[1] 止観明静、前代未だ聞かず。智者、大隋の開皇十四年四月二十六日より。荊州の玉泉寺に於て、一夏に敷揚し、二時に慈霔す。楽説窮まらずと雖も、纔かに見境に至りて法輪転ずることを停め、後分を宜べたまはず。

 [2]然るに流を挹んで源を尋ね、香を聞きて根を討ぬ。論に曰はく、「我が行は師保無し」と。

 [3]経に云はく、「莂を定光に受く」と。書に言く、「生れながらにして知る者は上なり、学ぶは次に良し」と。法門浩妙なり、天真独朗とやせん、 藍よりして而も青しとやせん。行人若し付法蔵を聞かば則ち宗元を識らん。大覚世尊劫を積みて行満じたまひ、六年に渉りて以て見を伏し、一指を挙げて魔を降したまふ。始めは 鹿苑、中は鷲頭、後は鶴林なり。

 [4]法を大迦葉に付す。迦葉は八つに舎利を分ち、三蔵を結集す、法を阿難に付す。阿難は河中にして風三昧に入り、四つに其身を派つ、法を商那和修に付す。修は手より甘露を雨らし、五百の法門を現はす、法を毱多に付す。多は俗に在りて三果を得、戒を受けて四果を得たり、法を提迦多に付す。多は登壇して初果を得、三羯磨して四果を得たり、法を弥遮迦に付す。迦は仏駄難提に付す。提は仏駄蜜多に付す、多は王に三帰を授け、算者を降伏す。法を脇比丘に付す。比丘、胎を出づるに髪白く、手より光を放ちて経を取る。法を富那奢に付す。奢は論じて馬鳴に勝ち、髪を剃りて弟子と為す。鳴は頼吒和羅妓を造る。妓の音無常、苦、空を演べ、聞く者道を悟る。法を毘羅に付す。羅は「無我論」を造るに、論の行はるる処邪見消滅す。法を竜樹に付す。樹は生身を生し竜は法身を成ず。法を提婆に付す。婆は天眼を鑿ちて万の肉眼を施す。法を羅睺羅に付す。羅は鬼名の書を識り外道を降伏す。法を僧佉難提に付す。提は偈を説きて羅漢を試む。法を僧佉耶奢に付す。奢は海に遊び城を見て偈を説く。法を鳩摩羅駄に付す。駄は万騎を見て馬の色を記し、人の名を得て衣を分別す。法を闍夜那に付す。那は重を犯せる人の為に火坑を作り、入れて懺悔せしむるに、坑池となり罪滅す。法を盤駄に付す。駄は摩奴羅に付す。羅は恒河を分ちて二分と為し、自ら一分を化す。法を鶴勒夜那に付す。那は師子に付す。師子は檀弥羅王の為に害せらる、剣を以て斬るに乳を流す。付法蔵の人は、始め迦葉より終り師子まで二十三人、末田地と商那とは同時なり、之を取れば則ち二十四人なり。諸師皆金口の記する所なり、並びに是れ聖人にして能く利益すること多し。昔の王は厩を寺に立てずして、厩を屠に立つ。況んや好世に聖に値ふ、寧ぞ益無からんや。又、婆羅門の髑髏を貨るに、孔達する者、半なる者、不らざる者あり。達する者には塔を起て、礼供して天に生ずることを得と。聞法の要、功徳此の若し。仏、此の益の為に法蔵を付したまふなり。

 [5]此止観は、天台智者、己心中所行の法門を説きたまふ。

 [6]智者生れたまふとき、光室に満ち、目に雙瞳を現じたまふ。法華経懴を行じて陀羅尼を発し、受法の師に代りて金字の般若を講ず。陳隋二国に宗めて帝師と為す。 安禅として化し、位は五品に居したまへり。故に経に云はく、「四百万億那由他の国の人に施すに、一一に皆七宝を与へ、又化して六通を得しむるも、初随喜の人に如かざること百千万倍なり」と。況んや五品をや。文に云はく、「即ち如来の使なり、如来に使はれ如来の事を行ず」と。「大経」に云はく、「是れ初依の菩薩なり」と。

 [7]智者は南岳に師事す。南岳の徳行思議す可からず、十年専ら誦し、七載は方等、九旬は常に坐し、一時に円に証り、大小の法門朗然として洞かに発したまふ。南岳は慧文禅師に事ふ。斉高の世に当つて 河淮に独歩す、法門は世の知る所に非ず、地を履み天を戴きて高厚を知ること莫し。文師の用心は一に「釈論」に依る、論は是れ竜樹の説く所にして、付法蔵の中の第十三の師なり。智者の「観心論」に云はく、「竜樹師に帰命したてまつる」と。験かに知る、竜樹は是れ高祖師なることを。疑ふ者の云はく、「中論は遣蕩し止観は建立す、云何が同じきことを得んや」と。然るに天竺の注論凡そ七十家あり、応に青目を是として而も諸師を非とすべからず。又論に云はく「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く、亦是れ仮名と為す、亦是れ中道の義なり云云」と。

 [8]天台は南岳より三種の止観を伝へたまふ、一には漸次、二には不定、三には円頓なり。皆是大乗にして、倶に実相を縁じ、同じく止観と名くるなり。漸は則ち初め浅く後深し彼梯隥の如し。不定は前後更互す、金剛宝の之を日中に置くが如し。円頓は初後不二にして。通者の空に騰るが如し。三根性の為に三法門を説き、三譬喩を引く。略して説くこと竟りぬ、更に広く説かん。

