[1]次に六作を観じて檀を行ずとは、未念行、欲行、行、行已を観ずるに、四運の遅速皆得べからず、亦不可得を見ず。反つて覚心を観ずる 外より来らず、内より出でず、中間にもあらず、常に自ら有なるにあらず。行無く、行者無く。畢竟空寂なり。而も心を運役するに由るが故に去来あり、或は毀戒の為、或は誑他の為、或は眷属の為、或は勝彼の為、或は義譲の為、或は善禅の為、或は涅槃の為、或は慈悲の為に、六塵を捨てて六作を運す。方便去来。挙足下足、皆幻化の如し。怳倆虚忽として、能を亡じ所を亡ず。千里の路も、謂って遙なりと為さず、数歩の地も謂つて近しと為さず。凡そ所作あれば其功を唐うせず、其報を望まず。此の如く檀に住して一切恒沙の仏法を摂成し、摩訶衍を具して能く彼岸に到る。又、一運の心を観ずるに十法具足す、一も定んで一ならず、故に十と為ることを得。十も定んで十ならず、故に一とすることを得。一に非ず十に非ず、雙べて一十を照す。一念の心中に三諦を具足せり。住、坐、臥、語黙、作も亦復是の如し、前に準じて知るべし。故に「法華」に云はく、「又仏子の名衣上服を以て用ひて布施し、以て仏道を求むるを見る」と、即ち此義なり。
[2]前は十二事に約して共に檀を論ず、今一一の事に約して各各に六を論ぜん。行者行く時、大悲の眼を以て衆生を見るに、衆生の相を得ず。衆生は菩薩に於て怖畏無きことを得、是を行の中の檀と為す。衆生に於て傷損する所無く、罪福の相を得ず。是を尸と名く。行く時、心想起らず、亦動揺なく、住処あること無く、陰入界等も亦悉く動ぜず、是を忍と名く。行く時挙足下足を得ず、心に前思後覚無く、一切法の中に、生、住、滅無く、是を精進と名く。身心に生死涅槃を得ず、一切法の中に受と念と著無く、味せず乱せず、是を禅と名く。行く時、頭等の六分雲の如く影、夢、幻、響、化の如く、生、滅、断、常無く、陰入界も、空寂にして縛無く脱無し、是を般若と名く。具には「首楞厳」の中に広く説くが如し。又、行の中に寂然として定相あり、若し之を察せずんば定に於て染を生じ禅味に貪著す。今定心を観ずるに心尚心無し、定何の処にか在らん。当に知るべし、此定は顛倒より生ずることを。斯の如く観ずる時は、空と及び不空とを見ず。即ち定相を破し、貪著を生ぜず。方便を以て生ずるは、是れ菩薩の解なり。行者未だ悟らずんば、或は我が能観の心を計して是を妙慧なりと謂ひ、慧に著して自ら高うす。是を智障と名く。彼の外道に同じく、解脱することを得ず。即ち反つて能観の心を照すに住処を見ず、亦起滅無し。畢竟して観者及び非観者あること無し、観者既に無し、誰か諸法を観ぜん。心を観ずる者を得ずんば即ち観想を離る。「大論」に云はく、「念想の観已に除こり、戯論の心皆滅す。無量の衆罪除こり、清浄の心常に一なり。是の如き尊妙の人は則ち能く般若を見る」と。「大集」に云はく、「心心を観ず」と。即ち此意なり。是の如きの行の中には三三昧を具す。初の観に一切種種の有相を破して、内外を見ず、即ち空三昧なり。次の観に能く空相を壊するを無相三昧と名け、後の観に作者を見ざるは、即ち無作三昧なり。又三倒三毒を破して三有の流を越え、四魔の怨を伏して波羅蜜を成ず。法界を摂受して、一切の法門を増長し具足す、豈止、六度三三昧のみならんや。若し行の中に於て一切の法を具足せば、余の十一の事も亦復是の如し。
[3]次に更に六塵の中に歴て 競持謹潔なること、油鉢を擎げて一啼をも傾けざるか如し。又、六作の中に於て威儀肅肅として進退序あり。但、持戒と名く、持戒の果報は升出して楽を受くるも、是れ三昧に非ず、波羅蜜と名けず。若し観慧を得れば、十二事に於て尸羅自ら成ず。謂く、未見色、欲見、見、見已の四運の心を観じて種種に推求するに、所起の心を得ず、亦能観の心をも得ず。内外に不ず、去来無く、寂として生滅無し(其一)。能く是の如く観じて、身口七支の浄きこと虚空の若くなるは、是れ、不欠、不破、不穿の三種律儀戒を持つなり。四運の諸の悪覚観を破するは、即ち不雑戒を持つなり。四運の為に乱されざるは、即ち定共戒を持つなり。四運心の起らざるは、即ち道共戒を持つなり。種種の四運を分別して滞ること無きは、即ち無著戒を持つなり。四運乞分別して謬らざるは、即ち智所讚戒を持つなり。