[1]第七に諸見境を観ずるとは、一に非ざるを諸と曰ふ、邪解を見と称す、又解知は是れ見の義、理を推すこと当らずとも而も偏見分明にして決定の解を作す、之を名けて見と為す。未聴学の人、名相を誦得して、文に斉つて解を作し、心眼開けず、全く理観無し。文に拠る者は生なり、証無き者は死なり。未習禅の人は唯理観を尚んで処に触れて心融ず、名相に闇うして一句も識らず。文を誦する者は株を守る、情通の者は妙悟なり、両家互に闕く、論じて評するに皆失す。若し見解滞り無く名字又諳んずるは、見解を以て他に問ふに意窮尽すること無し。曲射の鳥を繞れば飛走して路を失するが如し。若し難問を解釈するには綽として余工有り、太虚を射るに箭去ること礙り無きが如し。当に知るべし、学の成ずるに由るに非ず、必ず是れ見の発するなりと。此見或は禅に因つて発し、或は聞に因つて発す、例せば無漏の起る時、信法聞思に藉るが如し。聞に因つて発する者は本聴くこと多からざれども、広く能く転悟す、見解分明にして問答に聡弁なり。禅に因つて発する者は初め心静に因つて後に観転た明かなり、飜転すること自在にして妙達の如くなる有り。南方は習禅者寡ければ見を発するの人微し、北方は多く此事有り、盲瞋不識にして真道を得と謂ひ、陀羅尼を得と謂ひ、人を知るに闇く、高く地位を安ず、或時は信ぜず、是を狂惑と撥つ。今言はく、狂に非ず聖に非ず、未鬼著すれば能く語り、鬼去れば則ち礙なり。其れ既に爾らず、故に知んぬ、狂に非ずと。其故惑を尋ぬれば貪瞋尚在り、其新惑に約すれば更に煩悩を増す、八十八使、繋縛浩然たり。故に知んぬ、聖に非ずと、乃ち是れ見慧の発するのみ。通じて論ずるに、見の発するは聞に因り禅に因る、而して多くは禅に因る、或は禅已つて見発し、或は禅見倶に発す。見已つて禅を得るは又少し、両義は則ち多し。例せば諸禅通じて無漏を発すれども而も未到にして発する者は少く、六地、九地にして発する者は多きが如し。是義の為の故に禅定境に次で、而して諸見を論ずるなり。若し人、見発するに利智根熟にして能く自ら裁正し、或は経論を尋ねて己が過を勘へ知るは、此人得ること難し。若し自ら正すこと能はざれども善知識の明かに是非を示すに遇うて、其見心を破するは、此も亦得ること難し。故に云ふ。「真法及び説者聴衆得ること難きが故に」と。既に自ら覚せず、又師に値はざれば、邪昼日に増し、生死月に甚し、稠林に曲木を曳くが如し、何ぞ出づるの期を得ん。

 [2]今諸見境を観ずるに四と為す、一には諸見の人法を明し、二には諸見の発する因縁を明し、三には過失を明し、四には止観を明す。

 [3]第一に諸見の人法を明すに又二あり、一には邪人の不同、二には邪人執法の不同なり。

 [4]邪人の不同を又三と為す、一には仏法の外の外道、二には附仏法の外道、三には仏法を学して外道と成るもの。

 [5]一に外の外道とは本源に三有り、一には迦毘羅外道、此には黄頭と飜ず、因中に果有りと計す。二には漚樓僧怯、此には休睺と飜ず、因の中に果無しと計す。三には勒沙婆、此には苦行と飜ず、因の中、亦果有り亦果無しと計す。又「入大乗論」に云はく、「迦毘羅の所説には一を計するの過有り、作者と作と一、相と相者と一、分と有分と一、是の如き等を名けて一を計すと為す。優樓僧怯は異を計す。迦羅鳩駄は一異を計す。若提子は非一非異を計す。一切の外道及び摩迦羅等の計異も皆此四を離れず」と。三四の外道従り枝流を派出す、仏出でたまふ時に至つて六の大師有り。所謂、富蘭那迦葉は迦葉は姓なり、不生不滅を計す。末伽梨拘余梨子は、「衆生の苦楽は因縁有ること無し、自然にして而して爾り」と計す。刪闇夜毘羅胝子は、「衆生時熟して道を得、八万劫到れば縷丸数極まる」と計す。阿耆多翅舍欽婆羅は、欽婆羅とは麤衣なり、罪報の苦は投巖抜髪を以て之に代ふ」と計す。迦羅鳩駄迦旃延は、亦有亦無を計す。尼揵陀若提子は「業の作す所定んで改む可からず」と計す。此は、「羅什疏」に出づ、名は「大経」と同じ。計する所、三は同じく三は異なり、或は飜誤れるか、或は別に意有らん、今未だ詳にせざる所なり、而して大体、迦毘羅等に砠承す、本に依つて三と為す、或は四と為す可し、四見を謂ふなり。

