[1]大章第五に教相を釈せば、若し余経を弘むるには教相を明さざれども義に於て傷ること無し。若し法華を弘むるには、教を明さずんば文義闕くることあり。但だ聖幽隠にして教法弥難し、前代の諸師或は名匠に祖承し、或は思ひ神衿より出づ。阡陌縦横なりと雖も、孰れか是なることを知ること莫し。然るに義は双び立せず、理は両つながら存すること無し。若し深く所以ありて、復た修多羅と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず。南嶽大師は心に証する所あり、又た経論を勘同して仏語に聿遵す。天台師は述して従ひ用ふ。略して教を明すに五と為す、一には大意、二には異を出し、三には難を明し、四には去取、五には判教なり。

 [2]大意とは、仏は無名相の中に於て名相を仮りて説きたまふ。余の経典を説くは、各縁に赴きて益を取らしむるなり。華厳の初に円・別の機に逗じ、高山を先に照すが如きに至つては、直ちに次第不次第の修行、住上地上の功徳を明して、如来説頓の意を辨ぜず。若し四阿含を説くは、増一には人天の因果を明し、中には真寂の深義を明し、雑には諸の禅定を明し、長には外道を破す。而も通じて無常を説き、苦を知つて集を断じ、滅を証せんとして道を修せしむれども如来の曲巧施小の意を明さず。諸の方等の若きは折小弾偏・歎大褒円・慈悲行願・事理殊絶なれども、並対訶讃の意を明さず。般若の若きは、通を論ずるときは則ち三人同じく入り、別を論ずるときは則ち菩薩独り進む。広く陰入に歴て尽浄虚融すれども、亦た共別の意を明さず。涅槃の若きは後に在りて略して三修を斥ひ、麁五昧を点ずれども、亦た委しく如来置教の原始結要の終りを説かず。凡そ此の諸経は皆是れ他意に逗会し、他をして益を得せしむ。仏意を譚ぜず、意趣何くにか之かん。今経は爾らず。是の法門の網目を絓て、大小の観法・十力・無畏・種種の規矩は皆な論ぜざる所なり。前の経に已に説くが為の故なり。但だ如来布教の元始、中間の取与を論じて、漸頓時に適ふ。大事の因縁、究竟の終訖、説教の綱格、大化の筌罤なり。

 [3]其の宿殖淳厚たる者は、初に即ち頓を与へて、直ちに菩薩の位行功徳を明し、言は小に渉らず。文に云はく、「始め我身を見、我が所説を聞きて即ち皆な信受して如来の慧に入る」と。其の堪へざる者には、其の無量の神徳を隠して貧所楽の法を以て方便附近して語りて勤作せしむ。文に云はく、「我れ若し仏乗を讃せば、衆生は苦に没在せん」と。此の如きの人は、応に此の法を以て漸く仏慧に入るべし。既に道を得已れば宜しく弾斥を須ふべし。即ち方等の大を以て小を破するが如し。文に云はく、「苦切に之を責め已つて、示すに繋くる所の珠を以てす」と。若し通を兼ぬるに宜しきには、半満をもつて洮汰す。大品に相著を遣蕩して、其の宗途を会するが如し。文に云はく、「衆人を将導して嶮道を過ぎんと欲す」と。此の難を過ぎ已つて、之を定むるに子父を以てし、之に付するに家業を以てし、之を払ふに権迹を以てし、之を顕はすに実本を以てす。当に知るべし、此の経は唯だ如来設教の大綱を論じて微細の網目を委しくせざることを。譬へば、算者の初めに下し後に除き、大数を紀定して斗斛を存せざるか如し。故に無量義に云はく、「無量義とは一法より生ず」と。則ち一仏乗に於て分別して三を説くは、此れ算を下すに譬ふ。若し無量を収めて以て一に入れ、三を会して大に帰するは、此れ算を除いて唯だ大数を記するを譬ふ焉。

 [4]是の如き等の意は、皆な法身地にして寂にして而も常に照す。始めて道樹にして大に逗じ、小に逗ずるに非ず。仏智の機を照すこと、其の来ること久しきなり矣。文に云はく、「唯だ一大事の因縁を以つて世に出現す」と、此れ大を照すこと久しきなり矣。文に云はく、「殷勤に方便を称歎す」と、此れ小を照すこと久しきなり矣。文に云はく、「諸仏の法は久しうして後要らず当に真実を説くべし」と、此れ小を会して大に帰するを照すこと久しきなり矣。信解品に云はく、「師子の床に踞し、子を見て便ち識る」と、此の語は初め大機を鑑みること久しきなり矣。牕牖の中に於て遙かに其の子を見るとは、之れ小機を鑑みること久しきなり矣。密かに二人を遣はして方便附近して語りて勤作せしむとは、此れ三を開することを須ふるを鑑みること久しきなり矣。心相ひ体信して入出に難り無しとは、此れ調斥を鑑みること久しきなり矣。衆物を領知すとは、此れ洮汰を鑑みること久しきなり矣。後に家業を付するは、此れ教所等を鑑みること久しきなり矣。当に知るべし、仏意は深遠にして弥勒も所為の因縁を識らず、況んや下地の二乗・凡夫等を耶。文に云はく、「唯だ我れのみ此の相を知る。十方の仏も亦た然り」と。

 [5]又た已今当の説には、最も難信難解と為す。前の経は是れ已説にして随他意なり。彼には此の意を明さず、故に信じ易く解し易し。無量義は是れ今説にして亦是れ随他の意なり、亦た信じ易く解し易し。涅槃は是れ当説なり、先に已に聞くが故に亦た信じ易く解し易し。将に此の経を説かんとするに疑請重疊なり、具さに迹本の二文の如し。請を受けて説く時は秖だ是れ教の意を説く、教の意は是れ仏意なり。仏意は即ち是れ仏智なり。仏智は至つて深し、是の故に三止三請す。此の如きの艱難は余経に比するに、余経は則ち易し。若し始めて道場に坐し、梵王初めて請ずるに、直ちに請法と言つて亦た疑網往復殷勤すること無し。諸の方等を説くこと、文を観て知んぬ可し。大品を説く時、猶ほ梵請に酬ゆ。唯だ華厳の中に、金剛蔵に請ずるを連類と為す可し。而して人師は偏へに著して、法華に加れたりと謂ひ、小乗の請を致すは菩薩に及ばずと言ふは、此れ一辺を見る耳。身子は衆心を騰げて云はく、「仏口所生の子、合掌瞻仰して待つ、仏を求むる諸の菩薩は大数八万あり、具足の道を聞かんと欲す」と。何んぞ独り是れ一小乗のみならんや。又た弥勒も衆を闔べ決を文殊に求む。解脱月金剛蔵と若為れぞ異なることあらんや。又た本門の中には、菩薩、仏に仏法を説きたまへと請ず。豈に菩薩の菩薩に菩薩の法を説きたまへと請ずるに比せんや。若し此の意に就かば、彼に加ることあらん。若し彼の列衆は十方より雲集す、皆是れ盧舎那仏宿世の知識なり。此の経の雲集地涌の菩薩は、皆な釈尊に従つて発心す。「是れ我が所化なり」と、此れ一往は即ち斉しけれども、而も疎密無きに不ず。又た彼には十方の仏、華厳を説くことを明す。加を被むる者、同じく法慧・金剛蔵等と名け、彼の仏は是れ舎那の分身なりと言はず。今は三変土田一方各四百万億那由他の土の中に満つる諸仏は、悉く是れ釈尊の分身なりと明す。此の意彼に異なり。彼れ華厳を以て勝れたりと為さば、還つて復た一両句を出す、故に毀を興すには非ず。若し其の優劣を較ぶれば、恐らくは旨を失ふことを成ぜん。但だ此の法華のみ権を開して本を顕はす、前後の二文は疑ひ多く請倍す。余経に比せず。秖だ深く仏教を論じ妙に聖心を説き、近く円因に会ひ遠く本果を申べんが為なり。所以に疑請已まず。

