[97]別観無生の智とは、鏡は法界を譬へ、眼は観智を譬へ、青黄赤白小大長短は十法界を譬ふ、青は地獄の因果を譬へ、黄は餓鬼の因果を譬へ、赤は鬼生の因果を譬へ、白は人天の因果を譬へ、小色像は二乗の因果を譬へ、大色像は通の菩薩の因果を譬へ、短色像は別の菩薩の因果を譬へ、長色像は仏の因果を譬ふ。皆鏡中に於て分別するに謬り無し。若し自ら正さんと欲せば、九の因果をして生ぜざらしめ。一の因果をして生ぜしめよ、若し他を正さんと欲せば、他の九の因果を生ぜざらしめ、一の因果を生ぜしめよ。法界に依て菩提の行を行ず、次第に析体の観智を用ひ、四住の生を断じて生ぜざらしむ。次に恒沙の仏法を用ひ、客塵の煩悩を断じ、無知をして生ぜざらしむ、後に実相の智慧を用ひ、無明を断じて根本をして生ぜざらしむ。若し四住無ければ則ち分段生ぜず、若し無知無ければ則ち方便生ぜず、若し無明無ければ則ち実報生ぜざらん、生も亦生ぜず、不生も亦生ぜず、故に不生と名く、是れを別教の無生智と名くるなり。

 [98]円教の観無生智に約せば、鏡の団円を観ず、背面を観ぜず、形像を観ぜず、背に非れば闇に非ず、面に非れば明に非ず、種種の形容を取らず、種種の檠像を取らず、但だ団円を観ずるに際畔無く始終無く、明闇無く一異の差別無きは円観に譬ふるなり、十法界の相貌を取らず、善悪無く邪正無く大小等無く、一切皆泯ず、但だ諸法実相、法性の仏法を縁ず、若しは色、若しは香、実相に非ること無し。煩悩業の生を観ずるに、即ち無生なり、生不生無きが故に無生と曰ふ。陰入界の苦は即ち是れ法身なり、顕現の故に名けて法身と為すに非ず、障は即ち法身なり、貪恚癡は即ち般若なり、能明の故に名けて般若と為すに非ず、照すべき所無く、性自ら明了なり、業行の繋縛を皆解脱と名く、縛を断じて得脱するに非ず、亦体の繋す可き無く、亦能繋無し、故に解脱と称す。解脱は即ち業の不生、般若は即ち煩悩の不生、法身は即ち苦の不生、是三不生は即ち一不生なり、是一不生は即ち三不生なり、三に非ず一に非ず、故に不生と言ふ、況んや変易の煩悩業苦而も不生に非ざらんや、此れ即ち円の無生観智なり云云。

 [99]本迹とは、是れ憍陳如は、本より不生にして始めて不生なるに非ず、乳を引て酪と為さんと欲す、故に迹に初教の不生と為る。酪を引て生蘇と為す、故に迹に通の不生と為る、生を引て熟と為す、故に迹に別の不生と為る、熟を引て醍醐と為す、故に迹に円の不生と為る、而して其本地は阿字門に住す、謂く、一切法初不生の故に、若し阿字門を聞かば、則ち一切の義は皆生に非ず不生に非ざることを解す。迹を垂れて引化して能く生不生と為る、衆生若し能く円の不生に会すれば則ち阿若に同じ、本に非ず迹に非ず、生に非ず不生に非ず、大事の因縁茲に於て畢る。故に下の文に云く、富楼那の種種変化の事を、我若し具足して説かば、衆生の是れを聞く者は、心に則ち疑惑を懐かんと、即ち其義なり。阿含に云く、阿難は傘蓋灯を持して仏の後に随ひ、大梵王は傘蓋灯を持して陳如の後に随ふと、斯れ皆迹を示して而して本を顕さんと欲するなり。

