[1]第六に感応妙を明さば、上来の四妙を名けて円因と為し、三法秘蔵を名けて円果と為す。境妙究竟じて顕はるるを毘盧遮那と名け、智妙究竟じて満ずるを盧舎那と名け、行妙究竟じて満ずるを釈迦牟尼と名く。三仏一異ならず縦横ならず、故に妙果と名く。釈論に云はく、「智度無子仏稽首すとは、果地円極にして復た因位に非ず、故に無子と称す」と。果智は寂にして照し、感あれば必ず彰はる、故に感応妙と名くるなり。即ち六と為す、一には感応の名を釈し、二には相を明し、三には同異を明し、四には相対を明し、五には麁妙を明し、六には観心を明す。
[2]釈名に亦た三あり、一には釈名、二には四悉檀をもつて帖解し、三には料簡す。釈名とは正法華に云はく、「無数の世界に広く経法を説く。世尊の為す所、感応是の如し」と。今、故に用ひて名と為す。而して経の中の機の語、縁の語は並に是れ感の異目にして、悉く衆生を語す。且らく機に従つて釈するに、義は即ち見易し。縁・感は例して解すべし。機に三義あり、一には機は是れ微の義なり、故に易に云はく、「機とは動の微、吉の先づ現ずるなり」と。又た阿含に云はく、「衆生に善法の機あらば、聖人来り応ず。衆生に将に生ぜんとするの善あらば、此の善微微にして将に動かんとして機と為ることを得」と。若し将に善を生ぜんとするを機と為すは、此の語を促と為す。今、生ず可きの善を明す、此の語則ち寛し。弩に発す可きの機あり、故に射る者之を発す。之を発するときは則ち箭動じ、発せざるときは則ち前まざるが如し。衆生に生ず可きの善あり、故に聖応ずるときは則ち善生じ、応ぜざるときは則ち生ぜず。故に機は微なりと言ふなり。二には古注の楞伽経に云はく、「機は是れ関の義なり」と。何となれば衆生に善あり悪ありて聖の慈悲に関かる、故に機は是れ関の義なり。三には機は是れ宜の義なり。無明の苦を抜かんと欲るには、正しく悲に宜しく、法性の楽を与へんと欲するには、正しく慈に宜しきが如し。故に機は是れ宜の義なり。次に応を明さば亦た三義と為す。一には応は是れ赴の義なり。既に機に生ず可きの理ありと言ふ、機微にして将に、動ぜんとするに聖人之に赴かば、其の善生ずることを得べし、故に赴を用ひて応を釈す。二には応は是れ対の義なり、人の交関して更に相ひ主対するが如し。一りは売らんと欲するとも、一りは買はんと欲せざるが若し。則ち相ひ主対せず。売買両つながら和すれば、則ち貿易交決して貴賤の悔無きが若し。今、衆生を以て買に譬へ、如来は売を譬ふ。機に就て以て関を論じ、応に就て以て対を論ず、故に対を以て応を釈するなり。三には応は是れ応の義なり。既に機は是れ宜しきに於てす、何等の法にか宜しきと言ふ。応ずるに慈悲の法を以てすれば是れ善悪の宜しき所なり。悲は則ち苦を救ふに宜しく、慈は則ち楽を与ふるに宜し。随つて何れの法を以てすとも其の宜しき所に応ず。故に応を以て応を釈するなり。
[3]二に四悉檀をもつて帖釈することを明さば、機応各各三義あり。即ち四悉檀の意なり。若し微以て機を釈し、赴以て応を釈するは、是れ楽欲の心に赴くなり。何んぞ但だ心の善生ずべきを之を名けて欲と為すのみならん。草木の心無きが如き、亦は可生・欲生・将生と称す。故に知んぬ、此の善生ずるに赴くは、是れ楽欲に随ふことを、即ち世界悉檀に機応を明すなり。若し関以て機を釈し対以て応を釈す、更に相ひ対当す。悲を以て其の苦の機に対し慈を以て其の善の機に対するは、即ち是れ対治悉檀に随ひて以て機応を明すなり。次に宜を以て機を釈し。応を以て応を釈するは、即ち是れ為人・第一義なり。宜しく此の如き等の法を以て、其の機応と相ひ宜し。事善を生ずるに宜しきには即ち為人悉檀なり、理善を生ずるに宜しきには即ち是れ第一義悉檀なり。
[4]三に料簡とは、問ふ、何んの意ぞ、理善に於て第一義悉檀と称する耶。答ふ、理善の明生ずれば理闇必ず滅す。終に理悪滅して方に始めて理善生ずるにあらず、故に理善に於て第一義悉檀と称するなり。若し事善生ずるに、事悪未だ必ずしも去らず。事悪去れども、事善未だ必ずしも生ぜず。事は是れ隔別す。対治悉檀は正しく是れ薬病相対す、故に中に於て第一義悉檀を開せざるは其の意此に在り。問ふ、衆生の機、聖人の応は、一とせんや異とせんや。若し一ならば則ち機応に非ず、若し異ならば何んぞ相ひ交関して機応を論ぜん。答ふ、一ならず異ならず。理をもつて論ずれば則ち同じく如なり、是の故に異ならず。事を以て論ずれば機応あり、是の故に一ならず。譬へば父子の天性相ひ関はるが如き、骨肉遺体異なるときは則ち不可なり。若し同ならば父即ち子、子即ち父なり、同も又た不可なり。秖だ一ならず異ならず、而も父子を論ずるなり。衆生の理性は仏と殊ならず、是の故に異ならず。而るに衆生は隠れ如来は顕はる、是の故に一ならず。不一不異にして而も機応を論ずるなり。又た同じく是れ事に非ず理に非ず故に不異なり、衆生は事を得、聖人は理を得。又た聖人は事を得、凡夫は理にあり。故に異を論ず、云云。問ふ、法身を用ひて応ずとせんや、応身を用ひて応ずとせんや。若し応身をもつて応ぜば、応身は本と無し、何んぞ能く応ぜん。若し法身を用ひて応ぜば、応は則ち法に非ず。答ふ、諸法を至論せば去来今に非ず、応に非ず不応に非ず、而も能く応あり。亦た法の応と言ふ可く、亦た応の応と言ふ可し。法の応は則ち冥の益、応の応は則ち顕益なり。冥顕を分別するに四義あり、後に説くが如し、云云。
