[87]非遠非近の文三と為す、一に総じて境智を標す、二に別して釈す、三に結成なり。

 [88]観とは中道の観智なり。一切法とは十法界の境なり、若し単に智を論ずれば、智に所観無し、故に一切を挙げて以て皆空を顕はす。

 [89]如実より去て別釈なり、二辺三諦一異無きを如と名く、七方便に非ず、故に実と名く。実を以て相と為す、故に如実相と言ふ。

 [90]不顛倒とは八倒無きなり。不動とは、二死の為めに動ぜられざるなり。不退とは、心々寂滅にして薩婆若海に入るなり。不転とは、凡夫の生死に転ずるが如くならず、二乗の凡聖に転ずるが如くならず。如虚空とは、但だ名字のみ有て字は得可らず、中道の観智も亦但だ字のみ有りて求むるに得可らず。無所有性とは、自・他・共・無因等の性無きなり。一切言語道断とは、思議す可らざるなり。不生とは、惑智は理には皆生ぜざるなり。不出とは、如来の所治は畢竟して復発せざるなり。不起とは諸の方便皆寂滅するなり。無名とは名も名くること能はざるなり。無相とは、相も相すること能はざるなり。無所有とは、二辺の有無きなり。無量とは、数法に非るなり。無辺とは方所無きなり。無礙無障とは一切処に遍するなり。

 [91]但以因縁有とは結なり、上は直に中道の観慧を明す、今は双て二辺を照すことを明す、理性の畢竟清浄なること上に説く所の如し。解に非ず惑に非ずして、而して惑の因縁より生死を生じ、解の因縁より涅槃を生ず。

 [92]又因縁有れば涅槃有るなり、従顛倒生とは生死を生ずるなり、此れ則ち双照の意顕はるなり。営楽観如是等法とは、即ち三諦等の法なり。

 [93]又但因縁有従顛倒生とは、不思議の三諦の境を結するなり。故説とは、不思議の教なり。常楽観とは、不思議の三観を結するなり。

 [94]又観一切法空如実相とは、観の体を標す。

 [95]不顛倒より去て九句は、観の相を釈す、二辺・八倒の為めに動ぜられざるを不倒不動と名く、二乗凡夫の二地に堕せざるか故に不退不転と云ふ、此二句は智の用を明すなり。理は未来に非るが故に不生、過去に非るが故に不出、現在に非るが故に不起なり。

 [96]釈論五十一に云く、虚空の如くにして、入無く出無く住無きの相なりと。摂大乗も亦爾り、未来の入処無く、過去の出処無く、現在の住処無し。第四十三に云く、因の辺起らざるを不出と名け、縁の辺起らざるを不生と名くと。

 [97]凡そ十九句有り、初めの一句は総、後の十八句は、大品の十八空に対す。

 [98]如実相とは即ち第一義空。不顛倒とは即ち内空。内に六入我々所無ければ顛倒せす。不動とは即ち外空、外に六塵の為めに流動せられざるなり。不退とは即ち内外空、十二入空たるが故に、故に不退と言ふ。不転とは即ち空空、空は諸法を破す、諸法は是れ所破、空は是れ能破なり、復諸法無くして、唯空のみ在ること有らば、此空も亦空なり、故に空空と言ふ。空は既に空なるが故に復能く転ずること無し、故に不転と言ふなり。如虚空とは即ち是れ大空、方を執する計を破す、故に如虚空と言ふ。無所有性とは即ち畢竟空、諸法に遺余無し、故に畢竟空と名く、畢竟空なるを以ての故に所有の性無きなり。一切言語道断とは即ち一切空、一切空にして説く可らず、故に言語道断す。不生とは即ち有為空、有為は是れ因縁和合なり、既に合せざれば即ち不生なり。不出とは即ち無為空、無は出離に名く、出離の法空なるが故に不出と名く。不起とは即ち無始空、原初を求むるに得可らざるが故に無起なり。無名とは即ち性空、解す可し。無相とは即ち相空。実無所有とは即ち不可得空。無量とは即ち有法空、有法は即ち有量なり、有量既に空ず、故に無量と言ふ。無辺とは即ち無法空、無法は則ち是れ辺表なり、今空なるが故に則ち無辺なり。無礙とは即ち有法無法空、二不可得なるが故に無礙と言ふ。無障とは即ち散空、妨障は不可得の故に無障と言ふ、十八空は皆是れ中道の正慧なれば、皆名けて空と為す、十八種の境に随ふ故に十八と言ふのみ。

 [99]大経に云く、如来は常に十八空の義を修したまふが故に、故に十八空を用ひて、用ひて十八句を釈するなり。

 [100]偈に二十八行三句有りて三と為す、初めの一行は標章を頌す。次に二十二行は修行を頌す、後に五行三句は行成を明す、長行には行と近と別に釈す。

 [101]偈の中には合して頌す、正しく言ふに意同じ、開合互に現ず、広略の解弥々復依る可し。上は行と近との二文に各々三有り、今の偈には合して頌す、復次第ならず。初めに応入行の下十四行は、事の遠近を頌す、上には十種の遠離有り、頌の中には略して次第ならず、文に在て見る可し。亦是れ人空行処を頌す、意を取るに即ち兼て近処の三意を頌す、故に偈に是れ則ち名けて行処近処と為すと云ふ。

 [102]常離国王とは、比丘は国王に親近するに十の非法有り、一に陰に王侖を謀る、二に王の大臣を誅す、三に典蔵の宝を亡ふ、四に宮人懐妊す、五に王の身毒に中る、六に大臣諍競す、七に二国の兵を交ゆ、八に王悋んで民に施さず、九に民物を歛む、十に疾疫多し、比丘の呪を行ずと謂ふは此十事有れば、一切の臣民は是れ比丘の所作なりと謂ふ、此れを作して比丘を謗ずるは、即ち法を謗り亦仏を謗るなり、故に仏は王に親近せしめたまはず。

