[1]第六に方便を明すとは、方便は善巧と名く、善巧に修行して、微少の善根を以て、能く無量の行を成じ、解をして発し、菩薩の位に入らしむるなり。「大論」に云はく、「能く少施少戒を以て、声聞、辟支仏の上に出過す」と。即ち此義なり。又、方便とは、衆縁和合するなり。能く和合して因を成じ、亦能く和合して果を取るを以てなり。「大品経」に言はく、「如来の身は、一因一縁より生ぜず、無量の巧徳より如来の身を生ず」と。此巧能を顕す、故に方便を論ず。若し。漸次に依らば即ち四種の方便あり。方便に各遠近あり、「阿毘曇」に明すが如き、「五停心を遠と為し。四善根を近と為す」と。通別の方便、例して意をもつて知るべし。円教は、仮名、五品、観行等の位、真を去ること、猶ほ遙なるを以て、遠の方便と名け、六根清浄相似の真に隣るを、近の方便と名く。
[2]今、五品の前、仮名の位の中に就いて、復遠近を論ず、二十五法を、遠の方便と為し、十種の境界を、近の方便と為す。横豎該羅し、十観具足す、観行の位を成じて能く真似を発するを、近の方便と名く。今、遠の方便を釈するに、略して五と為す、一には五縁を具し、二には五欲を呵し、三には五蓋を棄て、四には五事を調へ、五には五法を行ず。未れ道は孤り運ばず、之を弘むること人に在り。人、勝法を弘むるに、縁を仮りて道を進む、所以に、須らく五縁を具すべし。縁力既に具せば、当に諸の嗜欲を割くべし。嗜欲、外に屏かば、当に、内に其心を浄むべし。其心若し寂ならば、当に五事を調試すべし、五事調ひ已らば、五法を行じて、必ず所在に至る。譬へば陶師、若し器を得んと欲しては、先づ良処を択ぶ、砂無く、鹵無く、草木豐便なるに作所を立つべし。次に余の際務を息む。際務静ならざれば、安んぞ功を就すことを得ん。外縁を息むと雖も、身の内に疾有らば、云何ぞ執作せん。身康壯なりと雖も、泥輪調はずんば、器物を成ぜず。上の縁整ふと雖も、業を専らにせず、廃して相続せずんば、永く理を弁すること無きが如し。止観の五縁も、亦復是の如し。有待の身は必ず、資藉を仮ること、彼好処の如し。塵欲を呵厭するは、外縁を断つが如し。五蓋を棄絶するは、内疾を治するが如し。五事を調適するは、輪繩を学ぶが如し。五法を行ずるは、作して廃せざるか如し。世間の浅事、縁に非ざれば合せす、何に況んや出世の道をや。若し弄引無くんば、何にして階ぶ可きこと易からん。故に二十五法を歴て、事に約して観を為し、麤を調して細に入り、散を検して静ならしむ。故に止観の遠の方便と為すなり。此五法のうち、三科は「大論」に出で、一種は「禅経」に出で、一は是れ諸の禅師が立つるなり云云。
[3]一に五縁を其すとは、一には持戒清浄、二には衣食具足、三には閑居静処、四には息諸縁務、五には得善知識なり。「禅経」に云はく、「四縁具足すと雖も、開導は良師に由る」と。故に五法を用ひて入道の梯隥と為す、一も闕くれば則ち事を防ぐ。此を釈すること、具には「次第禅門」の如し。
[4]此中、持戒清浄を明すに、即ち四意あり。一には戒の名を列し、二には持戒を明し、三には犯戒を明し、四には懺浄を明す。名を列するとは、経論に出処甚だ多し。且らく「釈論」に依るに十種の戒あり。所謂、不欠、不破、不穿、不雑、随道、無著、智所讃、自在、随定、具足なり。此十は、通じて性戒を用て根本と為す。「大論」に云はく、「性戒とは是れ尸羅、身口等の八種なり、謂く、身口の三四に更に不故酒を加ふ、是れ浄命にして、意地を防ぐ」と。又云はく、「十善は是れ尸羅、仏の世に出でたまはすとも、世に常に之れ有り、故に旧戒と名く」と。仏、世に出でたまはずとも。凡未は亦八禅を修す、故に旧定と名く。外道の邪見六十二等は、旧医の乳薬なり、名けて旧慧と為す。常途の云はく、「客定無し、無漏は八禅を導くのみ」と。今此語を難ず、亦応に無漏は十善を導くべきなり、戒と慧と、既に客法あり、定のみ何ぞ独り無からんや。今、三帰、五戒、二百五十を用て客戒と為す。根本十種得戒の人は、仏自ら善来比丘と言ひたまふが如き、自然に已に具足戒を得。摩訶迦葉の如きは、自誓の因縁をもつて具足戒を得、憍陳如の如きは、見諦の故に具足戒を受け、波闍波提比丘尼の如きは、八敬の法を以て具足戒を受け、達摩提那比丘尼の如きは信を遣して具足戒を受け、須陀耶沙弥の如きは、論議して具足戒を受け、耶舍比丘等の如きは、善来とのたまふに具足戒を受け、跋陀羅波楞伽の如きは、三帰を加へて具足戒を受け、辺地の如きは、第五律師に具足戒を受け、中国は十人、白四羯磨して具足戒を受く、客戒の人なり。根本浄禅、観、練、熏、修を客定と為し、四諦の慧を客慧と為す、仏出でたまうて方に有るなり。性戒とは、受と不受とを問ふこと莫く、犯ずれば、即ち是れ罪なり。受と不受と、持すれば帥ち是れ善なり。若し戒を受くるに、持すれば福を生じ、犯ずれば罪を獲、受けずんば福なく、受けずんば犯ずるも罪無し、草を伐り、畜を害する罪の如し、四同封手懺、二罪倶に滅す。「大論」に解して云はく、「違無作の罪、同じく滅するのみ、而も命を償ふこと猶在り」と。故に知んぬ、受得の戒と性戒とは、異りあることを。故に「四分」の遮を問ふの法に云はく、「辺罪を犯ぜざるや否や」と。辺罪とは即ち性罪なり。此罪は、優婆塞戒を障ふ、何に況んや大戒をや。若し性戒清浄なれば、是れ戒度の根本、解脱の初因なり。此性戒に因つて、無作受得の戒あることを得るなり。小乗に義を明すは、無作戒は即ち是れ第三聚なり。大乗の中「法鼓経」に但色心を明して、第三聚無し。心、無尽の故に戒も亦無尽なり、若し律儀戒に就いて無作を論ずれば解すべし。定共戒の無作は、定と倶に発す。有人の言はく、「入定の時は有り、出定の時は無し」と。有大の言はく、「無作は定に依る、定在れば失せず、定退すれば即ち謝す」と。道共戒の無作とは、此無作は、道に依る、道の失すること無きが故に、此戒も亦失すること無し。戒定道共、通じて是の戒の名なり、通じて性戒を以て本と為すと詭く。故に「経」に云はく、「此戒に依因りて、能く禅定及び滅苦の智慧を生ず」と。即ち此意なり。
