[51]爾時窮子傭賃の下、第二に父子相見の譬、近くは火宅中の見火を領し、遠くは方便中の五濁の意を領す、三と為す、一に窮子傭賃を明して火宅所見の火、法説所見の五濁を領す。二に父見子は火宅の長者の見、法説中の仏眼の見を領するなり。三に歓喜適願は火宅中の驚怖、法説中の起大悲心を領す。法譬は並に父前に子を見ることを明す、此中には子前に父を見ることを明す、仏に就くときは則ち霊智もて先に機を知り、後に応を起す、故に父の先に子を見ると言ふ。若し衆生に約せば、必ず先に機にして、而して後に応なり、故に子の先に父を見ると言ふ。機応は思議す可らず、後ならず前ならず、故に前後互に挙ぐるなり。今は文の便なるを取て但だ二段と為す、一に子見父、二に父見子なり、此両段の中、各々復四と為す、初めに子父見の四とは、一に父を見るの由は衣食を求るに由る、二に父を見るの処、処は門の側に在り、三に父を見るの相は師子床に踞す、四に畏避を生じて、此に来至することを悔ゆ。

 [52]父を見るの由は、苦を厭て楽を欣ひ、理味を推求し漸々に積習して遂に出世の善根を成ずるに由る、故に傭賃展転と言ふ、此善根を以て能く仏の慈悲を扣く、故に遇到父舎と言ふ。父は道後の法身を喩へ、舎は無縁の慈悲を喩ふ、大小の二機、双て此舎を扣くなり。大機有るが故に、故に遙見其父と言ふ、小機有るが故に、門の側に住在す、若し唯小のみにして大無きときは則ち応に尊特の身を見ざるべし、父は応に我財物庫蔵今有所付と言ふべからず。若し唯大のみにして小無くんば、応に門の側に住立すべからず、子は応に非我傭力得物之処と言ふべからざるなり。

 [53]父を見るの処とは、即ち是れ門の側なり、二観を方便と為すは即ち門の二辺なり、円中の機は門に当て正しく見る、二乗は偏真なり、故に門側と言ふ、但空三昧の偏真の慧眼は傍より法身を窺ふのみ。遙見其父とは、正見に二種有り、一に近見、二に遠見なり、今大機始めて発するを言へば、扣召の事遠し、是故に遙と言ふ。又機微にして応赴するに非ず、之を名けて遙と為すなり。

 [54]踞師子床とは、円報法身は空理に安処し、復通別の二惑八魔等の畏無し、故に踞師子床と云ふなり。華厳に説くらく、第一義空四無所畏を床と為すなりと。

 [55]宝几承足とは、定慧を足と為し、実諦を几と為す、無生の定慧は真如の境に依るなり。

 [56]婆羅門とは、旧云く、高良大姓は八地已上なり、刹利とは七地已還なり。居士とは内凡夫等なりと。旧云く、此経の中には法身を明すとも、常住法身に非るなり、乃ち是れ他方の応身、将に此土に応ぜんとするを即ち此間の法身と為す、故に内凡の諸人有て囲遶すと。今謂く爾らず、若し他方の仏と作さば、子父の機応体用著脱は皆成ぜず、前に説くが如し。又小機此れを扣き、大機彼を扣くべからず、亦応に大縁を彼に結び、小縁を此れに結ぶべからず、亦応に双結此に在り、双応彼に在るべからず、是の如きは大に惑乱すと。今明さく、勝応は菩薩に応ず、即ち盧舎那尊特身にして、大機の扣く所の者なり。劣応は小乗に応ず、丈六の弊衣にして小機の扣く所の者なり。今経には常住の醍醐を明すこと涅槃と等し、法身の円頓は華厳と等し、譬ふる所の長者威徳侍衞し刹利婆羅門恭敬囲遶するは悉く華厳の中の眷属を指す、皆異ること無きなり、所説の法相は彼に明す所の如く、亦復別無し。婆羅門は浄行と名く、貴族高潔にして即ち等覚の離垢の菩薩なり。刹利は即ち是れ王種にして、九地已下初地已上なり。居士は富んで而も貴からず、即ち三十心なり。

 [57]真珠瓔珞とは、即ち戒定慧陀羅尼三昧の四瓔珞なり。価直千万とは、即ち四十地の功徳を以て法身を厳るなり。

 [58]吏民僮僕とは、異門に義を明さば、即ち是れ方便教を禀て通惑を断ずる者を名けて民と為す、別教を禀て通惑を断ずる者を名けて吏と為す。若し同門に義を明さば、還て是れ方便波羅蜜なり。内は実智と同じく、外は機縁と同じ、喩へば吏民の内に奉じ外に役するの義有るが如くなり。白払とは即ち是れ権智の用なり。左右とは、右は即ち入空の智用、四住の塵を払ふ、左は即ち入仮の智用、無知の塵を払ふ、此二を中道の方便と為す、故に侍立と言ふ云云。

 [59]覆以宝帳とは真実の慈悲なり。垂諸花幡とは、花は即ち四摂、幡は即ち神通なり。

 [60]香水灑地とは、法水を降注して、諸の菩薩の心地に灑ぎ以て惑塵に淹す、亦是れ定水を散心に灑ぐなり。

 [61]散衆名花とは、布くに七浄花を以てす、謂く戒と定と慧と断疑と道非道と知見浄と断知浄となり。戒とは摂律儀等の三種の戒なり、定とは首楞厳等なり、慧とは実智の慧なり、断疑とは已に二諦の疑を度するなり、道非道浄とは、非道を行じて仏道に通達するなり、知見浄とは、智徳円満して了了に仏性を見るなり、断知とは断徳成就して無明永く尽くるなり。羅列宝物とは、諸地の真実の功徳を羅列するなり。

 [62]出内は前に釈するが如し云云。

 [63]威徳尊特とは、光明無辺、色像無辺、相海巍々堂々なり、此義は須らく舎那の仏に作るべし、豈に余釈を作すことを得んや。

 [64]窮子見父有大力勢の下は、是れ第四に父を見て畏れ避くるなり。大力勢とは智大なり、故に大力と名く、神通大なり、故に大勢と名く。上の身手有力の義の如くなり。恐怖とは、小機劣弱にして大道を怯懼するなり。悔来至此とは、仏は本と大法を以て之に擬せんと欲したまふも、応は機に称はず、但だ大を退するの意有り、故に悔来至此と言ふなり。

 [65]竊作是念とは、機中に潜密に冥に此事有り、是れ顕に勝応身を対見するに非るなり。或是王王等とは、波旬は是れ王、徒輩を等と為す、小機は灰断、無言説の道は色像を絶す、既に勝応の像を見る、天人の及ぶ所に非ず、所説の法相は逈に二乗に異る、小智薄徳にして、未だ曾て見聞せず、便ち是れ魔、是れ魔の所説と謂ふ。略開三顕一に身子狐疑して、将に魔の仏と作て我心を悩乱せんとするに非ずやと。若し初めより大を用ひて小に逗せば、仏を疑て魔と為んこと、今日に過ぎたること有らん。復次に勝応を長者に譬ふ、長者は即ち報身仏を表す、故に是れ王と等し、法身は是れ報の師にして師は即ち王の如し、諸経には多く是れ経王と名く、智の法に契ふ、即ち是れ智と法と等し、故に報仏を名けて等と為す。此れ乃ち大乗の法報にして、是れ小乗得益の処に非ず、故に或是王王等といふなり。

 [66]非我傭力得物之処とは、小機は大化を受くること能はざるなり。

 [67]不如往至貧里乃至衣食易得とは、浄名に云く、能く貧所得の法を以て斯の下劣を度すと。但空の理は万徳を含まざれば如来蔵に非ず、故に貧里と言ふ。偏空は小智に称ふ、故に肆力有地と言ふなり。衣食易得とは、能く有余涅槃無漏の衣食を得るなり、行々は衣にして恵行は食なり。

