[1]次の円教は、但一実諦を明す。「大経」に云はく、「実には是れ一諦なれども方便して三と説く」と。今も亦此に例す、実には是れ一諦なれども、方便して三を説くなり。「法華」に云はく、「更に異の方便を以て、第一義を助顕するのみ」と。是を円教の二諦三諦一諦離合の相と為すなり。

 [2]次に四諦の離合を明さば、前の三諦二諦一諦は皆豎に弁ずるものなり、四諦は則ち横に論ず。則ち四種の四諦あり。謂く、生滅、無生滅、無量、無作等なり云云。生滅の四諦は即ち是れ横に三蔵の二諦を開するなり。無生の四諦は即ち是れ横に通教の二諦を開するなり。無量の四諦は即ち是れ横に別教の二諦を開するなり。無作の四諦は即ち是れ横に円教の一実諦を開するなり。今、「中観論」を将て此四番の四諦に合すれは、「論」に云ふ、因縁所生の法とは即ち生滅の四諦なり。我説即是空とは即ち無生の四諦なり。亦為是仮名とは即ち無量の四諦なり。亦名中道義とは即ち無作の四諦なり。

 [3]二に智の離合を明さば、諸の経に、或は一智、二、三、四、乃至十一智等を説く、若し三智を説かば用て三諦を観ずべし、其増減の如きは、当に云何が観ずべき。一智とは、「経」に云はく、「一切の諸の如来は、同じく共に一の法身、一の心、一の智慧なり、力、無畏も亦然り」と。唯一の仏智は即ち一切種智なり、一相、寂滅相、種種の行類相貌、皆知るを一切種智と名く。此智、三諦を観ずるは、若し一相寂滅相と言はば。即ち是れ中道を観ずるなり。若し種種の行類相貌皆知ると言はば、即ち是れ雙べて二諦を照すなり。若し二智のごときは、所謂権実なり、権は、即ち一切智と道種智にして、有無の両諦を観ずるなり。実は即ち一切種智にして、中道諦を観ずるなり。三智の三諦を観ずることも解すべければ説かず。四智とは、「大品」に明すが如し、道慧、道種慧、一切智、一切種智なり。「釈論」に此を解するに多種あり、或は因の中に但だ理体あるを名けて道慧、道種慧と為し、果上に事理皆満ずるを一切智、一切種智と名く。或は言はく、因の中の権実なるが故に、道慧、道種慧と言ひ、入空を実慧と為し、入仮を権慧と為すと。或は言ふ、果上の権実なるが故に、一切智、一切種智と言ひ、直に中道を縁ずるを一切智と名け、雙べて二諦を照すを一切種智と名くと。或は言ふ、因中の総別、果上の総別なりと。或は言はく、道慧、道種慧は是れ単に権実を明す、一切智、一切種智は是れ複に権実を明すと。是の如き等、種種に四智を釈すも、四智はただ是れ三諦を照すなり。若し経の中に、五諦、六、七、八、九、乃至無量を明すことあるも、但、此意を得て之を釈すれば、三諦に入らしめん。十一智とは、世智、他心智の両種は俗諦を照す、八智は真諦を観ず、如実智は中道を観ず、是を智に離合あつて而も三諦動ぜずと名く云云。復次に、智と諦と倶に開せば、多少に随つて自ら相摂す。三諦に即ち三智あり、二諦に即ち二智あるが如し、此義解すべし。又、智と諦と倶に開せざるは、且く一諦一智にして増ぜず減ぜざるに據る、此も亦解すべし云云。智のごときは開合すと雖も終に是れ実智にして、能く実体を顕すなり。

 [4]次に諦智に約して合して弁ずれば、三蔵の真諦は一眼一智を発し、俗諦は一眼一智を発す。両諦共に一眼一智を発するなり。慧眼、一切智は真諦を縁じ、法眼、道種智は俗諦を縁じ、仏眼、一切種智は共に真俗の両諦を縁ず、隻べ照すと道ふことを得ず、ただ前後共に照すと道ふことを得るのみなり。通教の真諦は二眼二智を発し、俗諦は一眼一智を発す、一切智、一切種智は共に、真諦を縁じ、道種智は俗諦を縁ず。若し、別接通を作さば、俗諦は一眼一智を発し、真諦は一眼一智を発し、真を開してを出し、一眼一智を発す。智の諦を縁ずることも亦是の如し。別教の三諦は、一一の諦、各一眼一智を発す、智の諦を縁ずることも亦是の如し。若し別教に二諦を作らば、俗の中の空は一眼一智を発し、俗の中の有は一眼一智を発し、真諦は一眼一智を発す。智の諦を縁ずることも亦是の如し。円教は、一実諦、三眼三智を発す、智の諦を縁ずることも亦是の如し。問ふ、云何ぞ別を以て通に接するや。答ふ、初め空仮の二観は、真俗の上の惑を破し尽して、方に中道を聞く、なお観を修して無明を破し、能く八相作仏することを須ふ。此仏は是れ果なり、なお前の二観を因と為す、故に別を以て通に接すと言ふのみ。此仏果を以て、三阿僧祇百劫、種相の因を接せざるか故に三蔵に接せず、此果を将て十地の因に接せざるが故に別に接せず、此果を将て十住の断無明を接せざるが故に円に接せず。唯、別を以て通に接することを得、其義此の如し。

 [5]四に得失を明すとは、失とは即ち思議、得とは即ち不思議なり。

 [6]若し、智は心に由つて生じ、自ら能く境を照すこと、炬の物を照すに、若は照すも、未だ照さざるも、此物は本より有なるが如く、若は観ずるも、観ぜざるも、境は自ら天然なりと言はば、諦智相由藉せず。若し智は自ら智ならず、境に由るが故に智なり。境も自ら境ならず、智に由るが故に境なり。長短相待するが如しと言はば、此は是れ相由つて而して有るなり。若し、境は自ら境ならず、又故に由るが故に境ならず、境智の因縁の故に境なり、智も亦例して然りと言はば、此は是れ共に合して名を得るなり。若し、皆、上の三種の如くならず、但、自然にして而も爾りと言はば、即ち是れ無因の境智なり。此四解皆過ち有り。所以は何ん、四取あるときは則ち依倚あり、依倚すれば則ち是非す、是非すれば則ち愛恚す、愛恚すれば一切の煩悩を生ず、煩悩生ずるが故に、戯論諍競を生ず、諍競生ずるが故に、身口意の業を起す、業生ずるが故に、苦海に輪廻して解脱するの期無し。当に知るべし、四取は是れ生死の本なりと。故に竜樹は之を伐る、諸法は自より生ぜず、那ぞ自の境智を得ん。他生なること無し、那ぞ相由るの境智を得ん。共生なること無し、那ぞ因縁の境智を得ん。無因生なること無し、那ぞ自然の境智を得ん。若し、四の見に執して著すれば、愚惑紛綸たり、何ぞ謂ひて智と為さんや。今、不自生等を以て四性を破す、性、破するが故に依倚無く、乃至業苦等無し、清浄の心は常に一なれば、則ち能く般若を見るなり。

