[1]円の五行とは、大経に云はく、「復た一行あり、是れ如来の行なり。所謂る大乗大般涅槃なり」と。此の大乗は是れ円因、涅槃は是れ円果なり。此を挙げて如来の行を標す。余の六度、通、別等の行に非ず。前には大乗と名くと雖も、円かに運ぶこと能はず。前には涅槃と名くと雖も、荼を過ぎて説くべし。乃ち是れ菩薩の行なり、名けて如来の一行と為すことを得ず。若し円行は円かに十法界を具すれば、一運一切運なり。乃ち大乗と名く。即ち是れ仏乗に乗ず、故に如来の行と名く。大論に云ふが如し、「初発心より常に涅槃を観じて道を行ず」と。亦た大品に云ふが如し、「初発心より行じ、生じ、修し、乃至道場に坐し、亦た行じ、生じ、修す。畢竟と発心の二別ならず」と。皆な如来の行の意なり。此の経に安楽行を明すは、安楽を涅槃と名く。即ち是れ円果、行は即ち円因なり。涅槃と義同じ、故に如来の行と称す。入室、著衣、坐座悉く如来と称するは、此れ人に就て語と為す。涅槃は法に就て語を為す。人に即して法を論ずれば、如来即ち涅槃なり。法に即して人を論ずれば、涅槃即ち如来なり。二経の義同じ。涅槃には一行の名を列ねて、而も広く次第の五行を解す。法華には安楽行を標じて、広く円の意を解す。

 [2]今、法華に依つて円の五行を釈せば、五行一心の中に在りて具足して欠くること無きを如来行と名く。文に云はく、「如来、荘厳をもつて而も自ら荘厳す」とは即ち円の聖行なり。「如来の室」とは即ち円の梵行なり。「如来の座」とは即ち円の天行なり。如来の衣に二種あり、柔和は即ち円の嬰児行なり、忍辱は即ち円の病行なり。此の五種の行は、即ち一実相の行なり。一は五と作らず、五は一と作らず。共に非ず、離に非ず、不可思議なるを一の五行と名く。云何んぞ荘厳を聖行と名くる、文に「仏の浄戒を持つ」と云ふ、仏戒は即ち円の戒なり。又た「深く罪福の相に達し、遍く十方を照す」と云ふ、罪に即し福に即して実相を見るを、乃ち深達と名く。実相の心を以て十悩乱を離るる等は皆な是れ円の戒なり。「仏、自ら大乗に住す、其の所得の法の如きは定慧の力を以て荘厳す」とは、即ち是れ仏の定慧荘厳なり、故に仏の聖行と名く。云何んぞ如来の室を梵行と名くる、無縁の慈悲は能く法界の依止と為る、磁石の普く吸ふて帰趣せざること莫きが如し。又た弘誓、神通、智慧を以て之を引きて是の法の中に住することを得せしむ、故に如来の室を以て梵行と為す。云何んぞ如来の座を天行と為す、第一義天、実相の妙理は、諸仏の師とする所、一切の如来の同じく栖息する所なり。文に云はく、「一切法空を観じて動ぜず、退せず、亦た上・中・下法、有為・無為、実・不実の法を分別せず」と。故に如来の座は、即ち天行なり。云何んぞ如来の衣は嬰児行・病行なる、喧を遮し静を遮す、故に忍辱と名け、双べて二諦を照すを復た柔和と名く。文に云はく、「能く下劣の為に此の事を忍ぶ」と。即ち瓔珞を脱して弊垢の衣を著するは即ち病行に同じ、方便附近は即ち嬰児行に同ず。又た復た十法界の寂滅を観ずるは即ち如来の座なり、天行と名く。九法界の性相を抜くが故に悲を起し、一法界の楽を与ふるが故に慈を起すは即ち是れ梵行なり。柔和にして善の性相を照すは即ち嬰児行に同じ、悪の性相を照すは即ち病行に同ず。又た善の性相を照すは即ち戒、寂照は即ち定慧、即ち是れ聖行なり。当に知るべし、一心に十法界を照すに即ち円の五行を具することを。又た一心の五行は即ち是れ三諦三昧なり、聖行は即ち真諦三昧なり、梵・嬰・病は即ち俗諦三昧なり、天行は即ち中道王三昧なり。又た円の三三昧は円かに二十五有を破す。即空の故に二十五の悪業・見思等を破し、即仮の故に二十五の無知を破し、即中の故に二十五の無明を破す。一に即して而も三、三に即して而も一なれば、一空一切空、一仮一切仮、一中一切中なり。故に如来の行と名く。又た如来の室は冥に法界に熏ず。慈善根の力は真際を動ぜずして光を塵垢に和し、病行の慈悲を以て之に応じて種種の身を示せども聾の如く瘂の如し。種種の法を説けども、狂の如く癡の如し。生善の機あれば、嬰児行の慈悲を以て之に応ず。婆和、木牛、楊葉なり。入空の機あれば、聖行の慈悲を以て之に応ず、糞器を執持して状畏るる所あり。入仮の機あれば、梵行の慈悲を以て之に応ず。慈善根の力是の如きの事を見る。師子の床に踞して宝几足を承く。商估、賈人乃ち他国に遍し、出入息利処としてあらざること無し。入中の機あれば、天行の慈悲を以て之に応ず。快馬の鞭影を見て大直道を行くに、留難無きが如きの故なり。前無く後無く、並ならず別ならず、無分別の法を説く。諸法は本より来た、常に自ら寂滅の相なり。円かに衆機に応ずること、阿修羅の琴の如し。若し漸く引きて円に入るは、前に説く所の如し。若し頓に引きて円に入るは、今説く所の如し。円に入れば等しく証して更に差別無し。別・円の初入の門を顕はさんが為に、慈善根の力、漸頓の人をして此の如きの説を見せしむ、云云。又た円の五行は、即ち是れ四種の十二因縁の智の行なり。不思議の識・名色等清浄なるは即ち戒聖行、行・有等清浄なるは即ち定聖行、無明・愛等清浄なるは即ち慧聖行なり。十二支寂滅し、又た前の三種の十二縁無きは即ち天行、能く前の三種の十二因縁の滅に同ずるは即ち嬰児行、前の十二因縁の生に同ずるは即ち病行なり。又た是れ四種の四諦の智の行なり。無作の道は即ち戒・定・慧の聖行、無作の滅は即ち天行なり。慈悲抜苦四種の苦を抜き四種の楽を与ふるは即ち梵行、直の悲は即ち病行、直の慈は即ち嬰児行なり。又た是れ七種の二諦智の行なり。