 [6]若し能く精しく教相を知らば、則ち如来の権実の二智を識らん。教意甚深なること、其れ略して是の如し。

 [7]二に異解を出さば、即ち十意と為す。所謂る南三北七なり。南北の地は通じて三種の教相を用ふ、一には頓、二には漸、三には不定なり。華厳は菩薩を化せんが為なり、日の高山を照すが如きを名けて頓教と為す。三蔵は小乗を化せんが為に先に半字を教ふ、故に有相教と名く。十二年の後に大乗の人の為に五時の般若乃至常住を説くを無相教と名く。此等は倶に漸教と為すなり。別に一経あり、頓・漸の摂に非ずして而も仏性常住を明す。勝鬘・金光明等是れなり。是を偏万不定教と名く。此の三意は通途に共に用ふるなり。一に虎丘山の笈師は頓と不定とを述することは前旧に殊ならざるも、漸を更に三と為す。十二年の前に三蔵の見有得道を明すを有相教と名け、十二年の後より斉つて法華に至つて見空得道を明すを無相教と名け、最後に双林に一切衆生の仏性・闡提作仏を明すを常住教と名くるなり。二に宗愛法師は、頓と不定とは前に同じ。漸に就て更に四時教を判ず、即ち荘厳の具師の用ふる所なり。三時は前に異ならず、更に無相の後、常住の前に於て法華に三を会して一に帰し、万善悉く菩提に向ふを指して同帰教と名くるなり。三に定林の柔・次の二師及び道場の観法師は頓と不定とを明すこと前に同じ。更に漸を判じて五時教と為す、即ち開善・光宅の用ふる所なり。四時は前に異ならず、更に無相の後、同帰の前に約して浄名・思益の諸の方等経を指して褒貶抑揚教と為す。四に北地師も亦た五時教を作る、而して提謂波利を取りて人天教と為し、浄名・般若を合して無相教と為す。余の三は南方に異ならず。五に菩提流支は、半満教を明す。十二年の前は皆是れ半字教、十二年の後は皆是れ満字教なり。六には仏駄三蔵の学士光統の辨ずる所の四宗を以て教を判ず。一には因縁宗なり、毘曇の六因四縁を指す。二には仮名宗なり、成論の三仮を指す。三には誑相宗なり、大品・三論を指す。四には常宗なり、涅槃・華厳等の常住仏性本有湛然を指すなり。七に有師は、五宗教を開す。四義は前に異ならず、更に華厳を指して法界宗と為す。即ち護身の自軌大乗の用ふる所なり。八に有人、光統を称して云はく、四宗は収めざる所あれば更に六宗を開す。法華の万善同帰、諸仏法久後要当説真実を指して名けて真宗と為す。大集の染浄倶に融じ法界円普するを名けて円宗と為す。余の四宗は前の如し、即ち是れ耆闍の凛師の用ふる所なり。九に北地の禅師は、二種の大乗教を明す。一には有相大乗、二には無相大乗なり。有相とは華厳・瓔珞・大品等に階級十地の功徳行相を説くが如し。無相とは楞伽・思益に真法には詮次無く、一切衆生即ち涅槃の相の如きなり。十に北地の禅師は、四宗・五宗・六宗・二相・半満等の教に非ず、但だ一仏乗にして二も無く亦た三も無し。一音をもつて法を説くに類に随つて異解す。諸仏は常に一乗を行ず、衆生は三を見るも、但だ是れ一音の教なり。異解を出すこと竟んぬ。

 [8]三に難を明すとは、先に南地の五時を難ず。其の義成ぜざれば、余の四時・三時も例して壊すべし。若し十二年の前を有相教と名くと言はば、成実論師自ら己が論を誣ふるなり。論に云はく、「我れ今正しく三蔵の中の実義を明さんと欲す、実義とは謂ゆる空是れなり」と。空は無相に非ず耶、三蔵は十二年の前に非ず耶。又た阿含の中に説かく、「是れ老死、誰か老死する、二皆な邪見なり」と。是れ老死無きは即ち法空、誰の老死無きは即ち生空なり。三蔵の経の中自ら二空を説く、二空は豈に無相に非ずや。又た釈論に云はく、「三蔵の中には法空を明して大空と為し、摩訶衍の中には十方空を明して大空と為す」と。既に法空を以て大空と為す、即ち大無相なり。又た成道六年に即ち殃掘摩羅経を説き、空を明すこと最も切なり。此れ無相に非ずんば誰か是れ無相なる耶云云。又た大論に云はく、「得道の夜より泥洹の夜に至るまで常に般若を説く」と。般若は即ち空慧なり。復次に十二年の前を有相教と名けば、得道とせんや不得道とせんや。若し得道ならば則ち成論に乖く。論師の云はく、有相の四諦は是れ調心の方便なり、実に道を得るに不ず。須らく空平を見て乃ち能く道を得べしと。既に有相と言ふ、那んぞ忽ちに道を得ん。若し道を得ずんば、此の教を用ふることを為んや。又た拘隣如の五人は最初に仏法に於て寂然として声字無く、真実の知見を獲と。最初の言は豈に十二年の前に道を得るに非ず耶。又た若し道を得ば、教は無相に同じ。若し道を得ずんば、教は邪説に同じ。又た若し道を得ば、何等の道をか得る。若し空を見る道を得ば、還つて無相に同じ。若し空を見ずして道を得ば、亦た九十五種に同じ。仏道を得るに非ず。有相の教には具さに二過あり云云。

