[201]我始坐道場より下、第二に十七行半は方便の化を施すを頌す、此れに就て二と為す、初に六行半有て、大乗を用ひんと念て擬するに得ざることを明す。次に尋念の下、第二に十一行は、諸仏に同じく三乗を用ひんと念て、化するに宜しきに称て得可きことを明す、初めに大を用ひて化せんと念ずるに就て又三と為す、初めに一行半は、大を用ひて擬宜することを明す、次に衆生の下、第二に三行は、衆生に機無きを明す、次に我即の下、第三に二行は、大化を息むることを念ずることを明すなり。

 [202]始坐道場とは、至理には時無し、時を仮て物を化す、化を為すの初めなり、故に始と言ふなり。事に釈すれば、初め此処に在て修治して道を得、故に道場と言ふ。此樹下に坐して三菩提を得、故に道樹と名く。樹の恩を感ずるが故に観察し、地の徳を念ずるが故に経行す、道成り沢に賽するの時、大法を以て衆生に擬宜せんことを欲するなり。

 [203]観心に釈せば、樹は即ち十二因縁の大樹なり、深く縁起を観じ、自ら菩提を成ず、無漏法の林樹を以て衆生を蔭 益せんと欲す、故に観樹と言ふ。経行とは大乗の三十七品は是れ行道の法なり、自ら道品を以て一切地を履み仏道を成ずることを得、此法を以て衆生を化度せんと欲す、是故に起て行ずるなり。

 [204]樹地は分別有ること無し、豈に須らく恩を報ずべけんや。未曾有経に云く、秖だ化を通じ法を伝ふるを以て報恩と名くるのみと。

 [205]過去因果経に云く、仏成道の初一七日は、我法は妙にして能く受くる者無しと思惟したまひ、二七日は衆生の上中下根を思ひたまひ、三七日は誰か応に先づ法を聞くべきと思惟したまふ、即ち波羅奈に至て五人の為めに四諦を説きたまふ、陳如は 法眼浄を得、頞髀・抜提・十力迦葉・摩訶男・拘利は未だ道を得ず、仏重ねて四諦を説きたまふに、四人は法眼浄を得。仏又五陰は無常苦空非我なりと説きたまふに、五人は阿羅漢を得。仏を仏宝と為したてまつり、四諦を法宝と為す、五人及び仏は是れ六の阿羅漢にして、即ち是れ僧宝なりと。

 [206]小雲疏に云く、初の三七日の時、已に是れ法華を説きたまふ。下の文に宿主華智仏、七宝菩提樹下に在て法華経を説きたまふと、当に知るべし、今仏も菩提樹に在して、亦法華を説きたまへることを、而るに鈍根の衆生は堪へざれば、諸仏に允同して三教の化を開し、後に王城に於て一乗を説きたまふのみと。

 [207]若し智者の意を推すときは、是れ則ち先に菩提樹下に在て仏慧を説き、後に余処に在て仏慧を説きたまふ。例せば、今仏は先に華厳を説き、後に法華を説きたまへるが如し。故に 文に云く、始めて我身を見、我が所説を聞て如来慧に入る、先に小乗を修習し学する者を除く、而して今も亦如来慧に入らしむと、此義と同じなり。

 [208]五比丘とは、諸女、仙人の法を説くを聴く、悪生王瞋て両臂耳鼻等を割くに、血変じて乳と為る、悪生王とは拘鄰是なり。仙人とは仏是なり。仏は甘露を得せしめ、初めに法音を聞かしめんと誓ひたまふ。問ふ、何が故ぞ初めに五人の為めに法輪を転ずるや。答ふ、人は先に諦を見るが故に、人は是れ現見の故に、人は証と為るが故に、仏所行の事業は人と同じきが故に、諸天は人中より善利を得るが故に、人中に四衆有るが故なり。輪王出世せば声他化自在に至る、憍陳如の得道は声梵天に至る、仏の得道は声首陀会に至る、何が故ぞ爾るや。答ふ、善業と名誉業と称讃父母師長業と上中下有るが故に爾るなり。若し 有頂をして耳識有らしめば仏声も亦彼に至らん、輪王は十善を行じ、善は欲天に生ず、欲天は我が眷属の増多を喜ぶが故なり。陳如は欲を離るゝが故に梵に徹す、仏は最勝にして尼吒に至る云云。若し大乗に依らば、仏の得道の声は遍ねく百億の尼吒に至る、又十方無量無辺の世界の尼吒に遍す云云。初め法輪を転ずる処、菩提樹の処、初め忉利より下る処、大神変の処、此四処は諸仏皆定る、余処は定らず。又転法輪の一処を除て其三処は決定なり。

 [209]三七日とは、旧云く、理教等を思ふと。又云く、勧誡等なりと。瑤師の云く、事の至て深き、至聖も猶ほ思て而して後に行ふ、一七には仏智微妙なることを思ふ、二七には衆生の根性の不同なることを思ふ、三七には法薬の万品なることを思ふ、即ち偈を挙げて之を証す。我が所得の智慧は微妙にして最も第一なり、衆生の諸根鈍なり、云何してか度す可きと。今明さく、仏は法身の地に在して寂にして常に照す、恒に仏眼を以て洞覧したまひて遺すこと無し、豈に始めて道場に至て三七に淹留して方に此事を思はん。

 [210]三七と言ふは所表有るを明すなり、仏は初めに三周もて法を説んと欲したまふことを表す、故に言を三七に仮るのみ。初の七は法説を思ひ、次の七には譬説を思ひ、後の七には因縁説を思ひたまふ、皆機無くして得ず、是故に大を息めて小を施すなり、此れ偏へに円教の大乗に就て釈を為すのみ。若し通途に大乗に約して釈せば、初めの七は思惟して円教の大乗を説んと欲したまひ、次の七は思惟して別教を説んと欲したまひ、後の七は思惟して通教の大乗を説んと欲したまふ、皆機無くしく得ず、是故に大を息めて三蔵の三乗を説て方便の化を為したまひしなり。

 [211]観心に釈せば、初めに中道を観ぜんと欲するに、中道は妙にして観じ難くして得ず。次に即仮を観ぜんと欲するに、即仮の観は分別智生じ難くして得ず、後に即空を観ぜんと欲するに、即空は巧度にして又得ず、方に方便析法の小観を観ずるなり。

 [212]衆生諸根鈍より下、第二に三行は機無きことを明す、又三と為す、初めに半行は障重きことを明す。次に如斯の下、第二に半行は聞くに堪へざることを明す。爾時梵王者の下、第三に二行有りて、諸梵の大を説かんことを請すと雖も、仏、機無きことを知る所以に説かざることを明す。

