[60]「長者見是大火」従り下は、是れ第二に別譬なり。別は更に四と為す。初めに長者見火譬は、上の「仏見五濁」の四行の偈の本と為ることを譬う。二に捨机用車譬は、上の釈迦の五濁の為めに大を寝めて小を施す、「始坐道場」の十七行半の偈の本と為ることを譬う。三に等賜諸子大車譬は、上の釈迦の真実の相を示す、「我見仏子等 志求仏道者」の六行の偈の本と為ることを譬う。四に長者無虚妄譬は、上の「我為諸法王」の二行半の偈の本と為ることを譬う。初めの見火に就いて、其の文に四有り。其の意は但だ三あるのみ。一に能見を明かし、二に所見を明かし、三に驚怖を明かし、四に前の所見を広くす。但だ三意を成ずるのみ。
[61]「長者見」は、能見を標出し、上の「我以仏眼観見」を譬うるなり。
[62]「是大火従四面起」とは、所見を標出し、上の所見の「六道衆生」を譬うるなり。「即大驚怖」は、上の「為是衆生故 而起大悲心」を譬うるなり。「而諸子等於火宅内」の下は、第二の所見の火を広くするなり。還た是れ驚怖の義を釈成す。身受心法は、即ち宅の四辺なり。此の四辺従り、浄楽等の四倒を起こす。八苦の火、衆苦は皆集まる。若し身は不浄・苦・無常なりと知らば、即ち煩悩の火は滅す。旧に三解有り。一に云わく、「四大を四面と為す。六識は並びに其の中に託す」と。二に「即ち四生なり」と。三に云わく、「四倒なり」と。下の文に依るに、生老病死を以て、四辺と為すなり。
[63]「即大驚怖」とは、其の大善を退することを念ずるが故に「驚く」。其の将に重悪を起こさんとするを憂うるが故に「怖る」。「驚」は即ち慈に対し、其の楽無きことを念ず。「怖」は即ち悲に対し、其の苦有ることを憂う。「我雖能於此所焼之門安隠得出」とは、即ち是れ驚怖と慈悲の義を釈成す。
[64]「雖」は、是れ未だ尽くさざるの辞にして、仏は智慧力を以て、能く正教を尋ねて、所詮の諦を見ることを明かす。五濁八苦の危くする所と為らざるが故に、「安」と名づく。四倒の暴風も動ずること能わざる所なるが故に「隠」と名づけ、累の外に蕭然たるが故に「得出」と名づく、而して衆生は爾らず、火の焼く所と為る。如来の慈悲は、猶お憂の火の熾やす所と為るが故に、「雖」と言うなり。
[65]『経』に「所焼之門」と言うは、今問う。教を門と為さば、此の教は焼くと為すや、焼けずと為すや。救いて云う。教門は焼けず。仏の教えを門と為して、能く焼かるるの人を通ず。所通の人は焼かるれば、能通の門を名づけて焼と名づく。門内に人死すれば、門を名づけて衰と為せども、門は実に衰えざるが如し。又問う。若し爾らば、教は是れ常住にして、有為の法に非ず。若し爾らずんば、何が故ぞ焼けざる。今解す。爾らず。夫れ門に件有り、空有り。件に非ざれば、以て門を標すること無く、空に非ざれば、以て通致すること無し。件は灰燼す可く、空は焼く可からず。教に能詮・所詮有り。若し詮辯するに非ずば、以て教と為すこと無し。若し所詮に非ずば、何を以てか出ることを得ん。詮辯は是れ無常なる可く、所詮は復た無常に非ず。教の下の所詮を得るが故に、「安隠得出」と名づく。能詮は磨滅するが故に、「所焼之門」と言う。所焼の門に従わずんば、何に由りてか安隠に出ずることを得ん。言教を藉りて所詮に契う。『大経』に云わく、「因は無常なるが故に、而も果は是れ常なり」と。此の如く釈せば、『経』の「於所焼之門」の如きなり。小乗の無常の教門の若き、此れは所焼の門従り出ず。大乗常住の教門の若きは、文字は即ち解脱なれば、此の教は理に即し、焼・無焼に体達して、安隠に出ずることを得。若し如来の権智に就かば、即ち是れ所焼の門従り出ず。若し実智に就かば、所焼を体して、安隠に出ずることを得。故に先に衣裓、几案を作して、之れを出だすに得ず。後に無常を以て之れを出だす。即ち此の意なり。
[66] 「楽著嬉戯」は、見に著するを「嬉」と名づけ、愛に著するを「戯」と名づく。又た、四見に耽湎するを「嬉」と名づけ、唐しく其の功を喪うを「戯」と名づく、愛に著するも亦た爾り。五塵に耽湎するを「嬉」と名づけ、空しく獲る所無きを「戯」と名づく。空しく生じ徒らに死して厭離無きこと、彼の児戯の如し。
[67]「不覚不知」とは、都て火有りと言わざるを「不覚」と名づけ、火は是れ熱法なりと解せざるを「不知」と名づく。既に火の熱きを知らざれば、身を傷つくることを畏れざるを「不驚」と名づけ、命を断ずることを慮らざるが故に「不怖」なり。衆生は全く五陰・八苦を覚らず、四倒・三毒を知らず。既に惑を識らざれば、云何んぞ憂慮せん。惑は法身を侵し、慧命を傷つく。是の如く苦を覚らず、集を知らず、道を傷つくることを驚かず、滅を失うことを怖れず。四諦の教を聞かざるを以て、則ち聞慧無きを「不覚」と名づけ、思慧を得ざるを「不知」と名づく。見の解を得ざるを「不覚」と名づけ、思惟の解を得ざるを「不知」と名づく。見諦は即ち驚悟、思惟は即ち厭怖なり。又た、現在の苦を覚らず、未来の苦を知らざるが故に、下の文に云わく、「現に衆苦を受けて、後に地獄等の苦を受く」と。即ち此の義なり。
[68]「逼身」とは、五識なり。「心」とは、意識心王なり。身は八苦の逼むる所と為れども、心に厭悩せざるなり。
[69]亦云わく、「曾て大乗の功徳を種ゆ。是れ法身の智慧を体と為す。体は四倒の逼むる所と為れども、知らず覚らず。『心不厭患』とは、無常の苦を厭わず、煩悩の集を患えざるなり。『無求出意』とは、道を修して滅を求めざるなり」と。
[70]今謂わく、「火宅」は本と五濁に譬う。「嬉」は見濁を譬え、「戯」は煩悩濁を譬え、「不覚不知不驚不怖」は衆生濁を譬え、「火来逼身苦痛切己」は命濁を譬え、「心不厭患無求出意」は劫濁を譬う。此れは五濁と相当す、云云。
[71]「是長者作是思惟」従り下は、是れ第二に捨几用車譬なり。上の寝大施小を譬う。上の六行半は、大もて擬するに得ざるを明かす。後の十一行は、小を用て擬するに得。上の不得に三有り。一に大の擬宜を思い、二に機無く、三に化を息む。今の譬えを二と為す。初めに勧門を用て擬宜し、二に誠門を用て擬宜す。勧・誠に就いて各おの三あり。一に擬宜、二に受けず、三に放捨なり。勧門の三とは、一に「長者作是思惟身手有力」従り下は、上の大を用て化せんと念ずること、「三七日中に於いて、此の如き事を思惟す」を譬う。二に「復更思惟」従り下は、子の受けざるを明かし、上の無機、「衆生は諸根鈍にして、云何んが而も度す可き」を譬う。三に「或当堕落為火所焼」従り下は、即ち是れ善誘を放捨して、上の無機、息化の「我れ寧ろ法を説かずして、疾く涅槃に入らん」を譬うるなり。