 [68]若久住此或見逼迫強使我作とは、大乗の道を行ずるは無量劫を経ん、故に久住と言ふ。我れ本と生死を厭怖す、若し大乗を修せば、必らず生死に入て広く万行を学ばん、故に逼迫と言ふ。我れ本と小を楽ふ、而して今我をして大乗の菩提心を発せしめん、是れを強使と為す、大を捨て小を取る、故に疾走と言ふなり。

 [69]時富長者の下、第二に父見子譬なり、亦四有り、一に父の子を見る処、二に子を見て便ち識る、三に子を見て歓喜す、四に子を見て願に適ふなり。

 [70]子を見る処とは、即ち師子の床なり、如来法身は第一義空無畏の境に居して明かに機を照すなり。

 [71]見子便識とは、是れ往日結縁の衆生なるを知るなり。

 [72]心大歓喜とは、仏恒に子の機を伺ひたまふ、今、機来て慈に称ふ、是故に歓喜す、即ち是れ法説の而起大悲、火宅の即大驚怖を領するなり、彼は抜苦を明す、故に驚怖と言ふ、此れは与楽を明す、故に歓喜と言ふ。

 [73]即作是念庫蔵今有所付とは、是れ見子適願なり、昔衆生の大を退して小を取り、貧里に食を求め、資生艱難するを見て、常に財を与へんと欲すれども、機無くして得ず、今日機来て大慈心に称ふ、故に庫蔵今有所付と言ふ。我常思念とは、其れ但だ貧にして大財無きのみに非ず、又生死に流転して衆苦に逼まられ、大悲の為めに痛まるゝを明す、故に常思念之と言ふ。救抜せんと欲すと雖も、機無くんば済ひ叵し、故に無由見之と云ふ、今度す可きの機生ずること有るが故に而忽自来と云ふ。大悲心に称ふが故に甚適我願と云ふ。我雖年朽猶故貪惜とは、適願の由を釈するなり、一期の化訖るに由る、故に年朽と言ふ、未だ大機を見ざれば、法を委付するもの無し、将来の徒は誰に従てか脱を得ん、度す可き者の為めの故に貪惜と言ふ、今機自ら来れば此憂念無し、故に我願適ふことを得るなり。

 [74]即遣傍人急追将還の下、第三に追誘譬を明す、近くは火宅の捨几用車を領し、遠くは法説の寝大施小を領す、此文二と為す、初めに傍人を遣はして追ふ、次に二人を遣はして誘ふ、前の追は上の身手有力而不用之を領す、但だ方便品は、誡と勧とを総て一と為し、之を釈するに三と為す、火宅は勧を開し誡を出し、釈各々三と為す、而して放捨の文は略せり。長行は勧を合して誡を合せず、而して息化の文は広し、偈中には但だ誡を頌して勧を頌せず、又息化を領せず、皆出没有り、火宅の長行は誡と勧と釈するに各三有り、今は則ち併せ頌す、即遣傍人疾走往捉は上の勧門の擬宜を領す。窮子驚愕は上の勧門の無機を領す。強牽将還は上の誡門の擬宜を領す。窮子自念無罪より悶絶躃地に至るまでは、上の誡門の無機を領す。父遙見より下は、併て勧誡の息化を領す、此れ探て仏意を取るなり、仏は勧門の擬宜に機無しと雖も、意には猶ほ未だ息めたまはず、更に誠門の擬宜を作したまふ、事已むことを獲ざれば、然して後に化を息むるなり。

 [75]遣傍人とは、初めに勧門の擬宜なり、智は是れ能遣、教は是れ所遣なり、理の義を正と為し、教の義を傍と為す、仏より大乗の十二部を出して衆生に擬宜するに、機無くして受けず、其に於て乳の如し、故に遣傍人と言ふなり。又傍人とは、傍は臣佐等なり、即ち是れ法身の菩薩を遣はして、為めに大乗を説かしむるなり。華厳の中に四菩薩をして四十地を説かしむるが如し、即ち是れ傍人を遣はすなり。疾走往捉とは、大乗に義を明すこと顕露にして正直なり、此れを用ひて機に赴き、疾く菩提に趣かしむ、故に大車の中に云く、其疾きこと風の如しと、若し菩薩を以て傍人と為さば、菩薩には自ら神力有り、又仏の加を被り、亦能く彼をして疾く菩提に入らしむ。

 [76]窮子驚愕とは、即ち勧門に機無きなり、既に現に機無し、縦ひ昔し曾て発するも、廃すること久しくして憶せず、卒に大教を聞て心に乖くが故に驚き、識らざるが故に愕く。称怨大喚とは、小乗は煩悩を以て怨と為し、生死を苦と為す、若し煩悩即菩提なりと勧れば、即ち大に喚んで怨枉と称す、若し生死即涅槃なりと聞かば、即ち大に喚んで苦痛と称す、機無くして勧門を受けざるなり。我不相犯とは、我れ于し求めず、何の意ぞ、大を用ひて我を化する、此れ勧門の二意を領して未だ息化を領せざるなり。

 [77]次に再び喚んで来らず。執之逾急とは、誡門を擬宜するを領するなり、前に勧善を明すは、猶ほ是れ容与なり、我当為説怖畏事とは即ち是れ急切なり。雖強牽将還とは、誡むるに苦言を以てし、其をして悪を遠ざからしむ、内に既に機無く、外に大化に逼らる、即ち是れ強牽将還なり。

 [78]自念無罪とは、誡門を受けざるを領するなり、罪とは慈悲なり、衆生は罪の故に生死の獄に入る、菩薩も亦罪を同じくして獄に入る、二乗の人は大悲無ければ名けて無罪と為す、生死に入らしむるは即ち是れ因執へらるゝなり、大方便無くして而して生死に入らば、必らず当に永く三乗の慧命を失すべし、故に必死と言ふ。此等の事を思ふが故に転更惶怖と言ふなり、強て大を以て教ふれば、小智は解せず、故に悶絶と言ふ、即ち誹謗を起して、必らず三途に堕するが故に躃地と言ふ、亦是れ迷悶して無明の地に溺るゝなり。

 [79]父遙見之よりは即ち是れ第三に勧誡を放捨し、大乗の化を息むるなり、此れに就て四と為す、一に息化を思惟す、二に息化を陣す、三に正しく化を息む、四に息化宜しきを得るなり、初めに両意有り、一に大志の弱を知り、二に小志の強を知る。

 [80]父遙見とは、小は大を去ること遠し、故に名けて遙と為す、是れ結縁の子なり、故に言て見と為す、而語使言とは、教に約して使と為さば、智は本と教を説く、智は機無きことを知る、智息むが故に教も息む、人に約して使と為さば、諸の菩薩に語るらく、須らく汝が尊妙の身を現じて二乗をして見せしむべからずと、浄名の中に汝が身香を摂して、彼の諸の衆生をして、惑著を起さしむること無かれと。普賢、此娑婆に入るに、身を促へて小ならしむと、皆是れ其義なり。勿強将来とは、既に大機無ければ其善根を傷けんことを恐る、故に勿強と言ふなり。私に謂く、不須此人とは、勧門の擬宜を息むるを思惟す、勿強将来とは、誡門の擬宜を息むるを思惟するなりと。

 [81]冷水灑面とは、第二に小志有ることを知る、宜しく灰断の理水を以て見思の熱を除くべし、面とは、生死を厭ふことを背と名く、涅槃に向ふは面の如くなり。醒悟とは、小を開して機に逗じ、煩悶を離れて四真諦を悟ることを得しむるなり。莫復与語とは、決定して応に大乗教を息むべきなり。

 [82]所以者何の下、第二に息化の意を釈す、正しく苦を厭て空を欣ひ、下劣に親狎し、慈悲心無くして即ち大法を畏難すれば、且らく其小志に任せて仏の本懐を抑ふ、所以に化を息むるなり。審に二万億仏の所において曾て道心を発し、都て大機無きに非ることを知るなり、且らく大化を息むれども、仏意は未だ已まず、更に後の期を俟つ。不語他人とは、昔の小乗教の中に於て、随他意語もて、方便覆護して是れ声聞と称す、随自意語を説て是れ菩薩なりと云はざるなり。

