◎薬草喩品を釈す

 [1]此中山川雲雨を具するに、独り薬草を以て名を標するは、土地は是れ能生、雲雨は是れ能潤、草木は是れ所生所潤なり、所生所潤は通じて皆用有れども、而も薬草の用強し。有漏の諸善は悉く能く悪を除けども、無漏を最と為す、無漏衆の中の四大弟子は譬を以て仏の譬を領し深く聖心に会ふ。仏讃じたまふ、善ひ哉甚だ希有なりと為すと、其の得解を述して以て其人を喩ふ、故に薬草喩品と称す。

 [2]夫れ薬草は叢育の日久し、一たび雲雨を蒙むれば、疏を扶けて暐曄として芽莖外に豊蔚し、力用内に充潤す。諸の無漏もて最後身有余涅槃に住して更に無上の仏道を願求せず、今は経を聞くことを得て、自ら仏乗に乗じ兼て以て人を運するを譬ふ。文に云く、我等今日真に是れ声聞なり、仏道の声を以て一切をして聞かしむと、内外自他に勝力用を具す、故に薬草喩品と称す。

 [3]夫れ薬草は、能く四大の風冷を除き五臓を補養して年を還し色を駐む、今雲雨を蒙むれば忽ち薬王と成る、之を餌て遍ねく衆病を治し、体を変じて仙と成る。諸の無漏もて経を聞て無明の惑を破し仏知見を開くを譬ふ。文に云く、我等今日、真に是れ仏子なり、無上の宝聚、求めずして自ら得たり。仏子応に得べき所の者は皆已に之を得たりと、面たり仏前に於て記莂を受くることを得、嘉く著して而して微に称ふ、故に薬草喩品と言ふ。

 [4]前の一番は是れ師弟の領述にして世界悉檀の意なり、次の一番は生善為人の意なり。次の一番は是れ対治第一義両悉檀の意なり、是れを因縁もて品を釈すと名く。

 [5]余の約教本迹観心、準例して知る可し、復記せず云云。

 [6]此品は是れ譬説中の第三述成段なり、旧云く、其十三偈は仏恩の深きを歎ずるを述す、又其教作人譬、文言曲巧なるを述すと。

 [7]師の云く、応に偏へに爾るべからず、経に善説如来真実功徳と称す、備に其権を領し実を領することを述す、明文此に在り、十三偈は止た是れ二乗の教に斉て恩を荷ふなり、教作人譬は是れ仏の権の功徳なるのみと。

 [8]今言く、都て其周遍して領解するを述す、始め天性の結縁より中間に追誘あり付財に終る、微より著に自ふまで、無量無辺諸の恩徳なり。

 [9]其文二と為す、一に略して述成し、二に広く述成す、略述又二あり、一に双て善哉を述ぶ、二に領の及ばざる所なり。

 [10]双述とは、一の善哉は其両処の実を領するを述し、一の善哉は其の両処の権を領するを述す。善説如来真実功徳とは、真実は是れ実を述し、功徳は是れ権を述す、又華厳の擬宜は実を領するなり。三蔵の誘引は権を領するなり。方等の体信、般若の領教は倶に権実を領するなり、法華の付財は専ら実を論ずるなり。辞致曲巧の故に善説と言ふ、皆是れ仏法なるが故に真実と言ふ。誠如所言とは、印定の旨なり。

 [11]又如来復有より下は、其領の及ばざる所を述す、云何が及ばざる、謂く退と進と横と竪と亦横亦竪と非横非竪と皆及ばざるなり、所以はいかん、大雲普ねく覆て遍ねく清涼を荷ふ、大雨倶に霑して沢を蒙らざること無し、咸く世間をして皆未曾有の法を知見することを得せしむ。那ぞ忽ち教に斉て止だ二乗の得益を領して人天の小草を道はざる、是れを退の及ばざる所と為す、菩薩を上草と名け、亦小樹大樹と名く、敷栄鬱茂して自他饒益し而して復領せず、是れを進の及ばざる所と為す。又十法界同じく仏法界と成る、那ぞ忽ち止だ二乗を領して、余の八法界は都て言に渉らざる、是れを横の及ばざる所と為す。又七方便は浅より深に至り、皆真実に入る、余の五方便は都て言に在らず、是れを竪の及ばざる所と為す。又三世の利益は未だ曾て暫くも廃せず、是れを亦横亦竪の及ばざる所と為す。夫れ山用谿谷云云は総じて一地を言ふ、一地は能く生じて未だ嘗て揀択して彼に攘て此に受けず、草木の種子は皆地に依る、更に余依無し、一雲靉靆として処として密ならざること無し、一雨は一味にして枯栄を隔てず、普く潤ほすこと既に同じければ、普ねく増長を得、如来は平等にして不可思議なり、実に頓を先にして漸を後にし、三を初めにし一を末にせず、龍の慶雲を興して普ねく一切に雨らし、身心に雨を降らさずして、熱を除き清涼なることを得るが如し、是れを五乗七方便十方三世平等広大にして甚深博遠なること不可思議なり、差別有ること無しと為す、是れを非横非竪に領の及ばざる所と為す。不及の旨は都て頓に奪ふに非ず、特に初心を以て後心に望むるに未だ極地を窮めず、故に不尽と云ふのみ。

 [12]又初めに初の阿を悟るに、亦後の荼の功徳を具す、但だ斉教の領は未だ進んで横竪周遍を領するに暇あらざるのみ。

 [13]又権行の大士は宜しく応に此の如くなるべきなり。

 [14]広述成に又二あり、長行と偈頌となり、長行に又二あり、 初めに開三顕一を述成し、次に汝等迦葉より下は結歎なり。初めに法譬合有り、法の中又二あり、初めに先に法王を挙ぐるは、不虚もて勧信するなり。次に於一切法の下は、正しく開三顕一を述す。

 [15]夫れ人王は外に畏るゝ所無く内に二言せず、法王も亦爾り、衆悪已に尽き発言誠諦なり、
旧云く、中根の虚ならざるを述し、下根を奨めて信受せしむと。今言く、仏法多しと雖も権実を出でず、権実の外更に別の法無し、而して無量と言ふは、此意信じ難し、故に法王を挙げて勧信す。又下の大雲譬の為めに本と作る。

 [16]於一切法より下は、教に約して開権顕実を明す。如来観知より下は、智に約して開権顕実を明す、二教に由て二智を顕はし、二智に由て二教を説き、智教相成ずるなり。

 [17]一切法とは七方便を謂ふ、横なり、一実に対して竪と為すなり。若し爾らずと言はゞ、何が故ぞ二万億仏の所にして初めて大心か発し、中間に小を取り、又五趣に流転する。又十法界一人尚ほ具す、況んや七方便をや。此法多しと雖も、方便波羅蜜もて之を照すに罄きて尽さゞる無し、其類に随へる音を以て之を説くに逗会せざる無し、人天の為めには戒善を説き、二乗の為めには諦縁を説き、三蔵の為めには事度を説き、通教の為めには無生を説き、別教の為めには次第を説き如来蔵を開す、是れを其開三を領するを述すと名くるなり。