 [9]漸の初めも亦実相を知る、実相は解し難く、漸次にすれば行じ易し。先に帰戒を修して邪を翻して正に向ひ、火血刀を止めて三善道に達す。次に禅定を修して欲の散網を止め、色無色の定道に達す。次に無漏を修して三界の獄を止め涅槃の道に達す。次に慈悲を修して自証を止め菩薩の道に達す。後に実相を修して二辺の偏を止め常住の道に達す。是れを初浅後深の漸次止観の相と為す。

 [10]不定とは別の階位無く、前の漸、後の頓を約して、更に前、更に後、互に浅、互に深、或は事、或は理なり。或は世界を指して第一義と為し、或は第一義を指して為人、対治と為す。或は観を息むるを止と為し、或は止を照すを観と為す。故に不定止観と名く。

 [11]疑ふ者の云はく、「教と境と名とは同じくして、相は頓爾に異るや」と。然るに同にして而も不同、不同にして而も同なり。漸次の中の六、善悪各三あり、無漏総の中に三あり、凡べて十二の不同あり。多に従つて言を為す、故に不定と名く。此章同じく大乗、同じく実相、同じく止観と名く、何が故ぞ名けて弁差と為すや。然るに同にして不同、不同にして同なり。漸次の中の九の不同、不定の中の四の不同、総じて十三の不同あり。多に従つて言を為す、故に不同と名くるのみ。一切の聖人皆無為の法を以て而も差別有りとは、則ち其の義なり。

 [12]円頓とは初めより実相を縁ず、境に造るに即ち中、真実ならざること無し。縁を法界に繋け、念を法界に一うす、一色一香も中道に非ざること無し。己界及び仏界、衆生界も亦然り。陰入皆如なれば苦の捨つ可き無く、無明塵労即ち是れ菩提なれば集として断ず可き無く、辺邪皆中正なれば道として修す可き無く、生死即ち涅槃なれば滅として証す可き無し。苦無く集無し、故に世間無く、道無く滅無し、故に出世間無し。純一実相にして実相の外更に別の法無し。法性寂然なるを止と名け、寂にして常に照すを観と名く。初後を言ふと雖も二無く別無し。是れを円頓止観と名く。

