。「大品」に三種の法施有り。一には三帰、五戒、十善道、四禅、四無量心等を、世間の法施と名く。二には出世間の法施、三には出世間上上の法施なり、知んぬ可し云云。「釈論」に云はく、「何の意ぞ、世間の法施を用ふ、譬へば、王子が高きより下きに堕つるに、父王愛念して積に繒綿を以てして、地に於て之を接して苦痛を免れしむるが如し」と、衆生も亦爾なり、応に三途に墮すべきに、聖人愍念して世の善法を以て、権に之を接引して悪趣を免れしむ、然るに世の法薬、凡愚本より自ら知らざるも、皆是れ聖人の迹を託して凡に同じ、無仏の世に出でて童蒙を誘誨したまふなり。「大経」に云はく、「一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説なり、外道の説に非ず」と。「金光明」に云はく、「一切世間の所有の善論は、皆此経に囚る、 若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」と。何を以ての故に。十善を束ぬれば即ち是れ五戒なり、深く五常五行を知るは、義亦五戒に似たり。仁慈矜養して他を害せず、即ち不殺戒なり、義譲推廉にして己を抽いて彼に慧むは是れ不盜戒なり、礼制規矩、髪を結ひ親を成すは即ち不邪婬戒なり、智鑒明利、所為秉直にして道理に中当するは即ち不飲酒戒なり、信契実録、誠節欺かざるは是れ不妄語戒なり。周孔は此五常を立て、世間の法薬と為して人の病を救治す。又五行は五戒に似たり、不殺は木を防ぐ、不盜は金を防ぐ、不婬は水を防ぐ、不妄語は土を防ぐ、不飲酒は火を防ぐ。又「五経」は五戒に似たり、礼は節に撙くことを明す、此は飲酒を防ぐ。楽、心を和するは防婬なり、詩の風刺するは殺を防ぐ、尚書、義譲を明すは盜を防ぐ、易、陰陽を測るは妄語を防ぐ。是の如き等の世智の法、精しく其極に通ず、能く逾ゆること無く、能く勝ること無し、咸く信伏せしめて而して之を師導す。出仮の菩薩は此法を知らんと欲せば当に別に通明観の中に於て勤心修習すべし。大悲誓願、精進して怠ること無し、諸仏の威加、豁然として明かに解す、世の法薬に於て永く疑滞すること無し。然るに世の法薬は、畢竟の治に非ず、屈歩足を移して三有を尽すに垂んとすると雖も、当に復退して還るべし、故に云ふ、「凡夫は有漏禅を修すと雖も、其心行穿たること漏器の如し、非想に生ずと雖も当に復退還すべし、彩衣に雨ふれば其色駮脱するが如し。世医は差やすと雖も差えて復還つて生ず」と、此謂なり。次に出世の法薬を知ることを明さば、「大経」に云ふが如し、「或は信を道と為すと説き、或は楽欲と説く、或は不放逸と説く、或は精進と説き、或は身念処と説く、或は正定と説き、或は無常を修すと説く、或は蘭若処と説き、或は他の為に法を説くと説く、或は持戒と説き、或は親近善友と説き、或は慈を修する等と説くなり」と。又、諸経の中の如き、或は一道を薬と為す、一行三昧の如し。仏、比丘に告げたまふが如き、他物取ること莫し、一切の法皆是れ他物なり、一切の法に於て受けず、羅漢を成ず。前に明す所の単複諸見皆悉く受けざるが如し。或は二道を薬と為す、定は愛し智は策つ、二輪平等なり。或は三法を薬と為す、戒、定、慧を謂ふ。或は四法を薬と為す、四念処を謂ふ。或は五法を薬と為す、五力を謂ふ、或は六法、六念を謂ふ。七覚、八正道、九想、十智、是の如き等の増数、道を明す、乃至八万四千、称げて数ふべからず。或は衆多の一法、乃至無量の一法、不可説の一法、或は衆多の十法、無量の十法、不可説の十法なり。是一一の法に種種の名、種種の相、種種の治有り、出仮の菩薩皆須く識知すべし、衆生の為の故に、衆の法薬を集む、海の導師の如し、若し知らずんば物を利すること能はず、知らんと欲するが為の故に、一心に通じて止観を修す。大悲誓願、及び精進力、諸仏威加、法眼開発して皆能く了知す、掌の果を観るが如し。

