[1]二に、四種三昧を勧進して、菩薩の位に入ることを明さんとして是止観を説くとは、夫れ妙位に登らんと欲せば、行に非ずんば階らず。善く解して鑚揺せば醍醐を獲べし。「法華」に云はく、「又、仏子種種の行を修し、以て仏道を求むるを見る」と。行法衆多なるも、略して其四を言ふ。一には常坐、二には常行、三には半行半坐、四には非行非坐なり。通じて三昧と称するは、調直定なり。「大論」に云はく、「善く心を一処に住して動ぜざる、是を三昧と名く」と。法界は是れ一処なり、正観は能く住して動ぜず、四行を縁と為して心を観ず、縁を藉りて調直なり。故に通じて三昧と称するなり。

 [2]一に常坐とは、「文殊説」「文殊問」の両般若に出づ。名けて、一行三昧と為す。今、初に方法を明し、次に勧修を明す。方法とは身に開遮を論じ、口に説黙を論じ、意に止観を論ず。

 [3]身に常坐を開して、行、住、臥を遮す。或は衆に処すべきも、独りは則ち弥善し。一の静室、或は空閑の地に居して、諸の喧閙を離る。一の繩牀を安んじて、傍に余坐無し。九十日を一期と為す。結跏正坐し、項脊端直にして動かず揺がず、萎ず倚らず、以て坐して自ら誓ひ、肋をもって牀に拄へず。況んや復屍臥、遊戯、住立せんをや。経行、食、便利を除く。一仏の方面に随ひ、端坐して正く向ふ、時刻相続して、須臾も廃すること無かる可し。開する所は専ら坐なり、遮する所は犯すこと勿れ。仏を欺かざれ、心に負かざれ、衆生を誑かさざれ。

 [4]口の説黙とは、若しは坐して疾極し、或は疾病に困められ、或は睡蓋に覆はれ、内外の障、侵して正念の心を奪ひ、遣却すること能はずんば、当に専ら一仏の名字を称し、慚愧熾悔して命を以て自ら帰すべし。十方の仏の名字を称ふると功徳正しく等し。所以は何ん、人の憂喜鬱怫たるに声を挙げて歌哭し悲笑すれば則ち暢ぶるが如し。行人も亦爾なり、風、七処に触れて身業を成じ、声の響、唇に出でて口業を成じ、二能く意を助けて機を成じ、仏の俯降を感ず。人の重きを引くとき、自力にして前まざるに、傍の救助を仮らば、則ち軽く挙ることを蒙むるが如し。行人も亦爾なり、心弱くして障を排すること能はざるに、名を称へて護を請はば、悪縁も懐すること能はず。若し、法門に於て未だ了せずんば、当に般若を解する者に親近して、聞くが如く修学すべし。能く一行三昧に入らば、面り諸仏を見たてまつり、菩薩の位に上らん。誦経、誦呪も、尚静なるよりも喧し、況んや世俗の言語をや。

 [5]意の止観とは、端坐正念す。悪覚を蠲除し、諸の乱想を捨てて、思惟を雑ゆること莫れ、相貌を取らざれ、但、専ら縁を法界に繋け、念を法界に一らにす。繋縁は是れ止、一念は是れ観なり。一切の法は皆是れ仏法なりと信ずれば、前無く後無く復際畔なく、知者無く説者無し。若し知無く説無ければ、則ち有に非ず無に非ず、知者に非ず不知者に非ず。此の二辺を離れて無所住に住し、諸仏の住するが如く、寂滅法界に安処す。此の深法を聞きて、驚怖を生ずること勿れ。此法界を亦菩提と名け、亦は不可思議の境界と名け、亦は般若と名け、亦は不生不滅と名く。是の如き等の一切法と法界とは二無く別無し、二無く別無しと聞きて疑惑を生ずること勿れ。能く是の如く観ずる者は、是れ如来の十号を観ずるなり。如来を観ずる時は、如来を謂つて如来と為さず。如来の如来たる有ること無く、亦如釆の智能く如来を知る者無し。如来及び如来智は二相無く動相無く、作相ならず、方に在らず、方を離れず、三世に非ず不三世に非ず、二相に非で不二相に非ず、垢相に非ず浄相にも非ず、此の如く如来を観亊ること、甚だ希有なりと為す、獪ほ虚空の如く、過失あること妲く、正念を増長す。仏の相好を見ること、水鏡を照して自ら其形を見るが如し。初に一仏を見、次に十方の仏を見る。神通を用ひて往いて、仏を見るに不ず、唯此処に住して諸仏を見、仏の説法を聞きて如実の義を得るなり。一切衆生の為に、如来を見て而も如来の相を取らず。一切衆生を化して涅槃に向はしめ、而も涅槃の相を取らず。一切衆生の為に、大荘厳を発して而も荘厳の相を見ず。形無く相無く見聞知無し、仏も証得せず、是を希有と為す。何を以ての故に。仏即ち法界なればなり。若し法界を以て法界を証せば即ち晃れ諍論にして証無く得無し。衆生の相を観ずるに諸仏の相の如し、衆生界の量は諸仏界の量の如し。諸仏界の量不可思議なれば。衆生界の量もまた不可思議なり。衆生界の住は虚空の住の如し、不住の法を以てし、無相の法を以てして般若の中に住す。凡法を見ず、云何ぞ捨てん。聖法を見ず、云何ぞ取らん。生死、涅槃、垢浄も亦是の如し、捨てず、取らず、但実際に住す。此の如く衆生を観ずるは真の仏法界なり。貪欲瞋癡の諸の煩悩を観ずるに、恒に是れ寂滅の行、是れ無動の行なり。生死の法に非ず、涅槃の法に非ず。諸見を捨てず、無為を捨てずして、而も仏道を修す。道を修するに非す、道を修せざるに非ず。是を正しく煩悩法界に住すと名く。業の重き者を観ずるに、五逆に出るもの無し。五逆は即ち是れ菩提にして、菩提と五逆と二相無し。覚者なく知者なく、分別する者も無し。逆罪の相、実相の相、皆不可思議、不可懐にして本より本性無し。一切の業縁は皆実際に住す、不来不去、非因非果なり。是を業即ち是れ法界の印なりと観ずと為す。法界の印は 四魔も壊すること能はざる所、魔も便を得ず。何を以ての故に、魔即ち法界の印なれば、法界の印云何ぞ法界の印を毀らん。此意を以て一切の法に歴るも、亦応に解す可し。上に説く所は皆是れ経文なり。

