[1]四に広く境を釈するに、又た二と為す。一には諸境を釈し、二には諸境の同異を論ず。境を釈するに六と為す。一には十如の境、二には因縁の境、三には四諦の境、四には二諦の境、五には三諦の境、六には一諦の境なり。

 [2]然るに衆経に、縁に赴きて境を明すこと甚だ衆し。豈に具さに載す可けんや、略して六種を挙ぐ。

 [3]六種の次第とは、十如是は此の経の所説なり、故に初に在り。次に十二因縁は、三世の輪廻は本より来た具さにあり。如来、出世して分別して巧みに示したまふに四諦の名興る。広より略に至る。次に二諦を辨ず。二諦の語通ず。別して中道を顕はす。次に三諦を明す。三諦は猶ほ方便を帯すれば直ちに真実を顕はす。次に一諦を明す。一諦は猶ほ名相あれば、次に無諦を明す。始め無明より終り実際に至る、略して六種を用ふるに足りぬ。

 [4]一に十如の境を明すに、已に前に説くが如し云云。

 [5]二に因縁の境を釈するに、又た四と為す。一には正釈、二には麁妙を判じ、三には麁を開して妙を顕はし、四には観心なり。正釈を又た四と為す、一には思議生滅の十二因縁を明し、二には思議不生不滅の十二因縁を明し、三には不思議生滅の十二因縁を明し、四には不思議不生不滅の十二因縁を明す。思議両種の因縁は、利鈍の両縁の為に界内の法を辨ずるなり。中論に云はく、「鈍根の弟子の為に、十二因縁生滅の相を説く」と。此は外道に簡異す。外道は邪に諸法は自在天より生ずと謂ふ。或は世性と言ひ、或は微塵と言ひ、或は父母と言ひ、或は無因と言ふ。種種に邪推すれども、道理に当らず。此の正因縁は邪計に同じからず。唯だ是れ過去の無明、顛倒の心中に諸行を造作して能く今世の六道の苦果を出すに、好悪同じからず。正法念に云はく、「画人、五彩を分布して一切の形に図するに、端正醜陋称げて計ふ可からず。其の根本を原ぬるに、画手より出づ」と。六道の差別は、自在等の作に非ず、悉く一念の無明心より出づ。無明と上品の悪行の業と合して即ち地獄の因縁を起すこと、黒色を画き出すが如し。無明と中品の悪行の業と合して畜生道の因縁を起すこと、赤色を画き出すが如し。無明と下品の悪行と合して鬼道の因縁を起すこと、青色を画くが如し。無明と下品の善行と合して即ち修羅の因縁を起すこと、黄色を画くが如し。無明と中品の善行と合して即ち人の因縁を起すこと、白色を画くが如し。無明と上品の善行と合して即ち天の因縁を起すこと、上上の白色を画くが如し。当に知るべし。無明と諸行と合するが故に、即ち六道の名色・六入・触・受・愛・取・有・生老病死等あり、上中下に随つて差別同じからず。人天の諸趣の苦楽は万品なり。生を以て死に帰し、死し已つて還つて生ず。三世盤迴し、車輪旋火の如し。故に経に云はく、「有河洄澓して衆生を没す、無明に盲ひられて出づること能はず」と。経に又た称して十二牽連と為す。更に相ひ拘帯すればなり。亦た十二重城と名け、亦は十二棘園と名づく。此の十二因縁は新新に生滅し、念念に住せず、故に生滅の十二因縁と名くるなり。料簡せば、纓珞の第四に云はく、「無明、行を縁として十二を生じ、乃至、生、老死を縁として亦た十二を生ず」と。是れ即ち一百二十の因縁なり。初は是れ癡なれば、乃至、老死も亦た是れ癡なり。不覚の故に癡なり。初も亦た不覚なれば、老死に至るまで亦た不覚なり。癡の故に生じ癡の故に死す。若し能く因縁を覚すれば、因縁即ち行ぜず。癡、行ぜざるが故に則ち将来の生死尽くるを名けて黠と為す、黠は即ち道に随ふ。又た十二縁起と十二縁生と、同とせんや異とせんや。此れ同じく是れ一切有為の法なるが故に、異なること無し。亦た差別あり、因は是れ縁起、果は是れ縁生なり。則ち二は縁起、五は縁生、三は縁起、二は縁生なり。又た無明は是れ縁起、行は是れ縁生、乃至、生は是れ縁起、老死は是れ縁生なり。又た四句あり、縁起にして縁生に非ざるは、未来の二支の法是れなり。縁起にして縁生に非ざるは、過去の二支、現在の阿羅漢の最後の死陰是れなり。縁起にして縁生なるは、過去と現在の羅漢の死の五陰を除いて諸余の過去現在の法是れなり。縁起に非ず縁生に非ざるは、無為の法是れなり。法身経に説かく、「諸の無明は決定して行を生じて相ひ離せず、常に相ひ随逐す、是を縁起にして縁生に非ずと名く。若し無明にして生行を決定せずして、或時は相離して相ひ随はず、是を縁生にして縁起に非ずと名く。乃至、老死も亦た是の如し」と。尊者和須密の説かく、「因は是れ縁起、因より生ずる法は是れ縁生なり。和合は是れ縁起、和合より生ずるは是れ縁生なり」と。十二因縁支は、二は是れ過去にして則ち止だ常なり。二は是れ未来にして則ち止だ断なり。現在は則ち中道を顕はす。現の三因を推して則ち未来の二果を説き、現在の五果を推して則ち過去の二因を説く。三世に皆な十二支あり、因果を推すが為の故に是の如きの説を作す。十二時とは、無明は是れ過去の諸結の時なり。行は、是れ過去の諸行の時なり。識とは、相続の心及び眷属の時なり。名色とは、已に生を受けて相続すれども、未だ四種の色根を生ぜず、六入未だ具はらざるなり。一には歌邏羅、二には阿浮陀、三には卑尸、四には伽那、五には波羅奢訶、是の如き等の時を名色と名く。六入は已に四種の色根を生じて六入を具足すれども、此の諸根未だ能く触の為に所依と作らず、是の時を六入と名く。此の諸根已に能く触の為に所依と作れども、未だ苦楽を別たず。危害を避くること能はずして、火を捉へ毒に触れ刃と不浄とを把る、是の時を触と名く。能く苦楽を分別して危害等を避け、能く貪愛を生ずども婬欲を起さず、一切の物に於て染著を生ぜず、是の時を受と名く。上の三受を具する、是の時を愛と名く。境を貪ぼるを以つての故に四方に追求す、是の時を取と名く。追求の時、身口意を起す、是の時を有と名く。現在の識の未来に在るが如き、是の時を生と名く。現在の名色・六入・触・受の未来に於けるが如き、是の時を老死と名く。一刹那の十二縁とは、若し貪心を以て殺生するに、彼の相応の愚は是れ無明なり。相応の思は、是れ行なり。相応の心は、是れ識なり。有作の業を起さば、必ず名色あり。有作の業を起さば、必ず六入あり。彼の相応の触は、是れ触なり。彼の相応の受は、是れ受なり。貪は、即ち是れ愛なり。彼の相応の纏は、是れ取なり。彼の身口の作業は、是れ有なり。此の如きの諸法生ずるは、是れ生なり。此の諸法変ずるは、是れ老なり。此の諸法壊するは、是れ死なり。問ふ、何んぞ病を説きて友と為さざるや。答ふ、一切の時、一切の処に尽く有る者を支と立つ。自ら人の生より病無きものあり、薄拘羅の如きは生来頭痛を識らず、況んや余病をや、是の故に立てず。問ふ、憂悲は是れ支なりや否や。答ふ、非なり。終を以て始めを顕はす耳、老死の必ず憂悲するが如し。問ふ、無明に因ありや否や、老死に果ありや否や、若し有らば応に是れ支なるべし、若し無くんば則ち無因果の法に堕せん。答ふ、有れども而も支に非す。無明に因あり、不正思惟を謂ふ。老死に果あり、憂悲を謂ふ。又た無明に因あり、老死を謂ふ。老死に果あり、無明を謂ふ。現在の愛取は、是れ過去の無明なり。現在の名色・六入・触・受、此の四若し未来に在らば老死と名く。受は愛に縁たりと説くが如き、当に知るべし、老死は無明に縁たりと説くことを。猶ほ車輪の如し、更に互に相ひ因るなり。欲界の胎生の者は十二支を具す。色界の者は、十一にして名色無きなり。無色界に十あり、名色と六入を除く。又た言はく、具さに有りと。色生の初生の諸根未だ猛利ならざる時、是を名色と名く。無色界には色無しと雖も、而も名あり。当に知るべし、悉く十二支を具することを。問ふ、無明と行と取・有と何の異りある。答ふ、過現と新故と、已に果を与ふると、未だ果を与へざる等の異りあり。