[5]第二に機応の相を明さば、善悪に約して機の相を明し、慈悲に約して応の相を論ず。若し善悪を機と為さば、単とせんや共とせんや。解するもの不同なり。或は言はく、単の悪を機と為すと。経を引きて云はく、「我れ一切衆生の瘡疣重病を断ぜんが為なり」と。又た云はく、七子あるが如し。然も病者に於ては心則ち偏に重し、如来も亦た爾り。諸の衆生に於て平等ならざるに非ず。然れども罪者に於ては心則ち偏に重しと。又た云はく、如来は無為の衆生の為に而も世に住せず。又た無記は是れ無明なれば終に悪の摂に属す。此れ則ち単に悪を以て機と為すなり。或は単に善を以て機と為す。大経を引きて云はく、「我れ衆生を観ずるに、老少中年、貧富、貴賤を観ぜず。善心ある者は即便ち慈念す」と。此れ則ち単に善を機と為すなり。或は云はく、善悪は独り機と為すことを得ず。何となれば、金剛の後心の如き即ち是れ仏なり。衆善普く会して善の此に過ぐるもの無し。此れ何んぞ機と為ることを得ん耶。仏仏相ひ念ずと云ふと雖も、此は是れ通語にして抜無く与無し。故に知んぬ、単善は機と為ることを得ざることを。単悪は機と為ることを得ずとは、闡提の極悪の仏を感ずること能はざるが如し。大経に云はく、「唯だ一髪のみあるは身を升すこと能はず」と。即ち是れ性徳の理善なり。此は是れ通機にして終に感を成ぜざるなり。或は善悪相ひ帯して機と為るを取らば、闡提の改悔の心を起すより上等覚に至るまで皆な善悪相ひ帯することあり、故に機と為すことを得。是の故に此の善悪に約して、其の相を明すなり、云云。次に慈悲に約して以て応の相を明さば、或は単に慈を以て応と為す。経に云はく、「慈善根の力、象の師子を見る」と。広く説くこと涅槃の如し、云云。或は単に悲を以て応と為す。請観音の或は地獄に遊戯して大悲代つて苦を受くるが如し。或は合して慈悲を用ひて応と為す。何となれば、良とに悲心、智慧に熏じて能く他の苦を抜き、慈心、禅定に熏じて能く他に楽を与ふるを以てなり。下の文に云はく、「定慧の力荘厳す、此を以て衆生を度す」と。論に云はく、「水銀、真金に和して能く諸の色像を塗る。功徳、法身に和して処処に応現して往く」と。豈に是れ水銀・真金は、単に能く色像を塗らん耶。当に知るべし、慈悲合して応を論ずることを。
[6]問ふ、衆生の善悪に三世あり、何れの世をか機と為んや。聖法に亦た三世あり、何れの世をか応と為んや。過去は已に謝し、現在は住せず、未来は未だ至らず。悉く機と為すことを得ず、亦た応と為すことを得ず。云何んぞ機応を論ぜん耶。答ふ、若し至理に就て窮覈せば、三世皆な不可得なり、故に機も無く亦た応も無し。故に経に言はく、「菩提に去来今ありと謂ふには非ず。但だ世俗文字の数を以ての故に、三世ありと説く」と。四悉檀の力を以て衆生に随順して説くなり。或は過去の善を用つて機と為す。故に言はく、「我等、宿福の慶び、今、世尊に値ふことを得つ」と。又た五方便の人の如き、過去に方便を習ふ者は、真を発すること則ち易く、習はざるは則ち難し。是の故に過去の善を以て機と為す。或は現在の善を以て機と為す可し、故に言はく、「即ち此の念を生ずる時、仏、空中に於て現ず」と。或は未来の善を以て機と為す可し、未生の善法をして生ぜしめんが為の故なり。又た無漏の習因無くして、而も能く仏を感ずるが如し。故に大論に云はく、「譬へば蓮華の水に在るに、已生・始生・未生の者あり。若し日光を得ざれば、翳死すること疑はざるが如し」と。衆生の三世の善も若し仏に値はざれば、成ずることを得るに由無し、云云。悪も亦た是の如し、或は過去の罪を以つて今悉く懺悔す。現に衆悪を造るも、今亦た懺悔す。未来の罪、相続心を断ず。未来を遮するが故に、之を名けて救と為すが如し。何となれば、過去の造悪は現善を障へて起ることを得せしめず。此の悪を除かんが為に、是の故に仏を請ず。又た現在の果の苦報は、衆生を逼迫して救護を求む。又た未来の悪は時と相ひ値ひ、遮して起らざらしむ。故に通じて三世の悪を用つて機と為す。応も亦た是の如し。或は過去の慈悲を用つて応と為す。故に云はく、「我れ本と誓願を立てて、此の法を得せしめんと欲す」と。或は現在の慈悲を用つて応と為さば、一切の天・人・修羅皆な応に此に至るべし。法を聴かんが為の故に、未だ度せざるを度せしむるなり。又た未来を用つて応と為さば、即ち是れ寿量の中の未来世の益物なり。亦た安楽行品の中に云ふが如し。「我れ三菩提を得る時、之を引きて是の法の中に住することを得せしむ」と。若し通じて論ずれば、三世の善悪を皆な機と為す。別して論ずれば、但だ未来の善悪を取りて正機と為すなり。何となれば、過去は已に謝し、現在は已に定まる。秖だ未来の悪を抜き、未来の善を生ぜしめんが為なる耳。問ふ、若し未来を正機と為せば、四正勤の意は云何ん。答ふ、此れ已に通の意に属す。今更に別して答ふれば、秖だ過去の悪は未来の善を遮するが為に、故に勤めて過去の悪を断ず。秖だ過去の善、増長せざるが為なり。増長するは、即ち是れ未来の善なり。是の故に四正勤の中、言は過去と雖も、意は実に未来なり、云云。問ふ、未来は未だあらず、仏、云何んぞ照したまふや。答ふ、如来の智鑑は能く是の如く知る。下地の知る所に非ず。仰いで信ずるのみ。何んぞ分別す可けんや。問ふ、是れ衆生自ら能く感ずるや、仏に由るが故に感ずるや。如来自ら能く応ずるや、衆生に由るが故に応ずと為んや。答ふ、此に応に四句を作るべし、自・他・共・無因、是の性の義悉く不可なりと破す。此の四句無きが故に、則ち無性なり。無性の故に但だ世間の名字を以て四悉檀の中にして而も感応能所等を論ず。而して能応を仏に属し、所応は衆生に属す。能感は衆生に属し、所感は仏に属す。若し更に翻畳して諸の語言を作さば、世諦の名字則ち乱れて分別す可からず。此の如きの名字を作すと雖も、是の字住せず、是の字所有無し。故に夢の如く、幻の如し、云云。問ふ、既に善悪倶に機となさば、誰か善悪無けん。此れ皆な応に益を得べし耶。答ふ、世の病者は医を延けれども、而も差ると差えざるとあるが如し。機も亦た是の如し。熟・不熟あれば、則ち応に遠あり近あり。
