[1]第二に止観の名を釈するとは、大途梗概、已に上に説くが如し、復、何の義をか以て止観の名を立つる。略して四あり、一には相待、二には絶待、三には会異、四には通三徳なり。

 [2]一に相待とは、止観におのおの三義あり。

 [3]止の三義とは息の義、停の義、対不止止の義なり。

 [4]息の義とは、諸の悪覚観、妄念思想、寂然として休息するなり。「浄名」に曰はく、「何をか攀縁と謂ふや。三界を縁ずるを謂ふ。何をか攀縁を息むと謂ふや、心、得る所なきを謂ふ」と。此れ所破に就いて名を得、是れ止息の義なり。

 [5]停の義とは、心の諦理を縁じて、繋念現前し、停住して動ぜず。「仁王」に云はく、「入理の航若を名けて住と為す」と。「大品」に云はく、「不住の法を以て般若波羅蜜の中に住す」と。此れ能止に就いて名を得、即ち是れ停止の義なり。

 [6]不止に対して以て止を明すとは、語は上に通ずと雖も、意は則ち永く殊なり。何となれば、上の両の止は、生死の流動に対し、涅槃に約して止息を論ず、心は理外に行ずれども般若に約して停止を論ず、此れ智断に約して通じて相待を論ずるなり。

 [7]今は別して諦理に約して相待を論ず。無明は即ち法性なり、法性は即ち無明なり。無明亦止に非ず不止に非ずして而も無明を喚んで不止と為す。法性亦止に非ず不止に非ずして而も法性を喚んで止と為す。此れ無明の不止に待して、法性を喚んで而も止と為すなり。経に、「法性は生に非ず滅に非ずして、而も法性は寂滅なり」と言ひ、「法性は垢に非ず浄に非ずして、而も法性は清浄なり」と言ふが如き、是を不止に対して而も止を明すとなすなり。

 [8]観も亦三義あり、貫穿の義、観達の義、対不観観の義なり。

 [9]貫穿の義とは、智慧の利用、煩悩を穿滅す。「大経」に云はく、「利钁地を斵るに、盤石砂礫直に金剛に至る」と。「法華」に云はく、「高原を穿鑿して、猶乾燥の土を見る、功を施すこと已まざれば、遂に漸く泥に至る」と。此れ所破に就いて名を得、貫穿の観を立つるなり。

 [10]観達の義とは、観智通達して真如に契会す。「瑞応経」に云はく、「心を息めて本源に達するが故に号して沙門と為す」と。「大論」に云はく、「清浄の心、常に一なれば則ち能く般若を見る」と。此れ能観に就いて名を得、故に観達の観を立つるなり。

 [11]対不観観とは、語は上に通ずと雖も意は則ち永く殊なり。上の両観は亦通じて生死の弥密に対して而も貫穿を論じ、迷惑の昏肓に対して観達を論ず。此れ通じて智断に約し、相待して観を明すなり。今は別して諦理に約す。無明は即ち法性なり。法性は即ち無明なり、無明は観に非ず不観に非ずして而も無明を喚んで不観と為し、法性も亦、観に非ず不観に非ずして而も法性を喚んで観と為す。経に云ふが如し、「法性は明に非ず、闇に非ずして而も法性を喚んで明と為し、第一義空は智に非ず愚に非ずして而も第一義空を喚んで智と為す」と、是れ、不観に対して而も観を明すと為すなり。

 [12]是の故に止観おのおの三義に従つて名を得云云。

 [13]二に絶待に止観を明すとは、即ち前の三の相待止観を破するなり。先には横に破し、次には豎に破す。

 [14]若し止息の止、所破に従へて名を得るは、境を照すを正となし惑を除くを傍となす。既に所離に従つて所を得れば、名は傍に従つて立ち、即ち他性に堕す。若し停止の止、能破に従へて名を得るは、境を照すを正と為し、惑を除くを傍と為す。既に能照と言ふ、名、智従り生ず、即ち自性に堕す。若し妄想息むが故に止なるに非ず、理に住するが故に止なるに非ず、智断の因縁の故に止ならば、名は合従り生じ、即ち共性に堕す。若し所破に非ず能破に非ずして而も止と言はば、此れ無因の性に堕す。故に竜樹の曰はく、「諸法は自より生ぜず、亦他より生ぜず、共ならず無因ならず、是の故に無生と説く」と。無生の止観、豈四句に従つて名を立てんや。四句に名を立つるは是れ因待の生なり、思ふべく、説くべし、是れ結惑の生なり、破すべく、壊すべし。起滅流動の生、何ぞ停止と謂はん、迷惑顛倒の生、何ぞ観達と謂はんや。

 [15]又豎に破せば、若し四句従り生ぜば即ち是れ生生にして止観に非ざるなり。若し能く見思を止息し、真諦に停住するは、此れ乃ち生生に待して生不生の止観を説くのみ。若し空心を以て仮に入り、塵沙を止息し、俗理に停住するは、此れ乃ち生不生に待して不生生の止観を説くのみ。若し無明を止息し、心は中理に停むるは、此は是れ生死涅槃の二辺の不止に待して止観を論ずるのみ。皆是れ待対なり、思議すべし。結惑を生ず、破壊すべし。尚ほ未だ是れ止ならず、何に況んや不止ならんや。猶ほ自ら観に非ず、何に況んや不観ならんや。何を以ての故ぞ。執を遺るも尽きざるが故に、言語の道断えざるが故に、業果絶えざるが故なり。

 [16]今言ふ絶待止観とは、横豎の諸の待を絶し。諸の思議を絶し、諸の煩悩、諸の業、諸の果を絶し、諸の教、観、証等を絶す。悉く皆不生なり、故に名けて止と為す。止も亦不可得なり。観は如の境に冥す、境、既に寂滅清浄なり、尚ほ清浄も無し、何ぞ観有ることを得んや。止観尚ほ無し、何ぞ不止観に待して止観を説き、止観に待して不止観を説き、止、不止に待して非止、非不止を説くことを得んや。故に知んぬ、止、不止皆不可得なり、非止、非不止も亦不可得なり、待対既に絶す。即ち有為に非ず、四句を以て思ふべからず。故に言説の道に非ず、心識の境に非ず。既に名相無く、結惑生ぜざれば、則ち生死無く、則ち破壊すべからず、絶を滅し滅を絶す、故に絶待止と名く。顛倒の想断ず、故に絶待観と名く。亦是れ有為を絶する止観、乃至生死を絶する止観なり云云。絶待止観は則ち説く可からず、若し四悉檀の因縁有れば、故に亦説くことを得べし。若し世界の因縁あるときは、則ち会異をもつて而して説き。若し為人の因縁あるときは、則ち通三徳をもつて而して説き、若し対治の因縁あるときは。則ち相待をもつて而して説き、若し第一義の因縁あるときは、則ち絶対をもつて而して説き、説きて止観と為すなり。此の名字は、内にも外にも、両の中間にも在らず、亦常に自ら有なるにあらず、是の字、住せず、亦住せざるにもあらず。是の字は、横の四句、豎の四句の中に在らざるか故に、是の字住せずと言ふ。亦、無横、無豎の中にも在らざるか故に、亦住せざるにもあらずと言ふ。是の字、不可得の故に、故に絶待の止観と名く。亦、不思議の止観とも名け、亦、無生の止観とも名け、亦、一大事の止観とも名く。故に、此の如きの大事は小事に対せず。譬へば、虚空は小空に因つて名けて大と為すにあらざるか如し。止観も亦爾り、愚乱に因つて名けて止観と為すにあらず、待対すべきこと無き独一の法界なるが故に、絶待の止観と名くるなり。世人、種種の語に約して絶待の義を釈すれども、終に絶を得ず。何を以ての故ぞ。凡情馳想し、種種に推画して、悟と不悟、心と不心、凡と聖の差別を分別すれば、絶は則ち不絶に待し、不思議は思議に待し、輪転相待して、絶の寄る所無ければなり。若し意を得て言を亡ずれば、心行も亦断じ、随智妙悟、復た分別すること無し。亦、悟、不悟、聖、不聖、心、不心、思議、不思議等を言はず。種種の妄想、縁理の分別、皆名けて待と為し、真慧開発すれば、此の諸の待を絶し、絶も即ち復絶す。火を前むる木の如き名けて絶待と為す。故に「浄名」に云はく、「諸法は相待せず、乃至、一念も住せざるか故に」と、即ち此意なり。若し爾らば、絶待は乃ち是れ聖境なり、初心は分無からん。今、六即を以て之に望むるに、初心も失ふ所なく、聖境濫る所無し。

