[1]第二に通名を釈せば、経の一字なり、具さに胡音を存せば、応に薩達磨分陀利修多羅と云ふべし。薩達磨とは此には妙法と翻じ、分陀利は此に蓮華と翻ず。已に上に釈するが如し。
[2]修多羅は、或は修単蘭と云ひ、或は修妬路と云ふ。彼の方の楚夏なり。此の土の翻譯同じからず。或は無翻と言ひ、或は有翻と言ふ。
[3]此を釈するに五と為す。一には無翻を明し、二には有翻を明し、三には有無を和融し、四には法を歴て経を明し、五には観心に経を明す。
[4]無翻と言ふは、彼の語は多含にして此の語は単浅なり、単を以て複を翻ず可からず、応に木音を留むべしと。而して経と言ふは、開善の云はく、正翻に非ず、但だ此を以て彼に代ゆる耳。此の間の聖説を経と為し、賢説は子史なり。彼には聖を経と称し、菩薩を論と称す。既に翻ず可からず、宜しく此を以て彼に代ゆべし。故に経と称するなり。既に翻ず可からず、而して五義を含ず。一には法本なり、亦は出生と云ふ。二には微発と云ひ、亦は顕示と云ふ。三には涌泉と云ひ、四には繩墨と云ひ、五には結鬘と云ふ。今秖だ五義を作すに翻ず可からず。今、一の中に於て三を作すに、三五十五の義あり。一には教本、二には行本、三には義本なり、
[5]今広く之を釈せば、法本と言ふは、一切皆な説く可からざれども。四悉檀の因縁を以て則ち言説あり。世界悉檀の説は則ち教本と為し、為人と対治は則ち行本と為し、第一義悉檀は則ち義本と為す。言ふ所の教本とは、金に所説の一言を本と為して、無量の言教を派出す。若は通、若は別、当時物に被らしむるに、聞きて即ち得道す。故に経に云はく、「一一の修多羅に復た無量の修多羅ありて以て巻属と為す」と。若し後の人解せずんば、菩薩は仏教を以て本と為し、通論別論を作りて通別の経を申べて仏意をして壅がらざらしむ。尋ぬる者の道を得るは、良に其の論に本あるに由るが故なり。諸の外道等は、所説ありと雖も修多羅と合せず、戯論にして本無ければ道を得ること能はず。経は是れ行本とは、人に無諍の法を示して通塞を導達し、眼目を開明して人の病を救治す。教の如く修行するときは、則ち通別の諸行を起す。此より彼に至り、清涼池に入り甘露地に至る。泥洹真の法宝は衆生種種の門より入る。故に知んぬ、経は是れ行の本なることを。経は是れ義本とは、一句に一義を詮ずるを尋ね、無量の句に無量の義を詮ずるを尋ぬ。或は一句に無量の義を詮ずるを尋ね、無量の句に一義を詮ずるを尋ぬ。若は通、若は別、詮を尋ねて会入す。故に経は是れ義の本なり。此の三種を束ねて法門と為さば、教本は即ち是れ聞慧、行本は即ち是れ思慧、義本は是れ修慧に見真なり。法本の義尚ほ已に多含なり、故に翻ず可からざるなり。或は出生と言ふも、此に例して知んぬ可し。
[6]二に微発を含ずとは、仏、四悉檀を以て説きたまふに、言辞巧妙にして次第に詮量し、初中後善に円満具足すること、大海の水の漸漸に転た深きが如し。聞教の者初に世界悉檀を聞きて次第に領受し、法相を分別するに微しく解生ずることあり、漸漸に増長して明練通達す。又た遍く諸の異論を読んで、広く智者の意を知り、多聞強識にして以て成仏するに至る。此れ即ち教に約して微発を論ずるに就く。初に為人・対治を聞きて即ち能く行を起す。人天の小行を始め、次に戒定慧をもつて無漏の行に入り、見道・修道に遂に無学を証す。小より大に入り妙覚に終るは、是れ行に約して微発を論ず。初に第一義悉檀を聞き、屁転増広して聞・思・煗・頂・世第一に入り、次に見諦に入りて真の第一義を得。次に修道に入り、無学に至る。小より大に入り、似真の中道を見、毫末より起つて終に合抱と成るたり。此の三発を束ねて法門と為さば、小乗に依らば即ち三種の解脱発するなり。大乗に依らば、初住の中に教発することあるは是れ般若なり、行の発するは即ち如来蔵なり、理の発するは是れ実相なり。微発已に自ら多含なり、故に翻ず可からざるなり。
[7]三に涌泉を含ずとは、譬に従つて名と為すなり。仏、四悉檀を以て説法したまふに、文義無盤にして法流絶えず。若し世界に一句を説くを聞きて無量の句を解すること、月の四月より歳に至り、風の空中に於て自在無障礙なるが如し。初心の解を説くに已に涌泉の如し。何に況んや後心をや、何に況んや如来をや。猶ほ石泉の流潤の遍く益するが如し。若し為人対治を聞きて、無量の行恒沙の仏法、種種の法門、一行無量行を起し、善境界に入りて八正直道に登る。若し第一義を聞くに理は虚空の若し、虚空の法は格量すべからず、一切処に遍ず。是を義の涌泉と名く。此を束ねて法門と為さば、教泉は是れ法無礙辯、行泉は即ち辞無礙辯、義泉は即ち義無礙辯なり。楽説は三処に通ず。涌泉已に自ら多含なり、故に翻ず可からざるなり。
[8]四に繩墨を含ずとは、仏、四悉檀を以て説きたまふに、初に世界を聞きて愛見の邪教を裁ち、邪風の為に倒惑せられずして、正轍に入ることを得るは、即ち教の繩墨なり。若し為人対治を聞きて非道を遠離し、好正の濟、道品の路に入るは、即ち行の繩墨なり。若し第一義を聞きて愛見の此岸に裁ち、彼岸に至るにとを得て生死を保せず、亦た無為に住せざるは、即ち義の繩墨なり。此を束ねて法門と為さば、教の邪を裁つは即ち是れ正語なり。行の邪を裁つは即ち正業・正精進・正念・正定等なり。義の邪を裁つは即ち正見・正思惟等なり。繩墨已に自ら多含なり、故に翻ず可からず。