 [18]其所説法より下、教に約して其顕実を述するなり、地とは実相なり、究竟して二に非ず、故に一と名く。其性諸博なり、故に名けて切と為す、寂にして常に照す、故に名けて智と為す、無住の本より一切法を立す、故に名けて地と為す、此れ円教の実説なり。凡そ説く所有らば、皆衆生をして此智地に到らしむ、顕実の文、灼然たること日の如し、云何ぞ闇寱して余解を作さんや。大品に例するに広く諸法に歴て皆摩訶衍なり、衍は即ち大乗、乗は即ち実相、実相は即ち一切智地なり。上の文に唯此一事実と云ふは此地を指すなり、余二則非真は七方便を指すなり、此れ漸頓二教に約して其開権顕実を述するなり。

 [19]如来観知一切諸法より下は、智に約して開権顕実を述す、一切の帰趣を観ずるは、是れ能く権を照すなり。究竟明了とは能く実を照すなり。二智の照す所の偏円の両境は通達して礙り無し、故に能く権実の二教を説く、此れ智を挙げて教を釈するなり。

 [20]帰趣する所を知るは是れ薬を識り、深心の所行は是れ病を知る、病薬供に是れ権の法なり、権法に各々帰趣有り。

 [21]戒善等は、近くは人天に趣く、若し縁の義を作さば、低頭挙手も遠く仏果に趣く、念処道品等、近くは涅槃に趣く、若し福徳荘厳を作さば、汝等行ずる所は是れ菩薩道にして、遠くは宝所に趣く、乃至六度通別等の法は近遠の帰趣途轍同じからず、解す可し。

 [22]又戒善は是れ人天の薬、諦縁度は是れ三乗の人の薬なり、乃至通別等も亦解す可し。

 [23]深心所行に二種有り、深心に依正に著し、又深心に所執の法に著す、依正に著する者は、深重の十悪を起して人天乗を障ふ、所執の法に著すれば、四倒三道六蔽四住五住等を起して諸の聖乗を障ふ、当に知るべし、深心の病相同じからず。

 [24]権智は之を照して通達して無礙なり。

 [25]又於諸法究尽明了とは実智の照す所なり、一切の権法は実に入らざること無し、故に究竟と言ふ。実智の知る所の故に了と言ふ、仏眼の見る所の故に明と言ふ。

 [26]若し此智は此薬此病を照して彼薬彼病を照さず、彼智は彼を照して此れを照すこと能はず、種別同じからざる者は権智の照なり、一智の遍ねく一切の薬一切の病を照すは実智の照なり、能く衆生に此の如きの円の境智を示す、故に一切智慧と言ふなり。

 [27]又一切法とは十法界を謂ふなり、十法各々相欲同じからず、各々果報を獲、帰趣亦異なり、諸法を知り尽す者を病を知ると名く、一切の深心の所著を知るを薬を知ると名く、薬に浅深有り。

 [28]大品に云く、如実智をもて貪欲心瞋癡心を知ると。如実智を以て知るを深心を知ると名く、理の如く通達して障礙有ること無し。

 [29]若し戒善諦縁度等の一切の法薬を悉く如実智を用ひて知る者を通達無礙と名く。

 [30]又権智の文の中の通達無礙とは、権に約して実を論ず、実智の文の中の又於諸法の諸法とは、実に約して権を論ず、二文互に現ずるは、此れ実は是れ権が実、権は是れ実が権なることを明す、当に知るべし、究竟していへば権に非ず実に非ず、差別に非ず不差別に非ず、智の方便を以て権に差別有り、悉く智地に到るときは則ち差別無し。

 [31]地は差別無く、草木は若干なり、若干に若干無く、若干無くして若干なるが如し。

 [32]又心に約して法を論じ、法に約して心を論ず、心に諸数有れども法に諸数無し、心は法を離れず、法は心を離れず、無数にして而も数、数にして而も無数なるが如きのみ。

 [33]権実も亦爾り云云。

 [34]譬如より下は第二に譬説なり、文二と為す、初めに譬説、後に宗に復して称歎す、譬に開合有り、開二と為す、一には差別譬、上の権教権智を述するを譬ふ。二に無差別譬、上の実教実智を述するを譬ふるなり。

 [35]三草二木纎濃等しからず、故に差別と言ふ、一地一雨普く載せ普く潤す、故に差別無し。若し其末派を観ずれば、各々同じからずと謂ふ。若し其根栄を究むれば、地雨に非ること莫し。

 [36]内に方便智もて照せば七五各々異なり、実智もて往て照せば終に一実に帰す、一実の七五、七五の一実は差別にして無差別、無差別にして差別なるに合す云云。

 [37]差別譬に六有り、一に土地、二に卉木、三に密雲、四に注雨、五に受潤、六に増長なり。

 [38]初めに土地譬、旧総じて三千の土地を拳げ、別して山川谿谷を出して五乗の習因と為す、谷は水を受くること多きは菩薩に譬へ、谿は支仏に譬ふ、川は声聞に譬へ、山は高くして潤を受くること少きは人天乗に譬ふ。

 [39]今謂く、習因は応に種子の潤を受けて増長するに譬ふべし、而して土地山川は受潤有りと雖も、種子と増長との二義を闕く。又下の文に譬を合して云く、普遍世界天人修羅と、頌偈に云く、於諸天人一切衆中と、皆土地等を以て習因を譬へず、今用ひさる所なり。

 [40]今は大千世界を以て衆生世間を譬へ、山川谿谷土地は五陰世間を譬ふ、世界に別の法無きは、山川谿谷土地の成ずる所たり、衆生に別の法無きは、五陰の成ずる所たり、土地は既に通じて識陰を譬ふ、山川谿谷は四陰を譬ふ、能依の草木は土地等に依ると雖も、土地等は即ち草木に非ず、草木の質幹を但だ草木と名く、草木の種子は更に別名無く、但だ能生の功を取て種子と名け、所生の質幹を草木と名く、皆根を地に植へ、地は則ち本なり、内に習因習果は五陰に依ると雖も、五陰は即ち因果に非ず、要らず陰に依て習因有ることを得、増長成辦するを習果と名くるに合す、果と因とは陰に依て起るときは、則ち山川土地の譬成じ、草木種子受潤増長の譬悉く成ずるなり。

 [41]又更に別譬を顕はさば、山は高峻なりと雖も亦洿隆等の五相有り、乃至土地は平なりと雖も亦丘池等の五相有り、即ち五乗の五陰を譬ふ、山の高きは菩薩の五陰を譬ふ、川は支仏を譬ふ、谿は声聞を譬ふ、土地は天を譬ふ、谷の下きは人々譬ふ、一々の五陰に皆習因習果の所依有るは猶ほ山川谿谷土地の皆種子質幹等の所依と為るが如きなり。

 [42]又三千大千世界を用ひて正因の理の通じて一切の所依と為ることを譬ふるなり、山川谿谷土地は衆生の陰界入の果報色心を譬ふるなり。草木叢林は衆生の習因を譬ふ、此三法は相離れず、習は陰入に依り、陰入は法性を出でず、草木は山川に依り山川は世界に依るが如し云云。