 [17]三に会異とは、此の如き絶待止観を亦た不可思議と名け、亦た名けて大と為す。「大経」に云はく、「大とは、不可思議を名くるなり」と。諸の余の経論に、或は遠離と名け、或は、不住、不著、無為、寂滅、不分別、禅定、棄、除、捨等と名く。是の如き一切、皆是れ止の異名なり。止は既に絶大不可思議なれば、遠離等も皆絶大不可思議なり。余処に或は知見、明識、眼覚。智慧、照了、鑒達等と名くる、是の如き一切は皆是れ観の異名なり。観は既に絶大不可思議なれば、知見等も皆絶大不可思議なり。所以は何ん、般若は是れ一法なれども、仏は種種の名を説きたまふ、解脱も亦爾り、諸の名字多く、亦虚空、無所有、不動、無礙ともいふが如し。当に知るべし、三徳は祇是れ一法なれども、衆生の類に随つて為に異の字を立つるなし。若し絶待を聞かば、慎んで驚畏すること莫れ。若し会異を聞かば、慎んで疑惑して自ら毀傷すること莫れ。又、止観自ら相会せば、止も亦観と名け、亦不止と名く、観も亦止と名け、亦不観と名く、即ち前の釈名と意同じ。

 [18]四に通三徳とは、若し衆経の異名皆是れ止観ならば、名は即ち無量、義も亦無量なり。何が故ぞ、但三義を以て止観を釈するや。三徳に対せんが為に、此釈を作るのみ。諸法は無量なるに、何が故ぞ独り三徳に対するや。「大論」に云はく、「菩薩は初発心より常に涅槃を観じ道を行ず」と。「大経」に云はく、「仏及び衆生、皆悉く秘密蔵の中に安置す」と。秘密は即ち是れ涅槃、涅槃は即ち是れ三徳、三徳は即ち是れ止観なり、自他、初後、皆修入することを得、故に用ひて之に対するのみ。

[19]若し両字を用ひて共に三徳に通ずれば、止は即ち是れ断にして断は解脱に通ず。観は即ち是れ智にして智は般若に通ず。止観等しきをば名けて捨相と為し、捨相は即ち是れ法身に通ず。又止は即ち 奢摩他、観は即ち 毘婆舎那なり、他と那と等しきが故に即ち 憂畢叉なり。三徳に通ずること前の如し。問ふ、止観は是れ二法なり、豈不思議の三徳に通ずることを得んや。答ふ、還つて不思議の止観を以ての故に、通ずることを得るのみ。又「大品」に十八空を明して般若を釈し、百八三昧をもつて禅を釈す、前後両釈なりと雖も、豈禅に般若無く般若に禅無かるべけんや。特に是れ不二にして而も二、二則ち不二なり、不二は即ち法身、二は即ち定慧なり、此の如きの三法なれば、未だ曾て相離れず。是故に、「大経」に云はく、「仏性に五種の名あひ、或は首楞厳と名け、或は般若と名く」と。今、非止非観を或は名けて止と為し、或は名けて観と為す。即ち是れ不思議の止観、不思議の三徳に通ずるなり。

 [20]復次に止観おのおの三徳に通ずとは、止の中に観有り、観の中に止有るなり。止息の止の如きは是れ止善、定門に属して摂す、即ち解脱に通ず。停止の止は是れ行善、観門に属して摂す、即ち般若に通ず。非止の止は理に属して摂す、即ち法身に通ず。其義見るべし。貫穿の観は是れ止善、定門の摂なり、即ち解脱に通ず。観脱の観は是れ行善、観門の摂なり、即ち般若に通ず。非観の観は理の摂なり、即ち法身に通ず。意亦見るべし。

 [21]復次に止観共に三徳に通ずるとは、止息の止、貫穿の観は皆所離に従つて名を得、即ち解脱に通ず。停止の止、観達の観は皆能縁の智に従つて名を得、則ち般若に通ず。非止の止、非観の観は皆法性に名く、即ち法身に通ず云云。

 [22]復次に三徳が止観に通ずるとは、還つて 応に三徳を以て共に両字に通ずべし。又応に三徳おのおの両字に通ずべし云云。三徳共に通ずとは、解脱は止に通じ、般若は観に通じ、法身は非止非観に通ず。三徳おのおの止観に通ずとは、夫れ解脱とは、具足の解脱なり、具に三種有り、方便浄解脱は止息の止に通じ、円浄解脱は停止の止に通じ、性浄解脱は非止の止に通ず。夫れ般若とは具足の般若なり。具に三種あり、道慧般若は貫穿の観に通ず。道種慧般若は観達の観に通ず、一切種慧般若は非観の観に通ず。具足の法身も亦三種あり、色身は一止一観に通ず、法門身は一止一観に通ず、実相身は一止一観に通ず、其義見るべし。

 [23]若し三徳の絶大不可思議なることを信ぜば、通の義既に明かなり、須らく止観の絶大不思議なることを信ずべし。若し涅槃の三法具足するを秘密蔵と名くることを信ぜば、亦、三止の具足することも大寂定と名け、秘密蔵と名くることを信ず。亦、三観具足するを大智慧と名け、秘密蔵と名くることを信ず。亦、非止非観の三法具足するを、秘密蔵と名くることを信ず。若し三徳縦ならず、横ならず、並ならず、別ならず、三點三目の如くなることを信ぜば、亦た三止三観の縦ならず、横ならず、並ならず、別ならざることを信ず。