[5]二に持を明すとは、此十種の戒は、一切の戒を摂す。不欠戒とは、即ち是れ性戒、乃至四重を持し、清浄に守護すること、明珠を愛するが如し。若し、毀犯する者は、器の已に欠くれば用に堪ふる所無きが如く、仏法の辺人、沙門釈子に非ず、比丘の法を失するが故に、称して欠と為す。不破とは、即ち是れ十三を持して破損すること有ること無し、故に不破と名く。若し毀犯する者は、器の破裂するが如し。不穿とは、是れ波夜提等を持するなり。若し毀犯すること有らば、器の穿漏するが如く、道を受くること能はず、故に名けて穿と為す。不雑とは、定共戒を持するなり。律儀を持すと雖も、破戒の事を念ず、之を名けて、雑と為す。定共は心を持し、欲念起らず、故に、不雑と名く。「大経」に云ふが如し、「彼女人の身と合せずと雖も、而も、共に言語嘲調し、壁外の釧声を聞き、男女相追ふを見るは、皆浄戒を汚す」と。「十住婆沙」に云はく、「其事を制すと雖も、而も女人をして洗拭按摩せしめ、染心をもつて共に語り相視る、或は爾許の日を限りて戒を持す、或は後世に富楽天上自ら恣ならんことを期す、皆不浄と名く」と。若し、不雑戒を持すれば、悉く此等の念無きなり。随道とは、諦理に随順して、能く見惑を破す。無著戒とは、即ち、是れ真を見て聖と成り、思惟の惑に於て、染著する所なし。此両戒は、真諦に約して戒を持するを以てなり。智所譛戒、自在戒は、則ち菩薩の化他に約す。仏の為に讃せられ、世界の中に於て、而も自在を得。是は俗諦に約して、持戒を論ずるなり。随定、具足の両戒は即ち是れ首楞厳定に隧ふ、滅定を起きずして、諸の威儀を現じ、十法界の像を示して衆生を導利す。威儀起動すと雖も、而も任運に常に静なり。故に、隧定戒と名く。前来の諸戒は、律儀をもつて防止す、故に、不具足と名く。 中道の戒は、戒として備はらざること無し、故に、具足と名く、此は是れ、中道第一義諦の戒を持するなり。中道の慧を用ひて遍く諸法に入る、故に「経」に云はく、「式叉」と。式叉は大乗戒と名くるなり。「涅槃」に、五支戒、及び十種の戒を明す。義勢同じ、設ひ諸経論に 更に戒相を明すも、終に此十科を出でざるなり云云。前の三種の戒を束ねて、律儀戒と名く、善を秉つて悪を防ぎ、初の根本より乃至不穿まで、纖毫も清浄なるを、束ねて律儀戒と名く。凡未の散心なるも、悉く能く此戒を持得するなり。次に不雑の一戒は、定法、心を持し、心妄動せず、身口も亦寂にして三業皎鏡なり。此は是れ定共戒なり。定に入る時、任運に雑すること無く、定を出づるに身口柔軟にして亦雑せず、凡未も定に入れば則ち能く持ち得るなり。隧道の戒は、初果に諦を見、真を発して聖となる、聖人の持つ所にして、凡未の持ち能ふところに非ざるなり。無著戒は、即ち三果の人の持つ所、亦初果の持する所に非ざるなり。智譛、自在は、此れ即ち菩薩の利他に須らく此戒を持すべし、則ち二乗の持する所に非ず。随定、具足は、此は是れ大根性の持つ所なり、則ち六度通教の菩薩の能く持する所に非ざるなり。況んや復凡未、二乗をや。
[6]向には位の高下、事義の不同を判ぜり。理観観心に持戒を論ぜば、具さに能く上の十戒を持得するなり。先づ十戒を束ねて四意と為す。前の四戒は但是れ因縁所生の法、通じて観境と為す。次の二戒は即ち是れ因縁生の法は即ち空なりと観ず、空観の持戒なり。次の両戒は、因縁生は即ち是れ仮なりと観ず、仮観の持戒なり。次の両戒は、因縁生法は即ち是れ中なりと観ず。中観の持戒なり。言ふ所の心を観じて因縁生法と為すとは、若し、一念の心を観ずるに、悪縁より起るは即ち能く根本を破し、乃至、不雑戒を破す。善に相違ずるが故に、名けて悪と為す。今、善順の心を以て、悪心を防止し、能く根本、乃至不雑等の戒をして、善順成就し、毀損無きことを得しむ。故に善心と称し、名けて防止と為す。悪心既に止めば、身口も亦然り。防は即ち是れ止善、順は即ち是れ行善なり。行善は即ち是れ観、止善は即ち是れ止なり。是を因縁所生の心を観じて、四種の戒を持つと名くるなり。次に、善悪因縁所生の心は、即ち空なりと観するとは、「金剛般若」に云ふが如し、「若し法相を見る者は、我人衆生導者に著すと名く」と。若し非法相を見る者は、亦、我人衆生寿者に著す。法相を見ず、非法相を見ず、筏の喩の如き者、法尚応に捨つべし、何に況んや非法をや。故に知んぬ、法と非法と、二皆空寂なるを、乃ち、持戒と名くるなり。今云ふ法とは、秖善悪の両心、仮実の法なり。若し善悪の仮名有りと見るは、即ち是れ我人衆生寿者に著す。若し善悪の実法を見るは、亦是れ我人衆生寿者に著するなり。言ふ所の非法相とは、若し善悪の仮名は是れ無なりと見れば、亦是れ我人衆生寿者に著す。若し善悪の実法是れ無なりと見る者も、亦我人衆生寿者に著す。何を以ての故ぞ。無に依つて見を起すが故に、応に著すべからず、乃至、非有非無に依つて見を起す、皆我人衆生寿者に著すと名く。是の如き等の法と非法と、皆、即ち是れ空なりと観ず。此観に由るが故に、能く無漏に順じ、有無の六十二見を防止す。故に随道戒と名く。若し此観を重慮し、思惟純熟して、縁に歴、境に対するに、一切の色声に於て、皆悉く即ち空なるは、無著戒と名く。思惑を防止し、善く真諦に順ず、是れを因縁の心は即ち空なりと観じて、二種の戒を持すと名くるなり。次に因縁の心、即ち是れ仮なりと観ずとは、心は心に非ず、法も亦法に非ずと知りて、而も永く非心非法に滞らず、道種の方便を以て、無所有の中に、心を立て法を立て、諸の心数法を抜出し、衆生を導利するを、智所讃と為す。広く無量の心法を分別すと雖も、但、名字のみ有り、虚空の相の如し、愛著を生ぜず、惑相拘はらざるを、名けて自在と為す。