 [3]円真の方便は即ち是れ聖行、円真の理は即ち是れ天行、七俗を悲し、七善を慈するは即ち梵行、七俗に同ずるは即ち病行、七真に同ずるは即ち嬰児行なり。又た是れ五種の三諦智の行なり。俗諦の中の善は是れ戒聖行、真諦の中の禅は是れ定聖行、真諦の慧は即ち慧聖行、中諦は是れ天行、五俗の苦を抜き五の真中の楽を与ふるは是れ梵行、五の俗に同ずるは是れ病行、五の真中に同ずるは是れ嬰児行なり。又た是れ一実諦智の行なり。一実諦に道共戒・定・慧あるは即ち聖行、一実境は即ち天行、同体の慈悲合説するは即ち梵行、各説するは即ち病行・嬰児行なり。

 [4]観心の円の五行とは、上来の円行は遠く求むべからず、心に即して而も是れなり。一切諸法の中悉く安楽の性あり。即ち心性を観ずるを名けて上定と為す。心性は即空・即仮・即中なり、五行三諦、一切の仏法は心に即して而も具せり。初心に此の如く如来の行を行ず。応に如来の供養を以て之を供養すべし。方に随つて向ひ礼し、至る処に塔を起す。已に全身の舎利あるが故なり。初心尚ほ爾り、況んや似解をや。況んや入住をや。地持に云はく「自性禅より一切禅を発す。一切禅に三種あり、一には現法楽禅なり、即ち実相空慧、中三昧なり。二には出生一切種性三摩跋提なり、二乗の背捨・除入等、即ち真三昧なり。三には利益衆生禅なり、即ち俗三昧なり」と。当に知るべし、五行・三諦は一切禅の中に於て皆な悉く成就することを。即ち初住の分位なり。此の位に入る時は仏法に非ざること無し。是を円心の行と為す。豈に前の五行次第の意と同じからんや。

 [5]当に知るべし、次第を麁と為し、一行一切行を妙と為すことを。即ち相待の意なり。若し麁を開して妙を顕はさば、麁の待すべき無し、即ち絶待行妙の意なり。

 [6]問ふ、法華に麁を開するに麁をして皆な妙に入る、涅槃は何の意ぞ更に次第の五行を明かさんや。答ふ、法華は仏世の人の為に権を破して実に入る、復た麁あること無く、教意整足す。涅槃は末代の凡夫の見思の病重く一実を定執して方便を誹謗し、甘露を服すと雖も事に即して而も真なること能はず。命を傷ひ早夭するが為の故に、戒・定・慧を扶けて大涅槃を顕はす。法華の意を得る者は、涅槃に於て次第の行を用ひざるなり。

 [7]第四に位妙を明さば、諦理既に融じ智円かにして隔つること無ければ、行を導きて妙を成ず。三義已に顕はるれば体・宗・用足る。更に位妙を明すは、行の所階なればなり。

 [8]但し位に権実ありて経論に布在せり。若し成論、毘曇に位を判ずるは、言は大に渉らず。地、摂等の論に位を判ずるは、別して一途を叙して義兼括せず。方等の諸経に位を明すは、瓔珞、已に浅深を判ず。般若の諸経に位を明すは、仁王、盛んに高下を談ず。而して未だ麁妙を彰はさず。

 [9]今経は位の名彰はれざるも、而も意小大を兼ね、粗権実を判ず。然るに梵文尽く度らず、本経には必ずあらん。今、薬草喩品に但だ六位を明す、文に云はく、転輪聖王、釈梵の諸王は是れ小の薬草なり。無漏の法を知りて能く涅槃を得、独り山林に処して縁覚の証を得るは是れ中の薬草なり。世尊の処を求め、我れ当に作仏すべしと精進定を行ずるは、是れ上の薬草なり。又た諸の仏子、心を仏道に専らにして常に慈悲を行じ、自ら作仏を知り決定して疑ひ無きは、是を小樹と名く。神通に安住して不退輪を転じ、無量億百千の衆生を度する、是を大樹と名く。追つて長行の中の一地の所生、一雨の所潤、及び後の文に「今当に汝が為に最実事を説くべし」と云ふを取りて、以て第六の位と為すなり。前の三義は是れ蔵の中の位、小樹は是れ通の位、大樹は是れ別の位、最実事は是れ円の位なり。

 [10]小草位とは人天乗なり、輪王は是れ人主の位、釈梵は是れ天主の位なり。皆な報果に約して位を明す。果の義既に優劣あり。当に知るべし、修因必ず浅深あることを。人位の因とは即ち是れ五戒を秉持す、略して四品と為す。下品は鉄輪王となつて一天下に王たり、中品は銅輪王となつて二天下に王たり、上品は銀輪王となつて三天下に王たり、上上品は金輪王となつて四天下に王たり。皆な是れ散心に戒を持ち、兼て慈心を以て他を勧めて福を為す。故に報は人主、飛行の皇帝と為る。四方徳に帰し、神宝自然に応ず。

 [11]天乗の位とは、十善道を修して任運に淳熟す。通じて是れ天の因なり。加へて禅定を修し、進んで上界に升る。三界の天の果は高下同じからず、修因必ず深浅異なり。正法念に云はく、「六万の山、須弥を遶ぐる。須弥の四埵に持鬘天ありて十の住処あり。各各千由旬なり。北に四あり、余は各各二なり。南を白摩尼と名け、能く十拍手の頃に三帰依を受く。余心を雑へざる者、此の天に生じて楽を受く。転輪王の十六倍、一に及ばず。諸の楽具悉く山河より流出す。二を峻崖と名く。昔、河済に於て橋船を造立して持戒の人を度し、兼て余人を済ふ。衆悪を作さず、果報知んぬべし。西方の一を果命と名く。昔、饑世に於て浄戒を守持し、身口意を浄む。果樹を種殖して行者をして之を食せしめ、安楽充満せり。二を白功徳と名く。昔、華鬘を以て仏の上及び塔の上に散ず。東方の一を一切喜と名く。昔、華を以て持戒の人に供養し仏に供ふ。自力、財を致して華を買ふ。果報知んぬべし。二を行道と名く。昔、大火起りて衆生を焚焼するを見て、水を以て之を滅す。果報は、云云。北方の四は一を愛欲と名け、二を愛境界と名け、三を意動と名け、四を遊戯林と名く。初は他の親友相ひ破するを見て、諍訟を和合して此の天に生ずることを得。次は昔、説法の会をなす、次は昔、浄信心を以て衆僧を供養し、塔を掃ひ浄く上田を信ず。次は昔、持戒信心を以て僧に衣を施し、一果の直を施して作衣の価と為して愛楽随喜す。