 [24]而して諸経は縁に赴きて偏に一法を挙げ、以て義端を示す。「首楞厳」の如きは偏に止の辺を挙ぐ、止に一切の法を具して減少せざれば亦秘密蔵と名く。「智度」「法華」は偏に観の辺を挙ぐ、観に一切の法を具して減少せず、「涅槃」は三法具足を挙ぐ、法亦多ならず、亦秘密蔵と名く。止観も亦爾り、若は開し若は合す。開するも亦多ならず、合するも亦た少ならず、一一皆是れ法界にして一切の法を摂し、悉く秘密蔵と名く。偏に挙ぐるも尚ほ爾り、況んや円に挙ぐるをや。

 [25]止観は三徳に通ずること既に爾り、諸の異名、遠離知見等に通ずるも亦是の如し。又諸の三名、所謂三菩提、三仏性、三宝等の一切の三法に通ずることも亦是の如し。

 [26]問ふ、云何なるをか字義の縦横なるや、云何なるをか字義の不縦不横たるや。答ふ、諸の小乗師の説く、般若種智すでに円なれども、果縛尚あれば解脱未だ具せず、身は猶雑食し、又無常を帯す。一は優、二は劣なり、之を横川走火に譬ふ。又云はく、先に相好の身あり、次に種智の般若を得、後に身智を滅して方に解脱を具す。既に上下前後の義あり、之を縦三点の水に譬ふ。若し滅定に入れば身有りて而も智無し、羅漢は無色に在れば智ありて而も身無し、若し無余に入れば、但孤調解脱のみ有り。此義各相ひ関せず、之を並ぶるときは則ち横、之を累ぬるときは則ち縦、之を分つときは則ち異なり。諸の大乗師の説く、法身は此れ正体なれば、仏有るも仏無きも本より自ら之れ有り、今に適るに非ず、了因の般若、無累の解脱の此二は当有なれば、生を隔てて世に跨り、弥く浄穢に亘る。此れ字義の縦なり。又言はく、三徳は前後なく、一体に具足す、体を以て義に従ふに、而も三の異あり。蓋し、乃ち体は横にして義は縦なるのみ。又言はく、体と義は倶に殊ならずして而も隠穎の異なりあり。倶に異ならざるは、未だ横なるを兔れず、隠顕異なるは未だ縦なるを兔れず。衆釈此の如し、寧ろ経と会はんや。

 [27]今明す三徳は、皆不可思議、那ぞ忽ちに縦ならん。皆不可思議、那ぞ忽ちに横ならん。皆不可思議なり、那ぞ忽ちに一ならん。皆不可思議なり、那ぞ忽ちに異ならん。此れ理蔵に約して釈するなり、身は常なり、智は円なり、断は具なり。一切皆是れ仏法にして、優劣あることなし。故に縦ならず。三徳相冥して、同じく是れ一法界なり、法界を出でて外、何の処にか更に別に法あらん、故に横あらず。能く種種に建立す、故に一ならず。同じく第一義に帰す、故に異ならず。此れ行因に約して釈するなり。一に即して而も三、故に横ならず。三に即して而も一、故に縦ならず。三にあらずして而も三、故に一ならず。一ならずして而も一、故に異ならず。此れ字の用に約して釈するなり。真の伊字の義は此の若しと為す。

 [28]問ふ、三徳、四徳、其意云何。答ふ、通じて論ずれば三徳、一一皆常、楽、我、浄なり。「大経」に云はく、「諸仏の師とする所は、所謂法なり、法の常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」と。法は即ち法身、仏は即ち般若解脱、故に通じて解を作すなり。「大経」に云はく、「是色を滅するに因つて、常色を獲得す、意想行識も亦復是の如し」と。則ち法身皆常、楽、我、浄にして、二徳も亦然なり。若し一種に依らば、色を転じて法身を成ずれば、法身は常楽なり。識想を転じて般若を成ずれば、般若は即ち浄なり。受行を転じて解脱を成ずれば、解脱は則ち我なり。又、念応に依れば、識ぞ転じて常を成じ、受を転じて楽を成じ、想行を転じて我を成じ、色を転じて浄を成ず。是れ則ち通別に各二解あり、円に依らば是れ頓の義、別に依らば是れ漸の義なり云云。問ふ、三障及び三道、皆三徳を障へ、三障開通して極に至る、三道、四倒も亦応に開通して極に至るべきや。答ふ、例す。何となれば、業に三種あり、謂く、漏業、無漏業、非漏非無漏業なり。三報を感ず。謂く、分段、方便、実報なり。報は三種の煩悩に由る、謂く、取相、塵沙、無明なり。又三種の報に約して、一一に三道を開す。三種の煩悩に約して、一一に四倒を開す云云。

 [29]第三に止観の体相を釈すとは、既に大意の豁達なること前の如く、名字の曠遠なること向の若くなるを知れり。須く識るべし、体理の淵玄なることを。粗四意に寄せて体を顕すに、一には教相、二には眼智、三は境界、四には得失なり。未れ理は教に藉りて彰る、教法既に多し、故に相を用て顕す。入理の門は同じからず、故に眼智を用て顕す。諦に権実あり、故に境界を用て顕す。人に差会あり、故に得失を用て顕す。「法華の疏」に四一を用て実を明す、今は四科を以て体を顳す、相類することを得べし。

 [30]教相を以て顕すとは、未れ止観の名教は、凡聖に通ず、通名を尋ねて則体を求むべからず、故に相を用て之を簡ぶなり。若し凡未の止善の治する所は、是れ止の相、行善の生ずる所は是れ観の相なり。又四禅、四無量心は是れ止の相、六行は是れ観の相なり。此等皆未だ生死を兔れず、即ち有漏を相となす。故に「大論」に云はく、「摩黎山を除きて余は栴檀を出すこと無し」と。三乗の智慧を除きて余は真の智慧無し、故に今の論ずる所にあらざるなり。若し二乗は、九想、十想、八背捨、九次第定を以てす、多くは是れ事禅にして一往止の相なり、有作の四諦の慧は是れ観の相なり。此の止観は生死を出づと雖も、而も是れ拙度なり、色を滅して空に入れば、此空も亦止と名くることを得、亦た非止非不止と名くることを得れども而も観と名くること得ず。何を以ての故ぞ、灰身滅智するが故に観と名けず、但是れ析法の無漏を相と為す、今の論ずる所にあらざるなり。

 [31]巧度の止に三種あり、一には体真止、二には方便随縁止、三には息二辺分別止なり。

 [32]一に体真止とは、諸法は縁より生ず、因縁は空にして主無し、心を息めて本源に達す、故に号して沙門と為すと。因縁仮に合し、幻化にして性虚なりて知るが故に、名けて体と為す。攀縁妄相も空を得れば即ち息む、空即ち是れ真なり。故に体真止と言ふ。

 [33]二に方便随縁止とは、若し三乗、同じく無言詮の道を以て煩悩を断じて真に入る。真は即ち異ならざるも、但、煩悩と習とに尽と不尽と有りと言ふ。二乗のごときは真を体すれば方便の止を須ひず。菩薩は仮に入り、正しく応に行用すべし、空は空に非ずと知るが故に方便と言ひ、薬病を分別するが故に随縁と言ひ、心を俗諦に安ずるが故に名けて止と為す。六経に言はく「動も止も心は常に一なり」と、亦、此意を証することを得るなり。