 [103]外道梵志とは、摩隥伽経に云く、初めの人を梵天と名け一韋陀を造る。次を白浄と名け、一を変じて四と為す、一を讃誦韋陀と名け、二を祭祀と名け、三を歌詠と名け、四を穣災と名く、一々各三十二万偈あり、合して一百二十八万偈と成し、一千七百巻有るなり。次を弗沙と名け、二十五の弟子有り、各、一韋陀に於て能く広く分別す。遂に二十五の韋陀有り、次に人有て鸚鵡と名く、一韋陀を変じて十八と為す。次に人有り善道と名く、二十一の弟子有り、変じて二十一韋陀と為す、是の如く展転して変じて千二百六韋陀と為すなりと。毘陀論、此には智論と云ふ、婆耶娑の造なり、凡そ四種あり、一に信力毘陀、火に事へて罪を滅することを明す。二に耶受毘陀、婆羅門を供養して福を得ることを明す。三に娑摩毘陀、二国を和合することを明す。四に阿陀婆毘陀、闘戦を明す、此四論を読むものは、自ら一切智人と称す、毘伽羅、此に記論と名く、婆尼尼の造なり、種々の経書并に諸の雑語を明す。衞世師論は優留佉の造なり、此に最勝と翻ず、出世は八百年、六諦を明す。迦毘羅、此には黄頭と翻ず、亦亀種と云ふ、論を造て増佉と名く。僧佉、此には無頂と云ふ、人に因て論を名く、故に迦毘羅と云ふ、二十五諦を説くなり。

 [104]小乗三蔵学者とは、仏波羅柰に在て、最初に五人の為めに契経修多羅蔵を説きたまふ、仏羅閲祇に在て、最初に須那提の為めに毘尼蔵を説きたまふ、仏毘舎離の獼猴池に在て、最初に跋耆子の為めに阿毘曇蔵を説きたまふ、五百の羅漢は、初夜に阿毘曇蔵、相続解脱経を集む、此れを三蔵学と為すなり。

 [105]深著五欲とは、欲の相は、四天下の人と龍と須論と、四天王は皆根の相到る、忉利天は風を以て事と為す、炎天は相近づくを事と為す、兜率は相牽くを事と為す、化楽天は相視るを事と為す、他化自在は、心に念ずることを事と為す、上天は皆欲を離る。

 [106]寡女処女とは、阿難仏に問ひたてまつる、如来の滅後に女人を見んこと云何と、仏の言く、与に相見ること勿れ、設ひ見るとも共に語る勿れ、設び共に語るも当に專心に仏を念ずべしと。及諸不男とは、彼に般吒と名くるをば、此には黄門と翻ず、黄門とは、男女の形有て男女なること能はざるなり。

 [107]入里乞食とは、雑阿含に云く、一の羊有り、糞聚に往て飽食し、群に還て貢高す、我れ好食を得たりと、比丘も亦是の如し、四事を得已て染著欲想を起し、出要を知らず、設ひ得ざるも恒に想を生ず、設ひ得るも諸の比丘に向て貢高し、他人を毀篾し、我れは得たり、彼は得ること能はずと、是れを羊比丘の乞食と為す。師子王は、大獣に遇はば即ち噉ふも、味はず著せず、小獣を得ては即ち噉ひ、鄙とせず薄とせず、比丘も亦爾り、四事の供養を得て染著を起きず、欲想有ること無く、自ら出要を知る、設ひ利養を得ざるも乱念を起さず、増減の心無し、是れを師子王比丘の乞食と為すと。乞食と行と役と病との四事は而して前後の八時に八精進八懈怠を明す、乞食の前に是念を作せ、道を修せんが為に飢瘡を補ふと、乞て未だ得ずと雖も、念行を廃せず、食を乞ひて得已れば、報恩の為めに道を念ずることを輟めずと、前後の両時倍々精進を加へよ、余の三事の前後も亦是の如し、此れに反するを八懈怠と名く。宝雲経に、食を乞て四分と作すことを明す、一分は同梵行に奉じ、一分は匃人に与へ、一分は鬼神に施し、一分は自ら食す。

 [108]又復不行の下第二に八行は、非遠非近の理の遠近の処を頌す。

 [109]若有比丘の下、第三に五行三句は行成を明す、又三あり、初めに一行半は行成を標す、事成じて外儀に失無し、理成じて内心に滞り無し、故に無怯弱と云ふなり。次に菩薩有時の下、第二に三行は、行成じて而して安楽を得、後の一行一句は、長行の総結を頌す。菩薩入静室の下は、安楽の因を釈す、禅定を修するに因て過悪を止め、人無我を得れば、外は則ち損せず、智慧を修するに因て、諸の取著を離る、法無我を得れば、内に顛倒無し、是れ則ち心怯弱ならず、怯弱ならざるを安楽と名くるなり。文殊の下、第三に一行一句は、長行の総結を頌するなり。

 [110]第二に口安楽行も亦長行と偈頌あり、長行二と為す、一に標章、二に行法を釈す、標章は文の如し。

 [111]若口宜説の下は行法を釈す、又二あり、謂く止行と観行となり、止を四と為す、一に過を説かず、二に軽慢ならず、三に歎毀せず、四に怨嫌せず。

 [112]初めに楽ひて人と経との過を説かざれとは、人は過有ることを聴すも、法は何の過か有らん、七方便の法は、是れ仏の随他意の語にして、不了義と名く、若し其法を過れば、則ち其の人を悩ます、安楽行の相に非るなり。

 [113]二に亦不軽慢とは、円に倚て偏を篾にし、実を重んじて権を軽んぜざるなり。

 [114]三に不説他人長短とは、初めに一切の人を説かず、次に別して声聞か挙ぐ、夫れ人は其失を聞くことを悪む、故に短を譚ぜず、面り誉るは対して毀るなり、故に長を称せざれ、亦張に約して趙が長を説かざれ、趙は他の長を以て己が短を譏り、彼に寄て此れを諷すと謂はん。亦張に向て趙が短を説くことを得ざれ、背て彼を毀るは亦復背て我れを毀らんと。此義の為めの故に、善悪倶に止むべし、又不説長短とは、日蔵第一に云く、初中後夜に睡眠を減省し、精進して坐禅し、経を誦し道を修せよ、生死に背捨して涅槃の路に向へよ、他の短を称せざれ、己が長を説かざれ、謙下卑遜し自ら憍高せざれ、衣食は足ることを知り、頭陀精進して、放逸に行ぜざれ、係念思惟して心馳散せず、一切衆生に於て慈悲心を起せよ、又修多羅所説の空行の如き、自ら読誦し、人に教へて読誦せしめよ、他を謗らず、他の過を説かず、己が長を称せざれと。於声聞人とは、又根性定らず、若し二乗を歎ぜば、或は彼をして大を退し小を取らしめん、若し二乗を毀呰せば、或は其をして大小倶に失し、両ながら取る所無らしめん。