四運に一切の法を摂すると知るは、即ち大乗自在戒を持つなり。四運の四徳を識るは、即ち究竟戒を持つなり(其二)。心既に明浄にして雙べて二辺を遮し、正しく中道に入りて雙べて二諦を照す。不思議の仏の境界具足して減ずること無し(其三)。色とは色法、受とは不可得なり。三事皆亡ずるは即ち檀なり。色と色者に於て、心を安んじて動ぜざるを忍と名く。色と色者に於て無染無間なるを毘梨耶と名く。色の色者の為に乱されざるは禅と名く。色と色者と幻の如く化の如くなるを般若と名く。色と色者と虚空の如くなるを空三昧と名け、此空を得ざるを無相三昧と名け、能無く所無きを無作三昧と名く。何ぞ但、三諦、六度、三空のみならんや、一切恒沙の仏法も皆例して解すべし。色塵の観ずること既に爾り、余の五塵も亦然り。六受、六作も亦是の如し。「法華」に云はく、「又仏子の威儀具足して以て仏道を求むるを見る」と、即ち此義なり。
[4]次に忍善に歴るは、還つて作受に約するに皆違順あり。順は是れ可意、違は不可意なり。違に於て瞋らず、順に於て愛せず、見無く見者無し、作なく、作者無きこと皆上に説くが如し。
[5]次に精進善に歴るは、旧の云はく、「精進は別体無し、但、衆行を篤うす」と。義をもつて之を推すに応に別体あるべし。例へば無明は通じて衆使に入れども、更に別に無明あり。今、且らく誦経其心を勤策するに寄せて、以て精進に擬す、昼夜虧けざれば乃ち滑利なることを得、而も三昧の慧に非ず。今気息を観ずるに七処に触れ、和合して声を出すこと響の如し。内に非ず外に非ず、能誦、所誦無し。悉く四運を以て推検して塵に於て受者を起さず、縁に於て作者を生ぜず。煩悩間らずして誦説し、念念に大涅槃海に流入す。是を精進と名く云云。
[6]次に諸禅に歴るに、根本、九想、背捨等は但是れ禅なり、波羅蜜に非ず。入定の四運を観ずるに、尚心を見ず、何の処にか定あらん。即ち禅の実相に達し、禅を以て一切の法を摂す。故に 論の第五に、八想を解し竟りて、十力、四無所畏、一切の法を明す。諸の論師は玄旨に達せずして、悉く謂つて論誤れり、未だ応に此を説くべからずと。此は是れ論主八想を明して摩訶衍の相と作す。故に広く諸法を釈するのみ云云。
[7]次に智慧に歴るとは、「釈論」には八種に般若を解す。云云。今且く世智に約して用て六受、六作を観ず。四運をもって世智を推すも得がたきこと皆上に説くが如し。余の一切の善法に約するも亦是の如し。
[8]問ふ、若し一法に一切の法を摂せば、但、観のみを用ひて即ち足る、何ぞ須らく止を用ふべけん。一度にして即ち足る、何ぞ五度を用ひんや。答ふ、六度宛転して相成ず、甲を被て陣に入るが如し、密しせずんばあるべからず云云。観は灯の如く止は密室の如し、衣を浣ぎ草を刈る等と云云。又般若を法界と為すに遍く一切を摂す、亦余法を須ひず。余法を法界と為すも亦一如を摂す、亦般若を須ひず。又般若は即ち諸法、諸法は即ち般若にして、二なく別なし云云。
[9]三に随自意を以て諸の悪事に歴るとは、夫れ善悪は定まること無し、諸蔽を悪と為し事度を善と為すが如き、人天の報尽きて還つて三途に墮す。已に復是れ悪なり。何を以ての故に、蔽、度、倶に動出に非ず、体皆是れ悪なり。二乗の苦を出づるは、之を名けて善と為す、二乗は善なりと雖も、但能く自ら度するは、善人の相に非ず。「大論」に云はく、「寧ろ悪癩野干の心を起すとも、声聞、辟支仏の意を生ぜざれ」と。当に知るべし、生死涅槃、倶に復是れ悪なることを。六度の菩薩の慈悲兼済するは此れ乃ち善と称す。能く兼済すと雖も毒器に食を貯ふるが如し。食すれば則ち人を殺す。已に復是れ悪なり。三乗同じく断ずるは此れ乃ち好と称す、而も別理を見ざれば還つて二辺に属す、無明未だ吐かざれば已に復是れ悪なり。別教を善と為す、別理を見ると雖も、猶ほ方便を帯して理に称ふこと能はず。 「大経」に云はく、「此より前は我等皆邪見の人と名く」と。邪、豈悪に非ずや。唯、円の法のみ名けて善と為す。能く実相に順ずるを名けて道と為し、実相に背くを非道と名く。若し、諸の悪は悪に非ず、皆是れ実相なりと達すれば、即ち非道を行じて仏道に通達す。若し仏道に於て著を生ずれば甘露を消せず、道も非道と成る。此の如く善悪を論ずれば、其義則ち通なり。今別に就いて善悪を明さば、事度は是れ善。