[7]三に機感の不同を明さば、即ち三意と為す。一には四句に就て不同を論じ、二には三十六句に就て不同を論じ、三には十法界に就て不同を論ず。但だ衆生の根性百千なれば、諸仏の巧応も無量なり。其の種種に随つて得度不同あり。故に文に云はく、「名色各異なれば種類若干あり、上中下の根茎葉等の如し。其の種性に随つて各生長することを得」と。即ち是れ機応不同の意なり。今略して言はば四と為す。一には冥機冥応、二には冥機顕応、三には顕機顕応、四には顕機冥応なり、其の相云何ん。若し過去に善く三業を修するは、現在に未だ身口を運せざれども往の善力に籍る、此を名けて冥機と為すなり。現に霊応を見ずと雖も、而も密かに法身の為に益せらる。見ず聞かざれども而も覚し而も知る。是を名けて冥益と為すなり。二に冥機顕益とは、過去に善を殖えて冥機已に成ず。便ち仏に値ひ、法を聞くことを得て現前に利を獲、是を顕益と為す。仏の初め世に出でて最初に度を得るの人の如き、現在何んぞ嘗て修行せん。諸仏は其の宿機を照して自ら往きて之を度す、即ち其の義なり。三に顕機顕応とは、現在に身口精勤して懈らず、而も能く感降る。須達長跪すれば、仏、祇洹に往き、月蓋曲躬すれば、聖、門閫に居するが如し。即ち行人の道場に礼懺して、能く霊瑞を感ずるが如き、即ち是れ顕機顕応なり。四に顕機冥応とは、人の一世に勤苦して現善濃かに積むと雖も、而も顕に感ぜずして冥に其の利あるが如き、此は是れ顕機冥益なり。若し四意を解すれば、一切の低頭挙手も福虚しく棄てず。終日感無けれども、終日悔ゆること無し。若し殺を喜んで寿長く、施を好んで貧乏なるを見るとも、邪見を生ぜざれ。若し此を解せざれば、其の功を徒うし計りごとを喪ふと謂ひて、憂悔して理を失はん。釈論に云はく、「今我が疾苦は皆な過去に由る。今生に福を修すれば、報は将来に在り」と。正念僻むこと無きは此の四意を得ればなり。
[8]二に三十六句に就て機応の不同を論ぜば、前に冥顕互ひに論ずるに、略して四句を挙ぐ。若し具足して辨ぜば、四機を用ひて根本を為す。所謂る、冥機・顕機・亦冥亦顕機・非冥非顕機なり。冥は是れ過去、顕は是れ現在、冥顕は是れ過現、非冥非顕は是れ未来なり。仏の闡提の為に説法したまふが如し、云云。一句の中に於て復た四句と為す、所謂る、冥機冥応・冥機顕応・冥機亦冥亦顕応・冥機非冥非顕応なり。余の三機も亦た是の如し、四四即ち十六句を成ず。機既に応を召せば、応も亦た十六句あり。一の機にして而も四応を感ず、一の応にして而も四機に赴く。機応各十六と為し、合して三十二句と成る。前の根本の四句に就かば、便ち是れ三十六句の機応なり。
[9]三に十法界に就て機応の不同を論ぜば、秖だ一人の身業の機に約して三十六を具す、三業に約すれば即ち一百八の機あり、三世の三業に約すれば則ち三百二十四あり。一界既に爾り、十法界は即ち三千二百四十の機応の不同あり。自行に就くに既に爾り、化他も亦た然なり。合するときは則ち六千四百八十の機応なり。此は歴別の十法界に就くに此の如し。若し十法界交互に就かば、則ち九倍を増す。都べて六万四千八百の機応あり。
[10]四に機応相対を明さば、即ち四意あり、一には諸有の苦楽と三昧の慈悲と相対することを明し、二には機関等の相対、三には三十六句の相対、四には別・円の相対なり。諸の三昧相対とは、諸機乃ち多けれども、二十五有を出でず。諸応乃ち多けれども、二十五三昧を出でず。地獄の有に善悪の機あり、無垢三昧の慈悲の応に関かる。其の悪を論ぜば、即ち黒業の悪、見思の悪、塵沙の悪、無明の悪あり。善を論ぜば、則ち白業の善、即空の善、即仮の善、即中の善あり。是を地獄の機と名くるなり。無垢三昧の慈悲を応と為すは、初め無垢三昧を修して地獄界を観ずるに、因縁観の慈悲、即空観の慈悲、即仮観の慈悲、即中観の慈悲あり。因縁観を以てする時の悲は、地獄の黒業の苦を抜き、因縁観を以てする時の慈は、白業の楽を与ふ。即空観を以てする時の悲は見思の苦を抜く、即空観を以てする時の慈は無漏の楽を与ふ。即仮観を以てする時の悲は塵沙の苦を抜く、即仮観を以てする時の慈は道種智の楽を与ふ。即中観を以てする時の悲は無明の苦を抜く、即中観を以てする時の慈は法性の楽を与ふ。是を地獄に善悪の機ありて以て無垢三昧の慈悲の応に関かると為す。抜苦与楽相対の義なり。
[11]二に機関相対とは、地獄界の中の黒業の悪に微の義あり、関の義あり、宜の義あり。此の如きの三機は、即ち無垢三昧の時の慈悲に関かるに、赴の義あり、対の義あり、応の義あり。地獄の白業に亦た六義相対あり。即空は見思・塵沙・無明等なり。善悪に皆な六義相対を具す、云云。
[12]三に三十六句相対とは、地獄の黒白の業に具さに冥機冥応・冥機顕応・顕機顕応・顕機冥応ありて、即ち無垢三昧の慈悲に関かる。冥顕の四応地獄に赴くに、見思・即空、塵沙・種智、無明・中道等皆な四機四応を具して相対す、云云。又た地獄に冥顕の三十六機あり、即ち無垢三昧の三十六の応に対す、云云。
[13]四に別・円相対とは、若し地獄に歴別の機あれば、三昧の応も即ち歴別なり。若し円普の機あれば、三昧の応も円普なり。若し歴別の機起れば三昧別に応ず。一有の業謝すれども、余の有の業未だ必ずしも謝せず。三悪の思尽くれども、余の有の思未だ必ずしも尽くさず。地獄の道種智明かなれども、余の有未だ必ずしも明かならず。地獄の仏性了了なれども、余の有も未だ必ずしも了了ならず。若し円機円応を作さば、地獄の自在の業未だ究竟せざれば余の有も亦た未だ究竟せず。一有の見思未だ尽きざれば、余の有も亦た未だ尽きず、一有の道種未だ明かならざれば、余の有も亦た未だ明かならす。一有の仏性未だ了了ならざれば、余の有も亦た未だ了了ならず。一有了了なれば余の有も亦た了了なり。乃至一有の業自在なれば余の有の業も亦た自在なり。地獄の機応相対を分別すること、上に説くが如し。余の二十四有の機応相対することも例して亦た是の如し。問ふ、頗し善の機に悪の応、悪の機に善の応、偏の機に円の応、円の機に偏の応ありや不や。答ふ、無方適時は亦た此の義あり。浄名に云はく、「或時は風火を現じて照して無常を知らしむ」と。即ち悪、善に応ずるなり。妙荘厳は邪悪を信受す。三菩薩応じて妻子と為るは、即ち善、悪に応ずるなり。円機偏応とは、一切の智願猶ほ在りて失せず、不失は即ち円の機なり、声聞の法を教ふるは即ち偏の応なり。偏機円応とは、先に三車をもつて引きて後に一大を与ふ。領解して云はく、「無上の宝聚、求めずして自ら得」と、即ち其の義なり。楽を抜き苦を与ふるも、此に例して知んぬ可し、云云。