 [83]使者語之の下、第三に正しく息化を明す、我今放汝とは、即ち是れ大機の弱きことを知る。随意所趣とは、即ち是れ小善の強きを知る、此二縁を以ての故に大化を息むるなり。

 [84]窮子歓喜の下、第四に即ち是れ化を息めて機に称ふ、大教の為めに逼られず、是故に歓喜す。大を謗るの罪無くして三途を免がるゝことを得るが故に従地と言ふ、小善の生ずること有るが故に而起と言ふ。又前に大法を擬宜するに迷悶して解せず、無明の地に臥す、今逗ずるに小を以てすれば醒悟を得可し、故に従地而起と言ふ。四諦の中に於て道法を求めんことを欲す、故に往至貧里以求衣食と言ふ、或は四見の中に於て道を求む、故に貧里と言ふ。

 [85]将欲誘引の下、是れ密に二人を遣はして誘引す、此れ二と為す、一に斉教は近くは三車の救子を領し、遠くは波羅柰の施権を領す。次に又以他日より下、意を取て、法身地にして久しく方便を照し、道樹に始めて知て小を用ふるに非ることを領す、早く衆生の尊特を難ることを致し、垢衣に親狎することを鑒む、故に追て往前を領して以て今の解を成す。問ふ、四大弟子、何に因てか能く法身の久しく照すことを知るや。答ふ、近を推して遠を知る、若し始めて道樹に大機無しと知らば、応に兜率より神を降し、正慧もて胎に託し、乃至煩悩有ることを現じ、妃を納れ子を生じ、三十四心の後身に結を断ずべからず、験に知ぬ、大小相海微妙の瓔珞を脱して更に麁弊丈六の垢衣を著すること、其れ已に久し、今初めに且らく斉教領を釈せば、譬喩品の文に四有り、一に方便を用ひて擬宜す、二に先心を知る、三に三車を歎ず、四に其所願に適ふなり。方便品亦四あり、今の領も亦四あり、将欲誘引より下、是れ上の擬宜を領す、時二使人即求窮于既已得之は、上の子の先心に機有るを知るを領するなり。具陳上事は、上の三車希有を歎ずるを領す、窮子先取其価の下は、上の願に適て争て火宅を出ることを領するなり。

 [86]初めに将欲誘引とは、既に大化を息むるも孤棄すべからず、方便を設けんと欲す、故に将欲と言ふ。

 [87]密遣二人とは、四弟子は己が分に斉て領して菩薩に渉らず、故に二人と言ふ。法に約すれば是れ因縁四諦、理に約すれば是れ有作の真俗、人に約すれば是れ声聞と縁覚なり、初めに大乗を擬するに密遣傍人と云ふは、一実諦一大乗教一菩薩人を表す、今は方便を明すに、実を隠すを密と為し、偏真を指すを遣と為す、教に約すれば、満字を隠すを密と為し、半字を指すを遣と言ふ。人に約すれば、内に菩薩の行を秘するが故に密と言ひ、外に是れ声聞を現ずるが故に遣と言ふ。

 [88]形とは、二乗教の中には相好を修せず、但だ苦無常不浄を説く、即ち是れ形色憔悴なり。人に約すれば則ち諸の菩薩其の本色を隠して、示すに迹の形を以てす、了義の説に非ず、十力無畏有ること無ければ無威徳と名くるなり。

 [89]汝可詣彼とは、即ち小教を以て小機に擬するなり、大教は理を明すこと直実なり、故に疾走往捉と言ふ。小教は理を明すこと迂隠なり、故に徐語と云ふ。

 [90]此有作処とは、見修の両道は是れ断惑の作処なり、倍与汝直とは、五戒十善は止だ三途を出づ、今四諦十二因縁は能く生死を出づ、是れを一倍と為す。又外道の六行は、但だ能く惑を伏す、今は四諦を修すれば則ち能く惑を断じ涅槃に至ることを得、是れを二倍と為すなり。

 [91]窮子若許とは、機有るは是れ許なり、即ち教を設く、機無きは是れ許さず、教を設けず、欲何所作とは、二乗は唯惑を除て証を取らんことを欲して仏国土を浄め衆生を成就せんことを論ぜず、所以に雇汝除糞と言ふ。

 [92]我等二人亦共作とは、二乗は鈍根にして教に憑て行を行ぜしむるに、方に能く業を修す、理に約すれば即ち是れ智と諦と相ひ資くるなり、人に約すれば即ち権人は実人と共に修行するなり。

 [93]時二使人即求窮子とは、第二に審かに機有ることを知る、故に已得と言ふ、上の先心を知るを領するなり。

 [94]具陳上事の下、第三に雇作を陳説して、上の三車を歎ずることを領するなり、苦集の糞を除き、道滅の価を取るなり。

 [95]窮子先取其価尋与除糞の下、第四に尋で即ち為めに作して上の願に適て争つて火宅を出ずるを領するなり。二乗は果を慕て因を行ず、所以に先に取るなり。其父見子愍而怪之とは、仏道を求めざるを怪しみ、其阿羅漢を取るを愍む、失ふ所の者は大にして、得る所の者は寡し、故に怪と言ふなり。此に斉て法譬の中の意を領す、其文竟る。

 [96]又以他日より下、第二に是れ意を取て領す、霊智先に照して久しく権謀を設け、崎嶇として随逐す、止だ樹下に始めて因縁を見るに非ず、已に上に説くが如し。此文四と為す、一に又以他日とは意を取て領するに、先に権智を以て久しく擬宜せんと欲す、二に子の憔悴を見るは是れ久しく方便は是れ其玩好なることを知る、三に妙を脱して麁を著するは、久しく須らく三車を歎ずべきことを知るを領す、四に親しく子をして作さしむるは、久しく願に適て受行することを知るなり、今初めに又とは鄭重の辞なり、将に意を取て法身の地に久しく大小の機一三の施化を知れることを領せんと欲し、重ねて仏意を述ぶ、故に標章に又と称するなり。他日とは、二乗謂て方便を己と為し、二乗の法に非るを他と為す、即ち法身に擬するなり。日とは時なり、亦智なり、法身の時に依て、智を用ひて機を照す、故に他日と言ふ。若し此義に従はゞ、実智の実を照すを自と為し、権智の方便を照すを他と為す。斉教に領せば、化身の用事を領するを己日と為し、化身の用事に非るを他日と為す。若し如来に就かば、自行の権智の智は、皆名けて己と為し、如来の化他の権実の照は、皆名けて他と為す。如来の自他の権実の照は、実を照すを己と為し、権を照すを他と為す。此探領は、法身の時は、化他の権智を用ひて権機の、若しは有、若しは無を照す、権事を用ふる、若しは可、若しは否を照すは皆是れ権智の所照なり、故に他日と言ふ。若し此義に従はゞ、斉教領は化他の権事を領す、故に二乗を己事と称す、探領は自と他との権を領すれども、此権は二乗の事に非ず、故に称して他と為す。両意有りと雖も、他日倶に成ず。今は二乗の領する所に依る、又他日の文を逐ふて探領を以て法身中の照機を領するなり。

 [97]牖窓とは、偏見は則ち小にして権智の彼偏機を照すを表するなり。遙とは、小は大を去ること懸なり、故に名けて遙と為す。見子とは、昔曾て大を種ゆ、之を称して子と為す、大を以て之に擬す、故に言て見と為す。窓牖偏狹なるは、未だ大の化に宜しかもず、故に大を息めて小を施すなり。

 [98]羸痩の下、第二に是れ先より小の玩好有りと知ることを領するなり、修因の智力の少きを羸と為し、修因の福力の少きを痩と為す、内に無常を怖るを憔と為し、外に八苦に遭ふを悴と為す、四住を糞土と為し、無知を塵坌と為すなり。