[9]五に結鬘を含ずとは、教・行・理を結すること、華鬘を結んで零落せざらしむるが如し。世界悉檀は仏の言教を結して零落せず。為人対治は衆行を結して零落せず、第一義ば義理を結して零落せず。此を束ねて法門と為さば、教を結するは口に失無きを成じ、行を結するは即ち身に失無く、義を結するは即ち意に失無きなり。亦是れ三種の共智慧の行なり、亦是れ三陀羅尼なり。教の零落せざるは是れ聞持陀羅尼、行の零落せざるは行陀羅尼、義の零落せざるは即ち総持陀羅尼なり。若し厳身の釈を作さば、即ち是れ教に約するは智慧荘厳と名け、行に約するは福徳荘厳と名け、義に約するは即ち是れ所荘厳なり。所荘厳は即ち是れ法身にして定慧に荘厳せらるなり。一切衆生皆な法身あれども、法身の体素なるは天龍の忽劣する所なり。若し定慧を修学して法身を荘厳するときは、則ち一切に敬はるゝなり。旧の云はく、経に五義を含ずと。今は則ち経に十五義を含ず豈に単に漢をもつて胡ぞ翻ず可けんや。名含の釈此の如し云云。訓とは、常に訓ず。今其の訓を釈せば、天魔外道も改壊すること能はざるを名けて教常と為す。真正無雑にして、能く喩過するこ無きを、名けて行常と為す。湛然として動ぜず、決して異趣無きを名けて理常と為す。又た法に訓ぜば、法の可軌、行の可軌、理の可軌なり。今直ちに訓を釈するに、已に六義を含ず。況んや胡言の重複なる、単に翻ず可けん耶。
[10]二に有翻と言ふは、亦た五と為す。一には翻じて経と為し、経由を義と為す。聖人の心口に由るが故なり。今亦た随つて之を釈せば、教由。行由、理由を謂ふ。一切の修多羅、一切の通別の論、一切の疏記等は皆な聖人の心口に由る、是を教由と名く。一切の契理の行、一切の相似の行、一切の信行・法行は、皆な聖人の心口に由る、故に行を以て由と為す。一切世間の義、一切出世の義、一切方便の義、一切究竟の義も皆な聖人の心口に由る。故に義を以て由と為す。教由は世界、行由は為人。対治、義由は第一義悉檀なり。又た経と言ふは緯の義なり。世の絹の経は緯を以て之を織れば、龍鳳の文章成るが如し。仏、世界悉檀を以つて経を説き、菩薩は世界の緯を以て織り、経と緯と合するが故に賢聖の文章成る。又た行に約して経緯を論ぜば、慧行を経と為し、行行を緯と為し、経緯合するが故に八正の文章成る。又た理に約して経緯を論ぜば、真を詮ずるを経と為し、俗を詮ずるを緯と為し、経緯合するが故に二諦の文章成る。二に翻じて契と為すは、縁に契ひ、事に契ひ、義に契ふなり。世界の説は是れ縁に契ひ、随宜の説は是れ生善に契ひ、随対治の説は是れ破悪に契ふ、是を契事と為す。随第一義の説は是れ義に契ふなり。三に法本と翻ずとは、即ち教行理の本なること、前に釈するが如し云云。四に線と翻ずとは、線は教行理を貫持して零落せざらしめ、身を厳る等の義、前に釈するが如し。又た線は能く縫ふの義なり。教を縫ひて章句をして次第せしめ、説法す可きに堪ゆ。支仏の如きは、十二部の線に値はざれば、説法すること能はず。世智辯聰は亦た経の線を得ざれば正語成ぜず。又た線は能く行を縫ふ。経に依れば則ち行正しく、経に違するときは則ち行邪なり。又た理を縫ふとは、理の印せざる所は六十二邪に堕し、理の印する所は一究竟の道に会するなり。五に善語教と翻ずるは、亦是れ善行教、亦是れ善理教なり。世界悉檀の説は即ち善語教、為人対治は即ち善行教、第一義説は即ち善理教なり。是を修多羅に五種の翻ありと名く。
[11]三に有無を和融せば、昔し仏法初めて度るに胡漢未だ明かならず。無翻と言ふは乃ち是れ河西の群学の所伝にして、晩人承用して加へて此を以て彼に代ふ。今、伝譯煥爛として方言稍通ず。豈苟くも無翻を執して猶ほ多含を以て解をなさんや。若し多含ならば、何んぞ五に局らん耶。若し有翻ならば、何を以てか正とせん。義は寧ろ種種なるも、翻那んぞ多なることを得ん。若し修多羅を翻じて経となさば、修多羅に九あり、通別の修多羅蔵等を謂ふ。何んぞ周正せる十二部の中の経部と、三蔵の中に経蔵有ることを見ざる耶。若し翻じて契・法本等となさば、亦応に正の十二部の中を改めて契部・法本部・線部・善語教部あるべし。三蔵の中にも応に線等の蔵有るべし、彼の諸処皆な此の翻に従はず、何んぞ独り通の修多羅のみなる耶。釈論に云はく、「般若は尊重、智慧は軽薄なり、何んぞ軽を用つて重を翻ずることを得ん」と。若し爾らば即ち是れ無翻家の証なり。夫れ実相は尊重にして説く可からざれども、遂に胡言と作して説くことを得ば、何んぞ漢語と作して翻ずることを得ざらん。若し翻ず可からずんば、亦た説く可からず。此れ即ち有翻家の証なり。旧の云はく、涅槃に三徳を含ずれば、滅度を用つて翻と為す可からずと。又た梁武の云はく、滅度は小乗の法なり、用ひて大涅槃を翻ず可からずと。此れ未だ必ずしも爾からず。経に、「涅槃大涅槃あり」と言ふ、亦応に滅度大滅度あるべし。此の経に如来滅度と云ふ、豈に大滅度に非ずや。既に小滅度を以て小涅槃を翻ず、何んぞ大滅度を以て大涅槃を翻ぜざることを得ん。若し滅度は偏にして三徳を含ぜずと謂はば、今、含釈を作さんに、滅とは即ち解脱なり、解脱には必ず其の人あり。人は即ち法身なり。法身は直身のみならず必ず霊智あり、霊智は即ち般若なり。又た大は即ち法身、滅は即ち解脱、度は即ち般若なり。但だ滅度を標するに三を含ずること宛然たり、何んぞ翻無きことを得ん耶。若し一言を執すれば、則ち彼彼相ひ是非して仏意に達せざること、已に上に説くが如し。今、有無を和融して、義趣を虚豁せん。若し無翻と言はば、名に五義を含ず。一一の義に、更に三義を含ず、弥其の美なるを見る。