 [6]二に思議不生不滅の十二とは、此は巧を以て拙を破す。中論に云はく、「利根の弟子の為に、十二の不生不滅を説く」と。癡は虚空の如く、乃至、老死も虚空の如し。無明は幻化の如し、不可得なるが故に。乃至、老死も幻化の如く不可得なり。金光明に云はく、「無明の体相は本と是れ有ならず、妄想の因縁和合して而も有り。不善の思惟、心行の所造なり」と。幻師の四衢の道に在りて、種種の象馬纓珞人物等を幻作するが如し。癡は真実と謂へり、智は真に非ずと知る。無明は六道の依正を幻出す。当に知るべし、本と自ら有ならず、無明の所為なることを。藤は本と蛇に非ずと知つて、則ち怖心生ぜず、生ぜざるが故に滅せざるが如し。是を思議不生不滅の十二因縁の相と名くるなり。

 [7]三に不思議生滅の因縁とは、小を破して大を明す。利鈍の両縁の為に、界外の法を説くなり。華厳に云はく、「心は工なる画師の如く、種々の五陰を作る。一切世間の中に、心より造られずといふこと莫し」と。画師は即ち無明の心なり、一切世間とは即ち是れ十法界の仮実国土等なり。諸論に明さく、心、一切の法を出すに同じからずと。或は「阿黎耶は是れ真識にして一切の法を出す」と言ひ、或は「阿黎耶は是れ無没識なり、無記無明にして一切の法を出す」と言ふ。若し定んで性実を執すれば、冥初に覚を生じ、覚より我心を生ずといふ過に堕せん。尚ほ界内の思議の因縁を成ぜず、豈に界外の不思議の因縁を成ずることを得んや。惑既に不思議の境に非ず、惑を翻ずるの解、豈に不思議の智を成ずることを得んや。此を破すること、止観の中に説くが如し。今明さく、無明の心は自ならず他ならず、共ならず、無因ならず。四句皆な思議すべがらず。若し四悉檀の因縁あるときは、亦た説くことを得べし。四句に夢を求むるに不可得なれども、而も夢の中に一切の事を見ることを説くが如し。四句に無明を求むるに不可得なれども、而も無明より界内外の一切の法を出す。界内の十二因縁を出すことは、前に説くが如し。界外の十二因縁を出さば、宝性論に云ふが如し。「羅漢支仏の空智は、如来の身に於て本より見ざ所なり。二乗はる無常等の四の対治ありと雖も、如来の法身に依るに復た是れ顛倒なり。顛倒の故に、即ち是れ無明なり。無漏界の中に住するに、四種の障あり。謂はく、縁と相と生と壊となり」。縁とは、無明住地、行の与に縁と作るを謂ふなり。相とは、無明、行に共じて因と為るなり。生とは、無明住地、無漏の業因に共じて三種の意生身を生ずるを謂ふなり。壊とは、三種の意生身の不可思議を縁ずる変易の死なり。還た界内の十二因縁の無明より老死に至るが如きなり。縁とは、即ち無明支なり。相とは、行支なり。生とは、即ち名色等の五支なり。愛・取・有の三支は前に例して知んぬ可きなり。壊とは、即ち生死支なり。此の十二支、数は界内に同にして義意は大いに異なり。彼の論に云はく、「三種の意生身未だ無明の垢を離るゝことを得ざれば、未だ究竟の無為の浄を得ず。無明の細戲論未だ永く滅せざれば、未だ究竟の無為の浄を得ず。無明の細戯論の集因と無漏業生の竟陰未だ永く滅せざれば、未だ無為の楽を得ず。煩悩染と業染と生染と未だ究竟して滅せざれば、未だ甘露究竟の常を証せず。縁の煩悩道を以つての故に、大浄を得ず。相の業道を以つての故に、八自在我を得ず。生の苦道を以つての故に、大楽を得ず。壊の老死を以つての故に、不変易の常を得ざるは不思議生滅の十二因縁に由るなり。是を界外の不思議生滅の十二因縁の相と為す云云。

 [8]不思議不生不滅の十二因縁とは、利根の人の為に事に即して理を顕はすなり。大経に云はく、「十二因縁を名けて仏性と為す」とは、無明・愛・取は既に是れ煩悩なり、煩悩道は即ち是れ菩提なり。菩提通達して復た煩悩無し。煩悩既に無ければ、即ち究竟じて浄なるは了因仏性なり。行・有は是れ業道にして、即ち是れ解脱なり。解脱自在なるは、縁因仏性なり。名色・老死は是れ苦道にして、苦は即ち法身なり。法身は無苦無楽なり、是を大楽と名く。不生不死にして是れ常なるは、正因仏性なり。故に言はく、「無明と愛と是の二の中間は、即ち是れ中道なり」と。無明は是れ過去、愛は是れ現在、若は辺、若は中、仏性に非ざること無し。並びに是れ常楽我浄なり。無明は生ぜず、亦復た滅せず。是を不思議不生不滅の十二因縁と名くるなり。

 [9]二に麁妙を判ぜば、因縁の境は麁妙に当らず。之を取るに浅深あつて、差降あることを致す耳。

 [10]若し無明より諸行乃至老死を生ず。三より二を生じ、二より七を生じ、七より三を生じ、更互に因縁となる。煩悩と業との因縁、業と苦との因縁により無常生滅す。中論には、此は鈍根を教ふるの法と判ず。涅槃には半字を慇懃にすと称す。此の経には、但だ虚妄を離るゝを名けて解脱と為す。故に知んぬ、此の境は則ち麁なることを。

