[1]第五に識通塞とは、亦は得失を知ると名け、亦は字非字を知ると名く。上の破法遍の如きは応に通じて無生に入るべし、若し入らずんば当に得失を尋ぬべし、必ず是非に滞らん。一向に解を作すことを得ず、何となれば、若は、外道に同じく、空を観ずるの智慧に愛著せば、宣しく四句を以て遍く破すべし。能破は所破の如くし、衆の塞をして通ずることを得しむ。若は、空を観ずるの智慧に執せざるときは、則ち、能破は所破の如くならず、但塞を破し通を存す。膜を除きて珠を養ひ、賊を破して将を護るが如し。若し爾らば即ち大導師は善く通塞を知り、衆人を将導して能く五百由旬を過ぎん。旧の云はく、「六地に見思尽くるを三百と為し、七地、八地を四百と為し、九地、十地を五百と為す」と、此義は「釈論」に乖く、論は二乗を以て四百と為す、二乗の道は七地、八地に非ず。「摂大乗の人は三界を以て三百と為し、方便、因縁の両の生死足して五百と為せば、則ち義を摂すること尽きず、更に有後生死、無後生死有り、何れの百に属せんや。「地大」は十信、住、行、向、地を以て五百と為す、此は「法華」に乖く、「法華」は三百由旬を過ぎて化城を作す、此は則ち二百由旬に化城を作せり。復有人の解するに、三界を三百と為し、二乗を足して五百と為す。此義に三の失あり、一には三界の外に出でて化城を立つ、云何ぞ二乗、界外に出でて城に入らず、更に四百五百に行かん、四百五百の外、更に化城無し、何の入る可き所ありて而も二乗と称せん、二には化城を滅して方に進むことを得べし、城猶ほ未だ滅せずして而も輙く四百五百に進まんや、三には二乗共に化城に入る、云何ぞ声聞を四百と為し、支仏を五百と為んや。有大は、五住煩悩を以て五百と為す、然るに二乗は已に四住を断ず、応に是れ四百由旬の外に化城を立つべし。有人は、三界の思を断ずるを以て三百と為し、塵沙を四百と為し、無明を五百と為す、此も亦然らず、由旬は本、煩悩を譬ふ、云何ぞ見の多きに而も数へざる、思の少きに三百と為さん。此名義は本「法華」に出づ、「法華」に五百を挙げて譬の本と為す、生死の険道、導師の観知を以て之を合し、応に三番と作して五百を明し、乃ち経に会すべきのみ。一には生死の処所に就き、二には煩悩に就き、三には智慧に就く。諸師の釈は、方、円、動、息にして文と会せず、一孔の匙を持つて三須の鑰を開くが如し。初家は通位に約し、四百に就きて化城を立つ。摂家は生死に約して二種を荒外に割く。地家は別位に約し、界内に在りて化城を立つ。次の家は径侹あり、開権を待たずして即ち自ら顕実す。人師の過此の如し、「釈論」の意や云何。「論」に二文有り、初めには、二乗を以て四百と為し、而して止めて五百を作さず、後の文には二乗を以て一百と為す。今は之を論ず、論は通の意を明すなり。通家は真諦を以て極と為し、三界を過ぐるのみ、未だ化城を破せず、但涅槃に入る、即ち涅槃を指して四百と為すのみ、而して復二乗を以て一百と為すは、更に出仮の菩薩の空従り仮に出るを、涅槃に非ざれば一百と為し、三界に入るを三百と為すことを明す。此の如く文を消することを作せば経論に於て妨げ無きなり。今、五百由旬を明すは、一には生死の処所に約す、謂く三界の果報を三百と為し、方便有余土、実報無礙土を是を五百由旬の処所と為す。次に煩悩に約せば所謂見諦の惑を一百と為し、五下分を二百と為し、五上分を三百と為し、塵沙を四百と為し、無明を五百と為す。次に観智に約せば空観の智は三百を知り、仮観の智は四百を知り、中観の智は五百を知る。此は文と会して前の諸師の過無きなり。又諸師、位を判ずること遼遠なり、初心の行人、尚ほ未だ見を断ぜず、何に由つてか五百由旬を超過せんや。

 [2]今、由旬を論ずるに横の通塞あり。竪の通塞あり。横とは具に三法に約す、苦集を塞と為し、道滅を通と為す、無明十二因縁を塞と為し、無明滅するを通と為す、六蔽の心を覆ふを塞と為し、六度を逋と為す。竪の通塞とは、見思分段の生死を塞と為し、従仮入空の観を通と為す、無知方便の生死を塞と為し、従空入仮の観を通と為す、無明因縁生死等を塞と為し、中道の正観を通と為す。今当に横を以て豎を織り、通塞を検校すべし。従仮入空の如き、諸の見思を破す、単複具足無言等の見、九九八十一の思あり、斯の如き諸の惑は本是れ汗穢なり、煩悩を増長し行人を遮塞す、那ぞ忽に取著して是と謂ひ非と謂はん、諸の結業を起して生死に漏落す、唯苦集配見て道滅を見ず。鴕に見思の中の四諦を識らず、是事知らざるを名けて無明、乃至、老死と為す、但、因縁を構へ、無明滅せず。不滅の故に堅く著して捨て叵し、唯此岸に在りて彼岸に到らず。「大経」に云はく、「童子の飢うる時は糞中の果をも取る、智人、之を呵するに赧然として愧づること有り」と、浄法を失する、是を名けて塞と為す。若し諸見に於て介爾も心を起せば性実無く常無く主無しと知る、倒破すれば則ち業無し、業無くんば則ち果無し。是を名けて道と為す、道の故に滅あり、若し四諦を識れば則ち無明無く、亦老死も無し、因縁壊するが故に則ち諸有を捨て彼岸に到る。当に此意を用て一一の心を歴、一一の能に歴、一一の所に歴て、若し三の塞を起きば、之を破して通ぜしむ、若し是れ三通あらば、養ひて成就せしむべし。復次に見即空なりと体す、能体も亦即空なり。羅漢の心の如きは尚ほ無漏の五陰と名く、我観未だ真ならず、那ぞ陰に非ざることを得ん。若し陰実を計するときは則ち結業の生死なり。若し陰の四諦を識らざれば即ち是れ無明なり。若し空を観ずるの智慧を愛するときは則ち捨つること能はず。即空の慧を用て一一の心に歴、一一の能に歴、一一の所に歴て、若し三塞あらば、之を破して通ぜしむ、若し是れ三通あらば養ひて成就せしむ、則ち巧みに見思の塞を過ぎて善く三百由旬に通ずるなり。次に横を用て豎を織り、従空入仮観の通塞を検校すれば、此れ則ち解し易し。病法薬法授薬法に於て、一一の法、一一の能、一一の所に於て、明かに諦、度、縁を識り、若し三の塞を起すときは之を破して通ぜしめ、若し三の通あらば養ひて成就せしめよ、則ち無知の塞を過ぎて四百由旬に通ぜん。次に横を用て豎を織り、中道の正観を検校せば、無明、法性、真縁等に於て、一一の法、一一の能、一一の所に、明かに諦、縁、度を識り、若し三の塞を起すは之を破して通ぜしめ、若し三の通あらば養ひて成就せしめよ、則ち無明の塞を過ぎて五百由旬に通ぜん。若し此の如く通塞を論ずることを為さば、次第して豎に六地、初地を論ず、動ずれば劫数を経て塞乃ち通ずることを得。「大経」に云はく。「須陀洹は八万劫に到る、乃至、支仏は十千劫に到る」と、菩薩の初発心住に到るなり。此は聖位を論ず、何ぞ初心の行人に益ある者あらんや。復次に横別に約して通塞を論ずるは、「大品経」に云ふが如し、「菩薩有り、初発心より即ち薩婆若と相応す」とは、空と相応するなり。若し初め未だ相応せずんば、当に謗、縁、度を用て一一の心を検し、若し三の塞あらば之を破して通ぜしむ、若し三の通あらば養ひて成就せしむべし、三百由旬を過ぐることを得ん。又云はく、「菩薩は初発心より、即ち能く遊戯神通して仏国土を浄む」と。此は是れ出仮の意なり。若し初発心に仮を修するは、亦諦、縁、度を用て一一の心を検し、塞を破し、通を養ひて四百由旬を過ぐ。又云はく、「菩薩有りて初発心より即ち能く道場に坐し、正覚を成ず」と、此れ即ち中の意なり、若し初発心に中を修すれば亦諦、縁、度を用て一一の心を検し、塞を破し通を養ひて五百由旬を過ぐ。此の如く説かば初心に通塞を論ずることを得と雖も、而も三法各別なり。「大論」に三喩を引く、一は則ち歩渉。二は則ち乗馬、三は則ち神通なり。歩馬の両行は須らく通塞を知るべし、神通は無礙なり、塞も遮ること能はず、山壁も皆虚なり、何の通か択ぶべけん。初観は歩に喩へ、次観は馬に喩へ、後観は飛に喩ふ、三義分張す、亦今の用ふる所に非ざるなり。