 [6]二に附仏法の外道とは、犢子、方広自り起る。自ら聡明なるを以て、仏の経書を読んで一見を生ず、仏法に附して起るが故に此名を得。犢子は「舎利弗の毘曇」を読んで自ら別義を制して言はく、「我は四句の外、第五の不可説蔵の中に在り」と。云何なるか四句。外道は、色即ち是れ我、色を離れて我有り、色の中に我有り、我の中に色有りと計す、四陰も亦是の如し、合して二十の身見なり。「大論」に云はく、「二十の身見を破して須陀洹を成ず」と、即ち此義なり。今の犢子は我を計すること六師に異なり、復仏法に非ず、諸論皆推して受けず、便ち是れ附仏法の邪大法なり。或は云はく、「三世及び無為の法を四句と為すなり」と。又方広道人は自ら聡明なるを以て、仏の十喩を読んで自ら義を作して云はく、「不生不滅如幻如化空幻を宗と為す」と。竜樹、斥けて云はく、「仏法に非ず、方広の作す所、亦是れ邪人法なり」と。

 [7]三に仏法を学んで外道を成ずるとは、仏の教門を執して而して煩悩を生じ理に入ることを得ざるなり。「大論」に云はく、「若し般若の方便を得ずして「阿毘曇」に入るは即ち有の中に堕す、空に入るは即ち無の中に堕す、「昆勒」に入るは亦有亦無の中に堕す」と。「中論」に云はく、「非有非無を執するを愚癡論と名く」と。倒に正法を執して還つて邪人法と成るなり。若し摩訶衍の四門を学んで即ち般若の意を失するは、邪火の為に焼かれて還つて邪人法と成る。故に「百論」に正しく外の外道を破す。今大乗論師、「毘曇」、「成実」を炎破して、是れ有無を計するの外道なり」と謂ふ。然るに「成論」に云はく、「三蔵の中の実義は空是なり」と、此れ、乃ち無の意に似たり。又、百家の是に同じく、百家の非に異なり。義を捉ふること出沒す、又因中亦有果亦無果の意に似たり、又「昆勒」の意に似たり。常時、論起るに大皆道を得たり、今時執する者は乃ち是れ人の失、何ぞ法の非に関らん。此れ応に従容にすべし、迦毘羅等に雷同す可からず。若し大を以て小を破す、「浄名」に斥ふ所の如きは、其中理を見ざること外道と同じきを取る、是れ其方便の意を奪ふに非ず。

 [8]二に邪人執法の不同を明すとは、「関中疏」に云はく、「一種に各三種の法有り、一には一切智の法を得、二には神通の法を得、三には章陀の法を得」と。一切智とは各所計に於て一種の見を生ず、解心明利にして此見智を将て一切の法を通ず、故に一切智の外道と名く。神通法とは、五通を発得して、城を変じて鹵と為し、釈を転じて羊と為し、河を停めて耳に在り、日月を捫摸す、此を神通外道と名く。章陀法とは、世間の文字、星医、兵貨、悉く能く解知す、是を韋陀外道と為す。一師則ち三種得法の不同有るなり。犢子、方広も亦是の如し。若し仏法を執するの邪に望むれば、三蔵の四門に約す、一門に三有り、一には直に理解智性を発して見を生ず。二には諸神通を得、三には四阿含の文字を解す。是の如く四門なれば即ち十二種の得法不同有るなり。若し意を得る者は一一の門の中、初に三種の念処有り、一には性念処、二には共念処、三には縁念処なり。性は是れ、直に諦理を縁ず、共は是れ事理合して修し、縁は是れ遍く一切の境法を縁ず、亦是れ三蔵の教法を縁ずるなり。後に果を証する時三種の解脱を成ず、慧解脱、倶解脱、無礙解脱なり、故に法蔵を結集するの時、千人を選び取り、悉く無礙解脱の遍く内外の経書を解するを用て、外敵を降すに擬す。「毘曇」、「婆沙」に云はく、「煩悩障解脱、禅定障解脱、一切法障解脱」と。慧解脱の人は、初の解脱を得、共解脱の人は第二の解脱を得、唯仏のみ第三の解脱を得、総じて無礙解脱と名くるなり。摩訶衍の通別円の四門を孰して意を失するは例して三十六種の得法の不同有り云云。