 [12]次に迦留波陀天は、此に象跡と言ふ。亦た十処あり、一を行蓮華と名く。昔、持戒心を熏じ三自帰を受け、南無仏と称す。所有の蜂声尚ほ余の天に勝る。況んや復た余の果報をや。次を勝蜂歓喜と名く。昔、信心に戒を持し、慈悲あつて衆生を利益す。華香伎楽。仏塔を供養す。三を妙声と名く。昔、仏に宝蓋を施す。四を香楽と名く。昔、信心に戒を持し、香を仏塔に塗る。五を風行と名く。昔、信心に戒を持して僧に扇を施して清涼を得。六天の香風悉く来つて之を熏じ、皆な倍倍増す。香風尚ほ爾り、況んや香風を念ずれば念に随つて皆な得るをや。六を散華歓喜と名く。昔、持戒の人を見て説戒の時、澡缾を施す。或は道路の中に浄水を盛り満てて人に澡缾を施す。七を普観と名く。昔、持戒の人に於て善を以て心に熏じ、破戒の人の病に於て恩恵を求めざるに悲心を以て安を施し、心疲厭せずして病人を供養す。八を常歓喜と名く。昔、法を犯す者の死すべきを見て財を以て命を贖ひ、其をして脱を得せしむ。九を香薬と名く。昔、戒を持し三宝を信じて大福田の中に於て末香・塗香を施し、浄心に供養す。法の如く財を得、施し已つて随喜す。十を均頭と名く。昔、人の罪を王に得て鬘髮戮を受くるを見て救ひて脱を得せしむ。

 [13]第三の天を常恣意と名く、十の住処あり。一を歓喜峯と名く。昔、神樹と及び夜叉の所依の樹を救護す。樹あれば即ち楽しみ、樹を失すれば即ち苦しむ。二を優鉢羅色と名く。昔、浄信に戒を持して三宝を供養し、優鉢羅華池を造るが故なり。三を分陀利と名く。昔、此の華池を造るなり。四を彩地と名く。昔、信浄心をもつて、僧の為に袈裟雑色を染治し、法服を染治するが故なり。五を質多羅と名く、此には雑地と翻ず。昔、種種の食を以て持戒・不犯戒等の人に施すが故なり。六を山頂と名く。昔、屋を修造して風寒を遮ぎり、人をして受用せしむるが故なり。七を摩偸と名く、此には美地と翻ず。昔、戒を持し悲心質直にして人を悩まさず。食をもつて道行沙門、婆羅門に施し、或は一日、或は多日、或は息まざるが故なり。八を欲境と名く。昔、戒を持し、若は邪見の人の病に其の所安を施すが故なり。九を清涼と名く。昔、臨終渇病の人を見て石蜜漿、或は冷水を以て病人に施すが故なり。十を常遊戯と名く。昔、坐禅の人の為に房舎を作り、図画して死屍の観を作さしむるが故なり。

 [14]第四を箜篌天と名く。十の住処あり。一を楗陀羅と名く。昔、園林甘蔗・菴羅等の果林を以て僧に施すが故なり。二を応声と名く。昔、邪見の人の為に一偈の法を説きて其をして心浄く、仏を信ぜしむるが故なり。三を喜楽と名く。昔、人に美飲、或は清美水を施し、或は泉井を覆うて虫蟻をして入らしめず、行人之を飲んで苦悩無きが故なり。四を掬水と名く。昔、病苦の臨終に咽喉忽忽として声を出すを見て其に漿水を施し、財物をもつて彼の命を贖ふ。五を白身と名く。昔、仏塔・僧舎を塗飾し治補し、亦た人を教へて治補せしむるが故なり。六を共遊戯と名く。昔、信心に戒を持し、法義に同じ和合し共ずるが故なり。七を楽遊戯と名く。昔、戒を持して衆生を化し、心をして浄信ならしめ、戒・施を歓喜するが故なり。八を共遊と名く。昔、法会に法を聴きて経営を佐助し、深心に随喜するが故なり。九を化生と名く。昔し饑饉の者、没溺の者を見て之を救護す。十を正行と名く。昔、亡破抄掠を見て救ひて脱を得せしめ、嶮処の正道を示す。

 [15]次に日行天は、須弥山を遶り宮殿に住す。外道は説きて日曜及星宿と為す。略して三十六億ありと説く。昔、七戒を持して、増上の果を得せしむ。風輪に持せらる。此の日行等の大天は二大天と与なり、提頭頼吒、毘沙門を謂ふ。四天下に遊び空中に遊戯し、五欲の楽を受けて意の如く自ら娯しむ。日行は須弥山を遶る、随つて何れの方にも在り。山に影現ずることあれば、人、説いて夜と為す。風輪に北方の星を持す、輪転して没せず。外道は辰星の没せざるを見て、其の能く一切世間・風土を持すと謂つて風力の所為なることを知らざるなり。

 [16]不殺戒は四天処に生じ、不殺・不盗は三十三天に生じ、不婬を加へて焰摩天に生じ、不口の四過を加へて兜率天に生ず。又た世間戒を加へ、復た信じて仏の七戒を奉して化楽と他化の両天に生ず。所持の戒転た勝れば、天身の福命転た勝る。又た心の持戒と思心勝る者に随つて、其の福転た勝る。三十三天とは、一を住善法堂天と名く。昔、七戒を持し、堅固にして嫌無し。四果と病人と父母と入滅定との人に施し、慈・悲・喜・捨を以て怖畏に寿命を与へ、善法堂天に生じて釈迦提婆と作る。姓は憍尸迦なり、能天主と名く。九十九那由他の天女あつて眷属となり、心に嫉妬無し。善法堂の広さ五百由旬なり。第三を清浄天・焰摩天と名く。王を牟修楼陀と名く、身の長五百由旬にして百千の帝釈和合すれとも及ばざる所なり。第四は兜率陀なり、此に分別意宮と云ふ。其の王を刪闘率陀と名く。第五は涅摩地なり、此に自在と云ひ、亦は不憍楽と名く。第六を波羅尼蜜と名け、此に他化自在と云ふ。色・無色は復た書せず、小の薬草竟んぬ。

 [17]中の薬草の位とは、即ち二乗なり。此れ習果に就て位を判ず。旧の云はく、成論は探つて大乗を明し、菩薩の義を解すと。此れ則ち然らず。論主自ら云はく、今正しく是れ三蔵の中の実義を明すと。実義とは空是れなり、人師、豈に論主を誣ふべけん耶。此れ則ち空門に二十七賢聖断伏の位を明し。阿毘曇有門に、七賢・七聖断伏の位を明す。委しく両論にあり。

 [18]今、略して有門の中草の位を出す。初に七賢を明し、次に七聖位を明す。七賢とは、一には五停心、二には別想念処、三には総相念処、四には煗法、五には頂法、六には忍法、七には世第一法なり。通じて賢と称するは、隣聖を賢と曰ふ。能く似解を以て見を伏し、似に因つて真を発す、故に隣聖と言ふ。又た天魔外道は愛・見に流転して四諦を識らず、此の七位の人は明かに四諦を識る。大経に云はく、「我れ昔、汝等と与に四真諦を見ず」と云云。四諦を見るとは、愛に属する四諦を識り、見に属する四諦を識れば皆な能く明了なり。若し四諦を解するときは、則ち所見真正にして邪曲あること無し、故に是れ賢人の相なり。