 [7]是義を以ての故に、自の境智苦集生ぜざれば即ち是れ生生不可説なり、故に身子黙然す。乃至無因の境智苦集生ぜざれば即ち是れ不生不生不可説なり、故に、浄名は口を杜ぐ、言語の道断え、心行の処滅す。説く可からずと雖も、四悉檀の因縁あるが故に亦説くことを得べし、或は自生の境智を説き、乃至、或は無因の境智を説く、四説を作すと誰も、性執久しく破すること前の如し云云。但、名字のみあり、名字は無性なり、無性の字なれば是字住せず、亦住せざるにもあらず、是を不可思議と為す。故に「金光明」に云はく、「不可思議の智境、不可思議の智照」と、即ち此意なり。若し、四性の境智を破すれば、此を実慧と名く。若し、四悉檀、縁に赴きて四の境智を説かば、此を権慧と名く。是の如きの境智凡夫は両ながら失ふ。二乗は、一は得、一は失ふ、菩薩は両ながら得。何を以ての故ぞ。凡夫は四性有れば自行を失と為し、四悉檀無きをもつて化他を失と為す。二乗は四性を破して第一義に入れば、自行を得と為し、衆生を度せざれば化他を失と為す。菩薩は具足す、是故に両ながら得。又凡夫の両失なるは是れ思議の失、二乗の一得一失なるは倶に是れ思議、菩薩の両得なるは倶に不思議なり、此れ通教に約して得失を弁ず。若し、別をもつて通に望むれば、通教の両得は倶に是れ思議なり。別教の両得は倶に不思議なり。若し、円をもつて別に望むれば、別教の教道の両得は倶に是れ思議なり、何を以ての故ぞ。教門の方便なればなり、或は無明は一切の法を生ずと言ひ、或は法性は一切の法を生ずと言ふ云云。或は、縁修は真修を顕すと言ひ、或は、真自ら顕はると言ふ、此を執すれば還つて性の過を成じ、可思議の中に堕すなり。若し、証道は即ち不思議なり。円教の教証倶に不思議なり。何んが故にして爾るや。至理は説無けれども縁の為に四説す、但、仮名のみ有り、仮名の名なれば、名は即ち無生なり、故に教証倶に不可思議なり。思無く、念無し、故に依倚、戯論、結業無し、業無きが故に生死無し、是を自行に得と為し、実体を得と名く、能く不可説の説を以て衆生を化導して生死を出で実体を得しむ、是を自他倶に体を得と為すなり。

 [8]第四に摂法を明すとは、疑ふ者の謂く、止観は名略にして法を摂すること周からやと。今は則ち然らず、止観は総持して遍く諸法を収むるなり。何んとなれば、止は能く諸法を寂す、病を灸くに穴を得れば衆患皆除くが如く。観は能く理を照す、珠王を得れば衆宝皆獲るが如く、一切の仏法を具足す、「大品」に百二十条あり、及び一切の法に皆当に般若を学すべしと言ふ、般若は祇是れ観智なり、観智已に一切の法を摂す、又止は是れ王三昧なり、一切の三昧、悉く其中に入る。

 [9]今更に広く摂法を論ずるに即ち六意と為す。一には一切の理を摂す、二には一切の惑を摂す、三には一切の智を摂す、四には一切の行を摂す、五には一切の位を摂す、六には一切の教を摂す。此六の次第は、仏有るも仏無きも、理性は常住なり。理に迷ふに由るが故に生死の惑を起す、理に順じて観ず、是故に智を論ず、解の故に行を立つ、行に由るが故は位を証す、位満ずるが故に他を教ふ。事理、解行、因果、自他等の次第、皆止観に摂し尽すなり。

 [10]一に、三止三観を以て一切の理を摂するは、理は是れ諦法なり、上の開合偏円の同じからざるが如し。権実の外、更に別の理無し、摩黎山を除きて余は栴檀無し。若し更に有りといふは即ち是れ妄語なり。既に止観を以て体を顕す、即ち一切の理を摂するなり。

 [11]二に、止観は一切の惑を摂するとは、諦に迷ふことを以ての故に惑を起す、迷は即ち無明なり。若し権の理に迷ふときは則ち界内の相応独頭等の無明あり、見思の諸使と合する者を相応と名け、相応せざるものを独頭と名く。此事を知らざるが故に貪を起す。知らざる者は是れ無明なり。貪を起すは是れ行なり。貪とは是れ識なり。識は四陰と共に起る、是れ名色なり。色は諸根を動かす、是れ六入なり。六入の著する所、是れ触なり。触は塵に随順す。是れ受なり。受の喜楽する所、是れ愛なり。愛と倶に生ずる纒は、是れ取なり。当来の生業を造る、是れ有なり。未来の陰起る、是れ生なり。陰の熟するは是れ老にして陰を捨つるは是れ死なり。是の十二輪は更に互に因果と為る、煩悩は業に通じ、業は苦に通じ、苦は煩悩に通ず、故に三道と名く。「成論」に云はく、「前には後の三の中に行じ、後には前の七の中に行ず、七は是れ業、復是れ道、能く後の世に通ず、後の三は業に非ず、而して能く七に通ずれば亦是れ道なることを得」と。経の中、亦呼んで十二牽連、十二輪と為す。束縛すること窮らざるが故に名けて輪と為す。三世間隔つるが故に分段と名く。真諦の理を覆ひて解脱することを得ず、此れ即ち是れ病なり。病を説かば即ち薬を知る、薬は即ち従仮入空の止観なり、薬を観れば即ち病を知る、故に此惑は入空の止観に摂せらるると為すなり。

 [12]若し実理に迷へば則ち界外の相応、独頭等の無明あり。所以は何ん。界内に相応独頭を断ずと雖も、而も習気猶在り、小乗の中には習にして正使に非ず、大乗の実説は習は即ち別惑にして是れ界外の無明なり。故に「宝性論」に云はく、「二乗の人、無常、苦、空、無我等の対治ありと雖も、仏の法身に於ては、猶是れ顛倒なり」と。顛倒は即ち是れ無明独頭なり、無漏の智業を行と為す、三種の意生身、亦是れ五種の意生身あり。意は即ち是れ識、身は即ち名色、六入、触、受なり。無明の細惑、戯論、未だ究竟して滅せす、即ち是れ愛取なり。煩悩染、業染、生染、未だ究竟せず、即ち是れ有なり。三種の意因移る、即ち是れ生なり。其果、変易するは、即ち是れ老死なり。此十二を束ぬれば是れ無漏界の中の四種の障なり、謂く、縁と相と生と壊となり。縁は即ち煩悩道、相は即ち業道、生壊は即ち苦道なり。故に知んぬ、界外にも十二因縁有ることを。所以は何ん。仏を降つて已下、皆、無明あり、無明は業を潤ほす、業既に潤ほさる、那ぞ苦無きことを得んや。此十二輪は果を退して下に随せずと雖も、無明輪より老死に至り、老死輪より無明に至ることを妨げず。実理を障ふるは良に此惑に由るなり。此惑は、入仮、入中の両観の為に治せらる。