[14]第五に麁妙を明さば、即ち三意と為す。一には機の麁妙を明し、二には応の麁妙を明し、三には麁を開して妙を顕はす。一に機の麁妙とは、楽間地獄の如き、此の楽は微善に因る。故に立世毘曇に云はく、「人、六畜を養ふに飲飴温清の者は、熱地獄に在りては冷間を得、寒地獄には温間を得」と。若し此の義に従へば、楽間に十法界の機を論ずることを得ん。阿鼻は楽間つること無ければ、則ち事善無し、云何んぞ十を具せん。然るに阿鼻に性善の断ぜざることあるが故なり。又た近世に事善無しと雖も、遠劫に或は有らん。悪強く善弱ければ、冥伏して未だ発せず。若し因縁に遇はば発することも亦た何ぞ定まらん。是の故に阿鼻に十機を具することを得べし。即ち麁妙を判ぜば、九界の機を麁と為し、仏界の機を妙と為す。麁の機は方便の応を召すに、此の機に熟・未熟あり。方便の応に浅あり深あり。機の熟する者は応ぜられ、未熟の者は未だ応ぜず。応の浅深とは、無間より間に之くことを得、地獄を出でて畜生に至り、畜生を出でて鬼に至り、三悪を出でて人天に至り、人天を出でて二乗に至る等の如き、悉く是れ機の生熟、応の浅深、悉く麁機の摂に属す。妙の機は究竟の妙応を召す。妙の機に亦た生熟あり、妙の応も亦た浅深あり。慈童女の地獄に在りて人に代つて罪を受け、即ち天に生ずることを得るが如き、此れ乃ち妙の機浅く熟して、近く天に在るの耳。其の余は例して知んぬ可し。
[15]二に応に麁妙あることを明さば、聖人の慈悲・誓願は、願の行を持すること物に膠あるが如く、任運に機と相ひ著く。故に慈善根の力、手より師子を出すと。若し誓願無くんば、苦楽を観ずと雖も、抜与すること能はず、慈力を以ての故に機の麁妙に随つて先に熟するには先に応じ、後に熟するには後に応ず。三蔵・通教等の聖も亦た応あることを得れども、但だ是れ作意の神通なるのみ。譬へば図写するに経紀して乃ち成ずるが如く、覈論するに本無し。何となれば、灰身滅智して常住の本無し、何に約して応を起さん。若し別接通は、別惑未だ断ぜざれば亦だ応ずることを得ず。縦令ひ物に赴くも、皆な麁応と名くるなり。若し別・円の両教は、初心に惑を伏すれども未だ応あること能はず。初地、初住に三観現前し、二十五三昧を証し、法身清浄にして染無きこと虚空の如く、湛然として一切に応ず。思無く念無くして、機に随つて即ち対す。一月降らず、百水升らずして、河の短長に随ひ、器の規矩に任せて、前無く後無く一時に普く現ずるが如し。此は是れ不思議の妙応なり。又た明鏡の表裏清澈して、一像千像、簡択する所無く、功力を須ひず、任運に像似するが如し。是を妙応と名く。此は是れ相待して感応妙を論ずるなり。
[16]三に麁を開して妙を顕はさば、若し九界の機は麁、一界の機は妙なり。未だ法身の応を得ざれば麁、法身の応を得るは妙なる者なり。諸の大乗経、華厳等に麁妙相ひ隔つることを明す。二乗は聞かず解せず、瘂の如く聾の如し。無量義経に麁妙を明すは、一理より無量の麁妙の機応を出生す。一理を妙と為し、出生の無量を麁と為す。此れ則ち妙より麁を出す、隔てて未だ合せず。今経は無量還つて一と為る。此れ則ち権を開して実を顕はすに、秖だ麁是れ妙なり。何となれば、本と一理を顕はすに諸の方便を作せば、方便即ち是れ真実なり。故に云はく、「凡そ所作あるは唯だ一事の為なり、未だ曾て暫くも廃せず」と。譬へば三草二木の秖だ是れ一地の所生なるが如し。即ち是れ同源なるは機一なり。一雨の所潤即ち是れ同受なるは応一なり。愚者は未だ解せず。草木の四微は永く是れ地に非ずと謂ふ。智者は四微の生ずるは秖だ是れ地の変なり、四微の滅するは秖だ是れ地に還ると了達す。豈に草木にして而も地に非ざることあらん耶。是れ即ち権を開して而も実を顕はす。声聞の法を決了するに、是れ諸経の王なり。九法界の機皆な仏界の機なり。四聖の応も妙応に非ざること無し。
[17]第六に観心を明す、云云。
[18]第七に神通妙を明さば、此に四意と為す。一には次第を明し、二には名数、三には同異、四には麁妙なり。来意とは、前に機応を論ずるは、止だ是れ其の生ず可く赴く可きの相を辨ず。若し正しく化用の他を益することを論ぜば、即ち是れ三輪不思議の化なり。身輪・口輪・他心輪を謂ふ。普門品には但だ二文あれども、而も三意を兼ね得たり。「娑婆世界に遊ぶ」とは即ち是れ身輪、「而も為に説法す」とは即ち是れ口輪なり。蓮華の大なるを見て池水の深きを知るが如し。若し説法の大なるを見れば、則ち智慧の大なることを知る。故に両輪に兼ねて他心輪を示すなり。又た化他には多く両輪を示して心輪を示すこと少し。多に従へば但だ二なり。故に心輪無し。経に言はく、「其の見聞の者、悉く皆な度を得るなり」と。身輪を示すとは、即ち是れ薬樹王身・如意珠王身を示す。口輪を示すとは、即ち是れ毒鼓・天鼓を示す。此は是れ慈悲、身口に熏じて則ち二身の示現、二鼓の宣揚あり。若し心輪を示さは、即ち是れ随自意・随他意等を示すなり。亦た是れ病行・嬰児行に同ず。上に機感相ひ関かることを辨ずれども、而も妙理顕はれ難し。応に神通を須ひて発動し、瑞相を現じて密に理を表すべし、世人は蜘蛛挂るときは則ち喜事来り、乾鵲鳴くときは則ち行人至ると以ふ。小尚ほ徴あり、大焉んぞ瑞無けん。近を以て遠を表するに、亦応に是の如くなるべし。
[19]二に名数とは、諸経に出す所の名数同じからず。今且らく六種に依る、天眼・天耳・他心・宿命・如意身通・無漏等を謂ふなり。此の六皆な神通と称するは、瓔珞に神は天心を名け、通は慧性を名くと云ふが如し。天心とは天然の心なり、慧性とは通達して無礙なり。毘曇に亦、障通無知若去と云ふは、即ち慧性を発するなり。当に知るべし、天然の慧性と六法と相応じて、即ち能く転変自在なることを。故に神通と名く。地持力品に云はく、「神は測知し難きを謂ひ、通は壅礙無きを謂ふ」と。此の解、瓔珞と同じ。天心は即ち是れ測り知り難きの義、慧性は即ち是れ壅礙無きの義なり。然るに此の六法は、修するに前後無く、証するに次第無く、用ふること亦た時に任かす。故に衆経の列次不同なり。釈論に云はく、「幻術の事は是れ虚誑の法なり、草木に法りて人の眼を誑惑すれども、物実に変ぜず。神通は爾らず、実に変法を得れば、物をして実に変ぜしむ。地に水となるの理あり、水に地となるの義あるが如し。若し金銀、火を得れば則ち融じ、水、寒に遇へば則ち結す。火と寒は是れ融結の法なり。結するときは則ち実に結し、融ずるときは則ち実に融ず。若し天然の慧性を得るときは、則ち実に能く此の如く変用自在なり。変ずる所の水火は、他をして実に受用することを得せしむ。而も其れ果報に非ずして、但だ是れ神通一時の所作なる耳。
