◎如来神力品を釈す。

 [1]如来とは上に釈し竟る、神は不測に名く、力は幹用に名く、不測は則ち天然の体深く、幹用は則ち転変の力大なり。

 [2]此中深法を付嘱せんが為めに十種の大力を現ず、故に神力品と名く。此品より下凡そ八品有り、是れ付嘱流通なり、今品は菩薩の命を受けて経を弘むることを明し、次の品は如来摩頂して付累したまふ。

 [3]文に長行と偈頌有り、長行を三と為す、一に菩薩命を受く、二に仏神力を現じたまふ、三に要を結して持を勧む、初めに経家の敬儀を叙す。

 [4]次に誓を発して経を弘む、経を弘むるに三と為す、一に時節、仏滅後是れなり、二に処所、分身等の国是れなり、三に誓願、但だ命を奉じて他を益するのみに非ず、亦自ら此真浄の大法を願ふ、兼済倶に美なり。

 [5]爾時より下は是れ第二に十神力を現ず、二と為す、初めに所対の衆、次に正しく神力を現ず。

 [6]於文殊等とは迹化の衆なり、旧住とは下方本化の衆なり。一切とは他方より来る者、及び分身の仏に従て来る者なり。 問ふ、但だ下方の発誓を見て文殊等の発誓を見ざるは何ぞや、答ふ、上の文に云く、我土には自ら菩薩有り能く此経を持すと、即ち之を兼ね得るなり。

 [7]十神力とは一に舌相を吐くとは、今経に演ぶる所の開三顧一、内秘外現、廃近顕遠は三世の益物を明す、皆誠諦にして虚しからず、福徳の人は舌は鼻に至り、三蔵の仏は髪際に至り、今は梵天に至る、凡聖の外に出過し、浄天の頂を極む、相既に常に殊なり、説弥々信ずべし。

 [8]二に通身の毛孔は遍く体より光を放つ、周ねく十方を照し、処として朗かならざる無きは、智境罄くることを表はすなり。上には白毫の耀を吐き、始めて東方に在り、七方便の初めて一理を見ることを表はす、今は本門既に竟て一切の光を放ち、一切の土を照し、能く初の因をして等覚に終り仏慧を究竟せしむ、分身の諸仏も亦復是の如し。

 [9]三に謦咳とは、将に語らんとするの状なり、亦是れ通暢の相なり、四十余年真実を隠秘す、今は伸舒することを獲て、遺滞有ること無し、是れ我が出世の大事を通暢するなり、是故に謦咳す。此法を以て諸の菩薩に付し、後世に於て衆生を導利せしめんと欲し、将に斯の事を語りたまはんとす、是故に謦咳す。謦咳は二義を具す、一に咳咳して事了る、一に咳咳して他に付するなり。

 [10]四に弾指とは随喜なり、七方便の同じく円道に入ることを随喜す。円道に智を増し生を損ずることを随喜す、諸菩薩の真浄の大法を持することを随喜し、後世に無上の宝を獲ることを随喜す、此の一の弾指は竪に三世に徹し、横に十方に亘る。

 [11]五に地の六種に動ずとは、初心より後心に至り、六番に無明を動ずることを表はす、今は復一切の人の六根を動じ、清浄を得せしむることを明すなり。

 [12]六に普ねく大会を見るとは、諸仏の道同じきことを表はすなり、而して今よりして後も亦復是の如し。上の五千の起去、三変の被移、既失本心のものは現に益すること能はず、宜しく非滅現滅を以てすべし、諸の菩薩の経を弘むるに従て道を得、仏慧に入ることは今の会の如くして異ること無し、亦未来に機一有ることを表はすなり。

 [13]七に空中の唱声とは、未来に於て教一有ることを表はすなり。

 [14]心に南無帰命して仏の弟子と為るは、未来に於て人一有ることを表はすなり。

 [15]九に遙に散ずる諸物の雲のごとく聚り而して来るとは、未来に行一有ることを表はすなり。

 [16]十に十方通同して一仏土の如しとは理一を表はすなり。

 [17]問ふ、何を以てか十相は現意を表はし復将来の意を表はすことを知らん、答ふ、文に我れ如来の神力を以て此経を嘱累せんが為めの故に猶ほ尽くすこと能はずと云へば、現を表はし将を表はすこと其義明かなり。

 [18] 爾時仏告上行より下、是れ第三に要を結して付嘱す、文四と為す、一に称歎して付嘱す、二に要を結して付嘱す、三に勧奨して付嘱す、四に付嘱を釈す、初めに歎、文の如し。要を結するに四句有り、一切法とは一切は皆仏法なり、此れ一切皆妙名を結するなり。一切力とは通達無礙にして八自在を具す、此れ妙用を結するなり。一切秘蔵とは、一切処に遍して皆是れ実相なり、此れ妙体を結するなり。一切深事とは因果は是れ深事なり、此れ妙宗を結するなり。皆於此経宜示顕説とは、総じて一経を結するに、唯四のみ、其枢柄を撮て而して之を授与す。

 [19]是故汝等より下は三に是れ奨勧付嘱、文の如し。

 [20]所以者何より下は、四に是れ付嘱を釈するなり。上に経巻の所在の処皆応に塔を起つべしと云ふ、 経中の要説、要は四事に在り、道場は上の甚深の事を釈し、得菩提は上の秘蔵を釈し、転法輪は上の一切法を釈し、入涅槃は上の神力を釈す、此の四要は経文を摂し尽くす、故に皆応に塔を起すべきなり。言ふ所の要とは、得菩提は是れ法身、転法輪は是れ般若、入涅槃は是れ解脱なり、三法は秘密蔵を成ず、仏は其中に住したまふ、即ち是れ塔の義なり。阿含に云く、仏の出世したまふに唯四処に塔を起つ、生処、得道処、転法輪、入涅槃なりと。坐道場は是れ法身の生処なり、余は悉く文の如し。

 [21]偈に十六行有り、初めに四行は十神力を頌す。次に十二行は要を結するを頌す。嘱累の下二行は是れ人の功徳なり、総じて四法を頌す。能持則為已見我の下、第二に八行半は別して四法を頌す、初めに一偈半は一切法を頌す、法を持するは即ち仏身を持するなり云云。令我及分身の両偈は神力を頌す、神力は仏を勧めて歓喜せしむ。諸仏坐道場の一偈は秘要を頌す、解す可し。於諸法之義の四偈は甚深の事を頌す、説法して闇を破して一乗に入る、是れ仏の甚深の事なり。後の一偈半は総じて結を頌するなり。

◎嘱累品を釈す。

 [1]嘱は是れ仏の付嘱したまふ所、累は是れ爾を煩はして宜伝せしむ、此れ聖旨に従て名を得るなり。故に嘱累と言ふ。

 [2]嘱は是れ嘱せらるる所を頂受す、累は是れ甘じて而も労せず、此れ菩薩の敬順に従て名を得るなり、故に嘱累と言ふ。

 [3]嘱は是れ如来の金口の嘱したまふ所、累は是れ菩薩の丹心の頂荷なり、此れ授受の合論に従ふ、故に嘱累品と言ふなり。

 [4]是故に如来は躬ら座より起て、手を申べて頂を摩し授くるに得難き法を以てしたまふ、大衆は曲躬合掌して世尊の勅したまふ如く、当に具に奉行すべし、殷勤に授受す、故に嘱累品と名くるなり。