 [43]六文宛然なり、云何ぞ義を作さん。又次第此の如し、云何ぞ経文を問糅して前後に抄著するや。

 [44]所生卉木の下は、第二に所生卉木譬なり。卉は是れ草の都名、木は是れ樹の総称、衆草は叢を成じ、衆樹は林を成ず、病を治する力用勝る者を称して薬と為す、善法の中に皆能く悪を治し、而して無漏の善は惑を治する義勝るが如し。下の卉木の中には樹林の枝幹は覆蔭広く器用大なり、故に二菩薩を喩ふ。種類若干とは五乗七善の因果種子なり、故に若干と言ふ、即ち是れ種類に各称謂有るは即ち是れ名なり、各醴相有るは即ち是れ色なり。

 [45]密雲の下は第三に密雲譬なり、雲に形色と覆蔭と有り、下の文に雷声と遠震と有り、覆蔭は仏の慈悲を譬ふ、形色は仏の応世を譬ふ、雷声は仏の言教を譬ふ、密雲は即ち三密なり、慈悲は即ち意密、形色は即ち身密、雷声は即ち口密なり。弥布とは遍なり、既に密にして又遍し、故に弥布と言ふなり。慈悲を以て熏じて応身の法を説き十法界に遍す、故に弥布と言ふなり。

 [46]経律異相に云く、雲に五色有り、青なれば風多く、赤なれば火多く、黄白なれば地多く、黒なれば水多しと。四の電師有り、東は身味、南は百主、西は阿竭羅、北は阿祀藍なり、四電闘諍す、是故に雷有り。又水火風地の鬪ふが故に雷有り、五事に雨無し、一に風起きて吹く、二に火起きて焦ぐ、三に阿修羅手接して海に入る、四に雨師淫乱す、五に国王理もて治せざれば、雨師瞋るが故に雨ふらさず云云。

 [47]一時等注の下は、節四に注雨譬なり、口密の八音四辯を用ひて法雨を宣注し衆生を利潤するを譬ふ。

 [48]其沢普洽の下は、第五に霑潤譬なり、法宝普く七種の衆生の心地に雨らして、所有の習因の種子、即ち聞慧を生ずるを名けて霑洽と為す。枝葉根莖とは、信を根と為し、戒を莖と為し、定を枝と為し、慧を葉と為す、次第に相資くるが故に此四を譬ふるなり。小根莖等は即ち人天の信戒、中根莖等は即ち二乗の信戒、大根莖等は即ち菩薩の信戒なり。

 [49]諸樹大小の下は第六に増長譬なり、更に復た略牒して其草木の分に随て潤を受くることを明す、習報両因の善法は既に法雨を蒙り、習報両果は各増長することを得。称其種性とは、権を施して機に称ふことを明す、小なるは分に過ぎず、大たるは減少せず、即ち是れ七種の習報の両因なり。花果敷実とは習報の二果なり。又云く、増長に即ち三義あり、稻其種性は即ち是れ増長の由、教を設けて機に称ふに由るなり。各得増長は正しく増長を明す、花果敷栄は即ち増長の相なりと。

 [50]雖一地所生の下は、大段第二に一地一雨無差別譬、一実を顕はすなり、此に三有り、一に一地の生ずる所なり。道前の心地の生ずる所は終に道後の智地に因る。二に一雲の雨らす所なり、一音の宣ぶる所の一乗の法門は、道中の五種の善根を開発す、終に是れ一音平等の教なり。三に三草二木は益を禀けて自ら覚知せず、五種の善根は仏の法雨を蒙りて分に随て増長す、而して自ら五種の因は皆一の仏性に依ることを知らず、亦自ら五乗の教は皆是れ大乗なることを知らず、亦自ら同じく仏慧に帰することを知らず、唯如来のみ有て能く知りたまふのみなり。

 [51]迦葉当知如来の下は合譬なり、差別譬を合するに二と為す、先に正しく合す、次に譬を提げて帖合す、差別譬に六有り、今の合は次第せず、開譬は機を明さば、前に衆生を論じ、合譬は応を明し、前に如来に合す、如来は是れ化主なり、此中第一は、正しく上の第三の密雲を合す、亦兼て第一の世界を合す、此中の第二は上の第四の注雨譬を合す、此中第三は、上の第一の世界山川谿谷譬を合す、此中第四は、上の第二の草木を合す、此中の第五は上の第五の霑潤を合す、此中の第六は上の第六の増長譬を合するなり。合譬の次第は、如来世に応じたまふときは則ち八音の説法有り、法を説きたまはゞ即ち受化の衆生有り、衆生は法を聞て各々道潤に霑ふ、潤を得ること是れ同じなれども、差別増長無きにあらざることを明す云云。

 [52]第一に密雲を合す、先に仏の身密を挙げて雲に形有ることを合す、後に仏の口密を挙げて雲に声有ることを合す。如来亦復如是出現於世とは郎ち是れ正しく応身の出世に合するなり。如大雲起とは即ち譬を挙げて帖合して、如来の大慈は身を現じて一切を覆育したまふことを明すなり。以人音声とは、即ち是れ仏の口密を挙げて雲に声有ることを合するなり。天人阿修羅とは、別して三善道の口密の益を禀くるを挙げるなり、即ち是れ三乗の根性の三十子、別して声益を禀くるなり。如彼大雲とは、即ち是れ譬を挙げて雲に声有るを帖合するなり。遍覆大千とは、通じて一切皆是れ仏子にして倶に口密の益を蒙ることを挙ぐるなり。或時は但だ五譬を合す。普遍世界の下を将て兼て世界土地を合するなり。世界は即ち是れ国土世間、天人修羅は即ち是れ仮名五陰の世間、仮名は上の世界を合す、五陰は上の山川谿谷を合するなり。

 [53]於大衆中而唱の下は、即ち是れ第二に上の第四の注雨譬を合す、先に章門を標す、次に聴受を勧む、章門に六有り、一に十号、如来応供等を謂ふなり。二に四弘、未度令度等を謂ふ。三に三達、今世後世等を謂ふ。四に一心三智、知者具足を謂ふ。五に五眼、見者を謂ふ。六に三業共智慧行、知道は意不護を謂ふ、開道は身不護を謂ふ、説道は口不護を謂ふ、亦称して導師と為す、知道者等を謂ふなり。汝等天人の下は、物を勧めて聴受せしむ、仏の八音は六種の法門を詮吐す、多に従て論を為さば、三善道を勧む、宜しく応に往て法を聴くべきなり。

 [54]爾時無数億種乃至而聴法は、此中の第三に上の第一の山川譬を合す。果報を攬て而して衆生有ること、山川に依て世界等有ることを得るが如し。百千万億とは、即ち是れ十法界の衆生なり、今正しく七方便もて衆生の差別を語る、配すること上に説くが如し、或は汝等天人よりは、皆山川譬を合するなり。