 [115]四に不生怨嫌心とは、若し其人の法は我道を妨害すと謂はば即ち是れ怨心なり、其れ鄙劣と謂はば即ち是れ嫌心なり、心機一たび動て声説即ち発すれば、過を説くの源を杜ぐ、故に怨嫌を生ぜざるなり。

 [116]善修如是の下は観行門なり、諸法の空を観じて取著する所無し、心に苟も執せずば人の意に逆はず、法相に違はずば、則ち小乗の法を説て答へず、但だ大乗を以て答ふるとは、若し大機無きを見て而して小を説かば方便の益を得、若し大無しと見ずして而して小を説くは、其大縁を妨げん、 等しく是れ見ずば、但だ大を説くに咎無し。

 [117]偈に十六行半有て三と為す、初めの二行は標章を頌す、次の九行半は前の行法を頌す、後の五行は行成を明す。

 [118]初めの二行は上の安楽行に住するを頌す、上には総じて応住と称し、頌の中には別して行相を出す、行相とは三有り、安隠説法の半行は、前人をして安隠の道及び果を得せしめんと欲するなり、即ち室に入るの義なり。清浄地等の半行は、即ち座に坐るの義なり。油塗身等の一行は、即ち衣を著するの義なり、三法の口業を導くを安楽行と名く。

 [119]安処法座の下九行半は、行を頌するに二と為す、初め五行半は止行を頌す、次に四行は観行を頌す、上の止行に四有り、今具に頌す、初めに随問為説の半行は軽慢せざることを頌す、慢すれば則ち随はず。若有比丘より随義答に至るまでは二に二行半は、長短を説かざるを頌す、但だ義に依て、人の好悪を譚ぜざれ。若有難問随義答とは二有り、一は答ふ可し、二は答ふ可らず、問答もて相ひ難詰し相ひ上下するに、若し勝負すれば則ち自ら知る、是れを智者の語と為す、自ら放恣にして敢て違ふ有らば之を誅せん、是れを王者の語と為す。長短是非を皆知らず、唯勝たんことを覓むるのみなるを、是れを愚者の語と為す。因縁譬喩より去て入於仏道に至るまでは、三に一行半は、追て楽ふて人法の過を説かざるを頌す。若し人の過を説かば人に毒念を生ず、今は過を説かず、故に発心して仏道に入らしむ、仏道は喜より生ずるなり。除懶惰意よりは、四に一行は怨嫌無きを頌す。怨嫌の心起れば、則ち懈懶し憂悩す、今は慈心を以て法を説て怨嫌無くんば精進して憂無し、上の長行は皆止善に約して説く、頌の中は皆行善に約するなり。昼夜常説無上道教より去て、第二に四行は上の観門を頌す、上には但以大乗答と云ふ、頌に説無上道と云ふ、上には令得一切種智と云ひ、頌に願成仏道と云ふ。

 [120]我滅度の下、第二に五行の偈は、口安楽行の成ずることを明す、初めの一行は行成を標す。次に無嫉の下、第三に二行は、内に過無ければ則ち外難生ぜざることを明す。臭物無ければ蝿は則ち来らざるが如し。次に智者如是の下、第三に一行は、内に善法有る所以に行成ずることを明す。如我上説とは、若し内に過無ければ長行の中に説くが如し、若し内に善有れば偈の中に説くが如し。次に其人功徳の下、第四に一行は功徳を格量す、文の如し。

 [121]第三に意安楽行、亦長行と偈頌あり、長行亦三と為す、標章と釈行と結成となり。

 [122]釈の中亦先に止、後に観あり、止の中四有り、一に嫉諂せず、二に軽罵せず、三に悩乱せす、四に諍競せず。

 [123]夫れ二乗は速に生死を出んことを欲して、先に貪欲を除く、菩薩は先に瞋見を除く、嫉は是れ瞋の垢、諂は是れ見の垢なり、嫉忌は慈悲の心に違すれば化他の法に非ず、諂誑は智慧の道に乖けば自行の法に非ず、智慧障へらるれば、将に何ぞ上求せん、慈悲苟くも妨げらるれば将に何ぞ下化せん、安楽行の菩薩は最も須らく之を棄つべし。

 [124]亦勿軽罵の下、応に円行を以て別を呵すべからす、機を知らば責む可し、知らずんば罵ること勿れ、善根を退する義有るべし。

 [125]比丘の下、応に円を以て通を呵すべからす、其れ本と大機無きに強て円を以て呵せば、心に乖て悩を成ぜん、通既に呵せらる、円復未だ解せず、前に疑ひ後に悔ひ、大小倶に失せん、道を去ること紆廻なるを甚遠と名く、此れ別の行人を悩すなり、空に沈んで証を取るを不得と名く、此れ通人を悩ますなり、生死を厭ふを懈怠と名く。悲花に小乗の者を懈怠と為すと明す。

 [126]起大悲心より去て観行を明す、亦四と為す、前の四悪に約して而して行善を起すなり、一に一切に於て大悲を起して嫉諂に違す。

 [127]二に如来に於て慈父の心を起し軽罵に違す、凡そ仏道を求むるは即ち是れ学人なり、学を敬ふこと仏の如くにして軽罵を得ざらん。諸とは三世に通す、此れは即ち未来の如来なり。

 [128]三に菩薩に於て大師の想を起し、悩乱に違す。理をもて論ずれば三乗は皆是れ菩薩にして、化訓の徳有れば皆衆生の師なり、応に師の想を起すべし、其の短を言ふこと勿れ。

 [129]四に平等に法を説き諍論に違す、平等とは偏執の諍を破するなり、不多不少とは器の利鈍を量るなり。

 [130]文殊の下は行成を結す、又二あり、一に悪を止るに由て悪加ふること能はず、故に無能悩乱と云ふ。

 [131]二に観行に由るが故に勝人来集し好き同学を得るなり。

 [132]偈に六行有り、初の五行は、上の止観の二行各々四意有るを頌す、後の一行は行成を頌す。

 [133]第四に誓願安楽行に二有り、初めに長行、次に偈頌なり。長行に又二あり、初めに行法を明す、次に経を歎ず、行法に就て三と為す、標章と行法と結成となり。

 [134]標章文の如し。

 [135]行法三と為す、初めに在家出家より去て誓願の境を標するを明す、二に応作是念より去て誓願を起すの由を明す、三に我得より去て正しく誓願を立つ。

 [136]初めに慈誓の境を明す、通じて曾て方便の心を発する者を取る、而も未だ三界を出でざるを在家と名く、通惑を断じ尽すを出家と名く、此れ両種の二乗、三種の菩薩を摂得するなり、此輩も亦無明を具す、亦応に是れ大悲の境なるべし、但だ其れ皆曾て発心して、慈誓と相応す、須らく其円の道、円の果の楽を与ふべし、故に生大慈心と言ふのみ。