 [13]漸と不定とは置て論ぜず、今は経に依て更に円頓を明す。甚深の妙徳に了達せる賢首の日ふが如し、「菩薩、生死に於て最初に発心する時、一向に菩提を求め、堅固にして動かす可からず、彼一念の功徳は深広にして崖際無し、如来、分別して説きたまふこと劫を窮むとも尽すこと能はず」と。此菩薩は円の法を聞き、円の信を起し、円の行を立て、円の位に住し、円の功徳を以て而も自ら荘厳し、円の力用を以て衆生を建立す。云何が円の法を聞く。生死即法身なり、煩悩即般若なり、結業即解脱なりと聞くなり。三の名有りと雖も而も三の体無し、是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ、是三即ち一相なり、其実は異ること有ること無し。法身究竟すれば般若解脱も亦究竟す。般若清浄なれば余も亦清浄なり。解脱自在なれば余も亦自在なり。一切の法を聞くも亦是の如し、皆仏法を具して減少する所無し。是を円の法を聞くと名く。云何が円の信。一切の法は四即空、即仮、即中、一二三無くして而も一二三なりと信ず。一二三無しとは是れ一二三を遮す。而も一二三なりとは是れ一二三を照す。遮無く照無く皆究竟、清浄。自在なり。深を聞きて怖れず、広を聞きて疑はず、非深非広を聞きて意に而も勇有り。是を円と信と名く。何をか円の行と云ふや。一向に専ら無上菩提を求め、辺に即して而も中、余に趣向せず、三諦円に修して無辺の為に寂せられ、有辺に動ぜられず、不動、不寂にして直ちに中道に入る。是を円の行と名く。云何か円の位に入る。や。初住に入る時、一住一切住、一切究竟、一切清浄、一切自在なり。是を円の位と名く。何をか円の自在荘厳と云ふや。彼経に広く自在の相を説けり。或は此の根に於て正受に入り、或は彼の根に於て起出して説き、或は一根に於て雙べて入出し、或は一根に於て入出せず、余の一一の根も亦是の如し。或は此塵に於て正受に入り、或は彼塵に於て起出して説く。或は一塵に於て雙べて入出し、或は一塵に於て入出せず、余の一一の塵も亦是の如し。或は此方に於て正受に入り、或は彼方に於て起出して説く、或は一方に於て雙べて入出し、或は一方に於て入出せず、或は一物に於て正受に入り、或は一物に於て起出して説く、或は一物に於て雙べて入出し、或は一物に於て入出せず。若委く説かばただ一根一塵に於て即ち入り、即ち出で、即ち雙べて入出し、即ち入出せず、正報の中に於て一一に自在なり。依報の中に於ても亦是の如し。是を円の自在荘厳と名く。譬へば日光の四天下を周るに、一方は中、一方は旦、一方は夕、一方は夜半なり。輪廻すること同じからざれども、秖是れ一の日にして而も四処に見ること異なるが如く、菩薩の自在も亦是の如し。何をか円の建立衆生と云ふや。或は一の光を放つて能く衆生をして即空、即仮、即中の益を得、入、出、雙入出、不入出の益を得しむ。行、住、坐、臥、語、黙、作作に歴るも亦是の如し。有縁の者は見る。目の光を観るが如し、無縁は覚らず、肓瞽は常に闇し。故に竜王を挙げて譬と為す。豎は六天に遍く、横は四域に亘り、種種の雲を興し、種々の雷を震ひ、種種の電を耀かし、種種の雨を降らすも、竜は本官に於て動かず揺がず、而も一切に於て施設すること同じからず。菩薩も亦是の如し、内に自ら即空、即仮、即中に通達し、法性を動ぜずして而も種種の益を得、種種の用を得しむ。是を円の力用建立衆生と名く。初心尚爾り、況んや中、後心をや。如来は殷勤に此法を称歎し、聞く者は歓喜す。常啼は東に請ひ、善財は南に求め、薬王は手を焼き、普明は頭を刎ぬ。一日に三たび恒河沙の身を捨るとも尚一句の力に報ずること能はず、況んや両肩に荷負すること百千万劫すとも寧んぞ仏法の恩に報いんや。一経の一説是の如し、余経も亦然なり。疑ふ者の云はく、「余の三昧、願くば誠証を聞かん」と。然るに経論は浩博なり、委く引く可からず、略して一両を挙げん。「浄名」に云はく、「始め仏樹に坐して力は魔を降し、甘露滅を得て覚道成ず。三たび法輪を大千に転ずるに、其輪は本来常に清浄なり、天人道を得」と。此を証と為す。三宝是に於て世間に現ず、此れ即ち漸教の始なり。又云はく、「仏、一音を以て法を演説したまふに、衆生は類に随つて各々解を得、或は恐怖する有り、或は歓喜し、或は厭離を生じ、或は疑を断ず、斯れ則ち神力不共の法なり」と。此は不定教を証するなり。又云はく、「法を説くに有ならず亦無ならず、因縁を以ての故に諸法生ず。我無く、造無く、受者無けれども、善悪の業は敗亡せず」と。此れ頓教を証するなり。「大品」に云はく、「次第の行、次第の学、次第の道」と。此れ漸を証するなり。又云はく、「衆色を以て摩尼珠を裹み、之を水中に置けば物に随うて色を変ず」と。此れ不定を証するなり。又云はく、「初発心より即ち道場に坐し、法輪を転じて衆生を度す」と。此れ頓を証するなり。「法華」に云はく、「是の如きの人は応に此法を以て漸く仏慧に入るべし」と。此れ漸を証するなり。又云はく、「若し此法を信ぜずんば、余の深法の中に於て示教利喜せよ」と。此れ不定を証するなり。又云はく、「正直に方便を捨て但無上道を説く」と。此れ頓を証するなり。「大経」に云はく、「牛従り乳を出し、乃至醍醐」と。此れ漸を証するなり。又云はく、「毒を乳中に置けば乳は即ち人を殺し、乃至、毒を醍醐に置けば醍醐は人を殺す」と。此れ不定を証するなり。又云はく、「雪山に草有り、名けて忍辱と日ふ、牛、若し食すれば即ち醍醐を得」と。此れ頓を証するなり。「無量義」に云はく、「仏、法輪を転ずるに 微渧先づ堕ちて 諸の欲塵を淹し、涅槃の門を開きて解説の風を扇ぎ、世の熱悩を除きて法の清涼を致す。次に十二因縁の雨を降らして無明の地に灑ぎ邪見の光を掩ふ。後に無上の大乗を澎ぎて普く一切をして菩提心を発さしむ」と。此は漸を証するなり。「華厳」に曰はく、娑伽羅竜、車軸の如く海に雨らすに余地は堪へず、上根性の為に円満修多羅を説くに二乗は聾の如く瘂の如し」と。「浄名」に曰はく、「瞻葡林に入れば余香を嗅がず、此室に入る者は但諸仏功徳の香を聞く」と。「首楞厳」に曰はく、「万種の香を擣きて丸と為し、若し一塵を焼けば衆気を具足す」と。「大品」に曰はく、「一切種智を以て一切法を知らんには、当に般若波羅蜜を学すべし」と。「法華」に曰はく、「合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」と。「大経」に曰はく、「譬へば人有り、大海に在りて浴するが如し、当に知るべし、是人は已に諸河の水を用ふ」と。「華厳」に曰はく、「譬へば日出でて先づ高山を照し、次に幽谷を照し、次に平地を照すが如し」と。平地は不定なり、幽谷は漸なり、高山は頓なり。上来は皆是れ金口の誠言にして三世如来の尊重したまふ所の法なり。過去過去、久遠久遠、邈にして萠始無し。現在現在、辺無く際無し、未来未来、展転して窮らず。已今当の若きは思議す可からず。当に知るべし。止観は諸仏の師なり、法、常なるを以ての故に諸仏も亦常なり、楽我浄等も亦復是の如し。是の如きの引証寧ぞ信ぜざらんや。