 [99]即脱瓔珞の下、第三に是れ先に須らく三車希有を歎ずべきことを知るを領するなり、妙服を脱ぐは、報身の無量の功徳を隠すを譬ふ、四十二地の戒定慧陀羅尼等は瓔珞、寂滅忍は細軟の上服、大小相海は厳飾の具なり、容服若し盛なれば、子則ち驚畏す、二乗は宜らく此相好を見るべからず、是故に之を脱ぐ。更著麁弊とは、丈六の形を現ずるは是れ麁なり。生忍法忍は是れ弊なり、塵土坌身とは、煩悩有て有為有漏なるを現ずるなり。執除糞の下、但だ見思有漏を治するの法にして、諸地の清浄の智慧を論ぜざるなり。左手は実を喩へ、右手は権を喩ふ。権用は便ち易し、自ら此法を以て結を断じて成仏す、又此れを用ひて人を化す。状有所畏とは、同じく生死を怖るゝことを示す、又寒風馬麦の報有るなり。

 [100]語諸作人の下、第四に親しく子を教へて作さしむる譬なり、即ち是れ道品の中の七科の法門にして、以て除糞の相を顕はす、上の諸子各勇鋭互相推排競共馳走争出火宅を領するなり。一には語作人譬は四念処を譬ふ、是れ外凡の位なり。二には令勤作勿得懈息譬は四正勤を譬ふ。三には咄男子勿復余去譬は四如意足を譬ふ。四には好自安意の下を安意譬と名く、五根を譬ふ。五に所以者何の下を無五過譬と名く、五力を譬ふ。此前の四句は是れ第二に内凡の位なり。六に即時長者字以為子譬は八正を譬ふ。七に雖欣此遇の下を教常令除糞譬と名く、七覚を譬ふ。此二句は是れ第三の聖位なり。

 [101]今初めに語諸作人とは、即ち是れ三蔵に四念処を示すを説く、是れ除糞の器、断結の境なり、故に遺教に云く、常に念処に依て道を行じ、能く四倒を破すと、火宅の中の適願勇鋭を領す、即ち是れ聞慧なり。

 [102]第二に勿得懈息とは、即ち是れ四念処を勤修せしむるなり、若し懈息を起さば二悪を滅すること能はず、二善を生ずることを能はず、二勤を以ての故に能く煖の火を発す、火宅の互相推排に対して修慧の煖位に入るなり。以方便故得近其子とは、念処に未だ理火をもて心を温むることを得ざれば、猶ほ疎外と為して、附近す可らず、初めて煖の方便を得るを以て、則ち附近す可きなり。

 [103]第三に咄男子とは、咄は是れ驚覚なり、亦是れ責数なり、上の正勤の中に紛動するは即ち是れ智法にして、男子の是れ陽性なるが如し、如意足は是れ定法にして女人の是れ陰性なるが如し、良に正勤策動して、真と相応することを得ざるを以ての故に、咄驚責数して、散を捨て静に入らしむ、故に咄男子なり。

 [104]汝常此作勿復余去とは、念処正勤動じて專一ならざるは、名けて常と為さず、四如意の中、定んで異縁せず、思惟すれば則ち定り、思惟すれば則ち断ず、定と断と專一なるが故に常なり、紛動せざるか故に復余に去ること勿れ、此れ猶は互相推排の中に在り、即ち是れ頂法の位なり。

 [105]当加汝価とは、煖法意観の中には、真を発すること能はず、如意観の中には、能く無漏を発す、故に加価と言ふ。

 [106]若有所須とは、漏無漏の善、助道正道は皆如意観に従て求む、須めんと欲すれば即ち得、四禅の体の支林を含めるは盆器の如く、生空の麁なるは米の如く、法空の細なるは麺の如し、此れ即ち正道なり、四諦の下の十六諦観は無常は鹽の如く、苦は醋の如し、此れ即ち助道なり、米麪は食し難ければ、鹽醋を須ひて之に和するが如し、正道に顕はし難ければ、助道を須ひて之を助く。莫自疑難とは、上の正助を結す、審かに如意観の中に在り、故に疑ふこと勿らしむ、決定して辯ず可きこと己物の想の如し、故に勿難と言ふ。

 [107]亦有老弊使人とは、若し直に通を取て以て手足に代へんと欲するは、使人の駆役する者の如し、如意観の中にも亦此通有り、但だ通は劣弱なれば、事は老弊に同じ、丁壯ならずと雖も亦運役に堪へたり。又正道を以て理を求むるに、正道弱ければ未だ真を発する能はず、助道を須ひんことを欲す、九想十想八背捨等の助道の使大なる者なり、如意観の中にも亦此法有り、若し助を得て正を助くれば、即ち共解脱の人と成るなり。

 [108]第四に好自安意とは、五根を得れば安固にして壊し難きなり。我如汝父とは、忍の解の真に隣れば、似像にして未だ実ならず、故に如父と言ふ、亦是れ子の如し。勿復憂慮とは、其をして意を安じて見思を破壊せしむるなり。

 [109]第五に我老汝少とは、仏は道の終に居し已に智断を具す、故に老大と言ふ、汝は道の始めに居して未だ智断有らず、故に名けて少壯と為す、此れ即ち忍法位なり。五過無きは、五力を得て五の悪法を離るゝなり、信力を得るが故に欺かず、精進力の故に怠らず、念力の故に瞋らず、定力の故に恨みず、慧力の故に怨言せず。余作人とは、遠くは外道の諸見に理を求むるを指して余作人と名く、近くは煖等の四位の未だ五過を免がれざるを指すも、亦余作人と名く、此文に五過無きは即ち五力なり。自今已後如所生子とは、下忍の十六刹那は時節猶ほ長し、中忍は復縮観すと雖も、亦未だ是れ一刹那ならず、若し上忍は世間最後の一刹那の心は、真に鄰り聖に逼る、故に此位を名けて如所生子と為す、即ち世第一法の位なり。

 [110]第六に即時長者更与作字名之為児とは、八正を得て見道の中に入り、競て共に馳走す、故に名之為児と言ふ、世第一法は真と久しからず、故に即時と言ふ。阿含に五種の仏子を説く、四果及び辟支仏を、仏の真子と名く、菩薩の結を断ぜざるは子の義未だ成らず。

 [111]爾時窮子雖欣此遇の下、第七に常令傭作の譬、子為りと雖も思惟未だ尽きず、猶ほ学位に居し未だ難り無きことを得ざるを譬ふ、故に二十年に当に糞を除かしむ。亦復自ら大を紹ぐに任へざるを知る、正しく是れ教に依て修行して苦を尽すのみ、故に猶故自謂客作賤人と云ふ。若し初果を得て小を厭ひ大を楽て、大乗の機発すれば、即ち応に授るに大乗を以てすべし、又須らく進んで其の余残の結を断ずべからざるは、正しく小志を捨てず大機発せざるに由る、是を以て且らく教に依て漏を尽さしむ、故に由是之故二十年中常令除糞と言ふ。

 [112]二十年とは、見諦の一解脱、一無礙、思惟の九無礙、九解脱なり、故に二十年と言ふ。又云く、見思二道の中、結を断ずるを二十年と名くと。又云く、五下分、五上分を二十年と為すなりと。又云く、猶ほ二乗の法の中に於て思惑を断ず、故に二十年と名くと。又云く、二の使人に依て共に余結を断ず、故に二十年と名くるなりと。二乗の機有りしよりして来た仏を感ず、故に自見子来已二十年と云ふ。若し二乗の位に住して大乗教を転ずれば、名けて於二十年中執作家事と為すなり、二十の語は同じけれども各々所以有り、此一句即ち是れ争て三界の火宅を出ずる位を指すなり。

 [113]過是已後の下、是れ第四に領付家業譬、近くは火宅の等賜大車を領し、遠くは法説中の無上道を領す、此れに就て二と為す、初めに領、後に付なり、又各々二と為す、共に火宅の等賜車中の四意を領す、亦是れ方便品の顕実の四意なり、初めの章の二とは、一に心相ひ体信するは、即ち上の免難を領す、二に委するに家業を以てし、漸く以て通泰して大志を成就するは、即ち上の索車を領す、後の章の二とは、一には家業を付するは、即ち等賜大車を領す。二には付を得て欣悦するは、即ち上の得車歓喜を領するなり。