 [5]文二と為す、初めに付嘱、次に時衆の歓喜なり、初め三と為す、一には如来の付嘱、二には菩薩の領受、三には事畢て散ぜよと唱ふ、初めに又三あり、一に正しく付す、二に付を釈す、三に誡付す。

 [6]正しく付すとは、仏は一の権智の善巧の手を以て、三千三百那由他の国土の虚空に側塞する諸の菩薩の実智の頂を摩したまふ、如来は道を授け他を化したまふ、故に権智の手と名くるなり。菩薩は自行して道を受く、故に実智の頂と名くるなり。若し手を申べて頂を摩するは、即ち身の付嘱なり、権智の実智に臨むは即ち意の付嘱なり。而作是言とは即ち口の付嘱なり。

 [7]文に四悉檀の意有り、我於無量劫修是難得之法とは、此れ前仏に従て受学するところを今以て爾に付す、爾は当に彼に授けて三世に継嗣せしむべしとは即ち世界悉檀なり。一心流布は即ち為人悉檀なり。広令増とは即ち対治悉檀なり。益とは郎ち第一義悉檀なり。

 [8]所以者何の下は付を釈するなり。有大慈悲とは如来の室なり。無諸慳悋とは如来の衣なり。亦無所畏とは如来の座なり。仏之智慧とは一切智なり。如来智慧とは道種智なり。自然智慧とは一切種智なり、如来の室中に於て能く衆生に三種の智慧を施す、乃至座中も亦復是の如し。是の如きの施主の故に慳悋無し、故に所畏も無し。汝等当学如来此法とは是れを仏意を釈出して而して之を付嘱すと名く。

 [9]於未来世より下は是れ誡付とは、若し根深く智利なるものには、直に仏慧を説き、若し堪へざるものには、余の深法中に於て示教利喜す、仏慧は是れ深にして而して余に非ず、六方便は是れ余にして而して深に非ず。別教の次第は是れ余亦是れ深なり。汝能く余の深を以て仏慧を助申せば、即ち善巧に仏の恩を報ずるなり、是れを誡付嘱と名くるなり。

 [10]時諸菩薩より下は是れ第二に領受なり。歓喜は意の領受、曲躬低頭は是れ身の領受、倶発声言は是れ口の領受なり、意の領受を兼ね得るなり。如世尊勅とは、大施主如来室の意を領受す。当具奉行とは、無慳悋如来衣の意を領受す。願不有慮とは、無所畏如来座の意を領受するなり、仏既に三たび付したまへば菩薩三たび受けたてまつる、皆文の如し。

 [11]爾時釈迦の下は是れ第三に散を唱ふるなり。多宝は経を証せんが為めの故に来る、今迹本の二門已に訖る、故に須らく敬して故の如くならしめたまふべし。分身は塔を開かんが為めの故に集る、開塔の事了る、故に分身をして本に還らしめたまふ。塔は重ねて開く可らず、故に分身は去て而して現ぜず。塔は猶ほ法を聴くが故に閉て而して尚在り。問ふ、塔若し法を聴かば亦応に閉さざるべし。答ふ、正を証し已るが故に閉づ、流通を聴くが故に在り云云。

 [12]説是語時より下は是れ大衆の歓喜なり。諸仏は化他の事を遂ぐるが為めの故に喜び、菩薩は自行して法を得るが為めの故に喜ぶ、又説人清浄の故に喜ぶは仏是れなり。清浄の法を聞くが故に喜ぶは妙経是れなり。法を聞て証を獲るが故に喜ぶは現在未来に益を得る者是れなり、三事具足す、故に大に歓喜するなり云云。

◎薬王菩薩本事品を釈す。

 [1]観経に曰く、昔し星光と名く、尊者日蔵に従て仏慧を説くを聞き、雪山上の薬を以て衆僧に供養し、願はくば我れ未来に能く衆生の身心の両病を治せんと、世を挙げて歓喜し号して薬王と日ふと、此文は一切衆生喜見の頓に一身を捨て、復両臂を焼き、生を軽んじ法を重んじ、命殞し道存することを明す、昔を挙げて今を顕はす、故に本事品と言ふなり。若し此義を推せば、星光は応に喜見の後に在るべし、薬を捨て誓を発せしより已来薬王と名くるが故なり云云。

 [2]此下五品は皆是れ化他流通なり、今の品は化他の師を明す、唯大法の大に弘宣することを得んことを願ひ、大に衆生の大饒益を獲んことを願ふ、所以に其の神力を竭し其の形命を尽し、殷殷虔虔として、志猶ほ未だ已まず、庶はくは弟子をして法を宗むること師の如くならしめんと、我れ爾に明を伝ふ、爾は復明を伝へんことを、明明已む無きは師の志なり、故に知ぬ、此品は弘法の師を勗むるものなることを。

 [3]下の妙音観音の両品の如きは、他方の大士の命を奉じて弘経することを明す、普現色身には形に定準無し、牛羊の眼もて看る可らず、凡庸の識を以て度る可らず、所聞の処に於て軽想を生ずる勿れ、軽想あれば則ち法は心に染まず、故に知ぬ、下の品は受法の弟子を勗むるものなることを。

 [4]有る人の言く、上の諸品は諸仏の仏事を為し、此品より下は菩薩の仏事を為すなりと、此れ一往のみ、上の品亦菩薩有り、此下の品亦諸仏有り云云。

 [5]今明さく、方便品の開三顕一に円因已に竟る、安楽行品は乗乗の法を明す、寿量は乗の果を明すこと已に竟る、此品の下は乗乗の人を明す、故に十二門論に云く、大乗とは普賢文殊の大人の所乗なりと。

 [6]薬王は苦行を以て乗に乗じ、妙音観音は三昧を以て乗に乗じ、陀羅尼は総持を以て乗に乗じ、妙荘厳は誓願を以て乗に乗じ、普賢は神通を以て乗に乗ず。

 [7]此解を作す者、化他流通に於て義便なり。

 [8]文四と為す、一に問、二に答、三に利益、四に多宝善を称す。問三と為す、一に通じて遊化を問ひ、二に別して苦行を問ふ、三に答を請ふ、文の如し。

 [9]二に答えなり、二と為す、一に但だ苦行を答ふとは、遊化は則ち色身三昧を指し、或は下の二品を指すなり。二に経を歎ず、苦行を答ふる中、先に事本を明し、次に本事を明す。事本三と為す、時節と有仏声聞と国土等を謂ふ、悉く文の如し。

 [10]本事三と為す、一に仏の法を説きたまふ、二に供養を修す、三に結会なり。然るに仏普ねく一切の為めにす、何ぞ独り喜見のみならんや、其れ是れは対揚にして須らく付して流通すべし、今の身子、一に寄せて而して諸と言ふが如きのみ。

 [11]苦行又二あり、一に現在、二に未来なり。現在又二あり、一に修行して法を得、二に作念して恩を報ず。報恩に又二あり、一に三昧力、二に正報の身力なり。身力三と為す、一に焼身、二に仏称歎、三に時節なり。真法供養とは当に是れ内に智観を運んで煩悩の因果を観じ、皆空慧を用ひて之を蕩すべし、故に真法と言ふなり。又若しは身、若しは火、能供所供は皆是れ実相にして、誰か焼き誰か然へん、能供所供は皆不可得なりと観ず、故に真法と名くるなり。

 [12]一切衆生の下は未来の苦行なり、又五と為す、一に王家に生ず、二に本事を説く、三に仏所に往く、四に如来付嘱、五に命を奉じて任持す、悉く文の如し。任持又四あり、一に起塔、二に焼臂、三に利益、四に現報なり、悉く文の如し。