 [14]既に其法を信ず、須く三つの文を知るべし。「次第禅門」は合して三十巻、今の十軸は是れ大荘厳寺法慎の私記なり。不定の文は「六妙門」の如し。不定の意を以て十二禅、九想、八背、観、練、熏、修、因縁、六度を歴るに、無礙に旋転し縦横自在なり。此は是れ陳の尚書令毛喜、智者に請ひて此文を出さしむ。円頓の文は灌頂の荊州玉泉寺にて記する所の十巻の如き是れなり。三の文有りと雖も文を執して自ら疣害することを得ることなかれ。論に云はく、「若しは見、若しは見ざるも、般若は皆縛なり、皆脱なり」と。亦例して然り。

 [15]疑ふ者の云はく、「諸法は寂滅の相なり、言を以て宣ぶ可からず」と。「大経」に云はく、「生生不可説、乃至不生不生不可説」と。若は通、若は別、言語の道断えて、能説無く、所説無しと。身子の云はく、吾聞く、解脱の中には言説有ること無し、故に吾此に於て云ふ所を知らず」と。「浄名」に云はく、「其所説は説無く示無し、其聴法は聞無く得無し」と。「斯人説く能はず、斯法説く可からず、而して人に示すと言はんや」と。然るに但一辺を引きて其二を見ず。「大経」に云はく、「因縁有るが故に亦説くことを得可し」と。「法華」に云はく、「無数の方便、種種の因縁を以て衆生の為に説く」と。又曰はく、「方便力を以ての故に五比丘の為に説く」と。若は通、若は別、皆説くことを得可し。「大経」に曰はく、「眼有る者は盲人の為に乳を説く」と。此は真諦の可説を指す。「天王般若」に云はく、「総持には文字無く、文字は総持を顕す」と。此は俗諦の可説を指すなり。又「如来は常に二諦に依つて法を説く」と。「浄名」に云はく、「文字の性離せるは即ち是れ解脱なり」と、説に即して是れ説無し。「大経」に云はく、「若し如来は常に法を説かずと知れば、是れ即ち多聞なり」と。此は不説にして而も是れ説なるを指すなり。「思益」に云はく、「仏及び弟子は常に二事を行ず、若は説、若は黙」と。「法華」に云はく、「去来坐立常に妙法を宣ぶるに大雨を注ぐが如し」と。又云はく、「若し仏道を求めんと欲せば常に多聞の人に随へ。善知識は是れ大因縁なり、所謂る化導して仏を見ることを得しむ」と。「大経」に云はく、「空中の雲雷は象牙の上に華を生ず」と。何れの時か一向に説無からんや。若し説黙を競はば教の意を解せず、理を去ること逾遠し。説を離れて理無く、理を離れて説無し。説に即して無説、無説にして即ち説なり。二無く別無く、事に即して而も真なり。大悲は一切の無聞を憐愍したまふ。月、重山に隠るれば扇を挙げて之に類し、風、太虚に息めば樹を動して之を訓ゆるが如し。今の人は意鈍にして玄覧すること則ち難し、眼は色に依つて入る、文を仮れば則ち易し。若し文に封ぜられて害を為さば、須く文、非文を知りて一切は文、非文、非不文なりと達すべし、能く一文に於て一切の解を得ん。此の義の為の故に三種の文を以て一に達するの門と作すなり。已に略して縁起を説き竟りぬ。

 [16]今当に章を開きて十と為すべし。一には大意、二には釈名、三には体相、四には摂法、五には偏円、六には方便、七には正観、八には果報、九には起教、十には旨帰なり。十は是れ数の方にして多からず少からず。始めは則ち期すること荼に在るを標し、終りは則ち宗に帰して極に至る。始めを善くし終りを令す、総じて十章の中に在り。

 [17]生起とは専ら十章を次第するなり。至理寂滅にして生無く、生者無く、起無く、起者無し。因縁有るが故に十章通じて是れ生起なり。別して論ずれば前の章を生と為し、次の章を起と為す。縁由、趣次も亦復是の如し。所謂る無量劫より来た癡の惑に覆はれて無明即ち是れ明なることを知らず、今、之を開覚す、故に大意と言ふなり。既に無明即ち明なりと知れば復流動せず、故に名けて止と為す。朗然として大いに浄し、之を呼んで観と為す。既に名を聞かば体を得、体は即ち法を摂し、偏円を摂す。偏円の解を以て方便を起す。方便既に立たば正観即ち成る。正観を成じ已れば妙果報を獲、自得の法よりして教を起し他を教ふ、自他倶に安んじて同じく常寂に帰す。秖生無く起無きに達せざるか為に是故に生起す。既に生無く起無きことを了せば、心行寂滅し、言語の道断え、寂然として清浄なり。

 [18]分別とは、十章の功徳は嚢中に宝有るが如し、探つて人に示さずんば人の見る者無けん。今の十章は幾くか真、幾くか俗、幾くか非真非俗なる。幾くか聖説、聖黙、非説非黙なる。幾くか定、幾くか慧、幾くか非定非慧なる。幾くか目、足、幾くか非目足なる。幾くか因、果、非因果なる。幾くか自、他、非自他たる。幾くか共、不共、非共非不共なる。幾くか通、別、非通別なる。幾くか広、略、非広略なる。幾くか横、豎、非横豎なる。是の如き等の種種、応に自在に問を為すべし。初めの八章は俗に即して而も真、果報の一章は真に即して而も俗、旨帰の章は非真非俗なり。正観は聖黙、余の八章は聖説、旨帰は非説非黙なり。正観は一分は是れ定、余の八章及び一分は是れ慧、旨帰は非定非慧なり。大意より正観に至るは是れ因、果報は是れ果、旨帰は非因非果なり。前の八章は自行、起教は化他、旨帰は非自非他なり。大意より起教に至るは是れ目、方便より果報に至るは是れ足、旨帰は非目非足なり。大意より正観に至るは共、果報、起教は不共、旨帰は非共非不共なり。大意の一は通、余の八章は別、旨帰は非通非別なり。大意は略、八章は広、旨帰は非広非略なり。体相は豎、余の八は横、旨帰は非横非豎なり。