 [213]我即自思惟の下、第二に二行有りて、化を息めんと欲することを念ずるを明す、又二あり、初めに一行半は、機無きに強て説かば、聞くもの則ち損有ることを明す。後に半行は正しく化を息むることを明す。

 [214]尋念過去仏より下、第二に十一行有り、上の一仏乗に於て方便して三を説くを頌するなり、此れに就て二と為す、初めに十行は、正しく化得を明す、後に一行は疑を釈す、前の十行に就て四有り、初めに一行は三乗の擬宜を明す、次に作是思の下、第二に六行半は機有ることを明す、次に思惟是の下、第三に一行半は化を施すことを明す、次に是名の下、第四に一行は受行を明す。

 [215]尋念とは、彼に大機無しと雖も永く捨つ容らず、要らず方便を以て而して之を誘済せんと念ず、都て開三を知らざるに非ず、諸仏に引同せんと欲するが故に尋念と云ふなり。作是思惟の下、第二に六行半は小機有ることを明す、此れ又二と為す、初めに四行半は諸仏の歎を明す、後の二行は釈迦の酬順を明す、上は大化を欲すれども、彼に於て機無し、故に諸仏は歎ぜず、今小を説て曲に根縁に会はんと欲するに、則ち始終に度すること得、所以に仏は歎じたまふなり。初めの仏の歎に就て五と為す、初めの三句は釈迦自ら諸仏の現を叙したまふなり。仏現とは仏の方便力を念ずるに由るが故に現ず、現ずることは法に擬し機に会ふに由る、二義の故に仏現じたまふ。善哉の下、第二に一行一句は諸仏の正しく釈迦を歎じたまふことを明す、能く実を隠し権を設く、故に善哉と云ふ。一の為めに三を施し、引て仏慧に入るは、即ち是れ第一の導師なり。得是無上法とは、即ち是れ実智の微妙第一を得たまへるなり。而用方便力とは、諸の一切仏に随て、実を隠し権を用ふるなり。我等亦皆得の下、第三に一行は諸仏も亦実を隠し権を用ひたまふことを明す、文の如し。少智楽小法より下、第四に一行は双て 二義を釈す。衆生は少智にして大を聞くに堪へざるが為めの所以に実を隠す、而して復小を楽ふ所以に権を施す。雖復説三の下、第五に半行は双て二義ぞ結す、復三を説くと雖も終に実を顕はさんが為めなり。舎利弗当知の下、第二に二行有りて釈迦の酬順を明す、既に諸仏の歎を聞て対て南無と曰ふ、南無とは此には敬従と云ふ、又二あり、初めに一行は言を発して酬順す。後に一行は物機に順ずることを念ず。思惟是事より下、第三に一行半は正しく教を施することを明すなり。諸法寂滅相不可以言宜の下は、即ち是れ前に説く中道無性仏種の理なり、此理は数に非ず、又説く可らず。今方便を以て三乗の説を作す。又生に非ず滅に非ず、而も方便を以て生滅の説を作す。又偏真の理も亦示説に非ず、方便を以ての故に四門の説を作す。初めに五人の為めに無常の有門を説きたまふなり。是名転法輪の下、第四に一行は受行悟入を明すなり。仏の心中の化他の法を転じて他心に度入するを転法輪と名く。陳如は初めに見諦を得、即ち見惑を断じ、分に滅諦を証す、亦是れ分に有余涅槃を得、涅槃の音は此れより起る。此れに由て無学と成ることを得、便ち羅漢の名有り。能く三乗の法を説く者を仏と名く、所説の三乗は即ち法なり、見諦の羅漢等を僧と名く、三宝は是に於て世間に現す。

 [216]従久遠劫来の下、第二に一行は是れ疑を釈するなり。師を疑て云く、仏は初め未だ機を鑒ること能はず、尋て諸仏を念じ、始めて根性を知りたまふと、即ち釈して云く、我れは方便を用ふることを知らざるに非ず、特に引同せんと欲するが故に諸仏を念ず、始めて念じて方に知るに非ず、久遠劫より来た、其小を楽しむことを見て、已に為めに讃示して衆苦を尽さしむ、所以に小を聞て即ち解脱を得しむるなりと。弟子を疑て云く、云何ぞ衆生は一世に暫く聞て即ち羅漢を証すと。即ち釈して云く、久遠劫より来た、其れが為めに讃示す、本習に称ふが故に速に道を得と。旧云く、此偈は懸に寿量の義を指すと。今明さく、秘密の意を論ぜば或は当に此の如くなるべし、顕露の意を明さば是れ則ち然らず、何となれば、将に寿量を明さんとするに弥勒尚ほ自ら知らす、云何ぞ此中の一偈は懸に指さん、今釈疑を以て文を消す。

 [217]我見仏子等より下、第三に六行有りて上の顕実を頌す、文に四一を具す、初めに我見仏子の下の二行は人一を頌す。三乗の行人は皆是れ仏子なり、上の文に兼て其意有るなり。我即作是念の下、第二に一行は理一を頌するなり。為説仏慧とは即ち是れ上の一切種智仏知見なり。舎利弗当知の下、第三に二行は教一を頌するなり。但説無上道とは即ち教一なり。菩薩聞是法の下、第四に一行は行一を頌するなり。悉く亦当に作仏すべきが故に、是れ行一なり。

 [218]更に 此文に就て四意と為す、初めの二行は大乗の機発するを明す、亦索果と云ふ。次に両行一句は仏の歓喜を明す、衆生は大乗の益を得るが故に、次に三句は正しく顕実を明す、次に一行は受行悟入なり。

 [219]機発するに由るが故に果を索め、果を索むることは機発するに由ることを明す、此れ応に四句有るべし、自ら障を除て機の未だ発せざる有り、諸の羅漢の三蔵に在る時、小を楽ふを以ての故に濁障除くと雖も、大根鈍なるが故に妙機未だ発せざるか如し、自ら大機発し障未だ除かざる有り、法華の中の諸の凡夫人等、未だ 結を断ぜずと雖も、大根利なるを以ての故に機発するが如し。自ら障即ち除こり機即ち発する有り、無量義を説く時、二乗の果を証し、即ち此座に於て大機即ち発するが如し。自ら障未だ除かず大機未だ発せざる有り、即ち五千等是なり。