 [3]若し豎に三観を論ずれば、両観は当地を通と為し、上に望めて塞と為す。後の一観のごときは下に勝るるを通と為し、小を隔つるを塞と為す。横に三観を論ずれば、当分を通と為し、相収めざるを塞と為す。法相は浅深あり、任に通塞有るなり、況んや復申に於て苦集、無明、蔽等を起す、是故に皆塞にして復通有ること無し。若し一心三観の法相は、即ち賢の中の通塞を破す、三観一心は横の中の通塞を破す。空即ち三観なり、故に歩渉、山壁、三百の通塞を破す。仮即ち三観なり、乗馬、四百の通塞を破す。中即ち三観なり、神通の通塞を破す。良に一心能く即空仮中なれば一切の山河、石壁、衆魔、群道、皆虚空の如し、一心三観は之に遊ぶこと無礙なり、終に下を去つて高きを陵ぎ山を避けて谷に従はず、触応の諸塞、皆通じて無礙なることを以て、能く五百由旬を過ぎて宝所に到る。是を名けて通と為す。通は本塞に対す、既に触応空の如くなれば則ち復塞有ること無し。塞無くんば則ち通無し、若し塞無く通無きに於て、苦集、無明、障蔽を起さば、但神通を失するのみに非ず、又馬歩を失す、能破は所破の如く、字非字と為るは、彼の虫道の偶三観の名を得れども、是虫は是字、非字を知らざるか如し。若は一一の法、一一の能、一一の所に於て皆即空、即仮、即中にして謗、縁、度を具す、是を通無く塞無く雙べて通塞を照すと名く。是を、智者は字非字を識ると為す。亦良医は得を知り失を知ると名く。

 [4]無生の門に於て明かに通塞を識らば、余の法門に於ても亦是の如し。

 [5]是を、初心、五百由旬を過ぐと為す、応に六即の義を明すべし云云。

 [6]問ふ、通、塞、得、失、字、非字、一と為んや異と為んや。答ふ、此は是れ一意なるを種種に説くのみ。亦、差別あり、通塞は解に約し、得失は行に約し、字、非字は教に約す。「金光明」に云はく、「正しく聞き、正しく聴き、正しく分別し、正しく縁を解し、正しく能く覚了す」と。字非字を知るは是れ正しく聞き正しく聴くなり。得失を知るは是れ正しく分別し正しく縁を解するなり。通塞を知るは是れ正しく能く覚了するなり。此差別ありと雖も同じく一致を顕はすのみ。

 [7]問ふ、横の塞は豎の通を塞ぐや不や、豎の塞は横の通を塞ぐや不や、横の通は豎の塞を通ずるや不や、豎の通は横の塞を通ずるや不や。答ふ、一往は然り、二往は然らず。然りとは、無明は即ち見思なり、何の意か横の障に非ざらん、中智は一切を治す、何ぞ横の塞を通ぜざらん、此は是れ一往然る義なるのみ。若し二往の釈ならば、横の塞は障近し、豎の通を塞ぐこと能はず、横の通は力弱し、豎の塞を通ずること能はず、豎の塞は深遠なり。横の障と作らず、豎の通は対当別なり、横の塞を通ぜざるのみ。

 [8]第六に道品調適を明さば、道品に四有り、一には当分、二には相摂、三には約位、四には相生。一に当分を明さば、未だ必ずしも品に具して方に能く道を得るにあらず、三の四、二の五、単の七、隻の八、当分是れ道なり、故に云ふ、当に念応に依つて道を得べし。又云はく、是れ道揚と、又云はく、是れ摩訶衍と、念応既に爾り、余品も亦然なり、是を当分の道品と為す、而して調停に非ざるなり。二に相摂を明さば、念応の一法の如き、皆諸晶を摂す。「釈論」の文を引きて云はく、「念応既に余品を摂すれば、余品も亦念応を摂す」と、是々相摂の道品と為す、亦調停に非ざるなり。三に約位とは、念応の如き其位に当る、正勤は是れ煖位、如意足は是れ頂位、五根は是れ忍位、五力は是れ世第一の位、八正は是れ見謗の位、七覚は是れ修道の位なり、此は是れ位に約す、亦調停に非ざるなり。四の相生とは、念応を修するが如き、能く正勤を生ず、正勤は如意足を発し、如意足は五根を生じ、五根は五力を生じ、五力は七覚を生じ、七覚は八正道に入る、是を善巧調適と為す、戒定慧等に皆名けて正と為し、清浄心常に一なるときは則ち能く般若を見る、是を相生と為す、亦是れ調適なり。

 [9]此を須ふる所以は、上来法を破すること遍く通塞を識ると雖も、若し、道品を調停せずんば、何ぞ能く疾かに真法と相応せん。真法を無漏と名く、道品は是れ有漏なり、有漏能く無漏の方便と作る、方便、所を失すれば真理会し難し。洒を釀す法の如し、酵煖宣しきを得れば水、変じて洒と成る、麹蘗度を失すれば味則ち成ぜず。「大論」に云はく、「三十七品は是れ行道の法なり、涅槃の城に三門あり」と。三門は是れ近因、道品は是れ遠因なり、是義の為の故に応に道品調停を須ふべし。