 [19]料簡とは、問ふ、略指と大意と同異や如何。答ふ、通じては則ち名は異にして意は同じ、別しては則ち略指は三門にして大意は一頓に在り。問ふ、顕教に約して顕観を論ぜば、亦まさに秘教に約して密観を論ずべきや。答ふ、既に顕秘を分つ、今は但顕を明して秘を説かず。問ふ。門を分たば爾る可し、任に論ずることを得るや不や。答ふ、或は得、或は得ず、教は是れ上聖の下に被らするの言なり。聖は顕と秘と両の説を能くす、凡人の宣述は秖顕を伝ふ可く、秖を伝ふること能はず、聴く者何に因りてか観を作さん。或は得とは、六根浄の位、能く一の妙音を以て三千界に遍満し、意に随つて悉く能く至るときは、則ち能く秘教を伝ふるなり。若し観を修する者は修する所の顕法を発し修せざる者を発せず。宿習を発する人は密観を論ずることを得。問ふ、初め浅く後深きは是れ漸観なり。初め深く後浅きは是れ何の観の相ぞや。答ふ、是れ不定観なり。問ふ、初めと後と倶に浅きは是れ何の観の相ぞや。答ふ、小乗の意、三止観の相に非ざる也。問ふ、小乗も亦是れ仏説なり、何の意ぞや「非ず」と云ふ、若し「非ず」と云はば応に漸と言ふべからず。答ふ、既に大小を分つ、小は論ずる所に非ず、今、漸と言ふは微より著に至るの漸なるのみ、小乗は初後倶に実相を知らず、故に今の漸に非ざるなり。問ふ、三文を示さば文は是れ色なり、色は是れ門なりや、門に非ずと為んや。若し是れ門ならば色は是れ実相、更に何の通ずる所かあらん。若し門に非ずんば、云何ぞ而も一色一香皆是れ中道なりと言はん。答ふ、文と門とは並びに是れ実相なり。衆生は顛倒多く、不顛倒少ければ、文を以て之を示すなり。即ち、文に於て文、非文、非文非不文に達すれば、文は是れ其門なり、門に於て実相を得るが故なり。文は其門なり、門に一切の法を具す、即ち門、即ち非門、即ち非門非不門なり。

 [20]解釈とは十章を釈するなり。

 [21]初めに大意を釈せば、始終を嚢括し、初後に冠戴す、意緩くして見難し、今、撮つて五と為す、謂く、発大心、修大行、感大果、裂大網、帰大処となり。云何が大心を発する衆生、昏倒して自ら覚知せず、勧めて醒悟して上求下化せしむ。云何が大行を修する。復発心すと雖も路に望んで動ぜずんば、永く達するの期無し、勧めて牢強に精進して四種三昧を行ぜしむ。云何が大果を感ずる。梵天を求めずと雖も梵天自ら応ず、妙報を称揚して其心を慰悦せしむ。云何が大網を裂く。種種の経論、人の眼目を開く、而して此を執して彼を疑ひ、一を是とし諸を非とす、雪を聞きて、冷なりと謂ひ、乃至鶴を聞きて動くと謂ふ、今経論を融通して結を解きて篭を出す。云何が大処に帰する。法に始終無く、法に通塞無し、若し法界を知れば法界、始終無く通塞無し、豁然として大いに朗にして無礙自在なり。五略を生起して十広を顕す。

 [22]発心に就て更に三と為す、初めに方言、次に非を簡び、後に是を顕す。菩提とは天竺の音なり、此方には道と称す。質多とは天竺の昔、此方には心と言ふ。即ち慮知の心なり。天竺に又汚栗駄と称す、此方にはこれ草木の心と称するなり、又矣栗駄と称す、此方には是れ積聚精要の者を心と為すなり。