[72]「長者作是思惟」の下は、上の「三七日思惟」を譬うるなり。「身手等」とは、下の合譬に「但以神力及智慧力」と云うを引いて、以て此の譬えを釈す。「身」は神通の荷負を譬え、「手」は智慧の提抜を譬う。三昧の断徳に依れば、則ち神通有り。智慧の智徳に依れば、則ち説法有り。智・断の力は能く法身を成ず。此の智・断は還って勧・誡の両門従り入る。勧は即ち為人悉檀、誡は即ち対治悉檀なり。此の二悉檀は、第一義悉檀の為めに而も方便と作る。如来は初め勧門もて衆生に擬宜し、衆善をば奉行して、十力・無畏・一切種智を成就せしめんと欲すれども、衆生は堪えず。次に誡門を以て擬宜し、諸悪をば作すこと莫く、大涅槃を証せしめんと欲すれども、衆生は堪えず、機無ければ、化を息む。故に知んぬ、大乗を用いんと念ずるは、秖だ是れ勧・誡の両悉檀、神通の智・断なるのみ。故に上の文に、「定慧の力もて荘厳す此れを以て衆生を度す」と云うは、即ち其の義なり。前に長者を歎ずるに、「其年衰邁」は、即ち智・断を譬う。智・断は、即ち是れ「身手の力」なり。
[73]「衣裓几案」とは、三蔵法師の云わく、「衣裓は是れ外国の花を盛るの器なり。貴人に貢上するに、此れを用いて之れを貯う」と。旧云わく、「衣裓は大乗の因を譬え、几案は大乗の果を譬う。初めに大乗の因果を擬するに、是れは則ち機無きなり」と。旧の又た云わく、「此の物は大乗の戒定慧を譬う。初七に所得の法を思惟す。此れは衣裓を用うるが如し。二七に衆生の根縁を思惟す。几を用うるが如し。三七に樹地の恩を思惟す。案を用うるが如し」と。云わく、「此の義は『阿含経』に出ず」と。今は合譬の文に、「若し我れは但だ神力、及び智慧力を以て、如来の知見・力・無所畏を讃ぜば、衆生は此れを以て得度することを能わず」というを取る。「神力」は即ち是れ身、「慧力」は即ち是れ手なり。前に説くが如し。「知見」は衣裓に譬え、「無畏」は几に譬え、「十力」は案を譬う。加来は神通を以て此の三法を発動し、智慧を以て此の三法を宣説するに、機無ければ、化を息む。「衣裓几案等」は、略・中・広の異なりあるのみ。略して説かば、「如来の知見」と名づく。「知」は即ち一切種智、「見」は即ち仏眼なり。名は略にして義は玄なり。譬えば衣裓の一足にして而も多く含むが如し。処中に説かば、即ち「四無所畏」と名づく。用は四諦に対す。几の如し。法に於いて小しく広く、物に於いて小しく安隠なり。或いは広説を作さば、名づけて「十力」と為す。横豎に該括すること、案の多足なれば、則ち傾覆すること無きが如くなり。法に於いて則ち広く、物は則ち大に安し。三七日の中に於いて思惟し、此くの如きの広略の仏法を作さんと欲すれども、衆生は堪えざるが故に、「衣裓几案」と言うなり。
[74]「復更思惟」の下は、第二に子受けざることを明かして、上の機無きを譬う。「唯有一門而復狭小」は、門の義にして、上に説くが如し。
[75]今更に通別を明かす。別とは、「一」は、一理を謂う。一道清浄なり。「門」は、正教を謂う。所通に通ず。「小」は、断常と七方便等を容れざるを謂う。教理は寛博なれば、則ち狭小に非ざれども、衆生は此の理教を以て自ら通ずること能はず。将に機無きことを談ぜんとするが故に、「狭小」と言うのみ。通とは、理は純にして雑無きが故に、「一」と言う。理に即して能く通ずるが故に、「門」と言う。微妙にして知り難きが故に、「狭小」と言う。教とは、十方に諦らかに求むるに、更に余乗無く、唯だ一仏乗のみなるが故に、「一」と言う。此の教は能く通ずるが故に、「門」と言う。此の教は微妙にして、凡夫は出処を知らざるは、是れ権を知らず。入処を知らざるは、是れ実を知らず。二乗は聞に因りて、少しく出要を知り、永く入を知らず。菩薩は自ら出を知ると雖も、亦た入を知らず。七方便を奪えば、皆な入出を知らず。上の文に云わく、「若し我れ仏乗を讃めば。衆生は苦に没す」と。教を以て自ら通ずること能わず。将に機無きことを談ぜんとするが故に、「狭小」と言う。行とは、円因の自行なり。大直道を行じて留難無きが故に、故に名づけて「一」と為す。善く菩薩道を行じて、直ちに道場に至るが故に、名づけて「門」と為す。妙行は行じ難く、方便に機無きが故に、「狭小」と言うのみ。
[76]旧の解すらく、「人天の小善なるが故に、『幼稚』と云う。大乗の善無きを、『未有所識』と名づく」と。今明かさく、二万仏の所にて無上道を教うるに、大乗の善根微弱なるを「幼稚」と名づく。若し大乗を聞かば、能く謗毀を生ずるを、「未有所識」と名づくるなり。「恋著戯処」とは、前には善の弱きを明かし、此には悪の強きを明かす。即ち是れ因時に深く見愛に著し、果時に深く依正に著す。欲界は六塵に著し、色界は禅味に著し、無色界は定に著す。上の文に云わく、「衆生の諸根は鈍にして、楽に著し癡に盲いらる」と。大乗を聞くに堪えざるなり。
[77]「或当堕落為火所焼」は、此の二句を指して善誘を放捨すと名づくるなり。「堕落」に二有り。一には幼稚にして本との戯処を憶うが故に、堕落す。二に都て識ること無く物を執すること堅からざるが故に、堕落す。五欲に著して三途に堕することを譬う。二とは、善の弱きと識ること無きとなり。大乗を謗毀して、三途に堕落するなり。
[78]「為説怖畏」従り下は、第二に対治門なり。三とは、一に対治を擬宜す。誡怖して出さしむ。対治の相は、『大品』の中に、「四念は是れ摩訶衍なり」と説くが如し。不可得なるを以ての故に、小乗に異なるなり。既に戯処に著するが故に、怖事を説いて免るることを得しむ。五濁の火は五陰の舎を焼く。宜しく応に捨離すべし。若し久しく住著せば、必ず善根を断ずるが故に、「無念為火之所焼害」と云う。
[79]「父雖憐愍」従り下は、即ち是れ子、誡を受けざるなり。「不驚不畏」とは、聞思を生ぜす。上に説くが如し。八苦・五濁は能く善根を焼くことを識らざるは、「火」を知らざるか如し。陰界入の法は是れ諸苦の器なりと識らざるは、「舎」を識らざるが如し。法身を喪失するの由を知らざるは、何者をか「失」と為すやを知らざるが如し。
[80]「但東西走戯見視父而已」従りは、此の二句を指して放捨苦言と為すなり。皆な明に背いて闇に向かうこと「東西」の如し。生死の往還の速疾なるは「馳走」の如し。中に於いて見愛を起こすは、「戯」の如きなり。大を用て擬すと雖も、大教に従わざるがが故に、「視父而已」と言う。