[6]勧修とは、実の功徳を称して行者に奨む。法界の法は是れ仏の真法、是れ菩薩の印なり。此法を聞きて驚かず畏れずんば、乃ち百千万億の仏の所に従つて久しく徳本を植ゆ。譬へば長者の摩尼珠を失ひ、後還って之を得て、心甚だ歓喜するが如し。四衆は此法を聞かざれば心則ち苦悩す、若し聞きて信解すれば歓喜すること亦然り。当に知るべし、此人即ち是れ仏を見るなり、已に曾て文殊に従つて是法を聞くなり。身子の日はく、「此義を諦了する、是を菩薩摩訶薩と名く」と。弥勒の云はく、「是人仏座に近し、仏、此法を覚るが故なり」。故に文殊の云はく、「此の法を聞きて驚かざるは、即ち是れ仏を見たてまつるなり」と。仏の言はく、「即ち不退地に住し、六波羅蜜を具し、一切の仏法を具す矣」と。若し人、一切の仏法、相好威儀、説法、音声、十力、無畏を得んと欲せば、当に此一行三昧を行ずべし。勤行して懈らんずんば、則ち能く入ることを得ん。摩尼珠を治するに、随つて磨けば随つて光り、不可思議の功徳を得るが如し。菩薩能く知れば、速かに菩提を得。比丘比丘尼の聞きて驚かざるは、即ち仏に随つて出家す。信士信女の聞きて驚かざるは、即ち真の帰依なり。此称誉は 彼両経に出でたり云云。

 [7]二に常行三昧とは、先に方法、次に勧修なり。方法とは身の開遮、口の説黙、意の止観なり。此法は「般舟三昧経」に出づ、翻じて仏立と為す。仏立に三義あり、一には仏の威力、二には三昧の力、三には行者の本功徳力なり。能く定中に於て十方現在の仏その前に在りて立ちたまふを見たてまつること、明眼の人の清夜に星を観るが如し、十方の仏を見たてまつること、亦是の如く多し、故に仏立三昧と名く。「十住毘婆沙」の偈に云はく、「是三昧の住処に、少、中、多の差別あり。」と。是の如き種種の相も亦応に須く論すべし。住処とは、或は初禅、二、三、四、中間に於て是勢力を発し、能く三昧を生ず、故に住処と名く。初禅は少、二禅は中、三、四は多なり。或は少時住するを少と名く、或は世界を見ること少なり、或は仏を見ること少なり、かかる故に少と名く。中、多も亦是の如し。

 [8]身に常行を開す。此法を行ずる時は、悪知識及び癡人、親属、郷里を避け、常に独り処止して他人に希望して求索する所あることを得ざれ。常に乞食して別請を受けざれ。道場を厳飾して諸の供具、香餚、甘果を備へ、其身を盥沐し、左右出入に衣服を改換す。唯専ら行旋して九十日を一期と為す。明師が内外の律を善くして能く妨障を開除するを須ゆ。三昧を聞く所の処に於ては世尊を視たてまつるが如くし、嫌はず、恚らず、短長を見ざれ。当に肌肉を割きて師に供養すべし、況んや復余をや。師に承事すること僕の大家に奉やるが如くす。若し師に於て悪みを生ぜば、是三昧を求むるも終に得ること難からん。外護の母の子を養ふが如くなるを須ひ、同行の共に険を渉るが如くなるを須ゆ。須く要期誓願して、我筋骨をして枯朽せしむとも、是三昧を学んで得ざれば、終に休息せざるべし。大信を起さば能く壊せてする者無く、大精進を起さば能く及ぶ者無く、所入の智は能く逮ぶ者無し。常に善師とともに事に従ひ、三月を終竟るまで世間の想欲を念ずること、彈指の頃の如きをも得ざれ。三月を終竟るまで、臥出すること弾指の頃の如きをも得ざれ。三月を終竟るまで行、休息することを得ざれ、坐食左右を除く。人の為に経を説くも、衣食を希望することを得ざれ。「婆沙」の偈に云はく、「善知識に親近し、精進して懈怠無し。智慧甚だ堅牢にして信力妄に動ずること無し」と。