 [100]観心の不生は三観に約す、不生は知んぬべし、煩はしく更に説かざるなり。

 [101]摩訶迦葉、此には大亀氏と翻ず、其先代道を学ぶに霊亀、仙図を負つて而も応ず、徳に従て族に命く、故に亀氏と言ふ。真諦三蔵は光波と翻ず、古の仙人身光炎踊して能く余光を映じて現ぜざらしむ、故に光波と言ふ。亦飲光と云ふ、迦葉の身光亦能く物を映ず、名は畢鉢羅、或は畢鉢波羅延、或は梯毘犁なり、畢鉢羅とは樹なり、父母樹神に祷て此子を求め得たり、樹を以て之に名く。跋耆子此聚落に生ずれば、人以て号と為す、其家大に富めり。増一阿含に云く、羅閲祇の大富長者を迦毘羅と名け、婦を檀那と名け、子を畢鉢羅と名け、子の婦を婆陀と名く、其家は瓶沙王に勝ること千倍なり、十六大国に以て隣とする無しと。付法蔵に言く、毘婆尸仏の滅後、塔像の金色缺壊す、時に貧女有り、金珠を匃め得て、匠を倩て薄と為す、金師歓喜して仏を治瑩し畢り、誓を立て夫婦と為る、九十一劫、人中天上にして身は恒に金色にして心恒に楽を受く、最後に摩竭提国の尼拘律陀婆羅門の家に託して生る、王に勝れて罪を得んことを畏れて、一の耕犁を減じて但だ九百九十九双の牛の金犁を用ふと。又経に云く、其家に㲲有り、最下品の者も直百千両金なり、釘を以て地に釘ち入るること七尺すれども、㲲は穿破せずして本の如く異ならず、六十庫の金粟あり、一庫に三百四十斛を容ると、庫は倉の類なり。又経に云く、麦飯を以て支仏を供養するに、怛越・忉利に各各千反楽を受け、身に三十相有り、直に金色を論ずるに、剡浮那陀金は濁水の底に在れば光り水上に徹す、闇に在れば闇滅す、迦葉の身光は此金に勝る、身光一由旬を照すと、二相を闕くとは、応に是れ白毫と肉髻無かるべきなり、故に諸天結集を請ふ時讃じて言く、耆年の欲恚慢已に除こり、其形は譬へば紫金柱の如し、上下端厳にして妙にして比ひ無し、目は明かにして清浄なること蓮花の如しと。此家業を捨つ。又金色の婦を納めて迭ひに臥して欲無く捨てて而も出家す、身に無価の宝衣を披、截て僧伽梨と為し、四つに畳みて仏に奉り座と為す、是の如きの三捨は世に倫匹するもの無し、是れを捨大と為す。跋耆聚落に於て仏に値て宝衣を奉ず、仏は糞掃の大衣を授けたまふ、此衣は是れ大聖の大衣なり’、又大に麁重なり、故に迦葉云く、我れ仏の衣を受けて、師の想、塔の想ひして未だ曾て頭に枕せず、況んや以て覆臥せんをや、此の如きの大衣、大に我行を進むと、故に受大と言ふ。仏弟子の中に多く迦葉と名くるものあり、十力三迦葉等の如き、皆是れ大人なり、諸の同名の中に於て最も長ず、故に大迦葉と標するなり。跋耆聚落に於て、初めて仏に従て増上の戒定慧を聞て即ち無漏を得、乞食の法を受けて十二頭陀を行じて、逾逾老て捨てず、後時に仏語りたまはく、汝の年高し、乞食を捨て、衆に帰して食を受くべし、麁重の糞掃衣を捨て、壊色の居士の軽衣を受くべしと、迦葉仏に白すらく、仏出世し給はずんば、我れ当に辟支仏と為つて、身を終るまで頭陀を行ずべし、我れ今敢て所習を放て更に余の者を学ばず、又当来世の為めに明と作らん、未来世に言はん、上座迦葉は仏の為めに歎ぜらる、我も亦当に難行苦行を学すべしと。仏の言はく、善い哉と、是を行大と為す、増一阿含に、仏法の中に十二頭陀を行じて難行苦行するは大迦葉第一なりと。頭陀既に久しくして鬚髪長く衣服弊る。仏所に来詣するに諸の比丘慢を起す、仏命じて仏の半座に就て共に坐せしむ。迦葉肯んぜず、仏の言はく、吾に四禅有り、禅定は心を息め、始めより終に至るまで耗損有ること無し、迦葉も亦然り、吾に大慈有り、一切を仁覆す。汝も亦此の如し。体性も亦慈なり、吾に大悲有り。衆生を済度す、汝も亦是の如し。吾に四神三昧有り、一に無形、二に無量意。三に清浄積、四に不退転なり、汝も亦是の如し、吾に六通有り、汝も亦是の如し、吾に四定有り、一に禅定、二に智定、三に慧定、四に戒定なり、汝も亦是の如しと。増一阿含に云く、一の婆羅門仏に白さく、昨、婆羅門有て我家に至る、何者か是なると、仏迦葉を指す。又問ひたてまつる。此れ沙門にして婆羅門に非ずと。仏の言はく、沙門の法律、婆羅門の法律を我れ皆知る、迦葉も亦爾り。迦葉の功徳は我と異ならず、何が故ぞ坐せざると、諸の比丘、仏の讃ずる所を聞て心驚き毛竪つ、仏、本因縁を引きたまふ、昔聖王有り、文陀竭と号す、高才絶倫なり、天帝、徳を欽つて千の馬車を遣はして闕に造て王を迎ふ、天帝、出候して王と同じく坐す、相ひ娯楽し已りて王を送て官に還す、昔迦葉は生死の座を以て、吾に命じて同じく坐す、吾れ今成仏して、正法の座を以て其往勲を報ず、仏に対して坐する時、天人咸な仏の師と謂ふと。又迦葉は阿難と共に比丘尼の為めに法を説く、一の比丘尼有て喜ばずして云く、販針児、針師の前に在て針を売ると、迦葉、阿難に語て言く、此比丘尼は汝を以て針師と為し、我を販針児と為すと。迦葉、尼に語て言く、仏、月喩経を説きたまふて日日に増長して、常に新に学ぶが如きなる者は唯大迦葉なりと。汝聞くやいなや、大衆の中に於て半座を分ちたまふを、汝聞くやいなや、大衆の中に於て、仏の広大の功徳と同じと讃じたまふを、汝聞くやいなや、云何んぞ、此人は是れ販針児ならんと。此の如き等は是れ、仏の印可を被むること大なり。位大とは大衆の中に於て大と為り、千二百五十の中に於て大と為り、五百中に於て大と為り、四大弟子の中に於て大と為り、五山の寺主と為り、閻浮提の知事の上座と作る、故に位大と言ふ。仏の焼身の後、灰場に四鉢多羅樹を生ず、此れ迦葉の三僧祇劫の法を集めて、三蔵四阿含と為すを表はす。僧肇の序に云く、宗極まりて称謂を絶す、賢聖は之を以て冲黙す、玄旨も言に非れば伝はらず、釈迦は之を以て教を致す、身口に約する時は、之を防ぐに禁律を以てす、善悪を明す時は、則ち之を導くに契経を以てす、幽微を演ぶる時は、之を辨するに法相を以てすと、此れ即ち戒定慧の三蔵を明すなり。増一は人天の因果を明し、長は邪見を破し、中は深義を明し、雑は禅定を明す、皆大迦葉の功なり。若し別して集を論ぜば、阿難は修多羅を誦出し、優波離は毘尼を誦出し、迦葉は阿毘曇を誦出す、故に結集大と言ふなり。如来去て後、法を迦葉に付す、能く一切の為めに而も依止と作ること猶し如来の如し、何んとなれば、若し頭陀苦行の人有れば我が法則ち存し、若し此人無ければ我が法則ち存せず。迦葉は能く仏法を荷負して久しく住することを得せしむ、未来の仏に至て法を付し衣を授け竟て然して後入滅す、故に持法大と言ふ。而して迦葉将に隠れんとして密に天に上り、仏髪を礼し、諸天の為めに法を説て云く、善を為さば天に生じ、悪を為さば淵に入る、五欲の無常なること。花上の露の陽を見れば則ち晞くが如しと。是に於て別れ去る、諸天泣歎して曰く、里巷窮酸し、苦厄羸劣、貧窮孤露なるを彼れ恒に矜愍す、今捨てて滅度す、誰か復覆護せん云云。

 [102]教に約して抖擻を明さば、十二種の過を抖擻す、謂く好衣は求むる時苦しみ、得る時怖畏多く、失ふ時懊悩を生ず。糞掃衣は水と火と盗と賊と王難の五怖なし、若し多く畜んものは縫治浣負するに、其労も亦多し、故に但だ三衣なり。若し僧の中の食は則ち僧事を営佐す。故に乞食す、若し残食小食を受くれば、擾動して時を喪ふ、故に一坐食なり。多食は消し難く、睡を生じ懈怠す。少食は饑縣して力乏し、故に節量食なり。器を多くすれば洗持するに妨げ多し、故に一鉢食なり。漿を須れば労動す、故に漿を飲まず、房舎は著を生ず、故に樹下なり、樹下又著す、故に塚間なり、冢間は憂悲の妨げあり、故に露地なり。若し臥せば功を消し懶を増す、故に常坐す。二は是れ衣法、六は是れ食法、四は是れ住処法なり。且らく乞食に約して抖擻を明さば、乞は得易ければ喜を生じ、得難ければ瞋を生ず、好を得れば則ち愛し、悪を得れば則ち憂ふ、憂喜は色に依て起る、即ち色陰なり。此憂喜を受くるは即ち受陰なり、憂喜の相を取れば即ち想陰なり。憂喜は即ち是れ行陰なり、憂喜を分別するは即ち識陰なり、憂喜は即ち意法の二入三界なり、界入陰は即ち苦諦なり。我能く乞食して有我無我を計し、乞を以て道と為し、乞と以て実と為す。是の如く諦当し、讃ずれば喜び、毀れば瞋る、我能く呵せらるれば即ち疑ひ、了せざるを癡と為す、是れを十使と為ず。三界の四諦を歴て即ち八十八使を集諦と名く。若し乞食の中の四倒を識らば、相似相続して覆ふが故に常と謂ひ、意に適ふを楽と謂ひ、動転して所作覆ふ故に我と謂ひ、薄皮覆ふが故に浄と謂ふ、四覆を識れば四倒無し、勤めて二悪を遮して二善を生じ、四定・根・力・覚・道を修す、是れを道諦と為す。乞食の中に於て、我を計せざれば則ち癡滅す、癡滅するが故に愛滅す、愛滅するが故に瞋滅す、瞋滅するが故に、自ら挙せざれば則ち慢滅す。慢滅するが故に、呵せらるれば則ち疑無し、我無き故に我見滅す、我見滅するが故に辺見滅す、是れ道なりと執せざれば則ち戒取滅す、計して実と為さざるが故に見取滅す、邪執せざる故に邪見滅す、此十滅するが故に則ち八十八滅す、八十八滅する故に子縛滅す、子縛滅する故に果縛滅す、果縛滅する故に二十五有滅す、是れを滅諦と為す。若し乞食の中に於て四真諦を見ざれば、是故に久しく生死の大苦海に流転す、若し能く四諦を見れば、則ち生死を断ずることを得。生死既に尽き已れば更に諸の有を受けず、是れを乞食の中の抖擻の観慧と為す、衣法・住処法も亦復是の如し、是れ三蔵の頭陀なり。