 [55]如来于時乃至精進懈怠は、即ち是れ第四に上の第二の卉木譬を合す。旧云く、此文長出して、上を合せずと、今明さく、上の譬の中、卉木の差別大小の不同有り、此中には根に利鈍有り、行に進怠有ることを明す、正しく是れ習因の深浅、卉木と義同じ、豈に合譬に非ずして而して長出と言はんや。于時とは若し漸の初を論ぜば、即ち是れ鹿苑に初めて三乗を説く時なり、若し中間を論ぜば、処々に干時を論ずることを得。利鈍とは、総じて判ぜば三途は因は悪にして果は苦、道を受くること能はざるを名けて鈍と為す、七種の方便もて教を聞て益を得るを名けて利と為す。別して判ぜば、人天は但だ果報を受け、肯て道を受けざるを名けて鈍と為す、三乗の根性惑を断じ界を出るを名けて利と為す。又声聞の生滅を観ずるを名けて鈍と為す、菩薩の不生滅を観ずるを名けて利と為す、通別円云云。三途の放逸を怠と名く、人天五戒十善を持するを精と為す、人天の苦を厭はざるを怠と為す、二乗の無常を怖畏するを精と為す、二乗の証を貪て作仏を求めざるを怠と為す、菩薩の仏道を志求するを進と為す云云。

 [56]随其所堪より快得善利に至るまでは、即ち第五に上の第五の受潤譬を合す。随其所堪とは、即ち是れ機宜に称会して増減の失無し。歓喜得善利とは、即ち是れ各々法潤を蒙り益を受くるなり。

 [57]是諸衆生聞是法已より、第六に上の第六増長譬を合す。現世安隠後世善処とは、即ち是れ報因に報果を感ず、花敷増長を合す。亦得聞法乃至入道とは、即ち是れ習因に習果を牽く、上の果実増長を合す。聞是法已とは上の増長の由を合す。現世安隠とは正しく増長を合す。後生善処とは、是れ増長の相を合するなり。

 [58]仏は大雲の普く一切を覆ふが如く、三途も亦霑潤増長を得、般若方等を説き地獄の得益を明す如くなり。又諸経の中にも、亦龍鳥鬼神等の法を聞て道を得ることを説く、若し火滅し湯冷むるは即ち是れ現世安隠なり。或は天上人中に生ずるは、是ち是れ後生善処なり。天人の中に於て道を修するは、即ち是れ以逆受楽なり。

 [59]若し人天法を聞き戒を持し、福徳もて身を扶け、鬼龍犯さゞれば、即ち是れ現世安隠なり。或は天還て天に生じ、人還て人に生じ、或は天人互に生ずれば、即ち是れ後生善処なり、生じて能く悟解すれば、即ち是れ以道受楽なり。

 [60]二乗の法を聞て有余涅槃を得るは是れ現世安隠なり。下の文に是人得る所の功徳に於て滅度の想を生ず、我れ余国に於て作仏し、更に異名有り、此人彼国に於て是経を聞くことを得んと云ふが如き、方便有余の土を指す、是れ善処なり、彼に於て経を聞くは、是れ得道受楽なり。

 [61]若し生身の菩薩の盧舎那仏の説法を聞て無生忍を得るは即ち現世安隠なり。後に浄満世界に生じ、法身の眷属と為るは、即ち是れ善処の以道受楽なり。

 [62]離諸障礙とは、即ち是れ現世安隠なり。任力所堪漸得入道とは、即ち後世の以道受楽なり。

 [63]五乗とは、五戒乗は三途の苦を出づ、十善乗は、人道の八苦を出づ、声聞乗は、三界の無常苦を出づ、縁覚乗は、他に従つて法を聞くの苦を出づ、菩薩乗は、内に利智無く、外に相好無きの苦を出づ、是れを五乗と為す。

 [64]問ふ、但だ応に人天を以て世間乗と為し、余は是れ出世間乗なるべしや、又仏を宝乗と為し、余は是れ権乗なりや。又仏を果乗と為し、余は是れ因乗なりや。又応に三乗と為すべきや、人天を下と為し、二乗を中と為し、仏を上と為すや、又人天を不断煩悩乗と名け、二乗を断煩悩乗と名け、仏を非断非不断乗と名くるや、又人天を不断と名け、仏を断と名け、二乗を亦断亦不断と名くるや、又凡夫と賢聖と非凡非聖と有と空と非有非空等の乗なりや云云。大論に五善根を明し、勝鬘に四蔵を辨ず、三草二木とは云何、人天を二善と為し、二乗を一と為し、仏菩薩を五と為す、大を開して小を合す、五乗は小を開して大を合す、四蔵は凡を合して聖を開す、五乗は則ち凡聖倶に開す、縁に随て同じからざるのみ。

 [65]如彼大雲の下、第二に譬を提げて六意を帖合する者なり。大雲は第一の形声両益を帖合す。雨於一切は第二の六章の法門を帖合す。卉木叢林は第四の受化の衆生の利鈍怠進、習因の深浅を帖合す。如其種性具足蒙潤は第五の受潤得法利を帖合す。各得生長は、第六の現世安隠の増長を帖合するなり。

 [66]如来説法一相の下、第二に無差別譬を合す、上の開に三あり、今の合も亦三あり、但し次第ならず。一相一味の下、双て一地一雨を合す。所謂の下、双て一地一雨を釈す。共有衆生の下は、上の而諸草木各有差別を合す。所以者何の下は、差別を釈す、如来能く差別無差別なるを知しめせり。

 [67]一相とは衆生の心は同一真如の相にして是れ一地なり。一味とは一乗の法は同じく一理を詮す、是れ一雨なり。昔しは一実相に於て方便をもて開して七相と為す、一乗の法に於て分別して七教有りと説く、仏は究竟して終に一相一味に帰すと知りたまふ。

 [68]所謂の下は双て一相一味を釈す、衆生の心性は即ち是れ性徳にして解脱と遠離と寂滅との三種の相なり、如来は一音もて此三法を説きたまふ、即ち是れ三味なり。此三相は、則ち以て境界と為し、縁じて中道の行を生ず、終は則ち一切智果と為ることを得、故に究竟至於一切種智と言ふなり。

 [69]草木差別譬を合するは後の解の如し、重ねて記せず。

 [70]有る時は三意を作して合す、一に無差別の意、上の一地一雨を合す、二に差別の意、上の草木差別を合す、三に如来能知、両意を釈成す。

 [71]無差別とは一相一味を謂ふ、一相は上の一地を合するなり。解脱相とは、生死の相無し。離相とは、涅槃の相無し。滅相とは無相亦無相なり、唯実相のみ有る故に一相と名く、一相は即ち無住の本より一切の法を立す。無住無相は即ち無差別なり。立一切法は即ち有差別なり。差別は卉木の如く、無差別は一地の如し。地に差別無しと雖も、而も能く桃梅卉木の差別等の異を生ず。桃李卉木は差ありと雖も、而も同じく是れ一の堅相なり。若し地に桃李を具すと知れば即ち実の中に権有ることを識り、無差別即ち是れ差別なることを解す。若し桃李の堅相を知れば、即ち権の中に実有ることを識り、差別は即ち是れ無差別なることを解す、是義を以ての故に、一相を以て上の一地譬を合するなり。

