[1]若し、善く四三昧を修して、調和所を得れば、道力を以ての故に必ず衆病無し、設ひ小しく違返すとも冥力扶持して自ら当に銷愈すべし。たとい衆障峯起すとも当に死を推して命に殉ふべし、残生余息、誓つて道場に畢る、捨心決定せば何の罪か滅せざらん、何の業か転ぜざらん。陳鍼、開善云云。豈、四大五蔵、而も調差せざること有らんや。 帝釈の堂は小鬼敬ひ避くるが如し、道場の神大なれば妄りに侵撓すること無し。又城の主剛なれば守る者強し、城の主恇なれば守る者忙し。心は是れ身の主、同名同生、天は是神、能く人を守護す、心固ければ則ち強し、身の神も尚ほ爾り。いわんや道場の神をや。「大論」に、精進を釈するに、鬼五処を黏するが如し云云。但一心に三昧を修すれば衆病銷す矣。
[2]五に止観を修すること、前に例して十と為す云云。
[3]先に思議を簡ぶとは、病の因縁の故に十法界を生ず、病の為の故に本心を退失して禅定を棄廃し、三宝を誹謗す、先の罪の禍を招くことを惟はず、而も善を修して福無しと言ひ、大邪見を起す、又身を惜み命を養ひて魚肉辛酒非時度無し、或は病差え身壮んなれば五欲情を恣にす、善心都べて尽き、悪業懺盛にして上中下の罪を起すが如し、是を病に因つて三悪の法界を造ると為す。若し人、自ら此病の困苦は皆往日の不善に由つて致す所なりと念ひ、深く慚愧を生じて敢へて非を為さず、困篤に嬰ると雖も而も善心改むること無く、上中下の善を起すは、是を病に因つて三善法界を造ると為す。若し疾病に遭ひ、困に因つて生死を怖畏し、此病身は前業に酬ゆと知る。若し生死を構へば、将来の流転復何ぞ窮極あらん、苦集の危跪、世世相堕つて、之が為に悩を受く、当に寂滅無相の涅槃を求むべし、是を病に因つて声聞法界を起すと為す。又、此病は我色心を病ましむ、此病に因つて而して老死を致す、死は生に因る、生は昔の有に由ると観ず。有は取より生じ、取は愛より生じ、愛は受より生じ、受は触より生じ、触は六入より生じ、六入は名色より生ず、色は即ち四大五根、名は即ち四心なり。此根大は復何よりか生ずる、青色は木より生じ、黄色は地より生じ、赤色は火より生じ、白色は風より生じ、黒色は水より生ずと観ず。又、木は水より生じ、水は風より生じ、風は地の陽気より生じ、地は火より生じ、火は木より生じ、木は還つて水より生ずと観ず。是の如く追逐して周りて復始む、自生の者無し。外の五行を観ずること既に爾り、内の五蔵の色も亦復是の如し、肝は青気より生じ、心は赤気より生じ、肺は白気より生じ、腎は黒気より生じ、脾は黄気より生ずと。此肝の蔵は自体より生ずと為んや。他より生ずと為んや。即ち肝の蔵は腎より生じ、腎は肺より生じ、肺は脾より生じ、脾は心より生じ、心は肝より生じ、肝は自ら生ぜず、還つて腎より生ずと知る。是の如く内に四大五蔵を求むるに既に其体無し、何が故ぞ壊せざる。四心之を持す、識心は地を持し、想心は風を持し、受心は火を持し、行心は水を持す、是故に壊せず。此四心、自生とせんや自生ならずと為んや。即ち知る行心は受従り生じ、受心は想より生じ、想心は識より生ずと。識は過去の行より生じ、過去の行は無明より生じ無明は妄想より生じ、妄想は還つて妄想より生ず。経に云はく、「妄想は妄想を生じて十二縁に輪廻す」と。狂渇の人の焰を見て水と為し、南に向つて之を遂ふ、之を逐ふに得ず、大に喚んで水と言ふ、空中響応す、「己れ大南なり、水は応に北に在るべし」と謂ひて、頭を廻して北に走る、是の如く四方、皆逐ふに得ず、遂に大に懊悩して「水は地に入る」と謂ひて地を爮して吼喚す、身体疲極して転更に闇に至るに亦復得ざるか如し。南に走るは舌の味を逐ふに喩ふ。北に走るは耳の声を逐ふに喩ふ。西に走るは鼻の香を遂ふに譬ふ。東に走るは眼の色を逐ふに喩ふ。地を爮すは身の触を逐ふを喩ふ。闇に到るは意の無明を逐ふに喩ふ。是の如く六根遍く諸塵に走つて一も得べきもの無し、亦因縁和合の相を得ず、但自ら疲苦す。既に覚知し已つて復更に走らず、走らざるを以ての故に身心定住す、心定住するが故に豁爾として悟解し、因縁の正智を発得して、「此色心等は本より已来体性寂静にして生に非ず滅に非ず、妄想顛倒して生滅有りと謂ふ」と知る。若し妄想に随はざれば則ち無明滅し、乃至老死滅す、故きを畢つて新しきを造らず、火を然さざれば是れ則ち煙無きが如し。既に無明老死を得ず、病も誰をか病しむと為ん。是を病を観じて縁覚の法界を起すと名く。又此病を観ずるに皆身命財物を愛惜するに由つて衆悩を受くることを致す。亦是れ持戒完からざれば多病短命なり、亦是れ心志劣弱にして安忍すること能はず、身神護らず、亦是れ精神力薄ければ善く補禳すること無し、亦是れ禅定の力無ければ病の為に動ぜらる、亦是れ心に智慧少くして無常苦空無我に達せざれば、此疾に嬰ることを致す。今、己れの疾を以て彼疾を愍む、即ち慈悲を起し、願行を発す。捨して遣悋無く、理に順じて安耐し、勤加正意にして無常を覚悟す、是を病に因つて六度菩薩の法界を起すと為す。又、此病を観じて前世の妄想顛倒の諸の煩悩より生ずと知る。是の如きの妄想に真実有ること無し、我及び涅槃、是二皆空なり、是を、病に因つて通教の菩薩の法界を起すと名く。又此病は畢竟空、空にして所受無しと雖も、而も諸受を受く、未だ仏法を具せず、応に受を滅して証を取るべからずと観ず。是を、病に因つて別教の菩薩の法界を起すと為す。是の如き等の法は病患に因つて次第に出生す、是を思議の境と名く、今の所観に非ざるなり。
[4]不思議境とは、一念の病心、真に非ず有に非ず、即ち是れ法性法界なり、一切の法病に趣く、是趣過ぎず、唯法界の都にして九界の差別無し。如意珠は空ならず有ならず、前ならず後ならざるが如し、病も亦是の如し、言を絶し相を離れ、寂滅清浄なり、故に不可思議と名く。病の実際に達せば、何の喜び何の憂かあらん。是観を作す時、豁爾として消差す。「金光明」に云はく、「直に是言を聞くに、病即ち除愈す」と、即ち初の観の意なるのみ。復「深重にして除差し難き者有らば、長者の所に至つて為に衆薬を合するに、病乃ち差ゆることを得」と、即ち後の九観の意なり。
