[1]第二に煩悩境を観ずるとは、上の陰界入に悟らずんば、則ち其宜しきに非ず、而して観察すること已まずんば、煩悩を撃動し、貪瞋発作す、是時には応に陰入を捨てて煩悩を観ずべし。前に五欲を呵せるは其過罪を知る、棄蓋は是れ平常の陰入を捨つるなり。果報を観ずるに中に於て解を求む。今、発作隆盛にして重き貪瞋を起すを観ず。鉄は火と合せざれば但黒く、若し火と合すれば赫然たるが如し。又、報法尋常なれば時として有らざること無く、呵棄すること易しと為す。若し欻起の煩悩は、控制すること則ち難し。何となれば生来瞋なりと雖も諫曉するときは則ち息む、今発する所の者は、咆勃として畏る可し、生来の倒想は乍ち起り乍ち滅す、今発する所の者は鬱然として去らず、生来の欲色は抑制するに停まるべし、今発する所の者は死馬をも簡ばず況んや其匹類をや、此惑内に発して強梁熾盛なるに、若し外境を見ば心狂し眼闇し。譬へば流水其急なることを覚えざるも、之を概るに木を以てすれば漣漪●1.(ひやう)起するが如し、亦、健人力あることを知らざるも、之に触るれば怒り壮なるが如し。煩悩臥伏して有るが如く無きが如し、道場にして懺悔し陰界入を観ずれば、睡れる師子に触るるに哮吼して地を震ふが如し。若し識らざれば則ち能く人を牽きて大重罪を作さしむ、唯、止観の成ぜざるのみに非ず、更に悪業を増長し、黒闇の坑に墜ちて能く勉出すること無し、是義の為の故に須く煩悩境を観ずべし。

 [2]此を観ずるに四と為す、一には略して其相を明す、二には因縁を明す、三には治の異を明し、四には止観を修す。初に相を明すとは、先に名を釈せば、煩悩は是れ昏煩の法、心神を悩乱し、又、心とともに煩を作して心をして悩むことを得しむ、即ち是れ見思の利鈍なり。此れ一往数を分つ、五鈍何ぞ必ず是れ貪瞋ならん、諸の蠕動の如き、実には理を推さざれども而も螯を挙げて鬐を張り、目を怒らして自ら大にす、底下の凡劣何ぞ嘗て見を執せん、行、住、坐、臥恒に我心を起す、故に知んぬ、五鈍は利無きに非ざるなり、五利、豈唯見惑のみならんや、何ぞ嘗て恚、欲無けん、当に知るべし、利鈍の名は見思に通ずることを。今、位に約して之を分ち、相濫れざらしむ。若し未だ禅を発せざるよりこのかたは、世智有りて理を推すこと弁聡なりと雖も、見想猶弱く、所有の十使同く鈍に属す、定に因て見を発し、見心猛盛なるに従はば、所有の十使は強に従つて名を受けて皆利に属す。両の学人の如し、一は法の意を得れば諍を為すこと則ち強し、一は語言を得れば諍を為すこと則ち弱し、語を得れば禅無きが如く意を得れば定を発するが如し。若し定を発し已つて而して見惑を起さば、下の所観の如し、若し未だ定を発せずして而して煩悩を起すは正しく是れ今の所観なり。若し利の中に鈍有らば、諦を見るに但利を断じ、鈍も猶応に在るべし。「毘曇の人」の謂はく、「利の上の鈍を背上使と名く、見諦断の時、正利既に去れば背使も亦去る」と。思惟も亦是の如し。若し此利鈍を開すれば、八万四千と為る、今は但束ねて四分と為すなり。三毒の偏に発するを三分と為し、若し等く三境を縁ずれば等分と名く。三毒の偏に起るは是れ覚観にして多に非ず、三毒の等く起るを覚観多と名く、若は少、若は多、悉く散動と名く、倶に能く定を障ふ、無記は是れ報の散動なれば則ち定を障へず。「経」に云はく、「滅定従り出て散心の中に入る、散心の中より出て還て諸定に入る、散も定を障へず」と、即ち此義なり。「成論の人」の云はく、「散は無知を兼ね癡は能く定を障ふ。若し爾らば散は瞋欲を兼ぬ、何ぞ定を障へざらんや。今釈す、別に意有り、上の棄蓋の中に説くが如し。但煩悩の相は広くして尽すべからず、若し具に分別せば観門を妨げん。「法華」に云はく、「二十年の中、常に糞を除はしむ」と、糞とは即ち煩悩汚穢の法なり、之を棄つること若し尽れば一日の値を得、若し、住して多少を分別すれば終に直を得ず、今、煩悩の糞を観じて智慧の錢を求む。見思の相を分別せんと欲するに非ざるなり。若し爾らば五百の羅漢は何を以てか分別せる。仏法を持たんが為に衆の導首と作り、種種の難を通ず、須く広く分別すべし、今、正しく道に入る力未だ暇あらざる所、亦観に於て急に非ず、但総じて四分の糞穢を知りて、勤めて而して之を棄つ、若し空従り仮に入る時は当に委悉く分別すべし。復次に利鈍合して各束ねて四分と為す、同く是れ界内二乗に共じて断ずるを通煩悩と名く、若し界外の四分は、二乗断ぜざれば別煩悩と名く、若し相関ることを作さば何ぞ通を離れて別有ることを得ん、通惑を枝と為し、別惑を本と為す、真智を得て枝を断じ、中智を得て本を断ず、若し不思議を作さば、祇界内の煩悩即ち是れ菩提なり、何ぞ是れ別惑に非ざることを得ん、已に前に説けるが如し。

 [3]二に煩悩起るの因縁を明す。因縁に三有り後に説くが如し。起相に四有り、深にして而も利ならず、利にして而も深ならず、亦深亦利、不深不利なり。第四の句は即ち通途の果報の惑相に属す、尋常相係る、故に非深非利と言ふなり。三句は起動常に異り、即ち煩悩の発相に属す。発する時深重にして禁止すべからず、境に触れて弥増す、能く遮制すること無し、是を深の相と為す。数数発起し、起れば輙ち深重なり、故に名けて利と為す、利にして而も深ならず、深にして而も利ならず、此に準じて知るべし。因縁とは、一には習因の種子、二には業力の撃作、三には魔に扇動せらる。習とは無量劫来煩悩重積して種子成就し、熏習相続す。駛水の流、之に順ずれば其疾きことを覚えず、之を概れば則ち奔猛なることを知るが如し、行人、煩悩の流に任せ、生死の海に沿いて都て覚知せず、若し道品を修すれば、諸有の流に泝つて煩悩嵬起す、唯当に勤勉して特出し曉夜に功を兼ぬべきのみ。業とは、無量劫来、悪行成就して怨責を負ふが如し、那ぞ汝をして道を修して出離せしむることを得ん、故に悪業卓起して観心を破壊し、善法をして立ざらしむ。河湉静なれば流浪を覚えず、暴風卒に至れば波連山の如し、若し帆柁を放擲すれば壊るること斯須に在り、心を一にして前後を正しくすれば、行船免るることを得るが如し。魔とは、若し魔行を作さば是れ其民属なり、故に動乱せず、若し道を行じて界を出で、此を去つて彼に投ずれば、十軍摂擒す、故に深利の惑、欻然として而して至る。大海水は風流無しと雖も魔竭水を吸はば万物奔趣して力をもつて拒ぐ可からず、専ら仏の名を称へて乃ち脱することを得るが如きのみ。若し火に就て譬を為さば、抖擻は習の如く、風扇は業の如く、膏投は魔の如し。魔業は下に説くが如し、習動の煩悩を観ずれば是れ今の所観なり。