[81]「長者即作是念此舎已為大火所焼」従り下は、即ち是れ第二に用車譬なり。上の「尋いで過去の仏の行ずる所の方便力を念う」の十一行の偈を譬う。上の文に四有り。今の譬えも亦た四あり。一には擬宜三車譬なり。上の「尋いで過去仏も亦た三乗の化を作すを念う」を譬うるなり。二には父知先心所好譬なり、上の「是の思惟を作す時、十方の仏は皆な現ず」を譬う。三には歎三車譬なり。上の「正しく三乗を施し、是の事を思惟し已って、即ち波羅奈に趣く」を譬うるなり。四には適子所願譬なり。上の「受行悟入す。是れを転法輪と名づく」を譬うるなり。
[82]大乗の化の功を父の命と為し、衆生の大善を子の命と為す。大善は若し尽きば、即ち子の命は断ず。子の命は断ずれば、則ち化の功も亦た廃す。即ち父の命は断ず。前に「苦痛切己」と言うは、猶お是れ未だ死せず。今、「必為所焚」と云うは、即ち死の義有るなり。上の文に「焼く所の門於り安隠に出ずることを得」という。今、「若不時出必為所焼」と云うは、此の義云何ん、前の「出ずることを得」とは、即ち是れ法身出ず。今、「若不時出」と言うは、即ち是れ応身、疾を同じくす。衆生に善有れば、応身と時に出ず。衆生の善断ずれば、応身と時に出でず、即ち是れ倶に為めに焚かるるなり、今、応身の擬宜して其れをして時に出ださしめんと欲するなり。
[83]「我今当設方便」従りは、権を設けんと欲するなり。
[84]「知子先心」従り下は、第二に得度の機有ることを明かすなり。其れ昔曾て小を習うは、是れ先心を知る。性欲同じからざるは、是れ各おの好む所有るを知る。又た、衆生は昔曾て大を習うことを知れども、大を習うこと未だ濃かならず。是れ大弱と為す。老病死を厭うが故に、小を以て接するは、是れ小強と為す。身子の六心の中に退するが如き、本と曾て大を習うを、「知先心」と名づけ、中ごろ老死を厭うを、「各有所好」と名づく。
[85]「而告之言」従り下は、第三に是れ歎三車希有譬なり。上の正しく法輪を転ずるを譬うるなり。此れは即ち三と為す。勧・示・証を謂う。「玩好希有」の下は、即ち是れ勧転なり。「如此種種」の下は、即ち是れ示転なり。「汝等於此火宅宜速出来皆当与汝」は、即ち是れ証転なり。
[86]「爾時諸子聞父所説」従り下は、第四に適子所願譬なり。上の受行悟入を譬う。前の偈の本は略にして、今の譬えの事は広し。広く因を修して果に至るを明かすに、六句に依りて解釈す。
[87]一に「適願」とは、機教相い称う。此れは即ち聞慧なり。「勇鋭」とは、即ち是れ思慧なり。思心動慮するは、思慧の方便なり。「互相推排」とは、四真の理を推し、見惑を排伏し、邪正未だ決せざるを、名づけて「互相」と為す。此れは修慧に入りて、煖・頂の位に属するなり。「競」とは、競いて勝理を取るなり。此れは是れ忍法の位なり。競いて勝理を取るは、初めに三十二諦を観じ、競いて真道に趣き、後に縮観して苦法忍に趣くなり。「共」とは、是れ世第一法の位なり。同じく一諦を観ず。苦法忍の四観と別ならざるなり。「馳走」とは、見道の十五心に入り、速疾に理を見る。上の「便ち涅槃の音有り」を譬う。見道の中に、分に涅槃を得るなり。「争出」とは、思惟道なり。争いて三界を出で、無学果を成じ、思惟を断じ尽くし、方に火宅を出ず。即ち上の偈の「及以び阿羅漢、法僧差別の名」を譬うるなり。
[88]観心の解とは、中道正観は、直ちに実相を観じ、心と法と相い称うを、「適所願」と名づく。境は無辺なるが故に、観も亦た無辺なるを「勇」と名づけ、境は心を研いで利ならしむるを「鋭」と名づく。心と境と相い研ぐを「互相推排」と名づけ、心王と心数とは境を縁ずること速疾なるを、「競共馳走」と名づく。遍く一切の陰界入等を歴るに、実相に非ざること無きを、名づけて「出火宅」と為すなり、云云。
[89]「是時長者見諸子等」の下は、是れ別譬の中の第三、等賜諸子大車譬なり。上の真実の相を顕わすを譬う。此の文を四と為す。一に父見子免難歓喜譬なり。上の「我れは即ち是の念を作す。世に出ずる所以」より「今我れは喜んで畏れ無し」に至る両行一句の偈の本と為るを譬う。二に諸子索車譬なり。上の大乗の機発、「我れは仏子等を見るに、仏道を志求する者、咸く恭敬の心を以て、皆な我が所に来至す」の両行の偈の本と為るを譬う。三に等賜諸子大車譬なり。上の「諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の三句の本と為るを譬う。四に諸子得車歓喜譬なり。上の「菩薩は是の法を聞いて、疑網は皆な已に除く」の一偈の本と為るを譬う。
[90]上の法説の中には、先に機発を明かし、次に障除こり、仏は喜び畏れ無きことを説く。今の譬えの中には、先に難を免るるを明かし、後に車を索むるを明かす。
[91]若し具足して論ぜば、応に四句を作すべし。先に障除こり、後に機発すること有るは、四大声聞等は三蔵の中に於いて障除こり、『大品』の末、『法華』の初めに大機始めて発するが如し。二に障未だ除かずして大乗の機発するは、『華厳』の中、及び『法華』の中の諸の凡夫衆の仏慧に入ることを得る者の如し。余の両句は、上に説くが如し。
[92]若し大機先に動じ後に障除けば、方便品に説く所の如し。若し先に障を除き後に機動ぜば、今の説く所の如し。機動と障除と互いに現じ、共に一意を成ずるなり。又た、方便品には仏は喜び畏れ無きことを明かし、此の中には諸子歓喜す。子喜ぶを以ての故に、其の父も亦た喜ぶ。此れも亦た互いに現じ、共に一意を成ずるなり。
[93]免難の中に就いて、二義を具す。謂わく、免難と歓喜となり。若し子の未だ難を免れずば、父は則ち憂念す。若し火を離るることを得ば、心は即ち泰然たり。故に免難と歓喜とは、一譬と為ることを得。子は歓喜するを以て、其の父も亦た喜ぶ。仏の喜ぶを譬うることを得るなり。「四衢道中」とは、旧の云わく、「四濁の障除こるは、『四達路』の如し。更に一濁除こることを得るは、『露地坐』の如し」と。今は爾らず。五濁は直だ垢障の法を明かすのみにして、未だ治道を論ぜず。応に「衢逍」に譬うべからず。「衢道」は正しく四諦を譬う。四諦の観の異なるを、名づけて「四衢」と為す。四諦は同じく見諦に会すれば、交路頭の如し。見惑除こると雖も、思惟は猶お在れば、「露地」と名づけず。三界の思の尽くるを「露地」と名づく。果に住して進まざるが故に「而坐」と云う。見思の局る所と為らざるが故に、「泰然」と云う。滅度安隠の想いを生ずるが故に、「歓喜」と言うなり。
[94]「各白父言」の下は、第二に是れ索車譬なり。文に云わく、「願わくは我れ等に三種の宝車を賜え」と。文に索の字義無きは、此の請の辞に依りて、索車を明かすのみ。