 [103]通教の抖擻とは、真を縁じて寂を証するは、則ち是れ住処なり、空慧をもて食と為し、空心をもて諸行を行ずるを衣と為す、常に性空にして性空ならざる時無し、空慧をもて抖擻するに皆幻化の如く、妄想諸悪寂滅して起らず、心心数の法、行ぜざるが故に、不可得なるを以ての故なり、諸の相応の中には、空相応最も第一と為す、諸の苦行の中には空行第一なり、諸の抖擻の中には空慧の抖擻最も第一と為す、略説竟る。

 [104]別教の抖擻とは、法身に依て以て住処と為す、般若の智慧を以て食と為す、一切の諸行は荘厳遮覆す、遮覆は黒業の悪を抖擻し、般若は煩悩の悪を抖擻し、法身は生死の苦悪を抖擻するなり。前に分段の煩悩業苦を抖擻し、次に変易の煩悩業苦を抖擻す、是れを中道正観の頭陀と為す、二乗の所行の苦行に出過す云云。

 [105]円教の抖擻は、住処は即ち衣即ち食なり、但だ是れ一法なれども分別して三と説く、一の抖擻は一切の抖擻、一切の抖擻は一の抖擻なり、一に非ず一切に非ず、一切の抖擻に於て実相に非ること無し、諸仏の諸行は是れ如来行なり、諸の菩薩の所行の清浄に過ぎたり云云。

 [106]本迹とは、本は如来と同じく畢竟空の理に坐し、同じく広大の法身を得、同じく無礙の智慧を得、同じく無量の功徳を得、内に法愛を捨て、外に垢染無し、内外抖擻して本より已に清浄なり、乳味を引かんと欲して事の中に抖擻し、次に酪味を引て空の中に抖擻し、次に生蘇を引て別の中に抖擻し、次に熟蘇を引て円の中に抖擻す。

 [107]観心とは、即空は取相を抖擻し、即仮は塵沙を抖擻し、即中は無明を抖擻し、一心の中に五住を抖擻す云云。

 [108]三迦葉、迦葉は前に釈するが如し。優楼頻蠡、亦優楼毘、亦優為といふ、此には木瓜林と翻ず。那提、此には河亦は江と翻ず、迦耶、亦竭夷、亦は象といふ、此には城と翻ず、家は王舎城の南七由旬に在り。毘婆尸仏の時、共に刹柱を樹て、是れに縁て兄弟と為る、兄は瓶沙王の師と為り、五百の弟子あり、両弟に各二百五十あり、兄の法を行ず。仏、十種の変を作したまふ、謂く龍毒に中らず、龍火に焼かれず、恒水に溺れず、三方に果を取り、北に粳糧を取り、忉利に甘露を取り、嫌を知て隠れ去り、念を知て現じ来る、火滅して然えず、斧を挙げて下らずと、広く瑞応に出づ。衆変を覩ると雖も邪執未だ改まらず、故に瞿曇は神なりと雖も、我道の真に如かずと言ふ。仏即ち語て云く、汝は羅漢に非ず、亦道を得ずと、霍然として開悟し師徒皆伏す、二弟、相を見て亦随て仏に帰す、是れ則ち一千の比丘なり。

 [109]約教とは、増一阿含に云ふが如し。優留毘は能く四衆を将護し、四事を供給し乏しき所無からしむこと最も第一と為す。那提比丘は心意寂然として諸結を降伏し、精進すること最も第一なり。伽耶比丘は、諸法を観了して都て著する所無く、善能く教化すること最も第一と為す、是れを酪教の中の意と為す、若し転じて生蘇に入らば、即ち応に小を恥ぢて大を慕ふべきこと、例して則ち知るべし。若し転じて熟蘇に入らば、即ち応に業に委しく教を領すべし。若し転じて醍醐に入らば、此経の中に得記作仏するが如きなり。

 [110]本迹とは、三徳に住す、林は即ち般若、城は即ち法身、水即ち解脱なり、是れを秘密の本蔵と為す。而して迹に林城水に依て以て衆生を度するなり。

 [111]観心とは、正しく心性を観ずるに、中道動ぜざること城の敵を防ぐが如し、動ぜずして而も動ずるは水の諸辺の顛倒を浄むるが如し、双て枯栄を照らすこと林の蓊鬱なるが如し、三法相資く、即ち是れ連枝の兄弟なり。