 [220]志求仏道とは 即ち是れ大を索む、小果を求むるに非るなり。索に三意有り、一に大機に感果の義有り、機中に索を論ず。二に情中に密に求む、得とせんや不得とせんやとは、 即ち此意なり。三に言を発して索む、即ち是れ殷懃三請なり。昔教の中に已に二求有り、但だ未だ言を発せず、今日に至て此三索を具す。問ふ、昔宅を出で三を索む、是機情の索ならば、文に如先所許と云ふ、此れ乃ち三を求む、何ぞ一を求むるに関らん、答ふ、外に出でて見ず、必らず異途有らん、昔三を許すを将て、以て異意を求むるのみ、亦是れ一を索むることを得るなり。

 [221]咸以恭敬心皆来至我〔現流本は仏に作る〕所とは、一に云く、小を恥ぢ大を慕ふ、大機は仏を感ずる故に仏所に至ると云ふと。今明さく、但だ機の仏所に至るのみに非ず、亦乃ち身も到る、無量義の中に四衆囲繞し、合掌し敬心に具足の道を聞かんと欲するが如きなり。

 [222]曾従諸仏聞方便所説法とは、此中初味に調伏して、三蔵の六度通別等の三教の方便を受行す、此れに由て調熟す、故に障除こり機を発せしめて大を求むるなり。

 [223]我即作是念より下の二行一句は、障除こり仏喜びたまふことを明す。仏は仏慧の為めの故に出でたまふ、昔しは障重くして機無し、即ち仏慧を説くことを得ず、中間に障除こると雖も、又未だ説くことを得ず、今機発すれば正しく是れ説く時なり。昔しは衆生は根鈍にして智小なり、其の法を謗り悪に堕せんことを恐る、故に未だ是れ説く時ならす、今は根利にして志大なり、聞けば必らず信解す、故に仏歓喜したまふ。無畏とは、小を執して大を謗り、罪を起して悪に堕せんことを畏れず、故に無畏と言ふ。

 [224]於菩薩中の下の三句は、正しく実を顕はすなり、五乗は是れ曲にして直に非ず、通別は偏傍にして正に非ず、今は皆彼偏曲を捨てゝ但だ正直の一道を説くなり。

 [225]菩薩聞是法の下の一行は受行悟入を明す、六度と通との二菩薩、初めに略説を聞て奮執を動じて新疑を致す、今は悉く已に除こる、独り菩薩のみに非ず、二乗も亦爾りと、而して声聞は皆当に作仏すべしと云ふは、昔教は二乗の作仏を説かす、今行く授記を与ふ、授記豈に独り二乗のみならん、疑を除くこと、豈に独り菩薩のみならんや、互に存すれば則ち両つながら備ふ。問ふ、菩薩は何ぞ疑ふや。答ふ、三蔵は三僧祇に未だ惑を断ぜず、一たび断じて即ち真に入ると説く。通教は菩薩は正を断じて習を留め、習尽て即ち成仏すと説く。初めに略説を聞くに悉く方便と云ふ、昔の真昔の成は竟に知ぬ、安くにか在ることを。又三乗同じく一道を学す、何の意ぞ別有る。今法華を聞て諸疑を掃蕩して復遺芥無し。

 [226]如三世諸仏より下、第四に五行半は上の歎法希有を頌す、正しく下の不虚譬の本と為るに非ず、此れに就て二と為す、初めの一行は上の如是妙法を頌す、妙法とは権実なり。如三世とは、諸仏の権を用ふるに引同す、権は是れ物を引くの儀式なり。説無分別法とは、諸仏の顕実に引同す、実は則ち言語道断なり、豈に儀式を存せんや。又権実は本と分別無し、鈍根小智の為めに権実を分別す、今還て悟入すれば、一三は二ならず、即ち知ぬ、仏は三一に分別無きことを説きたまふことを。諸仏は皆爾り、何ぞ独り我のみならんや。諸仏興出世の下の四行半は、上の時乃説之を頌す。上にも亦曇花を挙ぐ、頌中還て説く、諸仏興出世の両句は久久懸遠にして時に仏の出でたまふこと有り、此れ人の難きを挙ぐ。正使出於世の両句は此れ法の難きことを挙ぐ。今仏出世したまひて四十余年、始めて真実を顕したまふが如し云云。無量無数劫の両句は、此れ聞法の難きことを挙ぐ、五千の流の如き、梵音耳に盈つれども席を起て而も去る、聞くこと豈に難からざらんや。能聴是法者の両句は、信受する者の難きことを挙ぐ。普衆に唯身子のみ前に達し、中下は聴くと雖も猶ほ未だ了すること能はず。曇花を挙げて上の四難を譬ふ、但だ聞者の難きに合す、余は例して解す可し。

 [227]汝等勿有疑より下、第五に二行半は上の不虚を頌す、又二あり、初めに一行半は、信ず可き人に於て疑を生ずること勿れといふ、次に汝等舎利の下の一行は、信ず可き法に於て疑を起すこと勿れといふ。法王とは夫れ人王たる言則ち二ならず、仏は法王たり、豈に虚説す容んや、夫れ方便は是れ権仮なる可し、真実は寧んぞ応に是れ妄なるべけんや、法王の法を説きたまふを聞て疑を生ずること勿れ。

 [228]旧に汝等舎利弗より下の七行は敦信を頌せず、但だ是れ釈迦章の中の勧信弘経の意なるのみ。其文両と為す、初めに五行半は弘経せしめ、其をして因を行ぜしむ、次に一行半は略して為めに受記す。

 [229]初めの一行は、其れをして果を慕ひ因を行ぜしむ、必らず須らく弘経すべし。四十余年仏心に蘊在して、他に知る者無きを、名けて秘と為す、一乗の直道は総じて万途を摂す、故に要と言ふなり。以五濁悪世の下の一行は秘要を釈す、障重き人は終に解すること能はず、故に如来をして秘して妄に宜べざらしむることを明す。当来世の下の二行は、弘経の体を明す、初めに一行は、不善の人には為めに説くこと勿きことを明す、後には善人には当に為めに説くべきことを明す。舎利弗より去ての一行半は、双て二義を結す、初 一行は秘要を結す、此法は是の如く、先に万億の方便を以て然して後に乃ち真実を示すことを明す、後の半行は弘経の体を結す、「其習学せざるもの此れを暁了すること能はず」とは正しく不善の者には為めに説くこと勿きことを結するなり、兼て習学する者は則ち能く暁了するに対す、此には乃ち為めに説く可きなり。汝等既已知の下一行半は略して為めに授記す。上に明す三句は其解有ることを論じ、中の一句は其に惑無きことを明す、下の半偈は其得記を明す、既に解有て惑無ければ、正しく応に歓喜作仏すべし。此中の受記は、下の身子等の得記の本と作ることを開す、此中の弘経は、下の身子に命じて流通するの本と作ることを開するなり、旧意此の如し。

