[161]第二に偈に一百六十五行有り、分て二と為す、前に一百行有て上の長行を頌す、後に六十五行有て通経の方法を明す、上の長行に開譬と合譬と有り、偈頌も亦二あり、初めに六十五行半有て開譬を頌す、次に三十四行半有て合譬を頌す。初めに亦二あり、初めに三十三行の偈有て総譬を頌す、次に三十二行半の偈有て別譬を頌す。総頌に六意あり、六意の中止だ其四を頌し、其二を兼ね得、家宅を頌するに一門を兼ね得、五百人を頌するに三十子を兼ね得。
[162]初めの一句は長者を明す、即ち上の位号を頌し、即ち名行歎徳を兼ね得、既に人に長たるの徳有り、即ち名行遍ねく国邑の為めに崇めらるることを知り、亦内外年徳倶に高きことを知るなり、内は婆伽婆に合す、即ち位号なり、自ら智断慈悲万徳を具足することを知るなり。
[163]有一大宅の下、第二に三行一句は、上の第二の家宅譬を頌するに二と為す、初めの一句は宅の広大を頌す。其宅久故の下、第二に三行は広く宅の体を出す。所焼の相を明す、故に知ぬ、此れ宅の体を頌することを。三界に始め無きを久と為す、今の造る所に非るを故と為す。無常卑鄙を頓弊と名く。亦云く、頭は殿、腹は堂、背を舎と為す、念々相続して無常なるを高危と為す。一云く、色界を堂と為し、欲界を舎と為し、堕落を免れざるを高危と名くと。命根を支持するは柱の如く、過去の行業を基陛と為すなり。亦云く、両足を柱根と為し、三相に遷さるるを摧朽と名くるなりと。意識の綱維するを以て梁棟と為し、諸苦に壊せらるること傾斜の如し。亦云く、脊骨を梁棟と為し、胳を基陛と為し、衰老の時を頽毀と為すと。牆壁とは、一云く、四大を牆壁と為し、皮膚を泥塗と為し、四威儀の正しからざるを乱墜と為し、五識の聡ならず、境を相主せざるを差脱と為すと。亦云く、牆壁圮拆とは皮膚の皴朽するが如く、壮色鮮浄なるは、初て泥塗するが如く、老色枯悴は後に褫落するが如し、髪髭朽老するときは、則ち皆脱落すること、覆苫の乱墜するが如し、筋骨老弱し、支節援けざること、椽梠の差脱するが如し。周障屈曲とは、印師の云く、三十六物は更に相隔障す、故に周障と云ふ、猪腸盤廻す、故に屈曲と云ふ、但だ無常に遷さるるのみ非ず、亦不浄苦等有り、故に雑穢充遍と云ふなりと。今云く、周障は是れ六識、屈曲は是れ六根なり、六識は六根を総じて境を取ること難関あり、故に屈曲と言ふ、六塵は遍ねく六根を染す、故に雑穢充遍と言ふ、因縁と観心の両番の釈なり云云。
[164]有五百人の下、第三に半行は上の第三の五百人譬を頌す。三乗の根性は、五道の為めに摂せらる、三十子譬を兼ね得るなり。
[165]鴟〔現流本は鵄に作る〕梟より下、第四に二十九行の偈有り、正しく上の第五の火起を頌す、此れに就て復四あり、初めに二十二の偈有りて、地上の事を明して欲界の火起を譬ふ。次に第二に三偈半有り、穴中の事を明して色界の火起を譬ふ。次に第三に二偈半有りて、空中の事を明し無色界の火起を譬ふ。後に第四に一偈は、総じて衆難の一に非ることを結す。欲界の火起に就て復四と為す、初め十七偈半は所焼の類を明して衆生の十使を譬ふ、次に第二に一偈半有て火起の由を明し、五濁を起すの所由を譬ふ。次に第三に 一行半は、正しく火起の勢を明して、正しく五濁を起すことを譬ふ。後に第四に一行半は被焼の相を明して八苦五濁を受くるを譬ふ、第一の十七行半に就て復二あり、初め十六行は、正しく所焼を明し、後の一行半は総結なり。所焼の中に就て又二あり、初めの六行は禽獣の焼かるるを明して五利使の衆生を譬ふ、後に十行は、鬼神の焼かるるを明して五利使の衆生を譬ふ、第一に五鈍使を二と為す、初め五行半は五鈍を明し、第二に半行は結す。今初めの五鈍を五と為す。
[166]初め半行は慢使を譬ふ、衆生自ら挙げて他を軽んずること、鳥の性と為り高きを陵ぎ下し視るが如し、八鳥は八慢を譬ふ。文殊問経に八憍を明す、今は用ひて八鳥に配す、盛壮憍は鴟の如く、性憍は梟の如く、富憍は雕の如く、自在憍は鷲の如く、寿命憍は烏の如く、聡明憍は鵲の如く、行善憍は鳩の如く、色憍は鴿の如し、他を陵ぐを憍と為し、自ら貴ぶことを憍と為し、自愛するを貪と為し、他を愛するを淫と為し、自ら忿るを恚と為し、他を忿るを瞋と為し、自ら惑ふを愚と為し、他に惑ふを癡と為す云云。
[167]次に蚖蛇の下、第二に二句は瞋使を譬ふ、瞋に三有り、蚖は毒盛んにして触れざれども而も吸ふ、非理に瞋を生ずるを譬ふ。蝮蠍は触るれば則ち螫す、理を執して瞋るを譬ふ。蜈蚣は戯論の瞋を譬ふ、世人の云く、赤頸の者は是れ蜈蚣、赤からざる者是れ蚰蜒なりと。
[168]守宮の下、第三に二行は癡使を譬ふ、癡に独起・相応起有り、守宮百足等の兀然たるは、独頭の無明を譬ふ、狖狸鼷鼠等は相応を譬ふるなり。諸悪虫輩の下は、癡の根本より備に諸結を起すなり、諸使の相ひ縁ずるを明す、或は三界を縁ずること交横の如く、之を起すこと速疾なるは馳走の如し。屎尿の下の一行は、癡心所著の境を明す、皆無常苦無我不浄なり、癡の不了に由て、中に於て浄等を計し、而して染著を生ず、故に羌蜋諸虫而集其上と云ふ。
[169]狐狼の下、第四に二行は貪使を明す、貪に二種有り、一に有力、二に無力なり、有力とは威勢を以て取る、狐狼等の如し、無力とは但だ能く他に従て麁弊を乞ひ索む、野干等の如し。咀嚼の下は、貪の境を取るを明す、物を引て已に向ふこと咀嚼の如し、道理を以てせざること践踏の如し、貪心もて境を取るに、或は一城を取り、或は一国を取る、其斉畔有るは䶩囓の如くなり。亦云く、貪心もて境を取るに用不用有り、用有て取るは咀嚼の如く、用あらずして取るは践踏の如し、又少きは則ち咀嚼、多きは則ち践踏なり。骨肉狼藉とは、五塵を積聚して止足を知らざるなり。由是群狗競来搏撮とは、此れ有力の貪、無力の者を搏撮す、王賊を謂ふなり。饑羸慞惶とは、常に足ることを知らざること饑の如く、求むるに得ること能はざること羸の如く、種々に営覓すること慞惶の如し。多欲の人は富むと雖も而も貧しなり、愛心の貪は五塵の肉を貪り、見心の貪は道理の骨を貧る、知見を推求して遂に所解多し、即ち是れ多骨なり、骨を須ふるの狗は競ひ来て之れを撮る、諸見の心中、未だ正法の食を得ざるを飢と名け、見を伏断すること能はざるを羸を名け、処々に解を求むるを名けて慞惶と為す。一云く、即ち是れ貪人の希求念望なりと。