 [112]舎利弗、具さに存せば応に舎利弗羅と言ふべし、此には身子と翻ず、又舎利を翻じて珠と為す、其母は女人の中に於て聡明なり、聡明の相は眼珠に在り、珠の生ずる所なり、故に是れ珠子なり。又身と翻ず、此女は好形の身なり、身の生ずる所なり、故に身子と言ふ。時人子を以て母を顕はし為めに此号を作すなり、父、為めに名を作して優波提舎、或は優波替と名く、此には論義と翻ず、義を論じて妻を得、論に因て子に名け、父の徳を標するなり。釈論に云く、我を提舎と名く、我を逐て宇を作し優波提舎と字けんと。優波、此には逐と言ふ、提舎は星の名なり、又舎は父を標し、利は母を標す、双て父母を顕はす、故に舎利弗と言ふ。弗は子なり。姓は拘栗陀、婆羅門の種なり。増一に云く、我仏法の中に智慧無窮にして諸の疑を決了する者は舎利弗第一なりと。昔は生経に云く、過去に舅甥あり倶に織師と為り、王の宝蔵を知て、因て土を穿て之を盗み大に珍宝を獲たり、宝監、王に白す、王の云く、揚げること勿れ、彼盗、尋で来らんに伺て而も之を執へよと、甥、因て舅として倒に入らしめて執へらる、甥、人の識らんことを恐れて即ち舅の頭を級す、王、令して屍を以て四交の道に置き、其の親を引き取る。後賈客の群集猥閙するに因て、甥は両車の薪を載せて之を覆ふ。王又伺ひ取らしむ。又童児の舞戯に因て火を投じて之を焼く。又行て酒を置く、伺ふ者大に酔ふ、酒瓶に骨を盛て去る。王狡猾なるを憂ひて女を出して厳防して水辺に在り。先づ其女を誡しめ、来らん者を執へ喚べと、其れ株を水に浮べ防ぐ者人と謂て之を視るに乃ち株なり、連日備らず、是れに因て来て女に通ずることを得。女、其衣を執るに、其に即ち死人の手を授けて而も去る、女、大に喚んで之を視るに乃ち死手のみ、是れに因て身むこと有つて男の端正なるを生む、王、乳母をして抱き出し、嗚者の有らば之を執へしむ。連日飢渇して煮餅の爐下に至る、餅師餅を与へて而も嗚ふ、王、更に出さしむ、因て醇酒を酤る、伺ふ人大に酔ふ、児を抱て去る、出でて他国に過ぐ、他国其謀を賢とし、大臣の女を以て之に妻すに用ひず、因て之を字して児と為す、本国の王女を聘するに之を許す、是れ前の盗かと疑ふ、其人五百騎の鞍馬・衣服・一種相似るを以て、往て婦を迎ふ、時に本王之を見て、是れ前の盗かと問ふ、其姦詐を歎じて女を以て之に婦とす、甥とは舎利弗是なり、舅とは調達是なりと云云。胎は父を優波提舎と名く、学は典籍に通ず、鉄を其腹に鍱し、頭に火冠を戴く、王舎に独歩し論議の鼓を打つ、国師陀羅、自ら陳ること故しと知り兼て相を則るに不祥なり、義屈して封を奪ひ、女を以て之に妻す、妻、夢に人身に甲胄を被むり手に金剛杵を執り、一切の山を砕き後一の山の辺に立つと見る、夢覚むるに体重し、以て其夫に問ふ、夫の云く、汝が懐む所の者は、一切の論師を破せんも、唯だ一人に勝たず、当に弟子と為るべしと。舅を拘絺羅と名く。論ずるに常に姉に勝つ、既に智人を懐むに論則ち弟に勝つ。弟自ら念言すらく、此れ姉の力に非ず、必らず智人を懐んで辯を母の口に寄するならんと、胎に在て尚ほ爾り、何に況んや出生せんをや、家を委ねて更に広く遊学す、爪を剪るに暇あらず、時の人呼んで長爪梵志と為す云云。難陀・跋難陀の二龍は王舎城を護り、雨沢時を以てし、国に飢年無し。王及び臣民は歳ごとに大会を設け三の高座を置く、王と太子と論師となり、身子は八歳の年を以て身ら会所に到る、人に三座を問ふ、人具さに之に答ふ、即ち衆を越えて論床に登る、群儒皆恥て肯て論議せず、此に小児に勝つも誉を顕はすに足ること無し。脱し其れ如からずんば屈辱大なり、皆侍者を遣はして語を伝へて之に問ふに、答、問の表に過ぐ、尽く諸幢を堕し敢て当るもの無し、王及び臣民、慶びを称すること極り無し。国将に太平ならんとして、智人世に出づ。年十六に及んで閻浮の典籍を究尽し、事として閑はずと云ふこと無し。古に博く今を覧、幽奥を演暢す。十六大国に論議双び無く、五天竺の地に最も第一と為す。沙然梵志に師事す、梵志の道術身子皆得。師に二百五十の弟子有り、悉く身子に附して之を成就す。沙然死に臨んで欣然として笑ふ、身子故を問ふ、答ふ、世俗眼無し、恩愛の為めに親まる、我れ金地国の王死し、夫人の火聚に投じて同じく一処に生れんと願ふを見ると、言ひ已て命終す。後金地の商人を見て之に問ふに果して然り。身子追て悔ゆらく、我れ未だ師の術を尽さす、而も此法を授けず、我れ其人に非るが為めに師の秘するかと、自ら未だ達せざるを知て更に勝法を求む、而も師の事ふ可き無し。此一法に逮ばずと雖も余法は皆通ず、外道衆の中に於て最も第一と為す。道に於て頞䫌の威儀庠序なるを見、因て師の法を問ふ、頞䫌答へて云く、諸法は縁より生す、是故に因縁を説く、是の法縁及び尽く、我師是の如く説きたまふと。一たび聞て即ち須陀洹果を得、仏の所に来至して七日にして遍ねく仏法の淵海に達す。又云く、十五日の後阿羅漢を得、羅云の和尚と為り、憍梵に師と作ると。声聞衆の中には、右面の弟子なり。調達は僧を破して五百の比丘を引て去る、身子は往て五百人を化して帰る云云。労度差と力を捔ぶるに、度差は花池と為り、身子は象と為り、花を抜き池を蹋む、度差は夜叉鬼と為り、身子は毘沙門王と為る、種種に皆勝ち度差降伏す。