[95]有る人の云わく、「二乗は車を索むれども、菩薩は索めず」と。十難を作して之れを難ず。一に云わく、二乗は三界の外に出で、車を許す処に至りて果車を索め、菩薩は未だ許す処に至らざるに、那んぞ忽ち車を索めん。二に云わく、大乗経には、菩薩の、小乗の果を索むること無し。故に知んぬ、索めざることを。三に云わく、所化の菩薩は、初発心従り、終わり捕処に至るまで、皆な是れ凡夫にして、三界を出でざれば、義は則ち索むること無し。能化の菩薩は、三十三心に見傾けども、思未だ尽きず。三十四心は便ち是れ仏なり。仏は誰れに従いてか索めん。四に二乗の果は正使の門外に在り、仏果は習気・無知の門外に在り。二乗は正使を断じ尽くして車を見ず。是の故に索む。菩薩は未だ習と無知とを断ぜざれば、那んぞ忽ち索めん。五に二は是れ方便なりと明かせば、索むと言う可し。文に云わく、「唯だ此の一事のみ実にして、余の二は則ち真に非ず」と。此れを以て之を推すに、但だ二のみ索めて、一は索めず。六に『大品』従り已来、『法華』に至る已前は、仏因・仏果は皆な是れ方便なれば、窮子に財を付す。此の珍宝は皆な応に是れ方便なるべし。若し付財は是れ真実なれば、則ち『大品』等に仏乗を明かすは、已に是れ真実なり。那んぞ忽ち更に索めん。七に方便品の偈に、昔、小を説くは是れ方便なるを叙し、大は是れ方便なるを叙せず。当に知るべし、仏子の大乗は方便に非ず。那んぞ忽ち索むること有らん。八に若し三人索めば、何ぞ領解無けん。領解無きが故に、故に知んぬ。索めざるなり。九に賜車を合す。文に云わく、「諸の衆生、三界の苦を出で、涅槃の楽を得るを見る」と。故に賜うに大乗を以てす。菩薩は涅槃を証せざれば、那んぞ忽ち索めん。十に諸子安坐するが故に、父に就いて索む。二乗は果満じて修行せざるが故に、安坐して、索むること有ることを得可し。菩薩の行は未だ息まざれば、安坐の義無し。那んぞ忽ち索めん。
[96]私に総別を以て之を駁す。索は是れ求請の別名なり。意に在るを求索と名づけ、口に在るを請索と名づけ、身に在るを乞索と名づく、曚者の知を求むるが如く、飢者の食を請うが如く、迷者の道を問うが如し。凡そ不達の地に居するに、何ぞ索めざるの理有らん。索むるに由るが故に許与し、許与するが故に歓喜す。今の文に具さに請・与・歓喜有り。法説の中の千二百人は、身子を首と為して、慇懃に三請す。菩薩衆の中には、弥勒を首と為して、仏口より生ずる所の子、大数八万有り。合掌するに敬心を以てし、具足の道を聞かんことを欲す。譬説の初めに身子は中根人の為めに請じ、又た、総じて四衆の為めに請じ、傍ら下根の為めに請ず。文に云わく、「善き哉。世尊よ。願わくは四衆の為めに其の因縁を説かれんことを」と。法説に許して云わく、「汝は已に殷勤に三請す。豈に説かざることを得ん」と。譬説に許して云わく、「当に譬喩を以て更に此の義を明かすべし」と。因縁に許して云わく、「我れ及び汝等の宿世の因縁、吾れ今当に説くべし」と。法説の竟わりには身子歓喜し、譬説の竟わりには迦葉等歓喜し、宿世の説の竟わりには楼那歓喜す。又た、合譬の文に云わく、「諸子等をして日夜劫数に常に遊戯することを得しむ。諸の菩薩と是の宝乗に乗じ、直ちに道場に至る」と。喜を以ての故に与うることを知り、与うるが故に請うことを知る。三周の三義、明文炳然なり。何が故に偏えに二は索め一は索めずと言わん。
[97]別して駁す。其の一、三蔵に斉って菩薩は惑を断ぜずと明かさば、『法華』に依るに四句有り。謂わく、障除こりて大機動ず。障未だ除かずして大機動ず。機動ずれば、則ち索むることを知る。其の二に云わく、「大乗経には菩薩の小乗の果を索むること無し」と。『大品』に云わく、「三乗の人は同じく無言説の道を以て、煩悩を断じ涅槃に入る」と。煩悩を断じて涅槃に入ること同じ。何が故ぞ索めざらん。其の三に云わく、「三十三心を菩薩と名づく。三十四に思を断じ尽くして、即ち仏と成る。仏は誰れに従いてか索めん」と。此れは猶お三蔵の義なり。見の障未だ除かざるに、大機尚お動ず。況んや三十三心にして而も当に動ぜざるべけんをや。動ずれば、即ち索むることを知る。其の四は、「菩薩は未だ習気・無知を断ぜざれば、応に索むべからず。断尽すれば、仏と成る。仏は誰れに従いてか索めん」と。此れは三乗通教の義なり。具縛の障存するに、尚お大機動ず。況んや残習・無知をや。其の五は、「唯だ此一事のみ実なり。実は即ち是れ真なり。那んぞ忽ち復た索めん」と。被会絶待の唯一は、一の外に更に法無し。昔の待二の唯一は、一の外に更に法有り。一の名は同じけれども、体は異なる。闇に瓦礫の魚目を執りて、夜光の月形と謂う。愚は蚩えども、智は愍れむ、云云。其の六は、「般若已来、法華已上は、付財の法と同じ。応に索むること有るべからず」と。汝は共・不共の般若を聞かず。不共は索むるを須いず。共は応に索めざるべからず、云云。其の七に、「方便品の初めに、昔、小を説くは是れ方便なり。昔、大を説くは是れ方便なりと叙せず。大は方便に非ず。是の故に索めず」とは、汝聞かずや、寿量品の中に、「我れ少くして出家して、三菩提を得たり。乃至、中間の若しは小、若しは大、若しは己、若しは他、皆な我が方便なり。諸仏も亦た然り」と。寧んぞ索めざることを得ん。其の八は、「若し菩薩は索めば、菩薩は応に領解すべし。領解既に無きが故に知んぬ、索めざることを」と。汝聞かずや、法説の竟わりに、天龍、四衆は皆な領解するを。其れ菩薩に非ずんば、是れ何とか謂わんや。又た、法師品の中に、三乗に皆な記を与う。若し領解せずば、那んぞ忽ち記を与えん。其の九は、「三界の苦を出で、安隠の楽を得れば、乃ち賜い、乃ち索む。菩薩は未だ出でず、未だ証せず。是の故に索めず」と。猶お是れ三蔵の義なるのみ。其の十は、「諸子は安坐して、爾して乃ち車を賜う。二乗の行息むを安坐と名づく。菩薩の行息まざるは、安坐に非ず。那んぞ忽ち車を索めん」と。猶お是れ前の義なるのみ。自ら行息みて索め、行未だ息まざるに索むること有り。又た、菩薩の行行は、即ち是れ乗乗なり。乗は索むるに由りて得。何ぞ索めずと謂わん。其の詭りて三蔵を累ぬる故に、此の十難を設くるを観る。一斑を管見するに、都て大体に非ず。
[98]今当に爾が為めに分別して之れを説くべし。自ら惑を断ぜず車を索めざること有り。三蔵の菩薩是れなり。自ら惑を断じ車を索むること有り。通教の菩薩是れなり。自ら亦た惑を断じ亦た惑を断ぜず、亦た索め亦た索めざること有り。別教の菩薩是れなり。自ら惑を断ずるに非ず、惑を断ぜざるに非ず、索むるに非ず、索めざるに非ざること有り。円教の菩薩是れなり。又た、五味に歴れば、乳味に両意あり。一に亦た断じ亦た断ぜず、亦た索め亦た索めず。二に断に非ず不断に非ず、索むるに非ず、索めざるに非ず。酪味に一意なり。断ぜず索めず。生酥は四意を備え、熟酥は但だ三意あるのみ。醍醐は一意あり。宏綱大統、其の義此の如し。一一の句、一一の意に於いて、復た各おの四句あり。謂わく、障除きて機動じ、障未だ除かずして機動じ、障亦た除き亦た未だ除かずして機動じ、障除くに非ず除かざるに非ずして機動ず。斯の宗をば見ずして、一を執して三を非するは、深く悲愍す可し。