 [10]問ふ、道品は是れ二乗の法なり、云何ぞ是れ菩薩の道ならんや。答ふ、「大論」に此間を呵す。誰か此語を作す、三蔵、摩訶衍、皆是跪を作さず、那ぞ独り「是れ小乗の法なり」と云ふことを得ん。「浄名」に云はく、「道品は善知識なり、是に由つて正覚を成ず、道品は是れ道場なり、亦是れ摩訶衍なり」と。「涅槃「に云はく、「能く八正道を修する者は即ち仏性を見る、醍醐を得と名く」と。「大集」に云はく、「三十七品は是れ菩薩の宝炬陀羅尼なり」と。此の如き等の経皆道品を明す、何れの時か独り是れ小乗なる。若し「大経」に云はく、「三十七品は是れ涅槃の因なり、大涅槃の因には非ず、無量阿僧祇助菩提の法は是れ大涅槃の因なり」とは、道品の外、別に道品有ること無し。四諦の外に第五諦無きが如く、一種の苦集は爪上の土の如し、苦集を分別すれば無量の相有りて十方の土の如し。直に一の三十七品を明す、是れ涅槃の因なり、復無量の三十七の助道品有り、大涅槃の因と名く、云何が無量なる、四種の道諦有るが故に十六門有るが故なり、又、有漏の道品は、欲界に二十二、未到に三十六、初禅に三十七あり、皆有漏の道品にして乳の如し、三蔵の道品は酪の如く、通教の道品は生酥の如く、別教は熟酥の如く、円教は醍醐の如し。「大経」の文義此に合す、道品の外に別に助法有るに非ざるなり。或は言はく、三十七品は是れ助道なりと、或は言はく、是れ正道なりと。「大論」に云はく、「是れ菩薩の道なり」と、此文は正に似たり。「浄名」に云はく、「道品は善知識なり、是に由つて正覚を成ず」と、此文は助に似たり。又若し、三十七品は是れ有漏なりと言はば、云何ぞ、七覚を是れ修道と言ふや。「法華」に云はく、「無漏根力は覚道の財なり」と、云何ぞ八正は七覚の前に在るや。此れ応に三句をもつて分別すべし、一には三十七品は皆是れ有漏、二には皆是れ無漏、三には亦有漏亦無漏。「大論」に云ふが如き、「八正道を修すれば、初めの善有漏の五陰を得」と、善有漏の五陰は即ち是れ煖法なり、煖法の前、尚ほ八正道を修することを得。云何が修するや、初め師に従つて法を受け、心を繋けて憶念することを念応と名く、此法を求むるが為に勤めて此を行ずるを正勤と名く、一心の中に修するを如意足と名く、五善根の生ずるを根と名く、根の増長するを力と名く、道用を分別するを七覚と名く、安隠道の中に行ずるを八正道と名く、能く是の如く修するは善有漏の五陰を得るなり。当に知るべし、道品、皆是れ有漏なることを。皆是れ無漏とは、即ち是れ見諦思惟所行の道品、一向に是れ無漏なり、「法華」の文意此に在るなり。従来、有漏の中、八正、七覚等を修することを得と言ふと雖も、未だ文証有らず。而して、「婆沙」に云はく、「若し八正が七覚の後に在らば亦是れ有漏なることを得、亦是れ無漏なることを得」と。何を以ての故ぞ、八正に依つて見諦に入る、即ち是れ亦無漏なり、若し八正が七覚の前に在らば一向に是れ無漏なり、此れ則ち解す可し。「婆沙」の文を引きて二意を証成す、又亦、漏、無漏即ち是れ対位の意なり。

 [11]諸の道諦三十七品今具には記せず、但、無作の道謗三十七品を明して一心三観の義を成ずるなり。

 [12]「大品」に云はく、「一切種を以て四念応を修せんと欲せば、念応は是れ法界、一切の法を摂す、一切の法は念応に趣く、是趣は過ぎず」と。「華厳」に云はく、「譬へば大地の一にして能く種義の芽を生ずるが如し、地は是れ諸芽の種なり」と。「法華」に云はく、「一切の種相体性は皆是れ一の種相酸性なり」と。何をか一種と謂ふや、即ち仏の種相体性なり。常途に云はく、「法華」は仏性を明さずと、「経」に一種を明す、是れ何の一種ぞや。卉木叢林の種種、七方便を喩ふ、大地の一種は即ち一実事、仏種と名く。

 [13]今一念の心起るに不可思議なり、即ち一切種、十界の陰入相妨礙せず。若し法性の因縁より生ずる故に一種一切種なりと観ずるときは、則ち一色一切色なり。若し法性空の故に一切色一色なれば則ち一空一切空なり。法性仮の故に一色一切色なれば一仮一切仮なり。法性中の故に一に非ず一切に非ず雙べて一一切を照す、亦空に非ず仮に非ず雙べて空仮を照すと名くれば、則ち一切は空に非ず仮に非ず雙べて空仮を照すなり。九法界の色の、即空即仮即中なることも、亦復是の如し、是を身念応と名く。若し法性の受を観ずるに、法性の因縁より生ずるが故に一種一切種なり、一受一切受なり。法性の受空なるが故に一切受一受なり、一空一切空なり。法性の受は仮名なるが故に一受一切受なり、一仮一切仮なり’。法性の受は中なるが故に一受に非ず一切受に非ず、空に非ず仮に非ず雙べて空仮を照す、則ち一切は空に非ず仮に非ず雙べて空仮を照すなり。九法界の受の、即空即仮即中なることも亦復是の如し、是を受念処と名く。若し法性の心を観ずるに、因縁生法にして一種一切種なれば、一心一切心なり。法性空の故に一切心一心なり、一空一切空なり。法性仮の故に一心一切心なり、一仮一切仮なり。法性中の故に一に非ず一切に非ず、空に非ず仮に非ず雙べて空仮を照すなり。九法界の心も亦復是の如し、是を心念処と名く。若し法性の想行両陰を観ずるに、因縁生法にして一種一切種なれば一行無量行なり。法性空の故に一切行一行、一空一切空なり。法性は仮なるが故に、一行一切行、一仮一切仮なり。法性中なるが故に一に非ず一切に非ず、空に非ず仮に非ず、雙べて空仮を照す、一切は空に非ず仮に非ず、雙べて空仮を照すなり。九法界の想行、皆即空即仮即中なること亦復是の如し、是を法念処と名く。

 [14]是の如く念処は力用広博にして義は大小を兼ね、倶に八倒を破し、雙べて栄枯を顕はし雙べて栄枯に非ず、即ち中間に於て般涅槃に入る、亦は坐道場と名け、亦は摩訶衍と名け、亦は法界と名く。兼広の義、其相や云何。法性の色は実に是れ浄に非ず、而も凡未は横に計して浄と為す、是を顛倒と名く。実に不浄に非ず、二乗の人は横に不浄と計す、是を顛倒と名く。今、色種を観ずるに即ち空なりとは、一切即空なり、空の中に浄無し、云何ぞ染著せん。是を凡未の計浄の倒破して枯の念処成ずと名く。色種即ち仮なれば一切皆仮なり、名相を分別するに窮尽すべからず、仮智は常に浄なり、無知塵惑の為に染せられず、云何ぞ空に滞つて而も灰滅を取りて色は不浄なりと言はん。是を二乗の不浄倒破して、栄の念処成ずと名く。是を八倒倶に破して枯栄雙べ立すると名くるなり。色の本際を観ずるに空に非ず仮に非ざれば則ち一切は空に非ず仮に非ず、空に非ざるが故に不浄の倒に非ず、仮に非ざるが故に浄の倒に非ず、浄の倒に非ざるが故に則ち栄樹に非ず、不浄の倒に非ざるが故に則ち枯樹に非ず、枯に非ず栄に非ざれば則ち二辺に非ず、辺無く中無きを乃ち中間と名く。仏は此理に会するが故に涅槃と名く、亦是れ浄に非ず不浄に非ず、八倒の生ぜざるを名けて涅槃と為す、是の如きの涅槃を秘密蔵と名く。諸子を秘密蔵の中に安置して、仏自ら中に住す、故に入ると言ふなり。法性の受は本是れ楽なるに非ず、而も凡未の人は横に計して楽と為す、是を顛倒と名く。宝に是れ苦なるに非ず、二乗の人は横に計して苦と為す、今受の種を観ずるに即ち空なり、一切皆空にして空の中に楽無し、云何ぞ染を生ぜん、則ち凡未の倒破して枯の念応成ず。受種は即ち仮、一切皆仮なり、無所受を以て而も諸受を受く、名聞分別に厭畏を生ぜず、云何ぞ之を棄て、況空灰断せん、二乗の倒破して栄の念応成ず、是を二倒雙べ破して枯栄雙べ立すと名く。受の本際を観ずるに即ち空に非ず仮に非ず、空に非ざるが故に枯に非ず、仮に非ざるが故に栄に非ず、辺倒の生ぜざるを名けて涅槃と為す、中間理顕はるるを秘密蔵と名く。皆上に説くが如し云云。法性の心は本是れ常なるに非ず、凡未は横に計す、是を常倒と名く。法性は実に無常なるに非ず、二乗は横に無常と計す、今心の種を観ずるに即ち空、一切即空なり、空の中常に非ず、云何ぞ心は念念相続すと謂はん。是を凡未の常倒破して枯の念応成ずと名く、心は即ち仮名、一切悉く仮なり、心若し無常ならば那ぞ無量の心相を分別することを得ん。是を二乗の無常倒破して栄の念応成ずと名く。又、心は即ち空に非ず仮に非ず、空に非ざるが故に無常に非ず、仮に非ざるが故に常に非ず、栄に非ず枯に非ず、辺倒の生ぜざるを涅槃に入ると名け、中道の理顕はるるを秘密蔵と名く、諸子を安置して自ら亦中に入る云云。法性の法は本我あるに非ず、凡未の人は横に我有りと計す。本我無きに非ず二乗の人は横に我無しと計す。今法性を観ずるに即ち空、一切皆空にして空の中に我無し、是を凡未の倒破して枯の念応成ずと名く。法性は即ち仮、一切皆仮なり、施設自在にして滞らず、我の義具足す、是を二乗の倒破して栄の念応成ずと名く。法の本際を観ずるに即ち空に非ず仮に非ず、空に非ざるが故に我無きに非ず、仮に非ざるが故に我に非ず、辺倒生ぜざるを涅槃に入ると名け、中間の理顕はるるを秘密蔵と名く。