 [19]一に初賢位とは、謂はく五停心を学び観成じて五の障道を破するは、即ち是れ初賢位なり。所以は何ん、若し定邪聚の衆生は、三宝・四諦を識らずして生死に貪染す。若し人、三宝に帰依し、四真諦を解し発心して生死を離れ、涅槃の楽を求めんと欲するに、五種の障道、煩悩散動して四諦を観ずることを妨ぐ。今、五観を修して成就すれば、障破し道明かなり。行解相ひ称ふ、故に初賢と名く。

 [20]二に別相念処の位とは、五障既に除くを以て観慧諦当して、能く四諦を観じて、而も正しく苦諦を以て初門と為し、四念処観を作して四顛倒を破す。若し慧解脱の根性の人は、但だ性の四念処観を修して性執の四倒を破す。若し倶解脱の人は、共の四念処観を修して事理の四倒を破す。若し無疑解脱の根性の人は、性・共・縁の三種の四念処を修して一切の事理、文字等の四顛倒を破す。善巧方便は念処の中に於て四種の精進ありて、四種の定を修す。五の善法を生じ、五種の悪を破す。道用を分別し、安隠にして行ず。能く四諦を観じて別相の四念処の位を成ずるなり。

 [21]三に総相の四念処とは、前に已に別相念の慧をもつて四顛倒を破す。今、深細の観慧、総じて四倒を破するなり。或は境総観総、境別観総、境総観別、或は二陰・三陰・四陰・五陰を総ぶるを皆な総相観と名く。是の中亦た巧方便をもつて能く正勤・如意・七覚・八道を生じ、疾く後の法に入る、故に総相念処の位と名くるなり。

 [22]四に煗法の位とは、別総念処の観を以ての故に能く似解、十六の諦観を発して仏法の気分を得。譬へば火を鑽るに煙の起るが如く、亦た春陽に煖の発するが如し。慧を以て境を鑽るに相似の解を発す、解は即ち煖に喩ふ。又た春夏に華草を積集すれば、自ら煖生ずることあるが如し。四諦の慧を以て衆の善法を集むれば、善法熏積して慧解起ることを得。故に煖と名くるなり。即ち是れ内凡の初位なり。仏弟子にはあり、外道には則ち無し、是を煖法の位と名く。

 [23]五に頂法とは、似解転た増して四如意定を得るに、十六諦観転た更に分明なり。煗の上に在ること、山の頂に登りて四方を観矚するに悉く皆な明了なるが如し、故に頂法と名く。

 [24]六に忍法の位とは、亦た是れ似解増長し、五種の善法増進して根を成ず。四諦の中に於て堪忍楽欲す、故に忍法の位と名く。下・中の二忍を皆な忍位と名く。

 [25]七に世第一法の位とは、即ち是れ上忍の一刹那に、凡夫の所に於て最勝の善根を得るを名けて世間第一法と為す。上の智妙の中に已に略して説き竟んぬ。

 [26]七聖位とは、一には随信行、二には随法行、三には信解、四には見得、五には身証、六には時解脱羅漢、七には不時解脱羅漢なり。通じて聖と名くるは正なり、苦忍明発して凡性を捨てて聖性に入り、真智をもつて理を見る、故に聖人と名く。一に随信行の位とは、是れ鈍根の人の見道に入るの名なり。自の智力に非ずして他に憑つて解を生ず。是の人は方便道に在りて先に信ありと雖も、未だ真を習はざるを以て信にして行と名けず。行は進趣を以て義と為す。苦忍の真明を得てより十五刹那に進趣して真を見る、故に随信行の位と名くるなり。

 [27]二に随法行の位とは、即ち是れ利根の道に入るの名なり。利たる者は自ら智力を以て理を見て結を断ず。方便道に在りて能く自ら観を用ひて四真諦の法を観じ、但だ未だ真を発せざれば、名けて行と為さず。世第一法に因りて苦忍の真明を発して、十五刹那に進趣して真を見る、故に随法行の位と名く。

 [28]三に信解の位を明さば、即ち是れ信行の人の修道に入るを、転じて信解の人と名くるなり。鈍根は信に憑つて進んで真解を発す、故に信解と名く。是の人の証果に三あり、三果を謂ふ、云云。初果を証するは、第十六の道比智相応して、即ち須陀洹を証す。須陀洹は、此に修習無漏と翻ず。成論には、「猶是れ見道」と明す。数人は、果を証すれば即ち修道に入ると明す。此を用ひて修習無漏の義を明すに便なり。若し見道の所断は、略して三結尽を言ひ、広く八十八使尽と説く。七生在つて終に八に至らず、云云。次に二果を証することを明すに即ち二種あり、一には向、二には果なり。向とは、初果の心より後更に十六諦観を修して七菩提行現前す。即ち此の世に無漏をもつて煩悩を断ず。一品の無礙に欲界一品の煩悩を断じ、乃至五品を断ず。皆な是れ向に於てす。亦た勝進須陀洹と名く。此に約して家家を論ずるなり。二に果とは、若し六品を断じ尽して欲界の第六品の解脱を証するは、即ち是れ斯陀含果なり。天竺には薄と云ふ、欲界の煩悩を薄くするなり。次に阿那含を証することを明すに亦た二あり、一には向、二には果なり。向とは、若し欲界の七品、乃至八品を断ずるを皆な名けて向と為し、亦た勝進斯陀含と名く。此に約して一種子を説くなり。果とは、九無礙に欲界を断ず。若し第九の解脱を証するは、即ち阿那含果と名く。天竺には不還と云ふ、欲界に還生せさればなり。復た次に須陀洹に三種あり、一には行中の須陀洹、即ち是れ向なり。二には住果、正しく是れ須陀洹なり。三には勝進須陀洹、亦は家家と名く。即ち是れ斯陀含向なり。斯陀含には但だ二種あり、一には住果、二には勝進なり。勝進は亦た一種子と名く。即ち阿那含向なり。阿那含に亦た二種あり、一には住果、二には勝進なり。勝進那含は五上分結を断ず、色・無色染等を謂ふ、即ち阿羅漢向なり。羅漢には但だ一あり、住果を謂ふなり。復た次に超果とは、凡夫の時、欲界の六品、乃至八品を断じ尽して見道に来入し、苦忍の真明を発す。十五心の中は是れ斯陀含向なり。十六心は即ち斯陀含果を証す。若し凡夫の時、先に欲界九品を断じ尽し、乃至無所有処を尽して後見諦に入る。十五心を阿那含行と名け、第十六心に即ち那含果を証す。此を超越の人、後二果を証すと名く。是の信解は是れ動根性なりと雖も、不同あり。退・護・思・住・進を謂ふ。若し阿那含を証するに各各復た五、及び七種般、八種般あり。五種般とは、中般・生般・行般・不行般・上流般なり。七種とは、中般を開して三種と為す。八種般とは、五は前の如し、更に現般・無色般・不定般あり、云云。