 [72]一味は即ち是れ実教にして純一にして雑り無し、一相に例して解す可し。解脱とは分段変易二辺の業縛無し、故に解脱相と名く。離相とは、中道の智慧を得、此慧は能く二辺を遠離して著する所無し、故に離相と名く。滅相とは、二辺の因滅して有余涅槃を得、二辺の果滅して無余涅槃を得、故に滅相と名く、句句に例して差無差別の義を作すこと、一相に準じて解す可し。

 [73]究竟至於一切種智とは、若し二辺の滅相を得れば、即ち是れ通別の二惑尽きて仏の知見に入る、一切種智の心中に般若を行ずるを以て、初発と畢竟と二別ならず、故に究竟と言ふ、此れ即ち仏の智慧なり、故に一切種智と言ふなり。

 [74]其有衆生聞如来法不自覚知よりは、即ち是れ差別の義を明す、此れより下に差別を明すは、衆生は是れ山川仮実の差別、亦是れ種子の差別なり、如来は即ち是れ雲、聞法は即ち是れ雨、読誦修行は即ち是れ潤、功徳は即ち増長なり、此の如き等の差別は皆知ること能はざるなり、文に就て五と為す、一に衆生知らず、二に如来能く知りたまふ、三に譬を挙げて衆生の知らざるに帖合す、四に前に牒して如来の能く知るを結釈す、五に疑を釈す。

 [75]其有衆生とは、知らざるの人を挙ぐ、法は一音の法を聞くを謂ふ、持説とは是れ正しく知らざることを明す、持説同じからざれば修行各々異なり、人天は戒善の解を作し、三乗は諦縁度の解を作す、解既に同じからざるは即ち是れ差別なり。所得功徳不自覚知とは、五人各々教を禀くと雖も、仏は是れ一味無差別の教なるを知らす、亦七種の方便各々解を作し、而して各己が解に執して実と為すことを知らざるを明す、此れ則ち権を知らざれば亦実を識らず、即ち是れ差別にして自ら覚知せざるなり。

 [76]第二に如来能く知りたまふとは、略して減数して十境を挙げて合して四意と為す、一に四法に約して知る、二に三法に約して知る、三に二法に約して知る、四に一法に約して能く知る。

 [77]四法に約するとは、謂く種と相と体と性となり、種とは三道は是れ三徳の種なり、浄名に云く、一切煩悩の儔を如来の種と為すと、此れ煩悩道に由て即ち般若有ることを明すなり。又云く、五無間皆解脱の相を生ずと、此れ不善に由て即ち善法解脱有るなり、一切衆生は即ち涅槃の相にして、復滅す可らすとは、此れ生死に即して法身と為すなり、此れ相対に就て種を論ずるなり。若し類に就て種を論ぜば、一切の低頭挙手悉く是れ解脱の種なり、一切の世智、三乗の解心は即ち般若の種なり、夫れ心有る者は皆当に作仏すべしとは即ち法身の種なり、諸種の差別は如来能く知りたまふ、一切種は秖だ是れ一種にして、即ち是れ無差別なるを、如来亦能く知りたまふ、差別は即ち無差別、無差別は即ち差別なるを、如来亦能く知りたまふ。相と体と性は、十法界十如の中に約して釈す、若し差別を論ぜば即ち十法界の相なり、若し無差別を論ぜば即ち一仏界の相なり、差別と無差別は、如来能く知りたまふ、差即ち無差、無差即ち差なるを、如来亦能く知りたまふ、体と性は例して然り、解す可し。

 [78]念何事より下は、三法に約して如来の能く知りたまふを明す、三法とは即ち是れ三慧なり、仍ほ三重有り、一に三慧の境、二に三慧の体、三に三慧の因縁なり。念我事は是れ三慧の用を明す、念は所念の事を取る、即ち是れ三慧の境なり。云何念よりは念は是れ所聞の法を記録す、正しく是れ念慧の体なり。以我法念より下は、即ち是れ三慧の境を取ると法を聞くとは是れ其因縁なり。又三慧の境と、境智の因縁と合するが故に三慧の法有ることを得るを、復因縁と名くるなり。此の如きの三乗の三慧は、昔は境と体と因縁に異り有りと謂ふは即ち是れ差別なり、若し円妙の三慧に入らば、即ち無差別なり、此有差別と無差別は如来能く知りたまふ、又差即ち無差、無差即ち差なるを、如来亦能く知りたまふ。

 [79]以何法より下は、二法に約して如来の能く知りたまふを明す。以何法は即ち是れ因、得何法は即ち是れ果なり、五乗の因各々其果を得るは即ち是れ差別なり、衆生の如と仏の如と一如にして二如無し、唯是れ一因一果なるは即ち無差別なり、差別と無差別は如来も亦能く知りたまふ、差即ち無差、無差即ち差なるを如来亦能く知りたまふ。

 [80]衆生住於種々之地よりは、是れ一法に約して如来能く知りたまふ、七方便もて七位に住す、故に種々の地と言ふ、此れ即ち差別なり。如来は如実の仏眼を用て之を見たまふこと、衆流の海に入て本味を失するが如し、則ち無差別なり、随他意語に、智の方便を以て之を演説せば、則ち如来は能く差別を知りたまふ、其説く所の法は皆悉く一切智地に到れば、則ち如来は能く無差別を知りたまふ云云。

 [81]如彼卉木より下は、第三に譬を挙げて衆生の不知を帖合するなり。

 [82]如来知是より下は、第四に前を牒して総じて能く知りたまふを結するなり。一相一味等は前に釈するが如し。一相一味解脱離滅等を縁と為して分別するは、即ち是れ一中の無量なり。究竟涅槃終帰於空は即ち是れ無量中の一なり、此れは是れ前に牒して重ねて無差別を釈するなり、何となれば、一相一味解脱離滅は、若し是れ二乗の法体ならば、猶ほ是れ差別の言宣なり、今は大乗究竟涅槃終帰於空と作せば、即ち通じて差別無し。究竟涅槃は、前の諸句は皆二乗の有余無余に非ることを結す、乃ち是れ究竟涅槃なり。常寂滅相とは、諸句は是れ小乗の寂滅に非ることを結す、乃ち是れ常住の寂滅なり。上の文に云く、諸法は本とより来た常に自ら寂滅相なりと、即ち此義なり。終帰於空とは是れ灰断の空に非ず、乃ち是れ中道第一義空なり、鄭重に掌を抵て実を簡び権に異するなり。

 [83]旧云く、終帰於空とは、復神通延寿無量にして復上の数に倍するを示現すと雖も、寿尽て終に灰断に帰す、故に終帰空と言ふと、此れ仏を苦しめ経を苦しむ、那ぞ言ふ可けん。

 [84]光宅の云く、終に有余に帰入し無常の身智を捨するなりと。有人此解を難ず、若し爾らば二乗と何ぞ異らんと。

 [85]経文に両の究竟を挙ぐ、初めに究竟して一切種智に至るは此れ智果を挙げて二乗の智の究竟に非るに対す。二に究竟涅槃常寂滅相終帰於空を挙ぐるは此れ断を挙げて二乗の断の究竟に非るに対す、究竟の文は小乗の空に非ることを知るなり。