 [15]倒を治するの法薬、其数四あり、法性の観智、之を名けて念と為し、一諦三諦、之を名けて応と為す。一切即空なれば諸倒栄枯も空寂ならざること無く、一切即仮なれば二辺雙樹も成立せざること無く、一切即中なれば法界に非ざること無し。祇一念の心の広遠なること此の若し、若し能く深く念応を観ずれば、是れ道場に坐す、是れ摩訶衍、是れ雙樹の間において槃涅槃に入るなり、始終具足して更に余の法を修することを須ひず。若し入らざる者は、更に余の品を研めよ。

 [16]勤めて念応を観ずるを正勤と名く、見思本より起るを已生の悪と名く、即空を観じて已生をして生ぜざらしめんが故に勤めて精進す。塵沙、無明を未生の惑と名く、即仮、即中を観じて、未生をして生ぜざらしめんが故に勤めて精進す。力を竭し誠を尽して四の三昧を行じ、此二悪を遮す。一切智を已生の善と名く、此善は生じ易し、故に泥洹の道は得ること易しと言ふなり。道種智、一切種智を未生の善と名く、此分別智は生すること難し、空智の已に生ずるを勤め、加へて増長せしめ、中智の未だ生ぜざるを、開発することを得しむ、三観無間、祇此二智を生ぜんが為のみ。是四正勤も亦能く道を悟る、故に一心に勤め、精進するが故に三菩提を得と言ふ、余の法を須ひず。若し入らざる者は当に是を勤めずして、心過つて散動すべし。須らく善寂に入るべし。審に心性茫観ずるを名けて上定と為し、上定の中に於て如意足を修す。

 [17]欲、精進、心、思惟、欲とは専ら彼法に向ふ。亦は彼法を荘厳すと名く。定中の観智は密室中の灯の物を照すに則ち了かなるが如し。照了を以ての故に断行成就して如意足を修す。精進とは彼法を成就す、法性は動ぜすして而も寂然たり、精進は無間無雑にして断行成就し、如意足を修す。心とは正しく住す、彼法を観察して一心の中に縁す、之を一応に制し、事として弁ぜざること無し、断行成就して如意足を修するなり。思惟とは、善能く彼法の方便を分別す、此の如く思惟して動散せしめす、定んで思惟するが故に断行成就して如意足を修す。能く此の如く修するは定心にして而も入る、余法を須ひず、若し入らずんば当に五根を修すべし。

 [18]三諦の理を信ず、是れ三世の仏母なり、能く一切の十力、無畏、解脱、三昧を生ず。但念応を修して余法を求めず、是を信根と名く。進とは、信を以て諸法を摂す、諸法を信ずるが故に倍策つて精進す。念とは、但正助の道を念じて邪妄をして入ることを得しめず、又此法は精進の為に修せらる、是法、忘れざるか故に念根と名く。定とは、一心寂定にして而も精進を行ず、又此法は念の為に摂せらる、是法忘れす動ぜす、故に定根と名く。慧とは、念応の慧なり。定法の為に摂せらる、内性自照して、他に従つては知らず、是を慧根と名く。但五根を修するも亦能く道に入り。摩訶衍を成ず。若し入らずんば進んで五力を修し、根をして増長せしめ、諸の煩悩を遮す、之を名けて力と為す。

 [19]信は諸の疑を破して能く動ずる者無し。精進は懈怠を除きて本願ふ所の如き皆成就することを得。念は邪想を破して煩悩の為に壊せられず。定は散乱を破して慣閙を遠離す、所説有りと雖も初禅を礙へず、善く覚観は住すれども二禅を礙へず、心に歓喜を生ずれども三禅を礙へず、衆生を教化すれども四禅を礙へず、四禅の法を妨ぐれども諸定を妨げず、亦定を捨てず亦定に随はず、是を定力と名く。慧は邪執を破す、一切の執、一切の慧、雙べ照し具足す、是を慧力と名く。是の如きの五力を摩訶衍と名くるなり。若し入らざる者は七覚を用ひて均調せよ。

 [20]心の浮動する時除覚を以て身口の麤を除き、捨覚を以て観智を捨て、定心を以て禅に入る。若し心の況む時は精進択喜之を起す、念は通じて両虎を縁ず。此七覚を修して即ち道に入ることを得。「大論」に云はく、「若し五蓋を離れ、専ら七覚を修して入ることを得ずといはば、是応あること無し」と。若し入らざる者は八正道を修せよ。

 [21]更に出世上上の正見を以て三謗の理を観ず。正思惟を以て此観を発動す。法相の如く説き、自他倶に益す、即ち是れ正語なり。若は黑業は黑報を得、白業は白報を得、雑業は雑報を得、非白非黑業は非白非黑報を得、小乗に約して作ること解すべし、今言はく、況空は是れ黑業、出仮は是れ白業、両兼ぬるは是れ雑業、中道は是れ非白非黑業なり、皆邪命と名く。若し業能く業を尽すを、名けて正業と為す、此に依つて而して行ずるを名けて正業と為す、正業は二辺の為に牽かれず、他の得利を見て心に悩熱せずして、而も己が利に於て常に止足を知る、是を正命と為す。善く正諦に入るを正精進と名く。心、動失せず正直にして忘れざるを正念と名く。正しく住して決定するを正定と名く。是八正道に因つて即ち理に入ることを得。「大経」に云はく、「若し能く八正道を修すること有る者は、即ち醍醐を得るなり」と。

 [22]是の如きの道品、是を位に対するに非ず、但、初心に於て法性の理を観ずるに即ち具足することを得。「大論」に云はく、「四念応の中、四種の精進を四正勤と名く、四種の定心を四如意足と名く、五善根の生ずるを名けて根と為す、根の増長するを名けて力と為す、四念応の道用を分別するを名けて覚と為す、四念応の安穏道の中に行ずるを八正道と名く」と。故に知んぬ、初心に道を行ずるに三十七品を用て止観を調養し四種三昧して菩薩の位に入るを。此の如きの道品は、是れ大涅槃の近因なり、余の諸の道品は名けて遠因と為す云云。