 [34]三に息二辺分別止とは、生止の流動、涅槃の保証は、皆是れ偏行、偏用にして中道に会せず。今は、俗は俗に非ずと知れば、俗の辺寂然たり、亦非俗を得ずんば空の辺も寂然たるを以て息二辺止と名く。

 [35]此三止の名は、未だ経論に見えずと雖も、三観に映望し、義に随つて名を立つるなり。

[36]「釈論」に云はく、「菩薩、経教に依随して、為に名字を作るを名けて法施と為す」と。名を立つるに咎無し、若し能く経を尋ねて名を得れば、即ち懸に此義に合せん。此三止を詳かにするに、前の釈名と名は、髣髴として同じけれども、其相は、則ち異なり。同じとは、止息の止は、体真に似たり、停止の止は、方便随縁に似たり、非止の止は、息二辺に似たり。其相則ち別なりとは、所謂三諦の相なり、前の三は次の三を成じ、後の一は前の三を具す。何を以ての故ぞや。体真止の時の如きは、因縁仮名、空にして主無しと達すれば、流動の悪息む、是を止息の義と名く。心を停めて理に在り、正しく是れ因縁に達するは、是れ停止の義なり。此理即ち真、真即ち本源、本源は止と不止とに当らず、是れ非止の止なり。此三義は共に体真止の相を成ず。若し方便止の時は、仮を照すこと自在にして、散乱、無知息むは是れ止息の義なり。心を仮の理に停め、浄名の、三昧に入りて比丘の根性を観じ、薬病を分別するが如きは是れ停止の義なり。仮の理動ぜざるは是れ非止の止なり。是の如く三義共に方便随縁止の相を成ずるなり。息二辺の時は、生死、涅槃の二相倶に息む、是れ止息の義なり。入理の般若を名けて住と為し、心を中道に縁ずるは、是れ停止の義なり。此実相の理、止にも不止にも非ざるは、是れ不止止の義なり。是の如く三義共に息二辺止の相を成ず。故に前と永く異るなり、亦今の用ふる所にあらざるなり。

 [37]次に観の相を明す。観に三 種あり、従仮入空を二諦観と名け、従空入仮を平等観と名く。二観を方便道と為し、中道に入ることを得、雙べて二諦を照し、心心寂滅して、自然に薩婆若海に流入するを、中道第一義諦観と名く。此名は「瓔珞経」に出づ。言ふ所の二諦とは、仮を観ずるを入空の詮と為し、空は詮に由りて会す、能所合せ論ずるが故に、二諦観と言ふ。又、空に会するの日、但、空を見るのみにあらず、亦復仮を識る。雲除き、障を発せば、上顕れ、下も明かなるが如し。真に由つて仮顕る、是れ二諦観なることを得るなり、今、仮に由つて真に会す、何の意ぞ二諦観に非ざらん。又、俗は是れ所破、真は是れ所用なり。若し所破に従へば、応に俗諦観と言ふべく、若し所用に従へば、応に真諦観と言ふべし、破用合せ論ずるが故に、二諦観と言ふ。又、分別するに三種あり、一に、教に約すれば、随情の二諦観あり、行に約すれば、随情智の二諦観あり、証に約すれば、随智の二諦観あり。初観の功は、未だ真に契はずと雖も、教に随ひ、行に随ひ、二諦観を論ずる有ることを得るなり。問ふ、初観は破用合して名を受く、第二観も亦破用あれば、亦応に二諦と言ふべきや。答ふ、前に已に二諦の名を受く、後に破用ありと雖も、更に勝るる者に従つて、平等の名を受くるなり。問ふ、第三の観も亦破用あり、何ぞ更に勝るるに従へて名を受けざるや。答ふ、前の両の観は滞ること有り、故に更に破し更に用うれども、第三観は滞り無ければ、但、用に従へて名を受くるなり、一例にすることを得ず。問ふ、前の二観は倶に二諦を観ず、亦、応に倶に二諦に入るべし。答ふ、初は病を破せんが為の故に仮を観じ、真を用ひんが為の故に真を観ず、是故に倶に観ずれども、一は用ひ一は用ひざるが故に、倶には入らず。問ふ、真及び中は、倶に諦と称することを得れども、界の内外の俗は、俗なれば則ち理に非ず、云何ぞ諦と称せんや。答ふ、「地持」に二の法性を明す、「一には事の法性」、性は差別の故なり、「二には実の法性」、性は真実の故なり。即ち二諦の異名なり。既に倶に法性と称することを得、何の意ぞ、倶に諦と称することを得ざらん。問ふ、若し爾らば、倶に涅槃と称するや。答ふ、「経」に云はく、「貧人の宝を得るも、乃至 瀰猴の洒を得るも、又非想定も、即ち世俗の涅槃なり」と。即ち其義なり。問ふ、若し爾らば、倶に無漏なりや。答ふ、「論」に云はく、「世間の正見、出世の正見」と。問ふ、若し爾らば倶に無生なりや。答ふ、「経」に云はく、「異相互に無なり」と。問ふ、仮従り空に入るには、必ず須く仮を破して空に入るべきや。答ふ、通途は応に四句あるべし、破せずして入る、破して入る、破して入らず、破せずして入らず。乃至、三十六句あり、後に説くが如し。

 [38]従空入仮を平等観と名くるは、若し是れ空に入らば尚空として有るべきものも無し、何の仮にか入る可き。当に知るべし、此観は、衆生を化せんが為に真は真に非ずと知つて、方便して仮に出づるが故に従空と云ふ、薬病を分別して而も差謬無きが故に入仮と言ふなり。平等とは前に望めて平等と称す、前の観は仮の病を破して仮の法を用ひず、但、真の法のみを用ふ、一を破して一を破せざれば未だ平等と為さざるなり。後の観空の病を破して還つて仮の法を用ひ、破用既に均しく、異時相望む、故に平等と言ふなり。今当に之を譬ふべし、盲の初めて眼開きて空を見、色を見ることを得るに、色を見ると雖も、種種の奔木、根莖、枝葉、薬毒の種類を分別すること能はざるが如し。従仮入空の随智の時も亦二諦を見るも、而も仮を用ふること能はざるなり。若し人、眼開きて後、能く空を見、色を見るに即ち種類を識り、洞かに因縁、麤細の薬食を解し、皆識り皆用ひて他を利益するは、此れ従空入仮を譬ふるなり。亦真俗を具すれども正しくは仮を用ひ、衆生を化せんが為にす、故に入仮と為し、復、平等と言ふ、意は前に詭くが如し。