 [9]第二に諸見の発を明すに二有り、一には諸見の発を明す、二には見の発する不同。

 [10]一に見の発するを明すとは、或は禅に因り或は聞に因る。衆生久劫より作らざる所靡し、会て諸見を習ひ、生を隔てて中ごろ忘れ、罪、本解を覆うて心速に開けず。今障り若し薄ければ能く諸禅を発す、或は禅見倶に発し、或は禅の後に見発す。或は他の説を聞きて豁然として見生ず。泉水有り、土石に礙へらるるも、壅滞を決却するに濬として川と成るが如し。闇障既に除これば、分別薳去る。一日、十日、綿綿として已まずんば、番番に自ら難し、番番に自ら解す。執する所の処は実にして而も通有り、執せざる所の処は虚にして而して自ら破す。又弁才無滞にして巧みに已が法を説くに言辭を荘厳し、他来つて撃難するに、妙に能く申釈す。

 [11]是の如きの見慧は何れの処従り出づるや。禅の中に観支有るに由るなり。観支は是れ慧数、逸して諸法を観じて自ら止むることを知ること莫し。快馬、汗を著して控制す可からず。若し聴講の人は、禅の見を潤すもの無し。始め分別せんと欲して多く腸を抽きて血を吐く、是に因つて命を制す、見終に成ぜず。若し定力の観を潤すは、逸にして制し難しと雖も腸を抽くことを致さず、多くは見を成ずることを得。

 [12]此観支従り道理を推研して「諸法は因の中に果有り」と謂ふ。此解明利にして、洞に遠意を見、余人に出過す、此を将て他を難ずるに、他、解することを得ざれば「他は妄語なり」と謂ふ。自ら己が義を執して、他、壊すること能はざれば、自ら「是れ実に、無生の真智、得理の妙心なり」と謂ふ。若し細く推尋すれば、但是れ見惑、世智の弁聡なり。八十八使を具足す、顛倒の惑網なり、豈、真解に関らんや。当に知るべし、是れ迦毘羅の見発するの相なり。又、観支に約して推尋するに、諸法は因中に果無し。此見分明にして解心猛利なり。種種に難ずと雖も能く種種に通ず、種種の証を引きて因中に果無きの義を成ず。此を以て他を破するに、他、当ること能はざれば、余は妄語と為す。他来つて已を破するに、已が執、転た成ずれば此を以て実と為し、建言帰趣、唯「因中に果無き」に向ふ。当に知るべし、定んで是れ僧佉の見発するなりと。若し観支に於て、因中亦有果亦無果の法を思惟するは、「大論」に云はく、「有と無と諍ひ、無と有と諍ふなり」と。言ふは、長爪は亦有亦無を執して有無の者と諍ふ、若し此見に入らば、難問するも窮尽すること無し、豈、勒沙婆の見発するに非ずや、其れ六師の計する所同じからず、須く善く諸師の執の意を得て、発する所の見を以て之を勘ふべし、小しく同じからずと雖も大体をして相似せしむ。即ち

 [13]是れ六師の見の発するなり。

 [14]若し観支に於て、必ず我有りと計すれども而も身見の四句の中に在らず、亦三世無為の四句の中にも在らず、而して第五不可説蔵の中に在り。此見を発する時、心解明利にして能く問ひ、能く答へ、神俊快捷にして輿に鋒に当り難く、他を破し已を成じ、決して移る可からざるは、当に知るべし是れ犢子の見発するなり。若し観支に於て、諸法は幻化なりと謂ひて空尽の相を起す、此解虚無にして解心及び諸法の異を見ず、幻化に同如し、唯、此のみ是れの余は悉く妄語なりと計するは、此は是れ方広の見発するなり。