 [9]口の説黙とは、九十日、身常に行じて休息すること無く、九十日、口に常に阿弥陀仏の名を唱へて休息すること無く、九十日、心に常に阿弥陀仏を念じて休息すること無し。或は唱念倶に運び、或は先に念じ後に唱へ、或は先に唱へ後に念じ。唱念相継いで休息する時無し。若し弥陀を唱ふるは即ち是れ十方の仏を唱ふると功徳等し、但専ら弥陀を以て法門の主と為す。要を挙げて之言はば、歩歩、声声、念念、唯阿弥陀仏に在り。

 [10]意に止観を論ぜば、西方阿弥陀仏は此を去ること十万億仏刹にして、宝地、宝池、宝樹、宝堂、衆菩薩の中央に在して、坐して経を説きたまふを念ず。三月常に仏を念ず。何をか念ずと云ふ、三十二相を念ずるなり。足下千輻輪の相より一一逆に縁じて諸相、乃至無見頂を念ず。亦応に頂相より順に縁じて、乃ち千輻輪に至るべし。我をして亦是の相に逮ばしめたまへと。又念ず、我当に心に従つて仏を得べきや、身に従つて仏を得べきや。仏は心を用ひて得ず、身を用ひて得ず。心を用ふれば仏の色を得ず、色を用ふれば仏の心を得ず。何を以ての故に、心ならば仏に心無し、色ならば仏に色無し、故に色心を用ひて三菩提を得ず。仏は色すでに尽し、乃至識も已に尽す。仏の説き尽したまふ所は癡人知らず、智者のみ曉了す。身口を用ひて仏を得ず、智慧を用ひて仏を得ず。何を以ての故に、智慧は索むるに須べからず、自ら我を索むるに了に得べからず、亦所見無し。一切の法は本より所有無く、本を壊し本を総す(其一)。

 [11]夢に七宝親属を見て歓喜するも、覚め已りて追念するに何の処にか在ることを知らざるが如く、念の如くに仏を念ずべし。

[12]又舍衛に女あり、須門と名く。之を聞きて心喜び夜事に従ふと夢みるも、覚め已りて之を念ずるに、彼来らず我往かずして而も楽事宛然たるが如し。当に是の如く仏を念ずべし。人の大沢を行くに飢渇して、夢に美食を得るも、覚め已りて腹空なるが如し。自ら一切の所有の法を念ずるに皆夢の如し。当に是の如く仏を念ずべし。数数念じて休息することを得ること莫れ、此念を用ひて、当に阿弥陀仏国に生ずべし。是を如相念と名く。人の宝を以て瑠璃の上に倚るに、影其中に現ずるが如く、亦比丘、骨を観ずるに、骨種種の光を起すが如し。此れ持ち来る者無く、亦是骨あること無し。是れ意の作なるのみ。鏡中の像の外より来らず、中より生ぜず、鏡浄なるを以ての故に、自ら其形を見るが如し。行人の色清浄なれば、所有の者も清浄なり、仏を見んと欲すれば即ち仏を見る。見れば即ち問ひ、問へば即ち報ふ、経を聞きて大に歓喜す(其二)。

 [13]自ら念ぜよ、仏、何の所よりか来る、我も亦至る所無しと。我が念ずる所即ち見る、心仏と作り、心自ら心を見、仏の心を見る、是の仏の心は是れ我が心なれば仏を見る。心自ら心を知らず、心自ら心を見ず。心に想あるを癡と為す、心に想無きは、是れ泥洹なり。是法示すべき者無し、皆念の為す所なり。設ひ念あるも亦無所有空と了ずるのみ(其三)。

 [14]偈に云はく、「心は心を知らず、心有つて心を見ず。心、想を起すは即ち癡、想無きは即ち泥洹なり。諸仏は心に従つて解脱を得、心は無垢なれば清浄と名く」と。五道鮮潔にして色を受けず、此を解すること有る者は大道を成ず、是を仏印と名く。貪する所無く、著する所無く、求むる所なく、想ふ所無し。所有尽き、所欲尽く。従つて生ずる所無く、滅すべき所も無く、                壊敗する所も無し。道の要、道の本なり。是印は二乗も壊すること能はず、何に況んや魔をや云云。「婆沙」に明す。新発意の菩薩は先に仏の色相、相体、相業、相果、相用を念じて下の勢力を得、次に仏の四十の不共法を念じて心に中の勢力を得、次に実相の仏を念じて上の勢力を得て、而も色と法との二身に著せず。偈に云はく、「色身に貪著せず、法身にも亦著せず、善く一切の法永く寂たること虚空の如しと知る」と。