此の如きの仮観は、無知を防止して、善く俗理に順ず。防の辺に止を論じ、順の辺に観を論ず。即ち是れ仮観に両戒を持するなり。次に因縁生の心は即ち中なりと観ずるとは、心性を観ずるに畢竟寂滅なり。心は本、空に非ず、亦復仮にも非ず、仮に非ざるが故に世間に非ず、空に非ざるが故に出世間に非ず。賢聖の法に非ず、凡夫の法に非ず。二辺寂静なるを、名けて心性と為し、能く是の如く観ずるを、名けて上定と為す。心、此定に在れば、即ち首楞厳、本寂にして動ぜず、雙べて二諦を照し、諸の威儀を現ず。是の如きの定に随へば、具足せざること無し。是の如きの観心は、二辺無明の諸悪を防止し、善く中道一実の理に順ず。防の辺に止を論じ、順の辺に観を論ず。此を即中にして、而も両戒を持すと名くるなり。故に、「梵網」に云はく、「戒を大乗と名け、第一義光と名く。青、黄、赤、白に非ず。戒を名けて孝と為し、孝を名けて順と為す、孝は即ち止善なり、順は即ち行善なり。此の如きの戒は、本師の誦する所、我も亦是の如く誦す」と。当に知るべし、中道の妙観は戒の正体、上品清浄は究竟の持戒なり、「十住広説」に云はく、「若し、我、我所無くんば諸の戯論を遠離し、一切所有無し、是を上尸羅と名く」と。故に「浄名」に云はく、「罪性は内に在らず、亦外に在らず、亦両の中間にも在らず、其心の然るが如く罪垢も亦然り、其れ能く是の如くなる、是を善解と名け、是を奉律と名く」と。即ち此意なり。
[7]復次に、観心の持戒は即ち是れ五名なり。所以は何ん。防止は是れ戒の義、観も亦是の如し。三観を能防と名け、三惑を所防と名く。此の如きの防止の義は法界に遍し、身口に局在せず、云云。又毘尼を滅と名く。身口の諸非を滅す、故に今の観心も亦名けて滅と為す。即空の観能く見思の非を滅す、即仮之観は、能く塵沙の非を滅す、即中之観は、能く無明の非を滅す。此の如く滅を論ずれば、遍く法界の諸非を滅す、止七支のみならず。故に「浄名」に云はく、「当に直ちに除滅すべし、其心を擾すこと勿れ」と。即ち此意なり。又、波羅提木叉を保得解脱と名くるは、観心も亦爾なり。若し、三諦の理を観ぜざれば、三惑の保、解脱せす。若し、三諦を見れば、三惑の保、脱す。此の如くの解脱は、法界に遍きの脱なり。止三途を解脱し、及び生死を出づるのみに非ず。又誦とは。文に背きて闇持するなり。今の観心も亦爾り。三観の名は三諦の理を詮す、即ち是れ其文なり。名は名に非ずと知りて、心を諦理に研き、観法相続して常に自ら現前す。妄念を生ぜす、之を名けて誦と為す。此の如きの誦は、法界に遍きの誦なり、止八十誦のみに非ざるなり。又律とは、軽重を詮量し、犯非犯を分別す。観心も亦爾なり。見思は、麤悪滓重、界内の無知は小軽、塵沙の客塵横に起るを復小重と為し、根本は、微細なりと分別す。上の菩提心の中に已に説けるが如し。三観、三理を観ずるは、是れ不犯なり。三惑、三理を障ふるを名けて犯と為す。三薬をもつて三病を治するに、詮量すること謬り無く。繊毫も差はず。又知る、事戒を持するに三品有り。上品は天の報を得、中品は人の報を得、下品は修羅の報を得。上を犯ずるは天を退し、中を犯ずるは人を退し、下を犯ずるは修羅を退し、三悪道に入る。悪道に又三品あり、軽き者は餓鬼道に入り、次なる者は畜生道に入り、重き者は地獄道に入る。中品又多種あり、謂はく、上と中と下と下の下となり、即ち四天下なり。上品又多種なり、三界の諸天各品秩あるを謂ふなり。又理戒を持するに、空仮中の三品、各上中下あり、即空の三品とは、下品は声聞と為り、中品は縁覚と為り、上品は通教の菩薩と為る。退すれば即ち伝伝して失す。即仮の三品とは、下品は三蔵の菩薩と為り、中品は通教の出仮の菩薩と為り、上品は別教の菩薩と為る。即中の三品とは、下品は別教の菩薩、中品は円教の菩薩、上品は是れ仏、唯仏一人のみ浄戒を具するなり。又、下品は五品と為す。中は六果清浄と為り、上は初住に入る。此れ略して観心に就いて其階差を判ぜしなり。中道の観心は、即ち是れ法界摩訶衍、遍く一切の法を摂す、意を以て得べし、復文を煩はしくせず。私かに諮つて云はく、下中の三品は皆発具に約す、上品何の意ぞ、真似に約して三品と為すや。答ふ、前は三道未だ合せず、分張して横に弁ずることを得べし。即中は既に融ず、宣しく一道に約して豎に判ずべし。又亦、横に約することを得るは、別接通と別と円との三品なり、云云。此の如く得失軽重を分別するに、遍く法界を詮量す。豈、止煮覆障のみならんや。観心の五名、宛然として見るべし。若し事の中、恭謹して四戒を精持し、而も其心雑念するは、事亦牢からざること、猶し坏瓶の如し。愛見の悪に遇ふときは、則ち破壊す。若し能く心を観じて六種に戒を持すれば、理観分明にして妄念勳ぜず、設ひ悪縁に遇ふも、堅固にしで失せず。理、既に動ぜずんば、事は任運に成す、故に「浄名」に云はく、「其れ能く是の如くなる、是を善解と名け、奉律と名く」と。正意、此に在るなり。
[8]三に犯戒の相を明すとは、未れ浄戒を毀滅するは癡愛倒見を出でず、是れ戒の怨家なり、二の羅刹に喩ふ。「大経」に云く、「譬へば人有りて、浮嚢を帯持して大海を渡る、爾の時海中に一の羅刹あり。来りて浄嚢を乞ふ、初めは則ち全く乞ひ、乃微塵に至るも、悉く皆与へざるが如し」と。行人も亦爾なり、発心して戒を秉り、生死の大海を渡らんことを誓ふに、愛見の羅刹、戒の浮嚢を乞ふ。