 [13]仏告の下、是れ第三に古今を結会す、又二と為す、一に結会、二に勧修なり。勧修とは、能く一指を然やすは外身を捨つるに勝る、外は軽く内は重し、故に功福異り有り、文に妻子と云ふは外身なり、国城等は外財なり。

 [14]若復有人以七宝より下は経を歎ず、先に能持の者を歎じ、次に所持の法を歎じ、後に持福の深きことを明す。 七宝もて四聖に奉ずるも、一偈を持するに如かず、法は是れ聖の師にして、能く生じ能く養ひ、能く成じ能く栄ふるは法に過ぐるは莫し、故に人は軽く法は重きなり

 [15]宿王の下は第二に所持の法を歎ず、又二あり、初めに法体を歎ず、次に法用を歎ず。川流江河諸水之中海為第一とは、無量義に四水と云ふは教を譬ふ、薬草喩の中の一雲能く雨らすとは説を譬ふ。今更に諸水とは総じて一切教なり、別して四を挙ぐるは乳酪生熟の四味の教を譬ふるなり。此法華教をば醍醐海に譬ふるなり、本地を説き窮るを深と為し、一切処に遍きを大と為し、純ら仏法を明し余法を説かざるを鹹と為し、最為深大とは、其義是の如し。十宝山の名は華厳及び衆経に出づ云云。土黒鉄囲は故らに是れ宝に非ず、十山は宝なりと雖も、或は一或は二、神龍雑居す。須弥は四宝の所成、純ら天の住する所なり。余教に能依の十地、四十心、或は凡、或は賢、或は聖を説き、所依の或は俗、或は真、或は中なるを説くを譬ふ、是れを卑下と為す。此法華経の説く所の諦理は常楽我常なること四宝所成の如し、開示悟入の者の所依なり、是故に此義を最も高上と為す。星月は同じく是れ陰の精にして、倶に夜に於て現ず、星は虧盈無し、月に及ばず、諸経には権智を説けども自在を得ず、此経は権即実、実即権なることを明せば、盈虧相ひ指して不二にして而して二なり、此の如く権智を説くこと余教に勝るなり。日は是れ陽の精、独り能く闇を破す、諸経は実智の惑を破することを明せども、尚ほ実に即して而も権なるに及ばず、那ぞ権に即して而も実なるに並することを得ん、故に知ぬ、此経は実智を明すこと、最も第一たることを。輪王の号令は止だ四域に在り、釈は三十三に斉る、梵の号令は上を総べ下に冠せしむ、余経に三諦三昧を説くも各相収めず、自在を得ざるを譬ふ。此経の所説は、実相を以て真に入らば、声聞の法を決了するに、是れ諸経に王なり。実相もて俗に入らば、一切の治生産業相違背せず、実相もて中に入らば、諸法は仏法に非ること無し。文に云く、一切の学無学及び菩薩の心を発する者の父なりと、其義是の如し。一切凡夫四果支仏第一とは、此れ任運無功用を明すなり、余経は要らず功用に因り、乃ち流れに入ることを得、四果の人の聞思修に因て方に乃ち悟ることを得るが如し、此経は無作の四諦を明して、方便を雑へず、自然に薩婆若海に流入すること、大白牛の肥壯多力にして、其疾きこと風の如くなるが如し云云。声聞支仏菩薩為第一とは、此れ因の第一を明すなり、余経に因を明すは、是れ七方便なり、今経因を明すは方便の外に出づ、故に因の第一なり。如来第一とは、此れ果を明すなり、余経果を明すは近く寂場に在り、此経に果を明すは、遠く本地を指す、故に最第一なり。

 [16]此経能救の下は法用を歎ず、初めには抜苦の用を歎ず、次に十二事もて与楽の用を歎ず、後は結なり、皆文の如し。

 [17]若人得聞より下は持経の福深きことを明す、先に全く経を聞くの福を挙ぐ。次には品を聞くの福を挙ぐるに格量有り、嘱累有り、文の如し。口に香を出すは是れ現報、余は是れ後報なり。得聞是経不老不死とは、此れ須らく観もて解すべし。不老は是れ楽、不死は是れ常なり。此経を聞て常楽の解を得ん、坦然として懐に在り、畏忌する所無し。説是の下は是れ第三の聞品の得益なり、文の如し。第四に多宝は善と称す、文の如し。

 ◎妙音菩薩品を釈す。

 [1]文中に自ら釈す、昔し雲雷音王仏に十万種の妓を奉り、今他土に遊化し音楽自ら随ふ。昔、八万四千の宝鉢を奉じ、今爾許の道器もて眷属囲遶す。

 [2]昔一切衆生語言陀羅尼を得、今は普現色身を以てし、妙音声を以てして遍ねく十方に吼へ、此教を弘宣す、故に妙音品と名く。

 [3]此品には菩薩の難思の力を以て類に随て経を通ずることを明す、物は其の迹を観て其の本を測ること莫し、但だ其の味を甘して其の形を択ぶこと無し、当に其の地を卑ふし自ら其の流れを壅ぐべし、即ち是れ化他門中の第二の意なり。

 [4]文六と為す、一に光を放て東より召す、二に命を奉じて西に来る、三に十方に弘経し、四に二土の得益、五に本国に還帰す、六に品を聞て道を進む。大人相とは大相海なり。

 [5]遍体の毛の功徳は一好の功徳に及ばず、衆好の功徳は一相の功徳に及ばず、諸相は下より上に向ひて展転して相勝るも白毫の功徳に及ばず、白毫の功徳は肉髻の功徳に及ばず、故に是れ大人の相なり。

 [6]此相の業とは孝順師長より起る、今是光を放て本の弟子を召すは中道の経を弘め大機の者を利益せしめんとてなり。白毫は一道清浄より起る、今此光を放つは此法を弘めしめんとなり。

 [7]問ふ、仏の一一の相は皆法界海なり、何が故に勝負ならん。答ふ、他経に明す所は宜しく此説を作すべきのみ。

 [8]問ふ、仏の有縁の弟子は十方に布満す、何が故ぞ東を召し西を説て八方を論ぜざるや。答ふ。此れ表する所有るなり。浄名に云く、日月は何の意ぞ閻浮提を行くや、光明を以て衆の暗暝を除かんと欲す、東は是れ光の始め、西は是れ其の終わりなり、始め有り終り有らば、其れ唯聖人か。未だ発心せざる者には、其をして発心せしめ、未だ究竟せざる者には其をして究竟せしむ。一菩薩既に爾り、諸衆も亦然らん。一方既に爾り、諸方も亦然らん。聖は文を煩にせず、一を挙げて諸を蔽ふ、故に但だ東西を言ふのみ。