若し有翻と作さば、一一の翻に於て亦た三義を具し、転た旨の深きことを益す。彼の有無に任せば、何の乖諍する所あらん。大経に云はく、「我れ終に世間と共に諍はず。世智に有と説かば、我も亦た有と説き、世智に無と説かば我も亦た無と説く」と。此の如く通融すれば、二家に於て失無くして而も理の存するあり焉。復次に円の義は無方なり、処処に通入す、乃ち上に説くが如し。若し正しく名を翻ぜば、世諦は混濫することを得ず。今且らく一名に依りて以て正翻と為し、亦た二家をして怨あらしめず。何となれば、古より今に及んで胡を譯して漢と為し、皆な題して経と為す。若し余の翻是れ正ならば、何んぞ改めて契・線と作さざる。若し伝譯僉な然らば、則ち経の正なること明けし矣。若し等しく是れ無翻ならば、何んぞ微発・涌泉等を標ぜざる。今正しく経を用ふるに、多含に於て義強し。三の法本、三の微発、三の涌泉、諸の繩墨、結鬘等の義を含ず。亦た契・線・善語教・訓法・訓常等を含じて、経の一字の中に摂在せざること無し。余の句も亦是の如し。諸の大小乗の教は皆な経を以て通名と為す、故に余の句を用ひざるなり。
[12]四には法に歴て経を明さば、若し経を以て正翻と為さば、何れの法か是れ経なる。旧は三種を用ふ、一には声を用ひて経と為す。仏の世に在して金口をもつて演説するが如き、但だ声音の詮辯のみありて聴く者道を得。故に声を以て経と為す。大品に云はく、「善知識に従つて聞く所なり」と。二には色を用つて経と為す。若し仏、世に在らば声を以て経と為す可きも、今仏、世を去りたまへば、紙墨伝持す、応に色を用つて経と為すべし。大品に云はく、「経巻の中に従つて聞く」と。三には法を用つて経と為す。内に自ら思惟して心と法と合す。他の教に由らず、亦た紙墨に非ずして、但だ心に暁悟すれば即ち法を経と為す。故に「我が法を修する者は、証して乃ち自ら知る」と云ふ云云。三塵を経と為して此の土に施す。耳識利なる者は、能く声塵に於て分別して悟りを取るときは、則ち声は是れ其の経なり、余に於ては経に非ず。若し意識利なる者は、自ら能く心を研きて思惟して決を取れば、法は是れ其の経なり、余に於ては経に非ず。眼識利なる者は、文字をもつて詮量して道理を得れば、色は是れ其の経にして余に於ては経に非ず。此の方は三塵を用ふる而已、余の三識は鈍なり。鼻に紙墨を臭ぐに則ち知る所無く、身の経巻に触るゝも亦た解すること能はず、舌に文字を噉ふも寧んぞ是非を別たんや。他土の若きは亦た六塵を用ひ、亦た偏に一塵を用ふ。浄名に曰ふが如き、「一食を以て一切に施す。食に於て等しき者は法に於ても亦た等し。法に於て等しき者は、食に於ても亦た等し」と。此れ即ち偏に舌根の対する所を用つて経と為す。或は国土あり、天衣身に触るゝを以て即ち道を得、此れ偏に触を用つて経と為すなり。或は仏の光明を見て道を得るは、此れ偏に色を用つて経と為す。或は寂滅無言にして心を観じて道を得るは、此れ偏に意を用つて経と為す。衆香土の如きは香を以て仏事と為す。此れ偏に香を用つて経と為す。他方は六根識利なれば、六塵を経と為ることを得。此の土は三の根識鈍なり、鼻は驢狗鹿等に及ばず。云何んぞ香・昧・触等に於て能く通達することを得ん。
[13]問ふ、根利なるが故に塵に於て是れ経ならば、鈍なる者は塵は則ち経に非ざる耶。答ふ、六塵は是れ法界にして、体自ら是れ経なり。根利にして取つて方に乃ち是れ経なるに非ず。何となれば、大品に云はく、「一切の法は色に趣く、是の趣過ぎず」と。此の色能く一切法を詮す。黒墨の色の如き、一画は一を詮じ、二画は二を詮じ、三画は三を詮じ、竪の一画は則ち王を詮じ、右の画を足すときは則ち丑を詮じ、左の画を足すときは則ち田を詮じ、上に出せば由を詮じ、下に出せば申を詮ず。是の如く迴転して詮ずること尽くす可からず。或は一字に無量の法を詮じ、無量の字共に一法を詮ず。無量の字に無量の法を詮じ、一字に一法を詮ず。一の黒墨に於て小小迴転するに、詮量大いに異なり。左に迴らせば悪を詮じ、右に迴らせば善を詮じ、上の点は無漏を詮じ、下の点は有漏を詮ず。殺活・与奪・毀譽・苦楽は皆な墨の中に在りて、更に一法の此の墨の外に出づるもの無し。略して之を言はば、黒墨は無量の教、無量の行、無量の理を詮ず。黒墨は亦た是れ教の本、行の本、理の本なり。黒墨は初の一点より無量の点に至り、点より字に至り、字より句に至り、句より偈に至り、偈より巻に至り、巻より部に至る。又た点一字句の中より、初に小行を立て、後に大行を著はす。又た点字の中より初に浅理を見、後に深理に到る。是を黒の色の教・行・義の三種の微発と名く。又た黒色より点を涌出し、字・句・偈を出すこと、窮尽すべからず。諸行を涌出すること無尽なり、義を涌出すること無尽なり、是を黒色に三の涌泉を具すと名く。又た黒色に約して教・行・義の邪を裁つ。又た黒色に約して教・行・義の鬘を結し、又た以つて身を厳る。又た色は是れ由なり、色に由るが故に、縛に六道の生死あり。色に由るが故に、脱に四種の聖人あり。又た色を法と訓ず、色に法とるが故に能く教・行・理を成ず。又た色は是れ常なり、色の教は破す可からず。色の行は改むべからず、色の理は動ずべからず。又た色は翻ず可からず、色の義多含なるが故なり。又た色は翻ず可し、色を名けて経と為るが故なり。色の経を見る時、色の愛見を知り、色の因縁生の法を知り、色の即空即仮即中を知る。色即ち法界なれば、総じて諸法を含ず。