 [137]悲境とは菩薩に非るの人なり、通じて未だ曾て方便の心を発せざる者を取て非菩薩と名く、全く方便に帰向せず、況んや復真実をや、此悲境は一切の三界の内なる者を摂得す、此れ等も亦須らく楽を与ふべし、但だ其流転に際り無し、正しく悲誓と相応す、宜しく其罪の因罪の果を抜くべし、故に生大悲心と言ふのみ。

 [138]応作是念より随宜説法に至るまでは、即ち慈を起すの由なり、諸の楽小のものは仏の方便を執して以て真実と為すに由て円の道を曾せず、故に大失と言ふ、大失は是れ慈誓の由なり。

 [139]不聞不知より去ては是れ悲誓の由なり、未だ偏円の心を発せず、偏円の二道を聞かざるに由るが故なり、偏道を聞かざるを以て聞慧無し。不知とは思慧無し、不覚とは修慧無し、又円の三慧無し、何となれば、問はざるが故に聞かず、信せざるが故に知らず、解せざるが故に修せず、偏円の三慧、権実皆無し、甚だ憐愍すべし、悲を起すの由なり。

 [140]其人雖不問不信此経より去て正しく誓願を発す、彼れ偏円の二道を問はず信ぜずと雖も、菩薩は偏に約して誓を発せず、但だ其円道の三慧を与んと欲す、故に雖不問不信此経我得三菩提引令得入と言ふなり、菩提智慧神通を誓願するは、皆安楽行に約して得、何となれば、深く如来の座を観ずるが故に智慧力を得、四辯荘厳して、能く慧を以て抜くなり。深く如来の室、如来の衣を観じて大善寂力を得、滅定を起たずして諸の威儀を現ず、神通福徳荘厳して、先に定を以て動ずるなり。

 [141]文殊より去ては是れ行成を結す、三と為す、初めに総じて過失無きを結す、則ち是れ行成ずるなり、行は云何が成ずる、其の大誓願を立つるを以ての故に、入如来室の行成ず、其四衆の円道を失するを知るを以ての故に、即ち如来座の行成ず、其誓て其心を制して懈怠せざるを以ての故に、如来の衣の行成ず、三行具に立す、故に行成ずと言ふ。無過失とは慈悲成ずる故に瞋垢の失無し、如来の衣成ずる故に懈怠無し、如来の座成ずる故に諂曲無きなり。

 [142]常為比丘の下、第二に別して慈悲の行成ずることを結す。慈成ずるを以ての故に四衆人天の供養聴法を摂得す、誓願成ずる故に仏の神通を感じて諸天護を作す、如来の座成じて聴く者歓喜す。

 [143]所以の下第三に誓の行成ずることを釈す、三世の仏も尚ほ守護したまふ、況んや諸天をや。

 [144]文殊より是法華に至る下、第二に経の聞き難きを歎ず、又二あり、法説と譬説なり、法説に又二なり。

 [145]一に昔未だ曾て顕説せず、故に昔は得ず。二に今日乃ち得るなり。

 [146]譬説に亦二あり、一に不与珠瞽、昔未だ曾て顕説せざるを譬ふ、二に与珠譬、今日聞くことを得るかを譬ふ、二譬各々開合有り。不与珠譬を六と為す、一に威もて諸国を伏す、二に小王の順ぜず、三に兵を起して往て罰す、四に功有るを歓喜す、五に功に随て賞賜す、六に而して珠を与へず。

 [147]輪王は如来の世を化したまふを譬ふ、降伏諸国は陰界入の諸境を譬ふ。

 [148]ニに小王は煩悩等を譬ふ、未だ無漏の調伏を得ざるを不順其命と名く。

 [149]三に起種々兵は、七賢の中の方法を前軍と為し、順陀・斯陀中の方法を次軍と為し、阿那阿羅漢中の方法を後軍と為すことを譬ふ、所破は是れ三毒等分八万四千の寇盗、能破とは是れ八万四千の法門の官兵なり。

 [150]王見兵の下、第四に功有て歓喜す。

 [151]随功賞の下、第五に功に随て賞賜するは、田は即ち三昧、宅は即ち智慧、聚落は初果二果、邑は即ち三果、城は即ち涅槃、衣服は即ち慚忍の善法、厳身の具は助道の善法なり。種々七宝は即ち七覚等、象馬車乗は即ち二乗の尽無生智なり。奴婢は即ち神通、有漏の善法を得るは人民の如し。

 [152]唯髻中の下、第六に而も珠を与へず、分段を出づるの機有るを小功勲と為す、変易を出づるの機有るを大功勲と為す。驚怪とは未だ大勲有らざるに、忽ち髻珠を賜はば諸臣皆怪しむ、衆生の大機未だ動かざるに忽ち此経を説かば、二乗は疑惑し菩薩は驚怪するを譬ふ。

 [153]六譬を合す、一々文の如し。

 [154]文殊如輪王の下は与珠譬なり、又二あり、一に大勲有り。

 [155]二に珠を与ふ、明珠とは、明は中道の智を譬ふ、円は常を譬ふ、在頂とは極果の宗とする所なり。髻中とは、実は権の為めに隠さる、髻を解くは即ち開権なり、珠を与るは即ち顕実なり。

 [156]合亦二あり、能令至於一切智とは、智は即ち果名、是れ行一なり。第一之説とは是れ教一なり、秘蔵は是れ理一にして、人一を兼ね得るなり。

 [157]偈に十四行半有て二と為す、初めに四行は上の行法を頌す、次の十行半は上の経を歎ずるを頌す、初めに行法を頌するに又二あり、初め一行は超へて行成ずることを頌す。上には総じて行成を明す、今の頌は別して顕はす。常行忍辱とは著衣の行成ずるを頌す、哀愁一切とは入室の行成ずるを頌す、乃能演説とは坐座の行成ずるを頌す。次に後末世の下、第二に三行は修行の法を頌す、上に三有り、境由誓等なり、偈も具に頌す。