[170]闘諍摣掣より、第五に二句は疑使を譬ふ、二辺に猶予するを疑と名け、未だ是非を決せざるは闘諍なり、意に謂て是と為るを掣と名く、復謂て非と為るを摣と為す。啀喋嘷吠とは、発言して是非の理を論決するなり。
[171]恐怖の両句は、第二に上の五鈍使を結するなり。
[172]処々皆有の下、第二に十行有りて、五利使を明すに二と為す、初めに半行は総じて利使を明す。
[173]利使は遍ねく五陰四諦の下を縁ず、故に処々皆有と言ふ。夫れ鬼神には通有り智有り、禽獣には則ち無し、故に利使を以て鬼神に譬へ、鈍使を虫獣に喩ふ。
[174]夜叉の下、第二に九行半は、別して五利使を明し五と為す、初めに三行は夜叉を明す、是れ捷疾鬼、邪見の因果を撥無するを譬ふ。人は是れ善報、出世の因果の、煩悩を雑ぜざるを譬ふ。此理を撥無すること、人の肉を食するが如きなり。毒虫の属是れ悪報、世間の因果の諸の煩悩を雑するが如し、此理を撥無すること、毒虫の属を噉ふが如くなり。孚乳産生とは、世間の法は、自類の因より自類の果を生するなり。各自蔵護とは、因は能く果を有するを蔵と名く、必らず得て失せざるを護と名くるなり。又人肉は是れ善、毒虫は是れ悪なり、邪見の心は善悪の因果を撥無する事噉食の如くなり。孚乳産生は、総じて善悪並に因果相生の用有ることを説くなり。食之既飽とは見心成就なり。悪心熾盛とは見心増広なり。闘諍之声とは、内心成就して外に言教を彰はし、無因無果の法を宜べ、能く聞く者をして三塗に堕落せしむ、故に怖畏と言ふなり。
[175]鳩槃茶の下、第二に両行二句は戒取を譬ふ、鳩槃茶は是れ鬼の勝れたる者なり、有漏善の如く、能く諸虫に勝るなり。蹲踞土埵とは、十善戒を修して、能く六天に生ず、六天は是れ欲界の高処にして、事は土埵の如くなり。又外道は戒を持して能く禅定を修し、初めに欲界定を得、或は未来定を得、未来定は未だ欲界を脱せず、欲界の頂は土埵の如くなり。或離一尺二尺とは、色界定を得るは一尺の如く、無色処定を得るは二尺の如し、上界に升ることを得るを往と為し、退堕するを反と為す、見蓋を起すは縦逸嬉戯の如し。捉狗両足は一云く、謗りて苦の因を無くするは狗の足を捉ふが如く、苦の果を撥無するは脚を頸に加ふるが如し、集に本と果を得るは狗の声の如く、邪見撥して集無ければ苦を得るの理無しと言ふは、其をして声を失せしむるなりと。観に解すれば、六行観を修して貪を伏し、貪の行ぜざること断ぜらるが似如なるを失声と為す、狗は是れ欲貧、両足を覚観と為す、覚観往還して、常に貪境に在り、数息は心を止む、是れ能縛の義にして、覚観を捉へんと為すなり。撲とは貪覚若し強ければ、不浄の境に向て不浄観を作し貪覚を伏す、貪覚の摧伏すること狗の撲たれて困んで声すること能はざるが如し。又云く、不浄観を作すは狗を撲つが如し、能く禅定を生ずるは、撲たれて声を失するが如くなり。脚加頸とは、狗は撲たると雖も、擾動して伏せざれば更に脚を以て加ふるが如し、貪は不浄と知て止むと雖も、貪猶ほ未だ甚だ静かならず、更に無常観の脚を以て保常の頸に保すれば則ち怖畏を生ず、則ち貪覚起らざるなりと。又云く、一往心を制するは地に向て撲つが如し、常に繋て縁に在るは脚を頸に加へて起ることを得ざらしむるが如くなり。怖狗自楽とは、無常を修するを以て貪心を覚悟すること狗を怖すが如し、因て禅味を得るを自楽を名くるなり。
[176]其身長大の下、第三に一行半の偈は身見を譬ふ、竪に三世に入て我を計するを長と名け、横に五陰に遍して我を計するを大と名く、我は自在なりと計して善法を修せず、即ち慚愧無し、故に裸形と言ふ。悪を以て荘厳するが故に黒と言ふ、功徳の資無きが故に痩と言ふ、我を計する者は三界を出でず、故に常住其中と言ふ、我を計して心に在れば、言を発して有我の相を宜説す、故に発大悪声と言ふ、冀て此説に因て道果を得んことを望む、故に叫呼求食と言ふなり。
[177]復有諸鬼の下、第四に半行は見取を譬ふ、咽細く命危くして而も其寿を保つ、非想は無常なれども而も涅槃と計す、故に其咽如針と言ふ。
[178]首如牛頭の下、第五に両行は辺見を譬ふ、我の断常を推すに断常の二辺は牛頭の二角の如し、身は是れ我と為んや、我は是れ身と為んや、我見に依て辺見を起すこと頭の両角の如くなり。常断を計するの過は能く出世の善を断ずること人の肉を食するが如く、能く世の善根を断ずることは或時狗を噉ふが如し、或る時は常を計し、或は復断を計し、前後廻転すること頭髪蓬乱の如し、常を計すれば即ち断を破し、断を計すれば即ち常を破すること残害兇険の如し、智定の食飲自ら資すること有ること無きは、飢渇に逼らるるが如し。
[179]夜叉餓鬼の下、第二に一行半は、総じて欲界の煩悩の相を結し、亦是れ利鈍の衆生の相を結す、並に是れ有漏の心にして常に道味無し、故に飢急と云ふ。窺看牖とは其邪に空理を観じて道味を慕仰するを明す、復観察すと雖も、而も滞著の心多く、正理に会せざること窓を窺ひ空を見るに無礙を得ざるか如くなり。
[180]是朽故宅属于一人の下、第二に一偈有て、失火の由を明す。三界は是れ仏の化応したまふの処、発心より已来、誓て度脱せんと願ふ、故に属于一人と云ふ。長者の宅に在れば能く火を慎ましむれども、出て去て後は諸子の知ること無きに由るが故に火をして起さしむ、内に正しく如来、大通仏の時に常に是等を教へて五濁を伏せしむれども、衆生の感尽くれば如来は応を捨つるに由て、此等は後に於て便ち五濁を起すに合す、他土の縁に赴くは是れ永く去るに非ず、故に近出と言ふ。又云く、無生を得てより已に三界に生ぜず、故に出と名く、久しからずして応に来るべし、故に近と言ふと。寿量品に云く、数涅槃を現ずと、即ち是れ出宅の意なり。
[181]於後宅舎の下、第三に二行は、正しく火起の勢を明す。四面は即ち是れ処所なり、身受心法等しく四倒五濁八苦を起す、故に一時と云ふ。相続して漸く増すを熾と為す、命根断ずるを爆と為す、風刀の体を解くを裂と為す。又云く、苦を受けて悲痛呻吟する声を名けて爆と為す、諸根の破壊するを裂と為すと、気断へ骨離れ筋絶ゆるを摧折堕落と為す、四大の解散するを牆壁崩倒と為すなり。