諸蔽を悪と為す。善法に観を用ふること已に上に説くが如し、悪に就いて観を明すこと今当に説くべし。前に善を観ずと雖も其の蔽息まず、煩悩浩然として、時として起らざること無し。若し他を観ずるも悪も亦無量なり、故に一切世間不可楽想を修する時は、即ち好人を見ず好国土無し。純ら諸の蔽悪にして而も自ら纒裏す。縦ひ全て蔽あらざるも、而も遍に不善を起す、或は慳貧多く、或は犯戒多く、瞋多く、怠多く、酒味を嗜むこと多く、根性易奪して必ず過患あり、其れ誰か失無けん。出家して世を離るるも行猶ほ備はらず、白衣の欲を受くるは、行道の人に非ず、悪是れ其分なり。羅漢すら殘習あり、何に沈んや凡夫をや。凡夫若し悪蔽を縦にせば摧折俯墜して永く出づる期無し、当に悪の中に於て観慧を修すべし。仏世の時の在家の人の如き、妻を帯し子を挾み、官方俗務皆能く道を得たり。央掘摩羅は弥殺して弥慈あり。秖陀末利は唯酒、唯戒なり。和須蜜多は婬にして而も梵行あり、提婆達多は邪見にして即ち正なり。若し諸悪の中、一向是れ悪にして道を修することを得ずんば、此の如きの諸人永く凡夫と作らん、悪の中に道あるを以ての故に、衆蔽を行ずと雖も、而も聖と成ることを得。故に知んぬ、悪も道を妨げざることを。又道も悪を妨げず、須陀洹の人の婬欲転た盛なる、畢陵の尚ほ慢なる、身子の瞋を生ずるも、其無漏に於て何の損益かあらん。譬へば虚空の中、明暗相除かざるか如し、仏菩提を顕出するは即ち此意なり。若し人、性として貪欲多く、穢濁熾盛にして、対治折伏すと雖も、弥更に増劇せば、但趣向を恣にせよ、何を以ての故に、蔽若し起らざれば、観を修することを得ざればなり。譬へば綸釣するに、魚強く繩弱ければ、争ひ牽くべからず。但鉤餌をして口に入れしめ、其遠近に随つて縦に浮沈するに任せば、久しからずして収獲するが如し。蔽に於て観を修することも亦復是の如し、蔽は即ち悪魚、観は即ち鉤餌なり。若し、魚無くんば鉤餌も用無からん、但魚あること多大ならしむれば唯佳なり。皆鉤餌を以て之に随つて捨てずんば、此蔽久しからずして乗御に堪任す。云何が観を為す、若し貪欲起らば、諦かに貪欲を観ずるに四種の相あり、未貪欲、欲貪欲、正貪欲、貪欲已なり。当に未貪欲滅して欲貪欲生ずべしとせんや、当に未貪欲滅せずして欲貪欲生ずべしとせんや。亦滅亦不滅にして欲貪欲生ずるや、非滅非不滅にして欲貪欲生ずるや。若し未滅にして欲生ぜば即とせんや離とせんや、滅に即して生ぜば生滅相違す、若し離して生ぜば生則ち因無からん。未だ貪滅せずして欲生ずとせば即とせんや離とせんや、若し即ならば即ち二生相並び、生則ち窮り無けん、若し離せば生も亦因なかるべし。若し亦滅亦不滅にして欲生ずれば、若し滅より生ぜば亦不滅を用ひず、若し不滅より生ぜば亦滅を須ひず、不定の因、那ぞ定果を生ぜん。若し其れ体一ならば其性相違す、若し其れ体異ならば本より相開はらず。若し非滅非不滅にして欲貪欲生ずれば雙非の虐有とせんや無とせんや、若し雙非是れ有ならば何ぞ雙非と謂はん、若し雙非是れ無ならば、無那ぞ能く生ぜん。是の如く四句を以てするに欲貪欲の生ずるを見ず。還つて四句を転ずるに、未貪欲滅、欲貪欲生、不生、亦生亦不生、非生非不生を見ず、亦上に説くが如し。貪欲の蔽を観ずるに畢竟空寂にして、雙照分明なり。皆上に説くが如し、是を鉤餌と名く。若し蔽、恒に起らば此観恒に照す、亦起るを見ず、亦照すを見ず而も、起り而も照す(其一)。又、此蔽を観ずるに何の塵に因りてか起る、色なりや、余なりや。何の作に因りてか起る、行なりや、余なりや。若し色に因らば、未見、欲見、見、見已とせんや。若し行に因らば、未行、欲行、行、行已なりとせんや。何なる事の為にか起る、毀戒の為なりや、眷属の為なりや、虚誑の為なりや、嫉妬の為なりや、仁譲の為なりや、善禅の為なりや、涅槃の為なりや、四徳の為なりや、六度の為なりや、三三昧の為なりや、恒沙の怫法の為なりや(其二)。是の如く観ずる時は、塵に於て受者なく、縁に於て作者無し。而も塵、受、根、縁に於て雙べ照すこと分明なり、幻化と空と及び法性と相妨礙せず。所以は何ん、若し蔽、法性を礙ふれば法性感に破懐すべし。若し法性、蔽を礙ふれば蔽感に起ることを得ざるべし。当に知るべし、蔽即ち法性なれば。蔽起るは即ち法性の起るなり、蔽息むは即ち法性の息むなり。