 [15]勧修とは、若し人、智慧大海の如くにして、能く我為に師と作る者無からしめ、此に於て坐し、神通を運ばずして悉く諸仏を見、悉く所説を聞きて、悉く能く受持することを得んと欲せば、常に三昧を行ぜよ。諸の功徳に於て最も第一なりと為す。此三昧は、是れ諸仏の母、仏眼、仏父、無生大悲の母なり。一切の諸の如来は、是二法より生ず。大千の地、及び草木を砕きて塵と為し、一塵を一仏刹と為す。爾世界の中に満てらん宝を用て布施するに、其福甚だ多からんも、此三昧を聞きて、驚かず、畏れざらんには如かじ。況んや信じて受持し読誦し、人の為に説かんをや。況んや定心に修習すること、牛の乳を構ふる頃の如きをや。況んや能く是三昧を成ぜんをや。故に無量無辺なり。「婆沙」に云はく、「劫火、官賊、怨毒、竜獣、衆病、是人を侵すといはば是処あること無し。此人は常に 天竜八部、諸仏の為に、皆共に護念称讃せらる。皆共に見んと欲して、共に其所に来る」と。若し此三昧の上の如き四番の功徳を聞きて、皆随喜し、三世の諸仏菩薩も皆随喜せんに、復上の四番の功徳に勝る。若し是の如き法を修せずんば無量の重宝を失ひ、人天これが為に憂悲す、齆齅人の栴檀ぞ把りて而も嗅がざるが如く、田家の子の摩尼珠を以て一頭の牛に博ゆるが如し云云。

 [16]三に半行半坐を明す、亦先に方法、次に勧修なり。方法とは身の開遮、口の説黙、意の止観なり。此れ二経に出づ。方等に云はく、「旋ること百二十帀にして、却き坐して思惟せよ」と。「法華」に云はく、「其人、若は行、若は立ちて是経を読誦し、若は坐して是経を思惟せば、我六牙の白象に乗りて、其人の前に現ずべし」と。故に知んぬ、倶に半行半坐を用ひて方法となすことを。方等は至尊なり、聊爾にすべからず。若し修習せんと欲せば、神明を証と為す。先に夢王を求めよ。若し一を見ることを得れば、是れ熾悔を許すなり。閑静の処に於て道場を荘厳し、香泥を地及び室の内外に塗る。円壇を作りて彩画し、五色の旛を懸け、海岸香を焼き、灯を然し、高座を敷き、二十四の尊像を請ずべし、多きも妨げ無し。餚饌を設け、心力を尽す。新浄の衣と鞵屩を須ゆ、新しきもの無くんば故きを浣げ。出入に著脱して參雑せしむること無かれ。七日長斎し、日に三時洗浴す。初日に僧を供養するに意の多少に隋ふ。別に一りの内外の律に明了なる者を請じて師と為し、二十四戒及び陀羅尼呪を受け、師に対ひて罪を説け。要ず月の八日と十五日を用ひよ。当に七日を以て一期と為すべし、決して減ずべからず。若し能く更に進むは意の堪任するに随へ。十人已還は此を出づることを得ず、俗人も亦許す。須く単縫の三衣を弁じて、仏法の式を備ふべし。

 [17]口の説黙とは、預め陀羅尼咒一篇を誦して利ならしむ。初日分に於て、異口同音に三遍、三宝、十仏、方等、父母、十法王子を召請すべし。召請の法は「国清百録」の中に在り。請じ竟りて香を焼き念を蓮んで三業供養せよ。供養し訖りて前に請ずる所の三宝を礼し、礼し竟りて志誠の心を以て悲泣して涙を雨らし、罪咎を陳悔し竟らば起ちて旋ること百二十帀す。一たび旋るに一たび咒し、遲からず疾からず、高からず下からず。旋咒し竟りて十仏、方等、十法王子を礼す。是の如く作し已りて、却き坐して思惟し、思惟し訖らば更に起ちて旋咒し、旋咒し竟らば更に却き坐して思惟す。周うして復始め、七日を終竟るまでせよ。其の法是の如し。第二時よりは召請を略す、余は悉く常の如し。