[5]一切衆生は皆此理を具すれども而も識ること能はず。見思の流に随つて分段の海に沒す、深く悲愍を生じて、非有即空道滅の楽を与へんと欲す。是を、有疾の菩薩能く空観を以て其心を調伏すと為す。心調伏するが故に、実の疾除愈す、慈悲を以ての故に、権の疾則ち生じ、分段の土に生ず、分段の人を視ること猶ほ一子の如し、子既に病あれば父母も亦病む。因つて身の疾を以て而して之を慰喩す、子の病若し愈ゆれば父母も亦愈ゆ。是を体析をもつて有疾の菩薩を慰喩すと名くるなり。又此病を観ずるに即ち空寂なりと雖も、是諸の衆生は純ら空に因つて而も度脱することを得ず、当に空病の種種の法門を識るべし。声聞二乗は識らざるを以ての故に無明無知の流に随つて変易の海に沒し、諸病の差品を分別すること能はず、是故に仏法現前することを得ず、衆生浄土皆成就せず、是義の為の故に、即ち慈悲を起し、無知の苦を抜き、道種智分別の楽を与ふ。是を有疾の菩薩能く仮観を以て其心を調伏すと名く。心調伏するが故に、実の疾除愈す、慈悲を以ての故に、権の病則ち生じ、方便土に生じ、方便の人を観ること猶一子の如し。其子病むが故に父母も亦病む。因つて身の疾を以て其子を慰喩す、子の無知愈ゆれば父母も亦愈ゆ。是を別教をもつて有疾の菩薩を慰喩すと名く。又此病を観ずるに即ち法界なりと雖も、而も諸の衆生即ち中道ならず、此理未だ顕れず、無明の流に随つて変易の海に沒す。「経」に云はく「三賢十聖果報に住す」と。即ち是れ実報因果の病なり。是義の為の故に而も慈悲を起し、無明の苦を抜き、究竟の楽を与ふ。是を、有疾の菩薩、中道観を用て其心を調伏すと為す。心調伏するが故に実の疾除愈す、慈悲を以ての故に権の病則ち生じ、実報土に生ず、変易の人を視ること猶ほ一子の如し、子既に病有れば父母も亦病ひ。因つて身の疾を以て其子を慰喩す、子の無明愈ゆれば父母も亦愈ゆ。是を円教をもつて有疾の菩薩を慰喩すと名くるなり。是の如きの三疾、一心の中に生ず、是の如きの調伏は一観の調伏なり、是の如きの慈悲は円普の慈悲なり、是の如きの示現は普門の示現なり、是の如きの慰喩は一音の演説なり、解し易からしめんが為の故に前の如く分別す、実にして而して之を論ずれば、即ち不思議の慈悲なり。唯彼浄名のみ此の如きの法を具す、三の実円かに除き、三の権普く現ず。彼上人は、酬対を為し難し。国王長者は実疾全く在りて顧命に堪へず、二乗は取相を除くと雖も行に堪へずと辞す、菩薩は乃ち客塵を却くれども往往に屈すを致す。唯彼文殊のみ道力相隣みて機を扣へ旨を承く、故に其れ能くするなり。問うて云はく、「居士、此疾何の因る所あつて起る、其生ずること久如しきや当に云何ぞ滅すべき」と。居士答へて云はく、「今我が病は大悲より起る、衆生病めるを以て是故に我れ病む、衆生の病愈ゆれば是故に我も愈ゆ」と。未れ衆生の実疾は癡愛より生ず、癡愛纔かに生ずれば大悲亦起る、癡愛纔に滅すれば大悲亦滅す、衆生の愈ゆるあり愈えざるあり、菩薩も疾める有り、疾まざる有り、若し疾無くんば其子愈ゆることを知る、若し疾有らば化道未だ休まず。故に方丈に疾を問ひ、茅城に背痛す、皆此義なり。誓願既に虚空に等し、疾有ることも亦法界に弥つ、是を不思議の慈悲と名くるなり。慈悲の力大なり、菩薩適に此心を発するに疾即ち除愈す、更に下の法を修することを俟たず、法喜、天台云云。若し発心真ならずして衆生を欺き、三宝を要し、規求する所有らば、病も亦差えず、若し能く真誠なれば大勢力有り。
[6]安心とは、若し、人、道場にして病まん時、上に説く所の如く、体解発心し、端身正念にして唯止唯観、善巧悉檀、調適所を得れば、一たび上り坐するに、即ち清凉なることを覚す。或は頓に損し、或は漸に損す是を大薬と名く、更に紛擾して、余の治法を修せざれ。
[7]破法遍とは行人病めるの時、病を観ずるに色に因るの病と為んや、心に因るの病と為んや。若し色是れ病ならば、外の山林等皆応に是れ病なるべし、死人も亦応に是れ病なるべし。屍及び山林未だ曾て悩を受けず、当に知るべし色は病に非ざるなり。唯心想に由つて此病有りと計す。今病心を観ずるに、自ならず他ならず、四句得叵し、内に非ず外に非ず、畢竟清浄なり、心は虚空の如し、誰か是れ病に於てせん。「浄名」に云はく、「地大に非ず、地大を離れず、身と合するに非ず、身相は不可得なるが故なり、心と合するに非ず、心は幻の如くなるが故なり」と。病心の生を得ず、病心の無生、亦生亦無生、非生非無生を得ず。単複具足、皆上の陰入を破する中に説けるが如し。
[8]識通塞とは病法を観ずるに句句の中諦縁度を識る、病の観智を観ずるに句句諦、縁、度を識ること了了分明にして而も疑惑無く、字非字を解し、得を知り失を知ること、例して上に説くが如し。
[9]道品調適とは、若し病を観ずるに是れ四大ならば、病は是れ不浄なり、病若し四大を離るれば病即ち是れ浄。病は四大に非ず、四大を離るるに非ず。病は即ち浄に非ず不浄に非ず、有真も有に非ず真に非ず、空仮も空に非ず仮に非ず、枯栄も枯に非ず栄に非ず、是の如き等の義、皆身念処と二無く別無し。此の如きの病の受は苦に非ず楽に非ず、病の想行、我に非ず無我に非ず、病の心、常に非ず無常に非ず、例して上の義の如し。三十七品、枕席の間に於て皆成就することを得、苦も苦無しと解して清涼池に入るなり。
[10]助道とは、若し正観を修するに未だ差ゆることを得ざる者は、当に前来の六種の治を借るべし。正助合行すれば尚ほ能く道に入る、何に沈んや身疾而も消除せざらんや。
[11]此観を作す時、牀枕に滞ると雖も深く次位を識る。我れ病患を観ずるに道理、宛然なり彼瑠璃の深潭の底に在るが如し、我が此観智は但是れ名字なり、因の疾未だ除かず、果の疾是れ分なり、若し似解の位は因の疾少し軽くして道心転熟す、果の疾猶ほ重くして衆災を免れず、若し無生法忍に入らば因の疾尽くと雖も猶ほ果の疾有り、我今応に位に非ずして慢を起し、我が病行彼上人に均しと言ふべからず。
[12]安忍とは、但正助を勤めて内外の障縁の為に阻礙せられて休息すること莫れ。若し正助稽留すれば疾成じて道廃す、能く心を安んじ、疾に在らば動ぜず退せず、所作弁ず。
[13]設ひ病損することを得、観行明浄なりとも、貪著を生ぜざれ。愛染を起すこと莫れ。