「無行経」に云はく、「貪欲は即ち是れ道、恚癡も亦是の如し。是の如き三法の中に一切の仏法を具す。若し人、貪欲を離れて而も更に菩提を求むは、譬へば、天と地との如し。貪欲即ち菩提なり」と。「浄名」に云はく、「非道を行じて仏道に通達す」と。一切衆生は即ち菩提の相なり、復得ベからず。即ち涅槃の相なり、復滅すべからず。増上慢の為に婬怒癡を離るるを名けて解脱と為すと説くのみ。増上慢なき者には、婬怒癡の性即ち是れ解脱なりと説く、一切の塵労是れ如来の種なり。山海色味、二なく別なし、即ち諸悪を観ずるに不可思議の理なり(其三)。常に観慧を修して蔽の理と相応すること、譬へば形と影の如し、是を観行位と名く。能く一切の悪法と世間の産業に於て、皆実 相と相違背せざるは、是れ相似の位なり。進んで銅輪に入りて蔽の根本を破す、本とは無明を謂ふ。本傾けば枝折れ、仏性を顕出す。是れ分証真実の位なり。乃至、諸仏は蔽の源底を尽すを究竟位と名く。貪蔽の中に於て、豎に六即を具し、横に諸度を具す。一切の法は例して上の如し云云。
[10]次に瞋蔽を観ず、若し人、瞋多く、鬱鬱勃勃として相続して恒に起り、断ずれども断ずることを得ず、伏すれども亦伏せざらんには当に其起るを恣任にして、照すに止観を以てすべし。四種の相を観ずるに、瞋は何に従つてか生ずる、若し其生を得ずんば亦其滅を得ず。十二事に歴るに瞋誰に従つてか生ずる、誰か是れ瞋なる者ぞ、所瞋の者は誰ぞや。是の如く観ずる時は瞋の処を得ず、来去、足跡、相貌空寂なり。瞋の十法界を観じ、瞋の四徳を観ずること上に説くが如し云云。是を瞋なる非道に於て仏道に通達すと為す。犯戒、懈乱、邪癡等の蔽、及び余の一切の悪事を観ずるも亦是の如し云云。
[11]四に非善非悪を観ず、即ち是れ無記鼟冒の法なり。此を観ずることを須ふる所以は、人の根性、性として善を作さず、復悪を作さざるあり。則ち随自意出世の因縁無し、なんぞ此人を何んせん。「大論」に云はく、「無記の中に般若波羅蜜あり」と。即ち観を修することを得るなり。此無記を観ずるに、善悪と異なりや同なりや。同ならば則ち無記に非ず、異ならば記滅して無記生ずとせんや、記、滅せずして無記生ずるや、記、亦滅亦不滅にして無記生ずるや、記、非滅非不滅忙して無記生ずるや。記を求むるに得べからず、何に況や無記と記との同異をや。同に非ざるが故に合ならず、異に非ざるが故に散ならず、合に非ざるが故に生ぜず、散に非ざるが故に滅せず。又十二事の中に歴るも、何の処よりか無記を生ずとせん、誰が為の故に無記を生ずる、誰が是れ無記なる者ぞ。此の如く観ずる時は虚空の相に同じ。又無記の一法より十法界及び一切法を生ず、又無記即ち法性なり。法性の常に寂たるは即ち止の義、寂にして而も常に照なるは即ち観の義なり。無記の非道に於て仏道に通達す、無記を法界と為す、横に諸法を摂し、豎に六位を摂し、高広具足す。例して上に説くが如し云云。
[12]復次に、但最後の善に約して随自意を明すは、此は是れ次第の意なり。若し善悪倶に随自意を明すは、即ち是れ頓の意なり。若し襵牒の善に約して随自意を明すは、此れ即ち不定の意なり云云。
[13]復次に四種三昧の方法は各異にして、理観は則ち同じ。但三行の方法は多く助道の法門を発し、又障道を動かす。随自意は既に方法少く。此事を発すること少し。若し但、方法、所発、助道を解するのみならば事相に通達すること能はず、若し理観すれば、事として通ぜずといふこと無し。又理観の意を得ざれば事相助道も亦成ぜず、理観の意を得れば事相の三昧任運に自ら成ず。若し事相の行道は、道場に入りて用心することを得、出づるときは則ち能はず。随自意は即ち無間なり。方法は三に局り、理観は四に通ず云云。