 [158]次に譬如強力の下、第二に十行半有て上の法聞き難きを歎ずるを頌す、上は法譬の合有り、今は但だ譬合を頌す、譬を頌するに二有り、初めに三行は不与珠を頌す。次に如有勇の下、第二に一行は与珠を頌す。次に如来亦爾の下、第二に合譬なり、初め三行半は不与珠を合するを頌す。次に既知衆生の下、第二に三行は与珠を合するを頌す、其中に細かに開く云云。

 [159]我滅度後の下二十三行は、是れ品の第三に総じて行成感徴の相を結して以て修行を勧むるなり、三と為す、初めに一行半は結して四行を勧む。

 [160]次に二十行半は、三報を挙げて以て勧む、亦三障清浄と名く、後の一行は総結なり。三障浄く転じて、現と生と後世との悪業尽くれば、即ち現と生と後との勝報を得るなり、初めの一行の無憂悩とは、是れ報障転じて現報を転ずるなり、二に半行の不生貧窮とは、是れ業障転じて生報を転ずるなり。三に衆生楽見の下十九行は、煩悩障転じて後報を転ずるなり。今初めに読是経の一行は、現世の憂悩を滅して即ち苦受の報を除く、此れ現報の心を転ず、無病痛等は即ち報色を転ずるなり。不生貧窮の下、第二に半行は悪業を転ずるなり、悪業因は応に悪果を感ずべし、経の力は悪因を転じて好果を得しむ、即ち生報を転ずるなり。不生とは即ち悪生業無し、現在に経を持して貧窮の業を作らずぱ、来世卑賤に生れざるなり。衆生楽見の下十九行は後報転ずるを明す、三煩悩障を転ずるなり、二と為す、初めに三行は別して三煩悩障の転ずることを明し、二に十六行は総じて一切障転ずることを明すなり、初めに又三あり、初めに衆生楽見の下一行は、別して貪障転ずるを明す。多欲の者は則ち人忽ち慢ず、又梵天に生ずることを障ふ、欲障転ずるが故に、人の見んと楽ふ所、天童給使するなり。刀杖不加の下、第二に一行半は、別して瞋障転ずることを明す。瞋を捨つるときは則ち内の刀箭を除く、陣に入るときは則ち外刀も傷けず。智慧光明の下半行は、三に別して愚痴の障の転ずることを明す。若於夢中夢見妙事の下、第二に十六行有り、総じて一切の煩悩障の転ずることを明すなり、亦是れ後報転ずるなり。経を持して現に此相を感ず、当に知るべし、過去に久しく已に成就して、今縁を藉て而して発するのみ。又成仏因果等の相有り、並に是れ後報なり、故に夢中に於て未来後報の相を見る、百千万劫の事、一念の夢の中に在り、用ひて妙法の不可思議にして、一の中の無量、無量の中の一なることを表はす、是相前に現ず、後に当に果を尅すべし。又六と為す、初の信心より乃至妙覚の八相の成仏は皆如来の荘厳にして而して自ら荘厳するなり、即ち忍辱の報なり。初めの三行の夢に十信に入るに約するに又二あり、初めに二行半は慈悲の報なり。次に半行は正見無癡の報なり。次に又見諸仏の下、二に六行半は、夢に十住に入るなり。次に又見自身在の下、三に三句は、夢に十行を修するなり。次に証諸実相の下、四に一句は、夢に十廻向を悟るなり。次に深入禅定の下、五に半行は、夢に十地に入るなり。次に諸仏身金の下、六に五行は、夢に妙覚に入るなり。既に証不退智即為授記と云ふは、当に知るべし、初住の無生得記の位に入ることを得ることを。又見自身在山林とは、知ぬ、是れ十行に善法を修習することを。証諸実相とは、知ぬ、是れ十廻向にして、正しく中道を観ずる位なることを。深入禅定とは、即ち第十地の中の無垢三昧なり、金剛定に入り、諸仏皆現じたまひ、摩頂受職するなり。八相の仏を夢るは以て妙覚なることを知る、此中に或は是れ初住に能く八相成仏するの相ならん。前の次位に仍りて、寄せて極覚を譚ずるのみ。

 [161]若後悪世の一行は、総じて行成ずることを結するなり。

 [162]信根とは、三宝に於て堅固信を得れぱ、一切沮壊すること能はず。精進根とは四正勤を得るなり。念根とは四念処観を得、方便を勤めて貪憂を調伏するなり。定根とは四禅を得るなり。慧根とは是れ四諦を解するを得て実の如く知るなり。又信根とは、如来に於て菩提心を発し、得る所の浄信心なり。精進根とは、如来の所に於て発心して起す所の精進なり。念根とは、如来に於て発心して起す所の念なり。定根とは、如来の所に於て起す三昧なり。慧根とは、如来の所に於て起す智慧なり。八正は是れ沙門の道、亦是れ沙門の法なり、貪瞋一切の煩悩尽くるは是れ沙門の義なり、四果は是れ沙門の果なり。

 [163]夢とは須陀洹より支仏に至るまで悉く夢有り、唯仏のみ夢みたまはず、疑無く習気無きが故に夢みず、五事に従ふ故に夢有り。偈に説くが如し。疑心を以て分別すると、学習と現事と因と、非人来て相語ると、此五事に因て夢みると。又是れ聞見、及び諸の患を更へられ、七事の為めの故に夢有り。

 [164]現在の意識も尚ほ色を見ず、云何ぞ夢中の意地に色を見ん、答ふ、皆是れ曾て見曾て聞くが故に想ふのみ。又是れ吉不吉の相のみ、夢中には通無く宿命智無し、云何ぞ能く未来世の事を見ん、答ふ、此れ願智の境界に非ず、乃ち是れ比知のみ。諸人曾て是の如き夢、是の如き果有り、今以て比知するのみ。問ふ、誰か眠るや、答ふ、五道及び中陰に皆眠有り、胎に在て諸根具する者も亦是れ眠る、乃至仏も亦眠りたまふ。問ふ、眠は是れ愚是れ蓋なり、此れ云何が通ぜん、答ふ、仏起ちたまふは現前なり、身を調へんと欲する故に眠る、蓋に非ず愚に非るの眠なり。