[14]十法成就して疾く法流に入る、是を病患境に大乗の観を修して無生忍を獲、一の大車を得と名く、前に例して知るべし云云。
[15]第四に業相境を観ずるとは、行人無量劫より来、作る所の善悪の諸業、或は已に報を受け、或は未だ報を受けざる。若し、平平の運心には、相則ち現ぜず、今止観を修するに能く諸業を動かす、故に善悪の相現ず。疑ふ者の言はく、「大乗は平等なり、何の相か論ずべけん」と。今言はく、「爾らず、唯平等の鏡の浄に由るが故に諸業の像現ず」と。「光明」に云はく、「将に十地を証せんとするに、相皆前に現ず」と。「阿含」に云はく「将に初果を証せんとするに、八十八頭の蛇、其前に於て死す」と。大小の両乗、相の文甚だ多し。又、「法華」に云はく、「深く罪福の相に達して遍く十方を照す」と。罪福は唯是れ善悪の業なるのみ。「浄名」に云はく、第一義に於て而して動ぜず、善能く諸法の相を分別す」と。故に汝が難は非なり。
[16]業相を明すに四と為す、一には相の発する因縁、二には正しく発するの相、三には料簡、四には止観なり。
[17]因縁とは内有り外有り。内とは止観して心を研くに心漸く明浄にして、諸の善悪を照す、或は止を以て悪を止むるに悪方に滅せんと欲し、観を以て善を観ずるに善方に生ぜんと欲するなる可し。或は止を以て悪を止するに、悪は静に因つて生じ、観を以て善を観ずるに善は観に因つて滅するなる可し。無量の業相止観の中に出づ、鏡磨せられて万像自ら現ずるが如し。外とは諸仏の慈悲、常に一切に応ずれども、衆生機無くして覩ることを得ること能はず。止観の力を以て能く諸仏を感ず、善悪の禅を示すに諸業則ち現ず、華鬘を持つて大衆に示すが如し。是れ内外の因縁と名く。若し此意を得ば、細に罪福を判ずるに、皂白濫ること無し、方等の師と為りて他を調伏するに堪へたり。今但心を止観に研きて、業を謝し行を成ぜしむ、一心に道を取る、何ぞ曲く相を弁ずることを用ひんや。
[18]二に業相の発することを明すとは、発することに前後無けれども、且く語の便を逐ひて先に善の発することを明さん。其相に六あり、一には報果の相現ず、二には習因の相現ず、三には報前に現じて習後に現ず、四には習前に現じて報後に現ず、五には習報倶時に現ず、六には前後定まらず。諸業の現ずる時は、参差として万品なり、此六意を識れば分別に謬り無し。云何なるをか習因習果と名くる。「阿毘曇の人」の云はく「習因は是れ自分因、習果は是れ依果なり。又習は習続を名け、自分の種子相生ず、後念の心起つて前に習続す、前念を因と為し後念を果と為す、此義三性に通ず」と。論家は但善悪に在り、無記は習続無きなり。報因報果とは、此れ異世に就てなり、前の習因習果は皆報因と名く、此因は来果を牽くが故に報を以て之に目け、名けて報因と為す。後に五道の身を受く、即ち是れ報果なり、今の果報の身の上に就て復善悪の習続を起す、習因習果を総じて前世に望むるに、此習続是れ果なり、若し後世に望むれば、此習続是れ因なり。数家は「報得の鴿雀の身は是れ報果なり、多婬は是れ習果なり」と明す。論家は、「鴿身及び多婬は倶に是れ報果なり、婬は貪に由つて起る。貪は是れ習果。又今生に煩悩起るを習因と名く、業を成ずるは即ち報因。後生に煩悩を起すを習果と名く、苦痛を報果と名く。若し坐禅の中に但諸相を見るは、此は報果の相現ずと名く、昔の因に由るが故なり、亦報因と言ふことを得。又能起の因、後報を牽く、互に名を受くるのみ。今但判じて報果の相と為すなり。若し坐中に於て諸相を見ず、鬱爾として心を起すは、是れ習因を発す、能く来果を牽くが故なり。亦習果と名くることを得、昔因に酬ゆるが故なり。互に其名を受く、今は但判じて習因と為すなり。
[19]善相は衆多なり、且く六度に約す。檀の相発する者は、若し坐の中に於て、忽ち福田勝境の三宝の形像、聖衆大徳、父母師僧、有行の人己が供養を受くるを見、或は悲田、己が供養を受くるを見、或は両田に供養を受けずと雖も而も皆歓喜するを見る。或は諸の田の受と不受とを見ず、但所施の具、羅列布満ずるを見る。或は施物を見ず、但浄地を見る。或は今生の施の報相を表し、或は昔生の施の報相を表はす。或は好んで檀を行ずるの人、其前の来至して檀捨を称讃するを見る。是の如き等の事、皆是れ報果の発する相なり。次に都べて諸相を見ずして但心鬱然として惠施を行ぜんと欲し、三宝、父母、師僧を恭敬供養し、或は貪苦を悲傷して而して救済せんと欲し、或は檀施の法門に於て通達して偏に自ら明了ならん。是の如き等の心、皆是れ習因の発する相なり。或は先に此心を起して却つて報の相を見、或は先に報の相を見て、却つて此心を発す、或は倶に発し、或は不定に発す、意を以て知んぬ可し。戒の相発する時も亦六の意有り。若し十師衣鉢檀場にして羯磨し、歓喜愛念するを見る。或は此相を見ずと雖も、而も、自身衣裳浄潔にして威儀衆を蓋ふを見る。又常に戒を持するの人、面目光沢あり、挙動安詳にして来つて戒を称讃するを見る。是の如き等の相は皆是れ持戒報果の発なり。或時は皆此相を見ず鬱然とし持戒の心生じ、自ら言はん。「戒浄にして篇聚持すべきに足らず」と、或は諸の破戒の者を匡正して皆如法ならしめんと欲し、自ら律文を解して戒部に精通せん、是を習因の発する相と為す。或は先後倶雑、意を以て知る可し。忍の相発するとは、或は能く忍ずる人を見、或は身に忍事を行ずるを見、或は自ら其身端正にして浄潔に、手脚厳整にして世の希有とする所なり、或は端正の忍の人、来つて忍を称讃するを見る。是れ忍の報果の相なり。或は直に忍の心を発し、又は忍の法門を解せん。是を忍の習因の発するの相と名く。前後倶雑、意を以て知る可し、精進の相は、或は精進の人を見、或は己が精進の事を見、或は身に気力多くして盛壮英雄なるを見、或は常に精進を行ずるの人、昼夜に廃すること無くして精進を称讚することを見る、是れ進の報果の相なり。或は相を見ずして但精進の心を発し、初中後夜に自ら身を惜まず、或は精進の法門に通達せん、是を精進の習因の相と名く、前後倶雑、意を以て知るべし。禅の相は後の境中に広く説く。智慧の相は菩薩境の中に当に広く説くべし。