 [9]発来の文二と為す、一に発来の縁、二に正しく発来す、来縁を六と為す、一には経家は其福慧を叙す、二に照を被る、三に辞す、四に誡む、五に旨を受く、六に現来の相。福の由を叙すれば、先仏に値ひたてまつること多きに由るなり。甚深智慧とは即ち智慧の荘厳なり、十六三昧は即ち福徳の荘厳なり。光は身を照すと仏を辞すとは、悉く文の如し。仏誡とは、然るに法身の大士は故らに肅めずして而して成ずれども、所将の眷属には、或は未だ達せざる者あらん、故に彼に寄せて而して此に規るのみ。夫れ仏身は理と相称ひ、卑小を見て而して其尊厳を忘るることを得ざらしむ、此れ如来の座に約して誡を為すなり。夫れ師及び弟子は智断具足す、師は既に権を施し、弟子は亦共実を隠す、此れ如来の衣に約して誡を為すなり。夫れ依報の国土は、皆正報の感ずる所なり、如来は慈を以て大千に臨みたまふ、宜しく高を須ひ下を須ふべし、依報を観て而して正報を忽にすること勿れ、此れ如来の室に約して誡を為すなり。此仏の弘経も亦三意を勅す、彼尊誡は約なれども、諸仏の道は同じければなり。旨を受くるとは、如来力は是れ座力、神通力は是れ室力、荘厳力は是れ衣力なり、此れ弘経の大旨、利物の宗要を受く、故に能く此会を動ぜずして十方に遊化するなり。現相の文六と為す、一に蓮花を遣はす、二に問、三に答、四に請、五には功を推す、六に来を命ず、悉く文の如し。問ふ、若文殊の位下くば辞して応に見んことを求むべからず、若し文殊の位高くば相来るに那ぞ忽ちに識らざる。答ふ、同じく一位なりと雖も始中終有り、止だ此一事を知らざるをもて高位を忝すること無けん。又た、衆中に瑞を見て了せざるものあれば、発起して知らしむるなり、故に仏に問ひたてまつるのみ。

 [10]于時より下は是れ発来なり、文六と為す、一に眷属と経歴す、二に相を叙し、台に登る、三に問訊して旨を伝ふ、四に多宝を見んことを請ふ、五に世尊為めに通じたまひ、六に塔中において善と称す、悉く文の如し。

 [11]第三に弘経、二問答と為す、初めに何の善根を種へしかを問ふ。二に是神力有ることを問ひたてまつる。善根は是れ昔を問ふ、神力は是れ今を問ふなり。仏還て二意に答へたまふ、昔楽を献じ器を奉ず、仍て古今を結す、悉く文の如し、此れ其善根を種るの問に答ふるなり。華徳より下は其神力の問に答ふるなり。三十四凡の身、四聖人の身を示すは、結して十法界六道を成ずるのみ。爾時華徳の下は、是れ今何の定に住してか而も能く此の如く自在に利益するかを問ふなり、仏の答文の如し。

 [12]説是品の下は、是れ第四に二土の利益なり。三昧と陀羅尼とは体一にして而して用は異なり、寂の用を三昧と為し、持の用を陀羅尼と名く。又色身の変現を三昧と名け、音声辯説を陀羅尼と名く。上の品に云く、初めに一切色身三昧を得、身を転じて一切語言陀羅尼を得と、当に知るべし、音声猶ほ是れ色法なることを。故に体一にして用は異なりと言ふ。又舌根清浄を陀羅尼と名け、余根清浄を三昧と名く、都て是れ六根清浄の法門なるのみ。

 [13]爾時妙音の下は第五に本土に還るなり。

 [14]地を動じ花を雨らすは菩薩の経歴、尚ほ能く傍に益す、況んや仏前に光を放ち、傍に東方百八万億那由他の土を照すも亦傍に利益を論ずるなり。第六に品を聞て道を進むるなり、文の如し。

◎観世音菩薩普門品を釈す。

 [1]此品は是れ当途の王経なり、講ずる者甚だ衆し、今の解釈は他と同じからず、別に私記両巻有り、略して彼を撮て此題を釈す。

 [2]通有り別有り、通は十双有り、別は五双有り。

 [3]十双とは、一に人法乃至第十智断なり云云。観世音とは人なり、普門とは法なり、人に多種有り云云。法に多種有り云云。前の問答に依て観世音の人を論じ、後の問答に依て普門の法を論ず、人法合して題す、故に観世音普門品と言ふ。

 [4]二に観世音とは大悲抜苦なり、前の問答に依るに百千の苦悩は皆解脱するを得せしめんと。普門とは大慈与楽なり、後の問答に依るに、応に以て得度すべきには而も為めに説法するなりと。

 [5]三に観世音とは智慧荘厳なり、智は能く惑を断ずること、明の時には闇無きが如し。普門とは福徳荘厳なり、福は能く寿を転ずること、珠の宝を雨らすが如き者なり。

 [6]四に観世音とは、観は境に冥す、即ち法身なり、普門とは所応に随て現ず、即ち応身なり。

 [7]五に観世音とは薬樹王の遍体病を愈すに譬ふ、普門とは如意珠王の意に随て与ふる所なるに譬ふ。

 [8]六に観世晋とは、冥に利益を作し見聞する所無く、三毒七難皆離れ、二求の両願皆満すなり。普門とは顕に利益を作し、目に三十三の聖容を観、耳に十九の尊教を聞くなり。

 [9]七に観世音とは、自意に随て実智を照すなり、普門とは他意に随て権智を照すなり。

 [10]八に観世音とは、本際を動ぜざるなり、普門とは迹を方円に任すなり。

 [11]九に観世音とは根本は是れ了因の種子、普門とは根本は是れ縁因の種子なり。

 [12]十に観世音とは、究竟は是れ智徳にして、十四夜の月の光の如くなり。普門とは究竟は是れ断徳にして、二十九夜の月の邪輝の将に尽んとするが如くなり。

 [13]経文の両の問答は無量の義を含めども、略して十双を用ふ、始め人法より終り智断に至るまで品の通名を釈すること其義是の如し。

 [14]別して五隻を論ぜば、一に観なり、観に多種有り、謂く析観・体観・次第観・円観なり、析観とは、色を滅して空に入るなり。体観とは、色に即して是れ空なり。次第観とは、析観より乃し円観に至るなり。円観とは、析観に即して是れ実相、乃至次第観も亦実相なり。今三観を簡んで唯円観を論ず。文に普門と云ふ、観若し円ならずんぱ門を普と称せず、即ち此義なり。

 [15]世とは若し行に就かば先に世、後に観なり、若し言説に就かば先に観、後に世なり、今は説の便なるに従ふ、故に後に世を論ず。世も亦多種あり、謂く有為世・無為世・二辺世・不思議世なり、有為世とは三界の世なり、無為世とは二涅槃なり、二辺世とは生死涅槃なり、不思議世とは実相の境なり。諸世を簡却して但だ不思議世を取るなり。

 [16]音とは機なり、機に亦多種あり、人天の機、二乗の機、菩薩の機、仏機なり。人天の機とは諸悪莫作諸善奉行なり。二乗の機とは生死を厭畏して無為を欣尚するなり。菩薩の機とは、人を先にし己を後にする慈悲仁譲なり。仏の機とは、一切諸法中に悉く等観を以て入る、一切無礙の人にして、一道より生死を出づるなり。諸音の機を揀却して、唯仏音の機を取て、而して応を設く、此機応の因縁を以ての故に観世音と名くるなり。

 [17]普とは周遍なり、諸法は無量なれども、若し普ねきを得ずんぱ則ち是れ偏法なり。若し普きことを得ば則ち是れ円法なり、故に思益に云く、一切法の邪、一切法の正と。

 [18]略して十法に約して普を明す、此意を得已て一切法を類するに是れ普ならざること無し、所謂慈悲普・弘誓普・修行普・離惑普・入法門普・神通普・方便普・説法普・成就衆生普・供養諸仏普なり。