[182]諸鬼神等の下、第四に一行半は被焼の相を明す。或云く、親属を鬼神と為す、哭泣を揚声と為すと、今は上に例して利使を以て神鬼に譬ふ、利使の人は或は断常を計す、若し常を計する者は、謂く法は定んで空、已に有なるも還て無なり、無は即ち常なりと。断を計する人は、謂く法は定んで断ず、唯此一死のみにして更に復続くこと無しと、皆唱へて定説と言ふ、其事已に顕かなり、故に揚声大叫と云ふなり。若し是れ鈍使及び諸の戒取は本と断を計せす、今無常を見て但だ疑怖を生じて出離の方を知らす、彼に慞惶不能自出と言ふなり。
[183]悪獣毒虫の下、第二に三行半は、穴中の事を明して色界の火起を譬ふ、諸部に義を解するに瞋は三界に通す、即ち此文なり、文四と為す、初めに一行は所焼の類を明す。四禅の定は譬へば孔穴の如くなり、復門外の敞豁に及ばずと雖も、猶ほ猛炎を免るることを得、禅定の中に入れば、猶欲界の麁悪を免るることを得るなり、利使の衆生の亦禅定を得ること、毘舎闍鬼も亦其中に住するが如し。薄福徳故の一句は是れ第二の火起に由るなり。少福に由るが故に悪に近づき苦に遇ふ。為火所遍の一句は是れ第三に火起の勢を明す、孔穴の中には猛炎無しと雖も、猶ほ熱悩有り、四禅には欲界の悪無しと雖も、亦愛味の細苦有り、故に為火所遍と言ふ。共相残害の下、第四に二行は被焼の相を明す、利鈍相ひ奪ふことを明す、諸使の衆生は禅を得ること是れ同じけれども、所計各々異なり、異なる故に互に相ひ是非すること相ひ残害するが如くなり、既に禅中に於て諸見を起すときは、則ち無漏の定慧を生ずること能はず、但だ黙然に著することは血を飲むが如し、又五支に著することは肉を噉ふが如し、野干は是れ欲界の貪にして、未来定に已に断す、故に並已前死と言ふ。亦食噉と名くるは、禅定の貪は大悪獣の如く、能く欲界の貪を呑むなり。欲界の四倒八苦は猛炎の如く、色界の四倒は此れ苦なること臭煙の如し、亦身受心法四大皮肉等に通ず、故に四面充塞と言ふなり。
[184]蜈蚣の下、第三に二行半の偈は、空中の事を明して無色界の火起を譬ふ、二と為す、初め一行は所焼の類を明す、後の一行半は所焼の相を明す、色界定を厭て出でて無色に向ひ、色の麁境を厭て無色の法を観ずるは、毒蛇の類の火に焼かれて穴を出るが如し。若し爾らば瞋は三界に通ずるなり。若し無色定を得れば必らす下縁を滅す、故に随取而食と云ふなり。悲想の最も頂、猶尚ほ顛倒の諸苦を免れざること頭上に火然るが如し、悲想も亦八苦の火有り、心に異念を生ずるを生苦と名く、念々に住せざるを老苦と名く、行心擾々として定を妨ぐるを病苦と名く、定を退するは是れ死苦、定を求るに得ざるは、是れ求不得苦なり、定を求むるに得ず、必らず障有るは即ち怨憎会苦なり、四陰の心は即ち五盛陰苦なり、即ち有頂の種を断ずること能はず、故に頭上に火然るなり。無漏無きが故に飢渇に悩まさる、猶ほ是れ輪廻なるは周慞悶走なり。
[185]其宅如是の下、第四に一行は総じて三界の衆難は一に非ることを結す、総譬を頌し竟る。
[186]是時宅主在門外立の下、三十二行半の偈有りて第二の別譬を頌す、別譬に四有り、今の頌は但だ三なり、初めに二行半有て長者見火を頌す、次に第二に十三行有て捨几用車寝大施小譬を頌す、次に第三に十七行有て賜大車譬を頌す、初め二行半は見火を頌す、三有り、一に能見、二に所見、三に驚怖を起す、此中に具に頌するなり。
[187]初めに宅主の下の三句は即ち是れ能見の人なり。上には見を明し、今は聞を云ふ、聞を以て見に代ふるなり、聞は必らず他に従ふ。門外立とは、正しく上の我雖能於所焼之門安隠得出を頌するなり、立とは法身地に在して、常に大悲を懐き衆生を救はんと欲し第一義空の座に処せざるなり。旧云く十方の仏釈迦に語て云く、汝が有縁の諸子は三界の中に在りて善根将に滅せんとすと。又云く、衆生の仏を感ずるの機を他人と為すなりと。今云く、法は是れ仏の師にして三昧の法を謂ふなり、此法を師と為すは即ち他人なり、若し三昧に入れば則ち能く機を見る、三昧は仏をして見せしむるが故に有人言と言ふなり。又云く、大悲は是れ他人なり云云と。
[188]汝諸子等の下、第二に一行一句は所見の火を頌す。問ふ、子は本と未だ出でず、云何ぞ戯に因て来入するや。答ふ、或は曾て発心するを三界を出づと名く、而して復退還するを之を名けて入と為す、人の足を挙げて出でんと欲するに門の側にして而も反るを亦名けて出と為し、亦還入と名くるが如くなり。又理性は本とより浄にして三界の法に非ず、無明に因るが故に、而も戯論を起して便ち生死有り、故に先因遊戯来入と云ふなり。大善の未だ著はれざるを稚小と為す、無明に覆はるるを無知と為す。
[189]聞已驚入の下、第三に二句は上の即大驚怖而起大悲心を頌す。
[190]方宜救済の下、第二に十三行は是れ捨几用車を頌す、二と為す、初めに五行半有て上の救子不得を頌す、上の開譬の中に勧誡有り、上の合の中には但だ勧を合す、今は但だ誡を頌す、誡の文三有り、今明すも亦三なり。
[191]初め四偈半は上の我当説怖畏の擬宜を頌す、次に諸子無知の下、第二に三句は誡を受けざるを頌す、嬉戯不已の第三の一句は正しく息化を頌す。方宜とは大教を擬宜するなり。告喩は即ち是れ衆の患難を説く、誡教の義なり。不已の一句を指すに上の視父而已を頌す、放捨苦言の義なり。
[192]是時長者而作是念の下、第二に七行半の偈は上の用車を頌す、上に四有り、一は擬宜三車、二に知子先心、三に歎三車希有、四に適子所願なり、今の頌の中但だ三義有て略して知子先心を頌せず。
[193]前の三行は擬宜を頌す。告諸子の下、第二に三偈は、三車の希有を勧歎す、上には勧・示・証の三義を明す、今頌も亦三義あり、重ねて勧を頌して四と成す、初めの一行は勧を頌す。次に羊車の下、第二に三句は示を頌す。次に汝等出来は、第三に一句は又勧を頌す。次に吾為汝等の下、第四に一偈は証を頌す。聞説如此諸車の下、第三に一行半の偈は適子の所願を頌す。今総じて上の六句を頌す、馳走は上の見諦を頌す、空地は上の無学を頌するなり。