六度の習報既に六種有り、一切の善法も亦是の如し、若し細く此法を尋ぬればいよいよ久していよいよ明ならん、煩はしく多く説かず、亦、多く説くことを得ず、面り口決を受けて意に随うて広く論ぜよ。諸の方等師、相伝へて云はく、「三宝物を負ひて其相現ぜん時、決して応須に償ふべし」と。南岳師の云はく、「若し自ら物有りて償ふ者は善し。若し自ら物無く、行法を廃して、四方に馳求せんと欲するは、此に二義有り。衆生の昔の罪何ぞ量らん、三宝に負貸すること止一条に非ず、羅漢の如きは、先に直に道を取つて未だ業を償ふに遑あらず、故に觝責と名く。行者若し道場を廃して而して乞勾匃を行じ、紛動すること数年、豈魔事に非ずや、今は且らく未だ償はず、但、志を決して諸仏の実法を修行し、我が成立を展ぶ。成とは煩悩を破して無生忍に入るを待つて、法身の地に於て広く一切の三宝を供養し、還つて生死に入りて以て衆生に償ふ、菩薩は、爾時觝責と名けず。立とは功未著満し、名行豎立して果報自ら至らん時を待つて、当に三宝に償ふべし。是れ觝負して償心を名けざるに非ず、小しく乞うて申延して展立を期するのみ、此れ豈好事に非ずや。若し行法を廃して道場を出づれば此は決して須く償ふべし。読誦聴学し、私の衆務を営むことを得ざれ、決して応に方便して財を求め、之を償ふべし」と。此釈は「優婆塞戒経」と同じ。「経」に云はく、「若し三宝物を負ふ人は正しく修道を事として須陀洹乃至阿羅漢を求めんと欲する者は、則ち須く償ふべからず、若し道を学せずんば、応に急に償ふべし。阿羅漢の人、若し仏物を用ひば此れ則ち罪無し」と。
[20]次に悪の相を明さば、諸悪甚だ多し、且く六蔽に約す、一一の蔽に於て皆六の意有り。慳蔽の相は、若は、三宝、師僧、父母、或は形容憔悴し、或は身を裸袒にし、或は衣裳藍縷なり、或は飢餓して惙然なり、寺字の空荒なるを見る。或は一切の物皆守護し、封緘し、閉塞せらるるを見る。前と異を為すなり。前は人、物に対して歓喜す。今は乞人、物に対して瞋詬するを見る。前の物は施の具を表す、今の物は慳具を表す。或は慳人其前に来至するを見る。是を慳蔽報果の発する相と名く。具に六種有り、前に例して知んぬべし云云。破戒の相とは、若し三宝の形像、師僧尊長、及以び父母の頭首断絶して地に陥りて騰らざるを見る。或は身体破裂して鞭打苦悩す。或は身首処を異にし、寺舍零落するを見る。或は父母詬罵し、三宝呵責するを見る。或は殺を喜む屠児の来つて其前に住するを見る。又悪禽毒虫、其身首に縁ず。皆是れ瞋蔽の報相なり、亦六の意有り、前に例す云云。若し不浄の屎尿、死屍、臭物道に当り、深水路に横はりて、行、前むことを得ざるを見る。或は昔の婬人に交り、又不浄の相、穢悪の恥づ可きを示すを見る。或は己が身の身体の臭処を見、或は多婬の人の来つて放逸の事を説くを見、或は禽獣人等の交りを見る。此れ皆是れ婬罪の報相なり、亦六意有り云云。若し一生物を盜む所の処、所盜の物の主来つて瞋詬し、此物を縛切するを見る。或は盗を好むの人来つて盗事を勧説するを見る。皆是れ盗相の果報なり、亦六の意有り云云。若し父母、師僧、及び外人の諍計瞋毒し、種種間構して己れを誹謗するを見る。或は口の過多き人の来るを見る。即ち是れ口の四過の報果の相なり、亦六種有り云云。或は酔へる人の吐臥狼藉なるを見、或は己が身の沈昏等を見る。皆是れ飲酒の報果の相なり、亦六意有り云云。是の如き等、皆是れ破戒の蔽の報果の相なり。余の四蔽も此に例して知んぬ可し、故に委しく記せず云云。復次に内心苦痛するは、是れ殺の習、内心沈重なるは是れ盗の習、内心煩躁するは是れ婬の習、倶に有るは是れ等分の習なり。
[21]三に善悪の相現ずるに、障を為すこと同じからざるを料簡す。或は障に非ずして而して障、障にして而も障に非ず、障非障倶に障、障非障倶に障ならず。障に非ずして而も障とは、若し人、先に善の相を発して時に当つて歓喜し、後に愛慢を起して他を軽忽す、此証相を恃んで貢高の本と作し、漸く名利に染つて過患転生ず、心退し法壊し、戒を捨て俗に還つて、悪として造らざる無し。豈、初め不障の善に因つて後に大障の悪を致すに非ずや。障にして而も障に非ずとは、先に悪相を発して慚愧怖畏し、勤めて此悪を懺し、相続の心を断じて永く罪を起さず、勤めて衆善を行じて大事を弁ずるに至るが如し。豈、初めは障に因つて後に不障を致すに非ずや。倶に障倶に不障なるも例して知る可し云云。若し障に非ずして而も障とは、此は是れ善将に滅せんとして而して相現ず。此善は悪の生ずることを表す。若し障にして障に非ずとは、此は是れ悪将に滅せんとして而して相現ず。此悪は善の生ずることを表す。若し障不障倶に障ならずとは、此相は、善滅せずして悪生ぜざることを表す。若し、障不障倶に障とは、此れ悪滅せずして善生ぜざることを表す。此れ初善に約して語を為す、謂はく、善障へず、悪障を為すこと上に分別するが如し。若し真諦に約して言を為さば上の諸の善悪悉く皆是れ障なり。故に「浄業障経」に云はく、「一切の悪障、一切の善障」と。若し仮に約して語を為さば、真諦の善悪倶に皆是れ障なり、若し中に約して語を為さば、仮の上の善悪倶に皆是れ障なり、故に障尽すべからず。
[22]復次に善悪の習因の心起るは是れ則ち知り易し。善悪の報果の相起るは是れ則ち知り難し。若し善の報の相、善の習因の心を扶けて起る、或は前或は後に現ずる者、多く是れ性善の相なり、孤然として起るは、多く是れ無作の善の相なり。悪の報果の相、悪の習因の心を扶けて起る、或は前或は後なる、多く是れ性悪なり、習を扶けずして起るは、多く是れ違無作の悪なり。復次に善悪の報果の孤然として起るは、無作を以て往きて判ずと雖も、理復明らめ難し、多く好んで魔を雑す、若し分別せんと欲せば須らく細意に検校すべし。空明善悪等の十法を用ひて往きて験し、若し過不及なるときは則ち是れ魔の相なり、此に異なるは乃ち是れ無作なり。又三相をもつて往きて験せよ、所謂久久に住し、数数来り、又禅心を壊す、此三は是れ魔相なり此三無きは是れ無作なり。
[23]復次に諸の悪相現ずる時、初めに瞋怒を現じ、再来には平平、三たびには歓喜を現ず、或は人諫曉し、或は人駆逐す、当に知るべし、皆是れ悪の滅せんと欲するの相なり。