 [4]三に治法の不同とは、小乗の治に五有り、対、転、不転、兼、具なり。此五、共に四分の煩悩を治す。障道の起るは下の業境の如し、云云。対治とは、一分の煩悩に即ち三種有り、合して十二と成る、此に対するに亦十二有り、寇に対して陣を設くるが如し、是を対治と名く。転治とは、不浄の如きは是れ貪欲の対治なり、而して其宜しきに非ず、応に浄観を以て脱することを得べきには、転じて慈心を修せしめ、念ずるに浄法の安楽を以てす、豈穢辱を加へんや、是を転治と名く、若し瞋人に不浄を教へ、癡人に辺・無辺を思惟することを教へ、掉散に智慧を用て分別することを教ふ、此は是れ、病転ぜずして而も治転ず、皆転治と名く、若は薬病倶に転ずるを亦転治と名く、亦是れ対治なり。不転治とは、病転ずと雖も治は終に転ぜず、宜しく此法を修して但此を以て治すべし、転、不転の病を治す、故に不転治と名く。兼治とは、病兼ぬれば薬も亦兼ぬ、貪欲は瞋を兼ぬるが如き、不浄は須く慈心を帯ぶべし、病に一二を兼ねれば薬も亦一二を兼ぬ、是を兼治と名く。具治とは具に上法を用て共に一病を治す、是を小乗は先に五治を用ひ後に諦智を用て乃ち真に入ることを得と名く。大乗は治を明すに、対に非ず、兼等に非ず、第一義の治と名く、阿竭陀薬の能く衆病を治するが如し。小乗は多く三悉檀を用て治と為す、大乗は多く第一義悉檀を用て治と為すなり。空、無生の中、誰か是れ煩悩、誰か是れ能治なる。尚ほ煩悩無し、何物か而も転ぜん、既に転ずる所無し、亦兼具せず、但無生の一方を以て遍く一切を治するなり、此れ極略、須く善く意を取るべきなり。

 [5]四に止観を修するとは、還つて十意と為す。初に思議の境を簡ぶとは、一念の欲覚、初め起ること甚だ微なり、即ち遮止せざれぱ遂に漸く増長す、欲事の為の故に、貪引・無道、乃至、四重・五逆、是を煩悩は地獄界を生ずと名く。欲の因縁の為に慚耻を知らずして魯扈觝突す。復礼義無くして人種を亡失す。是を貪欲は畜生界を生ずと名く。又欲の因縁の為に慳惜守護し、亦他家を慳す、是を貪欲は餓鬼界を生ずと名く。欲の因縁の為に而も嫉妬を生ず、猜忌防擬して常に他に勝たんと欲し、百方鴆陥して彼をして退負せしむ、是を貪欲は修羅界を生ずと名く。又欲の因縁は深く現楽を愛して礼を以て婚嫂し、毎に撙節を存して仁義に符順す、未来の欲楽の為に而も五戒を持す、是を貪欲は人界を生ずと名く。又欲の起る時、人の欲は麤なりと鄙して天の欲を希求し、十善を勤修し、防止純熟して任運に起らず、是れ貪欲を観じて六天界を生ず。又欲心を観じ、呵棄清浄にして能く禅定を発す、是れ色天・無色天界なり。又、欲は是れ集、集は方に苦を招くと観じて、此の苦・集を厭ひ、而して出要を修す、是れ声聞界なり。若し欲は是れ無明、無明の欲の為にして而も諸行を造り、輪環して際り無し、若し欲を止むれば、無明、行等も皆止まると観ずるは、是を縁覚界と為す。若し欲は是れ蔽なりと観じて即ち慈悲を起し、而して捨を行じ無常を怖畏す、乃至、欲は是れ癡等と観ずるは是れ六度界なり。若し欲は本より自ら起らず、今亦住せず、はたまた滅せず、欲は即ち是れ空、空は即ち涅槃なりと観ずるは、是を通教の界と為す。又、欲心に無量の相有り、集既に一に非ざれば苦も亦無量なりと観じて、根・欲・性皆欲心に因つて分別具足すと知る、是を別教の界と為す。其余の三分の煩悩、諸法を出生することも亦復是の如し。次第に一切の法を生ず、是を思議境と名くるなり。

 [6]不思議境とは「無行」に云ふが如し、「貪欲は即ち是れ道。恚、癡も亦是の如し。是の如きの三法の中に一切の仏法を具す」と。是の如きの四分、即ち是れ道なりと雖も復随ふことを得ず、之に随はば人を将いて悪道に向ふ、復断ずることを得ず、之を断ずれば増上慢と成る。癡愛を断ぜずして諸の明脱を起す、乃ち名けて道と為す。調伏に住せず、不調伏に住せず、不調伏に住するは是れ愚人の相、調伏に住するは是れ声聞の法なり。所以は何ん。凡夫は貪染して四分に随順し、生死重積し、狼戻して馴れ難し、故に不調と名く。二乗は生死を怖畏すること、怨の為に逐はるるが如し、速かに三界を出づ。阿羅漢は名けて不調と為す、三界の惑尽きて惑として調ふ可き無し、是の如きの不調、之を名けて調と為す、焦種は生ぜず、根敗れて用無し。菩薩は爾らず、生死に於て而も勇有り、涅槃に於て而も味はず。生死に勇なるは無生にして生ず、生法の為に汚されず、花の泥に在るが如く、医の病を療するが如し。涅槃を味はずとは、空は空ならずと知りて、空法の為に証せられず、鳥の空に飛びて空に住せざるが如し。煩悩を断ぜずして而も涅槃に入り、五欲を断ぜずして而も諸根を浄む、即ち是れ調伏に住せず不調伏に住せざるの意なり。今、末代の癡人、菴羅果は甘甜くして口にす可しと聞きて、即ち其核を砕いて之を嘗むるに甚だ苦し、果種甘味一切皆失ふ。智慧無きが故に核を刻むことはなはだ過ぎたること亦復是の如し。調伏に非ず、不調伏に非ずと聞きて亦調伏を礙へず、亦不調伏を礙へず、礙へざるを以ての故に、無礙道と名く。無礙を以ての故に灼然と淫泆し、公に非法を行じて片の羞耻も無くんば諸の禽獣と相異ること無きなり。此は是れ塩を噉ふことはなはだ過ぎたるものにして鹹渇、病を成す。「経」に云はく、「無礙の法に貪著する、是人は仏を去ること遠し、譬へば天と地との如し」と。「大経」に云はく、「我れ無相を修すと言ふは則ち無相を修するに非ざるなり」と。此の人、非道を行じて仏道に通達せんことを欲望し、還つて自ら壅塞して凡鄙に同ず、是れ不調に住す、住せざるにはあらざるなり。復、行人有りて調伏に住せず、不調伏に住せざることを聞きて、二辺を怖畏し、深く自ら兢持し、中智を修して二辺を断破せんと欲す。是人は貪欲に即して是れ道なること能はず、貪欲を断じ已つて方に是れ道なりと云ふ。此れ乃ち調伏に住す、住せざるには非ざるなり。北方は此両失を備ふ。又初め中観を学んで貪欲を断ずるに益を得ること能はず、心を放縦にして不調の事を行ず、初め一たび之を行ずるに薄く片益を得、此自り已後は常に行じて息ず、亦復益無けれども之を行じて改めず、己れが先の益を以て他を化して行ぜしめ、又経を引きて証となす、化を受くるの徒は但欲楽を貪つて繊芥の道益も無し、崩騰耽湎して遂に風俗を成す、戒律を汚辱し三宝を陵穢す。周の家、仏法を傾蕩するも皆此に由て来る、是れ不調に住し及び調に住す、何ぞ調と不調に住せざるに関らん、是を大礙と名く、何ぞ無礙に関らん、是れ非道を増長すること、何ぞ仏道に関らん。是の如きの調と不調とを皆不調と名く。何を以ての故に。悉く是れ凡情にして賢聖の行に非ざればなり。今言はく、調伏に住せず、不調伏に住せず、非調伏非不調伏に住せず、亦調伏亦不調伏に住せず、亦調伏に住し、亦不調伏に住し、亦非調伏非不調伏に住し、亦、亦調伏亦不調伏に住す。何を以ての故ぞ。煩悩即ち空なるが故に不調伏に住せず、煩悩即ち仮なるが故に調伏に住せず、煩悩即ち中なるが故に亦調伏亦不調伏に住せず、雙べて煩悩を照らすが故に非調伏非不調伏に住せず。調、不調等に住せずと雖も而も実には調、不調等に住す、実には調、不調等に住すと雖も而も実に調、不調等に住せず。何を以ての故ぞ。偏に一句を観ぜざるが故に、一句即ち諸句、一切法は貪欲に趣くが故に、貪欲も是れ諸法の都ぶる所なるが故なり。此意を用て一切の句に歴、所謂貪欲は、是れ有なりと計するを不調伏に住すと名く、之を計して無と為すは調伏に住す、是の如き等、自在に説く、云云。是の如く体達するを名けて無礙の道と為す、一切無礙の人、一道より生死を出づ、云何が出るや。有時は、貪欲は畢竟清浄にして累無く染無きこと猶虚空の如しと体達して、豁として生死を出づ、是を調伏に住して益を得と名く。或時は心を縦にして此貪欲本末の因縁を観ず、幾種か是れ病、幾種か是れ薬なる、和須蜜多の如きは離欲際に入りて衆生を度脱すと、是観を作す時、豁として生死を出づ、是を不調に住して益を得と名く。或時は二倶に非なるが故に益を得、或時は倶に観じて益を得。是の如く善巧に応に住すべく応に住すべからずして自他倶に益す、菩薩の法に於て損減する所無し、四悉檀を以て而も自ら斟酌せよ。喜根の如きは諸の居士の為に巧度の法を説きて皆無生忍を得、勝意比丘は拙度の法を行じて克獲する所無し、後、聚落に遊んで、貪欲即ち道なりと聞きて而も喜根を瞋る、云何ぞ他の為に障道の法を説くと、擯を作すこと未だ成ぜず、喜根為に偈を説くに即ち身陥る、菩薩は其信ぜずして会らず地獄に堕せんことを知る、是故に強て説きて後世の因を作す。巧に悉檀の若は自、若は他、若は近、若は遠に観ぜば、調伏、不調伏等に住すること皆当に失なかるべし、調、不調等に住せざることも亦皆失無し。若し四悉檀の意を得ざれば、若は住するも住せざるも、自ら愛網を織つて他の譏慢を起し、自ら礙へ他を礙ふ、無礙に非ざるなり。若し一念煩悩の心起れば、十界百法を具して相妨礙せず、多と雖も有ならず、一と雖も無ならず、多にして積せず、一にして散ぜず、多にして異ならず。一にして同ならず、多即ち一、一即ち多なり。「経」に云はく、「闇中の樹影は闇の故に見えざるも、天眼は能く見る」と。是を闇の中に明有りと為す。智障甚だ盲闇なる、是を明の中に闇有りと為す。亦初は灯と闇と共に住するが如し。是の如く、明暗相妨礙せず、亦相破せず。何を以ての故ぞ。世間現に室内に灯を然すを見るに、向の闇去つて何れの処に至るかを知らず、若し灯滅すれば闇法復来る、来るに本源無く、去るに足跡無く、闇既に此の如くなれば明も亦復然り、闇を求むるに闇無ければ、明の破する所も無く、明を求むるに明無ければ闇の蓋ふ所も無し。明闇無しと雖も破・蓋宛然たり。受けず、著せず、念ぜず、分別せず、新起の者は不受と名け、旧起の者は不著と名け、内に取らざるを不念と名け、外に取らざるは不分別と名く、妙慧朗然なり、是義を以ての故に不思議と名く、相妨げず、相除かず。若し世智の灯滅すれば闇惑更に来る。若し中道の智光は常住動ぜず、神珠の常に照して闇即ち来らざるが如し。煩悩の闇は即ち大智明なりと観じて、仏菩提を顕せば、惑則ち来らざるなり。上の陰入境に準じて知んぬべし、云云。