[194]長者見子得出火宅より下は、第三に十七行の偈有て上の第三の等賜大車譬を頌す、上の文四有り、一に免難、二に索車、三に等賜大車、四に得車歓喜なり。今頌亦四あり、初め五行は免難歓喜を頌し、第二に三行は索車を頌す、第三に七行半は等賜を頌す、第四に一行半は得車歓喜を頌す。
[195]初めの五行は上の諸子免難を頌するに就て又二あり、初めの一行は免難を頌す、次に而自の下、第二に四行は歓喜を頌す。
[196]坐師子座とは二釈有り、一に云く、諸子座に坐すれば三界を出ることを得、故に畏れ無きなりと。二に云く、是れ長者の座に坐す、長者は子の難を免るるを見て即ち無畏を得たりと、初めに門外に在て猶ほ憂畏有り、故に立と云ふ、今は門を出ることを得れば、方に坐して畏れ無し、故に方便品に云く、今我喜無畏と、免難の文竟る。
[197]而自慶の下、第二に四行は長者の歓喜を頌す、文の如し。
[198]知父安坐の下、第二に三行の偈は、第二の索車を頌す、文の如し。
[199]長者大富の下、第三に七行半は、上の第三の等賜大車を頌す、上の文に二章二広二釈有り、合に五文有り、今は但だ四を頌するのみにして等心を広することを頌せず、等心を釈することを頌せず。
[200]初めの一行は超へて第四の大車を釈することを頌す。屋に盛るを庫と称し、地に盛るを蔵と曰ふ、行に一切の法を具するを蔵と名け、眼耳の六根に一切法を具するを庫と名く云云。次に以衆宝物の下、第二に六行の偈は第三の大車を広するを頌す。次の二句は二章門を頌す、以是妙車の一句は、第三に第二の大車章門を頌す、等賜諸子の一句は、第四に初めの等心章門を頌するなり。
[201]諸子是時歓喜踊躍の下、第四に一行半は得車歓喜を頌す。遊於四方とは、中道の慧に乗じて横に四種の四門、四種の四諦に遊び、竪に四十一位に遊んで常楽我浄の徳を究竟す、故に嬉戯自在と言ふなり。
[202]告舎利弗我亦如是の下、第二に三十四行半は即ち是れ合譬を頌するなり、初めの四行は総譬を合するを頌す、但だ四意と作し、六譬を兼ね得。我亦如是の一行は長者を合するを頌す、上の半は位号を合するを頌す、下の半は名行を合するを頌し、歎徳の義を兼ぬ。七種方便の賢聖の中の尊、九種の世間の父なり。一切衆生皆是吾子の一偈は、五道を合するを頌し、義は三十子を兼ぬ。三十子は是れ縁因の于、一切衆生は即ち是れ正因の子なり。三界無安の半偈は家宅を合するを頌し、兼ねて一門の義を得。衆苦充満の一偈半は、火起を合するを頌す、総譬を合すること竟る。
[203]如来已離三界火宅より下三十行半は、第二に別譬を合することを頌す、上には開を頌するに不虚無し、今は合を頌するに則ち有り、初めの三偈は、見諸衆生為生老等を頌して見火譬を合す、上に見火譬を頌する文に三有り、今の合亦三あり。
[204]初めの一偈は上の如来能見を頌す、正しく寂然として閑居するに由て、能く五濁の諸子を見るなり、即ち聞有人言を合す。次に今此三界の下、第二に一行半は、上の所見の諸衆生為生老病死之所焼煮を頌して第二の所見火譬を合す。唯我一人の下、第三に半偈は、上の仏見此已便作是念を頌して驚入火宅を合するなり。
[205]雖復教詔の下、第二に四行は、捨几用車譬を頌す、二と為す、初めの一行は捨几等を頌す、上の開譬に三有り、擬宜と無機と息化となり、今此一偈も亦三意有り、但総略なり。
[206]雖復教詔の一句は擬宜を頌し、而不信受の一句は無機を頌す、下の二句は息化を頌す、或は下の二は無機を頌す可きなり。貪著深故は、上の未免生老病死憂悲苦悩等を頌するなり。
[207]以是方便の下、第二の三偈は、用車救子得譬を合することを頌す、上文四有り、今は但だ三を頌するのみ、合も亦三ありて、略して知子先心を合せず、初めに以是方便の一句は、上の但以智慧方便欲擬宜を頌す、為説三乗より下、第二に一行一句は、上の第三の歎三車希有を合するを頌す。是諸子等の下、第三に一行半は、第四の適所願を合することを頌す、上は三乗を合するに各四句有り、今は則ち総頌なり。若心決定とは、苦法忍より已上は是れ真の決定なり、此の一句は、総じて三乗馳走の位を頌す、後の具足の下の一行は、各々三乗争出の位を頌するなり。
[208]汝舎利弗我為の下、第三に八行有て、第三の等賜大車譬を合するを頌す、長行は索車及与歓喜を合せず、開を頌するは則ち具に頌す、今は等賜と歓喜と合して、免難と索車とを合せず、去と取と終に二文有ることを成ず、又二あり、初めの五行は等賜を合するを頌す、後の三行は歓喜を頌す、上に等賜を合するに四有り、其二を頌せず、今は合又略して、但だ二章門及び第三広大車を合して、又車有るの由を釈するを頌す。
[209]初めに汝舎利の下の一行は、先に大車章門を頌す、上の文の諸仏禅定等なり。次に汝等若能の下、第二に一行は、等心章門を合するを頌す、上には是諸衆生脱三界者と云ふなり。次に是乗微妙の下、第三に二行は、正しく大車を広するを合するを頌す、上には皆是一相一種等と云ふ。次に無量億千諸力解脱の下、第四に一行は是れ上の車有るの由を頌するなり。
[210]得如是乗の下、第二に三偈は、得車歓喜を頌す、此れに就て復二あり、初めの二偈は、各々大車を得ることを明す、後の以是因縁の下、第二に一偈は勧信を結するなり。
[211]今初めの二偈の日夜とは、初めて仏知見中道の智光を得ること日の如く、分に無明在るは夜の如し、自ら中道の智を得るは日の如く、慈悲もて生死に入るは夜の如し、常に二法を行ず、故に遊戯と言ふなり。三乗の人は同じく仏智に入る、故に与諸菩薩及声聞衆と云ふ。又此れ自行と化他を明すなり。自ら是乗を獲、故に日夜遊戯と言ふ、此れを以て他を化す、故に与諸菩薩及声聞衆と言ふ、能く三乗を化して、同じく宝乗に乗ぜしむるなり。
[212]次の一偈説く所の一乗無三の因縁は、十方の土に於て審実にして而も求むるに、唯一にして二無し、仏の方便を除くといふは、則ち言に在らざるのみ。他に云く菩薩若し車を索めずんば、何に因てか車に乗じて勧喜せんと。