 [230]今明さく、五濁より下、第六に六行は上の揀衆敦信を頌す、上に幸に此文有り、近ふして而も頌せざらんや。又二あり、初めに三行は揀衆を頌す、次に三行は敦信を頌す。

 [231]五濁とは、一行は上の仏弟子に非るを揀ぶを頌す、何となれば、若し諸欲を楽はゞ是れ魔業を行ず、故に須らく之を揀ぶべし。上の文は涅槃に著す、尚ほ仏子に非ずと、此文は生死に著す、那ぞ是れ仏弟子ならん、互に非を揀ぶのみ。終不求仏道とは、上の増上慢を揀ぶを頌す、上慢とは未だ上法を得ざるに上法を得たりと謂ふ、是故に其人は仏道を求めざるなり。当来世悪人の一行は、上の如来の滅後に義を解す者、是人得難きを頌するなり。有慚愧清浄の一行は、上の若遇余仏便得決了を頌す。

 [232]次に三行は上の敦信を頌す、若し此法を信ぜずんば、是 処 有ること無し、初めに一行半は権を敦信す、次に一行半は実を敦信す、実と権とに疑無し、自ら作仏せんことを知るなり云云。

◎譬喩品を釈す。

 [1]先に総釈、譬とは比況なり、喩とは暁訓なり、此れに託して彼を比し、浅に寄て深を訓ふ、前に広く五仏の長行偈頌を明すに、上根は利智にして円かに聞て悟を獲、中下の流は、迷を抱て未だ達せす、大悲已まず、巧智無辺なり、更に樹を動して風を訓へ、扇を挙げて月を喩へ、其をして悟解せしむ、故に譬喩と言ふ。

 [2]別釈とは、世法を以て出世の法に比す、曾有に因て未曾有を聞き、踊躍歓喜す。経の世間の子父を出世の師弟に譬ふるが如し。又世の生法を以て出世の生法に比す、仏の音教を蒙れば大乗を失はざらしむ、経の父は諸子の先心に各々好む所の珍玩の具有りと知るが如し。又世の滅を以て出世の滅に比す、無漏を得と雖も、聞て亦憂悩を除く。経の我れは為れ其父、応に其苦難を抜て焼煮を免れしむべしといふが如し。又世の不生不滅を以て出世の不生不滅に比す、其をして実智の中に安住し、我れ定んで当に作仏すべからしむ。経の是宝乗に乗じて、直ちに道場に至るが如し、当に知るべし、仏は一音を以て譬喩を説き、巧に中下をして四悉檀の益を得せしむるが故に譬喩品と言ふなり。

 [3]教に約して解せば、仏意は本と仏乗を讃ず、物の堪へざるが為めに、尋で先仏の大悲方便を念じて、鹿苑に趣て三車を称讃す、二乗は下中を以て自ら済ひ、恩は人に及ばず、菩薩は牛に駕して他を運んで火を出づ、故に摩訶薩と名く。此れ三蔵教の中の譬喩なり。

 [4]又三人同じく焼煮を畏る、声聞は麞の直に去て廻らざるが如く、縁覚は鹿母の並び馳せ並び顧るが如し、菩薩は大象の身に刀箭を扞ぎて群を全ふして出るが如し。涅槃に云く、兎馬と。此れ通教中の譬喩なり。

 [5]又三乗は発心近くして、理を縁ずること浅く、智慧弱し、通惑を断じ、辺を尽し底に到ること能はす、波羅蜜に非ず。菩薩は発心久遠にして理深く智疆し、別惑を断じ源を窮め性を尽す。大品に云く、二乗は蛍火の如く、菩薩は日光の如しと、此れ別教中の譬喩なり。

 [6]又始めて我身を見我所説を聞て、即ち皆信受して如来の慧に入ると、斯の如きの人は化度す可きこと易し、如来をして疲苦を生せしめず、華厳の中の如く事に即して而も真なれば、譬喩を須ひす。未入の者の為めに四十余年、更に異の方便を以て第一義を助顕す、今日王城に決定して大乗を説き、普ねく一切をして仏の智慧を開示し悟入せしめて、一人をして独り滅度を得せしめず、今の如く始の如く、始の如く今の如く、無二無異なり。上根の利智は、聞て即ち能く解して、如来をして疾苦を生ぜしめず、亦譬喩を須ひず、秖だ中下の執を動じて疑を生じ、岐道に踟蹰するが為めの故に今日大車の譬喩を須ひ、而して利益を得しむ、是れを円教中の譬喩と名くるなり。

 [7]本迹、観心例して解す可し、復記せす云云。

 [8]法説に五段の経文有り、其一は始めに竟れども、四猶ほ未だ了らす、此品は応に諸天説偈の後、火宅譬喩の前に在るべし。出経は調巻して領解の初めに置くのみ。又人の云く、中根を発起して第二巻の初めに置く、六瑞問答は法説の為めに序と作るが如し、領解得記は譬喩の為めに序と作るなり、此れ人情のみ、法説の後に置かば、中根は悟らざる可んや。

 [9]此領解段は、其聞く所を領し、其解する所を述す、長行は領と解と合して説き、偈の中には領と解と各々陳ぶ、故に領解段と言ふなり。文二有り、一に経家の叙、二に身子自ら陳ぶ、叙二と為す、謂く内解、外儀なり。

 [10]内解の心に在るを喜と名く、喜の形に動くを踊躍と名く、妙なる人に従て妙たる法を聞き妙なる解を得るに若し一の幸に値へば尚復欣抃す、況んや三喜具足す、寧んぞ踊躍せざらんや。文に云く、「今世尊に従ひたてまつりて此法音を聞き、心に踊躍を懐く」とは、内外和合して此歓喜を致すは即ち世界の釈なり。又小を改めて大な学し、貧事の草庵を棄て、富豪の家業を受く、文に云く、「今日乃ち知る、真に是れ仏子なことを」と、是故に歓喜するは此れ為人の釈なり。又憂と悔と双べ遣り、疑と難と並に除こる、内と外との防障は靡然として大に朗かなり、文に云く、「我れ已に漏尽を得、聞て亦憂悩を除く」と、是故に歓喜するは此れ対治の釈なり。又仏子の応に得べき所の者は皆已に之を得、文に云く、「実智の中に安住す、我れ定んで当に作仏すべし」と、此れ第一義の釈なり。