[24]未れ、発心真正にして慧解明分に、善く諸相を識りて一々謬り無くんば、諸障の為に惑されず、心を打ち理に入り、更に其明を増す、行に余力有らば業門を分別す、通達自在にして兼ねて以て他を化す。若し業相を分別すること縷砕なること能はず、但総じてこれ障なりと知つて取著する所無く、直ちに心を打ち理を観ずれば、業も礙へること能はず。若し本より解心無くして、又発意邪僻なるは、此相を見已つて而して愛著を生ず、魔は其便を得て入りて吉凶を示す、更に相因倚りて財食を貿易し死して鬼道に堕す、此れ鬼神に非ずして更に誰と謂ふや。
[25]若し自ら正し他を正すには、須らく其意を得べし。親しく自ら行証す。又師氏口決して方に言を彰はすべし。輙く媒衒して妄りに寒熱を作すこと莫れ、禍則ち大なり。深く嘱す深く嘱す、後生之を慎め。
[26]問ふ、道場の神護る、怨責那んぞ擾動することを得んや。答ふ、実に爾り、世の遊軍虞候、但非を覘ひ悪を防ぐ、責主の物を切するは遮ぎること能はざる所なるが如し、業の来つて報を責むることも、此に準じて解すべし。
[27]復次に諸業の名教体相は、具に「毘曇」「成実論」の如し。若し観を作して業を破することは具さに「中論」の如し。彼二家は互に長短あり、今の意は彼に異なり、但善悪を明して濫れざれば事に於て即ち足る。若し広く分別せば正道を妨げん、若し直ちに破するのみなるは全く道品正助の調停を知らず、方法未だ具せず、今の止観は業相を明すこと足らざれども、法観余り有り云云。
[28]四に止観を修するとは、即ち十の意と為す。
[29]云何が思議の業境なる。若し、業能く三悪道の報を招くは、上中下有り、若し業能く三善道の報を招くに上中下を謂ふ、不動業は色、無色の報を招く。是の如き等の業は色心を招き、還つて色心に迷うて四顛倒を起す、生死の絶えざること良に此に由る。今、業は業無しと観ずるに倒惑生ぜずして以て漏尽に到る、是を声聞の観業と名くるなり。若し業は無明に由る、無明の故に業あり、業の故に名色、乃至老死あり、若し無明を知るは取有を起さず、無明の滅するが故に諸行滅すと観ずるは、是れ縁覚の観業なり。若し、業行は幻化なり、幻化は即空なり、空は即ち涅槃なりと観ずるは、是を通教の観業と名く。若し、業は大地の能く種種の芽を生ずるが如し、十法界の法は皆業従り起ると観ずるは、是を別教の観業と名く。悉く是れ思議の境にして今の用ふる所に非ざるなり。
[30]不思議境とは、経に「深く罪福の相に達す」と云ふが如きは、罪は即ち三悪、福は即ち三善なり。怛三悪の業相を解して人天の三善の業相に達せざるは、即ち「深く達する」に非ざるなり。悪に達し、善に達するを「深く達す」と為す。若し善悪の業相は但是れ善悪なりと達するは「深く達す」と名けず。又善悪倶に是悪、善を離れ悪を離るる皆是れ善なりと、是を「深く達す」と為す。又人天の善悪に達するは是れ生死の辺なり、二乗の善を離れ悪を離るるに達するは、涅槃の空の辺なり。但是れ二辺なり「深く達す」と名けず。又二辺は皆是れ悪なるも亦「深く達す」と名けず。別教の菩薩は能く二辺の浅きに達して漸々に深く達す、故に「深く達す」と名く。又、別教は漸深なるも亦深達に非ず、円教は浅業に即して深業に達す、方に乃ち「深く罪福の相に達して遍く十方を照す」と名くることを得。是の如きの深達は実に曲く三界を弁ぜず、亦径涎して而して空に入らず即ち此意なり。一念の起るを観ずるに即ち十界を具するを十方と名く。十方は是れ依報なり、十界は是れ正報なり。若し依報無くば亦正法無し、既に正報有らば即ち性相本末等の百法有り、亦百方と名く。是の如き等の法は即ち一念の業なり、故に一業一切業と名く。「華厳」に云はく、「仏子、心性は是れ一なり、云何ぞ能く種々の諸業を生ずるや。答へて云はく、譬へば、大地の一にして能く種々の芽を生ず、地若し雨を得れば、毒薬の衆芽一時に沸発するが如し」と。今、法性の地、行道の雨を得れば、善悪の業芽一念に競ひ起る、業を法界と名く、諸法の都なり、故に不思議境と称す。
[31]既に深く業境の善悪共に都とするに達すれば、即ち慈悲を起す。罪福の理は違に非ず順に非ず、之に違すれば罪を成じ之に順ずれば福を成ず。世諦の名色及び諸の質礙の如き、亦違に非ず順に非ず、若し之を盜まば罪を成ず、則ち三途の悪業有り、若し之を捨つれば福を成ず即ち三善道の業有り。菩薩は深く此の如く非違非順に達して、違に於て悲を起し、順に於て慈を起す。即空真諦無言説の道、亦違に非ず順に非ず、之に違すれば則ち六道有漏の業を成ず、之に順ずれば則ち三乗の無漏の業を成ず。菩薩深く即空の非違非順に達して違に於て悲を起し、順に於て慈を起すなり。中道の諦も亦違に非ず順に非ず、之に違すれば則ち漏無漏二辺の業有り、之に順ずれば則ち非漏非無漏中道の業有り。「法華」に云はく、「久しく業を修して得る所なり」と、即ち此業なり菩薩は深く中道実相の非違非順を達し、違に於て悲を起し順に於て慈を起す。若し深く達する者はただ是れ一念の心、違に非ず順に非ず、三の差別無し、亦これ一念の慈悲なり、前に非ず後に非ず、故に真正の菩提心と名くるなり。
[32]心を業の空に安ずれば、則ち善順して而して悪息む、悪息むが故に止と名け、善順ずるが故に観と名く。心を業の仮に安ずれば、悪息み善順ず、心を業の中に安ずれば、悪息み善順ず、順ずが故に観と名け、息むが故に止と名く。是を業を、観じて善巧に安心すと名く。
[33]破法遍とは「阿毘曇」に云ふが若き、「業は謝して遇去に入り、繩を得、行人を繋属して未来に報を受く」と。「成実」に云はく、「業は現在より未来に入り、未来に報を受く」と。今此業を観ずるに、業、若し過去ならば、過去は已に謝するが故に、云何ぞ業有らん。業、若し未来ならば、未来は未だ有らず、云何ぞ業有らん。業、若し現在ならば、現在は念々住せず、念若し已に去らば即ち過去に属す、念若し未だ至らざるは即ち未来に属す、起に即して即ち滅す、何者か現在ならん。若し去る時に業有るを現在と名くと言はば、去る時是れ業か、去る者是れ業か。当に去る時去り、去る者去るべしと為さば、現在既に無し、業も亦得叵し。三世に推検し、横豎に捜求するに、善悪の諸業倶に不可得なり、畢竟清浄なり。而して善悪の業と言ふ者は、但世間の文字仮名を以て分別すればなり、名を聞きて而して謂つて実と為すべからず。所以は何ん。本理実を求めて虚名を求めず、虚名無性なり、強いて分別すと雖も、虚空を指すが如し、業に作受無し、三諦倶に寂なり。故に破法遍と名くるなり。