 [113]中阿含に云く、身子は是れ四衆所生の母、目連は是れ所養の母なり云云、中阿含第二に云く、生処に安居するに比丘、満慈子を称歎す、少欲知足にして精進閑居し、一心正念にして、智慧無漏なりと、勧発して亦此等の法を称説す。時に身子聞て念ず、我れ何れの時か此人を見ることを得ん、此人何れの時か仏所に到らんと。他示して云く、白晳隆鼻鸚鵡の嘴のごとくなる者、是れ其形相なりと。後に安陀林に於て、此には勝林と云ふ、相ひ見ゆ、身子問ふ、賢者瞿曇の所に於て焚行を修するや。答ふ、是の如し。又問ふ、戒浄の為めに焚行を修するや。答ふ、不なり。心浄・見浄・度疑浄・知道非道浄・道迹知見浄・道迹智断浄の為めに梵行を修するや。答ふ、不なり。又問ふ、向には如是と言ひ今は不なりと言ふ、此義云何ん。答ふ、無余涅槃の為めの故に梵行を修す。又問ふ、戒浄を以ての故に無余涅槃を設くるや。答ふ、不なり。乃至、道迹智断浄の故に無余涅槃を設くるや。答ふ、不なり。又問ふ、此義云何、答ふ、若し戒浄を以て無余を設けば、此れ有余を以て無余と称するなり。乃至、道迹智断浄をもて無余を設けば、亦是れ有余をもて無余と称するなり。若し此七を離れば、凡夫人当に般涅槃すべし、凡夫の七を離るが故なり、離れざるを以ての故に、戒浄より心浄乃至道迹智断浄に至る。仁者、我喩えを説くを聴け、波斯匿王、拘薩羅より婆鶏帝に至らんと欲するが如き、中間に七車を布く、初めを捨てて二に乗り、乃至六を捨てて七に乗る。婆鶏帝の人問ふ、初の車に乗ると為んや。答ふ、不なり。乃至第七車に乗るや。答ふ、不なり。問ふ、此七車を離るるや。答ふ、不なり。此喩の問知ぬ可し。身子問ふ、賢を何等と名く、梵行人は云何が汝を称す。答ふ、我父を満と名け、我母を慈と名く、梵行人は我を称して満慈子と為す、身子称嗟すらく、善い哉、賢者満慈子は如来の弟子と為り、智辯聡明、決定安隠にして畏れ無し。大辯才に逮び甘露の幢を得、甘露に於て自ら証を作す。汝に値ふ者は大饒益を得ん、諸の梵行人は応に衣を縈て頂戴すべしと。満慈子問ふ、賢者を何んが名く、梵行人は云何んが称す。答ふ、我父を優波提舎と字け、我母を舎利と名く、故に我を称して舎利子と為す。満慈子嗟して曰く、今世尊に等しき弟子と共に論じて而も知らず、第二の世尊と共に論じて而も知らず、法将と共に論じて而も知らず、転法輪復転ずる弟子と共に論じて而も知らず、若し我れ尊者なりと知らば一句をも答ふる能はず、況んや復深論をや。善い哉、善い哉、如来の弟子と為り乃至、衣を縈て頂戴せん云云。仏一句を説きたまはば、身子は一句を以て本と為して、七日七夜に師子吼を作し、更に異句異味を出して窮尽無からしむ、況んや仏の多説したまふに、而も身子の智辯ずるに、寧ぞ尽す可けんや。中阿含第二十に云く、仏阿耨達池に在ます、龍王の云く、此衆舎利弗を見ず、願はくは仏之を召されんことを。仏目連に命じて祇洹に往て身子を呼ばしむ、正に五納衣を縫ふ、答へて云く、汝但だ前に去れ、我れ後に在て来らん。目連の云く、我れは仏の使人為り、云何んぞ前に去らんと。目連手を以て衣を摩すに、衣即ち成る。身子念ずらく、目連は我れを弄試す、我れ亦之を試みんと。即ち衣縄を以て地に擲ち、汝能く之を挙んやと。目連念ずらく、身子我れを弄試すと、即ち力を尽して挙ぐるに起たず。身子時に縄を以て閻浮樹に繋くるに、一天下動ず、二三四に繋くるに、四天下も亦立たず。又小千・中千・大千に繋くるに亦立たず。又他方の仏の座脚に繋くるに十方の仏の世界、皆鎮鎮として動かず。目連自ら念ずらく我れ神力第一なり、今動ずること能はず、将に神力を失せざらんとするかと。因て催促して去らしむ。答ふ、汝前に去れと。目連仏所に還るに已に身子の仏前に在るを見る、龍王、地の動くを見て仏に問ひたてまつる、仏の答へたまはく、二人の力なりと。龍王及び五百の比丘は目連に於て軽心を生ず、仏の言はく、舎利弗は四神力に於て自在を得、目連も亦自在なり、而して抜くこと能はざるものは仏力のみと。目連に語て云く、汝が神力を現ぜよと。目連、鉢絡を以て五百の比丘を盛り、挙げて梵宮に著く、一足は須弥を躡み、一足は梵宮に至る、身彼方に在て而して偈を説くに、大千国に満つ、五百のもの心伏す云云。

 [114]約教とは、若し三蔵の智慧は、即ち是れ無学の十智なり。結を断じ真を証し、仏を輔けて化を揚ぐ、釈論四十に称して右面の大将と為すは即ち其義なり。

 [115]通教の智慧とは、般若の中に自ら摩訶薩たる所以を説くが如し、謂く我見・衆生見・仏見・菩提見・転法輪見と、此の如き等の見を破す、故に摩訶薩と名く。諸の賢聖、自ら己が法を説くは、即今の人の、妄りに所説有るが如くならず、当に知るべし、身子は但だ生死の見を破するのみに非ず、亦仏見・菩提・法輪・涅槃等の見を破す、此慧は初教に異なるなり。

 [116]別教の智慧とは、当に五味に約して分別すべし、若し元初より但だ乳酪を聞て余味を聞かず、発心修行して但だ乳酪を行ずる者は、此れは是れ初教の智慧なり。若し但だ酪を聞て酪は乳に由らず、善悪の性は性本より自ら空なり、善を修するに由て悪を破すると、色ぞ滅して空を取るとにあらず、但だ即空を修するは是れ通教の智慧なり。若し元初より醍醐を聞くことを得、醍醐の為めの故に、牛を毂りて乳を求め、乳を烹て酪と為し、酪を転じて生蘇と為し、生を転じて熟蘇と為し、方に醍醐を得。此の如きの行を修するは、即ち是れ別教の智慧なり。

 [117]若し元初より但だ牛の忍草を食して即ち醍醐を出す、若し能く服すれば衆病皆除く、一切の諸薬悉く其中に入ると聞て此修行を為すは、即ち是れ円教の智慧なり。

 [118]本迹とは、本は実相に住す、智度を母と為し、境より智慧を生ず、境は即ち是れ身なり、智慧は即ち是れ子なり、衆生を悲愍して迹に五味の身子と為る、煩悩の悪血を転じて善乳を成ぜしめんと欲して、示して外道の智慧と為し、大論師と作る。乳を烹て酪と為さんと欲して三蔵の智慧を示して第二の世尊と為る。酪を引て生蘇と為さんと欲して、大を訥し小を現じ、浄名の屈を受く。生蘇を引て熟蘇と為さんと欲して、同梵行の者を安慰し饒益して、般若に於て教を領す。熟蘇を引て醍醐と為さんと欲して、法華に於て初めて悟る、斯れ皆迹中の外現なり、而して本地の内秘は其実久し。

 [119]観心とは、一心三観に一切の智慧を摂得して心即空と観ず、故に酪の智慧を摂得す、心即ち仮と観ず、故に両蘇の智慧及び世の智慧を摂得す、心即ち中と観ず、故に醍醐の智慧を摂得す、是れを観心中の一慧一切慧、一切慧一慧、一慧に非ず一切慧に非ずと名く云云。