 [9]二に十二年の後を無相教と名くることを難ぜば、空を明し相を蕩かせども未だ仏性常住を明さず、猶ほ是れ無常八十年の仏なり。亦た三を会して一に帰せず、亦た弾訶褒貶無ければ、此れ解すべからず。若し無相と言はば、何の意ぞ無常を蕩かさざる。猶ほ無常あり、何んぞ無相と謂はん。若し仏性法身の常住を明さずと言はば、共般若は仏性法身常等に非ざる可し。不共般若は云何んぞ仏性に非ざらん耶。大経に云はく、「仏性に五種の名あり、亦は首楞厳と名け、亦は般若と名く」と。般若は乃ち是れ仏性の異名なり。何んぞ非と言ふことを得ん。彼れ即ち救ひて言はく、経に仏性と称し亦た般若と名くるは、是れ三徳の般若なり。何んぞ無相の般若に関はらんと。若し爾らば、涅槃の第八に何の意ぞ、「我れ先に摩訶般若の中に於て我と無我と其の性不二なり」と説くが如き、不二の性は即ち是れ真実、実性の性は即ち是れ仏性なりと云ふや。此の如く遙かに指す、明文灼然たり。何の意ぞ非と言ふや。又た涅槃の仏性は秖だ是れ法性常住にして変易す可からず。般若に明さく、実相実際は不来不去なれば、即ち是れ仏にして無生の法なり。無生の法は即ち是れ仏なりと。二義何んぞ異ならんや。故に知んぬ、法性実相は即ち是れ正因仏性なり、般若の観照は即ち是れ了因仏性なり、五度の功徳の般若を資発するは即ち是れ縁因仏性なり。此の三般若と涅槃の三仏性と、復た何んぞ異ならん耶。金剛般若論に云はく、「福は菩提に趣かず、二能く菩提に趣く。余に於ては生因と名け、実に於ては了因と名く」と。実相の了因は能く菩提に趣く、豈に仏性に非ざらんや。但だ名異にして義同じきは、前に分別するが如し。何んぞ釈提婆那民を聞きて帝釈に非ずと謂ふことを得ん。其の謬り此に類す。若し無常八十年の仏説は仏性常住に非ずと言はば、涅槃に亦た云はく、「八十年の仏、背痛して疾あり。娑羅に於て滅に入る。那んぞ忽ちに常を譚じ性を辨ぜん云云。釈論に云はく、「仏に生身と法身とあり、生身は人法に同じく寒熱病患馬麥乞乳あり、法性身の仏は光明無辺色像無辺なり。尊持の身は猶ほ虚空の如し、法性身の菩薩の為に法を説く。聴法の衆、尚ほ生死の身に非ず」と。何に況んや仏をや。釈論に云はく、「又た生身の仏は寿則ち有量、法身の仏の寿は則ち無量なり」と。豈に無常八十年を以て法身に加ふ可けん耶。小乗の中にも法身尚ほ其れ滅せずと云ふ。均提沙弥の憂悩するが如き、仏、問ふ、汝が和尚の戒身滅するや不や。答へて言はく、不なりと。乃至解脱知見滅するや不や。答へて言はく、不なりと。何に況んや、般若の法身にして而も無常と言はん。若し般若に三を会すること無し言はば、何んが故ぞ問住品に、「諸の天子、今未だ三菩提心を発せざる者も応に当に発すべし」と言ふや。「若し声聞の正位に入らば、是の人三菩提心を発すること能はず。何を以ての故に、生死の与に障隔を作すが故なり。是の人若し三菩提の心を発せば、我れも亦た随喜せん。所以は何ん、上人は応に上法を求むべし、我れ終に其の功徳を断ぜず」と。若し声聞、上法を求めずんば、何んぞ随喜する所あらん。既に上法を随喜す、即ち是れ三を会するなり。若し般若に弾訶無しと言はば、大品に云はく、「二乗の智慧は猶蛍火の如し、菩薩の一日智慧を学するは日の四天下を照すが如し」と。又た十三巻に云はく、「譬へば狗の大家に従ひて食を求めずして、反つて作務の者に従ひて索むるが如し。当来世の善男女人深般若を棄てて而も枝葉を攀ぢ、声聞・辟支仏の所応行経を取る」と。又た云はく、「象を見んとして跡を観るは、皆な不黠と名く」と。豈に弾訶の更に此より劇しきものあらんや。褒貶無しと謂はん耶。若し般若は是れ第二時の教なりと言つて諸天子の仏に白して、第二の法輪転ずるを見ると云ふを引くは、何れの経か第二を見ざらん。而も独り般若を言はんや。浄名に云はく、「始め道樹に坐して力、魔を降し、甘露滅を得て覚道成ず。乃至説法有ならず亦た無ならず」と。両説相ひ対するに、亦応に是れ第二の法輪転なるべし。法華に亦云はく、「昔し波羅奈に於て四諦の法輪を転ず、今復た更に最上の法輪を転ず」と。涅槃に又た云はく、「昔し波羅奈に於て初めて法輪を転ずるに、八万の天人は須陀洹果を得たり。今此の間の拘尸那城に於て法輪を転ずる時、八十万億の人、不退転を得」と。経経に皆な此の旨あり、亦た応に並びに是れ第二なるべし、何んぞ独り般若のみならん耶。若し十二年の後に無相を明すと言はば、何んぞ二夜常に般若を説くことを得ん。故に知んぬ、無相の過も亦た甚だ衆多なることを云云。

 [10]次に褒貶教は是れ第三時なることを難ぜば、七百阿僧祇と雖も猶是れ無常にして常住を明さず、直ちに是れ弾訶褒揚する而已と。今問ふ、般若を説く時、諸の大弟子皆な転教説法す。悕取せずと雖も咸く以て具さに菩薩の法門を知る。何んぞ訶を被りて茫然として是れ何の言といふことを識らず、何を以て答ふるかを知らざることを得んや。故に知んぬ、褒貶は応に般若の後に在るべからず。第三時に非ざることを。又た弥勒等も亦た屈折せらる、何んぞ但だ声聞のみならん。若し七百阿僧祇と言はば、此れも亦た然らず。其の文に自ら「仏身は無為にして諸数に堕せず」と説く。金剛の体に何の疾何の悩みかあらん、衆生を度せんが為に斯の事を現ずる耳。文に金剛を辨ず。而して人は七百を判ず。涅槃に亦た金剛を辨ず、那こぞ忽ち常住なる。又た云はく、「身を観ずるに実相、仏を観ずるも亦た然り」と。又た、「不思議解脱に三種あり、真性・実慧・方便なり」と。即ち是れ三仏性の義なり。且つ復た「塵労の儔も是れ如来の種」と、豈に正因仏性に非ずや。「癡愛を断ぜずして諸の明脱を起す」と、明は即ち了因の性なり、脱は即ち縁因の性なり。三義宛然なるを是れ無常なりと判ぜば、涅槃の三種の仏性は何んぞ是れ常なることを得ん耶。