[14]問ふ、上の三三昧には皆勧修あり、此は何ぞ独り無きや。答ふ、六蔽の非道即ち解脱の道なるは、鈍根にして、障重き者は聞き已りて沈沒す。若し更に勧修せば、旨を失すること逾甚だしからん。淮河の北に大乗空を行ずる人あり、禁無くして蛇を捉ふる者なり、今当に之を説くべし。其先師、善法に於て観を作すに、経ること久しうして徹せず、心を放ちて悪法に向つて観を作すに少の定心を獲、薄く空觧を生ぜり。根縁を識らず、仏意に達せず、純ら此法を以て一向に他に教ふ。他に教ふること既に久しくして、或は一り両りの益を得る者に逢ふ。虫の木を食みて偶字を成すことを得るが如し。便ち以て証と為し、是事、実なりと謂つて余は妄語と為す。持戒修善の者を笑ひ、謂つて道に非ずと言ひ、純ら諸人に教へて遍く衆悪を造らしむ。盲ひて眼無き者は是非を別たず、神根又鈍にして煩悩復重し、其所説を聞きて、其欲情に順ずれば皆信伏随従す。禁戒を放捨し、非として造らざること無く、罪積んで山岳のごとし。遂に百姓をして之を忽せにすること草の如くならしめ、国王大臣は因りて仏法を滅す。毒気深く入りて今に至るも未だ改めず。「史記」に云はく、「周の末に髪を被り身を袒ぎて礼度に依らざるものあり、遂に大戒、国を侵して絶えざること綖の如く、周姫漸く尽く」と。又「阮籍逸才にして蓬頭散帯なり、後公卿の子孫皆これに学ぶ。奴狗相辱かしむる者は方に自然に達すとし、節に撙ひて競持する者を呼びて田舎と為す」と。是れ司馬氏の滅する相と為す。字文邕が毀廃することも元嵩が魔業に由る。此れ乃ち仏法滅するの妖怪、亦是れ時代の妖怪なり。何ぞ随自意の意に関わらん。何を以ての故に、此の如きの愚人は心に慧解無くして其本師を信ず。又前達を慕つて決めて是れ道なりと謂ひ、又情に順ずるを易と為し、心を恣にして楽を取りて而も迷を改めず。譬へば、西施、本心病あり、多く喜んで噸呻するに、百の媚皆転じて更に益美麗なり。隣女、本醜にして其嚬呻を学ぶに、惜むべきこと弥劇し。貧しき者は遠く徙り、富める者は門を杜ぐ。穴なる者は深く潜み、飛ぶ者は高く逝くが如し。彼諸人等も亦復これに似たり。狂狗は雷を逐うて地獄の業を造る、悲い哉傷むべし。既に欲楽を嗜みて、自ら止むること能はず、猶蒼蝿の唾の為に黏せらるるが如し。浪行の過、其事略して爾り。其師の過、根性に達せず、仏意を解せず。仏、貪欲即是道と説きたまへるは、仏、機宣を見はして、一種の衆生、底下薄福にして、決めて善の中に於て道を修すること能はず、若し、其罪に任せば、流転已むこと無きを知ろしめして、貪欲に於て止観を修習せしむ。極めて止むことを得ざるが故に此説を作したまふ。瞽へば、父母、子の病を得るを見て余薬に宣しからざるは、黄竜湯を須ひ、歯を鑿って之を瀉ぐに、服し已りて病愈ゆるが如し。仏も亦是の如し、説けば其機に当る。快馬は鞭の影を見て即ち正路に到く、貪欲即是道といふ仏意は此の如し。若し衆生ありて悪に於て止観を修するに宣しからざる者は、仏、諸善を説きて、之を名けて道と為す。仏、二説を具したまふ、汝今云何ぞ善を呵して悪に就かん。若し其れ然らば、汝則ち仏に勝る、公に仏前に於て灼然として遂反す。復次に時節起り難く、王事に拘はられて善を修することを得ずんば、悪の中に於て止観を習はしむ。汝今難たく拘はること無し、何の意ぞ純ら乳薬を用ひて他の慧命を毒するや。故に「阿含」の中に、放牛の人善く好済を知り、牛群をして安穏ならしむ。若し好済に難ありて急に已むことを獲ざれば、当に悪済に従ふべし。悪済は難多くして百に一をも全うせず。汝今事無し、幸にして好済に於て善道に牛を駆れ、何すれぞ悪道に自他沈没することを得ん。仏法を破壊し威光を損失し、誤つて衆生を累するは大悪智識なり、仏意を得ざる其過是の如し。復次に夷険の両路皆能く通ずることあり、難の為に険に従ふ、善悪倶に通ず。機を審かにして蔽に入る。汝善を棄て悪を専らにして、能く非道に通達せば、何ぞ水火を蹈躡し山壁を穿ち逾えざる。世間の険路すら尚通ずること能はず、何に況んや悪を行じて而も正道に会すること、豈得べけんや。又根縁を知ること能はず、直に是れ一人即時に善を楽ひ、即時に悪を楽ひて、好楽定まらず。何に況んや無量の人をや。而も純ら貪欲を以て他を化せんや。「浄名」に云はく、「我念ず、声聞は人根を観ぜず、応に法を説くべからず」と。二乗すら観ぜざれば、尚自ら機に差ふ、況んや汝盲瞋にして目無く、心を師とする者をや。自ら是れ経に違し機理に当らず、何ぞ其れ愚惑にして頓に此に至れる。若し人ありて機宣を識らずして、此を行説するを見なば、則ち戒海の死屍なり、宣く律に依りて擯治すべし。毒樹をして長者の宅に生ぜしむることなかれ云云。