 [25]又出世上上の法薬を知る、止観の一法に約して薬と為すは、一実諦を謂ふなり。無明の心と法性と合するときは則ち一切の病相有り、此法性を観ずるに尚ほ法性無し、何に況んや無明及び一切の法をや。或は二法を薬と為すは、即ち是れ止観、心性を体達するに虚妄休息す、或は三法を薬と為す、即ち是れ止観及び随道戒任運に防護す。又三三昧なり、従仮入空を空三昧と名く、又空相を見ざるを無相三昧と名け、生死の業息むを無作三昧と名く。或は四法を薬と為す、四念処を謂ふなり、諸見皆色に依る、此色は汚穢に非ず、不汚穢に非ず、諸の見思を受くるは苦に非ず楽に非ず、諸見の想行は我に非ず無我に非ず、諸見思の心尚ほ心に非ず、豈是れ常無常ならんや。或は五法を薬と為す、即ち是れ五根なり、止観を修するの時、疑無きを信根と名く、常に止観を念じて余事を念ぜざるは即ち念根なり、止観して息まざるは即ち精進根なり、一心、定に在るは即ち定根なり、四句無性に体達するが故に即ち慧根なり。五根増長するを名けて五力と為す。或は六法を薬と為す、六念処を謂ふなり、止観を以て、見思の惑は即ち是れ仏法界なりと覚して法身を破せざるを念仏と名く。常に止観を憶持して止観に一異の相を分別せざるを念法と名く。止観の理和なるは是れ無為の相なり、故に念僧と名く。止観に随道戒有るを念戒と名く。止観即ち第一義なるを念天と名く。止観、見思の惑を捨つるを念捨と名く。或は七法を薬と為すは、止は是れ除捨定の三覚分、観は是れ択喜精進覚分、念は両処に通ず。或は八法を薬と為す、四句に仮を破するを正見と名け、正見を動発するを思惟と名け、此に依て修行するを正業と名け、此止観を説くを正語と名け、邪諂を以て身を養はざるを正命と為す、離せず忘せざるを正念と名け、止を正定と名け、無間に念ずるを精進と名く。或は九法を薬と為すは謂はく、四見は是れ汚穢の五陰、五陰変壊するを色変の想と名く、乃至九云云。或は十法を薬と為すとは、即ち十智なり。見思の両仮は是れ集苦智なり。止観は是れ道智なり。二十五有生ぜざるは是れ滅智なり。三界皆爾なりと知るは是れ比智なり。世間の名字を以ての故に説くは即ち世智なり。他の衆生も亦然りと知るは是れ他心智なり。諸法の差別を知るは是れ等智なり。苦集尽るを知るを尽智と名け、無漏の慧を無生智と名く。当に知るべし、止観は衆生を益せんが為に根に随つて増減す、既に十と為すことを得、亦恒河沙の仏法と為すことを得るなり。譬へば神農は草を甞て方を立つ、或は一薬二薬乃至十薬を方と為し、衆多の薬を方と為す、病の為に方を立つること因縁無きに非ざるが如し。入仮の菩薩も亦復是の如し、諸の法門を知ること一法二法より無量の法に至る、或は一病の為にし、或は兼病の為にす。

 [26]又諸薬の如き、皮肉汁果、根茎枝葉、各各是の如し、山海水陸、四方の土地、各出す所有り、採掘乾湿、各各時有り。又諸薬各所治有ることを知る。入仮の菩薩、衆生の根を知り、所宜の法を識るも亦復是の如し、此一一の法、乃至多法、是れ其楽欲なりと知り、彼一法二法其楽欲に非ずと知り、此の『一法二法是れ「其便宜」「其便宜に非ず」、是れ「対治」、「対治に非ず」、是れ「第一義に入る」「第一義に入るに非ず」』と知る、皆審かに之を識る。一病を治せんと欲せば、一薬にて即ち足る、大医と為らんと欲せば遍く諸薬を須ふ。二乗の治惑には一法にて即ち足る、菩薩の大誓は一切を知ることを須ふ。又大地が薬を産し而して分剤して方を作すが如く、大河の水、升合を分剤して不過不減なるが如し。法薬も亦爾なり。一の寂定に於て無量の止を開し、一の大慧に於て無量の観を開す、皆実にして虚ならず。又衆生の病縁、種種に同じからず、諸病の苦痛も種種に同じからず、諸薬の方治種種に同からず、病差ゆるの因縁も種種に同からざるが如し。湯飲吐下、針灸丸散、差ゆることを得るの縁も亦復一に非ず。入仮の菩薩も亦是の如し。一切衆生の見思の煩悩、苦集の不同を知るは、是れ集を知るなり、一切衆生の善悪苦果の不同を知るは是れ苦を知るなり、一切の法門を知るは是れ道を知るなり、一切衆生入証の不同を知るは是れ滅を知るなり。種種の四諦、入仮の菩薩、遍く知らざること無し。