 [11]次に第四の同帰教を難ぜば、正しく是れ万善を収束して一乗に入れども仏性を明さず、神通延寿、前は恒沙に過ぎ後は上数に倍すれども亦た常を明さずと。此れ応に爾るべからず。法華に一種の性相、一地の所生を明す。其の説く所の法は皆な悉く一切智地に到る。命章に即ち「仏の知見に開示し悟入」すと云ふ。華厳に仏の智慧を明すも猶ほ菩薩の智慧を帯す、菩薩の智慧は爪上の土の如く、如来の智慧は十方の土の如し。法華には純ら仏の智慧を説く、十方の土の如し。而して常に非ずんば、華厳の爪上の土云何んぞ常住を明さん。又た華厳には始めて道場に坐し初めて正覚を成ずれば、成仏すること太だ近し。法華には成仏の久遠なることを明す、中間・今日は皆な是れ迹なる耳。迹の中に説く所すら而も是れ常と言ふ、本地の教豈に常を明さざらんや。又た無量義経に云はく、「華厳の海空歴劫修行を説けども、未だ嘗て是の如きの甚深無量義経を宣説せず」と。甚深無量義経は已に自ら甚深なり、甚深の経を法華の弄引と為す、豈に常を明さざらんや。若し常住の語少なしと言はば、天子の一語の如きは敕に非ざるべけん耶。文に云はく、「世間の相常住なり」と。又た云はく、「無量阿僧祇劫に寿命無量なり、常住にして滅せず」と。伽耶城の寿命及び数数示現等は是れ応仏の寿命なり、阿僧祇の寿命無量なるは是れ報仏の寿命なり、常住不滅なるは是れ仏法の寿命なり。三仏宛然として常住の義足る。法華論に云はく、「三種の菩提を示現す」と。一には応化仏の菩提なり、所応の見に随つて而も為に示現す。釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からずして、道場に坐して三菩提を得るを謂ふなり。二には報仏の菩提なり、十地満足して常涅槃を得るを謂ふ。文に云はく、「我れ実に成仏してより已来た、無量無辺百千万億那由他劫なり」と。三には法仏の菩提なり、謂はく、如来蔵性浄涅槃は常に清浄不変なり。文に云はく、「如来は責の如く三界の相を知見す、三界の三界を見るが如くならず」と。衆生界即ち涅槃界なるを謂ふ。衆生界を離るるに不ず、即ち如来蔵なり。又た云はく、「我れ敢て汝等を軽んぜず、汝等皆な当に作仏すべし」と、即ち正因仏性なり。又云はく、「衆生をして仏知見を開かしめんが為なり」と、即ち了因仏性なり。又云はく、「仏種は縁より起る」と、即ち縁因仏性なり。法華論に亦た三種の仏性を明す、論に云はく、「唯だ仏如来のみ大菩提を証す」と。究竟じて一切の智慧を満足す、故に大と名く。我れ敢て汝等を軽んぜず、汝等皆当に作仏すべしと言ふは、諸の衆生に皆な仏性あることを示すなり。経論に明拠あり、云何んぞ無しと言ふや。又た涅槃に云はく、「是の経の世に出づること彼の果実の如し。利益する所多し。一切を安楽にし、能く衆生をして如来の性を見せしむ。法華の中の八千の声聞の如き、記莂を受くることを得て大果実を成ず。秋収冬蔵して更に所依無きが如し」と。若し八千の声聞は、法華の中に於て仏性を見ずんば、涅槃に応に懸かに指すべからず。明文信とに験けし、何んぞ労はしく苟くも執せん。又た涅槃の二十五に云はく、「究竟畢竟とは一切の衆生の得る所の一乗なり、一乗とは名けて仏性と為す。是の義を以ての故に我れ一切衆生に悉く仏性ありと説く」と。「一切衆生に悉く一乗あり」と、故に今経は是れ一乗の教なり、涅槃と玄かに会す。且らく涅槃は、猶ほ三乗の得道を帯す、此の経は純一にして無雑なり。涅槃は更に迹を発せず、此の経は本を顕はす義彰かなり。処処に生を唱へ、処処に滅を現ず。未来常住にして三世に物を益す。人衆の焼くるを見れども我土は毀れず、豈に是れ神通延寿滅尽することあらん耶。神通延寿の義を破す云云。

 [12]第五時の教の双林常住、衆生の仏性、闡提の作仏を難ぜば、問ふ、成論師は二諦に依りて義を解す、第五時の教は二諦の摂と為んや不や。若し二諦の摂ならば、諸経と同じ。前の教の二諦猶是れ無常ならば、双林の二諦何んぞ是れ常なることを得ん。若し双林は二諦を出でずして能く別理を照し、別惑を破して是れ常なることを得ば、前の教に明す所の二諦も亦た別理を照し、別惑を破すべし、那んぞ忽ち無常ならん。衆生の仏性、闡提の作仏も例して此の如く難ず。故に知んぬ、理を明すこと前時に異ならざることを。何に拠りてか常住とせん耶。

 [13]頓教を難ずるも此に例して解す可し。実に既に是れ同じ、何に拠りてか頓とせん。権は別異なりと雖も、応に事に従へて大小を判ずべからず。則ち大いに顛倒す云云。次に偏方不定教を難ぜば、謂はく、次第に非ずして別に一縁の為にす。金光・勝鬘・楞伽・殃掘の流の如し。問ふ、殃掘の経は六年の所説なり、次第衆を列ぬること余経より委悉なり。弾斥して常を明すこと余経より分明なり。釈梵四王及び十弟子、乃至文殊皆な訶斥を被る。同聞宛然なり。応に次第に入るべし。而して今判じて偏方と作さんや。浄名も亦是れ弾訶なり、那んぞ引きて次第を為すことを得ん。又た浄名に訶する所の事は往昔に在り、追つて前語を述して以て堪へずと辞す。当に知るべし、十二年の前に已に応に訶を被るべきこと殃掘と同じ。若し殃掘は偏方ならば、則ち浄名は次に非ず。若し殃掘に常を明すは別して一縁の為にすと謂はば、浄名に云はく、「塵労の儔是れ如来の種」と、何んぞ是れ次第の説なることを得ん云云。

 [14]次に其の涅槃の五味に依りて五時教を判ずるを難ぜば、牛より乳を出すを用つて、三蔵十二年の前の有相教を譬ふれば、乳より酪を出すは十二年の後の般若無相教を譬へ、酪より生蘇を出すは方等褒貶教を譬へ、生蘇より熟蘇を出すは万善同帰の法華教を譬へ、熟蘇より醍醐を出すは涅槃常住教を譬ふと。此れ現見に文に乖き、義理顛倒して相生殊に次第ならず。何となれば、経に云はく、「牛より乳を出すは、初め仏より十二部経を出すを譬ふ」と。云何んぞ十二部を以て九部の有相教に対せん耶。一には有相教に十二部無く、二には有相教は仏の初説に非ず。故に応に此を以て対を為すべからず云云。彼れ即ち救ひて云はく、小乗に亦た十二部あり。文を引きて証して云はく、「雪山に忍草あり、牛若し食すれば即ち醍醐を出す。更に異草あり、牛若し食すれば即ち醍醐を出さず」と。故に知んぬ、大小通じて十二部あることを、但だ仏性あると仏性無きとの異なり耳と。今問ふ、縦令ひ通じて十二部あるも、何が故に仏性を明すの十二部を取りて乳教と為さざる耶。大経の第七に云はく、「九部には仏性を明さず、是の人罪無し。大海には唯だ七宝ありて八宝あること無しと言ふが如き、是の人罪無し」と。此に例して言はば、若し十二部に仏性無しといふは、是の人罪を得ん。既に十二部を具すと言ふ、何の意ぞ仏性を明さざらん。即ち得罪の句に堕す、豈に無罪の十二部に会せん耶。若し十二部より修多羅を出し、修多羅を無相般若教に対すと言はば、修多羅は則ち一切の有相無相に通ず。五時皆な修多羅と名く、何を以てか独り無相の般若に対せん。解して云はく、般若の中に直説の義あり、復是れ第二時なり、故に以て之を対すと。若し直説は応に是れ修多羅なるべしと言はば、般若の中に譬説・因縁説・授記説・論義説あり。那んぞ独り是れ直説なることを得ん耶。般若は兼て衆説を具すれども、修多羅を以て名と為せば、余経にも亦た直説あり、何んぞ修多羅に対せざる。若し第二時と言はば、何れの経か第二時に非ざる、已に前に難ずるが如し。修多羅より方等経を出すを用つて褒貶浄名等の教に対せば、浄名は応に大品の後に在るべからざること、已に前に破するが如し云云。方等より般若を出すを用つて法華に対せば、経の文に自ら般若と云ふ、而も曲辨して法華と為す。経文を迴して義に就く、最も意無しと為すべし。涅槃に云はく、「八千の声聞は法華に於て記を受く」と。般若に記を受くと道はず、那んぞ法華を喚んで般若と為すことを得ん。文に乖き旨を失ひ、次第を成ぜざるなり。般若より大涅槃を出すを、彼れ即ち解して云はく、法華より大涅槃を出すと。此も亦た経文に会せず。譬へば很子の如く、又た㑦羊に似たり。