[213]告舎利弗汝諸人等の下、第四に十五行半の偈有り、上の第四の不虚譬を合するを頌す、上の合に二有り、先に二譬を挙げて後に不虚を合す、今は但だ不虚を合するを頌す、文二と為す、初め三行半は正しく不虚章門を合するを頌す、次に若有菩薩の下、第二に十二偈は不虚を釈するを合するを頌す、身子は本心に称ひて不虚譬を作す、父は本と子をして難を出ることを得せしめんと欲す、故に三車を設く、既に難を免ることを得、乃至小車を与へざるも、亦先心に違せず、是故に不虚なり、仏其譬を頌すれば則ち不虚を明すなり、仏の本意は即ち一を説かんと欲したまひ、但だ五濁もて肯て信受せざるか為の故に三を説き、濁障既に除これば還て一の大を説きたまひて即ち本心に称ふことを明すなり、今初めの章門三と為す。
[214]初めの一行は先に父子を定め、本と大を与へんと欲することを明す、故に文に皆是吾子と云ふ、理は応に平等に大を与ふべきなり。次に汝等の下、第二に一偈は、乃ち三乗を説く意は障を除かんが為めなることを明す、故に汝等累劫衆苦所焼と云ふ。次に我雖先の下、第三に一行半は、既已に障除これば還て本心を遂げて大乗の法を与ふ、故に今所応作唯仏智慧と云ふなり。
[215]若有菩薩の下、第二に十二行は釈を合するを頌す、還て前の三意を釈す、初めの二偈は、同じく皆是れ子にして、理として応に平等なるべしといふを釈し、次に若人小智の下、第二に七偈は、受くること能はざるが故に乃ち三乗を説くことを釈す、次に其実未の下、第三に三偈有り、後若し堪能なれば還て其大を与ふることを釈す。
[216]今初めの二行の若有菩薩とは方便の三乗なり。所化の衆生とは皆是れ昔日結縁の仏子にして、亦皆同じく真如仏性有り、故に皆是菩薩と云ふなり。若人小智の下、第二に七行は、小智は障重くして即ち信受せず、是れが為めに方便して三を開して接引することを明す。小智為説苦諦とは、声聞は三乗の中に於て最も小なり、復苦諦を以て初門と為す、衆生心喜とは、其本習に称へば則ち喜ぶ、本と生死を厭て自ら涅槃を求む、今出離を聞て即ち宿習に会す、故に歓喜す、此中には正しく有作の四諦を明す、但離虚妄とは、無明已に是れ不実なり、通惑は無明に附して起る、故に之を呼んで虚妄と為す、有作の四諦は但だ此惑を除くを名けて解脱と為す、分段を脱して未だ変易を脱せす、故に自在に非ざるなり。其実未得の下、第三に三偈は、障既に除こり、情根又利にして、還て本心を遂げ大乗の法を与ふることを釈す。仏は本とより一切の解脱を与へんと欲したまふ、今汝始めて分段を断ずれども、大涅槃に非ず、其未だ一切を得ざるを以ての故に、終に是れ未だ本心に称はず、故に我意不欲令至滅度と言ふ。今則ち還て無上道を得て大涅槃に入らしむ、乃ち是れ究竟して仏の本心に称ふ、一切の解脱は、即ち是れ無作の滅諦、無上道は即ち是れ無作の道諦なり、二諦を用ひて無作の苦集を破す。昔此れを説かんと欲したまへども、而も此衆生堪へず、障既已に除これば、還て此れを説きたまふなり、仏は為れ法王にして権実の法に於て已に自在を得れば、三を開して一実を顕はしたまふ、豈に当に虚有るべけんや。
[217]汝舎利弗我此法印の下の六十五行の偈は、勧信流通なり、信とは仏の説と不説とを信ずるなり、勧とは可通と不可通とを勧む、此二義有るが故に勧信と言ふ、文二と為す。一に両章を標し、二に釈なり。
[218]初めの一行は説と不説を標するとは、如来の此法印を説くは、世間を利益せんが為めの故に説きたまふなり、不説とは、四十余年未だ是れ説時たらず、五千未だ去らず、是故に説きたまはざるなり。次に在所遊方の下の半行は、可通と不可通の章を標するとは、妄に宜伝すること勿きなり、悪者に強て説けば、其をして苦に堕せしむ、善者に説かざれば、誤て其をして楽を失せしむ、若し大悲もて悪を愍むときは、則ち為めに通せず、若し大慈もて善を念ずるときは、則ち応に為めに通ずべし、是れを可通と不可通の章を標すと名くるなり。
[219]若有聞者よりは、是れ第二に釈、又二と為す、初め八行は可説と不可説を釈す、第二に五十行半は、可通と不可通を釈す。
[220]今初め八行は、如来の世間を利益したまふの相を明すなり、通じて論ずれば三世の利益なり、別して論ずれば二乗をして入信せしむるなり。阿鞞跋致は是れ現在の益を観ず、曾見とは過去の善を観じて為めに説くなり。信汝見我とは、未来の善を観じて為めに説くなり。下の文に云く、若し深く信解する者は仏常に霊鷲に住したまふを見たてまつると、即ち其義なり。斯法華経の一行は、是れ上を結し下を開す、如来は三世の利益を観知す、是故に為めに説きたまふも、浅智は解せざれば、則ち為めに説きたまはず、此れ如来の説と不説の章を釈するなり。
[221]憍慢懈怠より下は、行人の通と不通の章を釈す、又二あり、初め三十六行半は、若し大悲門を用ひば、悪の為めに説くこと莫れといふことを明す、先に悪数を引く、必らず悪謗を起し、悪の果報を獲、是故に大悲もて為めに説く可らざるなり。断世間仏種とは、浄名には、煩悩を以て如来の種と為す、此れ境界性を取るなり。大品には一切種智を以て般若を学すと、此れ了因の性を取て仏種と為す。涅槃には心性の理の断ぜざるを用ふ、此れ正因の性を取て仏種と為す、今の経には小善の成仏を明す、此れ縁因を取て仏種と為す、 若し小善の成仏を信ぜざれば、即ち世間の仏種を断ずればなり。
[222]若有利根の下十九行は、弘経の時に大慈門を用ひ、善人には応に為めに宣説して楽を失せざらしむべきを釈す、夫れ弘通の要は、両門を諧和して其をして所を得せしむるなり、是れ善く流伝するなり。若し所を得ずんば、是れ妄に宣伝するなり、文二と為す、初め十七行に五双十隻の善人の相有り、為めに宣説すべし、後の二行は総じて応に説くべきことを結するなり、初めに過現を一双と為す。利根は是れ現在、植善は是れ過去なり、強識は是れ現在、見百千は過去なり。二に上下を一双と為す、修慈は是れ下を愍む、恭敬は是れ上を尊ぶなり。三に内外を一双と為す、捨悪親善は是れ外求、持戒如珠は是れ内護なり、四に自行化他を一双と為す、質直敬仏は是れ自行、譬喩説法は是れ化他なり。五に始終を一双と為す。四方求法は請益の始め、頂受専修は是れ帰憑の終たり云云。告舎利弗の下の両行は総結なり。善信甚だ多し、略して十相を挙げ、流通の方法を示し、慈悲両門の可通と不可通の大要を顕はすなり。