 [29]四に見得の位を明さば、法行の人、転じて修道に入るを名けて見得と為す。是れ利根の人、自ら智勲を以て法を見て理を得、故に見得と名く。是の人は思惟道に在つて、次第に三果を証す。超越の二果は亦た信解の中に分別するが如し。但だ利根なるを以て聞法を藉らず、衆具を仮らずして自ら能く法を見て理を得るを異なりと為す。見得は但だ是れ不動根性なり。若し阿那含果を証するは、亦た五種、七種、八種般の不同あり。

 [30]五に身証の位を明さば、還つて是れ信解・見到の二人思惟道に入り、無漏智を用ひて上下分結を断じ、四禅・四無色定を発す。即ち是れ共念処を用ひて、八背捨・八勝処・十一切処を修し、九次第定に入つて三空・事性の両障先に已に断尽す。又た非想の事障を断じ、縁理の諸の心・心数法を滅して滅尽定に入る。此の定を得るが故に身証阿那含と名くるなり。何となれば、滅定に入れば似涅槃の法を身内に安置して、三界の一切の労務を息め、身に想受の滅を証す、故に身証と名く。若し初の果に約して身証を解せば、但だ先づ凡夫に於て等智を用ひて結を断じ、四禅・四無色定を得るを以つて後に見諦を得、第十六心に那含果を証し即ち共念処を修す。還つて欲界より背捨・勝処・一切処を修し、九次第定に入るは身証なり。是の阿那含に二種あり、一には住果、但だ是れ阿那含なり。二には帯果行向、即ち是れ勝進阿那含なり、亦た是れ羅漢向の摂なり。釈論に云はく、「那含に十一種あり。

 [31]五種は正しく是れ阿那含、六種は阿羅漢向の摂なり」と。此の身証は即ち是れ勝進なり、羅漢向の摂と為す。五種、七種般は皆な上流般あり、八種般は但だ現般・無色般あるなり。毘曇に那含を分別するに一万二千九百六十種あり、云云。

 [32]六に時解脱羅漢を明さば、是れ信行の鈍根なり。時及び衆縁具するを待つて、方に解脱を得、故に時解脱羅漢と名く。羅漢は此に翻無し、名に三義を含む、殺賊・不生・応供なり。位は無学に居す。羅漢に五種あり、随信行より退法・思法・護法・住法・升進法を生ず。尽智と無学等見とを得るなり。若し金剛三昧を用ひて悲想九品の惑に於て尽し、次の一刹那に非想第九の解脱を証して尽智を成ず。次の一刹那に無学等見を得るなり。或は彼の時に退す、故に無生智を得と説かず。此の五種の阿羅漢は是れ信種性なり、根鈍にして因中に道を修するに、必ず衣食・床具・処所・説法、及び人の随順を仮りて善根増進す。一切の時に所欲の如く進むこと能はず。此の五種に各二種あり。滅尽定を得ざるは但だ是れ慧解脱なり、滅尽定を得るは即ち是れ倶解脱なり。若し滅尽定を得ざるは、是の人、因中に偏に性念処を修す。若し滅尽定を得るは、是の人、因中に性・共を修するなり。証果の時、三明・八解一時に倶に得、故に倶解脱と名く。

 [33]七に不時解脱の羅漢とは、即ち是れ法行の利根にして不動法の阿羅漢と名く、此の人は因中に道を修し、能く一切時に所欲に随ひて進んで善業を修し衆具を待たず、故に不時解脱と名く。是の人は煩悩の為に動ぜられず、故に不動と名く。不動は是れ不退の義なり。三智を成就す。尽智・無生智・無学等見を謂ふ。能く重空三昧を用ひて聖善法を撃つ。定を以て定を捨つるが故に能撃と言ふ。是の不動羅漢に亦た二種あり、一に滅尽定を得ざるは但だ慧解脱と名け、二に滅尽定を得るは即ち是れ俱解脱なり。若し仏の三蔵の教門を説くを聞き、縁念処を修して即ち四辯を発するを無疑解脱と名け、是を波羅密の声聞と名く。能く究竟して一切の羅漢の功徳を具足す。沙門那と名く、沙門那とは沙門果なり。

 [34]二に辟支仏の位を明さば、此には縁覚と翻ず。此の人は宿世に福厚く、神根猛利にして能く集諦を観じて以て初門と為す。大論には独覚・因縁覚と称す。若し無仏世に出でて自然に道を悟るは此れ即ち独覚なり、若し仏世に出でて十二因縁の法を聞き此を稟けて道を得る故に因縁覚と名く。独覚の無仏世に生ずるに小あり大あり。若し本と学人に在りて今仏後に生じ、七生既に満じて八生を受けず自然に道を成ずるは、名けて仏と為さず、亦た羅漢に非ず、小辟支迦羅と名く。其の道力を論ずれば、舎利弗等の大羅漢に及ばず。二には大辟支迦羅なり。二百劫の中に功徳を作して身に三十二相の分を得。或は三十一・三十・二十九、乃至一相なり。福力増長し、智慧利なり。総相と別相に於て、能く知り能く入る。久しく定を修習して常に独処を楽ふ、故に大辟支迦羅と名く。若し因縁に就て小大を論ずれば、亦た応に是の如く分別すべし。此の人、根利にして須らく果を制すべからず。能く正使を断じ、又た加へて習を侵す。譬へば身壮なれば、直ちに所在に到つて中に止息せざるが如し。故に果を制せず、是を中草の位と名け竟んぬ。

 [35]上草の位とは、即ち是れ三蔵の菩薩の位なり。此の菩薩は初発菩提心より慈悲・誓願を起し、四諦を観察して道諦を以て初門と為し、六波羅蜜を行ず。初の釈迦より罽那尸棄仏の時に至るを第一阿僧祇劫と名く。常に女人の身を離れ、亦た自ら当作仏・不作仏を知らず。二乗の位に準望するに、五停心・別相・総相念処の位の中に在るべし。慈悲心を以て六度の行を行ず。罽那尸棄仏より然燈仏の時に至るを第二阿僧祇劫と名く。爾の時、自ら作仏を知ると雖も、而も口に説かず。此の位に準望するに、応に煗法の位の中に在るべし。即ち是れ性地順忍初心の位なり。既に証法の信あれば、必ず作仏を知る。而して煗の解を用ひて六度を修行すれども、心未だ分明ならず、故に口に他に向つて説かざるなり。然燈仏より毘婆尸仏の時に至るを第三阿僧祇劫と名く。是の時内心了了にして自ら作仏を知り、口に自ら言を発して畏れ難る所無し。此の位に準ずるに、応に頂法の位の中に在るべし。六度を修行し四諦の解明かにして、山頂は登つて了かに四方を見るが如し。故に口に他に向つて説くなり。若し三僧祇劫を過ぎ三十二相の業を種ゆる者は、此に準ずるに是れ下忍の位なり。此の忍智を用ひて六度を行じ、百の福徳を成じ、百福を用つて一相の因と為す。下忍の位に於て人中仏出世の時、種ゆることを得。若し道場に坐する時、位、中忍・上忍に在り。上忍の一刹那より真に入り、三十四心に結を断じて阿耨三菩提を得れば、則ち名けて仏と為す。爾の前は則ち是れ三蔵の菩薩上草の位なり。