 [18]意の止観とは、経に思惟せしむ、「摩訶袒持陀羅尼」を思惟するなり。翻じて大秘要遮悪持善と為す。秘要は、祇是れ実相中道の正空なり。経に言はく、「吾真実の中より来る」と。真実とは寂滅の相なり、寂滅の相とは所求あること無し。求むる者も亦空、得る者、著する者、実なる者、来る者、語る者、問ふ者、悉く空なり。寂滅涅槃も亦復皆空なり、一切虚空分界も亦復皆空なり(其一)。所求無き中に、吾故らに之を求む、是の如き空空真実の法は当に何に於てか求めん、六波羅蜜の中に於て求むべしと(其二)。此れ「大品」の十八空と同じく、「大経」の迦毘羅城空、如来空、大涅槃空とも更に異りあること無し。此空慧を以て一切の事に歴るに、観を成ぜざること無し。方等とは、或は広平と言ふ。今言はく、方とは法なり。般若に四種の方法あり、四門より清涼池に入るを謂ふ、即ち方なり。所契の理、平等大慧、即ち等なり。夢王を求めしむるは即占二観の前方便なり。道場は即ち清浄の境界なり、五住の糠を治して、実相の米を顕はす、亦是れ定慧を用て法身を荘厳するなり。香塗とは即ち無上の尸羅なり。五色蓋とは五陰を観じて子縛を免れ、大慈悲を起して法界を覆ふなり。円壇とは 即ち実相不動の地なり。繒旛とは即ち法界の上の迷を翻して、動出の解を生ずるなり。旛と擅と相離れざるは、即ち動出、不動出、相離れざるなり。香灯は即ち戒慧なり。高座は諸法空なり、一切の仏は、皆此空に栖みたまふ。二十四像とは即ち是れ逆順に十二因縁を観ずる覚了の智なり。蠲饌とは即ち是れ無常苦酢、助道の観なり。新浄衣とは即ち寂滅忍なり、瞋惑重積するを故と禁し、瞋を翻じて忍を起すを名けて新と為す。七日とは即ち七覚なり、一日とは即ち一実膀なり。三洗とは即ち一実を観じて三観を修し、三障を蕩して三智を浄むなり。一師とは即ち一実諦なり。二十四戒とは逆順の十二因縁、道共戒を発するなり。呪とは囑対なり。「瓔珞」に十二因縁に十種有ることを明す、即ち一百二十支有り。一呪一支束ねて而して之を言はば秖是れ三道なり。苦、業。煩悩を謂ふ。今、此閃縁を咒するは、即ち是れ三道を呪して懺悔を論す。事懺は苦道、業道を懺し、理懺は煩悩道を懺す。文に云はく、「沙弥戒、乃至大比丘戒を犯ぜんに、若し還つて生ぜすといはば、是処あること無し」と。即ち業道を懺するの文なり。眼耳の諸根清浄とは、即ち苦道を懺するの文なり。第七日に十方の仏を見たてまつり、法を聞きて不退転を得とは、即ち煩悩道を懺するの文なり。三障去れば即ち十二因縁の樹懐す、亦是れ五陰の舍空なり。実相を思惟して正しく此を破す、故に諸仏実法の懺悔と名くるなり。

 [19]勧修とは、諸仏の得道は、皆此法に由る。是れ仏の父母、世間無上の大宝なり。若し能く修行すれば、全分の宝を得、但能く読誦すれば中分の宝を得、華香を供養すれば下分の宝を得。仏、文殊とともに下分の宝を説くも尽すこと能はざる所なり、況んや、中、上、をや。若し地より宝を積みて梵天に至るを以て仏に奉るとも、持経の者に一食を施して躯に充てしめんには如かじ。経に広く説くが如し云云。「法華」に約して亦方法と勧修とを明す。方法とは身の開遮、口の説黙、意の止観なり。身は開して十と為す。一には厳浄道場、二には浄身、三には三業供養、四には請仏、五には礼仏、六には六根懺悔、七には遶旋、八には誦経、九には坐禅、十には 証相なり。別に一巻ありて「法華三昧」と名く、是れ天台師の著す所にして世に流伝す。行者これを宗とせよ。此れ則ち説黙を兼ぬ。復別に論ぜず。

 [20]意の止観とは、「普賢観」に云はく、「専ら大乗を誦して三昧に入らず、日夜六時には六根罪を懺す」と。「安楽行品」に云はく、「諸法に於て行ずる所無く、亦不分別を行ぜず」と。二経は本相成ずることを為す、豈文を報して、拒み競ふべけんや。蓋し乃れ縁の為に前後互に出すのみ、碩に異るに非ざるなり。「安楽行品」の護持、読誦、解説、深心礼拜等、豈事に非ずや。「観経」に無相の懺悔を明す、「我心自ら空、罪福に主無し、慧日能く消除す」と、豈に理に非ずや。南岳師の云はく、「有相の安楽行、無相の安楽行」と。豈事理に就て、是の如きの名を得るに非ずや。特に是れ行人、事に渉りて六根懺を修して悟入の 弄胤と為す、故に有相と名く。若し直に一切法空を観じて方便となす者あり、故に無相と言ふ。妙証の時、悉く皆両ながら捨っ、若し此意を得れば、二経に於て疑無し、今、文に歴て観を修す、六牙の白象と言ふは是れ菩薩の無漏の六神通なり。牙に利用あり、通の捷疾なるが如し。象に大力あるは法身の荷負を表す。無漏無染たる、之を称して白と為す。頭上に三人あり。一は金剛杵を持し、一は金剛輪を持し、一は如意珠を持するは、三智、無漏の頂に居するを表す云云。杵をもつて象に擬するに能く行くは慧の行を導くを表し、輪の転ずるは出仮を表し、如意は中を表す。牙の上に池あり、八解は是れ禅の体、通は是れ定の用なることを表す、体用相雑れざるが故に牙の端に池あり。池の中に華あり、華は妙因を表す。神通力を以て仏国土を浄め、衆生を利益するは即ち是れ因なり。因は通より生ず、華の池に由って発くが如し。華の中に女あり、女は慈を表す。若し無縁の慈無くんば、豈能く神通力を以て、身を促めて小ならしめて此娑婆に入らん。通ば慈に由りて蓮すること、華の女を擎ぐるが如し。女の楽器を執るは 四摂を表するなり。慈、身口を修めて種種の同事利行を現じ、財法の二施、物を引くこと多端なるは、五百の楽器の音声無量なるが如し。喜見の身を示すは是れ普賢色身三昧なり、宜楽する所に随って為に之を現ず、未だ必ずしも純ら白玉の像を作さず。語言陀羅尼とは、即ち是れ慈、口に熏じて種々の法を説くなり。皆法華三昧の異名なるのみ。此意を得れば、象の身の上に於て自在に法門を作す。