法界の文字は、文字即ち空なれば、点無く、字無く、句無く、偈無し。句偈文字は畢竟不可得たり。是を字非字、非字亦字を知ると名く。墨色是れ経なるを法本と為すとは、若し墨字に於て瞋を生じて他の寿命を断ず。若し墨字に於て愛を起して而も盜婬を作し、乃至墨に於て癡を起して邪見を生ず。当に知るべし、墨字は是れ四趣の本なり。若し墨字に於て慈を生じ、捨を生じ、乃至正見を生ずるは、当に知るべし、墨字は是れ人天の本なることを。若し墨字は是れ果報無記なりと知れば、無記は是れ苦諦なり。報色に於て染を生ずるは即ち是れ集諦なり。字は因縁の所成にして、苦・空・無我なりと知るは是れ道諦なり。既に字は字に非ずと知れば字の倒を生ぜずして、諸の煩悩滅するは即ち滅諦なり。字の四諦を知り、字の四諦を知りて能く煗頂を生ず。若は向、若は果、賢聖の解脱なり。当に知るべし、墨字は是れ声聞の本なることを。若し字に於て不了なるを無明と名け、字に於て愛恚を起すは是れ諸行なり。字の好醜を分別するは是れ識なり。字を識るを名色と名け、字の眼に渉るを六入と名け、字の塵の根に対するを名けて触と為す。納領し染著するは即ち是れ受、纒綿して捨てざるは是れ愛、力を竭して推求するは是れ取、取は則ち業と成るを名けて有と為し、有の能く果を牽くは是れを生老病死と名けて苦輪息まざるは、是れ則ち十二因縁の本なり。若し能く字は字に非ずと知れば無明即ち滅して行に至らず、乃至老死に至らず。無明滅すれば則ち老死滅ず。当に知るべし、此の字は是れ辟支仏の本なることを。若し字則ち空なり、滅し已つて空なるに非ず。字の性本より空にして、空の中には愛恚無く、乃至邪正無く、字不可得なり。字を知る者は誰ぞ。云何んぞ衆生は妄りに取舎を生ずと知る。慈悲誓願を起し、六度を行じて衆生を濟ひ、如実の際に入れば亦た衆生の滅度を得る奢無し。当に知るべし、此の字は是れ菩薩の本なることを。若し字非字、非字非非字を知れば、二辺の倒無きを浄と名け、浄なれば則ち業無きを我と名け、我則ち苦無きを楽と名け、苦無きときは則ち生死無きを常と名く。何を以つての故に、字は是れ俗諦、非字は是れ真諦、非字非非字は是れ一実諦なり。一諦即ち三諦、三諦即ち一諦なる、是を境の本と名く。若し墨字は紙と筆と心と手の和合に従つて成ずと知れば、一一の字を推すに一字を得ず。一一の点を推すに亦た字を得ざれば、則ち所無し。心手を得ざれば即ち能を得ず。能無く所無し、能所を知るものは誰ぞ。是れ一切智の本なり。字は字に非ずと雖も、字に非ずして而も字なり。心に従ふが故に点あり、点に従つて字あり、字に従つて句あり、句に従つて偈あり、偈に従つて行あり、行に従つて巻あり、巻に従つて帙あり、帙に従つて部あり、部に従つて蔵あり、蔵に従つて種種の分別あるは、是れ道種智の本なり。字に非ず非字に非ずと雖も、而も双べて字非字を照すは是を一切種智の本と為す。雪山は八字の為に所愛の身を捨つ、是れ行の本と為り。我れ一句乃至半句を解して、仏性を見ることを得て、大涅槃に入るとは、即ち是れ位の本なり。我れ三菩提を得ること、皆な経を聞き、及び善哉と称するに由るとは、字即ち乗の本なり。若し句逗を亡失せば還つて通利せしめ、其れに三昧及び陀羅尼を与ふとは、即ち感応の本なり。文に依りて通を学ぶは、即ち神通の本なり。字に依るが故に語を得るは、即説法の本なり。字を説きて他を教ふるは、即ち眷属の本なり。此の字を勤学すれば、祿其の中に在るは、即ち利益の本なり。此の如く字を解すれば、手に巻を執らざれども、常に是の経を読み、口に言声無けれども遍く衆典を誦す。仏、説法せざれども恒に梵音を聞き、心に思惟せざれども、普く法界を照す。此の如きの学問、豈に大ならず哉。当に知るべし、黒色は是れ諸法の本なることを。青・黄・赤・白も亦復た是の如し。字に非ず非字に非ず、双べて字非字を照す。不可説は不可説に非ず、不可見も不可見に非ず。何の簡択する所、何の簡択せざる所かあらん。何の摂する所、何の摂せざる所かあらん。何の棄つる所、何の棄てざる所かあらん。是なるときは則ち倶に是、非なるときは則ち悉く非なり。能く黒色に於て一切に通達するに一切に非ず、一切に通達するに非ずして是れ一切に通達するなり。非に非ず是に非ず、一切の法邪、一切の法正なり。若し黒色に於て是の如く解せざるときは、則ち字と非字とを知らず。黄・白・赤・青、有対・無対も皆な知ること能はず。若し黒色に於て通達して知れば、余色も亦是の如し。此れ即ち法華経の意なり、色を以て経と為す。声塵も亦是の如し、或は一声に一法を詮ず云云。耳根利なる者は、即ち声の愛見の因縁即空即仮即中なりと解す。唇舌牙齒も皆な不可得なりと知れば、声も即ち声に非ず。非声亦声、非声非非声なり。声を教・行・義の本と為す。種種等の義皆な上に説くが如し。即ち是れ声経に通達するなり。香昧触等も亦復是の如し。文に云はく、「一切世間の治生産業も皆な実衵と相ひ違背せず」とは、即ち此の意なり。外入は皆な経にして法界に周遍すれば、内入も亦是の如く、内外入も亦是の如し。経に云はく、「内観して解説を得るに非ず、亦た内観を離れず」と云云。是れ則ち一塵に一切塵に達し、一塵一切塵を見ず。一塵一切塵に通達す。一識に於て一切識を分別し、亦た一識一切識を見ずして、一識一切識に通達す。自在無礙にして平等大慧なり。何者か是れ経、何者か経に非ざる。若し細しく作さんと欲せば、一一の塵識に於て例して解すべし。有翻無翻は三義を以て之を織り、後に三観を用つて之を結す云云。