 [19]始め人天より終り菩薩に至るまで皆慈悲有り、然るに普有り不普有り、生法の両縁は慈体既に偏にして、縁を被ること広からざれば普と称することを得ず。無縁は実相と体同じ、其理既に円なれば、慈も遍からざる靡し。磁石の鉄を吸ふが如く、任運に相応す、此の如きの慈悲、遍ねく一切に薫ずるを慈悲普と名く。

 [20]弘誓普とは弘は広なり、誓は制なり、広く要心を制するが故に弘誓と言ふ。弘誓は四諦に約して起る、若し有作・無生・無量の四諦に約せば、法を収むること尽さざれば名けて普と為さず。若し無作の四諦に約せば弘誓普と名くるなり。

 [21]修行普とは、例せば仏の未だ定光仏に値ひたてまつらざる前は、凡そ所修有れども理と合せず、記を得已るよりは事に触れて即ち理、理智の法を歴て而して修行すれば、行として而も普ねからざる無きが如くなり。

 [22]断惑普とは、若し一切智・道種智を用ひて四住塵沙等の惑を断ずれば枝条を却くが如く、断惑普とは名けず。若し一切種智を用ひて無明を断ずれば五住は皆尽き、根本を除くが如くなるを断惑普と名く。

 [23]入法門普とは、道前を修方便と名け、道後の所入を入法門と名く。若し二乗は一心を以て一定に入らば、一心は一を作して衆多なることを得ず。又定の為めに縛せらるが故に普と名けず。歴別の若きも諸地浅深階差ありて亦普と名けず。若し王三昧に入らば、一切の三昧悉く其中に入り、滅定を起たずして諸の威儀を現ず、故に法門普と名く。

 [24]神通普とは、大羅漢の天眼大千を照し、支仏は百仏世界を照し、菩薩は恒沙の世界を照せども、皆境を縁ずること狹く、通を発すること亦偏なり、若し実相を縁じて修すれば、一発一切発にして、相似の神通あること上に説くが如し、況んや真の神通にして而して普に非らんや。

 [25]方便普とは二種あり、道前の方便は修行中に摂す、道後又二あり、一には法体、入法門中に説くが如し、二は化用、今説くが如し、機に逗し物を利し、縁宜に称適して一時円遍なり。復種々に運為すと雖も、法性の実際に於て而して損減無し、是れを方便普と名く。

 [26]説法普とは、能く一の妙音を以て十法界の機に称ふ、其宜類に随て倶に解脱せしむること、修羅の琴の如し、故に説法普と名く。

 [27]成就衆生普とは、一切世間及び出世間の所有の事業、皆菩薩の為す所なり、井を鑿り舟を造り、神農の薬を甞め、雲蔭ひ日照し衆生を利益す、乃至一切の賢聖を利益し、示教利喜して三菩提に入らしむ、是れを成就衆生普と名く。

 [28]供養諸仏普とは、外事の供養を作さば、一時一食一花一香を以て普ねく一切仏に供養す、前無く後無く、一時に等しく供す、一塵の中に於て種々の塵を出すも亦復是の如し。若し内観を作さば、円智は衆行を導く、円智を名けて仏と為す、衆行もて円智を資く、即ち是れ仏を供養したてまつるなり。若し行の余の智を資くるは供養普と名けず、衆行もて円智を資く、是れを供養普と名く。

 [29]門とは従仮入空は、空は通じて而して仮は壅る、従空入仮は、仮は通じて而して空は壅る、偏通は則ち普に非ず、壅るが故に門に非ず。中道は空に非ず仮に非ず、正しく実相に通じ、二諦を双照す、故に普と名く。正しく通ずるが故に門と名く。普門は円かに通ずれば義は則ち無量なれども略して其十を挙ぐ、類して則ち知る可し。

 [30]此品は猶ほ是れ普現三昧化他流通なり。

 [31]文三と為す、一に問、二に答、三に品を聞て益を得。問答に両番あり、初番の問を二と為す。

 [32]初めに経家の叙なり。時とは東方の菩薩を説き竟る、次に西方の菩薩を説く時なり其一東方の生善を説き竟り、次に西方の生善を説く時なり其二東方の断疑を説き竟て次に西方の断疑を説く時なり其三東方の得道を説き竟て次に西方の得道を説く時なり其四。

 [33]無尽意とは大品に明さく、空は則ち無尽なりと。大集に八十無尽門を明す、浄名に云く、夫れ無尽とは尽に非ず無尽に非ず、故に無尽と名くと。三経を総て三観三智を用ひて無尽を釈するなり。意とは智なり、無尽とは境なり、智の境に契ふに単に境に従わば応に無尽と言ふべし、単に智に従わば応に意と言ふべし、境と智と合して称す、故に無尽意と言ふなり一又意とは世出世の本なり二又意とは即ち法界中道なり、故に能く心性を観ずるを名けて上定と為すと言ふ三此れ三智三観に約して名を釈するなり。

 [34]問を興すとは、大経に云く、二荘厳を具して能く問ひ能く答ふと。無尽意は前に慧荘厳を以て観世音の慧荘厳を問ふ、仏は慧荘厳を以て観世音の慧荘厳を答へたまふなり。

 [35]仏の答三と為す、一に総答、二に別答、三に勧持名答なり、総を四と為す、一に人数、二に遭苦、三に聞名称号、四に得解脱なり。

 [36]自ら多苦もて一人を苦しめ、多人の一苦を受け、一人の多苦を受け、一人の少苦を受くるもの有り、今の文の百千万億の衆生は多人なり、諸の苦悩を受くるは多苦なり、多を挙げて少を顕はす、多尚ほ能く救ふ、況んや少苦をや。苦に遭ふは是れ悪、名を称するは是れ善なり、善悪合して機と為るの義なり。而得解脱は是れ応なり、此れは機感の因縁を観世音と名け、亦是れ人法の因縁、乃至智断の因縁を観世音と名く。後去も例して此の如く名を結せよ。文を煩にせず。

 [37]別答三と為す、一に口の機応、二に意の機応、三に身の機応なり、口又二なり、初めに七難を明す、次に結す、火難四と為す、一に持名は是れ善、二に火に遭ふは是れ悪、三に応、四に結なり。一難の中に於て例して三番と為す、一に果報の火は地獄已上初禅已還皆機応を論ず、二に悪業の火は地獄已上非想已還皆機応を論ず、三に煩悩の火は地獄已上等覚已還皆機応を論ず、七難三毒二求も例して皆此の如し。此義既に広し、意を以て知る可し、文に記す可らず。身の機二と為す、初めに二求、次に結なり。求男に立願と修行と徳業有り、求女の文は修行を略す、正しく言わば礼拝は是れ同じ、故に之を略す、願と業と各々異なり、故に重ねて之を出す。結は文の如し。

 [38]是故衆生より下は是れ持名を勧む、三と為す、勧持、格量、結歎なり、上には勝名美徳を述す、形質を辨ぜず、若し帰崇せんと欲せば宜しく名を持すべし、是故に勧持するなり。入大乗論に云く、法身は唯一にして応色は則ち多し、六十二億の応を格するに等しく一の法身なりと。智者の云く、円人は唯一なれども、偏人は則ち多し、六十二億の偏の菩薩を格するに等しく一の円の菩薩なりと。