 [21]勧修とは、「普賢観」に日はく、「若し 七衆、戒を犯じて一弾指の頃に百千万億阿僧祇劫の生死の罪を除滅せんと欲する者、菩提心を発し、煩悩を断ぜずして而も涅槃に入り、五欲を離れずして而も諸根を浄め、障外の事を見んと欲し、分身、多宝、釈迦仏を見たてまつらんと欲する者、法華三昧の一切語言陀羅尼を得て、如来の室に入り、如来の衣を著し、如来の座に坐し、天竜八部衆の中に於て法を説かんと欲する者、文殊、薬王諸大菩薩の華香を持して、空中に住立し侍奉することを得んと欲する者は、応に此法華経を修習し、大乗を読誦し、大乗の事を念じ、此空慧をして心と相応せしめ、諸の菩薩の母を念歩べし。無上の勝方便は、実相を思ふより生す。衆罪は霜露の如く、慧日能く消除す。此の如きの諸事を成弁して具足せざること無し。能く此経を持つ者は、則ち我を見、亦汝を見、亦多宝及び分身を供養し、諸仏をして歓喜せしむることを得と為す」と。経に広く説くが如し。誰か是の如きの法を聞きて、菩提心を発せざらんや、彼不肖の人、癡瞑無智の者を除くのみ。

 [22]四に非行非坐三昧とは、上は一向に行坐を用ふ、此れ既に上に異なる。四句を成ぜんが為の故に非行非坐と名く。実には行坐及び一切の事に通ず。而して南岳師は呼んで随自意と為す、意起るに即ち三昧を修するなり。「大品」には「覚意三昧」と称す。意の趣向皆覚識すること明了なり。復三名ありと雖も実は是れ一法なり。今経に依りて名を釈す、覚とは照了なり。意とは心数なり、三昧とは前に釈するが如し。行者、心数の起る時、反照観察するに、動転の根源、終末、来処、去処を見ず、故に覚意と名く。諸数無量なり、何が故ぞ意に対して覚を論ずるや。諸法の源を窮むるに、皆意の造するに由る、故に意を以て言の端と為す。境に対して覚知すること木石に異なるを名けて心と為す、次に心の籌量するを名けて意と為す、了了別知するを名けて識と為す、是の如く分別するは心想見倒の中に堕す、豈名けて覚と為さんや。覚とは心の中、意あるに非ず、亦意あらぎるに非ず。心の中、識あるに非ず、亦識あらざるに非ず。意の中に心あるに非ず、亦心あらざるに非ず。意の中に識あるに非ず、亦識あらざるに非ず。識の中に意あるに非ず、亦意あらざるに非ず。識の中に心あるに非ず。亦心あらざるに非ずと了知す。心と意と識とは一に非ざるが故に三名を立て三に非ざるが故に一性と説く。若し名も名に非ずと知れば則ち性も亦性に非ず、名に非ざるが故に三ならず、性に非ざるが故に一ならず。三に非ざるが故に散ならず、一に非ざるが故に合ならず。合ならざるか故に有ならず、散ならざるか故に空ならず。有に非ざるが故に常ならず、空に非ざるが故に断ならず。若し常、断を見ざれば、終に一異を見ず。若し意を観ずれば則ち心識を摂す、一切の法も亦爾なり、若し意を破すれば無明則ち壊し、余使も皆去る。故に諸法は多しと雖も、但、意を挙げて以て三昧を明す。観ずれば別ち調直なり、故に覚意三昧と言ふ。随自意、非行非坐といふも、此に準じて解すべし。

 [23]此に就て四と為す、一には諸経に約し、二には諸善に約し、三には諸悪に約し、四には諸無記に約す。諸経の行法にして上の三に摂せざるものは、即ち随自意に属す。且く「請観音」に約して其相を示さば、静処に於て道場を厳り、旛蓋、香燈をまうけ、弥陀の像、観音、勢至二菩薩の像を請じて、西方に安ず。楊枝浄水を設け、若し便利左右には香を以て身に塗り、澡浴清浄にして新浄の衣を著す。斎日に建首せよ。当に正しく西方に向ひて五体を地に投じ、三宝、七仏、釈尊、弥陀、三陀羅尼、二菩薩、聖衆を礼せよ。礼し已りて胡脱し、焼香散華し、至心に運想すること、常の法の如くすべし。供養し已りて身を端し心を正しうして結跏趺坐し、念を繋け息を数ふ。十息を一念と為し、十念成就し已らば起ちて香を焼く。衆生の為の故に三遍上の三宝を請ず、請じ竟りて三たび三宝の名を称へ、加へて観世昔を称す。十指掌を合し、四行の偈を誦し竟りて、又三篇の咒を誦す、或は一遍、或は七遍、時の早晩を看る。咒を誦し竟りて披陳懺悔す、自ら所犯を憶うて発露洗浣し、已りて上の請ずる所を礼す。礼し已りて一人高座に登り、此経文を、若は唱へ若は誦し、余人は諦かに聴け。午時、初夜、その方法此の如し、余時は常の儀の如くす。若し闕略を嫌はば、経を尋ねて補益すべし云云。