 [15]五時の失、其の過此の如し。其の四時・三時は労はしく更に難ずること無し。南方の教は復た依る可からざるなり。

 [16]今更に三時を用ふることを難ず、義家に云はく、「十二年の後、法華に訖り至るを同じく無相教と名く」と、法華に三を会すれば、般若も亦応に一に帰すべし。若し爾らずんば云何んぞ同じく是れ無相ならん。四時も亦た例して爾なり。

 [17]次に北地の五時の義を難ず。若し提謂に五戒十善を説くと言はば、彼の経には但だ五戒を明して十善を明さず。唯だ是れ人教にして則ち天教に非ず。縦ひ此を以て人天教と為さば、諸経にも皆な戒善を明す、亦応に是れ人天教なるべし耶。又た彼の経に云はく、「五戒を諸仏の母と為す、仏道を求めんと欲せば是の経を読むべし。阿羅漢を求めんと欲せば是の経を読むべし」と。又た云はく、「不死の地を得んと欲せば、当に長生の符を佩し、不死の薬を服し、長楽の印を持すべし。長生の符とは即ち三乗の法是れなり、長楽の印とは即ち泥洹の道是れなり」と。云何んぞ独り是れ人天教なりと言はん耶。又云はく、「五戒は天地の根、衆霊の源なり。天之を持ちて陰陽を和し、地之を持ちて万物生ず。万物の母、万神の父、大道の元、泥洹の本なり。又た四事の本、五陰六衰の本なり。四事は即ち四大なり、四事本より浄、五陰本より浄、六衰本より浄なり」と。此の如き等の意は窮元極妙の説なり。云何んぞ独り是れ人天教のみならん耶。又た提謂長者は不起法忍を得、三百人は信忍を得、二百人は須陀洹を得、四天王は柔順忍を得、龍王は信根を得、阿須輪衆は皆な無上正真道の意を発す。此の得道を観るに、豈に是れ人天教のみならん耶。復次に釈論に法蔵を結集す、初め波羅奈より泥洹の夕べに至るまで凡そ説く所の小乗の法を結して三法蔵と為す。初生より双樹に至るまで凡そ大乗を説くを結して摩訶衍蔵と為す。奈苑の前は小乗の摂にも預からず。何となれば、爾の時未だ僧宝あらず、故に応に提謂を用つて初教と為すべからざるなり。若し提謂は是れ秘密教の一音異解なりと言はば、応に顕露の初に在るべからず。余の四時は南家に同じ、已に前に破するが如し云云。

 [18]次に流支の半満の義を難ず。初め鹿苑三蔵より皆な半の義を明し、般若已去より訖り涅槃に至るまでは皆な満を明すとは、此れ応に然るべからず。得道の夜より常に般若を説く、鹿苑より已来た何んぞ曾て満ならざらん。提謂の時無量の天人、無生忍を得るが如し。成道六年に已に殃掘摩羅を説く。涅槃に云はく、「我れ初め成道するに、恒沙の菩薩来りて是の義を問ふ、汝が如く異なること無し」と。当に知るべし、鹿苑は応に純ら半なるべからざることを。般若より已去の諸経皆な満なりといはば、釈論に云はく、「般若は秘密教に非ず、以て阿難に付す。法華は是れ秘密教なり、諸の菩薩に付す」と。若し同じく是れ満教ならば、何んぞ一は秘、一は秘ならざることを得ん。又若し皆是れ満ならば、応に同じく三を会すべし。又た若し同じく是れ満ならば、生・熟の二蘇は応に同じく是れ醍醐なるべし。醍醐は応に同じく是れ生・熟蘇なるべし。能譬の味既に差別同じからず、所譬の法豈に併せて是れ満ならん云云。

 [19]次に四宗を難ぜば、因縁宗は阿毘曇の六因四縁を指すと謂ふ、若し爾らば成論に亦た三因四縁を明す、一切の諸法皆な因縁の所成なり。因縁の語通ず、何んぞ独り毘曇にのみ在らんや。又た因縁宗は仮名宗に異なり、故に成論に云はく、「見有四諦は是れ調心の法なり、道を得ること能はず」と。既に因縁宗を立つ、何等の道をか得るや。若し小乗の道を得ば則ち仮名宗と同じ。何んぞ別に立つることを須ひん。若し大乗の道を得ば、即ち円常等と同じ、何んぞ別に立つることを須ひん。今別に宗と為るを以て、応に別に一道を判ずべし云云。次に仮名宗を難ぜば、成実論の三仮浮虚を観ずるを指すならんも、乃ち是れ世諦の事法にして彼の論の宗に非ず。彼の論は空を見て道を得れば、応に空を用つて宗と為すべし。又た釈論には三蔵の中の空門を明して、仮名門無し。若し彼の義を指せば、応に彼の宗を用ふべし。既に別に名を立つれば、則ち空を見て道を得るには非ず云云。次に不真宗を難ず。此れ大品の十喩を指して不真誑相と為さば、龍樹は方広を弾じて云はく、「仏の十喩を取りて一切如幻如化無生無滅と説く、般若の意を失すれば外道と同じ」と。云何んぞ他の被弾の義を拾ひて不真宗を立てんや。若し文に幻化を明して仏性常住を辨ぜざるを不真と為すと謂はば、此れ則ち然らず。経に仏性常住を明すこと、已に前に説くが如し。何んぞ但だ此の経のみ幻化を明すのみならん耶。華厳に亦云はく、「如幻忍・如夢忍・心工幻師等」の種種の譬喩あり、涅槃に亦云はく、「諸法は幻化の如し、仏は中に於て著せず」と。絓べて是れ諸経皆な幻化を明す、亦応に是れ不真宗なるべし。若し諸経の幻化は不真宗に非ずんば、何んぞ独り大品のみ苦に誑相とせん。又た常宗に涅槃を指すことを難ず。涅槃の経は何んぞ但だ常のみを明さん。亦た非常非無常、能常能無常双用を明し、八術を其足す。云何んぞ単に常用を取りて宗となし、何んぞ無常用を取りて宗とせざる。単輪隻翼は飛運すること能はず云云。彼れ誑相不真宗は即ち是れ通教なり、常宗は秖だ是れ真宗なれば即ち是れ通宗なりと言はば宗は即ち真・不真に通ず。不真は何の意ぞ宗を没して而も教を用ふる、真宗は何の意ぞ教無くして而も宗を立つるや。宗若し教無くんば、何んぞ真を知ることを得ん。真宗若し宗を没して教あらば、則ち同じく通教と名けん。若し倶に教を没して宗を留むれば、則ち同じく通宗と名けん。若し倶に教を安んぜば、則ち同じく通宗教と名けん。若し不真真を留むれば、則ち通不真宗教、通真宗教と名けん。通不真宗は三乗通修となすべくんば、通真宗も亦応に三乗通修すべきなり。若し此の通は是れ融通の通なりと言はば、通教も亦是れ通真の真なるべし。此れ則ち両名混同して義に別無きなり。彼れ楞伽経を引きて云はく、説通は童蒙を教へ、宗通は菩薩を教ふ。故に真宗を以て通宗と為すなりと。若し爾らば、是れ則ち因縁・仮名・不真皆な是れ童蒙なり、悉く応に宗を立つべからず。覆却並決するに、四宗の名義甚だ便ならず。