[9]愛の羅刹の言はく、「汝をして、安隠に涅槃に入ることを得しめん」とは、此れ欲楽、情を暢ぶるを以て称して涅槃と為す。飢えて食を得るが如く、貧の宝を得るが如し。獼猴は、洒を得れば、則ち安楽を得。安楽を涅槃と名け、行人を誘誑す。若し、愛に随つて、転じて四重を毀破すれば、是れ、全く浄嚢を棄つるなり。是を犯の相と名く。若し、愛心起ると雖も、全く棄つべからず。何となれば、我今、生死の大海を過ぎんと欲するに、尸羅浄からざれば、還つて三逾に堕し、禅定智慧皆発することを得ず。是を思惟し已つて大怖畏を生ず、故に言ふ、汝寧ろ我を殺すとも浄嚢得叵しと。是を持の相と名く。愛心復起り、摩触して意を快くす、若し、愛に随つて触すれば、是れ半の浮嚢を棄つるなり。是を犯の相と名く。行人、復禁戒を念ず、豈半を輸す可けんや。其果報を論ずれば、地獄の苦悩、其即目を論ずれば、下意活擯せらる、甚だ羞恥すべし。豈応に此の如くして大事を損毀すべけんや。是故に護惜し、愛情に随はや。是を持の相と名く。愛心、又起り、重の方便を乞ふ、若し、毀犯すれば、是れ手許を乞ふなり、又、波夜提を毀するは、是れ指許を乞ふなり、又吉羅を毀するは、是れ微塵許を乞ふなり。吉羅は、小なりと雖も、放逸の門を開き、微塵は多ならざるも、水、当に漸く入り、海に没して死すべし。是を、愛心は律儀戒を破すと為す。貪攀して、五欲を覧るは、定共戒を破すなり。深く生死に著して、有の為に業を造るは即空の戒を破するなり。世の機嫌を息めず、他の意を護ること無きは、即仮の戒を破するなり。戒善と虚空と等しきことを信ぜず、此戒は仏法を具足するといふことを信ぜず、此戒の畢竟清浄なることを信ぜざれば、中道の戒を破するなり。此れ例して解すべし、云云。
[10]次に見の羅刹、浮嚢を乞ふとは、行し、財色の為にして戒を毀する者は、前に説く所の如し、触人皆爾り、此を已起の悪と名く。除断せんが為の故に、一心に勤めて精進す。若し、見心猛利なるは、所計の法に於て、而も罪過を起す。此は是れ解の僻なり、未生の悪と名く。生ぜざらしめんが為の故に、一心に勤めて精進す、此見未だ起らすと雖も、若し小禅を修得して、好き師友無くんば、即ち、念著を生じて而して、過患を起す。仏の在世に一比丘あり、四禅を得、謂つて四果を為す。臨終に中陰の起るを見て、即ち仏を謗りて云はく、「羅漢は不生なり、今那んぞ生を得る」と。阿難、仏に問はく、「此人、命過ぎて今何れの処に生するや」と。仏の言はく、「已に地獄に堕す、戒を持し、有漏禅を得と雖も、是れ亦信べからず」と。仏の在世すら尚爾り、況んや、末代の癡人、罪著深重なるをや。故に「大虚空蔵経」に云はく、「若し、悪見を起さば、第三の波羅夷と名く」と。何をか悪見と云ふや。或は空の解を得て、少智慧を発し。心を師とし、自ら樹つて無生を証すと謂ふ。見心既に強くして能く諸法を破す、仏を無とし、衆生を無とし、世の因果、出世の因果を撥つ。「法華」に云はく、「或は人肉を食ひ、或は復狗を噉ふ」と、即ち此義なり。正見、威儀、浄命を破して平等無分別の見を起す。何者か罪有る、何者か罪に非ざる、若し、分別すること有らば、分別は即ち礙なり、礙は即ち真に非ず。貪欲の中に於て怖礙を生ずること莫れ、怖礙無きが故に、即ち是れ菩提なり。此は是れ実、余は皆妄語なりと謂ふ。又、悪師値為に悪法を説くに値いて、見毒転た懺んなり、邪鬼心に入りて邪解更に甚だし、猖狂顛倒して、種として為さざる無し、見慢峨嵯として一切を陵蔑す。善を行やる者を見ては、有所得と謂ひ、之を欺くこと土の如し。是見に由るが故に、浮嚢全く去る。設し全く去らざる者は、即ち思惟して言はく、「理は此の如しと雖も、我未だ見ること能ざるなり。何ぞ頓に棄つることを容れんや」と。惜みて猶ほ与へざれば見心復起り、一切法は空なり、豈、触と不触、男女等の相有らんや」と。即便ち把執鴃抱す。是を半去、或は重方便、乃至吉羅と名く。謂はく、諸法は空寂なり、何ぞ事相を用て紛紜せんと。既に微塵をも存せざれば、空心転た盛んなり。小水の漸く漏るるが如くにして、無礙稍滑なり。一切の戒律、皆悉く呑瞰す。故に浮嚢永く沒す。当に知るべし、見心大いに怖畏すべきを。何を以ての故ぞ。若し、四重及び犯者、皆空にして而も五逆も亦空なりと謂はば、何ぞ逆を造らざらん。空見、既に強ければ、亦父母を無とし、若は通じ、若は害するも、皆礙と為さず。既に礙無くんば、亦応に王及び夫人なるをも礙げざるべし。其見心を論ずれば、実に王及び夫人ありと謂はずして、而も自ら已に於て身を惜しみ命を惜しむ。若し国王を侵さば、身砕け命尽きんと。此の如きの癡空、身命を空ぜず、已が身命を惜しみ、亦王に於ては空ぜず。既に已に於て、王に於て空ずること能はざる者、那んぞ独り父母を欺き、仏の教を軽忽して、四重五逆、皆空なりと言ふことを得んや。当に知るべし、此人は、自から執空の過を見ること能はざるなり、近きすら尚見ず、何に況んや遠きをや。既に悪空を以て仏の禁法を撥つ。是れ律儀戒を破するなり。空見、心を擾がすは、定共戒を破するなり。堅く已見を執するは、是れ即空の戒を破するなり。他の善心を汚すは、即仮の戒を破するなり。見心と虚空と等しく、即ち是れ仏法にして畢竟清浄なること信ぜざるは、即中の戒を破するなり。当に知るべし、邪僻の空心は甚だ怖畏すべきことを。若し、此見に堕すれば、長く淪み永く沒す。尚、人天の涅槃を得ること能はず、何に況んや大般涅槃をや。故に「論」に云はく、「大聖、空の法を説きたまふは、本有を治せんが為なり、若し、空に著すること有る者は、諸仏の化せざる所なり」と。又「経に云く、「若し、諸法に於て疑心を生ずとは、能く煩悩の須弥山の如くなるをも破す。若し、定んで見を起さば、則ち化すべからず」と。「無行経」に云はく、「貪欲は即ち是れ道なり」と。此語を僻取して、以て無礙を証す。何ぞ「無行経」の「無礙の法に貪著する、是人は仏を去ること遠し。若し、空を得ること有る者は、終に戒を破せず」といふを引かざるや、云云。是を見心の羅刹、禁戒を毀ると名くなり。大意、此の如し、云云。