 [24]経に云はく、「眼と色と相応す、云何が摂住せん。乃至、意と攀縁と相応す、云何が摂住せん」とは、「大集」に云はく、「如心にして住す」と。如とは即ち空なり、此文、一一に皆如実の際に入る、即ち是れ如空の異名なるのみ。地に堅無しとは、若し地は是れ有なりと謂はば、有は即ち実、実は是れ堅の義なり。若し地は是れ無、是れ亦有亦無、非有非無なりと謂はば、是事実にして、皆是れ堅の義なり。今畢竟不可得なることを明すは。其堅性を亡ずるなり。水性住せずとは、謂く水を有と為さば、有は即ち是れ住なり。乃至、水は是れ非有非無なりと謂ふも亦即ち是れ住なり。今有の四句に住せず、亦無の四句の中にも住せず、亦不可説の中にも住せず、故に水性不住と言ふ。風性無礙とは、風を観ずるに有と為んか、有は即ち是れ礙なり。乃至、風は非有非無なりと謂はんも亦無の四句無し、故に風性無礙と言ふ。火大不実とは、火は自より生ぜず、乃至、無因より生ぜず、本より自性無し、縁に頼りて有るが故に不実と言ふ。色を観ずること既に爾り、受、想、行。識も一一皆如実の際に入る。陰を観ずること既に爾り、十二因縁は谷響の如く、芭蕉の堅さ、露電等の如しと。一時に運念して空観を成ぜしめ、勤めて修習して相応することを得しむべし。観慧の本なり、闕くべからず。「銷伏毒害陀羅尼」は能く報障を破す、毘舎離の人平復すること本の如し。「破悪業陀羅尼」は能く業障を破す、梵行を破する人も糞穢を蕩除して清浄なることを得しむ。「六字章句陀羅尼」は能く煩悩障を破す、三毒の根を浄めて仏道を成ずること疑ひ無し。六字は即ち是れ六観世音なり、能く六観の三障を破す。所謂る大悲観世音は地獄道の三障を破す、此道は苦重し、宣しく大悲を用ふべし。大慈観世音は餓鬼道の三障を破す、此道は飢渇す、宣しく大慈を用ふべし。師子無畏観世音は畜生道の三障を破す、獣王威猛なり、宣しく無畏を用ふべきなり。大光普照観世音は阿修羅道の三障を破す。其道猜忌嫉疑す。偏へに宣しく普照を用ふべし。天人丈夫観世音は人道の三障を破す、人道に事理あり、事は憍慢を伏すれば天人と称し、理は則ち仏性を見るが故に丈夫と称す。大梵深遠観世音は天道の三障を破す、梵は是れ天主なれば主を標して臣を得るなり。六観世音を広うすれば即ち是れ二十五三昧なり。大悲は即ち是れ無垢三味、大慈は即ち是れ心楽三昧、師子は即ち是れ不退三昧、大光は即ち是れ歓喜三昧、丈夫は即ち是れ如幻等の四の三昧、大梵は即ち是れ不動等の十七の三昧なり。自ら之を思うて見つべし云云。此経は三乗の人の懺悔に通ず、若し自調自度にして諸の結賊を殺すは、阿羅漢を成ず。若し福厚く根利にして、無明、行等を観ずるは縁覚道を成ず。若し大悲を起すは、身、瑠璃の如くして、毛孔より仏を見、首楞厳を得て不退転に住す。諸大乗経に此流類あり、或は七仏八菩薩の懺、或は虚空蔵八百日に厠を塗り、是の如き等は皆是れ随自意の摂なり云云。