 [7]是の如く観ずる時、追つて己が過を傷み、広く衆生を愍れむ。何を以ての故ぞ。理は明闇に非ず、迷惑を以ての故に苦・集の闇を起す、治法を解するが故に道・滅の明有り、闇に約するが故に悲し、明に約するが故に慈す、大誓の心は境と倶に起るなり。

 [8]願を満ぜんが為の故に須く要行を立つべし。行の要なるは止観より先なるはなし。四分の煩悩、之を体するに即空なるを体真止と名く、入空観なり。諸の煩悩、薬病等の法を観ずるを随縁止と名け、入仮観なり。諸の煩悩は真際に同じと観ずるを息二辺止と名く、入中道の観なり。善巧に心を安んじて此三止三観を修し、一心に三眼三智を成ずるなり。

 [9]若し眼智未だ開けずんば、障を破して遍からしむ。四分の煩悩、念念の三仮を観ずるに自他共離、単複具足に非ざるは、見思の不生なり、病を知り薬を識るは無知の不生なり。真に非ず縁に非ざるは無明の不生なり、横豎に破すること遍し。

 [10]即空の中に於て苦集を翻構す、是を塞を知ると名く、苦集の中に於て即ち是れ空なりと達す、是を通を知ると名く。諸の法薬に於て翻構して病と為す、是を塞を知ると名く、諸の病法に於て即ち能く薬を知る、是を通を知ると名く、法性を翻じて無明と為す、之を名けて塞と為す。無明転じ、即ち変じて明と為る、之を名けて通と為す。

 [11]又煩悩を観じて而も道品を修す、四分の心起るは即ち汚穢の五陰、一陰は無量陰なり、受、想、行、識も亦復無量なり、諸陰即ち空なれば凡夫の倒破して小の枯樹成ず、諸陰即ち仮なれば二乗も倒破して大の栄樹成ず、諸陰即ち中なれば枯栄の教廃し二辺寂滅して大涅槃に入る、乃至、三解脱を開きて清涼池に入るなり。

 [12]若し遮障重きには当に助道を修すべし、既に解惑相持つ、便ち応に援けを索むべし。外の貪欲起らば不浄を以て助け、内の貪欲起らば背捨を以て助け、内外の貪欲起らば勝処を以て助けよ。違法の瞋起らば衆生の慈を以て助け、順法の瞋起らば法縁の慈を以て助け、戯論の瞋起らば無縁の慈をもつて助けよ。断常を計すること起らば三世の因縁をもつて助け、我人を計すること起らば二世の因縁をもつて助け、性実を計すること起らば一念の因縁をもつて助けよ。明利の覚起らば数息をもつて助け、沈昏の覚起らば観息をもつて助け、半沈半明の覚起らば随息をもつて助けよ。助道強きが故に能く涅槃の門を開闢す。

 [13]未だ開けざる頃に於て或は一種の解心を得、或は一種の禅定を得ば、当に熟思量すべし、草木瓦礫、妄に持つて是れ瑠璃珠なりと謂ふこと勿れ、若し即ち是なりと謂はば何の煩悩か滅するや、見なる耶、思なる耶、塵沙なる耶、無明なる耶、諸位全く無きに、謬つて即ち是なりと謂はば、猶、鼠喞の如し、若し空空と言はば空鳥の空の如し、未だ次位を識らざるを以てなり、観行・相似、全く未だ相応せざるに上位に叨濫す、所以に怪を成ず。若し内外の障起らば当に好く安忍すべし、忍若し過ぎざるは敗壊の菩薩なり、安忍して動ぜずんば薩埵も成ずべし、即ち償賜の似道の禅慧を獲ん。