 [11]若し無明の体相は本と自ら有らず、妄想の因縁和合して有りといはば、境既に幻の如く智も亦た得叵し。経に言はく、「若し一法の涅槃に過ぐるあるも、我れ亦た幻の如しと説く」と。中論には、利根を教ゆと明し。涅槃には、長者、毘伽羅論を教ゆと称す。大品には、名けて如実の巧度と為し、此の経には、小樹と名く。斯の境は則ち巧なり。

 [12]若は無明は是れ縁なり、縁に従つて相を生じ、相に従つて生あり。生に従ふが故に壊す、縁を滅するが故に浄なり、相を除くが故に我なり、生を尽すは則ち楽なり、壊無きが故に常なり。中論に云はく、「因縁生の法亦は名けて仮名と為す」と。大品には、十二因縁は独菩薩の法と称す。涅槃には、無明を滅するに因りて則ち熾燃を得と称す。此の経には、「則ち是れ大樹にして増長することを得」と。前に比すれば妙と為し、後に方ぶれば麁と為す。

 [13]若し無明三道は即ち是れ三徳と言はば、須らく三徳を断じて更に三徳を求むべからず。中論に云はく、「因縁所生の法、亦は中道の義と名く」と。大品には説く、「十二因縁、是を座道場と為す」と。涅槃に云はく、「無明と愛と是の二の中間は即ち是れ中道なり」と。此の経には、「仏種は縁より起る、是の故に一乗を説く、亦は最実事と名く」と。豈に妙なるに非ず耶、前の三は是れ権なり、故に麁と為す。後の一は是れ実なり、故に妙と為す。

 [14]此の麁妙を用ひて五味の教に歴れば、乳教は二種の因縁を具して一麁一妙なり。酪教は、一麁なり。生蘇は、三麁一妙なり。熟蘇は二麁一妙なり。法華は、但だ一妙を説く。是を麁の因縁に待して、妙の因縁を明すと名くるなり。

 [15]三に麁を開して妙を顕はすとは、経に「我法は妙にして思ひ難し」といふが如し。前の三は皆な是れ仏法なり、豈に思議の麁ありて、不思議の妙に異ならんや。文字を離れて、解脱を説くの義無し。秖だ思議を体するに、即ち不思議なり。譬へば長者、盆器米麵を引きて窮子に給与して窮子の物と成すに、若し天性を定むれば窮子は復た客作の人に非ず、盆器家に還る安んぞ是れ他物ならんといふが如し。如来は不思議に於て方便して麁と説く、何んぞ麁と保して妙に異にすることを得んや。今声聞の法を決了するに、是れ諸経の王なり。即ち是れ両の因縁を開して、即ち妙を論ず。又た大経に、「諸の声聞の為に慧眼を開発す」と云ふは、昔の慧眼は但だ空を見て不空を見ず。今、慧眼を開せば即ち不空を見る、不空は即ち仏性を見るなり。故に云はく、「慧眼をもつて見るが故に了了ならず、仏は仏眼を以つて見れば則ち了了なり」と。此れ即ち菩薩の慧眼を決して、第三の因縁を開す。即ち絶待に妙を論ずるなり。

 [16]四に観心とは、一念の無明即ち是れ明なりと観ず。大経に云はく、「無明明とは、即ち畢竟空なり」と。空慧をもつて無明を照せば、無明即ち浄なり。譬へば、人ありて賊ありと覚知すれば、賊能く為すこと無きが如し。既に無明の為に染せられざれば、即ち是れ煩悩道浄し。煩悩浄きが故に則ち業無し。業無きが故に縛無し。縛無きが故に是れ自在の我なり。我既に自在なれば、業の為に縛せられず。誰か是の名色・触・受を受けん、受無ければ、則ち苦無し。既に苦陰無ければ、誰か復た遷滅せん、即ち是れ常の徳なり。一念の心、既に十二因縁を具す。此の因縁を観じて、恒に常楽我浄の観を作さば、其の心、念念に秘密蔵の中に住せん。恒に此の観を作すを聖胎に託すと名け、観行純熟すれば胎分成就す。若し無明を破すれば、聖胎を出づと名く云云。

 [17]三に四諦の境を明すに四と為す、一には四諦を明し、二には麁妙を判じ、三には麁を開して妙を顕はし、四には観心なり。初に又た二あり、一には他解を出し、二には四番の四諦なり。有師解すらく、勝鬘の無辺の聖諦は、二乗の有余に対して仏の究竟を彰はす。二乗は是れ有作の四聖諦なり。作とは、有量の四聖諦なり。無作の四聖諦とは、無量の四聖諦なり。作・無作は行に就き、量・無量は法に就く。二乗、諦を観ずるに法を得ること尽さざれば、更に所作あり、故に有作と名く。法を得ること尽さざれば、則ち限量あり。経に言はく、「他に因つて知る」と。知るとは、是れ有作の行なり。「他に因つて知るは、一切知に非ず」と。無量の法を知らざるなり。故に有作、有量と言ふ。無作、無量とは、仏知には窮尽無し更に所作無きが故に無作と名く。「自力をもつて一切を知る」と。知るとは、無作の行なり。一切とは、是れ無量の法なり。此の如く釈すれば、四名を唱ふと雖も、但だ二義を成ずるのみ。今の所用に非ず。

 [18]四種の四諦とは、一には生滅、二には不生滅、三には無量、四には無作なり。其の義、涅槃の聖行品に出ず。偏円事理に約して四種の殊りを分つ。言ふ所の生滅とは、真に迷ふこと重きが故に、事に従つて名を受く。然るに苦集は是れ一法なり、因果を分ちて両を成ず。道滅も亦た然り。雑心の偈に云はく、「諸行の果性是を苦諦と説き、因性を集諦と説き、一切有漏の法究竟じて滅するを滅諦と説き、一切無漏の行を道諦と説く」と。大経に云はく、「陰入の重擔逼迫し繋縛するは是れ苦諦、見愛の煩悩の能く来果を招くは是れ集諦、戒定慧無常苦空の能く苦の本を除くは是れ道諦、二十五有の子果縛断ずるは是れ滅諦なり」と。遺教に云はく、「集は真に是れ因なり、更に別の因無し。滅苦の道は、即ち是れ真の道なり」と。此れ皆な生滅の四聖諦の相を明すなり。次第とは、麁より細に至る。苦の相は麁なるが故に先に説く。滅は真に非ずと雖も、滅に因つて真に会す、滅の相は麁なれば亦た先に説く。又た世の苦果を挙げて世の集を厭は令め、滅は能く出世の果に会ひて其をして道を欣は令めんとして、此の如きの次第を作すなり。聖とは、邪法を対破す、故に正聖と言ふなり。諦とは、三解あり云云。謂はく、自性は虚ならざるか故に称して諦」と為し、又た此の四を見て不顛倒の覚を得るが故に称して諦と為し、又た能く此の法を以て他に顕示するが故に名けて諦と為す。大経に「凡夫は苦ありて諦無し、声聞・縁覚は苦あり苦諦あり」と。当に知るべし、凡夫は聖理を見ず、智を得ず、説くこと能はず、但だ苦にして諦無し、声聞は三義を具す、故に称して諦と為すことを。此の釈は経と合するなり。