[20]三に神通の不同を明さば、鬼道は報得の通なり、人能く薬を服して亦た通を得、外道は根本禅に因りて亦た通を発す。諸天は報得の通なり。二乗は背捨・勝処・一切処に依りて、十四変化を修して神通を発得す。六度の菩薩は禅に因つて五通を得て、道場に坐する時、能く六通を得。通教の菩薩は禅に因りて五通を得、体法の慧に依りて無漏通を得。別教の地前は禅に依りて五通を発し、登地に正無漏通を発して任運に常に照して、二相を以て諸の仏土を見ず。円教の通は、今経及び普賢観に依りて鼻・舌の両根を以て、以て六数と為す。菩薩処胎経に同じ。他心と宿命とは意根に入れて摂す。然るに経の文に、鼻通を明すこと最も委悉なり。其の互用壅ること無きを取る。舌根に四を取りて無礙を辯じ能一の妙音を以て三千界に遍満す。而も味を知ることを取らず、味を知るは是れ報の法なり。経に云はく、「諸根通利にして智慧明了なり」と。六根の皆な智慧なるは、即ち互用の意なり。今云はく、六根の通は事禅に因りて発せず、此れ乃ち中道の真なり、真に自ら通ありて、任運に成就して作意を須ひず。故に無記化化禅と名く。別に作意せず、故に無記と名く、任運に常に明なること阿修羅の琴の如し。化、復た能く化す、故に化化と言ふ。中道の真通任運なること此の如し、余の通と異なり。其の修習を論ぜば、皆な実相常住の理を縁ず。文に云はく、「是れ常眼根清浄なることを得」と。既に是れ常と言ふ、即ち本性清浄の常にして性に垢染無し。毘曇婆沙に云はく、「六入殊勝なること本と自爾なるが故なり」と。鴦掘に云はく、「所謂る彼の眼根は諸の如来に於て常なり、具足して減修無く、了了分明に見る」と。乃至「耳・鼻・舌・身・意、皆な諸の如来に於て常なり。具足して減修無く了了分明に聞知する」等なり。彼とは仏に於けるを自と為し、衆生に於けるを彼と為す。衆生は謂つて無常と為せども、如来に於ては是れ常なり。減修とは禅に依りて修するを名けて減脩と為し、実相に依りて修するを無減修と名く。仏性を見ざるを不了了見と名け、若し仏性を見れば了了見と名く。又た実相の理を見るを了了と名け、法界の事を識るを分明と名く。見に二種あり、一には相似の見、二には分真の見なり。相似とは、六根清浄の中に辨ずるが如し。其の真見を論せば、華厳に明す所の仏の眼・耳・鼻・舌・身・意の如し。此の経の中に亦た真身の通の相を明す。所謂ゆる普く色身、一切衆生所喜見の身を示すとは、即ち是れ外の身通なり。現身、琉璃の如くにして十方の諸仏の悉く身中に於て現ずるは、即ち是れ内現の身通なり。眼・耳・鼻・舌等の内外の示現も亦た例して此の如し。是れ則ち円教の神通にして、前に辨ずるに異なり、云云。問ふ、若し六根を以て六通と為さば、云何んぞ功徳に増減あるや。答ふ、大論の四十に云はく、「鼻・舌・身を同じく覚と称し、眼を見と称し、耳を聞と称し、意を知と称す。三識の所知を一と為し、三識の所知を別と為す。而も三識は道法を助くること多し、故に別説す。三識は爾らず、故に合説す。又た三識は但だ世間の事を知る、故に合説す。三識は亦た世間を知り、亦た出世間を知る、故に別説す。又た三識は但だ無記の法なり、三識は或は善・悪・無記等を縁ず。又た三識は能く三業を生ずる因縁となる、故に別説するなり。若し此の義に例せば三根は種種の義強し、故に千二百の功徳あり。三根は力弱し、故に但だ八百の功徳なる者なり。蓋し一途の別説にして経の円意に非ず。正法華には、「功徳正等にして等しく千あり」と。今経には六根の互用を顕はす。三根を将つて二百を足して三根に向つて互用する耳。自在無礙なり。能等は正法華に説くが如く、能縮は身・眼・鼻の八百の如く、能盈は耳・舌・意の千二百の如し。経に云はく、「若し能く是の経を持すれば功徳則ち無量なり、虚空の無辺なるが如く、其の福限るべからず」と。互用の意彰らかなり。
[21]四に麁妙を明さば、若し神通の物を度することを言はば、但だ己身を変じて其の正報を同ずるのみに非ず、亦た己が国土を変じて其の依報に同ず。纓珞に云ふが如く、一切の国土の応を起し、一切衆生の応を起すなり。若し正報に応同するは、即ち是れ示して十法界の像と為るなり。若し依報に応同するは、即ち是れ十界所依の処に同ずるなり。若し四悪趣に応同するは、悪業を観ずる慈悲を用ひて無記化化禅に熏じて、応じて地獄等の形質と作る。黒髪身に纏ひ、猴猨鹿馬、大鷲鵽鳥、脩羅等の像、各各皆な其の事業を同ずるを見る。若し人天の身に応ずるは、是れ善業を観ずる中の慈悲を用ひて、無記化化禅に熏じて善道の身を作す。後身の菩薩の如く、正慧をもつて胎に託し、地に堕ちて七歩し、手足を盥洗し、楊枝自ら浄め、妃を納れ子を生じ、世を厭ひて出家す。乃至天の像も亦復た是の如し。各各皆な其の事業に同ずるを見る。若し応じて三蔵の二乗と作るは、是れ析空の慈悲を用ひて無記化化禅に熏じて老比丘の像を起し、僧と共に布薩し、律儀規矩、各各皆な其の事業に同ずるを見る。若し通教に応ずるは、是れ即空の慈悲を用ひて無記化化禅に熏じて体法の応と作る。無生を観じ、苦・空等に習応するに悉く不可得なり、各各皆な其の事業に同ずるを見る。若し別教に応ずるは、是れ即仮・即中の慈悲を用ひて無記化化禅に熏じて漸頓の応を起して、恒沙の仏法を修することを示し、各各皆な其の事業に同ずるを見る。若し円教に応ずるは、是れ即中の慈悲を用ひて無記化化禅に熏じて円頓の応を起し、一の中の無量、無量の中の一を修することを示して、皆な各各其の事業に同ずるを見る。是の如く正報に応同すること称計す可からず。意を以て知るべし、言を以て尽くす可からず、云云。