 [39]中道第一義観とは、前に仮の空なることを観ずるは是れ生死を空ずるなり。後に空の空なることを観ずるは是れ涅槃を空ずるなり。雙べて二辺を遮す、是れ、二空観を方便道と為し、中道に会することを得ると名く。故に、心心寂滅して薩婆若海に流入すと言ふ。又、初の観は空を用ひ、後の観は仮を用ふ、是を雙存の方便と為す、中道に入る時、能く雙べて二諦を照す。故に「経」に言はく、「心若し定に在らば、能く世間の生滅の法相を知る」と。前の両の観を二種の方便と為す意此に在るなり。問ふ、「大経」に云はく、「定の多きもの、慧の多きもの、倶に仏性を見ず」と、此義や云何。答ふ、三観を次第するに、二乗及び通の菩薩は、初観の分に有り、此は定多く慧少きに属し、仏性を見ず。別教の菩薩は第二観の分に有り、此は慧多く定少きに属し、亦仏性を見ず。二観を方便と為し、第三観に入ることを得れば則ち仏性を見るなり。問ふ、「経」に、¬十住の菩薩は慧眼を以ての故に、見ること了了ならず」と言ふも、全く見ざるに非ず。初観は是れ慧眼の位、第二観は是れ法眼の位なり、云何ぞ而も両眼全く見ずと言ふや。答ふ、彼次第の眼は、偏に定、偏に慧にして仏の呵する所なれば、其を見ると言ふ可からず。言ふ所の慧眼見とは、其名は乃ち同きも、実には是れ円教の十住の位なり。三観現前し、三膀の理に入る、之を名けて住と為し、住を呼んで慧眼と為すのみ。故に、「法華」に云はく、「願くば世尊の如く慧眼第一浄なるを得ん」と。斯の如きの慧眼は分見にして未だ了ならず、故に、夜色を見る空中の鵞雁の如しと言ふ。二乗の慧眼は此の如きの名を得るに非ず。故に、「法華」の中に譬ふ、「人あつて高原を穿鑿するに唯乾土を見る、功を施すこと已まざれば転じて濕土を見る、遂に漸くすれば泥に至り、後、則ち水を得るが如し」と。乾土は初観を譬へ、濕土は第二観を譬へ、泥は第三観を譬へ、水は円頓観を譬ふ。叉、教に譬ふれば、三蔵教の中道を詮せざるは乾土の如く、通教は濕土の如し、別教は泥の如く、円教は中道を詮すれば水の如し。二教の詮せざる所、二行の到らざる所なり。空に偏するの慧眼、寧ぞ性を見ることを得んや、若も性を見れば、是処有ること無し。

 [40]此三観と前の三観とは、名は一往同じきに似たれども、義捐は則ち異なるなり。同とは、前は是れ貫穿、諸の虚妄を観ずるは従仮入空に似たり。前の観達の観の、理に達して理と和し、事に達して事と和するは入仮平等の観に似たり。前の不観の観は中道に似たり。其相異なりとは、前は是れ一諦の相なれども、今は是れ三観の相なり。又、前の三観は、通じて後の三を成じ、後の三は、前の三を具す。所以は何ん。従仮入空の如きは、四柱の盤石を破す、此れ豈貫穿の義に非ずや。入る所の空は、空即ち是れ理なり、智能く理を顕すは、即ち観達の義なり。此の空理は‥即ち是れ非観観の義なり。此の如く共に入空観の捐を成ず。従空入仮にも亦三義を具す、何を以ての故ぞ。仮名の法を識り、無知の障を破するは即ち是れ貫穿の義なり。仮名の理を照し、分別して謬り無きは即ち観達の義なり。仮の理の常然なるは、即ち不観観の義なり。此三義は共に仮観の相を成ず。中道の観も亦三義を具す、二辺を空ずるは即ち貫穿の義なり。正しく中道に入るは即ち観達の義なり。中道の法性は即ち不観観の義なり。此の如く三義共に中道観の相を成ず。

 [41]此れ「摩訶衍」に依つて三止三観の相を明せるなり。義を以て相に随へば、条然として各別なり。若し三観を論ぜば則ち権実、浅深あり、若し三智を論ずれば則ち優劣、前後あり、若し三人を論ずれば則ち諸位の大小あり、此れ則ち次第分張す、今の用ふる所に非ざるなり。

 [42]円頓止観の相は、止を以て諦を縁ずるときは則ち一諦にして而も三諦なり、諦を以て止に繋くるときは則ち一止にして而も三止なり。譬へば、三相は一念の心に在り、一念の心と雖も而も三相あるが如し。止諦も亦是の如し、所止の法は一なりと雖も而も三、能止の心は三なりと雖も而も一なり。観を以て境を観ずるときは、則ち一境にして而も三境なり、境を以て観を発するときは、則ち一観にして而も三観なり。摩醯首羅の面の上の三目は、是れ三目なりと雖も而も是れ一面なるが如し。観境も亦是の如し、観は三にして即ち一、発は一にして則ち三、思議す可からず。権ならず、実ならず、優ならず、劣ならず、前ならず、後ならず、並ならず、別ならず、大ならず、小ならず。故に「中論」に云はく、「因縁所生の法は、即空、即仮、即中なり」と。又「金剛般若」に云ふが如し、「人に目ありて、日の光明かに照せば、種種の色を見る、若し、目、独りにて見ゆれば、応に日を須ふべからず、若し、色無くんば、日と眼と有りと雖も、亦見る所無けん、是の如く、三法は時を異にせず、相離れず」と。眼は止を喩へ、日は観を喩へ、色は境を喩ふ、是の如きの三法なれば、前ならず、後ならず。一時に三を論じ、三の中に一を論ずることも、亦復是の如し。若し此意を見れば、即ち円頓教の止観の相を解せん。

 [43]何ぞ但、三一、一三なるのみならん、総じて前の諸の義皆一心に在り。其相や云何。無明顛倒は即ち是れ実相の真なりと体するを、体真止と名く。此の如きの実相は一切処に遍く、縁に随ひ境に歴て、心を安じて動ぜざるを、随縁方便止と名く。生死、涅槃の静散、休息するを息二辺止と名く。一切の諸の仮は、悉く皆是れ空、空即ち実一相なりと体するを、入空観と名く。此空に達する時、観は中道に冥し、能く世間の生滅の法相を知つて、実の如くにして見るを入仮観と名く。此の如きの空慧は即ち是れ中道にして二無く別無きを中道観と名く。体真の時、五住の盤石、砂礫、一念に休息するを止息の義と名く、心、中道を縁じて、実相の慧に入るを停止の義と名く。実相の性は即ち非止非不止の義なり。又此一念は、能く五住を穿ちて実相に達す、実相は観に非ず、亦不観に非ず。此の如き等の義は、但、一念の心中に在り、真際を動ぜずして、而も種々の差別あり。「経」に云はく、「善能く諸法の相を分別すれども、第一義に於て而も動ぜず」と。名字多しと雖も、蓋し乃ち般若の一法において、仏、種種の名を説きたまふなり。衆名皆円なれば諸義も亦円なるなり。相待、絶待、対体、不可思議なり。不可思議なるが故に障礙有ること無し、障礙有ること無きが故に具足して減ずること無し、是れ円頓の教相にして、止観の体を顕すなり。