 [39]第二番の問三と為す、云何遊は身を問ふ、云何説は口を問ふ、方便は意を問ふ、此れ聖人の三密無謀の権は機に随て滴応するなり。

 [40]仏の答亦三あり、一に別答、二に総答、三に供養を勧む。応以とは方便力に答ふるなり。現身とは其遊を問ふに答ふるなり。説法とは其口を問ふことに答ふるなり、凡そ三十三身十九説法有り云云。成就より下は別を結し総を開す、別には文は広く意は狭し、総答は文は狭く意は広し云云。是故より下は供養を勧む、此中に形を見、法を聞く、故に供養を勧むるなり。初めに勧、次に旨を受く、旨を受くるを六と為す、奉命、不受、重奉、仏勧、即受、結なり。皆文の如し。

 [41]持地より下は是れ聞品の功徳なり云云。無等等とは九法界の心は理と等しきとと能はず、仏法界の心は能く此理に等し、故に無等にして而して等しなり。

 [42]又畢竟の理は是れ無等なり、初めより畢竟の理を縁じて而して発心するに能く理に等し、故に無等等と言ふなり。

 [43]又心と理と倶に得可らず、何物を将て何物に等しくして而して無等等と言ふや、心と理と倶に説く可らず、説く可らずして而して説くは、此心は此理に等しと説く、故に無等等と言ふのみ。

 [44]初めの一は是れ横の釈、次の一は是れ竪の釈、弐の一は非横非竪の釈なり云云。

 ◎陀羅尼品を釈す。

 [1]此に総持と翻ず、総持すれば悪起らず善失せず其一又能遮能持と翻ず、能く善を持し能く悪を遮す其二其三此れ能く辺の悪を遮し能く中の善を持す其四

 [2]衆経に開遮すること同じからず、或は專ら用て病を治すること、那達居士の如し。或は專ら法を護ること、此文の如し。或は專ら用ひて罪を滅すること方等の如し。或は通じて用ひて病を治し、罪を滅し経を護ること、請観音の如し。或は大明呪、無上明呪、無等等明呪は則ち病を治するに非ず、罪を滅するに非ず、経を護るに非ず。若し通方は亦応に兼ぬべし、若し別を論ぜば幸に須らく経に依るべし、教に乖く勿れ云云。

 [3]諸師或は説かく、呪とは是れ鬼神王の名なり、其王の名を称すれば、部落は主を敬ひ敢て非を為さず、故に能く一切の鬼魅を降伏すと其一。

 [4]或は云く、呪とは軍中の密号は号を唱するに相応すれば訶問する所無し、若し相応せざれば即ち執えて罪を治するが如し、若し呪に順ぜざる者は頭は七分に破る、若し呪に順ずれば則ち過失無しと其二。

 [5]或は云く、呪とは密黙して悪を治するに悪自ら休息す、譬へば微賤の此国より彼国に逃げ、訛て王子と称す、彼国の公主を以て之に妻はすに多瞋にして事へ難し、一の明人有り、其国より来る、主往て之を説くに、其人主に語る、若し瞋る時に当ては偈を説け、偈に云く、親無くして他国に遊び一切人を欺誑す、麁食は是れ常の事なり、何ぞ労しく復瞋を作さんと、是偈を説く時、黙然として瞋歇む、後復瞋らず、是主及び一切の人は但だ斯の偈を聞て皆意を知らざるか如し、呪亦是の如し、密黙して悪を遮するも余の識る者無しと其三

 [6]或は云く、呪とは是れ諸仏の密語なり、王の先陀婆を索るに一切の群下の能く識ること有ること無し、唯智臣のみ有て能く之を知るが如し、呪も亦是の如し、秖だ是れ一法に遍ねく諸力有り、病愈へ罪除こり、善生じ道合すと其四

 [7]此義の為めの故に皆本音を存す、訳人翻せざる意は此に在るなり。

 [8]悪世の弘経は喜悩難多し、呪を以て之を護し、道をして流通せしむるなり。

 [9]文四と為す、一に持経の功徳を問ひ、二に甚だ多きことを答ふ、三に呪を以て護らんことを請ふ、四に品を聞て益を得、一に問、文の如し。二に答、格量の本有り、多きやいなやを問ふ、甚だ多しと答へ、功徳を格出す、文の如し。請ふて呪を説くに五番有り、一に薬王、二に勇施、三に毘沙門、四に持国、五に十女なり、薬王四と為す、一に請、二に説、三に歎、四に印なり、下は例して三有り、文の如し。十女五と為す、一に列名、二に請説、三に歎、四に誓、五に印なり。夜又は捷疾鬼と翻ず、羅刹は食人鬼と翻ず、二部は是れ北方の所領の者なり。富単那は熱病鬼なり、吉遮は起尸鬼なり。若しは人、若しは夜又、倶に此鬼有り。毘陀羅は赤色鬼、健陀羅は黄色鬼なり未詳鳥摩勒は烏色鬼なり未詳阿跋摩羅は青色鬼なり、阿梨樹の枝は地に堕つれば、法爾として破れて七片と為る、父母を弑し、僧を破するは是れ三逆罪なり。外国の油は麻を擣て虫を生ぜしめ、合して之を圧す、汁多きことを規て益々肥す、此過尤なり。斗秤は軽く出し重く入るは欺盗の尤なり、近世は小斗をもて出し、大斗をもて入るに、震其背に銘するもの有り、斯の罪も亦軽からざるなり。

 ◎妙荘厳王本事品を釈す。

 [1]此因縁は他経に出づ、昔、仏の末法に四比丘有り、法華経に於て極めて殷重を生じ、秘教を巻舒すと雖も、甘露未だ霑はず、日夜に誠を翹て、晷刻む忘ること無し、歎じて云く、苟も其人に非るか、地は其処に非るか、世間は紛愀にして静散相ひ乖く、直爾に閑を求むるも、尚ほ須らく厭棄すべし、況んや道を崇むることをやと、是に於て契を山林に結んで仏慧を志欣す、幽居の日積て衣糧単罄す、有待煩多し、時として乏しからざること無し。一餐喀々として万里の行を廃す、十旬九飯して雲霄の志を屈して言ふことを得可けんや、其一人の云く、吾等四窮す、尚ほ身を存せず、法当に安くにか寄るべし、君三人は但だ命を以て道を奉じ、朝中を慮ること莫れ。我れ一人は此身力を捨て誓て所須を給せんと、是に於て錫を門閭に振て以て供継を求む、春より冬に至て周て而も復始む、僕の大家に奉ずるが如し、甘苦して喜慍無し、三人は其誠を展ることを得、功円に事辦ず、一世の益無量生に当る。其一人は数しば人間に渉り、屢しば声色に逢ふ。坯器未だ火かずんば護持す可きこと難し。偶たま、王の出づるに、車馬駢闐旌旗噏赫たるに逢て、心を生じ念を動じて彼光栄を愛す、功徳薫修し、念に随て報を受く。人中天上常に王と為ることを得。福は貲らずと雖も亦有限なり、三人は道を得て会して而して議して云く、我れは籠焚を免るは、功は此王に由る、其果報に耽て有為を増長せば、此れより死し已るに復王と為らず、方に火坑に沈み良に救ふ可きこと難し。幸に其れ未だ苦ならざるに正しく開化す可しと。其一人の云く、此王は欲に著して而して復邪見なり、若し愛の鈎に非んば抜く可きに由無し、一人は端正の婦と為り、二は聡明の児と作る可し、児婦の言るは必らず当に従順すべし、如し宜しく化を設けば、果して邪を改むることを獲んと。

 [2]婦とは妙音菩薩是れなり、昔の二子は今の薬王薬上の二菩薩是れなり、昔時の王とは今の華徳菩薩是れなり、所以に白毫もて東に召し、紫台に升て而して西に引く。神呪は経を護り、流通して而して大益あらしむ、四聖の前縁を説くが故に妙荘厳王本事品と名く。