 [23]今、譬を以て此義を顕さん。種を地に植えて芽觜初めて開き、根を生じて下に向ひ、枝葉上に布き、其華敷栄して果を結び実を成ず。法性法界を大地と為し、念応観を種子と為し、四正勤は芽を抽んずるが如く、五根は根を生ずるが如く、五力は莖葉の増長するが如く、七覚は華を開くが如く、八正は果を結ぶが如し。果を結ぶ者は即ち是れ銅輪の位に入り、無生忍を証す、亦は宝所に到ると名け、亦は秘蔵に入ると名け、亦は醍醐を得と名け、亦は仏性を見ると名け、亦は法身顕はれて八相作仏すと名く。道品は善知識なり、是に由りて正覚を成ずとは此謂なり。若し通逾に道樹を釈せば、「大品」に明すが如し、「三悪道を離るるを葉益と名け、人天の身を得るを華益と名け、四道果を得るを果益と名く」と。此は偏に空に就て釈を為すのみ。二乗の地を免がるるを葉益と為し、変通の身を得るを華益と為し、道種智を具するを果益と為す。此は偏に仮に就て釈を為すのみ。二辺の縛を免がるるを葉益と為し、法性の身を受くるを華益と為し、仏性に証入するを果益と為す。此は偏に中に就て釈を為すのみ。若し総じて三観に就かば、即空を葉益と名け、即仮を華益と名け、即中を果益と名く云云。

 [24]復次に、三十七の道品を行じ、将に無漏城に到らんとするに、城に三門あり、若し此門に入らば即ち真を発することを得、空、無相、無作の門を謂ふ、亦は三解脱門と名け、亦は三三昧と名く。若し、正見、正思惟従り定に入り、定従り無漏を発するは、是時正見の智を大臣と名け、正定を大王と為す、此に従つて名を得、三三昧と名く、智に非ずんば禅ならずとは即ち此の意なり。若し正定に由つて正見を生じ、正見従り無漏を発するは、是時は正定を大臣と為し、智慧を大王と為す、此に従つて名を得、三解脱と名く、禅に非ずんば智ならずとは、即ち此意なり。或は、三昧は是れ伏道、解脱は是れ断道、証道なる可し。或は定慧合するが故に三昧即ち解脱、解脱即ち三昧たる可し。

 [25]若は三蔵は、苦の下の空、無我を以て是れ空門といひ、滅の下の四行を是れ無相門といひ、集道の下の八行、苦の下の両行を是れ無作門といふ、此十六行の王臣等云云。若し通教には、苦集皆幻化の如しと明す、即ち空門なり。「古釈論の本」に云はく、「若し極微の色を観ずるときは則ち十八空有り」と。「今の本」に云はく、「若し一端の疊を観ずるときは則ち十八空有り」と。疊は是れ仮名にして極微は実法なり、此を以て異と為す、若し意を得れは仮実皆空なるのみ。若し未だ空に入らずんば、情想戯論して空の相有りと計す、空に空の相無しと知るを無相門と名くるなり。空の相は空なりと雖も猶ほ観智を計す、既に能所無し、誰か空観を作さん、是を無作門と名く。既に作者無し、誰か願求を起さん、亦は無願と名く。此三三味の王臣云云。別教のごときは従仮入空を明し、真謗を証するを空三昧と名く。二乗は但此空を証す、猶空の相有り。菩薩は、空は空に非ずと知り、仮に出でて物を化す、復空の相無し。是を無相三昧と名く。進んで中道を修するに中辺の相無し、亦中辺を求めざるを無作三昧と名く。此三観智の王臣云云。復次に別して出仮の意に約せば、無量の薬病を分別するに悉く是れ仮名なり、仮名にして実無し、実無きが故に空なり、是を空門と名く。空も尚ほ空の相無し、況んや仮の相有るをや、故に無相門と名く。空仮に相無し、亦病を知り薬を識ることを願求せず、故に無願と名く。此出仮の智の王臣云云。

 [26]別して円に約せば、名は前に同じと雖も、意義は大いに異り。「大論」に云はく。「声聞は空を縁じて三解脱を修し、菩薩は諸法実相を縁じて三解脱を修す」と。智者は、空及与び不空を見る、此空、不空は亦中道と名く、若し此空を見れば即ち仏性を見るなり。又、二乗は夢中の十八事を観ずるに、夢中の内事の不可得なるを、内法空と名く、夢の外事の不可得なるを、外法空と名く、乃至、夢中の十八の有の不可得なるを、十八空と名く。今円観は、眠法は不可得にして、内法無く、眠より生やる所の一切の内法皆不可得なるを内法空と名く。一切の法は此内空に趣きて眠に外法無し、眠より生ずる所の一切の外法の不可得なるは、即ら外法空なり。一切の法は此外空に趣く。乃至、眠法の十八種の有の不可得なるを十八空と名く、一切の法、十八空に趣きて十八縁に歴るを十八空と名く、但是れ一空なり。「方等」に云はく、「大空、小空、皆一空に帰す、一空とは即ち法性実相にして諸仏の実法なり」と。「大品」は「独空」と云ふなり。前に無明を観ずるが如き、四句不可得なり、一空一切空にして四門分別の相を見ず、縁に非ず真に非ず、誰の作す所も無けん。王臣云云。是の如く空即ち無相、無作、及び一切法なり、一切法も亦是の如し、当に知るべし、一解脱門は即ち三解脱門、三解脱門は即ち一解脱門なり。又、四門の中皆三解脱を修して互に障礙すること無し。此の如きの三門なれば意次第するに非ず、別しては次第すと雖も皆実相を縁ず。又通教に異なるなり。通は空理を縁ず。復三蔵に異るなり、三蔵は四諦の智を縁ず。故に知んぬ、三脱、及与び道品、節節異り有り、須らく善く之を識るべし。

 [27]又「華厳」に「日出でて先づ高山を照す」とは偏に四栄多し。鹿苑三蔵は偏に四枯多し。方等般若は多く枯を調へ、以て栄に入り、小を引いて大に帰す。鶴林は施化已に足れば栄枯の中間にして涅槃に入る、極鈍は化し難きが為に、雙樹に来至して始めて復功を畢ふるなり。利根にして明悟なるものは処処に入ることを得、身子等の如きは法華の中に於て秘密蔵に入り、仏性を見ることを得。所以に涅槃は遙かに指す、八千の声聞は法華の中に於て記を得て作仏す、秋収冬蔵して更に所作無きが如し。此一番に約すれば施化早く畢りて涅槃を俟たず。又云はく、「誰か能く娑羅雙樹を荘厳せん」と。即ち舎利弗等の六人を挙ぐ、又別して如来を挙ぐ、若し仏性を見れば能く雙樹を荘厳し、其中間に於て而も涅槃に入る、身子等の六人は既に能く荘厳す、豈、仏性を見て其中間に於て涅槃に入らざらんや。声聞も尚ほ爾り、 諸の菩薩等の処に入ることを得ること、其義知んぬ可し。若し涅槃に入らば五解脱を成ず。六法に即せず、六法を離れず、三仏性の意云云。

 [28]第七に助道対治とは、「釈論」に云はく、「三三昧は一切の三昧の為に本と作る」と。若し三三昧に入れば、能く四種三昧を成ず。根利にして遮無くんば清涼池に入り易し、対治を須ひず。根利にして遮有らば、但三脱門を専らにせば遮も障ふること能はざらん、亦助道を須ひず。根鈍にして遮無くんば、但道品を用ひて調適するに即ち能く鈍を転じて利と為らん、亦助道を須ひず。根鈍にして遮重き者は、根の鈍なるを以ての故に、即ち三解脱門を開くこと能はず、遮の重きを以ての故に親心を牽破す、是義の為の故に、応に治道を須て遮障を対破すべし、則ち安隠に三解脱門に入ることを得ん。「大論」に「諸の対治は是れ助開門の法なり」と称するは即ち此意なり。