 [44]二に眼智を明すとは、体則ち知に非ず、見に非ず、因に非ず、果に非ず、之を説くこと已に自ら難し、何に況んや、以て人に示さんをや。知見すること叵しと雖も、眼智に由るときは、則ち知見すべし、因果に非ずと雖も、因果に由つて顕る。止観を因と為し、智眼を果と為す、因は是れ顕体の遠由、果は是れ顕体の近由なり。其体は冥妙にして分別すべからざるも、眼智に寄せて、体をして解すことを可ならしむ。

 [45]今、先づ次第の眼智を明さば、三止、三観を因と為し、得る所の三智、三眼を果と為す。三止とは、体真止のごときは妄惑生ぜず、止に因つて定を発し、定は無漏を生じて慧眼開くが故に第一義を見、真諦三昧成ず。故に止は能く眼を成じ、眼は能く体を見、真の体を得るなり。随縁止のごときは、真に冥して仮に出で、心を俗諦に安んず、此止に因るが故に陀羅尼を得、陀羅尼は薬病を分別し、法眼、豁かに開けて通を障ふるの無知を破す、常に三昧に在つて、二相を以てせず、諸の仏土を見るときは則ち俗諦三昧成ず。是れ則ち止は能く眼を発し、眼は能く体を得、俗の体を得るなり。息二辺止のごときは、則ち生死、涅槃、空、有、雙べて寂なり、此止に因つて中道の定を発し、仏眼豁かに開けて、照すこと遍からざること無く、中道三昧成ず、故に止は能く眼を得、眼は能く体を得、中道の体を得るなり。三観は、従仮入空のごときは空慧相応す、即ち能く見思の惑を破し、一切智を成じ、智は能く体を得、真の体を得るなり。従空入仮のごときは、薬病、種種の法門を分別す、即ち無智を破し、道種智を成じ、智は能く体を得、俗の体を得るなり。若し、雙べて二辺を遮し、中に入るの方便と為すは、能く無明を破し、一切種智を成じ、智は能く体を得、中道の体を得るなり。是れ則ち三止三観共に三眼三智を成じ、各三の体を得、是故に体を顕すに而も眼智を談ずるは、即ち此意なり。

 [46]問ふ、眼の見と智の知と、知、見異るや。答ふ、此れ応に四句に分別すべし。知にして、而も見に非ず、見にして而も知に非ず、亦知亦見、知ならず見ならざるとなり。凡未は証せざるが故に見ならず、聞かざるか故に知ならず。二乗の人は証するが故に亦見、聞くが故に亦知なり。支仏は証するが故に是れ見、聞かざるか故に知ならず。方便道の人は聞くが故に是れ知、未だ証せざるか故に見ならず。復次に、信行の人は聞くに因るが故に慧あり、慧に因るが故に無漏を発し、一切智を得、此智は、聞くに因るが故に智知と称す。法行の人は思惟して定を得、定に因つて無漏を発し慧眼を成ず、此眼は、禅に因るが故に眼見と称す。然るに、知見同じく賀諦を証すれば、所因の処に従ひ、本に仍つて名を受く、故に知見と言ふなり。此れ慧眼一切智に就いて、此分別を作すなり、余の二眼、二智、例して爾り。

 [47]一心の眼智のごときは、則ち此の如くならず云云。若し、不次第の止観の眼智を明さば、前に説く所の如く、止は即ち是れ観、観は即ち是れ止、二無く別無し。体を得るの近由も亦是の如し、眼は即ち是れ智、智は即ち是れ眼なり。眼の故に見を論じ、智の故に知を論ず、知は即ち是れ見、見は即ち是れ知なり。仏眼は五眼を具し、仏智は三智を具す。王三昧には、一切の三昧、悉く其中に入る、首楞厳定は、一切の定を摂す。「大品」に云はく、「道慧、道種慧、一切智、一切種智を得んと欲せば、当に般若を学すべし」と。問ふ、「釈論」に云はく、「三智は、一心の中に在り」と。云何がして、道慧等を得んと欲せば当に般若を学すべしと言ふや。答ふ、実に爾り、三智は一心の中に在れども、人に向つて説くに、解し易からしむるが為の故に、此の如きの説を作すのみ。「金剛般若」に云はく、「如来に肉眼ありや不や。答へて云はく、有り。乃至、如来に仏眼ありや不や。答へて云はく、有り」と。五眼ありと雖も、実には分張せず、祇一眼に約して、備へて五用あり、能く五境を照すなり。所以は何ん。仏眼も亦能く麤色を照すこと、人の見る所の如く、亦人の見る所に過ぎたるを肉眼と名く。亦能く細色を照すこと、天の見る所の如く、亦天の見る所に過ぎたるを天眼と名く。麤細の色は空なりと達すること、二乗の見る所の如くなるを慧眼と名く。仮名に達して謬らざること、菩薩の見る所の如くなるを法服と名く。諸法の中に於て、皆実相を見るを、仏眼と名く。当に知るべし、仏服は円に照して、遺すこと無きことを。故に「経」に云はく、「五眼具足して菩提を成じ、永く三界の興に父母と作る」と。而して、独り仏眼と称するは、衆流の海に入れば、本の名字を失ふが如きなり、四用無きには非ず。仏智、空を照すこと二乗の見る所の如くなるを、一切智と名く。仏智、仮を照すこと、菩薩の見る所の如くなるを、道種智と名く。仏智、空、仮、中を照し、皆実相を見るを、一切種智と名く。故に、三智は一心の中に得と言ふなり。故に知んぬ、一心三止、成ずる所の三眼は、不思議の三諦を見る、此見は、止従り得るが故に、眼の名を受く。一心三観、成ずる所の三智は、不思議の三境を知る、此智は、観従り得るが故に、智の名を受くるなり。境と諦とは、左右の異のみ、見と知とは眼目殊称、応に別説すべからず。今、境を将て、来つて智を顕し、三観をして、明らめ易からしめ、諦を用て、来つて眼と目けて、三止をして解すべからしむ。三と作して説くと雖も、実には是れ不可思議の一法のみ。此一法の眼智を用て、円頓止観の体を得るなり。此の如きの解釈は、観心に本くものにして、実に経を読んで、次比を安置するに非ず、人の嫌疑を避けんが為に、信を増長せしめんが為になり、幸に修多羅と合す、故に引きて証と為すのみ。

 [48]三に境界を明すとは、若し、能顕なる眼智の中の意を得れば、所顕なる謗境の説を俟つこと無し、未だ解せざる者の為に、更に此一科あるなり。未れ、信行は多く聞くことを尚ぶ、此に因つて、分別して以て円妙に会す。法行は、深く観ずることを宗とす、此に縁つて思惟して以て正境を見るのみ。此に就いて二と為す、一には境を説くの意を明し、二には諸境の離合を明す。