 [11]約教とは、夫れ歓喜は入位を喜び、而して阿羅漢は三界の籠樊を出で、四住の子果を破す、害に対して戚へず、利に逢て欣ばす、今歓喜と言ふは決して世間の喜に非るなり。若しは苦忍明発し、若しは無学を究竟するは、先に已に之を得たれば、今応に重ねて喜ぶべからす、若し三人同じく無言説の道を以てするに体析異ると雖も、空を証すること一致なり、一致の喜、久しく已に之を得たれば亦重ねて喜ばす。若し 二空の観をもて方便道と為さば、仮観は二乗の隘陋を蕩し、空観は凡夫の喧湫を蕩す、二辺の悪を過て大歓喜を得、円悟に依らば、初発心住を歓喜住と名く、初行を亦歓喜行と名け、初地亦歓喜地と名く。身子は既に是れ上根利智なれば、必らず是れ超入の歓喜ならん。設ひ超入せざるも亦歓喜と名く、此れ皆約教釈なり。

 [12]本迹釈は、身子は久しく成仏して金龍陀と号す、迹に釈迦を助けて右面の智慧の弟子と為る、始め外道に従て邪を抜き正に帰し、乳味の歓喜を示して凡夫を利益す。次に酪味の歓喜を示して賢聖を利益す。次に生蘇熟蘇の歓喜を示して菩薩を利益す、今は醍醐入仏知見の歓喜を作して学仏道の者を利益す、此の如き等の歓喜は皆迹の所為なり。

 [13]観心の解復記せず云云。

 [14]外儀を叙せば、「即ち起て合掌する」を身の領解と名く、昔は権実を二と為す、掌の合せざるか如し、今は権即実と解す、二掌の合するが如し。向仏とは、昔は権は仏因に非ず、実は仏果に非ず、今は権即実と解す、大の円因を成ずれば、因は必らず果に趣く、故に合掌して向仏に向ふと言ふ。瞻仰尊顔とは、其実を解することを表す、実は即ち 仏境にして 方便の法に非ず、尊顔を瞻仰して余の思念無きは仏知見を開することを表す、意に実を解し、亦即ち権を解す、身に権を領し、亦実を解す、互に一辺を挙ぐるなり。

 [15]白仏の下は口の領解なり、即ち是れ身子自ら陳ぶ。文二と為す、初めに長行、二に偈頌なり、初めの文三と為す、一に三喜の意を標す、二に釈。三に結成なり。

 [16]今従世尊とは、我身の仏身を見ることを標す、故に身の喜と名く。聞此法音とは、仏口に依て聞て歓喜す、故に口の喜と言ふ。得未曾有とは、是れ我が意に仏の意を解す、故に意の喜と名く、是れを標章と為すなり。

 [17]次に所以者何の下、第二に釈は、昔の失を提げて今の得を顕はす、所以者何より無量知見に訖るまでは、昔の仏を見ざるを失と為すことを明す。昔し仏は菩薩の為めに授記したまへども、我れは斯の事に 預らず、仏を見るの義遠し、既に仏を見たてまつらず、故に身の喜び無し。

 [18]聞如是法とは、若し日の高山を照す時は、密に聞の義有れども、顕には声の如く唖の如し、是の如きの法を聞くと道ふことを得ざるなり。秖だ是れ方等教の中に大乗の実慧を聞くに今と殊ならず、故に聞如是法と言ふなり。受記とは、亦是れ方等の中に菩薩に記を与へたまふも、二乗は斯の事に預らず、甚だ自ら感傷す、思益・浄名の中に褒大折小したまふを聞き、内に疑て外に鄙むを、名けて感傷と為す。一切の知見を失すとは、仏眼の見を失ひ、仏智の知を失ふなり。

 [19]世尊より非世尊也に訖るまでは、昔法を聞かざるの失を明す。良に以れば身は山林に処し心は小道を執すれば則ち法を聞かざるか故に口の喜び無し。

 [20]我 嘗独処とは過を思ふの所なり。同入法性とは正しく其過を出す、所入の一理を執して、三教の能門を疑ふ、一理既に同じけれども、而して我れ知見を失す、三教既に異にして、而して菩薩は別を受く、別を受くれば則ち如来に偏有り、所以に過を成ず、今は此失を述す、故に悔過と言ふ。是我等咎とは、我れ権に迷ふに由る、何ぞ理教に関はらん、我れ実に惑ふに由る、何ぞ仏の偏に関はらん、追て昔の非を述し仰で如来に謝したてまつる、是れを過を引て自ら帰すと為すなり。

 [21]所以者何より毎自尅責に訖るまでは意に解無きの失を明す。良に以れば所因を説くことを待たざれば則ち実の解無し、又方便を識らざる故に権の解無し、解無きが故に、故に意の喜び無し、昔の失は既に彰れば、今の得は自ら顕はる、「所因を説くことを待たず」とは、自ら実を解せざることを責むるなり。「方便を解せず」とは、自ら権を解せざることを責むるなり。

 [22]所因に二義あり、一には前に待対することを受けざるなり、二には後に停待せず、初め高山を照して三諦の慧を明す、是れ得仏の因なり、此れを以て我れに待対するに而も我れ受けず、之を前に失す、諸仏の法久しくして後、要らず当に真実を説きたまふべきに我れ停待せず、此両 楹の間に於て、忽々として小を取り権実を解せず、文の如し。

 [23]而今従仏の下は三喜を結成す、先に結、後に成す。従仏とは是れ身喜を結するなり、聞法とは口の喜びを結するなり、断諸疑悔とは是れ意の喜びを結するなり。乃知真是仏子とは、近仏の義成ずるなり、従仏口生とは結口成じ、従法化生とは是れ結意成ず、此の如きの消文に文尽き、理を釈するに理彰はるなり。

 [24]更に四悉檀を用ひて文を消す、今従世尊の下は是れ世界の歓喜なり、所以者何よりは昔の失を提げて今の得を顕はす、是れ為人の喜びなり、世尊我従昔来よりは対治の喜びなり、今日乃知より下は是れ第一義の喜びなり。更に喜心に約して四悉を明さば、心喜動悦すること常に未だ曾て有らず、喜びは覚観を動じ、復形を動ず云云。