 [23]今非を簡ぶとは、積聚草木等の心を簡んで専ら慮知の心に在るなり。道にも亦通有り別有り。今亦、之を簡ぶに略して十と為す。若し其心、念念に貪瞋癡を専らにして、之を摂すれども還らず、之を抜けども出でず、日に増し月に甚しくして上品の十悪を起すこと、五扇提羅の如き者は此れ地獄の心を発し火途の道を行ずるなり。若し其心、念念に眷属の多からんことを欲し、海の流れを呑むが如く、火の薪を焚くが如くして中品の十悪を起し、調達の衆を誘ふが如き者は、此れ畜生の心を発し血途の道を行ずるなり。若し其心、念念に、名の四遠八方に聞えて称揚欽詠せらるることを得んと欲し、内には実徳無くして虚しく賢聖に比し、下品の十悪に起すこと摩犍提の如き者は、此れ鬼心を発し刀途の道を行ずるなり。 若し其心、念念に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐へず、他を軽んじて己を珍むこと鴟の高く飛びて下し視るが如く、而も外には仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起すは阿修羅道を行ずるなり。若し其心、念念に世間の楽を欣ひ、其臭身に安んじ、其癡心を悦ばしむ、此れ中品の善心を起して人道を行ずるなり。若し、其心、念念に三悪は苦多く、人間は苦楽相間り、天上は純ら楽なりと知りて天上の楽の為に六根を関ぢて出さず、六塵を入らざらしむ、此れ上品の善心を起して天道を行ずるなり。若し其心、念念に大威勢ありて身口意纔かに所作有れば一切弭きて従はんことを欲するは、此れ欲界主の心を発して魔羅道を行ずるなり。若し其心、念念に利智弁聡、高才勇晢にして、六合に鑒達し、十方に顒顒たることを得んと欲す、此れ世智心を発して尼犍道を行ずるなり。若し其心、念念に五塵、六欲の外の楽は蓋し微なく、三禅の楽は石泉の如く、其楽内に重し、此れ梵心を発して色、無色道を行ずるなり。若し其心、念念に善悪の輪環、凡夫は耽湎し、賢聖は呵する所、破悪は浄慧に由り、浄慧は浄禅に由り、浄禅は浄戒に由ることを知りて、此三法を尚ぶこと飢えたるが如く渇きたるが如し、此は無漏の心を発し二乗道を行ずるなり。若は心、若は道、其非甚だ多し、略して十を言ふのみ。或は上を開して下を合し、或は下を開して上を合す、十の数をして方に足らしむるのみ。一種を挙げて語の端を為す、強き者は先に牽く。論に云ふが如し、「破戒の心は地獄に堕し、慳貪の心は餓鬼に墮し、無慚愧の心は畜生に墮す」と。即ち其義なり。或は先づ非心を起し、或は先づ是心を起し、或は是非並び起す。象、魚、風、並びに池の水を濁すに譬ふ。象は外を譬へ、魚は内を譬へ、風は並起を譬ふ。又、象は諸の非の外よりして起るに譬へ、魚は内観の羸弱にして二辺の為に動かさるるを譬へ、風は内外合雑して穢濁混和するに譬ふ。又九種は是れ生死なり、蚕の自ら縛するが如し。後の一は是れ涅槃なり。麞の独り跳るが如し。自ら脱することを得と雖も、未だ仏法を具せず、倶に非なるが故に雙べ簡ぶ。前の九は是れ世間、動かず出でず。後の一は出ずと雖も大悲無し、倶に非なれば雙べ簡ぶなり。有為、無為、有漏、無漏、善、悪、染、浄、縛、脱、真。俗、等、種種の法門も亦是の如し。又、九法は世間の苦諦に約し、後の一は苦諦に非ず。苦諦に非ずと雛も曲拙灰近なり、故に雙べ非し、簡びて却く。次に有為有漏は集諦に約し、後の一は集諦に非ず、集諦に非ずと雖も曲近灰拙なれば、亦、雙べ非し簡ぶなり。次に善悪染浄は道諦に約し、後の一は是れ道諦なり、是れ道諦なりと雖も、亦、前に簡ぶが如し。次に縛脱、真俗は滅諦に約す、後の一は是れ滅諦なりと雖も、亦、前に簡ぶが如し。若し此意を得れば、一切の根、塵、三業、四儀に歴て心を生じ念を動ずるに、皆此く観察し、濁心をして起ることを得しむること勿れ。設ひ起るとも達に滅せよ。明眼有る人の能く険悪の道を避くるが如く、世に聡明の人有りて能く衆悪を遠離す。初心の行者、若し此意を見れば、世間の為に而も依止と作るに堪へたり、云云。

 [24]問ふ、行者、自ら発心するや、他、教へて発心せしむるや。答ふ、自、他、共、離、皆不可なり。但是れ感応道交して而も発心を論ずるのみ。子の水火に堕つれば父母騒擾して之を救ふが如し。「浄名」に云はく、「其子病を得れば父母も亦病む」と。「大経」に云はく、「父母、病子に於て心則ち偏に重し」と。法性の山を動かして生死の海に入る、故に、病行、嬰児行有り。是を感応の発心と名くるなり。「禅経」に云はく、「仏、四随を以て法を説きたまふ。随楽、随宜、随治、随義なり。彼意を将護して説きて其心を悦ばしむ。先世の習に附して受行し易からしむ。病の軽重を観じて薬を設くること多少なり。道機、時に熟すれば、聞きて即ち道を悟る。豈、随機、感応の利益に非ずや。「智度論」に四悉檀あり。世法間隔するを世界と名け、其堪能に随ふを為人と名く、両つの悉檀は四随と同じ、亦、是れ感応の意なり。更に、論の五つの復次を引く、一には菩薩の種種の行を明すが故に「般若波羅蜜経」を説く、二には菩薩をして念仏三昧を増せしむるが故に、三には跋致の相貌を説くが故に、四には弟子の悪邪を抜くが故に、五には第一義を説くが故に「般若波羅蜜経」を説く。此五復次と四随四悉と皆異ならず、又五因縁と同じ。若し機に随はずんば他を悩ますが故に説けども。彼に於て益無し。若し大悲の雷雨は微より著に之くことを得。論に云はく、「真法及び説者。聴衆得ること難きが故なり」と。是の如きは則ち生死有辺に非ず、無辺に非ず、実相は難に非ず、易に非ず、有に非ず、無に非ず、此を真法と名く。能く此の如く説聴するを真の説聴と名く。三悉檀の益あるを有辺と名け、第一義の益を非有辺、非無辺と名く。故に知んぬ、縁起能く大事を 弁ずるは則ち感応の意なり。