 [13]更に之を料簡す、何を以ての故ぞ。三種の意生身。凡そ多種有り、若は析体の二乗、及び通の菩薩等、先に界内の惑を断じ尽して、而も未だ曾て仮中を修習せざる者は、界外に生ずるも、界外の惑、全く未だ伏せられず、其根則ち鈍なり。若し彼に於て、観を習ふ時は必ず須らく、次第に歴劫修行し、恒沙の仏法を学して、先づ塵沙を破すべし。塵沙は生を潤さずと雖も、能く化道を障ふ、故に須らく前に断ずべし、此惑を断ずる者は、止是れ調心の方便なり。界外の惑を伏し、進んで三道を断ずれば、相応独頭枝本皆去る。故に知んぬ、仮観は正しく塵沙を摂得し、亦無明を摂得することを。別円の二人のごときは、通惑先に尽し、別惑伏せられて彼界に生すれば神根即ち利なり。但、中観を修して彼三道を治す、初地より乃至後地、地地の中皆三道あり、地地の無明分分に滅し、業滅し、苦滅す。地地の相応去る時、独頭も亦去る、地地に智ありと雖も、智と無明と雑る、雑るが故に亦呼んで智障と為すことを得、上分の智を障ふるが故なり。唯、仏心の中のみ無明なし、則ち煩悩道尽く、煩悩道尽くるが故に業尽く、業尽くるが故に苦尽く、三道究竟すること唯如来に在り。是故に中観は界外の惑を摂得するなり。

 [14]三に止観に一切智を摂するとは、諸智の離合は前に説く所の如く、三観をもつて往いて収むるに、畢く尽さざるところ無し。世智は理を照さざれども、十一智の中に已に摂す、若し広く二十智を明さば、亦三観の為に摂せらるるなり。

 [15]四に、止観に一切の行を摂するとは、前の智は是れ解なり、解して而も行無くんば終に至る所無けん。行に両種あり、所謂、慧行と行行となり、若は三蔵の中の慧行と行行、乃至、円の中の慧行と行行あり。慧行は是れ正行なり、行行は是れ助行なり。毘婆舎那は能く煩悩を破し、復、奢摩他の力を須ひて正知見を助く。正助の両行は智に随つて転ずること足の眼に随ふが如し。三蔵の中の無常の析観のごときは、是れ慧行なり。不浄、慈心等は是れ行行なり。此両行は、析智に随つて空に入るなり。通の中、法は幻化の如しと体するごときは、是れ慧行なり、一切の法に歴る数息、念処、縁事の止観は是れ行行なり。此両行は体法の智に随つて、空に入るなり。若は衆生を化せんが為に、道種智を修する若は、俗の理を縁ずるを慧行に属し、俗の事を縁ずるを行行に属す。此両行は道種智に随つて仮に入るなり。若は中道の、実相、一道清浄を縁ずるは、是れ慧行なり。一切の法門に歴るに諸度、皆是れ摩訶衍なりとし、十二因縁は即ち是れ仏性なりとし、念処は即ち是れ坐道場なりとする等は、是れ行行なり。此両行は、中智に随つて実相に入るなり。

 [16]復次に根本四禅は定慧等しきが故に両の摂なり。欲界は定少く慧多ければ観の摂なり、中間も亦爾り。四空は定多く慧少ければ止の摂、四無量心の前の三心は観の摂、捨心は止の摂なり。九想、八念、十想は観の摂、八背捨の前の三の背捨は観の摂、後の五は止の摂なり。九次第定、師子奮迅、超越等は是れ止の摂なり。四念処は是れ慧の性なれば観の摂。若し四意の止の説を作さば作心して不浄等を記録す、此れ止の摂に属す、而も終に是れ観を主と為す。四正勤は念処を成ぜんが為なれば、一往観の摂、若し両悪生ぜざるは止の摂、両善を生ぜしめんが為なるは、観の摂なり。四如意足は四の因縁より定を得、即ち果を名と為すは止の摂、五根の信、進、慧の三根は観の摂、念と定は止の摂、又、信と念は両に属す、五力も亦是の如し。七覚分の択法、喜進等は観の摂、除捨定は止の摂、念は両処に通ず。八正の正見と正思惟は観の摂、正業、正語、正命は戒に属すれば即ち止の摂、正念、正定、正精進は止の摂なり。四諦の三諦は是れ有為の行にして観門に属す、滅諦は是れ無為の行にして止門に属す。十六行は皆是れ観門なり。四弘誓は四諦に依つて起れば彼の如し。十八不共法の三業、随智慧行は観の摂、三無失は止の摂、知三世は観の摂、余は知るべし。四無畏は、一切智無畏は観に属して摂す、漏尽は止の摂、至処道は観の摂、障道は止の摂、三三昧門は止の摂、三解脱門は観の摂、六度は前の三は是れ功徳にして止の摂、後の三は是れ智慧にして観の摂なり。又五度は功徳にして止の摂、般若は観の摂、又六度は皆是れ功徳荘厳にして止の摂なり。乃至、九種の大禅、百八三昧は皆止に属して摂す。十八空、十喩、五百陀羅尼は皆観の摂なり。

 [17]是の如き等の一切の慧行、行行は止観の為に摂せられざること無し。当に知るべし、止観の名は略なれども、義を摂すること則ち広しと云云。

 [18]五に、一切の位を摂するとは、若し、一地即ち二地、二地即ち三地、寂滅真如なり、何の次位か有らんと云はば、此れ則ち次位あること無し。又、大乗経の中に、処処に皆一切の地位を説く、良に以れば生無く滅無きの正慧は無所得にして能く煩悩、業、苦を治す、三道若し浄まれば無為の法の中に於て而も差別あり、次位何ぞ嫌はんや。

 [19]若し析法入空の有無の二門に三道を断ずる所は、「毘曇」に明す所の七賢、七聖、四沙門果、「成論」に明す所の二十七賢聖等の差別の位の相の如し、乃至、非有非無門の位も、皆析空観の為に摂せらる。若し体法の四門の入空に三道を断ずる所は、「大品」に明せる、三乗共位の乾慧乃至八地の如し。悉く同じく入空の止観の摂なり。若し従空入仮に歴別の行を修して意を得ざるものは、三十心の伏惑の位を成ず、即ち空仮の両観を用て摂す。若し意を得れば能く三道を破して十地の位を成ず、即ち第三観の摂なり。或は純ら仮観を以て摂す、乃至四門も亦是の如し。若し円の信解行は、事に即して而も真なり、観行より相似に入り、進んで無明を破し、仏の知見を開示し、悟入す、凡そ四十二位、同じく宝乗に乗りて直に道場に至る。「涅槃」に説かれたる、十五日の月は、光用転た顕はるとは、其智徳を譬ふるなり。十六日の月は、光用漸く減ずるとは、其断徳を譬ふるなり。又、十四般若の如きは是れ因位、十五は妙覚の如し、是れ果位なり。皆中観を用て摂す。乃至、四門も亦是の如し。