[11]復次に、前は、一向に持を論じ、次は、一向に犯を論ぜり、今は、十戒持犯の定らざることを明す。若し、通じて動出を論ぜば、悉く名けて乗と為す。故に人天等の五乗あり。通じて防止を論ぜば、悉く名けて戒と為す。故に律儀、定共、道共等の戒あり。若し、別の義に就ていへば、事戒の三品、此を名けて戒と為す。戒は、即ち有漏、動ぜず出でず。理戒の三品は、之を名けて乗と為す。乗は、是れ無漏、能く動じ能く出づ。此乗戒に約して四句分別するに、一には乗戒倶急、二には乗急戒緩、三には戒急乗緩、四には乗戒倶緩なり。
[12]一に乗戒倶急とは、前の持の相の如く、十種清浮にして、理事瑕無く、観念相続するは、今生に即ち応に得道ずべし。若し未だ得道せずんば、此業最も強し、強き者は先に牽けば、必ず善処に升る。若し、律儀戒、急なれば、則ち欲界の人天の為に牽かる。若し、無雑戒、急なれば、禅、梵世に随ふ。三品の理乗、何れの乗か最も急なる。若し、三品の即中の乗急なるは、人天の身を以て弥勒仏に値ひ、華厳の教を聞き、利根にして得道す。若し上品の出仮の乗急なるは、人天の身を以て弥勒仏に値ひ、華厳の座に於て鈍根と作り得道ず。若し、上中二品の入空の乗急なるは、人天の身を以て弥勒仏に値ひ、方等般若等の教を聞きて、三乗の道を得。若し、下品入空の乗急なるは、人天の身を以て弥勒仏に値ひ、三蔵の経を聞きて得道す。人天の身を得るは、是れ事戒を持つの力なり。仏を見、道を得るは、乗観を修するの力なり。事理倶に持するは諸行の中の最なり。故に緩なる可からざるなり。
[13]二に戒緩乗急とは、是人は徳薄く垢重くして煩悩に使はる。是諸の事戒、皆羅刹の為に毀食せられ、専ら理戒を守りて観行相続すること、上の覚意の六蔽の中の用心の如し。「央掘」に為に其相を示せり、事の戒緩にして命終るを以ての故に、三悪道に堕して罪報を受く。諸の乗の中に於て、何れの乗か最も強き、強き者は先に牽く。若し、析空の乗強きは、三途の身を以て弥勒仏に値ひ、三蔵の経を聞きて、乃ち得道すべし。若し、即空の乗急なるは、三途の身を以て弥勒仏に値ひ、般若方等を聞きて得道す。若し、即仮の乗急なるは、三途の身を以て弥勒仏に値ひ、華厳を聞き、及び余教を聞きて、鈍根と作り得道ず。若し即中の乗急なるは、三途の身を以て弥勒仏に値ひ、華厳の経を聞きて、利根と作り得道す。是故に、仏は漸鈍の諸経を説くに、竜鬼畜獣も悉く来り会して坐す。即ち是れ其事なり。事戒を破するが故に三悪の身を受け、理観を持するが故に仏を見て道を得。「大経」に云はく、「戒に於て緩なる者は、名けて緩と為さず、乗に於て緩なる者を、乃ち名けて緩と為す」と。正しく是れ此一句なり。
[14]三に戒急乗緩とは、事戒厳急にして纎毫も犯ぜざるも、三種の観心は了らかに開解せず。戒の急なるを以ての故に、人天に生を受け、或は禅梵世に随つて定楽に耻耽湎し、世に仏有りて法を説き人を度すと雖も、而も其等に於て全く利益無し、設ひ値遇することを得るも開解すること能はず、振丹の一国覚らず知らず、舍衛の三億聞かず見ず、諸天に著楽し、及び難処に生じて、来りて聴受せず、是れ此意なり。譬へば、繋人の或は財物を以て、諸の大力に求め、日月を申延して恩赦に逢はんことを冀ふが如し。人天の中に在るも亦復是の如し。善知識に化導せられて乗を修し、即ち能く脱を得んことを冀ふ。若し人天に於て、乗を修せざる者は、果報、若し尽くれば還つて三途に堕し、百千の仏出でたまふとも終に道を得ず云云。
[15]四に事理倶緩とは、前の十種の如きは皆犯じて永く泥黎に堕ち、人天の果報を失ひ、神明昏塞にして得道の期無く、回転沈淪して度脱すべからず。
[16]行者、常に自ら心を観ずべし。事理の両戒、何れの戒か緩急なる、事の三品に於て何れの品か最も強き、理の三品に於て何れの品か小しく弱き。自ら深浅を知り、亦将来の果報善悪を識る。既に自ら知り已りて亦他人を知る。此観心を将て亦諸経の列衆の意を識り、亦如来の縁に逗ずる大小を識る。故に「華厳」の中、鬼神も皆不思議解脱の法門に住すと言ふは、此は是れ、権の来りて実を引き、昔、不思議の乗を修すること急なる者をして、道を得しむるなり。「涅槃」の列衆も亦復是くの如し。若し細しく此意を尋ぬるには、広く四教の乗戒緩急に歴て、以て其因を弁じ、後に五味に歴て、以て其果を明し、皆分明たらしめよ。凡そ是の如き等の因果、差降、升況、一に非ず。云何ぞ難じて、理戒、道を得、何ぞ事戒を用ひんと言はんや。幸に、人天に於て道を受く、何の意ぞ苦しんで三途に入らん。
[17]四に懺浄を明すとは、事理の二犯は倶に止観を障へて、定慧発せず、何んが懺悔して、罪をして消滅し、止観を障へざらしむと云ふや。若し事の中の軽き過を犯ずるは、律文に皆懺法有り、懺法若し成ずれば、悉く清浄と名く、戒浄く、障り転じて止観明らかなり易し。若し重を犯ずれば仏法の死人なり。小乗には懺法無し。若し大乗に依らば、其懺悔を許す、上の四種三昧の中に説くが如し、下当に更に明すべし。次に理観小僻にして諦に当らざる者は、此大執心、若し薄くして苟くも封滞せざれば、但だ正観の心を用て其見著を破す、慚愧し羞づること有りて頭を低うし、自ら責め、心を策まし轍を正うせば、罪障消すべくして能く止観を発するなり。見、若し重き者は、還つて観心の中に於て懺を修す、下に当に説くべし。若し事の中の重罪を犯せるは、四種三昧に依るときは。則ち懺法あり。「普賢観」に云はく、「端坐して実相を念ぜよ、是を第一の懺と名く」と。「妙勝定」に云はく、「四重、五逆、若し禅定を除いては、余は能く救ふもの無し」と。「方等」に云はく、「三帰、五戒、乃至二百五十戒、是の如く懺悔して、若し還生せずといはば、是処有ること無し」と。「請観音」に云はく、「梵行を破するの人、十悪業を作るも、糞穢を蕩除して還つて清浄なることを得」と。故に知んぬ、大乗には、この罪を悔することを許す。罪は重縁従り生ず、還つて重心従り懺悔すれば相治することを得べし。殷重の心無くんば、徒らに懺して益無し、障若し滅せずんば止観明らかならず。