 [120]大目揵連は姓なり、讃誦と翻ず、文殊問経には萊茯根と翻ず。真諦云く、勿伽羅、此には胡豆と翻ずと、二物は古仙の嗜む所、因て以て族に命く。釈論に吉占師の子と云ふは父なり。名は拘律陀、拘律陀は樹の名なり、樹神に祷て子を得たり、因て以て名くと。又は目伽羅兮度といふ。未来因果経に大目連羅夜那と云ふ、同名の者多し、故に大を挙ぐるなり。釈論に云く、舎利弗は才明かにして貴まれ、目連は豪爽にして重んぜ取る、智慧相比し、徳行互に同じと。増一阿含に云く、我が弟子の中、神通軽挙にして十方に飛到する者は大目連第一なりと。釈論四十一に左面の弟子と称す。外道の師徒五百、呪を用ひて山を移す、一月日を経て簸峨として已に動ず。目連念言すらく、此山若し移らば損害する所多からんと。即ち山頂の虚空の中に於て結跏す、山還て動ぜず、外道相謂へらく、我が法山を動ずれば日を計て必らず移る、云何ぞ安固にして還て初の若くなる。必らず是れ沙門の爾かせしむるのみと。自ら力の弱きを知て心を仏道に帰す、無量の人をして正法に出家せしむるなり。難陀・跋難陀の兄弟、須弥の辺の海に居す、仏常に空を飛んで忉利宮に上る、是龍瞋恨すらく、云何ぞ禿人、我が上より過ぐるかと、後時仏の天に上らんと欲するに、是龍、黒雲闇霧を吐き三光を隠翳す、諸の比丘咸な之を降さんと欲す。仏聴したまはず。目連の云く、我れ能く是龍を降さんと。龍は身を以て須弥を遶ること七匝、尾は海水を挑げ頭は山頂に枕す、目連は倍して其身を現じ、山を遶ること十四匝、尾は海外に出で頭は梵宮を枕す。是龍の瞋盛にして金剛砂を雨らす、目連は砂を変じて宝花と為し、軽軟にして愛す可し、猶ほ瞋り已まず。目連化して細身と為り、龍の身内に入り、眼より入り耳に出で、耳より入り鼻に出で、其身を鑚齧す、即ち苦痛を受け其心乃ち伏す。目連、巨細の身を摂して沙門の像を示す、是二龍を将ひて仏所に来至す、調達は五百の比丘を引て己が徒衆と為す、目連は之を厭へて眠り大に熟せしむ、鼾吼雷鳴し下風声を出す、瞿伽離の脚を以て之を蹋むに、猶ほ故らに寤めず。身子は法を説て五百人の心を廻らし、目連は手もて擎て将き還て僧和合するを得。雑阿含二十九に、仏舎衛に在して十五日に戒を説きたまふに、仏黙然として言はず。阿難、四たび請ひたてまつる。仏の言く、衆清浄ならざれば、吾れ今復戒を説かず、汝、上座の若しは持律の者、誦戒の者をして唱へしむ可しと。目連尋で定に入り誰か不清浄なるかを観ずるに、馬師・満宿の二比丘を見る、即ち手もて執へ牽き出して門を閉づ、更に仏の説を請ひたてまつる。仏の言く、吾れに二言無し、今復自ら戒を説かずと。目連云く、衆清浄ならざれば、我れも亦復維那と為らざるなりと。耆域、此には固活と翻ず、忉利天に生ず、目連の弟子病む、通に乗じて往て問ふ、諸天の園に出でて遊戯するに値ふ、耆域車に乗て下りず、但だ掌を合するのみ。目連之を駐む。域即ち云く。諸天の受楽は忽遽にして相看るに暇あらず、尊者は何の求むる所をか欲すと。具さに来意を説く。答へて云く、食を断つを要と為すと。目連之を放つに車乃ち前むことを得たり。帝釈、修羅と戦ひて勝ち得勝堂を造る、七宝の楼観、荘厳奇特なり。梁柱の支節、皆一の綖を容れ相著かずして能く相持す、天福の妙力能く此の如し。目連飛で往くに、帝釈は目連を将ひて堂を看せしむ。諸の天女は皆目連を羞て悉く隠逃して出でず。目連念ずらく、帝釈は楽に著して道本を修せずと。既ち変化して得勝堂を焼くに赫然として崩壊す。仍ほ帝釈の為めに広く無常を説く。帝釈歓喜す。後ち堂儼然として灰煙の色無し。又絡嚢に五百の羅漢を盛ること前に説くが如し。如来の梵声は深遠にして遠くに聴くに仏辺の如くにして異ならず、目連、仏声の遠近を知らんと欲し、極めて去ること遠遠なるに、猶ほ近く聞くが如し。仍ほ神力を用ひ、飛んで西方恒河沙の土を過ぎて釈師子の声を聞くに、本の如く異ならず、去り去て已まず、神力尽き身疲る、正に他方の大衆の共に食するに値ふ。仍ほ鉢の縁の上に息して経行す。彼人驚怪すらく、此人頭の虫は何処より来るかと。彼仏の言く、此れは是れ東方無量の仏土に仏有り、釈尊と名く、神足第一の弟子、声を尋ねて此に極る、虫には非るなりと。涅槃に云く。仏の侍者を求むる、心は阿難に在り、東日の西壁を照すが如し云云。

 [121]教に約して神通を論ずれば、四禅に依りて十四変化す、観練熏修、十一切無漏の事禅に依て能く十八変を作す、此れ即ち初教の中の神通なり。空に依て慧を起し、空慧の心を以て諸の神通を修するは、即ち通教の中の神通なり。次第に三諦に依て神通を習得し、展転して深く入り二乗に過ぐるは即ち別教の神通なり。実相に依て得る所の神通は、二相を以てせずして諸仏の土を見たてまつる、真より応を起し、真際を動ぜずして十法界に遍ず、是れ則ち円教の神通なり云云。往昔曾て辟支仏を助けて頭を剃り袈裟を浣ひ染め、縫ひ、神通を得んことを発願す云云。

 [122]本迹とは、本は真際首楞厳定に住す、能く一念に於て遍ねく十方に応じ、種種に示現して仏事を施作す、慈悲を以ての故に、迹に五味の神通を為し引て極に入らしむ云云。