 [114]心相ひ体信するに由るにが故に委するに家業を以てすることを得、家業既に諳じて悉く知見を備ふれば則ち大志を成就す、意志通泰するに由るが故に家業を付与することを得、家業を与ふる故に是れ則ち歓喜す、由に遠近有り。若し先に傭作を教へ一日の価を与へざれば、豈に相体し業を委せ財を付することを得んや、内に三蔵の結を断ずるに由て、並びに大集を聞き、折を浄名に受け教を般若に転ずるに堪るに合す、而して財を付することを致すに合するのみ、当に知るべし、傭作して価を取るは、即ち是れ遠由、体信委業は即ち是れ近由なることを。又前の誘引譬の中には斉教領有り、始め道樹より終り出宅に訖る。又探領有り、始め法身より終り思尽に訖る。今の領亦二なり、始めは探て慈悲四位の調熟を領す、終りは付財究竟の一味を領す、遠近始終合して五味を論ず。

 [115]何となれば、即遣傍人とは、傍人の所説は乃ち華厳円頓を譬ふ、此教最初なり。傍人は牛に譬へ、所説は乳に讐ふ、内に仏より十二部経を出すに合す、即ち初味なり、此れを以て二乗の人に擬するに、機無くして受けず、迷悶して地に躃る、其に於て全く生々しきこと乳味の如くなり。

 [116]次に密に二人を遣して除糞の法を説くことを明すは、此れ大を息むるの後、鹿苑に三を説き、小に於て即ち信じ、凡を革め聖と成ることを譬ふ。乳を転じて酪と為す如し、内に十二部より修多羅を出すに合す、即ち第二味なり。

 [117]次に心相ひ体信し、人出難り無きことを明す、三蔵の後に方等浄名を説き、大を揚げ小を折くに二乗は大を聞て謗らず、小を折くに退かざるを譬ふ、良に三蔵に結を断じて一日の価に取るを以ての故に、其褒貶を恣にすることを得、若し未だ結を断ぜざれば、大を揚ることを聞くに堪へず、前の勧門を受けざるか如し、亦小を折することを聞くに堪へず、前の誡門を受けざるか如し、而して今は謗らず退せざるは、心相ひ体信するが故なり、親しく既に小を証するときは、則ち大も虚しからざるを信じ、涅槃の価を得るが故に折を体して瞋らず、己事に非ずと雖も、而も疑謗せず、此心淳熟すること、酪より生蘇を出すが如し、内に修多羅より方等経を出すに合す、第三味なり。

 [118]次に長者自知将死不久を明す下は、方等に心相ひ体信し、入出難り無き已後、委するに家業を以てし、其をして教を領せしめ、大菩薩の為めに摩訶般若を説くに譬ふ、既に衆物を領知し、法門を貫統すれば、心明かにして口辯じ、弥々慕楽を益す、但だ小に住して是れ己が分に非ることを恨む、脱し更に開許せば、豈に楽しからざらんや、是に於て心漸く通泰し、大志を成就すること、生蘇より熟蘇を出すに如似たり、是れ方等より摩訶般若を出す、第四味なり。

 [119]次に臨欲終時而命其子とは、此れ般若の後、天性を判じ父子を定め、三を会し一に帰し、財を付し記を与ふ、法華の教を説て仏の知見を開かしめ真実相を示すに、菩薩の疑除こり声聞は作仏して悉く如来の滅度を以て而して之を滅度するを譬ふ、熟蘇より醍醐を出すが如し、是れ摩訶般若より大涅槃を出す、即ち第五味なり。

 [120]四大弟子深く仏の意を得て、探て一化五味の教を領す、始終の次第、其文此に出づるなり。

 [121]家業を領する文二と為す、一に相ひ体信す、二に命じて業を領せしむ、体信に就て復二あり、先に体信を明し、二に猶ほ本位に居す。

 [122]今初めに相とは、是れ互に相ひ信ずるなり、謂く三蔵の中に於て涅槃の価を得るは、此れ既に虚しからず、今菩薩の為めに此大乗を説くも亦復虚に非ざらん、此れ即ち子の父を信ずるなり、仏は此等の見思已に断ずれば、聞て必らず謗らず、無漏の根利にして、聞て微く信を生ぜんと知りたまふ、此れ即ち父の子を信ずるなり、此れに由て尊特の身を見て大乗の教を聞くを、此れを名けて入と為す、復訶折を被れども、猶ほ丈六の小乗の法を説きたまふを見る、此れを名けて出と為す、大小出入して而して疑難無きなり。

 [123]第二に然其所止猶在本処とは、復入出難り無くして大乗を聞くことを得と雖も、而も是れ菩薩の事にして己が智分に非ずと謂ふて、肯て小を廻して大に向はず、猶ほ羅漢に居して未来に当に作仏を得べしと言はず、此れ大集浄名の生蘇の教を領するなり。

 [124]世尊爾時長者有疾より下、第二に委するに家業を以てするは、此れ大品に仏命じて般若の熟蘇の教を転教せしめたまへるを領すなり、此れに就て二と為す、一に命じて家事を知らしむ、二に命を受けて領知す、二章各四と為す、初めの四とは、一に時節を明し、二に正しく命じて家事を知らしむ、三に誡めて我心を体せしむ、四に漏失せしむること無かれと勅す。

 [125]初めに将死不久とは、機有れば則ち応ずるを生と為し、機尽くれば、応謝するを死と為す、今化の機将に畢らんとす、応謝すること久しきに非るなり。

 [126]語窮子言我今多有の下、第二に命じて家事を知らしむ、金は即ち別教の理、銀は即ち通教の理なり。大品に明す所の真諦は此二を出でず而して多有と云ふは、理は則ち多に非れども、種々の門に約して亦多と言ふを得、例せば、空は十八に非れども十八法を破するに約して十八空と名くるが如くなり。勧学の中に一切の法門は、皆是れ珍宝なりと明す。倉は是れ定門にして即ち百八三昧なり、庫は是れ慧門にして十八空境なり、通別の両種の定慧の倉庫に、一切の禅定智慧を包蔵して闕少する所無し、内に充ち外に溢る、故に盈溢と云ふ。其中多少とは、般若を説くに則ち広略の二門有り、菩薩は般若を行ずるに応に略広の相を知るべし、略は則ち少と為し、広は則ち多と為す、自行を取と為し、化他を与と為す。大品の中に、汝当に菩薩の為めに説くべしと云ふ、故に汝悉知之と云ふ。

 [127]我心如是の下、第三に誡めて我心を体せしむとは、仏は般若を以て心と為す、汝は今伝灯して当に仏意に随て説くべきなり。又二乗の人の本解は是れ析法の空なり、当に此意を体すべしと命ずるものは、命じて転教せしめ、用て誡めて我が体法の空に同じからしむるなり。昔時は命を被て伝灯して他に与ふと謂ふ、今は乃ち仏の我をして体の門を識らしめたまふを知る、故に当体此意と言ふ。今我与汝便為不異とは釈なり、此れに三有り、一に被加して説かしむれば仏と異ならず、二に理に就て諸法皆如なるを以ての故に異ならざるを得、善吉の如、如来の如、一如にして二如無し、故に便為不異と言ふ、三に今時に就て始めて父子の天性は本来異ならざることを悟らしむ、而して二乗の人は自ら加を被りて異なりと謂ふのみ。

 [128]宜加用心の下、第四に漏失せしむること無れと勅するなり、一には汝は菩薩の為めに般若教を説き漏失せしむること無かれ、二には理に就く、此れ即ち汝が法は後時に当に用ふべし、是故に漏失せしむること無かれとなり。

 [129]即受教勅の下、第二に命を受く、又四と為す、一に正しく命を受けて領知す。

 [130]二に悕取無し、善吉は般若を説くと雖も、自ら我れ其分無しと謂ふなり。

 [131]三に未だ劣心を捨てず、猶居本処とは、羅漢の位に住して復大を慕ふと雖も、亦未だ定んで菩薩と作らんと欲すと言はざるなり、未だ下劣の心を捨てずとは、復小を恥ずと雖も、亦未だ定んで小証を捨つと言はざるなり。