[18]若し人、現に重罪を起すに、苦到に懺悔すれば除滅すること易し。何を以ての故ぞ、路に迷ふこと近きが如くなるが故なり。過去の重障は必ず廻転し難し、迷ふこと深遠なるが故なり。
[19]若し二世の重障を懺悔して四種三昧を行ぜんと欲せば、当に順流の十心を識り、明かに過失を知るべく、当に逆流の十心を運んで以て対治を為すべし。此二十心を通じて諸の懺の本と為す。順流の十心とは、一には無始自従り闇識昏迷、煩悩に醉はされ、妄りに人我を計す。人我を計するが故に身見を起す、身見の故に妄想顛倒す、顛倒の故に貪瞋癡を起す、癡の故に広く諸の業を造る、業あれば則ち生死に流転す。二には内に煩悩を具し外に悪友に値ひ、邪法を扇動して我心を勧惑し、倍加し、隆盛なり。三には内外の悪縁既に具して、能く内には善心を滅し、外に善事を滅す。又他の善に於て都べて随喜すること無し。四には三業を縦恣にして悪として為さざること無し。五には事広からずと雖も悪心遍布す。六には悪心相続して昼夜断えず。七には過失を覆諱して人の知らんことを欲せす。八には魯扈底突して悪道を畏れず。九には慚無く愧無し。十には囚果を撥無して一闡提と作る。是を、十種生死の流に順じて昏倒して悪を造ると為す。厠虫は厠を楽みて覚らず知らず。積集重累して称計すべからず、四重五逆、極まつて闡提に至る、生死浩然として而も際畔無し。
[20]今懺悔せんと欲すれば、応当に此罪流に逆つて十種の心を用ひ、悪法を飜除すべし。先に正しく因果の決定して孱然なることを信ず。業種久しと雖も久しく敗亡せず、終に自ら作して他人果を受くること無し、精しく善悪を識りて疑惑を生ぜず。是を深く信じて一聞提の心を飜破すと為すなり。二には自ら愧ぢて剋責す。鄙極の罪人は羞無く耻無くして畜生の法を習ひ、白浄第一の荘厳を棄捨す、咄き哉、鉤無くしてこの重罪を造る。天は我が屏罪を見る、是故に天に慚づ。人は我が顕罪を知る、是故に人に漸づ。此を以て無慚無愧の心を翻破するなり。三には悪道を怖畏す。人命は無常なり、一息追はざれば千載長く往く。幽途綿邈として資糧有ること無し、苦海悠深にして船筏安にか寄らん。賢聖は呵棄して恃怙する所無し。年事稍去りて風刀奢ならず。豈晏然として坐し、酸痛を待つべけんや。譬へば野干の耳、尾、牙を失ひて、詐り眠りて脱せんことを望み、忽ち頭を断ずることを聞きて、心大いに驚怖するが如し。生老病に遭ひて、尚急なりと為さず、死事奢らず、那ぞ怖れざることを得ん。怖心起る時は、湯火を履むが如し、五塵六欲も貪染するに暇あらず。阿輸柯王の旃陀羅が朝な朝な鈴を振りて、一日已に尽きぬ、六日して当に死すべしといふを聞きて、五欲有りと雖も一念の愛なきが如し。行者、怖畏して苦到に懺悔するに、身命を惜しまざること彼野干の決絶するが如く、思念する所無きこと彼怖王の如くす。此を以て悪道を畏れざるの心を翻破するなり。四には当に発露して瑕疵を覆ふこと莫れ。賊毒悪草は悪に須く之を除くべし。根露るれば条枯れ、源乾けば流竭く。若し罪を覆蔵すれば是れ不良の人なり。迦葉頭陀には大衆の中にして発露せしめ、方等には一人に向ひて発露せしめ、其余の行法は但実心を以て仏像に向ひて改革す、陰隠に癰有るに、覆諱して治せざれば則ち死するが如し。此を以て罪を覆蔵する心を翻破するなり。五に相続の心を断ずるとは、若し決果断奠して故きを畢へ新きを造らざる、乃ち是れ懺悔なり。懺し已りて更に作る者は、王法初め犯して原さるることを得、更に作るは則ち重きが如し。初め道場に入るは罪則ち滅し易く、更に作るは除き難し。已に能く之を吐く、云何ぞ更に噉はん。此を以て常に悪事を念ずるの心を翻破するなり。六に菩提心を発するとは、昔は自ら安くして人を危くし遍く一切の境を悩ます。今は広く兼済を起し、虚空界に遍くして他を利益す。此を用て一切処に遍くして悪を起すの心を翻破するなり。七に功を修して過を補ふとは、昔は三業に罪を作ること昼夜を計らす、今は身口意を善くし、策励して休まず。山岳を移すに非やんば安んぞ江海を填めんや。此を以て三業を縦にする心を翻破するなり。八に正法を守護するとは、昔は自ら善を滅し亦他の善を滅す、自ら随喜せす亦他を喜ばせす、今は諸の善を守護し、方便して増広し断絶せしめず。譬へば、城を全うするの勳の如し。「勝鬘」に云はく、「正法を守護し正法を摂受するを最も第一と為す」と。此れ、随喜無きの心を翻破するなり。九に十方の仏を念ずるとは、昔は親しく悪友に狎れて其言を信受す、今は十方の仏を念じ、無礙の慈を不請の友と作すことを念じ、無礙の智を大導師と作すことを念ず。
[21]此れ悪友に順ずるの心を翻破するなり。十に罪性の空なるを観ずるとは、貪欲瞋癡の心は皆是れ寂静の門なりと了達す。何を以ての故ぞ。貪瞋若し起れば何れの処に在りてか住する、此貪瞋は妄念に住し、妄念は顛倒に住し、顛倒は身見に住し、身見は我見に住し、我見は則ち住する処無し、十方に諦かに求むるも我は不可得なりと知る。我心自から空にして罪福に主なし、深く罪福の相に達し、遍く十方を照す。此空慧をして心と相応せしむ。譬へば日の出づる時は朝露一時に失するが如し。一切の諸心も皆是れ寂静の門なり、寂静を示すが故に。此れ無明の昏闇を翻破するなり。是を十種の懺悔と為す。涅槃の道に順じ、生死の流れに逆うて、能く四重五逆の過を滅す。若し此十心を解せざれば全く是非を識らず、云何ぞ懺悔せん。設ひ道場に入るも徒らに苦行を為して終に大益無し。「涅槃」に云はく、「若し勤めて苦行を修するは、是れ大涅槃の近因縁なりと言はば、是処有ること無し」と。即ち此意なり。是を事の中の重罪を懺悔すると名くるなり。
[22]次に見罪を懺するとは、見惑を以ての故に生死の流れに順ずること、前に説く所の如し。向に十心を運んで、事に附し懺を為すは鈍使の罪を懺するなり。今、理を扶けて見を懺し、利使の罪を懺す、然るに見心猛盛にして重煩悩を起さば、応に傍ら事を用ひて助くべし。下薬を服するには、須らく巴豆を加へ、黈瀉して底を尽くさしむべきが如し、是故に還つて十法に約して以て見を懺することを明す。