 [49]「経」に云はく、「諸の衆生に、仏の知見を開かしめんが為」と。若し、中境無くんば、智、知る所無く、眼、見る所無し、当に知るべし。応に仏眼の境あるべきことを。「経」に云はく、「世、孰か真の天眼ある者、二相を以つてせずして諸の仏土を見る」と。若し、俗の境無くんば、此眼、応に仏土を見るべからざるなり、「経」に云はく、「天眼開闢し、慧眼真を見る」と。故に知んぬ、応に慧眼の境あるべきことを。此三諦の理は、不可思議にして、決定の性無し、実に説くべからざるなり。若し、縁の為に説かば三意を出でず。一には随情の説、即ち他意に随ふの語なり。二には随情智の説、即ち自と他との意に随ふの語なり、三には随智の説、即ち自意に随ふの語なり。何をか情に随つて三諦を説くと云ふや。盲の乳を識らずして便ち他に問うて言はく、乳の色は何にか似たると、他人、答へて言はく、色白きこと貝、粖、雪、鶴等の如しと、此説を聞くと雖も亦乳の真の色を了すること能はず、是諸の盲人は各各解を作し、競ひて貝粖を執して、四諍を起すが如し。凡情の愚翳なること、亦復是の如し。三諦を知らざれば、大悲方便して、而も為に分別す。或は有門に約して、三諦を明す、盲の貝と聞くが如し。或は空門に約して三諦を明す、盲の粖と聞くが如し。或は空有門を作して三諦を明す、盲の雪と聞くが如し。或は非空非有門を作して、三諦を明す、盲の鶴と聞くが如し。此説を聞くと雖も、未だ諦理に印せず。是諸の凡未は、終に、常、楽、我、浄、真実の相を見ること能はず、未だ見ることを得ずと雖も各空有を執して互に相是非す。所以に常途、二諦を解する者、二十三家ありて家家同じからず、各各見を異にし、皆、経論を引く。孰が是なるかを知ること莫し。若し、併せて是なりと言はば、理、則ち無量とならん、若し、併せて非なりと言はば、悉く據る所あり。此義の為の故に、自を執して他を非とし、甘露を故むと雖も、命を傷けて早く夭す。「経」は称はく、「文殊、弥勒、未だ悟らざるの時、共に二諦を諍ひしに、両りながら地獄に堕ちし」と。今の世の凡情は、偏に一文を孰し、鏗然として固着す、謂つて能と為すと雖も、恐らくは仏の旨に乖かん。是の如き等の人、皆、未だ随情の三諦を識らず。若し、此意を識らば、種種の説を聞いて、即ち如来の俯して根情を逐ひたまふことを知らん。根情、既に多ければ説くことも一種ならず、此れ即ち是れ他意に随つて而して三諦を説くなり。

 [50]随情智に三諦を説くとは、情に就いて二を説き、智に就いて一を説く。若し爾らば、一の所に三を論ずることを得ず。此を凡情に就いては、凡情は悉く是れ方便、一に即して而も三なりと雖も、但束ねて二と為す。若し聖智に就いては、聖智は皆是れ実得、一に即して而も三なりと雖も、但束ねて一と為す。情智相望す、故に三諦と言ふなり。相似の位の人の如きは、六根浄の時、猶、未だ真を発して中道を見ず、三諦を観ずと雖も、位に約して往いて明すに、但、四住及び塵沙の惑を破するのみ、既に方便の道を証すれども、但、束ねて二諦と為す。若し、初住に入らば、無明を破し、仏性を見、雙べて二諦を照せば、方に称して智と為す、亦、三諦を具すれども、但、束ねて中道第一義諦と為す。情と智と合せ論ず、即ち是れ自と他との意に随ふの語なり。

 [51]随智に三諦を説くとは、初住より去つては、但、中を説くこと、視聴を絶するのみに非ず、真俗も亦然なり。三諦は玄微にして、唯、智のみ照す所なり、示すべからず、思ふべからず、聞く者は驚き怪しむ、内に非ず、外に非ず、難に非ず、易に非ず、相に非ず、相に非ざるに非ず、是れ世法に非ず、相貌有ること無し、百非洞かに遣り。四句皆亡ず。唯、仏と仏とのみ乃ち能く究尽す、言語の道断え、心行の処滅す。凡情を以て図り想ふべからず、若は一、若は三、皆情望を絶す、尚、二乗の測る所に非ず、何に況んや凡未をや。乳の真の色は、眼、開けば乃ち見る、徒に言語を費すも、盲は終に識らざるが如し。是の如く説くは、名けて随智に三諦の相を説くと為す、即ち是れ自の意に随ふの語なり。

 [52]今、更に経の中に明す所の二諦の文を引きて、三諦の説を顕成す。若し、凡未の人、即ち能く因縁に体達して、観解を生ずと言ふは、豈情に随つて、俗を説くに非ずや。因縁即ち空なりと体するは、豈情に随つで真を説くに非ずや。若し此の如くなる者は、即ち是れ情に随つて二諦を説くなり。若は、凡未の心の見る所を名けて俗諦と為し、聖人の心の見る所を名けて真諦と為すと言はば、此の如きの説は、豈情智に随つて、二諦を説くに非ずや。若し、凡未は世間を行じて、世間の相を知らずと言はば、凡未、尚世間の俗を知らず、那ぞ真を知ることを得ん。故に知んぬ、二諦は、皆凡情の識る所に非ずと、此の如きの説は、豈智に随って二諦を説くに非ずや。二諦、既に三番の説有り。三諦も此に例して解す可し。

 [53]疑ふ者、若し、仏は常に二諦に依つて法を説くが故に三番の二諦の意有りと言はば、今も亦此に例す、仏は常に中道を好んで、降胎、出生、出家、成道、入滅、皆、中夜に在り、一色一香も中道に非ざること無し、若し中道を説かば、豈三意をもつて、縁に赴かざらんや。

 [54]又、一一の説、各四悉檀の意を具す、随情の中の四の意とは、未れ諦理は説く可からず、説かば必ず言に寄す、言は必ず情に契ふ、情は必ず欣悦す、或は真を聞きて歓喜し、或は俗を聞きて歓喜し、或は中を聞きて歓喜す。此は即ち是れ、随情の中に世界悉檀の意を用ふるなり。未れ衆生は便宜同じからず、或は無を説くを聞きて戒慧増長し、或は有と説くを聞きて戒慧増長し、或は中を説くを聞きて戒慧増長す。此れ即ち随情の中に為人悉檀の意を用ふるなり。未れ行者は、悪を破すること同じからず、或は有の法を聞きて、能く、睡眠、覚観等を破し、或は無の法を聞きて、能く、睡、散等を破し、或は中の法を聞きて能く、睡、散等を破す、此れ即ち随情の中に対治悉檀の意を用ふるなり。未れ衆生は、悟に入ること同じからず、或は無を聞きて解を開き、或は有を聞きて超悟し、或は中を聞きて発徹す。乃至観心も亦爾なり、或は有の観を説くに恍たること雲影の如し、或は無の観を作して身心を泯失す、或は中の観を作して神智明白なり。是の如き等の種種の不同は、応に一に在りて二に在らざるべく、応に二に在りて一に在らざるべし。故に云く、仏、生の法を説くに、無生の法に於て度することを得、仏、無生の法を説くに、生の法に於て度することを得、此は、即ち是れ第一義悉檀の意を用ふるなり。故に「法華」に云はく、「仏は衆生の種種の欲、種種の行、種種の性、種種の憶想を知りたまふ」と、即ち此四意なり。何んが故にして爾るや。種種の欲とは是れ随世界なり、種種の性とは是れ生善なり、種種の行とは是れ対治なり、種種の憶想とは是れ第一義なればなり。何が故ぞ、性は生善に属し、行は対治破悪に属するや。若し通じて論ぜば、性善には冥あり顕あり。行悪にも亦。冥あり顕あり、今、義便に従はば、善は是れ冥伏、悪は是れ彰露なり。仏の未だ出でたまはざりし時の如きは、三乗の善根は冥伏して現ぜず、故に善性冥すと言ふ。若し三諦を聞かば此善発生す。故に知んぬ、種種の性は応に生善に属すべく、為人悉檀に対す可きことを。又、仏の未だ出でたまはざりし時は、諸の衆生の悪行彰顕にして、邪非僻避、過失現前す、仏は此悪を破せんが為の故に、三諦を説きたまふ。故に知んぬ、種種の行は破悪に属し、即ち対治悉檀なることを。種種の憶想は是れ第一義なりとは、想は是れ慧数なり、僻の故に、心倒、見倒等と成る、若し知識に遇ひて此の相慧を正せば、即ち三不倒と成る、仏は其の此慧を正さんと欲するが故に、三諦を説く、即ち第一義なり。情に随つて三諦を説くに、既に四意を具す、情智に随ひ、智に随つて三諦を説くことも此に例して解すべし。