[15]復次に其悪行を検するに、事即ち偏邪なり。汝、貪欲即是道と謂つて一切の女を陵し、而も瞋恚即是道といつて一切の男を害すること能はず。唯細滑の触を愛して是れ道とし、打拍苦渋の触を畏れては則ち道あること無し。一を行じて一を行ぜず、一は道ありて一は道無し、癡闇なること漆の如く、偏に汚損を行ず。譬へば死屍の好華園を穢すが如し云云。其偏行を難ずること前の如し、或は水火刀杖をもって之に向へば、其れ即ち黙然たり。或は答へて云はく、「而して汝見ずや、我常に能く入る」と。此れ乃ち心に違ふ、慚愧無きの語なり、亦六即の意を得ず。此を説くことを須ふる所以は、上の三行の法は勤策する事難ければ、宣しく須く勧修すべし。随自意は光を和げて悪に入る、一往は即ち易ければ、宣しく須く誡め忌むべし。大黄湯を服するには、応に白湯を備へて之を補止すべきが如し云云。
[16]問ふ、中道正観は以て其心を一らにし、行用即ち足る、何ぞ紛紜たる四種の三昧をもって、諸の善悪に歴て十二事を経ることを須ひん。水濁りて珠昏く、風多くして浪鼓く、何ぞ澄静に益あらんや。答ふ、譬へば貧窮の人の少を得て便ち足れりと為し、更に好き者を願はざるが如し。若し一種をもつて心を観ずるに、心若し種種ならば当に之をなんぞ何んがすべき。此れ則ち自行に失を為す。若し用ひて他を化せば、他の根性舛亙にして同じからず。一人の煩悩已に自ら無量なり、何に況んや多人をや。譬へば薬師の一切の薬を集めて一切の病に擬するも、一種の病人には一種の薬を須ひて一種の病を治す、而も薬師の薬多きことを怪しむが如し。汝が問是に似たり。煩悩の心病は無量無辺なり。一人の為にするが如く。衆多も亦然り。云何が一人のみならん。若し人、四種三昧を聞かんと欲して、之を聞きて歓喜するには、須く遍く為に説くべし、是を世界と為す。四種を聞くを以て次第に修行して能く善法を生ずるには、即ち具に四を説くべし、是れ各各為人なり。或は常坐の中にして其諸悪を治するに宣しく、乃至随自意の中にして其諸悪を治するは、是を対治と名く。是人具に四法を須ひて豁然として悟ることを得るは、是れ第一義なり。ただ一人の為にすら尚四説を須ふ、云何ぞ用ひざらんや。若し多人の為にせば、一人は常坐を楽ひて三は欲する所に非ず、一人は常行を欲して三は楽ふ所に非ず。遍く衆人の欲に赴く、即ち世界悉檀なり。余の三悉檀も亦是の如し。又一種の三昧に約するも亦四悉檀の意を具す、若し行を楽はば即ち行じ、坐を楽はば即ち坐す。行の時若し善根開発して諸の法門に入らば、是時応に行ずべし。若坐する時心地清涼にして喜悦安快ならば、是時応に坐すべし。若し坐する時沈昏ならば則ち抖擻して応に行ずべし。行の時散動疲困せば、是れ則ち応に坐すべし。若し行の時、况焉虚寂ならば是れ則ち応に行ずべし、若し坐の時湛然として明利ならば是時応に坐すべし。余の三も例して爾り云云。
[17]問ふ、善は理を扶くれば止観を修すべし。悪は理に乖く、云何ぞ止観を修せん。答ふ、「大論」に根遮を明すに四あり、一には根利にして遮無く、二には根利にして遮あり、三には根鈍にして遮無く、四には根鈍にして遮あり。初の句は上品にして、仏世の時の身子等、是れ其人なり。行人、善法の中に於て止観を修せば、善法を勤修するを以て未来に遮無し。常に止観を習つて其をして根利ならしむ。若し過去に此二義を具するは、今生に薄く修して則ち相応することを得、観行の位より相似真実に入る。今生に入ることを得ざる者は昔二義無し、今善に約して修し、未来に疾く入らしむ。次の句は得道根利にして、而も罪積み障重し、仏世の時の闍王央掘は其人なることを示す。逆罪遮重、応に地獄に入るべし。仏を見たてまつり法を聞き、豁爾として聖と成る。根利なるを以ての故に、遮も障ふること能はず。今時の行人の悪法の中に於て止観を修する者は則ち此意なり。悪を起すを以ての故に未来に遮あり、止観を修するが故に後世には根利なり。若し知識に遇はば鞭つて正道に入る、云何ぞ而も悪法は理に乖くと言って、肯て止観を修せざらんや。次に根鈍にして遮無しとは、仏世の時の周利槃特是れ其人なることを示す。三業過なしと雖も根性極めて鈍にして、九十日にして鳩摩羅の偈を誦す。智者は身口意に諸悪を造らず、繋念常に現前して諸欲に楽著せず、亦、世間無益の苦行を受けず。今時、戒を持ち善を行ずと雖も止観を学ばざるは、未来に遮無くして而も道を悟ること甚だ難からん。