[14]諸教に歴て経を分別せば、若し理は文字を絶し、文字は是れ世俗なり。字に寄せて理を詮ずるに、理は是れ経なる可く、文字は経に非ず。六塵等も皆是れ経の詮なれども、正しき経には非ずと言はば、此れ即ち三蔵の中の経なる耳。若し文字を離れて解脱の義を説くこと無し。文字の性離るる即ち是れ解説なり。六塵即ち実相なれば二無く別無し。上に説く所の如き者は、円教の中の経なり。三の方便を帯して此の説を作すものは、方等の中の経なり。二の方便を帯して此の如く説く者は、般若の中の経なり。一の方便を帯して此の如きの説を作す者は、華厳の中の経なり。
[15]五に観心の経を明さば、皆な上に類して四と為すなり。一に無翻に類せば、心は善悪の諸の心数等を含ず。当に知るべし。此の心は諸法の都なることを、何んぞ定判す可けん。若し悪是れ心ならば、心に善及び諸の心数を含ぜず。若し善是れ心ならば、心に悪及び諸の心数を含ぜず。知らず、何を以てか心に目けん。略を以て総に代ふ、故に知んぬ、略心は能く万法を含ずることを。況んや五義を含ぜざらん耶。華厳に云はく、「一微塵の中に三千大千世界の経巻あり」とは、即ち其の義なり。心は是れ法の本なりとは、釈論に云はく、「一切世間の中、心より造せざる無し」と。心無ければ思覚なく、思覚無ければ言語無し。当に知るべし、心は即ち語の本なることを。心は是れ行の本なりとは、大集に云はく、「心行・大行・遍行」と。心は是れ思の数なり、思数は行陰に属す。諸行は思心に由つて立す、故に心を行の本と為す。心は是れ理の本なりとは、若し心無くんば理は誰とともにか含せん。初心に理を研くを以て恍恍として将に悟らんとす、稍く相似に入りて則ち真実を証す。是を理の本と為す。心に微発を含ずとは、初め刹那の心は微微として而もあり、次の心は存するが如く亡ずるが如し、次に漸く増長し、後則ち決定して心を暢べて口に発す。是れ語の微発なり。初心に行を習ふに行猶ほ微弱なり、次に少しく樹立して後に大行を成ずるは、即ち行の微発なり。初に心を観ずるに心の理を見ず、更に修して髣髴なり、乃至相似の真実なるは即ち理の微発なり。心に涌泉を含ずとは、心は諸法を具するも障の故に流れず、土石の泉を壓するに、壅を去れば涌溜するが如し。若し心を観ぜずんば心闇くして明かならず、所説長からず。若し観心明徹すれば、則ち宣辯無方にして流溢して尽き難し。豈に語の涌泉に非ずや。若し心を観ぜずんば行則ち間あり、心を観ずるを以ての故に念念相続して、六蔽を翻じて六度を成じ、六度に一切の行を摂す。是れ行の涌泉なり。若し能く心を観ずれば利钁地を斲り、磐石沙鹵、理水清澄して滔滔として竭くること無きが如きは、即ち義の涌泉なり。心に結鬘を含ずとは、観念謬まらず一聞持を得れば、文を穿ちて失すること無し。心を観じて定共の力を得れば行を穿ちて失すること無く、心を観して道共の力を得れば義を穿ちて失すること無し。又た心を観じて定慧を得れば法身を厳顕す。此れ皆な解すべし。又た心は是れ繩墨なりとは、若し、心を観じて正語を得れば邪倒の説を離れ、心を観ずること正しきときは則ち邪行を免れ、心に見著無きときは則ち正理に入る。事行は繩の如く、理行は墨の如し。愛見の木を弾して正法の器を成ずるなり。是を心の経の多含と為す、略して十五義を示す云云。
[16]二に有翻に類して観を明さば、心は即ち是れ由なり、三義は心に由る。一切の語言は覚観の心に由り、一切の諸行は思心に由り、一切の義理は慧心に由る。経に云はく、「諸仏の解脱は当に衆生の心行の中に於て求むべし」と。心は是れ経緯なり、覚を以て経と為し、観を以て緯と為して言語を織成す。又た慧行の心を経と為し、行行の心を緯と為して衆行を織成す。心の竪に理を縁ずるを経と為し、心の横に理を縁ずるを緯と為して義理を織成す云云。又た観境を経と為し観智を緯と為し。観察迴転して一切の文章を織成す。又た心は即ち是れ契なり。観慧の境に契ふは是れ縁に契ふ。楽欲に契ふ心を契教と為し、便宜対治に契ふ心を契行と為し、第一義に契ふ心は契理なり。心を法本と為し、心を線と為すは前の如し云云。心を善語教と為すは、法と語と倶に善悪に通ず、今、善法善語を以て之を定む。心と観と亦た善悪に通ず、今、善心善観を以て之を定む。即ち是れ善語教・善行・善理なり。故に心に三義を具す。
[17]心は是れ可軌とは、若し観無きときは則ち規矩無し。観を以て心王を正す。心王正しきが故に心数も亦た正し。行理も亦た爾なり。心王理に契へば、数も亦た理に契ふ。故に可軌と名くるなり。心常なりとは、心性常定にして猶ほ虚空の如し。誰か能く破する者ぞ。又た悪覚は善覚を壊すること能はず、邪行は正行を于さず、邪理は正理を壊せず。故に心を常と名く。諸の事釈に随つて一一心に向へて観と為せば、観慧弥成じて事に於て乖くこと無し。火の薪を益すが如く事理失すること無し。文字に即して文字無く、文字を捨てずして別に観を作すなり。
[18]三に有無を和融するに類して観を明すは、解す可し云云。
[19]四に歴法に類して観と為さば、小乗の若きは悪の中に善無く、善の中に悪無しと明す。事理も亦た然り。此れ則ち悪心経に非ざるときは、則ち多含の義無し。隘路にして二人並び行くことを受けず。若し大乗の観心は、悪心を観ずるに悪心に非ず。亦た悪に即して而も善なり。亦た即ち悪に非ず善に非ず。善心を観ずるに善心に非ず、亦た善に即して而も悪なり、亦た善に非ず悪に非ず。一心を観ずるに即ち三心なり、此の三心を以て一切心に歴、一切法に歴るに、何の心、何の法か一三ならざらん。一切の法は此の心に趣き、一切の心は此の法に趣く。此の如く心を観ずるを一切の語本・行本・理本と為す。有翻の五義。無翻の五義も一一心に於て解釈するに滞ること無く、一切心に偏うして是れ経ならずといふこと無し。大意領す可し、多く記することを俟たざるなり。