 [19]無生とは、真に迷ふこと軽きが故に、理に従つて名を得。苦に逼迫の相無く、集に和合の相無く、道は二相ならず、滅は生相無し。又た苦空なりと習ひ応ず、三も亦た是の如し。又た無生とは、生を集道に名く。集道即ち空なり、空なるが故に集道を生ぜず。集道生ぜざれば、則ち苦滅無し。事に即して而も真なり、滅して後ち真なるに非ず。大経に云はく、「諸の菩薩等は苦に苦無しと解す、是の故に苦無くして真諦あり。三も亦た是の如し。是の故に名けて無生の四聖諦と為す。聖諦の義は、前に説くが如し。

 [20]無量とは、中に迷ふこと重きが故に、事に従つて名を得。苦に無量の相あり、十法界の果同じからざるが故に。集に無量の相あり、五住の煩悩同じからざるが故に。道に無量の相あり、恒沙の仏法同じからざるが故に。滅に無量の相あり、諸の波羅蜜同じからざるが故に。大経に云はく、「諸陰の苦を知るを名けて中智と為す。諸陰を分別するに無量の相あり、諸の声聞縁覚の知る所に非ず。我れ彼の経に於て竟に之を説かず」と。三も亦た是の如し。是を無量の四聖諦と名く。

 [21]無作とは、中に迷ふこと軽きが故に、理に従つて名を得。理に迷ふを以つての故に、菩提是れ煩悩なる集諦と名け、涅槃是れ生死なるを苦諦と名く。能く解するを以ての故に、煩悩即ち菩提なるを道諦と名け、生死即ち涅槃なるを滅諦と名く。事に即して而も中、思無く念無く、誰の造作する無し、故に無作と名く。大経に云はく、「世諦は即ち是れ第一義諦なり。善方便あつて衆生に随順して、二諦ありと説く。出世の人、知れば即ち第一義諦なればなり」と。一実諦とは、虚妄無く顛倒無く常楽我浄等なり、是の故に名けて無作の四聖諦と為す。然るに勝鬘に無作の四諦を説く中、別して一の滅諦を取る。是れ仏の究竟する所、是れ常、是れ諦、是れ依なり。三は是れ無常にして諦に非ず、依に非ずといふ。何となれば、三は有為の相中に入る、故に無常なり。無常は則ち虚妄なり、故に諦に非ず。無常は則ち安ならず、故に依に非ず。滅諦は有為を離る、故に是れ常なり。虚妄に非ず、故に是れ諦なり。第一安隠なり、故に是れ依なり。故に第一義諦と名け、亦は不思議と名くるなり。達磨欝多羅は、此の義を難ず。然るに経に説かく、「仏菩提の道は三義の故に常なり。一には惑尽くるが故に常なり、二には煩悩より生ぜざるが故に常なり、三に解満ずるが故に常なり。衆流の海に帰するが如し」と。那んぞ、道諦無常と云ふや。答ふ、勝髮に此の説を作すは、前の苦滅諦は法を壊するの滅に非ず。無始無作等恒沙を過ぐるの仏法成就す。如来の法身は、煩悩蔵を雑れずと説く。苦諦隠るるを如来蔵と名け、顕はるるを名けて法身と為すと説く。二乗の空智は、四不顛倒の境界に於て、見ず知らず。今、顕説せんと欲して、一は是れ常、是れ実、是れ依と説く。対治・除障・身顕あり。故に三は常に非ず実に非ず、一は是れ常是れ実と明す耳。今、難ず。若し爾らば、一諦は顕はなれば是れ無作の諦、三諦未だ顕はれざれば無作の諦に非ずといふ。一は是れ了義、三は了義に非ず。当に知るべし、勝鬘の所説は、次第を説けば、浅より深に至り歴別にして未だ融ぜざることを。乃ち是れ無量四諦の中の無作にして、是れ発心畢竟二別ならざるの無作に非ず。涅槃に云はく、「諦あり実あり」と。当に知るべし、四種は皆な諦と称し実と称し常と称することを。

 [22]二に麁妙を判ぜば、大小乗に諦を論ずるに此の四を出でず。或は教行証、融ぜざる者を麁と為し、教融じて行証未だ融ぜざるも亦た麁なり、倶に融ずる者は則ち妙なり。若し五味に約せば、乳教の両種は、二乗並びに聞かず。大、小を隔つるを以て、則ち一麁一妙なり。酪教の一種は、大乗の用ひざる所なり。小、大を隔つるを以て根敗聾啞なり、是の故に麁と為す。生蘇教の四種は、一は三を破し、二は入らず、二一は一に入ると雖も一教融ぜず、故に三麁一妙なり。熟蘇教の三種は、一は二を破し、一は一に入る、一は一に入らず、一は一に入ると雖も教融ぜざるが故に、二麁一妙なり。醒醐教は但だ一種の四諦にして、唯だ妙にして麁無し。是を麁に待して妙を明すと為す云云。

 [23]三に麁を開して妙を顕はすとは、先に諸経の意を叙す。大品には止だ三種の四諦を明せり。文に云はく、「色即ち是れ空、色滅して空なるに非ず」とは、無生の意なり。「一切法、色に趣くに是の趣過ぎず」とは、無量の意なり。「色尚ほ得べからず、何に況んや趣あり不趣あらんや」とは、無作の意なり。中論の偈に亦た三意あり、後の両品に小乗の観法を明すは、即ち生滅の意なり。無量義に、一の中より無量を出すと明すは、是れ無作より三種の四諦を開出するなり。法華に、無量、一に入ることを明すは、是れ三種の四諦を会して無作の一種の四諦に帰するなり。涅槃の聖行には、追つて衆経を分別す、故に具さに四種の四諦を説くなり。徳王品には、追つて衆経を泯ず、倶に四種の四諦を寂するなり。文に云はく、「生生不可説・生不生不可説・不生生不可説・不生不生不可説」と。経に初の句を釈して云はく、「云何んが生生不可説なる。生生の故に生なり、生生の故に不生なり、故に不可説なり」と。若し文に依らば、但だ生不生を挙げて生生を釈す。此の生生は即ち生不生なれば、那んぞ偏へに生生と作して説く可けんや。仏、利根の人の為に、一を挙げて諸を例す。若し意を取らば、生生は即ち生不生なり、亦た即ち不生生なり、亦た即ち不生不生なり、那んぞ偏へに生生の一句を作して説く可けんや。若し此の意を得れば、下の三句も例して皆な此の如し。問ふ、仏、何が故ぞ偏釈を作したまふや。答ふ、利根の為の故なり、亦た是れ有因縁の故に、宜しく須らく此の如くなるべし。時の衆、快馬の鞭影を見て骨に徹することを俟たざるが如くなる耳。此の如く追泯するに、何の説か寂せざらん耶。或は三種の可説を麁と為し、一の可説を妙と為す。或は三の不可説を麁と為し、一の不可説を妙と為す。或は四皆な可説なるを麁と為し、四皆な不可説なるを妙と為す。或は四の可説に麁あり妙あり、或は四の不可説に麁あり妙あり。或は四の可説皆な麁に非ず妙に非ず、或は四の不可説皆な麁に非ず妙に非ず。是の如き等の種種、皆な決了して妙に入れ、権を開して実を顕はす。四皆な不可説なるは、是れ位高し。四皆な可説なるは、是れ体広し。四、亦可説亦不可説なるは、是れ用長し。四、非可説非不可説なるは、是れ非高非広非長非短非一非異なり、同じく称して妙と為すなり。