後の句は則ち一切の行悪の人なり、又止観を修せざる者是れなり。止観を修せざるか故に道を得ず、根鈍にして千遍為に説くとも兀然として解せず。多く罪悪を造りて遮障万端なり、癩人の身痺れて針刺して骨に徹すれども知らず覚らざるが如し、但、諸悪を以て而も自ら纒裹す。是義を以ての故に善は理を扶くと雖も、道は止観に由る。悪は理に乖くと雖も根利なれば遮を破す。唯道のみ是れ尊し、豈悪の為に止観を廃すべけんや。「大経」に云はく、「戒に於て緩なる者は名けて緩と為さず、乗に於て緩なる者は乃ち名けて緩と為す」と。応に具に緩急の四句を明め、上の根遮の義に合すべきなり云云。又、経に云はく、「寧ろ提婆達多と作るも鬱頭藍弗と作らざれ」とは即ち其義なり云云。応に勤め聴きて思修し、初より休息すること無かるべし。醉へる婆羅門の頭を剃り、戯女の袈裟を被るが如し云云。
[18]第三に菩薩の清浄大果報を明さんが為の故に、是止観を説くとは、若し行、中道に違すれば、即ち二辺の果報有り。若し行、中道に順ずれば、即ち勝妙の果報あり。設ひ未だ分段を出でざるも、獲る所の華報、亦七種の方便に異なる。況んや真の果報をや。香城七重、橋津絵の如しと、即ち其相なり。此義は後の第八重の中に在りて、当に広く分別すべし。問ふ、「次第禅門」に明す修証と、此果報と、云何が同異あるや。答ふ、修は習行に名け、証は発得に名く。又、修は習囚に名け、証は習果に名く。皆、即生に獲べし。今果報を論ずるは、隔てて来世にあり、此を以て異なりと為す。二乗は但習果のみありて報果あること無し、大乗は具に有り云云。
[19]第四に通じて大綱の諸の経論を裂かんが為の教に是止観を説くとは、若し人あつて善く止観を用ひて心を観ずれば、則ち内慧明了にして、漸頓の諸教に通達すること、微塵を破して、大千の経巻を出すが如し、恒沙の仏法も一心の中に曉む。若し、外、衆生を益し、機に逗じて教を説けんと欲せば、人の堪任するに随ひ、彼に称へて而して説くべし。乃至、成仏して物を化するの時、或は法王となつて頓漸の法を説き、或は菩薩となり、或は声聞、天、魔、人、鬼、十法界の像となりて対揚発起す。或は仏のために問はれて、広く頓漸を答へ、或は機を扣ひて仏に問ひ、仏、頓漸の法輪を答へたまふ。此義は第九重に至って當に広く説くべし、摂法の中、亦略して示すのみ。
[20]第五に大処諸法畢竟空に帰するが故に是止観を説くとは、それ膠手は著き易く、寱夢は醒め難し。文に封ぜられて意を斉り、自ら謂つて是なりと為す。競うて瓦礫を執つて瑠璃珠と謂ふ。近事顕語、猶尚識らず、況んや遠理密教、寧ろ惑はざるべけんや。此意の為の故に須く旨帰を論ずべし。旨帰とは、文旨の帰する所なり。水流の海に趣き、火炎の空に向ふが如し。密を識り、遠きに達し、稽滞する所無し。譬へば、智臣は王の密語を解するが如く、所説あるを聞きて、皆悉く了知して一切智地に到る。此意を得る者は即ち旨帰を解す。旨とは自ら三徳に向ふなり。帰とは他を引きて同じく三徳に入るなり。故に旨帰と名く。又、自ら三徳に入るを帰と名け、他をして三徳に入らしむるを旨と名く、故に旨帰と名くるなり。
[21]今、更に総別に旨帰を明さば、諸仏は一大事因縁の為に世に出現し、種種の像を示して咸く衆生をして同じく法身を見せしめ、法身を見已つて仏及び衆生倶に法身に帰す。又、仏、種々の法を説きて咸く衆生をして如来の一切種智を究竟せしめ、種智を具し已つて仏及び衆生倶に般若に帰す。又、仏、種種の方便、神通変化を現じて、諸縛を解脱せしむ。一人をして独り滅度を得しむるのみならず、皆、如来の滅度を以て而も之を滅度す。既に滅度し已つて仏及び衆生倶に解脱に帰す、「大経」に云はく、「諸子を秘密蔵の中に安置す、我も亦久しからずして自ら其中に住せん」と。是を総相の旨帰と名く。
[22]別相とは、身に三種あり、 一には色身、二には法門身、三には実相身なり。若し息化に帰を論ずれば、色身は解脱に帰し、法門身は般若に帰し、実相身は法身に帰す。般若を説くには三種あり、一に道種智を説き、二には一切智を説き、三には一切種智を説く。若し息化に帰を論ぜば道種智は解脱に帰し、一切智は般若に帰し、一切種智は法身に帰す。解脱に三種あり、一には無知の縛を解く、二には取相の縛を解く、三には無明の縛を解く。若し息化に真に帰すれば、無知の縛を解きて解脱に帰し、取相の縛を解きて般若に帰し、無明の縛を解きて法身に帰す。是義を以ての故に、別相の旨帰も亦三徳祕密蔵の中に帰す。