[99]世人の車数を執すること同じからず、車体を説くこと同じからず。或いは言わく、「初めに三車を説き、後に二を会して一に帰す」と。或いは言わく、「初めに三有りと説き、後に三を会して一に帰す」と。或いは言わく、「初めに四有りと説き、後に三を会して一に帰す」と。
[100]経を出す所以は、人語を信ずること勿れとなり。此の文に、昔、仏は声聞の為めに応ぜる四諦の法を説き、縁覚人の為めに応ぜる十二因縁の法を説き、菩薩人の為めに応ぜる六波羅蜜の法を説くを引く。今、仏は三を説く。数も亦た此の如し。
[101]『華厳』第八に云わく、「下劣にして没を厭う者には為めに声聞道を示し、根鈍にして因縁を楽うものには為めに縁覚道を説き、根利にして慈悲有るものには為めに菩薩道を説き、無上にして大事を楽うものには無量の仏法を説く」と。三十六に又た云わく、「三解脱法は声聞乗を出し、無諍法は縁覚乗を出し、六度・四摂は大乗を出し、知一切法は仏乗を出す」と。又た、第九地には声聞乗の相、支仏乗の相、菩薩乗の相、如来乗の相を説く。
[102]『地論』に第二地を釈するに、「十不善集まれば三塗に墜ち、十善集まれば天に生ずと観ず。上の十善と四諦の観智と合すれば声聞と成り、又た上の十善と他に従いて聞かざる観智と合すれば縁覚と成り、又た上の十善と具足清浄の観智と合すれば菩薩地と成り、又た上上の十善と一切種、一切仏法と合すれば仏と成る」と。
[103]『瓔珞』第十三に云わく、「十方の仏は三乗を説くに、一乗の中に又た三を開けば、合して九乗なり。九乗は悉く平等大慧に会入す」と。聖説此の如し、融通すること能わず。互相いに是非し、法を非し人を毀る過莫大なり。
[104]今、教に約して之れを分別す。若し三乗の法門は異なれども、真諦は同じと説かば、三蔵教なり。若し三乗の法門は同じく真諦も皆な同じと説かば、通教なり。若し三乗の三三九乗を説き、若し四乗の浅深階級各各同じからざれども、同じく平等大慧に入ると説かば、別教なり。若し三乗・九乗・四乗の一一は皆な平等大慧と相応し、二無く異無しと説かば、円教なり。
[105]又た、五味に歴て分別せば、乳味は但だ菩薩乗・仏乗を明かし、酪味は但だ異の三乗を明かし、生酥味は備さに三乗・四乗・九乗各各分斉ありて相い濫れざることを明かし、熟酥味は唯だ異の三乗を除いて、余は生酥の如きなり。醍醐の中には純ら仏乗を説いて、復た余乗無きなり。
[106]若し此の意を識らば、異説に妨ぐること無し。若し知らずば、秖だ諍論を増すのみ。
[107]世人の仏乗を明かすに、乗体と異なり有り。光宅は仏果究竟の尽無生の二智を取りて車体と為す。遠く五百由旬の外に出ずるを、昔に対して「高」と為し、具さに万徳を含むを、昔に対して「広」と為す。
[108]荘厳は因の万行を総ぶるを取りて体と為し、上求を「高」と為し、下化を「広」と為す。
[109]旧は功徳を取らず。功徳は凡夫と共なり。唯だ智慧のみを取りて体と為す。
[110]旧は又た福慧を取りて共に体と為す。文に云わく、「是の三車に乗じ、無漏の根、力、覚、道、禅定、解脱、三昧を以て、自ら娯楽す」と。豈に但だ智慧のみならん。
[111]又た、一師は但だ有の解を取りて体と為す。空の解に動無きが故に取らず。尽・無生智は即ち有の解なり。
[112]又た、一は、小乗は空慧を取りて車体と為す。文に云わく、「我れ等は長夜に空法を修習す」と云云。大乗も亦た実慧・方便を以て車体と為す。車体は有を譬う。有は運動有るが故なり。
[113]私に謂わく、諸師は仏乗の体を釈すれども、競いて具度を指す。何ぞ衆盲の象に触れて、其の尾牙を諍うに異ならん。天台智者に依るに、諸法実相は正しく是れ車体、一切の衆宝もて荘校せるは皆な荘厳の具なるのみと明かす。賜車の文の中に至りて、当に点出すべし。
[114]旧の解すらく、小車とは、小果なり。果に有為・無為の功徳有り。正しく有為を取りて、以て車運を譬え、運びて無余に入るなり。有為の果の中に具さに福慧有りて、慧を以て正と為し、福は具度に属す。其の慧に十有れども、八智は因果に通じ、尽・無生智は唯だ是れ果位なり。乃ち二智を取りて、以て車の果を譬う。是の義を以ての故に、車は門外に在り。若し『大品』に依るに云わく、「是の乗は三界従り出で、薩婆若の中に到りて住す」と。若し未だ出でざる時は、已に是の乗に乗じて、争いて火宅を出ず。何が故に復た車は門外に在りと言わん。若し先より外に在らば、何に乗じて出でん。然るに、但だ乗は因果に通ず。三十七品は見思惑を断ず。皆な是れ因乗なり。尽・無生智は皆な果乗と名づく。要ず因乗に惑を断除し尽くすに因りて、方に果乗の尽・無生智を得。故に車は門外に在りと言う。但だ果は正、因は傍なり。果に就いて言を為さば、車は門外に在り。若し内因に結を断ぜば、運の義を乗と名づく。外果は運ばず。何ぞ乗と名づくることを得ん。然るに、果に断惑の運無けれども、要らず尽・無生智を以て、無余涅槃に入る。方に是れ好運なり。
[115]若し因に乗じて果に到らば、何の意ぞ方に更に車を索めん。旧の云わく、「機索と情索あり」と。機索とは、解す可し。情索とは、仏は尽・無生の教を説き、羅漢は此の果を証し已りて、神通天眼を用て、試みに未来を観るに、猶お変易の生死の浩然たるを見て、自ら得る所の尽・無生の証を疑う。若し実に無生ならば、云何んぞ其の浩然たるが如きもの有るを見ん。昔は究竟に非ず。情の中に仏に従いて先に許す所を索む。是れを情索と為す。若し経文を尋ねば、文に此の語無し。若し索の義を推せば、義は応に然るべからず。文無きこと解す可し。推すとは、下の文に云わく、「自ら得る所に於いて、滅度の想を生ず」と。既に天眼を以て生死有るを見れば、何が故に復た滅度の想を起こさん。此れは則ち自ら相い矛盾す。又た、仏滅後の羅漢は、余仏に値わざれば、決了すること能わず。既に自ら天眼を以て、生死を照見すれば、何ぞ須らく仏を見て決了すべけんや。又た、初禅の天眼は尚お二禅を見ず。況んや変易を見るをや。亦た『摂大乗』と乖くなり。又た、羅漢は無漏業を得て、天眼を用て、変易未来の生死の果報を見れば、即時の人は五戒・十善を修し、応に自ら其の未来の果報を見るべし。当に知るべし、界外の果報は、豈に是れ天限の見る所ならんや。此れを用て情索を判ぜざるなり。