 [14]是償を得る時、法愛を生ずること莫れ、愛は真道を妨ぐ、若し頂堕なくんば自在無礙なること風の空を行くが如し、位、銅輪に入りて無明の惑を破し無生忍を成ず。

 [15]一の大車の高広にして僕従而も之を侍衞するを得、是宝乗に乗じて直に道場に至る。

 [16]是を、四分の煩悩は一切の仏法を具足すと名く。

 [17]亦、非道を行じて仏道に通達すと名け、亦は、煩悩是れ菩提と名け、亦煩悩を断ぜずして而も涅槃に入ると名く。広く説かば三十六句有り、須く先に四句を立つべし、謂はく、煩悩を断ぜず涅槃に入らず、煩悩を断じ涅槃に入る、亦断じ亦断ぜず、亦入り亦入らず、断に非ず不断に非ず、入に非ず不入に非ず。初の句は凡夫を謂ひ、次は無学の人を謂ひ、三は学人を謂ひ、四は理是を謂ふ、是を根本の四句と為す。句句に各四を開く、初の句の四は、断ぜず入らず、断じて入らず、亦断じ亦断ぜずして入らず、断に非ず断ぜざるに非ずして入らざるを謂ふ。初は悪を起すの凡夫を謂ひ、二は禅を得るの外道を謂ひ、三は禅を得、見を起すの外道を謂ひ、四は無記の人を謂ふ。次の句の四とは、断じて入り、断ぜずして入り、亦断じ亦断ぜずして入り断に非ず断ぜざるに非ずして入るを謂ふ。初は、析法の無学を謂ひ、二は体法の無学を謂ひ、三は析体の両学の人を謂ひ、後は真理性冥を謂ふ、即ち是れ入なり。第三の四句は、亦断じ亦断ぜずして亦入り亦入らず、断じて亦入り亦入らず、断ぜずして亦入り亦入らず、断に非ず不断に非ずして亦入り亦入らず。初は析体の両学人を謂ひ、二は析法の学人を謂ひ、三は体法の学人を謂ひ、四は通の学、無学の人の真理を謂ふなり。第四の四句とは、断に非ず不断に非ずして入に非ず不入に非ず、断じて入に非ず不入に非ず、断ぜずして入に非ず不入に非ず、亦断じ亦断ぜずして入に非ず不入に非ず。初は凡聖の等しき理を謂ひ、二は析法の聖理を謂ひ、三は体法の聖理を謂ひ、四は析体学人の理を謂ふ。此く十六句を説く、根本の四句に就て合して二十句の入涅槃なり。又十六句の涅槃を出す、初に根本の四句とは、謂はく、煩悩を断ぜずして涅槃を出でず、煩悩を断じ涅槃を出づ、亦涅槃を断じ亦断ぜずして亦出で亦出ず、断に非ず不断に非ずして出に非ず不出に非ず。一一の句に各四句あり、初の四句は、煩悩を断ぜず涅槃を出です、煩悩を断ぜずして涅槃を出づ、煩悩を断ぜずして亦出で亦出でず、涅槃を断ぜずして出に非ず不出に非ず。一は体法の二乗を謂ひ、二は体法出仮の菩薩を謂ひ、三は体法亦空亦仮の菩薩を謂ひ、四は体法の真理を謂ふ。第二の四句とは、煩悩を断じて出で、煩悩を断じて出ず、煩悩を断じて亦出で亦出ず、煩悩を断じて出に非ず不出に非ず。一は析法の無学、仏を輔けて衆生を益するを謂ひ、二は析法の無学、即ち滅に入る者を謂ひ、三は析法の学人、自ら利し他を利する者を謂ひ、四は真理を謂ふ。第三の四句とは、亦断じ亦断ぜずして亦出で亦出ず、亦断じ亦断ぜずして出で、亦断じ亦断ぜずして出ず、亦断じ亦断ぜずして出に非ず不出に非ず。初の句は、析体を兼ね用ひて空に入るの菩薩を謂ひ、二の句は、析体を兼ね用ひて仮に出るの菩薩を謂ひ、三の句は析体を兼ね用ふるの二乗を謂ひ、四の句は体法冥真の理を謂ふ。第四の四句は、断に非ず不断に非ずして出に非ず不出に非ず、断に非ず不断に非ずして出で、断に非ず不断に非ずして出ず、断に非ず不断に非ずして亦出で亦出ず。初の句は体理を謂ひ、二の句は体法出仮の菩薩を謂ひ、三の句は体法の二乗を謂ひ、四の句は体法入空の菩薩を謂ふ。若し各出、入両根本の八句を立つれば即ち四十の句を成ず、若し根本を合して四句と為さば即ち三十六の句を成ず。

 [18]問ふ、三十六句はただ三蔵と通とに在るや、亦、別円を作すことを得るや。答ふ、体法の意は該からざる所無し、若し更に別説せば、別円の四門に約して更に之を分別す。根本の四句は、断ぜず入らざるは空門なり。断じて入るは有門なり、亦断じ亦断ぜずして亦入り亦入らざるは亦空亦有門なり、断に非ず不断に非ずして入るに非ず入らざるに非ざるは即ち非空非有門なり。一一の門に於て各更に四なるは、断ぜず入らざるは世界悉檀なり、断ぜずして入るは為人悉檀なり、断ぜずして亦入り亦入らざるは対治悉檀なり、断ぜずして入るに非ず入らざるに非ざるは第一義悉檀なり。又更に一門に於て還つて四門を作る。謂はく、断ぜずして入らざるは空門を謂ふなり、断ぜずして入るは有門を謂ふなり、断ぜずして亦入り亦入らざるは亦空亦有門を謂ふなり、断ぜずして入るに非ず入らざるに非ざるは非空非有門を謂ふなり。此一門、既に解す可し、余の三門も各各分別すること例して解すべし。四門に依て涅槃に入ること既に此の如し、涅槃を出づるの十六門や云何。謂はく、断ぜずして出ず、断ぜずして出で断ぜずして亦出で亦出ず、断ぜずして出づるに非ず出でざるに非ず。初は空門を謂ひ、二は有門を謂ひ、三は亦空亦有門を謂ひ、四は非空非有門を謂ふ。一門の四句此の如し、余の三門も解すべし。三十六、四十、前に準じて知んぬべし。此れ則ち遍く小・大、析・体の意を該ぬるなり。若し此意を得れば、一切の法を例するに亦応に是の如くなるべし。

 [19]問ふ、若し法の如く仏を観ずれば、涅槃と般若と是三則ち一相なり、涅槃に既に三十六句を明す、般若や復云何。答ふ、若し、涅槃既に即ち是れ般若ならば、何ぞ更に問ふことを俟たん、今当に重ねて説くべし。諸法生じ般若生ず、諸法生ぜず般若生ぜず、諸法亦生じ亦生ぜず、般若亦生じ亦生ぜず、諸法生ずるに非ず生ぜざるに非ず、般若生ずるに非ず生ぜざるに非ず、根本の四句なり。初の句に、更に四を開せば、諸法生じ般若生ず、諸法生じ般若生ぜず、諸法生じ般若亦生じ亦生ぜず、諸法生じ般若生に非ず不生に非ず。初句は俗境に道種智の般若を発するを謂ふ、二は俗境に一切智の般若を発するを謂ひ、三の句は、俗境に雙べて両の般若を発するを謂ひ、四は俗境に一切種智の般若を発するを謂ふ。第二の四句は、諸法生ぜず般若生ぜず、諸法生ぜず般若生ず、諸法生ぜず般若亦生じ亦生ぜず、諸法生ぜず、般若生に非ず不生に非ず。初の句は、真境に一切智の般若を発するを謂ふ、二の句は、真境に道種智の般若を発するを謂ひ、三の句は、真境に雙べて両の般若を発するを謂ひ、四の句は、真境に中道智の般若を発するを謂ふ。第三の四句は、諸法亦生じ亦生ぜずして、般若亦生じ亦生ぜず、諸法亦生じ亦生ぜずして、般若生じ、諸法亦生じ亦生ぜずして、般若生ぜず、諸法亦生じ亦生ぜずして、般若生に非ず不生に非ざるを謂ふ。初の句は、両の境に雙べて二智を発し、二は両の境に共に俗智を発するを謂ひ、三は両の境に共に真智を発するを謂ひ、四は両の境に共に中智を発するを謂ふ。第四の四句は、諸法生に非ず不生に非ずして般若生に非ず不生に非ず、諸法生に非ず不生に非ずして、般若生じ、諸法生に非ず不生に非ずして、般若生ぜず、諸法生に非ず不生に非ずして、般若亦生じ亦生ぜず。初は中の境に中智を発するを謂ひ、二は中の境に俗智を発するを謂ひ、三は中の境に真智を発するを謂ひ、四は中の境に雙べて二智を発するを謂ふ。已に十六句を説き竟る。次に説く、般若生じ諸法生ず、般若生じ諸法生ぜず、般若生じ諸法亦生じ亦生ぜず、般若生じ諸法生に非ず不生に非ず。初は道智の俗境を照すを謂ひ、二は道智の真境を照すを謂ひ、三は道智の両境を照すを謂ひ、四は道智の中境を照すを謂ふ。次に明す、般若生ぜず諸法生ぜず、般若生ぜず諸法生ず、般若生ぜず諸法亦生じ亦生ぜず、般若生ぜず諸法生に非ず不生に非ず。此は真智の諸境を照すの義を明す。前に準じて知るべきなり。次に明す、般若亦生じ亦生ぜざるに四句を開す。此は道種真智の等しく四境を照すを明すなり、云云。次に明す、般若生に非ず不生に非ず、中道の智の四境を照す、知んぬ可し、云云。是を十六と為し、根本に就て合して三十六の句を成ずるなり。