 [20]問ふ、大乗には地位を明さす、止観何の摂する所あらんや、答ふ、大乗の経論に皆地位を明す。汝、地位を畏れて無地位に入らば、無の縛を免れず。文字の性を離るるは即ち是れ解脱なり。地位を説くと雖も即ち地位無し。「中論」に云はく、「外人の如き、世間の因果を破するときは則ち今世、後世無けん。出世の因果を破するときは則ち三宝、四諦、四沙門果無けん」と。何等の三宝ぞ無き。見、既に滅せざれば則ち三蔵の中の三宝、四諦、四沙門果無し。尚、拙度の道果をすら得ず、何の処にか、後の三番の三宝、四諦、四沙門果有らん。此れ外道の全く四番の三宝等を無とするを斥くるなり。若し拙度を斥くれば、唯、三蔵の中の三宝、四諦、四沙門果のみありて、後の三番の道果無し。我破する所の如きは、即ち三宝、四諦、四沙門果あり。何となれば、界内の煩悩、業、苦を析破するに、即ち三蔵の三宝、四諦、四沙門果あり。もし体破するは、即ち三番の三宝、四諦、四沙門果あり。此一語を点じて、内の留滞を治し、外を破して、以て邪を閑ぐ、二辺の邪正を去れば、正の三宝、四諦則ち立つ、云何ぞ無と言はんや、但、有位、無位は証に非ざれば了せざるなり。今但、教を信ず、教有れば、則ち階位宛然なり、教無ければ、則ち豁かに空浄に同じ、無句の義は是れ菩薩の句義なり、空を点じて位を論ずれば位は不可得なり、応に諍を生ずべからず。又、「中論」の偈の四句に約するに、亦地位の義有ることを得。偈に云はく、因縁所生法、我説即是空とは、即ち煩悩、業、苦を破す。便ち、須陀洹の若は智、若は断、是れ菩薩の無生法忍なり、六地は二乗に斉しく、七地を方便と為し、十地を仏の如しと為すと有り。此位自ら明かなり、云何ぞ無と云はん。偈に、亦名為仮名とは、是れ漸次に界外の三道を破す、即ち四十二の賢聖の位あり、云何ぞ無と云はん。偈に、亦名中道義とは、即ち是れ円に五住を破す、便ち六即の位あり、云何ぞ無と言はん。秖四句を用ひて一切の位を摂す、一切の位は四句を出です、四句は止観を出です、故に位を摂すと言ふなり。

 [21]六に、一切の教を摂するとは、「毘婆沙」に云はく、「心は、能く一切の法の為に名字を作す、若し心無きときは、則ち一切の名字無し」と。当に知るべし、世出世の名字は悉く心より起ることを。若し観心僻越して無明の流に順ずるときは、則ち一切の諸の悪き教起ることあり。所謂、僧佉の衛世、九十五種の邪見の教生ず、亦諸の善き教起ることあり、五行六甲、陰陽八卦、五経子史、世智無道の名教、皆心より起る。何をか出世の名教皆心より起ると云ふや。堅慧の「宝性論」に云はく、「一の大経巻有り、三千大千世界の大さの如くして、大千世界の事を記す、中の如く、小の如く、四天下、三界等の大さなるもの、皆其事を記すに、一微塵の中に在り、一塵既に然れば、一切の塵も亦爾り、一人世に出で、浄天眼を以て、此大経巻を見、而も是念を作す、云何ぞ、大経微塵の内に在りて、而も一切の衆生を饒益せざるやと、即ち方便を以て、破して此経を出して、以て他を益す。如来の無礙智慧の経巻、具に衆生の身の中に在れども、顛倒之を覆ひて、信ぜず見ず、仏、教へて衆生をして八聖道を修し、一切の虚妄を破し、己が智慧と如来と等しきことを見せしむ」と。此は微塵に約して、有に附して喩と為すなり。又、空に約して喩を為さば、「発菩提心論」に云はく、「譬へば人ありて、仏法の滅するを見、如来の十二部経を以て、仰いで虚空に書くに、宛然として具足すれども。一切の衆生、知る者あること無し、久久の後、更に一人ありて、遊行し、空に於て経を見、嗟咄す、云何ぞして、衆生は知らざるや、見ざるや」と。即ち写し取り、衆生に示して導くが如しと。何をか経を写すと云ふや。衆生をして八正道を修し、虚妄等を破せしむるを謂ふなり。修に多種あり、若し心の因縁生滅無常なるを観じて、八正道を修する者は、即ち三蔵の経を写すなり。若し心の因縁即空なるを観じて、八聖道を修するは、即ち通教の経を写すなり。若し心は分別校計するに無量の種あり、凡夫、二乗の測ること能はざる所にして、法眼の菩薩のみ乃ち能く之を見ると観ずるは、是れ無量の八正道を修するものにして即ち、別教の経を写すなり。若し、心は即ち是れ仏性なりと観じて、円に八正道を修するは、即ち中道の経を写すなり。一切の法を明すに悉く心の中より出づ、心は即ち大乗、心は即ち仏性なり、自ら己が智慧と如来と等しと見る。又、心を即仮、即中なりと観ずる者は、即ち「華厳」の経を摂す。若し心を因縁生法にして生滅すと観ずる者は、即ち三蔵四阿含教の乳の如くなるの経を摂す。若し心を即空なりと観ずるものは、即ち共般若の酪の如くなるの経を摂す。若し具に、心は因縁生法にして即空、即仮、即中なりと観ずる者は、即ち方等生酥の経を摂す。若し但、即空、即仮、即中を用ふる者は、即ち大品熟酥の経を摂す。若し即中を用ひて心を観ずる者は、即ち「法華」の開仏知見の大事、正直醍醐の経を摂す。若し、四句の相即を用て心を観ずるは、即ち涅槃同見仏性醍醐の経有り。又、若し囚縁を観ずるに、又因縁は即ち是れ仏性なりと観ず、仏性即ち是れ如来なるは、是れ乳中の殺人と名く。若し析空を観ずるに、又析空は即ち是れ仏性なりと観ず、仏性即ち是れ如来なるは、酪中の殺人と名く。若し即空を観ずるに、又即空は、即ち是れ仏性なりと観ずるは、是を生酥の殺人と名く。若し仮名を観ずるに、又仮名は即ち是れ仏性なりと観ずるは、是を熟酥の殺人と為す。若し即中を観ずるに、又即中は即ち是れ仏性なりと観ずるは、是を醍醐の殺人と名く。今通じて殺人と言ふは、即ち二死已に断じ、三道清浄なるを取つて名けて殺人と為すなり。是を止観に不定教を摂すと為す。

 [22]略して摂すること上の如し、広く摂すれば一切の経教に絓けて、悉く止観を用て之を摂するに畢く尽さずといふこと無し。

 [23]復次に、心、諸教を摂するに略して両意あり。一には一切衆生の心中に一切の法門を具足す、如来は明審に其心法を照し、彼の心を按じて説きたまふ、無量の教法、心従りして出づるなり。二には如来は往昔曾て漸頓の観心を作して偏円具足す、此心観に依つて、衆生の為に説き、弟子を教化す、如来の塵を破し巻を出し、仰いで空経を写すことを学ばしむ。故に一切の経教ありて悉く三止三観の為に摂せらるるなり。