 [3]又妙荘厳とは、妙法の功徳もて諸根を荘厳するなり。

 [4]此王は往日妙法に於て縁有り、道熏じ時熟して諸根は応に浄なるべし。

 [5]生じて未だ獲ずと雖も、其理は必らず臻る、霊瑞感通して嘉名早く立つ、例へば善吉は未だ無諍ならずと雖も、已に空生と号するが如し、故に下の文に云く、清浄功徳荘厳三昧を得と、是義を以ての故に妙荘厳王と名くるなり。

 [6]前の品は呪護を説く、今の品は人護を説く、人護尚ほ爾り、呪護弥々良し、普ねく流通を勧むるなり。

 [7]文六と為す、一に事本を明し、二に双て能所を標す、三に能化の方便、四に所化の得益、五に古今を結会す、六に品を聞て道を悟る、事本は文の如し。

 [8]彼仏法中の下は、第二に双て能所を標す、所化の一人と能化の三人、倶に其の名を出す、別して二子の福慧の六度四弘を顕はす、余経に此れを指して十波羅蜜と為すは横の法門なり、三十七の助道は竪の法門なり。余経には正道と為し、行々を助道と為す、今の経は十度を指して正と為し、此れは是れ助道と呼ぶなり。禅度の中には具に三昧有り、道品の中にも節々に三昧有り、更に七三昧を標するは広く法門を顕はすのみ。時彼仏より下は第三に能化の方便なり、文三と為す、一に時至、二に論議、三に現化なり。初めに時至とは、彼仏出世して常に正法を宜べたまふ、王に於て縁弱ければ則ち其時に非ず、若し法華を説くは則ち其時なり。文に彼仏将欲引導説法華経と云ふは即ち其義なり。

 [9]第二に論義、文の中、子の母に白す、時至ると、母譲て父を化せしむ、子の邪見の家に出るを怨む、母責めて憂念ぜしむと、悉く文の如し。

 [10]於是二子より下は是れ第三に現化なり、現化は応に十八変なるべし、具に之を釈す可し。

 [11]時父見子より下は、第四に所化の得益なり、文十と為す、一に子を信じて師に伏す、王の邪変の或は一或は二を観れども、狭にして而して且つ陋なりき、子の所作を見て未曾有なりと歎ず、其子を信じて而して其師に伏す、師は是れ誰ぞやと問ひ、我れ亦見んことを願ふ。

 [12]二に父王已に信ず、宮中の八万四千も又熟す、母に白して称慶し、放て出家せんことを願ふ、母亦之を聴す。

 [13]三に重ねて父母を催す。今正しく其時なり、仏には値ひ難きが故なり。

 [14]四に化功已に著る、仏は功徳を歎じたまふ。法華三昧とは、一切の法を摂して一実相に帰すること、前に説くが如し。離悪趣とは、一往は三途を以て悪趣と為す、具に論ぜば二十五有、皆真に乖き妄を起せば悉く是れ悪趣なり。今皆之を離す、即ち二十五三昧は二十五有を破するなり。仏集三昧とは、即ち秘密の蔵なり、仏其中に集る、唯仏の行処にして余人に非るなり。

 [15]五に倶に仏所に詣で法を聞て供養し、瑞を見て歓喜す。

 [16]六に仏受記を与へたまふ。

 [17]七に出家して修行す。

 [18]八に二子を称歎す。

 [19]九に仏、行の高きを述ぶ。

 [20]十に仏を歎じ自ら誓ふなり。仏善知識を讃じたまふに、大に義有り。善知識能作仏事とは、此れ則ち外護の善知識なり。示教利喜とは此れ則ち教授の善知識なり、所謂化導令得見仏とは、此れ則ち同行の善知識なり。令入菩提とは此れ則ち実際実相の善知識なり。雑阿含に云く、善知識とは貞良の妻の若しと、此れ即ち外護の義なり。又善知識とは宗親の財の如しと、此れ即ち同行の義なり。又善知識は商主の導の如しと、此れ即ち教授の義なり。又善知識は子の父の懐に臥すが如しと、此れ即ち実際の義なり。

 [21]仏告大衆の下は是れ古今を結会す、先に結会なり。次に結して二菩薩を歎ずるなり。

 [22]説是の下は、品を聞て道を得、文の如し。

◎普賢菩薩勧発品を釈す。

 [1]大論観経には同じく遍吉と名く、此経は普賢と称す、皆漢語なり。梵昔は邲輸颰陀、此には普賢と云ふ。

 [2]悲華に云く、我れ誓はん、穢悪世界に於て菩薩道を行じて厳浄なることを得しめんと。

 [3]我が行は要らず当に諸の菩薩に勝るべしと。宝蔵仏の言く、是因縁を以て、今汝が字を改めて名けて普賢と為せよと。

 [4]此れ即ち三悉檀の意にして、復是れ因縁の解釈なり、又是れ行願をもて名を得るなり。

 [5]由来、念処より四善根に至るまでを通じて称して普賢と為す、別しては世第一法の真に隣り聖に近くに約して之を称して賢と為す、此れは三蔵の中の説のみ。

 [6]今明さく、伏道の頂の其因周遍なるを普と曰ふ、断道の後に極聖に隣せるを賢と曰ふ。

 [7]若し十信は是れ伏道の始めにして、頂に非ず、周に非ず、初聖の初めに隣るは後に非ず極に非ず、乃至第十地も亦周極に非ず、況んや前の諸位をや。

 [8]今論ずらく、等覚の位は衆伏の頂に居す、伏道周遍するが故に名けて普と為す。断道は纔に尽き、較ぶる所幾も無し、終に隣り極に際る、故に名けて賢と為す。釈論に十四夜の月は十五夜の月の如くなるを引くは斯の義明なり。此れ円教の位に約して後位の普賢を釈するなり。

 [9]勧発とは法を恋ふの辞なり、遙に彼国に在り、具に此経を聞くこと始末既に周ねし、自行化他をして永々に已むこと無らしめんと欲す、故に東より西よりして而して来て勧発す。四悉檀の意を具す云云。文に云く、我れ法華経を供養せんが為めの故に、自ら其身を現す、若し我身を見ば甚だ大に歓喜せんと其一。已に我れを見るが故に、転た復た精進して即ち三昧及び陀羅尼を得んと其二。陀羅尼を得るが故に、非人の能く破壊する者有ること無し、亦復女人の為めに惑乱せられずと其三。三千大千世界微塵の菩薩は善賢の道を具すと其四。此の如きの明文、即ち四悉檀なり、而して来て勧発するなり。

 [10]上に流通を判じて、三と為す、十九行の偈より已後三品半は、経力の大なることを挙げて以て流通を勧む。薬王品の下の五品は、菩薩の化道の力大なるを挙げて以て流通を勧む、此一品は普賢の誓願力の大なることを挙げて以て流通を勧むるなり。

 [11]文を分て四と為す、一に発来、二に勧発、三に述発、四に発益なり、初めに経家の発来を叙す、三と為す、一に上供、二に下化、三に修敬なり。

 [12]自在とは理一なり、神通とは行一なり、威徳とは人一なり、名聞とは教一なり。又自在とは常なり、神通とは楽なり、威徳とは我なり、名聞とは浄なり。言説此の如し、一に即して而して四、徳として備らざる無し、自在の義なり。浄力の故に花を雨らす、楽力の故に伎を奏す、神通の故に地を動ず、自在力の故に意に随て而して雨らす、去に随て随て雨らす、動に随て随て奏す。譬へば大龍の飛行して息まざれば、身辺の雲雨は流起して窮り無きが如し。普賢及び眷属は菩薩の身を以て、四徳の力を用て来り四一を勧発す、逕歴する所の処に自行上供す、其事此の如し。