 [123]観心とは、一心を観ずるに欻ち一切心有り、一切心を観ずるに倏ち諸心無し、心に有無無くして通じて実相に至るは即ち神通観なり。

 [124]摩訶迦旃延、此には翻じて文飾と為す、亦肩乗といふ。人云く、字誤なり、応に扇縄と言ふべしと。亦好肩といふ、亦柯羅と名く、柯羅、此には思勝と翻す、皆姓に従へて名と為す増一阿含に云く、善く義を分別して道教を敷演するもの、迦旃延最も第一なりと。長阿含に云ふが如し、外道有り、断見を執して他世無しと謂ふ。凡そ十番の問答有り、外道の言く、他世有ること無しと。答へて言く、今の日月は天と為んや人と為んや、此世他世と為んや。若し他世無ければ則ち明日無しと。又問ふ、我れ人の死するを見るに還らず、云何ぞ其苦を受くることを説かん、故に知ぬ、他世無しと。答へて云く、罪人の駐めらるるが如し、寧んぞ帰ることを得んやいなやと。又問ふ、若し天に生ぜば何が故ぞ帰らざる、故に知ぬ、他世無しと。答へて云く、人の厠に堕して出ることを得るが如き、寧んぞ肯て更に厠に入らんやいなや。又天上の一日は此の百年に当る、彼に生じて三五日、未だ帰心には遑あらず、設ひ帰る者有れども、而も汝已に化せん、寧んぞ之を知ることを得んやと。又問ふ、我れ鑊に罪人を煮、密かに其上を蓋ふ、之を伺ふに神の出るを見ず、故に知ぬ、他世無しと。答へて云く、汝昼眠る時、傍の人辺に在て汝が神の出るを見るやいなやと。又問ふ、我れ死人の皮を剥ぎ肉を臠ぎ骨を砕て神を求むるに得ず、故に知ぬ、他世無しと。答へて云く、小児の薪を析て寸寸に分裂して火を求むるが如き寧んぞ得可きこと有らんやいなやと。又問ふ、我れ死人を秤るに更に重し、若し神去らば応に軽かるべし、若し神去ること無ければ則ち他世無しと。答へて云く、火と鉄と合すれば鉄則ち軽し、鉄火を失すれば則ち重きが如し、人生れて神有れば則ち軽く、死して神を失すれば則ち重しと。又問ふ、我れ死に臨む人を見て反転して神を求むるに得ず、故に知ぬ、他世無しと。答へて云く、人反転して貝声を求むるが如き、寧んぞ声を得んやと。又問ふ、汝種種に破すと雖も、我れ此を執すること甚だ久しくして、捨すること能はずと。答へて云く、人の穭を探るが如き、初めに麻を見て麻を取り、次に麻を捨てて麻皮を取り、次に麻皮を捨てて縷を取り、次に縷を捨てて布を取り、次に布を捨てて絹を取り、次に絹を捨てて銀を取り、次に銀を捨てて金を取り、劣を捨てて勝を取る、云何ぞ捨すること能はざるやと。又問ふ、但だ我れ是の如く説くのみに非ず、諸人も亦是の如く説く、云何ぞ我れを謂て非と為すと。答へて云く、両の商人あって鬼に逢ふ、鬼。人の像と為り語て言く、前路米豊かに草足る、之を載て何かせんと。一の商人は便ち棄つ、前路にして人牛皆飢へ、遂に鬼の為めに噉はる。一の商人の云く、若し新米草を得ば故米草を棄つべし、人牛皆鬼の為めに食はれずと、諸人の妄説は鬼の誑言の如し、汝我が言を納れざるは故米草を棄るが如し、今既に新しきを得たり、何ぞ故きを棄てざると。又問ふ、我れ捨ること能はず、我れに勧むれば則ち瞋らんと。答へて曰く、汝は猪を養ふ人の路上に糞に遇ひ、頭に擎げ将て還る、路に在て雨に逢ひ汁下て頭を汚す、傍人棄てしめんに倒て更に他を瞋る。汝猪を養はざる故に、我をして棄てしむと謂ふが如く、反て勧むる者を瞋ると、是の如く番番析破して広く諸義を演ぶ。外道便ち伏して讃歎して言く。尊者前に日月を説く、而して我れ已に解す、智辯を聞かんと欲するが故に番番に執難す、善い哉妙説すと、迦旃延の善く義を論ずる相も亦復是の如し。律の中に云く、善能く教化して戒に帰せしめ、屠をして夜戒を受け、婬者をして昼戒を受けしむ、後に報を受くる時、各各昼夜に於て前の楽相を見ると云云。又世典婆羅門五百の釈に語るらく、能く我れと論ぜんやいなやと。五百の釈の言く、瞿蜜釈と云ふものあり、国中に黠無く聞無く言語醜拙なり、周利槃特といふもの有り、出家の中に於て亦下たる者なり、汝能く此二人と論じて勝たば、我れ汝に能き名を与へんと。世典思惟すらく、此二人に勝たば尚む可きに足るもの無し、脱し如かずんば甚だ屈辱と為すと。後時、路に於て槃特に遇ふ、問ふ、何んが名くと。答ふ、汝当に義を問ふべし、何ぞ労て名を問ふと。又問ふ、汝は能く我れと義を論ぜんやと。答ふ、我れ能く梵王と論ず、況んや汝盲にして目無き者をやと。又問ふ、盲即ち目無し、目無きとは即ち盲なり、豈に煩重に非ずやと。周利は十八変を作す、即ち云く、此人但だ能く飛変して更に義を解せずと。迦旃延天耳をもて遙に聞き、即ち槃特を隠して身を示すこと彼の如くし、空より下て問ふ、汝何等と字くと。答ふ、男丈夫と字くと。又問ふ、男は即ち丈夫、丈夫は即ち男なり、豈に煩重に非ずやと。世典答ふ、止なん止なん、此雑論を置きて深義を論ずべしと。問ふ、頗し法に依らずして涅槃ぞ得るやと。答ふ、五陰の法に依らずして能く涅槃を得と。又問ふ、五陰は何に依て生ずるや、答ふ、愛に因て生ず。又問ふ、云何が愛を断つやと。答ふ、八正道に依て即ち能く愛を断つと。世典此れを聞て遠塵離垢す、例して皆此の如し。

 [125]教に約して義を論ぜば、無常・苦・空・無我に依て断常の見等を破するは、是れ初教の論義なり。空無所有不可得に依て断常の愛見を破するは、通教の論義なり。故に天女の云く、我れに所得無し、故に辯ずること此の如しと。総持の四辯に依て機を観じ仮を照らし、薬を以て病に逗じて断常の見を破するは、是れ別教の論義の相なり。実相の畢竟有ならず無ならざるに依て断常見を破するは、是れ円教の論義なり。