 [24]上の六意の摂法、次第すること解すべし。今直に一法を以て一切の法を摂せば、一理は一切の理、一切の惑、一切の智、一切の行、一切の位、一切の教を摂するなり。又一惑は一切の理、智、行、位、教を摂するなり。又一智も一切の理、惑、行、位、教を摂するなり。又一行も一切の理、惑、智、位、教を摂するなり。又一位に一切の理、惑、智、行、教を摂するなり。又一教に一切の理、惑、智、行、位を摂するなり。

 [25]第五に偏円を明すとは、行人既に止観は法として収めざるところ無きことを知る。法を収むること既に多し、須らく、大小、共不共の意、権実、思議不思議の意を識るべし、故に偏円を簡ぶなり。此に就いて五と為す、一には大小を明す、二には半満を明す、三には偏円を明す、四には漸頓を明す、五には権実を明す。未れ至理は大ならず、小ならず、乃至権に非ず、実に非ず、大、小、権、実、皆説く可からざるも、若し、因縁有れば大小等皆説くことを得べし。小の方便力を以て五比丘の為に小を説き、大の方便力を以て諸菩薩の為に大を説く、大小倶に方便なりと雖も、須らく所以を識るべし、故に五雙を用て料簡し、混濫すること無からしむ。

 [26]小とは小乗なり、智慧の力弱くして、但、析法の止観を修し、色心を析するに堪へたり。「釈論」に、檀波羅蜜を解するに、外道の隣虚を破して云ふが如し、此塵を有と為んや無と為んや、若し極微の色有らば則ち十方の分有らん、若し極微の色無くんば則ち十方の分無からん、若し極微の色を析し尽さざるときは、則ち常見、有見を成じ、若し極微を析し尽すときは、則ち断見、無見を成ずと。此は外道の色を析するなり。心を析することも亦是の如し、若し、有心、無心を計すれば、皆断常に堕す、此れ皆外道の色心を析するなり。「論」の文に、仍は三蔵の析法の観を明して云はく、「色の若は麤、若は細、総じて而も之を観ずるに、無常無我なり」と。何を以ての故ぞ、麤細の色等は、無明より生す、無明は実ならず、故に麤細皆仮なり、仮の故に無常無性なり、即ち空に入ることを得。又、介爾も心起らば必らず根塵に藉る、一法として縁従り生ぜざるもの有ること無し、縁より生ずるものは悉く皆無常なり。或は言はく、一念の心に六十の刹那あり、或は言はく、三百億の刹那ありと。刹那は住せず、念念無常なり、無常無主なれば煩悩の本壊す、業無く苦無く、生死滅するが故に、名けて涅槃と為す、是を、色心を析する観の意と名くるなり。析の名は、外道に本く、邪析を対破して、正析を明す。何ぞ但外邪のみならん、応に正析を須ふべし、若し仏の弟子、仏の教門を執して、而して見著を生ぜば、亦正析を須ふ、所謂三蔵の四門に四の見著を生じ、乃至、円教の四門に四の見著を生ず、戯論諍競して、自らを是とす、他を非とす、皆甘露を服して命を傷ひ早く夭す。金鎖に自ら繋りて、生死に流転す、宣しく正析を用ふべきなり。故に「大論」に云はく「涅槃を破する者は、聖人得る所の涅槃を破せず」と、但、学者未だ涅槃を得ざるに、執して戯論を成ずるが為の故に、涅槃を破すと言ふなり。若し爾らば、皆、析法の方法を以て之を破す。凡そ四門あり、一一の門に於て十法を具足し、正因縁を識り、乃至、法愛を起さず、能く諸門に於て第一義を見る。故に知んぬ、三蔵の四門、析法の止観、断奠するに是れ小乗なることを。

 [27]次に大を明さば大乗なり、智慧深利にして、不生不滅の体法の止観を修す。大人の行ずる所なるが故に大乗と名く、「中論」に即空を明すは、摩訶衍を申ぶるなり、摩訶衍は即ち大なり。「衍」の中に云はく、「声聞を得んと欲せば、当に般若を学すべし」とは、元、此は是れ菩薩の法、大は能く小を兼ぬれば、傍らに声聞を挾むなり。譬へば、朱雀門は天家の立つる所、正しくは王事を通ずれども、群小も之に由つて出入することを妨げず、小人を通ずと雖も、終に是れ天門なるが如し。今、摩訶衍も亦是の如し、正しくは菩薩の法を体して空に入るが為なり、小乗ありと雖も、終に名けて大と為す。例せば、三蔵の析法に、仏菩薩ありと雖も、終に是れ小乗なるが如し云云。言ふ所の大乗体法の観とは、三蔵に異なり、三蔵は名は仮にして法は実なり、実を析して空ならしむ、譬へば、柱を破して空ならしむるが如し。今、大乗の体の意は、名実皆な仮なり、自相は是れ空にして本来虚寂なり、譬へば、鏡にうつれる柱は本自から柱に非ず、柱を滅するを待ちて方に空なるにあらず、影に即して是れ空、不生、不滅なること、実の柱に同じかざるが如し、又、「大論」に明す、摩訶衍の人の体法の観は、仏、一の方なる木の上に在りて、諸の比丘に告ぐるを引く、譬へば、比丘の禅定を得る時、土を変じて金と為し、金を変じて土と為す、実は金土に非ず、変化の所為なるが如しと。色心も亦是くの如し、生に非ず、滅に非ず、無明の変なるのみ、本、自ら生ぜず、今那ぞ滅することを得ん。又、一端の㲲を観ずるに、即ち十八空を具することを引く、是れを体法の観と名づく。復次に、三蔵に析する所を名けて、情に随つて色心を観ずと為す、有を析するの観は亦是れ事観なり。入る所の真、真は仏性に非ず、実理に会せざれば、但情に随つて真と為すのみ。大乗の体法は、理に随つて色心を観ずと名く、幻を尋ねて幻師を得、幻師を尋ねて幻の法を得るが如し。亦、夢を尋ねて眠を得、眠を尋ねて心を得るが如し。幻の色心を尋ねて無明を得、無明を尋ねて仏性を得、体法は理に通ずるが故に、随理の観と名く、体法の止観に、凡そ四門あり、一一の門に於て皆十法を具し、観を成ず。此観は、但外道の果報の色心を体するのみに非ず、一切の執計を絓預す、三蔵の四門、乃至、円の四門、未だ入ることを得ざる者は、門を執して見を成ずればなり、皆幻の如しと体す、断奠して大乗の止観と名くるなり。若し、今の観を用ふるの意を得れば、大乗の諸門に執を生ずるも、尚、空を須て破するは、終に、彼の世間の法師禅師に同じからざるなり。老子の道徳、荘子の逍遙と仏法と斉しと称す、是義然らず。円門に著を生ずるも尚三蔵の初門の為に破せらる。猶小乗に入らず、況んや復凡鄙の見心をや。螢と日とは懸かに殊り、山と毫とは相絶す、自ら道真と言ひて瞿曇を慢する者を、寧ぞ破せざらんや。

 [28]二に、半満を明す。半とは九部の法を明すなり。満とは十二部の法を明すなり。世に伝ふ、涅槃の常住なる、始めて復是れ満、余は悉く半なりと。菩提流支の云はく、「三蔵は是れ半、般若より去つて皆満なり」と。今明す半満の語は、直に是れ大小を扶成す。前に已に析体をもつて大小を判ぜり、今亦析体を以て半満を判ずること前の如し云云。