◎信解品を釈す。
[1]有人の云く、三法を信解す、謂く一往化、随逐化、畢寛化なり、昔大を説くを一往と為す、大に背て後を随逐と為す、父子相見るを畢寛と為す、又人天の善を一往と為す、小乗を説くより法華に斉るを随逐と為す、法華を説て記を得るを畢竟と為す。又初めに二乗を説くを一往と為す、転教を随逐と為す、法華を畢竟と為す。又転教を一往と為す、方等を歴るを随逐と為す、一乗を悟るを畢竟と為す。又法華を説くを一往と為す、十地に常に教化するを随逐と為す、金剛心に至るを畢竟と為す。又僧那を結するを一往と為す、中間を随逐と為す、仏を得るを畢竟と為すと。
[2]私に謂く、諸解重畳して玉屑けて宝に非ず、夫れ一往は本懐に非ず、畢竟は是れ宗極なり、人天二乗を説くを一往と為す、本懐に非る可し、昔為めに大を説き、今法華を説く、箇は是れ畢竟なり、那ぞ一往と称せん、若し法華は畢竟にして而も更に一往と成らば、人天の一往も還て畢竟と成らん、則ち大に顛倒せん。又二乗は是れ一往たらば、草庵は須らく破すべし、昔の大を一往と為さば、繋珠も亦須らく破すべし、若し一は破し一は破せずんば、一は是れ一往にして一は一往に非ず。又父子相見は是れ畢竟ならば、前の畢竟には応に一を悟るべし、則ち後の畢竟は復た用無し、若し後の畢竟乃ち一を悟らば、前の畢竟は畢竟に非ず、節々に妨げ有り、今皆用ひずと。
[3]有人の云く、此品は是れ迹なり、何となれば、如来は成道したまひてより已に久し、乃至中間の中止も亦是れ迹のみと。私に謂く、義理は乃ち然らん、文に在て便ならず、何となれば、仏の未だ本迹を説きたまはざるに、那ぞ忽ち予め領せん、未だ三を会せざるか若きに已に応に一を悟るべし云云と。
[4]今品を釈すれば、夫れ根に利鈍有り、惑に厚薄有り、説に法譬有り、悟に前後有り。
[5]法華の座の前は猶ほ豌豆の如し。文に云く、如来説法は既に久し、我れ時に座に在れども身体疲懈して、但だ空無相の願を念ず、菩薩の法に於て、都て一念好楽の心無しと、初めに略説を聞て執を動じ疑を生じ、広く五仏を聞けども蒙籠として未だ暁らず、今譬喩を聞きて歓喜踊躍し、信発し解生じ、疑去り理明かなり、歓喜は是れ世界、信生ずるは是れ為人、疑去るは是れ対治、理明は是れ第一義なり。
[6]是因縁を以ての故に信解品と名く。
[7]小大の教を稟け、初めて凡を革め聖と成るに、各々次位有り、但だ小乗の信行は聞に従て解を生ず、苦忍明発すれば信は則ち行と称す、法行は法を歴て観察し、苦忍明発すれば、法は則ち行と称す、若し信行の人転じて修道に入れば転じて信解と名く、法行の人の修道に入れば転じて見得と名く。
[8]小に準じて大を望むるに、亦応に此の如くなるべし、中根の人は、譬喩を説くを聞て、初めて疑惑を破し、大乗の見道に入るが故に名けて信と為す、進んで大乗の修道に入るが故に名けて解と為す。文に云く、無上宝聚、求めざるに自ら得たり、我等今日真に是れ声聞なり、仏道の声を以て一切をして聞かしむと、円教を聞て円位に入る、故に信解品と名く。
[9]本迹とは、四大弟子は久しく大乗に入て仏法を成就す、迹に中根を引んとて初めて信解を示す、故に信解品と名く。
[10]此れは是れ頌解段なり、近は火宅を領し、遠は方便を領す、文二と為す、一に経家は歓喜を叙し、二に仏に白して自ら陳ぶ、初に又二、先に内心を叙し、次に外敬を叙す。
[11]善吉を独り慧命と称す、三人摩訶なる者、通じて論ずれば皆大皆慧なり、別して論ずれば、善吉は空を解す、空慧を命と為す、此れ行に約するなり、諸の慧人の中に仏慧第一なり、仏は般若に於て、其れに命じて教を転ぜしむ、其れ慧人の為めに命ぜらる、故に慧命と云ふ、三弟子の命を被ること少きは、空を以て行の宗と為さざればなり、此れ教に約するなり、摩訶は前に説くが如し云云。
[12]喜を得るの由は、遠く方便の五段の法説を聞くに、経家は但だ聞希有法、聞授記の二種を叙す、或は聞希有法は四段を叙し、見受記は是れ第五段なる可きなり、此の如きの聞見は昔は未だ曾て有らざる歓喜の由なり。発希有心とは、近く譬喩の四番の説を聞き希有の心発するを叙す、心発するが故に、之を名けて信と為す、信を以ての故に入るは歓喜位に入るなり、即ち信解品の意なり。
[13]従座起とは、外敬を叙す、文の如し、身子に例するに、亦応に三業に領解すべきこと、前に準じて解す可し。
[14]白仏の下は口に自ら陳ぶ、文二と為す、初めに長行及び七十三偈半は、正しく得解を陳ぶ、次に十三偈は仏恩の深きを歎ず、此解は仏に由るが故に、先に陳べ次に歎ずるなり、長行に又二あり、初めに略して法説し、二に譬もて広く説く、略に又二あり、法説と略して譬を挙ぐるとなり、法説又二なり、先に昔三を禀るが故に求めざることを明す、二に今一に会するが故に自ら得ることを明す。不求の中標有り釈有り、標を三と為す、一に僧首に居するが故に、二に俗年邁なるが故に、三に証得の故に。
[15]初めに僧首に居すとは、我れ法臘既に高し、晩学我を以て軌と為す、忽ち途を改め轍を易へ、小を棄て大を求めば後来の為めに嫌はれ、自ら固ふして彼を護る、所以に求めざるなり。
[16]二に俗年既に邁くとは、若し菩薩と作らぜ当に專ら大道を任とし広く衆生を度すべし、今既に朽ち老いて堪任する所無し、是故に求めず。
[17]三に已に涅槃を得とは、無為の正位は大心を発すること能はず、高原の陸地には蓮華を生ぜず、尽無生智已に立ちて依求する所無し。
[18]所以者何は三の不求を釈す、文次第せず、先に涅槃を得て求めざるを釈し、次に年邁を釈し、即ち僧首を兼ぬ、或は昔説法既久心不喜楽を指して、僧首に居して求めざるを釈す、既に在座と言ひ、復年朽と道ふ、知ぬ、僧首を釈することを。不求を釈すること文の如し。
[19]我等今於仏前の下、得解の由を陳ぶ、遠く五章の略広の開三顕実を聞くに由て、是故に慶幸す。獲大善利とは、正しく得解を陳ぶ、是れ近く四番の譬喩の希有の法を聞て、而して開悟を獲、開悟は善利なり。