 [36]小樹の位とは、即ち是れ通教なり。三乗の人、同じく、無言説の道を以て煩悩を断じ、第一義諦に入ることを明す。体法の観慧異ならずして但だ智力に強弱の殊なりあり、煩悩の習に尽と不尽とあるを異なりと為す耳。先に三乗共の十地の位を明し、次に名別義通を簡ぶ、云云。一に乾慧地とは、三乗の初を同じく乾慧と名く。即ち是れ体法の五停心・別相・総相の四念処観なり。事相は三蔵に異ならず。此の三階の法門に、陰・入・界は如幻如化なりと体し、総じて見・愛の八倒を破するを身念処と名く。受・心・法も亦た是の如し。是の観の中に住して正勤・如意・根・力・覚・道を修す。未だ煗法相似の理水を得ずと雖も、而も総相の智慧深利なり、故に乾慧の位と称す。二に性地の位とは、乾慧を過ぐることを得。煗を得已つて能く初中後心に増進し、頂法乃至世第一法に入るを皆な性地と名く。性地の中の無生の方便、観慧善巧なること転た前に勝れ、相似無漏の性水を得、故に性地と言ふなり。三に八人地の位とは、即ち是れ三乗の信行・法行の二人、見仮を体して以て真を発し、惑を断じ、無間三昧の中に在りて八忍具足し、智の一分を少く、故に八人位と名くるなり。四に見地の位とは、即ち是れ三乗同じく第一義無生の四諦の理を見、同じく見惑の八十八使を断じ尽す。五に薄地の位とは、愛仮即ち真を体して六品の無礙を発す。欲界の六品を断じて第六の解脱を証し、欲界の煩悩薄きなり。六に離欲地の位とは、即ち是れ三乗の人、愛仮即ち真と体して欲界の五下分結を断じ尽し、欲界の煩悩を離るるなり。七に已辦地の位とは、即ち是れ三乗の人、色・無色の愛即ち真なりと体して真無漏を発し、五上分結、七十二品を断じ尽すなり。三界の事惑を断ずること究竟す、故に已辦地と言ふ。八に辟支仏地の位とは、縁覚と菩薩は真無漏を発し、功徳力大なり、故に能く習気を侵除す。九に菩薩地の位とは、空より仮に入り道観双流す。深く二諦を観じ、進んで習気・色心無知を断じ、法眼・道種智を得て遊戯神通し、仏国土を浄め衆生を成就す。仏の十力・四無所畏を学し習気を断じて将に尽きんとす、此に斉つて小樹の位と名く。十に仏地とは、大功徳力をもつて智慧を資け、一念相応の慧をもつて真諦を観じて究竟し、習も亦た究竟す。劫火の木を焼きて復た炭灰無きが如く、象の河を渡るに辺底に到るが如し。菩薩と仏は名は二乗に異なりと雖も、通じて倶に無生体法を観ず。同じく是れ無学なり、二涅槃を得て共に灰断に帰す。証果の処一なり、故に称して通と為す。

 [37]二に名別義通を簡ぶに、更に二と為す。初に三乗共位の中に就て、菩薩に別に忍の名を立てて而も義通ず。二に別教の名を用ふるに、名は別にして義は通ず。通の義は已に前に説くが如し。

 [38]別に立つとは、別して菩薩の為に伏忍・柔順忍・無生忍の名を立つるなり。乾慧地は三人同じく見惑を伏す、而して菩薩に更に伏忍の名を加ふるは、菩薩は因縁即空と信じて無生の四諦に於て其の心を降伏し、四弘誓願を起す。衆生は虚空の如しと知ると雖も、而も心を発して一切衆生を度す。是の菩薩の衆生を度せんと欲するは、虚空を度せんと欲するが如し。故に金剛般若に云はく、「菩薩は是の如く其の心を降伏す。所謂る無量の衆生を滅度すれども、実には衆生の滅度を得る者無し」と。次に三誓願を以て其の心を降伏すること亦た是の如し。是を菩薩の乾慧地に在りて停心・別相・総相念処観を脩する時、二乗に異なると為す、故に別して伏忍と称す。復た次に三乗の人、同じく善有漏の五陰を発して相似の解を生じ、皆な見惑を伏して第一義に順ず。而して菩薩独り柔順忍の名を受くること、菩薩は但だ結を伏し理に順ずるのみに非ず、又た能く一切衆生の為に心を伏し遍く六度を行ず。一切事の中、福慧皆な究竟せしむ。三蔵の菩薩の中忍の中に於て三僧祇に六度を行じて身命を惜まざるが如く、今の菩薩も亦た是の如し。空無相願を以て諸根を調伏し、衆生の為の故に六度を満足す、故に順忍と名くるなり。復次に三乗の人、同じく真無漏を発す。若は智、若は断、同じく無生と名く。而して菩薩、独り無生法忍の名を受くるは、其の諦理を見て結使を断ずるも、取証の心を生ぜざるを以ての故に、別して無生法忍の名を受くるなり。何となれば、若し取証の心を生ずれば、即ち二乗地に堕し菩薩の第九地に入ることを得ず。復た次に三乗、同じく神通を得。而して二乗は用ひて、衆生を成就し、仏国土を浄むること能はざるが故に遊戯の名を受けず。菩薩は能く爾り、故に別して遊戯神通の名を受くるなり。阿那含は五下分結を断ずと雖も、而も深禅定を捨てて欲界に来生し、和光利物すること能はず、其の塵に同ぜず。菩薩は能く此の如くす、故に別して離欲清浄の名を受く。所以に三乗の人、同じく二諦を観ずるに、用与同じからず。若し二乗は二諦を観ずと雖も、一向に仮を体して空に入り、真を用ひて結を断じ無学の果に至る。菩薩も亦た二諦を観ずれども、始め乾慧より終り見地に至るまで、多く従仮入空を用ひて一切智・慧眼を得、多く真を用ふるなり。薄地より遊戯神通を学して多く従空入仮観を修す。道種智・法眼を得て多く俗を用ふるなり。辟支仏地より二観双照を学して菩薩地に入り、自然に薩婆若海に流入す。是れ則ち無功用の心をもつて種智・仏眼を修し、仏地円明にして一切種智を成ず。仏眼同じく二諦を照すこと究竟す。故に大論に云はく、「声聞法の中には乾慧地と名け、菩薩に於ては即ち是れ伏忍なり。声聞法には性地と名け、菩薩の法の中に於ては柔順忍と名く。声聞法には八人地と名け、菩薩に於ては無生忍の道と名く。声聞法には見地と名け、菩薩法に於ては是れ無生法忍の果なり。声聞は薄地と名け、菩薩法に於ては名けて遊戯五神通と為す。声聞法には離欲地と名け、菩薩法に於ては名けて離欲清浄と為す」と。