[116]今、情索と言うは、昔日、教に依りて、尽・無生は能く無余に入ると謂う。而して方等の中に於いて、菩薩の不思議を見、浄名の弾斥を聞く、若し我が得る所は是れ実ならば、大士は応に折挫すべからず。若し我れは実に非ずば、仏は応に真と説くべからず。故に云わく、「茫然として云う所を知らず」と。『大品』の中に至りて、大法を領知す。此れを聞きて、大を楽う心起こり、方に進んで大乗を修せんと欲す。而も得と不得とを知ること能はず。此れ等は皆な是れ情の中に已に大乗を索むるの義なり。故に身子の領解は、昔の疑情を提ぐ。諸の菩薩の授記作仏を見て、斯の事に予らず。嗚呼して自ら責め、以て世尊に問わんと欲す、「失と為すや、不失と為すや」と。即ち是れ昔、方等に已に情索有ることを指すなり。今、口索を加うるは、方便品の初めの偈を聞くに因る。略して仏、並びに是れ方便なりと説くを聞きて、即ち復た今の方便を執して、昔は未だ極ならざりしかを疑う。故に「我れは今、是の義の趣く所を知らず」と云う。宿の疑情を動ずるが故に、言を発して三請し、昔日の説く所の実を索求む。機は大乗に在れども、情は昔の実を求む。又た、情は大乗を求め、口は昔の実を問う、六度・通教は例して爾り。
[117]「舎利弗爾時」従り下は、三に等賜大車なり。両章・両広・両釈有り。一に等子、二に等車なり。子等しきを以ての故に、則ち心等し。一切衆生に等しく仏性有るを譬う。仏性は同じきが故に、等しく是れ子なり。第二に車等しとは、法等しきを以ての故に、仏法に非ざること無し。一切法は皆な摩訶衍なるを譬う。摩訶衍は同じきが故に、等しく是れ大車なり、而して「各賜」と言うは、各おの本と四諦・六度・無量の諸法を習うに随いて、各おの旧習に於いて真実を開示す。旧習は同じからざるが故に、「各」と言う。皆な摩訶衍なるが故に、「大車」と言う。「其車高」の下は、車を広くするに二と為す。一に広く車体を叙べ、次に車有るの由を釈す。車体を叙ぶる中、先に高広を叙べ、次に白牛を明かし、後に儐従を明かす。仮名の車に高広の相有り。如来の知見の深遠なるを譬う。横に法界の辺際に周く、竪に三諦の源底に徹するが故に、「高広」と言うなり。「衆宝荘校」とは、万行の修飾を譬うるなり。「周匝欄楯」とは、総持の万善を持ちて、衆悪を遮るを譬う。「四面懸鈴」とは、四辯もて下化するを譬うるなり。「張設幰蓋」とは、四無量を譬う。衆徳の中には慈悲は最も高くして、普く一切を覆うなり。「珍琦雑宝而厳飾之」とは、真実の万善もて此の慈悲を厳る。『大経』に云わく、「慈は若し十力・無畏を具足せば、如来の慈と名づく。慈の中に布施等を行ず」と、云云。「宝縄交絡」とは、四弘誓の大慈心を堅固にするを譬うるなり。「垂諸花纓」とは、四摂・神通等の衆生を悦動するを譬うるなり。亦た七覚の妙鬘を譬うるなり。「重敷綩綖」とは、観練熏修一切諸禅の重沓柔軟を譬うるなり。「安置丹枕」とは、車若し駕運せば、到る所の処に随いて、此れを須いて支昂するは、動に即して而も静、静に即して而も動なるを譬う。若し車の内の枕は身首を休息ませば、一行三昧の一切智、一切行を息むるを譬うるなり。「丹」は即ち赤光にして、無分別の法を譬うるなり。「駕以白牛」とは、無漏の般若の能く諦・縁・度、一切の万行を導いて薩婆若に到るを譬う。「白」は是れ色の本なり。即ち本浄の無漏と相応す。体に万徳を具するは、「膚充」の如し。煩悩の染せざるは、「色潔」の如し。又た、四念処を「白牛」と為す。四正勤の中に二世の善満つるは、「膚充」の如く、二世の悪尽くるは、「色潔」の如し。四如意足の行者の心に称うは、「形体姝好」の如し。「筋」は、五根の住立・能生の義を譬うるなり。「力」は、五力の摧伏の幹用の義を譬うるなり。「行歩平正」は、以て定慧均等を譬う。又た、七覚の調平を譬う。「其疾如風」とは、八正道の中の行は速疾に薩婆若に到る。「僕従」とは、方便波羅蜜の能く屈曲して人に随い、給侍使令するに譬う。衆魔、外道、二乗の小行は皆な方便の智用に随う。故に『浄名』に云わく、「皆な吾が侍なり」と。又た果地の神通の運役は意に随う。即ち「僕従」なり。
[118]次に「所以者何」の下、車有るの由を釈すとは、財富み蔵溢るるに由る。果地の福慧円満なるを譬えて、「財富無量庫蔵充溢」と名づく。
[119]行蔵と理蔵あり。一切法は檀・尸・忍等に趣き、是の趣をば過ぎずとは、是れ行に約して如来蔵と為す。一切法は陰・入・界・根塵等に趣き、是の趣をば過ぎずとは、即ち是れ理に約して如来蔵を明かす。自ら此の行理を行ずるを「充」と名づけ、他を化するを「溢」と名づく、実智の満つるを「充」と名づけ、権智の用くを「溢」と名づく。中道に入るを「充」と名づけ、双照するが故に「溢」と名づく。但だ「蔵」の多きのみに非ず、又た皆な「充溢」す。何れの法か是れ摩訶衍ならざらん。故に大乗は「無量」なり。
[120]「而作是念」の下は、即ち是れ広く心等を明かす。文を二と為す。一に心等を広くし、二に釈なり。心等を広くすとは、「財富無量」なり。是れ子にして偏無し。是の故に心等し。若し富めども子に非ず、是れ子なれども貧なれば、則ち等しきことを得ず。今、「七宝大車其数無量」なり。若しは教、若しは行、皆な摩訶衍なり。即ち財多きなり。「各各与之不宜差別」とは、本習を移さざれども、真実を示す。身子の如きは、智慧に於いて仏知見を開き、一切の仏法を具す。目連は禅定に於いて仏知見を開き、一切の仏法を具す。余人も例して爾り。又た、方等・般若の念処・正勤・根・力・覚・道の種種の異名あれども、皆な実相を開示す。一切法に歴るも亦復た是の如し。故に「無量」と言うなり。「所以者何以我」の下は、是れ両等を釈す。初めに財の多きを釈するに、尚お一国に周し。況んや復た諸子をや。大円の因は遍く善悪を該ぬ、況んや仏の知見をやといふを譬う。次に子等を釈するは、子に非ざるも尚ほ充つ。況んや是れ子なるをや。仏は縁無き者すら尚お度す、況んや縁有る子をやというを譬う。文を尋ねて解す可し。
[121]「是時諸子各乗大車」従り下は、第四に適願歓喜にして、上の「受行悟入」を譬う。本と羊・鹿・水牛を求め、分段を出でんことを期す。今は白牛を得て、変易を尽くす。本の望む所に過ぐ。豈に歓喜せざらん。
[122]「於意云何」従り下は、第四に不虚譬にして、法王の不妄を譬う。一に問、二に答、三に述歎なり。問は文の如し。
[123]「舎利弗言」の下は、第二に答なり。二と為す。一に免難不虚なり。亦た重を以て軽を奪う不虚と名づく。二に本心に乖かざる不虚なり。亦た本望を過ぐる不虚と云う。各おの三と為す。謂わく、標章、解釈、況結なり。免難を標することは、文の如し。「何以故」の下、第二に釈とは、命は重く身は軽し。身を全うし火を免るれば、已に大宝を得たり。重き命を済うこと、豈に応に虚有るべけんや。八苦の火を免れて、五分の身を全うするは、已に是れ大宝なり、況んや二万仏の所にて、大乗の慧命、円因成就して、仏知見開くは寧んぞ是れ虚妄ならんやというを結す。