[20]無量珍宝の下、第二に是れ略して譬を挙ぐ、昔は求めずして而して今自づから希有の法宝を得るを譬ふなり。
[21]世尊我等楽説譬喩より下、是れ広く領解す、開譬と合譬と有り、開せんと欲して先に諮発す云云。
[22]譬を五と為す、一に捨父逃逝より下は父子相失譬と名く、近くは火宅の総譬を領し、遠くは方便の略頌を領す。二に窮子傭賃より下は父子相見譬と名く、近くは火宅の見火を領し、遠くは方便の我以仏眼観見を領す。三に即遣傍人急追将還より下は追誘譬と名く、近くは火宅の捨几用車を領し、遠くは方便の寝大施小を領す。四に過是已後心相体信より下は委知家業譬にして、此れ上の近遠を領するに非ず、乃ち追て方等の弾呵、大品の転教の意を取るのみ。五に復経少時父知子意より下は付家業譬と名く、近くは火宅の賜一大車を領し、遠くは法説の正直捨方便を領す、又第四と第五を合して共に一の領付譬と為す、下に在て更に其意を明さん。
[23]旧に西方無量寿仏を以て、以て長者を合す、今之を用ひず、 西方は仏別に縁異なり、仏別なるが故に隠顕の義成ぜず、縁異るが故に子父の義成ぜず、又此経の首末に全く此旨無く眼を閉て穿鑿するのみ。
[24]今文に依て義を附す、若し窮子を釈せんには、二乗の人、半字の法を取て文を銷す、若し長者を釈せんには、盧合那仏、満字の法門を取て文を銷す、何となれば、宅内の長者は纓珞を脱して垢衣を著す、衣纓は異り有れども人は秖だ是れ一なり、盧舎那仏の無量の神徳を隠して丈六金輝を示し、糞器を執持して三乗の教を設くるを譬ふ、隠顕の殊り有れども、何ぞ体別なるに関はらん、舎那の著脱は近けれども尚知らず、弥陀は遠きに在り、何ぞ甞て変換せん云云。
[25]父子相失譬、又四と為す、一に子は父に背て去る、二に父は子を求むるを中止す、三に子遇ま本に到る、四に其父憂念するなり、四段各々両あり、初めの両は一に父に背て而して去るは総譬の中の五百人を領す。昔し大乗の子父を結び、尋で復解を失して五道に流浪す、故に或十二十至五十歳と言ふ。通じて是れ仏子なれども、子の義微弱なり、故に幼稚と言ふ。結縁の己界に非ず、故に久住他国と言ふ。二は本に向て而して還るは総譬の三十子を領するなり、此縁に微著の義有り、故に長大と言ふ。縁既に苦を経、仏の大悲に関はる、故に遇到本国と言ふ。父は子を求め而して止むるに両と為すとは、一に父は子を求めて得ざるは総譬の中の長者を領す、衆生の大を退してよりの後其大機を伺ふに未だ其会ふことを得ず、故に不得と言ふ。二に中ごろ一城に止る、其家とは総譬の中の宅を領するなり。大富とは総譬の中の長者の徳業、内外財富の意を領するのみ、子の父の城に到るを二と為す、一に城に到るの由は火起苦悩の相を領す、退大より已後処々に遊歴して備に辛苦に嬰る。二に遂に父の城に到るとは、苦を以て機と為し大悲を扣く、故に遂到父城と言ふ。其父の憂喜に即ち是れ両とは、一に子を失ふの苦を念じ、二に子分得るの楽を念じ、総譬の中の一門を領す、子は既に幼稚なれば門を取るに当らずして、父の憂を動す、元と此門を以て之を通ず、故に父の喜を動ず、分章竟る。
[26]文を銷せば、初めに子の父に背て去るに二有り、初めに譬如有人は、二十子を二乗の人に譬ふるを領す、菩薩の位行は知り難ければ、且らく已に斉て領するのみ。
[27]年既幼穉とは、旧云く、法を聞くこと少きを稚と為すと、若し爾らば、下の文に長大と云ふは応に是れ法を聞くこと多なるべし、今は無明厚重にして解心を覆障するを以て、解心に力無し、故に幼稚と言ふ。善根薰被して、稍々に著れんと欲するを名けて長大と為す。
[28]捨父逃逝とは、退大を捨と為す、無明の自ら覆ふを逃と曰ふ、生死に趣向するを逝と為す。問ふ、仏、応を捨てたまひて後衆生は惑を起す、是れ父の子を離るるにして、是れ子の父を捨するに非ず。答ふ、衆生の感ぜざるに由て仏は則ち世を去りたまふ、還て子の父を捨するの義を成ず。
[29]久住他国とは、涅槃法界は是れ仏の自国、生死五欲は是れ他国と為す、本と出離を求るも而も退堕して反らず、故に久住と云ふ。
[30]或十とは是れ天道、二十とは人道、五十とは是れ五道なり、一人備に諸道を輪るに約す。
[31]年既長大の下、二に向国而還とは、幼に二義有り、一に癡小の故に、二に未だ苦に遭はざる故に、則ち還ることを知らず、結縁已後を譬ふるなり。大解未だ濃かならざること、癡にして反らざるが如し、尚ほ残福有りて耽迷して反らず、今、習業冥に薰じて微しく道に向ふことを知る、苦に遭ひ楽を失し出要を思求す、此二を機と為して仏を扣くを名けて漸く父の国に向ふと為す。上の文に云く、若し人苦に遭はば為めに涅槃を説くと、若し人天の二善を以てするは感仏の縁に非ず。
[32]三界の中に在て仏の父を見ざるを窮と為す、出要の術を得ざるを又窮と為す、八苦の火に焼かるが故に困と為す。
[33]馳騁四方以求衣食とは、旧云く、人天の五戒十善に各々因果有り、以て四方と為す、用て自ら資給す。又四生に於て生を営んで以て衣食を求むと。下の文に云く、一百三十劫、今乃ち一見することを得と、彼の劫の中に人天の因果無きに非ざれども、仏を感ずること能はず、故に知ぬ、此善は見仏の機に非ざることを。今仏既に未だ出でざれば、諸の凡夫人は身受心法に四見を起す、中に於て正道を求むるは、食を求むるが如く、助道を求むるは衣を求むるが如く、苦を厭て理を求むるを以て、化す可きの縁と為す、仏初めて出でたまふ時、諸の外道等は、皆先に得度するは即ち此意なり。大経に云く、諦かに四方を観ずるは四諦を喩ふと、此れに準じて知る可し。
[34]漸々遊行遇向本国とは、其苦を厭て脱を希ひ、邪に涅槃を求むるを明す、本意に非ずと雖も、亦仏に遇ひたてまつることを蒙る、故に遇向と云ふなり。本国とは上に説くが如し。下の文に城と舎とを明す、云何が分別せん、一切の仏法を国と為す、此義則ち寛し、城の語は小し密にして断徳涅槃の非を防ぎ悪を禦ぐを以て城と為す、舎の語は又親し、同体の大悲を舎と為すなり。
[35]其父先来求子不得の下第二に求子中止譬、亦二と為す。初め退大より已後機を求るに会はず、会はざるが故に不得と名く。