 [20]次に五宗を難ぜば、四宗を難ずること前の如し。若し華厳を法界宗と為さば、大涅槃に異なり。涅槃は法界に非ずして但だ常宗と名くと言はば、大経に云はく、大般涅槃は是れ諸仏の法界なり」と。若為れぞ華厳を劣謝せん耶。若し常は法界に非ず、法界は常に非ずといはば、法界は常に非ずんば応に生滅あるべし、常は法界に非ずんば法を摂すること尽くさず。此れ皆な然る可からざるなり。大品に云はく、「一法の法性の外に出づる者を見ず」と、法性は即ち是れ法界なり。又云はく、「一切の法は色に趣く、是の趣過ぎず」と。豈に法界の説に非ずや、而して独り華厳は是れ法界にして、涅槃大品に異なりと言はん耶。

 [21]次に六宗を歎ぜば、四宗は前に難ずるが如し。今、真常両宗を問ふ。真常若し同じくば、何が故ぞ両を開する。真常若し異ならば、倶に妙法に非ず。何となれば、真若し常に非ずんば真は則ち生滅なり。常若し真に非ずんば、常は則ち虚偽ならん。又た真若し常に非ずんば、前の三宗と何んぞ異ならん。若し常真に非ずんば、即ち破壊あるの法ならん。次に円宗を難ぜば、若し大集の染浄円融は涅槃華厳に異なりと言はば、此も亦た然らず。大品に云はく、「色に即して是れ空、色滅して空なるに非ず」と。釈論に云はく、「色は是れ生死、空は是れ涅槃、生死の際、涅槃の際、一にして而も二無し」と。此れ豈に染浄倶に融ずるに非ずや。又た云はく、「一切色欲に趣き瞋に趣き癡諸見に趣く等」と。豈に倶に融ずるの相に非ずや。浄名に云はく、「一切の塵労は是れ如来の種なり、癡愛を断ぜずして諸の明脱を起す。非道を行じて、仏道に通達す」と、此の円融何んぞ大集に異ならん云云。此の六宗五宗皆な四宗に依傍して而も開す。但だ四宗は文無し、或は言はく、頂王経に出づと。経に云はく、「初に因縁の諸法空なることを説き、次に諸子に一乗常住の法を教ゆ」と。諸法空ならば、応に是れ仮名宗なるべからず。一乗常住ならば、応に是れ通教誑相なるべからず。或は言はく、経度らずと。四宗既に爾り、五宗・六宗は四に約して開立す、皆な信用し難きなり。

 [22]次に有相無相大乗教を難ぜば、相・無相は応に単に説くべからず。何となれば、本と真に約して俗を論ずれば、還つて俗に約して真を論ず。一切智人は無為法を以てすれども、而も差別あり。華厳は十地を論ずと雖も、何んぞ曾て法身に約せざらん。楞伽・思益も復た空を論ずと雖も、何んぞ曾て無生忍を説かざらん。若し純ら有相を用ふれば、相は則ち体無し、教何んぞ詮ずる所あらん。亦た道を得ず。若し純ら無相を用ふれば、無相は真寂にして言を絶し相を離る。言語の道断へ心行の処滅す、則ち復た是れ教に非ず。云何んぞ説く可けん。若し是れ教と言はば、教は即ち是れ相、何んぞ無相と謂はん。大品に須菩提問ふて云はく、「若し諸法畢竟じて所有無くんば、云何んぞ二地乃至十地ありと説かん」と。仏、答へて云はく、「諸法は畢竟じて所有無きを以ての故に、則ち菩薩の初地より十地に至るあり。若し諸法に決定の性あらば、則ち一地乃至十地無し」と。故に知んぬ、二種の大乗別説すれば経に乖くことを云云。

 [23]次に一音教を難ぜば、但だ一の大乗のみにして三の差別無しと言はば、秖だ是れ実智にして権智を見ず。若し但だ大乗ならば法華に何が故ぞ、「我れ若し仏乗を讃せば、衆生、苦に没在せん。法を破して信ぜざるが故に、三悪道に堕つ。尋いて時に方便を思ふに諸仏皆な歓喜す」と云はん。故に知んぬ、独り一の大乗経のみに非ざることを。若し純ら是れ一乗ならば、亦応に純ら長者の身なるべし。既に垢衣の体あり、亦た大小教の異なりあり。那んぞ混じて一音なりと判じて方便を失ふことを得んや。若し仏常に一乗を説けども、衆生は三を見ると言はば、此れ則ち衆生は能化、仏は是れ所化なり。仏既に是れ能化ならば、応に能く三乗を説くべし、何んぞ一乗を用ふることを得ん。若し法華は純一なりと言はば、爾る可し。華厳の五天往反も亦た鈍根の菩薩の為に、別の方便を開す。況んや余経を耶。故に知んぬ、一音の教は、但だ一の大車のみありて僕従の方便侍衞あること無し、但だ智慧波羅蜜のみありて方便波羅蜜無きことを云云。

 [24]四に研詳去取とは、実を覈かにするが故に研と言ひ、権を覈らかにするが故に詳と言ひ、法相に適ふが故に去取と言ふ。若し五時をもつて教を明さば、五味の方便の文を得て而も一道真実の意を失す。其の文を得と雖も、配対するに旨を失す。其の文は通じて用ふけれども、其の対は宜しく休むべし。若し十二年の前に有相教を明すと言はば、此れ小乗の一門を得て而も三門を失す。何となれば、三蔵に四門の得道ありて、或は有を見て道を得、阿毘曇の如し。或は空を見て道を得、成実の如し。或は亦有亦空を見て道を得、昆勒の如し。或は非空非有を見て道を得、車匿の如し。故に知んぬ、泥洹真の法宝は、衆生各種種の門を以て入る」と。若し一を挙げて四を標ぜんと欲せば、応に総じて三蔵と言ふべし。若し広く明さんと欲せば、備さに四種を立てん。何の意ぞ偏に有相を存して三を失没せん耶。疑はば後生を誤つて、空有諍を成ぜん。若し三蔵の中の菩薩は、須らく広く四門を学して諸の方便を通ずべし。後に仏を得る時、正遍知と名く。若し但だ有相の教を標せば、唯だ見有得道一門の声聞を得て、全く三門の泥洹に入るの路を失ふ。則ち小乗に於て義闕く。若し但だ有相のみにして秖だ偏に一門を知りて三門を解せざれば、正遍知に非ず。菩薩に於て義闕く。其の闕くること則ち衆し、故に須らく棄つべし。其の得は則ち寡し、唯だ一を存す。若し十二年の後に無相を明すといはば、無相とは、此れ共般若を得て不共般若を失す。共般若に四門あり。如幻如化は即ち有門、幻化即ち無なるは是れ空、幻化有にして而も有ならざるは是れ亦空亦有門、双べて幻化を非するは即ち非空非有門なり。若し般若無相と言はば、秖だ共般若の一空門を得て全く三門を失ひ、亦た七門を失ふ。尚ほ是れ因中の正遍知に不ず、況んや果上の正遍知ならんや。其の失は則ち去り、其の得は即ち取るべし云云。若し第三時に声聞を抑挫し菩薩を褒揚すと言はば、此れ小の一種の声聞を斥ふことを得て全く七種の声聞を失す。顕大の一意を得て、全く諸の偏の菩薩を折挫し、極円の菩薩を褒揚することを得ず。亦た諸の権の菩薩を折挫して実の菩薩を褒揚することを得ず。又た偏円権実の四門を識らず。得る所の処は少く、得ざる処は多し。若し第四時は同帰の教と言はば、唯だ万善同じく一乗に帰するの所を得て、万善同じく一乗に帰するの所を得ず。所とは、即ち仏性同じく常住に帰するに等し。秖だ会三帰一を得て、会五帰一を得ず。会七帰一を得ず。唯だ一に帰するを得て、仏性常住に帰することを得ず。此の如く等の失あり云云。第五時は若し二諦に依りて常住を論ぜば、則ち常住を非す。若し二諦に依らざれば、間然たる所無し。彼れ常を明すと雖も、全く常に非ず無常に非ずして常・無常を双べ用ふるを失す。唯だ四術の一を得て、永く七術を失ふ。復た其の正体を得ず云云。四時教・三時教は文の依る可き無く、実の拠る可き無し。進退取る可き所無し云云。