 [25]然るに四随、四悉、五縁、名は異なれども意義は則ち同じ。今、之を説かん。四随は是れ大悲応益、悉檀は是れ憐愍の遍施なり、蓋し、左右の異なりのみ。因縁と言ふは、或は聖を因とし凡を縁とす、或は凡を因とし聖を縁とす、則ち感能道交なり。当に知るべし、三法言味相符ふときは則ち意同じ。随楽欲は偏へに修因の尚ぶ所を語す、世界は偏へに受報の間隔を語す、蓋し因果の異なるのみ。便宜は法を選んで以て人に擬す、為人は人を観じて以て法を逗す、此れ乃ち欣赴の不同なるのみ。又五因縁とは、衆生の信楽を因と為して、仏、一法一切法を説く、大菩提心なり。経に於ては是れ楽欲、論に於ては是れ世界なり。衆生、大精進勇猛有れば、仏、一行一切行を説く、則ち四三昧なり。経に於ては是れ便宜、論に於ては是れ為人なり。衆生の

 [26]平等大慧あるを因と為し、仏の一破一切破を説くを感じて勝果報を得、及び経論に通す、経論に於て倶に是れ対治なり。衆生、仏の智眼有るを因と為し、仏の一究竟一切究竟と説くを感じて、旨帰寂滅と説くことを得、経論に於て倶に是れ第一義なり。又、五縁と五復次とは、菩提心は是れ諸行の本なり。論に種種の行を挙ぐ、蓋し枝本の異なるのみ。四三昧は是れ通修、念仏は是れ別修、蓋し通別の異なるのみ。勝報は備さに依正、習果、報果を説く、跋致は偏へに習果入位の相を挙ぐ、蓋し雙隻の異なるのみ。経論の疑滞を除くとは、経論は是れ疑執を起すところなり、弟子の悪邪を抜くは是れ過を起す人なり、人処の異なるのみ。本末究竟等と第一義と名の同じきこと見易し、所以に異ならず、是を義同じと為す。

 [27]又、聖説は多端なり。或は次説、或は不次説、或は具説、或は不具説、或は雑説、或は不雑説あり。衆生は益を禀くるに不同なり。或は次益、不次益、或は具益、不具益、或は雑益、不雑益あり。或は四悉檀は五縁を成じ、五縁は四悉を成ず、或は四悉は一因縁を成じ、一因縁は一悉を成や、或は一の因縁皆四悉を具し、四悉は五縁を具す。是の如き等、種種に互に相成じて顕る、還つて三の止観を以て之を結す、意を以て知る可し云々。又、一止観を以て之を結す、菩提心を発すは即ち是れ観なり、邪僻の心息むは即ち是れ止なり。又五略は秖是れ十広なり、初の五章は秖是れ発菩提心の一意なるのみ。方便正観は秖是れ四三昧なるのみ。果報の一章は秖違順を明す、違すれば即ち二辺の果報あり、順ずれば即ち勝妙の果報あり。起教の一章は其の自心を転じて他を利益す、或は仏身と作りて、権を施し実を顕す、或は九界の像と作りて漸頓を対揚す、漸頓を転じ漸頓を弘通す。旨帰の章は祇是れ同じく大処秘密蔵の中に帰するなり。故に知んぬ、広略意同じきことを。