[22]若し此の意を得れば、往いて漸頓五味の教の中に神通を用ふるに望むれば、乳教に用ふる所の神力は、若は多、若は少、但だ両意を表ず、一麁一妙なり。三蔵に神力を用ふるは、若は多、若は少、但だ一麁と為す。方等に神力を用ふるは、若は多、若は少、三麁一妙なり。般若に神力を用ふるは、若は多、若は少、二麁一妙なり。此の経の神力は、若は多、若は少、唯だ一妙と為す。所以に序品の中の瑞相に十あり、咸く皆な妙を表ずるなり。地皆厳浄は理妙を表じ、放眉間光は智妙を表じ、入於三昧は行妙を表じ、天雨四華は位妙を表じ、栴檀香風は乗妙を表じ、四衆咸有疑は機を表じ、見万八千土は応を表ず。此の二は感応妙を明すなり。地六種動は神通妙を表じ、天鼓自鳴及び而為説法は説法妙を表じ、天龍大衆歓喜は眷属妙を表じ、又見仏子修種種行は利益妙を表ず。此に神変を用ふるは、若は少、若は多、倶に妙を表ずるなり。文に云はく、「今仏、三昧に入る、是れ不可思議希有の事を現ずるならん」と、現希有事は是れ妙の神通なり。
[23]若し依報に応同するは両意あり。若し国土の苦楽は衆生に由る、仏の所作に非ず。仏は但だ応同する而已。若し折伏・摂受を作すは、仏、機縁を鑑みて或は苦国を作り、或は楽国を作る。苦楽は仏に由りて、衆生に関はらず。今且らく初の意を釈せば、大論に云はく、「国土あり、純ら声聞僧なり。或は国土あり、純ら菩薩僧なり。或は菩薩と声聞と共じて僧と為る。或は浄、或は穢あり。何んが故ぞ差別するや、皆な乗戒緩急に由る。若し戒緩にして乗、亦た急亦た緩なるは即ち是れ穢土、声聞・菩薩を以て共に僧と為す。戒緩なるを以ての故に五濁の土穢なり。乗も亦た緩なるが故に是れ三乗を開す。乗、亦た急なるが故に是れ一乗を顕はす。娑婆是れなり。戒急にして乗亦た緩亦た急なるは浄土なり。戒急なるが故に土に五濁無し、乗、亦た緩なるが故に三乗を開す。亦た急なるが故に一を顕はす。安養是れなり。乗緩戒急なるは即ち是れ浄土にして、純ら声聞を僧と為す、此れ知る可きなり。戒緩乗急は即ち是れ穢国にして、純ら菩薩を僧と為す。此れも亦た知んぬ可し。浄穢の差別は悉く衆生に由り、高下苦楽は仏に関はらざるなり。若し伏摂の義を作さば、国は仏に由りて衆生に関はらず。仏、悪を観ずる慈悲と無記化化禅と合するを以て穢国を起し、四趣の衆生を折伏・摂受するなり。善業の慈悲と無記化化禅と合するを以て、両趣の衆生を折伏・摂受するなり。仏、析空六度等の慈悲と無記化化禅と合するを以て、或は穢国を起し、或は浄国を起して声聞・菩薩両界の衆生を折伏・摂受するなり。仏、体空の慈悲と無記化化禅と合するを以て、或は浄国を起し、或は穢国を起して通教の声聞・菩薩両界の衆生を折伏・摂受するなり。仏、歴別の慈悲と無記化化善と合するを以て、或は穢国・浄国を起して別界の菩薩衆生を折伏・摂受するなり。仏、即中の慈悲と無記化化禅と合するを以つて、或は浄国を起し、或は穢国を起して円界の菩薩衆生を折伏・摂受するなり。是の如く種種に国の不同を為すことは、皆な如来の神力の転変に由る。今、此の依正の転変を将つて三教の作意の神通に待して、悉く名けて麁と為す。譬へば、図画するに思ひを尽し力を竭すも終に真に似ざるが如し、之を名けて麁と為す。明鏡の容を写すに任運に相ひ似るは、之を名けて妙と為す。方便の神通は譬へば麁画の如し。中道は任運にして即ち対すれば即ち応ず。浄鏡に譬ふ。故に妙と為すなり。無記化化禅の作す所の神変に就て自ら麁妙を論ぜば、若し九界の衆生の為に方便の神力を用ひて浄を作し穢を作すに、若は広、若は狭、悉く名けて麁と為す。若し仏法界の衆生の為に真実の神力を用ひて浄を作し穢を作すに、若は広、若は狭、悉く名けて妙と為す。経に眉間の光を放ちて万八千の土を照し、及び三たび土田を変ずるが如き、余経の神力に比するに何んぞ多とするに足らん。但だ大事を開発せんが為の故に妙と言ふなり。
[24]又た五味に約して麁妙を論ぜば、乳教は一麁一妙、酪教は一麁、生蘇は三麁一妙、熟蘇は二麁一妙、法華は一妙なり。又た諸経の妙は同じく麁は異なり。麁に二種あり、一には難転の麁、二には昜転の麁なり。易転とは諸経の中に於て已に妙と為ることを得。難転の者は今の法華に於て復た両麁無くして但だ一妙あり。唯だ一大仏事の因縁にして曾て他事無し、仮りに九界の神通に同ず。衆生は自ら他事と謂へども、仏に於ては常に是れ仏事なり。客作は自ら賤人と謂ひ、長者は審かに是れ子なりと知る。此れ即ち相待の神通妙なり。
[25]又た諸経の諸麁の神通は妙の神通を隔つるも、今の経に皆な権を開して実を顕はせば、同じく妙の神通なり、是を絶待に妙の神通を明すと名く。此れ略して記す、周悉ならざるなり。
[26]第八に説法妙とは、「諸法は示すべからず、言辞の相寂滅す、因縁あるが故に亦た説示すべし」と。前の薬・珠の二身は先に定を以て動ず。今、毒・天の二鼓は後に慧を以て抜く。一乗を演説するに三の差別無し、皆な悉く一切智地に到る。其の所説の法は皆な実にして虚ならず、是の故に次に説法妙あり。即ち六意と為す。一には法の名を釈し、二には大小を分ち、三には縁に対するに同異あり、四には所詮を判じ、五には麁妙を明し、六には観心を明す。
[27]法の名を釈せば、三世の仏法は多無量なりと雖も、十二部経に収むるに罄きて尽きざること無し。先に達摩鬱多羅の七種の分別あるを出す。体は一、相は二、制名は三、定名は四、差別は五、相摂は六、料簡は七なり。体一とは、経は名味章句を以て体と為す。経として然らざるは無し。故に体一なり。相二とは、長行に直説し、偈を作りて讃頌することあり、両種の相別なり。何となれば、人情の喜楽不同なるを以て、質言を好むあり、美語を好むあり、故に相別にして二あり。制名の三とは、脩多羅・祇夜・伽陀の三部は字句に就て名と為し、所表に就かず。授記等の八部は所表に就かず、又た字句に就かず、事に従つて称を立つ。方広の一部は、名は所表に従ふ。何となれば、脩多羅等の三部は直ちに法の相を説きて、名に即して所表を顕はす可し。苦集滅道の如き、名に依りて即ち所表を顕はす、故に名に就て以て名と為すなり。授記等の経は、所表の法は但だ言を以て説く可からず。要らず事に寄せて方に乃ち顕はすことを得。授記経の事に従つて名と為るが如し。止だ行因得果の道理を明し、理は事に託して彰はれ、事は言を以て辨ず。法華の中の声聞に授記を与ふるが如し。一切皆当に成仏することを得べきことを彰はす。授記に寄せて以て所顕を彰はす、故に授記経と名く。無問自説経とは、聖人の説法は皆な請問を待つ。然るに亦た衆生の為に不請の師と作る、故に無問自説す。又た仏法は知り難し、人の能く問ふもの無し。