 [25]偶に二十五行半有り、三と為す、初めに一行は三喜を標するを頌す、我聞を挙げて兼ねて仏を得るなり。昔来より下、第二に二十二行は三喜を釈することを頌す、又三と為す、今初めに一行半は見仏の喜びを頌す。長行は知見を失することを明す、頌中には大乗を失せざることを明す、上に失を論じ遠を論ず、頌には近を論じ得を論ず、互に現ずるのみ。我処於山谷の下、第二に十一行は上の 法を聞かざるを頌す、又二と為す、初めに九行は上の身遠きが故に聞かざることを頌す。次に我本著邪見の下、第二に両行は、上の法性に入るが故に聞かざることを頌す。邪見は是れ凡失の著、入法性は是れ二乗の著、倶に法を聞かず。我霄於日夜とは、生死を夜と為し、涅槃を日と為す、生死の中に涅槃有りと為すや、生死の外に有りと為すや、若し悟を得る時は二疑双べ遣るなり、又生死涅槃を倶に夜と為し、此疑除くことを得るを名けて日と為す、日出る時二疑双べ遣るなり。又世人に二種あり、一に草創に大を学す、二に小を習て大に入る、其事相を桷るに、直入の者は劣なり、例するに、阿毘曇中より入る者は勝る如し、菩薩も亦応に爾るべし、華厳の中に於て入る者は化道応に弱かるべし、五味に洮汰して入る者は勝る。而今乃自覚より下、第三に九行半有りて、上の心に妙解を得る喜びを頌す。上には所因を待たずして方便を解せざることを明す、頌中には所因を待て又方便を解することを明す、当に作仏すべしと聞くは是れ所因なり、五仏道同じきを聞て魔非魔を解するは是れ方便を解するなり、互に一辺を顕はす、五仏の章は即ち是れ領の文なり。聞仏柔軟音より下、第三に二行半は上の結成を頌す、文の如し。

 [26]爾時仏告舎利弗吾今の下、是れ第三に述成段なり、上に身子自ら悟を得ることを陳ぶ、今は如来、解の虚に非ることを述ぶ、文三有り、一に昔し曾て大を教ふ、二に中ごろ忘れて小を取る、三に還て為めに大を説く、昔し曾て教へしを引く所以は、其見仏の縁を述ぶ、若し中ごろ忘れて小を取るは、其憂悔聞法の縁を述し、還て為めに大を説くは、其悟解の虚ならざるを述ぶ、上の三意を述成するなり。

 [27]十住毘婆沙に云く、身無上は相好を謂ひ、受持無上は自利々他を謂ひ、具足無上は命と見と戒とを謂ひ、智慧無上は四無礙を謂ひ、不思議無上は六波羅蜜を謂ひ、解脱無上は能く 二障を壊し、行無上は聖行梵行を謂ふ、又身無上は大丈夫を名け、受持無上は大慈悲を名け、具足無上は到彼岸を名け、智無上は一切智を名け、不思議無上は阿羅訶を名け、解脱無上は大涅槃を名け、行無上は三藐三仏陀を名く。

 [28]菩薩瓔珞十三に云く、道は当に清浄にすべし、穢濁は道に非ず、道は当に一心なるべし、多想は道に非ず、道は当に知足なるべし、多欲は道に非ず、道は当に恭敬なるべし、憍慢は道に非ず、道は当に意を検すべし、放逸は道に非ず、道は当に顕曜にすべし、自ら隠すは道に非ず、道は当に連属すべし、無行は道に非ず、道は当に覚悟すべし、愚惑は道に非ず、道は当に教化すべし、矜悋は道に非ず、道は善友に近くべし、習悪は道に非ずと、是の如き等種々に無上道を明す。

 [29]今経は円通を以て無上道と為す、若しは偏、若しは次、皆他経に論ずる所なり。

 [30]長夜随我受学とは、昔しは大化すと雖も未だ無明を破せず、惑闇の心中に仏に随て受学す、了因は遠しと雖も猶尚ほ滅せず、況んや今真悟にして寧ろ虚しからんや、故に曾の教を挙げて見仏の謬らざるを述するなり。

 [31]我以方便生我法中とは此義両牽なり、若し昔大を以て化し、今大解を生ずるは此れ初意に属す、若し悪道を免れしめ、権に小を以て引くは、此れは是れ第二の意なり。

 [32]我昔教汝志願仏道汝今悉忘よりは、自ら中途に大を廃し小を習する有るを中途悉く忘ずと名く、若し「而して今便ち自ら已に滅度を得と謂ふ」とは、即ち是れ而して今悉く忘ずるなり、汝大願を忘じて即ち小を習するに由て憂悔有ることを致す、而して法を聞くことを得ること虚しからざるなり。

 [33]我今還欲令汝憶念本願とは、即ち是れ其解を得ること虚しからざることを述するなり、先に権教を施して其中途の小善を成じ、後に真実を顕はして其本願の大心を遂ぐるなり。

 [34]汝於未来より下、是れ大段第四授記段なり、前に自陳仏印竟る、是故に記を与ふ。若し大解を得ば自ら仏を得ることを知る、何ぞ記を須ふることを俟たん、記に四意有り、一には昔未だ二乗を記せずして而して今記を須ふ、二に中下は未だ悟らず、記を以て之を勉勵す、三に聞者をして結縁せしむ、四に其本願を満てしむ、是故に記するなり。

 [35]長行と偈頌有り、長行を十と為す、一に時節、二に行因、三に得果、十号を釈すること甚だ多し、且らく一種を記せん、虚妄無きを如来と名く、良福田を応供と名く、法界を知るを正遍知と名く、三明を具するを明行足と名く、還来せざるを善逝と名く、衆生の国土を知るを世間解と名く、与に等しき無きを無上士と名く、他心を調ふるを丈夫と名く、衆生の眼と為るを天人師と名く、三聚を知るを名けて仏と為す、波旬を壊するを婆伽婆と名く、四に国土、五に説法、六に劫名、七に衆数、八に寿量、九に補処、十に法住の久近なり、悉く文の如し。大論四十八に云く、舎利弗、正法三十二小劫とは、三災の飢・病・刀の衆生を滅する者を小劫と名く、又直に是れ時節を小劫と名く、法華経を説くこと六十小劫の如きも亦是れ時節数のみ、三災の外物を滅するを小劫と為すに非るなりと。