[34]識通塞とは、業、非業、亦業亦非業、非業非非業の句々の中に於て、明かに苦集を識る、一々の心の内に道滅を了知す、審かに的しく成就し終に虫字ならず。故に識通塞と言ふなり。
[35]道品調適とは「成論」の人の云はく、「意業単に起る、未だ業を成ずることを得ず。意は実法を得、想は仮名を得、行は則ち同じく縁ず、是時に意業成ずることを得」と。是れ則ち三の念処有るなり、身口の両業に就ては是れ色なり、身念処と名く。「毘曇」の人の云はく、「心数と心王は同時にして起る」と。王は即ち心念処、受数は即ち受念処、想及び余数は皆行陰にして即ち法念処、王数の色に依つて起るは、即ち身念処なり。若は一時なる、異時なる、皆四念有るなり。今此業を観ずるに、十法界の五陰を具す、即ち是れ一切の四念処を具するなり。一切の業同類の色は是れ身念処なり、此身浄に非ず不浄に非ず、同類の四陰なるは是れ三念処なり。此三は苦に非ず楽に非ず、我に非ず無我に非ず、常に非ず無常に非ず、即ち是れ非栄非枯雙樹にして涅槃す、乃至三解脱なり、是を道品と名く。
[36]助道対治とは、当に応仏の三十二相等を念じ、報仏無量の功徳を念じて共に習因の悪業を破し、法門の仏を念じて習因を破し、三十二相を念じて報果を破すべし云云。法門の仏を念じて報果の悪業を助破す、念仏の力の故に悪業障転ずれば則ち涅槃鬥に入るなり。是の如く観ずる時、上聖に叨れず。又当に内外の諸障を安忍して無礙を得しむべし。若し、似道を発すれば未だ是れ真の解ならず、法愛を生ずること勿れ、法愛起らずんば則ち任運に滞ふること無くして自然に清凉の池に流入す。
[37]是大乗の十観は、無量の無漏清浄の果報を得、無上の報を獲得し、自在の業を獲得し、深く罪福に達し、究竟して染すること無し、故に清浄と名く、即ち是れ法身なり。本に反り源に還り、智照円かに極まる、故に無上と名く、即ち是れ報身なり。形を九道に垂れ、普門示現す、故に自在と名く、即ち是れ応身なり。是の如きの三身は即ち是れ大乗高広、直に道場に至るなり、余は上に説くが如し云云。
[38]第五に魔事境を観ずるとは、行人四種三昧を修して悪将に謝せんとし、善生ぜんと欲するに、魔迴かに其境に出でんことを恐る。又当に他を化度し、我が民属を失ひ、我が宮殿を空しからしむべし。又其大神力大智慧力を得て、復当に我と大戦諍を興し、調伏控制して我を触悩すべきことを慮り、其未だ成ぜざるに遽んで彼善根を壊す、故に魔事有るなり。行者、道弱ければ未だ波旬、一切の鬼神を動ぜず、六天に属して管せらる。当界にして防戌するは正しく応に此を動ずべき耳。「経」に云はく、魔事、魔罪を説かざる者は是れ菩薩の悪知識なり」と。若し邪正を達すれば壊抱淡然たり。魔界の如と仏界の如と一如にして二如無く、平等一相なりと知りて、魔を以て戚と為し仏を欣と為さず、之を実際に安ず。若し能く是の如くなれば邪も正を干さず、悩乱設ひ起り、魔来るも甚だ善し。
[39]今魔を明すに五と為す、一には同異を分別し、二には発相を明し、三には妨損を明し、四には治法を明し、五には止観を修
す。
[40]同異とは、陰魔は已に陰果入境に属す、煩悩魔は已に煩悩境に属す、死魔は病是れ死の因なれば、已に病患境に属す、今は正しく天子魔を明すなり。然るに四倒と四魔と異なるは、四倒はただ是れ煩悩魔なり、煩悩魔なるが故に即ち陰入魔有り、陰入魔の故に即ち死魔有り、既に未だ三界を出でず、即ち天子魔に属するなり。若し界外の同異は、界内の四倒を破すれば分段の諸魔悉く過ぎ、唯無常等の四倒のみ有り、此は是れ界外の煩悩魔なり。煩悩魔なるが故に即ち無等等の色有り即ち界外の陰魔なり。陰魔は即ち死有り、三賢十聖は果報に住す、乃至等覚、三魔已に過ぎて唯一分の死魔のみ在る有り。是を界外の三魔と為す。第六天の魔無し。但赤色三昧、未だ究竟せざるを天子魔と名く。若し妙覚は、理円らかにして無明已に尽く、故に煩悩無し、果報に住せざるか故に亦死無し、赤色三昧満ず、乃ち是れ魔事を究竟するなり。若し「華厳」に十魔を明すも、亦何ぞ此意を出づることを得んや。
[41]二に魔の発相を明すとは、通じて是れ管属皆称して魔と為す、細く枝異を尋ぬるに三種を出です。一には●1.(つい)惕鬼、二には時媚鬼、三には魔羅鬼なり、三種の発相各々同じからず。
[42]●2.(つい)惕の発するは、若は人の坐する時、或は頭面に縁り、或は人の身体に縁り、堕ちて而して復上り、翻覆して已まず。苦痛無しと雖も、而も屑々として耐へ難し。或は人の耳眼鼻を鑚り、或は抱持し撃攊して物有るに似たり。捉ふれども得べからず、駆り己れば復来る、啾㗫として声を作して人耳を閙がす。此鬼は面琵琶に似たり、四目両口なり云云。
[43]二に時媚の発するは、「大集」に明す、「十二の獣、宝山の中に在りて法縁の慈を修す」と。此は是れ精媚の主なり、権応の者は未だ必ずしも悩ますことを為さず、実なる者は能く行人を乱す。若し邪想の坐禅は多く時媚に著せらる、或は少男、少女、老男老女、禽獣の像と作る、殊形異貌にして種々に同じからず、或は人を娯楽し、或は人を教詔す。今、時獣を分別せんと欲す
れば当に十二時を察すべし、何の時か数来ると、其来る時に随つて即ち此獣なり、若し寅は是れ虎、乃至丑は是れ牛なり。又一時に三と為す、十二時に即ち三十六獣有り。寅に三有り、初は是れ貍、次は是れ豹、次は是れ虎なり。卯に三有り、狐、兎、貉なり。辰に三有り、竜、蛟、魚なり。此九は東方に属す、木なり。此九の物は孟仲季に依つて伝作すること前後なり。巳に三有り、蝉、鯉、蛇なり。午に三有り、鹿、馬、麞なり。未に三有り、羊、鴈、鷹なり、此九は南方に属す、火なり。申に三あり、狖、猿、猴なり。酉に三有り、烏、鶏、雉なり。戌に三有り、狗、狼、豺なり。此九は西方に属す、金なり。亥に三有り、豕、貐、猪なり。子に三有り、猫、鼠、伏翼なり。丑に三有り、牛、蟹、鼈なり。此九は北方に属す、水なり。中央の土は四季に王たり、若し四方に行用するは即ち是れ土を用ふるなり、即ち是れ魚、鷹、豺、鼈なり、三転既に周ければ即ち三十六有り。更に一の中に於て三を開す、即ち一百八の時獣有り。深く此意を得て時に依つて名を喚べば、媚当に消去すべし。若し受著することやや久しければ、人をして猖狂恍惚ならしむ、妄りに吉凶を説きて水火を避けず云云。