 [24]観心は知る可し、復た記せざるなり。

 [25]四に二諦を明すに、又た四と為す。一には略して諸意を迹し、二には二諦を明し、三には麁妙を判じ、四には麁を開して妙を顕はす。夫れ二諦とは、名は衆経に出でたり、而も其の理は暁り難し。世間紛紜として由来碩に諍ふ。妙勝定経に云はく、「仏、昔し文殊と共に二諦を諍ひて、倶に地獄に堕す。迦葉仏の時に至りて、共に所疑を質す」と。二聖の因地、尚ほ了すること能はず、況んや即の人情、強て去取を生ぜんや。問ふ、釈迦、迦葉に値へるは、即ち是れ二生の菩薩なり。云何んぞ、始めて二諦を解せん。爾の前、復た応に悪道に堕すべからず。答ふ、爾前の語は寛し、何ぞ必ずしも二生の前に斉つて始めて悪道より出でん。又た二生の菩薩は、将に補処に隣らんとす。補処の位多し、別円には永く此の理無し。通教の見地に已に悪道を免がる、亦た堕落すること無し。応に是れ三蔵の菩薩の二生に至るの時なるべし。猶ほ未だ惑を断ぜず、始めて二諦を解する此の義咎無し。爾の前に悪道に堕するも、亦た其の義あらん。問ふ、三蔵の菩薩に堕落ありて余の三教に無くんば、金光明経に那んぞ十地に猶ほ虎狼師子等の怖ありと云ふ耶。答ふ、悪友の為に殺さるゝときは、則ち地獄に堕す。悪象の為に殺さるるときは、地獄に堕せず。然るに円教の肉身は、一生の中に於て超えて十地に登るの義あり。此れ則ち煩悩已に破して地獄の業無けれども、猶ほ肉身ありて未だ悪獣を免れず。余教の肉身は一生の中に十地に登らざれば、唯だ行の解を作して煩悩を以つて虎狼と為す。行の解を作す者は、理に於ては則ち通ずれども、事に於ては去らず云云。然るに執する者同じからず。荘厳の旻は、仏果は二諦の外に出づるといふに拠つて、中論師の為に覈せらる。此の如きの仏智は、何の理を照し、何の惑を破す。若し別の理の照す可き無くんば、応に外に出づべからず。若し外に出でて而も別に照すこと無くんば、何に藉りてか出づることを得ん。進んで三を成ぜず、退いて二を成ぜず云云。梁の世に、成論、世諦を執すること同じからず。或は言はく、世諦には名用体皆なあり、或は但だ名用のみにして体無し、或は但だ名のみありて体用無しと云云。陳の世に、中論の破立同じからず。或は古来の二十三家の二諦の義を明すことを破して、自ら二諦の義を立つ。或は他を破し竟つて四仮に約して二謗を明す。古今の異執、各証拠を引き、自ら一文を保して余説を信ぜず。

 [26]今、謂はく爾らず。夫れ経論の異説は、悉く是れ如来の善権の方便なり。根を知り欲を知りて種種同じからず。略して三異あり、随情と情智と智等を謂ふ。随情の説とは、情性同じからざれば説くこと情に随つて異なり。毘婆沙に世第一法を明すが如き、無量の種あり。際真尚ほ爾り、況んや復た余を耶。盲情に順じて種種に乳を示すに、盲、異説を聞きて而も白色を諍ふが如し、豈に即ち乳ならん耶。衆師は此の意に連せず、各一文を執して自ら見を起して諍ふ。互ひに相ひ是非して、一を信じて一を信ぜず。浩浩として乱なる哉、孰れか是なるを知ること莫し。若し二十三説及び能破の者の経の文証あるは、皆な是の随情の二諦を判ずる意耳。文証無き者は、悉く是れ邪謂なり、彼の外道に同じ、二諦の摂に非ざるなり。随情智とは、情謂の二諦は二皆な是れ俗なり。若し諦理を悟れば、乃ち真と為す可し。真は則ち唯一なり。五百の比丘、各身因を説くが如き、身因は乃ち多なれども正理は唯一なり。経に云はく、「世人の心の見る所を名けて世諦と為し、出世の人の心の見る所を第一義諦と名く」と。此の如く説くは、即ち随情智の二諦なり。随智とは、聖人は理を悟るに但だ真を見るのみに非ず、亦た能く俗を了す。眼、膜を除けば色を見るに空と見るが如し。又た禅に入る者の如き、出観の時、身心虚豁なること軽雲の空に靄くに似たり。已に散心に同じからず、何に況んや真を悟つて而も俗を了せざらんや。毘曇に云はく、「小雲、障を発けば大雲障を発き、無漏、逾いよ深ければ世智転た浄し」と。故に経に言はく、「凡人は世間に行じて世間の相を知らず、如来は世間に行じて明かに世間の相を了す」と。此は是れ随智の二諦なり。若し此の三意を解せば、将に経論を尋ねんとするに、説は種種なりと雖も一一の諦に於て皆な三意を備へたり。

 [27]二に正しく二諦を明さば、意を取つて略を存せば、但だ法性を点じて真諦と為し、無明十二因縁を俗諦と為すに、義に於て即ち足れども、但だ人心麁浅にして其の深妙を覚せず、更に須らく開拓して則ち七種の二諦を論ずべし。一一の二諦に更に三種を開すれば、合して二十一の二諦なり。若し初番の二諦を用ひて、一切の邪謂を破するに執著皆な尽く。劫火の焼くに遺芥を留めざるが如し。況んや、後の諸諦を鋪をや。逈に文外に出でて、復た世情の図度に非ず。言ふ所の七種の二諦とは、一には実有を俗と為し、実有の滅するを真と為す。二には幻有を俗と為し、幻有に即して空なるを真と為す。三には幻有を俗と為し、幻有に即して空不空共するを真と為す。四には幻有を俗と為し、幻有即ち空不空、一切法の空不空に趣くを真と為す。五には幻有、幻有即空なるを皆な名けて俗と為し、不有不空を真と為す。六には幻有、幻有即空を皆な名けて俗と為し、不有不空、一切法の不有不空に趣くを真と為す。七には幻有、幻有即空を皆な俗と為し、一切法の有に趣き空に趣き不有不空に趣くを真と為す。