 [86]龍印の云く、大涅槃は空にして法相無く煩悩無し、故に空と名く、終に常住第一義空に帰すと。忠師の云く、終に第一義空の智慧に帰すと。有人の云く、仏果には累ひ無し、故に空と言ふと。注者の云く、空有洞かに遣るを乃ち空と名くと。古の諸師は皆小の解を作さず、光宅何の意ぞ独り然るや。

 [87]仏知是已観衆生の下は、第五に物の疑を断ず。仏は昔より既に始末皆一なることを知りたまはば、何ぞ鹿苑に印ち為めに実を説かざる、釈して云く、衆生の心欲を観じて、三悉檀に随て而して之を将護したまふ、共誹謗を恐るるが故に即ち説かざるなり。

 [88]汝等迦葉の下は、第二に宗に復して称述し、疑を釈せんと欲す、疑ふ者は仏の無量の功徳を聞て、四弟子斉教の領解、何ぞ必らずしも是れ実ならんと謂はん、故に仏、未だ仏地に及ばずと雖も、斉教の虚しからざることを称述したまふなり、亦是れ下根を引発して同じく悟を得せしむ。文二と為す、初めに述、二に釈なり。

 [89]先に希有を歎ずるは、凡夫は反復有て聞けば能く益を得、菩薩は是れ己が事なれば解するに多奇ならす、無為の正位は能く証を捨して実に入る、甚だ希有なりと為す。能知随宜説法とは、能く開三を領するを述す、次に能信受と言ふは、即ち其顕一を領するを述す。

 [90]所以者何よりは述の意を釈す。仏一道に於て三を説きたまふに、深玄にして解し難し、而して汝は能く信ずることを明すなり。

 [91]私に謂く、前の文には、如来復無量の功徳有り、汝等説くとも尽す能はずと云ひ、後の文には、汝等甚だ希有なりと為すと云ふは、仏恩普く被らしむること、猶ほ雲雨の覆潤せざる靡きが如く、仏恩普ねく載すること、猶ほ大地の生成せざること靡きが如し、豈に一機一方の為めにすること有るのみならんや、故に汝等説くとも尽すこと能はずと言ふ。

 [92]仏恩普しと雖も、衆生は日に用ひて自ら覚知せず、三草二木は根を地に植へ雨に禀潤して而して知ること能はざるが如し。

 [93]汝等能く始終の十恩を知るを甚だ希有なりと為す。未度令度等は、其仏の四弘誓の恩を知るを述して、甚だ希有なりと為す。衆生現世安隠後生善処以道受楽は、其大慈与楽の恩を知るを述して、甚だ希有なりと為す。既聞法已離諸障礙任力所能漸得入道は、其大悲抜苦の恩を知るを述して、甚だ希有なりと為す。輪王釈梵は是れ小薬草、其善を勧めて熱悩を除く恩を知るを述して、甚だ希有なりと為す。知無漏法能得涅槃及縁覚証は、是れ中薬草、其諸の熱見愛を除く恩を知るを述して、甚だ希有なりと為す、上草小樹は是れ恥小慕大と為す、其遮醜の恩を知るを述して、甚だ希有なりと為す。大樹は是れ其荘厳の恩を述して、甚だ希有なりと為す。最実事一地一雨は、其財を付して座に坐し、身心財法自在安楽の恩を知るを述して、甚だ希有なりと為す。仏の其差別を述して歎ずるは、十恩を歎ずる文に尽く、若し其無差別を述して歎ずるは、即ち是れ一の大恩なり。

 [94]偈に五十四行半有て、上の開顕を頌す、開顕に法譬有り、今皆頌す、初めに四行は法説を頌す、次に五十行半は譬説を頌す、法説に復二あり、先に法王を挙げ、二に則ち開顕す。

 [95]今初めに半偈は法王の不虚を頌す。下の三行半は開顕を頌す、上の文の二教二智は、今亦具に頌す、初め一行半は二教を頌し、後の二行は二智を頌す。初めに随衆生の下の半行は権教を頌す。次に如来尊重の下、第二に一行は実教を頌す。次に有智若聞の下の一行は権智を釈するを頌す。後に是故迦葉の下の一行は、実智を釈するを頌す。種々の縁に随て種々の教を説き、悉く為めに大乗の正見を得せしむ、此れより前を皆邪見と名くるなり、此頌は是れ如来の四悉檀の意にして、破有法王は即ち対治の意、随衆生欲は即ち世界の意、智聞信解疑悔永失は是れ為人の意、令得正見は第一義の意なり、三悉檀は即ち上の以智方便而為演説を頌す、令得正見は、上の到一切智地を頌す云云。

 [96]迦葉当知譬如の下五十行半は、上の譬説を頌す、初め十行半は開譬を頌し、次に四十行は合譬を頌す、上の開に二譬あり、今初め九偈半は差別譬を頌し、次に一行は無差別譬を頌す、上の差別に六有り、今亦六を頌す、而して長行の開譬の如くならす、合の次第の如くなり。

 [97]初めに三行は第三の雲譬を頌す。其雨普等の下、第二に一行は第四の注雨譬を頌す、次に山川険谷の下、第三に一句は第一の土地山川譬を頌す、次に幽邃の下、第四に二句は第二の卉木譬を頌す、次に大小諸樹の下、第五に両行三句は第五の受潤譬を頌す、一切諸樹の下、第六に二行は第六の増長譬を頌す。雲は応身を譬ふ、応身は智慧に随て行ず、故に慧雲と言ふ、能く十二部の法を具す、故に含潤と言ふなり。若し応身は説法せずして須扇多多宝の如くならば、此雲は潤を含まざるなり、身に大光を放つこと電耀の如く、口に四辯を震ふこと雷声の如くなり、九十五種の邪光現ぜず、故に掩蔽と言ふ、九十八種の悩熱を除くこと地上清涼の如くなり。如可承攬とは、応身の降世は三有に似同す、有心往て取るに実に得可らざるなり。八音四辯もて法雨を宣注するに四方倶に下り、一時に倶に聞く、亦四等を云ふなり、凡そ心有る者は皆利潤を蒙る、故に率土充洽と言ふなり、此れ則ち上を成じ、又下の山川譬を成ずるなり。山川険谷の一句は、第一の土地を頌す、即ち是れ七方便の衆生の五陰なり、今法雨を蒙り、身口柔軟なること土地の沢を得るが如くなり。幽邃所生とは、是れ上の第二の衆生習因差別を頌す、衆生の久遠に植へる所の習因は隠れて陰界入の内に在るを譬ふ、故に幽邃と言ふ、今法雨を蒙て悉く開発するを得たり、故に所生と言ふ。百穀は語通じて五穀を取る、五乗の能く百善を生するを譬ふるなり。甘蔗蒲萄は定慧を譬ふ、乾地普洽は未だ信ぜざる者をして信ぜしむるを譬ふるなり、余の譬は文の如し。

 [98]如其体相性分大小の下の一行は、第二に無差別譬を頌す、上の文に三有り、此中には略して一地を頌せずして而して所生に之を兼ぬ。初めの二句は所生所潤を頌し、次の一句は能潤を頌す、則ち是れ無差別を頌するなり。而各滋茂は差別して自ら知らざることを頌すなり。