[23]一に不信を翻破するとは、即ち身見の心を点じて無明苦集を識らしむ。鬱頭藍弗の非想定を得るが如き、世人之を崇むること仏の如きも、苦集を識らざれば報尽きて還つて墮す。須跋陀羅が非想定を得るは、麤想なしと雖も細煩悩有り。長爪は利智なれども而も不受を受く、高著の外道も尚未だ見を出です、是れ涅槃に非ざるなり。況んや麤浅の者をや。尚藍弗に逮ばずして而も是れ真の道なりと言ふ。豈大いに僻めるに非ずや。是人、空を観ずるの智慧に愛著して、是事知らざるを名けて無明と為す。而して違従を起せば見に依つて行を造る。見行は色に依る、即ち是れ名色、名色は即ち是れ苦等なり。苦に迷ひて愛有を起す、有は未来の生死を生じ、流転相続す、豈是れ寂滅ならんや。若し生死尽くると謂はば、乃ち是れ漫語なり。無明の見心を呼んで道と為し、非道を道と為し、非因を因と計すを名けて戒取と為す、豈因盗に非ずや。未来の三途の苦報を呼んで涅槃と為す、此は是れ見取なり、非果を果と計す、是の果盗と為す。身辺邪見其事知るべし。此の如きの見心は、乃ち是れ苦集にして滅道に非ざるなり。尚三蔵の道滅にすら非ず、豈是れ摩訶衍の道滅ならんや。若し能く是の如くなるときは、則ち世間の因果を知り、復出世の因果を識る。故に「大品」に云はく、「般若は能く世間の相を示す、所謂是道非道を示す」と。是を深く見心の苦集を識ると為すなり。又深とは、但無明苦集を知り、亦三蔵の因果を識るのみに非ず、亦囚縁生法印空の四諦の因果を識る。又復深とは、亦因縁即仮無量の四諦の因果を如る。又復深とは、亦因縁即中の無作の四諦の因果を知る。一の見心に於て具さに一切の因果を識る。故に「大経」に云はく、「一念に心に於て、悉く能く無量の生死を称量す、是を不可思議と名く」と。故に深信は不信を破すと名くるなり。二に重慚愧を生ずるとは、我心の中の三諦の理を見ざるを無慚愧と名く。且く理観に約して人天を論ぜば、乾慧性地の人に慚ぢ、四果の浄天に愧づ。三十心の人、十地の義天、五品六根清浄の人、四十二位の天、例せば作意して得る報を名けて人と為し、自然の果報を名けて天と為すが如し、三種の天人も亦復是の如し。方便道を名けて人と為し、真理の顕はるるを名けて天と為す、見心罪を造り、三諦の理を覆ひ、三種の人天に逮ばず、是故に慚愧し、無慚愧の心を翻破するなり。三に怖畏するとは、見心の罪を造る、此過深重なることを知る。「大論」に云はく、「諸仏、空の義を説くは、諸見を離れしめんが為の故なり。若し復、空ありと見るは諸仏の化せざる所なり」と。我今見に由つて而して大罪を起す、此間の劫尽くれば他方の獄に生じ、此間の劫成ずれば此処に還り来る。是の如く展転すること無量無辺ならん。若し果報受くる所の身を説かば、当に熱血を吐きて死すべし。故に知んぬ、見罪は大いに重し。既に無漏に非ざれば生死を出でず、煩悩は業を潤ほす、堕落すること何ぞ疑はん。一念追はずんば永く出づるの日無し。是義の為の故に大怖畏を生じ、悪道を畏れざるの心を翻破するなり。四に発露するとは、従来の諸見は而も愛著を生じ、此三諦を覆し、決定して信を生ずること能はず、今は見の過失を知り、三疑を発却し隠諱する所無くして其諦性を顕はす。是を、発露して罪を覆蔵する心を翻破すと為すなり。五に相続の心を断ずるとは、三諦の観は間有らしむること勿れ、八正道を以て三惑の心を治し、断じて而も習はず、此れ、悪を相続するの心を翔破するなり。六に菩提心を発するとは、即ち是れ三諦の理を縁ずるに皆虚空の如し、空は則ち無辺に一切を愍傷して普ねく度脱せしむ。昔、此に迷ひて惑を起す、有無辺なるが故に罪も亦無辺なり。今の菩提心は法界に遍く、無作の善を起すも亦法界に遍うし、昔空に遍する無作の悪を翻破するなり。師子の琴を奏するに余の絃を断絶す、即ち此義なり。七に功を修めて過を補ふとは、三諦の道品は即ち是れ菩薩の宝炬陀羅尼なり、是れ行道の法にして涅槃に趣くの門なり。此の如きの道品、念念相続す、即ち是れ功を修め過を補ふなり。昔、見を執して謂ひて涅槃と為し、見に於て動せず、道品を修せず、設ひ、有を動じて無に入るも屈歩虫の如し。見に於て動ずと雖も亦道品を修すること能はず。今、有無は是れ見なりと知りて執して実と為さずんば、是を見動じて而も道品を修せずと名く。若し諸見を破析して道品を行ず、是を見動じて而して道品を修すと名く。又、見を即空、即仮、即中なりと体す、既に即と言はば見に於て動ぜずして而も三種の道品を修す。是を功を修めて縦の過を補ふと為すなり。八に正法を守護するとは、昔、見を護りて他をして破せしめず、方便して申通す。今は三諦の諸空を護りて見をして破せしめず、若し留滞あれば善巧に申弘し、身を亡じて法を存す、猶、父母の其子を守護するが如し。此れ善事を毀ることを翔破するなり。九に十方の仏を念ずるとは、昔、見の毒を服して常に厭足なきこと、渇して飲を思ふが如し。又悪師に遇はば加ふるに鹹水を以てするが如し。苦を以て苦を捨て、我慢矜高にして諂心不実なり。千万億劫に於て仏の名字を聞かず。今は三諦を念ずるに、不来不去、即ち是れ仏、無生の法即ち是れ仏、常に諦理の為に護らる。此れ悪友に狎るるの心を翻破するなり。十に罪性の空なるを観ずるとは、此三種の惑は本来寂静なるに而も我れ了せず、妄りに是非を謂ふこと、熱病の人の諸の竜鬼を見るが如し。今は見を観ずるに幻の如く、化の如く、来るに所従無く、去るに足跡なく、亦復東西南北に至らず。一切の罪福も亦復是の如し、一空一切空、空即ち罪性、罪性即ち空なり。此れ顛倒の心を翔破するなり。
[24]此十懺を運ぶ時、深く三諦を観じ、又事法を加ふ。殷重の心を以て身命を惜まざるを第二の健児と名く。