 [132]四に復経少時父知子意の下、即ち是れ上の索車譬を領す、先心を鄙棄し大道を求めんと欲するは大機発するなり。問ふ、何れの時を少時と名くるや。答ふ、一に云く、般若を説き竟て、異処に於て遊観し、領する所の大乗の法門を尋思す、心の貪楽を生ずるは、失とせんや、不失とせんや、此の如き等の尋思は即ち是れ大乗の機発するの時なり、此時は法華を去ること未だ遠からず、故に少時と言ふ。又無量義を説く時に当て大乗の機発す、何を以てか然ることを知る、無量義の中に七種の方便無量の漸頓は一法より生ずるなりと明す、既に此説を聞て、昔の三蔵の三乗は悉く一法より生ず、是の如きの三乗も亦応に一に入るべしやと思惟す、是の如く思ふ時、漸く已に通泰して大心即ち発す、故に成就大志と言ふなり。

 [133]臨欲終時の下、第二に正しく家業を付す、又二と為す、謂く一に業を付す、二に勧喜するなり、初めに四有り、一に付業の時、二に子に命じ衆を聚めて証と為す、三に父子を結会す、四に正しく家業を付す。

 [134]初めに付時なり、臨欲終とは、是れ時節を明す、化縁将に訖らんとして、霊山に八載法華経を説き、涅槃に入らんと唱ふる時なり。

 [135]而命其子の下、第二に衆を聚むるなり、即ち是れ二万億仏の所に化を受くるの徒、之を名けて子と為す、大機熟する人、十方より雲のごとくに集まるなり、上に四衆囲繞といふは是れなり。

 [136]并会親族とは、旧云く、分身は親族の如く、十地は国王の如く、九地は大臣の如く、八地は刹利の如く、七地は居士の如しと。北人は分身を用ひて親族と為し、多宝を国王と為すなり、十地を大臣と為し、八地を刹利と為し、三十心を居士と為す。若し爾らば、迹門の説法は分身多宝、並に未だ現前せず、何ぞ此れを指すことを得んや、彼れ解して云く、正しく是れ身子の疑を懐くの時なり、法華の中に於て未だ信を生ずること能はず、是故に多宝分身は一時に来り証す、若し疑除こり信解し、受記已に竟らば、復多宝を用ひて何ぞ証する所あらんや、故に知ぬ、法説の時に多宝已に出ずることを、但だ出経者の言、畳て安ぜず、次第を作さんが為めに因門の後に置くのみと。今謂く、此れは是れ人情にして以て拠を取る無し、迹門の近事を説くには未だ古証を用ひず、若し本門の遠事を説くには、必らず須らく先に昔を証すべし、今は彼解を用ひず。薩云経に依る云云。今明さく、十方の法身菩薩の影響の者を親族と為す、影響の衆は多くは是れ釈迦昔日の同業にして、並に如来と共に、二万億仏の所に於て、共に之を開化す、其れに於て悉く是れ伯叔の行なり、故に此を用ひて親族と為す、国王とは一切漸頓の諸経は所詮の処を称して経王と為さずといふこと無し、当機益物、興廃に時有り、部々同じからず、之を名けて国と為す、皆第一と言ふ、即ち是れ王なり、又此経に諸教を会通す、豈に国王を衆集するに非ずや、故に無量義の中に先に已に収集す。彼に云く、初めに四諦十二縁生を説き、次に方等十二部経を説き、次に摩訶般若華厳海空を説くと、此れ則ち普ねく諸経を集め漸頓を融通し此典に会入す、故に国王を会すと名くるなり。弥勒等の諸大菩薩は皆是れ等覚にして大臣と為す、初地より九地に至るまでを刹利と為す、法王種性の中に生ずればなり、三十心を居士と為す、此等は皆釈迦に従て化を受く。

 [137]諸君当知の下、第三に父子を結会す、実に我れに従て受学す、実に是れ我が子なり、我れに従て解を起す、是れ我が所生なり、我れ実に曾て二万億仏の所に於て、嘗て大法を教ゆ、故に我れ実に是れ父なり。於某城中とは、此経は西国に文多けれども、此に度ること甚だ少し、或は昔の名字国土を説くこと大通智勝の因縁の如くなる可し、今は名字を簡略して直に某甲と言ふ、是の諸の衆生は此大乗に背て無明の闇を起し、遁れて生死に入る、故に捨吾逃走と言ふ。備に六趣を経、故に五十余年と云ふ。昔在本城懐憂推覓とは、昔法身地の中より、常に二智を以て化す可きの機を観覓するなり、始めて今日に於て感応道交す、故に忽於是間会邁見之と云ふ。

 [138]今我此有の下、第四に正しく家業を付す、一切の大乗の万行万徳の故に一切所有と云ふなり。先所出内是子所知とは、追て昔日大品の領教に委する所に広略の般若、共不共の法有るは、是れ汝が所知にして即ち是れ汝が有なることを指す、故に法華は但だ仏の知見を明して更に広く一切の行相を説かざるなり。

 [139]窮子聞父此言の下、第二に即ち是れ付を得て歓喜するなり、上の各乗大車得未曾有を領す、自ら顧るに心に仏道を希望する無くして、而して今忽ち得記作仏することを聞く、故に不求自得と云ふなり、三蔵の中には、本心に求めず、方等の中には、小を恥じ望み絶へたるが故に求めず、般若の中には領すと雖も己が分に非ず、故に求めず、此の如く求めずして而して今自ら得るなり。

 [140]世尊大富長者の下、第二に合譬なり、光宅は之を合するに、或は前或は後、之を釈すること甚だ略なり、今は但だ文に依て意を点し、復子派せず、合譬の略なるは、貴ぶこと意を得るに在り、辞を費すことを俟たず。大富長者は父子相失の譬を合す、譬の文四有り、但だ父と子とを合して総じて余の意を得。如来は父を合す、似は則ち子を合す、似に二義有り、一に大機を取て子と為す、昔は未だ逃逝せざるも既に真位に非ず、猶ほ外凡に居るが故に似と云ふなり。小機を取て子と為すとは、小機は大乗の根性に似像せるのみ、子既に父を逃る、之を貶して似と言ふ云云。問ふ、初めに品を釈するに已に真に入ることを得と云ふ、此に那ぞ似と言ふや、答ふ、此れ子の父を逃るの時を合す、是故に似と言ふ、品の初めは子の開悟の時を明す、汝が問は非なり。

 [141]如来常説我等為子より下は、父子相見譬を合す、但だ長者の子を見て便ち識るに合するのみ。

 [142]我等以三苦故より下は、追誘譬を合す、上に傍追の二誘有り、今の合も亦二なり、上には初めに傍を遣はして追ひ、次に再び追ひ、次に放捨す、今は両門の機無きを合す、何為見捉自念無罪をば大機無きに合するなり。楽著小法とは、小志有るを合し、放捨を合せず。

 [143]今日世尊令我等の下は二誘譬を合す、上に斉教と探領有り、今二意を合す、蠲除より下は、斉教の具陳上事を合す、我等於中勤加精進より下は、上の尋与除糞を合す、得至涅槃の下は、上の先取其価を合するなり。然世尊先知我等より下は、上の探領を合す、上の譬に四有り、今は三を合して正しく教作を合せず、上の勤加除糞を指して即ち之を兼ね、更に合せざるなり。上に遙見と言ひ、今は先知と言ふ、上には羸痩憔悴と言ひ、今は心著弊欲と言ふ、上には即脱瓔珞更著麁弊と言ひ、今は便見棄捨不為分別宝蔵之分と言ふ。

 [144]以方便力説如来智慧より下は、付家業譬を合す、上に由有り付有り、今の合も亦二あり、由を両と為す、一に相信、二に委業なり、今の合も亦二あり、一に相信に二有り、先に体信を合す。