 [99]仏亦如是出の下の四十行は、第二の合譬を頌す、初めに三十五偈は、差別を合するを頌す、次に如是迦葉の下の五行は、無差別を合するを頌す、上に差別譬を合するに前に正しく合し、後に譬もて帖す、今頃も亦先に合し、次に便ち譬を挙げて帖す。

 [100]初め一行は雲譬を合するを頌す、上の両句は、身を以て雲を合す、下の両句は、譬を挙げて帖合す。

 [101]次に既出の下は、第二に八行半有て、第二に雨譬を合するを頌す、上には先に章門を標し、次に聴受を勧む。

 [102]既出の下の三行は、略して十号を頌す。次に一行半は四弘を頌す、六章門の中、但だ二章を頌するなり、充潤一切の下の一行半は、是れ四弘誓を頌す。

 [103]諸天の下、第二に四行は、聴受を勧むることを頌す。

 [104]我観一切の下、第三に四行は、第三に上の山川譬を合するを頌す。山川は七種の五陰の衆生を譬ふ、雨注ぐに谿谷を擇ばざるが如し、仏は平等に説きたまふ、故に彼此無し、機有るを此と為し、機無きを彼と為す、善を植ふるを愛と為し、憎逆を憎と為す、仏事を自と為し、魔事を他と為す、応の初めを来と為し、応の後を去と為す、実に入るを坐と為し、権を出だすを立と為す、仏の衆生を観ずること此の若しと為す、即ち是れ等雨山川の意なり、上の無数億種衆生来至仏所而聴法を頌するなり。

 [105]貴賤上下の下、第四に二行は、上の第四の如来于時観是衆生を頌し、第二の所生草木叢を合す。貴賤乃至利鈍は、七方便に約して伝々して之を作すなり。

 [106]一切衆生聞我法者の下、第五に十一行は、上の種々無量皆令歓喜を頌し、受潤譬を合す、文三と為す、初めに一行は、総じて受潤を明す。次に或処人天の下、第二に七行は別して受潤を明す、次に三行は所潤能潤を結す。有人解すらく、人天を小草と為し、二乗を中草と為し、外凡を大草と為し、内凡を小樹と為す、初地より 七地に至るを大樹と為す。有人は内凡を以て大草と為し、初地より七地に至るを小樹と為し、八地を大樹と為す。有人は三十心を以て大草と為し、初地より六地に至るを小樹と為し、七地より去て大樹と為す。然るに三草二木は仏自ら喩を合したまふこと明文朗然なり、云何ぞ心を師として仏に反し経に違するや。別の受潤の中に就て文五と為す、初めの一行は人天倶に未だ惑を断ぜざれば合して小草と為す。次に知無漏法の下、第二に二行は二乗を明す、倶に断証有れば合して中草と為す。次に求世尊処の下、第三に一行は六度を明す、作仏を志求し、他を化すること二乗に勝れば、独り上草と為す。次に又諸仏子の下、第四に一行半は通教を明す、已に通惑を断じ誓て余習を扶け、有に渉て他を化す、下に望むれば優と為す、上に比れば劣と為す、故に小樹と名く。次に安住神通の下、第五に一行半は別教を明す、自行化他、高広にして勝と為す、故に大樹と名く。三菩薩に約して各々三樹と作す、六度は三僧祇に約し、通教は七八九地に約し、別教は三十心に約す。仏平等説の下、第三に三行は所潤と能潤を結す、又二あり、初めに一行半は、譬を挙げて所受潤を帖釈す、七種を明すと雖も七種は少と為す、海の一滴の如し。仏以此喩の一行半は能濶の仏智の多きこと海の如きを明すなり。

 [107]我雨法雨の下八行半は、第六に諸衆生聞此法已を頌し、歓喜増長譬を合す、又二なり、前の両行は総じて増長を頌す、又二あり。

 [108]初め一行は総じて増長を頌す。次に一行は譬を挙げて帖釈す。次に諸仏之法の下六行半は、別して増長を明すに四と為す、初めの一行半は人天の増長を明す。普得具足は是れ現世安隠を頌す。漸次修行は是れ後世の以道受楽を頌す。次に声聞の下第二に一行半は、二乗の増長を頌す。住最後身とは二解有り、一に云く、二乗は此身若し仏に値はずんば、身未だ必らずしも後無きにあらず、仏を見たてまつるに由るが故に最後身と成る、即ち是れ増長の義なり。二に云く、二乗は有余涅槃を得て最後身に住し、仏の五味の調熟を得て法華に入ることを得、大乗を開て解を得、即ち是れ増長なり。若諸菩薩智慧堅固の下、第三に一行半は是れ通教の増長なり。堅固は是れ体法の慧、了達三界は是れ惑を断じ尽すなり。復有住禅の下第四に二行は、是れ別教の増長なり云云。

 [109]問ふ、一雲一雨と一昔と同異いかん、答ふ、下地は一音を以て他をして一法を聞かしめ、仏は一音を以て類に随て各解せしむ、今一雲一雨は、正しく是れ随類の一音なり。

 [110]有人解すらく、法身不二なるを一と名く、法身より音を出すが故に一音と言ふ。有人の言く、一時に並に衆声を出すが故に一音と言ふ。有人の言く、五音の中に随て一音を用ふと。

 [111]大論には一音の衆声を報ずるを明し並に出すと言はず、亦是れ法身の音を出すと言はず。

 [112]毘婆沙に言く、仏は一音を以て四諦を説きたまふ、五人は人の語と聞き、八万の諸天は天の語と聞く、地獄夜又は各々其語に同じと聞く、唱告すること梵天に至る、是れを梵音と為すと。

 [113]亦是れ仏の報得の清浄の音声最妙なるを号して梵音と為す、若し報得の梵音ならば則ち人の聞かざる所なり、聞くも亦解せず。

 [114]如是迦葉の下第二に五行は、上の無差別譬を頌す、又二と為す、前の一行半は無差別の差別を頌す、後の三行半は差別の無差別を頌す。

 [115]譬如大雲以一味雨は、即ち上の一味の雨の無差別を合するを頌するなり。潤於人華各得成実は、即ち是れ上の差別を頌するなり。

 [116]次に迦葉当知以諸因縁の下は即ち是れ権を明す、権は即ち差別にして、上の所生を合するなり。今当為汝とは即ち是れ実を顕はす、実は即ち無差別なり、上の一地を合するなり。非滅度とは、未だ変易を度らざるなり、独り二乗を言ふ者は、其保証の強きが為めなり。人天は果を計して涅槃と為さず、菩薩は中間に証を取らざるなり。是菩薩道とは、菩薩は道を行ずるに亦須らく通惑を断ずべし、汝已に断尽す、即ち是れ菩薩道なり。法華論に謂く、発心し退し已て還て発すとは、前に修する所の善滅せず、同じく後に果を得と、二乗の智断は是れ菩薩道とは、二乗は其果を執るが故に、斥けて是れ菩薩道と言ふ、道とは即ち因なり。問ふ、菩薩も亦果有り。信解に云く、道を得、果を得と。大品に云く、有の法は是れ菩薩道、無の法は是れ菩薩の果なりと、何が故ぞ是れ菩薩の果と言はざる、答ふ、此義亦応に得べし、今言ふこゝろは、若しは道若しは果、皆是れ仏の因なり、因は即ち是れ道なり。