 [29]三に、偏円を明すとは、偏は偏僻に名け、円は円満に名く。通途は、一往小を喚んで偏と為す。何に予てか得ざらん。別の義をもつて分別すれば、意すなわち不可なり。半、小の両名は、剋定して短に局る。引くとも長なることを得ず。偏の義は亘り通じ、小従り大に之く。譬へば、半月は上下の弦に斉るも、漸月は爾らず。弓娥より始めて十四夜に終るまで、皆称して漸と為す、唯、十五夜のみ乃ち円満の月と称するが如し。小半も亦爾り、析法半字の小乗に斉る、大と名くることを得ず。偏の意は即ち遠し、初めの三蔵析法の止観より已上、別教の止観に辺を去りて中に入るまで已還、皆名けて偏と為す、故に「大経」に云はく、「皆自り前は我等皆邪見の人と名くるなり」と。唯、円教の止観なる一心三諦は、随自意の語なるを以て、独り円の称に当れり。

 [30]四に、漸頓を明すとは、漸は次第に名け、浅に藉り深に由る、頓は頓足、頓極に名く。此も亦別意なし、還つて偏円を扶成す。三教の止観は悉く皆是れ漸、円教の止観は之を名けて頓と為す、此は是れ名を按じて解釈す、其義已に顕る。

 [31]今更に広く料簡して、遺滞無からしむ。前の二教の止観のごときは、是れ漸にして而も頓に非ず。力は遠きに及ばず、但偏真に契ふのみ。円教の止観は、是れ頓にして而も漸に非ず。大直道を行じ、辺に即して而も中なり。別教の止観は、亦漸亦頓なり、何を以ての故ぞ、初心に中を知るが故に亦頓と名け、方便を渉りて入るが故に亦漸と名く云云。

 [32]復次に前の両の観は、観、教、行、証、皆名けて漸と為す。別教は、教、観、行、皆名けて漸と為し、証道は是れ頓なり。円教は、教、観、行、証、皆名けて頓と為す。何が故にぞ爾るや、前の二観は是れ方便の説にして草菴曲径なり、故に教観の四種倶に漸なり。別の観は方便を帯するの説、若し方便に依りて行ずれば、先に通の惑を破す。故に三種皆漸なり。後の無明を破して仏性を見る、故に証道は是れ頓なり。円の観は、正直に方便を捨てて。但無上の道を説く、唯此一事のみ実なり、余の二は、則ち真に非ず。最実の事を説く、是を教実と名く。如来の行を行じ、如来の室、衣、座に入る等、復一行あり、是れ如来の行なり、是を行実と名く。見る所の中道は、即ち一究竟なり、如来得る所の法身に同じくして、異なること無く別なること無し、是を証実と名く。前の両観は因の中に、教、行、証、人あり、果上には、但其教有るのみにて、行、証、人無し。何を以ての故ぞ。因中の人は、身を灰にして寂に入り、空に沈んで尽く滅し、果頭の仏を成ずることを得ず、直是れ方便の説なり。故に其教のみありて、行、証、人無し。別教は因の中には、教、行、証、人あり、若し果に就かば、但其教のみありて、行、証、人無し。何を以ての故ぞ。若し無明を破して初地に登る時は、即ち是れ円家の初住の位なり、復別家の初地の位に非ず。初地にして尚爾り、何に況んや後地後果をや。故に知んぬ、因人は果に到らず、故に果頭無人と云ふことを。円教は、因中の教、行、証、人、悉く因より以て果に到る、倶に是れ真実なり、故に実に人有りと言ふなり。復次に前の三の止観の教、行、証、人、未だ会せられざる時は、尚円を知らず、何に況んや円に入らんや。仏若し宗を会して漸を開し、頓を顕せば、悉く皆通入す。即頓に非ずと雖も、而も是れ漸頓なり、故に「法華」に云はく、「汝等の行ずる所は、是れ菩薩の道なり」と。各各宝車に乗じて、子の本願に適ふ、声聞の法を決了するに、是れ諸経の王なり、漸法を開通して悉く入ることを得しめ、別理を以て之を接す。故に「涅槃」の中に、「二乗の道果を得て円常を隔てず、是に因つて修学して皆当に作仏すべし」と、即ち是れ漸従り円に入る、亦開漸顕頓の意と名くなり。

 [33]復次に四種の止観、円に入ること。必ずしも併せて行の成ずるを待つて円に入らず、必ずしも併せて開漸顕頓を待つて円に入らず、入ることは則ち不定なり。所以は何ん。一切衆生の心性の正因は、之を乳に譬ふ、了因の法を聞くを、名けて置毒と為す。正因の断えざること乳の四微の如し、五味に変ずと雖も四徴は恒に在り、是故に、毒は四微に随つて味味に人を殺す。衆生の心性も亦復是の如し。正因壊せざれば、了因の毒正に随つて奢促し、処処に発することを得、或は理に発し、或は教に発し、或は行に発し、或は証に発す。辟支仏の利智善根熟して、無仏世に出で、自然に悟ることを得るが如し。理発も亦爾り、久しく善根を植ゆれば、今生に円教を聞かずと雖も、了因の毒は任運に自ら発す、此は是れ理発なり。若し「華厳」の日照高山を聞きて、即ち悟ることを得る者は、此れは是れ教発なり。聞き已つて思惟し、思惟して即ち悟るは、是を観行発と為すなり。若し是れ六根浄の位、進みて無明を破するは、是れ相似の証発なり。若し更に増道損生するは、亦是れ証発なり。此れは円家に約し、入不定を論ずるなり。若し前の三教の行人、各凡地に在りて発する者は、即ち是れ理発なり。若し教を聞かば、是を教発と為す。若し方便を修するは、即ち是れ観行発なり。若し賢聖位の中に於て発するは、即ち是れ証発なり。此は三家の入ること、則ち不定なるに約す。復不定にして而も殺人に非ざる有り。無漏を修する時に、有漏を求めざるに自ら発して、全く二死を殺さざるか如し。若し中道を修して、無漏を発得し、長く三界の苦輪海に別るるは、乃ち是れ一死にして而も二死に非ず、また不定と名づくるなり云云。