 [145]以方便力説如来智慧とは、旧云く、如来の智慧の因、持して二乗の果と作すと、今明さく、三乗の方便を帯して大乗の実相を説く、故に以方便力と言ふ。我等が前に於て大乗の法を説くは、亦是れ出入無難を合す、方便力を以て出で、二乗を辯ず、仏の智力を以て入て実相を明す、若し体信せずんば、豈に我が前に於て仏慧を明さんや。我等従仏得涅槃一日之価より下は、猶在本処を合するなり。

 [146]我等又因如来智慧より下は、家業を領するを合す、上に命有り受有り、今は但だ受を合す、受に四有り、一に命を受け、二に希取無し、三に下劣を捨てず、四に漸く通泰す、今は但だ二を合す、初めに命を受けて業を領するを合す。而自於此の下は希取無きを合す、諸を兼得するなり。無志願とは、仏威力を加へて、仏心の如くにして而も説かしめたまふことを明すなり、故に我れ志願せず。所以者何の下は、希取無きの意を釈す、方便力を以て、小乗の心に随て分無しと言ふ、此れに由て真に是れ仏子なることを知らず、所以に取らず、仏以方便力随我等説とは、仏は方便力を帯して、実相の法を以て、二乗に共して説きたまふ、我等は不共の意を識らず、故に仏子に非ずとす。

 [147]今我等方知の下は、付家業を合す、上に二有り、付有り喜有り、今の合にも亦二あり、上の付業に四有り、今は則ち総て付与を合す。付に二有り、一に仏は本と大に於て悋みたまふこと無きことを明す。二に悋むこと無きことを釈す。正しく小を楽ふに由て早く大を付せざるのみ、此経中の下は、今を挙げて昔を証す、今の理は唯一なり、故に知ぬ、昔の三は実に非ず、但だ未だ堪へざるが為めなり、故に大の前に於て小心を毀呰し、偽を捨てゝ真を取らしめんと欲す、定んで知る、悋むに非ることを。然るに仏は実に大乗を以て而して教化したまふなり。

 [148]我等説本無心の下は歓喜を合す、亦是れ三に於て求めざるの意なり。

 [149]八十六行半の偈の初めに七十三行半は上を頌す、次に十三行は仏恩の深きを歎ず、初めに又二あり、初めの二行は法説を頌す、後の七十一行半は譬説を頌す。

 [150]法説の中には不求を頌せず、但だ自得を頌す。

 [151]譬説を頌するに又二あり、初めの四十一偈は開譬を頌す、次に三十偈半は合譬を頌す、上の開に四有り、父子相失・相見・委業・付財なり、今は皆頌す。初めに十三行は父子相失を頌す、上の相失譬に四有り、一に子は父に背く、二に父は子を求む、三に子漸く還る、四に父は子を念ず、今頌にも亦四あり、但だ次第せず。初めに一行半は第一の子の父に背て去るを頌す、次に第二に七行は第二の父の子を求るに得ざるを頌す、次に第三に二行は超へて第四の憂念転た深きを頌す、次に第四に二行半は追て第三の漸く還て父に近くを頌す、上の四文各二あり。

 [152]今初めに譬如の下一行半は、但だ子の父に背て去るを頌して、国に向て還るを頌せざるなり。火宅の中に、長者の王たる所の国邑聚落を明すに語寛し、此中には窮子の輪廻を明すに、三界を諸国と名け、六道を五十余年と名くるなり。

 [153]其父憂念の下、第二に七行は、是れ父の子を求むるに得ざるを頌す、上にも亦二有り、今頌にも亦二あり、初めに半行は、子を覓るに得ざるを頌す。求之既疲の下六行半は、一子を失ふを以て家業の事を廃せざるを頌す。四方推求とは上に同じからず、上の四方は是れ四諦に約して理を推す、今の四方は是れ四生の中を観じて、度す可きの機を覓むるなり。造立舎宅とは、有余国の中の有余涅槃なり、慈悲の舎を起して性空の宅に依るなり。往来者衆とは諸土の菩薩の来往聴法するなり。

 [154]而年朽邁の下、第三に二行は、超て第四の憂念転た深きを頌す、上の文に二有り、此れ但だ先の子を失するの苦を頌す。委付する所無し、是故に憂ふるのみ。

 [155]爾時窮子求索衣食の下、第四に二行半は、追て上の第三の漸く還て父に向ふを頌す、上の文に二有り、今頌も亦二あり、初めの二行は父に近くの由を頌す、衣食を求むるに由るなり。漸次往歴の下の半行は、正しく父の城に近くことを頌するなり。初めに父に近く由の中、従邑至邑とは、根塵相渉ること邑の如く、十八界は国の如し、有漏の善を修するは皆所得有るが如く、二乗の善を修するは所得無きが如し、大乗の法食を得ざるは飢餓と為す、大力用無きを羸と為す、大功徳無きを痩と為す、有無の善の上に見思を起すは瘡癬の如し。

 [156]傭賃より下七行半偈は、第二に父子相見を頌す、上の文に二有り、今の頌も亦二あり、初めに六行半は、子の父を見るを頌す、次に一行は父の子を見るを頌す、上の子父を見る文に四有り、今は三を頌す。

 [157]初めの半行は父を見るの由を頌す、傭賃するに由て遂に父の舎に至るなり。次に爾時長者の下、第二に二行半は、第三に父を見るの相を頌するなり、上には父を見るの処を明す、処は是れ門の側なり、今の長者於其門内と言ふは、処を兼得するなり。施大宝帳等は正しく父を見るの相なり、処とは師子の座に踞するなり、法身は是れ師是れ王、報応は是れ長者なり。注記券疏とは即ち是れ記を授け修行を明すなり。私に謂く、広を以て略を顕はすを注と為し、決を授くるを記と為し、四弘誓を券と為し、修行を疏と為す。窮子見父の下の三行半は、第四に畏避の心を生ずるを頌す。

 [158]長者是時の下の一行は、第二に父の子を見るを頌す、上の文に四有り、一に見る処、二に見て即ち識る、三に見て歓喜す、四に願に適ふ、今は但だ二を頌す、上の半は子を見るの処を頌す、遥見の下、第二に半行は子を見て即ち識るを頌するなり。

 [159]即勅使者追捉将来の下、第三に十行半は、上の追誘譬を頌す、今初めの三行は傍追を頌す、上の傍人追の文に三有り、一に子を喚ぶに来らず、二に再び喚ぶに来らず、三に放捨す、今初めの三句は、初めに喚ぶに機無くして来らざるを頌す、次に迷悶の下は、第二に一句は再び喚ぶに来らざることを頌す。次に是人の下、第三に二行は機無きことを頌す、即ち是れ上の放捨の意を釈するなり。

 [160]即以方便の下、第二に七行半は、密に二人を遣はして誘引するを頌す、上の文に二有り、今の頌も亦二あり、初めに三行は雇作譬を頌す、次に四行半は教作譬を頌す。上の雇作の文に四有り、一に方便を設け、二に之を求めて即ち得、三に雇作を陳べ、四には価を取て糞を除く、今は但だ二を頌す、初めの二行は第一の方便を設くるを頌す。窮子聞之の下の一行は、第四の価を取て糞を除くを頌するなり、今は初めに方便を設く。眇目とは是れ偏空、矬とは堅に短にして実相の源を窮めず。陋とは横に狹にして摩訶衍の衆善荘厳無きなり。四無畏に非れば無威と名け、常楽我常に異れば無徳と名く。次に窮子聞之の下、第二に価を取て六根の房、五陰の舎を浄むるなり。長者於牖の下、第二に四行半は、上の教作を頌す、上の文に四有り、今の頌にも亦四あり、初めに半行は牖中を頌す。念子愚劣の下、第二に半行は羸痩を頌す。於是長者著の下、第三に一行は、妙を脱して麁を著るを頌す。方便附近の下、第四に二行半は、正しく教作するを頌す。上に七科の法門有り、語とは即ち四念処を合するなり。令勤作とは、即ち四正勤なり。既益汝価の下の一行は、四如意足を頌するなり。油を足に塗れば、能く深水を履むこと神通の如し、又油は能く風を除く、定は是れ乱無きなり。飲食充足は、即ち上の米麪なり。薦席厚暖は、即ち是れ観練熏修の定にして能く散動を除くなり。如是苦言汝当勤作の半行は、総じて上の第四の安慰、第五の五過無きを頌す、根力既に成ずれば乃ち苦言に堪ゆ。又以軟語の半行は、総じて第六の作字、第七の令常作を頌す、並に是れ子の位なり。