 [15]若し観支に於て、「諸法は無常なり、生滅して住せず」と推す、人我は亀毛兎角の如く得可からず、但実法のみ有り、実法の塵を柝する、若は麤若は細、総じて而も之を観ずるに無常無我なり、此を計して実と為す。発する所の見解は全く毘曇に会ふ。諸の旧聴の人、名相を解すと雖も心路通ぜず、若し此見を発すれば文に於て眛しと雖も而も神解百倍す。其識らざる者は是れ賢聖なりと謂ふ、而も実には非なり。若し是れ賢人は道心鬱然として解と倶に生じ、能く煩悩を伏し方便の位を成ず。今、無常を解すると雖も諍競を増長す、道心沈沒して煩悩転た懺なり、故に知んぬ、是れ有門の見発するなり。若し観支に於て、忽ち空解を発し、謂うて、無常生滅、三仮浮虚なりと言ふ、塵を析して空に入り、種種の方便あり。此見明利にして神用駿疾なり、問難に強うして他を破して己を成ず、是は実、余は妄なるは、此は是れ空門の見発するなり。若し観支に於て一切法亦有亦無と計す、若し此門に入らば難問すること窮尽無し、此は是れ昆勒の意なり、論乃ち度らざれども習の発すること定り無し、是を亦有亦無の見発すと為すなり。非有非無の見も例して亦知る可し。当に知るべし、四門、理に通ずれば則ち正見を成じ、若し方便を失すれば四見の中に堕す、故に仏法内の邪人と名くるなり。

 [16]何ぞ但三蔵の四門、執して邪見を成ずるのみならんや、無量劫より来、亦摩訶衍の通、別、円、学んで、等しく理に入らず、之を保つて是と為すは、四辺を取つて邪見の火に焼かる。今観支に於て、忽ち先解を発す、夢虚空華如幻の有なり、此有の解を作すに、解心明利、或は幻は本実無し実無きが故に空なりと作すに、空解明利なり。或は亦空亦有の解を作すに、譬へば幻化の物は見れども見る可からざるが如し、或は非空非有の解を作すに、是れ幻有に非ず亦幻無に非ず、「中論」の「観法品」に云はく、「若し諸法は有に非ず無に非ずと言はば、是を愚癡論と名く」と。向道の人説を聞きて即ち悟るを実相を得と名く、邪心取著して戯論を生ずる者は即ち判じて愚癡論に属す。是を通教の四門の四見と為すなり。若し観支に於て、「通教の四門の解は是れ界内の幻夢なり、此夢は眠法従り生ず、眠は即ち無明、無明を観じて法性に入る」と思惟するに、亦四門有り。或は言はく、法性は井中の七宝の如し、或は言はく虚空の如し、或は言はく酒酪瓶の如し、或は言はく中道と、此四解明利なるは、即ち是れ別教四門の見発するなり。若し観支に於て忽ち解す、無明転じ、即ち変じて明と為る、明に一切の法を具す。或は謂はく、無明は不可得なり、変じて明と為す、明何ぞ得べけん、此不可得に一切の法を具す。或は謂はく法性の明、亦可得亦不可得、非可得非不可得なりと。一門即ち三門、三門即ち一門、此解明利なり。破する所壊せざること無く、存する所立せざること無く、能く逾え勝るるもの無し、亦復自ら是れ無生忍と謂ふ。此の如く解するは、是れ円教四門の見発するなり。大乗の四門皆見を咸ずる者、実語是れ虚語なり。語見を生ずるが故に、涅槃是れ生死、貪著生ずるが故なり。多く甘露を服し、命を傷けて早く夭す、方便門を失して邪執に堕す、故に内の邪見と称するなり。