◎従地踊出品を釈す

 [1]師厳にして道尊ければ鞠躬祇奉す、如来一たび命じたまふに四方より奔踊す、故に従地踊出品と言ふ。

 [2]三世の化導の恵利疆り無し、一月の万影は孰れか能く思量せん。過を召きて以て現を示し、経を弘めて以て当を益す、故に従地踊出品と言ふ。

 [3]虚空は湛然として早無く晩無し、惑ふ者は迹を執して而して其本に闇し、昔を召きて今を示し、近を破して遠を顕はす、故に従地踊出品と言ふ。

 [4]寂場の少き父、寂光の老たる児は、其薬力を示して咸く知ることを得せしむ、故に従地踊出品と言ふ。

 [5]文に云く、是れ何れの所よりか来る、何れの因縁を以て集ると。

 [6]今は諸の義を以て品を釈して四悉檀因縁の解を顕はす、故に従地踊出品と言ふなり。

 [7]此下は是れ大段第二に師門の近迹を開して仏地の遠本を顕はす、其文三と為す、一に此れより下汝等自当因是得聞に至るまでは序段なり、二に爾時釈迦告弥勒より下分別功徳品の弥勒の説の十九行の偈に至るまでは正説段なり。三に偈の後より下の十一品半は流通段なり云云。序文二と為す、一に踊出、二に疑問なり。踊出を三と為す、一に他方の菩薩の弘経を請ひたてまつり、二に如来許したまはず、三に下方より踊出するなり。

 [8]他方の菩薩は通経の福大なるを聞き、咸く発願して此に住して弘宜せんことを欲す、故に之を為さんことを請ふ。

 [9]如来之を止めたまふに凡そ三義有り、汝等は各々自ら己が任有り、若し此土に住せば、彼利益を廃せん、一なり。又他方と此土の結縁事浅し、宜授せんと欲すと雖も、必らず巨益無からん、二なり。又若し之を許さば、則ち下を召すことを得ず、下若し来らずんば、迹を破することを得ず、遠を顕はすことを得ざらん、是れを三義もて如来は之を止めたまふと為す。下方を召して来るにも、亦三義有り、是れ我が弟子なり、応に我法を弘むべし、縁の深広なるを以て能く此土に遍して益し、分身の土に遍して益し、他方の土に遍して益す、又開近顕遠することを得、是故に彼を止めて而して下を召したまふなり。

 [10]仏説是時より下、是れ第三に下方踊出を二と為す、一に経家相を叙す、二に問訊を明す、両段各々五あり、初めの五とは、一に踊出、二に身相、三に住処、四に聞命、五に眷属なり。

 [11]住処とは常寂光土なり、常は即ち常徳、寂は即ち楽徳、光は即ち浄我なり、是れを四徳秘密の蔵と為す、是れ其住処なり。不住の法を以て秘蔵の中に住す。下方とは法性の淵底、故玄宗の極地なり下方と言ふ。下に在れば此に属せず、空中は彼に属せず、此に非ず、彼に非ず、即ち中道なり、此を出ずれば上に在らず、此下に在らず、上ならず、下ならずして空中に住在す、亦是れ中道なり。

 [12]来の由は、命を聞くが故に来り、法を弘むるが故に来り、執を破するが故に来り、本を顕はすが故に来る、皆上に説くが如し。

 [13]所将眷属とは、若し人情をもて往て望めば、六万五万恒沙を領する者を多と為し、三二一を領する者を少と為し、単己なる者は隻独なりと謂はん。若し文に依て往て尋ぬれば、六万五万の者を少と為し、単己なる者を多と為さん。文に云く、単己独処なる者は其数転た上に過ぎたりと。若し法門に依らば、一々皆是れ導師の徳にして、能く衆人を引て宝所に至る、当に知るべし、一己は独に非ず、六万は多に非ず、一は即ち一道清浄、二は即ち定慧、三は即ち戒定慧、四は即ち四諦、五は即ち五眼、六は即ち六度なり、一々の度に十法界を具す、一々の界に各々十有り、十は即ち百有り、百は即ち千を具す、十善なれば即ち万有り、一度に万を具すれば、六度は即ち六万の法門なり、多を多と為さず、一を少と為さず、多に非ず、少に非ず、而も多而も少なり云云。

 [14]是諸菩薩従地出の下、第二に問訊五と為す、一に三業の供養、二に問訊の辞を陳ふ、三に仏安楽を答ふ、四に偈もて随喜を頌す、五に如来述歎。

 [15]初めの三業供養に就くに、五十小劫を経るを半日の如く謂はしめ、四衆をして遍く見せしむ、此れ乃ち長を隠して而して短を現ず、其神力を借りて狭をして而も広を見せしむ、倶に是れ不可思議なり。

 [16]拜遶は是れ身、讃法は是れ口、瞻仰は是れ意なり。

 [17]五十小劫と半日とは、此れは是れ時節不可思議なり。

 [18]如来の見たまふ所は二相を以てせず、下方の菩薩は当に面り称揚したてまつり、如来は黙然として常に其讃を受けたまふ。

 [19] 解する者は短に即して而して長なれば、五十小劫と謂ふ、惑ふ者は長に即して而して短なれば、半日の如しと謂ふ。

 [20]斯れを本迹と為し而も弄引と作す、如来未だ説かざれば、本に闇ふして而して迹に執す。仏若し開顕したまはば、近を悟て而して遠に達す、亦不思議一なることを知るなり。

 [21]四衆遍ねく菩薩を見るとは、亦是れ不思議なり、夫れ肉眼と天限は見る所遠からず、而して今観る所は虚空に充満す、雨の猛きを見て龍の大なることを知り、花の盛なるを見て池の深きを知る、応の虚空に満るを見るときは、則ち真の法界に弥てることを知るなり。

 [22]初めに四導師を標す、次に問辞を陳ぶ、問に又二なり、長行と偈頌なり、長行に二有り、一に如来の安楽を問ひたてまつり、二に衆生の度し易きを問ひたてまつる云云。但四人を挙るは、開示悟入の四十位に擬せんと欲するのみ。華厳は但だ法慧・徳林・金幢・金蔵を挙げて四十位を説くが如し云云。

 [23]三に如来具に答へたまふ、安楽・易度の両事相成ず、度し易ければ則ち安楽にして、安楽なれば則ち度し易し、易度両と為す。

 [24]一に根利にして徳厚し、世々より已来、常に大化を受け、始めて我身を見、即ち華厳を禀けて如来慧に入る、果熟して零ち易し、是の衆生度し易し。

 [25]二に根鈍にして徳薄し、世々已来、大化を受けず、是人の為めの故に、須らく鈍を開し漸を説くべし、三蔵方等般若もて而も之を調伏す、亦此人をして今法華を聞て仏慧に入らしむ、前に比すれば難しと雖も、仏に於ては甚だ易し、仏は其宜しきを識り、方便して所を得、薄塗熨を須ひたまふも、慧悟是れ同じ。