 [20]問ふ、法身や復云何。答ふ、般若既に是れ即ち法身なり、何ぞ更に問ふことを俟たんや、若し分別せんと欲せば意を以て知る可し、文を煩にせず。又、法、報、応、化の四身を本と為す。一一の身に於て四身を起す、謂はく、法身より報を起し、応を起し、化を起す。具に三を起す、余の身も亦是の如し、是を十六身と為す。又四身より一身に入る、身身亦是の如し、復十六有り。前の根本を合して是れ三十六身と為す、身身倶に是れ法界、故に倶に能く起す、故に倶に能く入る、云云。

 [21]第三に病患境を観ずるとは。それ身有らば即ち是れ病あり、四蛇の性異にして、水火相違す、鴟梟棲を共にし、蟒鼠穴を同うす、毒器重担、諸苦の藪、四国隣を為し互に侵毀す、力の均しきときは則ち暫く和し、虚に乗ずるときは則ち呑併す、四大休否、此喩知んぬ可し。諸仏の問訊の法に云はく、「小病小悩」と、仏、人法に同ず、人既に病有り、権に無きことを得ず、但少と言ふのみ。病に二義有り、一には因中の実病、二には果上の権病なり。 若し毘耶に偃臥し、疾に託して教を興すは、因て身疾を以て凡俗に訓示し、小を斥け大を呵す。乃ち文殊と共に広く因の疾を明すに三種の調伏あり、広く果疾を明すに四種の慰喩あり。又、如来は滅に寄せて常を談じ、病に因て力を説く、皆是れ権巧、病法門に入りて諸の病悩を引く、此の如きの権病は今の所観に非ず。今観ずる所は業報の生身、四蛇動作すれば聖道を修することを廃す、若し能く観察すれば弥用心を益す。上智利根は、前の安忍を解すれば則ち病境に於て通達して、重ねて論ずることを労せず、解せざる者の為に、今更に分別せん。大樹を躃すには万斧して便ち倒るるが如く、巨石を琢くには億下して乃ち穿つが如し、故に重ねて説くなり。それ長病・遠行は是れ禅定の大障なり、若し身疾に染まば、所修の福を失して無量の罪を起す。「経」に云はく、「浮嚢を破壊し、橋梁を発撤し、正念を忘失す」と。病の故に戒を毀れば浮嚢を破るが如し、禅定を破するは橋梁を撤するが如し、邪倒の心を起し膿血の臭身を惜み、清浄の法身を破するを正念を忘失すと名く。是義の為の故に応に病患境を観ずべし。復次に人有りて、平健なるときは悠悠として徒倚し懈怠す、若し病急なる時は更に転心を用ひて能く衆事を弁ず。又機宜同からず、悟、応に病に在るべし、即ち是れ四悉檀の因縁、応に病患境を須ふべきなり。

 [22]病を観ずるに五と為す、一には病相を明し、二には病起るの因縁、三には治法を明し、四には損益を明し、五には止観を明す。

 [23]一に病相とは、若し医術に善きは巧に四大を知る、上医は声を聴き、中医は色を相し、下医は脈を診る、今須く精しく医法を判ずべからず、但略して知るのみ。それ脈の法は医道に関る、具なることを言ふ可からず、略して五蔵の病相を示すに、若し脈洪直なるは肝の病の相なり、軽浮なるは是れ心の病の相なり、尖鋭衝刺なるは肺の病相なり、連珠の如くなるは腎の病相なり、沈重遅緩なるは脾の病相なり、委細なること体治家の説の如し。若し身体苦重にして堅結疼痛し、枯痺痿瘠するは是れ地大の病相なり。若し虚腫脹胮するは是れ水大の病相なり、若し身を挙げて洪熱し、骨節酸楚し、嘘吸頓乏なるは是れ火大の病相なり。若し心懸かに忽怳、懊悶忘失するは是れ風大の病相なり。又、面に光沢無く、手足汗無きは是れ肝の病相なり。面、青皅なるは是れ心の病相なり。面、黎黒なるは是れ肺の病相なり。身に気力無きは是れ腎の病相なり。体渋きこと麦糖の如くなるは是れ脾の病相なり。若し肝の上に白き物有るは眼をして疼赤ならしめ、脈曼白翳を成ず、或は眼睛破れ、或は上下に瘡を生じ、或は風に触れて冷涙出で、或は痒、或は刺痛、或は睛凹み事に触れて瞋多し、是れ肺の肝を害して此病を生ず、呵気を用ひて之を治すべし。若し心淡熱して手脚逆冷し、心悶し、力少くして脣口燥き裂け、臍の下結癥し熱食下らず、冷食心に逆らひ、眩懊して喜く眠り、忘多く心瘇れ、頭眩く口訥り、背胛急に、四支煩疼し、心労し体蒸熱す、状は瘧に似たり、或は癥結を作し、或は水僻を作す、眼は布絹の中より視るが如く、近きを見て遠きを見ず、是れ腎が心を害せるなり。吹呼を用て之を治すべし。若し、肺脹れ、胸塞がり両脇の下痛み、両の肩胛疼きて、重を負へるに似たり、頭項急に、喘気麤大にして唯出づるのみにして入らず、体に遍く瘡を生じ喉痒く虫の如くにして咽吐することを得ず、喉或は瘡を生じ、牙関強み、或は風を発す、鼻の中より膿血出で、眼闇く、鼻茎疼み、鼻の中に肉を生じて気通ぜず、香臭を別たず、是は心が肺を害して病を成すなり、或は冷水を飲み、熱食を食ひ、相触れて病を成ず、嘘気を用ひて之を治すべし。若し百脈流れず、節節疼痛し、体腫れ、耳聾し、鼻塞り、腰痛く、背強み、心腹脹れ満ち、上気胸塞がり、四支沈重なり、面黒み痩せ、胞急に痛悶し、或は淋、或は尿道利ならず、脚膝逆冷す、是は脾が腎を害するなり、又其病の鬼、竈君の如く頭無く面無く一たび来つて人を掩ふ、煕気を用ひて之を治すべし。若し体面の上に風痒㿇々として通身痒悶す、是は肝が脾を害せるなり、其色篭桶、或は小児の撃攊するが如く、或は旋風の団欒として転ずるが如し、●(すう)気を用て之を治すべし。又若し多く惛惛たるは是れ肝の中に魂無きなり、多く前後を忘失するは是れ心の中に神無きなり、若し多く恐怖癲病するは是れ肺の中に魄無きなり、若し多く悲笑するは是れ腎の中に志無きなり、若し多く回惑するは是れ脾の中に意無きなり、若し多く悵怏たるは是れ陰の中に精無きなり、此を六神の病の相と名く。

 [24]二に 病起るの因縁を明すに六有り、一には四大不順の故に病あり、二には飲食節せざるか故に病あり、三には坐禅調はざるが故に病あり、四には鬼神が便を得ればなり、五には魔の所為なり、六には業起るが故に病あり。

 [25]四大不順とは行役時無く、強健にして担負し、寒熱に棠触し、外熱火を助け、火強くして水を破る、是れ増火の病なり。外寒水を助け、水増して火を害す、是を水病と為す。外風気を助け、気火を吹き、火は水を動かす、是を風病と為す。或は三大増して地を害するを等分の病と名く、或は身分増して三大を害するも亦是れ等分にして地病に属す、此四、既に動ずれば衆悩競ひ生ず。