 [126]本迹に約せば、本は福徳智慧二種の荘厳に住して能く問ひ能く答ふ、衆生を愍まんが為めに、迹に五味の論義師と為るのみ。

 [127]観心とは、観智は境を研き境は智を発す、智境往復するは即ち観心の論議なり。

 [128]阿㝹楼駄、亦阿那律と云ふ、亦阿泥盧豆といふ、皆梵音の奢切のみ、此には 無貧、亦は如意、亦は無猟と翻ず。名なり。昔 飢世に於て、辟支仏に稗飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり、故に無貧と名く。姓は劫初に大水に風吹て結構し、以て世界を成ず。光音天、命尽き、化生して人と為る、身に光有り、飛んで而も行く、歓喜を食と為し、男女の尊卑無し、衆と共に中に生れば、呼んで衆生と為す。自然の地味は味はひ醍醐の如く。色は生蘇の如く、甜きこと蜜の如し、多く食すれば光を失し、憔悴して飛ぶこと能はず、少しく食するものは猶ほ光沢あり、便ち勝負有り、遂に相ひ是非し地味を失ふことを致す、自然の地皮を食し転た相ひ軽慢す、皮を失ひ地膚を食ひ転た諸悪を生ず、膚を失ひ自然の粳米を食ふ、米を食へば則ち男女の根生じ、遂に夫婦と為る。羞るが故に舎を造り、多く儲へ米を取る、後に米に糠●85を生じ、刈り已て生ぜず、枯株現ず、更に相ひ盗奪して、遂に一りの平能者を立て田主と為して諍訟を理む、是れを民主と為す。民主に子有り珍宝と名く、珍宝に子有り好味と名く、始め民主草創より後金輪相ひ継ぎ、善思に迄至る、懿摩より浄飯に至る四世は是れ鉄輪なり、合して八万四千二百一十王有り。十二遊経に云く、久遠劫に王有り、早く父母を失ひ、国を以て弟に付して一の婆羅門に事ふ。婆羅門の言く、汝当に王衣を解き瞿曇の姓を体すべしと。因て之に従ふ。時人号して小瞿曇と為す、甘蔗園に住す、賊の他物を盗んで園より過ぐ、賊を捕へて迹を尋ね小瞿曇を執ふ、木もて貫き之を射るに血流れて地を汚す、大瞿曇悲哀して、血土を収めて園に還る、器に盛り左右に置き之を呪す、此瞿曇、若し誠心ならば、天神血を変じて人と為らんと、十月を逕て左は男と為り右は女と為る、是れより瞿曇を姓とすと。瞿曇、此には純淑と言ふ、亦舎夷と名く、舎夷とは貴姓なり。仁賢劫の初め、当宝如来出世す、時に瞿曇の識神始めて託生す、若し此意を尋ぬれば、民主より已来、即ち瞿曇を姓とす。懿摩王より四子あり、一は面光、二は象食、三は路指、四は荘厳なり、猜まれて雪山の北直樹林の中に徙る、国人楽び従ふ者市の如し、鬱として強国と為る。父王歎じて曰く、我が子能有りと、四子此れに因て姓と為す。又其地に釈迦樹甚だ茂れば、此には直林と翻ず、既に林に於て国を立つれば即ち林を以て姓と為す、外国の語は多含なり。釈迦は亦は直、亦は能といふ。今浄飯の承る所は荘厳王の後を承く、荘厳は即ち是れ烏頭、烏頭は烏頭羅を生ず、鳥頭羅は尼求羅を生ず、尼求羅は尸休羅を生ず、尸休羅は即ち師子頬なり、師子頬は三飯を生ず。斛飯に二子あり、長を摩訶男と名く、季は阿那律なり、乃ち是れ浄飯王の姪児なり。斛飯王の次子は世尊の堂弟、阿難の従兄、羅云の叔なり。聊爾の人に非るなり。故に周公歎じて曰く、我れは是れ文王の子、武王の弟、成王の叔にして、天下に於て賤人に非るなりと。而して沐するに三び握り餐するに三び吐く、礼賢尚ほ爾り、況んや余人をや。賢愚経に云く、弗沙仏の末法の時世飢饉なり、支仏有り利吒と名く、乞を行じ鉢を空ふして獲ること無し、一貧人有り、見て悲悼す、白して言さく、勝士能く稗を受けんやいなやと、即ち噉ふ所なるを以て之を奉ず、食し已て十八変を作す、後に更に稗を採るに、兎有て跳んで其背を抱くに変じて死人と為る、伴の脱を得る無く闇を待て家に還る、地に委するに即ち金人と成る、指を抜くに随て生じ、脚を用ふるに更に出で、之を取るに尽ること無し、悪人悪王、来て之を奪はんと欲するに但だ死尸を見るのみ、而して其覩る所は純ら是れ金宝なり、九十一劫にして果報充足す、故に無貧と号す。其生じて已後は家業豊溢なり、日夜に増益す、父母之を試さんと欲して、空器の皿を蓋ひ、往き送て発き看るに百味具足す、而して其門下日日常に一万二千人有り、六千は債を取り、六千は直を還す。出家已後、至る所の処に随て人見て歓喜す、須ふる所有らんと欲せば、己が家の如く異なること無し。阿那律、精進すること七日七夜、眼睫交らず、眠は是れ眼の食なり、既に七日眠らざれば眼は則ち睛を喪ふ、肉眼を失し已れば、仏は天眼を求めしめたまふ、念を繋けて縁に在り、四大の浄色半頭にして発す、障の内外に徹し明闇悉く覩る。梵王に対へて曰く、吾れ釈迦の大千世界を見ること掌果を覩るが如しと。増一に云く、我が仏法中に天眼徹視する者阿那律比丘第一なりと。那律既に肉眼を失す、仏と諸の比丘と恒に為めに裁縫す、仏、舎衛の拘薩羅窟に在り、仏、八百の比丘と集り、阿那律の為めに三衣を作る。仏自ら為めに舒張したまひ、諸の比丘の截つ者、縫ふ者ありて、一日に即ち成る。仏広く為めに出家の受衣の進止共倶を説きたまひ、無量の人、道を得り。

 [129]約教とは、禅定に依て天眼を発するは凡夫外道なり、無漏の事禅に依て天眼を発するは三蔵の義なり。体法の無漏の慧に依て諸行を発し、諸行に依て天眼を発するは通教の意なり。散善に依て肉眼を発し、定に依て天眼を発し、真に依て慧眼を発し、俗に依て法眼を発し、中に依て仏眼を発するは別教の意なり。実相に依て天眼を発し、天眼は即ち仏眼たるは円教の意なり。又散善に依て肉眼を修し、定に依て天眼を修するは三蔵の意なり。空に依て肉限天眼を修するは是れ通の意なり。次第に五眼を修するは是れ別の意なり。不次第に五眼を修するは是れ円の意なり。

 [130]本迹とは、本は実相の真の天眼に住し、二相を以てせずして諸仏の国を見たてまつる。迹に半頭の天眼を示す。

 [131]観心とは、因縁生の善心を観ずるは即ち肉眼なり、因縁生の心空を観ずるは即ち天眼なり、因縁生の心仮を観ずるは即ち法眼なり、即中は即ち仏眼なり云云。

 [132]劫賓那とは此には房宿音秀と翻ず、父母房星に祷て子を感ず、故に房星を用ひて以て生身に名くるなり。是比丘初めて出家して未だ仏を見たてまつらす、始めて仏所に向ふ夜、雨に値て陶師の房中に寄宿し、草を以て座と為す、晩に又一比丘亦寄宿し、後に随て来る、前の比丘即ち草を推して之に与へ地に在て坐す、中夜に相ひ問ふ、何所にか之かんと欲すと。答ふ、仏を覓むと。後の比丘即ち為めに法を説く。辞は阿含に在り、検取すべし。豁然として道を得たり。後の比丘は即ち是れ仏なり、仏と共に房宿音夙して法身を見ることを得たり、得道の処に従へて名と為す、故に劫賓那と言ふ。毘沙門、蓋を持して賓那の後に随ふ、毘沙門は是れ宿の主、主既に侍奉す、星宿も亦然り、此比丘は善く星宿を占ひ明かに図像を識る、解に従へて名を得、劫賓那と名く。増一阿含に云く、我が仏法中に善く星宿日月を知る者は劫賓那比丘第一なりと。

 [133]約教とは、根塵の舎を析破して、仏と同じく真諦の房に棲むは是れ三蔵の意なり、根塵を体達して、即ち如来と共に同じく真諦の房に宿るは是れ通教の意なり。十法界の根塵房舎を分別して、悉く仏を見たてまつることを得るは是れ別教の意なり。一の根塵の房舎に於て即ち一切の房舎を見、一切の仏を見るは、即ち円教の意なり。

[134]本迹に約せば、本は如来と同じく実相に棲む、迹に諸の房宿を示すのみ。

[135]観心とは、五陰の舎の析空即空を観ずるは化仏と同じく宿す、五陰の舎の即仮を観ずるは報仏と同じく宿す、五陰の舎の即中を観ずるは法仏と同じく宿するなり云云。