 [34]復次に、四種の止観は、当分に円漸あり、三蔵の中、初心方便従り来つて真位に入るあり。此を名けて漸と為す。三十四心に結を断じて、果を成ず、豈円と名けざらんや。通別の中、初心、乃至後心、豈漸円無からんや。円の中、当体理極まるを円と称すとも、亦初心、乃至四十一地あり、豈是れ漸ならずや。妙覚究竟、豈是れ円ならずや。円の円は、漸の円に非ず、円の漸は、漸の漸に非ず。故に知んぬ、当分は、皆二義を具することを。「法華疏」の中、応に広く説くべし。然るに漸の漸は円の漸に非ざれども円の漸と成ることを得べし、漸の円は円の円に非ず、円の円と成ることを得べからず。何んとなれば「法華」に云はく、「汝等が行ずる所は、是れ菩薩の道なり」と、故に漸の漸は、円の漸と成る、漸の円は権に設くる三教の果なり、更に妙覚の仏と成る可からず云云。例するに、小の小は大の小に非ざれども大の小と成ることを得べし。小の大は大の大に非ず、大の大と成ることを得べからず。権の権は実の権に非ざれども、実の権と成ることを得べし。権の実は実の実に非ず、実の実と成ることを得べからず。何となれば、三教の果頭には教有りて人無きが故に、権の実は実の実と成るべからず。半満、漸頓も例して応に此の如く分別すべし、復文を煩にせず。観心をもつて往きて推すに法相応に爾るべし、而も人の多くは信ぜず、今「涅槃」の五譬を用て、此意を釈成す。第六に云はく、「凡未は乳の如く、須陀洹は酪の如く、斯陀含は生酥の如く、阿那含は熟酥の如く、阿羅漢、辟支仏、仏は醍醐の如し」と。「大輪」に云はく、「声聞経の中、阿羅漢を称して、名けて仏地と為す」と。故に三人、同じく是れ醍醐なり。此譬、豈三蔵の中の五味を釈するに非ずや。漸円の意、此に類して成ずることを得。三十二に云はく「衆生は血を雑へたる乳の如く、須陀洹、斯陀含は浄乳の如く、阿那含は酪の如く、阿羅漢は生酥の如く、辟支仏、菩薩は熟酥の如く、仏は醍醐の如し」と。此譬は、豈通教の中の五味を釈するに非ずや。支仏は習を侵せば、少しく声聞に勝るが故に。菩薩と同じく、熟酥と為す、仏は正習尽せば、名けて醍醐と為す。此を借りて通教を類するに、当分の漸円の義顕かなり。第九に云はく、「衆生は、牛より新に生じて、血と乳と未だ別たざるか如し。声聞は乳の如し。縁覚は酪の如し。菩薩は生熟酥の如し。仏は醍醐の如し」と。此譬は、豈是れ別教の五味の意ならずや。十住の初の中、能く通の見思を断じ尽すを、乳と名く、総じて声聞に擬す。十住の後心は、少しく深し、故に支仏に擬す、酪の如し。十行、十向は、生熟酥の如し。十地の初を已に名けて仏と為す、故に醍醐の如し。此を借りて、別観の当分漸円の意を顕成す云云。二十七に云はく、「雪山に草有り、名けて忍辱と為す。牛若し食すれば、即ち醍醐を成ず」と。草は正道を喩ふなり、若し能く正道を修すれば、即ち仏性を見る。此喩は豈是れ円の意にあらずや。四味を歴ずして即ち醍醐を成ず。此を借りて類して漸円等の位を成ず云云。第八に云はく、「毒を乳の中に置けば、五味に遍くして皆能く人を殺す」と。此譬は豈不定を譬ふるにあらずや。即ち四種の理教行証にして、而も円に入るを得ることを成ず云云。今漸頓に約して此の如きの料簡を作す。前の三科、後の一科も亦応に是の如くなるべし云云。但小大、半満は、斉分剋定して同じきことを得ざるのみ。

 [35]五に、権実を明すとは、権は是れ権謀、暫く用ひて還つて廃す。実とは是れ実録、究竟の旨帰なり。権を立つるに、略して三意と為す、一には実の為に権を施す、二には権を開して実を顕す、三には権を廃して実を顕す、「法華」の中の蓮華の三譬の如し云云。諸仏は即ち一大事を以て出世したまふ、元円頓一実の止観の為にして、而も三権の止観を施すなり。権は本意に非ざれども、意亦権の外に在らす、祇三権の止観を開して、円頓一実の止観を顕すなり。実の為に権を施す、実は今已に立し、権を開して実を顕せば、権即ち是れ実にして、権の論ずべきもの無し。是故に権を廃して実を顕す、権廃すれば実存す。暫く用ひて名を釈するに、其義允れりと為す。

 [36]問ふ、何の意ぞ、此権実を用ふるや。答ふ、仏、衆生の種種の性欲を知ろしめし、四悉檀を以て、而も之を成熟したまふ。若し人、正因縁を聞かんと欲するには、為に三蔵の観を説く、因縁即空を聞かんと欲するには、為に通の観を説く、歴劫の修行を聞かんと欲するには、為に別の観を説く、即中を聞かんと欲するには、為に円の観を説く。是を随世界悉檀と名け、亦、随楽欲と名く、実の為に権を施し、権実の止観を説くなり。真を扶くるの事善を生ぜんが為に、三蔵の観を説く、真を扶くるの理善を生ぜんが為に、為に通の観を説く、中を扶くるの事善を生ぜんが為に、為に別の観を説く、中を扶くるの理善を生せんが為に、為に円の観を説く。是を随為人悉檀と名け、亦、便宜に随つて而も権実の止観を説くと名くるなり。邪因縁、無因縁を破せんが為に、三蔵の観を説き、拙度を破せんが為の故に、通の観を説き、共法を破せんが為の故に、別の観を説き、帯方便を破せんが為の故に、円の観を説く。是を対治悉檀に権実の止観を説くと為すなり。思議の鈍根拙度をして真諦に入らしめんが為に、三蔵の観を説き、思議の利根巧度をして真諦に入らしめんが為の故に、通の観を説き、不思議の鈍根拙度をして見中に入らしめんが為の故に、別の観を説き、不思議の利根巧度をして見中に入らしめんが為の故に、円の観を説く。是を一実の為に、而も三権を施すと名く、権実相対するときは、則ち四種の止観あり、実の為に権を施す、意此に斉るなり。権実既に興る、良に悉檀に由る、権実廃すべきも、亦悉檀に由る。何となれば、衆生、煩悩結使は厚く、利智善根は薄し。故に初観を興して、其事善を生ず、事善若し生ずれば、煩悩伏薄し、即ち三蔵の観を廃す。理善を生ぜんが為に、通の観を興す、理善已に生ずれば、即ち通の観を廃す。界外の事善を生ぜんが為に、即ち別の観を興す、界外の事善已に生ずれば、即ち別の観を廃す。界外の理善を生ぜんが為に、即ち円の観を興す。是を、興廃の因縁の故に、権実の止観を説くと為すなり。余の三悉檀の興廃は解すべし。若し五味の教に約して興廃を論ぜば、華厳は大行人の為に、両権を廃し、一権一実を興す。三蔵は両権一実を廃して但一権を興す。方等は四種倶に興す。般若は一権を廃して両権一実を興す。「法華」は三権を廃して一実を興す。涅槃は還つて四種を興して皆仏性に入る、隔つべき所無し。是故に如来は巧に悉檀を用て興廃時に適ひ、機に順じて而して作し、皆衆生を益す。是故に如来は空しく説法せず、人を度せんが為の故に。応に興すべく、応に廃すべきなり。