 [26]二に飲食節せずんば亦能く病を作す、薑桂の辛物は火を増し、蔗蜜の甘冷は水を増し、黎は風の増し、膏膩は地を増し、胡瓜は熱病の為に而も因縁に作るが如し、即ち是れ不安の食を噉ふなり、食せん者、須く其性を別つべし。若し食、食し已らば腹に入りて銷化す、麤なる者は糞尿と為り、細なる者は融銷す、腰の三の孔より溜りて四支に入り、清ければ変じて血となり一身を潤沢す、塵の水を得るが如し、若し身に血充たずんば枯癖し焦減す、濁る者は変じて脂膏と為り、故き諸根は減じて而も垢と成り、新しき諸根は凝つて而して肉と成る。又、身の火、下に在らば生蔵を消し、飲食をして化溜して通じて一身に遍ぜしむ。世の諺に云はく、「老寿を得んと欲せば当に足を温にして首を露はすべし」と。若し身の火上に在り、又身を安んぜざるの食を噉はば、則ち病悩有り。次に五味を食して五蔵を増損するとは、酸味は肝を増して而も脾を損す、苦味は心を増して而も肺を損す、辛味は肺を増して而も肝を損す、鹹味は腎を増して而も心を損す、甜味は脾を増して而も腎を損す、若し五蔵に妨げ有ることを知らば宜しく其損を禁じて其増を噉ふべし、意を以て斟酌せよ。

 [27]三に坐禅不節は、或は壁・柱・衣服に倚り、或は大衆未だ出でざるに而も臥す、其心慢怠して、魔其便を得、身体をして背瘠骨節疼痛ならしむ、名けて注病と為し、最も治し難し。次に数息調はざれば多く人をして痁癖し筋脈をして攣縮せしむ。若し八触を発するに息を用ふること触に違すれば病を成ず。八触とは、心と四大と合すれば則ち四の正体の触有り、復四の依触有り、合して八触と成る。重は沈下の如し、軽は上升の如し、冷は氷室の如し、熱は火舎の如し、渋は挽逆の如し、滑は磨脂の如し、軟は無骨の如し、麤は糠肌の如し。此八触、四は上り四は下る。入息は地大に順じて重し、出息は風大に順じて軽し、又入息は水大に順じて冷に、出息は火大に順じて熱す、又入息は地大に順じて渋、出息は風大に順じて滑なり、又、入息は水大に順じて軟に、出息は火大に順じて麤なり。若し重触を発して而して出息を数へ、触と相違すれば、即便ち病と成る、余は例して知る可し。又但止を用ふるに方便無くして病と成る者は、若し常に心を下に止るは多く地の病を動かす、若し常に心を上に止るは多く風病を動かす、若し常に心を止ること急撮なれば、多く火病を動かす、若し常に心を止ること寛緩なれば、多く水病を動かす。次に観を用ふること調はずんば、偏僻して病を成すとは、初め胎に託する時に思心起るを以て其母を感召す、母即ち五の色、声、香、味、触等を思ふに、一毫の気動じて水と為る、水は血と為り、血は肉と為り、肉は五根五蔵を成ず。今坐禅の人、思観多きは五蔵を損して病を成ず、若し色を縁ずること多きは肝を動かし、声を縁ずること多きは腎を動かし、香を縁ずること多きは肺を動かし、味を縁ずること多きは心を動かし、触を縁ずること多きは脾を動かす。復次に眼、青を縁ずること多きは肝を動かし、赤を縁ずること多きは心を動かし、白を縁ずること多きは肺を動かし、黒を縁ずること多きは腎を動かし、黄を縁ずること多きは脾を動かす。耳、呼喚を縁ずること多きは肝を動かし、語を縁ずること多きは心を動かし、哭を縁ずること多きは肺を動かし、吟を縁ずること多きは腎を動かし、歌を縁ずること多きは脾を動かす。鼻、臊を縁ずること多きは肝を動かし、焦を縁ずること多きは心を動かし、腥を縁ずること多きは肺を動かし、臭を縁ずること多きは腎を動かし、香を縁ずること多きは脾を動かす。舌、醋を縁ずること多きは肝を動かし、苦を縁ずること多きは心を動かし、辛を縁ずること多きは肺を動かし、鹹を縁ずること多きは腎を動かし、甜を縁ずること多きは脾を動かす。身、堅を縁ずること多きは肝を動かし、煖を縁ずること多きは心を動かし、軽を縁ずること多きは肺を動かし、冷を縁ずること多きは腎を動かし、重を縁ずること多きは脾を動かす。此は、乃ち五蔵相生ず、之を縁ずること分に過ぐれば以て病を致す。若し相尅に就かば、白色を縁ずること多きは肝を尅し、黒を縁ずること多きは心を尅し、赤を縁ずること多きは肺を尅し、黄を縁ずること多きは腎を尅し、青を縁ずること多きは脾を尅す、余の声等も例して知る可し。若し五蔵の病隠密にして知り難ければ坐禅及び夢をもつて之を占へ。若し坐禅及び夢に多く、青色、青人、獣、師子、虎、狼を見て而して怖畏を生ずるは、則ち是れ肝の病なり、若し禅及び夢に、多く赤色起り、赤き人獣、赤き刀杖、赤き少男女親附抱持し、或は父母兄弟等を見て喜を生じ畏を生ずるは、即ち是れ心の病なり、下去つては例して色に随ひ之を験せよ。又、観僻して四大を動ずるとは、若し境を観ずること不定なるは或は此を縁じ、或は彼を縁じて心即ち諍を成ず、諍ふが故に乱風起つて風病を成ず、嬰児の行を御するに但之に任ずるのみ、急に牽きて速かに達せんことを望めば即ち患とするが如し。又、専専に一境を守つて希望の心を起せば、報風熱勢尽さずして熱病を成ず。又境を観ずる心生ずる時滅と謂ひ、滅する時生と謂ひ、心相違して痒痛を致せば地の病を成ず。又所観の境を味はずして而も強て之を為さば、水大増して水病を成ず。

 [28]四に鬼病とは、四大五蔵は鬼に非ず、鬼は四大五蔵に非ず。若し四大五蔵に入れば是を鬼病と名く。若し鬼病無しと言はば邪巫一向に鬼の治を作すに時有りて差ゆることを得、若し四大の病無しと言はば医方一向に湯薬の治を為すに時有りて差ゆることを得。一の国王有り、鬼病空処に在りてしばしば針殺せらる、鬼王自ら来つて心の上に住在すれば、針者手を拱く、故に知んぬ、亦鬼病有ることを。鬼も亦漫りに人を病ましめず、まことに人、種種の事を邪念するに由る、或は吉凶を知ることを望む。兜醯羅鬼、種種の変を作す、青黄等の色にして五根従り入る。則ち意地邪解して能く吉凶を知る、或は一身、一家、一村、一国の吉凶の事を知る。此れ聖知に非ざるなり。若し之を治せずんば久久に則ち人を殺さん。

 [29]五に魔病とは鬼と亦異らざるも、鬼は但身を病ましめ身を殺す、魔は則ち観心を破し法身の慧命を破す、邪の念想を起し人の功徳を奪ふを、鬼との異りと為す。亦行者、坐禅の中に於て利養を邪念するに由りて、魔、種種の衣服、飲食、七珍、雑物を現ずるに、即ち領受歓喜すれば、心に入りて病を成ず、此病治し難し、下の治の中に当に説くべし。

 [30]六に業病とは、或は専ら是れ先世の業、或は今世に戒を破して先世の業を動じ、業力病を成ず。還つて五根に約して所犯有ることを知る、若し殺罪の業は、是れ肝・眼の病なり。飲酒の罪の業は是れ心・口の病なり、婬欲罪の業は是れ腎・耳の病なり、妄語罪の業は是れ脾・舌の病なり、若し盜罪の業は是れ肺・鼻の病なり。五戒を毀するの業は則ち五蔵五根の病起ること有り。業謝すれば乃ち差ゆ。若し、今生に戒を持するに亦業を動じて病を成ず、故に云ふ、 若し重罪有るも頭痛して除くことを得んと、地獄に重く受くべきを人中に軽く償ふ、此は是れ業の謝せんと欲するが故の病なり。それ業病は多種なり、腫満黄虚あり、凡そ諸の病患、須く細心に尋検すべし、病の根源を知りて、しかして後に治を用ひよ。