[44]次に魔羅を明さば、二善を破して二悪を増せんが為の故に、喜んで五根従り強軟と作つて来り破す。「大論」に云はく、「魔を華箭と名け、亦は五箭と名く、各々五根を射て共に意を壊す」と。五根各々一刹那なり、刹那若し転ずれば即ち意根に属す、意根若し壊せば五根豈存せんや。眼に可愛の色を見るを華箭と名く、是れ軟賊なり、可畏の色を見るを毒箭と名く、是れ強賊なり。平々の色を見るは不強不軟の賊なり、余の四根も亦是の如し。合して十八箭なり、亦は十八受と名く。是義を以ての故に、応に受著すべからず、著すれば則ち病を成ず、病めば則ち治し難く、永く禅定を妨げ、死して魔道に堕す。復次に魔内に射に入らずんば、当に外に檀越、師僧、同学の弟子を扇ぐべく、十八の箭を放つ。昔諸の比丘、魔内に悩ますことを得、又檀越の毀誉を得、強軟捷たずば魔即ち哭し去る。行者善く師徒檀越を覚る。或は法主の異語、徒衆即ち瞋る。徒衆の怨言、法主則、怪しむ。是の如き因縁、広く説くこと「大品」の如し。又、魔は善巧なり、初めは善に乖いて悪を起さしむ、若し随はざれば即ち純ら善に堕せしめ、塔を起て寺を造り、散じて定を妨げしむ。若し随はざれば二乗に堕せしむ。魔実に二乗を解せず、但之を行当して大乗に入らざらしむるのみ。童蒙の人の如き、初め行当せられて大乗を捨てて少を習ひ、功未已に多し、後に悔ゆるとも益無し、能く行当する者、実に大小を解せず。又人を化して無方便の空に入らしめ、仏無く衆生無しと謂ひて偏空の裏に堕す、或は偏仮の裏に種々蹊径し、円に入らざらしむ。阿難、笈多、阿鞞跋を学する者、皆魔の為に悩まさる、何に沈んや初心なるもの、寧ろ自他の三十六箭を免れんや。若し魔仏皆実際に入ると知らば則ち怖畏無し「大経」に云はく、「声聞の人の為には調魔有りと説き、大乗の者の為には調魔を説かず」と。一心に理に入らば誰か強軟を論ぜんや。
[45]三に妨乱を明すとは、但強軟等の箭、初め五根を射るに三の過患有り、一には人をして病ましめ、二には観心を失し、三には邪法を得。病に種々の相有り、眼従り入る者は肝を病ましむ、余の根も知る可し。身、病苦に遭ひて心則ち迷荒し、禅を喪ひ死を致すなり。観心を失するとは、本修する所の観は善法安隠なるに、五根従り見聞して已後は心地昏忽として復次序無きなり。邪法とは、当に十種の正法に約して邪相を簡出すべし。有とは、色眼従り入るに山河星辰日月の居官を見、亦幽中の種々の相貌を見て方面を指点す、是れ有のはなはだ過ぎたるなり。無とは、色眼従り入るに即ち諸法は猶ほ断空の如しと謂ひて灰無の法を説く、甚だ怖畏すべし、是れ無の太だ過ぎたるなり。明とは、色入り已つて豁々として常に明かなること日月の照すが如し。闇とは昏闇漆黒にして鏗然として曉らず。定とは色入り已つて、心、木石の如く塊然として直く住す。乱とは、色入り已つて狡擲攀縁す。愚とは、色入り已つて闇短鄙拙なり、脱裸にして恥ること無し。智とは、色入り已つて聡黠捷疾なり。悲とは色入り已つて憂悩泣涙す。喜とは、色入り已つて歌逸して恆に歓ぶ。苦とは、百節疼痛して火に炙らるるが如し。楽とは、身体暢酔して五欲の楽の如し。禍とは、自ら恆に禍を招き、亦他の為に禍を作し、亦他の禍祟を知る。福とは、恆に自ら福を招き亦能く他の為に福を作す。悪とは、悪として造らざる無く、又他をして悪を作さしむ。善とは、自ら檀等を行じ、亦他をして檀を行ぜしむ。憎とは、人を見るに耐へず、他を遠ざけて独り住す。愛とは、戀重纒著す。強とは、其心剛強にして出入に自在を得ず、猶ほ瓦石の回変す可きこと難きが如く、善道に順ぜず。軟とは、心志軟弱にして敗壊す可きこと易く、猶ほ軟泥の器と為すに堪へざるが如し。是れ等の若は過ぎ若は及ばざるを以て、悉く邪相と名く。一根に三受有り、一受に二十の邪法有り、三受合すれば六十の邪法なり、五根に歴て合して三百の邪法あり。九十五種、種々の異邪と雖も、而も其初入は必ず五根に因る、細く尋ぬれば三百、必ず彼と相応するなり。未れ●3.(つい)惕は多く禅観をして喪失せしめ、時媚は多く人をして邪法を得しめ、魔羅は此二損を備たり。
[46]四に治法を明す。若し●4.(つい)惕を治するには、須らく知るべし、拘那含仏末法の比丘、好んで衆僧を悩乱す、僧之を擯駆するに即ち悪誓を生じて常に坐禅の人を悩ます。此は是れ源祖の鬼なり、報或は已に謝すれども而も同業の生ずる者亦能く悩乱す。今其宗祖を呵すれば聞きて即ち羞ぢ去る。呵して云へ「我れ汝が名字を識る、汝は是れ●5.(つい)惕悪夜叉なり。拘那含仏の時戒を破し臘を偸む吉支なり、食を貪り香を嗅ぐ。我今戒を持して汝を畏れず」と。是の如く呵し已らば即ち応に去るべし。若し其れ去らずんば当に密かに戒の序及び戒を誦すべし、戒神還つて守り、破戒の鬼去る。時媚鬼を治するには、須らく善く十二時、三十六時の獣を識るべし。時を知りて名を唱ふれば媚即ち去るなり。隠士頭陀の人、多く方鏡を畜へて之を座後に挂く、媚、鏡中の色像を変ずること能はず、鏡を覧て之を識り、以て自ら遣るべし。此れ則ち内外の両治なり。魔羅を治するには三有り。一には初覚に呵す、守門の人、悪を遮して進まざらしむるが如し。仏の比丘に告げたまひしが如し、「一切の他の物は受けず」と、不受の術は能く一切自他の魔事を治す。二には若し已に受入せば当に頭従り足に到るまで一々諦観すべし、魔を求むるに得叵し、又心を求むるに得叵し、魔、何れより来る、何等をか悩まさんと欲する」と。悪人の舍に入るを、処々に照検して住することを得しめざるが如し。三には、観ずるに若し去らずんば、強心に抵捍せよ。死を以て期と為し、爾と共に住せずと、善巧に回転す。是の如きの三治、多く説くことを須ひず。