 [26]今略して十意を挙げて之を釈すれば、第一に始見今見、第二に開合不開合、第三に竪広横略、第四に本一迹多と迹共本独、第五に加説不加説、第六に変土不変土、第七に多処不多処、第八に斥奪不斥奪、第九に直顕実と開権顕実、第十に利根初熟と鈍根後熟なり。

 [27]第一に始見今見とは、初め成道の時を始見と名く、法華の座席久しくして後真実なるを今見と名くるなり。

 [28]日の高山を照すがごとく、即ち頓を説きて、開せず合せず。入らざる者の為めに頓を開して漸を説き、五味に調伏して漸をして頓に帰せしむ。

 [29]頓は直に竪入して法界に入る、故に竪広と言ふ、方便を歴ざるか故に横略と言ふ。今五味を歴れば即ち是れ横広、仏慧に入り得れば亦是れ竪広なり。

 [30]一台の故に本一、千葉の故に迹多し、迹は衆経と同じ、故に共と言ふ、本は衆経と異なり、故に独と言ふ。

 [31]四菩薩に加して四十位を説くと、自ら開示悟入を説て他に加せずとなり。

 [32]花王世界の故に不変と言ふ、二変土田の故に変土と言ふ。

 [33]七処八会、是れを多処と為す、耆闍崛山と遠く虚空に処するとなるが故に多処ならず。

 [34]化城を滅し客作を改むるが故に斥奪と言ふ、此の如きの事無し、故に斥奪ならず。

 [35]大直道を行ずるを直顕実と名く、声聞の法を決了するを開権顕実と名く。

 [36]根利にして縁熟すれば、始めに仏慧に入る、根鈍にして後熟するものは今仏慧に入る。

 [37]縁宜同じからず、略して十異と為す、種智と法界と等しくして差別無し。

 [38]故に文に云く、始め我身を見、我所説を聞きて、即ち皆信受して如来慧に入りにき、先より修習して小乗を学せる者を除くと、今此経に於て仏慧に入る、明文茲に在り、須らく疑ふべからざるなり。

 [39]諸師は其縁の異るを見て、縁を逐て異解し、迷て反することを知らず、道を去ること転た遠し、若し理同じきことを識らば、千車は轍を共にす、仏慧は則ち殊ること無きなり。

 [40]旧云く、華厳は了義にして、満字常住なり、法華は不了義にして満に非ず常に非ずと。今此文を以て之を並す、若し始に入るは是れ了義、今に入るは不了義ならば、始に入るは是れ仏慧にして今に入るは仏慧に非ず、若し仏慧既に斉しくば、了義も亦等しからん、満字常住も悉く然らん云云。

 [41]地人は華厳を呼んで円宗と為し、法華を不真宗と為す、今亦此文を用ひて之を並す。

 [42]第四に菩薩の領解随喜なり、能問とは、即ち是れ華厳中の四大士、法華中の身子の三請は、倶に是れ能問なり。所問とは、即ち是れ仏の智慧を問ひたてまつるなり。

 [43]第五に如来の述歎とは、問と碩に異なり、問家は能問の人を随喜す。皆是れ菩薩なり、及び所化の人の聞き已て信行すれば、我等随喜し、如来は述歎したまふ。能化の人に随喜を生ずとは、此義云何、然るに能問勿者は皆是れ古仏なり、汝能く随喜すとは、即ち是れ如来なり、菩薩は其迹を随喜し、如来は其本を述歎したまふ、此れ亦密に寿量を表す云云。

 [44]爾時弥勒及八万大士の下、第二に疑問序なり、 寂場より已降、今座已往は、十方の大士の来会絶へず、限る可らずと雖も、我れは補処の智力を以て悉く見悉く知る、而して此衆に於て一人を識らず、然るに我れは十方に遊化し諸仏に覲奉す、諸仏の大衆は快く諳知する所なり。履歴の処に就ても亦識らざる所、若しは来、若しは去、是の如く之を推すに皆識らざる所なり。

 [45]又彼諸の大士は是れ前進先達なり、弥勒は是れ後番末学なり、後は前を知らず、故に識らざる所なり。

 [46]又彼等大士、本より実相の底にして十方に応現すれども、別頭の教化、所有の真応は弥勒の境界に非ず、是故に識らず。

 [47]又仏は弘経に託して諸の大士を召したまひ、大士は師の命を聞くが故に、来て密に寿量を開く、時衆の知る所に非ず、故に不識と言ふ。

 [48]此れ四悉檀に約して疑問序を釈するなり云云。

 [49]疑問二と為す、一に此土の菩薩の疑、二に地土の菩薩の疑なり、此土の疑又二あり。

 [50]初めに長行の疑念なり。次に偈なり、十九行半の偈は正しく問ふなり、又五と為す、初めに一行一句は何処より来れるやを問ふ。次に何因縁の下、第二に一行三句は何の因縁もて来れるやを問ふ。次に一々諸菩薩の下、第三に九行は其数量を叙す。次に是諸大威徳の下、第四に両行は、其師の誰なるやを問ふ。次に如是菩薩神通の下、第五に五行半は結請、又五あり、初めの両句は結歎なり、次に四方地の下、第二に両行は来処を答へたまはんことを請ふ。次に我於此衆の下、第三に一行は来縁を答へたまはんことを請ふ。次に今此之大衆の下、第四に一行半は大会同じく請ふ。次に無量徳の下、第五に二句は師主を答へたまはんことを請ふ云云。

 [51]二に他方の菩薩の疑とは分身の眷属は横に十方に在りて弥勒と同じく疑ふ、二土倶に本地を知らず、成道してより甚だ久しからんことを顕はさんと欲し、各々疑を己が仏に陳べたてまつるも、仏は皆抑へて弥勒を待たしめたまふ云云。