 [36]偈に十一行半有り二と為す、初めの十行は上の九意を頌す、略して補処を頌せず、長じて供養舎利有り、後の一行半は結歎なり、初めの一行は超て得果を頌す。次に供養の下、第二に一行は追て行因を頌す。次に過無量の下、第三に半行は超て劫名を頌す。次に世界名の下、第四に一行半は国浄を頌す。次に彼国の下、第五に一行半は菩薩衆の数を頌す。次に如是等の下、第六に半行は説法を頌す。次に仏為王子の下、第七に二行は寿量を頌す。次に仏滅度之の下、第八に一行半は法住の久近を頌す。次に舎利広の下、第九に半行は舎利を供養す。後に華光仏の下、第二に一行半は結歎なり。宜応自欣慶とは、初めて歓喜位に入るの解を成ずるなり、初住に能く百仏世界に作仏す、行と地は是に倍す。

 [37]第五に四衆の領解に長行頌有り、初めに経家は衆喜を叙す。次に供養を陳ぶ。作是言の下は正しく領解す、初めに開権を領す。今乃復転の下は顕実を領するなり。

 [38]偈に六行半有て二と為す、初めの二行は上の開権と顕実とを頌す。後の四行半は自ら得解。随喜。廻向を述するなり。我等亦如是とは身子の領解の如く、身子の述成を被むるが如く、身子の記を得るが如くなり。問ふ、迦葉、善吉の諸大声聞も尚ほ未だ解を得ず、四衆の何人ぞ先に悟を獲る。答ふ、四衆天人も亦三品を具す、上根は身子に同じく、中下は知ぬ可し。又解すらく、身子迦葉並に是れ権行なり、中下は未だ開せざる故に迦葉満願は不解に示同す。浄名に云く、衆生は未だ愈へざれば菩薩も亦未だ愈へず云云と。

 [39]爾時舎利弗白仏より下、第二大段は中根の為めに譬説す、文に 四品有り、此一品は正しく是れ譬喩もて開三顕一す、信解は中根の得解を明す、薬草は如来の述成、授記は決を与ふるなり、此四番は皆譬に約して説くなり、下の四段は皆因縁に約す、陳如は繋珠の縁を助して而して領解す、阿難には空王の縁を引て記を獲せしむ云云。又法説に例するに、応に中根の四衆の歓喜有るべし、而して今無きは、一に謂く経家の略を存す、二には前後に例して知ぬ可し、後の文とは法師品の中に在り云云。譬説の文二と為す、一に請、二に答、請三と為す、一には自ら疑無きことを述し、二には同輩惑有ることを述す、三には普ねく四衆の為めにす。

 [40]自述は文の如し。

 [41]同輩は是れ同行なり、旧を懐ふが故に須らく為めに請すべし、四聚は是れ化境なり、今新に大悲を運びて則ち普ねく為めに請す。仏常教化の下は昔の三教を執するなり。而今於世尊前の下は昔の一理を執するなり、昔は三是れ究竟と説く、今は又一を真実と為すと説けば、矛盾して迷を致す故に、「皆疑惑に堕す」と言ふ。有人の云く、身子は新旧の両疑あり、千二百は止だ新疑のみ有りと、今謂く、上根は疑少く、中下は疑多し、云何ぞ倒解せん。

 [42]善哉世尊の下は四衆の為めに普ねく請するなり、因縁とは前三後一の因縁なり。

 [43]爾時仏告舎利の下は第二に仏の答、文三と為す、一に発起、二に譬喩、三に勧信なり、発起二と為す、一に抑、二には引なり。

 [44]抑へて憤勇せしめ、引て速進せしむ。我先不言の下は、上の権を明すを指す、皆為菩提とは、上の実を顕はすを指す、皆為化菩薩とは、若しは権、若しは実、皆仏道無住涅槃に入らしむ、上に已に明かに言ふ、云何ぞ教を執して闇に迷ひ解せざると、此の如く責れば是れを抑の文なりと謂ふなり。

 [45]然舎利弗今当の下、是れ引接し安慰するなり、前に斥すること既に切なり、恐くは鄙懟して自ら沈まんことを、今は其譬喩もて更に此義を明さんことを許す、若し能く解する者ならば、猶ほ智と称するなり。

 [46]二に譬喩説に長行・偈頌あり、長行に開譬と合譬あり、開譬の同じからざるは已に上に説くが如し。今二と為す、一に総、二に別なり、総譬は釈迦章の中の今我亦如是の両行の偈の略して開権顕実を頌することを譬ふるなり、別譬は釈迦章の中の我以仏眼観見の四十一行半の偈の広く開権顕実の六意を頌することを譬ふるなり。

 [47]総譬に六有り、一に長者、二に舎宅、三に一門、四に五百人、五に火起、六に三十子なり、長者は我を譬ふ、我は即ち釈迦一化の主なり、火宅は上の処所の安穩、上の三界の不安穩に対するを譬ふるなり、一門は上の宜示仏道門を譬ふるなり、五百人は上の衆生を譬ふるなり、火起は上の不安穩法を五濁八苦に対するを譬ふるなり、三十子は上の知衆生性欲、三乗行人に譬ふるなり、長者譬三と為す、一に名行、二に位号、三に徳業なり。名は賓の如く、行は主の如し、行に親疎有れば、名に近遠有り、故に処所を挙げて以て名行を顕はすなり。

 [48]封疆を国と為す、最も遠し、宰治を邑と為す、中に居す、聚落は是れ隣閭、最も近し、長者の名行は此三処に遍す、近には其細陋を見ず、遠には但だ其高風を挹む、口に択言無く、身に択行無く、意に擇法無し、名行相称ひて真実の大人なり、内に如来の三業は智慧に随ひて行じ、機に称ふて化を施し、名称普ねく聞へ、徳は法界に周ねきに合するなり。

 [49]旧は十方の虚空慈悲所被の処を以て国と名け、三千を邑と為し、一四天下を聚落と為す、又大千を国と為し、中千を邑と為し、小千を聚落と為す、今は皆用ひす。

 [50]大論六十に云く、柔順忍を聚落と為し、無生忍を邑と為し三菩提を城と為すと、因果共に譬と為す、今の経は直に果徳を用ひて譬と為す、実報土を国と為し、有余土を邑と為し、同居土を聚落と為す。