 [17]未れ四見は諸見の本を為し、自他は復共無因の本を為す。故に竜樹は自他を破し竟つて「共に二過有り、無因は則ち不可なり」と点ず。自他既に実ならず、沈んや無因をや。本を破すれば末傾く、其意此に在り。若し自他を立つれば共、無因例して立つ。今、大小乗の四門、僻執して見を成ず、但自他の意を明すこと竟らば余は知る可し。若し三蔵は、「大生は小生を生ず、皆無明従り生ず、真に由つて起らず、若し無明滅すれば諸行滅す、真の滅に関らず」と明す。此見を執すれば即ち自性の邪見を成ずるなり、通教は「真は是れ不生なり、不生の故に生じ一切の惑を生ず。若し此惑を滅するは、還つて不生に由る」と明す。此の如く執する者は、是れ他性の邪見なり。界内は惑を以て自と為し、真を他と為す、故に此説を作すなり。界外は法性を以て自と為し、無明を他と為す。別教は「阿梨耶、一切の惑を生ず、縁修の智慧は此無明を滅す、能生能滅、法性に関らず」と計す。此れ他性を執して邪見を生ずるなり。円教は「法性、一切の法を生じ、法性、一切の法を滅す」と論ず。此は則ち自性の邪見を計するなり。前は君弱く臣強く今は君強く臣弱し、余の三も知んぬ可し。

 [18]未れ聞に因つて多く理見を発し、少しく神通章陀を発す。禅に因つては多く神通章陀を発し、少しく理見を発す。理見を発する者は学人を伏し、神通を発するは俗人を伏す。俗人は異を取つて解を取らず、学人は解を取つて異を取らず、章陀を発するは兼て伏す、具に三を発するは最も能く兼ねて伏す。禅に因つて発する者は已に上に説くが如し、聞に因つて発する者は今当に説くべし。行者、禅を得と雖も而も未だ見を発せず、要ず前人を仮つて其心を啓発す、心既に静利なれば忽ち因中有果を聞くに心豁に開悟して洞に邪慧を明らむ、百千重の意、逾深く逾遠し、猶ほ石泉の如し、是を聞に従つて迦毘羅の見を発得すと為す、余の三も亦是の如し。若し第五不可説蔵を聞き、及び幻化を聞くは即ち犢子等の見を発するなり。或は三蔵の四門を聞きて一句を解するに随つて見心豁に起きて深く無常を解し、観心奔踊して復制す可からず、是を聞に因つて有門の見を発すと為す、三門も亦是の如し。若し摩訶衍の十二門を聞きて各門に依つて解を生じ、解心明利にして向の所聞に過ぐ。此解を発すと雖も大の方便に非ず、小賢の中に入らず、又迦毘羅等の邪解に非ず、故に知んぬ、是れ十二門の見を発するなり。

 [19]二に発法の不同を明すとは、迦毘羅外道は直に見解を発し、解心雄猛にして邪慧超殊、推伏すべからず、是れ一切智の法を得るなり。若し直に神通を発するは、水火を蹈履し、隠顕自ら任ず、誰か聖人と謂はざらんや。真諦三蔵の云はく、「震旦国に二種の福有り云云」と、是れ神通の法を得るなり。若し直に韋陀を発すれば、世の文字を知り、諸の典籍を覧て、一たび見て即ち解す、或は竊に三蔵、衍等の経を読むに、眼を絓くれば便ち識る、還つて此知を将て己が法を荘厳す。若し爾らば内外相濫して殆ど識る可からず。今時多く還俗の者有り、王の役を畏憚して外道の中に入り、仏法の義を偸みて竊に荘老を解す、逾に混雑を成じて初心を迷惑す、孰か正、孰か邪、是を韋陀の法を発得すと為すなり。一種の外道に各三法を得、人に約して七を成ず、所謂単三、復三、具足の者一なり、余の二の外道も亦爾なり、合して二十一種得法の不同有り。若し六師に約せば一師に三有り、合して十八と成る、人の得法の多少に約すれば則ち四十二種得法の不同有り。犢子、方広発法の不同も亦、単三、復三、具足の者一有り。

 [20]若し内犢の得法の不同は、一一の門に随つて計する所の道理、精く能く分別す、此は是れ性念処の見を得、亦是れ慧解脱の邪なり、余門も亦是の如し。若は但、若は兼、神通を発得して飛騰縦任なり、此は是れ共念処の見を得、亦是れ倶解脱の邪なり。若し通慧自在にして而も法を説くこと能はず、或は経論を尋ね、或は他の説を聴きて即ち名数に達す、又下は韋陀に通じ、上は大乗に通ず、悉く己が見を用て諸の法門を消し、諸の法門を以て己が見を荘厳す、四門各三種有り、人に約するに亦七意有り。若し通、別、円等の四門、各直に慧解を発し、各但変通し、各内外の経書を知る者、自ら道真と謂ひ、他は高著と謂ふ、今但是を邪見と謂ふ、一門に七有り、合して八十四種と成る云云。