[23]復次に 三徳は三に非ず一に非ず、思議すべからず。所以は何ん。若し法身を直法身と謂はば、法身に非ざるなり。当に知るべし、法身も亦、身、非身。非身非非身なり。首楞厳に住して種種に示現し、衆の色像を作る、故に名けて身となす、所作弁じ己れば解脱に帰す。智慧諸の色は色に非ずと照了す、故に非身と名く、所作弁じ己れば般若に帰す。実相の身は色像の身に非ず、法門の身に非ず、是故に、非身非非身なり、所作弁じ巳れぱ法身に帰す。此三身は一異の相無しと達する、是を名けて帰と為す。此三身は一異の相無しと説く、是を名けて旨と為す。倶に秘蔵に入る、故に旨帰と名くるなり。若し般若を直般若と謂はば般若に非ざるなり。当に知るべし般若も亦、知、非知、非知非非知なり。道種智の般若は遍く俗を知る、故に名けて知となす、所作弁じ已れば解脱に帰す。一切智の般若は遍く真を知る、故に非知と名く、所作弁じ已れば般若に帰す。一切種智の般若は遍く中を知る、故に非知非非知と名く、所作弁じ已れば法身に帰す。三の般若、一異の相無しと達するは、是を名けて帰と為す。三の般若に一異の相無しと説くは、是を名けて旨と為す。倶に秘蔵に入る、故に旨帰と名く。若し解脱を直解脱と謂はば解脱に非ざるなり。当に知るべし解脱も亦、脱、非脱、非脱非非脱なり。方便浄の解脱は衆生を調伏して為に染せられず、故に名けて脱と為す。所作弁じ已れば解脱に帰す。円浄の解脱は衆生及び解脱の相を見ず、故に非脱と名く、所作弁じ已れば般若に帰す。性浄の解脱は則ち非脱非非脱なり。所作弁じ己れば法身に帰す。此如きの三脱、一異の相に非ずと若は達し若は説くは、倶に秘蔵に入る、故に旨帰と名くるなり。
[24]復次に三徳は、新に非ず故に非ず、而も新、而も故なり。所以は何ん。三障は三徳を障ふ。無明は法身を障へ、取相は般若を障へ、無知は觧脱を障ふ。三障は先より有り、之を名けて故と為す。三徳は三障を破して、今始めて顕るることを得。故に名けて新と為す。三障は即ち三徳、三徳は即ち三障なり。三障は即ち三徳なれば、三障は故に非ず。三徳は即ち三障なれば、三徳は新に非ず。新に非ずして而も新なれば則ち発心所得の三徳、乃至究竟所得の三徳あり。故に非ずして而も故なれば則ち発心所治の三障、乃至究竟所治の三障あり。新は新に非ず、故は故に非ざれば、則ち理性の三徳あり。若し総じて三徳は新に非ず故に非ず、而も新、而も故、一異の相無しと達し、他の為にすることも亦然れば、則ち是れ秘密蔵中に旨帰す。
[25]又説かば、無明は先よりあり、名けて故と為す。法身は是れ明にして無明を破するを名けて新と為す。無明即ち明、明即ち無明なり。無明即ち明なれば、無明は故に非ず。明即ち無明なれば、明即ち新に非ず、取相は先より有り、之を名けて故となす。無相は相を破す、無相を新と名く、相即ち無相、無相即ち相なり、何れが新、いずれが故ならん。無知は先より有り、之を名けて故となす、知は無知を破す、知を名けて新と為す、無知は即ち知、知は即ち無知なり、何が新、何が故ならん。
[26]若し、総別、新故に一異の相無しと達し、若は他の為に説くも、亦復是の如くす。是を旨帰、秘密蔵に入ると名く。縦横、開合、始終等例して皆是の如し。
[27]復次に、旨帰も亦復是の如し。謂く旨、非旨、非旨非非旨、帰、非帰、非帰非非帰なり。一一に悉く須く秘密蔵の中に入るべし。上に例して解すべし、旨は自行の故に、非旨は化他の故に、非旨非非旨は自他無きが故なり。旨帰三徳の寂静なること此の若し、何の名字ありてか、而も説示すべけん。知らず、何を以てか之を名けん。強ひて、中道、実相、法身、非止非観等と名け、亦復強ひて、一切種智、平等大慧、般若波羅蜜、観等と名け、亦復強ひて、首楞厳定、大般涅槃、不可思議解脱、止等と名く。当に知るべし、種種の相、種種の説、種種の神力、一一皆秘密蔵の中に入る。何等をか是れ旨帰なるものぞ、旨帰、何の処ぞ、誰か是れ旨帰する。言語の道断え、心行の処滅し、永く寂なること空の如き、是を旨帰と名く。第十重の中に至つて当に広く説くべし。