 [29]未れ初果の聖人は無漏の根利にして、理を見ること分明なり、事中の煩悩は猶ほ遮障有れば善人と名けず、斯陀含の五下分を侵せるも亦善人に非ず、善人に非ずと雖も、実に凡未に非ず、若し世智、惑を断ずるは事の障無しと雖も、実には聖人に非ず、此の如きの両條、尚ほ助道を須ふ、況んや根鈍遮重にして、而も対治を修せざれば、云何ぞ入ることを得ん。

 [30]助道は無量なり、前の通塞の意の中、六蔽に約して遮を明す、宣しく六度を用ひて治を為し助道を論ずべし。

 [31]若し人、四の三昧を修し、道品調適するに、解脱開けずして而も慳貪忽ちに起り、観心を激動して、身、命、財に於て守護保著せん、又貪覚縁想して須く欲念生じ、作意して遮止すと雖も而も慳貪転生ぜば、是時、当に攪捨を用て治を為すべし。三昧を修する時、破戒の心忽ちに起り、威儀麤獷にして復矜持すること無く、身口乖違して制度を触犯す、浄禁淳ならずんば三昧発し難し、是時は当に尸羅を用て治を為すべし。三昧を修するの時、瞋恚悖怒して常に忿恨を生じ、悪口両舌して諍計し是非す、此毒、三昧を障ふ、是時は当に忍を修して治を為すべし。三味を修する時、放逸懈怠にして身、口、意を恣にし、縦蕩閑野なり、慚無く愧無くして苦節すること能はず、火を鑚るに未だ熱からざるに数数にして而も止むが如し、事●1.の人は尚ほ世務を弁ぜず、況んや三昧の門をや、是時は応に精進を用ひ治を為すべし。三昧を修する時、散乱して定まらず、身は独落の如く、口に春蛙の若く、心は風灯の如し、散逸を以ての故に法現前せざるには、是時は応に禅定を用て治を為すべし。三昧を修するの時愚癡迷惑にして、断常に計著し、人我、衆生、寿命有りと謂ふ、事に触れて面牆し、進止常に短くして物の望に称はず、意応頑拙にして智黠の相に非ず、是時は応に智慧を用ひて治を為すべし。諸蔽の心を覆ふにも亦厚薄有り、薄きは心動ずれども、身、口は必ずしも動ぜず、厚き者は、身、口の動ずるに心必ず先に動ず、内病既に強ければ其相外に現ずるなり。若し対治を用ふるに去ることを得れば是れ病の宣しき所なり、若し対治するに除かずんば当に四随に依つて助道を廻転すべし。一の樫を治するが如き、或は檀を修することを楽ひ、或は檀を修することを楽はず、或は善心生じ、或は善生ぜず、或は檀を修するに慳破し、或は破せず、或は檀を修するに助開し、或は開せず、当に善巧に斟酌すべし。或は対、或は転、或は兼、或は第一義云云。余の治を修するも亦是の如し。

 [32]助の六度に於て但一事解を作すは助道なること能はず、当に此助の不思議が一切の法を摂することを観ずべし、後に説くが如し。有人の言はく、「六を説かば是れ通教、十を説かば是れ通宗なり」と、此れ応に爾るべからず。「大経」に「六度は是れ仏性なり」と明し、「大品」には「是れ摩訶衍なり」と云ふ、一度も尚ほ諸法を摂す、何に況んや六をや。若し開合の意を得ば則ち去取無からん。禅の如き、願智有りて泥滓波羅蜜を開出し、神通力ありて婆羅波羅蜜を開出す、定は禅度を守るなり、般若には道種智有りて漚和倶舍羅を開出し、又一切種智有りて闍那波羅蜜を開出す、一切智は本を守りて般若の称を受け、離れば則ち十と為り、束すれば即ち六と為る、豈、広略を以て、而も大小を判ずることを得んや。

 [33]今、六度の助道は諸法を摂し靈すことを明すに、略して、諸道品、調伏六根、十力、四無所畏、十八不共法、六通、三明、四摂、四弁、陀羅尼、三十二相、八十随形好等及び一切の法を摂することを明さん。

 [34]云何が諸の道品を摂する。諸の道品の中、各捨覚分あり、正しく檀の摂と為す。若し三蔵の捨覚分は、理に入らすと雖も亦是れ身、命、財を捨つ。「大論」に云はく、「慈悲喜は衆生に於て益有るも、捨何の益する所ぞ。」捨は能く六度を具足し広く衆生を利す、是を大益と名く。又、捨は膏油の如し、能く五度の光明を増す、故に知んぬ、檀度は捨覚分を摂するを。若し通教の捨覚分は、身、命、財を捨つること幻の如く化の如く、三事皆空なり、此捨覚分は亦檀度の為に撮せらる。若し、別教の捨覚分は、身、命、財の中の無知を捨つ、此捨も亦檀度の為に摂せらる。若し円教の捨覚分は十法界の色身を捨て、十法界達持の命を捨て、十法界の依報を捨つ、是の如きの身、命、財は皆二辺に入らず。何を以ての故ぞ。財は六塵を名く、若し、六塵の捨つ可くして、前人の与ふ可き有るに、己身能く施すと計すれば、此の如く施す者は即ち六塵の有辺に入るなり。若し三事皆空なれば即ち無の辺に堕す。今財は即空なりと観ずるは有に入らず、財は即仮なりと観ずるは空に入らず。「不二の捨と生死の後際と等し、老病死を離れて不壊常住を得」と。有の辺は是れ生死にして前際に属す、空の辺は是れ涅槃にして後際に属す、是二皆空にして悉く不可得なり、故に称して等と為す。老死を離るとは、前際空なるが故に分段の老死を離れ、後際空なるが故に変易の老死を離れ、二死永く免る、故に離と言ふなり。不壊常住を得とは、即ち是れ中道法性、諸仏の師とする所なり、法は常なるを以ての故に諸仏も亦常なり、此常住の財は能く毀損することなく、常住の身は能く繋縛すると無く、常住の命は断滅すべからず、究竟の檀波羅蜜を成就して以て自ら荘厳す。故に「金剛般若」に云はく、「初中後の日分に悉く恒河沙の身を以て布施するは、般若の一四句偈を受持せんに如かじ」と。当に知るべし理観の円の捨、乃ち道品に会し、檀度の摂する所なるを。此の如きの道品の捨覚分、理観深微にして而も事行を存せざると、三蔵の中、事施雄猛にして剜灯救貿国城妻子、而も理観全く毫末も無きと両ながら皆過あり。今事檀を明すに、助けて慳蔽を破し、進んで理観を成ず、豈、相離る可けんや。若し人、実相聞捨の観を解すと雖も、臆を撫して行を論ずるに事に渉つて慳克に、財物を保護して一毫をも捨てず、労苦も辭憚し、筋を称り力を計へ、己を屈して他を成ずること能はず、寿命を貪惜す、豈能く死を諍ひ生を謠らんや、事に触れて悋著し、鏗然として動ぜず、但解のみにして行無し、是の如きの重蔽、何に由つてか破す可き、三解脱門、何に由つてか開く可けん。今道場に於て苦倒に繊悔し、決定心を生じ、大誓願を起し、身、命、財を捨てて決して愛惜すること無し、自ら此檀を行じて又以て他を教ふ、檀法を讃歎し檀者を随喜す、此誓を立て已つて十方仏を称へて証と為し救と為す。心若し真実にして欺誑無くんば、能く如来が檀の光明を放つて慳蔽を明除したまふことを感ず。「思益」等云云。光を蒙るを以ての故に諸の道贔の捨覚と相応し、須らく一一之を釈出すべし。事理既に円に、能く畢竟して檀捨す、財は糞土に同じく、身は毒器に比し、命は行雲の若し、三を棄つること唾の如し、慳障既に破すれば治道の義成じて便ち解脱を得、若し因縁無くんば之に寄せて道を行ふ、応に利益有るべし、捨つることは遺芥の若し、是を事の油、増道の明を助け、三脱門を開きて仏性を見ることを得と為す。若し爾ること能はずんば、助道の益無けん。