 [39]阿羅漢地は、声聞法に於ては即ち是れ仏地なり。何となれば、三蔵の仏は三十四心に真を発し、三界の結を断じ尽す。羅漢と斉し、故に仏地と名く。菩薩法の中に於ては、猶ほ無生忍と名く。故に大品に云はく、「阿羅漢の若は智、若は断、是れ菩薩の無生法忍なり」と。辟支仏地も亦た是の如し。九地は辟支仏を過ぎて菩薩の位に入る。菩薩の位とは九地・十地なり。是れ則ち十地の菩薩なり。当に知るべし、仏の如しと為すことを。此に斉つて習気未だ尽きず。菩薩地を過ぎて則ち仏地に入る。誓を用つて余習を扶け、閻浮提に生じて八相成道す。五相は三蔵の如く殊ならず。唯だ六に成道は、樹下に一念相応の慧と無生四諦の理と相応することを得て、一切の煩悩の習を断じ尽す。大慈悲・十力・四無畏・十八不共法、一切の功徳を具足する、之を名けて仏と為す。七に転法輪は、権智は三蔵生滅の四諦の法輪を開し、実智は摩訶衍無生の四諦の法輪を説き、通じて三乗の人を教ふるなり。八に入涅槃の相は、双樹に無余涅槃に入り、薪尽き火滅して舎利を留めて一切天人の福田と為す。是を通教の共位、別して菩薩の為に此の名位を立つと為すなり。

 [40]二に別名を用ひて名くとは、即ち是れ別教の名を取りて通教の菩薩の位に準望するなり。別の名とは、即ち是れ十信・三十心・十地の名なり。鉄輪の位は通の義に於ては即ち是れ乾慧地・伏忍なり。三十心は即ち性地に望む柔順忍なり。八人地と見地は即ち是れ初歓喜地にして、無生法忍を得るなり。故に大品に云はく、「須陀洹の若は智、若は断、皆な是れ菩薩の無生忍なり」と。薄地に向・果あり、向は即ち是れ離垢地、果は即ち是れ明地なり。故に大品に云はく、「斯陀含の智断は是れ菩薩の無生法忍なり」と。離欲地に向・果あり、向は即ち焰地、果は即ち難勝地なり。故に大品に云はく、「阿那含の智断は是れ菩薩の無生法忍なり」と。已辦地に向・果あり、向は是れ現前地、果は是れ遠行地なり。大品に云はく、「阿羅漢の智断は是れ菩薩の無生法忍なり」と。辟支仏地は即ち是れ第八の不動地にして習気を侵す。大品に云はく、「辟支仏の智断は是れ菩薩の無生法忍なり」と。菩薩地は即ち是れ善慧地なり。十地は当に知るべし、仏地の如し。仏地は前に説けるが如し。此の仏と三蔵の仏とは、亦は同、亦は異なり。同じく八十年。同じく真の灰断に入る。異とは、三蔵は因は伏し果は断ず。通仏は因果倶に断ず。三蔵は一日三時に機を照し、通仏は俗に即して而も真なれば、照すに入ることを須ひず。是れ即ち別の名を用ひて位を辨ず。名は異に義は同じ。猶ほ通教の位に属するなり。

 [41]問ふ、初地より七地に至るまで果に対するは何れの経論に出づるや。答ふ、経論に対当せざるに非ず。但だ高下不同なれば、人師の之に対すること異なり。或は見地を用ひて止だ初地に対す、今用ふる所の如し。或は向の初、三地を取りて併せて初地に対す。仁王に四地を明し、併せて初地に対す。此れ定判し難し。但だ通教の見地は本と是れ無間の道なれば、出観せずして須陀洹を証す。豈に初地に見を断じ、乃至三地、或は四地と云ふことを得んや。若し別惑を断ずるは二乗に共ぜず、此の義之れあり。又た或は六地に結を断じて羅漢に斉しと言ひ、或は七地と云ふ、此れ定執し難し。前後の両果、経論に対すること皆な定まらず。中間は意を以て得べし。今、義を以て推すに定執すべからず。問ふ、七地・八地より常住を観じて無明を破すとは、是れ何れの地位なるや。答ふ、此れ則ち通に非ず、亦復た別に非ず。何となれば、通教は始終に常を観ずることを明さず。何ぞ中間にして而も無明を破することを得ん。別教は初心に即ち常住を知り、初地に已に能く無明を破す。云何んぞ八地に始めて無明を破せん。此れ乃ち別接通の意のみ。問ふ、大論は三処に初焰を明す、別・円に約すれば、皆な発真を取つて初焰と為す。通教は何の意ぞ、乾慧を取つて初焰と為るや。答ふ、別・円は各各一種の根性に逗ず、故に発真を用つて初焰と為す。通教は多種の根性に逗ぜんが為に、所謂る別円入通するなり、故に含容して乾慧を取る耳。若し鈍者は八人・見地是れ初焰なり、利者は乾慧に於て即ち能く結を断ず、故に是れ初焰なり。問ふ、利人は応に十地無かるべしや。答ふ、備さにあり。根利なるを以ての故に、故に位を制せざるのみ。問ふ、別・円に利人無きや。答ふ、利鈍ありと雖も、根性純なるを以ての故に、但だ一説を作す。宜しく此の如くなるべし。