[124]次に「世尊若是」の下は、第二に本心を乖かず。本心に乖かざる章を標せば、本と三無しと知れども、意に謗らざらしむ。謗らざれば、已に本心に乖かず。釈して云わく、本と小無しと知れども、意に毀ちて悪に堕せざらしむ。既に毀因無ければ、悪果に堕せず。小車を与えざれども、本意に乖かず。結して云わく、「自ら財富めること無量なりと知り、其の子を饒益せんと欲して、一の大車を与う」と。本の望む所に過ぐ。是の故に虚ならず。前の章を結して「方便救済」と云うは、断徳の神通の力を譬うるに似たり。後章を結して「財富無量」と云うは、智徳の辯説の力を譬うるに似たり。前は是れ子等しきが故に虚ならず、後は是れ財等しきが故に虚ならず。
[125]「仏告舎利」の下は、第三に歎述なり。二の善哉有るは、其の二の不虚を述ぶるなり。問う。仏は何ぞ自ら不虚を説かざるや。答う。仏は三を許して一を与う。自ら説かば難しと為す。身子は不虚を説かば、信を取ること易しと為す。
[126]「舎利弗如来亦復」の下は、第二に合譬なり。光宅は十譬を開く。但だ七を合して、三を合せず。七の中に正しく五を合し、第五・第八を兼ねて、第七・第九を合せず。故に知んぬ、十譬は繁にして会せざることを。今は総別の二譬を合す。総の中に六有り。今の文は皆な合すれども、小しく次第せず。今初め第一に上の第一を合す。上の長者に名行、位号、徳業あり。
[127]合して「如来亦復如是」と云うは、先に位号を合す。如来に無量の徳号あり。略して十義を挙ぐ。上に説くが如し。
[128]「一切世間」は、処所を将て以て名行を定む。上には「国邑聚落」と云い、合には直だ「一切世間」と云う。通じて同居・有余・自体を指す。皆な是れ妙色・妙心の果報の処なり。如来は遍く三処に応ず。即ち「一切世間」は上の「国邑聚落」を合すなり。
[129]「於諸怖畏」の下は、上の内外の徳を歎ずるを合す。内は是れ年高衰邁にして、識達は則ち多し。如来の智断を喩う。「於諸怖畏無明永尽」は、上の「衰邁」を合して、断徳を顕わすなり。「成就無量知見」は、「其年高」を合して、智徳を顕わすなり。「力無畏等」は、上の外徳の「財富無量」を合するなり。「神力」とは、深く禅定を修して、能く神通を得。上の「田」を合するなり。「智慧力」は、智は必ず境を照らす。身の処に託するが如し。上の「宅」を合するなり。「具足方便波羅蜜」は、上の「諸僕従」を合するなり。
[130]「大慈大悲」従り下は、第二に上の第四を合す。慈悲は是れ化を施すの本、一切は是れ五道なり。恒に慈悲の被う所と為る。上の「五百人」を合するなり。
[131]「而生三界火宅」の下は、第三に上の第二の「其家」を合するなり。
[132]「為度衆生」の下は、第四に上の第六を合す。衆生に縁有れば、親しき者をば前に度す。上の「三十子」を合するなり。
[133]「生老病死等」の下は、第五に上の第五の炊然火起譬を合するなり。
[134]「教化令得三菩提」の下は、第六に上の第三を合す。教は能く理を詮す。理を尋ねて行を起こし、即ち菩提を得。故に知んぬ、教と理と共に用うるは、上の唯有一門譬を合す。若し講説して、前後をして解す可からしめば、一一に須らく方便品の譬えの本を提げて来りて之れを勘え捒うべし。後去りて例して爾り。
[135]「見諸衆生」従り下は、第二に別譬を合す。別譬に四有り。今は第一の見火譬を合す。譬えに三意有り。其の文に四有り。合も亦た四あり。但だ譬えの中には、「驚怖」は前に在り、「諸子恋著戯処」は後に在り。合の中には、「不覚不驚」は前に在り、「抜苦与楽」は後に在り。互いに現じて、其の不定を辨ずるのみ。
[136]今、一の「見」の字を以て、第一に上の第一の能見の眼を合す。即ち是れ如来の寂照の智眼の能見なり。
[137]「諸衆生為生老」の下は、第二に上の第二の所見の火の四面従り起こるを合す。此の中に八苦を火と為すことを明かす。四苦は、文の如し。「貪著追求」は、求不得苦なり。「後受地獄天上人間」は是れ五陰苦なり。「愛離怨会」は、文の如し。此の八苦は、四倒の四面従り起こるなり。
[138]「衆生没在其中」従り下は、第三に上の第四の所見火譬の「諸子不覚不知」等を合するなり。苦集を観ぜざるが故に「不厭」なり。道滅を観ぜざるが故に「不求解脱」なり。「雖遭大苦不以為患」は、上の「心に厭患せず、出ずるを求むる意無し」を合するなり。
[139]「仏見此已便作是念」従り下は、第四に上の第三の「驚怖を起こす。我れは能く此の所焼の門於り安隠に出ずることを得と雖も」の意を合するなり。「応抜其苦難」とは、即ち大悲の力なり。「与無量楽」とは、即ち大慈の力なり。
[140]「如来復作是念」従り下は、第二の捨几用車譬を合す。上の譬えに勧・誡有り。今は但だ勧を合して、誡を合せず。法説の中にも、亦た勧善のみにて、誡悪を明かさず。故に勧修を正と為し、誡悪は是れ傍なり。亦た是れ勧善は即ち誡悪、誡悪は即ち勧善なり。今、勧善を合するは、即ち誡悪を合すと知るなり。
[141]上の勧文に三有り。謂わく、擬宜・無機・息化なり。擬宜に「身手衣裓」等有り。「但以神力」とは、上の「身力」を合す。「及智慧力」とは、上の「手力」を合するなり。「讃如来知見」は「衣裓」を合するなり。「力無所畏」は、「几案」を合するなり。若し仏は初めて出で、即ち此れを用て衆生に擬せば、「衆生は此れを以て得度すること能わず」なり。
[142]「所以者何」の下は、得度せざることを釈して、上の第二の子不受勧譬を合す。正しく五濁の障重く、未だ生死等の火を免れざるに由りて、大乗の微妙なるに、入ることを得ること能わず。故に「何に由りて能く仏の智慧を解せん」と言う。此の一句は、即ち上の「唯だ一門有るのみにして、而も復た狭小なり」を合す。小の故に智を解すること能わず。智慧を解せざるは、即ち是れ行を門と為すの意なり。
[143]「如彼長者雖復身手有力而不用之」は、上の第三の善誘を放捨し無機、息化の「或いは当に堕落して火の焼く所と為る」を合するなり。此の文には放捨の語無けれども、譬え及び譬えの本には、息化の意甚だ分明なり。息化の文を二と為す。先に前後の三譬を牒し、次に正しく息化を合す。前の一譬を牒して正しく息化を帖合し、後の両譬を牒して傍ら息化を成ずるなり。
[144]「雖復身手有力而用之」、此れは前の身手救子不得譬を牒して、以て息化を合す。如来も亦た大化を寝むるなり。