若し自ら説かずんば、衆則ち説・不説たることを知らず。又復た為に何れの法をか説くを知らず、故に無問自説す。乃ち所説の甚深唯証を彰はす所以なり。是を以て無問自説に寄せて以つて所顕を彰はすなり。因縁経とは、戒法を明さんと欲するに、必ず犯に因りて過を彰はす。過の相彰現なれば、方に制を立つることを得。此れも亦た因縁に託して以て所顕を明すなり。譬喩経とは、法相は微隠なれば、要らず近を仮りて以て遠を喩ふ、故に言を以て借り況へ、況に寄せて以て理を彰はすなり。本事本生経とは、本事は他の事を説き本生は自の生を説く。現事に因りて以て往事を説き、本生に託して以て所表を彰はすを本事経と名け、本生に託して以て所行を彰はすを本生経と名くるなり。未曾有経とは、希有の事を説く。由来未だ有らざる者は未曾有なり。法に大力あり、大利益あるを示すに、未曾有の事に託して以つて所表を彰はすなり。論義経とは、諸部の中の言義隠覆するを往復分別して所顕を明らかにすることを得、論義に寄せて以て理を明らむるなり。故に授記等の八経は事に従つて称を立つ。方広の一部は所表に従つて名と為すは、方広の理は名を以つて説くと雖も而も妙は名言を出づ。事に寄せて以て彰はすと雖も、然も事の如く取る可からず。故に名に就かず、事に就かず、所表に就て以つて名と為すなり。定名に四あり。脩多羅を線経と名く、経の体は是れ名字にして而も名は況喩に従ふ。祇夜と偈陀は当体を名と為し、授記・無問自説・論義等の三経は体・事合して目く。自余は事に従ふなり。差別とは脩多羅に九種あり。経に云はく、「如是より奉行に至るまで一切を脩多羅と名く」と。是れ則ち脩多羅の名通じて而も体総なり。皆な名けて経と為す、故に名通ず。文字経体に就て分つて十二部と為す、故に体総なり。第二に総の脩多羅の中に就て事に随つて分つて十一部を出す。即ち十一部に対して余の直ちに法相を説く者は、是れ別相の脩多羅なり。三に論議経は、十一部の経を解釈す。是れ即ち十一部を経の本と為す。当に知るべし、論に解釈する所の前の十一部は皆是れ脩多羅なることを。又た雑心の中の脩多羅品に、亦た論に対して経を以て脩多羅と為す。又た婆脩槃駄の提婆の百論を解するが如き、論を経本と為し、亦た論を名けて脩多羅と為す。又た経に云はく、「脩多羅を除いて余の四句の偈は、以て偈経と為す」と。即ち四句の偈経に対して余の長行の説は是れ脩多羅なり。又た云はく、「祇夜を偈と名け脩多羅を頌す」と。即ち祇夜の頌偈に対して所頌は即ち是れ脩多羅なり。又た三蔵を分別するが如き、理を敷置する教を以て、脩多羅と為し、別の毘尼・阿毘曇に対するなり。又た経に説くが如き、「仏より十二部経を出し、十二部経より脩多羅を出す」と。十二の別教に対して、通教を以て脩多羅と為す。是れ九の中の初の二偈も亦た是れなり。偈陀とは、四種あり。法華に阿閦婆等の偈あり、涅槃に二万五千の偈ありと言ふが如き、是れ則ち偈経なり。復是れ通総なり。若し四句を偈と為す。一字一句も名けて経と為すことを得。一字一句皆を名けて偈と為すには非ず、但だ聖言巧妙にして章句成就するを以て、数句を偈と為す、故に通じて偈と名くることを得。二には脩多羅を除いて余の四句を偈と為す。三には偈の中の重頌を祇夜と名く。当に知るべし、重頌の偈を名けて偈経とするに不ざることを。四には脩多羅の通総するを、事に随つて剋分別の異部と為す、直説を以つて脩多羅と為すが如く、当に知るべし、偈の中亦た事に随つて剋分することを。若し授記・因縁等を別して異部と為す。事に随はずして直爾に偈説するを以て、名けて偈経と為す。祇夜とは名けて重頌と為す。頌に三種あり、一には意を頌し、二には事を頌し、三には言を頌す。頌意とは、聖意所念の法相及び事を頌す。若し心所念の法相を頌するは、則ち偈陀経と名く。若し心所念の授記等の事を頌するときは、則ち事に随つて別して異経と為す。頌事とは授記等の事を謂ふ。亦た頌する所の事に随つて別して異経と為す。頌言とは、若し事に随ふの言を頌するは、事に随つて別して異経と為す。若し直説の脩多羅を頌するは、名けて重頌祇夜経と為すなり。授記とは、果は心期たるを記と名け、聖言説与を授と名く。授記に二種あり、若し諸の菩薩の与に仏の記莂を授くるは、是れ大乗の中の授記なり。若し近因近果を記するは、是れ小乗の中の記なり。無問自説に二種あり、一には理深く意遠くして人の能く問ふこと無し。二には問ふ可からざるに非ざれども、但だ聴く者の聞くに宜しければ、仏、不請の師と為る。不請の師とは、問を待たずして自ら説きたまふなり。方広に二種あり、一には語広、二には理広なり。相摂とは、脩多羅の中に就て十一部を出す。若し偈と直説と相対して之を言はば、脩多羅の中より九部を出すことを得、但だ二の偈無し。偈陀の中より十部を出すことを得、但だ直説の脩多羅無し。祇夜の中より九部を出すことを得、脩多羅無く、亦た偈経無し。有無を料簡すること、云云。
[28]法の名を釈せば上の起教の中に已に説く。今、名を標するに互に不同あり、翻釈多く異なり。今、大智論に依りて名を標せば、一には脩多羅、此に法本と云ひ、亦は契経、亦たは線経と云ふ。二には祇夜、此に重頌と云ふ、偈を以て脩多羅を頌するなり。三には和伽羅那、此に授記と云ふ。四には伽陀、此に不重頌と云ひ、亦は略して偈と言ふ耳。四句を頌と為す、此の間の詩頌の如し。五には優陀那、此に無問自説と云ふ。六には尼陀那、此に因縁と云ふ。七には阿波陀那、此に譬喩と云ふ。八には伊帝目多伽、此に如是語と云ひ、亦は本事と云ふ。九には闍陀伽、此に本生と云ふ。十には毘仏略、此に方広と云ふ。十一には阿浮陀達摩、此に未曾有と云ふ。十二には優波提舎、此に論義と云ふ。部とは、部別に各類従あるなり。経とは外国には脩多羅と云ひ、此には線経と云ふ。線は能く貫穿し、経は能く経緯す。言ふこころは能く法を持すること、線の如く経の如し。然るに阿毘曇雑心の中に脩多羅の五義を説くは、乃ち是れ彼の論師の解義にして翻名に非ざるなり。世俗も亦た緯に対して経と名け、而も経を訓じて常と為す。物の経は始終に亘るが如く、始終は時別なれども而も物に改異無し。改異せざるが故に之を名けて常と為す。脩多羅とは諸経の中の直説の者なり。