 [42]大樹の位とは、別教の位なり。此を三と為す、一には経論の不同を出し、二には総じて位を明し、三には別して位を明す。此の別教の名義は理・惑・智・断皆な別なり。此れ正しく因縁仮名、恒沙の仏法、如来蔵理、常住涅槃、無量の四諦に約して位次を論ず。無量の四諦に凡そ四種あり。無量の四諦の塵沙を伏破せず、亦た無明を伏破せざるあり。無量の四諦の傍に塵沙を伏破し、無明を伏破せざるあり。無量の四諦の正しく塵沙を伏破し、亦た無明を伏するあり。無量の四諦の正しく塵沙を伏破し、亦た無明を伏破するあり。云何んが無量は塵沙を伏破せず無明を伏破せざる。三蔵の伏道に十六諦観あるが若き、障真の惑に無量の種あることを明す。此れ乃ち見思を伏す、何ぞ塵沙に関からん。例せば外道の世智を分別するは、見思を伏するに非ざるが如し。云何んが無量は是れ傍に伏破する。通教の七地出仮に薬病を分別するが若き、此れ界内を助滅し正しく伏破するに非ず。云何んが無量は正しく塵沙を伏破する。此は是れ別教に内外の四諦を分別するに無量の種あり、即ち是れ塵沙を伏破し、亦た無明を伏す。乃ち無明を破するの義あり。今、事に従つて名を得、無明を伏する者を便と為す。云何んが無量は無明を伏破する。若し円教の三諦は倶に法界の事理を照して明了ならざる無し。自地の無明を破し、上地の無明を伏す。別教の無量の四諦は前の二に非ず、後の一に非ず。正しく恒沙の仏法に就て名を当つ。然るに実は通じて諸の四諦を縁ず。次第に論を為さば、傍正無きに不ず。初心に諸の無量を縁じて、発心誓願す、初に正しく生滅の四諦を以て通の見思を伏し、傍に三種を修す。次に正しく無生を以て通の見思を破し、傍に両種を修す、次に正しく無量を以て内外の塵沙を破す。次に正しく無作を用つて無明を伏す。次に正しく無作を用つて無明を破す。既に此の如きの無量の階差あり、是の故に経論の名数、断伏の高下、諸の法門に対するに多く不同あり。若し華厳には四十一地を明す、三十心・十地・仏地を謂ふ。瓔珞には五十二位を明す。仁王には五十一位を明す。新金光明経には但だ十地・仏果を出す。勝天王般若には十四忍を明す。大品は但だ十地を明す。涅槃は五行・十功徳を明す。義に約して位を配するに、三十心・十地・仏地を開するに似たり、而して文に名を出さず。又た十地論・摂大乗論・地持論・十住毘婆沙論・大智度論は並に菩薩の地位を釈して、而して多少出没同じからず、云云。又た断伏の高下も亦た異なり。諸の法門に対するに行位も亦復た殊別なり。然る所以は既に界内・界外、生法両身の菩薩の行位を明す。如来は方便、四悉檀を用ひて界内の衆生を化し、機に随つて利益す。豈に定んで説くことを得んや。広く経論を尋ねずんば、目無くして日を諍ふが如し。今若し位数を明すは、須らく纓珞、仁王に依るべし。若し断伏の高下を明すは、須らく大品の三観に依るべし。若し法門に対するは、須らく涅槃に依るべし。衆経の意を用ひて共に初心の観・教両門を成じて分明ならしむる耳。諸聖の上位は凡の能く測るところに非ず。豈に妄りに説くべけんや。粗大意を知らしむるものは、行人の増上慢の心を破せんが為なり。又た経文を銷して物を引きて悕向せんが為なり。偏へに執して是非を諍競すべからず。今、位の名数を判ずるに纓珞・仁王に依ること、華厳頓教は多く円断の四十一地を明し、十信の名を出さず。諸の大乗経は多く諸の法門を明し、正しく位を辨ぜず。前四時の般若は多く菩薩の観行法門の意を明し、亦た正しく位を辨ぜず。今謂はく、纓珞の五十二位は名義整足す、恐らくは是れ諸の大乗方等別・円の位を結するならん。仁王般若に五十一位を明すは恐らくは是れ前四時の般若の別・円の位を結成するならん。法華は但だ権を開し円実を顕はし、一の円位を顕はす。涅槃の大意は亦た別・円の両位を明して名目を摘出せず、云云。断伏の高下は大品の三観に依るに、次第の義に於て便なり。観行の法門に対するに涅槃の五行に依るは、正しく是れ末代道に入るに宜しき所なり。何となれば、別教に観行を明すに二種あり、一に二乗に共ぜずして説くは、華厳、十地論、地持の九種の戒定慧、及び摂大乗論等の如き是れなり。二に二乗に共ずる説は、方等・大品・中論・釈論の如き是れなり。今、涅槃の五行は凡より極に至る。故に是れ末代に行用するの要と為すなり。

 [43]二に総じて菩薩の位を明さば、即ち三経に約す。一には纓珞に約して位数を明すは、経に七位あり。十信・十住・十行・十迴向・十地・等覚・妙覚地を謂ふなり。初の十信心は即ち是れ外凡にして、亦た是れ別教の乾慧地なり。亦た伏忍の位と名く。十住は即ち是れ習種性なり。此より去つて三十心を尽して皆な解行の位、悉く是れ別教の内凡なり、亦た是れ性地なり、亦た柔順忍の位と名く。別教の義に約して推せば、応に煗法の如くなるべし。十行は即ち是れ性種性なり。別教の義を以て推すに、応に頂法の如くなるべし。十迴向は道種性、別教の義を以て推すに、応に忍法・世第一法の如くなるべし。問ふ、今、別教を明すに、何んぞ四善根の名を用ふるや。答ふ、別教の十地は既に四果に対す。今、方便を以つて四善根に擬するに、何の咎かあらん。又た通教は通別真似の両解に通ずれば、此の比決を作すに義に於て分明なり。十地は即ち是れ聖種性なり。此れ皆な別教の四果の聖位に入つて悉く無明の別見思の惑を断ず。等覚の位は即ち是れ等覚性なり。若し菩薩に望むれば等覚仏と名く。若し仏地に望むれば金剛心の菩薩と名け、亦た無垢地の菩薩と名く。妙覚地は即ち是れ妙覚性なり、即ち是れ究竟の仏菩提の果、大涅槃の果果なり。

 [44]二に大品及び三観に約して位を合して断伏の高下を明さば、大品に、「菩薩、道慧を具せんと欲せば、当に般若を学すべし」と、即ち此の十信は従仮入空の観を習つて愛見の論を伏して十住の位に入らんと欲す。若し十住を得れば、即ち界内の見思を断ずるなり。「道慧を以て道種慧を具足せんと欲せば、当に般若を学すべし」と。此れ即ち従空入仮を修して十行なり。「道種慧を以て一切智を具足せんと欲せば、当に般若を学すべし」と、此れ即ち中道正観を修して十迴向の位に入るなり。「一切智を以て一切種智を具足せんと欲せば、当に般若を学すべし」と、此れ即ち中道観を証して十地に入るなり。「一切種智を以て煩悩の習を断ぜんと欲せば、当に般若を学すべし」と、此れ即ち等覚地なり。無明煩悩の習尽くるは、之を名けて仏と為す、即ち妙覚地なり。

 [45]三に涅槃に聖行を明すに約して位を合せば、初の戒聖行・定聖行は即ち是れ十信の位なり。生滅・無生滅の四真諦の慧聖行は、即ち是れ十住の位なり。無量の四聖諦の慧は、即ち是れ十行の位なり。一実諦・無作の四聖諦を修するは、即ち是れ十迴向の位なり。次に若し真を発して一実諦を見、無作の四聖諦を証するは、即ち是れ聖行満じて無畏地に住し、二十五三昧を得て能く二十五有を破するを歓喜地と名く。五行具足す。次に後に十功徳を説くは、恐らくは大涅槃に住する十地の功徳を表するならん。此を過ぎて仏眼了了なるを明すは、是を妙覚地なり。

 [46]三に別して七位を解するは、余本を尋ぬべし、大樹の位竟んぬ。