[47]五に止観とは、例して十法と為す。思議の境とは、若し魔事起るに魔の行に随順し諸の悪業を為し、三途の法を成ず。若し魔に随つて善を起すは、所謂、他属にして而して布施を行ず、善道に生ずと雖も世々相染す、或時は附著し、倚託し、言語す、若し身命を捨つれば即ち彼報を受く、設ひ道を修せんと欲するも障遮万端なり。「経」に云はく、「菩薩有り、魔有り、魔無し」と、即ち此意なり、是を三善法界と為す。魔は又化して自ら涅槃に入らしむ、衆生何ぞ汝が事に預らん、唐しく辛苦を受けんよりは証を取るに如かじと。是を二乗法界と名く。魔は又人をして拙度に紆回して、速かに菩提の道に入らざらしむ。是の如く浅深歴別なるは皆是れ思議の境なり。
[48]若し此魔事に即して十界百法を具して一念の中に在らば、一切の法魔に趣く。一夢の法は一切の事を具するが如し、一魔一切魔、一切魔一魔なり、一に非ず一切に非ず、亦是れ一魔一切魔、一仏一切仏なり、仏界を出でずして即ち是れ魔界、二ならず別ならず。此の如く観ずる者は降魔なり、是れ道場なり、上根利智は魔を治して理を顕し、魔を以て侍と為し、魔に於て怖れず、薪の火を益すが如し。縁修は寂照すること能はず、持世は魔の謀を覚せず、謂つて善来と言ふ。真修は寂照す、観を待つて而して後に鑑みず、即ち是れ魔にして帝釈に非ざることを知るなり。別教は非法に耐へず、故に我宜しき所に非ずと云ふ。円教は之を実際に安ず、故に我の如き受に応ずと言ひ、非人を畏れず、生死に於て勇有り、是を不思議境と名くるなり。
[49]魔界即ち仏界にして而して衆生は知らず、仏界に迷ひて横に魔界を起し、菩提の中に於て而も煩悩を生ず、是故に悲を起す。衆生をして、魔界に於て即ち仏界、煩悩に於て即ち菩提ならしめんと欲す、是故に慈を起す。慈は無量の仏、悲は無量の魔、無量の慈悲は即ち無縁の一大慈悲なり。
[50]此願を満じて此理を顕さんと欲せば応に魔を降して道場と作すべし。八十億の衆心を動ずること能はざるを止と名け、魔界即ち仏界なりと達するを観と名く。但、四悉檀を以て止観し心を安ずるなり。
[51]魔事の起るに随つて、即ち四句を以て之を破するに横豎単複、破すること悉く滞り無し。三蔵は初め四魔を伏し、道場に坐して煩悩魔を破し、菩提の道を得。又法性身を得て陰入魔を破す。此両共に死魔を破す、道樹の下にして不動三昧を得、三の玉女を変じ、八十億の兵を破するに冠蓋剣各堕ちたりとは是れ天子魔を破するなり。通教は初め無生忍を得、六地に至つて菩提の道を得ること前の如し。八地に道観雙流するは是れ不動三昧にして天子魔を破す。両処の声聞は、止三魔を破す、笈多は恒に為に悩され、後に神通を得れども伏にして而して破に非ず云云。別教は十住に已に界内の四魔を破し、登地に、分に菩提の道を得て煩悩魔を破す、分に法身を得て陰魔を破す、分に赤色三昧を得て天子魔を破す。「瓔珞」に云ふがごとき、「等覚に三魔已に尽き、唯一分の死魔のみ在り」と。三応に前に尽くべからず、一応に独り余るべからず、此れ乃ち別教の方便の説なるのみ。円教は初住に倶に八魔を破し、菩提の道を得、煩悩魔を破す云云。乃至妙覚に八魔究竟して永く尽く。初住に破すと雖も、初住に破するに非ず、後覚に破すと雖も後覚に破するに非ず、而も初住後覚を離れず。是を破法遍と為すなり。
[52]上の一々の破魔の法の中に於て皆苦集無明蔽度を識り、字非字を知る。
[53]道品とは魔界に一切の色を具す、色即ち是れ空、色即ち不浄、色即ち是れ仮なり、此を名けて浄と為す。色即ち是れ中、浄に非ず不浄に非ず。余の四陰も亦是の如し。是を一念処一切念処、乃至三解脱門と名く。
[54]門若し未だ開かざるは必ず事障に由る。久遠劫来、魔の為に使はれ、魔の檀を起す、有報の為の故に魔の戒を持つ、利養を要ふるが故に魔の忍を行ず、他を畏るるが為の故に魔の精進を習ふ、名聞を求むるが故に魔の禅を得、鬼法を味ふ、魔の慧を楽ひて見網を分別す。是の如きの六法、名けて善と為すと雖も、其実は是れ魔なり。此邪蔽に由つて三脱の門を蔽ふ。今正度を用て六蔽を対治す、蔽去つて度成ず、油多ければ明かなること盛なるが如し。若し煩悩を雑せば当に前の四分の観を用て助治すべし。業を雑せば借りて二仏を念じて助治せよ。
[55]若し小乗は伏道遍きを名けて聞慧と為し、乃至円教は五品是れ聞慧の位なり。此れ尚未だ成ぜず、豈、真に濫して増上慢を起す可けんや。
[56]若し真に入らんと欲せば、当に一心に安忍すべし、更に魔の動乱する所と為ること勿れ微を窮めて観照し、心を強うして呵抵せよ。
[57]若し似位に入りて法の賞賜を得ば、高心愛心を生ずること勿れ。譬へば大勲の黜けられて小県と為り、或は禄を失ひ、或は命を失ふが如し。若し法愛を起すは是れ罪を犯すなり、但似解を発するは小県の如し、似解を失するは県を失するが如し、二乗の地に堕するは命を失ふが如し、大乗の家業、宗社の滅するが故なり。若し法愛無くんば、相似従り真実に入る、魔を調へて侍と為し、直に道場に至る。復次に慧を退するは勲を失するが如し、定を退くは禄を失するが如し、倶に退するは命を失するが如し。
[58]復次に通じて一意を用て観を為さば、行人の根鈍にして先に通意を解し、度曲して別に入る。「中論」の品々別意あれども、而も倶に無生に会す、通別互に挙ぐ、意を得れば相成ず。 [59]問ふ、「魔動じ竟つて好法後に起るは、是れ法爾として塞過ぎて春来ると為んや」。答ふ、「未だ必ずしも併せて然らず、自ら難を過ぎて好法亦発せざる有り、魔は是れ悪縁の感ずる所、善は是れ心力の致す所なり」「釈論」に云はく、「釈迦が往昔に悪世に在り世に仏無く、法を求めて精進すれども了かに得ること能はず、魔変化して婆羅門と作り、詭つて言はく、「仏の一偈有り、汝能く皮を紙と為し、骨を筆と為し、血を墨と為さば、当に以て汝に与ふべし」と。菩薩は法を楽へば即ち自ら皮を剥ぎて曝して乾かしめ、偈を書せんと擬するに、魔即ち隠れ去る。仏、其心を知りて下方より涌出し、為に深経を説きたまひければ、無生忍を得光り」と。以て証と為すべし云云。