 [37]三権に封して一実を説けば、実は存し権は廃す、已に前に説くが如し。今更に料簡するに、四種の止観皆実にして虚ならず。所以は何ん。若し開決せざるときは、則ち理に入ること無し。今声聞の法を決了するに、是れ諸経の王なり、方便の門を開して真実の相を示す、一一の止観皆円に入ることを得。快馬は、鞭影を見て即ち正路を得るが如し。故に四種皆実なり。又四種皆権なり。何を以ての故ぞ。四の理は皆不可説なり、権も不可説なり、故に権に非ず。実も不可説なり、故に実に非ず。権に非ずして、而も強て説きて権と為し、実に非ずして、而も強て説きて実と為す。等しく是れ強て説くは、何の意ぞや、権を名けて実と為すにあらざるや。説有るを以ての故に、故に皆是れ権なり。又此権実は、悉く是れ非権非実なり。何を以ての故ぞ。皆不可説なるが故なり。此の非権非実は、向の実に異なることを得ず。向には理を見るを以て実と為せり、実は秖是れ非権非実なり。此義を以ての故に、異ならず。若し異ならば、応に別の慧あるべく、応に別の理を照すべし。理惑既に同じ、異ならしむべからず。権に対するが故に実を説き、教を廃するが故に理を説く、故に非権非実と言ふ。教に即して而も理、権実は即ち非権非実なり、二無く別無く、合ならず散ならざるなり。非権非実にして理性常に寂なるは、之を名けて止と為す。寂にして常に照すは亦権亦実なり、之を名けて観と為ず。観の故に智と称し、般若と称す。止の故に眼と称し、首楞厳と称す。是の如き等の名は、二ならず別ならず、合ならず散ならず、即ち不可思議の止観なり。此は但、実は是れ非権非実なりと開するのみに非ず、権も亦是れ非権非実なりと開す、猶、開権顕実の意に属するのみ。

 [38]問ふ、一実の為に三権ぞ施す、唯四種の止観あり、若し別を以て通に接するの止観は、権と為んや実と為んや。復何の意ぞ、四の数に預らざるや。何の意ぞ、但通に接すと言ふや。何の位にか接を被るや。接して何の位に入るや。答ふ。接して教に入ることを得るは此れ則ち権に属す、接して証に入ることを得るは、此れ則ち実に属するなり。四教は其始終に論ず、接は但終にして、而も始無し、故に四の数に入らず。諸教皆接することも、亦応に之れ有るべし。此義、用ひざるは、二教は界内の理を明し、二教は界外の理を明す、両処の交際に、須らく一の接を安くべし、故に但別を以て通に接す。若し通に斉つて言ふことを為さば、無明を破することを論ぜず、八地を支仏地と名く、此より被接して中道有ることを知る。九地に無明を伏し、十地に無明を破するを、即ち名けて、仏と為す、但一品の破のみなるに、那ぞ是れ極なることを得ん、故に接して別に入ることを知るなり。若し別教に望むれば、是れ初地の位行に入るなり。若し諦に就いて接を論ずれば通教の真諦は、空と中と合せ論ず、初より已来、但真の中の空を観ず。見思の惑を破し尽して、第八地に到れば、方に為に真内の中を説く、故に云ふ、智者は、空及び不空を見ると、被接して方に聞くなり。聞き已つて理を見る、即ち是れ別の位に入るなり。三蔵の菩薩は位を明すこと爾らざるが故に接を論ぜず。別円は発心のとき已に中道を知る、更に何を将てか接せん。故に知んぬ、接は但通に在ることを。

 [39]問ふ、三権皆実を知ることを得るや不や。答ふ、別教は初より知り、通教は後に知り、三蔵は初後倶に知らず。問ふ、若し知らば。何の意にして権と名くるや。若し知らずんば二経と相違せん。答ふ、別は初より知ると雖も、方便を帯して聞けば、教は猶ほ是れ権なり。通は後に知ると雖も、接す可き者のみ知れば、教は終に是れ権なり。其意見るべし。若し、三蔵知らずとするを、二経に違すと言はば、「大経」に云はく、「阿羅漢、三宝の常住にして不変なるを知らずんば、所有の禁戒も亦具足せず、声聞の道を得ること能はず」と。此義、今当に通ずべし。羅漢の自力に任せば、応に常住なるを知見すべからず、誓へば、天眼未だ開かざれば障の外を見ず、他の説を聞かざるも亦知ること能はざるが如し。羅漢も亦是の如し、仏眼未だ開かず、又仏の説を聞かず、那ぞ自ら常住を知ることを得んや。故に、「法華」に云はく、「自ら得る所の功徳に於て滅度の想を生ず、若し余仏に遇はば、即ち決了することを得」と。又云はく、「声聞、縁覚、不退の菩薩も亦知ること得ず」と、当に知るべし、聞かずんば則ち知らざることを。経に知ると称するは、己が理の真諦無為を知るに斉る、亦是れ常にして一相無変なるに於てす。若し人、真諦を二相遷動すと分別すれば、真を発すること能はず。須らく空を観じて方に無漏に入ることを要す。須菩提の空を観じ、憍陳如の無生智を証するが如し云云。又、律儀具足せずとは、若し能く空を観ずれば、道共戒を得、此は是れ具足戒なり。故に「華厳」に云はく、「諸法実の性相は、常住にして変異せず、二乗も亦皆得れども 而も名けて仏と為さず」と。故に知んぬ、常住の語通ずれば、此釈を作すことを得れども、若し此釈を作さずんば、三蔵には、大乗の常住を説かず、声聞那ぞ声聞の道を具し、禁戒を具することを得んや。若し此釈を作さば、道共戒、失すること無く、弥其美を益す。又、例を挙げて釈すれば、「大品」に云ふが如し、「婬欲は、梵天に生ずることを障ふ、何に況んや菩提をや。梵天に生ぜんが為には、須らく婬欲を断ずべし、菩提を得んと欲せば二辺の欲を断ずべし」と。欲の名は同なりと雖も、其意、則ち異なり。此義も亦爾り、真諦に入らんと欲せば、須らく無為常にして変易せざることを知るべし、実相に入らんと欲せば亦常住一相にして変ぜずと知るべし。常を知るの語は同じくして大小則ち異なり。故に三蔵の止観は円を知らず、実に経に違せざるなり・「勝鬘」に云はく「若し常住を知らずんば、所有の三帰皆成就せず」と。此れ云何が通ぜん。遠く根本を尋ぬれば、三乗の初業は、法に愚ならや。若し四念処の聞慧を取りて初と為さば、此初に真諦の常住を知りて、六十二見を起さず、倚著の心無きを以て賢聖成就す、此釈は前の意に同じ。若し、古昔を初業と為さば、先に菩提心を発して、早く常住を知る、生死を畏怖して大を退し小を取る、法才王子、及び涅槃の中の退転の菩薩、初より以来、一体の三宝に帰依して戒善を熏修す、受法有りて捨法無し。心無尽の故に戒も亦無尽なり、一切の戒善、此が為に熏ぜらる。譬へば大地は冥に樹木を益し、樹木の萠芽悉く成就することを得るが如し。小乗の帰戒は菩薩の戒を離れず、菩薩戒の力は能く之を成就す、即ち此義なり。若し初業に常を知ることを作さずんば、三蔵の帰戒羯磨、悉く成就せず、若し此釈を作せば、大小の両経に於て、義、相違すること無し。