 [28]実有の二諦とは、陰入界等は皆な是れ実法なり、実法所成の森羅万品なり、故に名けて俗と為す。方便して道を修し、此の俗を滅し已つて乃ち真に会することを得。大品に云はく、「色を空ずるに色は空なり、俗を滅するを以ての故に、謂つて空色と為す。色を滅せざるか故に、謂つて色空と為す」と。「病の中に薬無く、文字の中に菩提無し」とは、皆な是れ此の意なり。是を実有の二諦の相と為すなり。此に約するに、亦た随情・情智・智等の三義あり、之を推して知んぬ可し。

 [29]幻有空の二諦とは、前の意を斥ふなり。何となれば、実有の時は真無し、有を滅する時は俗無し、二諦の義成ぜず。若し幻有を明さば、幻有は是れ俗、幻有の得べからざるは俗に即して而も真なり。大品に云はく、「色に即して是れ空、空に即して是れ色」と、空色相即して二諦の義成ず。是を幻有無の二諦と名くるなり。此に約して亦た随情・情智・智等の三義あり云云。随智は小しく当に分別すべし。何となれば、実有の随智は真を照すこと此と異ならず、随智の俗を照すことは同じからず。何となれば通人の入観は巧みなれば、復た局つて俗を照すことも亦た巧みなり。百川の海に会すれば其の味別ならず、復た局つて源に還せば江河則ち異なるが如し。俗は是れ事法なれば、異を照すこと疑ふところに非ず。真は是れ理法なれば、不同なる可からず。秖だ通人の出仮に就て、亦た人人同じからず。意を以て得べし。三蔵の出仮に例するに、亦た応に是の如くなるべし云云。

 [30]幻有空不空の二諦とは、俗は前に異ならず、真は則ち三種同じからず。一の俗、三の真に随つて即ち三種の二諦を成ず。其の相云何ん、大品に非漏非無漏を明すが如し。初の人は非漏は是れ非俗、非無漏は是れ著を遣ると謂ふ。何となれば、行人の無漏を縁じて著を生ずるは、滅を縁じて使を生ずるが如し。其の著心を破して、還つて無漏に入る、此は是れ一番の二諦なり。次の人は非漏非無漏を聞きて、謂つて二辺に非ずとして別に中理を顕はす。中理を真と為す。又た是れ一番の二諦なり。又の人は非有漏非無漏を聞きて、即ち双非は正しく中道を顕はす、中道法界力用広大にして虚空と等し、一切法、非有漏非無漏に趣くと知る。又た是れ一番の二諦なり。大経に云はく、「声聞の人は但だ空を見て不空を見ず、智者は空及与び不空を見る」と。即ち是れ此の意なり。二乗は此の空に著し、著空を破するが故に、故に不空と言ふと謂ふ。空の著若し破すれば、但だ是れ空を見て不空を見ざるなり。利人は不空は是れ妙有の故に不空と言ふと謂ふ。利の利人は不空を聞きて、是れ如来蔵なり、一切法、如来蔵に趣くと謂ふ。還つて空不空に約するに、即ち三種の二諦あるなり。復た次に一切法、非漏非無漏に趣くに約して三種の異を顕はすとは、初の人は一切法、非漏非無漏に趣くと聞かば、謂つて諸法は空を離れず、周ねく十方界に行くも還つて是れ瓶処の如なるがごとしと。又の人は趣を聞きて、此の中の理は須らく一切行をもつて来趣して之を発すべしと知る。又の人は一切趣を聞きて、非漏非無漏に即して一切法を具するなり。是の故に、此の一の俗は三の真に随つて転ずと説くに、或は単真に対し、或は複真に対し、或は不思議の真に対す。無量の形勢、婉転して機に赴き、出没して物を利す。一一に皆な随情・情智・智等の三義あり。若し随智証するときは、俗は智に随つて転ず。智、偏真を証すれば即ち通の二諦を成ず。智、不空の真を証すれば即ち別入通の二諦を成ず。智、一切不空に趣くの真を証すれば即ち円入通の二諦を成ず。三人の入智同じからず、復た局つて俗を照すことも亦た異なり云云。何が故ぞ三人同じく二諦を聞きて、而も解を取ること各異なるとは、此は是れ不共般若、二乗と共じて説くなり、則ち浅深の殊なる耳。大品に云はく、「菩薩、初発心より薩婆若と相応するあり、菩薩、初発心より遊戯神通して仏国土を浄むるが如きあり、菩薩、初発心より即ち道場に座して仏の如しと為すあり」とは、即ち此の意なり。

 [31]幻有無を俗と為し、不有不無を真と為すとは、有無は二なるが故に俗と為し、中道は有ならず無ならず不二なるを真と為す。二乗は此の真俗を聞きて倶に皆な解せず、故に唖の如く聾の如し。大経に云はく、「我れ弥勒と共に世諦を論ずるに、五百の声聞は真諦を説くと謂ふ」とは、即ち此の意なり。此に約するに、亦た随情・情智・智等あり云云。

 [32]円入別の二諦とは、俗は別と同じ、真諦は則ち異なり。別人は不空は但だ理と謂ふのみ。此の理を顕さんと欲せば、縁修の方便を須ゆ。故に一切法、不空に趣くと言ふ。円人は不空の理を聞きて即ち一切の仏法を具して欠減あること無しと知る、故に一切法、不空に趣くと言ふなり。此に約するに、亦た随情等あり云云。

 [33]円教の二諦とは、直ちに不思議の二諦を説くなり。真は即ち是れ俗、俗は即ち是れ真なり。如意珠の如し。珠は以て真を譬へ、用は以て俗を譬ふ。珠に即して是れ用、用に即して是れ珠なり。不二にして而も二なれば、真俗を分つ耳。此に約するに亦た随情智等あり云云。身子の云はく、仏は種種の縁、譬喩を以て巧みに言説したまふ、其の心安きこと海の如し、我れ聞きて疑網断ずとは、即ち其の義なり。

 [34]問ふ、真と俗と応に相対すべし、云何んぞ不同なる耶。答ふ、此れ応に四句あるべし。俗は異に真は同じ、真は異に俗は同じ、真俗異にして相対す、真俗同じくして相対す。三蔵と通とは真は同にして、而も俗は異なり。二の入通は真は異にして、而も俗は同じ。別は真俗皆な異にして、而も相対す。円入別は俗は同なれども真は異なる。円は真俗異ならずして、而も相対す。不同なれども、而も同なり。若し相入せざれば、当分の真俗即ち相ひ対す云云。七種の二諦、広く説くこと前の如し。略して説かば、界内の相即不相即、界外の相即不相即は四種の二諦なり。別接通は五なり、円接通は六なり、円接別は七なり。問ふ、何んぞ三蔵を接せざるや。答ふ、三蔵は是れ界内の不相即なり。小乗の証を取る根敗の士なり、故に接を論ぜず。余の六は是れ摩訶衍門なり。若し前進せんと欲せば、亦た去ることを得可し。是の故に被接す。問ふ、若し接せずんば亦た会せざるや。答ふ、接の義は会の義に非ず、未だ会せざるの前は被接を論ぜず。