 [31]三に治法を明すに、宜対同からず。若し行役し食飲して患を致す者は、此れ方薬を須ひて調養すれば即ち差ゆ。若し坐禅調はずして患を致す者は、此れ還つて坐禅を須て、善く息観を調ふるに乃ち差ゆ可きのみ、則ち湯薬の宜しき所に非ず。若し、鬼・魔の二病は、此れ深観行の力、及び大神咒を須て乃ち差ゆることを得んのみ。若し、業病は、当に内には観力を用ひ、外には懺悔を須ふべし、乃ち差ゆることを得可し。衆治同からず、宜しく善く其意を得べし、刀を操るに刃を把つて自ら毀傷すべからざるなり。

 [32]今坐禅に約し、略して六治を示す、一には止、二には気、三には息、四には仮想、五には観心、六には方術なり。

 [33]止の治を用ふるとは、温師の云はく、「心を繋けて臍の中に在り、豆の大さの如し、衣を解きて諦了して相を取り、後に目を閉じて口歯を合せ、舌を挙げて腭に向へ、気をして調恂ならしむ。若し心外に馳すれば之を摂して還らしむ、若し念ずれども見えずんば復衣を解きて之を看よ、熟相貌を取り、還つて前の如くせよ。此れ能く諸の病を治し、亦能く諸の禅を発す。此観を作す時、亦無量の相貌有り、或は痛むこと針をもつて刺すが如く、或は急なること繩をもつて牽くが如く、或は痒きこと虫の噉ふが如く、或は冷なること水を灌ぐが如く、或は熱きこと火をもつて炙るが如し。是の如く諸触の起る時、一心に精進して退堕せしむることなかれ。若し此の触を免るれば能く諸禅を発す、若し神意寂然たるは即ち是れ電光定の相なり、此れ尚ほ能く禅を得、いわんや疾を愈すこと能はざらんや」と。心を繋けて臍に在る所以は、息は臍より出で還つて入りて臍に至る、出入は臍を以て限と為す、能く無常を悟り易し。復次に人の胎に託する時、識神始めて血と合し、系を帯びて臍に在り、臍能く連持す、又是れ諸の腸胃の源なり、源を尋ねて能く不浄を見、能く貪欲を止む。若し四念処は、臍を観じて能く身念処の門を成ず、若し六妙門を作さば、臍は是れ止の門、兼ねて能く道に入る、故に多く之を用ふ。正しく用ひて病を治するとは、丹田は是れ気海、能く万病を銷呑す、若し心を丹田に止むれば則ち気息調和す、故に能く疾を愈す、即ち此の意なり。又有師の言はく、上気胸満、両脇痛、背膂急、肩井痛、心熱懊、痛煩不能食、心瘇、臍下冷、上熱下冷、陰陽不和、気嗽、右の十二病は皆丹田に止まる。丹田は臍の下を去ること二寸半なり。或は痛切ならば、心を移して三里に向へよ。痛又除かずんば移して両脚の大拇指の爪の横文の上に向へよ、差ゆるを以て度と為す。頭痛、眼睛赤疼、脣口熱、繞鼻胞子、腹卒痛、両耳聾、頸項強、右の六病は両脚の間、須く境界に安置して心を以て之を縁ずべし。須臾に水腹脹れ急に痛むは、但心を一つにして境に注せよ。若し心悶せば当に小しく息すべし、小にして可ならば更に起倚して重ねて前の法を作せ、若し、小しも除かるることを覚らば、弥須く治法を用ふべし。若し此に因て腰脚急痛せば、即ち両脚の下、一丈の坑を作ることを想え、前の境界を移して坑の底に置き、心を以て之を主せよ、自ら当に差ゆべし、要ず静室に在れ。又常に心を足に止むるは、能く一切の病を治す、何が故に爾るや五識頭に在れば心多く上縁す、心は風を使ひ、風は火を動かし、火は水を融じ、水は身を潤す、此故に上分調うて而も下分乱れ、以て諸病を致す、或は脚足攣癖等なり。又、五蔵は蓮華の靡靡として下に向ふが如し、識は多く上縁す、気強うして府蔵を衝かば、翻破して病を成ず、心若し下を縁ずれば、火を吹きて下溜し、飲食銷化して五蔵順ず、心を足に止むる最も良治と為す、今常に用ひてしばしば深益有り、此を以て他を治するに往往皆験あり、蒋呉毛等、即ち是れ其人なり。又、諸病の処に随つて心を諦にして之に止るに、三日を出ず、異縁有ること無くんば差ゆることを得ざること無し。何が故に爾るや、門開かば則ち風を来し、扇を閉ずれば則ち静なるが如し。心の外境を縁ずるは門を開くが如し、心を痛む処に止るは扇を閉ずるが如し、理数として然なり。又心は王の如く、病は賊の如し、心此処に安んずれば賊は則ち散壊す。又、未だ必ずしも一向に心を病処に止めず、皇帝の秘法に云ふが如し、天地の二気交合するに各各五行有り、金、木、水、火、土と循環の如くなるが故に、金化して水生じ、水流れて木栄え、木動きて火明かに、火炎あつて土貞なり、此れ則ち相生なり。火は水を得て光を滅し、水は土に遇うて行かず、土は木に値うて腫瘡し、木は金に遭うて折傷す、此れ則ち相尅なり。金の木を尅するが如き、肺の強うして肝弱し、当に心を肺に止めて白気を摂取すべし、肝の病則ち差えん。余の四蔵も解すべし。又、止を用て四大を治するは、若し急に止するは水を治し、寛に止するは火を治し、頂に止するは地を治し、足に止するは風を治す。

 [34]二に気を用ひて治するとは、吹、呼、熈、呵、嘘、●2.(すう)を謂ふ。皆脣吻に於て吐納し、牙舌を転側し、徐詳として心を運び、相を帯び気を作す。若し冷には吹を用ふること火を吹く法の如くす、熱には呼を用ひ、百節疼痛するには熈を用ひ、亦風を治す、若し煩脹して上気するには呵を用ひ、若し痰癊には嘘を用ひ、若は労倦には●3.(すう)を用ふ。六気の五蔵を治するは、呵は肝を治し、呼、吹は心を治し、嘘は肺を治し、熈は腎を治し、●(すう)は脾を治す。又、六気は同く一蔵を治す、蔵に冷有るは吹を用ひ熱有らば呼を用ひ、痛有らば熈を用ひ、煩満有らば呵を用ひ、痰有らば嘘を用ひ、乏倦有らば●(すう)を用ふ、余の四蔵も亦是の如し。又口に吹して冷を去り、鼻に徐ろに温を内る、安詳として入るに衝突せしむること勿れ、一たび上坐するに於て七過之を為し、然して後に心を安んず、心を安んずること少時あつて更に復気を用ふ。此は是れ治を用ふるの意なり。若し平常穢を吐かば一両に即ち足る。口に呼して熱を去り、鼻に清凉を内る。口に熈して痛を去り風を除き、鼻に安和を内る。口に呵して煩を去り気を下す。痰を散ずるは、胸痰、上分は口に随つて出で、下分は息に随つて溜まると想ふ、故に鼻中に補ふことを須ひざるなり。嘘して満脹を去り、鼻に安鎖を内る。●4.(すう)して労乏を去り、鼻に和補を内る。細心に出内して分を過さしむること勿れ、善く能く斟酌して増損宜しきを得ば、唯自ら能く病を治するのみならず、亦能く他を済ふ。