 [21]復次に、前は総じて同異を論ぜり、今は当に一一同異を論ず可し。三外六師は同じく一切智を発すと雖も、或は有の見の一切智、或は無の見の一切智、是の如き等の種種の一切智は所計の処別なり、故に見智則異なり。各拠つて是と為す、余人は則ち非なり。「法華」に云はく、「野干は前に死す」と。此れ利使の発する時、鈍使則ち歿するを明す、故に前に死すと言ふ。又云はく、「諸の大悪獣、競ひ来つて食噉す」と。即ち是れ執する所の一見、能く諸見を噉ふなり。論力が云はく、「一切の諸師皆究竟の道有り、鹿頭第一なり」と。当に知るべし、一切智、各各不同なり、乃至三蔵の四門の一切智、大乗の四門の一切智、各所見を執して、互に相呑噉す、彼彼同じからず、意を以て得べし。次に神通の法の不同とは、神通は禅に因つて而して得、禅を得ること不定なり。外の外道は秖根本に因つて通を発す、或は初、二、三、四なり。所因既に殊なれば、力用も亦別なり。内邪も亦根本に因る、又浄禅に因る、所因に浅深あれば、通用に優劣あり。「大論」に云はく、「所因の処、用通広し。所不因の処には通を用ふること劣なり」と。但禅は是れ事、通は是れ用なり、倶に福徳荘厳に属す。所諍の処に非ざれば、諍ふに理無しと雖も、所因を校桷するに通用悉く異なり。次に韋陀の不同とは、若し外の外道を発する所、読む所、治家済世の書、部帙同じからず、詮述各異なり。発読多きは則ち知ること広し、少きは則ち知ること狹し、慢を長じて自ら大なりとなす、皆文字の不同なるに由るなり。若し内邪発せず、外の外道の文字を読まざる者は、則ち知ること狹し、発読するは則ち知ること広し。三

蔵の文字を発せず読せざる者は、界内の名相を知らず、則ち知見狹し、発読する者は則ち知ること広し。衍を発せず読まざる者は、界内の名相を知らず、則ち知ること狹し、発読する者は則ち知ること広し。当に知るべし、韋陀の法、句句同じからざるのみ。

 [22]復次に不同を結会す、然るに内外の諸邪、倶に理慧、神通、文字に明かに、徳を立て心を調へ、人を尊び己を卑しみ、声誉、物を動ず。菴羅果の生熟は知り難きが如し。天下の好醜、邪正を測ること莫し、今之を判ずること甚だ易し。迦羅の七種の不同の如き、其根本を研に皆邪無の中従り起る。若し因の中に果有りと計するは、一切の法を破す、唯此句存するのみ、諸の神通を作し、時俗を揺動し、人をして因中有果の法を信受せしむ。引く所の韋陀、異家の名相、因中の有果を荘厳す。立つる所の諸行、帰宗趣向、極を指すに因中有果を所執の法と為す。身口意を動かして無量の罪を造ること後に説くが如し。此に由つて験知す、是れ迦毘羅外道なることを。僧怯沙婆、例して亦此の如し、元邪無より起つて終に所執に帰す、犢子も亦是の如し、小大の四門、此に準じて解す可し。之を験むるに元始を以てし、之を察するに帰宗を以てすれば、則も涇・渭流を分ち、菽・麥類を殊にす。何の意ぞ、濫りに荘老を以て仏法に斉うする、邪正既に以て混和す、何ぞ能く大を抜き小に異にせん、自行明かならず、何ぞ他を化することを得ん、師弟倶に堕す。

 [23]第三に過失を明すに二と為す、一には過失を明し、二には並決を明す。

 [24]一に正しく過失を明すとは、天竺の宗のごときは三あり、真丹に亦其義有り。周弘政は三玄を釈して云はく、「易は八卦陰陽吉凶を判ず」と。此れ有に約して玄を明すなり。老子は虚融、此は無に約して玄を明すなり。荘子の自然は有無に約して玄を明すなり。自外の枝派は源祖此より出づ。今且く此に約して以て得失を明す。荘子の「貴賤苦楽、是非得失、皆其れ自然なり」と云ふが如き、若し、自然と言はば是れ果を破せず、先業を弁ぜず、即ち是れ因を破す。礼制仁義、身を衞り国を安んず、若し行ひ用ひざるときは族を滅し家を亡す。但現世に徳を立て、後世の報を招くことを言はず、是を果を破し因を破せずと為す。若し慶後世に流ると言はば、前に并すれば則ち是れ亦有果亦無果なり。