◎授記品を釈す

 [1]梵音は和伽羅、此には授記と云ふ。

 [2]諸経に受記を破す。浄名に云く、如の生に従て記を得るや、如の滅に従て記を得るや、如に生滅無ければ則ち記無きを知ると。思益に云く、願はくは記の名を聞かざれと。大品に云く、受記は是れ戯論なりと、今の経云何。

 [3]答ふ、若し記有て人に記すと見れば此見須らく破すべし、菩薩は記を誓はゞ此記は須らく与ふべし。

 [4]世諦の故に記し、第一義の故に無し。

 [5]四悉は時に適ふ、下に説くが如し。

 [6]若し通途の記は、法師品の初めの如し、若し別して記を与ふるは、三周の後に説くが如し。若し正因の記は常不軽の如し。若し縁因の記は法師品の十種の供養の如し。若し了因の記は三根の人に授くるが如し。若し正因の記は則ち広し、若し縁了の記は則ち狹し。或は遅記し或は速記す、或は仏記したまふ、此文の如し。或は菩薩記す、不軽の如し、劫国の定まれるもの無しと雖も亦是れ記を得。復懸記は化城品の未来弟子の如き是れなり。

 [7] 他経には但だ菩薩に記して二乗に記せず、但だ善に記して悪に記せず、但だ男に記して女に記せず、但だ人天に記して畜に記せず、今の経は皆記す。若し首楞厳には四種の記有り、今経も之を具す、未発心に記を与ふるは、常不軽品の如し。発心・現前・無生は三周の記是れなり。

 [8]瓔珞第九に八種の授記あり、己れ知り他知らず、衆人尽く知り己れは知らず、己と衆と倶に知り、己と衆と倶に知らず、近きものは覚し遠きものは覚せず、遠きものは覚し近きものは覚せず、倶に覚し倶に覚せず。己れは知り他は知らずとは、発心して自ら誓ふも未だ広く人に及ばず、未だ四無所畏を得ず、未だ善権を得ざるか故なり。衆人尽く知れども己れは知らずとは、発心広大にして無畏善権を得るが故なり。皆知るとは、位は七地に在て無畏善権もて空観を得るが故なり。皆知らずとは、未だ七地に入らず、未だ無著の行を得ざればなり云云。遠きもの覚せずとは弥勒是れなり、諸根具足して如来無著の行を捨てざるか故なり。近きものは覚せずとは、此人未だ賢聖の行を演説すること能はざればなり、師子贋是れなり。近遠倶に覚すとは、諸根具足して無著の行を捨せざればなり、柔順の菩薩是れなり。近遠倶に覚せずとは、未だ善権を得ず、悉く如来蔵を知ること能はざればなり、等行の菩薩是れなり。余経に又近きは知ると云ふは、現仏に従て記を得るなり、弥勒等の如し。遠きは知るとは、今仏に従はず、当仏に従て記を得るなり。仏の弊魔に語て弥勒は当に汝に記を与ふべしといふが如し。近遠倶に知るとは、今当の仏倶に記を与ふるなり。近遠倶に知らずとは、今当の仏倶に記せざるなり。

 [9]元と諸仏本とより大事の因縁の為めに世に出で、衆生をして仏の知見に開示し悟入せしめたまふ、今大事已に顕はれ、仏已に説き竟り、衆生已に入る、仏の本懐を暢べ衆生の願満ず、法として応に記を与ふべし、父子に遇ふが如し、豈に財を付せざらんや。又行人に無量世の行願あり、願は今仏に在り。

 [10]文に云く、其本願此の如し、故に斯の記を獲と、此両縁は是れ世界悉檀の故に記す。

 [11]又二乗は経を聞き、小を改め大に入る、円因已に足る、因は必らず果を招く、故に如来は記を与へたまふ。時衆咸く知て願を発し、生身法身の内外の眷属と為らんと願ず。或は但だ彼土に生じて衆生を饒益せんと願ず、此両は是れ為人悉檀に記を与ふるなり。

 [12]又二乗に記を授くるは、大を退して小に入らんと欲する菩薩を破す、何となれば、若し定んで二乗有らば、退して小と為る可し、今は二乗無し、何の退す可き所あらん。又二乗の心を発せんと欲する者を破す、彼れ証を自ら捨つ、我れ何為ぞ取らん。又未だ小を改めざる者を破して、則便ち小を改む。将に小を証せんとする者には即ち証を取らざらしむ、此四は対治悉擅に記を与ふるなり。

 [13]又無生と現前とは必らず実解に由らば、仏の知見を開して謬らず、又明らかに仏性を了す、故に受記を与ふ。小乗も実に入れば、決定して仏と作らん。若し爾らば、一切の衆生も亦仏性有り、何ぞ記を与へざる。然るに衆生は但だ正にして縁無し、今経を聞て信解し、縁正に具足す、仏の知見を開て仏性を知り、仏法を見て、仏性を見る、此両は第一義悉檀に記を与ふるなり、此四の記は上の諸の受記を摂し尽す云云。

 [14]授記は亦受記・受決・受莂と云ふ、授は是れ与の義、受は是れ得の義、記は是れ事を記す、決は是れ決定、莂は是れ了莂なり。

 [15]中根の人の法譬二周の開三顕一を聞て具足して領解し如来は述成したまふ、自ら作仏せんことを知ると雖も、而も時事未だ審かならす、若し仏の誠言もて其当果を授くるを蒙り劫と国と決定し、近遠了莂するときは、則ち大に歓喜す、今は仏の授与するに従て名を得、故に授記品と言ふ。此文は是れ譬説第四段なり。上の三段は皆譬喩を以て之を説く、此中には授記するも亦譬喩を用ひて記を論ず、何の意ぞ第五段無き。一解に云く、上を指し下を指し、略して論ぜざるのみと。又云く、草喩の中に一切の潤を受け各々増長を得ることを明す、審かに四衆皆利益を獲ることを知る、経家略して出ださざるのみと。

 [16]文二と為す、一に正しく中根に授記を与ふ、二に下根の為めに宿世の説を許す、初めに又二あり、先に迦葉に授け、次に三人に授く、並に長行と偈頌有り、迦葉の長行の中に六有り、一に行因、二に得果、三に劫国の名字荘厳、四に寿命、五に正像の久近、六に国浄なり、文の如し。

 [17]三弟子の中復二あり、一に記を請す、二に記を与ふ、記を請する中に七偈あり、初めに一行は正しく請す、次に二行半は開讐、次に二行半は合譬なり、次に一行は結す。

 [18]三人の記各々行因・得果・劫国・寿命・法住の数量有り、悉く文の如し。

 [19]我諸弟子より下二行半は、下根の為めに更に宿世を説くことを許す、此人已に法譬を聞き、復上中の受記を見て而して猶ほ疑て了せず、深く愧恥を生ず、其道を増進せんと欲して、先に総記を許し、更に宿縁を説く云云。