 [55]是れ則ち、三四十二種に三諦を説くこと同じからず、豈、凡情を以て、聖を局つて唯一種のみなりと謂ひ、執諍して自ら毀る可けんや。若し聖説に崖無きことを知らば、終に此を是とし、彼を非とし、増上慢を起して、高挙稜層せず。有智の盲人は乳の色を諍ふことなきが如く、勤めて方便を行じ、慚愧して羞づることあり。三止を以て三眼を証し。三法を見、三智を獲て三諦を知らん、中を見ること分明にして、雙照曉了す。雲除きて障を発けば、上顕はれ、下も明かなるが如し。爾時、乃ち是非を諦審し、決定して師子吼すべし。

 [56]私に喟く、情に随ふは是れ併せて与へ、情智に随ふは是れ、半与へ、半奪ふ、智に随ふは是れ併せて奪ふなり。何となれば、聖、凡に語つて云ふが如き、汝が今の心想は、即ち是れ俗なり、能く、俗は虚なりと体達すれば、即ち是れ真なりと。豈、併せて与ふるの相に非ずや。汝が今知る所の百千の推昼は、皆是れ俗にして、唯聖の知る所のみ乃ち是れ真なりと、豈。半与へ半奪ふの相に非ずや。未れ二諦は凡人併せて識らず、上聖のみ独り能く知ると、此れ豈。併せて奪ふに非ずや。此釈は解すこと易し、故に之を録す。

 [57]二に境智の離合を明さば、先には境、次には智なり。衆経に諦を説くこと、或は四、三、二、一と、離合同じからず、今当に通じて説くべし。三蔵は是れ方便の教なり、但、二諦を明す。菩薩は初心の中の心に真を縁じて四住を伏し、煩悩の脂をして消せしめ、三阿僧祇に六度の行を修し、功徳の身をして肥えしめ、百劫に相好を種え、五神通を獲、法眼を得て俗諦を照し、根性を分別し、衆生を調熟して而も仏事を作し、後心に道場に坐して三十四心に見思の惑を断じ尽す。此三十四心は、八忍、八智、九無礙、九解脱、合して三十四心と為すなり。又経に言はく、「一念に六百の生滅あり」、「成論師」の云はく、「一念に六十の刹那あり」と。秖是れ一念に仮従り空に入り、慧眼を得、真諦を照して而も成仏することを得るなり。前に已に俗を照し、次に復真を照す、二謗雙び明かにして弟子と異なり。菩薩は但俗を照して真を照さず、二乗は但真を照して俗を照さず、仏は能く兼倶し、更に中道第一義諦を加ふ、三蔵の二諦は已に是れ方便なり、二諦の上に於て、更に中道を加ふ、方便の上に更に復方便なり、此の諦を照見すれば更に仏眼を加ふ、此諦を知るが故に、更に一切種智を加ふ。離すれば則ち二あり、合すれば則ち三あり。是を、三蔵の法の中の二諦三諦離合の離と為すなり。

 [58]次に三乗の人、同じく無言説の道を以て煩悩を断ずるに、諦の離合を論ずれば、俗諦は則ち同じく、真諦は則ち異なり。「大論」に云はく、「空に二種あり、一には但空、二には不但空」と。「大経」に云はく、「二乗の人は、但空を見て不空を見ず、智者は但空を見るのみに非ず能く不空を見る、不空は即ち大涅槃なり」と。二乗の但空、智は螢火の如く、菩薩の人は、智慧日の如し。既に空異にして智別なるときは、則ち両諦の殊りあり。而して今、合して一の真諦と為す。二乗の仮を体して真に入るは、秖但空に入りて、但空従り仮に入ること能はず、化他の用無し。菩薩の仮を体して但真に入るは、能く但空従り仮に入りて衆生を化度し、仏国土を浄むるなり。上根の菩薩は仮を体して真に入る、前には但空に入り次には不但空に入る。則ち無明を破し仏性を見ること、前の真と永く別なり、豈同じく一の真諦と為すべきや。昔、「荘厳家」の云はく、「仏果は二諦の外に出づ」と。此片意を得て義を作すに成ぜず、仏の智は別に何の境を照し、別に何の惑を断ずるやを知らず云云。若し今の意を得れば、外に出づるの義即ち成ぜん。「開善家」の云はく、「仏果は二諦の外に出でず」と。二乗に動異すること能はず、義を作すに復成せず、若し此意を得れば、出でざるの義も亦成ぜん、古来此を名忖て、風流の二諦と為す、意此に在るなり。但空、不但空合するの時、秖是れ一の真諦なり、離する時は両の真諦を成ず、三蔵家と異なるなり。彼三蔵の第三諦は、但、中道の名のみありて、別の体無し、眼に別の見なく、智に別の知なし。今は則ち爾らず、第三諦も亦真諦と名け、亦中道第一義謗と名く、別の体、別の見、別の知有り。是を通教の二謗三諦離合の相と為すなり。

 [59]次に別教に二謗を明すは、前と 永く異なり。前の真俗を合して、別家の俗と為す。俗とは是れ世界の隔別にして、俗は有、真は無なり。凡未は俗諦の摂する所となり、二乗は真諦の摂する所となる、既に有無の異りあり、故に称して俗と為す。「勝鬘」に、「二乗を名けて空乱意の衆生と作す。」と「大経」に云はく、「我と弥勒と共に世謗を論ずるに、五百の声聞は真諦を説くと謂ふ」と。若し二諦を論ずれば俗諦は開せず、若し三諦を作さば有を開して俗と為し、無を開して真と為し、不但空に対して第一義諦と為す、是を別教の離合の相と為すなり。