 [25]一の計に約して即ち三行有り、一には有を計して善を行ずるを謂ふ、二には有を計して悪を行ず、三には有を計して無記を行ず。理分応に爾るべし、富貴は企て求む可からず、貪賤も怨み避く可からず、生は欣ぶに足ること無し、死、何ぞ労く畏れんと云ふが如き、此虚心を将て、貴きに居れども憍ること莫く、窮に処すれども悶へざらしむ、貪恚の心息んで一壊抱に安んじ、自然を以て物を訓へ、入理の弄引と作す、此れ其得なり。得に多種有り、若し「常に欲無くして其妙を観る」と言はば、何等の欲か無き。玉璧を忽にし、分相を棄て、耳を洗ひ、牛を還して、自ら高志を守る、此れ乃ち欲界の欲を棄て、上勝出の妙を攀づ、即ち初禅等を以て妙と為す、何を以てか知ることを得ん。荘が云はく、「皇帝、道を問ひて神気を観、身内の衆物を見て、此を以て道と為す」と。通明観の中に初禅の妙を発得するに似如たり。若し「諸苦の因る所、貪欲を本と為す」と言はば、若し貪欲を離るれば即ち涅槃を得、此れ三界の欲無し、此れ減止妙離の妙を得るなり。又法は無染を名く、若し法に染せば是れ涅槃に染す、此染欲無くんば、一道の微妙を得るなり、此諸欲を妙にすれば、欲妙皆無し。汝、何等をか得る、尚ほ欲界の欲、初禅の妙を識らず、沈んや、後の欲妙をや。若し、与へて権に論ぜば、乃ち是れ機に逗じて漸く引き、覆相して欲妙を論ずるなり、言を彰にし了義にして而も説くことを得ず。但跨企の欲を息めて自然の妙を観る、険詖の行既に除こり、仁譲の風斯に在り。此れ皆自然有りと計して而も善を行ずるなり。又自然を計して任運に気を恣にし、亦運御して善に従はず、亦動役して悪を作さず、若し神和を傷くれば自然に会せず。取捨無しと雖も而も是れ無記を行ず、行業未だ尽きず、受報何ぞ疑はん。若し自然を計して悪を作る者は、万物は自然なりと謂ひて、意を恣にして悪を造り、終に自然に帰す、斯れ乃ち欲無きに背きて而も欲を恣にし、妙に違して而も麤に就く。荘周は「仁義を斥けて小盗を防ぐと雖も大盗の意ならず、仁義を掲げて以て其国を謀る」といふが如し。本自然を以て欲を息むるに乃ち自然を掲げて而も悪を為す、此義知んぬ可きなり。