 [25]北地の五時も亦た文の拠無く、又た実意を失す。其の間の去取、前に類して知んぬ可し。半満の教は実意を得て、方便の意を失す。四宗の教は五味の方便の意を失す、又た実意を失す。五宗、六宗も例して此の如し。二種の大乗教は、権実乖離し、父母乖き離る。導師、云何んぞ生ずることを得ん。権若し実を離るれば、実相の印無し。是れ魔の所説なり。実若し権を離るれば、説示す可からず。一音教は実を得て権を失す。鰥夫寡婦、生活を成ぜず、永く子孫無し。衆家、教を解すること種種不同なり。皆是れ当世の師なり、各各自ら深致ありと謂ふ。時既に流播すれば、義も亦た添雑す。晩賢情執して苟くも諍ひ紛紜たり。所以に上来研難し、次に去取を論じて略大意を知らしむ云云。

 [26]若し其の病を除くは、上に説く所の如し。若し法を除かずんば、之を用ふること則ち異なり。云何んぞ用ふること異なる。有相は則ち具さに四門を用ひ、無相は則ち共・不共の八門を用ひ、褒貶は則ち小を貶し大を褒し偏を貶し円を褒し権を貶し実を褒するを用ひ、同帰は則ち同じく一乗常住仏性究竟の円趣に帰するを用ひ、常住は則ち常に非ず無常に非ず双べて常無常を用ひて二鳥倶遊し八術具足することを用ふ。五味を用ふることは、則ち次第文の如し。下に在りて当に説くべし。提謂波利を用ふるは、亦た止だ是れ人天の乗のみに不ず。半満を用ふるは、則ち五句あり。満と、満を開して半を立つると、半を破して満を明すと、半を帯して満を明すと、半を廃して満を明すとなり。因縁仮名を用ふるは、則ち三蔵の両門と為る耳。誑相を用ふるは、是れ通教の一門なる耳。真を用ふるは、秖だ是れ常、常は秖だ是れ真なり。法界は独り華厳に在るのみに不ず、円宗は偏に大集を指さず。有相無相を用ふるは、有相に約して無相を明し、無相に約して有相を明す。二相ひ離れず。一音を用ふるは、慧あるの方便は解、方便あるの慧は解なり。設ひ其の名を取るも義を用ふること永く異なり云云。

 [27]五に教相を判ぜば、即ち六と為す。一には大綱を挙げ、二には三文を引きて証し、三には五味半満相成し、四には合不合を明し、五には通別科簡し、六には増数に教を明すなり。

 [28]一に大綱に三種あり、一には頓、二には漸、三には不定なり。此の三の名は旧に同じくして、義は異なり云云。今此の三教を釈するに各二解を作る。一には教門に約して解し、二には観門に約して解す。教門は信行の人の為にし、又た聞の義を成ず。観門は法行の人の為にし、又た慧の義を成ず。聞慧具足するは、人の目ありて日光明かに照せば、種種の色を見るが如し。具さには釈論の偈の如し云云。先に教に約せば、華厳の七処八会の説の若きは、譬へば日出でて先に高山を照すが如し。浄名の中には、唯だ薝蔔を嗅ぐ。大品の中には、不共般若を説く。法華に云はく、「但だ無上道を説く」と。又た「始め我身を見、我が説く所を聞きて皆な信受して如来の慧に入る」と。¬若し衆生に遭はば、尽く仏道を教ゆ」と。涅槃の二十七に云はく、「雪山に草あり、名けて忍辱と為す。牛若し食すれば、即ち醍醐を得」と。又た云はく、「我れ初め成仏するに、恒沙の菩薩来りて是の義を問ふ。汝が如く異なること無し」と。諸の大乗経に、此の如きの意義類例して皆な頓教の相と名くるなり。頓教の部に非ざるなり。

 [29]二に漸教の相とは、涅槃の十三に云ふが如き、「仏より十二部経を出し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若を出し、般若より涅槃を出す」と。此の如き等の意は、即ち是れ漸教の相なり。又た始め人天より二乗・菩薩・仏道にいたるも亦た是れ漸なり。又た中間に次第に入るも亦是れ漸なり云云。

 [30]三に不定教とは、此れ別の法無し、但だ頓漸に約するに、其の義自ら明かなり。今、大経の二十七に云ふに依る。「毒を乳の中に置かば、乳即ち人を殺す。酪・蘇・醍醐も亦た能く人を殺す」と。此は過去の仏の所にして嘗て大乗実相の教を聞くを謂ふ、之を譬ふるに毒を以てす。今、釈迦の声教に値はば、其の毒即ち発して結惑の人死するなり。若し提謂波利の如きは、但だ五戒を聞きて法忍を起さず。三百人は信忍を得、四天王は柔順忍を得。皆な長楽の薬を服し、長生の符を佩びて戒の中に住して諸仏の母を見る。即ち是れ乳中に人を殺すなり。酪中殺人とは、智度論に云ふが如し。「教に二種あり、一には顕露教、二には秘密教なり。顕露とは、初転法輪には五比丘及び八万の諸天は、法眼浄を得。若し秘密教には、無量の菩薩は無生法忍を得」と。此は是れ毒、酪に至つて而も能く人を殺すなり。生蘇の中の殺人とは、「諸の菩薩あり、方等大乗教に於て仏性を見ることを得て大涅槃に住す」と。即ち其の義なり。熟蘇の殺人とは、「諸の菩薩ありて、摩訶般若教に於て仏性を見ることを得」と、即ち其の義なり。醍醐の殺人とは、涅槃教の中の如き鈍根の声聞は、慧眼を開発して仏性を見ることを得。乃至鈍根の縁覚・菩薩・七種の方便も、皆な究竟の涅槃に入る、即ち其の義なり。是を不定教の相と名くるなり、不定の部に非ず。

 [31]二に観門に約して義を明さば、一に円頓観は、初発心より即ち実相を観じて四種三昧を修し八正道を行ず。即ち道場に於て仏の知見を開き、無生忍を得。牛、忍草を食はば、即ち醍醐を得るが如し。其の意、具さに止観に在り云云。