 [161]長者有智の下、第四に十行は、上の第四の領付家業を頌す、上の文に二有り、今の頌にも亦二なり、今の初めに三行半は、付業の由を頌す、次に六行半は、正しく業を付するを頌す。初めの由の中に二有り、今の頌にも亦二あり。初めに長者有智の下の半行は、総じて心相ひ体信するを頌す、即ち入出なり。経二十年の下、第二に三行は、委領家業を頌す、上の委業に命有り受有り、今は但だ受命を頌す、上の受命に四有り、今は但だ三を頌す、初めに一行半は受命を頌す、次に猶処門の下、第二に一行は、猶ほ本位に居して未だ劣心を捨てざるを頌す。次に父知子心の下、第三に半行は、大志を通泰して大乗機動ずるを頌するなり、初めに二十年とは、上に同じことを得ず、上は見思を除くを二十と名く、此れは家事を執作するを明す、或は言く、大乗教を転じて諸の菩薩を教へ、大乗の別惑の見思を断ぜしむるを二十年と名くと。或は言く、般若を説く時長し、凡て二十年なりと。或は言く、二乗の位に住して大乗教を転ずるを二十年と為すと。仁王般若に云く、二十八年摩訶般若を説くと。

 [162]欲与財物より下、第二に六行半は、第二に正しく家業を付するを頌す、上の文に二有り、今頌も亦二あり、初めに四行半は、正しく業を付するを頌す、次に二行は、付を得て歓喜するを頌す、上の正しく業を付するに四有り、今は但だ三を頌す、時節は無し。初めに欲与の下の一行は、上の第二に親族を集むるを頌す。於此大衆の下、第二に二行半有りて、上の第三に父子の天性を定むるを頌す。凡我所有の下、第三に一行は、上の第四に正しく付与するを頌するなり。子念昔貧の下、第二に二行は付を得て歓喜するを頌するなり。

 [163]仏亦如是の下の三十偈半は合譬を頌す、仏亦如是は、第一の父子相失を合するなり。

 [164]知我楽小の一句は、父子相見譬を合するなり。

 [165]未曾説言の二句は、第三の追喚譬を合するを頌す、上の合に二有り、一に再び喚ぶに来らざるを合す、二に放捨を合す、今は総じて其意を頌するのみ。而説我等の下の一行は、上の密遣二人誘引譬を合するを頌す、上には斉教と探教の二章を合す、今此一行は、但だ総じて其意を頌するのみ。

 [166]仏勅我等の下の二十八行半は、第四に家業を領するを合するを頌す、上の合に二有り、相信・委業なり、今初めの十八行半は、但だ委業を合するを頌す、次の十行は、正しく付するを合するを頌す、上の命を受くる中唯二有り、一に命を受け、二に希取すること無し、今初めの一行は長じて、命じて領知せしむるを頌す、上の領には無き所なり。最上道は即ち是れ空般若にして、更に其上に過ぐるもの無きなり。次下の十七行半は、正しく受命と及び無希取等を頌す、不捨と及び通泰無し、我承仏教より五行有りて、正しく命を受くるを頌す。仏子聞法得記とは、教を転じて他を益することを明すなり、爾の時、教を転じて菩薩を教化すと謂て我が為めとは言はず。如彼窮子の下十二行半は、第二の無希取を頌す。此文は上よりも広きなり、中に於て又二あり、初めに一行は前の譬を牒して帖合す。次に我等雖説の下、第二に十一行半は、正しく無希取を合す、又三と為す、初め一行は、正しく無希取を頌す。次に我等内滅の下九行半は、智断を具するが故に希取なること無し、又三と為す、謂く標・釈・結なり、初めを二と為す、初め一行は、断徳を具するが故に希取無きことを標す。次に我等若聞の下、第二に一行は、智徳を具するが故に希取無きことを標す。所以者何の下の六行は、双て智断の二章を釈す。次に我等雖為の下、第三に一行半は、自ら希取無きことを結釈す。次に導師見の下、第三に一行は、仏我を捨てらるゝを明して、希取無きことを合するなり。

 [167]如富長者の下の十行は、正しく業を付するを頌す、上の合に二有り、一に正しく業を付す、二に付を得て歓喜す、今の頌にも亦二あり、初めに三行は正しく付するを頌す、次に七行は歓喜を得ることを頌す、初めの三行の中、上には総じて正しく業を付するを合し、今亦総じて頌す、但だ初めの一行半は、譬を牒して帖合す、次に一行半は、正しく合を頌するなり。我等今日の下の七行は、第二に付を得て歓喜するを頌するなり。得道とは実相の道を得るなり、得果とは分に大乗の習果を得るなり、此二句は仏知を開くことを明すなり。於無漏法得清浄眼とは、此二句は、仏見を開き実相の理を見るを明すなり、昔日に無漏を見るは凡夫に落ちず、今日無漏を見るは二乗に落ちざるなり、昔日は慧眼もて空を見る、今は浄眼もて中を見る。持戒報とは昔の持戒梵行は共に無漏を顕はし、灰身滅智して、人の此果報を受くる者無し、今日の梵行は能く無漏を得、即ち了因得果の義なり。持戒は即ち縁因の義なり、清浄眼の所見の理は、即ち正因の義なり。我等真是声聞とは、即ち大乗の真位なり、十信に一音を以て三千界に遍満するは、似道にして真に非ず、十住に入るは即ち是れ真なり。真の阿羅漢に三義有り、此中に但だ応供の一義を挙ぐるのみ。若し変易に生ぜず通別の惑を殺すは、是れ不生と殺賊の義なり、十法界の福田と為るに堪ふるは即ち応惧の義なり、応供と殺賊と互に相ひ顕はすなり。

 [168]世尊大恩の下の十三行は、仏恩深くして報じ難きを歎ず、文の如し。私に謂く、世尊大恩とは、一に仏は始めて慈悲を建て六道の苦を抜き、四聖の楽を与へ、普ねく十法界もて四弘の中に入れたまふは、此れ如来室の恩なり。二に如来は菩薩道を行じて示教利喜し、曾て我に大乗を教へたまふ、復中ごろ忘ると雖も智願失はざるは、蓋し如来室の清涼温煖なり、大慈与楽の恩なり。三に衆生は苦に遭て父を視るのみ、仏は其の宜しきを伺ふこと犢の母を逐ふが如く、備に六度を行じ、以て衆生を利したまふは、蓋し如来室の寒を遮り熱を障ふ、大悲抜苦の恩なり。四に仏は成道し已つて応に無為寂滅の楽を受けたまふべきに、而して其神徳を隠し、貧所楽の法五戒十善の冷水を用ひて面に灑ぎ、醒悟を得せしめたまふは、蓋し是れ仏衣の貪欲の熱を遮る恩なり。五に老比丘の像を示し、方便附近して一日の価を与へたまふは、蓋し是れ仏衣の見寒愛熱を除くの恩なり。六に是れを過ぎて已後心相ひ体信し、弾訶貶斥して、小を恥ぢ大を慕はしめたまふは、蓋し仏衣の醜陋を遮ぎるの恩なり。七に命じて家業を領せしめ、金銀庫蔵皆悉く知らしめたまふは、蓋し是れ仏衣の我れに荘厳を与ふる恩なり。八に親族を会して父子を定め、付するに家業を以てし、無上の宝聚、求めずして自ら得せしめたまふは、蓋し如来座の恩なり。九と十とは既に座に坐し已つて、身意泰然として快く安隠なることを得、仏道の声を以て一切をして聞かしめ、一切の天人、普ねく其中に於て応に供養を受くべきは、蓋し如来座の我をして自行化他を具足せしむるの恩なり、世尊の大恩は両肩に荷負すれども報ずること能はざる所とは此の謂なり。