 [26]次に天竺の諸見に約すに、空見最も強し。今之に寄せて以て得失を論ず。未れ空見は三と為す、一には因を破して果を破せず、果を破して因を破せず、二には因果倶に破し、一切法を破せず、三には因果及び一切法を破す、一切法即ち三無為なり。第三の外道と仏法と何の異かある。「大論」に明す、「大小乗の空は、体析を異と為す」と。外道も亦体析す、此れ云何ぞ異なる。外道は邪因縁無因縁従りして、若は析し若は体し、若は畢竟して空ず。仏弟子は愛の因縁に従ふことを知りて、若は析し若は体し、若は畢竟して空ず。有人の言はく、「破の語は体に非ず」と。今明す、「中論」は首尾、破を以て品に題す、破、豈に体に異ならんや。故に此に約して邪正大小を分たず、但「大論」に依つて正因縁を析するは外道に異なり、正因縁を体するは小乗に異なり。若し邪因縁に約して空見を起すは、亦三の行有り、而して多く悪を作る。真に空を観ずる人は、愛より生ずと知りて善尚ほ作さず、豈、沈んや悪をや。空見を起すの人、果報の財位に於て其諍ふ処に非ず、空は是れ其処なり。我が空法に同ずるを親友として愛を生じ、有を讃じて空を破するを怨讎として瞋悩す。人、空を知らずば之を慢ずること土の如し、空心畏れ無くして規矩を存ぜず、情を恣にし、欲を縦にし、正見、威儀、浄命を破す、死すれば皆当に三悪道の中に堕すべし。六師の云はく、「若し慚愧有らば則ち地獄に堕す、若し慚愧無くんば地獄に堕せず」と。背にて鱠し、経を屏にし、天雷に井に尿し、父に逆らひ、母を慢ずること、行路より劇しくして乃ち礙り無しと謂ふ、若し親、疏に異なるは平等に非ざるなり。自行姦悪にして復以て人を化し普く共に非を為す、礼を失すること畜の如し、豈、天下の此を容忍すること有らん耶。礙り無しと謂ふと雖も、敢て主に逆らひ后を慢ぜず、自ら其身を惜むれば則ち身に於て礙り有り。是人直に此見を発す、見転た懺盛にして永く禅を得ず、若し禅を得已れるの見は禅法多く失す、見を発し已れる禅は多くは是れ鬼禅鬼通なり、能く吉凶を記し、又他心を知る。又広く韋陀を尋ねて此見を証成し、人をして信受せしめ、世、出世の善を破するを人狗を噉ふと名く。若し一種破せずんば飽足と名けず、一切法を破すれば見心乃ち飽く、飽を転懺と名く。内に実行無くして但虚しく諍計するは、叫喚して食を求むるが如し。空を執して有と諍ひ、空有相破するを嘊喍と為す、自ら称誉するを嘷吠と為す、他を破するを摣と名け、己を立つるを掣と名く。又狐疑して未だ決せざるを嘊喍と為し、他を稜恐するを嘷吠と為す、家を守る狗の他を畏れしむるが故にして而して吠ゆるが如し。此人、純ら自ら悪を行ず。化他に四有り、一には自ら悪を為し、人を勧めて善を行ぜしむ、二には自ら善を行ずることを挙げて、人を勧めて悪を行ぜしむ、三には自勧倶に悪、四には自勧倶に善。自ら悪にして善を勧むる者は、言はく、「我れ能く理に達すれば悪に於て妨げ無し、汝は是れ浅行なれば須く先に善を習ふべし。化道は応に先に善を以て之を引くべし」と。若し自ら善にして悪を勧むる者は、言はく、「我は是れ化主、和光して善を須ふ、汝は是れ自行正しく応に悪を作すべし」と。自勧倶に悪なる者は、「倶に実道を行ずるが故なり」と。自勧倶に善なる者は、「倶に権道を行ずるが故なり」と。此四、異なりと雖も、皆悪を以て本と為し、業に随つて沈淪す、何の道か従ふ可けん耶、又空見の善を行ずる者は、「空にして善悪無けれども而も須く善を行ずべし。善を行ぜざれば毘紐天瞋り、衆生苦悩す、苦悩するが故に業を成ず、業は過去に由り、現在に報を受く、現の持戒苦行を以て現の悪果を遮すれば則ち漏尽を得」と。若し爾らば、善を須ふるが故に戒を持ち、身を節し、少欲にして足ることを知り、麤衣、草を噉ふ。空の為に行を造つて而も喜怒を生ずれば、空は是れ瞋愛諍計の処なり。若し禅を得て見を発すれば、禅謝して見懺んなり、見已つて禅を得れば乃ち是れ鬼禅鬼通なり、此の如きの空見は自行唯一、化他には四有り。前に例するに自行化他即ち是れ業に随ふ、業に随うて升沈す、何ぞ道に関らん。先に空見を執して善悪を作さず、騰騰として平住す、平住すと謂ふと雖も称すれば愛し毀すれば憂ひ、平平を以て自ら高うす。当に知るべし、平平は煩悩を生ずる処なることを。禅を得て見を発す、前の如し。亦韋陀に通じ、竊に仏教を解し、無記を荘厳し、嘊喍叫喚す。無量の結使、無記従り生ず、自行に唯一、化他に亦四あり。若し禅を発せざれば、業は悪道を牽く。若し禅を発すれば禅に随つて生を受く。若し此業未だ熟さざれば、先世の諸業の強き者が先に牽ぐ。当に知るべし、諸見、未だ惑を伏すること能はざるに、云何が惑断ぜんや。亦有亦無等の得失の相も此に準じて知んぬ可し。