[25]是を事理の両懺と名く。障道の罪滅し、尸羅清浄にして三昧現前し、止観開発す。事戒浄きが故に根本三昧現前し、世智、他心智、開発す。無生の戒浄きが故に真諦三昧現前し、一切智開発す。即仮の戒浄きが故に俗諦三昧現前し、道種智開発す。即中の戒浄きが故に王三昧現前し、一切種智開発す。此三諦三昧を得るが故に王三昧と名く、一切の三昧悉く其中に入る。又能く一切の諸定を出生して具足せざること無きが故に、名けて止と為し、又能く一切の諸智を具足するが故に、名けて観と為す。故に知んぬ、持戒清浄、懇側の懺悔、倶に止観の初縁と為す、意、此に在るなり。
[26]第二に衣食具足とは、衣を以て形を蔽ひ、醜陋を遮障す、食は以て命を支へ、彼飢瘡に填つ。身安ければ道隆んなり、道隆んなれば則ち本立つ。形と命と及び道とは此の衣食に賴る、故に云ふ、「如来は食し已つて阿耨三菩提を得」と。此れ小縁なりと雖も能く大事を弁す、裸にして餒く安からすんば道法焉んぞ在らん。故に須く衣食を具足すべきなり。
[27]衣とは醜陋を遮し、寒熱を遮し、蚊虻を遮し、身体を飾る。衣に三種有り、雪山の大士は形を深澗に絶し、人間に渉らす、草を結んで席と為し、鹿皮の衣を被て受持説浄等の事無し。堪忍力成じて温厚なるを須ひす、人間に遊ばざれば支助に煩ひなし、此れ上人なり。十二頭陀は但三衣を畜ふ。多ならず少ならす、聚に出で出に入るに被服斉整なり。故に三衣を立つ。此れ中士なり。多寒の国士には百一、身を助くることを聴す、要ず当に説浄すべし。趣きて供事に足らば、多く求むることを得ること無し。多く求むれば辛苦す、守護するに又苦しむ。自行を妨乱し、復檀越を擾る。少しく得る所あれば即便ち足ることを知る、下士なり。
[28]観行を衣と為すとは、「大経」に云はく、「汝等比丘は袈裟を服ると雖も、心は猶未だ大乗の法服に染まず」と。「法華」に云ふが如し、「如来の衣を著るに如来の衣とは柔和忍辱の心是なり」と。此れ即ち寂滅忍なり。生死涅槃の二辺の麤擴は中道の理と二ならず異ならず、故に柔和と名く。心を中道に安んずるが故に名けて忍と為す。二喧を離るるが故に寂と名け、二死を過ぐるが故に滅と名く。寂滅忍の心は二辺の悪を覆ふを醜を遮するの衣と名く。五住を除くが故に熱を障へると名け、無明の見を破するを名けて寒を遮すと為す。生死の動無く、亦空乱の意無く、二の覚観を捨つるを蚊虻を遮すと名く。此忍一切の法を具す。鏡には像有るも瓦礫には現ぜざるが如し。中には諸の相を具するも但空には則ち無し。故に、「深く罪福の相に達して遍く十方を照し、微妙浄法身、相を具すること三十二、用て法身を荘厳す」と云ふ。寂忍の一観に衆徳を具足す、亦名けて衣と為し、亦は厳飾と名く。九七五の割截して成ずる所に非ざるなり。三衣とは即ち三観なり。三諦の上の醜を蔽ひ、三諦の上の見愛の寒熱を遮す。三覚の蚊虻を却け三身を荘毆す。故に三観を以て衣と為す。即ち是れ伏忍、柔順忍、無生寂滅忍なり。又、見を起すを寒と名け、愛を起すを熱と名く。止観を修して見諦の解を得るは煖の如し。見則ち生ぜず、思惟の解を得るは凉の如し。愛則ち生ぜず、五根、悪無きは即ち福徳荘厳なり。意地、悪無きは則ち智慧荘厳なり。余の二観の上の衣も例して解すべし。百一長衣は即ち是れ一切の行行助道の法なり、三観を助成して共に諸の惑を蔽ひ、三身を厳る。此は是れ諸法に歴て忍を修するを衣と為すなり。
[29]食とは三処に食を論ず、以て身を資けて道を養ふべし。一には深山に跡を絶ち、人民を去り遠ざかり、但甘果美水、一菜一果を資るのみ。或は松柏を餌うて以て精気を続け、雪山の甘香藕等、食し已つて心を繋け、思惟坐禅して更に余事無きが如し。是の如きの食は上士なり。二には阿蘭若処に頭陀抖摟す。放牧の声を絶す、是れ修道の処なり、分衛して自ら資く。七仏皆乞食の法を明す、「方等」「般谷」「法華」皆乞食と云ふなり。路径若し遠ければ分衛労妨す、若し近ければ人物相喧し。遠からず近からざるは、食を乞ふに便ち易なり、是れ中士なり。三には既に穀を絶ち果を餌ふこと能はず、又頭陀乞食すること能はず。外護の檀越、食を送りて供養す、亦受くることを得べし、又僧中如法の結浄食、亦受くることを得べし、下士なり。
[30]若し観心に就きて食を明さば、「大経」に云はく、汝等比丘、乞食を行ずと雖も而も未だ曾て大乗の法食を得ず」と。法食とは如来の法喜禅悦なり、此法喜は即ち是れ平等大慧なり、一切の法を観ずるに障礙あること無し。「浄名」に云はく、「食に於て等しき者は法に於ても亦等し、法に於て等しき者は食に於ても亦等し」と。煩悩を薪と為し、智慧を火と為す、是因縁を以て涅槃の食を成じ、諸の弟子をして悉く皆甘嗜せしむ。此食は法身を資け、智慧の命を増す。乳の糜を食すれば更に須ふる所無きが如し。即ち其の解脱なり、真の解脱とは即ち是れ如来なり。此法喜禅悦を用ひて一切の法を歴るに一味ならざること無し、一色一香も中道に非ざること無し、中道の法は一切の法具す、即ち是れ飽の義、須ふる所無きの義なり。彼深山の上士は一草一果をもって身を資くるに即ち足るが如し。頭陀乞食とは、行人、事に即して而も中なる実相の慧を修すること能はずんば、当に次第の三観をもって心を調へ、而して中道に入るべし。次第観の故に名けて乞食と為し、亦中道を見るは又飽の義と名く、即ち中土なり。檀越の食を送るとは、若し人、事に即して通達すること能はず、又法に歴て観を作すこと能はずんば、自ら食の義無し、応に須く善知識の能く般若を説く者の善く為に分別するに随ふべし。聞に随ひて解を得、而して中道を見るは、是人は根鈍にして、聞に従ひて解を生す、名けて食を得と為す。人、上の両事の如くすること能ずはんば、他の食を送ることを聴すが如し。又僧中の結浄食は即ち是れ禅定支林の功徳を証得するなり。定に藉りて悟を得るを僧中の食と名く。是故に行者は常に当に大乗の法食を存念し、余味を念ぜざるべきなり。