 [35]三に麁妙を判ぜば、実有の二諦は半字の法門なり。鈍根の人を引きて戯論の糞を蠲除すれば、二諦の義成ぜず、此の法を麁と為す。如幻の二諦は満字の法門にして、利根を教へんが為にす。諸法実相、三人共に得るを前に比すれば妙と為す。同じく但空を見れば、後に方ぶるに則ち麁なり。別を以て通に入るに、能く不空を見るは、是れ則ち妙と為す。教、理を譚ずること融ぜず、是の故に麁と為す。円入通を以て妙と為すに、妙は後に異ならざれども通の方便を帯す、是の故に麁と為す。別の二諦は通の方便を帯びず、是の故に妙と為す。教、理を譚ずること融ぜず、是の故に麁と為す。円入別は、理融ずるを妙と為し別の方便を帯するを麁と為す。唯だ円の二諦のみ正直無上道なり、是の故に妙と為す。

 [36]次に随情智に約して麁妙を判ぜば、且らく三蔵に約せば、初に随情の二諦を聞くに、実語を執して虚語と為して語見を起すが故に、生死浩然として仏法の気分無し。若し能く念処を勤修すれば、四善根を発す。是の時に随情の二諦を、皆な名けて俗と為す。無漏を発得して照す所の二諦を、皆な名けて真と為す。四果の人より無漏智を以つて照す所の真俗を、皆な随智の二諦と名く。随情は則ち麁なり、随智は則ち妙なり。譬へば乳を転じて始めて酪と成すことを得るが如し。既に酪を成じ已れば心相ひ体信して入出に難かり無し。即ち随情・情智・智等に通・別入通・円入通を説くこしとを得て、其をして小を恥ぢ大を慕ひ自ら敗種と悲しみて上乗を渇仰せ令む。是の時、酪を転じて生蘇と為が如し。心漸やく通泰すれば、即ち随情・情智・智等の為に、別、円入別を説き、不共般若を明して命じて家業を領せしむ。金銀珍宝出入取与して、皆な知せしむ。既に是を知り已れば、即ち生蘇を転じて熟蘇と為すが如し。諸仏の法は久しくして後、要らず当に真実を説くべし。即ち随情・情智・智等に円の二諦を説く。熟蘇を転じて醍醐と為すが如し。是れ則ち六種の二諦をもつて衆生を調熟す。離して四味を成ず、是の故に麁と為す。醐醍の一味を、是れ則ち妙と為す。

 [37]又た束ねて麁妙を判ぜば、前の二教に随智等ありと雖も一向に是れ随情なり、他意語を説くが故に。故に名けて麁と為す。別入通より去は随情等ありと雖も一向に束ねて情智と為す、自他意語を説くが故に。亦た麁、亦た妙なり。円の二諦に随情等ありと雖も一向に是れ随智なり。仏の自意語を説くが故に。故に称して妙と為す。問ふ、前の二の二諦、一向に是れ随情ならば、応に見諦に非ざるべし、亦た道を得ざるや。答ふ、中道を得ざるが故に、随情と称す。諸仏如来は空しく法を説きたまはず、中道第一義悉檀に非ずと雖も、三悉檀の益を失はず。大概に之を判じて、皆な随情に属して麁と為す耳。若し七種の二諦を以て五味の教に歴れば、乳教には別・円入別・円の三種の二諦にあつて二麁一妙なり。酪教は但だ実有の二諦のみにして、純ら麁なり。生蘇には七種の二諦を具して、六麁一妙なり。熟蘇は六種にして、五麁一妙なり。法華には但だ一円の二諦のみあつて、六の方便無し、唯だ妙にして麁ならず。題に標して妙と為す、意此に在り。是を相待に麁妙を判ずと為すなり。

 [38]四に麁を開して妙を顕はすとは、三世の如来は本と衆生をして仏知見を開きて無生忍を得せ令めんとして、大事の因縁をもつて世に出現したまふ。法華論に云はく、「蓮華の水を出づるの義尽くす可からず、小乗泥濁の水を出離するが故に、如来、大衆の中に入つて座す。諸の菩薩、蓮華の上に座して無上清浄の智慧を説くを聞く者の如し」と。必ず華葉に座するに非ざるなり。乃ち是れ諸の菩薩、一円の道を説くを聞きて、一円の果を証し、華王界に処し、舍那仏に同じく蓮華台に座する耳。仏意、此の如し。

 [39]始めて我が身を見、初に一実を聞かば已に華台に入る。未だ入らざる者の為に頓より漸を開し、更に異の方便を以つて第一義を助顕し、諸の二諦を説く。或は単、或は複、或は不可思議、種種不同なれども、皆な華台の為に而も方便を作すなり。但だ如来は常寂にして而も化は法界に周ねし。実に分別して先に謀り後に動じて此の汲引を施すにあらず。慈善根の力、諸の衆生をして此に従ひて入ることを得せ令む。有る人の言はく、始め鹿苑より皆な是れ法華の弄引なりと。今言はく、爾からず。且らく近く説けば、寂滅道場已来、悉く法華の弄引為り。所以に光、他土を照すに、現仏悉く頓の為に漸を開す。文殊は先仏も亦た頓の為に漸を開することを引く。此の如きの弄引は、猶ほ其の近きを恨む。大通智勝より已来、而も衆生の為に法華の方便を作す。当に知るべし、止だ近く寂場に在るのみに不ることを。又た此れ猶ほ近し。本成の仏より已来た、而も衆生の為に華台の方便を作す。又復た猶ほ近し。本と菩薩道を行ぜし時より、而も衆生の為に華台の方便を作す。文に云はく、「我れ本と誓願を立てゝ普ねく一切の衆をして亦た同じく此の道を得せ令めんと」と。当に知るべし、弄引豈に止だ今のみならん耶。本来の所化の華台に入る者は、自ら是れ一辺なり。其の未だ入らざる者は、上の如く方便息まず、中間も亦た是の如し。若し華厳・方等・般若等の経に従ひて或は別入通・円入通・円入別等に華台に入る者は、本入の者と異なること無し。復た自ら是れ一辺なり。其の未だ入らざる者は、四味に調熟して皆な此の経に於て華台に入ることを得。諸教の中に或は三味、二味、一味に住し、或は全く生き者は皆な麁を決して妙なら令め、悉く華台に入る。三蔵に果を保して破し難きを已に破し。開し難きを已に開す。況んや破し易く開し易きをや。悉く情に随ひ本に仍りて、当門に実を顕はし、即ち華台に入る。文に云はく、「七宝の大車、其の数無量なり、各諸子に賜ふ」と云云。此れ即ち権を開し実を顕さば、諸麁皆な妙なり、絶待妙なり。若し上に説くが如くんば、法華は衆経を総括して而も事は此に極まる。仏の出世の本意なり、諸の教法の指帰なり。人、此の理を見ず、是を因縁の事相と謂つて軽慢すること止まざれば、舌、口中に爛れん。若し其の旨を得て深く七種、二十一種、無量の教門を見るに、意気博遠更に相ひ間入し、繍淡精微なり。横に周く豎に窮まり、悉く法華に帰会す。二万の灯明、迦葉等の古仏の教を設くる、妙、此に極まる。有る経に云はく、「弥勒、当来に亦た妙、此に極まらん」と。釈迦、仰いで三世に同ず、亦た妙、此に極まる。涅槃は命を贖ふの重宝なり、重ねて掌を抵つ耳。此の妙旨を観ずるに、宏荘にして包籠なり。尋ぬる者、須らく其の意を曠ふすべし。人情を以て彼の太虚を局ること莫れ。摂大乗に十の勝相の義を明す、咸く深極なりと謂つて地論をして宗を翻ぜ使む。今、試みに十妙を以て之に比するに、彼は漏るる所あり。且らく理妙を用ひて依止勝相に比するに、不思議の因縁を明し四句に執を破す。豈に黎耶・庵摩羅を留めて依止と為ん耶。四悉檀の施設は、止だ無明他生の一句を立つるのみに不ず。彼は直ちに是れ一道に義を明す。開合衆経頓漸物の為にし、約教約行随情随智大いに仏化を包ね、深く止住を括くることを見ず。因縁の一境、已に依止よりも広し。更に四の四諦、七の二諦、五の三諦、一諦等を用ひて比すれば、彼に準擬するもの無し。迹の中の上妙に已に漏るゝ所あり、本の中の十妙は群経に無き所なり。何に況んや、彼の論をや。又た観心の十妙は、即ち行用を得れば、貧人の果頭の宝を数ふるが如くならず。当に知るべし、十妙の法門、鱗沓重積すること勝げて言ふ可けん哉。天竺の大論、尚ほ其の類に非ず。震旦の人師、何ぞ労はしく語ふに及ばん。此れ誇耀に非ず、法相の然る耳。思ひて自ら之を見よ、辞の費へを俟つこと無れ。