謂はく、四阿含及び二百五十戒、三蔵の外に出でたる諸の摩訶衍経に直説する者も皆な脩多羅と名くるなり。祇夜とは諸経の中の偈、四・五・七・九言の句、少多不定なり。重ねて上を頌する者は、皆な祇夜と名づくるなり。和伽羅那とは、三乗・六趣・九道、劫数ありて当に作仏することを得べし。若し後の爾所の歳に当に声聞・支仏を得べし。後の爾所の歳に当に六趣の報を受くべしと説くを、皆な授記と名く。夫れ授記の法は面門より五色の光を放つ。上の二牙より出づるは三悪道を照し、下の二牙より出づるは人天を照す。光の中に無常無我、安穏涅槃を演説す。光に遇ひ法を聞く者は、三途の中には身心安楽に、人中には癃残の者差ゆ。六欲天は欲楽を厭患し、色天は禅楽を厭ふ。光、十方を照して遍く仏事を作す。還つて遶ること七匝して、仏の足下より入るは是れ地獄道を記す。脹脛より入り、髀より入り、臍より入り、胸より入り、口より入り、眉間より入り、頂きより入る者は、是れ仏道を記す。論に脩羅に説くの光を見ざれば、当に是れ鬼道を開して脩羅を出すべし、従容に髀臍の間に在る耳。伽陀とは、一切の四言・五言・七・九等の偈の重頌せざる者を、皆な伽陀と名くるなり。優陀那とは、法あれば仏必ず応に説くべし、而して問ふ者あること無ければ、仏略して問端を開く。仏の舎婆提毘舎佉堂の上に在りて、陰地に経行して自ら優陀那を説きたまへる如し。所謂る我無く我所無く、是の事、善い哉と。是を優陀那と名く。又た般若の中に諸の天子の須菩提の所説を讃ずる如き、「善い哉善い哉、希有なり世尊、難有なり世尊」と。是を優陀那と名く。乃至仏の滅後に、諸の弟子、要偈を抄集し、諸の無常偈に無常品を作る。乃至婆羅門品を皆な優陀那と名くるなり。尼陀那とは、諸仏の本起の因縁を説く。仏、何の因縁ありて此の事を説きたまふ、脩多羅の中に人ありて問ふが故に、為に是の事を説く。毘尼の中に人ありて是の事を犯す、故に是の戒を結す。一切の仏の縁起の事を語するを、皆な尼陀那と名く。阿波陀那とは、世間の与に相似して柔軟浅語す。中阿含の長譬喩、長阿含の大譬喩、億耳、二十億耳の譬喩等の無量の譬喩の如きを、皆な阿波陀那と名く。伊帝目多伽に二種あり、一には結句なり、我れ先に説くことを許す、今已に説き竟ると言ふ。二には更に経あり、一目多伽と名く。有人の言はく、因多伽目多伽と。名は三蔵及び摩訶衍に出づ。何等か是れなる。浄飯王の如く強ひて千の釈を逼めて出家せしむ。仏は道を得るに堪へたる者五百人を選んで、将ゐて舎婆提に往きて親属を離れしめ、身子・目連に教化せしむ。初中後夜、専精にして睡らず、夜を以て長しと為す。後に道を得て本国に還り、迦毘羅婆林より五十里、城に入りて乞食するに道路長しと為すを覚る。時に師子あり、来りて仏足を礼す。三の因縁の為に偈を説く、云云。此の三事の本因縁を説く、故に一目多伽と名くるなり。闍陀伽とは、菩薩本と曾て師子と為り、獼猴の寄を受け、脇の肉を攫んで猴の子に貿ふ。病世に於て赤目の魚と作り、諸の病者に施し、或は飛鳥と作りて泫溺を救ふ。是の如き等の無量の本生に多く済ふ所あるを説くを、皆な闍陀伽と名くるなり。毘仏略とは、所謂る摩訶衍般若経、六波羅蜜経、華首、法華、仏本起因縁、雲、法雲、大雲なり、是の如き等の無量の諸経は、阿耨三菩提を得せしめんが為の故に、此の毘仏略を説くなり。阿浮陀達摩とは、仏、種種の神力を現ずるが如き、衆生は未曾有なりと怪しむ。放光動地、種種の異相を皆な阿浮陀達摩と名くるなり。優波提舎とは、諸の問者に答へて其の所以を釈し、広く諸の義を説く。是の如き等の問答解義を、皆な優波提舎と名くるなり。仏、自ら論義経を説く、迦旃延の解する所、乃至像法の凡夫の人、法の如く説く者を、亦た優波提舎経と名くるなり。
[29]二に法の大小を分つことを明さば、此の経には九部を指して大に入るの本と為す。則ち九部は是れ小、三部は是れ大なり。蓋し別して語する耳。通じて言を為すときは、小も亦た六道の因果を記莂することあり。又た阿含の中に、亦た弥勒に当作仏の記を授く。豈に授記経に非ずや。亦た自ら善哉と唱ふることあり、無問にして而も説くなり。声聞経の中に法空を以て大空と為す。故に成論の中に云はく、「正しく三蔵の中の実義を明さんと欲す、実義とは空、是れなり」と。阿毘曇に申べざる所、而も成論に空を申ぶ、空は即ち広経なり。当に知るべし、小乗に通じて十二部を具することを。故に涅槃に云はく、「先に十二部経を聞くことを得と雖も、但だ名字を聞きて其の義を聞かず。今、涅槃に因りて其の義を聞くことを得」と。又た云はく、「先に十二部経を聞くことを得と雖も、我が意は猶ほ故より是の大涅槃経に如かざるものと謂はん」と。大品に亦た云はく、「魔、比丘と作りて菩薩の為に声聞の十二部経を説く」と。有る経に言はく、「大小乗に各各十二部を具す。若し六部は大小乗に通ずるを信ぜば、六部互に相ひ通ぜざることを信ぜず」と。此を按ずるば、即ち是れ大小倶に十二部あり。但だ是れ小乗の中の説にして、大乗の義に非ず。故に別して三を譲りて九を存す。何となれば、小乗は灰断にして如意珠の身無し。故に広経無し。仮令ひ法空を以て広説の文と為すとも、小乗は根鈍なれば、説は必ず縁を仮る。天鼓任に鳴ること無ければ、無問自説を少く。授記ありと雖も、作仏を記すること少し。又た涅槃の第七に云はく、「九部の中に仏性を明さずといはば是の人罪無し」と。此に例して言はば、十二部の中に仏性を明さずといはば、是の人罪あらん。有る人の言はく、大乗は九部なり、因縁・譬喩・論義を除く。大乗の人は根利にして此の三を仮らずと。斯れ亦た別論なり。通じて大乗を語すれば、何んぞ此の三経無きことを得ん耶。有る経に云はく、「小乗は但だ広経の一部を譲りて十一部り。方広無きことは、大乗は如来は是れ常、一切衆生に皆な仏性ありと説く。正理を方と為し、包富なるを広と為す。又た理融じて無二なるを亦た名けて等と為す。声聞の中に無き所なれば、但だ十一部なる耳。若し小乗は定んで九ありと言はば、復た応に十一部あるべからず。既に十一を取る、亦た通じて十二あり。縁の為に別説するに、或は三を譲り、或は一を譲り、以て大小乗を判ず、云云。