[145]「但以殷勤」の下は、三を施すの譬えを牒するなり。「然後各与」の下は、第三の等賜大車譬を牒するなり。
[146]「如来亦復如是」の下の十六字は、正しく第三の息化を合するなり。
[147]「但以智慧方便」従り下は、用車救得譬を合す。上の文に四有り。此の中にも亦た四あり。「但以智慧」の下は、第一の擬宜三車を合するなり。
[148]「為説三乗」の下は、上の第二の知子先心を合するなり。
[149]「而作是言」の下は、上の第三の歎三車希有を合す。上に勧・示・証有り。今も亦た具さに合す。但だ次第せず。第一に上の第二を合す。「汝等莫得楽住三界」の下は、是れ其の尽・無生の処を示すなり。「三界」は是れ苦諦を示し、「勿貪麁弊乃至生愛等」は其の集諦を示し、「速出三界」は其の滅道を示す。滅・道は、即ち是れ其の三界の外に智断三乗の果有ることを示す。故に速やかに三界を出でて、当に三乗を得べからしむ。三乗は正しく道・滅を取って体と為すなり。
[150]「我今為汝保任此事終不虚」とは、是れ第二に上の第三の必与証得不虚を合するなり。
[151]「復作是言汝等当知」の下は、第三に上の第一の歎希有を合す、此の如きの三乗は、是れ諸仏の方便にして、物を引く儀式なり。故に「衆聖の称えらる」。無生智を得るを「自在」と為し、尽智を得るを「無繋」と為し、我が生已に尽き後有を受けざるを「無所依」と名づく、所作已に辯じ梵行已に立つるを「無所求」と名づくるなり。
[152]「若有衆生内有智性」従り下は、第四に適子所願譬を合す。上に真似等の四位有り。今の合にも亦た四あり。但だ上は総、今は別なり。三乗を各おの四と為す。皆な上の譬えを引き来りて帖合するなり。「内有智性」とは、宿習の三乗の楽欲は、三乗の智性を成ず。故に仏は三乗の教を施すなり。「内有智乃至従仏聞法信受」は、上の「父の説く所の玩好の物を聞いて、其の願に適うが故に」を合し、上の聞慧を合するなり。「殷勤」は、上の「心各勇鋭」を合す。思慧なり。「精進」は上の第二の「推排」を合す。「推」は是れ理を推し、「排」は是れ悪を排す。悪去る故に「精」、理は明らかなるが故に「進」なり。上の修慧を合するなり。「欲速出」の下は、上の第三の「競共馳走」を合するなり。「是名声聞乗」は、上の第四の「争出火宅」を合す。三乗の修行に皆な此の四有り。
[153]而して辟支仏の自然慧を求むるは、辟支は是れ法行の人にして、他に従いて法を聞くこと少く、自ら義を推すること多し。故に譬えを鹿に取る。鹿は人に依らざればなり。「自然」とは、十二縁門従り入る。此の門は本自之れ有り。仏・天人の作す所に非ざれば、「自然慧」と名づく。他に従いて聞かざれば、復た「自然慧」と名づくるなり。
[154]菩薩に「一切智」と称するは、二乗に同じからず。乃ち是れ仏智なり。菩薩は此れに望めて因を修す。即ち是れ大乗兼運の意なり。
[155]「如彼長者見諸子等安隠得出」の下は、第三の等賜大車譬を合す。上の文に四有り。一に免難、二に索車、三に等賜、四に歓喜なり。今略して第二・第四を合せざるなり。但だ免難を合するに、義は索車を兼ぬ。等賜を合するに、義は歓喜を兼ぬ。今双べて免難・賜車の二譬を牒し、然して後に双べて二譬を合す。
[156]「如彼長者」の下は、免難を牒す。「自惟財富」の下は、等賜を牒す。
[157]「如来亦復如是」の下は、免難を合す。門に三義有り。入の義、出の義、別の義なり。若し三界を宅と為し、五陰を舎と為さば、色心に迷うに由りて色心に入る。即ち是れ入宅生死の門なり。若し出と作さば、是の乗は三界従り出ず。即ち是れ仏の通教の下の所詮を禀けて門と為す。若し別の義ならば、即ち是れ別教の下の所詮を禀けて門と為すなり。今、「仏教門」と言うは、正しく是れ蔵・通の二教の下の理を、共に門と為して、三界を出でて難を免るるを得るなり。
[158]「如来爾時便作是念」の下は、等賜を合するなり、上の等賜は、先に二章門を列し、二に広説し、三に釈出す。今の合は闕略す。文は小しく次第せず。「如来爾時便作是念我有無量智慧力」の下は、第一に上の第四に車有るの由を釈するを合す。上には「財富無量庫蔵充溢」と云うなり。「是諸衆生皆是我子」の下は、第二に上の第五の等心を広くするを合す。上には「我財物無極不応以下劣小車」と云うなり。「不令有人独得滅度皆以如来滅度而滅度之」は、豈に等心の義を合するに非ざらん。「是諸衆生脱三界」の下は、第三に上の第一の等心章門を合す。上には「各賜諸子等」と云うなり。「諸仏禅定解脱等」の下は、第四に上の第二の標車章門を合す。「皆是一相一種」の下は、第五に上の第三の正しく大車を広くするを合す。通じて上の「高広乃至僕従」等を合す。「一相」は是れ実相にして、即ち法身なり。「一種」は是れ種智なり。般若は能く浄妙の楽を生ず。楽は即ち苦無ければ、名づけて解脱と為す。三徳は高広にして、荘厳を具足し、衆徳を収羅するを、摩訶衍と名づく、上の大車譬を合するなり。
[159]「如彼長者以三車」の下は、第四の不虚譬を合す。上の答に二有り。一に身命を全うし、二に本心に乖かず。各おの三別有り。今は但だ本心に乖かざるを合して、全身を兼ね得。何となれば、仏意は本と其の五濁を除かんが為めにして、五濁は既に尽くれば、大善自ら全うす。上の心に乖かざるに、三有り。一に標、次に釈、三に況なり。今は但だ釈を合し、況を合するのみ。
[160]初めに三車もて誘引し、後に大車を与うるの譬えを牒す。次に如来は初めに三乗を説いて誘導し、然して後に但だ大乗を以てするのみなるを合す。此れは本心に乖かざるを解釈するを合す。上には「先作是意我以方便令子得出」と云うなり。「何以故」の下は、上の第三の況出不虚を合す。即ち是れ長者は自ら財富無量なることを知り、諸子を饒益せんと欲す。故に三を許して一を与う。是れ虚に非ざるなり。此の釈は小しく前に異なる。前の意は、諸子をして出ずることを得せしめんが為めなれば、意は三に在らず。既に出でたるに与えざれば、亦た虚妄に非ず。今、如来の出世は本と大を説かんと欲すれども、但だ小智は三界に楽著するが為めの故に、方便を以て誘引し、既已に出ずることを得れば、還って大乗を与うるに、即ち本心に称うことを明かす。故に「能く衆生に大乗の法を与うるも、但だ尽くは受くること能わず」と言うなり。若し『華厳』の中に能く受けば、即ち為めに大を与えて、一を開いて三と為すことを俟たず。受くること能わざる者には、「方便力を以て、一仏乗に於いて、分別して三を説く」三は衆生に由り、仏の本意に非ず。故に此れを用て、本心に乖かざる不虚を釈成するなり。