 [35]三に息を用て治を為すとは、それ、色心相依て息あり、樵火相籍つて煙あるに譬ふ。煙の清濁を瞻て樵の燥湿を知る。息の強軟を察して身の健病を験す。若し身の行風横に起れば、則ち痛痒して病を成ず、何の暇あつてか用心せん、須く急に之を治すべし。先に須く息に四の伴あることを識るべし。声有らば風と曰ふ、之を守らば則ち散ず。結滞するを気と曰ふ、之を守らば則ち結す。出入尽きざるを喘と曰ふ、之を守らば則ち労す。声あらず滞らず、出入倶に尽るを息と曰ふ、之を守らば則ち定まる。当に静処を求めて結跏し、身を平かにして正直にし、身体を縦任して四支を散誕し、骨筋を布置すべし、当に関節をして相応せしむべし。倚らず曲らず帯を緩うして転側調適し、左手を以て右手の上に置き、大指は纔に相詣らしめよ。頬車を縦放し小小口を開き、四五過長気を吐き、次に漸く頭を平かにして徐徐として目を閉じ、眼瞼をしてはなはだ急ならしむること勿れ。常に篭篭ならしめ、然して後に息を用ふ。息を用ひて八触相違の病を治するとは、若し重触に因て地大の病を成さば、偏に出息を用ひて之を治す。若し軽触を発して風病を成ぜば、偏に入息を用ひて之を治す。若し冷触を発して水病を成ぜば、偏に出息を用ひて之を治す。若し熱触を発して火病を成ぜば、偏に入息を用ひて之を治す。余も亦是の如し。若し調和正等を得れば意に随つて用ふ。此は常に数ふる所の息を用ふ、別の息を作すに非ざるなり。次に別に十二の息を運するとは、上、下、焦、満、増長、滅壊、冷、煖、衝、持、和、補を謂ふなり。此十二息は仮想の心を帯ぶ、所以は何ん。若し初念胎に入れば即ち報息有り。母の気息に随ひて児漸く長大し、風路滑かに成り、児の息の出入、復母に随はず、生れて異処に在りて各各息有るを報息と名く。依息とは、心に依て起る、瞋欲の時の如きは気息隆盛なり、此を依息と名く。前の六気は報息に就きて想を帯び、今の十二息は依息に就きて想を帯ぶるが故に、前に同からざるなり。前に五色を縁じて五蔵の病と為ることを明せるは此れ則ち蔵に依て病を為す、故に今の依息を用て之を治す。上息は沈重の地病を治す。下息は虚懸の風病を治す。焦息は脹満を治す。満息は枯瘠を治す。増長息は能く四大を生長す。外道の気を服するは、祇応に此生長の気を服すべきのみ。滅壊息は諸の癊膜を散ず、冷息は熱を治す。煖息は冷を治す。衝息は癥結腫毒を治す。持息は掉動して安からざるを治す。補息は虚乏を補ふ。和息は四大を通融す。諸の息を作す時、各各心想に随つて皆成就せしめ、細く諸病を知つて諸息を用ひよ、謬つて用ふること勿れ。

 [36]四に仮想の治とは、前の気息の中は兼帯して想を用ふ、今は専ら仮想を以て治と為す。弁師の癭を治する法の如く、癥を患ふる人の針を用ふる法の如く、「阿含」の中に煖蘇を用ひて労損を治する法の如く、蛇を呑む法の如し、云云。

 [37]五に観心の治とは、想息を帯せず、直に心を観ず、内外に推求するに心不可得なり、病来つて誰にか偪る、誰か病を受くる者ぞと。

 [38]六に方術の治とは、術の事たる知らずんば則ち遠く、之を知らば則ち近し、噦を治する法の如く、歯を治する法の如く、大指を捻じて肝を治する等の如し、云云。術の事たる浅近にして体は貢幻多し、出家の人の須ふる所に非ず、元より学すべからず、学せば須く急に棄つべし。若し四三昧を修するには、泡脆の身損増定まり無し、借用して病を治すれば身安して道存す。亦応に嫌無かるべし、若し用ひて名を遨めて利を射、時俗を喧動する者は則ち是れ魔の幻なり、魔の偽なり。急に棄てよ。急に棄てよ。三十六獣人を嬈さば、応に三遍咒を誦すべし。曰はく、「波提陀 毘耶多 那摩那 吉利波 阿違婆 推摩陀 難陀羅 憂陀摩 吉利摩 毘利吉 遮陀摩」

 [39]初に細心を得るに、外境触れて心驚擲す、是に於て気上り。腹満ち、胸煩ひ、頭痛み、心悶す、此は是れ六神遍身に遊戯するなり。驚擲するに因て守を失ふは、外に悪神有りて身に入り其住処を奪ふ、故に此の如くならしむ。若し之を治するの法は、口を閉じ鼻を蹙め、気をして出でしめず、気の身に遍するを待ち然して後に気を放つて長遠ならしむ。頭より足に至つて遍身に皆出想を作し、之を牽きて尽さしむ、此の如く三遍して然る後に咒を誦して曰へ、「支波昼 烏蘇波昼 浮流波昼 牽気波昼」と、三遍誦し竟つて、然して後に息を調へ、一より十に至る。出入の息に命じて言へ。「阿那波那 阿昼波昼」と、病即ち差ゆるなり。若し、赤痢、白痢、卒に中悪しく、面青く、眼反り、脣黒くして人を別たざる者は、手を以て痛く丹田を捻ずれば須臾にして即ち差ゆ。又身上に痛むこと有る処に随つて、杖を以て痛く病処を打つこと四五十に至る。此れ復何の意ぞ、それ諸病は心の作に非ざること無し、心憂愁思慮有らば邪気入ることを得、今痛を以て之に偪れば則ち横想に暇あらず、邪気去り病除こるなり。

 [40]四に損益を明す。損益皆漸・頓有り。若し息を用ふることはなはだ過ぎて五蔵頓に翻る者あり。即ち未だ翻らずと雖も漸く増劇するに就て以て頓に翻るに至る者あり。若し人、巧に修するに豁然として頓に益ある者あり。即ち病と相持すと雖も、後当に漸く愈ゆるべき者あり。湯薬を服するに年月将に漸にして乃ちその益を得るが如し。内治も亦然り、若し心利にして病軽く、心利にして病重く、心鈍にして病軽く、心鈍にして病重きは、漸頓の不同有ることを致すなり。

 [41]それ世間の医薬は財を費し工を用ふ、又苦渋にして服し難く、諸の禁忌多し。将養して命を惜む者は死するまで計して将に餌ふ。今一文の費無く、半日の功を廃せず、口に苦きの憂なく、意を慾にして飲噉す、而も人皆肯て之を行ぜず、庸者貨を別たず、韻、高ければ和するもの寡し、吾甚だ之を傷む。

 [42]能く十法を具すれば必ず良き験あり、一には信、二には用、乃至、第十には遮障を識る。信は是れ道の元、仏法の初門なり。癩を治する人は血は是れ乳なりと信じ、駱駝の骨を是れ真の舎利なりと敬ふが如し。決して此法能く此病を治すと信じて狐疑を生ぜざれ。信じて而して用ひざるは己に於て益無し、利剣を執りて用て賊に擬せざれば、かえって彼の為に害せらるるが如し、用ひざるも亦爾なり。何の意ぞ勤を須ふる。初、中、後夜、朝暮に専精にして汗を得るを以て度と為す、火を鑚るに中ろに息めば、火得べきこと難し、勤めざるも亦爾なり。何を謂うて恆と為すや。恆に治法を用て念念に縁に在り、動乱せず。何をか病を別つと謂ふ。病の因起を別つこと上に説く所の如し、若し病を識らずして浪りに治法を行ずるは、相主対せず、事に於て益無し。何をか方便と謂ふや。善巧に治を用ふ、吐納所を得、運想成就して其宜きを失せず、琴弦緩急にして軫柱を輾転し、手指を軽重にして声韻方に調ふが如し。何を謂うて久と為すや。若し用ひて未だ益あらずとも、日月を計へず、習ひて休廃せざれ。何をか取捨を知ると謂ふや。益あれば則ち勤めて用ひ、損あれば則ち治を改む。何をか将護を知ると謂ふや。善く禁忌を識り、行来飲食に之を触れしめず。何をか遮障を識ると謂ふや。用ひて益あるも●5.(へうせ)説すること勿れ、未だ益あらざるも疑謗すること勿れ。人に向つて説く者は、未だ差えざるは差えず、差え已るは更に発す、更に治するも差えず、設ひ差ゆるも功を倍す。若し能く十法を具足して上の諸治を用ひば、益あること定んで疑無し、我当に汝の為に此事を保任すべし、終に虚ならざるなり。