 [35]若し上の如く修せば、即ち応に悟ることを得べし。設し悟らずんば応に自ら理観の道品に正業、正語、正命有ることを思惟すべし。此れ尸羅に属して掃する所なり。若し三蔵の正業等は乃ち是れ威儀を慎護し、不破、不欠、不穿、不雑なり。通教の正業等は身口を得ず、事に即して而も真、乃ち是れ随道無著等の戒なり。別教の正業等は乃ち是れ智所讃、自在等の戒なり。円教の正業等は皆法性を観ず、即ち是れ具足等戒なり。「浄名」に云はく、「其れ能く此の如くなる、是を奉律と名く」と、即ち此意なり。理観の戒は心に即して而も備はれり。此解を作すと雖も身口虧くること多し、或は今生の麤獷、或は先世の遮障、未だ懺悔することを得ざれば、我が三昧を覆ひて脱門開かず。是事を思ひ已つて当に自ら悲愍し、深く改革を生ず、今日従り始めて相続の心を断じ、誓つて禁戒を持し、事瑕玷無けん、護持愛惜すること浮嚢を保するが如くし、終に身を全うして而も戒を損せず、毒竜は皮を輸して蟻を全うし、須陀摩王は国を失ひて偈を獲、自戒化他、譛法譛者、大誓動ぜず、仏の名字を称して証と為し救と為す。心誠なれば、仏浄戒の光を放つて能く毀禁の者をして浄からしむるを感ず、戒光触るる時、二世の罪滅して即ち理観の正業と相応す、一一須らく之を釈出すべし、理事既に円なれば畢竟の持戒なり、三脱門に入り仏性を見る、是を助の油、以て道の明を増すると名くなり。

 [36]上の如く戒を修するに、若し入らずんば当に復思惟すべし、是諸の道品は各念根、念力、念覚分、正念等有り、即ち是れ忍の義、羼提の所摂なり。若し、三蔵の正念等は是れ伏忍、通教の正念等は是れ柔順忍、別教の正念等は是れ無生忍、円教の正念等は是れ寂滅忍なり。若し人、念力堅強なれば瞋恚の賊則ち入ることを得ず、而して入ることを得る者は或は念無きに因る。或は念強からずして而して瞋蔽起ることを得、或は今世に起り、或は前世に起る、或は同行、外護を瞋り、或は現事を瞋り、或は追つて昔を縁じて嫌ひ或は、初め起ること屑屑、或は初め即ち隆盛なり。若し瞋毒を恣にすれば、傾蕩して遺ること無し、設ひ自在ならずとも、蛇の自ら齧むが如し。瞋は百千の法門を障ふ、豈、之を恣にして而も呵責せざることを得んや、当に知るべし、但理解のみ有りて未だ忍力有らざるを。既に是を知り已つて深く改悔を生じ、大誓願を発す。卑すること、江海の穢濁之に帰するが如く、屈すること橋梁の人馬之を践むが如くす、当に労苦に耐ゆること猶ほ射垛垛に衆箭の之に湊るが如くすべし。恨ること無く、怨ること無きこと、当樓那の罵を被れば手を免ることを喜び、乃至、刃を被れば疾く滅することを喜びしが如くす。辜無くして悩む者は忍力転た盛んなること金を措り鏡を磨くが如し、羼提仙人は強軟倶に安ず。自忍化他、譛法譛者、大誓勣ぜず、十方の仏を称へて証と為し救と為す。怫の忍光を放ちたまへば、二世の瞋障、重罪も銷滅し、事理の諸念と相応することを得、諸の違境に於て忍力成就す。是を事の油、助けて道の明を増すと為す。

 [37]若し上の如く修して而も入らざる者は当に復思惟すべし、四種の道品に各八の精進あり、毘梨耶の為に摂せらる。「大論」に云はく、「前の三は成じ易ければ精進を須ひず、後の二は成じ難ければ必ず須らく精進すべし、精進するが故に三菩提を得」と。阿難の精進覚を説くに、仏即ち坐を起つ、大施の海を抒むが如くにして乃ち相応すべし。而して今放逸にして倚臥し縦緩なり、本心を忘失して復進力無し、道場に在りと雛も、諸の悪覚を雑ふ、之を名けて汚と為す、日は日に如かず、之を名けて逞と為す、退は即ち進に非ず、汚は則ち精に非ず、何ぞ能く理に契はん。或は先世に懈怠して罪障心を覆ふ、穴鼻無鉤、狂醉越遊するが如し、初、中、後夜、已に克にして時を競はず薳復遷延して穭つて日月を度る。当に誓願を発して骨に刻み心に銘ずべし。身命を道に許し、死を推して前に在り、無量劫来唐しく愛護し惜しむ。今三昧を求む、決定して応に捨つべし、夜を以て昼に継ぎ、過患を呵責す、行法匪懈たるに其身を端直にして復難心苦心無し、設ひ病悩有るも以て患と為さず、一生剋せずんば歴劫休せず、自進化他、譛法譛者、十万の仏を称へて証と為し救と為す。仏の進の光を感じて理観の八進と相応することを得。若し三蔵と相応するは即ち生生の精進を成じ、通と相応するは即ち生不生の精進を成じ、別と相応するは即ち不生生の精進を成じ、円と相応するは即ち不生不生の牢強精進を成じ、涅槃の門を開きて仏性を見る。是を事の油、助けて観の明を増すと為す。精進に通体別体有り云云。

 [38]若し上の如く修して悟ることを得ざる者は当に自ら思惟すべし、理観の道品に各八定有り、禅度の所摂と為す。但是れ解心なり、実に未だ証得せず、根本と言ふと雖も、事定成ぜす、乃至、無作定と言ふと雖も、首楞厳成ぜず。若し定無くんば平地顛墜せん、或は二世散動して三昧開けず。是義の為の故に一心決果し、初、中、後夜に身端しく心寂にして、疲苦邪想若し起らば疾く滅す。自禅教他、讃法譛者、大誓動ぜず、命を尽すを期と為し、乃至、後世証せずんば止まず、十万の仏を称して明と為し救と為す。仏の定の光を感じ、散動障破し、事禅開発して四観と相応す。「大論」に禅度を釈するに先に諸の禅法を列ね、次に無所得を明して波羅蜜の相を顕はし、後に広く九想、八念等を釈す。皆聹の中に於て開出す、諸の禅法甚だ多し、今は但五門を取つて助道と為す、若し禅思の時、心に覚観多く遍く三毒を縁ずるは、当に数息を用て治を為すべし、数若し成ぜずんば即ち心去ると知れ、去らば即ち追還して初めより更に数ふ、散を防ぎ心を録す、此を良治と為す、心の住するを以ての故に或は欲界定を発す、乃至、七依定皆能く入る、若し般若の方便を得ずんば凡未の法を成ず、若し方便を得ば摩訶衍を成ず。故に「請観音」に云はく、「若し息を数へて心定まれば毛孔に仏を見、首楞厳に住し、不退転を得」と。是を、数息が解脱門を開くと為す、即ち三蔵の八定と相応し、乃至、無作の八定と相応す、是を事の油、道を助けて明を増すと為す。若し女色を縁じて耽湎して壊に在り、惑著して離れずんば、当に不浄観を用て治を為すべし。所愛の人の初死の相を観ずるに、言語適爾なるも奄として便ち那にか去る、身冷かにして色変じ虫膿流出す、不浄臭き処、穢悪充満す、塚間に捐棄して朽敗の木の如し、昔愛重せし所も今何の見る所ぞ、是れ悪物の為に我をして憂労せしむ、既に欲の過を譏り、婬心即ち息む。余の八想も亦姪欲を治す。「大論」に云はく、「多姪の者には九想を観ぜしむ、縁に於て自在ならざれば背捨を観ぜしむ、縁広普ならずんば勝処を観ぜしむ、転変すること能はずんば十一切応を観ぜしむ、若し怖畏有らば八念を修せしむ、皆不浄を以て初門と為し、悉く婬火を治す、解脱の門を開き、四種の八定と相応す。助油、明を増す云云。若し瞋恚を攣縁せば、当に慈心を用て治を為すべし。上の忍度は是れ通治なり。今は別して慈無量心に約す、余の三心、或は是れ楽欲等云云。悲無量を対治と為すは衆生の苦を縁じて深く愁傷を起し、其苦を抜かんことを欲す、此心を縁じて定に入れば悲と相応す。慈とは衆生の薬を得ることを想ふ、此心を縁じて入れば慈定と相応す。喜心とは、衆生の楽を得ることを想ひて大観喜を生ず、此心を縁じて入れば喜定と相応す。捨心とは愛憎の想を捨して平等の観に住す、此心を縁じて入れば捨定と相応す。此四定を得れば諸の衆生に於て瞋、従つて生ずること無し、下に更に広く説く。若し邪倒を攀縁せば、当に因縁観を用て之を治すべし、「毘曇」には界方便を以て我を破す、今は因縁を以て我を破す、三世は断常を破し、二世は我を破し、一念は性を破す。此定若し成ずれば即ち理観と相応して涅槃門を助開す。若し陲障道の罪起らば即ち念仏観を用て之を治せよ、応仏無相の相を縁ず、柤を縁ずること分明なれば障道の罪を破す、十方の仏を見、理観と相応して涅槃門を開く。