 [52]爾時釈迦牟尼仏告弥勒の下、第二に正説なり、文二と為す、先に長行、次に偈頌なり、誡許の後に正説す。

 [53]長行は先に述讃なり。次に誡とは乱ること勿れ、怠る勿れ、退く勿れと誡む。

 [54]次に許とは果智を標す、果智とは如来の知見なり、知見は妙果なり。

 [55]次に化教を開するは宜示なり。自在神力とは、過去の益物なり。師子奮迅とは、現在十方の分身の所被の処なり。或は云く、奮迅は将に前んとする状なりと、此れ未来常住益物の相を表はすなり、大勢威猛とは、未来の益物なり。或は此れを以て現在と為し十方に震動す、人の意に随て用ふるのみ、幸に文の次第に依る者好し。

 [56]又私に謂く、如来自在とは我なり、神通とは楽なり、師子奮迅とは、奮迅して垢を除くは浄なり、大勢威猛とは未来の益物にして、即ち常なり、此れ四徳の意を点ずるなり云云。

 [57]四行の偈の初めの三句は三誡を頌す。後の三行一句は許を頌す、初めの一句は智慧の果を標することを頌す。次に三行は三世を頌す。

 [58]爾時世尊の下、第二に即ち正説段なり、文三と為す、此れより去て寿量品を尽くすまでは、正しく近を開し遠を顕はす、二に分別品の初めに総じて法身の記を授く、三に弥勒総じて領解を申ぶ。初めに又二あり、先に略して近を開し遠を顕はし、執を動じ疑を生ず、次に広く近を開し遠を顕はし、惑を断じ信を生ず。略に又二あり、一に略開、二に疑に因て更に請す、略開に就て長行と偈頌有り、此中には但だ二問に答へて何の因縁もて集るかを答へず、答へざるに由るが故に、所以に重ねて請す、長行は双べ答へ双べ釈す、文の如し。

 [59]下方空中住を釈するは、釈論に有底散三昧を明す、応に四説を作すべし、有とは三有なり、底とは非想非々想なり、深勝なるを以ての故に底と為す。又有とは名相なり、底とは空なり、空寂を以ての故に底と為す。又有とは二辺の俗なり、底とは辺際智満ずる故に底と為す。今経は下方の空を以て底と為す、是れ上界ならず、是れ下界ならず、中道を表して底と為す、此れは是れ約教分別なり云云。

 [60]於諸経典の下は釈なり、師は弟子の智断両徳を備ふることを知る、初めは是れ双て智断を修し、次に双て智断を証す。於経典分別は是れ智を修す、正憶念は是れ断を修するなり。

 [61]衆に在るを楽はざるは是れ断を証するなり、勤行精進するは是れ智を証するなり。

 [62]不依止人天而住よりは是れ処を釈するなり。人天は是れ二辺、不住は著せざるなり。深智無礙とは不思議智に依るなり。楽於仏法とは不思議の境を楽ふなり。境智は甚だ微にして近行の菩薩に非るなり。

 [63]偈八行半あり、初めの五行半は両間に答ふるを頌す。下の三行は双釈を頌す云云。

 [64]爾時弥勒の下は、疑に因て更に請す、長行と偈頌有り、長行二と為す、一に疑、二に請なり。

 [65]上の菩提樹下乃教化之今皆住不退を聞き、又我従久遠来教化是等衆を聞き、此二説を聞て、執を動じ疑を生にず。

 [66]白仏の下は、疑を騰て更に請す、又二あり、一に法、二に譬なり。法説三と為す、初めに即白仏の下は、一に成道は近くして所化は甚だ多きことを疑ふ、近を執して而して遠を疑ふなり。

 [67]次に世尊此大菩薩の下、第二に所化既に多く、行位深妙なり、遠を執して而して近を疑ふなり。

 [68]次に世尊如此之事の下、第三に結請なり。

 [69]譬説に間合有り、開を三と為す、色美髪黒は、上の成道近き意を譬ふるなり。

 [70]指百歳人より去て、上の所化の甚だ多き意を譬ふるなり。淮北の諸師は、譬を以て譬を釈す、父は還年の薬を服して、貌二十五に同じ、子は薬を服せざれば、形百歳の如し、若し薬力なりと知れば、子父なることを疑はす、知らざれば之を怪しむ。如来は横に垂迹の薬を服して伽耶始生を示す、諸の菩薩は直に本地を論ず、久しく道心を発し、今不退に住す、仏及び仏の若きは、快く此事を知りたまふ、自下は達せざれば、疑はざることを得ず。

 [71]是事難信の下は譬を結するなり。

 [72]初めに近譬を合す、文の如し。

 [73]而此大衆より下は遠譬を合す。此菩薩を観るに、久しく善根を種へ、止だ伽耶にして発心するのみに非ず。善入出住とは、九次第定は是れ善入、師子奮迅は是れ善出、超越は是れ善住なるは通蔵の意なり。初地より十地に至るを善入と名く、十地にして重玄門に入て凡夫の事を倒修するを善出と名く、妙覚の遍ねく満ずるを善住と名くるは別の意なり。畢法性三昧を善入と名く、首楞厳を善出と名く、王三昧を善住と名くるは円の意なり。次第習諸善法とは、因に拠て善習と為す、果に就て善入と為す云云。善答難問とは、二荘厳を具するなり、七方便の尊の故に宝と云ふなり。

 [74]今日世尊の下は答を請ふなり、又三あり、今日より下は仏語を挙ぐ。

 [75]我等より下は、第二に請の意を明す、請の意二と為す、一に現在の為なり、我れ未だ達せずと雖も信ずるのみ。然諸菩薩の下は、第二に未来の為なり、浅行は喜んで誹謗を生ず。新発意の者は、謗て悪道に堕す、不退の者は、信じて謗らずと雖も、道を増すこと能はず、若し為めに分別せば、謗る者は則ち信を生じ、信ずる者は則ち道を増さん云云。

 [76]唯然より下は、第三に答を請ふ、答を請ふに亦二あり、初めに我等が疑を除く、及未来の下は、第二に未来の疑を除く。

 [77]偈に十四行は上の法譬を頌す、五行は法説を頌す、九行は譬説を頌す。法説の中に三あり、初めの一行は近を執ずるを頌す。次に此諸仏子の下は、第二に二行三句は遠を疑ふを頌す。後に云何而可の下は、第三に一行一句は結請を頌す。譬を頌する中、初めに二行は開譬を頌す。後に世尊亦如是の下七行は合譬を頌す、亦三あり、初めに就て二句は近を合するを頌す。次に是諸菩薩等志の下は、第二に三行半は遠を合するを頌す。後に我等従仏聞の下は、第三に三行は、請答を合するを頌す云云。