 [51]本より迹を垂れて、迹を摂して本に反す、名行相称ふて賓主の異り無し、彪訥洋溢として三土に遍するなり。

 [52]二に位号を標して三と為す、一に世の長者、二に出世の長者、三に観心の長者なり、世に十徳を備ふ、一に姓貴、二に位高、三に大富、四に威猛、五に智深、六に年耆、七に行浄、八に礼備、九に上歎、十に下帰なり、姓は則ち三皇五帝の裔、左貂右挿の家なり、位は則ち輔弼丞相、鹽梅阿衡なり、富は則ち銅陵金谷、豊饒侈靡なり、威は則ち厳霜隆重にして、肅ならずして成る、智は則ち胸は武庫の如くにして権奇超抜なり、年は則ち蒼々稜々として物儀の伏する所なり、行は則ち白珪にして点無く、行ふ所言の如し、礼は則ち節度庠序として世の式瞻する所、上は則ち一人の敬ふ所、下は則ち四海の帰する所なり、十徳を具するを大長者と名く。出世の長者は仏は三世の真如実際の中より生ず、功成り道著はれ、十号極り無し、法財万徳、悉く皆具さに満す、十力雄猛にして、魔を降し外を制す、一心三智の通達せざる無く、早く正覚を成して、久遠なること斯の若し。三業は智に随て運動に失無し、仏の威徳を具して心大なること海の如し、十方の種覚の共に称誉する所、七種方便は而も来て依止す、是れを出世の仏大長者と名く。三に観心とは、観心の智は実相より出づ、生じて仏家に在り、種性真正なり、三惑起らす、未だ真を発せずと雖も、是れ如来の衣を著し寂滅忍と称す。三謗に一切の功徳を含蔵す、正観の慧は愛見を降伏す、中道双照して権実並に明かなり、久しく善根を積んで能く此観を修す、此観は七方便の上に出づ、此観は心性を観ずるを上定と名く、則ち三業に過無し、縁に歴、境に対して威儀に失無し、能く此の如く観ず、是れ深信解の相なり、諸仏皆観喜して、持法の者を歎美す。天龍四部は恭敬し供養す。下の文に云く、仏子是地に住すれば、即ち是れ仏の受用したまふ、経行し及び坐臥したまはんと、既に此人を称して仏と為す、豈に観心の行者と名けざらんや。今十徳を以て経に帖するに義足る、而して一文を闕く。国邑聚落有大長者とは、三処の称誉を大と為す、豈に姓貴に非ずや、長者豈に位高に非やや、衰邁豈に耆老に非ずや、財富無量、豈に豊足に非ずや、多有田宅は即ち分略あって周 贍す、豈に智深に非ずや、多有僮僕、豈に勢大に非ずや、其家広大、豈に徳行之に師たるに非ずや、唯有一門、豈に礼節の人に一路を訓ふるに非ずや、多諸人衆、即ち下人の帰する所にして、但だ上人の敬する所の一文を闕くのみ、今大の字を以て之を兼ぬ、大人の知る所、故に大と称するなり。

 [53]其年衰邁より下は三に徳業を歎ず、徳に内外有り、内は則ち智略、外は則ち貲財なり、年高く博く今古に達するは仏の智徳に譬ふ、衰邁して根志純熟するは仏の断徳を譬ふ、財富は外徳を譬ふ、無量は総じて万徳を譬ふるなり、田宅は別して譬ふるなり、田は能く命を養へば禅定の般若を資くるを譬ふ、宅は身を棲ましむ可ければ実境の智の所託と為るを譬ふ、略すれば則ち十八空門、広くば則ち無量の空門なり、若し福徳を論ずれば、行として修せざること無く、若し智慧を論ぜば、境として照さゞること無し、故に多有田宅と云ふなり。僮僕とは給侍使人なり、方便知見皆已に具足することを譬ふ、光りを六道に和し、曲に万機に順ずるは、即ち実智の僮僕なり。

 [54]二に其家広大とは、家宅は上の安穩、不安穩に対するに譬ふ、不安穩は三界に譬ふるなり。衆生 穴穴、皆三界を宅とす、如来の応化は統て之を家とす、故に広大と言ふなり。

 [55]三に唯有一門とは、上の種々法門宜示於仏道を譬ふ。道場観の云く、実相の理は異らず、慧も亦一なるべし、出るに異路無し、故に一門と言ふと。光宅の雲云く、三界は曠なりと雖も、九十は多しと雖も、出要を論ずるに唯是れ仏教なり、故に一門と言ふと。

 [56]今明さく、若し単に理を門とせば、理には通塞無し、何ぞ門の謂ならん、単に教ふることを門とせば、経を得る者衆し、何の意ぞ出でざらん。今は理を教の所詮と為るを取る。文に云く、仏の教門を以て三界の苦を出で涅槃の証を得と。門又二あり、宅門と車門となり、宅とは生死なり、門とは出要の路なり、此れ方便教の詮なり、車とは大乗の法なり、門とは円教の詮なり。若し宅門は是れ車門ならば、初め三車もて子を救ふも、亦応に即ち是れ等しく大車を賜はるなるべし、若し所・出の門は所入の門に非ずんば、験けし、車と宅と異るなり。

 [57]四に五百人とは、上の衆生を譬ふ、即ち五道なり。

 [58]五に堂閣の下は、上の安穩、不安穩の法に対するを譬ふ、五濁なり。先に所焼の宅相を出して、六道の果報を譬ふ、次に能焼の火を明して、八苦五濁を譬ふ。堂は欲界を譬へ、閣は色無色界を譬へ、牆壁は四大を譬へ、頽落は減損を譬へ、傾危は遷変を譬へ、柱根は命を譬へ、梁棟は意識を譬へ、腐敗は危殆にして久しからざるを譬ふ。解し易からしめんと欲して、観を作して之を釈す、堂は身の下分を譬へ、閣は頭等の上分を譬へ、牆壁は皮肉を譬へ、頽落は老朽を譬へ、柱根は雨足を譬へ、腐敗は無常を譬へ、梁棟は脊骨を譬へ、傾危は大期を譬へ、周障屈曲は大小腸を譬へ、又云く心を譬ふと云云。周匝の下は能焼の火を明す、八苦は遍ねく四大四生に在り、故に周匝と言ふ、並に皆無常なり、故に倶時と云ふ、炊然は本無今有か譬ふ、本と此苦無けれども、無明の故に有り。

 [59]六に長者諸子の下の三十子は、上の知衆生性欲を譬ふ。曾て仏の法を習ひて天性相関はる、則ち子の義なり。性欲に異有り、若十は是れ菩薩子なり、二十三十は是れ二乗子なり、此機は倶に宅を出ずることを得、故に名けて子と為す。此機無きもの是れ五百人なり。或ひとは支仏の出没は同じからず、或は小乗に摂し、或は中乗に摂すと。皆十と言ふは、悉く 十智の性有り、故に内に智性有りと云ふ、但だ如実智の性無きのみ。上の二偶は先に実を頌し、後に権を頌す、今は総譬の中、先に実、後に権なり云云。