 [39]若し上の如く修して而も入らざる者は、或は其宣しきに非ず、当に自ら思惟すべし、理観の中に四念応、慧根、慧力、択、喜覚分、正見、正思惟を具す、是の如きの十法は智度の所摂なり。此は是れ理観なり、此解明かならざるは、二世の愚癡迷僻に於て精神を昏覆するに由る、故に三昧をして顕れざらしむ。応当に改革して大誓願を発し、事観をして明了ならしめ、四顛倒を破すべし。諦に此身を観ずるに頭従り足に至るまで、但是れ種子の不浄、乃至、究竟五種の不浄あり。所謂是身は他の遺体、吐涙の赤白二啼和合するを攬つて識を其中に託し、以て体質と為す、是を種子不浄と名く。二蔵の間に居して穢濁浹潤す、乍ち懸り乍ち壓し、或は熟し或は冷え、七日に一たび変じて十月壊抱す、若し六皰成就し形相具足して、日月已に満ずれば転じて産門に向ふ。「大論」に云はく、「此身は化生に非ず、亦運華より生ずるに非ず、但尿道従り出づ」と、此処は卑猥、底下、厮悪なり、是を住処不浄と名く。既に生出し已つて糞穢に眠臥す、乳哺将養して小より大に之く、耳には結聹を貯へ、眼には眵涙を流し、鼻孔には膿を垂らし、口気は常に臭し、頭垢重沓なること薄き糞泥の如く、髀腋酸汗なること淋尿の灑ぐが如し、衣服体に著くるは即ち油を塗るが如し、是を自相不浄と名く。其中唯、屎尿の聚、膿の聚、血の聚、膏髓等の聚有り、大腸、小腸、肪●2.、腦膜、筋纒ひ、血塗り、悪露の臭き処、虫尸の集まる所、海水を尽して洗ふとも浄からしむること能はず。「論」に云はく、「此身、摩羅延山の能く栴檀を出すが如くならず、小より大に至るまで、性是れ不浄なり、譬へば糞穢は多小倶に臭きが如し、是を自性不浄と名く。一旦命経れば仮借本に還へる、風去り火冷かに、地壊れ水流る、虫噉ひ鳥啄み、頭手分離して外に盈流す、三五里の間逆風に臭を聞き、悪気腥臊人の鼻臭を衝き。悪色黮瘀にして人の眼目を汚すこと死狗より劇し、是を究竟不浄と名く。是の如きの五種、皆是れ実観なり、得解の観に非ず、那ぞ忽ち中に於て計して以て浄と為し、好衣美食、愛護将養し、頭を摩で頸を拭うて此毒身を保つ、譬へば蜣蜋の麤糞穢に丸ぶが如し、人も亦是の如し、此身を愛重して死に到るまで厭はず、搪触すべからず、此身を養ふが故に種種の罪を造る。若し過患にして治終不浄なりと知らば能く浄倒を破するなり。又復当に知るべし、四大身を成ず、二は上り二は下りて互に相違返す、地は水を遏め水は地を爛す、風は地を散し地は風を遮す、水は火滅し、火は水を煎る、更に相侵害すること篋に四蛇を盛るが如し、癰瘡刺箭、常に自ら是れ苦しむ、何の楽しむべきことか有らん、加ふるに飢渇寒熟、鞭打繋縛、生老病死を以てす、是を苦苦と為す。四大相侵し互に相破壊す、是を壊苦と為す。念念流炎す、是を行苦と為す、下苦の中に於て横に楽想を生ず、若し苦相を見ること分明なるは、瘡中の刺の介介として常に痛むが如し、此身に於て一念の楽倒を生ぜず、又復当に観ずべし、過去の無明、善悪の諸業、心識を駆縛して偪つて胎獄に入る、鳥を繋ぎて篭に在らば去らんと欲すれども得ざるが如し。心識も亦爾り、篭むるに四大を以てし、繋ぐに得繩を以てす。心、色篭に在らば処として至らざること無く、業繩未だ断ぜざれば去り已つて復還へる、篭破れ繋断ずれば即ち去つて反らず、空篭而も存す、此に壊し彼に成じて篭を出で篭に入る、印壊し文成じて一念も住すること無し、又風気身に依つて出入の息と名く、此息遷謝す、出は人を保せず。「毘曇」に云はく、「命は是れ非色非心の法なり」と。「大集」に云はく、「出入の息を寿命と名く、一息返らずんば即ち命終と名く」と。比丘、仏に白す、「七日を保たず、乃至、出入の息を保たず」と。仏の言はく、「善哉善く無常を修す」と。又、諸業を観ずるに猶し怨家の如く、鳥が肉を競ふが如し。「経」に云はく、「刹那も悪を起せば殃い無間に墜つ」と。促促の時節尚重業を成ず、何に況んや長夜の悪念をや。業は則ち無辺なり、業は怨責の如し、常に人の便を伺ふ、若し正しく此責を償はば余業牽かず、償ひ稍畢らんと欲するに余業爭ひ撮り、去住期無し、無常の殺鬼は豪賢を撰ばず、危脱にして堅からず、恃怙すべきこと難し、云何ぞ安然として百歳を規望し、四方に馳求して貯積聚歛す、聚歛未だ足らざるに溘然として長く往く、所有の産貨徒らに他の有と為り、冥冥として独り逝く、誰が是非を訪はん。或は出家の人`智解胸に溢れ、或は精進火を滅すれども、而も無常を悟らず、諺に云はく、「可憐なれども五の媚無し、精進すれども道心無し」と、此謂なり。若し無常を覚らば暴水、猛風、掣電より過ぎたり、山海空市、逃れ避くる処無し、此の如く観じ已つて心大いに怖畏す、眠るも席を安んぜず、食ふも哺を甘んぜず、頭然を救ふが如し、白駒烏兎、日夜奔り競ひ、以て出要を求む、豈復世財に貪著し、諸有を結構し、無益の事を作し、生死の業を造らんや。頓に覊鎖を絶ち、超然として直に去り、野干の絶透するが如くせよ、爭ひて火宅を出で、早く免済を求めよ、是を常倒を破すと為すなり。