[20]第二に顕体とは、前の釈名は総じて説く、文義浩漫なり。今は頓に要理を黠じて正しく経体を顕はし、直ちに真性を辨ず。真性は二軌無きに非ざれども、解し易からしめんと欲す、是の故に直説す。後に宗用を顕はすに、初軌無きに非ざれども偏に挙げて名に当つる耳。体とは一部の指帰、衆義の都会なり。但だ之に会すること至つて難きのみに非ず、亦た乃ち之を説くことも易からず。文に云はく、「是の法は示す可からず、言辞の相寂滅す」と。大経に云はく、「不生不生不可説」と。又た云はく、「因縁あるが故に亦た説くことを得べし」と。今略して七条を開す。一には正しく経体を顕はし、二には広く偽を簡び、三には一法の異名、四には入体の門、五には遍く衆経の体と為す、六には遍く諸行の体と為す、七には遍く一切法の体となす。
[21]正しく体を顕はすに更に四意を明す、一には旧解を出し、二には体の意を論じ、三には正しく体を明し、四には文を引きて証す。北地師は一乗を用ひて体と為せども、此の語奢漫にして未だ簡要と為さず。一乗の語通にして権実に濫ず。若は権の一乗は、都て経の意に非ず。若は実の一乗は義に三軌を該ぬれば、体を顕はすこと明かならざるず、故に用ひず。又た有るが解して言はく、真諦を体と為すと。此も亦だ通濫す。小・大皆な真諦を明す。小乗の真諦は故より言ふことを俟たず。大乗の真諦も亦復た多種あり。今、何等の真諦を以てか体と為す。故に用ひず。又た有るが解して言はく、一乗の因果を体と為すと。今亦た用ひず。何となれば、一乗の語の通ずること已に前に説くが如し。又た因果は二法なれば猶未だ事を免かれず、云何んぞ是れ体ならん。事は理の印無ければ則ち魔経に同じ、云何んぞ用ふ可けんや。有る人解すらく、乗の体は因果に通ず。果は万徳を以て体と為し、因は万善を以て体と為すと。十二門論を引きて云はく、「諸仏大人の所乗は文殊・観音等の所乗なり」と。又た此の経を引きて、「仏自住大乗とは即ち果なり、諸子乗是宝乗とは是れ因果なり」と。又た普賢観の「大乗の因果は皆是れ実相なり」といふを引く。私に問ふ、因果の乗は変とせんや、不変とせんや。若し変ならば誰か是れ能通、誰か是れ所通なりや。若し不変ならば因果則ち並ぶ、皆な此の理無し。若し別に法の因果に通ずるあらば、当に知るべし、因果は果者の経体に非ざることを。十二門論に云はく、「大人の仏は不行の故に乗と名く」と、豈応に不行を以て因果の乗を証すべけんや。法華に「仏自住大乗」とは、此れ乃ち理に乗じて以て人を御す、果徳に住するには非ざるなり。普賢観に因果を明すに皆な実相を指すは、云何んぞ実相を将つて因果を証せん耶。今皆な用ひず。有る人明さく、因乗は般若を以て本と為し、五度を末と為す。果乗は薩婆若を以て本と為し、余を末と為す。又た因乗は狭く果乗は広し、又た般若相応の心は是れ一体の乗、不相応の心は是れ異体の乗なり。又た無所得の相応の行は是れ近乗、低頭挙手の有所得は是れ遠乗なり。又た六度に世出世の雑はるあるは是れ遠乗、三十七品は但だ出世にして近乗と名く。又た四句あり、度と品とは悉く得無く、又た度と品とは倶に得あり。又た度は雑し品は雑せず。又た品は雑し度は離せず云云と。私に謂はく、船若を乗の本と為すは、今の経に於ては是れ白牛なり、経体に非ず。薩婆若を経本と為すは今の経に於ては是れ道場所成の果なり、亦た乗体に非ず。因乗狭しとは是れ従の義、果乗広しとは是れ横の義なり、悉く今の経の乗体に非ず。般若相応心無所得近遠等は、今の経に於ては悉く是れ荘校儐従にして、都べて乗の体に非ず。那んぞ忽に皮毛枝葉に於て諍論を興さん耶。喧怒此の如し、誰か能く之を別たん。有る人、釈論を引きて、六度を以て乗体と為し、方便は生死を運出し、慈悲は衆生を蓮取すと。今の経に於ては般若は是れ牛、五度は是れ荘校、方便は是れ儐従、慈悲は是れ軒なり、亦た乗の体に非ず。中辺分別論に云はく、「乗に五あり、一に乗の本は真如仏性を謂ふ。二に乗の行は福慧を謂ふ。三に乗の摂は慈悲を謂ふ。四に乗の障は煩悩を謂ふ。是れ煩悩障にして行解等は是れ智障なり。五には乗の果は仏果を謂ふ」と。唯識論に云はく、「乗は是れ出載の義なり。真如仏性に由りて福慧等の行を出し、此の行に由りて仏果を出し、仏果に由りて衆生を載出す」と。摂大乗論に、「乗に三あり、一に乗の因は真如仏性を謂ふ。二に乗の縁は万行を謂ふ。三に乗の果は仏果を謂ふなり」と。法華論には、「乗体は如来の平等法身を謂ふ」と明す。又た云はく、「如来の大槃涅槃なり」と。此の両文は隠顕なるに似如たる耳。発心低頭挙手等を乗の縁と名く。十二門論に明さく、「乗の本は諸法実相を謂ふ」と。「乗の主は般若を謂ひ、乗の助は一切行資成を謂ひ、乗至は薩婆若に至る」と。此の五論は乗体を明すこと同じく、而も荘技は少しく異なり。今経に於て乗体を明すは正しく是れ実相にして荘校を取らざるなり。若し荘校を取らば、則ち仏所乗の乗に非ざるなり。