 [25]二には、諸善に歴るに即ち二と為す。先に四運を分別し、次に衆善に歴るなり。初に四運を明さば、夫れ心識は形無くして見るべからず。四種の相に約して分別す、未念、欲念、念、念已を謂ふ。未念は心の未だ起らざるに名け、欲念は心の起らんと欲するを名け、念は正しく境を縁じて住するを名け、念已は境を縁ずること謝するを名く。若し能く此四を了達すれば、即ち一相無相に入る。問ふ、未念は未だ起らず、已念は已に謝す。此二皆心無し、心無くんば即ち相無し、云何ぞ観ずべき。答ふ、未念は未だ起らずと雖も畢竟無なるに非ず。人の未だ作作せずして後便ち作作するが如し。未だ作作せざるを以ての故に、便ち人無しと言ふべからず。若し定んで人無くんば後誰か作作せん、未だ作作せざる人あるを以て則ち将に作作あらんとす。心も亦是の如し、未念に因るが故に欲念あることを得。若し未念無くんば、何ぞ欲念あることを得んや。是故に未念未だあらずと雖も、畢竟じて念無きことを得ず。念已滅すと雖も亦観察すべし。人の作し竟るが如き、無と言ふことを得ず、若し定んで人無くんば前に誰か作作せん。念已の心滅することも亦復是の如し、永滅と言ふことを得ず。若し永く滅せば、則ち是れ断見なり、因無く果無し。是故に念已は滅すと雖も亦観ずることを得べし。問ふ、過去は已に去り、未来は未だ至らず、現在は住せず。若し三世を離るれば、即ち別の心無し、何等の心をか観ずる。答ふ、汝が問は非なり。若し過去永く滅せば畢竟して知るべからず、未来未だ起らざれば知るべからず、現在住すること無くんば知るべからず。云何ぞ諸の聖人、三世の心を知らん。鬼神も尚ほ自他の三世を知る、云何ぞ仏法の行人にして断滅亀毛兎角の見を起さんや。当に知るべし、三世の心は定実無しと雖も亦知ることを得べし。故に偈に云はく、「諸仏の説きたまふ所は空なりと雖も亦断ならず、相続すれども亦常ならず、罪福も亦失せず」と。若し断滅を起さば盲の色に対するが如し、仏法の中に於て正観の眼無く、空しく獲る所無し。行者既に心に四相ありと知らば心の起す所の善悪の諸念に随つて、無住著の智を以て反照し観察せよ。

 [26]次に善事に歴るに、善事は衆多なるも且らく六度に約す。若し諸塵あらば須く六受を捨つべし、若し財物無くんば、須く六作を運すべし、捨運共に論ずるに十二事あり。初に眼の色を受くる時を論ずるに、未見、欲見、見、見已の四蓮の心皆見るべからず、亦見ざることを得ず。又反って色を覚するの心を観ずるに、外より来らず。外より来らば我に於て預ること無し。内より出でず、内より出づれば因縁を待たず。既に内外無ければ亦中間無し、常に自ら有なるにあらず。当に知るべし、色を覚すれば畢竟空寂なり、所観の色と空と等しく、能観の色は盲と等し。乃至、意の法を縁ずるも、未縁、欲縁、縁、縁已の四心皆不可得なり。反って法を覚するの心を観ずるに外より来らず内より出でず、法塵無く、法者無く、悉く空と等し。是を六受を覚するの観と為す云云。眼根、色塵、空、明、各各見無く亦分別も無し。因縁和合して眼識を生じ、眼識の因縁は意識を生じ、意識生ずる時即ち能く分別す、意識に依りて即ち眼識あり。眼識は能く見、見已りて貪を生ず。色に貪染して受くる所の戒を毀る。此は是れ地獄の四運なり。意、実に色を愛すれども、覆諱して不なりと言ふ、此れ鬼道の四運なり。色に於て著を生じて我我所を計するは、畜生の四運なり。我が色と他の色において、我勝れ他劣れりとするは、阿修羅の四運なり。他我に色を恵む、与へざれば取らず。此色の上に於て、仁、譲、貞、信、明等、五戒、十善を起すは人天の四運なり。四運心を観ずるに心相生滅して心心住せず、心心に三受あり、心心自在ならず、心心の因縁に属するは二乗の四運なり。己が四運を観ずるに亦復此の如く、他の四運を観ずるも亦復是の如し、即ち慈悲を起して六度を行ず。所以は何ん、六受の塵は性相此の如し。無量劫来頑愚保著して捨つること能はず、捨てて亡ずること能はず。今、塵も塵に非ずと観ずれば、塵に於て受無く、根も根に非ずと観ずれば、已に於て著すること無し。人得ること叵しと観じて亦受者無し。三事皆空なるを檀波羅蜜と名く。「金剛般若」に云はく、「若し、色、声、香、味、触、法に住して布施するは。是を住相の布施と名く。人の闇に入りては、則ち見る所無きが如し。声、味に住せずして布施するは、是れ無相の布施なり。人の目ありて、日の光明かに照すに種種の色を見るが如し」と。直に相を見ずと言ふは、略して猶ほ解し難し。今、色の有相、無相、亦有無相、非有無相を見ず、処処の著相の若き、之を引いて出づることを得しめ、六十二見を起さざるは乃ち無相の檀と名く、彼岸に到り、一切の法、檀に趣きて摩訶衍を成ずるは、是れ菩薩の四運なり。又四運を観ずるに虚空と等しきは即ち常なり。四運を受けざるは即ち楽なり、四運の為に業を起さざるは即ち我なり、四運の染すること能はざるは帥ち浄なり。是れ仏法の四運なり。是の如く四運は空なりと雖も、空の中に具に種種の四運を見る。乃至、遍く恒沙の仏法を見て摩訶衍を成ず。是を仮名の四運と為す。若し空ならば応に十法界を具すべからず、法界は因縁より生ずれば、体復有に非ず、有に非ざるが故に空、空に非がるが故に有、空有を得ざれば雙べて空有を照す。三諦宛然として仏知見を備へ、四の運心に於て具足して明了なり。声、香、味、触、法の五受の四運の心を観じて、円に三諦不可思議を覚ることも亦復是の如し。前に準じて知るべし、復煩はしく記せず。