 [13]又与諸天龍より下は、逕歴する所の処に下化利益し、他の宜しき所に随て八部の像を現ず、略して二力を用ふるは堪任する所に随ふなり、其事此の如し。

 [14]三に修敬、身旋、面礼、文の如し。

 [15]歓発二と為す、一に請問勧発、二に誓願勧発なり、問い有り、答え有り、問いとは遙に経を聞き竟て法を恋ふること已むこと無し、遠来の志は志勧発に在り、是故に更に正説を請て自行を勧発し、更に流通を請て化他を勧発す、如来若し許したまはば、二途再び演て光々極り無けん、是故に双請すなり。

 [16]仏の答えは先に総、次に別、三に結なり、別して四法の名を列すること、文の如し。

 [17]其れ既に双べ請す、如来は巧に答へたまふに略して四を挙げ、以て諸を蔽ふ。

 [18]何となれば、四法の要は正通を該括す、何となれば、仏に偏無しと雖も、若し能く悪を遠ざけ善に従ひ、迷に反し正に還り、権の知見を開し仏の知見を顕はさば、則ち聖心に称可して諸仏護念したまはん。若し仏の知見開すれば、則ち般若照明なり、是れ植衆徳本なり、亦是れ入正定聚なり、乱ならず、味ならず、取ならず、捨ならず、亦是れ発救衆生なり。当に知るべし、此四と開権顕実と名は異にして体同じく、無二無別なることを。又仏護念とは、是れ開仏知見なり。植衆徳本は是れ示仏知見なり。発救衆生は是れ悟仏知見たり。入正定聚は是れ入仏知見なり。迹門の要は此の四に収む。又迹あれば則ち本有り、本の開示悟入に従ふが故に迹中の開示悟入有るなり。今迹を開すれば即ち本を顕はす、本迹二無く別無し、四法を以て其正を請するに答ふ、義に於て明かなり。

 [19]四法を以て流通を請するに答ふるに、流通の方は唯三唯四なり。発救衆生は是れ如来の室に入るなり、入正定聚、仏所護念は是れ如来の衣を著るなり、植衆徳本は是れ如来の座に坐するなり、是れ弘宣の要は四に即して而も三なり。発救衆生は是れ誓願安楽行、入正定聚は是れ意安楽行、植衆徳本は是れ口安楽行、護念は是れ身安楽行なり、当に知るべし、後の四は即ち前の四なることを。

 [20]一の答もて其両請に酬ふ、四を挙げて一経に冠罩す、法華の重演、斯の経の再宣、遠来の勧発、其義此の如し。

 [21]三に結とは、如来の滅後に於て必ず是経を得んと。旧云く、能く四法を行ぜば、未来世に於て常に手づから是経を得んと、今謂く爾らず、上の文に云く、諸法実相の義、已に汝等が為めに説くと。又云く、咸く衆生をして仏の知見に開示して悟入せしむと、蓋し法華の正体は能く四法を行ずれば、必らず此解を得ん。解を名けて経と為す、此れ其正を請ふの問を結するなり。若し能く此の解行を運びて他人に伝与すれば、他人は斯の信解を得て初依の人と成る。能く真解を得ば第二第三第四依の人と成る、此れ其流通を請するの問を結するなり、此意を見ずして浪に余説を作さんや。

 [22]白仏の下は第二に誓願勧発なり、文二と為す、一に護人、二に護法なり。護人を六と為す、一に其外難を攘ふ、初めに総じて其の難を攘ふ、故に使無伺求得其便者と言ふ是れなり。次に別して其難を攘ふ、十二の非を挙ぐる是れなり。

 [23]二に其内法を教ふ、凡そ三番の教訓あり、初めに行立して読誦せば、六牙の白象に乗じて其心を安慰す。次に坐して思惟せば復六牙に乗じて其経を教示し、其三昧を与ふるなり。陀羅尼は仮を旋して空に入るなり、百千旋とは空を旋して仮に出るなり。方便とは二を方便道と為し、中道第一義諦に入ることを得るなり。後に三七に一心に精進せば復六牙に乗じ示教利喜し呪を説く、文の如し。

 [24]三に覆ふに神力を以てす、若しは聞若しは持、神力に非ること莫し、文の如し。

 [25]四に勝因を示す。若し五種法師を能くすれば、即ち三世の仏の所に種と為り、熟と為り、脱と為る、此人は未来の諸仏に同じく脱を得、故に同普賢行と言ふ。此人已に先仏に於て善を植ふ、故に深種善根と言ふ。此人は現仏の為めに熟せらる、故に手摩其頭と言ふ。

 [26]五に近果を示す。但だ能く書写すれば近く忉利に在り、五法師を具すれば次に兜率に在り、文の如し。

 [27]六に総結、是故智者の下是れなり。

 [28]世尊我今神力より下は、是れ第二に誓願護法なり、文の如し。

 [29]第三に述発とは、即ち是れ如来勝を挙げて其劣を述成し、行者を増進して勇鋭して弘宣せしめたまふ、先に護法を述す。云く汝能く是の如くなれば、外に利益多く、内に慈悲を積む。又久劫より已来此の如きの護を作る、我も亦仏の神力を以て是法を守護せん、況んや復汝をやと、文の如し。

 [30]若有人より下は其護人を述す、次第ならずと雖も述成の意足る。当知是人則見釈迦牟尼仏とは、其身を示して法を教ふることを述す。其れ尚ほ我が万徳の果身を見る、況んや汝の因中の六牙の白象をや。其れ尚ほ仏口に従て具足して経を聞く、況んや汝の教ふる所の章句を忘失せんや。其れ尚ほ仏口の為めに讃へられ手もて摩せられ仏衣に覆はる、況んや汝の因人の陀羅尼の覆ふをや。

 [31]不貪著世楽より下は其因を挙ぐるを述す。広く因中に諸の過悪無きを挙ぐ、少欲知足修普賢行とは勝因を述するなり。

 [32]若如来滅後より下は其近果を挙ぐるを述するなり。其人は当に道場に詣て必らず遠果を成すべし、況んや近果をや、亦現世に於て其近果を得て但だ天に生ずるのみにあらざるなり。

 [33]若人軽毀より下は、其能く外難を攘ふを述す。仏は広く毀者の罪を示し、過を知て必らず改め、相ひ悩乱せざらしめたまふ、但だ持経者の難を滅するのみに非ず、亦乃ち毀者の福の生ぜんことを欲したまふ、毀無く難無ければ、彼此安楽なり、曠く済ひて偏無きは慈の至りなり。

 [34]応起遠迎当如敬仏よりは其信者の功徳を結するを述す。

 [35]第四に説是より下は発益の文なり、一に聞品の益なり。旋陀羅尼は是れ初地の位、具普賢道は是れ十地の位なり。

 [36]二には聞経の益なり、大衆の歓喜是れなり。歓喜とは前に説くが如し。此中云何ぞ猶ほ声聞と称するや、乃ち是れ経家の其本位を存するのみ。又経家は其れ是れ大乗の声聞なりと称す、仏道の声を以て一切をして聞かしむること、斯の義弥々顕かなり。

妙法蓮華経文句