[22]二に体を論ずるの意とは、何の意ぞ此の体を須用ふべき。釈論に云はく、「諸の小乗経は若し無常と無我と涅槃の三印ありて之を印すれば、即ち是れ仏説なり。之を修すれば道を得。三法印無ければ即ち是れ魔説なり。大乗経には但だ一の法印あり、諸法実相を謂ふ。了義経と名け、能く大道を得。若し実相の印無くんば是れ魔の所説なり。故に身子の云はく、世尊は実道を説き、波旬には此の事無し」と。何が故ぞ小は三、大は一なる。小乗には生死と涅槃と異なりと明す。生死は無常を以て初印と為し、無我を後印と為し、二印印して生死を説く。涅槃は但だ一の寂滅印を用ふ。是の故に三を須ふるなり。大乗は生死即ち涅槃、涅槃即ち生死にして不二不異なり。浄名に曰はく、「一切衆生は常に寂滅の相なり即ち大涅槃なり」と。又た云はく、「本より自ら生ぜず、今則ち滅すること無し」と。本不生とは即ち無常無我の相に非ず、今則ち無滅とは則ち小の寂滅の相に非ず。唯是れ一実相なり。実相の放に常寂滅相と言ふ。即ち大涅槃にして、但だ一印を用ふるなり。此の大小の印をもつて、半満の経を印すれば、外道も雑すること能はず、天魔も破すること能はず。世の文符の印を得れば信ず可きが如し。当に知るべし。諸経畢定して実相の印を得て乃ち名けて了義の大義と為すことを得べし。
[23]三に正しく体を顕はさば、即ち一実相の印なり。三軌の中には真性軌を取る。十法界の中には仏法界を取り、仏界の十如是の中には如是体を取る。四種の十二因縁の中には不思議不生不滅を取り、十二支の中には苦道即ち是れ法身なるを取る。四種の四諦の中には無作の四諦を取り、無作の中に於ては唯だ滅諦を取る。七種の二諦の中には五種の二諦を取り五の二諦の中には唯だ真諦を取る。五の三諦の中には五の中道第一義諦を取り、諸の一諦の中には中道一実諦を取る。諸の無諦の中には中道の無諦を取るなり。若し此の意を得れば、智妙の中に就て簡ぶ。乃至十妙の一一に正体を簡出すること、例して知る可きなり。若し譬喩をもつて義を明さば、梁柱の一屋を綱紀するが如き、梁に非ず柱に非ず、即ち屋内の空なり。柱梁は譬ふるに因果を以てし、非梁非柱は譬ふるに実相を以てす。実相を体と為す、梁柱に非ざるなり。屋若し空無くんば容受する所無く、因果に実相無くんば成立する所無し。釈論に云はく、「若し以て此の空無くんば一切所作無し」と。又た譬へば日月は天に綱し、公臣の主を輔くるが如し。日月は二なる可く、大虚空天は二なる可からず。臣将は多なる可く、主は多なる可からざるなり。此の義の為の故に、須らく正体を簡出すべし。三軌の乗を成ずるが如きは不縦不横不即不離なれども、顕示するに義便なれば須らく観照等を簡んで、唯だ真性を指して名に当つ。正意分明なり。三軌既に然り、余法も例して爾り云云。
[24]四に引証とは、序品に云はく、「今、仏、光明を放ちて実相の義を助顕す」と。又た云はく「諸法実相の義已に汝等が為に説く」と。方便品に云はく、「唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽す」と。偈の中に云はく、「諸仏の法は久しくして後要らず当に真実を説くべし」と。又た云はく、「我れ相厳身を以て、為に実相の印を説く」と。身子領解して云はく、「世尊は実道を説き、波旬に此の事無し」と。又た云はく、「実智の中に安住して我れ定んで当に作仏すべし」と。法師品に云はく「方便の門を開きて真実の相を示す」と。安楽行に云はく、「諸法の如実の相を観ず」と。寿量に云はく、「如来は実の如く知見す」と。普賢観に云はく、「昔し霊山に於て広く一実の道を説く」と。又た云はく、「一実の境界を観ず」と。故に知んぬ、諸仏は大事の因縁の為に世に出現し、秖だ衆生をして仏の知見を開かしめ、此の一実の非因非果の理を見せしむるのみなることを。経の文茲に在り、明証と為す可きなり。
[25]二に広く偽を簡ぶとは、夫れ正体玄絶にして、一往には知り難し。又た邪小の名、正大を乱る。譬へば魚目の明珠に混雑するが如し。故に須らく偽を簡ぶべし。即ち六意と為す、一には凡に就て簡び、二には外に就て簡び、三には小に就て簡び、四には偏に就て簡び、五には譬に就て簡び、六には悟に就て簡ぶ。一に凡に就て簡ぶとは、釈論に云はく、「世典の亦た実と称する者は、乃ち是れ国を護り、家を治むるを実と称す。外道の亦た実と称するは、邪智僻解を謂つて実と為す。小乗に実と称するは、苦を厭ひて蘇息し、偏真を以て実と為すなり」。是の如き等は、但だ実の名ありて其の義無し。何となれば、世間の妖幻道術も亦た称して実と為す。多くは是れ鬼神の魅法なり。此の法、心に入れば迷酔狂乱して自ら善好を衒ひて勝真実と謂ひ、異を立て衆を動かして奇特の相を示す。或は髑髏に屎を盛り、多人の前に約して口を張つて大いに咽し、或は生魚臭肉増状餔食す。或は裸形弊服にして規矩に誇傲し、或は直ちに来り直ちに去る。問はず答へず。種種に譎詭して無智を詃誘して信染惑著せしめ、著し已れば脱を求むるに得叵し。内には則ち病其の身を害し、外には則ち家を誅り族を滅して禍ひ親里に延く。現に衆苦を受け、後に地獄長夜の苦を受く。生生に道を障へて解脱の期無し。此れ乃ち世間の現見なり。何の実の論ずべきあらん。鈍使の愛論の摂なり。若し周孔の経籍は治法・礼法・兵法・医法・天文地理・八卦五行・世間の墳典なり。孝は以て家を治め、忠は以て国を治む。各其の親を親とし、各其の子を子とし、上を敬ひ下を愛し、仁義揖讓して百姓を安んじ、社稷を覇立す。若し此の法を失すれば、強き者は弱きを陵ぎ、天下焦遑として民に聊生無し。鳥は栖むに暇あらず、獣は伏すに暇あらず。若し此の法に依れば、天下太平にして牛馬も内に向ふ。当に知るべし。此の法は乃ち是れ民を愛し、国を治むれば、而も称して実と為す。金光明に云はく、「釈提桓因の種種の勝論」とは、即ち其の義なり。蓋し十善の意なる耳。十善を修して上天心に符ひば、諸天歓喜す。天然の報を求むるに、此の法を勝と為す、故に勝論と言ふ耳。又た大梵天王の出欲論を説くは、即ち是れ定を修して欲の淤泥を出づ。亦是れ愛論の摂なる耳。世に又た方術あり、薬を服して長生し、形を練り色を易ふ。飛仙隠形の者は、此の薬方をもつて秘要真実なりと称す。此れ亦た愛論鈍使の摂なる耳。