[36]二に中止一城とは、一子の為めに而も家業を廃せず、仏一処に機無きを以て、而も余方に化を施すことを廃せざるに譬ふ。
[37]旧云く、二万仏の後、釈迦仏の前の両楹の間を中止と為すと、今謂く、中の義は然る可し、国城家に止るは皆用ふ可らず、今は方便有余土を取て国と為す、同居実報の両間に在るを中と為す、有余涅槃を城と為す、此涅槃に住するを止と名く、此に処するを家と為す、勝劣の両応を起す、劣応は声聞に応じ、勝応は菩薩に応ず、五人の通惑を断ずる者同じく其土に生じて、皆菩薩と為る、仏は勝応を以て之に応じ、純ら大乗の家業を以て訓じて修学せしめたまふ、中ごろ此に止て同居の子の機を伺ひ覓む、但中の義に合することを得るのみに非ず、国城家業皆悉く分明なり。
[38]大富とは、実相の境を家と為す、万徳を具足するを名けて富と為す、五度の福徳を名けて財と為す、般若の智慧を名けて宝と為す、一切を導いて悉く摩訶衍なるを無量と名く。金銀珠等は、是れ大乗の三十七の道品なり、此れ即ち上の長者の大富の義を領するなり。
[39]倉庫盈溢とは、内に在るを盈と為す、外に在るを溢と為す、米を盛るを倉と為し、物を盛るを庫と為す、倉は禅定を譬ふ、禅は百八三昧を生ずるが故に、庫は実相を譬ふ、能く十八空の智慧を発するが故に。自ら資するを盈と為し。外化を溢と為す、上の多有田宅の義を領するなり。
[40]僮僕とは、方便知見波羅蜜を皆悉く具足し、屈曲して機に随ひ、事に称ひ理に称ふ、此れ上の又多僕従を領するなり。位に就て語を為さば、二乗及び通教の菩薩、別教の三十心は悉く僮僕の如し、別教と円教の十地は臣の如く、十向は佐の如く、十行は吏の如く、十住は民の如し、初めて仏の境界に入れば、率土の宝も王民に非る無し、民と為ることを得と雖も、吏佐等に比すれば、猶ほ疎遠と為す、十行に歴別に諸法を修習し、種々に駆馳すること吏の如し、十廻向に事理稍深く、職、王辺に近きこと佐の如し、十地に仏の行化を輔けて魔を降し敵を制す、故に臣の如きなり。
[41]一心三観は象の如く、円教の大乗を運ぶなり、次第三観は馬の如く、別教の大乗を運ぶ、即空析空の観は牛の如く、通教等の大乗を運び、析法観の自行は鹿羊等の如く、二乗の法を運ぶ。無数とは権実の諸法を皆車乗と名く、権実の智観を象馬牛羊と名く。但だ教法甚だ多きのみに非ず、観智も亦復無数なり。
[42]出入とは、二にして而も不二なるは是れ入、不二にして而も二なるは是れ出なり。又不二にして而も二なるは是れ入、二にして而も不二なるは是れ出なり、無量の一に還るは是れ入、一の中に無量あるは是れ出なり、化他の用を出と為し、自行の用を入と為す、法を出して衆生を益するを息と為し、化の功の已に帰するを利と為す。乃遍他国とは、三土に遍す、非道を行じて仏道に通達すとは即ち其義なり。唯法性は是れ已国のみ。
[43]商估賈客亦甚衆多とは、諸の菩薩は是れ商人、又遍ねく三土に入り以て法利を求むるが故に衆多と云ふ。此土の菩薩の他方に往て法を聴き、他方の大士の此に来て経を聞き、往還して利を採るなり。又応化の二身は賈客の如く、実法を将て遍ねく三土に入り衆生を化益し、而して法身に帰す、故に甚多と云ふ、世間の人、他をして財を捉え興生せしめ、亦自ら興生するが如くなり。
[44]時貪窮子遊諸聚落の下第三に是れ子還近父譬なり此れ亦二あり、一に衣食を求め、二に父の城に到る。
[45]初めに内に大乗を退し已て備に諸苦に遭ひ、深く厭患を起し、出離を求めんと欲し、理を取ること中らざれば邪僻と成ることを致す、邪慧心に歴るに因て正に入る可きこと易し、出世を求むるを以て感仏の由と為すに合するなり。五陰を観察するを聚落と為し、十二入を邑と為し、十八界を国と為す、此に歴て理を求むるを求衣食と名く。
[46]二に遂到其父所止の下、此れは是れ正しく其父の止る所の城に向ふは、苦境を機と為し、仏の大悲を感ずるを名けて到城と為す、城は即ち涅槃なり、涅槃は半満に通ず、衆生の習解するは、涅槃を得るの義有る可し、故に到城と言ふ。
[47]父毎念子の下、第四に即ち是れ父憂念子譬なり、此中に亦二あり、一に子を失ふの苦を念ず。如来は昔より今に至るまで、恒に子の大機を思ひたまふが故に毎念と言ふ。五十余年とは五道なり、鬼を開して修羅を出すが故に余と言ふなり。
[48]未曾説とは、未だ曾て方便有余土の中の臣佐吏人に向て、此子の機縁有ることを説かざるなり。又応世より已来昔の華厳方等大品の諸座よりは、未だ曾て諸の大士に向て、此声聞は本と是れ大乗の子と説かず、既に仏子に非れば仏法を解せず、或は聾唖の如く、或は花著き座を拜し、或は鉢を棄てて茫然たり、種々に逮ばざるなり。
[49]心懐悔恨とは、昔勤めて教詔せず、訓無くして逃逝せしむることを致すことを悔ゆ、子恩義を惟はず、我に疎く他に親しむことを恨む、内は如来の殷勤にして内凡に入らしめず、遂に本解を退失せしむることを悔ひ、其心無くして精進して志を固くすること能はず、逃迷して返らざるを恨むに合す、故に悔恨と言ふなり。
[50]自念老朽とは、化期将に畢らんとして、大法を伝ふるの人無きこと、老朽にして子無きが如くなり。問ふ、法身の所化の諸の菩薩等は悉く補処に堪ゆ、何ぞ遽に此憂ある。答ふ、法身の所化は本と興廃無し、誰か老朽を談らん、此れ論ずる所に非ず、今化身の眷属を明すに則ち二種有り、一に法身の大士は其に相ひ影嚮す、迹に弟子となると雖も、本には或は是れ師となる、亦此れに約して自ら老朽を念ぜざるなり。二には同居の凡夫は始め化仏に従て、初めて道心を発する者なり、此れを名けて子と為すなり、子は父の業を継ぎ、胤族をして断ぜざらしむ、若し身子の決を受けて華光仏と作るときは、則ち一方の仏種相続して断ぜず、大乗の家業、遞に相伝付す。若し身子の化す可きの機無ければ、則ち大乗の法財は現に付嘱無し、後来の衆生は、仏種もて安にか寄せん、老朽して歎を興すは正しく此れが為めなり。復作是念我若得子の下、二に子を得ば楽と為すことを念ず、度す可きの機を名けて子を得と為し、仏記を与受するぞ法財を付すと名け、本心に称ふを復快楽と言ふ、上の総譬を領し竟る。