 [32]二に漸次観は、初発心より円極の為の故に阿那波那・十二門禅を修す。即ち是れ根本の行なり。故に凡夫は雑血の乳の如しと云ふ。次に六妙門・十六特勝・観練熏習等、乃至道品・四諦観等を修す。即ち是れ声聞の法なり、清浄の乳の如きの行なり。次に十二縁観を修す、即ち是れ縁覚なり。酪の如きの行なり。次に四弘誓願・六波羅蜜を修す。通蔵の菩薩の行ずる所の事理の法なり、皆な生蘇の如きの行なり。次に別教の菩薩の行ずる所の行を修す、皆な熟蘇の如し。故に菩薩は熟蘇の如しと云ふなり。次に自性禅を修して一切禅に入り、乃至清浄浄禅なり。此の諸の法門は能く仏性を見、大涅槃に住して真応具足す。故に醍醐の行と名くるなり。若し的しく菩薩の位に就て五味の義を辨ぜば、上の行妙の中に辨ずるが如し。亦た次第禅門に説くが如し。是を漸次観と名くるなり。

 [33]不定観とは、過去の仏に従つて深く善根を種え、今十二門を修証して豁然として開悟し無生忍を得。即ち是れ毒、乳の中に在りて即ち能く人を殺すなり。若し坐して不浄観・九想・十想・背捨・勝処・有作の四聖諦観等を証して此の禅定に因りて豁然として心開し意解して無生忍を得。即ち是れ毒、酪の中に至りて人を殺すなり。若し人ありて四弘誓願を発し、六度を修し、仮を体して空に入り、無生の四諦観豁然として悟解して無生忍を得。即ち是れ毒、生蘇に至りて人を殺すなり。若し人、六度を修し従空出仮を修し、無量の四諦観を修して豁然として心悟し無生忍を得。是れ毒、熟蘇に至りて人を殺すなり。若し坐禅して中道自性等の禅正観を修し、無作の四聖諦を学し、法華・般舟等の四種三昧を行じて豁然として心悟して無生忍を得ることあり。即ち是れ醍醐の行の中に人を殺すなり。今、信法の両行を辨じて仏法を明すに、各三意を作す。前の諸教に歴るに、一科として而も諸の法師に異ならざるものあること無し。若し禅を修し道を学せんと欲せば、前の諸観に歴て法行の人の為に安心の法を説く。一科として世間の禅師と同じきものあること無きなり。是を略して教観の大意を点じて、大いに仏法を該ぬと名く。

 [34]二に三文を引きて証せば、所謂る方便品・無量義経・信解品なり。方便品に云はく、「我れ始め道場に坐して樹を観じて亦た経行し、三七日の中に於て此の如きの事を思惟す。我が得る所の智慧微妙にして最も第一なり。衆生の諸根鈍なり、云何んぞして度す可き、我れ寧ろ法を説かずして疾く涅槃に入らんと。尋で過去の仏の行ずる所の方便力を念ふに、我れ今得る所の道も亦た応に三乗を説くべし」と。「我れ始め道場に坐する」とは、即ち是れ頓を明すなり。何となれば、兜率より下るに法身の眷属ありて陰雲の月を籠みたるが如し。共に母胎に降るに、胎は虚空の若くにして常に妙法を説く。乃至寂滅道場にして始めて正覚を成じ、諸の菩薩の為に純ら大乗を説く、日の初めて出でて、前に高山を照すが如し。此れ釈迦最初の頓説を明すなり。序品に云はく、「仏、眉間の光を放ちて遍く東方の万八千の土を照し、聖主師子を覩て経法を演説す。微妙第一なり、諸の菩薩を教ゆ」と。次に云はく、「若し人、苦に遭はば為に涅槃を説きて諸の苦際を尽す」と。即ち是れ現在の仏、先に頓、後に漸なり。又た文殊、疑を禅すに、昔仏の亦た爾るを引く。文に云はく、「又た諸の如来の自然に仏道を成ずるを見る。世尊は大衆に在して、深法の義を敷演す」と。次に即ち云はく、「一一諸仏の土は、声聞衆無数なり」と。即ち是れ古仏も頓を先にし漸を後にするなり。又た下方涌出の菩薩問迅するに、仏、答へて云はく、「是の如し是の如し、衆生は度し易し。始め我が身を見、我が説く所を聞きて即ち皆な信受して如来の慧に入る。先に修習して小乗を学する者を除く。是の如きの人、我れ今も亦た是の経を聞くことを得て仏慧に入らしむ」と。即ち是れ釈迦も頓を初にし漸を後にするなり。此の如き等の初頓は、未だ必ずしも純ら法身の菩薩を教へず、亦た凡夫大根性の者あり。即ち両儀あり。当体円頓に悟を得る者は即ち是れ醍醐なり、初心の人は大教を聞くと雖も、始めて十信に入るは、最も是れ初味なり。初は能く後を生ず、復是れ乳に於てす。何となれば、是れ頓なりと言ふと雖も、或は乗戒倶急、或は戒緩乗急なり。此の如きの業生は、自ら致すに由無し、必ず応生に須つて七処八会に引入す。大機の仏を扣くは忍辱草に譬へ、円応の頓説は醍醐を出すに譬ふ。又た頓教の最初に始めて内凡に入るは仍ほ呼んで乳と為す。呼んで乳と為るは、意淡に在らず。初なるを以つての故に、本なる故なり。牛新に生ずれば血変じて乳と為り、純浄にして身に在るに、犢子若し吸へば牛即ち乳を出すが如し。仏も亦た是の如し。始め道場に坐して新に正覚を成ずるに、無明等の血転変して明と為る。八万の法蔵十二部経、具さに法身に在り、大機の犢子、先に乳を感得す。乳を衆味の初と為すは、頓の衆教の首に在るを譬ふ。故に華厳を以て乳と為す耳。三教に分別すれば即ち頓教と名く、亦た即ち醍醐なり。五味に分別すれば、即ち乳教と名く。又た行に約せば、大機、頓を禀けて即ち無明を破し無生忍を得れば行は醍醐の如し。又た此の頓を禀くと雖も、未だ悟入すること能はず。始に初めて行を立つ、故に其の行は乳の如し。若し小根性の人に望むれば、行又た乳の如し。何となれば、大教をもつて小に擬するに、聾の如く瘂の如し。己が智分に非ず、行は凡地に在り。全く生きこと乳の如し。此の義を以ての故に頓教は初に在り、亦た醍醐と名け、亦は名けて乳と為す。其の意見つ可し。次に漸を開せば、仏は本と大乗を以て衆生を度せんと擬す。其の堪へざる者には、尋で方便を思ひて波羅奈に趣き、一乗の道に於て分別して三を説く。即ち是れ三蔵教を開するなり。但だ釈迦の其の無量の神徳を隠して斯の漸化を作すのみに非ず、過現の諸仏も亦復た是の如し。前に引く所の如し。当に知るべし、初頓の後に次に漸を開することを。故に涅槃に云はく、「仏より十二部を出し、十二部より修多羅を出す」と。正しく此の義と相応す。譬へば牛より乳を出し、乳より酪を出すが如し。其の譬違はず。漸機は頓教に於て未だ転ぜず、全く生きこと乳の如し。三蔵の中に転じて凡を革めて聖と為るを乳を変じて酪と為るに喩ふ。即ち是れ次第相生なり、第二時教と為す。濃淡優劣を取つて喩と為るに不ざるなり。方便品の文此に斉る。