 [40]五に三諦を明さば、衆経に備さに其の義あり。而も名は纓珞、仁王に出でたり。有諦、無諦、中道第一義諦を謂ふ。今の経も亦た其の義あり。寿量に云はく、「如に非ず、異に非ず」とは、即ち中道なり。如は即ち真なり、異は即ち俗なり。問ふ、若し此の経に四種の因縁等の名無くんば、那んぞ其の義を用ひん。答ふ、五住と二死の名は勝鬘に出でたり。涅槃に応に其の義を用ふべからざらんや。若し五住を用ひずんば、則ち無明を破せず。若し二死を用ひずんば、則ち常住に非ず。又た三仏の名は楞伽に出でたり、余経に応に三仏の義無かるべけんや。衆経は皆な是れ仏説なり、名は乃ち同じからざれども義は壅がる可からず云云。

 [41]今、三諦を明すに三と為す。一には三諦を明し、二には麁妙を判じ、三には麁を開して妙を顕はす。前の両種の二諦を却くるは、中道を明さざるを以ての故なり。五種の二諦に就くに中道を論ずることを得れば、即ち五種の三諦あり。別入通に約すれば、非有漏非無漏を点ずるに三諦の義成ず。有漏は是れ俗、無漏は是れ真、非有漏非無漏は是れ中なり。当教に中を論ずれば、但だ空に異なる而已。中に功用無ければ、諸法を備へず。円入通の三諦とは、二諦は前に異ならず、非漏非無漏を点ずるに一切の法を具す、前の中と異なり。別の三諦とは、彼の俗を開して両諦と為し、真に対して中と為す、中は理なる而已云云。円入別の三諦とは、二諦は前に異ならず、真の中道を点ずるに仏法を具足するなり。円の三諦とは、但だ中道に仏法を具足するのみに非ず、真俗も亦た然り。三諦円融して一三三一なり、止観の中に説くが如し云云。

 [42]二に麁妙を判ぜば、別円入通は通の方便を帯するが故に麁と為す。別は通を帯せざれば妙と為す。円入別は別の方便を帯すれば麁と為す。円は方便を帯せざれば最も妙なり。五味の教に約せは、乳教は三種の三諦を説きて二麁一妙なり。酪教は但だ麁にして妙無し。生蘇と熟蘇は、皆な五種の三諦を具して四麁一妙なり。此の経は但だ一種の三諦のみにして、即ち相待の妙なり。

 [43]三に麁を開して妙を顕すとは、前の諸麁を決して一の妙の三諦に入る。待す可き所無し、是を絶待の妙と為すなり。

 [44]六に一諦を明さば、大経に云はく、「言ふ所の二諦は其の実は是れ一なり、方便して二と説く」と。酔ひて未だ吐かされば日月転ずと見て転日及び不転日ありと謂ふ、醒めたる人は但だ不転を見て転を見ざるか如し。

 [45]転の二を麁と為し、不転を妙と為す。三蔵は全く是れ転の二なり、彼の酔人に同じ。諸の大乗経に転の二を帯して不転の一を説く。今経は正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く。不転は一実なり、是の故に妙と為す。地持に明さく、「地相に義を明すは相似の法を説き、地実に義を明すは真実の法を説く、又た教門の方便は即ち教道に義を明し、所証の法を説くは即ち証道に義を明す」と。今借りて之を用ふ。「諸仏の法は久しくして後、要らず当に真実を説くべし」とは、即ち地実の義なり。「道場所得の法」とは、即ち証道に義を明すなり。是の故に妙なり。此の実に執著すれば、実語は是れ虚語なり、語見を生ずるが故に、故に名けて麁と為す。融通して著無し、是の故に妙と言ふ。

 [46]麁を開して妙を顕はすこと解す可し云云。

 [47]諸諦不可説とは、諸法は本より来た、常に自ら寂滅の相なり、那んぞ諸諦紛紜として相ひ礙ぐることを得んや。一諦尚ほ無なり、諸諦安んぞあらん。一一皆な不可説なり、可説を麁と為し、不可説を妙と為す。不可説も亦た不可説なるは是れ妙なり。是の妙も亦た妙なり、言語道断の故に。若し通じて不可説を作さば、生生不可説、乃至、不生不生不可説なり。前の不可説を麁と為し、不生不生不可説を妙と為す。若し麁、妙に異なるは、相待して融ぜず。麁妙不二なるは、即ち絶待妙なり云云。五味の教に約せば、乳教は一麁の無諦、一妙の無諦なり。酪教は一麁の無諦のみなり、生蘇は三麁の無諦、一妙の無諦なり、熟蘇は二麁の無諦、一妙の無諦なり、此の経は但だ一妙の無諦のみなり。麁を開することは前の如し云云。

 [48]問ふ、何が故ぞ、大小通じて無諦を論ずるや。答ふ、釈論に云はく、「聖人心中に得る所の涅槃を破せず。未得の者の涅槃を執して戯論を生ずるが為なり。無生を縁ずる使の如し」と、故に破して無諦と言ふなり。問ふ、若し爾からば、小乗は得と不得と倶に皆な破せらる、大乗も得と不得と亦た倶に応に破すべしや。答ふ、例ならず。小乗は猶ほ別惑の除く可く、別理の顕はす可きあり。故に得と雖も須らく破すべし。中道は爾らず、得は云何んぞ破せん。問ふ、若し爾らば、中道は唯だ応に一実諦あるべし、応に無諦と言ふべからず。答ふ、未得の者の中を執して惑を生ずるが為に、無諦を須ゆ。実得の者にはあり、戯論の者には無し云云。