 [28]是を顕すに更に三と為す、初めに四諦、次に四弘、後に六即なり。四諦の名相は「大経」の「聖行品」に出でたり、謂く、「生滅と無生滅と無量と無作」となり。生滅とは、苦集は是れ世の因果、道滅は是れ出世の因果なり、苦は則ち三相遷移し、集は則ち四心流動し、道は則ち対治易奪し、滅は則ち有を滅して無に還る、世出世と雖も皆是れ変異す、故に生滅の四諦と名く。無生とは、苦に逼迫無く、一切皆空なり、豈、空の能く空を遣ること有らんや。色に即して是れ空、受想行識も亦復是の如し、故に逼迫の相無し。集に和合相無しとは、因果倶に空なれば、豈因空と果空と合すること有らんや、一切の貪瞋癡を歴ることも亦復是の如し。道は不二の相なり。能治所治無し、空尚ほ一無し、云何が二有らんや、法は本より然えず今則ち滅せず、然えず滅せざるが故に無生の四諦と名く。無量とは分別校計するに苦に無量の相有り、謂く、一法界の苦尚ほ復若干なり、況んや十法界をや、則ち種種若干なり、二乗の若は智、若は眼の能く知見する所にあらず、乃ち是れ菩薩の能く明了する所なり。謂く、地獄に種種若干の差別あり。鈹剥、割截、焼煮、剉切、尚ほ復若干なり、称計すべからず、況んや復余界の種種の色、種種の受想行識、塵沙海渧、寧んぞ当に尽すべけん、故に、二乗の知見に非ず、菩薩の智眼は乃ち能く通達す。又、集に無量の相あり、謂く、貪欲瞋癡、種種の心、種種の身口、集業若干なり。身曲れば影斜めに、声喧しければ、響濁る、菩薩は之を照すことを謬らざるのみ。又、道に無量の相あり、謂く、析体拙巧、方便曲直、長短権実なり、菩薩は精明にして謬濫せず。又、滅に無量の相あり、是の如き方便能く見諦を滅す、是の如きの方便能く思惟を滅す、各若干の正助あり、菩薩は洞かに覧て毫の差ひも無し。又即空の方便、正助若干にして皆若干無し、若干無しと雖も而も若干を分別して謬り無く乱ること無し。又、是の如きの方便能く四住を析滅す、又、是の如きの方便能く四住を体滅す、是の如きの方便能く塵沙を滅す、是の如きの方便能く無明を滅す、種種若干なりと雖も彼彼雑せず。又、三悉檀をもつて分別するが故に若干あり、第一義悉檀には則ち若干無し、若干無しと雖も多に従ひて論をなすが故と若干と名け、無量の四諦と称するなり。無作の四諦とは皆これ実相不可思議なり。但、第一義諦のみ復若干無きに非ず、三悉檀及び一切法の若き復若干無し、此義知んぬべし、復委しく記せず。若し四諦を以て豎に諸土に対せば増あり減あり、同居には四あり、方便には則ち三、実報には則ち二、寂光には但一なり。若し、横に敵対せば同居には生滅、方便には無生滅、実報には無量、寂光には無作なり云云。又、総じて説けば四諦と名け、別して説けば十二因縁と名く。苦は是れ識、名色、六入、触、受、生、老死の七支なり。集は是れ無明、行、愛、取、有等の五支なり。道は是れ因縁を対治する方便なり。滅は是れ無明の滅乃至老死滅なり。故に「大経」に四の四諦を開き、亦、四の十二因縁を開けり。下智観の故に声聞の菩提を得、中智観の故に縁覚の菩提を得、上智観の故に菩薩の菩提を得、上上智観の故に仏の菩提を得。又、「中論」の偈に云ふ「因縁所生法」は即ち是れ生滅なり、「我説即是空」は是れ無生滅なり、「亦名為仮名」は是れ無量なり、「亦名中道義」は是れ無作なり。又解す、因縁は即ち集なり、所生は即ち苦なり、滅苦の方便は是れ道なり、苦集尽くるは是れ滅なり。又、偈に因縁と云ふは、因縁は即ち無明なり、所生法は即ち行、名色、六入等なり。故に、文に云はく、「利根の弟子の為には十二因縁の不生不滅の相を説く」と、前の二十五品を指す。「鈍根の弟子の為には十二因縁の生滅相を説く」と、後の両品を指す。当に知るべし、論の偈は総じて説けば即ち四種の四諦なり、別して説けば即ち四種の十二因縁なり。已に四の四諦を分別すること竟りぬ。諸経に種種の発菩提心を明せり。或は言はく種種の理を推して菩提心を発す。或は仏の種種の相を観て菩提心を発す。或は種種の神通を観、或は種種の法を聞き、或は種種の土に遊び、或は種種の衆を観、或は種種の行を修するを見、或は種種の法の滅するを見、或は種種の過を見、或は他の種種の苦を受くるを見、而して菩提心を発す。略して十種を挙げて首と為す、広く説くこと云云。理を推して発心すとは、法性は自天にして然なり、集も染むること能はず、苦も悩ますこと能はず、道も通すること能はず、滅も浄むること能はず、雲の月を篭むるも妨害すること能はざるが如し、煩悩を却け已って乃ち法性を見る。経に言はく、「滅は真諦にあらず、滅に因つて真に会す」と。滅も尚ほ真にあらず、三諦焉んぞ是ならん。煩悩の中に菩提なし、菩提の中に煩悩なし、是を生滅の四諦を推して上は仏道を求め下は衆生を化するの発菩提心と名く。無生の四諦を推して発心すとは、法性は苦集に異らず、但苦集に迷ひて法性を失ふ、水は結んで氷となるも別の 氷無きが如し。苦集に苦集無しと達すれば即ち法性に会す、苦集尚ほ是なり、何に況んや道滅をや。経に言はく。「煩悩即ち是れ菩提なり、菩提即ち是れ煩悩なり」と、是を無生の四諦を推して上求下化する発菩提心と名く。無量を推すとは、夫れ法性は名けて実相と為す、尚ほ二乗の境界にあらず、況んや復凡夫をや、二辺の表に出でて別に浄法あり、「仏蔵経」の十喩の如し云云。是を無量の四諦を推して上求下化する発菩提心と名く。無作を推すとは、夫れ法性と一切の法と二無く別無し、凡法も尚ほ是なり、況んや二乗をや、凡法を離れて更に実相を求めば、此の空を避けて彼処に空を求むるが如し。凡法に即して是れ実相なり、凡を捨てて聖に向ふべからず。経に言はく、「生死は即ち涅槃、一色一香も皆是れ中道なり」と、是を無作の四諦を推して上求下化する発菩提心と名く。若し一法を推すに、即ち法界を洞かにして辺に達し底に到り、横豎を究竟して事理具足す、上求下化備に其中に在るを方に発菩提心と称す。菩提とは道を名く、道の能く通じて横豎の彼岸に到るを発心波羅蜜と名く。故に理を推すに於て委しく浅深を作すに事理周遍す。下去つて法法例して爾なり。