[26]二に外に就て簡ぶとは、即ち是れ外道の典籍なり。若し薬を服して知を求め、聰利明達にして道理を推尋す。此の薬方を称して勝となし実と為すも、薬力薄く知れども遠を鑑みること能はず。薬に触るときは則ち失し、薬歇めば則ち失す。亦た実に非ざるなり。此の間の荘老の無為無欲なる若き、天真虚静にして、諸の誇企を息め、聖を棄て智を絶する等なり。直だ是れ其の抱を虚無にすれば、尚ほ単の四見の外に出でず。何んぞ聖法に関はらん。従令ひ単の四見の外に出づるとも、尚ほ複の四見の中に堕す。見網の中の行にして解脱の道に非ず。若し外国の論力は、梨昌が募りを受けて五百の明難を撰す。其の一に云はく、「瞿曇は一究竟の道とせんや、衆多の究竟の道とせんや」と。仏の言はく、「但だ一究竟の道なり」と。論力の云はく、「云何んぞ諸師各各に究竟の道を説く」と。仏、鹿頭を指して「汝其を識るや不や」と。論力云はく、「究竟の道の中に於て其れ第一なるを識る」と。仏の言はく、「若し其れ究竟の道を得ば、云何んぞ自ら其の道を捨てゝ、我弟子と為る耶」と。論力、即ち悟りて仏法の中に於て独り一究竟の道を歎ず。又た長爪の云ふが如き、「一切の論は破す可く、一切の語は転ず可し。諸法の実相を観ずること久しきに於て一法の心に入ることを得ず」と。釈論に云はく、「長爪は亦有亦無の見を執す」と。又た云はく、「亦た不可説の見を計す一と。斯の如きの流類、百千万種なり。虚妄の戯論は惑の為に流転せらる。見網浩然として邪智瀾漫たり、境に触れて著を生ず。或時は襵揲す。有の無を有と為し、無の有無の無を無と為し、有の非有非無を有と為し、無の非有非無を無と為し、百千番蝶するも、悉く皆な見倒なり。生死の諸辺にして真実に非ず。大経に云はく、「無明の枷を被りて生死の柱に繋がれ、二十五有を遶りて脱を得ること能はず」と、即ち其の義なり。
[27]三に小に就て簡ぶとは、声聞法の中にも亦た有を離れ無を離るゝを聖中道と名くと云ふ。大集に云はく、「拘隣如沙門は最初に真実の知見を獲得す」と。然るに小乗は大悲を運ばず、衆生を濟はざれば功徳力薄し。作仏を求めず、深く実相を窮めざれば、則ち智慧劣弱なり。有を離れ無を離るゝを聖中道と名くと云ふと雖も、乃ち断常の二見を以て二辺と為し、真諦を中道と為す。真無漏の慧を名けて見と為し、涅槃の法を証するを名けて知と為す。見思を断じ分段を除滅すと雖も、而も草庵に住すれば究竟の理に非ず。前の生死有の辺に対すれば、則ち是れ涅槃無の辺なり。二倶に破す可く壊す可し。真実の道に非ず。故に実相と名けざるなり。
[28]四に偏に就て簡ぶとは、諸の大乗経に、「二乗の人に共じて方便を帯して説く者は、名字既に同じけれども義は須らく分別すべし。摩訶衍の中に云ふが如き、「三乗の人同じく無言説の道を以て煩悩を断ず」と。中論に云はく、「諸法実相は三人共に得」とは、二乗の人は共に無言説の道を禀くと雖も、自ら出苦を求めて大悲心無ければ、空を得て則ち止む。鈍根の菩薩も亦た爾り。利根の菩薩は、大悲物の為にし、深く実相を求む。共実相は智蛍火の如し、是の故に実に非ず。不共の実相は智日光の如し、是の故に実と為す。大経に云はく、「第一義空を名けて智慧と為す」と。二乗の但空は空にして智慧無し。菩薩は不但空を得れば即ち中道の慧なり。此の慧は寂にして常に照す。二乗は但だ其の寂を得て寂照を得ず、故に実相に非ず。菩薩は寂を得、又た寂照を得れば、即ち是れ実相なり。不空を見る者に復た多種あり、一には不空を見て次第に結を断じ、浅より深に至る。此れ乃ち相似の実にして正実に非ざるなり。二には不空を見るに一切法を具す、初の阿字門に則ち一切の義を解す。即中即仮即空、一ならず異ならず、三無く一無し。二乗は但だ一の即なり、別教は但だ二の即なり、円は三即を具す、三即は真の実相なり。釈論に云はく、「何等をか是れ実相なる。謂はく、菩薩は一相に入りて無量の相を知り、無量の相を知りて又た一相に入る。二乗は但だ一相に入りて無量の相を知ること能はず」と。別教は一相に入り、又た無量の相に入ると雖も、更に一相に入ること能はず。利根の菩薩は即空の故に一相に入り、即仮の故に無量の相を知り、即中の故に更に一相に入る。此の如く菩薩は深く智度の大海を求め、一心即ち三なり。是れ真の実相の体なり。華厳は二乗を共ぜず、但だ菩薩に約す。三智次第に得れば亦た正実に非ず。不次第に得る者は是れ正実なり。若し方等の中に四人三智を得るは、三人は虚と為し一人を実と為す。大品の三慧に三智を説きて三人に属す。前の二は深く求めず、浅にして而も実に非ず。後の一人は深く一心の三智を求む。是の故に是れ実なり。此の経は、汝実に我子なり、復た四三の人無し。十方諦かに求むるに更に余乗無く、但だ一実相の智なり。声聞の法を決了して但だ無上道を説く、純ら是れ一実の体なり。